第一章

第三話 一つの目的の下に


  幻想界の夜。
  静かな時間を演出するように闇が全てを包み込む。天上にある星々や月が放つ柔らかな光がその闇を明確にする。
  道を歩けば話し声を耳にすることもできるし、確かな存在感を感じることもできる。
  それでも幻想界の夜は静かなのだ。
  だが、ここファイラスではいつもの夜の演出を裏切るような強い光と喧噪の中にあった。
  闇を切り裂く強い篝火の光、行き交う兵とそれを指揮する者たちの大声。
  炎と喧噪。そして、新たに何かを造ろうとする木槌の音。ただ陽が沈んだというだけで日中と変わらない喧噪をファイラス中央に建てられた市庁舎のテラスから見下ろす人物があった。
  腰まで届く長い髪は月明かりを受けて銀に輝き、街並みを見下ろす瞳は海を思わせる碧だ。軍に属する者とは思えない覇気のない表情。なまじ細面の美形なだけにその印象をさらに強くしている。身に纏った黒のローブと銀の髪が風に揺れる。
  彼の名はLD。現在、革命軍の軍師である。彼の言葉を借りればただの雇われ者。
  ともあれ軍師として雇われている以上、こなさなければならない仕事は山積みだ。
  ラインボルト第三の都市ムシュウから発し、ここ第二の都市ファイラスまで到達するまでに三ヶ月近く経っている。彼が立案した計画では遅くても蜂起して一ヶ月後にはファイラスに到達しているはずだった。では、なぜこんなにも時間を浪費してしまったのか。
  理由は至って簡単だ。彼の立案した計画以外の行動を多くとったからだ。
  本来ならばここファイラスとムシュウを結ぶ幾つかの中継都市、首都エグゼリス周辺の三都市の制圧のみを行い、首都エグゼリスの包囲を完成させる。後は宰相と交渉を行えば要求は楽に通るはずだった。
  状況を開始する以前から策を弄してきた自分たちとは違い、宰相エルトナージュは蜂起によって抜けた穴を編成し直し、革命軍との内通者はいないか調査するところから始めなければいけない。
  前の宰相補佐との政争を勝ち抜き、文官たちを掌握したエルトナージュと言えどもこれだけのことを行うのには時間がかかる。何よりエルトナージュが掌握しているのは文官たちであって残った武官たちを完全に自分の指揮下に置いているとは言えない。
  宰相はあくまでも文官の長であって、軍の指揮権は持っていないのだから。仮に王族としての権威と彼女自身の名声をもって残った将軍たちを統率にするにも限界がある。
  それに、その残った将軍たちに対してもLDは調略の手を伸ばしている。
  加勢せずとも、動かなければ現在の地位は保証すると。
  このような状況では、いくら兵が揃っていたところで軍として動かすことは出来ない。
  だからこそ早期に決着をつけられるように段取りを済ませておいたのだ。だが、実際に蓋を開けてみればこの通り。三ヶ月という無駄な時を過ごしてしまっている。
  内乱によって無闇に犠牲者が増えることを嫌ったエルトナージュのとった遅滞戦術及び残存兵力の首都集中策が図らずも成功したといえるだろう。いや、事を起こした革命軍自身がその手伝いをしたと言っても良いだろう。
  LDはファイラス制圧後の各部隊の状況を記した資料に目を移し、苦笑を浮かべた。
  ……酷いものだな。
  損害、つまり戦死者や重傷者はさほどではない。ファイラスがエグゼリスと目と鼻の先と言っても良い距離にあるため、これまでよりも多くの守備隊が駐屯していた。
  いかに革命軍が二十倍以上の兵力を有しているとはいえ、城壁を有した都市に篭もった一万もの軍を相手にするのは骨が折れる。
  だが、実際は内通者の手引きもあり小競り合い程度の戦闘が行われたのみで制圧することが出来た。
  問題なのはここから先だ。最大の問題は兵たちの疲労度が無視できないまでにきているという点だ。
  当然だ、とLDは断定する。
  ファイラス制圧する今日までに経済的、技術的に重要な都市や鉱山などを制圧して回ったのだから。簡単に言えば革命軍はラインボルト南部を駆けずり回ったということだ。
  全く無茶苦茶も良いところだ。
  もし、この状況下で宰相派が全力でファイラス奪還に動けば敗退を余儀なくなる。そうなれば目的の完遂は不可能となる。
  革命の名を冠しているものの実際は反乱でしかない。この後ろめたさをどうにかするためには勝利し続けなければならない。特に国家の正統と剣を交えるともなれば。
  もし、負ければ革命軍に属する部隊の大半が宰相派に寝返ることは予想できる。
  それ以前にこんな状態では戦いにはならない。一方的な虐殺が行われるのは目に見えている。
  考えるだけで憂鬱になる。彼にしては珍しくため息をもらそうとしたその時、声をかけられた。良く通る太く大きな声だ。
「憂鬱そうだな。LD」
「その憂鬱の元凶がそんなことを言うな」
  彼に声をかけたのは革命派総司令官兼第二魔軍司令フォルキス・オーガタイルである。
  身の丈180を優に越える長身で筋肉に覆われた巨漢だ。その巨体故に身体にあう鎧がなく急所のみを保護する防具を身につけている。彼の巨体以上に目をひくのは彼の背と同じだけの丈を持った巨大な剣だ。将軍というよりも傭兵といった風貌だ。
  軍装を解いていない所から、兵たちの様子を見てきたのだろう。
  その彼の傍らには憂いの表情が似合いそうな黒髪の女性が控えている。フォルキスの副官で名をマノアといった。
  率先して最前線で戦う癖のあるフォルキスが将軍の地位にいられるのは彼女の存在があるからというのが周囲の見解である。
「お前があんなバカな要求を素直に飲まなければこうならなかったんだ」
  バカな要求とは前述した必要でない都市や鉱山の制圧したことである。LDは作戦立案当初から反対の立場にあったが、彼はあくまでも一軍師でしかない。
  革命軍の最高意志決定者であるフォルキスの言葉には従わざるを得ない。
「はははっ、そう言うな。これだけの規模の軍を動かす以上金がかかるんだ。多少の融通は聞いてやらないとな」
「だからといってこれはやりすぎだ。いまさら言ったところで仕方ないが」
「今回の件に必要な軍費のほとんどを彼らが拠出しているんだ。それに俺たちは報いないといけないからな」
  彼らとは革命軍の主張に賛同した名家や有力商人たちのことだ。
  ラインボルトには君主たる魔王は存在しているがその取り巻きである貴族たちは存在していない。国家の管理、運営の全てを官僚たちが行っているのだ。
  その官僚たちの中で重職に就いた者には名家として名を連ねることを許される。名家は式典や公式行事に参加する権限以外の特権を有さない、文字通りの名誉称号だ。
