第一章

第七話 奇妙な報告 後編


 日が暮れてヴァンヌの村の状況は一段落付いた。
 村人たちの協力を得ての再調査でさらに救助は進んだ。五十名ほどだった生存者は倍近くにまで発見された。負傷者も多く兵たちは彼らの治療に専念していた。
 負傷者の中に行方不明だった村長も含まれていた。
 警備兵や村の男たちとともに討伐に乗り出したものの返り討ちにあい、負傷した村長と数名は開発中の下水道に飛び込み一命を取り留めたのだ。
 ただ左足の負傷が酷く、傷が癒えても杖が必要な生活を余儀なくされるだろうと村の医師は言っていた。
 この村長発見の報はフィアナを安堵させた。
 ヴァンヌの資産を問題なく管理するには村長の妻では役不足だったからだ。日常的な事務手続きならば問題なかったが重要度の高い案件に関してはお手上げだった。それに加えて村役場の職員のほとんどが行方不明か負傷者となっていたのだ。
 そのおかげでフィアナは一人で生存、行方不明に関係なく世帯別の資産を書類に纏め上げなければならなかった。
 資産管理資料を村長に渡し、現状説明と今後の方針を話し、了承を得た。
 当面の仕事を終えたフィアナは居間で全体の指揮に忙殺している小隊長ディアーズに報告をすることにした。
 各分隊からの報告を受けて新たに指示を下している。と、フィアナが来ていることに気付いたディアーズは仕事を中断し姿勢を正した。
「何かご用でしょうか?」
「分隊への指示を先にどうぞ」
「分かりました。・・・・・・一時間の休息後、警戒任務中の第三と交代だ。お前たち第一もそうだ。それから・・・・・・」
 現状に見合った指示を下すディアーズの評価をフィアナは密かに改めた。
 出発当初は部隊の選定に失敗したかとも思ったがどうやらその考えこそが誤りだったようだ。戦闘部隊としては魔軍の水準としては低位だが、民の鎮撫には最適な人物かもしれない。今後、幻想界統一のために行われる戦での占領地域管理を任せるのもいいかもしれないとフィアナは考えていた。
「以上だ」
 各分隊長は敬礼とともに了解の声を上げる。フィアナにも敬礼をすると分隊長たちは退室した。
「お待たせしました」
「こちらの事務手続きは終了しました。現在、集めた資産を馬車に移しています」
「ご苦労様です。現在、第二分隊に最終捜索を行わせています。それ以降は警戒任務に就く予定です」
「兵たちの休息はどこで?」
「村長からここの周辺にある行方不明者宅を使用する許可を得ています。また救助した村人たちも同様に周辺の家屋で休んでもらうことにしました」
「適切な判断ですね」
「ありがとうございます。・・・・・・それで将軍は?」
「さぁ、まだ戻られていないようですが」
 窓の外を見る。すでに陽は沈み、幾つもの篝火が焚かれている。
 夜の恐怖を払う威そのものだ。考えてみれば村人たちにとって自分たちは”彷徨う者”という闇を切り払う篝火そのものなのかもしれない。
「そうですか。心配ですね」
 心配の一言にフィアナは思わず吹き出してしまった。リムルほどその言葉が不似合いなものもいないだろう。
 第三魔軍に属していながら自分の言ったことの意味を理解できていないディアーズは変な物を見るような目で彼女を見た。
「すいません、気にしないで下さい」
「はぁ。了解しました」
 不意にノック音がした。意味不明状態に囚われたディアーズをそれが引き上げた。
「ど、どうぞ」
「失礼します」
 入ってきたのは村長夫人だ。
「お夕飯の準備が出来ました。大した物は用意できませんでしたが温かいうちにどうぞ」
「ありがとうございます。ですが、まだ職務が」
「到着からずっと休息を取っていないのでしょう? 休めるときに休んでおくべきです」
「ですが何かあったときに私がいないと」
「その緊急事態に指揮官である貴方が不調では目も当てられません」
「・・・・・・・・・・・・」
「では将軍付き副官として命じます。食事と二時間の仮眠を取るように命じます」
 階級は上であっても副官に現場指揮権は与えられていない。だが将軍の側近としての権威は絶大だ。結局ディアーズは不承不承、了解して食堂に消えていった。
 仕事も一段落したフィアナは後を任された先任下士官とともに何の問題もない二時間を過ごしたのだった。
 二時間弱の休息からディアーズが戻ってもリムルは帰ってきていない。
 明日の出立の準備も終え、外にはもう村人たちの姿はない。いるのは警戒任務中の兵のみだ。
 フィアナは玄関先でリムルの帰りを待っていた。生命の心配こそしていないが、ここまで遅いとさすがに気になる。
 こうして玄関先に腰掛けて待っている。
 と、血と土の臭いの入り交じった戦場の臭いが近づいてきた。
 立ち上がり警戒の視線を近づいてくるソレに投げるがすぐに緩める。良く知った気配だ。
 篝火に照らされて現れたのは、
「お帰りなさい、将軍」
「ただいま」
 全身、血と泥に染め上げられて酷い有様だがリムルはとても晴れやかな表情で笑った。
「随分と長くお楽しみでしたね」
「うん。凄く久しぶりだったからね。スッキリしたよ」
「そうですか。無理に来たかいがありましたね」
「うん。・・・・・・そっちの状況はどう?」
「それについては小隊長と一緒にした方が・・・・・・」
「お戻りですか?」
 二人の話し声を聞きつけたのか村長夫人が顔を出した。
 素人には凄惨の一言に尽きるリムルの姿に彼女は卒倒しそうなほどに目を見開いた。
「た、大変! すぐに医者(せんせい)を呼ばないと」
「あぁ、大丈夫大丈夫。怪我なんて全然してないから」
「早くしないと。・・・・・・そう言えば医者は今、どこにいるのかしら」
 半ば錯乱状態と化している夫人の両腕を取るとフィアナは普段よりも大きな声で言った。
「落ち着いて下さい。将軍は何一つ傷を負っていません」
「えっ、けど・・・・・・」
「全部、返り血だよ。近くの山に潜んでいた”彷徨う者”を処理してきたんだ」
「そう・・・・・・ですか」
 リムルの言った「処理」という単語にはさすがに抵抗があるのだろう。その中には見知った顔が含まれていたはずなのだから。
 好ましくない雰囲気を払拭するべくフィアナはリムルを隠すように彼と夫人との間に入った。素人に彼の姿を晒すべきではないと。
「お湯と四、五枚ほどタオルをご用意いただけないでしょうか?」
「あ、はい。分かりました」
 どこか逃げるように台所に向かった夫人と入れ替わりにディアーズが顔を見せた。
「お帰りになられたと伺いましたが」
「やぁ、小隊長」
 リムルがフィアナの影から出た。その彼の姿にディアーズは僅かに目を丸くした。
 が、彼も魔軍の端くれだ。それ以上は表に出さなかった。
 ただ敬礼をして、現状報告を始めた。
「ご苦労様です。三度の捜索により発見された者も含め生存者は83名。そのうち負傷者は・・・・・・」
 村人の生存者数に始まり、負傷者数、ゼンへの護送計画、そして重傷ながらも村長の生存が確認されたことをディアーズは告げた。それに続いてフィアナも資産管理について報告をした。確認された生存者の私財は当然、彼らの管理とし、行方不明者が所有していた資産については各世帯別に書類に纏め、後日発見された場合は書類に照らし合わせて返還する。それ以外は村長の管理の下で当面の生活費及び村の再建費用として活用されることになる。
 またゼンに到着後、村人たちの住居は第三魔軍の予備テントを仮説住居とすることが決まっている。
「それじゃこっちからも」
 墓地にある聖殿を改造して”彷徨う者”を作り出す魔導装置として使われていたこと。
 そこを制圧して、何者かの介入があった証拠として魔導珠を回収してきた。それをリムルはディアーズに手渡し、ゼンに帰還するまで責任を持って管理するように告げた。
 また村近くの伐採地に”彷徨う者”が大量に潜伏しており、それを処理してきたことも話した。
「二、三百ほど処理してきたけど、それでも全体から見たら一割でしかないから警戒するに越したことはないだろうね」
「三百・・・・・・いえ、失礼しました。一割も損失すれば敵も不用意には攻めてこないと判断します」
「その辺りのことは小隊長の判断でやってくれればいいよ」
「はっ。了解しました」
「お互いに情報の共有がなされたところで。将軍、頭を洗われた方がよろしいですね。その姿で人様のお宅に入るのは失礼です。・・・・・・小隊長」
「では職務に戻らせていただきます。失礼します」
 敬礼とともにディアーズは居間に戻っていった。
「裏手に井戸があります。そちらで」
「うん」
 村長宅の裏手は一時、捜索から帰った兵や村人たちが休息をとっていた名残がそのままになっている。怪我人も同様にここで処置されていたので不衛生ながらもタオルなども多く残されている。
 フィアナは井戸の側にリムルを座らせると比較的きれいなタオルを幾つか見繕ってきた。
「今気付いたけど服も髪もバリバリになってるよ。気持ち悪い」
「そう思うんだったら、少しは返り血を浴びないで済む戦い方を身につけたらどうなの」
「分かってるけどそう簡単にいかないよ。僕が出陣(で)るってことは普通じゃ対処できない大軍との戦いになるんだから」
「当然でしょう。将軍たる者が無闇に現場に顔を出す方がおかしいんだから」
 話しながらフィアナは手際よくリムルの纏う鎧の留め金を外していく。鎧の下に着ている内服にまで血染めとなっている。
 彼女は井戸から水を汲み上げ、
「少し冷たいわよ」
 一声かけてからゆっくりと頭から水をかけてやる。二度、三度とそれを繰り返す。
 大雑把に汚れを落とした後、フィアナはガシガシとタオルで頭を拭いてやる。タオルはあっという間に汚れてしまう。改めて汲み上げた水でタオルを湿らせると今度は丁寧に汚れを取ってやる。集めたタオルのほとんどを使って元の明るい茶色の髪を取り戻す。
「・・・・・・ねぇ、フィアナさん」
「なに?」
 残った一枚を濡らしながら尋ねた。
「やっぱりみんな、僕のこと怖いのかな」
 彼女はそれに答えず、タオルを絞る。水の滴り落ちる音だけがする。
「フィアナさんも・・・・・・怖い?」
 顔を伏せたまま尋ねる。
 リムルはその強大すぎる力ゆえに幼い頃から孤独であった。
 両親や兄弟からずっと距離を置かれ、リムルを見る彼らの目は常に恐怖の色を宿していた。忌み子としてリムルは幼少期を過ごした。
 その体験が未だにリムルの奥底に傷として残されている。
 強すぎる力を持った反動であるかのようにリムルは他人に対して特に弱かった。
 そのことをフィアナは良く知っている。
 彼女は濡れネズミのリムルの前に腰を下ろすと頬に手を当てて顔を上げた。そして強引に濡れたタオルで顔を拭いてやりながら言った。
「怖いわよ、リムルの力は」
 彼の肩が震える。
「規格外の貴方は私たちの常識の外にいるんだから怖くないなんて言ったら嘘になるでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 今にも泣きそうな顔になりながらリムルは頷いた。
 その生い立ち故にリムルは時折こうして幼児化することがある。単騎で戦って帰還したときに特に顕著になる。それはまるで与えられなかった幼児期を取り戻しているかのように。
 フィアナは柔らかな笑みを浮かべるとリムルの涙が滲み始めた目元をタオルで拭ってやる。
「けど、リムルは怖くない。その強大な力を向けるのは敵だけ。戦うのは好きだけど、無闇に殺すようなこともしていない。そうでしょ?」
 こくん、と頷く。
 剣鬼などと呼ばれているだけに色々な流言飛語がリムルにはまとわりついている。若くして第三魔軍の将軍となった代償なのだろうが、それは実体とあまりにも乖離している。
 曰く、一度剣を抜けば、敵が全滅するまで戦いを止めないとか。
 曰く、敵の逃亡も、降伏も許さないとか。
 嘘も良いところだ。確かにその強大な力で敵を切り崩していくが、逃亡する敵は相手にしないし、降伏した者も受け入れるようにしている。
 戦うことが好きなのと、殺しが好きなことは別なのだ。
「そんなリムルを私が怖がるはずないでしょ?」
 また、こくん、と頷いた。
「そんな顔するのは止めていつものリムルに戻って。みんなが心配するわよ」
「うん」
 子どもをあやすように笑顔で頷き返すと丁寧に顔を拭ってやった。
 顔の汚れが取れた頃、村長夫人がお湯の用意が出来たと声をかけてきた。

