第一話ー1


 繰り返される悪夢は彫刻のようなものだ。
 茫洋で捕らえ所のないそれは強い恐怖だけを見る者に感じさせる。それが繰り返されることで徐々に輪郭を持つようになり、やがて消えることのない形として見る者の心の深奥に刻み込まれる。それも幾つもの装飾を加えてだ。
  形を持つに至った悪夢はもはや身体の一部になっていると言っても良いだろう。身に刻み込まれた刻印から止めどなく恐怖、絶望など不快な感情が滲み出してくる。
  その感触たるや汚泥の中を溺れる感覚に似ている。必死に藻掻こうとしても逃れることは出来ない。自身を引き込もうとしている汚泥は自分の身体から出ているのだから。
  それは何度となく同じ悪夢を見続ければ理解することの出来ない感覚。
  今もそうだ。
  雪人が見る夢がまさにそうだ。
  彼の見る夢は何時も母親に手を引かれるところから始まる。周囲には自動車の列とその隙間を埋めるように逃げまどう人の姿がある。
  母親が何か語りかけてきているが、何を言っているか分からない。
  息が切れ、何度も足が縺れても母親は自分の手を持って引きずるように走り続けるている。自分が吐く息の音がはっきりと聞こえる。脇腹が捻れたように痛み、骨が軋んで悲鳴を上げる。それ以上によく分からない恐怖で押し潰されそうになる。
  何度も倒れそうになる幼子に必死の形相で声をかける母親を冷静な目で雪人は見ていた。
「……またか」
  疲れ切った呟きが漏れる。
  夢の中で本能に植え付けられるような恐怖を感じる自分とは別に、この状況を客観視する自分が同居していた。
「いい加減にしてくれよ」
  後者の雪人にしてみれば結末の分かり切った映画を頭痛と吐き気を憶えながら見せられているようなものだ。耳に出来る音は皆無。さながら無声映画といった趣だ。
  幼い頃はもっと色々な音があったような気がする。
  自分たち母子に叩き付けられる罵声、無意味に喧嘩を始める声や子どもの泣き声。
  だが、そういった狂騒が今はない。
  自分の吐息や足音、母親の声すら消え失せてしまっている。
  残ったのは不安と恐怖、無力な自分に対する罪悪感で形作られたこの風景のみ。
「オレはこんな夢なんて見たくないんだ!」
  しかし、夢という映写機は見る者の意思を無視して結末へと導いていく。
  不意に母親の表情が強張る。足を止めることなく振り返った母親の背の向こうに見えるのは彼女と同じ張り付いたような恐れ。
  何かが雪人の身体に響く。相変わらず無音の世界であり、何も聞こえてこないはずなのに強く響いてくる。それを一言で表すのならば畏怖であろう。
  音が聞こえなくとも圧倒的なソレはただ接近してくるだけで、怒濤が迫ってくるような想像を叩き付けてくる。音など関係ない。恐怖はただ存在するだけで”恐怖”なのだから。
「来るなっ、来るなぁ!」
  雪人の恐怖に同調するように幼子の雪人が音もなく泣き始める。
  周囲で叫び声が上がった。無声であっても関係ない。恐れという生の感情を顔に浮かび上がらせて駆けだした彼らを見れば分かることだ。
  迫り来る何かから逃れようと人々は自らが海嘯の如く前を走る人を押し倒し、踏み付けながら駆け続ける。母親もまたそうだ。幼子を抱きかかえて走り出した。
「オレのことなんかどうでも良いから! 母さんだけで逃げろよ。そしたらもしかして助かるかも知れないじゃないか!」
  悪夢の結末を変えることは不可能。万が一、出来たとしても目覚めた後で揺るぎのない現実に叩き伏せられるだけだ。
  それでも雪人は叫ばずにはいられなかった。せめて夢の中だけでも生き残って欲しいと。
  これから何が起きるのか分かっている。それを防ぐことの出来ない苛立ちと、その後に起きる恐怖が彼の身体を締め付ける。
「捨ててくれ! オレなんかが生きててもしょうがないんだから」
  音のない泣き声に思いを込めて叫ぶ。
  母親には届かない。身体をぶつけられ、何度も倒れそうになりながらも必死に母親は自分を抱えて走り続けている。
  雪人の音無き抗いの声を嘲笑するように夢は惨劇の開始を告げた。
「!?」
  粘つく赤い臭いと、それを越える獣臭さが押し寄せてきた。
  雪人の夢は時間の経過とともに音と臭いは消え去った。しかし、例外がある。その一つがこの濃密な臭気だ。
  最も消えて欲しいもののはずが、悪夢を形作る要素となり、心の最奥にこうして刻み込まれてしまった。
