きょうもラインボルト!

その4 星詠みな一日


 星を見ませんか。
  そう、ストラトを伝にエルトナージュから誘われた。
  アスナは始め何かの聞き間違いかと思ったがストラトの「天象院の予報では今晩は晴れとのこと。煌びやかな星々をご覧いただけるかと思われます」との言葉にようやく現実なのだと理解した。ミュリカと共謀して彼女を引っ張り出すことはあっても、エルトナージュの方から誘われるのは初めてだ。
  ちなみに天象院とは天気予報や星の運行を研究する機関だ。
  この機関の設立時期は古く初代魔王リージュの治世の後期になる。だが、当時の天象院は現在のような役割ではなく、その本文は魔法研究のための魔導院の一部署であった。
  大規模魔法の行使のために星の力を利用することも多く、天文と魔法は切っても切れない間柄だ。また、術者の生まれた日の星の動きから力の増減も知ることも出来る。
  主に後者の理由から多くの魔導士は研究の時間を観測に取られてしまい、研究は遅々としていた。彼らの研究を支援し、その成果を国力増強に用いるべくラインボルトは魔導院を設立した。天文関係の研究を主としていた者たちの手で作られた天象局がその始まりになる。
  だが、世の常として研究成果が他の部署に比べて地味な天象局は窓際扱いされることが多くなった。後は衰退の一途だ。優秀な者が配属されず、研究もおぼつかなくなった。
  そして、それは起きた。大規模実験のために用いられた天文の情報が誤っていたため、大事故が起きたのだ。
  事態の解決に乗り出した政府は野に下った天象士――天文を主として研究する魔導士、たちを再度呼び集め、魔導院から独立した天象院を設立した。
  だが、件の事故の衝撃が大きく魔法について良く知らない民衆からはそのような無駄なものに予算を投入するなとの声が挙がった。それだけではなく、魔導院がこれを裏から煽動していたのだ。
  彼らからすれば、ここで新たに設立される天象院が確かな成果を挙げれば今回の大事故の原因は全て自分たちの怠慢ととられかねない――事実、怠慢なのだが、と危惧していた。
  魔導院は自己保身のためにもあの大事故は”担当していた天象士の無能”であるとしたかったのだ。
  政府内でも魔導院の自浄努力に期待しようとの声もあったが、第二十八代魔王ヴィトナーの天象院設立賛成の一言で全ては決した。
  魔導院の”相談”を受けていた大臣や議員たちから予算の面から反対の声もあったが、ヴィトナーは天象院を王立、つまり設立、運営資金を王室が持つと言ったのだ。
  また、民衆の天文研究への不信の隠れ蓑として、表向きはこの当時始められた気象予報を研究する機関とされた。そういった事情から機関名も天文とも天気とも取れる天象院となったのだ。
  その天象院の設立とほぼ同時期に王宮に天体観測のための塔がヴィトナーの命で建てられた。そこからも彼が天象院にどれだけの情熱を傾けていたのかが分かる。
  その塔にアスナはストラトの先導で入っていく。
「お足元にお気をつけ下さい」
「あ、はい」
  中は照明用の魔導珠に照らされているが、その光量は弱く足下に心許なさを感じる。
  階段は狭く人の往来を考慮に入れて造られていないようだ。
「…………」
  上り始めてまださほど時間は経っていないはずなのに延々と上らされている気になる。前方にはストラトの背中、後ろにはぽっかりと口を開いたような闇がある。
  なぜだか知らないが背中に震えが来た。このまま、闇の中に閉じこめられてしまうのではないか。前を歩くストラトの背中だけが自分を現実に縛り付けてくれているように思えてしまう。
  と、不意にストラトが歩みを止め、身を引いた。そこはちょっとした踊り場になっており、階段よりも暗い。どうにか手元が確認出来る程度の明るさしかない。
「こちらにございます」
  微笑を浮かべてドアノブを指し示す。アスナは促されるままに古ぼけた扉を開けて中に入った。
「……すごい」
  そこは天上の世界であった。上空だけではなく、眼前も星が煌めいている。
  そして、その満天の星々を従えるように空の極みに月の女王が君臨している。他を圧するような月光を発しながらも、決して星々の瞬きを阻害しない。
「…………」
