きょうもラインボルト!
第五回 はと馬車な一日
風がそよいでいる。庭園の各所に植えられた木々が涼やかに囁いている。
降り注ぐ日差しが草木の緑を優しく演出している。
木々の枝で羽を休めている小鳥たちがお礼にと謳うように囀っている。
緩やかに流れる風に誘われて小さな池と小川が揺らぎ、光り輝いている。
安穏と出来る環境そのものだ。朝の心地の良い冷気と相まって、このままうたた寝すればとても心地良いだろう。
庭園はちょっとした散策が出来るほどの広さを持っている。草木の影から小動物が顔を見せることもあった。
この安楽の地を自儘に享受できる者は少ない。魔王とその縁者、そして特別の許しを得た者だけだ。
休日の朝。アスナは予定を調整させて非番にさせたヴァイアス、ミュリカ、サイナをこの庭園に誘った。王族であり、アスナの隣にいることを約束されたエルトナージュも一緒にいるのは当然である。
それぞれ思い思いに休日の一時を過ごしている。
エルトナージュはサイナを相手にチェスをしている。彼女曰く、サイナは地味に強い。定石から外れないが油断をするとすぐに足下を掬われるそうだ。
あの時以来、エルトナージュとサイナはこのような場を持つようになった。遊びであったり、武技であったり、菓子作りであったりと対決する種目の幅は広い。
特に二人が対立しているという訳ではない。お互いを良く知るための手段としてこういったことをしているのだ。最近、エルトナージュがサイナとばかり仲良くしているためミュリカが拗ねて少しばかり大変なことになったがそれは別のお話。
そのミュリカは二人の対局に時折、茶々を入れながら見物している。
一方のアスナとヴァイアスは木陰に寝転がってLDの宿題と格闘していた。宿題というよりも知的遊戯と表現した方がより正確だ。
例えば、簡単に箇条書きされた情報を元にして状況を打破するにはどうすれば良いのかとか、地図上に描かれた敵の防御線を突破するにはどうすれば良いかなどである。
アスナが何か動きを見せれば、解答と全情報を持っているヴァイアスが新たに情報を与えたり、奪ったりしながら進める遊びだ。
もちろん、これらで現実に対処することは出来ない。だが、実際にあった出来事を題材にしているため教材としては十分だ。何より楽しめるのでアスナにはありがたい。
だが、今日はどうにも集中できない。
ここ数日忙しかったためか、どうにも頭が集中することを拒絶している。
「ああぁ〜、もうなんかダメだ!」
「……だから、止めとけって言ったんだ」
腑抜けた叫び声を上げてアスナは崩れるようにして寝転がった。ヴァイアスの声に返事をする気力も湧いてこない。彼もアスナが忙しかったことを知っている。
女性陣もヴァイアスと同じようにやれやれと首を振っている。
「…………」
良い天気である。小さな鳥が戯れるように飛んでいる。ゆっくりと雲は流れ、風が頬を撫でていく。芝が少しくすぐったい。
このまま寝たら気持ち良いだろうなぁ。そう思う。
しかし、妙なところで根が貧乏性なアスナである。一日寝て過ごすにはもったいない。
「…………」
視界の中で踊っていた小鳥が仲間と一緒に外へと飛んでいく。向かう先は街の方だ。
そういや街に遊びに行ったのってあの時一回っきりだっけ。
「これからみんなで遊びに行こうか」
皆の視線がアスナに集まる。それを受けて起きあがり順番にそれぞれの顔を見る。
「だって、みんな揃って遊びに行くなんてしたことないだろ。せっかく、全員お休みなんだしさ。遊びに行かない手はないでしょう」
「せっかくって、強引に休みにさせたのはお前だろうが」
と、ヴァイアスはげんなりと突っ込む。だが、微妙にそこは墓穴である。
「休みになったひゃっほ〜いとか言ってたのはどこの誰だっけ? しかも、休みが欲しい〜とか言ってたのはど〜このだ〜れだったっけかなぁ?」
「う゛っ……」
固まって口笛を吹き出した友を放置してアスナは女性陣に顔を向けた。
「んで、どうかな?」
「自分の立場を分かっているんですか。暗殺経験者さん?」
と、エルトナージュは言った。アスナはラインボルト史上五本の指に入る暗殺未遂経験者だ。何か変わったことをすればまたどんなことに巻き込まれるか分かったものではない。
「もちろん。近衛が三人。人魔の規格外が二人もいるんだぞ。軍勢が襲いかかってきても向かうところ敵なしだよ」
それは冗談として、と続ける。
「万が一何かあってもみんなでオレのこと守ってくれるんだろ?」
無条件の信頼を込めた笑みを全員に見せる。
「もちろんです、アスナ様」
嬉しそうにサイナは頷く。
「まっ、友だちだからな」
とはヴァイアスである。ミュリカも同じように頷いている。
エルトナージュは少し顔を赤くして固まっている。
「エルは? エルは何かあったときオレを守ってくれる?」
「あ、当たり前のことを聞かなくても良いんです!」
その返答にアスナは笑み崩れる。
「よし。決まり! 準備が終わったらもう一度ここに集合。悪いんだけどミュリカ、エルを普通の服に着替えさせて。さすがにそれで街には行けないしさ」
いつもの通りにドレス姿である。彼女に似合っているが街の中では浮きすぎる。
「はい。それじゃ、行きましょうか、エル様」
「ま、またあれに着替えるの!?」
あれとは鉄板会議で着た服のことだろう。
「可愛いから良いじゃないですか。アスナ様も誉めてらしたじゃないですか」
「それはそうだけど……」
と、赤くなるエルトナージュには聞こえないようにミュリカがボソッと「それにエル様衣装持ちじゃないんですから」と呟いた。
「はいはい。行きますよ〜。それじゃ、アスナ様、後ほど」
手を振りながらエルトナージュの私室へと向かう二人を見送る。
「サイナさんは着替えなくても良いの?」
黒のパンツに赤のTシャツ。そしてその上からYシャツという出で立ちだ。開かれた胸元に見える銀の鎖はエルトナージュから贈られたペンダントだろう。
見事なまでの麗人ぶりだ。このまま街に出たら騒がれるだろう。もっともサイナほどの美人ならばどのような服装であろうと変わらないだろうが。
「このままで構いません。持っている服もこれと似たような感じですし。ただ、途中で銀行に寄りたいのですが」
「分かった。それじゃまずは銀行に行こう。オレもちょっと興味あるし」
「ありがとうございます」
と、サイナは小さく会釈をした。このところ急速にサイナから不必要な固さが抜けてきているように思う。良いことだとアスナは嬉しかった。
「ヴァイアスは?」
「俺もこのままでいいよ。銀行に行くのも賛成。それよりもアスナ。お前の方は良いのか?」
「服はこのままで良いし。オレも問題無しだぞ」
「そうじゃなくて、財布の中身のことだ」
幻想界有数の金持ちではあるが、その殆どを自儘に出来ないのである。恐らく即位してもこの状況は変わらないだろう。王様稼業とは悲しいものである。
「う゛っ! ……そうだった。えっと、こういう場合に相談するのは誰が良いんだろう?」
「内府だな。先に執事長にも話を通しておいた方が良いな」
「分かった」
と、アスナはテーブルに置かれていた呼び出しのベルを振り、顔を出した執事にストラトに来るように申しつけた。
「お呼びと伺い参りました。何かありましたか、アスナ様」
と、一礼するストラトの姿勢はいつ見ても惚れ惚れするほどに美しい。
「うん。みんなで遊びに行くことにしたんですけど、お小遣いを用意して貰えないかなと思って」
「ご一緒されるのは姫様方とヴァイアス様でございますね」
寵姫入りした時点でサイナも準王族待遇を受けることになっている。
「金銭に関わることは私の管轄外にございますので内府様に伺って参ります。少々お時間を頂戴しても構わないでしょうか?」
もちろんです、とアスナは頷く。一礼してストラトが姿を消すのとほぼ同時に、
「さてっと、こっちも準備しておくか」
と、背伸びをしながらヴァイアスが言った。
「そのままで良いってさっき言ってなかったか?」
「バカ。徒手じゃ守れるもんも守れないだろ。それなりに武装しないと。サイナはどうする?」
「そうですね。私も念のために用意しておきます」
「そっか。幻想界って何だかんだで普通に武器が出回ってるもんな」
ラインボルトは幻想界でも有数の治安の良い国だ。しかし、街から離れると魔獣と遭遇する可能性が出てくる。大きな街にはかならず護衛を生業とする者たちがおり、商人や旅行者の守護を請け負っている。そういった職業の者が帯剣して街を歩いている姿はラインボルトではよく見かける光景だ。
「そういうことだ。それじゃ、後でな」
「後ほど」
と、二人が出ていった。庭園に残ったのはアスナ一人きり。
椅子に腰掛けてお茶を飲む。爽やかな風が流れていく。
なんだかんだで大変だな、と思う。ただ遊びに行くだけでちょっとした騒ぎである。私的なことでも護衛などで誰かが仕事として動くことになる。
そのことを煩わしく感じることもあるが、少しずつだが折り合いを付けられるようになってきた。奉仕されて当然の立場なのではなく、奉仕されねば成り立たない立場なのだと。
それにあれこれとすることが彼らの仕事なのだ。気を遣って何もしないと言うことは彼らから仕事を取り上げることになる、と最近思うようになっていた。
「お待たせしました。アスナ様」
程なくしてストラトが戻ってきた。内府オリザエールも一緒だ。
「失礼します、殿下。幾らか金子がお入り用だと伺いましたのでお持ちいたしました。ストラト殿」
「はい」
内府に促されてストラトはトレイに載せられた財布をアスナの前に捧げた。他に折り畳まれたメモ用紙もある。
「ありがとう、内府。ストラトさん。……って、なにこの分厚さ!?」
受け取った財布はかなりずっしりとしている。思わず確認するとかなり分厚い札束が収められている。アスナの人生で最も分厚い札束である。
「何かお入り用になった時にお使い下さい」
「ヴァイアスとサイナさんは財布持っていくっていうし、多分ミュリカもそうだろうし。こんなにはいらないと思うんだけど」
「念のためです。また、皆さまのお食事代などもそちらからお出しいただいて結構でございます」
どうしてもアスナに大金を持たせたいみたいだ。というよりも遊びに出かけた後継者にお金の心配をさせたくないのだろう。言うなれば王宮府としての面子でもある。
お小遣いとしては額が大きすぎるが、お金はあるに越したことはない。
「分かった。ありがたく使わせて貰うよ」
「はい。それと殿下。もし、荷物になるものを買われた時はこちらに郵送するよう店員にお申し付け下さい」
オリザエールはそう言ってトレイの上のメモ用紙を指し示した。それには住所が書かれている。
確かに王城に届けてくれと言われても店の方が困るだろう。金を使ったイタズラだと思われるかもしれないし、正体を隠すためにも使える。擬装するには便利だ。
「裏門前に馬車を用意させております。それをお使い下さい。他に何かご用命はありましょうか?」
「そうだな……。この前行った店にエルたちを連れていってあげたいから予約しておいてくれるかな。場所はデュランさんが知ってるから」
「晩餐でよろしいでしょうか?」
「うん。お願い」
「承知いたしました」
「ん。ありがとう、内府。ストラトさんも」
二人は「良き休日を」と一礼したのだった。
首都エグゼリスはラインボルト史の中で何度もその姿を変えてきた都市だ。
ラインボルトが建国される以前はファイラスを守備するための支城でしかなかった。小さな集落はあったが、それは城兵を相手に商売をする者たちが住まうだけで都市としては機能していなかった。
リージュが起こした独立戦争によってラインボルトは主権を獲得したことにより、エグゼリスは大きく変貌を始める。一国の首都として支配地域から人々が参集し、資本が投下され急速に都市へと成長を始めた。しかし当時、都市計画は存在せず住宅地や商業区といった区分は存在せず雑多な街であった。
無節操に膨張を続けるエグゼリスはやがて様々な問題を抱え込むようになった。官僚たちはそれら諸問題を誤魔化しながら運営していたがそれも限界に近づいていた。
そして、ついにエグゼリスは破綻してしまう。大火だ。
資料の証言によれば民家での火災が原因だという。住宅が密集していたこともあり、瞬く間に延焼していく。すぐさま消防が動いたが現場への道が入り組んでおり対応が遅れた。
消防だけではなく魔法の心得を持つ者も消火に携わったが勢いを止めることは出来ず、ラインボルト史に残る被害となった。
このことに恐怖した官僚たちは即座にエグゼリスの区画整理を改めることを上奏。当時の魔王も眼下で起きた大火に心を痛めてか簡単に裁可が降りる。
第一次防災都市計画の発動である。廃材は撤去、再利用され防災の観点からエグゼリスは生まれ変わることになる。その後、何度か時代の要請にしたがって手直しがなされる。
次に大きな変化が発生したのは拡大王ルーディスの死後のことである。
急拡大した国土、新たにエグゼリスへと流入する市民たちに対応するためにエグゼリスは再び変化せねばならなかった。新規国土の有力者を住まわせるための高級住宅地の整備、市民増加に伴う商業区画の拡大、必要品を制作する工房区の拡大などを主眼とした第二十三次都市計画だ。
実を言うとこの都市計画がラディウス独立への伏線となっている。ルーディスの遺志を受け継ごうとする軍の拡大派とお座なりになっていた内政に力を注ぐべきだとする文官たちの対立が原因であった。別の見方をするならば予算の取り合いである。
結果、当時の魔王は内政の充実を図ることを選択し、拡大派はルーディスの遺志を受け継ぐと自分たちこそが正統なるラインボルトであると独立を果たす。
この独立を積極的に鎮圧しなかった理由の一つも予算である。エグゼリスの再建設と新領土への投資のために予算を使い切ってしまっていたからだ。
ともあれ、このような経緯で生まれ変わった首都エグゼリスは幻想界有数の大都市へと成長を遂げる。現在のエグゼリスはこの時の計画を元にして手直しされたものだ。
今日もエグゼリスは様々なモノを飲み込んで胎動を続けている。
第二十三次都市計画の名残としてエグゼリスのほぼ中央には大きな広場がある。馬車と人が行き交い活気がある。この大広場を中心として広がる大通りを行けばそれぞれの区画の主要部に直通することが出来る。
アスナたちを乗せた馬車が止まったのも中央大広場だ。
先に降りたヴァイアスは周囲に不審がないことを確認すると、
「ほら、ミュリカ」
「ありがと」
と、差し出された手を取ってミュリカは降りた。あまりにも自然な対応で逆にアスナは「おおぉ」と小さく声を漏らした。そして、自分の女の子たちを見てみると、
「…………」
「…………」
一人はして欲しそうにそわそわし、もう一人は期待と困惑に目を泳がせている。
笑みが浮かんでしまう。これは期待に応えないとな。
アスナは軽快な足取りで降りると右手を差し出した。
「どうぞ、お姫様方」
一瞬、嬉しそうな顔をしたエルトナージュはすぐに周囲の視線にさらされることに気付き、澄ました顔を取り繕ってアスナの介添えを受ける。
往来を行き来していた者たちが小さな吐息を漏らす。少女然とした服装も相まって今日は特に可愛い。押さえ付けた分だけ紅潮した頬がさらに愛らしさを増している。
続くサイナは介添えなしに降りようとした。まだ寵姫であるよりも、騎士であることを優先しているのだ。照れの部分も多くあるのだろうが。
だが、それをアスナが許すはずがない。ここは戦場ではないのだ。
「サイナさんも」
「ですが、アスナ様。私などにそんな……」
「そう? だったら二度とやらないけど?」
「…………」
目が泳ぐ。一時の遠慮と照れくささで介添えしてもらう機会を失いたくはない、だけど……、とサイナは葛藤する。
「サイナさん」
「……はい」
再度、促されて彼女は頬を染めながらアスナの介添えで下車した。
御者に礼を述べて見送ると五人は乗合馬車の停留所に向かった。これから何処に行くにせよ乗合馬車を使った方が便利だ。
「あのような場合、変に躊躇する方が恥ずかしいのよ」
「はい。申し訳ありません」
「まぁまぁ。サイナさんは初めてだったんですし。ね?」
仲良きことは美しき哉。美人が三人並んで歩いている姿はとても絵になる。向かい側から歩いてくる男たちが呆けた表情で不躾な視線を向けている。
エルトナージュたちはそんな視線に意を介さない。何だかんだで見られることに馴れているのだ。エルトナージュはお姫様として、サイナとミュリカは近衛の団員として、式典で注目される立場にある。害がない限り、無いも同然だ。
衆目の嫉妬を一身に受ける男二人はこれからどうするか密談を始めていた。
「それでどこに行くんだ?」
「…………」
無言である。返答無しである。
「おい。まさかと思うけど何も考えてなかったんじゃないだろうな?」
「……あははっ」
「あはは、じゃないだろう。ったく、その変なところで起きる計画性の無さはどうにかならないのか」