  だが、彼らの持つ人脈と知名度はもちろん、無視することの出来ない能力と財力とを有していた。それはラインボルトの立法府が名家院と呼ばれるところからも分かるだろう。
  ともあれ、彼らの資金援助がなければ決起することもおぼつかなかったことは確かだ。
  義を重んじるフォルキスとしてみれば彼らの意見を無視することはできなかった。少なくともフォルキスは軍議の場でそう主張して、諸都市を征圧する案を押し通した。
「だから蜂起前にも言っただろう。そういうことは戦後で十分だと」
「むぅ」
  腕を組んでフォルキスは唸るがそれだけだ。
「全く、こんな上官を持って君も大変だな」
  フォルキスの側で申し訳なさそうに佇んでいるマノアに声をかけた。
  彼女は途端に顔を赤くして両手を前にして振る。
「そ、そんなことないです。フォルキス様は優しくて義理に篤い素晴らしい方です」
  今度こそLDは深いため息をもらした。予想通りの返答だ。
  彼女はフォルキスに対して上官に対するもの以上の感情を持っているのは周知の事実。
  それ故にフォルキスの言動を全て肯定しようとするところがある。盲信と言って良いのかも知れない。
  LDがため息を向けたのはいつまで経っても気付かないフォルキスに対してだ。
  二人の間の事に他者が立ち入るべきではないと、思考を軍師のものへと変える。
「それでどうしたんだ? 軍議までまだ時間があるが」
「ああ、後継者が発見されたらしい。そのことで軍議の前にお前の意見を聞いておきたいと思ってな」
「そのことなら私も耳にしている。我々にとってはまずい展開だ」
  頷くフォルキス。すでに表情は一軍を預かる将軍のものに変わっている。
「ここまで来て後継者が現れるのは困る」
  と、フォルキスは自分に言い聞かせるように復唱する。
「そうだな。私たちの行動は魔王が不在ということを前提にしているからな」
  彼らが掲げている大義名分は以下の通りだ。
  国内政治をないがしろにする文官たちの粛正。
  魔王不在により枷の外れた竜王の国リーズと海王の国アクトゥスの小規模軍事衝突に対応するための軍備増強。
  エルトナージュ政権の退陣。
  継承者が現れるまで軍政を敷くこと。
  これ以外にも民情不安に対する政策の実現なども含まれる。
「お前ならどう対処する?」
「その話の前に一つ確認しておこう。まだ姫君を迎えるつもりでいるんだな?」
「いや、それは、この件に関しては関係ないだろ!」
  巨体を大きく揺らしてフォルキスは狼狽える。顔まで真っ赤になる。
  豪快な印象を他者に持たせる彼がこんな態度に出ると似合わないことこの上ない。
「関係なくはない。そもそもお前が姫君を政治のいざこざに巻き込みたくないと言ったことが原因なんだぞ。もちろん、文官たちの不甲斐なさに憤りを感じた武官たちがお前をけしかけたというのもあるが。どうなんだ? 私は君に雇われている以上、その意思に従って行動しなければいけないんだ。君の意思次第で全てが決まる」
「…………」
「フォルキス様」
  どこか不安げな瞳をマノアは彼に向ける。だが、向けられた人物はそれに気付いてはいない。
「どうなんだ?」
「俺の意思は変わらない。エルトナージュ様には昔のように笑っていて頂きたい」
  マノアは諦めたかのような、それでいて悲しみをたたえた瞳を伏せた。
  その彼女に視線を向けるもののLDは雇い主に従って頷いた。
「分かった。ならば取るべき手段は一つだな」
「どうするつもりだ?」
「このまま主張を変えずに行動を続ける」
「正気か?!」
「軍師様を疑うわけではありませんが後継者殿下に逆らうことがどういうことか」
「そう、凝り固まるな。考えてみろ、我々の主張は魔王不在の間に成立した政権に対する不満をもとに行動している。それは分かるな?」
  頷きで答える二人。表情から察するにマノアはLDの言葉が何を意味するか察したようだ。
「つまり、我々が敵対しているのは現政権であって魔王ではない」
「欺瞞だな」
  うんざり顔になるフォルキス。彼はこういう政治的な欺瞞を嫌ったからこそ行動に出たのだから。
「欺瞞でもなんでも構わない。私の仕事は雇い主の目的を達成することだ」
「だがな……」
「だがも、なにもない。第一、君は目的を達成したら、その欺瞞の世界に今以上に深入りすることになるんだ。この程度のことで文句を言うな」
  理屈は分かるが納得が出来ないと表情を表すフォルキスにLDはため息をもらす。
「それに少しは兵たちのことを考えてやれ。後継者が発見されたことを知れば、自分たちのやってきたことに不安を覚えるだろう。私たちのようにそれなりの力があるわけではないんだからな」
  雇われ軍師として幻想界に名の知れたLDや将軍や副将クラスの者ならば他国に仕官することも比較的容易だろう。だが、一般兵である彼らには名声もなければ伝もない。なにより人魔である以上、まともに生きていけるのはラインボルトだけだ。
  そのラインボルトの主に刃を向けて平気でいられるはずがない。
  傭兵であるLDにはそのあたりのことを誰よりもよく理解していた。
「……分かった。それでどう動く?」
「基本的には現状維持だ。後継者といっても王城に入城したばかり。事情を聞かされても動揺するだけ。私たちの敵は今まで通り宰相ただ一人。何より魔王となるための継承の儀を執り行うには時間がかかる」
  魔王が継承するのは力だけではない知識も共に継承するのだ。
  あまりに強大すぎる力は制御法を知らなければ暴走の恐れがある。唯一無比の力を持つ者が魔王なのではない。
  自らの力を自らの意思をもって操ることが出来る者。
  それこそが魔王なのだ。
  そのために知識の継承も必要になってくる。LDの言う時間がかかるとはこの知識の継承の方だ。膨大な知識に脳が壊れないように注意を払う必要があるからだ。
  もし、無理をすれば間違いなく廃人となる。過去数名がそうなった記録が残っているのだ。
  LDが強気の態度に出ようとする根拠はこの点にもあるのだ。場合によっては国情を理解していない後継者を宰相が騙していると声明を出しても良いと彼は考えている。
  宰相と後継者が同一ではないと麾下将兵及び国民に理解させれば良いのだ。
「現在、ファイラスを含めエグゼリス周辺の四都市を制圧している。つまり、首都の包囲は完成していると言うことだ。本来ならば全軍をもってエグゼリスに向かい一戦交えたいところだが現状では自殺行為だ」
「……兵たちの疲労ですね」
  と、マノア。さすがにフォルキスに代わって第二魔軍を取り仕切っているだけのことはある。革命軍の状態を良く把握している。
「そうだ。表にこそ出してはいないが彼らも相当疲れている。そこで一度大休止をとる」
