第一章


第九話 死の群 前編


「そういうことだから状況説明をお願い」
  術後も安定しているとは言え、まだまだ経過を見ていなければならない状況だというのにこれである。自分たちの主は本当に元気だ。つい先ほども倒れかけたというのに。
  だが、ある意味これぐらい元気でないと近衛騎団の真の主など勤まらないのかも知れない。
  アスナは承知するまで安静にしないとばかりにこちらを見ている。
  こうなればアスティークの負けだ。
  空いた時間には後継者教育として教鞭を振るっている彼だが、やはり主従と言うことには変わりないということだ。
「承知しました」
  と、彼は盛大にため息をもらして現状説明を始めた
「まずは軍師殿の動向ですが。現在のところ、目立った動きはありません。予定よりも多くの兵をケルス周辺に配して警戒しています。奇襲をかけられるようなことはありません」
  断言する。もう二度とあのような失態は犯さない。
  アスナの暗殺未遂が図らずも団員たちの士気をあげる結果となったのだ。
「休暇はちゃんととってる?」
「はい。ご命令通りに警戒、準待機、休暇の三交代制としています」
「アスティークさんたち、司令部のみんなもちゃんと休んでる? 無理するのは禁止だからな」
「ご安心下さい。我々もしっかりと休ませていただいています」
  嘘である。実際は補給部隊の遅れで必要な物資の調達や市政の正常化のために奔走していてあまり休めてはいない。
  何よりアスナのことが気がかりで時間を作れても落ち着かなかったのだ。
  アスティークを始め、病室にいる者は皆、化粧を施して疲れた顔を誤魔化している。
「ケルスの方ですが、文官たちの到着が遅れていることもあり多少、諸手続が遅れていますが予定範囲内です」
「補給部隊がまだ来てないって。オレたちケルスに来て結構経ってるのに、遅すぎじゃないか。原因は?」
  この主は本当に侮ることが出来ないとアスティークは思う。
  教えたことはしっかりと吸収するし、自分たちの行動予定を大枠ながらもしっかりと把握している。時折、この人物が何者なのだろうかと思うことがある。
  人族だからとかそういったところとは別の場所にある何か。
「分かりません。ですが、部隊を向かわせて原因を探らせているところです。近いうちに何があったかご報告します」
  アスティークは補給部隊が”彷徨う者”に襲われている事実を伏せた。
  もしアスナにそのことを報告すれば怪我の身をおしてでも何らかの行動に出るのは明らかだ。無茶で無鉄砲で、自分のことよりも他人のことを優先しようとする、どうしようもない少年だ。
  だが、そういう人物だからこそ、自分たちは心から彼を主に迎えたのだ。
  そして、そういう人物だからこそ、無理をさせるわけにはいかないのだ。
「あっ」
「なにか?」
  と、アスナはジト目でアスティークを睨んだ。思わず及び腰になる。
「補給部隊がまだ来てないってことは、それと一緒に来てる文官の人も来てないってことだよな。・・・・・・嘘吐いたでしょ」
  ズイッとアスナはアスティークの顔に迫ると指で彼の顔を擦った。
  指についたものを見る。ファンデーションだ。
「やっぱり休んでない」
「・・・・・・申し訳ありません」
「ったく、休めるときに休んでおけっていつも言ってるのはアスティークさんでしょ」
「面目ございません」
「・・・・・・それじゃ、今日からちゃんと休むように。一人でベッドに寝転がってるのは気が引けるんだからさ」
「承知いたしました」
「うん。それで文官の人が来てないってことはケルスの状況はオレたちがここに来る前と変わりないのってことでいいのかな?」
「我々で可能な限り処理を進めておりますので、順次問題は解消されています。幾つか問題が起きていますが直に解決します」
  実際はかなり大変なことになっている。
  諸手続は済ませていてもそれを実行する者たちが動かないのでは意味がない。
  現状、近衛騎団とケルスとの間に軋みが生じている。表だって何かが起きているわけではないが居心地はあまり良くないのは確かだ。
  司令部付きの若い仕官が、茶店に入って一息吐こうにも周りの視線が気になって逆に疲れると愚痴をこぼしていた。問題と言えばその程度だが無視することも出来ない。
「ある程度が予定通りに進んでるってことか」
「はい。ですので、今はしっかりとご自愛下さい」
「うん、そうさせてもらう」
  その言葉にアスティークはもちろん、彼の背後に控える者たちもふっと身体の力を抜いた。知らず知らずのうちに緊張していたようだと彼らは小さく苦笑した。
「あっ、そうだ。一つ忘れてた」
  再び、緊張が復活。完全にアスナの一挙手一投足に翻弄されている。
「都市長とかケルスの有力者とかに挨拶してなかったよな」
「そのようなことはお気になさらなくても」
「そういうわけにもいかないでだろ。これまで全部の都市で挨拶してたのにここだけしなかったら、うちだけしなかったって後から文句を言われるかもしれないだろ」
「それは、そうかもしれませんが」
  筋を通すと言う意味ではアスナの言うとおりだが、今ケルスの有力者にアスナを会わせてもさしたる変化はないように思われる。
  むしろ非協力的な有力者たちに会わせて、アスナに苛立ちを与える方が良くないのではないかと考える。状況的にも、アスナの健康状態にも。
  そんなアスティークの思いも余所にアスナはもう会う気が満々である。
「今は傷を癒すことに専念してください。都市長たちに会うのはそれからでも構わないと思われますが」
「分かってないなぁ、アスティークさんは。・・・・・・いい?」
  何を言うつもりだろうか。
  ”こういうことは早めの方が良い”なんて当たり前のことを言うんじゃないだろうか。が、すぐにその考えを却下する。
  こういうときアスナはもっと突拍子もないことを言う。これまでともに行軍していて十二分に分かっている。
  何しろ彼は団員のために食事を作ったり、不届き者たちに混じって女性団員の水浴びを覗いたりするおよそ魔王の後継者らしからぬ、自分たちの主なのだから。
「はっきり言って暇なの!!」
  呆気にとられた。
「ひ、暇つぶしに呼ばれては彼らも気分を害すると思うのですが」
「オレが会う気、満々で会ったら逆に向こうが萎縮するって。ってことですぐに呼んでくるように」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
  睨み合う二人。だが結局、折れたのはやはりアスティークだった。
「承知しました」
  彼の背後にいた者たちも、やっぱりとばかりに肩を落とした。
  近衛騎団においてアスナの発言力が絶対となった、歴史的な瞬間であった。

 ケルスの有力者たちは何も意味もなく近衛騎団に非協力的な態度をとっているわけではない。
  彼らには彼らなりの理由があるのだ。
  支援をすればケルスの都市としての体面を保つことはできる。場合によっては、後継者を支援したということ戦後、何かしらの恩賞に与ることもあるかもしれない。
  しかし、現実問題として今のケルスに約一万名もの兵を、それも後継者が率いる近衛騎団に対して当然と思われる支援を行うことは不可能なのだ。仮に都市の全てを動員すれば可能かもしれないが、それではすでに悪化しているケルスの住民感情はどうなるかは火を見るよりも明らかだ。
  後継者と近衛騎団は休息と補給さえ受けられればそれで良いのかもしれないが、彼ら有力者はそれ以降もこのケルスに拠点を置くことになるのだ。悪化した住民感情の矢面に立つのは彼らケルスの有力者たちなのだ。
  日々の糧を失った彼らは必ず有力者たちを私刑にするはずだ。
  ケルスでの地位と、これまで築き上げてきた財産をこのようなつまらないことで放棄するわけにはいかないのだ。
  近衛騎団によるケルス制圧の初日から騎団司令部付きの士官が連日、彼らに協力要請を求めてきている。
  今日まで難色を示し続けているが、いつまでも今のままと言う訳にはいかない。
  何しろ今、ケルスにいるのは将来のラインボルトの主、魔王の後継者とその近衛騎団なのだから。
  彼らは自分たちの代表者の邸宅で今後、どうするかを討議していた。
「相手は後継者だ。支援しないわけにはいかないだろう」
「そのようなことは分かっています。ですが今のケルスは革命軍の駐留部隊によって食い潰されているのですよ。もっともわたくしたちのように物を商っている者とは違って、貴方のような貸金業者にはケルスという拠点と住民は不要なのでしょうけど」
  皮肉のように老女は口端をあげて言った。
「何を言うか! 私がこのケルスに幾ら投資していると思っているんだ。そのケルスが没落すれば当然、私も身の破滅なのだぞ!」
  ドンッ! と中年の恰幅のいい男がテーブルを叩いた。
「ではどうすると仰るのです。ケルスを保ちつつ、殿下をご支援して差し上げる方法があるとでも?」
  ちなみに殿下とはもちろん、アスナのことだ。
「そ、それを見つけるためにこうして集まっているのだろう」
「案もなくそのようなことを口走らないでいただきたいものですね」
「なにを!!」
「いい加減にしないか」
  嗄れた声の制止に二人は互いに向ける言葉を留める。
「ですが、御老」
  なおも言い募ろうとする老女に御老と呼ばれた老人は視線を向けるだけで口を噤ませた。
  彼がケルスの有力者たちの代表なのだ。街の者からは敬意をもって”御老”と呼ばれている。
「罵りあうために集まったのではないだろう。後継者殿下へのご支援はせざるを得んだろう。ならば我々の役目はいかにケルスに利となりうるご支援を行えるかを考えることだろう。違うか?」
「それは、そうですが」
「ならば考えろ。いかにケルスを保つかを。ケルスさえ保てれば、例え個人で大損失を被っても他の者で支えてやることが出来るのだからな」
「はい」
  幾分、項垂れる二人。
  御老は二人に頷きかけたあと、改めて他の皆を見た。
「皆もそのようにな。我々の行動をケルスの者たち全員が見ていることを忘れるな」
  皆は頷きで答えた。
「御老。発言をお許し下さいますか」
  この場にいる六人のなかで最も年若い男が声を出した。
「なんだね」
「次善策ではありますが一つ、私から提案があります。近衛騎団が求める物資を革命軍対して行ったように仕入れ値同然で提供するのではなく高値で販売するというのはいかがでしょうか。幸いにもケルスの封鎖は近衛騎団の手によって特定の施設を除いて全て解除されております」
  特定の施設とは市庁舎やアスナが療養している病院などの重要施設のことだ。
「必要な資金さえ手にすることが出来ればケルスを復興させることは難しくないと思われますが」
「この内乱で国庫も底をついているだろう。そのような状況で我々の提示した金額をお支払い頂けるか分からんぞ」
「我々の窮状を後継者殿下に申し上げれば不可能ではないかと。我々は半年もの間、革命軍によって封鎖されていたのですから、その事実を突きつければなんとか」
「情に訴えるか。名案とは言えないな」
  それが通用するのは個人的に友好のある間柄だけだからだ。初見の相手に情で訴えても、同情を買うだけで終わるのが関の山だ。
  青年もそれが分かった上で言葉を続ける。
「もちろんそれは理解しております。ですが聞くところによれば後継者殿下は現生界から召喚された人族だとか。不敬を承知で言えばそのような、幻想界のことも、ラインボルトのことも知らない方を近衛騎団がすんなりと主として迎えるでしょうか。また後継者殿下も早々に魔王となるご自覚をなされたとか。近衛騎団を掌握しようと躍起になられているのではないかと」