  そして、抗うことの出来ない圧倒的な気配。ソレに対する畏怖が無音の叫びとなって人々に伝播していくのが分かる。
  そして、叫びを聞いた者はただ一つの衝動に押し流されていく。
  逃げろ、逃げろ、逃げろ――と。
  しかし、すでに逃げ場はない。四方は自分たちと同じ逃げ惑う人たちに包まれているのだから。
  後方で血臭を振りまきながら命そのものを噛み砕かれた。怖気のする愉悦が込められた獣たちの原初の歌――遠吠えが唱われる。
  無音の世界で鳴り響く幾つもの遠吠えが、雪人を震え上がらせる。
  獣たちが上げる遠吠えは死の宣告そのものだ。人々の本能を震え上がらせ、恐慌状態に追い込んでいく。
  右往左往する人の波の中で何がどうなったのか、雪人には分からない。ただ確かなことは何度も身体をぶつけられながらも母親が自分を手放さなかったことだけだ。
  狩猟の喜びが響く中、逃げ切ることが叶わないと思った人たちは周囲のビルや止められた自動車の中に逃げ込み始めた。母親も逃げることに見切りを付けて周囲の人ともに近くに止められていたワゴン車の中に逃げ込んだ。
「ダメだ!」
  雪人が随分と後になって聞いた話では、自動車よりもビルに逃げ込んだ人の方が助かる確率が高かったそうなのだ。
  わざわざビルに入って各階を虱潰しに探すより、自動車という檻に自ら飛び込んだ獲物を襲うことを選んだのだろう。
「逃げ込むんならビルなんだ」
  しかし、声は母親に届かない。ワゴン車に滑るように乗り込むと泣きじゃくる幼子をあやしながら身を丸くした。同乗者たちから憤怒と苛立ちで作られた表情を向けられる。
  彼らが何を言っているのかは聞こえない。恐らく口汚く罵声を浴びせかけているのだろう。しかし、雪人にとってそれは恐怖でも何でもない。
  そして、母親の肩口からソレの姿の方が何倍も恐ろしかったのだから。
  一見しただけならば酷く痩せた犬だ。血に濡れる骨の浮いた体躯には体毛が無く、四肢も同様に痩せ細っている。しかし、頼りなさは全く感じられない。
  むしろ、1メートルを幾らか超える体高と相まって不気味さが強調されている。
  首の付け根近くまで裂かれた口は巨大で、人の身体など一口で四分の一を持って行かれるのではないかと思われる。唾液に濡れた歯が乱杭歯のように不規則に並んでいる。
  見た感じではそれほど鋭利ではないが、強靱な顎の力をもって獲物に食らい付くのだろう。
  夜闇の更に奥から這い出てきたような獣たちは人間たちの推測が正しいことを証明するかのように逃げ遅れた人たちを喰らう。血の饗宴の始まりである。
  母親に抱かれた雪人には外がどうなっているのか悪夢の中でも見ることは出来ない。ただ一度、自分たちが立て籠もるワゴン車に入れてくれとドアを叩いた男の顔が獣の口によって潰されるところだけが見えた。
  左側頭部から獣の顎門に捕らえられ、胡桃割り器で殻を割り砕かれるように頭蓋骨諸共噛み砕かれてしまう。あっという間の出来事だった。
  頭がどのように潰れたのかなど全く分からない。ただ獣が男の頭に食らい付いたと思った瞬間、すでに頭部がなくなってしまっていたのだ。ビシャッ、と窓が朱に染まった。
  潰されると同時に首のあった箇所から血が吹き出した。幾つもの穴が開いたゴムチューブから吹き出す水と酷似している。押し切られて潰された肉と骨が血液の流出を疎外しているのだろう。
  ワゴン車の窓を叩き続けていた男の意思を最後まで示すように、倒れる死体は一度、右拳を窓を叩くと倒れた。
  窓に付着していた男の血液と頭の内容物を拭き取るように男の姿は消えた。
  車内の人たちと同じく身を屈めて凶禍が過ぎ去るのを待つ母親に抱かれた幼子だけがその光景を見ていた。
  過不可となった恐怖が幼い雪人から音無き泣き声すら奪い去っていった。
  より一層濃密となった血と獣の臭気の中で音がし始めた。
  ボリボリグチャグチャグチャ……ボリグチャボリ……。
  断続的に続く咀嚼音。獣たちが何を喰らっているのか表す言葉は不要。
  同じ悪夢を何度も繰り返し見ている雪人ですら、生理的な嫌悪を憶える決して馴れることのない音。嚥下する音、時折、響くおくびの音を聞きながら雪人の目は新たな恐怖が目に映った。ワゴン車助手席側の天井に獣の牙が突き刺さったのだ。
  ワゴン車が悲鳴を上げるように震える。凶猛の体現たる顎門の力に抗しきれず、扉が撓み、カラスにひびが走り途端に白く染まる。