  だが、そのあたりの事情を飲み込めていない人物がここに一人。いや、理解はしているだろうが、後継者出現で起きる将兵の動揺が最小限であるうちに事を済ませたいと考えているのだろう。LDはフォルキスの意見をそう捉えた。
「俺は反対だ。兵たちはこれまでの連勝で士気も高い。疲労など士気の高さで覆せる」
「ですが、フォルキス様」
「お前は黙ってろ。それとも自分の部下たちを信じられないとでも言うのか」
「いえ、そう言うわけではありませんが。……その」
「そのなんだ。言ってみろ」
  凄むように彼はマノアに顔を近づける。
「…………」
「お前の第二魔軍はそれでいいのかもしれないが一般軍や第一魔軍の連中はそうじゃない。それに兵たちがここまで疲労を貯め込むことになった原因を作ったのはお前だということを忘れたのか?」
「ぐっ」
  忘れていたようだ。
「とにかくここで大休止をとる。いいな」
「……分かった。だが、その間に連中に攻められたらどうするつもりだ?」
「そうならないように比較的疲労の少ない部隊を選んで威力行動を行わせる。宰相は両軍に損害を出さないように無理な行動には出ないだろう」
「逆に宰相派の武官たちを刺激することにはなりませんか?」
「そうならないように一撃を与えたらすぐに撤退することを厳命させる。もちろん、私たちの事情が宰相派に気付かれないように降伏勧告も出す。余裕を見せるためにな」
「強気過ぎではないでしょうか? 宰相派には継承者がいらっしゃいます。それこそ反逆者の烙印を押されないとも限りません」
  後継者のエグゼリス入城で革命軍が最も恐れているのは反逆者の烙印を後継者自らに押されることだ。もし、そのような事態になれば革命軍は瓦解するのは目に見えている。
  魔王の力を継承していないにしても、後継者としての権威を宰相派は最大限に利用することが考えられる。互いに遺恨は残るものの血を流さないで済む策だ。
「降伏勧告というよりも要求書と言った方が適切か。後継者がエグゼリスに入城した今、私たちに争う理由はなくなった。ならば私たちの要求を受け入れてくれるのであれば速やかに兵を退くとな」
「こちらから停戦を呼びかけるということですか」
「そうだ。エグゼリスに対する示威行動はこの降伏勧告が無視された場合は実力行使も辞さないと宰相派に知らしめる意味もある。私たちに必要なのは機先を制し続けるということだ。気を付けるべきことは一点のみ。我々が敵対していたのは宰相であり、後継者に対してではないことを常に強調し続けることだ」
  一拍おくようにLDは強く頷く。
「そうすれば我々の目的を達成できる」

 議場からは静けさだけが感じられた。二時間前の騒然とした雰囲気はそこにはなく、全てを整えたような静かな空気が流れていた。
  静寂の中心地である議場に向かってアスナは歩いていた。
  未だにどうしようもなく感じる違和感を押し殺してアスナは歩いた。腰に下げた剣が歩くのに邪魔だし、剣を提げている自分はもっと変だった。
  付き従うように三人も歩く。ヴァイアスを中心に、左にミュリカ、右にリムルが。
  彼らを従えるアスナは一種の威圧感を周囲に発し続けていた。決意からくる威圧を。
  自分の中にあるやせ我慢とはったり全てを総動員して、アスナは自分の決意を支えていた。
  議場の扉に立つ衛兵が扉を開け、敬礼をする。
  アスナはそれに頷きで返した。彼の戦いがここに始まる。
  議場にいる者全てが起立をして、アスナを出迎える。その数は初めてこの議場に入ったときよりも数が多いかも知れない。誰もが軍議にふさわしい姿勢を示していた。
  彼らの首座にエルトナージュはいた。
「脱落者は一人もおりません」
  そこで彼女はふっと表情を和らげる。不敵で、堂々とした表情だ。
  そんな顔をするエルトナージュをアスナは良いなと心の隅で思った。
「貴方の挑発で動揺するような者はここにはいません」
「脱落どころか増えてるような気がするけど」
「当然です。あのような無茶を聞かされたら猫でも心配して集まります」
「……いないみたいだけど、猫」
「猫たちは出陣の準備をしています。何しろ猫の手を借りたいほど忙しいですから」
  将軍たちから苦笑が漏れる。
「それじゃ、その努力への誠意っていうか決意ってのを示さないとな」
  腰の剣を抜き、ヴァイアスがしたようにエルトナージュにそれを差し出した。
  ただヴァイアスの時と違うのはアスナは立ったままだと言うことだ。
  跪いて行えば忠誠の証、直立で行えば信頼の証となる。
  それはアスナとエルトナージュが同格であることを示す証でもあった。
  エルトナージュは小さく頷くと差し出された剣を受け取った。
「お預かりします。もし、貴方が敗北したときはこの剣で貴方の首を頂戴します。よろしいですね」
「もちろん。その代わり……」
「その代わり、私たちは全力で貴方の策を実行します。失敗したとき貴方に言い訳をさせないために」
  口に出された彼女の決意表明。
  もしアスナが敗北すればエルトナージュは宣言した通りに実行するだろうことは誰もが予想できた。自分たちを率いる者の決意に列席者たちは身を引き締めた。
「それで良いよ。そう言ってくれた方がずっと信頼できる。……ありがとうございます」
  アスナは列席者に顔を向けて、深く頭を下げた。それは自分のわがままに付き合わせたことへの最大限の謝意だった。正直、アスナにはこれしか浮かばなかったともいえるが。
  議場が息をのんだ。人族とはいえ後継者が頭を下げるなど前代未聞。
  エルトナージュも同じく息をのんだ。が、彼女はその返礼であるかのようにアスナに頭を下げた。やがて、将軍たちや文官たちも頭を下げた。
  一つの礼とたくさんの返礼。
  静寂のうちにアスナは頭をあげた。濃い笑みを浮かべてアスナは、
「それじゃ、作戦会議を始めようか」
  議場の全員が頷く。アスナも頷き返し、席につく。
「端にいる人はこっちに来て。そこからじゃ、見えないだろ。それからミュリカ、地図を広げてくれ」
「はい」
  広げられた地図はラインボルトの手書きの簡易地図だ。この二時間、アスナはヴァイアスたち三人とこの地図を使って作戦の立案をしていたのだ。
  地図の他にもチェスの駒が置かれる。
「遠慮しないでもっと寄って。なんならテーブルの上に乗っても良いから」
  戸惑いながらも将軍たちはアスナの周りに集まる。これでは軍議ではなく、本当に子どもの作戦会議のようだ。
「本題に入る前にこの戦いの目的を話しておこうか。一番の目的はこの戦いを通じて、オレのやり方をラインボルト中に知らしめることだ。内乱を収めるだけだったらオレが革命軍側に戦闘停止を命令すれば済むだろうからな。だけど敢えてオレは白黒はっきりつけることを選ぶ。あやふやのまま停戦なんてことになったらお互いにしこりが残るのは目に見えてるし、第一ここで甘い条件での和平を実現すれば今後、オレがやろうとしていることの邪魔になる。もう一度、はっきり言うぞ。この作戦の最大の目的は魔王としての権威に関係なく、坂上アスナ個人の発言力を確かなものにすることだ」
