あの日と今を繋ぐ味


 カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしました。

 そう口にした途端に彼女の気分が萎んだのが分かった。時として表情は言葉よりも物を語るというが、それが真実なのだと改めて実感させられる。
  それだけでもう十分、お腹いっぱいなのに彼女は言わずにはおれなかったのだろう。
  最近では僕専用になりつつある言葉を口にした。
「バカじゃないの?」
  声に蔑みの色は全くない。むしろ、こういう表現しか出来なかった僕を哀れんでいるような。どちらにせよ僕を下に見ていることには違いない。
  友人一堂はもとより僕自身も収まりがいいんじゃないかと思わなくもないが、あるかなしかの男の沽券を大事にしたい。
  なによりこの話は僕一人の話ではないんだから。

 一週間の講義を終えた週末は日がな一日、彼女と一緒に借りてきた映画を観るのが日課になっていた。
  本日一本目はラブコメということになるのだろうか。
  天国に昇ることも、地獄に堕ちることもなく現世を彷徨う幽霊たちが偶然であった少女の初恋を成就させようと、空回りなお節介を繰り広げるという陳腐この上ない、凄く僕好みの映画だ。
  何だかんだで同じB級映画愛好家の彼女もそこそこに楽しんでいたみたいだった。その中でも一番引き込まれたのは映画本編ではなくスタッフロールの最後に出た一文。
『あなたの初恋は成就しましたか?』
  ほぉ〜、と感嘆の声を漏らして振り向いた彼女の目は百獣の王も斯くやとばかりに輝いていた。子猫に砂をかけられて鼻で笑われた経験のある僕が逃げられるはずもなく、昼食がてらにお互いに初恋話をすることになった。
『カルピスをウーロン茶で割ったような、恋をしました』
  我ながら悪くない出だしだと思ったんだけどなぁ。どうやら不評のようだ。
  不評と言えば、同じ残り物で作ったはずなのに僕のチャーハンと、彼女が持ってきてくれたオニオンスープの出来の差なんて。……いや、それはどうでも良いか。
  これ以上の文句が彼女の口から出ない内に僕はちょっと待てと手のひらをみせた。
  生命線が人よりも長いのはちょっとした自慢だ。
「実家の近所にふーちゃんって子がいたんだ。母さんの話だと公園デビューの頃からの付き合いになるみたい」
「幼なじみね」
「まぁ、そうなるかな。それで親同士の気があったこともあってさ同じ幼稚園に通うことになったんだよ」
「うん、それで?」
  良くも悪くも聞き役になると途端に彼女の口数が少なくなる。
「でさ、男とか女とか関係なく一番近くにいる友だちがふーちゃんだったんだ。けど、周りはそうは見なくて、その頃からだったかなぁ。両方の親がふーちゃんはどんなお嫁さんになるのかな? とか言い始めてさ。うちのオヤジなんかかなりノリノリで、男は大切な女の子を守るものなんだ、とか言い出し始めるんだよ」
  朧気ながらも覚えている赤ら顔で力説するオヤジの姿。
「親たちからすればからかい半分だったんだろうけど、僕たちは本気でおおきくなったらけっこんするもんだって思い込んでたんだ」
「そこらに転がってる三文小説でも滅多にお目にかかれない話ね。まさかこんな身近に実体験しているヤツがいると思わなかった」
「事実は小説より奇なり、ってヤツだよ」
「世間ではそういう体験をしている人をネタ人間っていうの。それよりも続き続き」
  ネタ人間って、酷すぎる……。文句を言ったところでこれまでの実例を事細かに話してくれるだろうことは分かっているので黙っていることにしよう。
  男は人知れず背中で泣くもんだ。きっとそうに違いない。心の涙を吐息に変える。
「でさ、ある日ふーちゃんがけっこんしきをやろうって言い出したんだ」
「私もやったなぁ。……相手女の子ばっかりだったけど」
  敢えて君がどっちの役をしたのかは聞かない。中学高校からずっと後輩に慕われてきた彼女にそんな事を聞く方が野暮ってなもんだ。