「・・・・・・その両者の無言の軋轢をどうにかすれば、と言うことか」
  との御老の言葉に青年はさらに続ける。
「それに加えてケルス制圧前に殿下は暗殺されかけ、手傷を負わされたと聞きます。近衛騎団との溝は深まったはずです。例え団長が止めたとしても今の殿下ならば」
「ふむ・・・・・・」
  御老は腕を組み、言葉を噤んだ。
  確かに青年の案は現状での彼らがとりうる最上のものかもしれない。
  だが、有力者たちにとってケルスという基盤がないと話しにならないのと同じく、ケルスもまたラインボルトという国家がなければ話にならないのだ。
  ケルスを保つことが第一であるというのが有力者たちの絶対の共通見解だ。だがそれに加えて御老は後継者と近衛騎団との不和を大きくしてラインボルトがさらなる混乱になることは好ましくないと考えている。
  それは長老格である彼だからこそ考え得ることだった。
  ケルスをとるか、ラインボルトの将来をとるかの二つに一つだ。
  どこかにその両者を握ることの出来る策はないだろうか。
  御老の重い沈黙を破るように誰かがドアをノックした。
「なんだ」
「失礼いたします。さきほど近衛騎団の方より書状が届けられました」
  初老の執事然とした紳士は入室すると主である御老に蝋で封がされた書状と、ペーパーナイフを手渡した。
「ご苦労。下がって良い」
  紳士は一礼すると退室した。御老はそれを見ることなくすぐに渡された書状に目を通し始めた。
「御老。近衛騎団はなんと言ってきたのです」
  これまで担当者との直接交渉だったものが書状を送ってきたのだ。何かしらの変化があったと見るのが普通だ。
  御老は押し頂くようにして書状を封筒に戻すと吐息一つ。
「お前たち、すぐに自分たちの館に戻れ」
「何があったというのです」
「後継者殿下、御自身による召喚状だ」
  それは、もう協力要請に対する返答を引き延ばすことが出来ないことを意味していた。
「では御老、殿下になんと返答するのですか」
「名案がない以上、お前の案を採ろう。ただし交渉は私が行う。お前たちは口を挟むな。良いな」
  それはつまり責任も自分一人でとると言うことと同義だ。
  その場にいた残り五人は僅かに緊張した面持ちで頷いた。
「ではすぐに館に戻り、準備をしろ」
  皆、一礼すると自分たちの館に戻っていった。
  一人、部屋に残った御老は深く息を吐くと、
「さて、どこまで保たせられるか」

 一時間後、ケルスの有力者たちは市庁舎前で都市長とその助役と合流し、各々の馬車で後継者のいる病院へと向かった。
  病院前にはここの警備責任者を名乗る女性仕官の手で身元確認がなされた後、まっすぐに後継者の待つ病室へと向かった。
  二名の兵によって守られたドアの前で女性仕官は彼らを止めた。
  有力者たちが来たことを察したのかドアから自分たちとの交渉に当たっていた仕官が現れた。
「都市長以下、有力者の方々をお連れした」
  仕官は女性仕官、サイナに頷くと有力者たちに身体を向けて敬礼した。
  有力者たちも同じように頭を下げる。
「ようこそお越し下さいました。後継者殿下がお待ちです。どうぞ」
  ドアが開かれ、入室するよう促される。
  一瞬、躊躇したようだったが都市長、助役に続いて御老たちは入室した。
  そして彼らが目にしたのはベッドに寝かされた全身を包帯で巻かれた少年だった。
  後継者の一見しただけでは重傷者にしか見えない姿に対して、彼ら有力者たちは華美な服装で参上している。場違い以上の言葉もないだろう。
  暗殺されかけたと言う話は聞いていたがここまで酷いとは思わなかったのだ。
  彼らは後継者は軽傷でしかないと思っていたのだ。
  平伏する都市長に続いて有力者たちも平伏する。
「ご尊顔を拝し、恐悦至極に存じ上げます。ケルス都市長・・・・・・」
  と、都市長に始まり全員自己紹介が行われた。
「不逞の輩に襲われたとご心配しておりましたが、ご無事のようで心よりお喜び申し上げます」
「うん。その気持ち、嬉しく思う。皆、顔を上げなさい」
  言われて皆、顔を上げた。
  交渉を始める機会を伺うべく御老は後継者を観察した。
  社交辞令とも思われる、ケルスの状況について都市長や助役と言葉を交わすさまは全くと言っていいほど悪意もなにも感じられない。
  密かな驚きが一つあった。受け答えの全てを後継者自らが行っているのだ。
  もし、後継者がお飾りであるならば、受け答えは彼の側に控えている近衛騎団の重鎮であろう恰幅の言い髭の男が行っているはずだ。
  後継者と近衛騎団の関係は自分たちの想像とは異なるのではないだろうかと御老は思い始めた。だが、まだその考えを捨て去ることは出来ない。
  両者の関係が良好であると我々に見せているだけなのかもしれない。
  と、御老の視界に妙な色が入った。
「!!」
  床の一部、それだけではなく壁にも何かの飛沫が付着したような跡が残っている。
  その跡の色は茶褐色。
  それが何であるか御老には容易に推測できた。ケルスの表も裏も取り仕切っているのは彼なのだから。
  後継者の入院する病室には不適切なその色の存在が何を意味しているのか、真相は分からない。だが間違いなくこの病室で流血沙汰が起き、後継者はそのことを意に介していないと言うことだ。
  長く戦陣にいたために狂ってしまったのだろうかとも思ったが、先ほどからの観察からそれは違うと御老は判断した。後継者の瞳には狂った者特有の濁りも、壊れた者特有の透明さもないのだ。瞳は意思ある光を宿している。
  ではこの血痕は後継者のものか。一見しただけであの重傷だ、術後の吐血ではないのだろうか。
  隠しているつもりだったが、僅かに表に出ていたようだ。後継者は御老に声をかけてきた。
「不作法、失礼した。ご老体。その血痕は団長の右腕を召し上げたときに出来たものだ」
「腕を・・・・・・召し上げ」
  背後で有力者の一人が呻き声のように呟いた。
「相手がLDとは言え、暗殺されかけたんだ。処分するのは当然だろう」
  LDの威名は市井の民にも知られている。この少年はあの噂に聞く天才軍師の放った刺客から生き延びたと言うのだ。運が良かったで済ませられる事態ではない。
  この少年は自分たちの想像を超えた、真なる後継者なのかもしれない。
  御老だけではなく有力者たち全てが同じことを思い始めた。
  人魔の規格外と聞く近衛騎団の団長の右腕を召し上げるような人物が非協力的な態度をとる自分たちに何らかの処分を下さないはずがない。
  御老は、有力者たちはもちろん都市長たちまでもが身に纏った空気が凍ったことを感じた。
  ・・・・・・交渉できるような相手ではなかった、と。
「ご無礼を承知で言上仕ります」
  一同を代表して御老が膝を進めた。
「我らケルスを支える者たちのこれまでの行動は全て私の指示よるもの。何とぞ我らへのご処分は何とぞ私一人にお願い申しあげます」
  床に額を叩きつけるような勢いで叩頭した。
「処分もなにもする必要はないだろう。内乱であろうと軍が駐留してくれば、住民たちを守るために支援するのは当然のことだ。これまでの苦しい状況にも関わらず我々を支援してくれているんだ。そのお前たちに処分を下すはずがないだろう。そうだな、参謀長」
「はっ。しばしの休息をとる許可および後続の補給部隊が到着するまでの必要最低限の水と食糧の提供を受けております。それも明日、明後日には到着するかと」
「そういうことだ。お前たちはそんなことを気にする必要はない。我々の補給と一緒にケルスへの支援物資も運ばせている。それに帯同している文官とともにケルス復興に尽力して貰いたい」
  後続の補給や支援物資のことなど全く聞いていない。
  近衛騎団が求めているのは、ほんの数日の水と食糧だけだったなどと。協力要請に来た仕官をほとんど門前払いするかのように自分たちの都合だけを並べ立てて、近衛騎団の話を聞いていなかったのだから当然だ。
  その上、補給とともに支援物資もケルスに送っていると言う。
  これでは自分たちはただ単に駄々をこねていただけではないか。
  恥じ入るとかそういったことを超えてしまった。
  要請に耳を傾けることをせず、あまつさえ後継者と近衛騎団との亀裂を利用しようとまでしたのだから。
  負けである。御老は十数年ぶりに完全なる敗北を感じた。
「後継者殿下の御厚情に深く御礼申し上げます。我らケルスの民は殿下への忠勤を相務めまする」
「うん。しばらく迷惑をかけるがよろしく頼む」
「承知仕りました」
  一同が平伏するのを見計らったかのように突然、もの凄い勢いでドアが開いた。
  と言うよりも蹴り飛ばしたのだろう。ドアの向こうから足が見えている。
  アスティーク以下、室内で控えていた団員が身構えた。
  怒声を上げながら入ってきたのは白衣を纏った初老の男だった。
「せ、先生・・・・・・」
  なぜか後継者は及び腰となるような情けない声を上げた。
「先生ではない! またこのような無茶をしおって。薬の時間だというのに入室出来んと看護婦が私に泣きついてきたから何事かと思えば」
「その・・・・・・こういうことは早いほうがいいと思って」
「嘘を吐くな。お前さんのことだ。暇つぶしのために呼んだのだろう」
「何者かは知らぬが殿下に対し不敬ではないか!」
  御老は糾弾するかのように声を上げた。
「私はこの小僧の主治医を務めておるロディマスだ。私には小僧の傷が完治するまで面倒を見る責任がある」
「こ、小僧、とは」
  背後の小さな声を無視するようにロディマスと名乗った医師はさらに声を張り上げる。
「お前たちもお前たちだ。小僧のこの姿を見て日を改めようとは思わなかったのか」
  確かに全身を包帯で巻かれた姿は痛々しいの一語に尽きる。
  だが、比較することも出来ない下位にある自分たちがすぐに辞去することなど出来ようはずがない。
「殿下のお招きを・・・・・・」
「言い訳するな。とにかくすぐに出ていかんか!」
  怒声と強硬手段をもって御老たちは病室から排除されてしまった。

 ロディマスの手によって有力者たちを強制排除されてしまった病室に残ったのはアスナとアスティーク。そしてロディマス当人だけである。
  他にもいた団員たちは逃げるようにして退室していった。
「まったく毎度毎度、無理をして。容態が悪化したときはどうするつもりなんだね」
「ははっはははっ」
「笑い事では済まないんだぞ。参謀長、貴方もそうだ。小僧の容態はまだ様子を見なければならないと言うことは何度も言っているはずですぞ」
「いや、申し訳ない」
  これではどちらが偉いのか全く分からない。
  もっとも今は医者と患者と言う立場なのだから、これが当然の対応なのかもしれないが。
「元気なのは結構なことだ。だからといって普段通りに振る舞って貰っては困るんだよ」
「でもほら、もう全然痛くないし」
「それは痛み止めが効いているおかげだろう。何なら今晩の投薬を止めにするかね?」
「う゛っ。・・・・・・それは許して下さい」
「・・・・・・次から理由なく無茶をすれば痛み止めの投薬を止めるからそのつもりでいなさい。良いね」
「・・・・・・はい」
「参謀長もそのようにお願いしますぞ」
「了解いたしました」
  二人に反省の色ありと見たのかロディマスが周囲に発していた怒りは一気に霧散した。
  ホッと一息つくアスナとアスティーク。
  ロディマスは外で待っているらしい看護婦に声をかける。彼女が入ってきたのを見計らってアスナの問診が始まった。
