第一章

第四話 着れない、乗れない、戦えない 後編


 農業都市エルニス。
  そこは人口十万人ほどの都市だ。エルニスの歴史は古くラインボルト建国の遙か昔から存在していると歴史書は語る。
  それを裏付けるようにエルニスの街並みや石造りの市庁舎、穀物倉などはかなりの年代を感じさせる。何度か改装工事を施されているとはいえ、見た者にその歴史を感じさせるのに十分な風格がある。
  穀物倉や駅舎のある都市から一歩外に出ると、そこに広がっているのは見渡す限りの麦畑だ。他の農作物もつくってはいるが土地柄、麦の栽培があっているのだ。
  麦畑を広げるために切り開かれた土地には遮るものがない。
  そのためエルニスの物見櫓で警戒任務に就いていた兵士が不審な一団の存在に気付いたのも当然のことだった。その情報はすぐに司令官の元に届けられた。
  一団の人数は二百から三百名ほど。全軍で出撃すれば十分に押しつぶせる数だ。
  だが、司令官は攻撃命令を下すことを戸惑っていた。攻撃を思いとどまらせる原因はその一団が掲げている旗。自らの存在を自分たちに誇示するかのように掲げられた旗だった。
  剣と盾を抱く目を伏せた長髪の女性。
  軍籍に身を置いて、この旗がなにを意味するかを知らぬ者はいないだろう。
  ラインボルト最強の武力集団にして、国軍から完全に独立した組織。
  近衛騎団。
  その先鋒と思しき部隊がすぐ目の前に陣取っているのだ。
  最精鋭軍といえども相手は二、三百ほど。勝てない数ではない。彼らはここまでの行軍で少なからず疲れているはずだ。なにより自分には一千名の、その中核には第一魔軍の一個大隊があるのだ。多少の損害はあるだろうが倒せない規模ではない。
  だがそれでも司令官を躊躇させる要素があった。
  我らは魔王の剣であり魔王の盾。我らを統率するはただ一人、魔王のみ。我らが誇りは魔王と共にあることなり。
  この言葉の通り、近衛騎団を動かすことが出来るのは魔王ただ一人。
  不安が頭をよぎり司令官は額に汗を浮かべ、唾を嚥下する。
  後継者が現れて、革命軍の殲滅を指示したのではないだろうか。
  それとも宰相の要請を受けて団長が騎団を動かしているのだろうか。
  現時点でそれを判断する要素は一つもない。ただ、目の前で騎団が陣地を作っているという事実のみ。
  もし、後継者が現れたのならすぐさま本隊から急使が来るはずだが来てはいない。では、やはり宰相の要請か。ならば……いや、もし後継者の命令で動いているのならば反乱となる。
  言葉を発することなくただ全身で懊悩を表す司令官に副官がどう対処するか尋ねた。
  判断材料がない以上、正確な行動を取ることが出来ない。だが脅威を前にしてはなにかしらの行動をとらなければならない。
  司令官はどれだけ騎団を睨んでいたのだろうか。十分か、二十分か、それ以上か。
  日が傾き、煌々と篝火を焚き始めた騎団を睨みながらついに司令官は決断を下した。
  全力をもって都市防衛力を強化せよ、と。
  相手が後継者なのか、宰相なのか分からないのならば、判断材料が増えるまでエルニスという名の殻に篭もろう。司令官はそう判断したのだ。
  命令を受けた副官は兵士に命令することはもちろん、エルニス在住の成年男子をも動員して土嚢や柵などを作らせ始めた。革命軍に駐留されていたとは言え、比較的平穏だったエルニスは途端に戦の臭いを放ち始めた。

 先遣部隊のエルニス到着から二日後、アスナはヴァイアス率いる近衛騎団本隊と共にエルニス近郊の陣地に到着した。
  全体の作戦上では即戦速攻が望ましいところを騎団の参謀たちは多少、予定が遅れても確実な勝利を得ることを選んだ。
  進軍速度が早ければ早いほどアスナ派にとって有利に展開する。だが、騎団の踏破距離はリムル率いる第三魔軍よりも長い。無理をして疲れを貯め込み、もしもの時に備えられないよりも、多少時間がかかっても一つ一つ余裕をもって攻略した方が良いという考えだ。
  もっとも参謀たちがこういう答えに出た最大の理由はアスナの存在だ。
  早い話が今のアスナは近衛騎団のお荷物なのである。
  陣地に到着した騎団本隊はすぐにテントを張り始めた。何度も訓練したのだろう。彼らの動きにはそつがない。一万名を収容するテント群が出来上がるさまは壮観である。
  感嘆の面持ちで作業する彼らを見ていたお荷物・アスナだったが三つ、四つと見ているとさすがに飽きてくる。何度か作業を手伝いたいと申し出たが、後継者に雑務をさせるわけにはいかないと断られてしまった。率直に言えば邪魔なのだろう。
  一人、手持ちぶさたのアスナはやがて、邪魔にならないように陣地に掲げられた特大の団旗の下に立つことにした。見上げる団旗には剣と盾を抱く目を伏せた長髪の女性が描かれている。
「なんか少女マンガみたいな絵柄だな」
  身も蓋もない評価だが、アスナがそう感じても不思議ではない線の細さだ。何しろアスナの妹の落書きがこんな感じだからだ。もっともここまで上手ではないが。
  そんなことを考えながら風になびく団旗を眺めていると声がかかった。
「なに黄昏てるんだよ。似合わないぞ」
「悪かったな。……で、そっちこそどうしたんだよ。お忙しい、団長さん」
  先ほどアスナを邪険にした一人である。自分よりもずっと忙しいのは分かるが言いようがあるじゃないかと少しだけヘソを曲げていたりする。だが、ヴァイアスはそんなことを気にした風もなく、
「お忙しい団長さんでも気分転換に見回りがてら散歩ぐらい出来るんだよ。それでそっちはどうしたんだよ、お荷物さん」
  コイツは、と目で語るものの口は別のことを告げる。
「別に。ただ変わった旗だなって思ってただけ。軍隊の旗には見えないよな」
「だろうな。けどな、この旗以上に俺たちに相応しい団旗もないんだよ」
  分からないといった風な表情を作るアスナにヴァイアスはどことなく照れたような笑みを見せた。
「剣と盾を抱いてる女性がいるだろ。あの女性は初代魔王リージュ様だ。我らは魔王の剣であり魔王の盾って言葉をこの旗が体言してるんだよ」
「へぇ、初代は女の人だったんだ」
「あぁ、美人だろ」
  そう言ったヴァイアスの目は決して手の届かないものを見るかのように目を細めていた。
  そんな彼の姿が似合っていなくて、それでもどこか彼らしいようにも見えた。
  ヴァイアスの表情がなにを意味するのかアスナは何となく分かってしまった。
「もしかして、ヴァイアス」
「……分かるか、やっぱり」
「……なんとなくね」
  彼は一度、周囲を見回すとまた似合わない照れ笑いを浮かべると小声で、
「実を言うとさ、あの方が俺の初恋の相手なんだよな」
「へぇ」
「俺がガキの頃にさ、式典か何かで騎団がパレードをしてたんだよ。掲げられたリージュ様の旗が大通りを行進する騎団を指揮してるみたいでさ、勇ましいでも凛々しいでもなくて、あの絵の通り黙って騎団の行進を見守ってるように見えたんだよ。口じゃ巧く言えないんだけどさ。ホントにあのときの印象は凄かった」
  何となくだけど分かるような気がする。自分の初恋も似たようなものだったから。
  アスナの場合はテレビの中のアイドルだった。だがアイドルの宿命かしばらくするとテレビからは消えてしまった。ヴァイアスは初恋の思い出を美しいままに残しているのに対してアスナは、『あの有名人は今』的な番組に出演しているのを見て夢は夢でしかないと悟らされたのだが。
  アスナの苦い初恋の思い出をよそにヴァイアスは話を続ける。
「ここだけの話なんだけど、騎団の連中は多かれ少なかれリージュ様に憧れて騎団に入団希望を出してんだよ」
「な〜んか、動機が不純だな」
「動機なんて不純でいいんだよ。純粋な思いってのは壊れやすいし暴走しやすいから。これ、俺の経験だから間違いなし」
「ってことはリージュさんへの想いを不純にするためにミュリカと付き合ってる訳か」
「否定は……って、あのなぁ!」
  思わず吹き出してしまうアスナにヴァイアスも笑みを浮かべる。
  はためく団旗を見上げて笑う男二人。傍目には滑稽に見える光景にも当人たちは至って真剣に友情を感じ合っていた。
  ある種、侵しがたい雰囲気の二人に団員の一人が申し訳なさそうに声をかけた。
「あの、団長いいでしょうか?」
  振り向けばそこにはどこかぎこちなく鎧を纏った少年がいた。
「ん?」
  興を削がれたからかどこか不機嫌そうな返事に、あどけなさを強く残した少年の顔がわずかにゆがむ。まだ正式な団員ではなく見習いなのだろう。
「ミュリカ様から本営が出来たのでお二人にすぐに来て欲しいとのことです」
「ん。分かった」
  ご苦労さん、とヴァイアスは彼の肩を叩くと歩き出した。アスナもそれに続く。
  が、アスナはもう一度、振り向いた。
  はためく団旗に描かれる近衛騎団の永遠の憧れ、初代魔王リージュがアスナにはどことなくエルトナージュに見えたような気がした。