「まぁ、それはそれとしてだ。馬車乗り場に行ったら案内板ぐらいあるだろ。それを見ながらどこに行きたいか決めよう」
しかし、ヴァイアスは「……はぁ」と盛大にため息を漏らした。
「あのな、アスナ。あの二人が遊ぶ場所のことなんか知ってると思うか?」
「う゛っ」
二人とはもちろんエルトナージュとサイナだ。お姫様育ちと英才缶詰教育の二人に遊ぶ場所を聞いても無意味だ。
「絶対に何処に行くかなんて考えてないぞ。全部お前任せに決まってる」
「ヴァイアスのお勧めで一つ」
「却下だ。あの二人を連れていくには下品すぎる」
普段、この男はどんなところに行っているんだ。思わずツッコミそうになったが今は眼前の問題にどう対処するかの方が問題だ。
かといってこの街のことを知らないアスナでは計画の立てようがない。
「なら買い物に行きませんか?」
いつの間にかヴァイアスの隣にミュリカが来ていた。
「さっきも少し話しましたけど、本当にエル様はこういう時の服を持ってないんです。こんな風に出かけるのなら良いかなと思うんですけど。どうですか?」
「さすが、ミュリカ! 今日の昼飯は是非とも驕らせてくれ」
「ありがとうございます。それじゃ、私のお勧めの店にご案内しますね」
本日の立て役者はミュリカに決定。
アスナはこっそりとデザートも追加することに決めた。
首都エグゼリスには大きく区分して三つの商業区が存在している。
第一商業区は大商家や中小企業の事務所が集中している。企業戦士たちの戦場であると同時にこの区画では高級品を扱っている店舗が並んでいる。
エグゼリスで最も多額の金が動くのがここなのだ。
対する第二商業区は一般向けの小売り店舗が並んでいる。エグゼリス市民が買い物に行こう、遊びに行こうといえばここを指す。服飾品や小物雑貨だけではなく小さな劇場もあったりする。余暇を楽しむには丁度いい場所だといえるだろう。
そして、三つ目が食材などを売る商店街だ。これは住宅街の中にあるため正確には区分分けされてはいない。
要約すれば商店街は平日に、第二商業区は休日に、第一商業区は特別な日に行くという棲み分けが出来ているのだ。
銀行に立ち寄ったアスナたちはその足で第二商業区の中を歩いていた。
大通りは賑やかで老若男女、様々な種族の人たちが行き交っている。
「平日なのにスゴイ人通りだな」
「私たちみたいに日曜日がお休みじゃない人も一杯いますからね。それに遠方からエグゼリス観光に来ている方も多いですよ」
ミュリカが向けた視線を追いかける途切れることのない人の流れに戸惑っているお登りさんの一団がいた。
「エグゼリスに来たっていう証になるようなものは無いですけど、ここでなら大抵の物が揃いますしね。それぞれの地方に無いものもここにはあります。ある意味、そういった物がお土産には丁度良いのかもしれません」
「買い物だけじゃなくてエグゼリスには名跡、旧跡も多いですよ。歴史的な事件や著名人の屋敷や郊外の離宮も一般に公開しています。エグゼリス各地に配置されたヴィトナーの悪戯を見て回るのも良いかもね。王城を見に来る人も多いそうですよ」
と、エルトナージュも説明する。
「やっぱり、そう言うところの近くには名跡にちなんだお菓子とかあるのか? ヴィトナーの悪戯クッキーとかさ」
「ふふふっ。ありますよ、アスナ様。その通りの名前のクッキーが。五個一組でその中の一つがとても美味しくないか、当たりを示す小さな陶器の板が入ってるんですよ」
と、楽しげにミュリカは言った。大きな身振り手振りで説明しているにも関わらず誰ともぶつからないのは流石、近衛騎団の団員である。
「他にも建物の模型とかコップとか名跡が描かれた旗なんかも売ってますよ」
「お約束だ。土産物屋の近くに寄ったら絶対に買って帰らないとな」
「エグゼリスに住んでいてエグゼリス土産を買うなんて、どういう皮肉ですか」
「けどさ、エルもそんなの買ったこと無いだろ?」
「それはそうですけど……」
何となく納得行かない様子だ。しかし、気持ちは分かる。
「ってことでエルには変なキーホルダーを買ってあげよう」
「いりません!」
「えぇ〜。これこそお土産の醍醐味なのに」
談笑するアスナたちから離れて一歩後ろで歩いているサイナにヴァイアスは歩調を合わせた。
「周りを警戒しすぎだぞ、サイナ。もっと気楽にいけ」
「ですが、団長。私は護衛も兼ねていますから」
「それは俺たち全員がそうだ。それにそんな怖い顔していたらあからさまにアスナが重要人物だって見えるぞ」
「……そんなに怖いですか?」
「真剣味たっぷりだ。戦場に立ってるみたいだぞ。そんな顔する必要はない。俺の方で何人か家令院の護衛と協力して警護に就くよう命じてあるし、軍師のところの怪しげな連中も動いているはずだ。お前一人で護衛しているんじゃないんだ」
そして、「もっと楽しめ。その方がアスナも喜ぶ」とヴァイアスは言った。
前を歩くエルトナージュとミュリカを見れば二人とも周囲の流れを良く把握している。正面から誰かが近づいてくれば分からないようにアスナを誘導し、または自分が盾になるように前に出ているのだ。それでいて楽しむことも忘れていない。
サイナは少し恥ずかしくなった。小さく深呼吸をすると肩に力を抜いた。
唐突に悪戯な笑みを浮かべながらアスナが振り返った。
「サイナさんには”根性”とか暑苦しいことが書いてある旗とか良いかも」
「はい。ありがとうございます。実家に持っていけば家宝として大切に残してくれるはずです」
サイナの実家でならば実際にそうしても不思議ではない。お笑いグッズでも家宝にしてしまうような真面目な家なのだ。
「いやいやいやいや。そこまで大切にしてくれなくて良いから!」
「そうはいきませんよ。アスナ様から下賜された物ですから家宝にするのは当然です」
「言われてみればそうですね。ということは微妙に可愛くないぬいぐるみと木剣が家宝になるのか。うわぁ、凄くびみょ〜」
本当に嫌そうな顔をミュリカは浮かべる。ちなみにぬいぐるみがミュリカへの物で木剣がヴァイアスへの物だ。
「むしろ俺たちの家で保存するよりも博物館に寄贈した方が良いんじゃないのか。”エグゼリス視察の折り、共をした者に買い与えたものである”みたいな注釈を入れて貰ってさ」
「分かった。悪かった。オレが悪かった」
「分かれば良いんです。買って帰るのならば菓子など食べられる物にしなさい。たくさん買っていけばストラトたちの土産にもなるでしょう」
「そうだな。みんなにも何か買っていってやらないと」
途中で土産物屋が見つからなければ、適当な菓子店で買えばいい。王城では味わえない雑な菓子を楽しめるかもしれない。
こんな感じで談笑しながらアスナたちはとある通りに向かった。
この通りはアスナたちの年代向けの服飾関係を取り扱っている店舗が並んでいる。平日ということもあり大通りほど人の姿はない。人目を集めずにすむので都合が良い。
「前々から気になってたんだけどさ。ラインボルトって人魔が多数を占めてるけど色んな種族がいるだろ。そういう種族の服ってどうなってるんだ?」
「それぞれの種族に合わせた服がしっかりとありますよ。獣人たちのように姿を変えられる種族の場合は出来るだけゆったりとした服が用意されています。けど、日常生活を送るだけなら姿を変える必要がありませんから問題ありません。違いが多い種族の場合は彼らに合わせた服を取り扱っている店があるんです。どの店も吊るしだけじゃなくて、注文も受け付けていますから」
今日は案内役に徹しているミュリカが説明してくれる。
「それに吊るしのものを買って自分に合わせて作り替えることもあるりますよ。どちらかと言えば作り替える方が主流です」
ミュリカの説明にサイナが注釈をいれてくれる。 この中で変化することが出来るのは彼女だけだ。十分以上に説得力がある。
「へぇ。サイナさんもそういうのを持ってるの?」
「はい。何着か合わせたものがあります。まだ、お見せしたことはありませんが」
見たことがないといえば彼女の変化した姿も見たことがない。人魚そのものであるのでその姿は今とは違った美しさを放っていることだろう。
「今度、その服を着たところを見せてよ」
「……はい」
照れくさそうにサイナは笑った。その時、水辺に連れていって変化したところも見せて貰おうとアスナは思った。
と、彼の視界の端で少し居心地悪そうにしているエルトナージュがいた。服は用意された物の中から気に入った物を着ていたため話題に入れないのだ。
露天で装飾品を売っている若い男がいた。どこも同じようなもんだなと思いつつ、
「エルも装飾品を作ってるけどあれって誰に習ったんだ?」
「えっ、あ、あれは独学です。入門書を参考にしたぐらい」
「そうなんだ。てっきり、どこかの有名な工房の職人に教えて貰ったんだと思ってた」
アスナは首に下げているペンダントを取り出した。蒼い宝石の中で複雑な光が踊っている。台座も精緻な細工が施されている。
ただ美しいだけでなくこのペンダントは魔具でもある。防御と光の魔導式が封じ込められている。
「誉めすぎよ。これぐらい少し習えば誰にだって出来るわ」
「そんなことありませんよ、エル様。これだけ精緻な魔具はそうはありません」
サイナも続いた。彼女が貰ったペンダントには水系の魔法を安定・強化させる魔導式が封じ込められている。これまでも同様の効果がある魔具を持っていたがエルトナージュ製のペンダントはそれよりも安定性がある。
宝石は魔導式を安定して封じ込めることが出来る。しかし、それが複数となると互いに干渉し合って効果が減少してしまう。減少率は使用する宝石が小さくなればなるほど大きくなる。ペンダントに使うような大きさの石で低減少率の魔具を作った彼女はどこかの著名な工房で修行をすれば十分に大成出来るだろう。
「戴いたこのペンダントを大切にします」
「……あ、ありがとう」
エルトナージュは顔を真っ赤にして俯いてしまった。最近、知ったことだがエルトナージュは公の場にいる時は何を言われても笑みを浮かべて流すことが出来るのだが、ただの個人にであるときは誉められたり、感謝されるとすぐに真っ赤になるのだ。
照れて何を言って良いのか分からなくなっているエルトナージュを見ながらアスナとサイナは楽しげに笑った。
店先に飾られる木製の簡素なマネキンに着せられている服は現生界のものとさほど変わりがないように見える。服飾の種類も多種多様だ。
内乱中、立ち寄った街の人たちが着ていた服はもっと質素だったように思える。明らかにこの通りに飾られている服とは異なっている。
「ここがエグゼリスだからですよ」
その疑問を口にしてみるとミュリカがそう教えてくれた。
「エグゼリスは幻想界で最も色々な種族が住んでいるんです。だから、彼らに合わせた服も作らないといけませんよね。種族ごとの服の特徴が影響しあってこれだけ色々なデザインの服があるんですよ。地方から服飾関係の職に憧れて勉強に来ている方も多いそうです」
「なるほどね。首都ならではってことか」
「はい。他にも色々な物産が集まるから料理にせよ、家具にせよ他とは違った物が見られますよ。けど、今日は服ですね。もうちょっと先ですよ」
ミュリカの先導で到着したのはかなり大きな店舗だった。客層はそこそこに広いのかアスナたちと同年代から親子連れまでと幅広い。だが、主となるのはアスナと同年代ぐらいのようだ。休日となったら客層も少し変わるのかもしれないが。平日でも客の入りは上々のようだ。
「それじゃ、行きましょうか」
ここから先は完全に女性陣が主役である。エルトナージュは物珍しそうに店を覗いて回っているし、サイナも楽しそうだ。二人の間でミュリカは笑っている。
もはや男二人は忠実な従者として荷物運びに徹している。
「はぁ。……やっぱり疲れる」
げんなりとヴァイアスが呟いた。肩が下がってかなりだらしがない。全身で疲れを表現している。
「そうか?」
「なんていうか場違いな場所にいるのがって、アスナは違うのかよ」
「別に。これぐらいどうってことないさ。昔からバアさんと妹のお供でこういうところに何度も来たことあるし」
アスナは透徹した笑みを見せた。達観ともいえるかも知れない。
「なんだったら女性用下着売場にも行ってやろうか」
「お前、まさか……。本当か?」
無言でこくりと頷いてみせる。嫌がるアスナを面白がって妹の美羽たちが強引に引っ張っていったのだ。たまに帰ってくる母親がこれに混ざるともはやどうすることも出来なくなる。まさしく、異世界そのものである。
「は、はははっ。……美羽、幾らなんでも黒はやめておけ」
「しっかりしろ、アスナ! 傷は……深いかもしれないが致命傷じゃない」
などと男二人でバカ話を花咲かせていると、
「そんなみっともない話なんかしてないでアスナも意見はないんですか?」
と、ちょっと拗ねたような口調でエルトナージュは言った。
「えっ、良いの?」
「あ、当たり前です。わたしはアスナのその……さ、サイナぁ」
「はい。女ならお慕いしている方の好まれる服で身を飾りたいと思うものですから」
あの一件以来、顔を赤らめながらも積極的にこういうことを口にするようになったサイナである。促したのはエルトナージュなのに今では逆転気味になっているのが可笑しい。
「……そっか」
アスナも赤面を隠すことが出来ない。嬉しいやら恥ずかしいやらで周囲から向けられる視線を気にする余裕もない。ただ嬉しさをそのままに笑って見せた。
「それじゃ、二人ともオレ好みに着飾ってもらおうか」
実をいうと二人に似合いそうな服を売っている店を見付けていたりする。普段の二人とは違った印象になることは間違いないとアスナは思っている。
「ちょっと前に良さそうなのを見かけたんだ。そこに行ってみよう」
そして、向かった先は大人しめの印象の服を扱っている店だ。清楚な印象の服を扱っているせいか客層も社会的地位の高い子女が多く見られた。だが、ただ清楚なだけではなく半歩ほど踏み出した服も飾られていた。
「まずはエル様からですね」
少しホッとしたような口調でサイナは言った。あのように言ったもののまだ少し心の準備が出来ていなかったのだ。しかし、アスナはそこでイタズラな笑みを浮かべて、
「まずはサイナさんから」
「ええぇ!?」
珍しい素っ頓狂な声に笑みはさらに濃くなる。
「私にはこういうのは似合いません! こういった服装はエル様にこそ相応しいと思います」
「オレもそう思うけどね。サイナさんにも似合うと思うんだ。まっ、試すと思ってさ」
アスナはそう言うと近くにいた店員に声をかけた。表のマネキンに着せている同じデザインの服で彼女に合う大きさのものを。それと……と、次々に指示を出していく。
「失礼いたします、お客様」
店員は巻き尺でサイナのサイズを手早く測っていく。居心地悪げだが、自分からアスナが選んだ服を着たいと言った以上、嫌とも言えず複雑な顔をしている。
「どうですか? サイナさんに合う大きさの物はありますか」
「はい。ございます。宜しければご試着されてみては如何ですか?」
「お願いします。……ほらほら、サイナさん」
サイナの変わりにアスナが返事をする。
「アスナ様、やはりこういうのは」
「良いから良いから」
そして、彼女の背中を押して試着室へと向かった。
その間に彼女の体型にあった服が用意され、同時にアスナが頼んでいた物が他店から持ち込まれる。こういった融通が利くのもここならではの光景である。
「アスナも随分と思い切ったことをしますね」
その思い切りの良さが自分にも向けられると背中に冷や汗が流れる。だが、サイナが自分に似合うものであるのならば、自分はサイナが普段着ている服になるだろうと想像が付く。口には出さないがあのような感じの服にも興味があったので良い機会だとも思っていたりもする。
「いつもの凛々しい感じの服も良いけど、清楚な感じの服も似合うと思うんだ。サイナさんは姿勢も歩き方も奇麗だから映えると思うよ。最近、格好いいだけじゃなくて可愛いところも出てきたからなおさらだな。まっ、ただ清楚なだけじゃないけどさ」
「サイナのことをよく見ているんですね」
「もちろん。大事なオレのお姫様だからな。エルと同じくらい見ているよ」
「えぁっ……」
頬に触れてそっと髪を掻き上げる。形のいい耳にイヤリングが飾られている。
「そのイヤリングよく似合ってる。これもエルのお手製?」
「うん。あれから時間が出来るようになったから少し作ってみたんです」
「そっか。この後に着てもらう服とも合うと思う。きっと今とは違う感じで可愛くなるよ」
「アスナが選んでくれた服を着て、そう思ってくれたら嬉しい」
「大丈夫。頭の中で十分に可愛いのは確認してるから。実際にエルが着たらもっと可愛いこと間違いなし」
「…………」
嬉しさに頬を染めて俯くエルトナージュは口を開くことが出来なくなった。そんな彼女が好きなアスナは満面の笑みを浮かべた。とても良い雰囲気の二人に周囲の客も店員も目を逸らしてしまう。それでも敢えて踏み込む者がいた。ミュリカだ。