  惚けたように口を開けて、空を見上げるアスナに声がかけられた。
「気に入りましたか?」
  振り返ると微笑を浮かべたエルトナージュがいた。アスナの間抜け面が可笑しかったのだろう。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「うん、驚いた。暗闇の中から出たら別の世界に来たって思えたよ。なんて言うのかな、いきなり夜空の中に放り出された気分」
「ヴィトナーのいたずら。この塔のちょっとした演出です。初めてここの景色を見た方の殆どが今の貴方と同じ様な顔をするんですよ」
「姫様とミュリカ様、ヴァイアス様もご同様にありましたな。その後の大はしゃぎで塔から身を投げられかけた時は肝を冷やしましたが」
「ストラト」
「些か軽口が過ぎました」
  楽しげな微笑を浮かべるとストラトは一礼すると扉を開けて、姿を消した。
  残されたのはアスナとエルトナージュのみ。彼女はゆっくりと歩み寄ると、
「冷えますよ」
  手にしていた外套を差し出した。
「ありがとう」
  受け取った外套を着込み、少し冷えた両手をポケットに突っ込む。暖気が込められているのか暖かい。それほど長く外にいた訳ではないのに暖かさにホッとする。
  そして、改めて星空を見上げる。
「昔、山の方に遊びに行ったときにも空の星に圧倒されたけど、幻想界の星空は奇麗で力強いんだな。こっちに来てから随分と経つのに全然そのことに気付かなかった」
「内乱中は夜空を見上げるようなことはなかったのですか?」
「やんなきゃいけないことに追いかけ回されてて、空なんて見る余裕がなかったよ。時間がある時も空じゃなくて、騎団のみんなの間でちょろちょろしてただけだし」
  今、考えると仕事の邪魔してたんだよなぁと情けない気分になる。同時にそんな自分を邪険に扱わなかった彼らへの感謝の気持ちが改めて沸き上がってくる。
「エルは空を見て息抜きとかしてた?」
「……していませんでしたね、そう言えば。忙しくてそれどころじゃありませんでしたから。アスナ殿と似たようなものでした」
  彼女はアスナの隣に立ち、彼と同じように空を見上げる。
「昔は、お母様がいらっしゃった頃はここで星を眺めながら色々な話をして下さいました。今日のように空が澄んでいる日はよく現生界の星物語を話し聞かせて貰いました」
  そう話すエルトナージュの瞳は星空の向こう側に向けられているようにアスナには見えた。彼女をここに、自分の隣に引き戻すようにアスナは声をかけた。
「どんな話をしてくれたんだ?」
「……そうですね。現生界の星座に纏わる物語や天の大河に分け隔てられてしまった恋人の物語なんかを聞かせてくれました」
  しっていますか? と、彼女の視線が向けられ、アスナは頷いた。
「あんまりたくさんは知らないけど、有名どころは知ってるよ」
  今の季節の星座がないか探してみたが見つからない。天を輝きで埋め尽くすほどの星の多さが原因かとも思ったが、
「ありませんよ。お母様が現生界で何度か天体観測をしたことがあると仰っていましたから間違いないはずです」
「そっか。空が紅いだけじゃなくて、星からして違うんだな」
「あっ……」
  俯き、小さく吐息。数瞬の間をおいてアスナは顔を上げた。そして、隣のエルトナージュに顔を向ける。複雑な表情を浮かべる彼女に苦笑を見せる。
「幻想界にも星物語ってある?」
「はい。幾つか話しましょうか?」

 エルトナージュの豹変。
  周囲の者がそう思うほどに彼女とアスナの関係は良好なものとなりつつあった。
  お互いに急務がない限り、朝昼晩と食卓を囲み、夜は就寝するまでどちらかの自室で雑談したり、アスナの勉強に付き合ったり、何もしないで読書をして過ごすようになっていた。ミュリカに引っ張られてではなく、エルトナージュの意思でのことだ。
  あまりの変わり様に諸大臣や一部議員、王城の職員たちは何が二人にあったのかと色々な憶測が飛んだが、噂が流れてから三日後には一つの見解に纏まることになった。
  執事長、つまりストラトが二人にもっと仲良くなるようにと苦言を呈したのだ、と。
  二人の信頼を得、小言を黙って聞かせられる数少ない人物がストラトだからだ。