 天上の月が柔らかな光を降り注ぐ。
 ヴァンヌは久しぶりの静かな夜を迎えていた。血と狂気に染め上げられた村、穏やかさが戻っていた。
 外を歩くのは狂気の先導者を討ち滅ぼす守護者たち。
 彼らに生を護られて、村人たちは安堵の眠りを得ていた。

 カーテン越しに朝の日差しが差し込んできてフィアナの顔に降り注いでくる。
 光から逃げるように顔を背けるが、外の庭木が風に揺れているのか、追いかけるように光は朝を告げ続ける。
 逃げることが出来ないと諦めたのかフィアナはゆっくりと目を覚ました。
「んんっ」
 鼻から抜ける呼気を出しながらまるで親の敵であるかのようにカーテン越しで揺れる庭木を睨み付ける。フィアナの怒りに恐れをなしたのか庭木は揺れるのを止めた。
 二度寝の贅沢を満喫しようと再びベッドに全身を預けたが、半ば以上覚醒した意識がそれを許してくれない。
 こう言うとき規律正しい生活を送っていることが少しだけ恨めしい。
 彼女は右に身体を傾けてベッドボードに置いている懐中時計を取った。
 起床時間の一時間前。あと三十分は寝ていられたのに。
 あまりの残念さに彼女にしては珍しく吐息一つ。
 と、不意に彼女の胸元でくぐもった声のようなものが聞こえた。
 肌寒いのか上半身裸で彼女に抱きついていたリムルがさらに密着してきたのだ。
 リムル同様に下着姿のフィアナが抱き直してやるとリムルは安心しきったような笑みと吐息を漏らした。
 その無防備な笑みを見ていると胸の奥に暖かいものが広がるのを感じる。
「まぁ、いいか」
 睡眠時間を削った代償にリムルの寝顔を見ているのも悪くはないかも知れない。
 昨晩は作戦行動中と言うこともあって求めを拒んだが、正直なところフィアナもリムルが欲しかった。三カ月以上、寝所をともに出来なかった上に常に緊張の強いる戦場にいるのだからなおさらだ。
 ベッドに入る前に戦いで猛ったリムルを手早く鎮めてあげたが、これぐらいではお互いに不満が残るだけだ。
 状況が一段落したら、多少危険を侵しても同じ時間を共有しようと考えている。
 これまでの我慢を晴らすため、お互いに満足できるまで求め合いたい。
 そんなことを考えていると自然に身体が火照る。太股に当たる感触がそれを煽る。
 擦り付けるような身じろぎをされ、否応なくリムルの良く知ったその形を意識してしまう。
「・・・・・・リムル」
 額に口づけをし、髪の中に顔を埋める。
 この状況からも分かるとおり二人はいわゆる男女の仲にある。
 普段のリムルの言動から周囲には男色家だと思われているが事実は否だ。彼は同性に対してそういった目で見るようなことはない。
 では、なぜヴァイアスに対してのみ、そういった態度をとるのか。
 その理由はやはり幼少期にある。
 家族や隣人たちが忌み子として扱う自分を初めて対等の存在として見てくれたのがヴァイアスだからだ。何よりリムルと同じような状況にあっても平然としていられる彼への憧れだった。ヴァイアスといれば他者との違いを恐れずに済む。
 リムルのヴァイアスへの想いは万言を尽くしても表すことは出来ないだろう。強いて言葉をあげるとすればこれ以外にないだろう。
 殿堂入り、と。
 ヴァイアスとは違う意味でフィアナも殿堂入りを果たしている。
 誰もが恐れる規格外の者の力を含めたリムルの全てを受け入れてくれる彼女が側にいてくれるからこそ将軍としてやっていけるのだ。
 そんな二人だが周囲にその関係を知らせることも、将来一緒になることも考えていない。
 互いに世間体をあまり気にしないこともあるが、真相は別にある。世間が勘違いしている中、当事者だけがこの真実を知っている。恐らくこれ以上、相手を独占できる状況はないだろう。
 少なくともフィアナにとってはそれだけで十分なのだ。
 ベッドボードの懐中時計に目をやる。いつの間にか三十分が過ぎている。
 そろそろ起こさないとまずい。フィアナはリムルの耳元に顔を近づけると、
「リムル、起きて。朝よ」
 うっすらと目を開けるが、再び瞼は降りてしまう。
「リムル」
 少し語気を強めて言うがあまり効果なし。
 ううぅ〜、と唸り声をあげていやいやをするだけだ。
 これもまた周りに知られていないがリムルは滅法、朝に弱い。
 作戦行動中や独り寝のときはそうでもないが、誰かとベッドをともにすると途端に朝に弱くなる。無条件で受け入れてくれる安堵から心の鎧を脱げるからだろう。
 そしてリムルとベッドをともにするのは自分だけ。自然、こみ上げてくる嬉しさを抑え付けて本格的に起こしにかかることにする。
 抱きかかえるようにしてリムルとともに起きる。上半身を覆っていた毛布が落ちる。
 朝の冷気のなか、人肌の温もりがとても心地良い。
「リムル、朝」
「・・・・・・寒い」
 答えにならない返事をして少し強めに抱きついてくる。
「あまり時間はないのよ」
「一分だけ・・・・・・」
「一分ね」
 猫のように首もとにすり寄ってくるリムルをこちらからも抱きしめてやる。
 背中に回したフィアナの手がリムルの背中にある大きな刀傷をなぞる。
 右肩から左腰近くにかけて残る傷跡。
 二人の始まりを告げた絆をフィアナは愛おしげに撫で続けた。