  つまり、魔王の力を持たなくてもラインボルトの王を名乗れるだけの声望を得ようということだ。言うなればそのために味方同士を戦わせるとアスナは言っているのだ。
  武官たちはもちろん、戦場に出ない文官たちの間に反感の色が見て取れた。アスナはその反感を覆す一言を放った。
「勘違いするなよ。別にオレは独裁者になりたいとか思ってないんだから。だけど、言っただろ。これからやろうと思ってることのためには絶対に必要なことなんだ」
  全員が自分に注目しているのを改めて確認すると、アスナは宣言した。
「オレはラインボルトを平定したあと、幻想界を統一する。この戦いはそのための足がかりだ」
  誰もが息をのんだ。誰もアスナの正気を疑い、やがてそれが彼の本心であることを理解した。緊張で表情は強張り、必要以上に頬が紅潮している。それでも彼の瞳には確固たる意思が見て取れた。そして、彼らは理解した。
  後継者は本気で幻想界の統一を望んでいる、と。
  幾多の王がそれを望み、果たすことの出来なかった夢。それをこの少年はやってみせると公言したのだ。それも幻想界に存在する五大国で最弱のラインボルトを率いて。
  その彼らの不安が感じ取れたのかアスナは笑みを浮かべる。
「ラインボルトが最弱だってことは聞いてる。だけど、そんなことは大した問題じゃない。世界中からバカ呼ばわりされても貫き通せる意志があるか、ないかだ。もう一度、言うぞ。この戦いは幻想界統一への足がかりだ」
  言葉を発する者はいなかった。武官たちはお互いに顔を見合わせて戸惑っている。その中でアスナの意志を知るエルトナージュたちは黙ってなりゆきを見守っていた。
  彼らの動揺は収まる気配はない。彼らにとって幻想界統一など夢を通り過ぎたその先にあることでしかないのだろう。その中でエルトナージュはゆっくりと視線を動かした。
  見ればアスナはもちろん、事前にこのことを聞かされただろう三人までもがエルトナージュに視線を向けていた。彼女は誰にも分からないように吐息を一つ。
  彼女は二人だけに分かる嘘を吐いた。
「分かりました。それを含めて貴方を試すことにします。ラインボルトを平定することでその意志を示して下さい。平定したとき、私は貴方に、こたえます」
  続いてヴァイアス、リムルがアスナに対して恭順の意を示した。ミュリカも小さく頷いている。
  これが決定打となった。文官の首座であるエルトナージュと宰相派の軍事力の中核である二人の言葉にどうするかを迷っていた者たちは次々にアスナに従うことを表明した。脱落者は一人もでなかった。いや、出るような雰囲気ではなかった。
「それじゃ、状況確認から始めようか。間違ってるところがあったら指摘してくれ。現在、革命軍の本隊はここファイラスを占拠していて動いていない」
  と、黒のキングの駒を地図上のファイラスにおく。
「エルニス、モーブ、サリフにもそれぞれ一千人規模の軍がいる」
  今度はナイト、ビショップの駒を三都市に一つずつおいていく。
「そして、連中が蜂起したラインボルト第三の都市ムシュウには一万の軍勢が待機している。ここには補給部隊の本部と予備戦力で構成されているから守備軍というよりも軍事的な生命線だな。他にファイラスとムシュウの間の諸都市にも千人前後の部隊を配置している」
  ムシュウにはクイーンの駒をおき、他の諸都市にはポーンの駒をおく。
「ここまでで間違ってるところはある?」
「ありません、続きを」
  と、エルトナージュは先を促す。
「それじゃ、次にオレたちの状況」
  アスナは単純にポンッと白のキングの駒を首都エグゼリスに置いた。これで全てだ。
「現在、エグゼリスにはエルトナージュに味方した部隊の全てが終結している。これだけだよな」
「はい。革命軍の蜂起以来、エグゼリスに戦力を集中するようにしていましたから。いつでも全力出撃できる状態です。また、ファイラスに向けて偵察部隊を送っています。何かしらの成果をあげて帰還すると思います」
  アスナは小さく口笛を吹いた。
「お見事。それじゃ、後はどう動くかだけだな」
「その通りです」
「それじゃ、大まかな指示を出すぞ」
  一度、周りにいる武官たちを見回す。先ほどの宣言があるだけにどれもこれからアスナが示す策がどんなものか興味を宿した目つきをしている。ヴァイアスたちと立案したとはいえ緊張する。渇いた唇を一度、舌で舐める。
  手が震えそうになるのを我慢しながら白のナイトの駒をサリフにおく。
「リムル将軍」
「はい!」
「君は第三魔軍を率いてサリフを奪還しろ。攻略を終了次第、右回り経路でファイラスとムシュウの中間点、ゼンを目指す。降伏した者は帰順することを認め、編成し直すこと。占領後はここを拠点にファイラスにいる革命軍本隊の牽制と彼らの補給路を断つことに専念すること」
  話しながらアスナは進むべき経路をナイトの駒を使って指し示していく。幾つか大規模部隊と接敵することになるが、リムルは戦場では剣鬼と恐れられる将軍であり、彼が率いているのは最大の突撃能力を有する、攻撃に特化した第三魔軍。
  当初、ヴァイアスからこの素案を聞かされた時、本当にリムルで大丈夫なのかと不安に思ったが、彼を支える第三魔軍の司令部は非常に優秀であり、副長はそのまま第三魔軍を率いる立場になっても良いぐらいだとのお墨付きを与えている。
  その第三魔軍ならば多少、困難ではあるが作戦行動に支障はない。
「ヴァイアス団長」
「はっ!」
「お前たち近衛騎団は……」
「待って下さい。近衛騎団を使うおつもりですか!」
  信じられないと言った表情でエルトナージュは遮った。
  最精鋭軍でありながら数百年の間、近衛騎団は攻めるために使われたことはない。文字通り、魔王と王城の守護を司る軍として扱われてきたのだ。長く活躍する場を与えられなかった近衛騎団は本来の存在意義を人々の常識に埋没させられてきたのだ。
「当然。せっかく強い連中がいるんだ。活用しない手はないだろ」
「ですが、ここ数百年……」
「ヴァイアス団長、近衛騎団は何のためにある?」
「我らは魔王の剣であり魔王の盾。我らを統率するはただ一人魔王のみ。我らが誇りは魔王と共にあることなり」
  自身に、何よりこの場にいる全ての者に近衛騎団の有り様を思い出させるようにヴァイアスは高らかに応えた。自分たちはお飾りなどではないのだと。
「分かったろ。近衛騎団は盾の役目だけじゃない。剣としての役目も持っている。第一、オレ以外の誰に近衛騎団を率いる権利がある?」