  この噂はそれほど的を外しているわけではない。二人に直言はしていないがストラトもアスナとエルトナージュの関係が良好なものとなるようこっそりと環境作りをしていたから。だが、アスナに対する積極性をエルトナージュに与えた大きな要因ではない。
  それは遡ること二週間ほど前、鉄板会議でのLDの発言がその一つだ。
  幻想界統一の方針を語ったLDは最後に、
「君たちはもう少し仲良くしろ。後継者と宰相が不仲では上手くいくものも行かなくなる。君たちもそんなことで失敗したくないだろう?」
  そして、もう一つがエルトナージュに最も影響を与えうる人物、ミュリカの「アスナ様は危険です」という言葉だ。
  両者の助言を胸に自室に戻った彼女は鉄板会議での出来事を反芻し、内乱中にミュリカから送られた手紙を見ながらアスナに対する様々な情報を改めて整理した。
  近衛騎団からの報告書と照らし合わせて近衛騎団に、そして内乱に与えた影響がなんであるかを抽出することまでやった。
  この作業自体は内乱中から坂上アスナの情報を得るための一環としてすでにやっていたことだ。前回は敵としてではあったが、今回は別の視点からの考察である。
  そこにアスナと親しくなることで出てくる影響がなんであるかなどの推測を加味し、エルトナージュ自身の感情も含める。
「…………うん」
  誰もいない自室でエルトナージュは力強く頷いた。結論が出た。
  坂上アスナはラインボルトにとって必要で、幻想界統一のためにも有用。また、ミュリカの言う良くも悪くも他人に影響されやすいという話しからも自分が側にいた方が何かと便利である。誰かをアスナの首の鈴に仕立てるよりも自分がそうなった方が何かと好都合。
  傀儡にすることは出来ないだろうが、アスナはアルニスよりも自分の言うことを聞くはずだ。
  相変わらず全身をバラバラにして業火で焼いても晴れることない嫌悪を人族に持っているが、同時に嫌われていることを知ってなお「エルの味方だ」とアスナに言われたことがとても嬉しかったことを認めた。
「…………」

「はっくしゅん!」
  四つ目の物語に入ろうとしたところでアスナは盛大にくしゃみをした。勢いがありすぎたのか、盛大に鼻を出してしまった。
「冷えてきましたし、中に入りましょう」
  エルトナージュは微苦笑を浮かべるとハンカチを差し出した。
「……ありがと」
  奇麗なレース付きのハンカチで鼻を拭うのは気が引けたが、さすがに袖で拭うわけにもいかず申し訳なさ一杯でアスナは受け取った。
「近い内にこれの代わりのハンカチを用意するから」
「気にしなくても良いです。……こっちです」
  この話はこれで終わりとばかりに彼女は背を向けてアスナが入ってきた出入り口に足を向けた。
  ……素直におかえしぐらいさせろよな、とも思ったが、今度別の形で彼女に分からないようおかえしをすれば良いかと思い直し、先を行くエルトナージュを足早に追いかける。
「中って言ってたけど、途中に横道なんかなかったけど」
「ありますよ、ちょっとした仕掛けがあるんです」
  そういうと彼女はスタスタと階段を下りていく。しばらくすると幾つ目かの燭台風の照明の前で立ち止まった。照明はもちろん魔導珠製だ。
  彼女は一度、アスナに小さくいたずらな笑みを見せると、燭台を手にすると右に回した。カチッと音がする。鍵が外されたような音だ。そして、軽く壁を押すとあっさりと開いていく。
「……もしかして、それもヴィトナーのいたずら?」
「その一つです。ヴィトナーの異名は興趣王。政務は政治家に丸投げして、遊びに興じていた稀代の道楽家。彼に纏わる逸話が色々とありますよ」
「道楽家でこの塔を建てたぐらいだから、適当な理由を付けて首都全域で派手な祭をやったりしてそうだな」
「しましたよ。生誕祭、建国王の誕生日にかこつけて盛大な祭をやったそうです。国歌が豊穣の季節であることからも建国王は祭がお好きであられた。ならば、盛大に騒ぎ楽しむことで建国王の偉業を讃えようと」
「すげー、こじつけ。よくそれで反対されなかったな」
「もちろん、宰相を始め反対の意見がありましたよ。ですが、彼は政治家たちを説得するのではなく首都に住む者たちを唆したんです」
  当時のラインボルトは住民たちが一斉に騒ぎ出すような祭がなかった。他国にあるような盛大な祭を欲してはいたが名目がない。そこにヴィトナーは囁いたのだ。