 結局、十分以上も抱き合ってしまった。
 そのせいで余裕の三十分から、急ぎの二十分に変わってしまった。
 慌ただしく、且つ出来るだけ静かに準備を進める。
 昨晩、用意した替えの内服を着るだけのリムルとはことなりフィアナはそれに加えて、自分の髪を編み込み、身だしなみとして最低限の化粧を施す。ただでさえそう見られないリムルの服装を改めて正してやり、少しは将軍らしくしてやる。
 懐中時計を見る。二分の時間超過だ。少し悔しい。
 ポケットに時計を入れるとリムルに向かい合う。
「それじゃ先に行くから少ししたら来てね」
「うん。・・・・・・ごめんね、フィアナさん」
「そう思うんだったらもう少し朝に強くなって」
「・・・・・・努力します」
 叱られた小犬のようにしゅんとなるリムルに微笑みかけるとベッドボードに置いていた眼鏡をかける。
「それでは将軍、本日もよろしくお願いします」
「うん」
 元気を取り戻した返事に満足げな笑みで返すと彼女は、「失礼します」と幾分大きな声で言うとそのまま退室した。起こしに来てくれたのか廊下には村長夫人がいた。
 簡単に朝の挨拶を済ませるとまっすぐに本部である居間に向かった。
 これから忙しくなる。

 居間にはすでに小隊幹部と村長が会議の準備をしている。
 各人に挨拶をするとフィアナもそれに加わる。ほどなくして合流したリムルに村長に紹介する。村長もさすがにこんな若造が第三魔軍の長だとは思わず面食らったがその場にいた者たちの態度からどうにか納得したようだった。
 挨拶が済んだのを見計らったように村長夫人と手伝いの女たちが朝食を運んできた。会議は朝食を取りながら進められることになった。
 会議と言ってもそんなに堅苦しいものじゃない。各員の役目の最終確認と言ったところだ。
 外では村人たちが兵たちに手伝われながら村からかき集めた馬車−−村にいた馬は全て殺されていたので小隊が乗ってきた軍馬が使われることになった−−や手押し車に当座の生活に必要な荷物が載せられている。
 準備終了後、朝食を摂ってから出立することが決まった。予定出発時間は九時。
 状況及び予定の確認を終えると村長は改めてゼンでの待遇について尋ねてきた。
 村人の今後に責任を持つのだから当然のことだ。
 これについては事前に取り決めていた通り第三魔軍が所有している予備のテントを無償で貸し出すこと、ヴァンヌの再建に第三魔軍が関与することは出来ないこと、その代わりにゼンの都市長に可能な限り良く取り計らうよう要請することが将軍であるリムルの口から確約した。将軍位にある者の発言力はやはり強く村長からは不満の声は上がらなかった。
 村人にその旨を伝えると村長が出ていった。それを見計らってリムルは、
「フィアナさん、鍵閉めてきて」
「はい」
 カチッという音を合図にリムルは話し始めた。フィアナが遮音の術を部屋に施しているから話し声が漏れることもない。
「これから話すことは機密扱いとする良いね」
 途端ディアーズ以下、小隊幹部たちに緊張が走った。
 第三魔軍でも端役扱いの彼らが機密に触れることなど今まで一度としてなかったことだ。
「昨日、僕がこの村に現れた”彷徨う者”の一割を処理したことは聞いてるよね」
 皆、頷きで答える。機密と言う言葉に必要以上に顔が強張っている。
「その時に気付いたんだけど連中、初歩的だけど組織的な行動が出来るみたいなんだ」
「そんな非常識な!?」
「非常識だけど事実だよ。”彷徨う者”を作り出す術を使えても、それをある程度、自由に使えないと意味がないでしょ。つまりどこかにいる首謀者が”彷徨う者”を操ってるのは間違いない。そうじゃないと何日もこの村に留まっているはずないから」
 ”彷徨う者”はその名が示すとおり一日以上、同じ場所に留まることはない。その点から考えても今回の件は異常なのだ。
 リムルは一拍おいて、ディアーズたちの理解を促す。
「そのことを踏まえての予想なんだけど連中、僕たちがゼンに帰還する間に襲ってくる可能性がある」
『なっ!?』
 小隊幹部たちはもちろん、フィアナも険しい顔をした。
「二、三百削ったって言っても敵の全体から見れば一割でしかないんだ。まだ向こうには千九百以上の手駒がある。対してこっちの兵力は四十数名で、護らなきゃならない村の人たちはその倍以上。こっちの方が圧倒的に不利だよね。何より敵は情報が外に伝わることを遅らせたいはずだから襲ってくるって考える方が自然だよね」
 言葉もない皆を前にしてリムルはゼンを中心とした地域の地図をテーブルの上に広げる。
「地図からも分かるとおりゼンとムシュウの間は基本的に平野になってる。大規模兵力を展開するのに適してる。入隊したばかりの新兵並の動きしか出来なくても数を前面に押し出されたらアッという間に押し潰されるはずだよ」
 ヴァンヌ周辺には山林が裾を伸ばしているがあまり広くはない。村人たちが畑を広げていたから余計に木々の数は少なくなっている。
 リムルはその辺りのことも細かく説明した。この当たりはさすがに第三魔軍の長である。
 現場の者では見えてこない展開を推測することが出来る。
「一番なのは包囲される前に脱出することだけど、こっちの状況がそれを許してくれない」
 老人、子ども、負傷者が多い上に村人たちの荷物も無視できない。仮に負傷者ゼロ、荷物もなかったとしても敵の包囲から奪取することは不可能だろう。
 鍛え上げられた魔軍と一般人とでは体力に差があって当然なのだから。
 それに、とフィアナは思考を先に進める。
 情報が外に漏れることを嫌う敵がこちらの移動経路に手駒を配していないはずがない。
「この条件で小隊長はどう動く? 進めば包囲殲滅させられる、ここにいても同じ。別の都市に行くとしても追いつかれるかもしれないし、移動先に受け入れる余裕があるとも限らない。調査部隊の指揮権は君にある。さぁ、どうする?」
 どうでも良いがイジワルだ。ディアーズの評価を変えたと昨晩、フィアナが話したから焼き餅を焼いているのかもしれない。
 だが実際問題、決断を下すのは彼であることに変わりない。
 一分と少し、狼狽えつつも黙考したディアーズは上座のリムルに顔を向けた。
「将軍は人魔の規格外だと伺っています。昨日と同じように将軍のお力で敵を殲滅できないでしょうか」
 手元にあるのはそのカードのみ。初めからそれ以外に最善の方法はない。
「出来るよ」
 途端、安堵の空気が流れる。が、これもやはり、リムルのイジワルだ。
「けど全員を生きてゼンに送り届けることは不可能に近いと思う。これが現実だよ」
「・・・・・・分かりました。我々も第三魔軍に属する者です。民を護るためならば命を捨てましょう。ですから、せめて村人たちを護りきることは出来ないでしょうか」
 ディアーズの返事にどこか厳しげな表情だったリムルがふっとそれを緩めた。
 まるでその言葉が聞きたかったと言っているかのような。
「かなり難しいけど方法がないこともないよ。・・・・・・フィアナさん」
「了解しました」
 状況を眺めていたフィアナは立ち上がるとゼンとヴァンヌとの間にペンでなにがしか書き始める。二人の考えることはほぼ同じ。それにリムルよりも彼女の方が説明上手だ。
 中央には小隊を含めた村人たちを描き、その後方には包囲するような半円を記入する。そして小隊の前方には移動を阻止するような壁を描く。
「これが予想される敵の陣形です。敵は我々の進行方向に壁を用意し、その突破に時間をとられている間に包囲を完了させるはずです。逆に言えば、この壁を突破することが出来れば脱出できる可能性はぐんと上がることになります」
 そんなことは分かっている。それにこういう足止め役は基本的に分厚く展開するのが定石だ。村人を護りながら突破できる壁を敵が用意してくるはずがない。
「そこでこの壁の殲滅を将軍にお願いします。村人たちが壁を突破した後、一個分隊を警護に、残り全ての分隊を後方に展開して遅滞戦術を行います。その間に村人たちには可能な限り迅速に移動してもらいます。上手くいけば村人たちが被害を受けることはないと思われます」
 だがその代わりに遅滞戦術をとる小隊の四分の三は全滅することになるかもしれない。
「小隊長、ご判断を」
 全員の視線を一身に受けてディアーズは沈黙を続ける。どういう行動をとるにしても時間はあまりない。やがてゆっくりと彼は口を開いた。
「その作戦でいきましょう。今まで安全な配置を受けていた辻褄合わせには丁度良いでしょう。・・・・・・お前たちも良いな」
 動揺を感じるものの各分隊長は力強く頷いた。がそれ以上に青い顔をしているのはディアーズ自身だ。自分の死以上に部下たちの死が重くのしかかっている。
「力無き民を護るために死ぬのは兵としての本懐でしょう。村人たちの護衛は第一分隊に任せる」
 救出した村人たちの食事の世話や怪我の治療に主に当たったのが第一分隊だ。村人としても親身になって世話をしてくれた兵に最後まで護られるほうが気分的にも良いだろうと言う判断だ。
「先任、君は包囲から脱出した後、これをゼンの司令部に預けろ」
 言って布袋を先任下士官に手渡す。
「これは?」
「”彷徨う者”を生み出す術が込められた魔導珠らしい。間違いなく国家の大事となる代物だ。万難を排して届けろ。救援要請も忘れるな」
「はっ、了解しました」
「それに関してはこっちが責任を持つよ。命令書、書くからそれを持っていって」
「了解しました」
 小隊長は最敬礼をする。
「では以上だ。兵たちにその旨、伝えるように。ただし村人たちには気付かれないように注意を払え。無駄な混乱は作戦の失敗を招く。良いな」
『了解しました!』
 皆が皆に対して最敬礼を送る。
「よし。では、行け!」
 命令以下、各員が成すべきことを行うために動き出した。
 フィアナ、ディアーズ、先任下士官は作戦の細部について煮詰めていき、各分隊長は兵たちに覚悟を決めさせ、リムルは命令書および報告書を作成している。
 時間は午前九時を少し過ぎたあたり。予定通り出発できる見込みだ。