  看護婦の手で薬の準備が進められる中、ロディマスはアスナの検診を始めた。
  その手を休めることなく彼は口を開いた。
「坊主の手術、無事に成功したぞ」
  坊主とはもちろん、ヴァイアスのことだ。
  ヴァイアスが小さな頃から何かと面倒を見ているから、未だに坊主扱いだ。もっともアスナも似たようなものなのだが。
「そう。・・・・・・良かった。自分で斬っておいてなんだけどくっつかなかったらどうしようかって思ってたから」
「人魔の規格外は人族よりも遙かに頑丈に出来ているからな。案外、お前さんよりも早く完治するかもしれんな」
「そっか。回復力が常識外れなんだっけ」
「あぁ、それがあるからこれだけ早く手術も終わったということだ」
「・・・・・・それで今、ヴァイアスは?」
「眠っているよ。嬢が付きっきりで面倒を見ている」
「良いなぁ〜。ミュリカの二十四時間看護。対してオレは・・・・・・」
  視線の行き着く先は口やかましい初老の軍医。
「だからなぁ」
  ・・・・・・この差は一体なんなんだろう。
  と、自問自答するアスナの頭に激しいげんこつが降ってきた。
「ったぁっ!?」
  どうやらアスナの経過は順調のようである。

 アスナと有力者たちとの謁見の後、ケルスの態度は一変した。
  どこか刺々しい雰囲気はなくなったとまでは言わないまでも、容易に無視できるまでに緩和された。互いのわだかまりをアスナが平然と晴らしたのだから当然といえば当然だ。
  これまで近衛騎団からの協力要請を門前払いのように無視し続けたことで、彼らは騎団が求めている以上の要求があると勘違いしていたのが一番原因だった。
  近衛騎団側にも多少、問題もあった。騎団の必要以上の誇りが有力者たちに対して率直な要求をしなかったこともあるのだが。
  ともあれケルスに対する負担がさほどではないと有力者たちが率先して住民たちに喧伝したこともあるが、何にも増してケルスの住民たちの心を動かしたのは後続の補給部隊が支援物資を運んできていると言う情報だった。
  あまりにも様変わりしたケルスにヴァイアス復帰まで近衛騎団の全権を委任された参謀長アスティークは、
「現金なものだな」
  と、報告書に目を通しながら安堵とともに苦笑したとか。
  アスティークとはまた違った意味で安堵の吐息を漏らしたのがもう一人いた。
  アスナの主治医であるロディマスであった。
  謁見の翌日、ようやく到着した補給部隊が運んできた人族に関する医学書を手に入れたからだった。
  人魔の国と呼ばれるラインボルトだが、実際は人魔を最大勢力とした雑多な種族の入り交じった国家である。
  そういった国情からラインボルトは幻想界でも最高水準の医術を誇っている。そのため、極々少数ではあるが人族に関する医学書もあるのだ。
  もっとも医学書として纏められたのはごく最近のこと。先王アイゼルがエルトナージュの母である清花のために作らせたもの。
  当時は側近たちからも道楽が過ぎると諫言もあった曰く付きの医学書だが、こうやって後継者の役に立ってしまうと、誰も道楽だとは言えなくなるだろう。
  ともあれ、医学書を手に入れたロディマスはすぐに自分が行った処置が正しかったのか調べ始めた。
  その中でも最も気がかりだったルピアの水の使用についてだが、
「ルピアの水の使用による拒絶反応の報告例は皆無、か」
  ロディマスは半ば占拠している病院の当直室で深く安堵の吐息を漏らした。
  しばらく安堵の余韻に浸ったところで、再び医学書に目を通し始めた。
  最も効果的な傷の治療法はなんであるかを。
  外では到着した支援物資に歓声を上げる住民たちの声に身を浸しながら。
  その後続の補給部隊であるが、多少の死傷者を出したものの何とかケルス入城を果たした。
  近衛騎団約一万名の補給物資に加えて、奪還した都市の復旧に使用する物資も輸送するのだ。内乱で軍が割れている今の状態では軍に属する者だけでは足りず、補給部隊を構成する大半が戦いを知らない民間からの協力者たちだった。そのため戦死者の全てがこの民間協力者たちから出た。
  護衛としてバクラ将軍率いる第九軍の部隊がついていたとは言え、補給部隊の隊列はどうしても長大になってしまうため完全に彼らの防備を固めることは出来なかった。
  その中でも襲ってきた”彷徨う者”が異常の部類に入るほど出現したことで混乱した民間協力者たちが大きく隊列を乱し、護衛部隊の動きを妨げたのが一番原因だった。
  統制が失われ、ただただ”彷徨う者”の爪と牙に裂かれ続ける彼らを掬ったのは、到着の遅さから出迎えに向かった近衛騎団二個小隊だった。
「貴隊は護衛とともに補給部隊の守備を。我らはヤツらの殲滅を行う」
「承知した。・・・・・・お前たち、あの補給部隊はアスナ様のための医学書を運んでいるはずだ。なんとしてでも死守するぞ」
『了解!』
  混戦状態のなかに規律を有した部隊が突入したのだ。数の差で劣るものの従来の精強さに加えてこれまでの実戦経験で次々と”彷徨う者”たちを圧倒していった。
  それに加えて遠目にも目立つ白の鎧が救援に現れたことが彼らに統率を取り戻させるきっかけを作ることに成功した。
  三時間近くの戦闘でどうにか”彷徨う者”を撃退することが出来た。
  全てを終えて本隊に送った伝令には”彷徨う者”に襲われたことを含めて、こういう一文が加えられた。
「”彷徨う者”の動きは明らかに何者かの指揮によって動いているように思える」と。
  ちなみに彼ら補給部隊の到着が遅れた原因は数日前に降った大雨のおかげで悪路となり、思うように荷馬車を進めることが出来なかったからだった。
  不幸中の幸いとはまさにこのことである。

 若さに勝る薬はない、とはロディマスの言葉である。
  補給部隊の到着から二日が経った。
  元からの順調な回復に加えて、エグゼリスより取り寄せた医学書に記されていた傷薬の効用のおかげもあってアスナの全身の火傷は大半は癒え、もうしばらくすれば痕もなくなるとの見込みだ。
  ただ胸の傷だけは深く、僅かに小剣によって捻りを入れられていたこともあって塞がっても傷跡はうっすらと残るだろうとロディマスは診ている。
  とりあえず胸の傷も塞がり、床払い、つまり退院とまではいかないまでも少しぐらいは病院内を出歩いても良いと言う許可が出た。
  ロディマスから許可を貰ったときにアスナが口にしたのが、
「尿瓶(しびん)生活よ、さようなら」
  これだったりする。自分でトイレに行けなかったのはかなりつらかったようである。
  ともあれ、護衛付きではあるがアスナは晴れて病室から出る許可を貰ったのだった。
  と言うことで続いてヴァイアスの検診に行くというロディマスにくっついて、様子伺いに向かった。
  久しぶりにちゃんと顔を合わせるので、驚かせてやろうとアスナはノックもせずにいきなりドアを開けた。そこで目にした光景は・・・・・・。
「あぁ〜っ! ちゅーしてる!!」
  ちゅーはないだろう、ちゅーはとロディマスは頭を抱えた。
  そのちゅーをしていた二人は突然のアスナの襲来にパッと離れた。
「よ、よう」
「あの、いらっしゃいませ」
  と言った感じで二人とも赤くなって照れくさげにしている様は何とも羨ま、もとい微笑ましい。
「二人とも病院で何してるかな」
  自分だって都市長や有力者を呼んだことを棚に上げてアスナは二人に歩み寄った。
  そのアスナの目がサイドボードの上にある皿を映した。正確にはその皿の上の物を。
「あぁっ。先生、りんごですよ、りんご。しかも、うさぎさんだし。きっと、ううん、絶対に”ヴァイアス、あぁ〜んして。・・・・・・美味しい?”、”あぁ、美味い”なんてやってたんですよ」
  ヴァイアス、ミュリカともにベッドに突っ伏して悶絶している。
  どうやら図星のようである。
「それで何とな〜く、いい雰囲気になって、それでちゅーですよ。けど、身を乗り出したら腕が痛んでヴァイアスが顔をしかめたから、ミュリカが”・・・・・・痛む?”なんて聞いたら、ヴァイアスなら絶対に”気にするな”な〜んて言うに決まってる」
  死亡確定。当分、蘇生できないだろう。
「別に構わないだろう。二人はそういう仲なのだから」
「これって療養じゃなくて、謹慎処分なんですよ。なのに二人して病室をストロベリー・フィールドにして」
「なにを訳の分からないことを。・・・・・・つまり、お前さんは羨ましいと言うことだね」
「うん。・・・・・・羨ましい」
  口調こそ言葉通りだが、目は完全にからかいモードに突入している。
  そのアスナの率直な言葉に形勢不利と思ったのか、ミュリカ再起動。
「あ、あの、あたしお茶の用意をしてきます。アスナ様、先生、ごゆっくり」
  脱兎の如くミュリカは病室を出ていった。
  三者三様の表現ながらも「逃げやがった」と思った。
  そして「してやったり」と「邪魔すんな、この野郎」の視線が交差した。
  この微妙な緊張状態をぶち破るのは当然のように年長者の役目である。
「それで腕の調子はどうだね?」
「さすがにまだ動かせないけど、感覚は戻ってる」
「ふむ。人魔の規格外は驚異的だな」
  包帯などで固められた腕にだが手首より先は露出している。そこをロディマスはリンゴを食べるのに使ったであろうフォークで刺した。
  刺すたびにほんの僅かだが指が動く。確かに腕は生きており、癒着している証だ。
  頷きロディマスは撫でてみたり、指先から出した小さな火を近づけてみたりと右腕の触覚が戻っているか調べた。その全てに反応がある。
  とヴァイアスはじっと自分を見るアスナに気付いた。
「・・・・・・どうした?」
「あっ、うん。自分で切り落としておいてなんだけど、よくくっついたなぁって。先生に大丈夫だって聞いてたけど実際にこうして見てみるまで少し不安だったから」
「これでも一応、人魔の規格外だからな。けど、さすがにガルディスで落とされたから治りが遅いけど」
  疑問符を顔に貼り付けたアスナに笑みを浮かべながら、
「ガルディスは力の流れを断ち切る魔剣だって話は前にしたよな」
「あぁ。じゃなきゃ、オレなんかがヴァイアスの腕をあんな綺麗に切れるはずがない」
「その、俺の生きる力の流れを斬ったってことは、右腕との関係も断ち切られたってことだ。落とされた右腕と俺とを繋げる流れを新しく作るのに時間がかかってるんだよ」
「よく分からないけど、すごいな」
「よく分からないは余計だ」
「悪かったな。っと、それはそうとヴァイアス、久しぶりに会った重傷の友だちに元気そうだなって、お約束の挨拶はなしなわけ?」
「挨拶もなにも初っ端からあれだけ飛ばしてたら元気なのは一発で分かるだろ。そういうそっちこそ、それなかっただろ」
  と、何故か面映ゆい顔をした。嬉しいのを我慢しているようなそんな感じの顔だ。
「そりゃ、謹慎処分中のくせにちゅーしてる様なヤツに言えるような挨拶じゃないだろ。うわっ、なんか意味もなくむかついてきた」
「その、ちゅーって言うのは止めてくれ。無駄に恥ずかしい」
  ふくれっ面と赤面の二人に立会人の如く側で見守っていたロディマスが笑みとともに、
「二人ともわだかまりがないようで良かったな」
「わだかまりもなにも、お互いに洒落にならないぐらい痛い思いをしたんだから貸し借りなしでしょ」
「まぁ、そういうことなんだろうな」
「なるほどな。どうやら私が必死になって治療したかいがあったな」
  なんだかんだで今回の件で一番、引っかき回されたのはロディマスだ。