「ご自身が出陣なさるおつもりですか!?」
  豊かな髭を蓄えた武官の一人が声を上げた。
「もちろん、そのつもり。内乱を収めるって言った張本人が引っ込んでるわけにはいかないだろ」
「遊びじゃないのですよ」
  今度はエルトナージュだ。彼女もまさかアスナ自らが出陣するとは思っていなかったのだろう。
「そんなこと十二分にわかってる。それにオレが出る理由はもう一つあるんだ。どちらかと言えばこっちが本命。まだオレはただの人間だけど、一応魔王の後継者だ。これを利用しない手はないだろ。後継者自身が近衛騎団を率いて出陣したとなればこっちが本気で動いたと自然と革命軍側に伝わる。そうなると投降するヤツも出てくるだろうし、無血開城する都市もあると思う。オレが対決姿勢をとることに意味があって、革命軍の連中を殺すことが目的じゃないんだからな。犠牲はなるべく少ないほうが良い」
  実は他にも理由があった。
  ただの人族であるアスナが近衛騎団を率いて進軍すれば、対抗して右ルートの第三魔軍の進撃速度が自然に上がるのではないかと期待してのことだった。
「オレは近衛騎団と一緒にエルニスを経由して左回りで進軍して、第三軍が連絡路を断っている間にムシュウを落とす。もちろん、実際の戦闘はヴァイアス団長に任せる。こういう考えだけど別の意見はある?」
「……いえ、ありません」
  エルトナージュは引き下がった。その彼女を横目に見ながら一度、お茶で喉をうるおす。
「よろしいでしょうか?」
  禿頭の武官が挙手をする。
「なにか疑問でも?」
「はい。第三魔軍、近衛騎団共に実力はよく知っておりますがゼン、ムシュウを落とす前に革命軍本隊から横槍を刺される恐れはないでしょうか?」
「多分、そういう行動に出ると思う。だから、それぞれの進撃部隊の三分の一を敵増援部隊にぶつけることにする。つまり、進撃部隊の盾ってことだな。この盾の役割は二つ。何度も敵に奇襲をかけて相手を翻弄すること」
  ファイラスと最初に進撃する二都市の中間点にビショップの駒を置く。
「もう一つは原隊に戻ることを希望した連中を吸収して、ファイラスの包囲を側面から行うことだ。この部隊の指揮はデュラン副長とガリウス副将にやってもらいます」
  デュランは近衛騎団の副長、ガリウスは第三魔軍の副将だ。これはヴァイアスとリムルの推薦だった。
「はっ!」
「了解いたしました」
  残っていたポーンをファイラスの周辺においていく。これが原隊復帰を望んだ部隊だ。
「そして、この作戦の要である本隊はここにおく」
  白のキングの駒はファイラスの正面、つまりは革命軍本隊の真っ正面におかれた。
  これで完全にファイラスを包囲されることになる。
  真正面から革命軍とぶつかっても絶対に勝つことは出来ない。ならば無力だが、最高の駒であるアスナを用いて、後継者ここにありと喧伝することに意味がある。
  その護衛として攻守ともに優れており、何より魔王にのみ付き従う近衛騎団と共に行動すれば、アスナの後継者としての箔を付けることが出来る。
  ヴァイアスたちが手伝ったとはいえ、素人が考えた割には上出来と言える。包囲が完成してしまえばファイラスを無血開城させることも難しくないはずだ。
  子供だましな策を提示してくるのではないかと思っていた武官たちは感嘆の声を漏らした。だが、武官たちの何名かは否定的な意見を出した。
  包囲する前に革命軍本隊が出てくるのではないか、と。
「オレもそう来ると思う。だけど、考えてみて欲しいんだ。連中はここ三ヶ月ずっと戦い詰めだったんだよな。それに一気にエグゼリスに攻めてくればいいのにわざわざ脇道にそれるようなことをしていたんだろ。ってことは常識的に考えてこの三ヶ月、連中はラインボルト中を駆け回っていたって事になる。疲れている上にオレが後継者として召喚されたんだ。そんな状態で戦えるだけの士気が出るのかな?」
「それは分かります。ですが、それだけに一気に私たちの本隊を押しつぶそうとするのではないでしょうか? あのLDが兵たちの士気低下を許すとは思えませんが」
  と、エルトナージュは尋ねた。
「うん。連中が進撃してくれば、こっちは逃げればいい。動きがなくなったらちょっかいを出す。本隊に期待しているのはただ一つ。包囲が完成するまでの間、革命軍本隊をファイラスに釘付けにすることだ。この本隊はエルトナージュ、君に任せる」
「私に、ですか」
「当然だろ。オレをこっちに喚んだのは君なんだ。だったら少しぐらい責任取れよ。それに宰相軍だっけ? それの指揮官でもあるんだから問題ないだろ」
「分かりました。無事、務めを果たして見せます」
  宰相軍とは首都周辺を警備する部隊のことだ。近衛騎団はあくまでも魔王の軍だ。宰相軍は本当の意味でのラインボルトの最終軍なのである。その実力は魔軍には劣るが一般軍よりも精強であり、充実した装備を有している。
「ん、よろしく。それじゃ、作戦の概要はこんな感じ。質問は?」
  思案する武官たちの中から一人挙手をする者が出た。
「モーブを放置しておくのはいかがなものかと。後方で攪乱される恐れがあります」
「えっと……」
「第八軍副将、ルマンドと申します」
「それじゃ、ルマンド副将にはモーブ制圧を任せます。制圧後、速やかに革命軍の捕虜を連れて本隊に復帰してください。捕虜たちの身の振り方は本隊に合流してからということで」
「しょ、承知いたしました」
「他には?」
  他に声は挙がらなかった。
「それじゃ、最後に補給に関して。というよりも戦後のためと言った方が良いかな。補給部隊には経由した都市での被害状況を調査する部隊も帯同させる。物資に余裕があるようだったら都市への被害を補償できるようにもしたい。そうだな、工兵部隊とかもいるんだったら帯同させて復旧作業を手伝わせるのもいいな。このゴタゴタの一番のとばっちりを受けてるのは一般の人たちだ。オレたちはそれに対する補償をする義務がある。……これに関しては」
  良いながらアスナは視線を泳がせる。やがて、一人の男を発見して視線は止まる。
「バクラ将軍に一任します」
「わしですか!?」
「そっ。また、オッサン呼ばわりされたくなかったらしっかりと任務を達成して下さいよ」
  この人選はリムルの、バクラ将軍はケチで有名というところからきている。そういう人だったら補給物資を猫ババするとは思えないからだ。
「はっ、それはもう。はい」
「それから城内のことや物資の管理に関してはストラトさんに一任します」
「承知いたしました」
  後方で控えていたストラトが右手を胸に当てて一礼する。
「文官の人たちは内乱鎮圧後、すぐに国内を安定できるような施策を立案するように。ある意味、戦うよりも重要だからそのつもりでよろしく」
