そんな二人の始まりの一コマ

 

 彼女――――
  宮崎摩耶香が『カレ』と出会ったのは運命であったと人は評するだろう。
  運命という言葉は良きにつけ悪しきにつけ、何某かの意志が自分の生涯に関与しているのだという匂いが付きまとうものだ。
  良き事柄であれば従順に、悪しき事柄であれば反逆を。
  そのようにして人は、運命という名の神が持つ二面性を使い分けて世界に遍く理不尽に対抗し、時には屈服させられながら歴史を紡いできた。
  もっともカレに言わせれば、その運命とやらの存在を確認する術がない以上、感傷的なものでしかなく、実際に世界を動かしているのは自身とその周囲が選択した行動だと。
  なるほど。確かにそうなのかもしれない。自分もまた運命を構成する一つの要素であるからこそ、この世の理不尽に抗しえるし、幸を享受できる。
  運命とは所詮そのようなものでしかなく、振り回されるだけ損なのだとカレは言う。
  しかしそれを真顔で語るカレは自分の存在意義というものを理解しているのだろうか。
  カレ、黒猫のヤタは――――
  良き運命を呼び寄せるという、招き猫なのだ。
  ヤタの言うことはよく分かる。世にいる立派なセンセイ様ならばあっさりと矛盾を発見して論破してしまうのかもしれないが、ヤタが言いたいことは運命などと語るのは今現在の自分に出来ることを全てやった後にしろということだ。
  人事を尽くして天命を待つ。
  摩耶香も良い言葉だと思う。
  だからこそ、だ。だからこそ摩耶香は思うのだ。
  出会いだけは運命であって欲しい。運命という名のよく分からない結果で彼女とカレは出会ったのだと。
  これは摩耶香のヤタが出会った時のお話。