  アスナもヴァイアスもますますこの初老の軍医に頭が上がらなくなったことだけは確かだ。同じことを考えていたのか二人して苦笑を浮かべる。
  不意にノック音がした。二秒ほど経ったが動きはない。ミュリカではない証だ。
「入れ」
「失礼します」
  と、入ってきたのは伝令と思しき青年。
  まさかいるとは思わなかったアスナの存在に彼はぎこちなく最敬礼をした。
「ア、アスナ様。これはご無礼致しました。床払いをなされたのですか。おめでとうございます」
「仮に、だけどね。とりあえずありがと。それはそうとどうかした? これでも一応、ヴァイアスは謹慎処分中なんだけど」
「それは、その十分に存じているのですが」
  誰が見ても動揺している彼だったが、意を決したのか「失礼します」と歩み寄るとヴァイアスに耳打ちをし始めた。
  微かに聞こえるが単語として理解できたのはほんの少し。
  「書状」と「ゲームニス」の二つだけだ。
  聞き終えたヴァイアスは一瞬だけ険しい顔をしたあと何事か彼と同じように耳打ちをした。あまりにあからさまに妖しすぎて、逆に誉めたくなる。
  ヴァイアスの話が終わったのか、青年は「では、そのように」と告げると改めてアスナに最敬礼をすると退室した。
  僅かな沈黙。そしてアスナの咳払い。
「それで、何の話だったんだ?」
「別に大したことじゃない。お前は自分の身体だけ心配してれば良いんだよ」
「ふ〜ん、そう」
  またか、とばかりにロディマスはため息をもらした。
  さすがの彼もアスナのこう言うところは矯正しようがないと諦めたのかも知れない。
「”書状”、”ゲームニス”って聞こえたんだけど」
「・・・・・・・・・・・・」
  窓の外を視線をやってやり過ごそうとするヴァイアス。僅かに視線が厳しいのは先ほど報告に来た青年に呪いでも送っているのだろうか。
「ここに出てくるゲームニスって、ラインボルトの大将軍のことだよな。その人に書状を送ったのがオレに関係ないって言うんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
  だんまりである。ここからは根比べだ。
  アスナもそう思ったのか沈黙による応酬が繰り広げられる。
  同席しているロディマスとしては居心地が悪いことこの上ない。
  数分の攻防ののち、
「・・・・・・・・・・・・はぁ」
  アスナのため息一つ。
  乗り切ったかとヴァイアスが緊張を解いた瞬間。
「幻想界戦史大全、第八巻」
  と、ぼそりといったアスナの一言にビクッとヴァイアスの肩が動いた。
「それが何だって言うんだよ」
「タンスの二段目」
  不審なまでにヴァイアスの額に脂汗が浮かぶ。
「今の預かり主はアリオンくん」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「ミュリカに・・・・・・」
「だぁぁっ!! 何だってお前はそうも卑劣な手段を使うんだよ」
「オレに戦いを挑んだお前が悪い。さっ、話して」
「なぁ、アスナ。俺たちがお前の身体のことを気遣ってるのを分かってるよな」
「もちろん、ありがたいって思ってる」
「それが分かってるんだったらもう少し・・・・・・」
「大将軍に書状を送らないといけないぐらい大変なことが起きてるんだろ。そんなときに何も知らないで転がってられるはずないだろ!」
「なんでそんなに無茶ばっかりしようとするんだよ」
「約束したからに決まってるだろ。みんなに相応しい主になるって!」
「・・・・・・アスナ」
  再び沈黙が訪れる。
  アスナの身を案じる気持ちは強くある。だけど、そのアスナからあんなことを聞かされると反対し続けることは出来ない。
  正直、アスナの無茶の根幹にあるのがあのときの約束だったと言うのがヴァイアスには嬉しくてたまらなかった。だからこそ必要以上の無茶をして欲しくなかった。
  特に今のように重傷から癒えたばかりとなればなおさらだ。
  揺るぎない意思を感じさせる目でヴァイアスを見つめていたアスナがすっと立ち上がった。
「アスナ?」
「やっぱり、ミュリカに・・・・・・」
「わぁぁっ、分かった分かった。話す、話すからそれだけは止めてくれ!」
  ヴァイアスの敗北宣言にアスナは悪魔の如き笑みを浮かべた。
  二人のやり取りの一部始終を黙って見ていたロディマスは、ぼそりと呟いた。
「話しの初めと終わりだけを見れば、艶本の在処を嬢ちゃんにばらされたくなかったから自供するようなものだな」
  身も蓋もない一言だが、全くもってその通りである。
  ちなみに艶本とは、エロ本のことである。
  深く考えるべきでない会話というのはこういうもののことを指すのかも知れない。
「そう言えばミュリカ、遅いな」
  とのアスナの声に応えるように、
「思ってたよりも給湯室が混んでたんです」
  ギリギリと、まるで油の切れたブリキの木こりさんのように三人−−なぜかロディマスまでも−−は声の主の方を向いた。
  そこには当然のようにミュリカが、人数分のティーセットを手に立っていた。
  にこやかに、本当に心からの笑顔を彼女は浮かべていた。
  ステキに無敵。
  アスナの脳裏になぜか浮かび上がった言葉である。
「どうぞ、アスナ様。先生も」
「あ、ありがと」
「う、うむ」
  そしてここ最近で一番の笑顔をヴァイアスに向けて、
「はい、ヴァイアス。今はゆっくりとくつろいでね。後でじっくりと話を聞くから」
  思わずヴァイアスに合掌である。
  微妙に緊張を孕んだ空気を払うようにアスナはぎこちない咳払いをした。
「まぁ、なにはともあれ。ヴァイアス、話して」
「・・・・・・そうだな」
  何かが枯れてしまったかのようにヴァイアスの声には覇気がなかった。
  それでも彼はちゃんと話をし始めた。近衛騎団が直面している一番の問題を。
「ことの発端と言うか、俺たちにとっての始まりはリムルから届いた報告書だ」
  その報告書には村一つが”彷徨う者”と化したこと、それが人為的なものであったことが記されていた。その証拠となる魔導珠もリムルが回収し、エグゼリスにある研究所に送った。
  何者かの作為である以上、村人のほとんどを”彷徨う者”とされたのはヴァンヌ以外ではないはず、また他の町村もそうなる可能性があると言うことで報告書は結ばれている。
  またケルスに到着した補給部隊から多数の”彷徨う者”に襲われたという報告がそれを裏付けることになった。
「それでヴァイアスはその報告書にどう対処したわけ?」
「恭順の意を示したケルス駐留部隊を再編成させて、近隣の町村の守備にあてた。それだけでは足りないから大将軍に”彷徨う者”討伐に動いてもらおうと書状を送ったんだ」
「なるほど。それで大将軍からの返事は?」
  悔しそうにヴァイアスは首を横に振った。
「なんで!?」
「大将軍が動けばどんな形であれ戦況が動くからな。正当な勝負をさせるためには自分は動くべきじゃないの一点張りだったそうだ」
「・・・・・・大将軍のゲームニスって、どんな人なわけ?」
「アスナ様、まさか!?」
  ・・・・・・ニヤリ。
「そのまさか。大将軍に直談判してやる」

 当然のようにアスナの直談判は反対された。
  その場にいたヴァイアスはもちろん、病室の外で警護していた団員に呼ばれて飛び込んできたアスティークたち司令部の面々までもが直談判に反対した。
  傷が塞がったとは言え、完全ではなくまだ安静にしていなくてはいけないのに、馬で一日もかかる場所に向かっては体調を崩すのは火を見るよりも明らかだ。
  また暗殺者に襲われたら今度こそ終わりなのだ。
  ロディマスを含めて蕩々とアスナに言い含めたのだが、
「ヴァイアスでダメなんだったらオレがやるしかないだろ」
「それは・・・・・・そうですが」
  さすがにアスティークも正論を突きつけられれば反論のしようがない。
「俺と同じく書状を送るってのはどうだ? さすがに大将軍も後継者の命令ともなれば動かないわけにはいかないだろ」
「それはそうかもしれないけど・・・・・・」
「けど、なんだよ。武人なら主君の命に従うのは当然だ。何か不安でもあるのかよ」
「大将軍ってラインボルト軍で一番偉くて、みんなからも尊敬されてるんだろ。そういう人が動かないって決めたことを書状一枚で考えを変えるとは思えないんだ。多分、みんなも分かってると思うけど、ヴァイアスからの、近衛騎団団長から書状が届くってことはひいてはオレからの書状ってことにもなるはずだよな」
「つまり今更、改めてお前から書状を送っても時間の無駄だって言いたいんだな」
「そういうこと。けど、後継者そのものがやってきたらさすがに、動くつもりはないって門前払いされることはないだろうし、話ぐらいは聞いてくれると思う」
「それはそうだろうな。大将軍は礼儀を弁えた方だから、いくらありがた迷惑のアスナでも話ぐらいは聞いてくれるはずだ」
「ありがた迷惑はよけいだ」
  ヴァイアスに一睨みすると、アスナは困惑の表情を浮かべる司令部の面々をみた。
  その彼らにアスナは力の入っていない、自然な笑みを見せた。
「正直な話し、自分でも無茶でバカなことをしようとしてるって分かってる。けどさ、このやり方が良いと思うんだ。行ってどうなるかは分からないけど、一番早く結果を出せるから。ヴァイアスから聞いたけど今、ラインボルトで大量発生してる”彷徨う者”が人の手によるもので、いつどこで現れるかなんか分からないんだろ。どう考えてもLDを相手にしながら対処できるようなことじゃない。だったらどっちの陣営にも就いていない大将軍に頼むのが一番だと思う」
  皆、アスナの言うことは正しいと思っている。大将軍ゲームニスを動かせる可能性を持っているのはアスナだけなのだから。
  だが彼の身体を鑑みるにまだ馬車で一日の距離を移動できるだけの体力が戻っているのか怪しいところだ。元気そうに見えてもまだ様子見の段階なのだから。
  それにケルスを出発する日程のこともある。
  今日、すぐにアスナが出立したとしてもゲームニスのいる山間の町コルドンに到着して、すぐに説得を終えて、帰ってこなければならないほど日程は迫っている。
  日延べにする訳にはいかない。すでにケルスの住民たちに出立の日程を公表しているのだから。険悪な空気は薄らいだとは言え、日程を変更すれば再び険悪化するのは目に見えている。軍の長期駐留を喜ぶような都市はまずないのだから。
  アスティークは一語一句を言い含めるようにアスナにそのことを話した。
「だったら先生にも一緒に行ってもらえば良いじゃない。もし、何かあっても先生ならなんとかしてくれますよね」
「余程、大事にならなければ、な」
  どこか歯切れの悪いロディマスの返事だったがアスナは気にしない。
  暖まって回転数を上げたアスナ・エンジンはもうすでにイケイケ状態である。
「日程の方は、そうだな。オレたちが出発予定時間に間に合わなかったらそっちはすぐに動いてくれれば良いよ。その後を追いかければ問題ないと思う。全力で馬を走らせればムシュウに到着する前に合流できると思う」
「・・・・・・団長」
  アスナの意思が固いと判断したのかアスティークは暴言混じりに意見の言えるヴァイアスに助けを求めた。が、彼は苦笑を浮かべたまま、
「今の俺は謹慎中だ。アスティークの判断が、騎団の意思だ」
  責任放棄。もっとも今のヴァイアスには何一つ権限を与えられていないのだから、そう不当なものでもない。
  全身に覆い被さる不安に押し潰されたような深いため息をついた後、アスティークは背筋を伸ばして、彼の背後でことの経緯を見守っていたサイナに視線を向けた。