  一度、勢い付けば押し止めることは難しい。首都に本店を構える豪商たちも巻き込み政庁に許可を求めるまでになった。
  それを待っていたとばかりにヴィトナーは宰相に祭の許可をするように指示し、同時にその運営に遺漏なきようにと命じた。
  住民からの嘆願と魔王からの指示に板挟みとなった宰相は結局、許可を出すことになる。
「興趣王の名前そのまんま。ヴィトナーって、首都の人たちを巻き込むところから遊びにしてるぞ」
「当時の宰相の日記にもヴィトナーが如何に困った王だと何度も愚痴が書かれています。本当に困った王ではありますが国民の人気は大きいんです。誰だって遊びが好きですからね」
「うん。凄く幸せな人生だな。オレもそういう王様稼業をやりたいよ」
  そう言ったアスナにエルトナージュは、
「政務を放り出して遊びに興じることができるんですか?」
  見透かされたような一言にアスナは盛大にため息ともに苦笑も浮かぶ。
「出来ない、かな」
「貴方は苦労性ですからね」
「いやいやいや。そこは真面目とか、勤勉だとかそういう格好良さげな言葉がくるんじゃないのか?」
「…………」
  エルトナージュはまじまじとアスナの顔を見た後、小さく鼻で笑った。
「……ここでずっと立ち話をしても仕方ありませんし、行きましょう」
「ちょっ、どういう意味だよ。それ!」

 星見の塔は遊びに、いやヴィトナーのいたずらだらけだ。
  屋上で感じた開放感と圧倒的な星々の煌めきを見せ付けられたのに続いて、今アスナの眼前にあるのは巨大な光の絵画とでもいうべきものだった。
  天と地にある輝きを一望することが出来る。
  神々の世界と生者たちの世界の狭間にいるような錯覚を覚える。
  一秒として同じ表情を留めない。今、この瞬間にのみ存在する生きた絵画とも言えた。
  エグゼリスの灯火は、あの圧倒的な星空に負けてはいない。それがとても心強くて、確かな色彩に満ちてる。
「ははっ、ははははははっ」
  それが胸を締め付けるほどに嬉しくて、アスナは声をあげて笑った。
「アスナ殿?」
  突然、笑い出したアスナに彼女は心配そうな、怪訝そうに声をかけてくる。一度、湧き出した笑いは止めることが出来ずにアスナは笑い続ける。
「オレたち、ちゃんと守れたんだな。守れてるんだな」
  この都市を戦火で焼くことがなかった。都市の元気を守り続けられている。
  それが嬉しくて、誇らしくもあった。自分がやれたことは本当に極々些細なことだろう。それでもこの街を煌めかせている一助になれているはずだから。
  エルトナージュもアスナの気持ちが分かったのか笑みを浮かべた。
「そうですよ。わたしたちがエグゼリスを守ったんです」
  うんとアスナは頷く。
「頑張って虚勢を張って良かった。この絵を見せてくれたヴィトナーに感謝だ。この塔とかはちゃんとこれからも守っていかないとな」
  感慨深げなアスナの呟きに突然、エルトナージュが吹き出した。あまりにもこれまでの彼女らしからぬ笑い方にアスナは戸惑う。
「お、オレ、なんか変なこと言ったか?」
「いえ、違うんです。あまりにも貴方が……ははっ、ヴィトナーの、策略にはまってるから」
「はぁ!? ……って、まさかこの光景って初めて来たヤツを驚かせるだけじゃなくて、後に続く魔王に感動させてこの塔を維持させようっていう」
「ヴィトナーのいたずらですから。当時の宰相の気分が味わえたんじゃないですか?」
「ったく、ホントに困った王様だな」
「ですが、人を巻き込んで何かを成し遂げるという点では貴方も似たようなものでは?」
「絶対に誉めてないだろ」
「さて、どうでしょう?」
  楽しげにそういうと彼女は奥の扉の前に控えていたストラトに声をかけた。
「ストラト、始めましょう」
  彼は「承知しました」と一礼すると奥に引っ込んだ。
「そちらにどうぞ」と、エルトナージュに促されて用意された席に腰を落ち着ける。
  右手のテラスには天地の煌めきを見ることが出来る。その大きな存在感とは逆に二人を挟むテーブルには小さな蝋燭の灯火があるのみ。お互いの顔と手元が確認できる程度の明かりが、何となくナイショの事をしているようで妙なくすぐったさがある。