「そこな女学生。我が輩と一緒に蕎麦でもどうかね?」
  二人の出会い。それを身も蓋もない言い方を表現するのならば摩耶香はヤタにナンパされたのだ。
  それでホイホイとついて行く彼女も彼女なのだが、女子高生を相手にして蕎麦を食いにいかないか?と誘うヤタもヤタだ。
  案外、その場のノリというものこそが運命の正体なのかもしれない。
  むさし乃。
  それが連れてこられた蕎麦屋の屋号だ。
  外観は取り立てて物珍しいものはない。誰もが思い浮かべる蕎麦屋の外観だ。
  そこに特徴のようなものを捜してみると店の前にある大きな陶器の置物。
  黒く艶やかな光沢を放つ招き猫が鎮座ましましていた。
「なるほどね。そういうことか」
  納得の呟きが聞こえたのかヤタは小さく耳を振るわせ、滑稽に見えるほどに優美な仕草で尻尾を振ってみせた。つまり摩耶香は、招き猫自らが招待した客ということだ。
  人の歴史を紐解いて見れば時折、人ならざる者の名を垣間見ることがある。
  それは託宣者であったり、助言者であったりとその役割は様々だ。
  ただ一つ言えることがある。
  損得を超越し、人の営みに寄り添いて生きることを由とする彼らは人類にとって同族以上の最良の友だった。
  極東の島国、日本では彼ら喋る猫をこう呼ぶ。招き猫、と。
  ヤタは器用に前脚を使ってガラス戸に手をかけた。
  何の迷いもなく戸を開けようとするヤタの姿に思い出したのか、「ちょっと待って」と摩耶香はカレを呼び止めた。
「ここまで来てやはり止めたというのではなかろうな? それとも蕎麦アレルギーなのかね? それならば安心するが良い。我が輩が言うのもなんだが、むさし乃は丼物もなかなかのものだぞ?」
「そうじゃなくて。……っと、あった。これこれ」
  肩掛け鞄から取り出したのはデジタルカメラ。
「これでも一応、宿題の素材集めをやってる最中なのよ。折角だから、一枚撮らせてよ。ほら、猫くん。その置物の隣に立って」
  一瞬、ヤタの髭が震えたように見えた。
「宿題に協力するにやぶさかではないが、我が輩、写真というのはどうも……」
「えー、ダメ? 貴方、私が会った猫の中で一番の美人さんだから、友だちにも見せてあげたいんだけど」
  実際、ヤタは美男だった。
  耳は良く耳をピンと立ち上がっり、その面差しは鼻梁の通った涼やか。優美な曲線を描く髭がカレの猫としての誇りを感じさせる。風格といっても良いだろ。
  そして、俊敏さを感じさせる体躯を覆う黒毛は艶やかで星空を思わせる。
  鴉の濡れ羽色というのはカレの黒毛の色を言うのではないかと摩耶香は思う。もっとも猫であるヤタにこの表現は可笑しいのかもしれないが。
「婦女子より賞賛されるは我が身の誉れである。あるのだが、写真というのは我が輩、どうしても不気味に思ってしまうのだ。いや、分かっておる。どのような理屈で我が身が写るのか。魂が吸い取られるなどという迷信なぞ信じておらぬ。おらぬからな!」
「なら良いじゃない。思い出を心の中に仕舞うのも一つかもしれないけど、形にして残せたら、それだけ色褪せにくいじゃない。それに女の子誘っておいて、写真の一枚も撮らせないなんて男としてどうかと思うけど?」
「う゛っ……」
「ほらほら。観念してカッコイイポーズをとりなさい。ばしっ、と撮ってあげるから」
  ヤタは後ずさりしながら、カレを模した陶器の置物の影に隠れる。
  と、横開きのガラス戸が開いた。店内から着物に割烹着を身につけた女性が出てきた。
「店の前で何を騒いでいるの?」
  店員だろう。人当たりの良さそうな面差しをしている。着物を着ているおかげだろうか。所作に上品さを感じる。
  ヤタは置物の影から顔を見せると、
「済まぬ。こちらの女学生が我が輩を写真に撮りたいと申されてな。些か問答をしていたところであった。店先で騒ぐのは良くない。ささ、店の中に入るとしよう」
  と、黒猫はそそくさと店内へと入っていく。
  残された摩耶香と女性は顔を見合わせて苦笑する。
「ヤタが強引にお連れしたみたいですいません。狭いところですが、宜しければどうぞ」
「あ、はい。お邪魔します」
  蕎麦屋に入るのにお邪魔しますも変だなぁと思いつつ摩耶香は店に入った。
  店内は女将が言うほど狭くはなく、四人掛けと二人掛けのテーブルが三つずつ置かれている。棚には女将が生けた花が飾られている。昼を少し過ぎてはいたが客足は途切れてはいないようだった。サラリーマンと思しき男性たちが蕎麦を啜っていた。
  奥の厨房から「いらっしゃい」と渋い声をかけられる。
「ささ、こちらに」
  と、二人掛けのテーブルに陣取ったヤタが摩耶香を呼ぶ。カレ専用と思われる脚の高い椅子に行儀良く腰掛けている。その姿が妙に可愛い。
「はいはい」
  摩耶香が腰を落ち着けるとすぐに女将がおしぼりとお茶を用意してくれる。
「注文が決まりましたら、お呼び下さい」
「はい、ありがとうございます」
