第五章

第十八話 就任式が終わり、また明日が始まる


 ラインボルト副王、坂上アスナは深い眠りの中にあった。
  侍女が用いる癒しの魔法との相性が良いようで施してものの数分もすれば安らかな寝息を立て始めた。
  余程疲れているのだろう。真名を捧げた相手の寝顔を見ながらフィーリアはそう思った。
  結局、星座談義をしただけでお手つきになることはなかった。
  女を意識されている。それだけは強く感じていた。何時かその日が来ると確信できた。
  坂上アスナがどのような人なのか、侍女として仕える以前から聞き知っていた。
  戦場の指揮官としては無能。しかし、旗頭としてならば配下の将の能力を引き出す勢いがある。政治家としては議員や官僚が持ち込む案件に質問し、納得できなければ突き返すこともある。軍事よりも内政の方により適性があるようだ。
  身内に甘く、エルトナージュとサイナと瞬く間に女性を抱えるようになったことから好色であることが伺える。それは彼女自身がシーツの汚れ具合から察するところだ。
  その一方で苛烈さも内在している。
  内乱中にもかかわらず第一の騎士であり、友人でもあるヴァイアス団長の右腕を切り落とすことで近衛騎団を罰し、襲ってきた暗殺者を自らの手で返り討ちにしている。
  その暗殺の現場にフィーリアは助けに入り、目の当たりにしていた。
  槍で磔にし、踏み付け、椅子を用いて打ち据える姿を。
  もし、彼女が止めなければ相手を殺していたことだろう。
  自分の一族が暗殺も請け負い、実際に彼に刃を突き立てている。
  フィーリアにはあの暗殺者が自分の未来のように思えて恐怖した。
  逃げ出さずに済んでいるのはストラトとミナの元で仕事を仕込まれる時間があったからだ。あのまま頻繁に顔を合わせていたら耐えられなかったかもしれない。
  お手つきとなって子を成し、星魔族の安住の地を得る。彼女自身の中にあった野望はこの時感じた恐怖のせいで踏み出すことが出来なかった。
  転機はエルトナージュ姫に正体が露見したことだ。
  星魔族に伝わる癒しの魔法が有用であると認められたことが非常に大きい。
  副王と姫、両者ともに世にある偏見よりも有用性を重視する気質だからなのか、試験的に星魔族を表向きのことにも使い始めたのだ。
  特権は与えない。しかし、普通のラインボルト国民になるための助力はする。
  街中を歩いていても周囲の目を気にせず、誰からも気にされない未来が遠くにある。
  それが如何に貴いことかよろずの人には分からないだろう。
  遠く旅立った箱船が、今まさに自分たちの頭上に輝いている。
  神話の向こう側に救いを求めるよりも、遙かに生きることに意味を見出せる。
  フィーリアは恐怖と希望に縛られ、逃げることが出来なくなった。
  エルトナージュが想定したよりもずっと強く、彼女は縛られてしまったのだ。
  帰ってこなかった男たち、路上にうち捨てられた女、成長できなかった赤子。そういう運命が遠ざかるのであれば、どんなことでも従える。
「…………」
  包むように握っていたアスナの手を布団の中に納めると彼女は立ち上がった。
  椅子を円卓の中に戻し水差しとグラスを盆に載せる。
  彼女は一度、深く一礼をして部屋を辞した。

 副王就任式、最後の行事である別れの宴は大きな問題もなく恙無く終了した。
  各国の使節たちとは即位式での再会を約束した。
  この期間に行われた幾つもの交渉事は合意か交渉継続となり、概ね良好に終えることができた。民間でも幾つもの商談が持たれたようだ。
  特にアジタ王が出席したということで銀細工の注文がたくさん入ったようで、アジタ王ティルモールはえびす顔で最後の宴に出席していたことが印象的だ。
  アクトゥスに関しては、奴隷として貰い受けた将兵の取り扱いに関する交渉を開始することで合意。王妃グレイフィルが表向きの責任者となり、実務は王宮に仕える官吏がエグゼリスに滞在して交渉その他を行うという形だ。