「くしゅん」
  珍しく人前でエルトナージュがくしゃみをした。人前でそのような姿を見せない彼女に首都防衛軍副将ファーゾルトは僅かに表情をほころばせる。
  彼はエルトナージュの軍事関係の教育係として幼いころから接している者の一人だ。
「風が冷たくなってまいりました。そろそろ中に戻られたらいかがでしょう」
「兵たちが作業をしているときに一人、暖かい場所にいるわけにはいきません」
  そう言うだろうと予測していたのかファーゾルトは微笑を浮かべる。
  ここはファイラス近郊にある出城の一つだ。
  エルトナージュはこの出城にアスナ派本隊の半数約四万人を集結させていた。
  二人の眼下では定員二千名ほどの出城に集結させた兵たちが当分の間、自分たちが起居するのに不都合がないよう簡易宿舎の建設などの拡張工事を行っている。
  出城の防備を固めるようとしても効果はたかが知れている。確かに四万の兵とそれに見合った城があれば長期間、戦線を維持することは出来るだろう。だが今、自分たちに求められているのは互いに殻に閉じこもって睨み合いをすることではない。革命軍がファイラスから動けなくすることだ。そのためには積極的な行動が必要となる。自分たちが革命軍を牽制している間にこちらの切り札である近衛騎団と第三魔軍が占領された都市を奪還する。もし、彼女が任務を失敗すれば作戦は破綻する。失敗は絶対に許されない。
  自然と表情も気持ちも引き締まる。作戦の重要さはもちろん、これが彼女の初陣なのだから。その初陣のエルトナージュを補佐するのが自分の役割だとファーゾルトは改めて確認する。
  そして、風に揺れる竜族特有の金髪を抑えながらファーゾルトは思い出していた。
  竜族の王族でありながら変化する力を持たない眷属であった彼は、故国であるリーズで幼い頃より冷遇と謂われのない中傷を受けてきた。挙げ句の果てに謀反の嫌疑をかけられ国を捨てざるを得なくなった彼を拾ったのが先代魔王アイゼルだった。
  血統と力を最重視する竜族の中、眷属でありながら将軍にまでなった彼を娘の教育係として迎えたいと。出奔した身とはいえ自分は誇り高き竜族の王族だと固辞したが、種族に関係なく有能な人材を受け入れているアイゼルの姿勢と人柄に心を打たれ配下に加わることになる。
  そう言った経緯もあり、エルトナージュが大軍を率いている姿に感無量となることは無理からぬことだった。
「ですが姫様。そろそろ……」
「ファーゾルト。ここでは司令官です。それにお父様亡き今、姫でもなんでもありません」
「申し訳ありません、閣下。ですがそろそろお戻り下さい。兵には兵の、将には将の役割があります。万一、体調を崩されて作戦に支障を来すようなことになれば近衛騎団と共に戦っているアスナ様に合わせる顔がありません」
「……分かりました」
  あまりの素直さにファーゾルトは少し呆気なさを感じた。普段ならばもう一言、二言付け足さなければならないはずだが。
「作戦を完遂するためというのなら私は私の役割を果たします」
  その一言に得心がいった。
  どうやらエルトナージュはアスナに無様な姿を見せたくないようだ。この彼女の感情を巧く操作できれば作戦の完遂も夢ではないはずだ。
  なにより彼女のアスナに対する感情が今後、どう転ぶのか教育係として興味があった。
  となれば、こんなつまらない戦で死ぬわけにはいかない。最後まで見届けて恩義ある先王アイゼルに報告するのが自分の使命だ。
  そう思うと途端に全てが面白く感じるようになった。祖国を出奔して以来、翳りを帯びていた瞳に強い力が戻った。
  リーズでは決して日の目を見ることのなかった隠れた名将がここに蘇ったのだ。
「諸君!」
  喧噪の渦中で作業をする兵たちが思わず動きを止めてしまうような大声だ。
  ファーゾルトの背中でエルトナージュが振り返った。
「竜族ファーゾルトは今ここで改めて誓おう。魔王とラインボルトに忠誠を捧げると!」
  突然の宣誓に皆、声もなく言葉の続きを待つ。
「国を追われた私を受け入れてくれたラインボルトには我が力を、まだ年若い後継者、坂上アスナ様には私が抱く希望を捧げよう。では、我が声を聞く将兵諸君はなにを捧げる」
  返る言葉はない。耳を打つのは戸惑いのみ。だが、ファーゾルトは失望しない。
「個人として捧げるものに気付かぬのなら一人の武人として考えよ。我ら武人が主に捧げるのは勝利以外にない。共に勝利を捧げよう。私は諸君に願う。共に勝利を捧げたいと!」
  一瞬の静寂の後、瀑布のような歓声が星空のもと響きわたった。それを上回る大声でファーゾルトは応える。
「諸君に心からの感謝を。ならば各員、全力で出来ることを行おう。我らが得た勝利をアスナ様に捧げ、我らの意志と力を示すために!」
  歓声はエルトナージュが姿を現したことでさらに高まる。戦場に出ることを厭わず決然とした美しき姫君の姿は兵たちの士気を鼓舞するのに十分以上の効果があった。
「貴方があのような大声を上げるとは知りませんでした」
  ファーゾルトは彼女に始めて見せる漢の笑みを浮かべると、
「首都防衛軍副将ファーゾルト。戦場に置いて今後一切、容赦をすることはありません。お覚悟のほどを」
「心強いです。ファーゾルト」

 光を受けて金色に輝く麦穂が一面に広がっている。風の形を見せるようになびく麦畑を眺めていると現実感を失わせる。まさに幻想的な風景だった。
  一面に広がる黄金の麦畑。それはヨーロッパにおいて天界の想像図だとなにかの本で読んだような記憶がある。
  その天界の想像図の中に居並ぶのは豊作を喜ぶ農民たちではなく殺気と昂揚を身に纏った完全武装の兵士たちだ。その彼らの白き鎧が数分後には朱に染まる。
  アスナは一人、本陣から離れた場所から攻撃命令を待つ騎団を眺めていた。
  あまりにも早い心臓の鼓動にアスナは小さな目眩を覚える。いやに耳に付く激しい呼気の音は多分、自分が発しているものだろう。
  攻撃命令を下す。それだけのことがこんなに怖いとは思わなかった。
「……いかね?」
「えっ」
「怖いかね、アスナ殿?」
  変身の魔法で馬に転じたイクシスが声をかけてきた。アスナは今、このイクシスに乗馬している。ここ二日の彼の指導のおかげで馬にもある程度馴れて、大人しい馬ならば簡単な指示くらいは出せるようになった。
「いや、愚問だったの。わたしも初陣のときには小便を漏らしそうになったからの」
「…………」
「さて、アスナ殿はどうなさるおつもりかの?」
「どうって攻撃命令を」
「無理をなさるな。アスナ殿は戦とは無縁の世界で生きてきたのであろ?」
  無言で頷くアスナ。今になって何でこの老人はこんなことを言い出すのだろう。真意を測りかねた。
「今ならばまだ間に合う。怖いのであれば、後悔をするのであれば兵を退いても構わぬ。何なら逃げ出しても構わぬよ」
「イクシスさん、それどういう意味ですか?」
「少し遠回しが過ぎたかの。ようはどのような決断を下そうと迷うなと言いたかったのだよ。後悔は結果を問わずしてしまうもの。ならば後悔を反省にするために迷いのない決断を下されよ。少なくとも私はそう考えておるよ」
「…………」
「では最後に一つだけ考えられよ。アスナ殿は何のために戦を始めたのかを」
  もちろん幻想界統一の足がかりに決まっている。
  それはエルトナージュの夢だ。自分の夢ではない。
  けど、自分は彼女の夢を手伝うと言ったのだ。今はそれだけで十分なんじゃないのか。
  あの泣いているのか怒っているのか分からない表情で自分の夢を叫んだ彼女を手伝ってやりたい。そう思ったときの気持ちは本物だと強く信じられるから。
  そう思ったら途端に身体が軽くなったような気がした。それだけ緊張していたのだろう。
  そんな自分に思わず苦笑を浮かべてしまう。
「ありがとうございます。これからも迷うことはあると思うけど、あのときの気持ちは多分ずっと本物だって信じられると思います」
「そうか、よかったの。では、そろそろ行くかの」
「はい」
  戦うために。攻撃命令という名の最初の一撃を革命軍に打ち込むために。

「戻ったか」
  ヴァイアスの声がアスナの存在をミュリカや参謀たちに気付かせる。
  彼らは右拳を胸に当て頭を下げる。これがラインボルトにおける敬礼だ。ちなみに略式の場合は右拳を胸に当てるだけだ。
  全員の視線を受け止めてアスナも答礼する。
「ご命令を。我らはいかなる命令にも服します」
「本当だな?」
「はい」
「だったらエルニスに篭もって不平不満を叫ぶヤツらを引きずり出せ。わめき声を上げるより、今この瞬間から始めるオレたちのバカ騒ぎの方が断然楽しいんだって思い知らせてやれ!!」
  改めてヴァイアスたちを見回して全員の視線を受け止める。
「戦闘開始だ! 幻想界統一はここから始まる!!」
『はっ!』
「ヴァイアス、後は任せる」
「はっ……。聞いたな。数百年の永きに渡る沈黙を破るときが来た。我らは魔王の剣であり魔王の盾。我らを統率するはただ一人、魔王のみ。我らが誇りは魔王と共にあることなり。この言葉の意味を世の中に再認識させるときが来た。狼煙を上げて攻撃を開始するぞ。我らは、近衛騎団はここにいると!」
『おぉっ!!』
「征けっ!」
  ヴァイアスの号令一下、騎団は動き出した。狼煙が上がり、伝令が走り始める。
  エルニスに響きわたる鬨の声。我らは近衛騎団なり、と。