  おしぼりで手を拭いながら、お品書きを眺める。
「さぁ〜て、何にしようかな」
「決まらぬのであれば、我が輩がオススメするが?」
「それじゃ、お願いしようかな」
「うむ。では、鴨南蛮はどうかな? 一見する限り、脂が多そうに見えるがさにあらず。しつこさは全くなく旨味だけが口に広がる良い鴨肉を用いておる。そして、それを引き立てるべく別に用意されただし汁も良い。我が輩、この蕎麦屋の品は一通り食したが、鴨南蛮が一番であった」
「食べたって、猫ってネギとかダメじゃなかったの?」
「我が輩はこれでも招き猫である。人が食せる物は問題なく食せる。問題はない」
  と、ヤタは肉球を見せる。余りにもやわらかそうなソレに惹かれるように人差し指で突っついた。ぷにぷに。
「ニャッ!? にゃにをするかっ!」
「あ、……良い感触かも」
「我が輩に断り無くぷにぷにするでない。全く近頃の婦女子は慎みというものを知らん」
「ははははっ。ゴメンゴメン。お詫びに鴨肉を二きれぐらいお裾分けしてあげるからさ」
  ご機嫌をとるが、ヤタはそっぽを向く。ペンッと尻尾で椅子を叩く。
「物で釣ろうなどとけしからん」
「いらないって言うのなら別に良いんだけど」
  ヤタが横目で摩耶香を見た。そして、そっとため息を漏らした。
「いらぬとは言うてはおらん。……分かった。それで手打ちといたそう」
「じゃ、仲直りね。……すいませーん。注文、お願いします」
「はい。何にしましょうか?」
「鴨南蛮お願いします。それと小皿も一つ」
「分かりました。少々お待ち下さい」
  お客に気を遣わせるんじゃないのと女将はヤタを睨むと厨房に向かった。
  その様子がカレをこの店の一員だと実感させる。
「招き猫、かぁ」
  幸福と和を招き寄せる不思議な喋る猫たち。彼らは人ではない。だからこそ、こうやってするりと人の心の中に棲めるのかも知れない。
「貴方たちって不思議よね。言葉を操り、人と変わりない知能も持っている。なのに猫だけのテリトリーを作ろうとはしないで人に寄り添って生きている」
「うむ。確かに猫の王国を作るというのもあり得たことであるかもしれぬ。だが、我らは自らの領域を作ることよりも人に寄り添いて生きる方が面白い」
「そういうもの?」
「うむ。考えてみよ。世に知られずとも人の生涯は物語だ。その一時であろうと脇役として花を添えるのは興趣尽きせずというもの。例え、脇役にもなれずとも飼い猫としてすぐ側にて主役を見続けることが出来る」
「けどさぁ」
  摩耶香は手にしたお品書きを眺めながら話した。お腹が足りなければそばがきを追加するのもいいかもしれない。いや、おにぎりというのも捨てがたい。
「人間なんて、その殆どが平凡なものじゃない? そりゃ、ドンパチやってるようなところだとそうじゃないかもしれないけど。少なくとも日本は平穏無事。劇的な人生送ってる人なんていないわよ」
「平凡であろうと、叙事詩的だろうとかまわぬ。誰にも真似できぬただ一つの物語がある。それこそが重要」
  それに、とヤタは続ける。カレの黒真珠のような瞳が諧謔の色を見せた。
「だがな、よくよく考えてみれば平凡と呼ばれる人生も、当人にとっては劇的なものではないか?」
「そうかしら? 人生十七年とちょびっとしか生きてないけど劇的なことなんて無かったと思うけど」
「漫然と生きていればそうであろうな。だが、学舎にて友を得、学力に一喜一憂し、愛しい人を得て、仕事をし、子を産み育て、そして老いていく。確かに単純に羅列すれば、平凡であろう。誰もが思い描く普通の人生。だが、それを一つ一つ見ていけば、十分に意義あるものだとおもうぞ? 友を得るというのは小さくとも美しい宝石と言えよう。その中から愛しい者が得られたのならば、これほどの奇跡はなかろう。また、就職というのもまた輝かしいことではないか。能力であるにせよ、人柄にせよ、単純に人手が欲しいだけだとしても、そなたが欲しいと言われたのだ。子を産み育てるのもまた然り。産んだ子の将来を左右するのだ。そなたが平凡で終わろうと、子がそうとは限らん。子がそうでなくとも孫が偉大なる道を歩むやもしれん。間接的であろうと、そなたがその偉大なる道の礎の一つとなっているのだ。子育てとはまことにやりがいのあることではなかろうか?」
  人という存在を良く評価しすぎだ。確かにそうなのかもしれないが、人というものはそれで満足しきれるほど欲が浅くない。手に入らない輝かしい何かを欲してしまう。
  羨望と嫉妬を胸の底に押し込めて、人生という天秤に乗せられた現実と夢想の揺らぎに一喜一憂するのが人間だ。ヤタには申し訳ないけれど、そこまで自分の人生を謳歌している人を摩耶香はしらない。
「我ら招き猫は物語が好きなのだ。そして出来うるならその物語に一輪の花を添えたい。だからこそ、人語を解するようになったのだ」
  だが、だからこそなのかもしれない。だからこそ、招き猫という存在が尊いのだ。
  平凡もまた素晴らしい物語なのだと。貴方の人生は美しいと無条件に言ってくれる。