 幻想界の空は紅いが陽の光は昼のそれと変わりない。
 午前中の爽やかな空気と陽射しの下、出発した。
 皆、胸の奥深くに思うところはあるだろう。だが今は安堵からか村人たちの表情は一様に明るい。対する小隊の兵たちも明るく彼らに接している。だが、よく観察をしてみれば無理な笑みであることが分かっただろう。
 軍馬で半日の距離でもこの大所帯では否応なく時間がかかる。
 全行程の半分を消化する前に陽が沈み始めてしまった。怪我人の多さと馴れぬ移動に予定以上に時間をかけてしまっていた。
「将軍、皆、歩きづめで疲れています。ここで休憩を入れた方がよろしいのではないでしょうか」
「分かるけど、もうすぐ夜になるよ。無理をしてでも進んだ方がいいんじゃないかな。小隊長の判断に任せるよ」
 夜は魔獣や”彷徨う者”たちの時間だ。闇夜に紛れて奇襲されるのは面白くない。
 ましてやお荷物を多く抱えているのだからなおさらだ。
 ディアーズは数秒黙考した後、休憩を入れることを決めた。
 少しでも早くゼンに到着した方が良いに決まっている。だが無理をしてもしもの時に対処できなければ意味がない。ならば多少危険を侵しても休息をとった方が良いと彼は判断したのだ。
 ただし、火をおこすことは禁止され、周囲に斥候、つまり見張りを立てることにした。
 魔軍の兵は訓練で多少は夜目がきく。遮るもののない平野なので何かあってもすぐに発見できるはずだ。
 休憩が許されて村人たちから気の抜けた歓声があがった。
 馬車で座りっぱなしだった者たちは伸びをし、歩きづめだった者たちは兵たちの指示の下、簡単な体操をし始めた。いきなり座り込むよりも少し全身を動かした方が疲れはとれやすいからだ。
 雑談をしながら簡単な夕食を摂る村人たちを横に周囲を警戒する兵たちを見やった。
 どの顔も緊張で僅かながら疲れを宿している。
 当然と言えば当然だ。相手は自分たちの五百倍。無理もない。
 どうにかして緊張を解かないといけない、とリムルは考えていると不意に大量の気配が迫るのを感じた。ついに来た。
「小隊長、すぐに移動の準備を命じて」
「将軍?」
「来た、と言うことですね」
 フィアナの確認にリムルは無言で頷く。と同時に斥候が慌ただしく走ってきた。
「前方に”彷徨う者”確認。横隊でこちらに迫ってきています。その数、およそ六百」
 その報告を皮切りに他の斥候たちが駆け込んできて報告をする。
 敵の動きはこちらの予想通り。こちらの進行を阻止して、その間に包囲しようとしている。
 リムルは簡単な準備運動を始めるが、そう簡単に身体は暖まらない。どうにかその前段階にまで持っていく。
 吐息一つ。
「さてっと、そろそろ行くよ。小隊長、後のことは任せるから。フィアナさんも手伝ってあげて」
「了解しました」
「御武運を」
 最敬礼する二人にリムルも同じように返す。
 リムルの足下に風の魔法力が集まり始め、風が渦巻く。
「お互いにね。それじゃ・・・・・・」
 と、彼が前傾姿勢を取った瞬間、まるで姿が掻き消えるかのように突進していった。集めた風の後押しでリムルは常識から逸脱した加速を見せる。
 一歩の幅が広い。それはまさに風の如く、さらに踏み込めば突風の如く。
 十数歩目には疾風と化す。やがてリムルの放つ剣気に染められ紅く輝く。
 駆ける、駆ける、駆ける・・・・・・。
 もはやリムルの視界には余計なものは存在しない。知覚出来るのは自分と殲滅対象、そして護るべき対象のみ。他の要素は排除する。
 見えた。隊列を組み、進軍を続ける忌むべき存在。
 リムルは剣に手をかけた。周囲を取り巻く風がさらに強い赤を帯び始める。
 爆発する場所を求めるかのように赤の突風は突き進む。
 臨界点、到達。そして、踏み込む。強く、強く踏み込む。放たれるのは、
 九の剣、疾風刃。
 取り巻く風が、剣気が、リムルの放つ全てが破壊を呼ぶ。
 踏み込みで停止したリムルを追い越し、彼を援護していた風と剣気が破壊の奔流となって”彷徨う者”たちを押し潰す。だが本命はこれではない。
 疾風の加護で得た加速を最後の踏み込みで速度の全てを上半身に、剣を抜く動作に注ぎ込む。
 抜刀。
 先を行く破壊の豪風をも貫いて、放たれるのは凝集した剣気。もはや物質レベルにまで凝集したそれは敵中央を貫く。直線上に存在する死者、大気、大地それら全てを剣気の弾丸は貫き、拡散していく。自らが貫いた全てに破壊の力を預けていくように剣気の弾丸はその形を消していく。突貫の名の如く弾丸は全てを終える。
 その全てが一瞬。
 誰の目にも光が閃いたとしか知覚できなかっただろう。まだ破壊の轟音も生まれない。
 音速を超えた事象に全てが追いつけないのだ。数秒の時間をおいて世界が歪む。
 世界が崩れを予兆させるような軋みの音が響いた瞬間。
 ついに世界は耐えきれなくなった。爆散。
 剣気によって押し付けられた力を受け止めることを放棄し、世界は持てる力を放出する。
 大気爆発。大地を抉り、死者に形を失わせる。全ては衝撃で掻き消されてしまった。
 残ったのは大地をも燃やす熱と、大気で踊る放電のみ。他には何者も残ることを許されなかった。
 熱を持った上昇気流にまかれ、大地は土煙を上げている。全身をそれに覆い尽くされながらリムルは肩で大きく息をしながら立っている。
 ・・・・・・久しぶりだからやっぱり身体がついてこないな。
 最後の踏み込みをした右足が血で黒く染め上げられている。過剰な負荷がかかりすぎて筋組織や血管が破壊されたのだろう。骨にもひびが入っているかも知れない。
 常識外の強大な力を持ち、行使することの出来る人魔の規格外だが生物という規格からは完全に逸脱することは許されていない。
 力の制御が出来なければ自滅する定めになる存在でもあるのだ。耐えきれない力に身体は破壊されてしまう。それを避けるために人魔の規格外は強く身体を鍛え上げる。
 彼らは生まれながらに強いのではない。強くあらねば、生きていけないのだ。
 その強さの最果てに辿り着けば彼らの身体は一つの褒美を与えられる。
 強治癒能力だ。これさえ身につければ例え半身を破壊されても身体を作り直すことが出来る。文字通りの常識の外に到達することが許される。
 だが一定水準よりも弱体化してしまうとその能力も消失する事になる。
 長く力を振るうことを許されなかったリムルはその強治癒能力が弱体化しつつあったのだ。
 傷の程度から推測するに完治するまで二、三十分ほどかな、とリムルは判断する。
 それでも驚異的な治癒力だが能力が完全ならば怪我をしたと気付く前に完治している。
 ともあれ壁は殲滅した。後は村人とディアーズが包囲から逃げ切れるかにかかっている。
 こちらの仕事は不運にも死に損なった数十体の”彷徨う者”を処理するだけだ。
「?!」
 久しぶりの大技で散漫になりかけた知覚能力が無視できない多くの気配を感じた。
 リムルは魔法で風を作り出し、一時的に土煙を消し去る。
 そこに見えるのは今、殲滅したものよりも小規模だが無視できない規模の”彷徨う者”が迫ってきていた。
 壁は二段構えだったのだ。考えてみれば妥当な戦術だ。
 包囲されると分かれば、壁を突破して包囲から脱しようとするのは常識だ。
 仮に突破されたとしても二段構えであれば、二段目で勢いを止めて一段目で小さな包囲を作れば良い。圧倒的な兵力だからこそ出来ることだ。
 そして昨日、リムルを脅威に感じたからこそ採った戦術だ。
 二段目の壁は二百強。今の一撃で死に損なったのは二、三十だ。
 万全の体勢ならばまだしも、今は利き足を負傷している。
「少し、大変かな」