  扉が開き、酒と料理が運ばれる。ストラトの後に六人が続く。
  テーブルに料理と酒が並べられた。酒は冷水で程良く冷やされている。ストラトの手ずから二人のグラスに注ぐ。グラスを通った光がテーブルに薄桃色の影を落とす。
「先年作られたミューレシアです。酒精は強くありませんので、お話を楽しまれるには丁度良いかと」
  あまり酒精に強くないアスナにはありがたい配慮だ。
  ちなみにこの酒に使われているレイシアスという果実はラインボルト南東部でのみ採れる。味、香り何より希少性からちょっとした飲み屋や料亭では置くことの出来ない果実酒だったりする。
「お食事の後、もう少し強いものがご所望であればお申し付け下さい」
  ストラトに続いて姿を見せた者たちの手で料理が配されていく。アスナの流儀に合わせたのだろう。全ての料理がテーブルに並べられる。
  エルトナージュがグラスを掲げた。
「天上の瞬きと……」
  口元には挑むような笑みを浮かべている。
「地上の灯火に」
  と、アスナは応じた。小さくグラスが鳴る。
  ミューレシアは確かに良い酒だった。味、香り、のど越しともに素晴らしい。喉を通った後、仄かに果実の甘い香りだけが残るのはアスナの好みだ。

 アスナとエルトナージュの共通点の一つに食事中は口数が少なくなることが上げられる。話す必要がある場合はその限りではないが、ただ楽しむだけの場では食事に集中してしまうところがあった。
  冷めては味の落ちるものを食べ終わり、ミューレシアも一本空けた頃、自然と二人の口数も増えていく。
  話題はアスナが内乱中に見聞きしたラインボルトのあれこれだ。驚いたもの、面白かったもの、戸惑ったことなど魔王の後継者という責任ある立場の者ではなくただの坂上アスナとして話をしたのは本当に久しぶりのことかもしれなかった。そんなアスナに合わせるようにエルトナージュは彼が抱いた疑問を一つ一つ丁寧に答えた。
  これまで二人の間になかった和やかで満ち足りた時間が流れてる。
「LDに拉致された時に人族の村にも行ったっけ」
  場の空気に亀裂が走ったようにアスナには感じられた。エルトナージュの表情には先ほどまでの彩りは消えてしまっている。
「あそこじゃ、かなり酷い目にあったっけ」
  夢にこそ見ないが、よくあの状況で多少の怪我だけで済んだと思う。アスナは改めてヴァイアスたちに感謝をした。そこでようやく思い出した。
「そういや、あの村の暴動ってどう処理したか知ってる?」
  確かあの村の統治に携わっていた者たちが暴徒に殺された。アスナはすぐにヴァイアスたちに保護されたため、その後どうなったのか全く知らなかった。
「護衛の一個小隊とともに検察官を派遣しました。捜査が終わり次第、法に則った処理をすることになっています」
「そう。良かった」
「良かった? ヴァイアスが発見するのが遅れていたら殺されていたかも知れない相手なのに!?」
「そりゃ、痛かったしすっごい怖かったけど。まぁ、なんて言うのかな。向こうの気持ちも分かるし」
  瓶の底に残ったミューレシアを全て自分のグラスに注ぐ。香りと程良い甘さがアスナの好みにあっている。
「みんな、好き好んで幻想界に来たわけじゃないんだ。訳の分からないままこっちに来て、幾ら住み心地が良くてもあんな閉鎖された場所にいたんじゃなぁ」
  思い出す彼らの表情は一様に追いつめられた者たちのものだった。
「オレとあの人たちの違いは運が良かったか悪かったかだけだよ」
  アスナには自分を保護してくれる人たちがいて、その彼らに虚勢を張ることが出来たから不安に押し潰されずに済んだのだ。
  だが、あの村にいる人たちは違う。あの小さな世界に閉じこめられるだけ。恐らく情報もあの村で生活する為に必要なものしか与えられていないはずだ。不安は解消されず、蓄積させるには十分な環境だ。そこにこの状況を打破する突破口となりうる存在が姿を現せば、暴徒と化しても不思議ではない。LDが意図的に煽ったのだとしてもだ。
「それだけのことなんだよ」
「貴方はあのどうしようもない状況をひっくり返してエグゼリスの光を守ったじゃない。アレとは違う!」
  アスナの言葉を否定するエルトナージュに彼の胸は嬉しさで満たされた。