  蚊帳の外におかれたような気がしていた文官たちはことさら大きく了承の声を上げる。
「よしっ。後の細かいところはオレじゃ分からないから、みんなに任せます。判断に迷うことがあったら遠慮なく尋ねてください。それじゃ、よろしく」
『承知しました!』
  了解の声を返すと武官たちは一斉に動き出した。
  そこには戦への不安もなにもなく、ただやるべき事を成そうという空気だけが彼らを包み込んでいた。

 王城に忍び込んでいるであろう革命軍の間者はこの光景を見て、どう思うだろうか。
  少なくともエルトナージュの知る限り、これは軍議とは呼べない。本来ならば上位者の提示した作戦計画を完遂するためにはどうすればいいのかを討議する場のはずだ。
  それだけに作戦立案者と実働部隊の指揮官との対立が少なからずあるもの。修正されるとしても互いの打算の下で行われる。
  だが、ここではその当たり前の状況に当てはまらない。
  先ほど、アスナが提示した作戦計画が武官たちの意見を取り入れて次々に修正、改善されていくのだ。上意下達を厳格に行うことを主とする軍組織とは思えない。
  これでは本当に軍議ではなく、アスナの言ったとおり子どもの作戦会議そのものだ。
  エルトナージュはこの状況に戸惑っていた。
  王女として上下関係の中で生きてきた彼女は誰かと協力して一つのことを実行した経験がとても少なかった。誰よりも努力してきた彼女は他人よりもずっと優秀であったことも彼女の戸惑いを強めている要因でもあった。
  いや、同じ年頃の近しい者がミュリカ一人だったことが一番の原因なのかもしれない。
  だからかもしれない。作戦会議の中心にいるアスナを見る視線に小さな嫉妬が混じっていた。
「悔しいですよね」
  いつの間にか隣に立ったミュリカが小声で言った。エルトナージュは少し驚いた。
「エル様があれだけ一生懸命になって武官たちを掌握しようとしたのにアスナ様は何でもないことのようにあっさりとご自分の作戦に巻き込んでしまったんですから」
「私は、別に……」
「隠さなくても良いですよ。エル様、すごく嘘が下手なんですから」
  何が可笑しいのかミュリカは微笑を浮かべた。
「それに作戦が失敗したらアスナ様の首をもらうだなんて言って。ホント、あの頃から変わりませんよね」
  あの頃とは二人が出会った四歳ごろのことだ。
  ミュリカはエルトナージュの遊び友だちになるようにと王城に連れてこられた。同い年の子どもと接することのなかったエルトナージュだったがすぐにミュリカと打ち解け、彼女と寝食を共にすることになる。だが、四歳の子どもが親から離れて暮らすのは辛いものだったようでエルトナージュは時折、ベッドでミュリカの泣き声を聞くことになる。
  ミュリカを両親のもとに返してやりたい。そうエルトナージュは思うようになった。
  だが、幼いエルトナージュにはどうすれば良いのか分からなかった。やがて、彼女は一つの結論に出る。学友としてミュリカが自分のところに来たのならば自分が彼女のことを気に入らないと父である魔王に訴えれば良いのではないかと。実際、彼女は父にその旨を話すが受け入れてもらえなかった。そこで彼女はミュリカに対してかなり酷い仕打ちをするようになった。ミュリカへの仕打ちを聞いた母親にエルトナージュは咎められる。理由を尋ねられた彼女は真相を母に告げる。
  全てを聞いた母はミュリカの生い立ちを話す。彼女の両親は”彷徨う者”に殺されていたのだ。つまり、彼女は王城を出ても行くところがないのだ。
  事情を知ったエルは素直にミュリカに謝る。これにより二人は名実共に無二の友となったのだ。
「あの時は……その」
  何か言おうとしたがあの時のことは全面的に自分が悪いと自覚している彼女は告げるべき言葉をすぐに発することが出来なかった。
  そんなエルトナージュの態度にミュリカは微笑を濃くした。
「正直、あの頃はエル様のことが怖かったんです。けど、あの一件からエル様の見方が変わったんですよ。とても優しいのに不器用で、不器用だからたくさん努力してる方なんだって」
「…………」
「だから、分かります。努力を続けていたエル様の悔しさが」
「ミュリカ」
「だけど、もう一人で悔しい思いをしなくても良いんですよ。統一の夢を手伝ってくれる方が現れたんです。エル様なのでしょう? アスナ様に幻想界統一なんて夢物語を吹き込んだのは」
「…………」
  よく観察しなければ分からない程度に、彼女は頬を染めた。幼なじみとして常に側にいたミュリカはすぐにそれを見抜いた。
「やっぱりそうなんですね。どういう状況でアスナ様に統一の夢を語ったのかは敢えてお聞きしませんけど」
  今更ながらあのときの、アスナとの会話を思い出してあまりにも自分らしくない対応だったと思った。目に見えて頬の赤みが増していく。
「あぁ、なんか怪しいですよ」
「怪しいなんて。私は別に……」
「もしかして、エル様。アスナ様のこと」
  まるで猫が笑っているかのように、ニヤリと口端をあげる。
「私は別に彼のことなんて興味はありません」
「ホントですか? なんかアスナ様と向き合ってる時のエル様って妙に肩肘張ってるような気がするんですよね。普段はもっと優しい方なのに」
「ミュリカ!」
「ムキになって否定するってことは、やっぱりそうなんですか!?」
  そうではない。そうではないのにこの幼なじみはそういった方向にどうしても話をもって行きたいようだ。
  恋人が出来たから少しお姉さん気取りになっているに違いない。この復讐として後で彼女の人に知られたくない過去を情報開示しようかと、真剣に考え始める。
  そんなエルトナージュの頭に誰かが手をおいた。
  アスナだ。半目で彼女のことを見下ろしている。同様に彼の隣にはヴァイアスも来ていた。こっちはすでにミュリカの頬を引っ張って制裁中。
「な〜に、こんなときに二人して和んでるかな?」
「別に和んでなどいません! ……あっ」
  見れば本隊となるほとんどの部隊の将たちがこちらを見ている。抑えようとするが赤くなるのを止められない。僅かに俯くエルトナージュ。
「だったら、早く話しに加わってくれよ。本隊の司令官がいないと進むものも進められないんだからさ」
「は、はい」
  戸惑いながらもエルトナージュは話に加わった。やはり、作戦会議には不慣れなためにどうしても上意下達な口調になってしまう。だが、ところどころアスナが口を挟んで彼女を怒鳴らせたことでいつの間にかエルトナージュの不要な堅さは取り払われた。
  宰相派の、いや、アスナ派の作戦会議は本格的に始動を始めたのだ。

 後継者の入城は革命軍側に大きな衝撃を与えた。
  軍議は一時、騒然となったがフォルキスの一喝で半ば強引に収められた。