 エルニスを東西に抜ける大通りの入り口には革命軍司令の命令の下で土嚢、廃屋をつぶして作った石や木材で簡易の防壁が作られていた。敵兵の侵入を防ぐことはもちろん対魔法障壁を何十にも重ね合わせたものだ。防御能力は城壁には及ばないものの突貫工事で作り上げたことを考えれば優秀な出来だと断言できるだろう。この防壁は兵たちが放つ弓の邪魔にならないような工夫が施されている。
  都市への進入路はもちろんここだけではない。小さな道がいくつも存在している。そう言った細い道には班単位で防衛任務にあたらせた。仮にここから侵入を受けたとしても細い道では少数の兵力でもある程度、持ちこたえられるのだ。
  エルニス占領軍司令はそうやって自らの十倍はする近衛騎団にあたろうとした。
  近衛騎団本隊の姿を目の当たりにして司令はようやく事態を飲み込んだ。
  後継者の出現と革命軍の殲滅命令。
  降伏することも考えたが彼は良くも悪くも軍人であった。革命軍本隊からの新たな命令がない以上、エルニス防衛の任務を遂行すべきだと。
  玉砕覚悟と言えば聞こえは良いが、簡単に司令の心境を表現すればヤケクソである。
  翌朝には近衛騎団は攻撃を開始するという司令の予測通りに午前八時過ぎに攻撃は始まった。
  大通りを堰き止める防壁で爆発が起きた。魔法攻撃だ。
  ここにエルニス奪還戦は幕を開けたのだ。

 よく目を凝らしてみれば革命軍は弓矢で応戦しているのが見える。
  対して近衛騎団は爆炎系の魔法で攻撃している。その威力は言うなれば大砲そのものだ。
  今、アスナたちがいる本陣から見えるのは大通りの西側だ。戦場から見て、左斜め後方にいるため戦場の様子がよく分かる。
「魔法部隊の方にまで矢が届いてるみたいだけど大丈夫なのか?」
「あぁ、大丈夫だ。二人一組で攻撃と防御を分担しているからな。防御担当のヤツがへまをしない限り大丈夫だ」
  団長と言えども一度、攻撃命令を下せば後は現場の者たちに任せることになる。変化する状況に対処するのも参謀たちだ。不測の事態が起きない限り、団長はアスナ同様に観客でしかない。それがアスナにはありがたかった。戦場に木霊する音を一人で聞いているのは怖くて仕方がなかったのだ。歳の離れたイクシスよりもヴァイアスの方がずっと話しやすかった。
  それでも爆音のなかで確実に含まれる傷つき、命を散らす者たちの絶叫が耳に残る。
  やがて、革命軍側からの抵抗はなくなり残されたのは瓦礫と化した防壁だけだ。
  ものの三十分ほどで決着は付いた。
「なんて言うか圧倒的だな」
「相手にそれなりの数の魔導士がいればもう少し時間がかかったらだろうけど。やろうと思えば一撃目で落とせる規模だからな」
「だったら何でそうしなかったんだよ。その方が楽だろ?」
「あの辺一帯を廃墟にするわけにはいかないだろ」
「…………」
  つくづくここが魔界なんだと実感した。大砲に匹敵する力を自らの意思で自在に使いこなせる者がいる世界なんだと。
  そして、その頂点にいるのが魔王。本気を出せば一撃であの一帯を吹き飛ばせる魔法部隊よりも強大な力を持つ者。
  そう言った存在に、自分がなる。
「ヴァイアス」
「なんだ?」
「魔王が戦っているところって見たことある?」
  小さくヴァイアスは首を横に振った。
「ない。先々代の団長の話だと、近衛騎団と言えども本気を出した魔王と一緒に戦場に立っているのは至難の業だって。伝説じゃ進軍の邪魔だからって山一つぶっ飛ばしたって話もあるくらいだからな。俺が言うのもなんだけど桁外れだよな」
  言葉もない。
「アスナからしたら化け物みたいな俺たちが化け物っていう存在だからな。想像は出来ても実感は湧かないんじゃないのか」
  頷くアスナ。二人が話している間にも戦闘は続いている。
  ある程度、炎と粉塵がおさまると第二撃が始まる。ここから本格的な攻略が始まる。
  エルニス市街に突入をするのは二個連隊四千人だ。その第一陣として都市の大動脈である大通りと、エルニス駐留の革命軍司令部が置かれているだろう市庁舎周辺を占拠すべく騎団の花形である騎兵部隊が東西から突入を開始した。
「作戦会議の時から思ってたんだけどさ、騎兵部隊に攻撃させて大丈夫なのかよ。オレだったら街の中にも防壁とか作るけど」
「素人の割には良いところに気が付くな」
「なんか素直に喜べないんですけど」
「これでも誉めてるんだよ。まぁ、見てな」
  視線を移すと街の奥で何かが、蒼とも白ともつかぬ色彩が強く光った。
「あれって」
「鏃を組んだんだ。騎兵部隊が突入するとき槍の穂先みたいな隊列を組んでるのを見ただろ。あれがそう」
  頷くアスナ。確かに前二列に二人ずつ、後ろ二列に三人ずつの計十名の隊列が四つずつ組まれていた。あれが鏃なんだろうとアスナは思い出す。
「先頭の二人に隊列を組んだ連中が全力で防御魔法をかけるんだ。何重にもかけられた防御魔法と騎兵の突撃衝力もあって巨大な鏃になるんだ。土嚢なんかで急造した防壁では鏃は止められない。特に俺たちの鏃はな。それに俺もいるしな」

 ヴァイアスの言うとおりだった。大通りに幾つもの積み上げられた土嚢や馬防柵といった防壁に兵が配置されていたが騎兵部隊の組んだ鏃の前では意味を成さなかった。
  鏃の前に幾重にも展開された防御魔法と速度が破壊鎚よろしく次々に防壁を打ち砕き、襲いかかろうとする敵兵たちを弾き飛ばしていく。いや、そんなに生やさしくはない。文字通り騎兵部隊は敵兵たちを蹂躙していくのだ。
  大通りに配された兵たちの不幸はそれだけではない。騎兵部隊は四隊、僅かな時間差をおいて突撃を加えているのだ。第一撃をどうにか生き残ったとしてもさほど間を置かずに再び襲いかかってくる巨大な鏃を前に、彼らは展開された防御魔法に弾かれ、馬に踏み潰されてしまった。もはやどれが誰の遺体なのかすら判別することが出来ない。
  ここでは判別できる形で死ねたことこそが幸運であったのだ。
  東西より騎兵部隊に整地された大通りを第三陣である重装歩兵部隊が駅舎や都市長公邸などの重要施設の制圧・維持を行うべく突入する。
  幾つかの部隊は騎兵部隊の突入を知った敵兵と遭遇、戦闘に突入するが重装歩兵の持つ強固な装甲と攻撃力の前に屍を築くしかなかった。
  騎兵部隊が防壁を穿ち、重装歩兵部隊が出来た穴を維持するのだ。
  そして、決して目立つことのない戦場の主役、歩兵部隊が投入される。
  彼らは東西から侵入し、エルニス各所に浸透していく。
  占領域を革命軍を赤、近衛騎団を青で色分けすると分刻みでエルニスは青く染まっていくのが見えただろう。開戦から二時間、全体としてエルニス奪還戦は終局に向かいつつあったが局地的にはまだ激戦が続いていた。その中心地が市庁舎前広場だ。
  エルニス占領軍はここにも強固な陣地をいくつも作り上げていた。規模としては大通りを塞いでいたものと同程度だ。だが、ここでは大通りで行ったような力押しをするわけにはいかない。ここは市街の中心地であり、今後の市政を司る施設だからだ。
  なによりここで魔法部隊を投入すれば市民たちに今以上の被害を与えることになる。
  それは近衛騎団として、いやアスナの望むところではない。速攻で市庁舎に陣取る敵司令部を落とすためにこの作戦を立案したのだ。
  司令部を落とせば市街地で交戦中の革命軍兵士も投降するだろうと考えてのことだ。
  だが、実際はそれとは逆に事態は展開している。
  市街地の奪還はほぼ終了しているのに対して、市庁舎前広場での戦いは開戦から五時間近く経っても制圧出来てはいなかった。