「こほんっ。お二人で世界を作るのは嬉しいことなんですけど時と場所を選んで下さいね」
ヴァイアスに至っては居心地悪そうに天井からぶら下がる魔導珠製の明かりを眺めている。ミュリカが彼の首根っこを握っていなければ逃げ出していたかもしれない。
「ははははっ。まぁ、良いじゃない。今日は休日なんだし」
「休日も平日も関係ない時もありますよ」
「は、ははははっ」
事実なので笑って誤魔化すしかない。エルトナージュは赤面を濃くしている。
「まぁ、良いです。私もヴァイアスに服を選んで貰うことにしますから」
「おい、そんなこと一言も……」
「えぇ〜、良いじゃない。私だってヴァイアスに選んでもらった服が欲しいんだもの」
「……はぁ、分かったよ。変なの選んでも知らないからな」
どう足掻いてもミュリカのお願いには逆らえないヴァイアスなのである。
「へへへ。それじゃ、この通りを真っ直ぐ行った先に小さな広場がありますから、そこで集合ということで良いですか?」
「分かったけど、サイナさんの着替えを見てからでも良いんじゃないのか?」
「後のお楽しみにさせてもらいます。ヴァイアスのことだから選ぶのに時間がかかりそうですから」
「……確かにそうみたいだな」
どことなく死地に赴く戦士のような悲壮感が彼の背中にはあった。本当にこういうことが苦手なのだろう。
「それではサイナさんにも宜しく言っておいて下さい。ではでは〜」
ミュリカはそう言うと首根っこ掴んだままのヴァイアスを引っ張って行った。
そんなヴァイアスをアスナは最敬礼で見送るのであった。
「お連れ様のご試着が済みました」
「あっ、はい」
カーテンの向こうにいるサイナがどうなっているのか楽しみだ。エルトナージュも同じ気持ちなのか笑みを浮かべている。
「サイナさん」
「…………はい」
カーテンが開かれた。
「如何でしょうか?」
普段の自分との違いにサイナは戸惑いの表情を浮かべて所在なげだ。しかし、今の彼女にはその仕草すらもどこか似合っている。
ノースリーブのワイシャツにプリーツスカート、そして赤青白のストライプネクタイ。そして、すらりとした脚を覆うのは紺のオーバーニーソックスだ。
簡素だが、それ故にサイナの可愛さをとても良く引き立てていた。
「良い、ですね。よく似合ってますよ」
「ありがとうございます。……あの、アスナ様?」
「……あっ、ゴメン。ちょっと、見惚れてた。自画自賛になるけど、その服を勧めて正解だったよ。なんて言うのかな、可愛いだけじゃちょっと足りないんだ。えっと……」
「清楚でしょうか。初めて今のサイナを見ますけど、とても彼女らしいように見えます」
「だな。ホントに良く似合ってるよ」
「ですが、その両肩の痣が見えたままなのはちょっと」
痣とは海聖族が身体を変化させる際の基点となる青い痣のような箇所だ。普段、人目に見せるようなものではないので恥ずかしいのだろう。
普通の獣人や海聖族ならばそれほど気にしない。元々、現生界での袖無しの服は彼らの服が起源となっているからだ。しかし、サイナは陸(おか)で溺れる海聖族だから……。
「そんなことない。変じゃないし、オレは奇麗だと思うよ」
エルトナージュも頷きで同意する。
「ありがとうございます、アスナ様、エル様」
サイナは心から嬉しそうな笑顔を浮かべてお辞儀をした。揺れるネクタイやスカートの動きすら彼女の気持ちに応えているように見える。
「それじゃ、お姫様。お手をどうぞ」
「ですが、試着したまま歩き回るのは」
「着たままで良いよ。それを買っちゃおう。……大丈夫ですよね?」
「はい。問題ありません。お会計はこちらでお願いします。お召し物は袋に入れますのでそれをお持ち下さい」
別の店員が手際よくサイナが脱いだ服を畳んでいく。その手付きはとても丁寧だ。着替えただけで様変わりしたサイナにある種の敬意を持ったのかも知れない。それとも感謝か。
アスナは無駄に分厚い財布をとりだして会計を済ませた。サイナが自分でと言い出したが、「少しぐらい格好付けさせてよ」とアスナの財布から支払うことになった。
「ありがとうございます、アスナ様」
「ん。どういたしまして」
会計を済ませ、サイナが脱いだ服を受け取るとエルトナージュを見た。
「それじゃ、次はエルだな」
「うん。けど、あまり奇抜なのは選ばないで下さいよ」
「大丈夫。エルなら絶対に似合うから」
と、返事にならない返事をするとアスナは次の店へと向かった。
そして、エルトナージュは自分の念押しが全く意味を為さなかったことを思い知ることになる。
「…………」
「…………」
エルトナージュもサイナも絶句である。妖精のような無邪気さと悪魔的な耽美さが同居しているような曰く言い難い世界がそこに広がっていた。
ラインボルトの服飾業界は様々な種族の特徴が影響し合って出来ている。ある意味、この店に並ぶ服飾はその最高峰と言えるかも知れない。
一般に受け入れられるかどうかは別にしてだが。
「さて、サイナ。まだ見ていない店もありますし行きましょうか」
「……そ、そうですね」
自分には被害を受けないと分かっていても同意して一緒に回れ右をするサイナとともに一歩を踏み出そうとするが腕を掴まれてしまった。
「二人とも何処に行くのかな?」
「さすがにこういうのはちょっと。それにまだ見ていない店もありますし、ここよりも良さそうなのが」
「けど、服を選んで貰いたいって言い出したのはエルだぞ」
うっ、とエルトナージュは固まってしまう。現状を招いたのは間違いなく彼女だ。
「オレは別に良いよ。その代わり二度と買い物に付き合ってやらないから」
「そんな! そういうやり方は卑怯よ」
「卑怯で結構。オレはエルの可愛いところを見たいんだ」
「ううぅ……。そういう言い方も卑怯よ」
「お願いだからさ、着てみせてよ」
赤面し、俯く彼女が上目遣いでアスナを見た。こんな仕草を見せてくれるから着て貰いたくなるのだ。彼女はそのことをよく分かっていない。
「今回だけですからね。絶対に今日だけだから」
粘り勝ちである。アスナがエルトナージュに勝てないように、彼女もアスナには勝ちにくいのだ。
アスナは満足げに笑みを見せると彼女の手を握って店に入った。店員や客たちの視線を感じるが無視をする。客の方は決して好意的ではないが、店員の方はそうでもない。
こういったやり取りがされることは珍しくないのだろう。何か新しいことを始めると奇異の目で見られるのは当然のことだ。
「さて、どうするかなぁ」
すでに大雑把だが方針は決めている。後はそれに沿った服を揃えるだけだ。
アスナは何着か選び、組み合わせて最良となりそうなものを選んだ。店員の意見も取り入れて最終的に決定した。
「彼女こういう服は初めてだから着替えを手伝ってやってくれませんか?」
「承りました。さぁ、お客様。こちらへどうぞ」
「……はい」
促されるままにエルトナージュは店の奥へと連れて行かれる。店員に励ましの言葉をかけられても不安を背負う後ろ姿はあまりにも年相応で微笑ましい。
「アスナ様が選ばれた服はひょっとして」
「あっ、やっぱり分かったか。そうだよ。基本はサイナさんと同じ。だけど、毛色が違うって感じかな」
それにあのような服を着ていればエルトナージュが王族であると誰も思わないだろう。誰もが知っているエルトナージュ怜悧さと清楚さを兼ね備えるで美しい姫君であって、奔放さはないのだから。変装としては無難であろう。
「もっとも、エルがそのことに気付いているかは知らないけどね」
「それどころではないかもしれませんね」
そうだろうなぁ、と思いつつアスナはサイナを見た。
奇麗と可愛らしいとが同居し、ノースリーブのワイシャツが快活さを演出している。ストライプのタイが元気の良さを引き立てている。そして、初めて見るサイナのスカート姿。
彼女の全てがアスナにとって、とても好ましい。
「その服、着てみてどう?」
「着慣れていないのでまだ少し緊張しています。上手く言葉に出来ませんが少し身体が軽くなったような気がします。浮かれているだけなのかもしれませんけど」
「贈り物をして浮かれてくれるほど嬉しいことはないと思うな」
「では、もう少し浮かれていることにします」
二人が自分の好みに合わせているのか、それとも自分が彼女たちを好みと思うようになったのか分からないし、どちらでも良い。ただ二人のことが好きだということだけは確かなことだった。それが実感できれば十分だ。
着替えが済むまでの間、浮かれたサイナと談笑していると不意に袖を引っ張られた。
振り返るとそこには良く知った、だけど見知らぬ女の子がいた。
襟付きのキャミソールトップに臙脂色に黒十字の柄をあしらったネクタイが絞められ、首もとのダブルチェーンのクロスネックレスが黒と赤に銀光をあしらっている。肩にかかった翠の髪が黒地のキャミソールとの対比となって普段よりも輝いて見える。
タイと同色のギンガムチェックベルトスカートとガーターベルトが黒いニーソックスを吊っている。左手にはアームウォーマー、右手はフィンガーレスロンググローブだ。
全体的に黒と赤。小悪魔的な印象なのにどこか清純さも感じる。
不安と挑戦的な輝きを宿した黄玉の瞳がアスナに向けられていた。
「エル?」
「うん。……ど、どう? あちらの方はよく似合うと仰ってくれたけど、アスナはどう思う?」
「……あぁ、うん」
上手く言葉に出来ない。ただ可愛いでは全然足りない。格好いいでも足りない。言葉なんて放棄して気持ちだけを伝えられたらどんなに楽だろうかと思うほどに今のエルトナージュは素敵だった。
「アスナ?」
「ご、ゴメン。ちょっと、いや、かなりか。エルに見惚れてた」
改めて確かめるようにアスナは頷く。
「よく似合ってる。オレが想像してたよりもずっと。うん、言葉にするのが無粋なぐらいに可愛い」
「あ、ありがとう」
「オレの方こそ着てくれてありがとう」
そうなんだ、よかったと、はにかみながらエルトナージュは呟いた。
……あっ、今の仕草はマズいかも。と、思う頃には手遅れだった。
サイナの時とは違った胸の高鳴りに後押しされるようにアスナはエルトナージュを抱き締めた。自分の中で沸き上がるどうしようもない衝動を彼女に伝えるように。
「あ、アスナ!?」
「本当に可愛い。ちょっとだけこのままで」
「……うん」
されるがままの彼女の匂いや体温、息遣いや胸の鼓動に衝動は強くなるばかりだ。沸き上がる想いのままにアスナは唇で彼女の頬に触れた。
「あっ……」
それでも胸の奥の想いを表現しきれない。アスナは彼女の頬に手を当てて、心持ち顔を上に向かせた。そして、ゆっくりと顔を近づけていく。
あまりにも唐突過ぎる展開でもエルトナージュはしっかりと目を閉じて受け入れようとする。艶やかに濡れる唇に触れ……。
「イダダダダダ!」
触れ合う前に思いっきり右の耳を引っ張られた。
「お二人とも場所を弁えて下さい」
「分かったから、イタイから!」
「では、すぐに離れて下さい」
名残惜しい気持ちを一杯にアスナはエルトナージュから離れた。サイナが耳を摘んだまま引き剥がしたとも表現できるが。
「ったぁ〜。何もあんなに強く引っ張らなくても良いのに」
「申し訳ありません。つい、腹立たしい思いが沸々と沸き上がったもので」
「つい、ねぇ」
「はい、ついです」
明らかに拗ねている。当然だ。自分の時とはあからさまに態度が違うのだから。
「アスナ様はお会計を、エル様は脱いだ服を受け取ってきて下さい」
「わたしもこのままなの!?」
「もちろんです。別人かと思うほどに良くお似合いですよ」
「ありがとう。……その、怒っていないの?」
「もう、怒っていませんよ。後はアスナ様に償って貰うだけです」
これが二人の取り決めであった。何か問題があったら、それはアスナの責任にすると。そして、お互いに向ける時は試合であり、遊びで決着を付けることが決められていた。
それを口にしたことはないがいつの間にか二人の間で決まった約束だ。
「結局、オレが悪いんですね」
会計を済ませながらポツリと呟くアスナなのであった。
両手に花というのも大変である。
中央の広場は待ち合わせ兼休憩所として使われている。
幾つか椅子や卓が用意されている。屋台風の店で飲み物や菓子を買って一休みといった具合だ。その例に漏れずにアスナたちもここで一服していた。
エルトナージュとサイナの前には焼き菓子があり、アスナにはない。お仕置きである。
あの後、何軒か冷やかしをし、エルトナージュの希望で装飾品店を覗いた。その際に次に何を作ろうかという話となり、サイナはペンダントを、アスナは懐中時計を頼んだ。
もちろん、エルトナージュに時計職人としての技能はない。彼女が手を加えるのは蓋の部分の装飾のことだ。その為の素材を全て揃えると結構なお値段になった。
アスナは背中に汗をかきながら、こっそりと分厚い財布を用意してくれたオリザエールに心から感謝をしたのだった。
「お待たせしました〜」
かけられた声の方向に顔を向けるとそこには男装のミュリカがいた。
ソフトレザーのライダースーツにレザーチョーカー、下はマニッシュパンツという装いだ。どうみても男物なのだが、ミュリカの愛らしさのせいか、それとも大きめの帽子――キャスケットのせいか、どう贔屓目に見ても可愛さしかない。
男装が逆に彼女の容貌を際だたせていた。ある意味、正解の装いだが別の視点から見れば敗北の象徴とも言えるかも知れない。
「…………」
げんなりと両手一杯に荷物を抱えたヴァイアスが言葉もなくアスナの隣に座った。その有様が全てを物語っている。女の子向けの服を選べなかった男の姿がここにある。
アスナは黙ってヴァイアスの肩を叩き、あらかじめ買っていたジュースを彼の前に差し出し、無言で彼の戦いを讃えたのであった。
そんな男たちの言葉なき語らいを余所に女性陣は元気である。
「お二人とも良くお似合いですよ。サイナさんが可憐な感じで攻められたから、エル様は普段サイナさんが着ているような感じになるかなって予想していましたけど、思いっきりハズレでしたね。これだったらエル様と似た傾向になるかなぁと思ったんですけど」
「わたしも驚いたわよ。まさかこんな服を着せられるなんて思わなかった」
「そうですね。おかげでアスナ様が少し壊れてしまいましたし」
と、笑いながらサイナは言った。からかわれたエルトナージュは赤面して身を乗り出す。
「サイナ!」
「何があったんですか? 普段からアスナ様、微妙に変ですけど壊れるって珍しい」
酷い言いぐさである。しかし、反論の仕様も無いのも事実だ。
それにしても、とアスナは思った。
それぞれ違った個性の服飾を着こなした三人が談笑している姿はとても華やかだ。すぐ側でその様子を見ているだけでも浮き立つ気分になってくる。
だが、そうであるだけに周囲から注目されていた。
あんまり長居しない方が良いか。アスナはちらりと周囲を見るとそう判断した。
三人に声をかけたそうに遠巻きから見ている男たちが見えた。せっかく、遊びに来て妙なのに絡まれても面白くない。何より自分たちの正体を勘繰られて騒ぎにもしたくない。
ある意味、アスナの自業自得ではあるのだが。
アスナはわざとらしく懐中時計を取り出して、時間を確認する。
「もうじき昼だし、そろそろ行こうか。早くしないと順番待ちで並ぶ羽目になる」
「あっ、でしたら私のお薦めの店があるんですけど、そこに行きませんか?」
本日二度目の同じ台詞。今日の午前中は完全にミュリカにお任せだ。
「オレはそれで良いよ。みんなは?」
三人ともそれぞれ同意を口にする。ヴァイアスだけは気持ちの疲れが抜け切れていないような返事であったが。
「そのお薦めの店ってどんなところなの?」
「それはついてのお楽しみですよ。ちょっとした遠出です」
エルトナージュの問いかけに笑顔で答えるミュリカであった。キャスケットの鍔を人差し指で持ち上げる仕草はとても可愛かった。
一瞬、ヴァイアスが溶け崩れたようなだらしない顔を浮かべたが友として見なかったことにするアスナなのであった。
首都エグゼリスの北東部に大きな公園がある。
人工的に造成されたため公園内の植物相の幅はそれほど広くない。だが、長い年月を経たことで公園は自然の趣を見せている。里山の感覚に近いだろう。人の手が入らなければ維持できないが、手を惜しまなければいつまでも穏やかな緑をエグゼリスの住民たちに提供し続けることが出来る。それだけに平日でも一時の憩いを求めて人々が集まっている。
芝生の広場に行けば球技を楽しむ者や午睡を楽しむものなどを見ることが出来る。子どもを連れた奥様の一団がござを敷いて談笑している。その様は長閑そのものである。
公園はエグゼリスを流れる川に面している。朱の光を受けてキラキラと輝く川に寄り添うように大きめの池もあった。そこでは船遊びをしている者もいる。
アスナたちは川辺に設えられた椅子と丸いテーブルに陣取っていた。昼食はこれからだ。