  グレイフィルは捕虜たちの家族に手紙を届けたり、捕虜たちに差し入れを用意するといったことを担当するようだった。
  捕虜の取り扱いに関する交渉を隠れ蓑にして、今後の両国関係の交渉が行われる。
  また、グレイフィルには海王に宛てた親書を預けた。それには関係改善の可能性を示唆する内容が書かれている。使節団副団長として実務を担当したセギン男爵コミス・ナードには口頭でラインボルト側の意向を伝えている。
  それにどう答えるのかアクトゥス次第だ。
  別れの挨拶の際、ベルーリア姫に泣かれてしまい困ってしまった。
  余談ではあるが、姫に贈った万華鏡の噂が広まったおかげで多数の注文を受けてちょっとした流行になるかもしれなかった。
  グレイフィルも多数注文をし、貴族の子どもたちにラインボルト土産として贈るのだそうだ。恐らく、それを切欠にして貴族たちと繋がりを持つつもりなのだろう。
  リーズ使節団への見送りは大公たちを同席したこともあって非常に淡々としたものであった。ただ、最後まで勅使代理が何者なのか調べがつかなかった。
  大貴族に連なる竜の眷属なのではないかという予想しか立てられなかった。
  サベージ使節団との別れも儀礼に則った淡々としたものであった。
  それというのも翌日に私的な会食が催されるからだ。
  アストリアを救助してくれたことへのお礼という名目だが、何かしらの提案があるとラインボルト政府は見ていた。
  会食の場は首都エグゼリスにあるサベージ料理の名店、紫電。
  店の主がサベージでの修行からの帰りに雷に打たれたことが名の由来だという。
  王城エグゼリスの後宮にて同じ時間を過ごした面々に加えて、旧城エグゼリス城代オルフィオ・マナウェンが招待されていた。
  政府や議会、軍から誰も招待しなかったのは「私的」ということを強調したいからなのかもしれない、とエルトナージュは推測していた。
  店は木造の建物であり、衝立などで仕切られた開放感のある作りだった。
  恐らくサベージではこういう作りの家屋が多いのではないだろうか、とアスナは思った。
  君主を招いたということで店は貸切となっている。
「ようこそお越し下さいました」
  笑みとともに賢狼公はアスナたちを迎えた。
  本日の彼の装いは田舎風で、アスナの方もそれに合わせている。
  気楽に、ということなのだろう。
「本日はお招き下さり、ありがとうございます。サベージ料理は今日が初めてなので楽しみにしています」
「それはそれは。気に入って下されれば幸いです」
  サベージ側の出席者は賢狼の親子に使節団副団長ナイナ・ミツェン、そして狩猟会で功績のあった騎士たちだ。互いに簡単な挨拶を交わし席に着く。
  すぐに給仕が現れてグラスに黄金色の泡立つ酒を注いだ。ビールだ。
  アスナが酒精に強くないとを知っているからか、彼には小さなグラスが用意されている。
  泡立つ酒を眺めていると、ふと懐かしくなった。
  海外の雑貨の買い付けに飛び回っている両親が帰国すると訪れた国のビールを買って帰っていた。これは美味い、あれは不味いとジイさんたちと言い合っている姿を思い出した。
「では、サベージ、ラインボルトの永久の友好と繁栄を願って」
  賢狼公ヴォルゲイフの音頭で乾杯がされた。
  一口飲んでみると炭酸の向こう側にある苦みが舌に広がる。喉の奥に流し終えると苦みは消えてしまう。もう少しだけ欲しい気もする。
「どうやら気に入っていただけたようですな」
「飲みやすくて良いですね。休日の日に木陰の下でのんびりしながら、何も考えずにこれを飲んでみたいです。眠くなったらそのまま寝てしまう感じで」
「はははっ。それは良い。私も機会があったら試してみましょう」
  機嫌良く賢狼公は笑った。服装一つで印象が変わるもので、今の彼は気の良い富農の当主にしか見えない。彼の子どもたちにしても同じだ。
  ニルヴィーナに至っては一生懸命おめかしをしたというのが感じられる。
「もう腰の痛みは引かれましたか?」