 制圧予定時刻を過ぎても市庁舎前広場を落とせない。
  この報告が届くとすぐに本陣でヴァイアスは参謀たちと共に対応策を練ることになった。
  机の上にはすでに市庁舎周辺の簡易な絵図面が広げられていた。そこには革命軍によって作られた陣地が追加表記されている。
「状況は?」
「敵は第一魔軍の一個歩兵中隊を中心に四百名ほどが市庁舎前広場に陣地を構えています。我が方は先行した騎兵部隊が奪取したこの陣地を拠点として攻撃を加えています。ですが」
「芳しくない、か。しかし、どういうことだ。広場制圧には二千名近く投入しているだろう。俺たちと同程度の実力を持つ第一魔軍でも五倍の兵力と互角に渡り合えるとは思えない。第一、ここの半数は一般軍の連中だろう」
「原因はこちらが投入している人員が十分に活用されていないことだと思われます」
  参謀長アスティークが答える。
「大量投入の弊害か。このままじゃ長期戦は避けられないな。策はあるか?」
  言葉は返ってこない。長期戦になるとは言え、この時点ですでに勝利は確定しているのだ。ここでごり押しして無駄に損害を被るのは下策でしかない。
「しょうがない。俺が行くか」
「ヴァイアス!?」
「団長!」
  ミュリカを始め参謀たちが声を上げた。途端に本陣は騒然とした。
「正気なの。こんな場所に貴方が出向いたら」
「他に策があるのか?」
  返事はない。
「じゃ、決まりだな。そんなに俺が動かしたくないんだったら次からはもっと良い策を立案するように」
  嫌みともとれる言葉を残して会議をしていたテントの出口に彼は足を向けた。
「どういうこと?」
  事態を理解していない人物が一人。
「ん〜……。簡単に言えば俺が行って終わらせるってことだな」
「二千人でも無理なのに、お前が一人行っても」
「まっ。アスナはここでゆっくり見てな。ミュリカ、頼んだぞ」
  全然分からないと表情全体で語るアスナに笑みを見せると今度こそ本当にテントから出ていった。アスナは答えを求めるようにミュリカに視線を向ける。
「ヴァイアスは人魔の規格外なんです。……こういう言い方は好きじゃないですけど、戦略兵器だと言った方が分かりやすいでしょうか」
「規格外って、どういうことだ?」
「そうですね。アスナ様もご存じだと思いますが、あたしたち人魔はこの幻想界で最弱の種族の一つです。ですが時として人魔を、というより全種族を超えた能力を持った者が生まれるんです」
「天才ってこと?」
「違います。天才はどんなに努力をしても人魔としての限界を超えることは出来ません。ですが、規格外の者は生まれたときからその限界の外にいるんです」
「…………」
「なぜ人魔だけに規格外の者が生まれるのかは分かっていません。一説には魔王の存在が原因ではないかと言われています」
  理解を促すために一拍、間が空く。自分なりに咀嚼したアスナは続けるように頷いた。
「強大すぎる魔王の力が生まれてくる子どもに影響しているんじゃないかという説です。とにかく規格外の者が力を振るえばあたしたちでは太刀打ちできません」
  我が国の軍の将はどれも他国に比肩することない実力者揃いというストラトの言葉を思い出す。ストラトの言っていたことは誇張でも何でもなかったのだ。
「ってことは将軍クラスの連中はみんな規格外ってことか」
「そうでもないです。軍部で規格外だと分かっているのはヴァイアスとリムルとゲームニス様。今は敵ですがフォルキス様もそうです。それとエル様もそうです」
  エルトナージュが宰相としての地位と王族としての権威だけで残留組を宰相派として纏めていたというわけではなかったのだ。自分を含めて規格外の存在を三人擁しているからこそ求心力を持ち、数の上で勝る革命軍と互することが出来たのだろう。
  図らずも三つに分けた軍のそれぞれに一人ずつ規格外を配置したことになる。
  アスナはそんなこと考えていなかったが、素案を口にしたヴァイアスはこのことを念頭においていたに違いない。

 市庁舎の前面には比較的大きな広場がある。
  今、そこには幾つもの塹壕や防壁が作られ、エルニス占領軍と近衛騎団とが睨み合いを続けていた。占領軍の五倍を擁する近衛騎団だったが迂闊に手を出すことが出来なかった。
  ここから力押しをすれば騎団に少なからず損害が出ることはもちろん、歴史ある市庁舎の損壊を招くことになる。かといって広場の反対側から攻撃をすれば市庁舎の背後に広がる市民たちの居住区に多大な損害を与えることになる。それは両軍とも望むところではない。
  そう言った理由からエルニス最後の戦場として選ばれたのが市庁舎前広場であったことは当然の理屈だった。ただ、騎団の誤算だったのは占領軍が主に防備を固めるのは第一攻撃目標である東西の大通り入り口であり、市庁舎前広場には警備程度の部隊しか置かないと思っていたことだ。その思惑とは裏腹に占領軍はここ、市庁舎前広場で防戦を行うことを考えていたのだ。
  膠着状態になった広場に状況を動かすべくヴァイアスが到着した。
「団長!」
  現場指揮官の敬礼に彼は答礼すると、
「このようなところにいらっしゃるとは」
「状況を開始してから四時間経っても落とせていないからな」
「申し訳ありません」
「謝るのは後にしろ。状況は? 第一魔軍の連中が中核になってるって話だが」
「はい。敵陣地に張り付いているのは一般軍の者が大半です。第一魔軍の者は各陣地の要に少数配備されているのみです」
「残りは?」
「あそこに」
  司令官の指さす先は市庁舎。その窓や屋上に兵が配備されているのが見える。
「確かにあれじゃ落としにくいな」
  陣地に配備されている兵は文字通り壁としての役割を与えられている。対して市庁舎に配備されている部隊が攻撃の本命なのだろう。
  こちらが市庁舎を傷つけたくないことを見越してそこから魔法攻撃を行っている。
  強引に攻撃を行えば頭上と正面から矢や魔法の攻撃がくるのは目に見えてる。
「こちらの損害は?」
「数名、負傷者が出ましたが後送し治療させています。戦死者はおりません」
「上出来だな」
  そう言われても司令官は嬉しくなかった。予定時刻を過ぎても市庁舎攻略が終わらず、挙げ句の果てには団長まで現場に顔を出す始末だ。彼の面子は完全に潰れていた。
「悪いな。後継者のためにお前の面子を潰させてもらうぞ」
  が、内心の不満もヴァイアスの一言で払拭された。彼もまた近衛騎団の一員なのだから。
「ご随意に。私も近衛騎団の一員です。主のために全てを捧げます」
  ヴァイアスは頷いた。
「全軍に通達。予定よりも早いが免死の旗を掲げろ」
「……はっ」
  ヴァイアスの意図が分からないと言った風な表情を浮かべながらも司令官は敬礼をし、配下の伝令にその旨、命令をする。
  免死とは文字通り、死を免除するという意味だ。降伏しても虐殺されることが稀にあるがこの旗を掲げた瞬間から降伏を許したのは司令官ではなく国家そのものとなるのだ。
  もし、この旗を掲げて降伏した者たちを虐殺した場合は国家と王の威信を著しく貶めることになるのだ。
「免死を掲げるのはまだ早いのでないでしょうか?」
「気付かないのか? 一般軍の連中、俺たちの姿を見て脅えた目をしてるだろ。ああいうヤツらに危害を加えれば予想以上のしっぺ返しに合うことになる。だったらこちらから許しを与えてやれば素直に応じるだろう」
「ご慧眼です」
「お前たちの教育の結果だって。さてと」
  一度、掲げられた免死の旗を見上げると睨み合い緊張のみが高まる戦場にヴァイアスの大声が静寂を切り裂いていく。
「我が名は近衛騎団団長ヴァイアス。後継者の命により諸君らに降伏を勧告する。掲げたリージュと免死の旗にかけて諸君らの生命を保証しよう。十分だ。諸君らに与えられる時間は十分限りだ。その間に決めろ。降伏するも後継者に抵抗するも諸君らの自由だ。だが、抵抗するならば我が魔王の残光にて消し去ってやろう。よく考えられよ!」
  降伏勧告を受けた革命軍兵士だけではなく、彼らを包囲する近衛騎団の兵たちにも動揺が走った。
「団長、正気ですか?!」
「そう言うときは普通、本気かって尋ねないか?」
「いえ。正気で合ってます。嬢がいれば間違いなくひっぱたかれてますよ」
「俺は至って正気だし。時間が来れば本気でぶっ放す」
「おい! 誰かすぐに嬢をお連れしろ。団長がご乱心だ!!」
  本当に伝令が本陣に向かって走り出している。
「あのなぁ。少しは俺を信用しろよ」
「ですが、魔王の残光を放てば市庁舎はもちろん都市の大半が消失してしまうのですぞ」
「そんなことは分かってるって」
  つまらなさそうにヴァイアスは言った。
  魔王の残光とは最強の戦略魔法だ。魔王の全力で放った攻撃の余波と同じ規模の破壊を与えることからラインボルトではその名が与えられた。もちろん、魔王はラインボルトの主の名なので他国では別の名が与えられている。例を挙げると竜王の国リーズでは竜王の吐息などと呼ばれている。
  ともあれそんな魔法を使えば術者を中心に全てが崩壊するのは確実。少なくとも自軍を展開している都市で使うような魔法ではないのだ。
  またこの魔法を使える者も少なく天才的な魔導士か、規格外の者以外にいない。
  その魔王の残光を使うというヴァイアスが正気を疑われても仕方がないことだった。
「ここに来る前に全軍、全住民に退避命令を出してる。第一、魔王と共に戦えるって豪語してる俺たち近衛騎団が魔王の残光ぐらいでどうにかなると思ってるのかよ」
「ですが!」
「ですがもなにもないって。それに俺が魔王の残光を撃つか撃たないかを決めるのは向こうだろ。あいつらが抵抗を続けるというのなら俺は断固として撃つがな」
「あぁ、嬢の気苦労がよく分かる」
  嬢とはもちろんミュリカのことだ。古参の団員は嬢、同期以降の団員は姐さんなどと読んでいる。本人はそう呼ばれることをよしとはしていないが。
「なんだよ、それは。……って言ってる間に」
  陣地に篭もっていた革命軍兵士が次々と両手を上げて投降してきた。一般軍の者だけではない。精鋭である第一魔軍の者まで投降してきたのだ。
「賢明だな。計算通りの展開とは言え、歴史あるエルニスを破壊せずにすんだ」
「空々しく聞こえるのは気のせいでしょうか?」
「……気のせいだな」
  司令官はため息を一つ吐くと、
「どちらにせよ。この件に関して嬢から苦言があると思いますので覚悟しておいてください」
「ったく何で俺の部下はこぞってミュリカの味方するんだろな」
「そりゃ、騎団で一番エライのは嬢だからに決まってるじゃないですか」
「……負傷者には傷の手当をしてやれ。武装解除の確認を怠るな!」
  不満だが納得もしているという複雑な心境を辺りにぶちまけるようにヴァイアスは指示を飛ばした。
「残り時間は?」
「はっ。……五分ほどです」
「五分後に市庁舎に突入を開始する。兵を選抜しろ」
「はっ!」
  残るは占領軍司令部の置かれた市庁舎のみ。エルニス奪還作戦の完了は時間の問題となった。