「お薦めの店って言うからミュリカの隠れ家みたいな所に連れていってくれると思ったんだけど、まさか公園で弁当とはなぁ」
「そんな感じのお店も知ってますけど、今日は趣を変えてみました」
言いながらミュリカは持っていた大きめのバスケットをテーブルの上に置いた。中から次々と弁当が出てくる。殆どが木箱に収められている。
弁当といっても個別に弁当箱が用意されている訳ではない。もう少しお洒落だ。
ミュリカは中央に大きめの皿を置き、木箱の中に収められたサンドイッチを奇麗に盛りつけていく。
アスナもそれを手伝っておかずになる唐揚げやサラダなどなどを別のさらに盛りつけている。当然、ヴァイアスもお手伝いである。彼はもう一つのバスケットからカボチャ型の陶器を取り出した。中身はコーンポタージュだ。それをカップに注いでいく。
サイナは皿やフォークの配膳、水筒からお茶を注いでいる。
そして、エルトナージュは自分も何かをしようとしたがすでに仕事はなく両手を忙しげにおたおたさせるだけであった。
ちなみに食器類も弁当の値段の中に含まれている。後で食器を店に返却すればその分のお金が戻ってくるという仕組みだ。常連になると自分で食器を持参してくるのだそうだ。
「準備完了です。さっ、いただきましょう」
ミュリカのお許しを得た四人はそれぞれにいただきますをすると昼食を始めた。アスナは取りあえず卵のサンドイッチに手を伸ばす。卵サンドは基本中の基本である。何より幻想界に来てから口にしていないので少し懐かしい。
「へぇ……美味いな」
懐かしさを無視しても本当に美味しい。マヨネーズの酸味も卵の潰し具合も程良い。
そういえば弟の雪人が作るといつも殻が混ざっていたっけ。
「初めて食べましたけど、本当に美味しい」
と、サイナも同意する。初めての食べ方に少し驚いているような表情だ。
「サイナさんは卵サンド初めてだったんだ」
「えぇ。サンドイッチといえば、いつもは野菜や肉を挟んだ物でしたから。こういったものは本当に初めてです」
弁当に買ったサンドイッチも卵サンドにサラダサンド、ポテトサンドとあまり色とりどりといった感じではない。これはこれで十分なのだがもう少し色々と食べたくなる。
「ミュリカ、幻想界のサンドイッチの種類ってこれだけ?」
「はい。基本的にこれだけです。あとは炙った干し肉を挟んだ物ぐらいだと思いますよ」
「そっか。ってことはこの前エルとLDと付け髭たちと食べたカツサンドは幻想界じゃ珍しいものだったんだな」
あの時、カツサンドその他を作るアスナを珍しげに見ていたのは後継者が厨房に立つことだけではなくて、見知らぬ料理を作っているからだったのかもしれない。
「だったら、機会を見てラインボルトにサンドイッチ革命を起こしてみるか」
「また怪しげなことを考えている。なにをするつもりなの、アスナ?」
と窘めるような口調のエルトナージュにアスナはイタズラな笑みを浮かべて、
「まだ内緒。お楽しみは次の機会だよ」
カツサンドやコロッケサンドなどの揚げ物系やジャムサンドやフルーツサンドのようなデザート系を広めてみるつもりなのだ。煮込みハンバーグを挟んでみるのも良いかも知れない。醤油があれば照り焼きソース仕立てにできるのだが。初体験のサンドイッチにエルトナージュたちはきっと喜んでくれるはずだ。それを想像すると凄く楽しい。
晴天の下での昼食は食も進めば会話も進む。買い物中、口数の少なかったヴァイアスがこれまでを取り戻すかのように話した。
訓練中にあったおマヌケな話や内乱中にアスナがしでかしたアレコレの話などをした。もちろん、アスナも暴露される一方ではなくしっかりと最後には逆襲をしてヴァイアスはミュリカから折檻を受けることになったのだが。
話が進む間に皿の上から料理は消えてしまった。結構な量があったが、アッという間だ。考えてみれば軍人が三人もいるのだから、これぐらい普通なのかもしれない。
「んふふ〜。それじゃ、食後のお楽しみですよ〜」
心から楽しそうな笑顔を浮かべながらミュリカはもう一つのバスケットを取り出した。中には氷で冷やされた陶器があった。ミュリカは陶器の冷たさを嬉しそうに取り出した。
「開けますよ」
蓋を開けるとそこには白い氷菓子。アイスクリームだ。
「ミュリカ、これは?」
サイナが物珍しそうに陶器の中を覗き込んでいる。
「初めて見る物ですね」
「アイスクリームっていう氷菓子です。甘くて、冷たくて美味しいですよ」
サイナに頼んでスプーンを濡らすのは幻想界ならではの光景だろう。
「今日、外出するって決まった時、是非ともサイナさんに食べて貰おうって思ってたんですよ。私たちは前にアスナ様の招待での会食で戴いたことがあるから」
嬉々としながらミュリカは皆に取り分けていく。女性陣三人が少し多めなのはご愛敬である。ミュリカお薦めのお菓子に目を輝かせる二人とはまた違った意味でアスナも喜色を表していた。
幻想界にもアイスがあるのだ。何気ないことだが、それでも気持ちは浮き立ってしまう。
「うん、……美味い」
素朴だが、濃厚な牛乳の甘みが口一杯に広がる。昔、家族旅行で北海道へ行った時に食べたものよりも美味しいかも知れない。何となく嬉しくて泣けてきそうだ。二つの世界の共通点がまた一つ見つかった。
「本当に美味しい。こんなものが出来てたんですね」
「ですよね、ですよね」
サイナも同じ気持ちになってくれたのが、余程嬉しいのかミュリカは少し興奮気味だ。
「お風呂上がりに食べられるよう厨房長に作っておくよう頼んでおこうかしら」
と、楽しげにエルトナージュは言った。前にアスナが作った時も嬉しそうに食べていたことを思い出した。もっともあの時はまだ鉄面皮が強かったが。
「残念ながら、それは無理だと思いますよ」
「どうして?」
「アイスクリームが売られ始めたのって実は最近のことなんです。だから、まだ誰も作り方を知らないんです。私も牛乳と砂糖を買って色々試して見たんですけど、こういう感じにはならないんですよ。きっと何か秘密の製法があるんだと思います」
「……そう、残念ね。王城でも食べられるようになれれば楽しいと思うのに」
心底残念そうにエルトナージュは呟いた。とても気に入ったのかすでに半分以上食べてしまっている。
「そんなに気に入ったんだ」
と、アスナが尋ねると彼女はコクンと頷いた。その仕草が小さな子どもっぽくて可愛い。
「だったら、今度作ろうか?」
「えぇぇぇぇぇ〜っ!! 本当にアスナ様作れるんですか!?」
「いやいやいやいや。何か勘違いしてないか? 前の鉄板会議の時に食べたアイスはオレが作ったヤツだし」
「あれってあの店で買ったものじゃなかったんですか?」
「あのさ、ミュリカ。オレが街に遊びに来たのは今日で二回目だぞ。幻想界でもアイスが作られてるなんて今日初めて知ったんだから」
「言われてみれば確かにそうですね」
鉄板会議の準備をしているときは菓子職人に教えるなんてことを考えていなかったから、次の機会に教えておけば食べたいときに食べられるようにしてくれるはずだ。
「では、これからは王城でも食べられるようになるのね」
目を輝かせながらエルトナージュは言った。よっぽど気に入ったようだ。人前に出るときに被っている鉄面皮の下にこんな可愛い女の子がいるだなんて誰が思うだろう。
「もちろん。今度、王城の菓子職人に作り方を教えておくよ」
あの時、何人か覗き込んでいたからすでに試作品ぐらいは出来ているかも知れない。その時はマーブルチョコを教えてみるのも良いかも知れない。
「今度はサイナさんを交えて手料理を振る舞わないとね」
「はい。期待しています」
「おう。お任せあれだ」
嬉々としてそういうアスナにエルトナージュがからかうように、
「たまに思いますけど現生界で学生だったっていうのは嘘でしょう。料理人見習いだったんじゃないですか?」
「まさか。オレはどこにでもいる次の魔王さまだよ」
「いや、どこにでもいないだろう」
と、ヴァイアスに突っ込まれながらアスナは少し溶けかかったアイスクリームを口にしたのだった。その甘さは今の時間にとても相応しいように思えた。
昼食を終え人心地つくと心地の良い静けさが降りてくる。
遠くから聞こえてくる楽しげな声。煌めくような木々の囁き声。そして、近くの池から聞こえてくる小さな波の音。穏やかな時が流れている。先日までの慌ただしさが嘘のように感じられる。
「なんかこのまま昼寝とかしたら気持ちが良いだろうなぁ」
暖かな陽の光と時折頬を撫でる緩やかな風を感じながら木陰で眠るのは幸せだろう。
「ならこれから少しここで休んでいく?」
と、エルトナージュは言った。彼女もこの雰囲気を心地よく感じているのだろう。
「う〜ん、そうだなぁ……」
「俺たちのことは気にしないでも良いんだぞ。ここでのんびりするのも悪くないし。どうせ、予定なんて初めからないんだし」
そういってヴァイアスは大きく背伸びをした。
「それはそれで魅力的なんだけど折角の休みに昼寝するのも勿体ないと思うんだよな」
アスナはちらりとサイナを見た。彼女は真っ直ぐに正面の池を眺めている。水面は陽の光を受けて金色に輝いているように見える。
その池の上にはボートが浮かんでいる。家族連れもいれば、恋人同士で乗っている者もいる。
「サイナさん、ボートに乗ってみる?」
「へっ?! 私は別にそんなことは……」
「恋人同士でボートって定番だし、サイナさんが乗りたいんならご一緒するよ」
ヴァイアスが言った通り初めから予定はないのだ。ここで彼女と一緒に船遊びをするのも悪くはない。むしろ、そういったことをした方が楽しくて良い。
今日は普段と違う服装ということもあって縮こまって赤面するサイナはとても魅力的だ。
「ん、それじゃ」
アスナは立ち上がると彼女の手を握った。少しだけ胸が高鳴る。
「一緒にボートに乗ろう。話している間にオレも乗りたくなったし」
「ですが、アスナ様」
「良いから、良いから」
半ば強引に彼女を立たせると乗り場へと歩き出した。アスナは歩みを止めることなくエルトナージュの方を振り返ると彼女に向けて左手を差し出した。
「ほら、エルも行こう」
「良いの?」
伺うようにエルトナージュはアスナとサイナを見た。サイナが小さく頷いた。
「何を遠慮してるかなぁ。エルはオレの何?」
「……こ、恋人」
赤面したエルトナージュは固定の椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がると差し出されたアスナの手を握った。三人は照れくさそうに笑いあうと今度こそボート乗り場へと向かった。
「なんて言うか見ているこっちが恥ずかしくなるような光景だな」
「サイナさんもそうだけど、エル様があんな風になっちゃうなんて予想しなかったな」
「だよなぁ。幼なじみやってる俺たちが出来ないことをあっさりとアスナがやっちまったし。まったく我らが主は大器の持ち主だよ」
「あっさりなんて言ったらアスナ様が可哀想よ。どれもこれも命懸けで厄介なことの連続なんだし。それが今も進行中」
しかし、彼女の口調にはアスナを哀れむような色はない。むしろ、誇らしげに聞こえる。
「……なんか嬉しそうだな」
「もちろん。自分の目に狂いがなかったんだもの。嬉しくないはずないじゃない」
ミュリカが幻想界で初めて心からアスナに賭けた女なのだ。もしかしたら、ヴァイアスよりも大切に思っているエルトナージュをアスナに託そうとした。
そして、ミュリカは賭けに勝った。それで何か得するようなことがミュリカになくても別に良いのだ。ミュリカは凄まじく高い倍率の賭けに勝ったことは間違いないのだから。自分の目に狂いがなかった。それを誇らしく思わない方が嘘だ。
「ヴァイアスも同じ気分じゃない? アスナ様に剣と右腕を捧げたんだもの」
「……ま、な。アイツがこっちに来てから色々と面白いことになってきてるし。これからもきっと今よりも面白いことになってるさ」
そう言ってヴァイアスはあの時、アスナに取り上げられ、そして受け取った右腕を撫でた。思うことはたくさんがあるが今、最優先すべきことは、
「それじゃ、俺たちはどうしようか。追いかけて一緒にボートに乗るか?」
「う〜ん、それも悪くないけど二人っきりになれたんだからここでのんびりしていよ」
ミュリカは笑うと近くの木陰に移動した。腰を下ろすとポンポンと自分の太股を叩いた。
「ほら、ヴァイアス。膝枕」
「人前でそんなこと出来るか!」
「良いじゃない。周りは似たようなものなんだし。それにこういう女の子の我が侭を聞くのが男の器量っていうものだと思うけど。アスナ様も先回りしてお二人を引っ張っていったんだし」
「……はぁ。分かった。分かりました」
ヴァイアスはどんなに頑張ったところでミュリカには勝てないのだ。
降伏宣言をしながら彼はゆっくりと彼女の太股の上に頭を預けた。心地よい弾力と温もりが頭を受け止めてくれる。
「えへへへっ。やっぱり、ちょっと照れくさいね」
「絶対に俺の方が照れくさいぞ」
「だったら、もっと恥ずかしい気分にさせてあげる」
赤い顔でそう言うとミュリカはヴァイアスの顔に覆い被さったのだった。
水面は穏やかだ。小さな波が三人を乗せたボートを小さく揺らす。
アスナがオールを漕ぐ度にゆっくりとだが池の中央へと進んでいく。久しぶりにオールを握ったので上手く出来るか少し不安だったが大丈夫だったようだ。
「なんとなく昔を思い出すよ。家族旅行で泊まった旅館の側に大きな湖があったんだ。そこでも今みたいにボートに乗ったんだけど、初めてだったから全然進まなくてさ」
一緒に乗っていた妹の美羽と弟の雪人は進まないでその場でくるくると回るだけのボートの上で不満の声を上げまくっていた。
「それが悔しくてさ。ホントは他にも色々と見て回る予定だったのにオレだけそこに残って一日中ボートの練習をしてた」
今、思い出すとあんまり良い態度ではなかったかもしれない。忙しい両親が時間を作って旅行に出たのに一人だけ勝手な行動をとったのは誉められたことではない。
「アスナ様らしいですね」
「そう?」
「はい。融通が利くのに妙なところで頑固で」
「けど、あんまり良いとこじゃないよな」
「そんなことありません。その結果の一つがエル様と私だと思います」
「……そっか」
良いか悪いかはその時々による。そう気が付けてアスナは何となく嬉しくなった。
自分のあまり良くないと思うところもそれで良いと好きでいてくれる人がいるのは幸せなことだ。この二人と共にあるために頑張らないと、と思う。
やがて、ボートはゆっくりと池の中程に到着した。アスナはオールから手を離した。
聞こえてくるのはボートの底を撫でる水の音と聞き取れない話し声のみ。後は遠くから聞こえる木々の囁きぐらいだろう。
「前から思ってたけど幻想界の池も蒼いんだな」
池はとても澄んでいる。さすがに底まで見通すことは出来ないが池の中程を泳いでいる魚を見ることが出来た。
「現生界では違ったの?」
「同じだから驚いてるんだ。空と水が蒼くみえる理由ってなんだったっけ。……あぁ、こんなことならもっとちゃんと理科を勉強しておくんだった」
「なら、後で集学院に行ってみますか?」
と、エルトナージュは提案した。
「博物館みたいなもん?」
「博物館も、あります。集学院は博物館、美術館、図書館、人文学館、魔導館、技術館。あとは小さいですが植物園もあります。そういった施設を一つに纏めた所よ。この公園の隣にあるから行こうと思えばすぐに行けるわ」
「そんな施設もあるんだ。ちょっと覗いてみたいかも」
アスナはその手の話が好きなのだ。そういった特集があれば見られる範囲で目にしていた。書籍にも手を出してみたが専門用語ばかりで内容が分からなくなって以来、手を出していない。もっぱらブラウン管の中からそういった知識を得ていた。
自分で探求するのではなく入り口から少し覗き見するのが好きなのだ。
「なら、これから行ってみますか? あそこの施設は大きいですから全てを見て回るには時間が必要ですし」
サイナの申し出にアスナは首を横に振った。
「乗ったばっかりなんだし、もうちょっとボートで遊んでいよう。集学院は逃げないんだしさ」
「気を遣って頂かなくても良いんですよ。私はお二人と一緒にいられるだけでも十分ですから」
「ん〜、気を遣ってるってのもあるけど。……ほら、あそこ」
アスナが指さした先には木陰でミュリカに膝枕されて昼寝をしているヴァイアスがいる。遠目にだがヴァイアスの頭をミュリカが優しく撫でているのが見える。
良い雰囲気だ。自分の我が侭で引っぱり出したのだから、少しぐらい二人っきりでゆっくりとさせてやりたい。
「だからさ、一時間ぐらいここでのんびりしていよう」
「はい」
やはり、水の上というのが嬉しいのかサイナは笑みを浮かべて水面に手を触れた。撫でるように浸けられた指先から波紋が広がる。
海聖族だからという訳ではないのだろうが、そうしているサイナはとても絵になる。今日の服装も相まって本当に奇麗だ。こんな公園の池ではなく、どこか遠くの閑静な別荘地に連れていってやりたくなる。