「はい。うちの侍医が間抜けを演じた罰だと魔法で治療をしてくれなかったものですから、随分痛い思いをしました。情けないところをお見せして申し訳ありません」
「いやいや。かく言う私も若い頃は無理をして良く怪我をしたものです。ロディマス殿には子どもらが幼い頃に世話になりました。今回の訪問で改めて礼を述べられて良かったと思います」
「先生には健康管理を任せていますから良く話をするのですが、サベージの医術から多くを学びたいと申していました。そちらの侍医殿と手紙のやり取りをしたいと言っていたのですが、私的な交流ということでお許し頂けますか」
「もちろんですとも。ロディマス殿から学ぶると侍医も喜ぶでしょう」
  ニルヴィーナの経過観察については小さな懸念事項であった。彼女の症例と同じ者を調べて害になるかならないかを知っておこうという話だ。
  それを二国で行い情報や意見の交換をする。あまり表立ってできることではないので医師たちの私的な交流と研究という名目で行うことにしたのだ。
「副王殿下、一つお願いがあるのですが」
「なんでしょう?」
「雪解けとともに北に向かわれるとか」
「えぇ。どこまで進軍するかまでは軍規なのでお教え出来ません。ワルタ地方の視察はしないといけないから」
  完全にラインボルトに戻ったこと、復興に力を入れることを内外に示すためでもある。
  ロゼフ国境を越えるかは戦況を見て判断することになる。
「アストリアを観戦武官として同道させていただけないでしょうか」
「観戦武官というと?」
「他国の戦争を観戦するために派遣される武官のことです。リーズとの戦争では我が国もサベージやアクトゥスに派遣しており、逆もまた然り。ただアクトゥスへは先王陛下の崩御もあり我が国からは送っておりません。竜族への対策は共通の利益になりますから、慣例となっておりますな」
  と、オルフィオが解説をしてくれた。
「息子はまだ戦場に立った経験がありません。殿下にご教授頂ければと思っています」
  ヴォルゲイフ自身、南方での小競り合いに何度も従軍した経験があるらしい。
  ご教授云々というのんびりしたものではないことは知っているだろう。
  あくまでもこれは社交辞令だ。
  とはいえ、すぐに結論は出せない。
「この依頼はサベージ王陛下の命令に受けてということですか?」
「もちろんです」
  ……今のラインボルト軍の様子を知りたいってことか。
「なら正式に申し出て下さい。お互いに条件が納得できれば受け入れたいと思います」
  名も知らぬ将校ならば、慣例に則って受け入れようと言えるが、相手がアストリアとなると話は異なる。万が一、戦死するような事態になった時にどうするか事前に決めておかねばならない。
「ありがとうございます。交渉担当はすでに到着しております。明日にでも申し込みをさせていただきます」
  賢狼公は左隣に座る息子に顔を向けた。
「受け入れて下さった場合に備え、息子はこのままエグゼリスに滞在させていただきます」
「なら、このまま部屋を……」
「いえ、ありがたい申し出ですが、観戦武官の任は陛下より賜った物。公私の区別は付けねば示しが付きません」
「そうですね。失礼しました」
「いえ。ご厚意はありがたく」
  その間にも店の給仕が次々に卓の上に料理を置いていく。
  どれも大皿に盛りつけられており、大きなナイフとフォークが添えられている。
  どうやら好きなように取り分けて食べるようだ。
  炙り肉を薄切りと香草の粒マスタード和え。白や緑の色味が食欲をそそる。子羊の骨付き肉ステーキ。干した果物をを用いて作ったソースと肉汁が良い照りとなっている。
  肉料理だけではない。薄い琥珀色の煮汁の中に宝石のような色とりどりの野菜が宝石のようだ。ミートパイはきつね色に焼き上げられ、バターの良い香りがする。
  バスケットには焼きたての香りがするパンが山盛りとなっている。その他にも色々と皿が並べられていく。サベージ料理は肉料理が主体のようだ。
  各人の手元には食器類とは別にエプロンと濡れ布巾が用意された。