 リムルが右足の負傷を庇いながら戦闘を再開したその時、ディアーズたちもまた危急の時を迎えていた。
 今、彼らが直面している問題は迫り来る”彷徨う者”たちだけではない。
 護る対象である村人たちにこそ取り扱いに困っていた。
 ディアーズの状況説明と自分たちを包囲しようとする”彷徨う者”を視認したことで村人たちは恐慌状態に陥っていた。
 老人は死を覚悟し、母親は子を抱きながら叫び声を上げ、子は訳も分からず泣き叫ぶ。男たちは兵たちに詰め寄って無意味な罵りを始める。
 統制などとれる状況ではない。絶望的と表現した方が正しいだろう。
 それでもディアーズたちは必至に村人たちに動くように説得を続けるが功を奏しない。こうしている間にも自分たちを包囲しようと死者たちは動き続けている。
「落ち着いて下さい! 今、将軍が単騎で敵の作った壁を切り崩しています。早急に追いつかなければならないんです!」
 必至の説得にも村人たちは聞く耳を持たない。
 それどころかリムルは一人で逃げたんだと喚きだし、八つ当たりする始末だ。
 ディアーズは呆然と天を仰ぐ。
 こんな連中を護るために自分と、自分の部下たちは死ぬのか、と。
 やるせない気持ちで拳を握るディアーズの頬をフィアナは思いっきり殴りつけた。
「しっかりしなさい。将軍から彼らを託されたのでしょう。第三魔軍に属する者ならば与えられた責務を全うしなさい!」
「ですが・・・・・・」
 瞬間、前方で何かが閃いた。数秒後、巨大な爆音とともに今まで経験したこともない爆風が彼らを迫ってくる。目に見えるそれを前にしてディアーズは反射的に命令を下した。
「総員、壁を展開しろ!!」
 兵たちは一斉に反応した。まとわりつく男たちを振り払い周囲に壁を展開する。
 あれだけの勢いだ。何もしなければ子どもは風に連れて行かれ、もしくは風に乗って飛んできた石に当たり死ぬかも知れない。
 実際、幾つもの小石が激しく壁に打ち付けている。
「これが規格外の力」
 通常、これほどの規模の破壊を生むことが出来るのは複数人の魔導士が合同で展開する戦術魔法以外にない。それと同等の破壊をたった一人で行ったのだ。
 呆然とするディアーズを引き上げたのもやはりフィアナだった。
「壁は穿たれ、切り崩されました。幸い土煙で視界も遮られています。小隊長、動くならば今です」
 頷く。今まで声を上げ続けたせいで喉が乾いて、痛む。だがそれでもディアーズは声を上げた。
「総員、移動を開始しろ。生き残りたい者は私についてこい。ここに残れば死んでヤツらの仲間入りをするだけだ。そうしたい者は前に出ろ。殴りつけてでも前に進ませてやる! ・・・・・・いないのならば総員進め。生き残るために!」
 緊急事態の場合、状況を理解できない者に要請をしても無用の混乱を生み出すだけだ。今、必要なのは明確な意志と目的、そして内に向ける暴力のみだ。
 ディアーズのこれまでにない決然とした態度に兵たちもまたその意思を行動で示した。
 動こうとしない者の首根っこを掴んででも強引に歩かせ始めたのだ。
 視界は遮られ、状況を把握することが出来ない。だが彼らは動き出した。
 死を恐れ、生を手にするために。

 リムルはただひたすらに剣を振るい続けていた。
 集中力は彼の周囲全てを知覚できるまでに研ぎ澄まされていた。剣を振るった瞬間にはもう次の相手のことを考えている。
 周囲から受け取る情報は多く、思考は早い。早く、早くと加速していく。
 すでに足の痛みは感じていない。右足を染める血は自分のものなのか、返り血なのかすら分からなくなっている。
 リムルは剣を振るい続ける。剣気はそれに応えるように一度の攻撃で複数体を処理していく。それでも敵の数は圧倒的だ。
 だがリムルは決して臆することはなかった。むしろ笑みを持って戦い続けた。
 そこにいるのはもはや”剣気の扱いにおいて右に並ぶ者なし”と評される十剣士リムルではない。肉を斬り、骨を断ち、血の雨を浴びることに愉悦すら感じる剣鬼がいた。
 リムルは腐臭にまみれながら笑みを浮かべている。悲痛な笑みを。
 脳髄を撒き散らし、眼球を飛び出させた死者の顔、腹部を切り裂かれてこぼれた自身の腸に足を取られてもがく死者、胸を貫かれ、鼓動とともに噴水の如く血液を噴き上げる心臓。それら全てが現実味がなく、滑稽そのもの。
 敵を狩る戦場の剣士はさらなる哀しい愉悦を求めて力を行使する。
 ただ一言。それを合図にさらなる殺戮が開始される。
「八の剣、幻影刃」
 始まりは両断。
 右にいる死体に剣を向けようとした瞬間、剣鬼が二人に分かれた。
 分かれたそれは赤で形作られた剣鬼。それは剣気そのもので形成された力持つ幻影だ。
 幻影は本体である剣鬼の意思に従い、その動作を忠実に再現していく。
 例え、敵がその一撃を避けたとしても第二撃を叩き付ける。全ては剣鬼が作り上げた予定調和だ。全てを把握し、全ての動きを予測する。
 それが出来て初めて幻影刃は意味を成す。
 剣鬼は死人に一太刀浴びせかける度に自身の分身たる幻影を生み出していく。その数、十五。本体である剣鬼当人も合わせれば十六人だ。
 死者の壁であったものはリムル一人を包囲せざるを得なくなり、そして今では剣鬼の狩り場となっていた。

 前方で剣鬼による一方的な殲滅戦が展開する一方でディアーズ率いる第四小隊も予定よりも早く遅滞戦術を開始していた。
 兵士たち文字通り尻を叩かれながらでも村人たちの移動速度は遅々として上がらなかった。その彼らに”彷徨う者”の先鋒が追いついてきた。
 先鋒と呼ぶのは多少語弊がある。
 死人に足並みを揃えてという考えはない。たまたま足の速い死人が追いついてきたに過ぎない。それはある意味、不幸中の幸いとも言えた。
 足並みが揃わず、攻撃もまばらとなれば各個撃破することが可能だ。
 最終的に残るのは足の遅い者だけとなる。
 が、この移動速度の遅さから考えれば逃げ切れるとも限らないのが現状だ。
 前方の壁を突破すれば先任下士官がリムルの命令書とともにゼンに向かう。そうすればすぐに救援が来る。それまで時間を稼げば良いのだ。
 言葉で言うのは簡単だがそれをなすのはとても難しい。千以上の敵が包囲してくるのに対してこちらは四十数名だ。自棄になりたくなるほどの戦力差だ。
 兵の質ということを考えれば戦力差は兵員数の差とは違った数字が出るだろう。だが問題は兵たちの疲れだ。昨晩や今朝に村人たちの荷物の積載を手伝い、恐慌状態に陥った彼らを叱咤激励することで疲れ切っていた。
 それでも戦わなければならなかった。戦わねばならない理由があった。
 なぜなら彼らは魔軍に属する者たちなのだから。
「残り五体だ。油断なく処理しろ!」
 小隊長自ら槍を手に兵たちを叱咤しながら奮戦していた。
 良い指揮官の資質の一つに”率先”を上げることが出来る。別の言い方をすれば”きっかけ”となるだろう。指揮官が一番にことを始めることで兵たちも動き出すきっかけを得ることが出来るのだ。それが生死を分ける戦場となればなおさらだ。
 その点、ディアーズは一応の合格点をフィアナは与えていた。
 恐らく村人を含めて命令を下したのがきっかけだろう。この小隊長はまだまだ能力を伸ばす余地がある。必ずまたリムルの助けになる。
 死地とも言える場所にいながらもそんなことを考えてしまう自分が可笑しかった。
 と、視界に死者が自分に襲いかかってくるのを確認。彼女は手にした槍で死者の爪を捌き、一閃する。血飛沫を上げながら”彷徨う者”はようやく安寧なる死を取り戻す。
 それが敵の第三陣の最後だったようだ。
「よしっ。前進するぞ。状況は?」
「問題ありません!」
「では、第三に合流する」
 局地的に見れば遅滞戦術は成功しているようにも見えるが実際の所、包囲の両翼が迫ってきていた。それに包囲の中央からの敵の数が増してきている。
 次には対処しきれない数が押し寄せてくる可能性もある。
 余談を許さない。それが現状だ。