「親戚の結婚式がよっぽど気に入ったんだろうな。お互いにお菓子と飲み物を持ち寄って結婚式をやったんだよ」
「なんか、披露宴っぽいわね」
「多分、混同したんだろうな。それとも結婚式は三三九度をやって指輪の交換をして美味しい物を食べるものだって思ったのかも」
  当時のことを思い出すと今自分が言ったことが正しいような気がする。三三九度よりもお菓子を食べている時の方が嬉しそうだったし。
「それでも僕は真剣だった。結婚式をしようって言われた時も嬉しかった。ふーちゃんはどうだったかは分からないけど僕は本物だって思ってた」
  そして、当時のことを思い出して苦笑を抑える事が出来なくなった。
  我ながら幼稚というか。そういつも彼女が僕に言ってくれる「バカじゃないの?」っていうのがとてもピッタリとはまる。
「けど、凄い恥ずかしくて照れくさいものだから、銚子にカルピスを入れて持ってこいって言われたのにカルピスをウーロン茶で割ったのを持っていたんだよ」
  ふーちゃんの家ではひな祭りに甘酒の代わりにカルピスを出していた。
「そんなもの持っていったら怒ったんじゃないの?」
「まぁね。けど、これが僕の家のカルピスだから、僕のお嫁さんになったんだからふーちゃんもこれじゃないとダメって言ったらすぐに納得してくれたよ」
「子どもでも通用しそうにない嘘がよく通ったわね」
「そこはまぁ、日頃の行いというヤツだよ」
「だったら、これからずっと貴方にはウーロン茶で割ったカルピスを出してあげる」
「君の分は?」
「もちろん、世間一般に倣って水で割ったのを飲むわよ」
「ひっでぇ〜」
「生憎とまだ私、貴方のお嫁さんじゃありませんから」
  まだ、というところを強調してくれた彼女の言葉に思わず赤面してしまう。ひょっとしたら耳まで赤くなっているかもしれない。付き合いは長いのに、時々ストレートにぶつけてくる言葉には未だに馴れない。馴れたいとも思わないけれど。
  敵わないなぁと改めて思う。
  そんなことを心から思ってしまった僕に満足したのか彼女は自分の皿に残った最後の一口を僕に差し出してきた。
  もう真っ赤なのだからさらに赤くなる事があっても大差ない、と自分に言い訳をしてから僕はスプーンすら噛み付く勢いで口を開いた。
  我ながらいまいちのチャーハンの味が良くなったような気がした。
  最高のスパイスは愛情である。なんてことが頭によぎってどうしようもなくテーブルに突っ伏したくなる。
  そんな僕をニヤニヤと眺めながら手際よく皿を重ねていく。
「それで貴方の初恋のふーちゃんは今どうしてるの?」
「…………」
  突然、黙り込んだ僕に「どうかした?」と怪訝な表情を見せる。
「死んだよ。結婚式をした年の夏に。交通事故だったんだ」
  背もたれに身を預ける。
「不思議なもんだよ。最後の面会をした時、擦り傷以外に怪我らしい怪我なんかないのに死んでる。もう一緒に遊べないんだから」
「……貴方がいつも首から提げてる指輪って」
「あぁ。うん」
  無意識のうちに触っていたみたいだ。首から提げている二つの玩具の指輪。
「僕たちの結婚指輪だよ」
  無音を背景にして小さく指輪がこすれる音が僕だけに届く。
  いつか必ず彼女に話したいと思い、それと同じようにこの話を聞いた彼女がなにを思うのか恐れていた。この音無き音の背景がどうしようもなく重い。
「…………」
  とても小さく鼻から息を漏らす音がした。と同時に音に色が戻る。
  彼女が皿を手に立ち上がったのだ。シンクに皿を置くと割と勢いよく冷蔵庫を開けた。
  取りだしたのはカルピスの瓶とウーロン茶の入ったペットボトル。
  そして、最後にコップを三つ。
  まったく、本当に……
「本当に風香には敵わないなぁ」




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