  賢狼公はアスナが見守る中、手慣れた様子でエプロンを身につけると、
「後は美味しく頂ければ良いのです」
  そういうと子羊の骨付きステーキを自分の皿に取る。彼はそのまま骨を摘んでかぶりついた。咀嚼して飲み下すと笑みを浮かべた。
  田舎風の装いを指定してきたのは、こういう食べ方をしても良いようにするためのようだ。古着屋で用意されたものだから、多少汚しても問題はない。
「うむ。実に良い味だ」
  美味しく食べることがマナーであるならば、気にせずに倣えばよい。
  アスナもヴォルゲイフと同じように骨付き肉を手に取りかぶりついた。
  両国の代表が手を付けたことで会食は本格的に始まった。
さすがに女性陣は粗雑な食べ方をしていないが、それでも普段よりも食器の動きが激しいように見える。
  賑やかに食器の音が響くが、聞こえてくる言葉は酷く少ない。あれを取ってくれ、それは俺のものだと食事に関することが時折聞こえるのみ。
  美味い物を前にすれば言葉少なくなる。
  それは国を越えて、世界を越えて共通することなのかもしれない。

 ある程度、腹が満ちるに従って交わされる言葉も増えていく。
「マナウェン卿は先のリーズとの戦では何人もの竜族を討ち取ったと聞いています。どのようなご活躍をされたのかお聞かせ下さい」
「ふふふっ。若き騎士よ」
  すでに食事よりも出された酒瓶に興味を持っているオルフィオは赤ら顔で笑った。
「貴公が思い描いているほど格好の良い話ではありませんぞ。現実は泥臭いものだ」
「それでも是非。このような機会は二度とないでしょうから」
  酒精によるものではない赤味が騎士の頬を染めている。
「竜族と相対した場合、どのように戦うか。現在の基本戦術はどうなっているかな?」
  グラスを向けて問われ、騎士は応えた。
「儀式魔法で空から撃ち落とし、然るべき攻撃をもって打ち倒す」
「その通り。竜族の何が恐ろしいかと言えば、多少武芸に長けていても、あの分厚い鱗を貫いて傷付けることすらできないこと。倒す最上の手段は力押しだけ。それが実に恐ろしい」
「では……」
「当時の私は近衛騎団団長でした。将兵らは個として精強であり、一軍としても練度が高かったからこそ出来たこと。先の狩猟会での駄竜討伐を例にあげてみましょうか」
  自然と討伐の主役となったアストリアに視線が向けられる。
  彼は大振りの鮭の蒸し焼きから骨を抜くべく奮闘中だ。
「ディティン公が捜索し、発見した駄竜。公には駄竜と相対できるだけの強さがあったが、勢子たちにはそれがなかった。しかし、勢子には急いで山林の中を駆ける足腰と知識があった。勢子たちが報せてくれたお陰で副王殿下は事態を把握することが出来た。援軍を派遣し、戦えぬ者らを避難させよと命じられた」
  そこで一度、言葉を句切りグラスの酒を乾した。続いて薄桃色の酒を注ぎ始める。
  出される酒の多くは高級品と知られた物ばかりだ。
「もう分かるだろう、若き騎士よ。もしディティン公が自身の名誉を得ようと勢子らにも駄竜を攻撃せよ命じていた場合、ひょっとしたら惨事となっていたやもしれん。竜族と対峙する時は個人の名誉よりも、全体の勝利に如何に貢献できるか考えるべきだ。そういう視点から見てもディティン公の判断は素晴らしい」
「英雄たる貴殿に賞賛を受けるとは息子も誇らしいことであろう」
  例の言葉を述べると、次に賢狼公は居並ぶ騎士たちに顔を向けた。
「リーズと相対する上でやっかいなのは竜族だけではない。空飛ぶ竜族にばかり意識を向けすぎて街を占領され、集落を焼かれてしまっては話にならん」
「賢狼公の仰るとおり」
  と、二人は呵々と笑ったが、その様子を呆れた顔で見ていた。
  実際はオルフィオが次々に竜族を魔法で撃ち落とし、団員たちに討ち取らせるという戦い方をしていたのだ。それだけではなく近くに落下した竜の首を切り落としている。
  人魔の規格外ほど豊富な魔力と回復力がないが、オルフィオもまた怪物と類される人物だ。そのことを素直に話したところで参考には鳴らないから、一般論を述べたのだろう。