 血霧のなかリムルは佇んでいた。
 酷い有様だ。全身、朱壷に浸かったように朱に染まり、肩で息をし続ける。
 特に右足はぐっしょりとしている。癒えるどころか、傷口は広がり酷くなっているようだ。それでも骨に入ったひびは癒えているようだ。
 リムルは腰に下げた水筒を取り出した。一口飲む。それだけで随分と疲れがとれる。
 ズボンの裾に切れ目を入れて裂傷の痛みに耐えながら一気に破り、太股で結ぶ。開いた傷口からは血が滲み出ている。
 リムルは傷口を水で簡単に洗い流すと水筒を腰に結びつけて、同じようにベルトに提げている布袋から小瓶を取り出す。癒しの力を持つ魔法薬だ。
 傷口に注ぐ。引きつったような痛みが走る。少しずつだが傷口が塞がっていくのが見て分かる。
 魔法薬は傷を癒しはするがその代価として体力を消費する。随分と久しぶりに倦怠感を覚える。
 正直な話、この程度の敵戦力ならば大技を繰り出す必要はない。時間さえあれば小技でも十分に殲滅できた。だが今回ばかりはその時間そのものが敵でもあった。
「将軍!」
 見れば先任下士官が軍馬で駆けてきている。
「ご無事で何よりです」
「状況はどうなっている?」
「村人たちは将軍のおかげで順調に進行を続けています。ですが如何せん速度が上がらないので敵両翼に包囲されるのも時間の問題かと」
「小隊長はどうしている?」
「自ら槍を手に奮戦されています。それから・・・・・・」
「当然、フィアナさんも一緒だね」
「はい」
「分かった。行ってくれ。あぁ、その前に水をくれないかな」
「どうぞ。・・・・・・では、御武運を」
「ありがとう」
 報告と救援に向かう先任下士官の背中を一瞥するとリムルは受け取った水筒の水を飲む。
 深呼吸。そして背後を睨む。
 リムルのいる位置からでも”死者”の群が確認できる。またそれに押し潰されそうになる村人たちの一団も。
 そして今にも飲み込まれそうになっているであろうフィアナたち。
 手にした剣を見る。後先考えずに使いすぎたため、かなり疲労しているのが分かる。
 あと数度、振るえば壊れてしまうのは間違いないだろう。
「それでも行かないとね」
 リムルの周囲に風が集まる。ここに突撃してきたときのように。
「・・・・・・何がなんでもね」
 瞬間、リムルは再び疾風となった。

 ディアーズ以下、第四小隊は奮戦を続けたが兵力の差は如何ともしがたく今や完全に包囲されてしまっていた。
 ただその中でも幸いなのは未だ一人の戦死者も出していないことだ。
 曲がりなりにも第三魔軍に属することを許された個々人の実力はもちろんだが、ディアーズの守りを固める指揮が功を奏したと言える。
 だからこそ死者たちの重囲の直中であっても生き残ることが出来たのだ。
 しかし今の状態を維持し続ける不可能だ。守りが崩れるのも時間の問題だ。
「守りを崩すな! 一分、一秒保たせればそれだけこちらに有利になる。救援は必ず来る。総員、死ぬことは許さん。必ず生きて帰るぞ。いいな!」
 掠れすぎて声にならない声にも兵たちは了解の声を上げた。皆、この状況下でも絶望していない。
 良い部隊だとフィアナは思う。
 彼女は今、二個分隊による守りの中心で負傷者たちの治療を一手に引き受けていた。
 血にまみれ傷を負った兵をフィアナもまた血染めの姿で必至に治療を施し続けた。治療と言っても簡素なものだ。大雑把に傷を塞ぐだけで次々に兵を再び戦いの場へと送り出す。
 この繰り返しを延々、三十分以上も続けている。遅滞戦術をとっていた時間を含めれば一時間強も劣勢の中を戦い続けている。
 体力的にはもう限界だ。彼らが今、立っていられるのは生きて帰るという気持ちがあるからだ。この極限状態ではそれが生死を分ける。
「小隊長、敵が!!」
 敵からの圧力が上がったのだ。
 交戦中の死者を押し潰すかのように迫ってきたのだ。急激に上がる圧力に守りは急速に縮小していく。そうせざるをえなくなる。
「このままでは・・・・・・駄目です! このままでは!?」
「諦めるな。押し返せ!」
 残された力を振り絞りディアーズは”彷徨う者”を切り伏せるが圧力は弱まらない。むしろ強くなっている。敵の数に兵の質が押し潰されかけている。
 フィアナもまた再び戦列に加わる。彼女の戦闘力は第三魔軍でも上位にある。
 だが疲労しきっている以上、彼女の力をもってしても押し返すことは出来ずにいた。
 圧力は上がる一方だ。今を維持し続けることすら不可能になっている。
「これまでか。・・・・・・血路を開きます。なんとか脱出して下さい」
 ディアーズは隣で奮戦するフィアナに言った。しかし彼女は首を横に振る。
「気遣いは不要です」
「ですが、これからも第三魔軍で必要とされる方をこんな場所でむざむざ死なせる訳にはいきません!」
「だから不要だと」
「何を分からないこと仰っているのです。お前たち、血路を開く。良いな!」
『了解!』
 兵たちが決死の行動に出ようとした瞬間、十メートルほど先で何かが落ちてきた。ボンッと言う大恩とその衝撃で死者たちが吹き飛ばされる。
「何事だ!?」
 不測の事態に兵たちは行動に移れず守りの陣形の維持を続けることを優先する。
「救援ですよ」
「はっ?!」
 ディアーズの声を合図にしたかのように絶大な剣気が落下地点から膨れ上がった。
 血飛沫が上がる。それはかなりの早さでこちらに近づいてくる。そして姿を現したのは、
「お待たせ!」
 全身を朱に染め、幾つものひびの走った剣を手にしたリムルだ。彼は兵たちが作る槍ぶすまの中に入った。
「お待ちしていました、将軍」
「うん。お互い酷い格好だよね」
「副長の渋い顔が思い浮かびますね」
「そうだね」
 死地にいることを忘れているのか二人は普段と変わらぬ調子で話をしている。その二人にディアーズは声を変えた。
「将軍・・・・・・」
「小隊長もみんなもご苦労様。部隊の状況はどうなってる?」
「はっ。負傷していない者は一人もおりませんが戦死者はいません。戦闘続行は可能です」
 半ば反射的にディアーズは答えにリムルは頷く。
「あとは僕に任せてくれればいいから」
「はぁ。・・・・・・いえ、将軍。なぜこのようなところに!」
 将軍自らが救援に来るなど常識外だ。ましてやたった一人で壁を殲滅した後となればなおさらだ。
「なんでって当然でしょ。まだ十分に助けられる部下を見捨てる将軍はどこにもいないよ。そう言うのは将軍って言わないんだよ」
 言って彼はフィアナに顔を向けた。
「フィアナさん、剣貸して」
「将軍!」
「小隊長、総員に全力で壁を展開するように命令して」
「なっ。そんなことをすればどうなるかお分かりのはずです」
 壁を展開すれば”彷徨う者”たちからの攻撃を受けることはないが押し潰されることに変わりない。何よりこちらから攻撃することが出来ない。
 壁を維持できなくなれば全滅するのは目に見えている。すでに力の尽きかけた兵たちでは五、六分も保たせられれば良い方だ。
「フィアナさん、まだ余力はある?」
「多少は。壁の補強はお任せ下さい」
「うん。・・・・・・よし」
 剣を逆手に持ち、地面に突き刺した。右手で鍔下を握り、左手で柄尻を覆う。
「将軍、何をなさるおつもりですか!?」
「いいから、早くしろ。僕に殺されたくなかったら早くしろ!」
「りょ、了解しました」
 ディアーズの命令の下、兵たちは順次、壁を展開し始めた。兵たちの疲労から展開した壁の密度にばらつきがある。それを埋めることにフィアナは腐心する。
「展開完了しました。ですが五分も保てば良い方です」
「それで十分だよ」
 深く息を吸う。そして小さく言葉を放つ。
「十の剣、無限刃」
 言葉が力を呼ぶ。剣を媒介にリムルの剣気が大地に走る。
 光の波が走るかのように紅の剣気が広がった。まるで朱の空が大地に落ちたかのように。この世ならざる幻想的な光景に兵たちは目を奪われる。
「これからです。気を抜かないように!」
 フィアナの鋭い叱咤に兵たちは気を引き締めて壁の維持に全力を傾けた。
 持てる剣気の全てが大地へと広がっていく。紅の力が大地に広がりきると、
「なっ!?」
 兵士の眼前で展開した壁を叩き続けていた”彷徨う者”が突然、何かに両断された。
 蕾が花開くように、肉は分かたれ、朱の花粉を無遠慮に振りまく。
 そして、その中央に花弁の如く突き上げる紅の剣。
 次々に花開いていく。拒否することは許されない。幾十、幾百と花は咲き乱れていく。
 生を吸い、戦場を土壌として咲き誇る花、花、花・・・・・・。
 平野に広がるその光景はまさに百花繚乱と呼ぶに相応しい。
「集中しなさい! 彼らと同じように花となりたくなければ」
 今、自分たちを包囲し、そして村人たちをも飲み込もうとする”彷徨う者”の全てがこうやって朱の花と化している。
 大地に突き立つ紅の花弁。それはリムルの剣気によって形作られた剣だ。
 常識外れも良いところだ。物質化に近いまでに凝集した剣気による剣を作り出すだけでも平均的な魔軍兵士でも不可能だ。
 強大な力とそれを制する力があって初めて一本の剣を作り出すことができる。それをリムルは平原を埋め尽くせるだけの数を作り上げたのだ。
 咲き誇っていた花々は枯れていく。残るのは剣のみ。
 死者たちを悼む墓標の如く剣は突き立っていた。
 と、リムルの手にある剣が力に耐えきれずに砕け散った。
 ガラスが割れる音よりも澄んだ、それでいて高い音が平野に響き渡った。
 ラインボルトでは埋葬のあと、聖殿に設えた鐘を鳴らすのが習わしだ。
 今、響き渡る破砕音は聞く者にそれを思い起こさせた。
 そして形を失い、風に流れる紅の剣気は闇夜に酷く映える花びらのようだった。
 その様は安寧を奪われた者たちに送る葬礼そのものであった。