「サイナ、配下の護衛を連れてコルドンまでアスナ様をお連れしろ」
「了解しました。馬車の手配もお任せ下さいますか」
「任せる。すぐに準備を始めろ」
「はっ。・・・・・・失礼します」
  サイナはアスナに向けて略式敬礼をするとすぐに走り出した。
「アスティークさん、ありがとう」
「いえ、実際に補給部隊が”彷徨う者”に襲われたのを団員が目撃した以上、無視することは出来ませんからな。ですが・・・・・・」
  と、廊下側から「病院内は静粛に!!」と言う大声が聞こえてきた。
  一同は気まずげな表情を浮かべた。アスティークの咳払い一つで空気が改まった。
「ですが、アスナ様。大将軍とお会いする時は今のような態度では説得は不可能かと思われます。あの方は私(わたくし)ではなく、道理で動かれます。この内乱で嫌気がさしたと言われておりますが、それだけではないと私は考えます。くれぐれも軽挙はお慎み下さい」
「うん。分かった」
「では、我らは職務に戻らせていただきます」
  アスティークを始め、司令部要員たちは一糸乱れぬ動きで最敬礼をすると退室していった。と、アスナの隣で「さてっ」と両膝を叩くとロディマスが立ち上がった。
「私も準備を始めようか」
「ゴメン、先生。ホントはまだ安静にしないといけないんだよね」
  珍しく殊勝な態度のアスナにロディマスは鼻から息を吐くと、彼の頭を乱暴に撫でた。
「全くだ。立て続けに無茶をする患者はお前さんが初めてだよ」
  教科書に載せたくなるような苦笑を見せると最後にポンッと頭を叩くと退室した。
  残ったアスナたち三人は呆気にとられたようにお互いの顔を見合った。
  患者の治療には容赦のないロディマスが何の異論も挟まずにアスナのコルドン行きを認めたことだった。
「さすがの先生もアスナの我が儘っぷりに根負けしたといったところか?」
「でしょうね。ホント、勲章ものですよ。アスナ様。あっ、でもこの内乱が収まったあとのことを考えるとそんな暢気なことも言ってられないか」
  どういうこと? と首を傾げるアスナ。
「エル様もアスナ様に負けない強引なところがありますから。お二人が仲違いされないように今からいろいろと考えておかないと」
  ミュリカはムンッと両の拳を胸の辺りで握って気合いを入れた。
  決意に燃える彼女の瞳にアスナも及び腰になる。
「あの、ミュリカさん? お気持ちは嬉しいんですけど、それはちょっと余計なお世話って言うか」
「何を気弱なこと仰ってるんですか。いいですか、アスナ様。エル様と仲良くしていただかないとお側近くにいるあたしが困るんですよ。大切な、主君と幼なじみの板挟みになるのはイヤなんです。それにあたし一人だけ女の歓びを知ってるのは不公平じゃないですか。って、何を言わせるんですか、アスナ様!」
  暴走入ったミュリカは手加減なしにアスナの背中を思いっきり叩いた。
  かなり痛い。と言うか、見合いを進めるお節介なおばさんじゃないんだから。
  アスナの感想が顔に出ていたのかヴァイアスは申し訳なさそうな顔で、
「すまん、アスナ。ミュリカはこういうのが五番目に好きなんだ」
「・・・・・・敢えて、一番は何か聞かないことにするよ。それはそうと、ミュリカさん? 勝手に盛り上がるのはもう諦めたけど、そういうことは相手の気持ちも合って初めて成立すると思うんですけど」
「その点はご懸念無用です。あたし、エル様のことに関しては幻想界一詳しいって自負してますから。しっかりとアスナ様の良いところを五割増しぐらいにして吹き込んじゃいますから」
「それって詐欺なんじゃ」
「と言うよりも誇大広告だな」
  とヴァイアスが訂正する。テレビにツッコミを入れる視聴者のような心境だろう。
「アスナ様、世の中には良い詐欺と悪い詐欺があるんです。みんなが幸せになれて、誰も損をしないような詐欺なんですから良いじゃないですか」
  その中でも一番得をするのはミュリカに違いない。
「それはそうかもしれないけど」
「だったら問題ないじゃないですか。アスナ様は何も心配なさらなくても大丈夫です」
  鼻息荒く力説するミュリカを前にしてアスナは不意に立ち上がった。そして一歩、後ろに後退した。
「その話はまた今度、ゆっくりしよう。ほら、オレもいろいろと準備とかがあるし」
「そんなことはサイナさんがやってくれてるはずですよ。アスナ様は準備が終わるまでここでごゆっくりとして下さい」
  逃がすもんかという意思がありありと感じられる。
  今のアスナはまさに蜘蛛の巣に絡まった蝶のようなものだ。それも目の前に大きな蜘蛛のいる。アスナは蜘蛛の糸を断ち切ろうとするかのように言葉を続けた。
「それにほらミュリカ、ヴァイアスとゆっくりと話があるって言ってただろ」
「アスナっ!?」
  酷い話しの振られ方にヴァイアスの声は裏返った。
  心の中で深く彼に謝罪をするとアスナは畳みかけることにした。
  何事も中途半端は良くないとはアスナのジイさんの教えの一つだから。
「怪我の上に謹慎処分ってことになってるから病室から出られないし。ゆっくりしっかりしゃっきり話をするチャンス!」
  話しながらアスナは少しずつ後退していった。
「ってことでそれじゃ!」
  後はもう振り返らない。ただ真っ直ぐにアスナは走った。
  お前の尊い犠牲は無駄にはしない。あぁ、無駄にはしないとも!
  アスナは自己犠牲に散ったヴァイアスの叫びを背に浴びながら病室を飛び出したのだった。さらば戦友(とも)よ、と。
  数分後、出会った団員にヴァイアスの部屋からエロ本を移動するように指示を出しているアスナの姿があった。エロに対する執念は見事の一語に尽きると言えるだろう。

 ケルスからコルドンへと続く唯一の山道を一台の馬車と十数の騎兵が蒼白い光を纏いながら爆走していく。かれこれ三十分近くもの全力疾走に騎馬はもちろん騎手もまた無視できない疲労を抱え込んでいた。
  いかに軍事的に鍛え上げられた両者と言えどもこの状況では普段、つまり戦場で活躍するときよりもずっと多くの疲労と緊張を抱え込むのは仕方がないことだった。
  彼らが今、爆走している山道は急な勾配の変化や曲がり道が多い。一歩間違えれば、左右に自生する逞しい幹の巨木に衝突してしまうような状況なのだ。普通ならばこんな馬の運用の仕方はしない。そのことを承知の上でこの無謀な爆走を続けている理由。
  見る限り山道を埋め尽くした”彷徨う者”の群だ。
  ケルスを出立して半日が経ち、山道の中程にさしかかったときに木々の影や背の高い草に隠れていた”彷徨う者”に襲われたのだ。それが丁度、三十分前の出来事だ。
  馬車を引き返せるだけの幅のない山道だ。その上、”彷徨う者”が次々と襲いかかってくるようではそんな悠長なことはしていられない。
  サイナは馬車から身を乗り出し、”彷徨う者”の呻き声を切り裂くような良く通る声で配下の護衛部隊に命じた。
「このまま突っ切る! 騎兵第一、第二分隊はアスナ様の露払いを。第三、第四分隊は左右の防備を固めろ。歩兵第一分隊は馬車に貼り付けるだけ貼り付け。イクシス様も馬車から離れませんように。残りの者は全力でついてこい!」
  頷くイクシス。自分はアスナの騎馬だからと、彼もついてきたのだ。
  サイナの命に従って歩兵たちが次々に馬車にへばりついた。当然のようにアスナが、馬車の中にも乗せた方が良いんじゃないかと言ったがサイナによって却下された。
  今更、彼女も後継者の権威云々など言うつもりはない。アスナを守るためには馬車の中にいるよりも外にいた方がずっと対処できる幅が広がるからだ。
  馬車を中心に”彷徨う者”との戦いが始まっている。主に剣を振るっているのは歩兵部隊だ。騎兵部隊は近づく死人に対してのみ排除の行動に出ていた。
  各分隊長から準備完了との声が上がり、その彼らを率いる小隊長がサイナに準備完了の報告をした。
「よし。歩兵第一分隊、道を付けろ」
  サイナの号令以下、馬車に張り付いていた団員たちが一斉に聞き手を前方で蠢く”彷徨う者”に向けた。目標を遮るようにして戦う団員たちが退いた。
  団員たちの放った風の魔法で死人たちは切り刻まれ、吹き飛ばされ、爆ぜた。
  血路の文字に従うように山道は赤黒く染め上げられていく。
「騎兵部隊は鏃を展開しろ!」
  同時に騎兵部隊は自分たちの周囲に魔法力を展開を開始した。
  そしてサイナは馬車の背後に回った歩兵たちに顔を向け頷いた。彼らを統べる小隊長が力強く頷く。とサイナの脇からアスナが顔を出した。
「みんな、遅れないようにな」
「ご安心を。例え遅れても、一人も欠けることなく追い付いてみせます」
「約束だからな」
「はっ。確かに約束いたしました」
  小隊長の返事に団員たちも剣を振るいながら頷いた。
  アスナも頷き返すと、サイナを振り仰いだ。
「行こう、サイナさん!」
「はい。全力で突っ切るぞ。行けっ!」
  騎馬たちは嘶き、一斉に動き出した。
  出ることの許されなかった水が一気に解放されたかのような勢いで。
  そうなることを覚悟してしっかりと椅子に掴まっていたアスナだったが、それでも勢いを押さえきれずにそのまま座席の後方にある荷台にまで飛ばされそうになった。
「大丈夫かね」
  同乗しているロディマスが気遣わしげに声をかけたが、どちらかと言えば彼の方が大変そうに見える。医薬品その他が収められた鞄を抱えながら丸くなっているのだから。
「なんとか」
  と返事をする頃にはアスナを襲った勢いは流れていった。
  大変なのは外でしがみついている団員たちのほうだ。風圧を一身に受けながらどうにか耐えている。
  その彼らのさらに向こう、騎兵部隊が展開する鏃の外側にアスナは視線を向けた。
  人のものと思しき欠片や血液だけではなく、人の形そのものが壊されていく様もしっかりとアスナの目に入った。
  死してなお、晴らしたい無念を抱いて彷徨い続ける存在。
  ”彷徨う者”
  初めて見る動き回る死体にアスナは以前に感じていた哀れさは一切感じなかった。そこにあるのは生理的な恐怖と嫌悪のみだった。
  エルトナージュが”彷徨う者”を滅ぼそうと考える気持ちの一端が理解できたような気がした。
「・・・・・・怖いかね」
  他者を生かす医者であるロディマスも自分と同じような嫌悪を感じているのだろうかとアスナは思った。そう思わせるほどの無表情なのだ。
「みんなが守ってくれてるんだ。怖いはずないよ」
  が、アスナの身体は小さく震えていた。
  絶対の信頼と言えども生理的な嫌悪を完全に抑え付けることが今のアスナには出来ないのだ。そこまでの割り切りが出来ない。
「ただ、オレが魔王である間にヤツらを消し去ってやるって決めた」
  そしてリムルからの報告にあった人為という言葉。
  ・・・・・・こんなことしたヤツを絶対に許さない。
  五分が経った。だがいっこうに”彷徨う者”たちの群から脱することは出来ない。
  むしろ進めば進むほど数が増えているように思える。
「サイナさん、”彷徨う者”って一度にこんなに大量発生するものなの」
「いいえ。戦場ではあり得ないことではありませんが、この山道近辺で戦場に準じるような大量の死亡者を出した出来事は起きていません。なにより大将軍の生家近くでそのようなことが起きれば王城で務めている者が耳にしないはずありません」
「やっぱり、リムルの報告にあった人為的な”彷徨う者”か」
「間違いないかと」
「けど、なんだってこんなところに大量発生したんだろう。もしかしてオレを狙って?」
「ありえません。我々の動きに対応して”彷徨う者”を山道に配置することは現実問題として不可能です。アスナ様もご存じでしょう。大人数を動かすのには時間がかかることを」