 広場の奪還と市庁舎への突撃開始の報は近衛騎団本陣を活気づけた。
  参謀たちは彼の無謀に揶揄し、ミュリカは心配とは裏腹の罵声をここにはいないヴァイアスにしながら、彼らは次々に指示を出していく。
  本陣と共に待機していた衛生部隊及び工兵部隊に負傷者の救助と遺体の撤去を命じる。予備戦力として都市の外で待機していた戦闘部隊の一部を彼らの護衛につける。
  兵站部隊には避難してきた市民たちの世話を命じる。
  また参謀の一人を市長以下、市政を司る重役たちが軟禁されている都市長公邸に向かわせ、状況説明を行わせるなど慌ただしく本陣は動き回っていた。
  互いに剣を交えているときよりも、戦の後始末の方がずっと大変なのだ。市街戦となればなおさらだ。これからもこの街で人々は暮らしていくのだから。
  そんな中、やはりアスナはすることが何もなく一人手持ちぶさたな状態であった。
  周りで忙しそうにしていると何か手伝ってやりたくなる、お節介な性分の彼は一人そわそわとしていた。
  騎団の頭脳であるここではアスナに出来ることなど一つもない。知識と経験、何より階級と権限が全てである場所でお客様が出来ることなどないに決まっているのだ。
  それでも何かがしたいとアスナは思う。
  みんながそれぞれの役目を全うしようとしている。さっきまでアスナと同じように暇をしていたヴァイアスも今では戦場に立っている。
  市庁舎前広場からの報告によれば団長自らが市庁舎奪還に動いているということだ。
  誰も彼もが戦っている。対する自分はどうだろう。
  はじめに戦闘開始を号令しただけだ。それ以降は本陣からエルニスを眺めているか、今のように騎団司令部の隅で座っているかだ。
  苛立ちにも似た焦りを表すようにアスナは先ほどから貧乏揺すりを続けていた。
  何かがしたい。小さなことでも良いから何かがしたい。そして、騎団のみんなが仲間だって言う実感が欲しかった。
  間断なく出入りしていた伝令の列が途切れた。
「第四大隊に通達。大通りの撤去作業の応援に一個中隊を回せ!」
  返事はない。
「伝令! いないのか」
  参謀の一人が声を上げた。が、それに応えることはない。
  ……連絡役ぐらいならオレでも出来る!
  とばかりにアスナは立ち上がった。
「分かった。大通りの撤去作業の応援に一個中隊を回すように第四大隊に連絡するんだな」
  勢いよくそう言うと誰の返事も待たずに駆け出した。あまりのことにミュリカたちはすぐに反応することが出来なかった。
  アスナは本陣脇でひなたぼっこをしていたイクシスに些かぎこちなくだが飛び乗った。
「イクシスさん。第四大隊のところに行って」
「どうしたね?」
「連絡係。これぐらいだったらオレでも出来ると思う」
「…………」
  一瞬だがイクシスは苦い顔をしたがアスナは気付いていない。馬上にいることはもちろん、初めて役に立てることが見つかり、興奮状態にある彼に気付くことなど出来なかった。
  僅かな逡巡ののち、イクシスは自分は馬なのだと思った。何よりアスナにとって良い経験になるだろうと。
「しっかりと掴まっていなされ」
「うん!」
「行きますぞ」
  かけ声とともにイクシスは走り出した。
  本陣を行き交う兵たちを轢き殺さんばかりの勢いでイクシスは走る。兵たちは徒歩で動き回っていたところにイクシスの乱入となり、本陣は小さな混乱を呼び寄せた。
  被害はそれだけではない。中枢である騎団司令部は突然のアスナの奇行に一時的な機能停止に及んでいた。数十秒後にはアスナを連れ戻すようミュリカのヒステリックな声が飛んだのだった。
  自分の行動がこんな事態を招いたとは気付いていないアスナは麦畑をイクシスと共に疾走していた。金色の風景の中を駆け抜ける。
  視線をエルニス大通りの西口の防壁跡に向ける。攻撃の凄まじさを無言で示す破壊の跡。未だに炎が燻り続けているのか幾筋も煙が立ち上っている。
  さらにその奥に視線を向けると黒い煙も目にすることが出来る。市民への被害は可能な限り与えないように指示してはいるが実現することは出来なかったのだろうか。
  圧倒的な力を持つ近衛騎団と言えども、いざ戦いとなれば予定とは異なる事態に陥ってしまうのだろう。それともあれは問題となっている市庁舎前広場の戦いなのだろうか。
  気にしても自分には戦う力がない。だったら、今は出来ることをしよう。
  アスナは頭を切り換えると前方に集中ときだった。不意にイクシスが走る速度を緩めたのだ。
「どうしたんですか、イクシスさん」
  問う声にイクシスは応えない。彼は顔を右に向けていた。
  それにアスナも倣うように顔を向けると麦畑の中程に騎兵がいた。
  明らかな不審者だ。
  戦闘中の今、兵ならば部隊から離れて単独行動を行うはずがない。伝令ならばあんなところに立ち止まっているはずがない。何より纏っている鎧が違う。
  近衛騎団の兵が纏うのは白を基調とした鎧だ。あの騎兵が纏っているような鈍い鋼の光沢を持つはずがないのだ。
  では、本隊からの伝令だろうか。それもない。本隊からの伝令ならば真っ直ぐに本陣に向かうはずだ。だが、あの伝令は本陣の位置を探すでもなくエルニスと周囲を取り囲む騎団の様子を見ているようだった。
「あれってもしかして」
「革命軍側の伝令、もしくは斥候と言ったところかの」
「だったら捕まえないと。こっちの情報が漏れるのは良くないよ」
「捕まえると言ってもどうなさるおつもりかね。アスナ殿に戦う力はなかろう」
「イクシスさん、魔導士なんだよな。だったら」
  アスナの言いたいとことを察した老いた馬は小さく息を吐いた。
「仕方ないの」
「じゃ、お願いします」
  イクシスは景気づけとばかりに一度、大きく嘶くと強く駆け出した。
  アスナたちの動きに気付いた騎兵が馬を転進させた。
「逃げる、逃げるよ」
「慌てられるな」
  言うと同時に火球が生まれる。三つ、それが時間差をおいて次々に騎兵に放たれる。
  だが、火球は全て命中することなく見えない壁に遮られたかのように騎兵のすぐ後ろで爆発した。負傷したようには見えない。
「さすがは伝令役だの」
  伝令役は総じて将来の幹部となる優秀な者たちに任せられる。その為、それに見合った力を持っているのも当然のことだった。
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないですよ」
  アスナの言うとおり少しずつだが距離が開いていく。矍鑠(かくしゃく)としていてもやはり老いには勝てないのだろう。
「まぁ、見ておられよ」
  先ほどと同じようにイクシスは火球を放った。
  何度、同じことをやっても無駄だと言わんばかりに火球は防がれてしまう。が、次の瞬間、唐突に馬が転倒してしまったのだ。
「えっ!?」
  見れば馬の右後ろの腿から先がばっさりと切り取られているのだ。
「なにやったんですか」
「見ての通りだよ。火球であやつの気を逸らして、その間に馬の足を切ったのだよ」
  言うは容易いが実行することは非常に難しいことだ。
  幻想界において魔法の行使に呪文の詠唱という儀式は必要ない。自らの力とそれを形作る式、つまりイメージの組立てさえ出来れば行使することが出来る。そのため、同じ魔法の連続行使は比較的簡単だ。だが、連続して別系統の魔法を行使することは難しい。
  それをイクシスは難なくやってのけたのだ。
  分かるものが見れば感嘆の声を出してもおかしくない状況だが、魔法関係の知識が全くないアスナは別のことに気を取られていた。転倒し、うめき声を上げる伝令だ。
  怪我をしているだろうが命に別状なさそうなのを確認すると、
「命の保証はする。武器を捨てて投降しろ」
「誰がするか」
  吐き出すように伝令の声を聞いた後、途轍もない衝撃が全身を襲った。
  覚えているのは眼前に広がった太陽と、自分を呼ぶ声だけだった。