 力を使い果たし、よろけるリムルをフィアナは背中から支えた。
 彼女に全身を預けながら深く吐息。少しだけ目が回っていた。
「ご苦労様でした」
「うん。何とかなったみたいだね」
 振り返りリムルは彼女に微笑みかけた。
 本当になんとかなった。千を超える数の”彷徨う者”をリムルはたった一人で殲滅したのだ。いや、壁として布陣していたものを含めれば二千を超えるかもしれない。
 一騎当千を体現した存在であるリムルに対する恐怖よりも生き残れた喜びから皆、歓声と笑い声を上げている。中には泣いている者もいる。
 あの重囲から自分たちは生き残ったのだと。
 疲れ、傷つく身体を引きずりながら喜びを全身で表す兵の目に不可解なものが目に入った。幾つもの蠢く影がこちらにゆっくりと近づいてくる。
 リムルがあれだけのことをしてもなお、討ち漏らしてしまったのだ。敵が広範囲に展開していたこともあるがリムル自身の力が減っていたことが原因だった。
「小隊長、敵がまだ!」
「総員、戦闘準備だ。あの程度の規模ならば何とかなる」
 何とかなる。その前に疲れていない状態ならばと言う言葉がつくのだが。
 誰もが疲れ切っており、頼りになるのはリムルなのだが彼自身が一番疲れ切っている。
 せめてこの二人だけでも護りきらなければとディアーズは思った。
 枯れてしまった身体からさらに搾り取るように奮起した。足下が震える。
 それでも彼は背を伸ばし、一歩を踏み出した。
「あれを処理すれば全て終わる。行くぞ」
 ディアーズは一度、フィアナに振り返ると、
「将軍のことをよろしくお願いします」
 彼女の返答を待たずに彼は一歩を踏み出した。その時だ。
 幾つもの激しい、馬が駆けてくる音が聞こえてきた。
「あれは」
 現れた騎馬部隊は二手に分かれ、一方は”彷徨う者”の方へ。そして残りはこちらに。
 警戒しつつも動けない小隊の面々の前で十騎ほどの騎兵が静止した。
「我々は第三魔軍麾下第二三二中隊の者だ。哨戒任務中、異常な闘気を感知して調査に来た。説明を求める」
 二三二とは第二連隊第三大隊第二中隊という意味だ。
 友軍であることに兵たちは一斉に気を緩め、その場に座り込んでしまった。
 その中でディアーズは騎兵に敬礼を返し、
「こちらは同じく第三魔軍麾下第二五二四小隊、小隊長ディアーズです。現在、ヴァンヌ調査から帰還する途中です」
「了解した。しかしあの桁違いの闘気とこの状況はどういうことだ。説明を求める」
「それはこちらのリムル将軍が剣を振るわれた結果です。詳細は機密扱いとなっています」
 ディアーズに示された先には座り込んで、やぁ、と騎兵に手を挙げるリムルがいる。
 血塗れになり、疲れ切ったその様はとても将軍職にある者の姿には見えない。
 何よりただの兵にリムルを間近で見る機会など皆無に近いのだから。
 一瞬、訝しげな騎兵たちの指揮官は訝しげな表情を浮かべたがすぐに態度を改め、軍馬から降りると最敬礼をする。他の騎兵もそれに倣う。
 目の前で女性兵士にもたれ掛かっている少年が将軍であるか容姿では確認できない。だがこれだけのことが出来るのは人魔の規格外にはいないのだ。
 証拠はそれだけで十分だ。
「こっちはこの通りぼろぼろだから後のことは任せるよ。それとここに来る途中で平民の一団を見かけなかった?」
「はっ。見ておりません。ただここに来るまでに一度、”彷徨う者”の一団と遭遇、これを殲滅しました」
「分かった。それじゃ悪いけど、馬を二頭貸してくれ。すぐにゼンに戻らなくちゃ」
 フィアナに振り向き、頷く。彼女はリムルを支えるようにして立ち上がった。
「承知しました。よろしければ我々がお二人を護衛しますが」
「頼むよ。それから彼らの面倒も中隊で見てやってくれ」
「はっ。・・・・・・おい」
 一声かけて配下の騎兵が下馬する。
「こちらをお使い下さい」
「ん。ありがとう」
 騎乗するとリムルはこちらを見送るディアーズに顔を向けた。
「小隊長、確か名前はディアーズだったよね」
「はい」
「その名前、憶えておくよ」
「光栄であります」
 頷きかけると手綱を握った。
「それじゃ、行こうか」