  頷くアスナ。
  これでも近衛騎団総料理長だ。人を使うことの難しさはよく分かっている。
  指示の遅れや自分の混乱が即、味につながるのだ。これはあらゆる指揮に共通することかもしれない。指揮をしくじれば仕事が失敗する、大量の戦死者を出すのと変わりがない。
「仮に補給部隊からの報告、つまり指揮者の存在が事実だとしても、その指揮者が死者たちを容易に動かせるとは思えません。ましてやこれだけの数ともなれば」
  アスナは腕を組んで思案した。目的が自分でないのならば何だというのだろう。
  この一帯にいるラインボルトの重要人物と言えば自分と、もう一人だけ。
  自分の思考が的外れでないか、サイナの意見が聞きたくなった。
「連中の目的は、大将軍?」
「それしか考えられません。もっともこれだけの数を揃えても大将軍を討つことは不可能でしょう。大将軍は我々など足下に及ばないほどお強いですから」
「大将軍も人魔の規格外だっけ。実際に見たことがないからどれだけ強いのか知らないけど」
「大したことはない。ただの元気ジジイだよ」
「先生?」
「いや、なんでもない」
  いつになく歯切れの悪いロディマスにどうしたんだろうとアスナが口を開いたのと同時に切羽詰まった男の声がそれを遮った。
「参謀、小隊長以下後続の部隊と完全に切り離されてしまいました!」
  御者台に座る馬車に貼り付いている団員たちの分隊長が叫んだ。
「ご指示を願います!」
  間が出来る。合流を促すべきか否か。馬車を守る騎兵の一部を救援に回すか否か。
  そのどれにも利点があり、危険性もある。
  サイナの迷いに従うように馬車とそれを守る騎兵たちの動きも悪くなる。
  騎兵部隊も報告をした分隊長の報告を耳にし、実際に歩兵部隊が遅れ始めている様を見ていたのだから。彼らは命令が出次第、すぐに救援に駆けつけるように準備していたのだ。
  だがそこに隙が生まれた。突然、馬車が大きく跳ねた。
「うわぁっ!!」
  アスナの身体は予期せぬ大きな縦揺れのせいで前のめりに倒れ込んだ。
  倒れ込んだ先、対面の座席にはサイナが腰掛けている。アスナは勢いのまま彼女の胸に思いっきり顔を埋めていた。普段、上着や鎧を纏った姿ではそれと分からなかったが彼女の胸はかなり豊かだ。温かさと柔らかさにアスナは色んな意味で硬直した。
「お怪我はありませんか」
  ふっと彼女は向けられた相手を安心させる柔らかな微笑を見せた。
  アスナが護衛として彼女を信頼している理由がこれだった。任務に就いているときは鉄面皮とも思わせるほどに表情を表に出さず的確な仕事をこなす彼女だが、時折こうして、その内側にある暖かなものを垣間見せる。
「大丈夫。その、ゴメン」
「いえ、お気に・・・・・・」
  再び大きく揺れた。アスナがどうにかなる前にサイナはアスナを再び自分の胸に埋めた。
  恥ずかしさが先に立ちすぎて、役得感が全くない。
「何事だ!」
「すいません。前衛の隙をついて死人が馬車に飛び込んできました」
「馬車の損害は。誰も脱落していないな!」
「大丈夫です。後続の小隊はどうなさいますか!」
「・・・・・・左右の一個分隊から」
「ダメだ! このまま全力で行こう」
「アスナ様!?」
  サイナは自分の胸に抱いたアスナを見た。赤面したままアスナは言葉を続けた。
「今、どっちつかずなことしても悪い結果しか出ないと思う。だったらお荷物のオレを安全圏まで運んでもらった後で救援に行ってくれ」
「・・・・・・・・・・・・」
「大丈夫。一人の脱落者も出さずに追い付くって約束したのサイナさんも聞いてただろ。それにオレの知ってる近衛騎団がこれぐらいでやられるはずがない」
  反対される隙を与えないようにアスナは早口でたたみかけた。
「アスナ様のご信頼に我々はもちろん、後続の彼らも応えてみせます」
  そして御者の方に振り仰いだ。
「聞いたな。アスナ様を安全圏までお連れした後、反転し、歩兵部隊の救援に向かう。主の信頼に全力で応えてみせるぞ」
『応!!』
  馬車にへばりついていた団員たちが応え、それより僅かに遅れて騎兵部隊からも応えが返ってきた。
「お聞きになったとおり我らはアスナ様が望まれる結果を捧げます」
「うん、頼りにしてる。・・・・・・それはそうと、そろそろ離して!?」
  再び大きく馬車が揺れた。今のアスナとサイナはほとんど抱き合っているような状態だ。
  男として少し情けなく感じるが、それ以上に嬉し恥ずかしな気分である。
「しばらくはこうしていた方がよろしいでしょう。お嫌でしょうか?」
「い、いろんな意味で嬉しいけど。その、サイナさんは嫌じゃないの」
「・・・・・・感無量、といったところでしょうか」
「・・・・・・えっ?」
「武人としてこの胸を持て余していたのですが、こうして主のお役に立ちましたから。その、大きな胸も悪くはないと思いまして」
  僅かに頬を染めながらサイナは言った。対してアスナは限界まで赤くなっている。
  そんなアスナに彼女は小さく笑った。恥ずかしさが先に立ってアスナは何も言えない。
「それに彼女たちが言っていた、アスナ様は可愛いの意味もよく分かりましたから」
  彼女たち、とは恐らくアスナの礼服の着付けや礼儀作法を教えている司令部要員たちのことだろう。ひょっとしたらミュリカも含まれているかも知れない。
  はからずも馬車の外から覗き見してしまった団員たちのやっかみの篭もった視線などを一身に浴びつつもアスナはやはり何も言えなかった。
  まさに撃沈。思考停止状態である。
  その二人を横目に恨みがましい視線を送る人物があった。
「小僧を心配するのは分かるが。もう少し私のことも気にしてくれないものかね」
  たんこぶ、打ち身と先ほどからの揺れで酷い目にあっているロディマスだった。
「先生がご無事なのは一目見れば十分に分かることですから」
「冷たいなぁ」
  などとやり取りがありつつも”彷徨う者”に襲われてから三十分が過ぎ、幾度目かの曲がり道を曲がったその時、不意に御者から声がかけられた。
「すぐに伏せて下さい!!」
「えっ!?」
  サイナに抱きかかえられたままだったアスナはそのまま床に押し付けられた。サイナはアスナと一緒にロディマスも引っ張って馬車の床に伏せさせた。
  瞬間、これまでにない大きな揺れが襲った。馬たちが嘶く声も聞こえた。
  ある程度、揺れが収まったところでサイナは身を起こし、御者に声をかけた。
「何があった!」
  返事は返ってこない。サイナが周りを見てみれば貼り付いていた団員たちが一人もいなくなっている。彼女はアスナの無事を確認するとすぐに外に飛び出した。
「サイナさん!」
  アスナもそれに続く。
「!? ・・・・・・これって」
  飛び出した彼の目に飛び込んできたのは急停止した馬車に振り落とされた団員たちと、同様にして落馬した騎兵や倒れた馬たち。そして周囲には”彷徨う者”が犇(ひし)めいている。
  なによりアスナの目を引いたのは自分たちの行く先、曲がり道を抜けた先に横転した馬車だった。この急停止の原因はこれだった。
  アスナは倒れた馬車を目にした瞬間、条件反射的に叫んでいた。
「歩兵第一分隊は馬車周辺の”彷徨う者”を排除、騎兵第一、第二は横転した馬車に生存者がいないか確認。いればこっちに連れてこい! 第三、第四は騎馬たちを守れ! イクシスさんもそれを手伝って」
  呻き声に近いが確かな承諾の声が聞こえる。イクシスの嘶きに応えて倒れていた騎馬たちが立ち上がり、馬車近くに集まってくる。
  馬に変身しただけあって彼は動物と簡単な意思の疎通が可能なのだ。
  最後の指示をとアスナが馬車に振り向いた。
「先生は・・・・・・」
「分かっている。負傷者がいればすぐに連れてこい!」
「うん。みんな、早く!」
  後継者直々の命令に団員たちは一斉に命じられた通りに動き始めた。
「ごめん、勝手に口出しして」
  と横で抜剣した体勢のサイナにアスナは顔を向けた。彼女は鋭い視線を放ちながら首を横に振った。
「いえ、私も同じことを指示するつもりでしたから。それよりも」
「うん。これからどうするか。サイナさん、何か良い考えない?」
「まずあの横転した馬車を排除しないことには話しになりません」
「魔法で吹き飛ばすことはできない? エルニスの時みたいに」
  あのときも大通りを塞ぐバリケードを魔法で吹き飛ばしたのだ。
「不可能ではありませんが、あのとき使用したのは爆炎系の魔法です。間違いなく回りの木々に引火することになります。他の魔法でも同じです。風系では吹き飛ばすことは出来ませんし、土系もそうです。水系は私の得意とするところですが、周囲に水がないことにはどうすることもできません」
「今のところ打つ手なしか」
  悔しげに俯いたアスナの目に自分の腰に提げた剣が映った。
  ガルディス。
  出発前に自分の代わりに連れて行けと、ヴァイアスから預かった魔剣だ。
  流れを断つこの魔剣ならば馬車を切り裂けるのではないか。
「ガルディスならどうにかなるんじゃない」
「確かにガルディスなら切り裂けるはずです。ですが、アスナ様のお力ではあの馬車を切り裂くことは不可能です」
「オレじゃなくて、サイナさんが。確か司令部要員のなかで一番強いんだよな」
「お忘れですか。ガルディスは魔剣、それも自ら力を発するほどの。それほどの力を持っているがために剣は主を選びます。今、ガルディスの力を使えるのは魔剣の主である団長と、その団長の主であるアスナ様だけです」
「それじゃ、ホントに打つ手なし」
  と、救助に向かった団員たちが負傷者を運んできた。
「先生、お願いします」
「そこにそっと寝かせろ」
  指示に従って団員はサイナが腰掛けていたソファーに負傷者を寝かせた。
  ロディマスはすぐに容態をみると適切な処置を施していった。
「それで状況は」
「はい。彼を含めて五名の生存者を発見しました。うち二名が荷物の下敷きになっていますがすぐに脱出できるはずです」
「他には」
「残念ながら」
  団員は多く語らないが、馬車そのものに下敷きになったり”彷徨う者”に殺されたのだろう。”彷徨う者”のものとは違う、鮮烈な臭いがアスナのいる場所まで漂ってきている。
「あの馬車を排除することは可能だと思うか?」
「私の見た限りでは不可能です。人手と時間があれば起こして、脇に寄せることは可能でしょう。ですが、あの大きさでは脇に寄せた状態でもこの馬車を通すことは不可能です」
「それじゃ、また鏃を組んで突っ切れないかな。馬車は無理でも馬だけなら通れるんじゃ」
  アスナが口を挟んだのと、ほぼ同時に第三分隊の分隊長が駆け寄ってきた。
「参謀、小隊騎馬二十頭中、骨折などの負傷により歩くこともままなりません。処理しますか」
  戦場を駆ける軍馬は育成するのに多額の費用がかかる。特に近衛騎団や魔軍の使用する軍馬には魔導処理をも加えられているため、さらに費用がかさむ。
  一頭作るのに、新兵で構成された一個小隊を鍛え上げるよりも費用はかかる。
  それだけに無断で軍馬を処理することは許されない。処理には小隊長以上の直属上官の許可が必要になるのだ。
「騎馬の回復までどれくらいかかる見込みだ」
  魔導処理と言っても対魔法処理だけではなく、傷や体力の回復を促す処理も含まれている。過酷な状況でも生き延びられるように作られているのだ。
「最大で二十分弱です」
  微妙な時間だ。十分ほどならば絶対に回復を待った方が得策だ。三十分ならば団員の身の安全を最優先にすべきだ。では二十分ならば。
  冷徹に損得で命をはかるサイナの思考を妨げるように報告が上がった。