  獣の顎門の前では劣弱そのものである扉は冗談であるかのように引きちぎられてしまった。引きちぎった獣は自らの力を殺せずに扉と共に倒れたが、すでに周囲は獣で覆われている。労せず新たな獣がこれ幸いとばかりに顔を伸ばしてきた。
  助手席に座っていた男性は獣の牙から逃れようと足を振って抵抗するが、唾液を散らしながら開けられた顎門が男性の右の臑に食らい付いた。
  フロントガラスに血が飛沫、仰け反るように運転席に倒れようとする男の苦悶の表情が激痛を訴える。車内は酷い恐慌状態に陥る。
  運転席に座っていた女性が頭を振り乱しながらエンジンをかけて目一杯アクセルを踏む。突然に発進に助手席の男性の右足を喰った獣が姿を消す。だが、渋滞中の道路で進める距離など無いに等しい。急発進と前方で停車する乗用車と衝突したことが、かえって獣を呼び寄せる結果となった。それでも逃げようと運転席の女性はドアを開けて外に飛び出した。
  その後の運命は運転席に飛び込んできた血塊が全てを表していた。助手席の男性も運命は同じだ。座席を皿に見立てるとするならば、激痛で暴れる男性を食べずらそうに少しずつ食い散らかす様は人間の活け作りそのものだ。
  後部座席の他の二人は対照的な態度をしている。泣きながら狂って笑い続ける女性と後部座席に設えられていた工具を投げつけて助手席に顔を覗かせる獣を追い払おうとする男性。車内の行動に正否はない。あるのは獣に饗される順番を待つだけだ。
  運転席からもう一匹獣が顔を覗かせ、すでに絶命している男性の頭部に食らい付いた。
  獲物を横取りされて、助手席の獣は威嚇して牙を見せるが、運転席の獣は気にした風はなく、さらに一口喰らった。これ以上とられてはたまらないとばかりに助手席の獣は座席に転がる肉塊を外に引っぱり出した。
「勘弁してくれ!」
  拒絶の声に夢は従わない。継続の意思を告げるべく、飛び込んできた獣が笑い続ける女性の頭部に食らい付いた。だが、食べにくいのか女性の身体を深く咥え込むと外に引っ張り出していった。
  そして次に後部座席の扉も取り外されてしまった。残った男性は身近にある物を投げつけて対抗するが意味がない。乗り込んできた獣に脇腹を咥えられて車外に引きずり出される。
  外からは間断なく咀嚼音が響き、車内は血臭に満ちている。
  傍観することは許さない。乗り込んでこようとする獣たちを押しのけてついに車中に一匹乗り込んできた。朱の臭いよりも濃い獣臭が迫る。
「やめろぉぉぉ!」
  それはあっという間の出来事だった。抱きかかえられた幼児が朱に染まった。
  顔を上げた獣の口からは赤い液体が垂れ、口端に布きれがぶら下がっていた。
「ああああぁぁあぁああ!」
  雪人の叫び声を遮断する様に乾いた音が響いた。

 頬が熱い。
  パジャマがじっとりと汗に濡れ気持ちが悪い。布団に篭もった熱も相まって蒸し風呂のようだ。
  時計を探して視線を動かすとそこに一人の少女がいた。美咲だ。自分を覗き込んでいたのかベッドに膝立ちにしている。
  明るい紺のブレザー、内に着たワイシャツの白に臙脂のネクタイが映える。
  こちらを見る瞳に心配そうな色があったが、すぐに普段の穏やかなものに変わる。
  吐息が漏れる。随分と身体に無理な力が入っていたようだ。ベッドに改めて身を預ける。
  右袖で汗を拭うと先ほどよりも長いため息を漏らす。力無く落とした右腕がベッドが受け止める。
  また見られてしまった、と後悔がよぎる。これで何度目になるのかすら分からない。
  雪人の責任ではなく、また意味もない後悔であっても、申し訳なく思う。
  内容は知らなくても、悪夢にうなされる姿を見るのは気持ちの良いものじゃない。
  ゴメン、と口を開こうとすると不意に目覚まし時計が鳴った。
  すかさず少女はベッドボードの時計を止める。
「おはよう」
「……おはよう」
  何となくタイミングを逸して、出すはずだった言葉が胸の中でもやもやする。
  が、このままベッドに寝転がっていて良いわけが無く、雪人は爽快とはほど遠い気分のままで身を起こした。すかさず差し出されたコップ一杯の水を一気に三分の二ほど飲む。
  一口ごとに体内で渦巻いていた悪夢の残滓が取り払われていくような気がする。
  そして、もう一度吐息。ようやく目が覚めたような気がする。
  気怠さはまだ残っているが無視できる程だ。開け放たれた窓からは淡い朝の光が射し込んでいる。朝の冷気が余分な熱を取り払ってくれる。