  それを切欠に武官たちは対リーズの話題に突入していった。
  カイエ・アーディはその中で沈黙を保ち、話を聞くことに努力を傾けているようだ。
「駄竜と言えば、本当に首を頂戴しても宜しいのですか」
「討伐に協力して下さったお礼です。サベージ王陛下によろしくお伝え下さい」
「ラインボルトでの日々がどのようなものであったか、しかとお伝えします」
  竜の皮で作った鎧に加えて、首までアストリアに与えては獣王を軽く見ているように思われてしまう。そこで首は獣王へのお礼の品ということにしたのだ。
  サベージ使節団にラインボルトからの使者を同行させることになっている。
「それに、アストリアが残ってくれて良かった。鎧の調整をサベージの職人に任せる片手落ちなことにならずに済みます」
「あぁ、私も安心した。ラインボルトの職人と話が出来る良い機会だ」
  不意に左隣に座るエルトナージュが太ももを突いてきた。
  ニルヴィーナのことを話せということだろう。彼女は周囲の目を気にして非常に大人しくしている。
「折角だから、ニーナもこのままラインボルトに、というのはどうです?」
「本当ですか、アスナ様!」
  何となく初対面の時の再現のようだ、とアスナは思った。
「両国の交流を深めるために滞在期間を延ばしたといった感じで如何でしょう」
「ううぅむ」
「アリオン、紙とペン」
  部屋の隅で控えていたアリオンが足早に歩み寄り、手持ちのメモ帳とペンを差し出した。
  そこにアスナは手早く何事かを書き記して、賢狼公に差し出した。
「王城の近くにある屋敷の住所です。滞在してくれるのならアストリアと一緒にここを事務所代わりに使って下さると遊びに行きやすいです」
「……なるほど」
  千切ったメモ用紙には住所とともに「ニーナの耳が世間に知られた時の避難場所」と書いている。つまり、万が一の場合はラインボルトに迎える用意があるという意思表示だ。
  世間では恥とされる特徴を理由にしている点で卑怯かもしれない。
「この申し出に思うところはあるか?」
  渡したメモがアストリアにも見せられる。
「……ありがたい申し出だと思います。立地については詳しくないので、下見をさせていただきたいところですが」
「そのつもりがあるのなら案内をさせるよ」
  遠方からの客人を泊めるために王宮府は幾つか屋敷を所有している。時には亡命者の受け入れをすることもあって、貴人に恥を掻かせずに済むだけの屋敷だ。
「私はお受けしても良いと思います」
「……ニルヴィーナはどうだ?」
「お父様が許して下さるのなら是非!」
  即答だ。娘の様子にヴォルゲイフはため息を堪えるように肩を落とした。
「即答できることではありませんが、まずは屋敷を拝見させていただけませんか」
  アストリアが滞在する屋敷としても使えるから、下見をする意味はある。
「近日中に見ていただけるよう準備を進めさせます」
  応じると背後でアスナの言葉を実現するために人が動き出した。
  遅くとも明後日には見て貰える手筈を整えられるはずだ。
  話が決まった事に安心して、アスナは食事を再開する。バスケットから出来るだけ薄切りのパンを選び出し、その上にサラダ系の料理を載せていく。
「あら、美味しそう」
  言うが早いかエルトナージュはそのまま皿の上に並べたパンを取って食べてしまった。
「こういう食べ方も良いわね」
「気に入ったんなら取って良いよ。サイナさんも」
「ありがとうございます。いただきます」
「これは酒を飲みながら食べるには良いですな」
  などとオルフィオまでもが取っていく。これでは作ったそばからなくなりそうだ。
  手を挙げて給仕を呼ぶと、薄切りのパンを用意するように指示をした。
  数が用意されれば後は各人が勝手にやってくれるだろう。
「ところで殿下。ロゼフとの戦争をどうお考えですか?」
「どうというのは?」
  ……やっぱりこの話は避けられないか。