  人という嫉妬深く、貪欲な生き物を彼らは友たり得ると言ってくれる。
  もし神という存在がいたのならば、人に与えられた最大にして唯一の祝福は彼ら招き猫を人の友としてくれたことだろう。……いや、こんなことを言えば彼らは嫌なことをするだろう。だから、摩耶香は最大の賛辞を込めてこういった。
「なんか、カッコイイね。猫さん。目指すは助演男優賞ってところかな」
「そういうことであるな。……っと、そうであった。改めて我が輩、名をヤタと申す。宜しくお願いする」
「私は宮崎摩耶香。こちらこそ宜しくね」
「摩耶香か。良い名であるな」
「ありがと。そっちこそ名前の由来はヤタガラスから?」
「うむ。初めての友に貰った名だ。神の御使いの名を賜るのは畏れ多いことではあるが、我が輩の黒毛をなぞらえて名付けてくれたのだ」
「良い名前だと思うわよ。ヤタガラスも道案内をしたって言うし、人生の道行きを共にする招き猫にあってると思うわよ」
  と、そこで摩耶香は意地の悪い笑みを浮かべた。
「もっとも、貴方が指し示す道がどういう光差す場所とは限らないけど」
  だが、ヤタは動じることなく。
「それもまた人生。劇的な出来事に出会ったのだ。その結果がどうであれ素晴らしいことではないか。人はそのように叙事詩の主人公であるかのような人生を望んでいるのであろう。ならば、結果が思わしくなくとも笑みを浮かべるべきだ」
「そういうけどね。人間、挫折はしたくないものよ。ホント、つらいもの」
  そう。本当に辛いのだ。人からみたら些細なことであっても挫折というのは痛い。
  転んで怪我をするのは当人だけ。周囲は同情しかできない。いや、場合によっては嘲笑されておしまいだ。だが、ヤタの見解はまた違う。
「確かに挫折とは辛いものであるな。だが、それは本当に挫折なのか?」
「……どういうこと?」
「これは我が輩の友の一人が言っていたことなのだが、世の多くの人が挫折をするまえに挫折をしているという」
「ん? 意味がよく分からないんだけど」
「挫折とは本来、どのように足掻いたところで乗り越えられなぬ時にするものだ。だがな、摩耶香。世の多くの人はあらゆる手段を講じる前に膝を折ってしまう。故に我が輩の友は常々、念仏のようにこう唱えておった。
  実際に挫折してから挫折しましょう。挫折する前に挫折してどうするんですか、とな」
「言うは易く行うは難し、よねぇ。その友だちは問題を乗り越えられたの?」
  いや、とヤタは首を振った。首輪の鈴がちりりんと鳴る。
「結局、乗り越えられなかった。だが、笑っていたよ。結果は落胆すべきものであったが、ヤツは言葉の通り最後の最後まで諦めなかった。あやつが行える全てを為してもダメだった。とても辛い笑みであったがな、我が輩はあの時みせたあやつの笑顔を美しいと思った」
  どこかにいるその友人を思っているのだろう。カレの瞳は遠くを見ている。
「それ以来である。我が輩が真の意味で招き猫になったのは」
  なんだかとても、とても大切な話の断片を聞いたような気がした。詳しくあれこれと聞いてみたくもある。だが、今ここで聞くのは無粋というものだ。
  一期一会は大切に。敢えてこの雰囲気を潰してしまうこともない。
  だが、何事にも一区切りはやってくる。
「おまちどおさま。鴨南蛮です」
「ありがとうございます」
  醤油と出汁の香りがお腹の虫を刺激する。本当におまちどおさまだ。
  肉汁を溢れさせる鴨肉の数が心持ち多いような。先ほどの肉を巡る会話が聞こえていたのだろうか。一言お礼を言いたくなるが、そこはお会計の時にそれとなく伝えた方が良いだろう。
  鴨肉は後に回して蕎麦を啜る。
「ん、……美味しい」
「であろう? そこらの名の売れた店よりも我が輩は良い物を出すとおもっておる」
  誇らしげに胸を張るヤタ。その気持ちはよく分かる。これまで食べた蕎麦の中では一番だ。これを食べられただけでもナンパされた甲斐があるというものだ。
  鴨肉の脂身なんてしつこくなくて溶けるようだ。肉も噛んだら噛んだだけ肉汁が溢れてくる。ホントに美味しい。
  ヤタは尻尾を振りながら、こちらをじっとみている。
  あれでも一応紳士であろうとしている。幾ら約束したこととはいえ、自分から鴨肉を寄越せとは言い難いのだろう。それでも隠しきれない鴨肉の誘惑。
  摩耶香の口に鴨肉が運ばれるたびにソワソワと尻尾が揺れるのが可笑しい。
  宿題の資料集めのはずが猫を相手に蕎麦を食べている。
  なんだかなぁと思いつつも、まぁこんな日曜日も良いのかもね。
  差し出した鴨肉を一生懸命冷ましている黒猫を眺めながら、これからこの黒猫をどうやってからかってやろうかと考えるのであった。

  この黒猫のヤタが摩耶香の家で厄介になるのはこれから数ヶ月後のことになる。
  日常は尊い。そういったヤタの言葉の通りの平凡な日々を二人は共に歩むことになる。

 

 

 



《Top》