いつかみんなを連れて避暑地のようなところに行くのも楽しいだろう。
「折角ですからちょっと遊んでみましょうか」
浸していた指先から魔法力の蒼い光が二度、三度と池に広がる。何事かと船遊びを楽しんでいた者たちが騒ぎ始めた。
「サイナさん、なにするつもり?」
「ちょっとした遊びです。見ていて下さい」
贈り物を手渡す直前のような笑みを浮かべるとサイナは再び水面を見つめた。
言われるままに水面を見ていると何かが浮かび上がってきた。それは人の形をしている。
「うわっ!」
水飛沫とともに空中へと舞い上がったのは一人の人魚だ。水で形作られた人魚だ。
水の人魚はアスナたちのボートを飛び越えると他のボートをゆっくりと縫うように泳いでいく。その姿は優美そのものだ。
「アスナ様、少し中央から離れて下さいますか?」
「あっ、うん」
言われた通りにアスナはボートを池の中央から離していった。程良い距離感を採ったところで人魚が池の中心へと戻ってくる。最後に大きく飛び上がると再び池の中へと消えていった。
アスナたちと同じようにボートに乗っていた者たちが感嘆の声を上げるよりも早く二本の水柱が立ち上った。そこから出てきたのは一組の男女。
女性はあの人魚だ。ドレスを身に纏い頭にはティアラを飾っている。男は軍服を身に纏った誠実そうな青年だ。
青年は女性の前に跪き、差し出された手の甲にくちづけをした。
そして、幕が開く。
その劇の名は海の上のディアンサス。
古く、ありきたりであるが故に一般にはあまり知られていない演目だ。しかし、演劇を好む者ならば一度は見たことがあるだろうというある意味での定番だ。年に何回かラインボルトのどこかでやってる知っている者は知っている演目なのだ。
物語は姫君と海を戦場とする騎士の逃避行を描いたものだ。
劇を始めた当初はサイナの語りだけであったが船遊びをしていた者の中に役者がいた。彼らが飛び入りで声の出演をして、次いで楽団の演奏が加わった。
途端に水の人形劇は華やかさを増した。少しずつ観客が増え始めていく。
舞踏会の場面では女性たちがため息を漏らし、艦隊戦では子どもたちが歓声を上げる。
やがて、劇は終局へと向かう。
逃避行を続ける主人公らの戦艦ディアンサス号に追撃してきた友人の戦艦との一騎打ちが始まる。闘い続ける二隻の戦艦を挟むように水面に立ち上がった主人公と友人の人形が互いの主張を繰り広げる。
ディアンサス号が放った一撃が敵艦を貫いた。敵艦は轟沈し、友人は最期の言葉を残して、彼を象る人形が霧になって消える。
「そして、二人を乗せたディアンサス号は長い逃避行の末にとある国へと流れ着きました」
終わりを告げるようにサイナの語りが始まる。
「二人とディアンサス号の船員たちは王の庇護を受けて、永遠の愛を誓い合ったのでした」
王の前で永遠の誓いをする二つの人形。その姿はとても美しい。
唇を交わすと一気に歓声が沸き上がった。主人公と姫君の人形は微笑み合い、観衆に手を振った。まるで観衆が自分たちの結婚式の出席者であるかのように。
その二人の背後に出演していた全ての人形が姿を現す。改めて見るとその数の多さに驚かされる。その人形たちが一斉に観客に対して礼をした。
万雷の拍手の中、些かサイナは戸惑った表情を浮かべた。
「少しやりすぎたかもしれません。申し訳ありませんアスナ様、エル様」
「まぁ、確かにちょっと大変なことになってるけど、それってサイナさんの劇が凄かった証拠だよ。なっ、エル」
「えぇ。本当に素晴らしかったわよ。貴女にこんなことが出来るとは知らなかった。また、機会を作って見せて欲しいわ」
「あ、ありがとうございます」
俯き頬を染めるサイナの頭を思わずアスナは撫でてしまう。
「取りあえず、これからどうするかを決めないと。この大騒ぎじゃ池から出ていけないし、オレたちはともかくエルの正体がばれるとどんなことになるか分かったもんじゃない」
と、アスナの視界の中でテーブルの上に乗って、ミュリカが大きく両手を振っている。彼女が落ちないように腰を支えているヴァイアスはかなり役得だ。
「何やってるんだ?」
「手振り信号ですね。東出口集合だそうです」
「集学院のすぐ近くね。都合が良いわ。けど、この包囲をどう切り抜けましょうか」
「そうですね。……私が濃霧を作りますから、それに紛れて逃げましょう。エル様、周囲の人や楽器が濡れないように守って上げて下さい。それとアスナ様もお願いします」
「分かったわ」
と、頷くエルトナージュ。取り残されているのはアスナだけである。
「えっと、ひょっとしてオレは置いてけぼり?」
「アスナ様はエル様にしがみついて下されば、それで十分です」
「分かった。が、頑張って自制します」
半ば冗談でそんなことをいうアスナの頬をエルトナージュが引っ張った。
「真面目にしなさい」
「……ふあい」
「まったく。……サイナ、こちらはいつでも行けるわよ」
「分かりました。合図をしたらお願いします」
そういうとサイナは立ち上がって、観衆に向かって一礼した。
「皆さま、ありがとうございます。私の些細な戯れにこれだけの拍手を頂戴出来て光栄です。また、この人形劇にご参加下さった方々にもお礼申し上げます」
さすが近衛と言うべきか。その態度は堂々たるものがある。敢えて観衆の目を自分に集めてエルトナージュから逸らそうとしているのかもしれない。
「お付き合い下さったお礼として、ささやかな演技を披露させて頂きます。それをもって終わりにしたいと思います。ありがとうございました」
再び一礼し、顔を上げるとサイナは右手を大きく振り上げた。それと同時に何頭ものイルカが水飛沫を上げながら飛び上がった。それに水の人魚が加わり戯れる。
その様はさながら水族館のショーのようだ。いや、もっと華やかだ。
観衆が観覧している間にサイナはエルトナージュに頷いて見せた。
エルトナージュは頷き返すと観衆の周囲に防御魔法を展開した。こういったことはヴァイアスの領分だが、彼女も狭い範囲ならば十分に出来る。
「良いわよ、サイナ」
「はい。……行きます」
再びサイナが大きく右手を振り上げるとイルカと人魚が舞い上がった。
歓声と拍手が沸き上がる。サイナが小さく指を弾くと人形たちが爆ぜた。小さな滴となって濃霧を作り出す。
「行きましょう。アスナ様、エル様」
「えぇ。アスナ」
「う、うん」
アスナがエルトナージュにしがみつくよりも早く彼女にお姫様だっこされる。サイナは自分で作った水の台座に飛び乗った。
「短い間だけならば沈むことはありません。早く」
促されるままにエルトナージュは飛び乗ると同時に台座が飛び上がった。
「うわぁぁぁっ!」
ちょっとした間欠泉の勢いにアスナはエルトナージュに抱かれたまま叫び声を上げた。
この間欠泉すらも演技の一環と思っているのか観衆たちは戸惑いながらも歓声を上げている。しかし、アスナはそれどころではない。
何の予告もなく空へと放り投げられて正気を保てるはずがない。
「!!」
「大丈夫よ。落ち着いて。ちょっ、変なところ触らないで!」
などと騒ぎながらもエルトナージュは見事に着地してみせた。サイナも危なげなく着地した。一人騒いでいたアスナが何となく格好悪い。地面に降ろされたアスナは思わずよろける。あまりにも唐突な展開にアスナの表情はかなり蒼い。
「し、死ぬかと思った……」
「生きていることの実感は後にして。すぐにミュリカたちと合流しましょう」
「そうですね。あの霧は長くは持ちませんから」
「……分かった。それじゃ、行こう」
多少、足下がおぼつかないながらも駆けだしたアスナにエルトナージュとサイナは笑った。
「アスナ様、東出口はそちらではありませんよ」
「……先導をよろしく」
憩いの場として公園があるとすれば、隣接するここは探求心を埋める場と表現できるかも知れない。
公園よりも遙かに広い敷地には幾つもの大きな施設が建てられ、それらの隙間を噴水や林道が埋めている。何も知らず公園から細い道を一つ挟んだこの敷地に入れば、ここが別の区画だと言われても信じないかも知れない。この場所がどのような施設であるかを示す看板が木々の葉に隠れてしまっているのだから仕方のかもしれないが。
「王立集学院。……ここも王立なんだな」
「ラインボルトの行政における棲み分けの一つね。王家が文化的な整備を行い、政府が社会資本を整備する。ここはその代表格とも言える場所よ」
水上の人形劇の後、アスナたちはヴァイアスと合流し今は東門の木陰で一休みしていた。
慌てて移動したせいでミュリカが食器を持ってくるのを忘れてしまい、ヴァイアスと一緒に取りに戻っているところだ。
「さっきも話したけど、博物館、美術館、図書館、人文学館、魔導館、技術館。その他にも小さな施設があるわ。何ヶ所か喫茶店があって休日をここで過ごす人もいるそうよ」
「改めて聞くと凄いな。ラインボルトの知の殿堂は集学院にあり、みたいな勢いだ」
「現生界にはこういった施設はなかったの?」
小さく首を傾げてエルトナージュが尋ねる。
「施設自体は別個にはあったよ。けど、一カ所に全部集めたような場所は聞いたことがないな」
少なくともアスナの知る限りそんな場所は無かった。
「前回の都市計画が検討されていた当時、色々な施設が赤字経営で閉鎖に追い込まれそうになっていたそうです。だけど、閉館してしまって収蔵品が散逸してしまうのは勿体ないと全て王家が買い取ったんです」
「出血大サービスだな。……オレも人のこと言えないけど」
と、アスナは苦笑した。彼もロゼフとの戦争で王家の資金を使いまくっているのだ。
総額は集学院設立資金を遙かに上回ることは確実だ。
「そうね。内府は今日も忙しいんじゃないかしら」
そう言いながらエルトナージュは集学院の開かれた門扉を見た。
「この集学院設立の立て役者が内府なの。彼が旗振り役になって色々とやったそうよ。都市計画の中に集学院を立てる敷地を確保するようにねじ込んだり、必要な資金を得るために有力な商家に協力を求めたりと活躍したって聞いてるわ」
「ってことは集学院は内府にとって子どもみたいなもんなんだな」
「そうね。そうなのかもしれないわね」
休日には集学院内の喫茶店でくつろいでいるオリザエールの姿を見ることが出来たりする。初めてそんな彼の姿を見る者はギョッとするが、彼は飲食できるように作られているので問題ない。
門扉の頂点には王家の紋章――リージュの横顔と彼女の三つ編みにした髪と交差する麦穂が掲げられている。
世にある王家の紋章のほとんどが剣や盾、王冠、自身の種族を象徴する物を組み合わせで出来ている。ラインボルト王家の紋章はかなり珍しい。
「……そういえば、坂上家の紋章をどうするかもう決めた?」
ラインボルト王家そのものを示す麦穂の紋章とは別に各王家にも紋章を持つことが許されている。麦穂ではなく別の自身を象徴するものとリージュの三つ編みを交差させた意匠となっている。略章は交差する三つ編みと象徴する物といった具合だ。
「エルの家は確かアルセアの枝だっけ」
「えぇ。父が好きだったからそう決めたんでしょうね。サイナの家は舵輪と花だったわね」
「はい。ですが、私はアスナ様の紋章を使わせて頂くことになると思います」
アスナの寵姫になったということはサイナは坂上家に連なる者になったということだから当然の権利であり義務だ。
エルトナージュはすでにアーセイル家の当主であるためこれまで通りアルセアの紋章を使うことになっていた。
「一応、色々とは考えてるんだ。うん」
「アスナを象徴する物。……おたまや包丁はやめてよ」
「ふふふふっ。アスナ様らしいといえば、らしいですけどね」
「さすがにそれは所帯臭すぎるって。王様の威厳もへったくれもないぞ」
もし、それが実現すれば空前絶後の紋章になることは間違いない。そんな紋章が描かれた勲章や賞状を貰っても皆、嬉しさよりも複雑な顔をするだけだろう。
「それじゃ、何にするの?」
エルトナージュに促されてアスナは言った。
「桜にしようと思うんだ。こっちに桜があるかは知らないけどさ」
坂上家の紋章を作るので自分を象徴する、もしくは縁のあるものを考えておいて欲しいと言われて一番に思い浮かんだのが桜だった。
あの圧倒されるほどに咲き誇り、陽と月の下では異なる美しさを見せてくれる。
パッと咲き、パッと散るというのは王家の紋章としては不適切なのかもしれない。しかし、それでもアスナは桜にしようと思っている。
それに桜を眺めていると胸に湧き出る不思議な憧憬の念は別の世界へと連れて込まれた自分を象徴するのに相応しいように思えるのだ。
ジイさんと歩いたあの道も春になれば桜並木となるのだから。
「……アスナ」
元の世界への思いが強く出過ぎていたのかエルトナージュの声音には不安の色があった。サイナの瞳にも。アスナは彼女たちの不安を拭い去るように笑って見せた。
「大丈夫。二人がしっかりオレと幻想界を繋いでくれてる。現生界(あっち)に帰りたいなんて思ってないよ。ただ少し思い出に浸ってただけだから」
もはや、アスナにとっての現生界は過ぎ去った思い出の中にしかない。今、彼が生きているのはこの世界なのだ。
「お待たせしました〜」
ミュリカだ。手にはしっかりと食器の入ったバスケットがある。
「念のために周りを見て回ってきたけど、俺たちを捜してるヤツらはいなかったぞ。役者と楽団の連中が寸劇を初めてたしな」
騒動が大きくならないように配慮してくれたのか、それともサイナが始めた劇の熱がまだ消えないからなのか。どちらにせよアスナたちにとってはありがたいことには変わりない。
「そっか。だったら、気兼ねなく見て回れるな」
「そういうこと。それでどういう順番で見て回る?」
と、ヴァイアス。こういう施設に行くのは渋りそうだが、彼もこの手のことに興味があるのかも知れない。
「取りあえず近い順番からぐるりと一周って感じかな」
「だったら、まずは美術館からだな」
こうして麦穂の紋章に迎えられた一行は集学院へと足を踏み入れたのだった。
王立集学院の敷地は広い。
博物館などの施設の他にもそれに付随した非公開の研究施設もあるためだ。一般に公開された施設を徒歩で移動するにもちょっと骨が折れる。
そこで敷地内には馬車が走っていた。休日ともなればエグゼリスの住民だけではなく近郊の町村からも集学院にやってくる人たちが利用している姿を見ることが出来る。
この馬車を利用するには当然運賃が必要になる。敷地内をぐるりと一周する馬車はどれだけ乗っても運賃は同額だ。また、丸一日利用できる一日乗車券というのもある。
ちなみに博物館などの入場料は無料だったりする。
この一日乗車券を纏めて買ったアスナは全員に渡していく。
「はい。全員、無くさないように注意すること。特にヴァイアス!」
「あのなぁ。ガキじゃないんだ。落としたする訳ないだろ」
ややげんなりしながらヴァイアスは言った。
「いつも書類がない書類がないって騒いでいたのは何処のだれだったっけ?」
内乱中、積み上げられた書類の決裁をしている最中の彼の口癖が「書類がない」だったりする。基本的にしっかりしているが整理整頓が不自由な男なのだ。
「うぐっ」
「あはははっ。でしたら、乗車券は私が預かってますね」
そう言ってミュリカはヴァイアスの手から乗車券を取り上げてしまう。その場のノリのままに彼女は「悔しかったら取り返してみなさい」とイタズラな笑みを浮かべる。
「おい、ミュリカ!」
「はいはい。私なら落とさないから大丈夫よ。ヴァイアスのものは何から何まで私が管理してあげるから」
「だから、ガキ扱いするなって。おい!」
乗車券を巡って騒ぎ始めた二人を放ったらかして煽動者アスナはエルトナージュとサイナにも乗車券を渡す。二人とも呆れ顔だ。
「騒がせるだけ騒がせて何もしないなんて、相変わらず酷いわね」
「夫婦喧嘩は犬も喰わないって言うし。今後の参考になるかなぁって」
「参考って何ですか。わたしはあんなことはしないわよ」
「仲良く喧嘩するのってある意味、恋人同士のロマンなんだぞ! だから、いつかしような」
握り拳を作ってそう断言するアスナにエルトナージュは勢い良くそっぽを向く。その動きに合わせて翠の髪も揺れる。
「し〜ま〜せ〜ん〜!」
「えぇ〜」
「えぇ〜じゃありません。ケンカなんかするよりも仲良くした方が楽しいに決まってるもの」
サイナにも意見を求めようと彼女を見た。
「サイナからも言ってあげて。わたしたちはそんな無様な……サイナ?」
見ればサイナは曰く言いがたい表情を浮かべている。笑いを堪えているのかもしれない。
「エル様、それが世間で言うところの仲良くケンカしてるということですよ」
指摘され、エルトナージュはカァーっと顔を赤らめた。耳どころか首筋まで赤くなっている。
「な、な、ななぁ……」
軋みを上げそうなほどにぎこちない動きで彼女はアスナを見た。そこにはしてやったりと心底楽しそうな極上の笑みを見せるアスナがいた。完全に乗せられた。