 怒声と盛大な破壊音。
  それがアスナが気付いたときに一番初めに耳にした音だった。聞こえる音と声ははっきりとするのに身体が言うことを聞かない。
  意識だけははっきりとしているに身体は起きようとする意思を拒否するかのように眠りを欲している。金縛りにとても良く似た感覚だ。
「俺が聞きたいのは経緯じゃない。なぜこんなことになったかだ!」
  怒声の主はヴァイアスだ。テーブルを叩いているのも恐らく彼だろう。
「伝令によってご報告しました通りです。全てはあたしの不手際です」
「不手際じゃ済まないと分かってるのか。ミュリカ!」
「……はい」
「俺たちは誇りある近衛騎団だ。それぞれが与えられた役割に従い主に支える者だ。そして、今回お前に与えた最重要任務は何だ。言ってみろ」
「アスナ様の護衛です」
「それが分かっていながら何故こうなったのか俺は聞きたいんだ」
「…………」
「答えろ、ミュリカ。お前には報告義務がある」
「団長、それぐらいにしてやって下さい。あの状況では誰だって」
  参謀長のアスティークだ。彼が必死に取りなしをしているのが分かる。
「黙っていろ。お前には事後処理を一任しているはずだぞ。こんなところで時間を潰すな」
「ですが……」
「黙っていろと言ったぞ、アスティーク」
「いいえ、黙りません。あの状況は明らかにアスナ様の……」
「黙れ!!」
  オレが、何だって? オレが何を……。
「俺たち近衛騎団に主を非難する権利はない。魔王の盾としての役割を果たせなかった俺たちには尚更な!」
「…………」
「答えろ、ミュリカ。なぜこんな事態になったのかを」
「……全ては、あたしの責任です。申し訳ありませんでした」
「謝って済む問題か!!」
  鈍い音に続いて盛大に何かがぶつかり崩れるような音がした。
「団長!」
「嬢!」
「いいか。お前は近衛騎団の誇りを汚したんだ。それを不手際の一言で済ませられるか。アスナを殺されかけるなんて騎団にとって最低の恥辱だと分かってるのか」
  殺されかけた。オレが死にかけたのか、何で……。
「何で……」
  アスナの掠れた小さな呟きにそこにいた者たち全てが彼に視線を集中させる。
  だが、その視線に気付かないのかアスナは両腕に巻かれた包帯を見るともなしに眺めていた。身体を起こそうとしたが痺れるような痛みが腕だけではなく身体の至る所を走り、顔をしかめた。
「くっ」
「痛むか」
  小さく頷き、アスナは自分がどこにいるのかようやく実感が出来た。
  アスナのテントに設えられたベッドの上だ。
  包帯が巻かれているのは両腕だけではない。ゆったりとした長衣に包まれた身体にも、頭にも右足にも包帯は巻かれている。
「分かるか、俺が分かるか?」
  言いながら起きたアスナがもたれやすくするためにベッドの背に枕を置いてやる。
「どうしたんだよ、ヴァイアス。変な顔して」
  ヴァイアスの名を言ったことでテント内の皆は安堵の息を吐いた。
「こんな時までどうでも良いこと言うな。おい、先生を呼んでこい」
「はい」
  駆け出していく司令部要員を見送った視線の中に、
「ミュリカ、顔が腫れてるけど。どうかしたのか?」
「何でもないです。ちょっと転んだだけですから」
  誰が見ても分かる作り笑いを浮かべながら彼女は腫れている左頬を隠すように手を当てた。
「……そう」
  何か引っかかるものがあったが思い出すことは出来なかった。
「水か何かもらえないかな?」
「診察が先だ。傷に障るかもしれないからな」
  しばらく二人で噛み合わない会話を続けていると白衣を纏った初老の男性がテントに入ってきた。軍医のロディマスだ。
  アスナはすでに何度かこの軍医のお世話になっている。乗馬の練習での股下の痛みの緩和や落馬での怪我がそうだ。そういった経験から人族に治癒魔法を使ってもあまり効果がないことが分かった。治癒魔法はあくまでも幻想界の者たちのために研究されていた魔法だからではないかというのがロディマスの見解だ。
  それでも近衛騎団付きの軍医と言うこともあって彼の腕は確かだった。二時間ほど前までは目を背けたくなるような大火傷を負っていた両腕も今では引きつれた感じだけが残っているだけだった。
  もっともこれだけで済んだのはイクシスがとっさに魔法攻撃を防ぐ障壁を展開していたからなのだが。もし、それがなければすでにアスナは生きてはいなかっただろう。
「先生、オレどうしてこんな」
「覚えていないのか。まぁ、仕方ないな。いいか、落ち着いて聞きなさい。お前さんは殺されかけたんだ。ゆっくりで良い。思い出してみなさい」
  言われたとおりアスナは憶えている場面からゆっくりと思い出していく。
  人手が足りなく参謀たちの返事も聞かないで伝令の代わりに飛び出したこと。
  イクシスと共に第四大隊の元に向かう途中に怪しげな騎兵、恐らく革命軍側の伝令を発見したこと。
  イクシスに頼んで敵の伝令を捕まえようとし、伝令が乗っていた馬の足を切断したこと。
  降伏を勧告し、そして……。
  ……誰がするか。視界を覆う小さな太陽。爆音と背中の衝撃。
「オレ……オレ……」
  途端に顔を蒼白にしたアスナにロディマスは小さく頷いた。
「思い出したようだね」
「殺されそうになったんだ。そうだイクシスさんは?」
「他人の心配が出来るようなら大丈夫だな。あの年寄りならお前さんよりも頑丈だ。今頃、昼寝でもしてるなじゃないかね。さて、火傷の方も三、四日ほど安静にしてれば痕も残らず完治するだろう。さてと」
  立ち上がると一度、ロディマスは乱暴にアスナの頭を乱暴に撫でた。
「勝ち戦なのに総大将が一番の重傷者というのは前代未聞だぞ」
  そして、夜になったらまた様子を見に来ると言い残すと自分の職務に戻っていった。彼にはまだ百数十人の怪我人が待っているのだ。
「さてと。そろそろ各自の職務に戻れ」
  言った言葉の裏側を察したミュリカがヴァイアスに声をかけたが無言で返されただけだった。ミュリカや参謀たちは数秒ほど逡巡したが結局、職務に戻るべくテントから出ていった。何人かはこれから起きることを予測して残される二人の姿を見て。
  二人きりとなりテント内に沈黙が降りる。それを破ったのはアスナだった。
「話があるんだろ」
「あぁ」
  すでにアスナにも分かっている。自分に起こったことを思い出したときから。
「一度だけ聞くぞ。何故、あんな無茶をした」
「……オレもみんなの役に立ちたかったんだ。椅子に座ってるだけなのは嫌だったから」
「そうか」
  見下ろすようにアスナのベッドの側に立つと無言で彼を殴った。
  粘つく鉄の味と妙に暖かいものが鼻から流れるのを感じた。
「約束したはずだぞ。戦は俺たちに全て任せるって」
  頷くアスナ。
「お前の軽率な行動のせいで予定がかなり狂ってしまったんだぞ! ここを占領していた革命軍の司令の裁きに市長との謁見が遅れている。その結果、エルニスの復旧作業に支障が出ている。騎団としては一時的な指揮系統を混乱させた。もし、戦闘中だったらどうなっていたのか分かってるのか。お前の一人の行いが数名の戦死者を出していたかも知れない。場合によっては敗北することだってあるんだぞ!」
  項垂れるアスナの襟首を掴み上げ、
「それだけじゃない。お前の一番の罪は俺たちの期待を裏切ったことだ! お前が攻撃命令を下したときの一言は俺たちなりにグッとくるものがあったんだよ。俺たちが何も言わなくてもコイツは自分の役割を分かってるんだなってな。それがなんだ! いいか、確かにお前は今のところ騎団のお荷物に過ぎない。だがな、お前がいないと戦にすらならないんだよ。お前は総大将としてどんな状況だろうとエラそうに座ってればそれで良いんだよ。言ってみればお前は旗なんだ。旗はただ堂々して、戦場で戦う兵たちを勇気づけられれば十分なんだ。なのにお前はその役割を放棄して何をしたんだ。伝令のまねごとをやっている最中に脇見をして殺されかけただと? お前は伝令の真似事すら出来ないんだ。それにお前の軽率な行動がなければ革命軍の伝令は死なずにすんだかもしれないんだぞ」
「死んだって」
「あぁ、死んだよ。ミュリカがお前を追いかけるよう命じたヤツが殺したんだ。もっとはっきりと言ってやろうか。間接的にはお前が殺したんだ!」
「オレが殺したって?」
「そうだ。今日もこれからもラインボルトが起こす闘争の全てはお前の殺意から始まるんだ。現場の兵たちの殺意じゃない。兵たちは命じられたから戦うんだ。そして、それを最初に命令するのはお前だ。お前の殺意が戦場に屍を築くんだ」
  そして、放り出すようにヴァイアスはアスナを解放した。
  息苦しさよりも彼に叩き付けられた言葉と事実がアスナを貫いていた。
「…………」
「準備が出来次第、仕事をさせてやる。お荷物のお前にしか出来ない仕事をな」
  言うことは言ったとばかりに背を向けた。
「ヴァイアス、オレ……」
「謝ろうだなんて考えるなよ。お前が今、考えるべきなのは自分がなんであるべきなのかだけだ」

 一時間後、騎団の警護のもとアスナはエルニス入城を果たした。
  動員可能な人員を投入して防壁などの撤去作業を行っても街が受けた戦禍は覆い隠すことは出来ないでいた。大通りの隅には防壁に用いたであろう木材や土嚢が固められていた。
  それ以上に目に付くのは通りに面した商店の壁や石畳にはうっすらと、だがはっきりとへばりついた茶褐色が見て取れる。
  一カ所に集中しているものは一つもない。吹き付けられたようなもの、鞠にペンキを吸い込ませて道に投げたようなもの、バケツに入れたペンキを壁にびちまけたようなもの。
  物言わぬ茶褐色の跡がここが戦場であったことを何よりも強く訴えていた。
  あり得るはずのない叫び声が聞こえてくるようだった。
  と、アスナの視界に妙なモノが入った。手綱の指示に従いイクシスが立ち止まる。
  あれから一度もアスナは彼と言葉を交わしていない。ただ、頭を下げただけだった。
  立ち止まった彼の視線の先、建物の隙間に挟まるようにそれはあった。まるで捨てられた空き缶のようにそれはあった。
  それは焼け焦げた壁や染みついた血痕よりも雄弁に語りかけていた。
  肉塊。布きれを取り込み、自身を赤黒く染め上げたそれはかろうじて腕だと分かる形をしていた。
「…………」
  どれだけ見つめていたのだろう。恐らくほんの数秒だっただろう。だが、腕がアスナに語りかけるには十分過ぎる時間だった。
「アスナ様」
  護衛の一人がアスナが何を見ているのか気づき彼の視界を遮るように横に並んだ。
「団長が待っています。急ぎましょう」
「あぁ、うん」
  促されてイクシスは再び元の歩みを取り戻した。
  その後ろで交わされた会話をアスナははっきりと耳にしていた。
  処理しきれていない。もう一度やりなおせ、と。
  『処理』という単語が妙に耳に残った。