  その後、LDは冷静に今後の対処について話をした。LDはまず革命軍側武官の不安を取り除くことから始めた。頭が動揺していては手足である兵たちに必要以上の不安を与えるからだ。
  この戦は私利私欲に走る文官たちを粛正するためのものであって魔王に反旗を翻したことにはならないこと、後継者が魔王の力を継ぐためには時間がかかることをLDは話のなかで特に強調し、何度も話すことで武官たちの動揺を抑えようとした。
  それは半ば以上成功を収めた。武官たちの表情から過度の脅えは消えている。
  だが、それは何かの拍子で壊れる脆い仮面でしかなかった。
  これを見過ごすLDではない。軍議を終えた彼はあてがわれた執務室に戻ると参謀たちを呼び、この打開策を模索する密議を開いていた。
  フォルキスや主立った武官たちに提示した策はあくまで楽観論に過ぎない。想定されうる最悪の状態にどう対処するか。問題はここに絞られた。
  当然のことながら容易に打開策が思いつくわけではない。
  参謀たちからも案が出ずに行き詰まりを見せていた時、執務室のドアを誰かがノックをした。
「なんだ」
  現れたのは伝令兵だ。
「フォルキス将軍がお呼びです。使者が来たのですぐに来て欲しいとのことです」
「分かった。話が終わればすぐに戻る。それまで休憩としよう」
  息詰まった空気から脱するような返事を背中に聞きながらLDはフォルキスのもとへと向かった。
  執務室にはLDが予想した人物がいた。
  資金提供者たちからの使者だった。提供者たちとは手紙、もしくは使者を送るのみで全てのやりとりを行っていた。それは彼らの保身からくるやり方だった。
  革命軍が勝利した際には資金提供者として美酒を与り、もし敗北しても自分たちは静観していたとして宰相派からの追求を逸らす算段である。
  このやり方をLDは批判するつもりはない。彼にとってもこういうやり方のほうが都合がいいからだ。表だって協力を申し出ているわけではないのでいらぬ口出しをされる恐れがなく、戦後処理で彼らの扱いを軽くできるからだ。
  なによりLDが提示した額の資金を提供してくれたことが彼らを評価する最たるものだ。
  だが、それを良しとしないのがフォルキスだった。彼は戦後で良いというLDの意見を退けて彼らが事前に要求していた幾つかの重要都市の権益を確保するためにラインボルト中を走り回るという愚を犯し、資金提供者に管理を任せるという形で権益を譲渡しているのだ。よく言えばお人好し、悪く言えば愚直な武官の代表例である。
  だが、彼の好意は資金提供者たちには逆に迷惑となった。革命軍と宰相派を両天秤にかけている状況でこう言うことをされれば宰相派から戦後、糾弾されることは目に見えている。それだけに彼らが占領直後のファイラスに使者を送ってきた理由も容易に推測できた。
「来たか、LD」
  執務室にマノアの姿はなかった。恐らく状況整理に奔走しているのだろう。
「これは軍師様。さきほど将軍にファイラス攻略のお祝いを申し上げていたところです。軍師様もお見事でございました」
「お言葉痛み入る。して、このような場所に何用で参られた」
  分かっていながらLDは使者に尋ねた。何しろここには政治のことに疎い総大将がいるのだ。ひょっとしたら本気でファイラス攻略の祝いを述べに来たのかと思っているかも知れない。そんなことはないと分かっているが疲れからかそんなことを思い浮かべてしまう。
「その前にこれをお納め下さい」
  使者に差し出されたものは目録だった。目を通してみれば新たな軍資金の提供であった。他にもフォルキスやLDはもとより主立った武官たちにまで祝い金として相当な額が記入されている。
  これでLDの予想は完全なものとなった。この金で今までやりとりしていた手紙を買い戻すつもりだと。
「おぉ、これはありがたい」
「……将軍」
  この金がどういう意味なのか分かっているのかと、視線で注意を促すがフォルキスはそれを無視し、話を続ける。
「使者殿、用件はこれだけではないだろう?」
「はい。誠に申し上げにくい事ではあるのですが……」
「いや、済まない。言わなくても良い。欲しいのはこれだろう」
  彼が懐から出したのは封書の束だ。麻縄で一括りにされている。
  それは資金提供者たちからの手紙や目録など、彼らと革命軍とのつながりを証明する物だった。
「はい。誠に申し訳ございません」
「この状況だ。仕方あるまい。だが、我らが勝利を得たとしても共に栄誉を浴することはないだろうとお伝え願いたい」
「しかと承りました」
  フォルキスは手紙の束を使者に投げてよこした。使者は受け取るとすぐに中身の確認をする。全てあることを確認すると改めて深々と頭を下げ、謝意を述べた。
「では、早々に戻られよ。宰相派の間者に見られないとも限らないからな」
「失礼いたします」
  フォルキスの予想外の対応に戸惑いながらも使者は退室しようとした。その使者の背中にフォルキスは最後に「方々に感謝しているとお伝え願いたい」と付け足した。
  使者は深々と頭を下げると今度こそ去っていった。
  執務室に沈黙が降りる。それを静かにLDは破った。
「これで良かったのか?」
「沈む船からはネズミも逃げると言うだろう。だったら船を降りられる者は降りた方が良い」
  すでに彼はこの一件の責任をとる覚悟を決めていたようだった。
  いかに策を弄しようとも状況を覆すことは出来ないのだ。さきほどの軍議でのLDの発言が士気を鼓舞するための楽観論に過ぎないことを彼も分かっていたのだ。
「それにこれだけ金があれば、追放を受けたヤツらが身の振り方を決めるまでどうにか食いつないでいけるだろう」
「つまり、私の策は退けるということか」
  すでに宰相派に対する要求書の草案は完成しており、後はフォルキスの確認と署名を受けるだけの準備が整えられている。また、諸都市を征圧中の麾下部隊には命令あるまで待機を伝えている。
  この三日、その準備に奔走していた事柄が水泡に帰すということだ。
  が、今朝方までLDの策のためにフォルキスは動いていた。その彼が沈む船などと言い出すのには理由があるはずだ。
「何があった?」
  フォルキスは無言で手にしていた書状を差し出した。それは内通者からのものだ。
「なるほどな。後継者自らが陣頭指揮に立った、か。文面から察するに宰相に唆された訳ではなさそうだな」
  そして、最後に早急に投降を促す一文が添えられている。
「それでどうするつもりだ。勧められた通り投降するのか?」
「いや。ここまで事を大きくしてしまった以上、それは許されないだろう。それに兵たちには今までの行動を肯定してやれることをしてやりたい」
「勝機はないぞ」