エルトナージュの紅潮は首まで達し、爆発する。
「アスナ〜!!」
「はははははっ。怒らない怒らない。ケンカするよりも仲良くした方が楽しいって言ったのはエルじゃないか」
「その減らず口を閉じて上げるわ!」
「口を閉じるって、それはちゅーか。ちゅーのことか! こんな真っ昼間からおねだりされるとは思わなかった」
「誰がそんなこと言ったのよ。バカ〜!!」
わーわー、キャーキャーと賑やかなことこの上ない。アスナたちがこんな風に騒げるのも制止役のサイナがいるからだ。そのことを理解している彼女は小さく首を振った。
これでは完全に四人の姉ではないかと思う。事実、サイナはアスナたちよりも年長だ。
何となく不等だという思いを抱きつつも自分があのようにはしゃぐ姿というのは想像出来ない。我ながら損な性格だとサイナは思う。
しかし、彼らが無邪気に戯れられるのは自分がいるからだという優越感もある。仮に自分がこの輪の中にいなかったとしてもアスナとエルトナージュは今のように戯れていただろうがここまで羽目を外すことはなかっただろう。
それはサイナだけが持つ特権と呼ぶべきものなのかもしれない。
と、曲がり角に馬車が差し掛かったのが見えた。
サイナは大きく手を二回叩くと、
「はいはい。みなさん、それぐらいにして下さい。すぐそこまで馬車が来ています」
「分かりました〜」
「…………」
嬉しそうな声音と笑顔からミュリカの勝利で終わったようだ。一方のエルトナージュはまだ収まりきらないようだ。
「だけど、サイナ〜」
エルトナージュの甘えた声音にサイナは内心で苦笑した。アスナが彼女を弄りたくなる気持ちが分かってしまったからだ。いや、どちらかといえばミュリカと同じように構いたくなる気持ちかもしれない。エルトナージュにとっては大して変わらないかもしれないが。
サイナはエルトナージュを弄りたい気持ちをグッと堪えて、
「ならば本当に口を閉じてしまってみてはどうです?」
「貴女までなにを……あぁ、なるほど」
サイナが何を言いたいのか理解したエルトナージュはにんまりと笑うとアスナを見た。
「二人とも何をするつもりだ? まさか、ホントにちゅーか。もうすぐ馬車が来るっていうのに大胆だな、エル」
「黙りなさい」
宣告するような一言と同時に指を鳴らした。
「んぐ!?」
瞬間、アスナの口が強制的に閉じられてしまったのだ。
囚人用の拘束魔法の応用だ。本来は身体の動きも拘束してしまうが今は口だけを動けなくしている。なぜエルトナージュがこのような魔法まで修得しているのかは謎である。
「お仕置きよ。しばらく、黙っていなさい」
「ふぐーーーー!!」
助けを求めるようにアスナは三人を順番に見回すが皆、助ける様子は皆無だ。
自業自得ここに極まれりである。
そして、アスナの呻き声とは真逆に長閑な馬蹄の音を響きかせて馬車がやってくるのであった。
馬車に揺られて七分ほどで次の停留所である美術館前に到着した。修学館への入り口と同じ意匠の門扉だ。こちらの方が立派に見える。
アスナたちが入ったのは西門なのだから当然といえば当然なのだが。
美術館前は平日にも関わらずそれなりに人の出入りがある。どの人も美術館に相応しい衣服だ。観察してみれば年輩の客が多い。
少し場違いな印象もあるが、それはそれで都合が良い。
「酷い目にあった」
「馬鹿なことを口にするからです。反省していないと言うのなら」
「したした! 思いっきり反省した」
「まったくもう……」
などと話ながらアスナたちは門を潜った。
「……へぇ」
感嘆の声が漏れる。整然と立てられた建物群はそれだけで一個の芸術のように思えた。もしかしたら、美術品を収蔵する美々しい食器のように見立てているのかもしれない。
中央にある三階建て煉瓦造りの建物が本館になるのだろう。門から見える範囲にある建物は二階建て、もしくは平屋だ。それぞれ題目に沿った展示がされているのだろう。
本館へと続く道の両脇にはアスナの胸の高さほどの生け垣がある。
「本館には著名な芸術家の作品が展示されています。一階が最近発表された作品、二階と三階は美術史に名を残す芸術家の作品になります」
「美術とかに詳しい人なら本館を見て回るだけでも一日過ごせそうだな」
「そうね。けど、ただ鑑賞しているだけでも十分に楽しめるわよ。わたしたちのような立場だと必要最低限の知識は嗜みとして知っておく必要があるけれど」
「まだまだ勉強することが一杯だなぁ。ヴァイアスたちもその辺の知識とかやっぱり持ってるのか?」
げんなりとした視線を近衛騎団の三人にも向ける。代表してヴァイアスが答えた。
「俺たちのも役目柄の立場があるからな。嗜みとして一通りの知識はあるぞ」
「うへぇ〜」
「そんな顔しないの。これから美術品と接する機会が増えるから自然と知識も得るようになりますよ」
と、励ますような口調でエルトナージュは言った。
「だと良いんだけど」
本館内もかなり広く、ゆったりとした時間が流れているように思える。入り口には案内所とそれに付随してパンフレットの販売をしている売店があるのみだ。
「入場料とかは要らないんだ」
「えぇ。王家からの予算、国からの補助金、それと寄付金で運営されていますから入館者からお金を貰う必要がないんです」
集学院その他の王家の施設への寄付は毎年かなりの額になる。
それらの施設に対する国民の関心が大きいこともあるが、一番の理由は手っ取り早く名誉を得られるからだ。つまり、金さえだせば賞状なり、勲章なりが貰えるということだ。
この方式が慣例化してからはラインボルトに拠点を置く大商家たちの寄付金の額は増えた。多少あくどく儲けても幾らか寄付をすれば名誉が得られ、顧客からの印象も良くなる。
もちろん、純粋な魔王への敬愛、施設への愛着などで寄付する者も多い。
ようするに金の上手な使い方の一つというわけだ。
「それにこんな言い方は良くないかも知れませんが、集学院は王家の道楽のようなものですから」
良くないも何も道楽そのものなのだ。絵画を好む魔王は美術館の発展に力を注ぎ、読書家であった魔王は稀覯本の蒐集に熱中したという。
「父もこの敷地内に小さな植物園を作りましたから」
小声でエルトナージュは言った。彼女も領地を得てから毎年少額ではあるが寄付して育てている施設でもある。
「へぇ。……後で植物園にも行ってみようか」
「それはちょっと。この服装で行ったら驚かせてしまいます。あそこの責任者や職員とは顔見知りだから」
「じゃ、残念だけど植物園はまた今度にしよう」
「えぇ。次は必ず」
ミュリカがアスナたちの前に出る。両手を後ろで組んで四人を見る。
「それじゃ、どうやって見て回りましょうか。丁寧に見て回るには時間が足りませんし、今日は有名作だけ見ていきましょうか?」
「ん〜。それも良いけど折角だからみんなのお薦めの絵を見てみたいな。それなりに詳しいんなら一枚ぐらいそういうのがあるだろう? 有名な絵はその後にしよう」
方針が決まった五人は連れ立って芸術の園の中を歩いていく。
王立の名の付く美術館で展示されているだけあってどの絵にも情感が込められているように思えた。ただ奇麗などといった言葉だけではない迫力がそこにはある。
名画には見る者を魅了する魔力が宿っているという。ひょっとしたら幻想界の絵画の中には本当に魔力を、幻想を纏っている物があるのかもしれない。
アスナは内心の感嘆を覚えながら絵画を見ていく。迫力から憩いへと雰囲気が変わっていく。
「私とエル様のお薦めの絵はこれです」
そういってミュリカはどこか気恥ずかしげにアスナに絵を指し示した。
木漏れ日と題されたその絵画は見る者を和ませる雰囲気を宿している。
樹にもたれ掛かりうたた寝をしている女性。膝の上には開かれた本がある。読書中に眠ってしまったのかもしれない。
「この女性の雰囲気がお母様に似ているんです」
「お昼寝の時に良く膝を貸して頂きましたね。今でも清花様の匂いや温もりは思い出せます。この絵の前に来ると何も考えなくても……」
ミュリカも両親を失っている。エルトナージュの学友として王家に引き取られ、先王の養女となった。清花という女性は彼女にとって二人目の母なのかもしれない。
エルトナージュと同じように安らぎと悲しみを混交させたような表情を浮かべるのも無理からぬことなのかもしれない。
「どんな人だったんだ?」
「そうですね。わたしにとってお母様は何でも知っている人でした。わたしたちが何を聞いてもしっかりと答えてくれましたから。今考えると誤魔化しや嘘がたくさんありましたけどね」
「あと何でも出来る方でもありましたよね。刺繍や絵画、楽器の演奏まで。あの頃は清花様に出来ないことはないって思ってましたよ。ヴァイアスなんかお稽古を投げ出そうとする度に怒られてたっけ」
「……まぁな。俺にビンタしたのは清花様が初めてだったかもなぁ」
と、ヴァイアスも苦笑する。
彼は人魔の規格外として周囲から距離を置かれた存在であった。王城に引き取られてからもしばらくは誰の言うことも聞かない子どもだった。
「あの人に取っちゃ規格外だろうと何だろうと関係なかったんだろうな。俺のことはただ世話のかかるガキぐらいにしか思ってなかったのかも知れない。そう考えると清花様とアスナはどこか似てるのかも」
「そうなのか? ありがたいような、そうじゃないようなちょっと複雑な気分」
「これでも誉めてるんだよ。俺に取っちゃ幻想界最強の人なんだからさ」
「……ますます複雑な気分になってくるなぁ」
思わず苦笑を浮かべる。『木漏れ日』の女性と似た雰囲気の女性を相手に幻想界最強もないだろう、と。そして、それに自分が似ていると言われても苦笑するしかない。
「だけど、ヴァイアスの言うことも当たらずも遠からずかも。お母様、怒ったら本当に怖かったから」
「イタズラやって思いっきり叱られたんだ」
からかい半分でそんなことをアスナは口にした。
「いえ、その、それもありましたけど……」
「それ以上は聞かないで下さい」
「…………」
三人は一様に顔を蒼くしている。
幼少の頃のこととはいえ、人魔の規格外二人に蒼い顔をさせるのだから確かに幻想界最強かもしれない。
アスナとサイナはそんな三人を見て思わず笑ってしまったのだった。
再び絵画の園は表情を変える。
男たちの叫び、女たちの歓声。雄壮という名の剣の庭園へとアスナたちは踏み入れた。
この一画は過去の戦いを描いた絵画が展示された場。
歴史に流されその名が残らずとも彼らの勇姿は、誉れはここにある。
ヴァイアスがアスナたちを連れてきたのは一人の女性に対し忠誠を捧げる騎士の絵。
絵画の題はアマランス。描かれている女性が誰なのかアスナも良く知っている。
「……なんというからしいといえばらしいよなぁ」
名も知らぬ騎士の忠誠を受ける女性の名はリージュ。建国王にして初代魔王の名だ。
「だろう? リージュの旗の下で剣を持つ者としてはこの絵は外せないだろう」
「まぁ、近衛騎団の一員としちゃそうだろうけどさ。幾ら建国王とはいえ自分の彼女の前で女性が主題の絵が一番好きだって言うか?」
さらに追い打ちをかける。どちらかということこちらが主だ。
「それにヴァイアスが剣を捧げた相手もここにいるんですけど?」
「う゛っ」
「そうですよね。二重の意味で浮気ですよ」
三割ほど怒ったような口調でミュリカも同調する。
「いや、これはこれ。それはそれでだな」
「言い訳になってないぞ、ヴァイアス」
「ああああああその、だなぁ」
アスナとミュリカからの責めに溺れかけるヴァイアスをすくい上げたのはサイナだった。
「十年、二十年後にはアスナ様と団長の忠誠の儀の様子が描かれた絵がここに飾られているかも知れませんね」
サイナが言うのは二度目の忠誠の儀。彼の利き腕を召し上げ、それをもって新たに忠誠を誓わせたあの時のこと。
「けど、あれは絵にはならないだろう」
「そうなの? 話に聞いた限り国民に受けそうな美談だと思うけど。題材にもしやすそうだし」
と、エルトナージュは小首を傾げながら言った。
「美談なのかもしれないけど、あの時のヴァイアスの顔はホントに凄かったんだぞ。涙と鼻水でグシャグシャなくせに笑ってるんだから。しかも血塗れでさ。今考えると凄い情景だよ」
「もう一人の当事者が身も蓋もないことを言うなよ。画家が美味い具合にやってくれるさ」
そう言ってヴァイアスは自分の右腕を撫でた。剣ではなく切り離すことの出来ない右腕が二人を繋ぐ絆の証なのだ。
「う〜ん、オレとしてはあの時のことよりもラメルでの撤退戦の方が絶対に絵になると思うけどなぁ。圧倒的に不利な近衛騎団が敵から脱出する所とか、ヴァイアスやアスティークさんの一騎打ちとか見所一杯じゃないか。鼻水顔を描かれるよりもずっと……」
「だから、それはもう良いって! ほら次行くぞ、次」
潮の音がする。
それは波だけではなく海から吹いてくる風の音色なども含まれる。
海風に揺れる大樹の枝葉と下草。夕日の朱が全てを包み込む。
それだけの情景。それだけで完成された一つの世界がそこにあった。
絵画は身の内の風景に引き込もうとする一方で拒絶もしていた。
題は望郷。これを描いた画家は果てなく広がる海の向こうに故郷があるのかもしれない。
「…………」
皆、言葉はない。何も語らなくともサイナが何を言いたいのか分かる。
絵の題が全てとも言える。しかし、アスナはそれを彼女の口から聞きたかった。
「やっぱり海に行ってみたい?」
「興味はあります。ですが、何が何でも行きたいと思うかどうかまでは自分でも少し分かりません。陸で溺れることを命じられた私たちにラインボルトはいきる場所を与えてくれました。これ以上を望むのは贅沢に思えることもあります」
「オレは贅沢が好きだよ。サイナさんももうちょっと贅沢になっても良いと思うけどな」
「そう仰る割には贅沢な暮らしをされていませんよ」
「贅沢をやるにはそれなりに苦労が必要なんだよ。今はその真っ最中なだけ。何しろ幻想界を手に入れるんだからさ」
笑いながらそんなことをアスナは言った。エルトナージュは耳まで赤くして黙ったままそっぽを向いた。
「だから、サイナさんとも約束するよ」
アスナはサイナの顔を見ながら言った。
「いつか絶対にサイナさんを海に連れていく。水着や弁当なんか用意して遊びに行こう」
「ですが、アスナ様。ラインボルトの海は北にしかありませんから遊ぶには少し寒いですよ」
やんわりと事の困難さを教えようとするサイナにアスナは逆に笑って見せた。
「だったら、南に行けば良いよ。浜辺で遊ぶのも良いし、釣りをしたって良い。バーベキューをするのも良いな。あぁ、けど不味いラーメンってのも捨てがたい」
それ以前に幻想界にラーメンってあるのかは謎である。
「前提からしておかしいだろ。遊びに行ってわざわざ不味いもん食いたくない」
「分かってないなぁ、ヴァイアスは。何事も情緒ってものが必要なんだよ」
「そういうものなんですか?」
と、ミュリカ。かなり疑わしい視線を向けてくる。
「そういうもんなんだよ。かき氷機も作らないと……」
あれこれと海での体験を話すアスナは一区切り付けるとサイナを見た。
「だから、一緒に海に行こう。オレの贅沢に付き合ってよ」
陸に溺れることを命じられたサイナを海に連れていく。
それは言うほど簡単なことではない。魔王といえども出来ないことの一つだろう。
だが、アスナは何でもないことのように彼女を海に連れていくと言ったのだ。サイナの良人である自分の当然の権利だと言わんばかりに。
彼女を取り巻く事情など関係なくただ自分の贅沢に付き合って欲しいと。
「贅沢が過ぎると身を滅ぼすと言いますよ」
「その分だけ苦労してるんだ。釣り合いがとれてるよ。返事を聞かせてくれるかな?」
サイナは一度目を伏せ、小さくと息を漏らすとアスナに小指を差し出した。
「はい。約束です。いつか、きっと……」
「うん、約束だ。絶対に連れていってあげるよ」
力強く頷くとアスナはサイナの小指に自分のそれを絡めたのだった。
芸術の園を後にし、順次博物館などを見て回った一行は再び馬車に揺られていた。
いや、この表現は少し語弊がある。馬車は殆ど揺れていない。その理由は……。
「考えてみたら馬車鉄道に乗ったのって今日が初めてだ」
馬車鉄道。読んで字の如くレールの上を走る馬車のことだ。通常の馬車のような揺れはなく、車輪とレールの摩擦が少ないため輸送力を大きくすることも出来る。
「幻想界全てを見ても敷設されているところは少ないですからね。それよりも……」
エルトナージュは声を潜めて「現生界にもあるんですか?」と続けた。周囲にはアスナたち以外に御者もいれば客もいるからだ。
「あるよ。レールの上を走っているのは別のものだけどさ。馬車鉄道でも便利だから、かなり広範囲で使われたらしいし、幻想界でも大国ならそれなりに普及しててもおかしくないと思うけどなぁ。現に集学院の敷地内にはあるんだしさ」