 エルニスの政務を司る市長の公邸にしては小さいな、とあまり回らない頭でアスナは思った。
  諸大臣に与えられるの公邸はこの二倍以上はあるだろう。ちなみに公邸とは重職に就いている者たちに貸し与えられている邸宅のことだ。職務を遂行しやすくするだけではなく警備の面からも重臣たちはこの公邸に住むように義務づけられている。
  案内された書斎にはヴァイアスたち近衛騎団首脳陣だけではなく見慣れぬ男が二人、平伏していた。市長と助役だ。
  平伏する二人の姿に現実感を感じすることが出来なくなり、なぜだか分からないが途端に怖くなってきた。叫び声を上げてすぐにでも逃げ出したくなる。
  虚勢も、空元気も、はったりも、何もかもがなくなってしまっている。何か出来るつもりになっていた自分が恥ずかしい。自分がやったのはただ叫んでいただけだということが今更になって分かってしまった。決して分かりたくなかったことをこの数時間の間に見せつけられ、アスナは脅えるだけの存在と成り下がっていた。
  足が震えはじめ、抑えようとすればするほどそれは強くなる。泳ぐ視線がふとヴァイアスを捉えた。
  彼は真っ直ぐにアスナを見ていた。彼だけではない。ミュリカも参謀たちも同じように視線を向けていた。それはエグゼリスでの作戦会議の時に将軍たちが自分に向けた視線と同じだった。
  試されている。そう、試されているのだと。
  後継者としての義務を果たせるのか、彼らの主として相応しいのかと。
  唾を嚥下すると小さく息を吐いた。沸き上がる吐き気を自分ですら正体の分からない意地で飲み込むとようやくアスナは口を開いた。
「顔を上げてくれ」
  市長、助役が顔を上げるのを頷きで返すと、
「後継者、坂上アスナだ。こんなことになって苦労をかけた。これからもエルニスのために、ラインボルトのために力を振るって欲しい」
  景気の良いことなど一言も出なかった。たったこれだけを口にすることだけで精一杯だった。
「はい。我ら一同、ラインボルトのために身命をなげうつ所存でござます。何とぞ、御厚情をもって御見届けのほどを願い上げ奉ります」
「うん。頼りにしている」
「ははっ」
「今後の復旧作業は補給部隊と共に来る者たちとよく相談して進めてくれ」
「承知いたしました」
  引き継いだ参謀の一人が本格的な復旧作業を前に事前の準備としてエルニスの損壊状況を調査、治安回復のために革命軍に解散させられていた警備部隊の復活と有志による警備兵の増員を行うよう指示を下した。
  また、エルニスで後続の補給部隊と合流するまでの滞在に理解を求めること以上の要求をすることはなかった。
  指示を出し終えると市長たちと入れ替わってエルニス占領軍司令が入ってきた。
  一目で分かる満身創痍だ。至る所に包帯が巻かれており、今のアスナと似たような境遇だ。ただ違いがあるとすれば後ろ手に縛られていることぐらいだ。
  また、勝者と敗者の違いはあるがお互いに瞳の中に脅えが潜んでいた。
  それでもアスナは脅えを抑え込んで裁可を下した。
  予定した通り原隊への復帰命令を。これは兵士たちに対して下された裁可でもある。
  通常ならば反逆罪として死罪を命じられると思っていた司令はアスナの裁可を理解するのにしばらく時間がかかった。
  その間、アスナはこの判決理由を説明していた。
  革命軍の行動は国の未来を憂えて行った行動であって、後継者である自分に対する反逆ではないと考えていると。だが今後一切、このようなことを許さないと付け加える。
  本当の理由は降伏した部隊を自軍に取り込み強化することと、降伏を許すことで革命軍からの脱落者を増やすのが狙いだった。もっとも、処刑はアスナの望むところではなかったというのが一番の理由だ。
  ともあれエルニス占領軍は帰順を受け入れ、補給部隊と共にやってくる予備軍司令部に一時的に組み込まれ、再編成されることになる。
  ここにエルニス奪還戦は集結したのである。

 エルニス滞在中の居室として提供された客間は華美ではないが落ち着きのある部屋だった。風呂、トイレも室内に設えており食事以外は部屋を出ることなく出来るようになっていた。それは近衛騎団としても都合が良かった。
  護衛をするのならば出来るだけ一カ所にいてもらった方が都合がよい。二度とあのような事態を引き起こすわけにはいかないから。
  軟禁状態で部屋に押し込まれたアスナは部屋で落ち着くことも出来ず目眩に囚われた。それだけではない。耐え難い吐き気に襲われたのだ。
  おぼつかない足取りでトイレに入ると、スリッパを履くことなく嘔吐した。
  限界を超えた状況が続いたことはもちろん、あまりにも身近に感じすぎてしまった死の存在を身体から追い出そうとするかのようにアスナは嘔吐した。
「アスナ様、大丈夫ですか」
  いつの間にかやってきたミュリカが彼の背中をさすってくれていた。礼を言うことも出来ずにひたすらに吐き続けた。胃液すらも出なくなった頃、ようやく吐き気は消えた。
「アスナ様」
  差し出されたコップの水で口を濯いだところでようやく不快感を取り払えた。
「ありがとう」
「いえ。それよりもどうなさったんです。あっ」
  酷い目眩を憶えて倒れそうになるアスナを咄嗟に支えた。彼氏持ちとは言え女の子と急接近すれば少しは鼓動が早くなるだろうが今はそれどころではなかった。
「ごめん」
「とりあえず、ベッドに」
  彼女の肩を借りてベッドに横たわるとほんの少しだが落ち着いた。まだ目眩はするものの寝ていればさほどではない。
「先生を呼んできましょうか?」
「大丈夫。吐くだけ吐いたら落ち着いたよ。それよりも水か何かくれないかな」
「はい」
  口にした水は染み込むように限界まで追い詰められた身体を癒していった。
「伺ってもいいですか?」
  わずかに迷ったが彼は小さく頷いた。
「初めは、ただ勝たないとって思ってたんだ。けど、実際に戦いが始まって、オレも殺されかけてヴァイアスに言われたんだ。今日の戦いも、これからも戦いもオレの殺意が屍を築くんだって。それを言われて初めて気付いたんだ。取り返しのつかないことをしたんじゃないかって。大通りに染みついた血痕とか、家の隙間に挟まってた腕とかを見て実感が湧いたんだ。オレが殺したんだって。これからも殺していくんだって」
「あのバカ。……アスナ様が仰ることはよく分かります。ですがそれは戦場で命を賭けた者たちに失礼です。総大将であり、戦を始めることを決断された方がそんな調子では戦場に散った者たちが納得できません」
  吐息一つ。
「いいですか。あたしたちも革命軍の兵士も死ぬことを覚悟の上で戦ったんです。今のラインボルトの状況を考えてみて下さい。革命軍はフォルキス様が掲げる現政権への不満から蜂起し、あたしたちはそれをよしとせずエル様とアスナ様に味方することを決めたんです。両者に賛同しなかった方たちもいます。大将軍ゲームニス様たちがそうです。考えて下さい。兵たちは命令だからとかは別としても内乱が始まる前から三つの選択肢が用意されていたんです。内乱で命を賭けたくないのならば初めからゲームニス様のように何かしら理由を作って出仕拒否をすれば良かったんです。それをせずにあたしたちか革命軍か選択したのは誰でもない兵士たちなんです。アスナ様は衝突寸前の両陣営の背中を少しだけ押したに過ぎません。アスナ様が召喚される前からラインボルトは内乱だったんですから」
「けど、オレが停戦命令を出せばこんなことにはならなかったんじゃないのか?」
  首を振るミュリカ。
「捕らえた伝令が言っていました。フォルキス様はアスナ様がラインボルトを率いるのに値するか試すと仰ったそうです。どちらにせよ、戦いは避けられなかったんです」
  アスナの両手を包み込むように握ると、
「しっかりして下さい。確かにヴァイアスが言ったことは真実です。ですが一人で抱え込む必要もないんです。あたしもヴァイアスもエル様もリムルもストラト様も、騎団のみんなもアスナ様の味方なんです。大丈夫、大丈夫ですから」
「ミュリカ」
「だから頑張って下さい。いつかあたしたちを率いるのに相応しい主になってください。みんな不安だけど楽しみにもしてるんです。我らが誇りはアスナと共にあることなりって、いつか胸を張って言える日がくることを」
「ありがとう」
  我慢することはなかった。溢れ出た涙は止めどなく流れていく。嘔吐しても押し出せなかった心の奥で澱んでいた気持ちがきれいに洗い流されるかのように。
  ミュリカの気持ちが、言葉がうれしくて涙が流れる。うれしくて溢れ出る涙はこんなにも心地の良いものだと始めて知った。
  苦しみも何もなく全てが優しく洗い流されていった。
「ありがとう」
  落ち着きを取り戻したアスナはひどくぎこちない笑みを浮かべて礼を述べた。
  気持ちの問題もあるが腫れた頬が痛くてうまく笑顔を作れないのだ。
「いえ。あたしは聞いていただきたいことを言っただけですから」
  と、ミュリカもぎこちない笑みを浮かべた。彼女も頬が腫れて痛いのは同じだった。
  その腫れた彼女の頬をアスナは撫でるように触れた。
「ごめん。オレのせいなんだろ。何となく憶えてるから」
「き、気にしないで下さい。護衛役を買って出たのにアスナ様のお命を危ぶませたんですから」
「それでもごめん」
「分かりました。……それよりもそろそろ手を」
  だが、アスナは彼女の頬を撫でることをやめない。
「もしヴァイアスがいなかったらミュリカのこと好きになってかもな」
「冗談はやめて下さい。そんなこと仰ってるとエル様に言っちゃいますよ」
「何でここでエルトナージュがでてくるんだよ」
  ミュリカが驚いた表情を作る。
「え、ひょっとしてそのペンダントを受け取られたときにエル様から何も聞いてないんですか?」
「特になにも。ミュリカに使い方を聞けって言われただけだけど」
「なんていうか、エル様らしいなぁ」
「どういうこと?」
「そのペンダント、昔あたしと一緒に作ったものなんです。昔と言っても二年ほど前ですけど。その当時、街の女の子の間で手作りのペンダントを意中の相手に送ると想いが成就するっていう話があったんです。それで面白半分で作ったことがあるんですよ」
  話を聞きながらやっぱり女の子っていうのはこういうのが好きなのだろうかと思った。アスナの妹も一粒一粒に思いを込めたビーズで作ったブレスレットを一ヶ月外すことなく身につけていれば願いが叶うなんてことをやっていた。
  男には分かりにくい世界である。
「当たり前ですけど、ペンダントを作って送るだけで想いが成就するわけないですよね。けどエル様はそれをどこか本気で考えてたみたいなんですよ。そのペンダントを作ってるときも真っ赤になって。だから、ひょっとしたらひょっとしますよ」
  この蒼のペンダントを受け取ったときのことを思い出す。
  彼女にしては強引な態度で、不自然なまでに真っ赤になって押しつけられたペンダント。
  ホントにひょっとしたらひょっとするのかも。
  だが、それよりも魔王になるのを認めないと言った彼女の印象のほうがずっと強かった。あれだけ言われた相手にその日の内に好意を持たれるとは正直思えない。
「自分の持ち物で適当な力を持ってるのがこれだけだったってオチじゃないのか?」
「そうかもしれませんけど。あたしとしてはひょっとしたらひょっとしてくれた方が嬉しいです。今までずっと勉強や訓練、最近では政務にお忙しくて浮いた話の一つもなかったんですから」
「まぁ、あれだけ美人でお姫様だとさすがに引くよな」
「そういう意味でもアスナ様には頑張ってもらわないと。エル様よりも偉くて対等にお付き合いできる異性はアスナ様ぐらいなんですから」
  そうだと、ポンと手を叩く。
「この戦いの間にエル様好みになるようにちゃんと仕込んで置かないといけませんね」
「あの〜、ミュリカさん。オレの意思とか気持ちとかは無視されるんでしょうか?」
「大丈夫です。アスナ様はご自由に振る舞って下さい。気が付いたときには仕込み終わってますから」
「無視なんですね」
  などとどうでもいい会話を交わしているうちに萎縮しきっていたアスナの心はゆっくりとだが元に戻っていった。
  ミュリカは思う。これがアスナの強さなんだと。
  どんなに辛くても無駄話をしている間に普段の自分を取り戻すことが出来る。それを逃避と捉える者もいるだろう。だが、ミュリカはこれを強さだと思う。
  出陣前にストラトからも言われていたのだ。戦場であろうと出来るだけアスナと無駄話をして欲しいと。今になってようやく彼の言いたかったことの意味に気付いたのだ。
  元々、人と話すことが好きな彼女だけに話題はつきない。騎団の誰と誰とが怪しいとか、訓練中の失敗談などなど。
  と、不意に誰かがノックをした。
「どうぞ」
  ミュリカの許しを得てドアが開く。そこには奪還戦が始まる前に自分とヴァイアスを呼びに来た少年が立っていた。敬礼をすると、
「準備が整いました。ご案内します」
「ご苦労様。それじゃ、行きましょうか」
「行くってどこに?」
「着いてのお楽しみです」