  アスナはヴォルゲイフに顔を向けず、手元にあるパンに具材を載せ続けている。
  作ってすぐに消えていくため、まだ一つも食べられないでいる。
「我が国では隣国が争うのは良くないという意見が大きい。両国と縁のある我が国が和平の仲介をしてはどうかという話が盛り上がりつつあります」
「近所の家が騒々しくなったら心配になる気持ちは分かります」
「一部の血気盛んな者が義勇兵を送ろうと叫んでいまして、我らが王や天鷹公がこれを押し止めていますが、いつまで言う事を聞くか」
「そこまで強い意見が出て入るんですか」
「正確には出始めている、ですな」
  正式に参戦しないが、義勇軍という形でロゼフを援護する可能性の示唆。
  敵対しないように気を遣ったが、さほど強い効果はないようだ。
「和平案はどのような内容ですか?」
「ロゼフは和解金を支払い、ラインボルトが占領している土地を買い取る。両国はサベージの仲介の下、両国は不可侵条約を締結する、というものです」
  残った最後のパンを食べながら考える。
  サベージの案は中立的だと言って良いのかもしれない。主眼は開戦前と同じ状況に戻すということだ。ロゼフもこの条件なら諸手を挙げて受け入れるかもしれない。
  この条件は閣議の席で、もしサベージが和平の仲介をする場合どういう条件を出してくるだろうか検討した時の推測と多く変わらない。ラインボルトに対して渋い提案だ。
「賢狼公、これは正式な提案ではなくて、こういう話がサベージの宮廷で出ているという話で良いんですよね?」
「無論です。私はそういう役割を帯びていませんから」
「私たちが何を欲しがっているか、探るおつもりなんでしょうね」
  と、エルトナージュが耳元で助言をする。
  ……それじゃ、大きくぶつけてみようか。
「では、私も頭の体操ということで話します。……その提案、受け入れましょう」
「なっ!?」
  誰のものか分からない驚きがあちこちで挙がった。
  中には椅子を蹴倒して立ち上がる騎士もいる。
  ラインボルト側は慣れたものなのか、また始まったという顔をしている。
「では……」
「その上でラインボルトはサベージに要求をします」
「仲介をする我が国に、ですか!?」
  騎士の一人が牙を見せるような声で問うた。
「もちろん。我が国は貴国の仲介を必要としていない。貴国の顔を立てるために受けても良いと言っている。我が国の名誉は激しく傷つけられ、勝利の美酒すらも貴国に取り上げられるのです。この仲介がサベージの都合である以上、それは貴国に補って貰わないと」
  適当に橙色の酒をグラスに注いで飲む。若干の酸味があり中々美味い。
  ついでにミートパイを皿に取り、乱暴に食べ始める。急いで咀嚼をして飲み下した。
「まず条件の一つ。ロゼフから支払われる金を債券にしますから、それを買い取って下さい。和平条約が締結された当日に半額、残りは分割払いで良いです」
  ロゼフが素直に払い続けてくれるとは思っていない。どこかの段階で革命が起きて踏み倒されるかもしれない。その火種がアスナに接触を求めてきているのだから。
「争いは良くないということでなのでサベージには我が国と一緒にラディウス軍の撤退を促して欲しい。交渉開始から一年が過ぎても撤退しない場合は連合を組んで、ぶりょくで追い出しましょう。もちろん、境界線は以前のままにします。エイリアのことについても同じです」
「…………」
「それと三つ目。ニーナを下さい。婚姻同盟? という形であれば、納得する人もそれなりに増えるでしょうし。とはいっても減らないだろうけど」
  立ち上がろうとしたカイエ・アーディをアストリアが即座に抑え込んだ。
  アスナはその様子を一瞥するに止め、敢えてニルヴィーナの方は見ないようにした。
「賢狼公は暗殺されかけたことはありますか?」
「ありません。その話と何の関係があるのです」
「オレはありますよ。複数回。もし、この案を受け入れればサベージの圧力に負けたとか言って、また暗殺騒ぎが起きるでしょうね。人族がラインボルトに不名誉をもたらした、魔王となる前に始末を付けてしまえ、っていう連中がいるんですよ」