「一応、主立った鉱山では普及していますよ。ただ、ラインボルト全土に鉄道網を敷くには色々と問題があるんです。資金と人材は時間をかければなんとかなります。問題は長期間に渡って官僚や議員、地方の有力者たちを抑え付けるだけの旗振り役がいないんです。新しいことを始めるのを嫌う者もいれば、今ある権益を固守しようとする者その他にも色々とね。その他にもレールの幅の広さなどの技術的な問題でも色々とあるようです」
「何をするにしても大変な訳だ。それにしても結構、詳しいんだな」
「一時期、政府の方で幹線鉄道を作ろうという話がありましたし、わたしも興味があったから。興味ついでに聞くけど、レールの上に走っているのって機関車?」
アスナは思いっきり目を見開いた。まさかエルトナージュの口から機関車なんて言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
「ちょっ、え? 機関車がこっちにもあるのか?」
「あると言えばあります」
彼女の複雑な表情を訝しく思いながらもアスナは質問を続ける。
「機関車があるのに鉄道の敷設をしないってのは変じゃないか。馬車鉄道と機関車とじゃ重要度は全然違うんだぞ。反対意見ぐらいで押し止められるようなもんじゃない」
一度レールを敷設してしまえば人と物を今以上に大量に輸送できるのだ。その効果は計り知れない。投資額の大きさで反対してもすぐに回収できる見込みがある、反対意見にすらならない。権益についても似たようなものだ。失う物よりも得る物の方が大きいのだから。
しかし、エルトナージュはそれらの大前提そのものを否定することを呟いた。
「……お披露目の際に爆発したんです」
「うげっ」
「当時、機関車の乗せる機関、ラインボルトでは精霊機関と呼ばれるものの研究の主流はアクトゥスだったの。精霊機関というのは魔石を動力源として動力を得る原動機の総称よ。詳しいことは分からなけれど、魔石を燃料にして蒸気を発生させ、それを用いて動かすらしいの。そうね。ポットから吹き出す蒸気に風車を当てると勢い良く動くでしょう。それと似た感じ。別の方式もあるけれど本筋とは関係ないから除外するわよ」
「うん、大丈夫。分かってるから。その前に魔石ってのは? 石炭とは違うんだよな」
「読んで字の如く魔力の結晶よ。魔導珠の核の部分にも用いられているわ。鉱山だけじゃなく、然るべき方法で行えば個人でも作ることが出来るものよ」
「魔法関係といえばラディウスだって聞いてたけど、そうでもないんだな」
「そうね。あの国は色々と進んでいるけれど軍事関係が主だから。アクトゥスで精霊機関の研究が盛んだったのもお国柄と言えるかもしれないわね。投資を開始した元々の理由は機関車ではなくて、風や海流に関係なく航海できる船を造ることだったの」
「確かにお国柄だな」
「えぇ。だけど皮肉にも先に完成したのは機関車の方。何にせよ他国に先んじて精霊機関の実用化に成功したということで盛大なお披露目がされたの。
自国の王族や貴族、有力者だけではなく他国からも多くの招待客が参加したそうよ。この式典で精霊機関が暴走、大爆発。死傷者多数。自国の王族だけではなく他国の貴人も多数事故死してしまいアクトゥスは完全に面目を失ってしまったの。戦争にこそならなかったけれど、アクトゥスの外交関係は最悪になって関係修復のためにどれだけの努力が必要だったことか。
この事件の後、アクトゥスは精霊機関の研究を完全に凍結することになったの。今もこの処分は変わってないわ。この事件は同時に幻想界での精霊機関研究に冷や水を浴びせる結果にもなったわ。
”世界最高の研究環境を提供していたアクトゥスでさえ失敗した。そのアクトゥスの後を追う自分たちには精霊機関は危険すぎる”って研究者だけでなく、資金提供者たちも尻込みしたそうよ。投資しても回収の見込みがないんだから当然よね」
「なるほどね。そんな大惨事が起きたらみんな手を出したくなくなるよな。だけどさ、世界最高の環境を整備するだけの投資をしていたんだから、ほとぼりが冷めた頃に規模縮小するのは仕方ないにしても研究を再開すれば良いのに。勿体ない」
「そうね。だけど、研究を再開しようと旗を振る人物が現れないことにはどうしようもないわよ。批判を一身に受ける覚悟のある誰かがいないと。それだけの大惨事だったそうだし」
「それじゃ視点を変えて魔石じゃなくて石炭を使うって選択肢は? 精霊機関って言っても結局の所、蒸気機関な訳なんだしさ」
「そこは費用対効果の問題ね。魔石は石炭に比べて安価だし、何より効率が良いもの。例えばこの馬車一杯の石炭と同じだけの熱量を出せる魔石はどれぐらいだと思う?」
馬車の広さは十人掛け程度の広さだ。乗合馬車としては一般的な広さと言えるだろう。
「そうだな。半分ぐらいか?」
それでも大きすぎる差だ。しかし、エルトナージュは笑みを浮かべて首を振った。
「ハズレ。大体両手のひら一杯と同じそうよ」
「それって凄すぎないか?」
「えぇ。魔力が圧縮されて結晶となったものだもの。ただ余りにも大きな魔力を秘めているから取り扱いが難しい。だから、民間での需要は石炭になるのよ。同じ分量の魔石と石炭の価格を比べたら魔石の方が遙かに高いけど、この馬車一杯の石炭と比べたらずっと安いのよ。それともう一つ」
と、エルトナージュは人差し指を立てた。
「アクトゥスが本当に欲しかったのは機関車じゃなくて精霊機関を搭載した船の方。石炭と比べて魔石の方が少なくて済むんだからその分だけ多くの物資を運ぶことが出来て利益を得ることが出来るでしょう?」
ふぅ、と吐息を漏らしてエルトナージュは一拍の間をおく。
「確かに同じ効果があるのならば多少の欠点には目を瞑ってその代替策を用いるのは妥当な判断です。問題は技術的な面ではなく機関車などは危険だという認識よ。偏見ほど厄介なものはないもの」
そういって彼女は小さくため息を漏らした。
彼女自身が人族に対する偏見をどうしても拭いさることが出来ないのだから、それがどれだけ面倒なことか分かるのだ。アスナは苦笑を浮かべた。
「偏見が厄介だってことは今は爆発なんてしない?」
「あの大惨事があったのは約五十年前だもの。ラインボルトでは細々と研究が続けられて、壊すつもりで出力を上げない限り爆発はしないそうよ。そこまで出力が上がらないように工夫も施されているそうだし」
アクトゥスでのお披露目の式典にはラインボルトへも招待状が届いていた。先王の名代として名家院議員が、その他にもラインボルトで精霊機関研究に携わっていた者たちも招かれていた。彼らは幸いにも大けがで済んだ。
しかし、精霊機関が危険であるとする風評はラインボルトでも蔓延する。そのため研究者たちは資金難に陥る。企業では研究部門を凍結、縮小することになる。
その彼らを救ったのがこの集学院である。将来性のある研究が先細りするのは勿体ないと研究者を招請し、企業からは安価で研究部門ごと買い取った。
技術院の一部門として設立された研究機関は潤沢とは言えないまでも確実な予算を得て研究を続けていた成果なのだ。
エルトナージュは以上のことを大まかに話した。
「ってことはラインボルトにはもう機関車があるんだ」
「その試作型ね。一年ほど前に完成して何度も試験と調整を繰り返して今は安定しているそうよ」
「そっかぁ。ラインボルトには機関車があるんだな。だったら、色々と面白いことが出来そう」
と、どことなく邪悪な笑みを浮かべたアスナの頬をヴァイアスが引っ張った。
「はいはい。遊びに来てるんだから難しい話はそこまでにしろ」
「ひたいって」
「怪しげなことを考えてないで何処に行きたいか考えた方が面白いだろ」
「っていわれてもラインボルトの名所ってあんまり知らないしなぁ」
「レンカ湾から望む竜皇海。冬に冠雪、夏には緑鮮やかなウェスナイ山脈。サベージと共有しているリネース湖。南はハイマン湿原ね」
「史跡で言えばトコフェース城、ハイネス宮、グナイシェイ大聖堂、清明園などが有名ですね」
サイナもエルトナージュに続く。騎団の研修旅行で行ったことがあるのだそうだ。
「地方の名所や史跡の前にまずこっちを行かないとな」
そうして、ヴァイアスは開け放たれている窓から馬車の前方を見る。
視線の先には重厚さを感じさせる城壁が見えてくる。
「もうじき到着だ。始まりの城、エグゼリスに……」
馬蹄が奏でる軽快なリズムとともに馬車はレールの上を滑っていく。
敷地内に建てられた建物群の姿は見えなくなり緑と光の中へと馬車は進む。開け放たれた窓からは涼やかな風が木々の香りを運んでくる。
馬車は進む。切り開かれた道を進んでいるのではなく、まるで木々が馬車に道を譲っているような錯覚を覚えてしまう。
やがて、木々の隙間からラインボルトの始まりを象徴する建築物が見え始めてくる。
それは支配する為に建てられ、戦う意思を与えられ、やがて守護の象徴となった。
そして、今は全ての役目を終えて歴史として過去の自分を語り続けている。
旧城エグゼリス。
ラインボルトの始まりの地であり、ラインボルトの歴史とともにあった史跡。
もし、この城が内府オリザエールのように生命を持ったとしたら何を語ってくれるのであろうか。
陰謀渦巻く宮廷の物語か。それとも武勇の誉れ高い将軍たちの物語であろうか。
それとも自らが見守ってきた首都の日常を語るのであろうか。
古城は生命も物を語る口も持たないが、自らがこの地に存在することで全てを物語っているのかもしれない。
我こそがラインボルトの真なる照覧者である、と。
首都エグゼリスの名跡の一つに数えられる旧城には平日にも関わらず多くの観光客が出入りしている。ラインボルトの始まりの地に踏み入れたことで騒いでいる者も多くいる。
数多くの歴史的な出来事の舞台であり、初代魔王リージュが建国を宣した場所だ。愛国心溢れずとも国民ならば何かしら思うところはあるだろう。
それに対して自分はどうだろうか、とアスナは思う。
すでに多くの大切な者たちを得て、この国とともにあることを心に定めているが観光客たちが抱いているような感慨は胸に沸き上がってこない。
いや、巨大な城壁や城を前にして圧倒される気持ちはある。しかし、歴史的な遺物を前にした感動は皆無であった。それはアスナがまだ幻想界に召喚されてまだ間もないからなのかもしれない。ラインボルトが自分の祖国なのだという当然の認識が。
今日まで余りにも濃密な日々を過ごしているが、それでもまだ半年ほどでしかないのだ。
たったの半年で祖国として思える訳がないのだ。
「旧城エグゼリス。建国王リージュは明確にリーズに反旗を翻した城だ。
当時、この城は竜族のラインボルト支配の重要な拠点の一つだった。ここを奪取したこと、城主である竜族を建国王が打ち倒したことで独立の機運が高まったと言われている。
この城はあらゆる意味でこの国の歴史を見てきたんだ」
遠くの時を見るようにヴァイアスは言った。彼は隣に立つアスナを見ると、
「こっちに来たばっかりのアスナにはまだこの感動は分からないかもしれないけどな。それでもお前をここに連れて来たかったんだ」
折角外に出たんだから旧城に行こうと言いだしたのはヴァイアスだ。友人として名所を案内し、近衛騎団団長として後継者にこの国の始まりの地に案内したかったのだろう。
そんなヴァイアスにアスナは小さく苦笑を浮かべた。
「見透かされてるなぁ。ヴァイアスの言うとおり感動なんてないよ。けどさ、十年後、二十年後は別のことを感じてるかも知れないし、今日ここに連れてきてくれて良かったと思う。少なくとも思い出にはなるよ」
「それで十分だ。歴史なんてものは国や世界の思い出なんだからな。それにお前がこっちに来てから今日までを振り返れば、そこにはもう歴史があるんだ。ラインボルトの歴史はその先にあるって思う程度で十分だ」
「簡単に言ってくれるよ。たった半年ぐらいだけど、どれだけ大変だったか。思い出にするにはまだ生々しいって」
「その生々しいまでに大変だったことが年表に書かれてる出来事だって言えば少しは分かるんじゃないのか?」
「……ヤな例え方するなぁ。理解を通り越して共感まで出来そうだよ。まっ、大変だったけど嫌なことばっかりじゃなかったけどさ」
そして、両隣のエルトナージュとサイナを見る。辛いことを乗り越えた先に今が、彼女たちとともにある現在があるのだ。全てを嫌なことだと言うことは出来ない。
「さてっと。いつまでもここで立ち話してても何だし城の中を見て回ろう。ここに来たいって言ったんだから色々と案内してくれるんだろ。ヴァイアス」
「おう。任せておけ」
旧城エグゼリスは歴史資料館としての意味合いもある。
魔王が使用した鎧や日記などの歴史的な資料が展示されている。黙して語らぬ資料だけではなく、三ヶ月に一度旧城そのものを舞台とした歴史劇が演じられることもある。
この劇は人気があり、演目によっては即日完売されることもある。
食堂では食事を摂ることも出来、予約をすれば大広間で宴を開くことも出来る。
旧城は政治の舞台からは退いても未だに現役なのだ。
アスナたちはヴァイアスの説明とミュリカ、サイナの補足を聞きながら各部屋や施設を回っていった。さすがは近衛騎団の団員と言うべきだろう。
展示された資料の説明文よりも彼らの話の方が深みがある。
「前々から気になってたんだけど、首都と王城が同じエグゼリスって名前の理由って何かあるのか?」
「あぁ。愛すべき横着か」
「愛すべき横着?」
「建国王がこの城を奪取した当時のここの地名はエクセイスって言ったんだ。暫くはそのままエクセイスって使われていたんだけど、建国王が紛らわしいからって理由でエグゼリスに統一したんだよ」
「良いのかよ、そんなノリで地名まで変えて」
「そんなに珍しいことでもないぞ。前の王朝が倒れた後で現王朝にとって都合の悪い地名が変わるなんてことは歴史を眺めてりゃ何度かあったしな。それに当時からエクセイスって地名よりもエグゼリスの方が知名度があったみたいだからな」
「それが転じて王城は首都とともにある。すなわち、魔王は国民とともにあると解釈されるようになったのです。故に愛すべき横着という訳ですな」
不意に程良く錆びた声がかけられた。振り返ると禿頭の老人が立っていた。
傍目にもかなりの老齢であろうが、衰えを知らぬかのような頑強な体躯を誇示している。しかし、それで他を圧するようなことはない。立派な髭に隠れてもなお分かる柔和な笑みが頼りがいのある人物の大きさだと感じさせてくれる。
「オル爺」
「オル爺様!」
殆ど同時にヴァイアスとミュリカが満面の笑みを浮かべて老人の名を呼んだ。
「元気であったようだな。二人とも」
老人は心から嬉しそうに二人の頭を大きな手で撫でた。そして、濃い微笑をエルトナージュにも向ける。
「オルフィオ様。ご壮健のようで嬉しいです」
「この通り頑丈だけが取り柄ですからな。……しかし、愛らしいですがなかなか奇抜な装いですな。最近の流行なのですかな?」
「えっ、あ……こ、これは彼が着ろと!」
真っ赤になりながら両手で身を隠そうとするがあまり意味はない。
「はははははっ。なるほどなるほど。時には羽目を外すことも楽しいものですからな」
そして、サイナ、アスナの順に会釈をしてみせる。さすがに人が多いためこの場で自己紹介とはいかない。二人とも同じように会釈で挨拶とした。
「さて、長々とここで立ち話という訳にもいかんな。お茶の用意をしております。老人の四方山話にお付き合いくださいませぬかな?」
「はい。是非とも」
とのアスナは返事にさらに笑みを濃くするとオルフィオは「こちらに」と先導して歩き始めた。オルフィオの両隣にエルトナージュとミュリカが陣取り話に花を咲かせ始める。
彼の大きな背中を見ながらアスナはヴァイアスに尋ねた。
「オルフィオさんってヴァイアスのジイさんなのか?」
「いんや。血縁じゃないけど、まぁ似たようなもんだ。俺たち三人ともガキの頃はよく遊んで貰ったからな。それとは別に恩人でもあるし」
「恩人?」
「実地で力の使い方を教えて貰ったんだよ。中途半端に力を持ってると自分自身の力に殺されることもあるからな」
「なんというか身につまされる話だな」
「お前の時は俺が相手をしてやるから心配するな。まぁ、俺たちにとってオル爺は基本的なあれこれを教えてくれた恩師なんだ。ファーゾルトの爺さんと一緒にな」
「オルフィオさんって滅茶苦茶強いんじゃ」
「ん? あぁ、強いぞ。多分、年食った今でも同じ条件ならオル爺の方が強いかもな」
「私も聞いたことがあります。先のリーズとの戦争の際、単騎で純血の竜族を屠ったことがあるとか」
憧れを通り越して伝説の存在を前にしているような目で前を歩く背中を見つめながらサイナは言った。
「はははははっ。なっ、化け物だろ? 尤もこの偉業もフォルキスの旦那の記録に隠れてあんまり知られていないしな」
「まさに歴戦の勇士だな。道理で大将軍と雰囲気が似てると思った」
「オル爺と大将軍は色々と張り合ってるそうだし。まぁ、戦友って言葉が一番近いかな」