「この際、戦の勝敗には目を瞑るつもりだ。もとより勝ち目のない戦だ。将兵には事情を説明し、去就の自由を与える。去る者には少ないだろうが今後の生活費を持たせてな」
  フォルキスはそう言って改めてLDに向き合う。
「当然、お前もそれに含まれている。雇われ軍師としては負け戦には加わりたくないだろう?」
「そうだな。全く持ってその通りだ。負け戦に身を投じても利益はない。だが、お前は一つ勘違いしている。それなりに名のある傭兵はどんな状況に陥ろうとも契約を守り通すものだ。お前との契約期間はまだ二ヶ月残っているのを忘れたのか?」
「すまない」
「私のことよりも彼女のことを心配してやれ。これまでお前に尽くしてくれたんだ。少しは彼女に報いたらどうだ?」
「そうだな。あいつはゲームニス様の孫娘だから帰順を許されるかもしれない」
  ゲームニスとはラインボルト軍を総括する大将軍の名だ。彼は一連の政争と内乱に嫌気がさし、故郷に引きこもってしまっていた。
「マノアをゲームニス様の下に送ってやろう。俺にはそれしか出来ん」
「お断りします」
  そこには資料を抱えたマノアが立っていた。彼女には珍しくおどおどした風はなく、目をつり上げてフォルキスを睨んでいる。
「だがな、マノア」
「私はフォルキス様の副官です。上官を見捨てる副官がどこの世界にいます」
「しかし、お前はゲームニス様から預かった……」
「どちらにも就かなかった祖父は関係ありません。私は自らの意志でフォルキス様のお側にいると決めたのです。それとも去就の自由を与えると仰ったことは嘘だったのですか!」
「うっ」
  黙って成り行きを見守っていたLDは苦笑を浮かべ、フォルキスの肩に手をおいた。
「お前の負けだ、フォルキス。それに彼女がいなくなると色々と問題があるからな。私としても賛成だ。マノア、兵たちの状況は?」
「LD!」
「はい。各部隊の状況を記した資料がこれです」
  受け取った資料に目を通しながら、「さすがだな、マノア」と彼女の存在が必要だと側面援護する。
「お前にこれだけ見事な資料を素早く作成できるのか?」
「分かった。俺の負けだ!」
  ヤケクソのような叫び声にマノアは笑みを濃くした。
「ありがとうございます。フォルキス様」
「それでお前はこの戦、何のために戦う?」
「……後継者が俺たちのラインボルトを率いるに値する人物であるかを試すためにだ」

 ファイラス政庁のバルコニーにフォルキスは立っていた。先ほどまで聞こえていた木槌の音も兵たちの怒声も今はない。遠くには防衛用の馬防柵や土嚢が、見下ろす広場には篝火に照らされた将兵たちの姿がある。一人一人の表情をここから見ることは出来ないが彼らのざわめきから感じることは出来る。彼らの持つ拭い去ることの出来ない不安を。
  箝口令はなんの役にも立たんな。
  小さく誰にも分からないように吐息。両脇を固めるLDとマノアに頷きかけると彼は一歩前に出て、手摺りを握った。
「全将兵よ!」
  広場に走った彼の声の後には静寂だけが残った。
「これまでの諸君たちの戦いぶりは賛嘆に値する。ムシュウを発って三ヶ月余り、我らは常に一つの思いを持って戦い続けてきた。ラインボルトの安定だ。先王亡き後、国政を司り民の安寧のために力を尽くすべき文官たちは自らの私欲のために権力争いを始めた。行政機関は動きを鈍らせ、国の内外に悪影響を与えることになった。本来ならば我ら軍籍に身を置く者が国政に口を挟むなど言語道断だ。だが我らはその罪を背負ってでもラインボルトのため、民のために立ち上がったのだ。そして、ついにここファイラスにまで軍を進めるに至った。だが、ことここにいたって事情が変わってしまった」
  吐息。フォルキスは将兵たちの視線を一身に受けて言葉を紡いだ。
  事を起こした者としての責任を全うするために。
「すでに耳にしている者もいるだろう。だが敢えてここで俺は皆に告げる。宰相派が後継者を発見した」
  ざわめきこそ起きなかったが、動揺の色は濃くなったように見える。
「我々の目的は文官たちの粛正と民の安寧であって、文官たちのような私利私欲のために行動したのではない。だが、宰相派は後継者を擁しており、彼を利用して軍事的な劣性を挽回しようと試みるだろう。手にした情報によると、後継者は我らを討伐することを選んだとのことだ」
  眼下の将兵だけではなく、同じバルコニーに立つ将軍たちも動揺を露わにする。
  無理もないとフォルキスは思う。革命から一転して、逆賊に堕ちたのだから。
  動揺と不安の空気を一身に受けながらフォルキスは声を張り上げた。
「後継者は恐らく彼は宰相派にとって都合の良い話しのみを聞かされ、行動に出たのかも知れない。真相のほどは俺には分からない。だが、後継者が我らを討伐することを選んだことは事実だ。だが、例え逆賊の汚名を受けようとも俺たちは魔王の臣であり、そのことに誇りを持っていることに変わりはない。この場で投降の意を示すことも出来る。だが、それで良いのだろうか、と俺は思う。ここに来るまでに少なからず兵たちに犠牲を強いている。ここで軍を収めれば俺たちは彼らの墓前になんと報告すればいい。俺は彼らの死に意味を与えてやりたい。それがこれまで軍を率いていた者の責任だと俺は思う。俺は敢えて逆臣の汚名を被ってもこれまでの行動を正当なものとする」
  これまでの連勝によってかろうじて疲労を上回っていた士気は見る間に低下していく。兵たちは肩を落とし互いの顔を見合っている。それがバルコニーの上からでもよく分かった。恐らく背後にいる将軍や副将たちも似たようなものだろう。
  彼らには事前にこの演説の内容を聞かせてはいない。先ほどの軍議での決定とは異なる演説に彼らは動揺することしか出来なかった。
  兵たちの不安、将たちの動揺を全身で感じフォルキスはそれを受け止めるようにバルコニーの欄干を強く握った。欄干にひびが入る。
「俺はここに宣言しよう! 後継者が真に我らラインボルトの民を率いる器であるか試すと!!」
  堂々たる反乱宣言に誰もが身じろぎすら出来なかった。
「これは明らかな反乱だ。去りたい者は去れ。俺は引き留めもしなければ恨みもしない。ただここまで共に戦った戦友として僅かばかりだが礼をしたい。軍資金に幾ばくかの余裕がある。ファイラスを去る前にそれを受け取ってもらいたい。去る者にはこれからの生活費の足しになるだろう。二十四時間だ。これより二十四時間で去就を決めてもらいたい。以上だ」
  この瞬間からラインボルトは一つの目的の下に動き始める。
  後継者、坂上アスナが真にラインボルトを率いるに値する器であるのか、否かと。



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