 リムルたちがゼンに到着する頃にはすでに月が空の真上に来ていた。
 あまりに酷い自分たちの姿を人前にさらすことを憚って(はばかって)裏道を通って司令部へと二人は駆け込んだ。
 夜勤組と交代を終えた司令部そのものは静かだったが、第三魔軍中枢である参謀たちが詰めている会議室は昼とあまり変わりない騒がしさがあった。
 その中に二人は堂々と入っていく。
 光の下に晒される二人の姿に参謀たちは時を止める。
「すぐに軍議を始める。すぐに準備をしろ。それともうじき、ヴァンヌからの難民が来るから都市長に受け入れと今後の面倒を見るように要請して。それから・・・・・・そうだ、誰か僕たちの着替えと蒸しタオルを用意して」
 突如、帰還したリムルの命令以下で第三魔軍参謀部は途端に騒がしくなった。必要とされるであろう資料の収集、すでに休んでいる者たちを起こしに行くと蜂の巣をつついたかのような状態となった。
「執務室にいるからよろしく。・・・・・・フィアナさん」
「はい」
 一日ぶりに戻った執務室で二人は今回の一件をどのように報告をするかを協議し始めた。今から必要書類を作成している暇はない。口頭でどう順序立てて説明をするかが焦点となった。
 参謀付きの仕官が二人の着替えと蒸しタオルで簡単に汚れを取って協議を再開した頃、ギルティアが飛び込んできた。
 すでにディアーズの小隊の先任下士官から直接報告を聞いていた彼は挨拶もそこそこに軍議の前に詳しい状況説明を求めた。
 フィアナの説明を受けたギルティアは渋い顔をした。にわかに信じがたいと。
 だがリムルがこんなことを冗談で言うはずもなく、何もなければ二人が血みどろの姿で帰還するはずもないのだ。
「それで将軍はどうなさろうとお考えですか」
「適当な一個連隊にゼン周辺の村や小都市の護衛にあてようと思ってる。先に送った報告書に書いたとおり何者かの策謀なのは明白だよね。村人全てを”彷徨う者”にしようって考えてるヤツらがヴァンヌだけで終わるとは思わないよ」
「それは理解できます。ですが現実問題として、我々の敵はファイラスに篭もっている革命軍です。いつ彼らがゼンを再占領しようと兵を出してくるか分からないのですよ」
「僕が前面に出れば何とかなると思うよ。一度、全力で潰せば向こうもこんな負け戦で命を捨てたいとは思わないはずだから、それ以降はかなり楽になるんじゃないかな」
「本当にそれでよろしいのですか。また昔のように奇異の目で見られることになりかねないのですぞ」
 第三魔軍司令部の面々が最大戦力であるリムルを積極的に活用しない理由は、彼が将軍だからだけではない。リムルが他者から畏怖の対象として見られないように隠すことが本当の目的だった。彼の戦闘力は常識外れだが心に深い傷と歪みを抱えている。それを敵に攻められないように皆で隠しているのだ。
「僕が我慢すれば良いだけだよ。それに助けられる人を助けなかったらヴァイアスに嫌われるよ。きっとアスナ様にも。そっちの方が怖いよ」
「分かりました。そのように議事を運びましょう」
 ギルティアはリムルが大隊長であった頃から彼の面倒を見ている。そのため、部下というよりも師、もしくは父とも呼べる存在であった。当然、リムルのことも良く知っている。
 彼が自身の最大の傷を正面から見据えようとしているのが正直嬉しかった。
 そんな感慨を抱きつつも必要な事柄の検討を続ける。
 リムルから送られた報告書と魔導珠はアスナ派本体であるエルトナージュの下に、報告書の写しをアスナの下に送ったと話した。
 当然、軍議の結果も両軍に送ることがこの場で決まった。
 ある程度、話しがまとまったところでノック音がした。
「入れ」
 リムルの許しを得て、参謀部付きの仕官が入ってきた。
「失礼します。軍議の準備が整いました」
「分かった。すぐに行く」
 軍議の出席者は司令部付きの高級参謀と大隊長以上の指揮官たちだ。
 今回の一件の情報はごく一部の者にしか報されていないため指揮官たちは何事かという顔をしている。状況は自分たちに有利に進んでいるのだ。火急に軍議を行う必要はないはずだと。
 リムルたちの到着に出席者たちは最敬礼をし、リムルたちもそれに応える。
「こんな時間に呼び出して悪いけど、状況が急変しそうなことが起こった。フィアナさん」
「はい」
 リムルに促されて彼女はこれまでの経緯を話した。
 当然のように信じられないという表情を出席者たちは浮かべている。
「信じられないことだとは思う。だけど事実だよ。僕自身がそれを確認してきたんだから」
 場はざわめく。ギルティアの盛大な咳払いで静まる。
「多分、こんなことが起きてるのはヴァンヌだけじゃないと思う。この一件の首謀者が何者か分からない以上、ラインボルト全体のことを考えて、第三魔軍がどう動くべきか討議してもらいたい」
 一時間ほどの討議の末に意見は予想通り二つに分かれた。
 現状維持派と住民保護派だ。両者の意見は当然、あちらを立てればこちらが立たずだ。
 それが明確になったところでリムルは副長ギルティアに考えを話すように促した。
 事態が紛糾しないようにするためとギルティアという決定打を軍議の流れを住民保護に向けるためだ。
 初めから住民保護派であるリムルが将軍としてその旨を部下たちに命ずれば良いはずだがそうはしない。
 将軍の判断一つで全てが決まれば部下たちは意見を言わなくなり組織として萎縮するのは確実だからだ。そのため部下たちの意見が出尽くしたあとで将軍が判断を下すのが通例となっている。
「近隣の民を保護することが肝要かと。報告書の通り村人全てが”彷徨う者”となって各地で暴れ回られれば作戦は破綻することは間違いありません。何より第三魔軍がこの地にいながら何もしなかったでは民に不信と怒りを買うことになります。それはこれからの魔王の施政に不要の影を落とすことになると思います。以上から民を保護することをお勧めします」
 万年副長と司令部の面々から揶揄されてはいるギルティアだが軍事、政治の両面から良くものを考えた意見だ。
 先代の第三魔軍将軍から後任であるリムルの後見になるように頼まれただけのことはある。彼の意見で場の空気は住民保護に傾いた。
「他に意見は?」
 リムルが皆に促す。ギルティアの理に適った発言に現状維持派は言葉を出しにくい。
 僅かな沈黙ののち、一人の男が挙手をした。第三連隊の指揮官だ。
 彼はこの一時間ほどで現状維持の主導的な立場となっていた。
「副長の意見はよく理解できます。ですが現状で兵力を分散すれば革命軍の攻撃に持ちこたえられません。ただでさえ兵の数に劣っているのをお忘れですか」
 現状維持派が最も憂慮するのはこの点だ。ここで負ければ今後のこともあったものじゃないからだ。
 落ち着いた調子でギルティアは切り返した。
「将軍に出馬を願おうと思っている。皆も承知の通り将軍は人魔の規格外だ。その力で一度、叩けばそれ以降は攻撃に躊躇がでるのではないだろうか? そうならなくとも将軍の力があれば十分に対抗しきれると思うが」
「ぐっ!」
 連隊長は言葉もない。リムル一人で穴を埋めるのに十分なのは良く分かっているから。
「お前さんの負けだな」
 最古参の連隊長のその一言で大勢は決した。
 念のためにリムルは改めて意見を述べるよう促したが返答はない。
「分かった。住民保護を行うことにする」
 この決定に動きだそうとする高官たちをリムルの続けて放った言葉が止めた。
「その代わり本体から別命あるまでギルティアに指揮権を預けることにする」
「なぁっ?!」
 予定になかったリムルの発言にギルティアは普段上げない素っ頓狂な声を出した。
「指揮を執りながら前線に戦うなんて不可能でしょ? だったら副長のギルティアに任せた方がずっと良いに決まってるよね」
「しかしですな」
「僕が前線に出て現場が混乱するよりも今から準備しておいた方が良いよね。ってことで決定ね。それじゃ僕は必要な書類を書いてるから。それから引っ越しの準備もしないとね」
「引っ越しですと?!」
「さっきから耳元で騒がないでよ。唾が飛んでる。ここにいても邪魔になるだけだろうから来賓館に行こうかなって」
 正直、疲れていた。今回の一件もそうだがアスナの作戦を開始する以前から気の張りつめっぱなしなのだ。少しでも休憩が必要だった。
「いけません。何かあったとき、将軍がおられなかったからでは話になりません」
 一度、リムルの手綱を放すとどこにふらふらと遊びに行くか分かったものではない。
 ギルティアはそのことを経験的に良く知っている。
「けど・・・・・・」
「それだけはいけません。お疲れなのは承知しています。せめて今まで通り市庁舎でお休み下さい」
 形勢不利である。このままでは計画は水泡に帰してしまう。
 ギルティアの強面に追い込まれたリムルを助けたのは彼の側に控えているフィアナだった。
「では、私が身の回りのお世話をいたしましょうか?」
「しかし、君も疲れているだろう」
 リムルとは態度は一変して優しげな笑みで休息をとるように言ってやる。
 不公平だが仕方がない。ギルティアはフィアナを娘のように思っているのだから。息子ばかりでは正直、面白くないのだ。
「お気遣いありがとうございます。ですが将軍の健康、所在を把握することも副官の職務ですので」
「フィアナ女史がそう言うのなら。では将軍、決して来賓館からお出にならないこと、フィアナ女史の言いつけを守ること。これが我々からの条件です。よろしいですね」
「うん、それで良いよ。それじゃさっそく執務室に戻って書類を作ってくるよ。荷物も纏めないと。編成案と計画案が出来たらすぐに持ってくるように。それじゃ後は任せたから」
 無責任そのものの発言だが、実際、指示を下したあとは将軍というものは暇なのだ。
 上がってきた編成案と計画案が上がってくればそれに署名すれば完了だ。
 その証拠に第三魔軍高官たちもリムルが了承したことを合図に一斉に起立、敬礼をするとそれぞれの職務へと戻っていった。
 リムルも執務室に戻ると必要書類の作成に追われていた。フィアナは引っ越しの準備に与えられた部屋に戻っている。
 書くべき書類の数は多い。ギルティアへの委任状や必要な部署への命令書。それともちろん都市長への来賓館使用を通達する書類も含まれる。
 自分が言い出したことなので責任をとらなきゃならない。
 リムルは疲労から来る眠気と格闘しながら書類を書き続けた。
 と、いつの間にか入ってきていたフィアナが紅茶を出してくれた。
「無茶なことを言ったわね。副長、もの凄く困った顔してたわよ」
「気分転換に外に出たのにこんなことになったんだよ。これまでもそうだし、これからはもっと忙しくなるだろうから少しぐらいワガママ言っても良いと思うんだけど」
「それで司令部の方々の胃を痛めるのは感心しないわね」
「けどフィアナさんも援護してくれたんだよね」
「当然でしょ。リムルだけ休むなんてズルいじゃない。それに時間が出来たらいっぱいシテあげるって約束したでしょ」
「・・・・・・うん」
 嬉しそうな、恥ずかしそうな表情を浮かべて小さくリムルは頷いた。
「その前に身体を洗ってあげないとね。みんな言わなかったけどかなり臭ってるわよ」
「フィアナさんもだよ。編み込んでる髪に汚れが詰まってるもん」
「女性にそんなこと言わないの。・・・・・・そうね。だったらリムルに洗ってもらおうかな」
 赤面するリムル。そんな彼が可笑しくて彼女は笑った。
 ムッとしたリムルだったがいつの間にか彼も笑っていた。
 あまりに多くの死に直面し、心の奥底に澱んでいたモノを払い去るように二人は笑った。
 ただただ二人が無事に生き残ったことを喜びながら。



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