「このままでは駄目です。手透きの者を回して下さい!」
  ”彷徨う者”の一体一体は比較にならないほど弱い。だが数で攻められると対処しきれなくなる。ましてや山林火災を恐れて、最も威力の大きい爆炎系魔法を使用できないのが一番痛い。切り捨てられた死骸が少しずつ足場を奪っていった。再び殺されたことで彼らが得たのは安寧ではなく、二度も殺されたことへの怨嗟なのかもしれない。
「負傷者の救助が終わり次第、戦闘に加わらせる。それまでもたせろ!」
「了解いたしました!」
  戦況は良くない。兵力差では善戦している。
  歩兵一個小隊に満たない兵力で怪我人の収容と騎馬たちの保護、そして四方を埋める死人に対処しているのだから。
  だがいつまでも保たせることは出来ないのは明らかだ。
  遅れている歩兵小隊が合流すれば対処の幅は広がるが、それも望み薄だ。
  サイナは蒼い顔をしながらも決して目を背けないアスナに顔を向けた。
「アスナ様・・・・・・」
「気持ちは嬉しいけど。それは却下だ」
  こんな状況でもサイナの雰囲気の変化を察したのだろうアスナは機先を制した。
「ここでみんなを見捨てて、オレだけ逃げろって言うつもりだろ。それは却下だ」
  サイナが口を挟む隙を与えないように早口でたたみかける。
「こう言うとき自分だけ逃げ出すようなヤツが騎団の主を名乗って良いわけがない。それに逃げてどうしろって言うんだよ。大将軍に助けを求めろっていうんじゃないだろうな。それこそまさかだ。今、幻想界でオレが全部を預けても安心できるのは近衛騎団だけだ」
「アスナ様もご存じのはずです。我々にとって最大の屈辱は主を殺されることだと」
「ふざけるな! オレはこうして生きてる。死んだときのことなんか考えるな。今はみんなで生き残ることだけを考えろ! それがお前の仕事だ、サイナ」
  アスナの叱咤はサイナに向けてだけでは留まらない。彼は周囲で命令に従う団員たちを見た。
「お前たちもだ。逃がすことじゃなく、みんなで生き延びることだけを考えろ! みんなが、オレが殺されることを屈辱だって言うのと同じように、オレもみんなが殺されるのは辛い。・・・・・・近衛騎団の主として命じる!」
  アスナは思いっきり大きく息を吸い込んだ。
「オレに断りなく勝手に死ぬな!!」
  一拍の間の後、まるで示し合わせたかのように返事が返ってきた。
『了解致しました』と。
  襲いかかろうとする死を切り伏せるかのような返事を受けつつ、アスナは一人応答を返さないサイナを見た。
「サイナさん、返事は?」
  アスナの促しに彼女は静かに跪き、手にした剣を捧げた。
「我が名はサイナ。今、ここに我が剣を捧げ、忠誠の証とする」
  忠誠の儀。それが彼女の返答だった。
  アスナは捧げられた剣を受け取り、右手で持ち直すとそのまま彼女に差し出した。
「許す。我が剣として決して折れることなく敵を倒せ」
「はっ。我が力の全てを主のために用いることをここに誓います」
  アスナは力強く頷いた。
「よしっ。どんなに無様な格好になっても全力で生き残るぞ! それがオレたちの新しい誇りだ!」
『応っ!!』
  返ってきたのは団員たちの声だけではない。もう一つ他を圧するかのような良く通る男の声が響いた。
「見事なり!」
  突然の賞賛の声に付き従うように死を切り伏せる声が山林に響いた。
  そして姿を現したのは完全武装の、近衛騎団と遜色のない装備を纏った兵たちだった。
  芸術の域にまで統率された兵たちは次々と”彷徨う者”を蹂躙し、こちらに向かってきている。その兵たちの中央、馬車を迂回して一人の老兵が姿を現した。
  アスナを守るために剣を構えたサイナが大きく目を見開いた。
「臣下に対する気概を見せてもらいましたぞ。後継者殿下」
「・・・・・・貴方は」
「失礼いたしました」
  下馬すると老兵はアスナに向けて最敬礼をし、名乗りを上げた。
「ラインボルト大将軍ゲームニス」と。

 ラインボルト南部の要衝、ムシュウの衛星都市ケルスから馬で一日の場所にコルドンと呼ばれる山村がある。モルティア山系の山間にあるこの村には特に人々の耳目を集めるようなものはない。
  主要な産業を収益の大きな順から並べると農業、林業、養蚕業の順番になる。
  本当にラインボルトでも有り触れた村だ。ただ山に囲まれた立地条件から嵐などの荒天が続くとすぐに近隣の町村から隔絶されてしまい、外から資本が入ってこないのが現状だ。
  そのコルドンに数年前、良く整備された大きな山道が作られた。とあるコルドン出身者が私費を投じて整備されたその山道はコルドン山道と名付けられ、その道のおかげで近隣経済の中心地であるケルスとの往来がずっと楽になり、これまでのように荒天で隔絶されることもなく、新たな市場の開拓を模索していた商人たちによって、極小規模でしかなかったコルドンの林業、養蚕業が急成長を続けている。
  コルドンの人々は道路建設に私費を投じた人物への感謝とほんの少しの揶揄を込めて、山道のことをこういう俗称で呼んでいた。
  将軍街道、と。
  だがその生まれたばかりの山道は今、未曾有の事態となっていた。
  広い道幅だけでは収まりきれずに道を左右から覆おうとする山林の合間を縫って、それらは移動を続ける。
  低い怨嗟の呻きと死臭を纏う死の行軍。”彷徨う者”の大軍だ。
  もし上空からこの光景を見ることが出来る者がいれば、このように評したかも知れない。
  死が蠢いている、と。
  その死の奔流のなかに一点だけ、ぽつんと空白地があった。生まれた空白地を嫌うかのように死は押し潰そうとするが消し去ることはない。
  突然、死に抗う声が山道に響き、”彷徨う者”の大軍を切り裂き始めた。
  声は空白地に引き寄せられるかのように動き、やがて合流した。

 生と死の交差点のような空白地にいたアスナはそこで一人の老兵と出会った。
  この将軍街道の名の由来となった人物、ラインボルト大将軍ゲームニスを名乗る人物と。
  アスナに向けて最敬礼をする様は洗練されており、見事の一語に尽きる。
  年齢は六十を超えるか、超えないかぐらいだろうか。その体躯は年齢を感じさせず全く衰えを見せない。巨体と呼ぶほど背は高くないが、頼もしさを感じる体躯を使い古された傷だらけの鎧が包み込んでいる。
  鎧装束の上からも実年齢に相応しい脂肪の多さは感じるが、それは筋肉と言う無骨な鎧を覆うマントのようにアスナには見えた。
  時の洗礼を受けた顔には威厳を示すような髭、意志の強さを示す瞳。
  そして自信と責任を纏うかのような雰囲気。
  初老の持つ全ての要素がアスナのイメージする将軍そのものであった。
  王城で顔を合わせた将軍や副将たちは全く立ち位置が違う。
  一言で言い表すのならば、格が違う。
  アスナは確証を得たくて側に控えるサイナに視線を投げかけた。彼女は頷きをもって返した。
  この初老は間違いなく大将軍ゲームニスだと。
「助けていただきありがとうございます、大将軍」
  一歩、前に出るとアスナもゲームニスに対して最敬礼をした。
  風格という点ではゲームニスに劣るものの出陣以来、何度も繰り返し練習してきただけあって姿勢は美しい。顔を上げるとアスナも自己紹介をした。
「後継者、坂上アスナです」
「ご丁寧に痛み入ります。ですがお気になさらぬように。私どもは殿下をお助けに参ったのではなく、彼らを助けに来たのですから」
  と言うゲームニスの視線の先にはアスナの乗ってきた馬車に運び込まれた者たちがいる。
  馬車の大きさに比べて馬の遺体の数が合わなかった理由はここにあったのだろう。
「それでも助けていただいたことには変わりありません。ありがとうございました」
「いえ」
  患者たちから視線を戻したゲームニスの表情が幾分ぎこちなくなったようにアスナには感じた。
  周囲での”彷徨う者”との戦いは駆けつけた第一魔軍の者たちによって展開してしまっていた。
  近衛騎団の団員たちは幾分、面白くない顔をしているが、安堵の表情も確かに混じっている。と、そこへイクシスが歩み寄ってきた。
「アスナ殿」
  かけた声に反応したのはアスナよりもゲームニスの方が早かった。
「久しいな、イクシス。半年以上になるか」
  頷き、笑むイクシス。出陣以来、ほとんど毎日顔を合わせているが未だに馬の笑顔に馴れないアスナである。
「お前さんが故郷に引きこもって以来だから、それぐらいになるかの」
  親しげに挨拶を交わす二人の顔を交互に見やりながら、
「二人とも知り合いだったんですか」
「戦友、ということになります」
「そこのロディマスもそうだの」
  視線をロディマスに移すと彼はどことなく歯切れ悪く頷いた。
  言われてアスナは思い出した。イクシスが馬になったのは敵に囲まれたゲームニスを助けるためだったことを。しかし、そこでふと疑問も沸いた。
「そう言えば大将軍も人魔の規格外なんですよね。敵に囲まれたからってどうってことないんじゃないんですか?」
「若気の至りと言ったところでしょうか。調子に乗って戦場で暴れておりましたら、力を使い果たしてしまったのです」
  苦笑するゲームニス。そして申し訳なさげにイクシスを見た。
「イクシスには本当に取り返しのつかないことをさせてしまった」
「なに、こうしてアスナ殿を助ける遠因とったのだから良しとしておこう」
  ゲームニスがそれ以上、なにか言わないようにイクシスはアスナに本題を振った。
「それよりも後続の者たちに迎えを出してやってはどうかね? ここはもう安全圏だと思って間違いないと思うが」
  イクシスの意見にもっともだと頷くとアスナはサイナに顔を向けた。
「動ける人全員で迎えに行ってやって」
「了解しました」
  敬礼をするとサイナはすぐに救援部隊の編成に向かった。
「迎えとは、まさか兵をお見捨てになられたのではありますまいな」
  その様を横目で見つつゲームニスがどことなく感情を排した声音で聞いてきた。
  アスナは振り向きゲームニスと視線をかち合わせた。
  ゲームニスの視線は酷く強い。大将軍だからではない。一人の誇りある統率者としての視線がアスナを射抜こうとしていた。アスナはそれを真っ正面から受け止め言った。
  射竦められないように、腹の下に精一杯のやせ我慢をかき集めながら。
「助けてもらった人にこんなこと言いたくありませんが」
  アスナの目が細められる。それにともない視線も強くなる。
「お荷物のオレはどう言われても良いけど。近衛騎団を馬鹿にするのはやめていただきたい、大将軍」
  そして身体ごと向き直る。
「約束したんだ。遅れても全員で無事に合流するって」
「殿下を先行させるために虚偽を申し上げたとは考えないのですか?」
「それではこちらからも聞かせてください。大将軍はなぜ生死を分ける戦場で兵を指揮することが出来るのですか」
  ゲームニスは答えない。ただ真っ直ぐにアスナを見ている。先の答えを待つ老将軍にアスナはまず自分の答えを聞かせた。これまでの日々で築き上げた答えを。
「命がけで信頼している。それにこれまでみんながオレとの約束を破ったことはない。これがオレの答えです」
  騒いだり、我が儘言ったり、怒られたり、殺されかけたりもした。
  それでもアスナはこうして生きている。それはすべて近衛騎団のおかげだ。
  何もできない主に出来ることはなにか。その答えをアスナはいろいろと考えた末に辿り着いた。
  何もできない自分に出来る唯一のこと。それが信じることだ。
  アスナの答えを受け止めたゲームニスは視線を緩める。