  ……エルはオレのやったこと認めてくれたんだ。
  それだけでこれまでやったことが報われたような気がした。この夜景を目にした時以上に嬉しかった。
「どこまでいってもオレは人間だよ。こればっかりはどうしようもないし」
「…………」
「やっぱり、人間が嫌い?」
「…………」
  返事はない。沈黙は肯定なのだろう。アスナは小さく吐息を漏らす。
「オレも人間だし、出来ることなら偏見もって欲しくないのが本音だけど、嫌いなものは嫌いだってのはしょうがないと思う」
  彼女がどうしても人間を肯定出来なくても仕方がない。彼なりにエルトナージュの人間嫌いをどうにか出来ないかと考えたが、その場にいなかったアスナに何か出来るようなことではないと思うようになった。
「貴方とは一応協力関係になったんだし……」
  続けて何かを言おうとするが、彼女は口の中で押し止めてしまう。
「無理に自分の気持ちを抑え込まなくても良いから。それよりもオレはエルが今日まで頑張ってきたことを認めてくれたことの方が嬉しい」
「えっ、あぅ、その……」
  薄明かりでも分かるほどに彼女の頬が赤いのは酔いが回ったからなのか、それとも……。
  エルトナージュは幾らか目を泳がした後、気を取り直すように小さく咳払いをすると話の軌道を変えた。
「そういえば、幻想界を統一したら何がしたいのか聞いていませんでしたね」
  幻想界統一を目指す彼女は己の征服欲を満たすためにあんな大言壮語を口にしている訳ではない。あくまでも彼女にとって幻想界統一は目的のための手段でしかないのだ。
  そして、それはアスナも同じだ。
「統一した後のことなんか考えてなかったかも。エルに認められるようにとか、みんなの期待を裏切らないようにとか、エルの味方になるんだとかそんなことばっかり考えてたみたい」
  いくら忙しかったとは言え大切なことを放っていた自分に苦笑してしまう。
「時間はあるんだし、ゆっくりと見付けるよ。ヴィトナーみたいに面白可笑しいことは思いつけないだろうけどさ」
「頑張って、見付けて。……けど、その前に一区切り付けないとね」
  と、不意に彼女は立ち上がり、アスナのすぐ側に来た。彼女は少しだけ気合いを入れるように深めに息をした。
「エル、どうし……あっ」
  どうしたんだ、と続かなかった。彼女の手がそっとアスナの頭に触れたのだ。
「アスナは本当に頑張ってくれた」
  優しく撫でるエルトナージュの手はとても優しい。
  どうしようもなく照れくさいが決して嫌な気分ではない。
  ……そういや、頭を撫でられるのって凄い久しぶりだ。
  抑えられない頬の紅潮を彼女の目から隠すためにアスナは俯く。
「内乱を最良の形で収められたのも、ラインボルトが少しずつ復興に向かっているのもアスナが頑張ってくれたから」
  彼女はアスナの頭から手を離すと、彼と視線を合わせた。エルトナージュも照れくさいのかアスナと同じように赤くなっている。
「ありがとう」
  そして、彼女はアスナの頬にそっと唇で触れた。
  小さな湿った音を残してエルトナージュは何でもないような顔で対面の席に腰を戻した。
「…………」
  思ってもなかった展開に何を口にして良いのか分からずアスナは口をパクパクとさせるばかり。そんな彼にエルトナージュは恥ずかしさを押し隠すように、
「今日まで頑張った恩賞よ。アスナだけの特別なんだから」
「…………」
  相変わらず言葉の出ないアスナに不安になったのかエルトナージュは窺うような上目遣いになる。
「迷惑、だった?」
「ぜ、絶対にそんなことないから。その、なんていうか、……うわぁ」
  恥ずかしすぎてまともにエルトナージュの顔が見られないのか右手で顔を隠してしまう。耳まで赤くなってしまっているのが羞恥に拍車をかける。
「ふふふ、はははははっ」
  そんなあからさまに照れるアスナの態度がおかしいのか彼女は声を上げて笑った。
  なんだよ、とアスナは睨んでやるが薄明かりでもはっきりと分かるほどに赤い顔では迫力もなにもない。それが彼女の琴線に触れたのか笑い声はさらに大きくなる。
  やがて、それに引っ張られるようにアスナも笑った。
  翌日、羽目を外しすぎたせいか頭痛に悩む二人の姿を見ることが出来たのであった。



《目次》