 そこは一言で表せば宴会場であった。
  つい、数時間前まで剣を交わしていた市庁舎前広場はすっかりとその姿を変えてしまっていた。積み上げられた土嚢も深く掘られた塹壕も今ではすっかり撤去されてしまっている。篝火が煌々と照らし、至る所に設置されたテーブルの上には多くの料理が並べられ、人々はコップを手に談笑している。
  すでに宴もたけなわである。
「あんまりにも遅いからもう始めてるぞ。おい、二人にグラスを持ってきてやれ」
  アスナの肩に手を置いてヴァイアスが声をかけてきた。あのときの怒りはどこに行ったのか彼は普段通りに振る舞っている。そんな彼の前に歩み出たアスナは、
「ヴァイアス、オレ……」
「謝るのはなしだ。軍隊ってところは謝罪よりも結果と態度が全ての場所だからな。内乱を収めるまで自分がどうあればいいのか考えろ。なっ」
  アスナはぎこちない笑みで頷いた。
「分かった。どうやったらみんなが胸を張って自慢できる主になれるか考えるよ」
「そこまで分かってるなら出来過ぎだな」
  まだ多少のわだかまりがあるだろう。だが二人はそれを消し去るように笑いあった。そんな二人に少し不機嫌そうな口調でミュリカが割り込んだ。
「なに偉そうなこと言ってるんだか」
「団長を立てるべき副官がそんなこと言うなよ」
「じゃ、ちょっとだけ訂正して上げる。アリオンくんよりホンの少しだけ偉いわね」
  アリオンとはアスナたちを迎えにきた団員見習いの少年のことだ。今は二人のために飲み物を取りに行っている。
「あっ、でもあたしたちに飲み物を持ってきてくれてる分だけアリオンくんの方が偉いかも」
「じゃぁなにか、俺は見習い以下ってことかよ」
「それで十分なんじゃない? 現場に顔を出しただけじゃなくてエルニスを吹き飛ばそうとしてた考えなしには」
「吹っ飛ばすって、そんな話聞いてないぞ」
  さすがにそれは驚いた。取り戻すものを吹き飛ばしたら本末転倒だ。
「あれはだな……そう、心理作戦だ。脅しをかけて投降を促すという」
「いえ。あのときの団長は本気でしたよ。私が保証します」
  と、近くにいた市庁舎攻略を任されていた司令が言った。面目を潰されたささやかな仕返しだ。
「やっぱり本気で考えてたんだ。アスナ様、こういう考えなしには罰を与えて上げないとつけあがりますから。どうか御裁可を」
  冗談めかしに言ってはいるが少しだけ目が本気の色を宿している。これも彼女を心配させた報いなのだろう。だったらアスナとしても乗った方がいいだろう。
「だったら給仕係にするってのはどうかな」
「それぐらいが妥当かもしれませんね。それじゃ、副官権限において近衛騎団団長ヴァイアスに罰として給仕係を命じます」
  そんな権限、本当は存在しない。騎団内において団長を罰することが出来るのは副長のデュランと主席参謀のアスティークのみだ。
  だがあまりにもヴァイアスのイタズラが過ぎるということで特例としてミュリカにもその権限が与えられていた。言うなればヴァイアス専用のお仕置き権である。
「数百年ぶりのパーティーなのに給仕係をやらされるのかよ」
  数百年ぶりというのは近衛騎団が実戦に投入されて以来という意味だ。騎団は昔から初戦を勝利で収めたあとは必ずささやかな宴を開くことにしていた。
  本来の軍組織ならば許されることではないが良くも悪くも近衛騎団は魔王直属の独立組織なのだった。ちなみに酒は禁止である。
「いいんじゃないの? 近衛騎団発足以来の珍事なんだから。多分、初めてよ。第一号。ヴァイアス、一番が好きだから良いじゃない」
「そんな一番はいやだ〜!!」
「もう、我が儘なんだから。とにかく決定事項だから。みんな日頃の恨みを晴らすチャンスよ。ばんばん扱き使ってやってね」
  何故か団員たちの間で歓声がわき起こる。
  ひょっとしてヴァイアスも困ったお荷物? などとアスナの頭をよぎった。
  それと同時にミュリカを巡ってヴァイアスと張り合っても無駄だなとも思った。これだけ地の部分を彼女は決して自分と二人でいるときには見せてくれないだろうから。二人を見ているとそう感じたのだった。
  と、こちらの騒ぎに気付いていないのか広場の端の方で合唱が聞こえてきた。
「歌?」
「国歌ですよ」
  給仕係としてあちこちからあれを持ってこい、これを持ってこいと言われててんてこ舞いのヴァイアスを横目に見ながらミュリカは教えた。
「乙女は焔(ほむら)に舞い 男らは恵みを称えって。今日の実りに感謝して、明日を思う歌です。元はリージュ様がお生まれになった村の収穫を祝う祭歌だったそうですよ」
  楽しそうに、誇らしげに国歌を歌う団員たちをどこか不思議な気持ちで見ていた。国旗を掲げ、国歌を誇らしげに歌うこと抵抗を感じる日本に生まれたのだから、それは当然の気持ちだった。
  一人、言いようのない疎外感を感じながらアスナはそれを見ていた。
「明日のために、か」
「はい。明日のためです」
  いつの間にか合唱は団員だけではなく食材を持ち寄って集まった市民たちをも巻き込み大きな合唱となった。楽器の調べと歌声がエルニスを覆った。
  戦いは終わり、次のために、明日のために、と。



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