これだけ滅茶苦茶な人材がいてどこが五大国中最弱の軍事力なんだよと突っ込みたくなったが、あくまでも基準は五大国としてだと思い返した。
他の中小国から見たら圧倒的だからラインボルトは五大国の一つに数えられているのだと。
オルフィオの先導で城の中を進むうちに人の往来がなくなった。丁度、廊下を挟むように立つ鎧姿の男二人の間を抜けてからだ。
「もしかして、ここって立ち入り禁止の場所なんじゃ」
「その通りです、殿下。ここから先は許された者以外に入ることの許されない場所になります」
殿下、とオルフィオが使った通りにここにはもう部外者はいないということだ。
「それなりに立場のある者は市井の者たちに気を遣う義務がありますからな」
「平日に遊び回ってる後継者一行だと幻滅させちゃうか」
「まさにまさに。市井の者は高貴なる立場にある方々にそうあれかしと夢想するものです。つまらない日常とは異なる世界が存在する。それはどのようなものであろう。それを夢想することで彼らは一時の楽しみを得る。高貴なる者とは富裕なのではなく市井の者の夢想が産み出した幻想とも言えるでしょうな。無粋な言葉を使えばありがたみといったところでしょうな」
高貴なる者と表現すると堅苦しさが全面に出過ぎて実感しにくい。しかし、それを芸能人などに変えてみると分かりやすいかもしれない。
「それじゃ、その高貴なる立場にいる人たちは何を夢想すれば良いんでしょうね。王様にとっては頭の上からつま先まで現実しかありませんし」
「さて、それは個々人で見付けることかと。神々に帰依する方、世界に武威を示すことを望む方、富裕を求める方。歴史に自身の名を深く刻むことを願う方。
さて、殿下は何を望まれますかな?」
「そうだなぁ」
幻想界統一は人から見れば夢想と表されるかもしれない。しかし、これはアスナにとって実行することが決められたことだ。野望であって、夢想ではない。
「……神さまにお祈りするほど年は取ってないし、縋ることなんか考える間もなく色々と乗り切ってきたしい。金持ち云々って言っても根が貧乏性だし、歴史に名を刻むのはオレじゃなくて歴史家の趣味だろうし。ホントにどうしましょう」
「私は殿下に何を夢想するかを指し示すことは出来ません。しかし、建国王の夢想をお見せすることは可能です」
「それって……」
「それは着いてのお楽しみです」
案内された先は執務室だった。
一見するだけで重職にある者が使用する執務室だと分かる。
重厚にして品の良さが伺える調度が揃えられている。全体的な色合いは年月の重さを感じさせるが窓から射し込む陽の光がそれらを和らげているように思える。
半年ほど前までならば足を踏み入れるどころか扉から伺うことすら気後れしたであろう部屋にアスナは自然体で入った。
豪勢な生活に慣れた訳ではなく――これからも慣れないだろうが、ある程度はこういった品との接し方を覚えたのだ。
要するにとある食器が高かろうが安かろうが食器は食器として普通に使うしかない。つまり、開き直ったのだ。高価な物の手入れは専任の者がしているから気兼ねをするだけ無駄とも言える。
といったこと助言をアスナはストラトから貰ったのだ。実際はどうなのか分からないが彼は自分の執事長の言葉を信じることにした。
アスナに食器や調度品を壊して遊ぶ趣味はないのだから。
部屋から迎える形で先に入室したオルフィオは威儀を正して一礼した。
「先刻よりの無礼の数々、平にご容赦を。旧城エグゼリス城代、王宮騎士オルフィオにございます」
ラインボルトにおける騎士とは名誉称号以外の意味を持たない。大きな武功、多大なる功績を掲げた武人に贈られる。その証明して騎士位を持った軍人は鎧などに家紋を入れることが許され、王城へこよりで封はされているが帯剣したまま登城することが許される。
騎士位の上位として雑号将軍というものがある。フォルキスの鎮定将軍などがそれに相当する。オルフィオの王宮騎士とは騎士位の最上位となる。
ちなみに学者や芸術家などには勲爵士の位が贈られる。
「坂上アスナです。魔王の後継者をしています」
「近衛騎団司令部付き護衛隊隊長サイナです。オルフィオ様の勇名はアスティーク参謀長から聞いています。お目にかかれて光栄です」
リーズを相手に勇戦した当時の団長を前にして興奮しているのか彼女の頬は紅潮していた。そのことが分かっていても面白くないと思ってしまうアスナなのである。
「そう固くならなくともよい。貴官の名は私もアスティークから聞いておる。参謀格としても、殿下の護衛としても活躍したと。貴官のような優秀な者が現れると分かっていれば引退などしなければよかったかもしれぬ」
本気で悔しげな口調だ。穏やかな老紳士が勇名を馳せた武人であった証とも言えるかも知れない。それ以前にフォルキスの決起を止めることが出来たかも知れないと。
近衛騎団団長が軍に口出しすることは立場上出来ず、また決起の証拠を掴めたかどうかは分からない。だが、多少なりとも可能性はあったかも知れないのだ。
「ありがとうございます」
「歳を考えろよ。アスナに振り回されて寿命縮めるのがオチだぞ」
「いやいやいやいや。振り回すってなんだよ。オレは扱き使っただけだぞ」
「世間ではそれを振り回すって言うんですよ」
ため息気味のエルトナージュの言葉にヴァイアスとミュリカは大きく頷く。サイナは微苦笑を浮かべている。
「それにすでにオルフィオ様もアスナは振り回していますよ」
「オレ、オルフィオさんとは今日が初めてだぞ?」
「宰相軍が抜けた後の首都の治安維持をお任せしていたんですよ。アスナもその命令書に署名しています」
オルフィオを責任者として召集した予備役兵を編成して、治安維持にあたったのだ。
「知らなかった。思ってもみなかったところでオルフィオさんとの繋がりがあったんだな。……けど、それだったら王城に帰ってきた後で会う機会があったと思うんだけど」
王城に戻ってから様々な仕事を任せた責任者たちとの面会だけではなく、内乱中何もしていない連中とも会っている。首都の治安責任者ともなれば、面会リストの上位に載っていても不思議ではない。
「はははははっ。お目にかかる栄誉を得てはおりましたが、風邪をひいてしまいましてな。不甲斐ない限りでございます」
と、苦笑を浮かべる。そして、大きな手でソファを勧める。
「おっと、いつまでも立ち話を続ける訳にはいきませんな。すぐにお茶をお出ししましょう」
一礼すると隣室、元・秘書室へと向かった。今ではそこが給湯室代わりになっているのだろう。オルフィオの背中が扉の向こうに消えるとヴァイアスが嬉しげに呟いた。
「オル爺は相変わらずみたいだ。アスナじゃないけどオル爺はああ見えて菓子作りが趣味なんだ」
「人は見かけによらずだな。書画とかを嗜んでるような見かけなのに」
「オル爺様の奥様、ミーティ婆様のご実家が菓子屋で、ご実家に結婚の許しを貰いに行ったら娘を嫁にしたかったら私を納得させる菓子を作って見せろとか言われたそうです。それが切欠で趣味になったみたいです」
「今でも季節の便りと一緒にお菓子も贈って下っています。先日、サイナと一緒にクルミを錬り込んだクッキーを食べたでしょう。あれがそうです」
「そうだったんだ。それじゃ、今度お礼にオレの方からもこっそりと贈ろうかな」
「きっと喜んでくれますよ」
嬉しそうにエルトナージュは笑みを浮かべた。
自分の祖父同然の相手と仲良くしてくれて嬉しいのだろう。
「そういやデミアスさんとはどうだったんだ? あの人もエルたちにとってジイさんだったんだろ?」
「そう、ですね。爺は本当の意味での私の祖父だから」
「どういうこと?」
エルトナージュの母親は紛れもない人間だ。幻想界の者であるデミアスが彼女にとって本当の意味での祖父というのはおかしなはなしだ。
「素性の知れない人族の女を魔王の寵姫にするのに少なくない反対の声があったんです。身元保証人代わりとして爺が母を養女にしたの。血の繋がりはなくとも祖父なのよ」
デミアスを追放同然に扱ったためかエルトナージュは様々な色を含んだ表情を浮かべながら話した。なんとも複雑である。先王の信任篤い宰相だけではなく祖父をも追放したのだ。形振り構わず王への道を駆け上がろうとしたのだろうが、それだけに周りが見えにくくなっていたのだろう。
情として祖父を追放した者とともに歩もうとする者がとても少ないことに。
「オルフィオ様が遊び相手だとすれば、世間のことを教えてくれたわ。民情の視察に社会見学と称して色々と連れていって貰ったこともあった。考えてみれば宰相執務室で子どもが絵を描いて遊んでいるという情景は凄いわね」
「けど、それだけデミアスさんがエルたちを可愛がっていた証拠でもあるんじゃないかな」
「そうね。そうなのかも。……アスナの方はどうなの? 随分と色々な薫陶を頂いているみたいだけど」
「うちのジイさん? 遊んで貰ったし、色々と面倒も見て貰ったし。うちは両親共働きだから余計にそうなのかもしれないけど。どこにでもいる普通な人だよ」
しかし、四人ともアスナの言葉を信じているようには見えない。サイナですら控えめなジト目を向けてくる。
「ホントだって。昔話が好きなくらいで他はホントに普通だから。それはそうと……」
嘘偽り無く普通の人だったジイさんを特別視されても困るとばかりにアスナは誤魔化すように視線を対面の壁に掲げられた絵画に視線を向けた。
「でっかい絵だな」
それは大きな、とても大きな絵画だ。
数多くの人が屋外で盛大な宴を催している様子が描かれている。食事を楽しむ者、談笑をする者、楽器を演奏する者と多才だ。どの表情も楽しげだ。
使用されている色はどれも明るく、描かれた当時の状況を物語っている。叶うことならばこっそりと絵の中に入り込んで宴会に参加したいと思わせる雰囲気がある。
「なんていうタイトルか知ってる?」
「殿下ならばなんと命名されますかな?」
声に振り返ると両手に盆を乗せたオルフィオが立っていた。お茶請けにはクッキーだ。あの素朴な甘みをまた楽しめるかと思うと少し心が弾む。
「そうですね。オレだったら祝賀会かな。パッと見しただけなんですけど、どの顔も楽しそうだから。なんていうのかな何かを無事に終えたみたいな雰囲気がでてるような気がする」
「当たらずも遠からずといったところですな」
順次、お茶を配膳していく。柔らかなお茶の香りが気持ちをさらに和らげてくれる。
テーブルの中央にバスケットが置かれ、そこには色鮮やかなお菓子が揃えられている。
「この絵の題は”豊穣の季節”と言います。建国三百年を祝して描かれた絵画なのです。
この”豊穣の季節”にはなかなか面白い仕組みがあります。
例えばこの青年。彼の視線の先には談笑をする一組の男女がおります。彼の表情から察するに青年はこちらのご婦人に声をかけたいのでしょうな。しかし、このご婦人をよくよく見てみればほんのりと頬を染めております。どうやらご婦人は会話相手に気がある様子。
ですが、ご婦人の想いは男には通じておりません。なぜなら彼が気にしているのはこちらの食卓に並べられた料理なのですから。
このように”豊穣の季節”には解釈次第で色々な物語を紡げるように出来ているのです。
学者の中には描かれた楽団が何を演奏をしているのか真剣に研究している者もいるそうですからな」
「言われてみると確かに想像力を刺激するような絵ですね。学者がそんなことに一生懸命になってるってのも面白い」
「それだけ興味深い絵だということですな。ラインボルトで最も有名な絵画であり、謎多き絵画でもあります。その一つに作者が不明なことがあります。魔王よりの依頼にも関わらず何故、名を隠したのか。また、”豊穣の季節”はこれ一枚だけではないことも上げられますな。宴の全てを描こうとした結果ではないかといわれております」
「それで全部で何枚あるんですか?」
「不明なのです。旧城エグゼリス、各王家の城館、諸州の政庁、そして王墓にそれぞれ一枚ずつ存在しております」
「……エルの家にも?」
「私の領地に建てた城館に飾られていますよ。この絵とは違うものですけれど」
「へぇ。……王城にはない理由はなにかあるんですか?」
「今の王城が完成した際にこの”豊穣の季節”も王城へと移そうという話があったのですが、時の魔王がこの絵はこの場にこそ相応しいと据え置かれたのです。以来、”豊穣の季節”はこの執務室に飾られ続けております」
そこでオルフィオはイタズラな笑みを皺深い顔一杯に浮かべた。
「殿下は如何なさいますかな? お気に召したのならば王城へとお持ち帰り下さっても構いませぬが」
アスナはそれに応じるように笑みを浮かべると顔を横に振った。
「この絵が見たくなったらここに来ます。オルフィオさんのお茶とお菓子を楽しむついでに」
「はははははっ。光栄至極です」
笑み崩れたまま一礼する。そして、再び”豊穣の季節”を見た。
「この絵には謎が多くあります。なぜ作者の名が明かされないのか、なぜこれだけ多く描かれその総数も明らかにされないのか。保管された絵画の全てを知る者は内府だけに限定されている理由は何であるか等々。
しかし、一つだけ明確なことがあります」
「それは?」
「これこそが建国王リージュが夢想し、手にしたものなのです」
「……だから、”豊穣の季節”なのか。この中に建国王の姿はあるのかな」
「どうでしょうか。学者の間でもいるともいないとも意見は分かれております。全ての絵が公開されていない以上、真偽は定かではありませんが最も有力な説は建国王が見ている情景を描いたのではないかと言われています」
オルフィオの解説を耳にして一つ気が付いたことがある。
絵の手前、つまりこの光景を見ているというリージュの側には誰もいないことに。
「…………」
この絵には様々な仕組みが込められているという。ならば、特定の立場にある者に向けて伝えたい言葉も込められているのではないだろうか。
素直に見るのならばリージュの側には誰もいない。つまり、王は孤独であり、宴に盛り上がる者たちを見守るべき者であると暗示しているのではないだろうか。
確かに王は孤独な存在だ。重要な決断を自分一人で決さなければならない。また、煌びやかであるが故に擦り寄ってくる者も多い。
責任の大きさ故に孤独感を感じる要素は幾らでもある。それが王なのだ。
「……アスナ?」
エルトナージュに声をかけられ、アスナは笑みを浮かべた。
絵画は描かれた以上のことを語らない。画家の意図がどうであれ、鑑賞者の解釈も解答の一つなのではないだろうか。なぜならどのような解釈であろうと絵画を見た結果、思い浮かんだことなのだから。
だから、アスナは笑ったのだ。
「深刻な顔をしたり、笑ったりどうしたの?」
「オレはまだまだだなぁって思っただけだよ」
「なんだ、そりゃ?」
「複雑に言えば王様の憂鬱かな」
その後はさして難しい話もなくオルフィオを交えて雑談に興じた。
内乱中にあったあれこれやオルフィオの武勇伝などなど。近衛騎団組は別の感慨を持っていたようだが、アスナにとっては楽しいだけの一時だった。
晩餐を予約している時間が迫り、別れを惜しみながらも旧城を辞することにした。別れ際に手製の菓子を渡された。もちろん、旧城の土産物店で売っているお菓子などを買っていくことも忘れなかった。
沈み行く太陽。幻想界で最も朱に染まる一時が訪れる。
夜の到来を万人に知らしめるかのように全てが朱に染まるのだ。
その夕焼けを眺めながら”豊穣の季節”をアスナは思った。
リージュは喜びの宴を開くことを夢想し、それを実現した。
彼女が何を思い何故このような夢想を胸に抱いたのかは知りようもない。しかし、彼女がその夢想を抱いたおかげで竜族との戦いを潜り抜け、ラインボルト建国の偉業を達成したのだ。それは紛れもない真実。
ならば自分はどうなのだろうか、とアスナは思う。
幻想界統一は既定路線である。考えるべきはその先だ。
統一を果たした後に何をするのか。
無難に王様をするのも悪くないだろう。だが、それだけというのも彩りに欠ける。
ならば、何をすれば良いのだろうか。
ふと、談笑するエルトナージュたちの声が聞こえた。それを引き金にとある名案が思い浮かんだ。どうしようもなく下らないけれど、とても楽しいことを。
「……そっか。そうだよな」
「アスナ?」
「アスナ様?」
位の腑に落ちた! とばかりに意味不明に元気な声を上げたアスナに彼の大切な二人が怪訝そうな顔を向けてきた。アスナは心から楽しげな笑みを浮かべながら、
「幻想界を統一したらでっかい遊園地を作ろう」
「遊園地?」
「そう。世の中には戦争よりも面白いことは幾らでもあるんだからさ」
料理店への道中、四人に遊園地の何たるかを話して聞かせよう。
まずは観覧車からが良いかも知れない。あれを語らずして遊園地を語ることは出来ないのだから。
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