  ため息が漏れる。今は警備体制が整ったこともあり、暗殺者の手がアスナまで届いていない。敵が活性化すればアスナの身近な者たちにまで危害が及ぶかもしれない。
  対外的な弱さを安易に見せられないのだ。
「もし、今のまま提案をするのなら、オレに敵意があると判断します」
  ミートパイの残りを一口で食べてしまう。
  今、この席上で食事を続けているのはアスナとオルフィオだけだ。
「それに和解金というのも個人的に気に入らない。ラインボルトは何度もロゼフに和解しようって声をかけてきたんです。それを全部足蹴にされたんですよ。今更和解も何もないでしょう。それともサベージは魔王の土下座なんてどうでも良いと考えているんですか?」
  そうして、次の獲物に鶏のモモ肉を獲った。香草と塩胡椒で味付けされている。
  照り焼きとはまた違った美味しさだ。
「サベージがロゼフと付き合いがあることは知っています。ある程度、力のある勢力として存続してくれた方がありがたいって」
  ロゼフ向けに多額の債権を持っているのは天鷹族だ。
「だったら、共犯者になった方が手っ取り早くありませんか? うちと一緒にナイショで和平案を作って、頃合いを見てサベージからってことで仲介して下さい。もし、ロゼフ側が断るようなら適当な王族を王様にして、その人と和平をすれば良いじゃないですか」
  大きな不幸を背負わされるのはロゼフだけとなる。
  火事場泥棒をして和解も蹴ったのだから同情なんてしない。
  ただ新しく併合した土地に住む岩窟族については国民として普通に扱う。
「ニーナの留学を切欠に交換留学ってことにすれば、交渉担当者と知られずに話を進められると思いますよ」
  卑怯で、卑劣で、下劣でさえあるかもしれない。
  ロゼフから見れば裏切りに見えることだろう。この詐術に娘の婚姻を絡めてきた男を前にして賢狼公ヴォルゲイフはどう思うか、アストリアは何と思ったか。
  彼らの視線を一身に浴びる中、グラスに水を注いだ。一気に飲み干した。
「頭の体操です。参考程度に考えて下さい」
「ありがたい意見を頂戴しました。もし和平の仲介しようという話が本格化した際には参考にさせていただきます」
「この場での思い付きなので、あまり重くは考えないで下さい」
  と、今までアーディを抑え込んでいたアストリアが顔を上げた。
「では、妹のことは軽いと?」
「重いとか軽いとかじゃないだろ。……ニーナ」
「はい」
  緊張で表情が強張り、耳まで赤くなっている。
  彼女の特徴を考えると必死に耳などが出てくるのを我慢しているのだろう。
「うちにおいで。それでいまよりも仲良くしよう。そのためにお姫様っていう身分が重いなら、身体を軽くして良いよ。お姫様は便利だけど、一緒にいて楽しいのはニーナだから。エルとサイナさんもニーナを呼べって言ってるんだ」
  隣に並ぶ二人は笑みを浮かべながら頷いた。作った物ではなく了解の笑みだ。
「だからさ、着の身着のままで良いからうちに……」
「そこまでで」
  ヴォルゲイフが疲れた様子でアスナの言葉を遮った
  父として思うところがあって当然だ。オルフィオやヴァイアスに至っては笑いを噛み殺し、ミュリカはヴァイアスの太ももを抓っていた。
  話を振ったアストリアに至ってはすっかり呆けた顔をしてしまっている。
  彼にはそう返事をすることだけで精一杯であった。
  椅子を蹴倒して立ち上がったニルヴィーナがそのまま別室へと駆けていった。
  それをオーリィとフェイが後を追い掛けた。アスナたちに一礼することを忘れていない。
  これ以上、感情の高ぶりを抑えられそうになかったのだろう。
  娘の様子を見てヴォルゲイフは顔を覆い、拭うようにして髪を掻き上げた。
「その話を含めて、検討をすることにしましょう」

 



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