「後継者だと言うことだけで近衛騎団が動いていたわけではないということか」
  呟き、ゲームニスは改めてアスナに最敬礼をした。
「先ほどまでのご無礼、お許し下さい。殿下は将として資質をお持ちのようです」
  さきほどまでの強硬な態度から一変して、ゲームニスは好意的な視線を投げかけてきた。
  この変わり様にアスナは戸惑うしかない。そんな彼にイクシスが助け船を出した。
「済まないの、アスナ殿。ゲームニスは偏屈だからの。こんな形でしか人を試せんのだよ」
「試すって。・・・・・・ホントに偏屈」
  ぼそっと呟いたつもりだったがゲームニスには聞こえたようだ。貼り付けていた苦笑がアスナの呟きで決壊したかのように彼は大声で笑った。
  確かにゲームニスの側は安全圏そのものだ。
  彼に率いられた第一魔軍の将兵たちは戦いを繰り広げていた。
  守りを固めていた近衛騎団に合流した彼らはそのまま”彷徨う者”たちに浸透し、ある程度進むと自分たちを壁として死者たちの侵攻を受け止め、その間にそれ以外の者たちが壁の内側に切り離した死者たちを次々に屠っていくのだ。そのために彼らが用いたのは手にした得物だけではない。彼らは近衛騎団の団員たちが使うことをためらった爆炎系の魔法も使用していた。
  その破壊力に次々に死者たちは処理されて行くが当然のように周囲の木々にも引火する。が、すぐに氷結系の魔法で鎮火されていった。まさに人海戦術のなせる技だ。
  彼らが戦っている間、第一魔軍を統率すべきゲームニスはさきほどからアスナと会話を交わしており一言も指示を出していない。
  彼は出陣前に大まかな作戦を指示したのみで、後はこうして戦いの中央で見守るのみ。
  兵たちはゲームニスの直接指示がなくとも己の役割を果たすべく戦い続けている。
  一部、乱戦となり指揮系統が寸断された箇所もあったが、彼らは幾多の訓練と実戦により、どう戦えば良いのか知っていた。自分の所属部隊でなくとも近場にいる指揮官のもとに集まり、その指揮に従い奮戦した。
  指揮官もまたそうだ。戦場を駆けめぐり活用されていない戦力を適所に投入した。
  その彼らの戦いぶりに口を挟むことなくゲームニスは見守っている。
  将としての命令を下したら後は部下を信じて揺るぎない自信を示し続けるのみ。
  良い将軍の資質とは用兵の上手さでも、戦術眼でもない。
  それはこの戦いは決して間違った行いではないと兵たちに信じ込ませることだ。
  武器を手に戦う者にとってはそれで十分なのだ。いやそれこそを兵たちは欲しているのだから。
「アスナ様、編成完了しました」
  サイナと騎兵部隊の小隊長は揃って敬礼をした。その二人にアスナは頷き返す。
「オレはここで待ってるから。風邪ひく前に戻ってきてよ」
「先生に叱られたら大変ですからな。すぐに後続の部隊を連れて参ります」
「うん。お願い」
  小隊長は敬礼をするとすぐに駆け出していった。
「ここには騎兵第三、第四分隊を残しました。騎馬の面倒とアスナ様の護衛には十分かと思います」
「サイナさんも?」
「はい。私もアスナ様の護衛に残らせていただきます」
  編成された出迎えの部隊が駆けていく。
  どの顔にも疲れが見えるが、表情そのものにはしっかりとした使命感を見せている。
  その彼らの動きに合わせるようにゲームニスは姿勢を正して、改めて最敬礼をした。
「大将軍?」
「これより指揮に戻らせていただきます。この者らに案内させますので・・・・・・」
  ゲームニスの側にいた部隊の指揮官らしき男がアスナに向けて最敬礼をした。
「殿下は後続の団員らと合流され次第、コルドンの我が拙宅でお待ち下さい。お話はそこで伺わせていただきます」
「それじゃ・・・・・・」
  時間が全然足りなくなる。すぐにでも話を付けなければ、近衛騎団の本隊はケルスを出発してしまう。が、アスナはそれ以上、口にすることは出来なかった。
  今度こそ完全にゲームニスの視線に射竦められてしまっていた。
「今はあの哀れな者どもを葬ってやるのが先決だと判断しますが」
「そう、ですね」
「では、失礼いたします」
  敬礼をし、自らの騎馬に乗るともはやアスナに一瞥もくれずに駆け出していった。
  二人のやりとりを黙って聞いていたサイナはゲームニスを見送るとアスナに耳打ちをした。
「よろしかったのですか? 我々にはあまり時間がないのですが」
「大将軍の言ったことは正論だから。それにあれだけの”彷徨う者”をそのままにしてたら話も出来ないだろ」
「それはそうですが、時間の方はどうなさいますか」
「この際、ケルスで合流することを諦めて、直接、ムシュウに向かって合流しよう。確かムシュウ方面にいける道もあったよな」
「一応、ありますがかなりの悪路だと聞いています。アスナ様のお体に大きな負担をおかけになると思うのですが」
「そうか。それもあったっけ」
  傷は順調に回復しており痛みも薬で散らしているのであまり感じない。それに加えてこの”彷徨う者”の一件の対処で自分の身体のことが頭の隅に追いやられていた。
  限られた時間をどうするかもだが、考えようによってはアスナの傷が広がることの方が不安だ。場所が場所なだけに大事になるのは確実だ。そして傷が広がったら当然、交渉もなにも出来なくなる。
「先生の意見は?」
  消毒液の臭いで充満した馬車の中、横たわる負傷者の右腕に包帯を巻いてやりながらロディマスは自分の意見を言った。
「医者としては当然、反対だ。だが、聞くつもりはないんだろう?」
「うん。出来ることなら無茶をしても傷が開かないようにしてほしいんだ」
「・・・・・・傷口の周りを包帯できつく締めれば少しはマシになるだろう。気休め程度だがね。あとはイクシス、お前さんが小僧に負担をかけないように気を付けるしかないな。元は人魔だ。そこらの馬よりも気配りができるだろう」
「ここまで馬となったことが幸いを呼ぶとは思わなかったの」
  イクシスの笑えない冗談にどう返して良いのか戸惑う一同を救い出すように第一魔軍の士官が口を挟んだ。
「殿下。近衛騎団が合流する前にあの馬車を起こしておいた方が良いと思いますが」
  渡りに舟である。アスナはすぐに飛び乗った。
「あぁ、うん。そうですね。けど、起こして隅にやってもこっちの馬車が通れないと言う報告を受けているんですが」
  さすがに普段、接している騎団とは違うのでアスナも敬語である。
「さきほど我々で馬車を調べてみたところ、車軸に幾つか小さな亀裂が走っていましたがしっかりと補強をすれば高速度でなければ十分にコルドンまで走らせることは可能です」
「そうですか。けど、補強するにも資材が・・・・・・」
「周囲の木々から適切な太さの枝を手に入れれば問題ないかと。また必要なロープは我々が携行しております」
「そう。・・・・・・えっと」
  直立で何かを待つようにしている士官にアスナは強い戸惑いを憶えた。
  恐らくアスナの命令を待っているのだろうが、騎団のそれとは全く異なる。
「それじゃ、お願いします」
「はっ。すぐに取りかかります」
  士官は最敬礼をすると、すでに馬車の荷物を取り出す準備をしていた兵たちの元に戻っていった。士官の指揮の元、本格的に兵たちが動き出した。
  その光景を見ながらアスナは、はぁ〜と大きく息を吐いた。
「・・・・・・緊張した」
  なぜかアスナの周りに沈黙が降りてきた。
  耳に聞こえるのは遠くの戦いの声と、近くの馬車を起こそうとする作業の音のみ。
  ふとアスナが空を見上げると晴れ渡った紅い空があり、いつのまにか鳥たちも戻ってきている。さきほどまで死地に立っていたことが嘘のようだ。
  ・・・・・・再び眠りに就いた者たちの死臭さえなければだが。
「・・・・・・ぶっ」
  誰かが吹き出した。
  なんだ? とアスナが疑問に思うよりも早く団員たちは爆笑した。ずっと堪えていたのか数名の−−と言ってもほとんどだが−−団員は道上で笑い転げていた。
  中にはひきつけを起こしたように笑っており時折、「死ぬ、死ぬ」なんて言いながらも笑い続けていた。
「なんなんだよ、いきなり」
  最年長者のイクシス、ロディマスの二人はアスナから顔を背け、声にこそ出していないが身体全体で笑っている。笑うことから最もかけ離れていそうなサイナまでもが涙を浮かべて笑っている。
「サイナさんまで!」
「も、申し訳ありません。その、あまりにもアスナ様らしからぬお言葉でしたので」
  どうにかそれだけを言い終わると彼女は再び爆笑の渦に戻っていってしまった。
  そこでようやく彼らがなにを笑っているのかに気付いた。顔が赤い。
「良いだろ、緊張したって。あんなキビキビした人に会ったのは始めてなんだから」
「アスナ様はご存知ないと思いますが、私たち近衛騎団はアスナ様のことを”我らが主は傍若無人且つ、緊張とは無縁である”と評しているもので」
「なんだよ、それ〜!!」
  アスナの抗議の声が山道に響いた。それが呼び水となって再び団員たちの間に爆笑が沸き上がった。憮然とした表情ながらもアスナはどこか笑みを浮かべていた。
  彼らの笑いの中心に自分がいるのはとても心地が良い、と。

 そんなアスナたちを奇妙なものを見る視線で第一魔軍の兵は見ていた。
  後継者をネタに笑い転げる団員たちと、その彼らを咎めようとしない後継者を。
  彼らの知る魔王と近衛騎団の関係は文字通りの主従関係があるのみ。
  厳格と言うよりも冷徹。そんな言葉が適切な関係のはずがこれである。
  何が近衛騎団を変えたのか。原因が何であるかを見つけるのにさほど時間はかからなかった。
  笑い転げる団員の中で、いつのまに笑みを浮かべている少年。
  そう。アスナが近衛騎団を変えたのだ。
  それから約二時間後、出迎えに向かった団員たちは後続の部隊とともにアスナと合流を果たした。
  誰も彼もが全身を酷い汚れで覆われ、死臭を染みつかせている。
  嘔吐を催すような臭いだが、もう鼻がバカになっていてそれほど気にならない。何よりアスナも臭いだけなら同じだ。
  後続の団員たちは小隊長を先頭に整列をし、アスナに向けて最敬礼をした。
  ただ一人も欠けてはいない。遅れた皆がそこに整列していた。だがアスナは合流を詫びる小隊長に敢えてこう尋ねた。
「約束、守った?」
  まるでその言葉を待っていたかのように団員たちは謹厳とも言える表情を笑みに変えた。
  それも、子どものような満面の笑みを。
「はい。アスナ様とのお約束、確かに守りました」
  そういう彼らは、いやアスナを含め近衛騎団全員が誇らしげな笑みを浮かべていた。
  合流を果たした団員たちに簡単な傷の治療を施した後、アスナたちは第一魔軍の兵たちに伴われてコルドンへと向かった。
  倒れていた馬車の外装は”彷徨う者”によって至る所に穴が開けられていたが最低限、入れ物としての機能だけは残していた。懸念された車軸の方も兵たちの手際が良かったのか問題がないようだ。
  救助された者たちの傷は軽くはないものの命に別状はないとのことだった。だが動かすのは好ましくないと言うロディマスの判断から、今まで乗っていた馬車には怪我人たちを、補強された馬車にはアスナとサイナが乗ることになった。
  出発の準備を終えたアスナたちは第一魔軍の兵たちの先導でコルドンへと向かった。
「・・・・・・・・・・・・」
  壊れた馬車の窓から顔を出したアスナは後方を見た。
  そこには放置された遺体があるのみ。遠く聞こえていた戦陣の声はもう聞こえない。




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