  ゆっくりと身体を起こしていく雪人とは対照的に美咲は手際良くバスタオルと自分と似たデザインの制服の準備をしていく。
「はい。寝汗で気持ち悪いでしょ。シャワー浴びてきて。八時集合だから出来るだけ急いでね」
  時計の針は六時四十分の辺りを刺し、二月十日の日付を示している。十分に余裕に見えるが三十分前には集合場所で待機している必要がある。それを考えるとあまり時間があるとは言えない。
「それから……あぁ、歯磨きも忘れずにね」
  これからの予定を明朗な声で告げていく。まだほんの一週間ほどの付き合いでしかないが、随分と几帳面で段取りが良い性格だという事は分かった。
  多少、口喧しく感じる時もあるが、雪人にとって美咲というパートナーは非常に有り難い存在だ。
  自分の要領の悪さを補ってくれることはもちろん、悪夢に悩まされている自分にどんな夢を見ているのか聞かずにいてくれるところがとても有り難かった。
  神祇官の人事は必要以上にデリケートに行われると言うが、あながち嘘ではないようだ。
「……ユキ?」
  自分を女子っぽい響きの愛称で呼ぶところだけは如何ともしがたいところがあるのだが、有り難いことに変わりない。
  雪人は首を振ると、少しだけ彼女から視線をそらせた。何となく素直に感謝の気持ちを言葉にするのが照れくさい。雪人は話を逸らすことにした。
「昨日、遅くに帰ってきたのに、元気な」
  昨日は早朝に一度、昼間に二度、そして、夜間に一度出撃命令があった。星獣の襲来は断続的で連戦にはならなかったが、それでも苦戦は免れなかった。
  最終戦を終えた頃には雪人の依代は損傷していた左腕が上手く動かなくなり、両足の靱帯に相当するパーツが度重なる無理な機動に耐えられなくなり、歩行も困難な状態になっていた。香山たち残り三機も程度の差はあれ、脚部に負担が掛かっていた。
  そして、雪人たち新任神祇官が寝泊まりをする白鷺寮に帰ってきたのは日付が変わる寸前の頃だった。
「二度寝するつもりないけど、オレは疲れたよ。今日は一日中ぼぉっとしてたい」
  そのまま雪人は前屈するように掛け布団の上に顔を置いた。パジャマの首周りから汗臭い熱気が漂ってくる。身体は眠りを欲している。しかし、今寝てしまうと再び悪夢に捕らえられてしまうのではないかと思うと身体に反して意識が眠りを拒絶していた。
「誰かさんと違って寝付きは良い方だから。それよりも早く起きる! 昨日は結局、適当に汗を流しただけなんでしょ。個人的に相棒が不衛生なのはイヤなんだけど」
  不意に美咲の口元が怪しく歪んだ。獲物を弄んでいる猫が、もし笑みを浮かべたらこんな表情かも知れない。
  美咲は雪人に顔を近づけると、
「……ははぁ〜ん、そっか。ユキってば私に背中流して貰いたいんだ。このスケベ」
「そんなことあるか! あんな人としての尊厳を粉々にされること二度とされてたまるか」
「ふ〜ん、その割りにあの時凄く大人しかったけど?」
  朝の光を受けて彼女の長い黒髪が艶やかな輝きを見せる。少し長めに思える睫毛を乗せた瞳は心持ち大きく、幾分弓なりにこちらを見据えている。
  そして、リップクリームでも塗っているのか、濡れた彼女の唇がイタヅラな笑みを作る。
「ばっ、んなことない!」
  美咲に恋愛感情を抱いていない。彼女もそうだろう。
  だからといって、同じ年の女の子にこのような態度をとられてるとどうしても恥ずかしく思えてしまう。
「って、こんなことしてる時間なんてないんだから、そっちも集合の準備をやれよ」
  やけくそ気味に叫ぶと雪人はベッドから降りた。美咲から受け取った入浴セットを手に足早に部屋を出ていこうとする。
「ユキ、顔」
  浮かべた笑みをそのままに呼び止めると彼女は自分の頬を指さした。
「凄く赤いよ。風邪でもひいた?」
「うっさい!」
  美咲のからかい口調にますます赤面するのを自覚しつつもどうすることも出来ず、雪人は怒鳴るしかない。
  肩を怒らせながら部屋を出る彼の背を見ながら美咲は心底楽しそうな笑い声を上げた。腹立ち紛れに雪人はドアを叩き付けるように閉める。
「ったく、朝っぱらからなに考えてんだよ」
  雪人は気付いていない。心の奥深くで澱んでいた悪夢の残滓が祓われていることに。




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