第一章
第九話 死の群 後編
大将軍ゲームニスの出生地、コルドン。
山間にある貧しい村だと聞いていたが実際にこうして目にしてみると、貧村という印象はアスナにはない。確かに村の規模自体は小さく、古い家々が目立つ。
だがそれらに混じって新しく綺麗な家や施設もいくつか見受けられる。
これから伸びようとする雰囲気をアスナは感じた。
第一魔軍に先導されて到着したアスナたちをまず初めに出迎えたのはそういった家々ではなく村人たちの好奇の視線だった。
表情に疲れを見せつつも決して威厳を失わないその姿を見せながらゲームニスの館へ向かう近衛騎団はやはり注目を浴びてしまう。
全身に浴びた酷い汚れや死臭はもちろんだが、彼らが注目したのは村に助けを求めた横転した馬車の御者の一人がもたらした、信じられない数の”彷徨う者”の話が本当であったということだ。今の近衛騎団は文字通りの生き証人だった。
村の中程で負傷者を乗せた馬車と分かれ、アスナを乗せた馬車は村外れに立てられた大きな屋敷に向かった。
門と館をつなぐ小道を挟むように手入れの行き届いた芝生があり、要所要所にそれほど背の高くない木が植えられている。派手さはないがとても落ち着いた前庭だ。
暖かな昼下がりに昼寝なんかしたら最高だろう。
窓の外の光景に感嘆の声を上げ続けるアスナをサイナは微笑しながら見ていた。
やがて馬車が静止した。サイナに続いてアスナが下車したのとほぼ同時に初老の実直そうな細身の男が館から現れた。メイド服に身を包んだ女性二人もだ。
初老の白のシャツに黒のベストにトルーザーで身を包んだその姿、いや雰囲気にアスナは見覚えがあった。
「ストラトさんみたい」
王城エグゼリスで目覚めたアスナにいろいろと親身になってくれた初老の執事をアスナは思い出していた。供に過ごした時間はとても短いが、それでもアスナはストラトのことを近衛騎団と同じぐらい信頼していた。
館から現れたその紳士はアスナの前まで来ると右掌を胸に当て頭を下げた。武官が右拳を胸に当てるのに対して、それは文官や市井の者たちの礼だ。
サイナと同じようにアスナの左に控えた第一魔軍の士官が初老の男を紹介した。
「殿下。大将軍付きの家令であられるブルーバリ殿です」
「後継者殿下のご来駕、恐悦至極に存じます。大将軍閣下のお世話をさせていただいておりますブルーバリと申します」
なんで自分が後継者だと分かったのかとアスナは疑問に思った。
が、大将軍付きの人ならば団員たちの纏う軍装が近衛騎団のものだと分かるのだろう。その騎団が守る人物は魔王、もしくは後継者しかいない。恐らくこの初老の紳士はそこからアスナが後継者だと判断したのだろう。
それよりもアスナが引っかかった言葉は、
「家令って?」
ということだった。その疑問にサイナはアスナだけに聞こえるほどの声で呟いた。
「家令というのは有力者の邸宅を管理する者たちのことです。ラインボルトにおいてはストラト殿が管理する家令院から重臣宅に派遣される執事のことを指します」
「なるほど、そういうことか」
以前、LDが言っていた。
エルトナージュが当時の宰相補佐であったデミアスを失脚させるのにストラトが手を貸した、と。
恐らく重臣宅に派遣されていた家令たちが有益な情報をもたらしたのだろう。
「すぐに湯殿の準備を致します。湯浴みをされて疲れをお取り下さい」
我慢ならない臭いを落とせということを疲れと表現する。やはり執事の言うことは違う。
はっきり言って今の近衛騎団ならばこんな気を使った物言いはしない。
彼らならば絶対にこういう言い方をするはずだ。
アスナ様、臭いです。はやくお風呂に入って下さい、と。
どっちが今の自分にとって適切な対応なのだろうかと思わず遠い目をしてしまうアスナ。
団員たちは村の公衆浴場で疲れをとっていただきたいと話すブルーバリが心ここにあらずな表情をとるアスナに気遣わしげな視線を向けた。
「殿下、お加減がよろしくないのでしょうか」
「あ、いやそうじゃなくてですね。その申し出はありがたいのですが、ちょっと怪我をしているので入浴は医者に止められているんです」
傷が塞がったと言ってもまだ一応の段階だ。それに身体の火傷のこともある。
暖かな湯に浸かるのはまだやめておいた方が良い状態だ。
「そうでしたか。・・・・・・ですが」
それでもやっぱり臭いものは臭いのである。
どうするべきかと沈思するブルーバリに手を差し伸べるのようにサイナが口を開いた。
「では清潔なタオルとぬるま湯を用意していただきたい。アスナ様のお身体は私が清めます」
「い、いいよ。そんなの一人でも出来るから!」
年上とは言え女の子にそんなことをしてもらうのは、むやみやたらと恥ずかしい。
が、サイナは全く意に介さないように、
「お言葉ですが、アスナ様お一人で包帯を巻けるとは思えないのですが」
「それは、そうだけど」
「そう言うことです」
そう言って初老の家令に彼女は向き直る。
「ブルーバリ殿、すぐに用意していただきたい」
「承知いたしました。それでは殿下・・・・・・」
「うん。・・・・・・っと、その前にサイナさん。オレのことは後にして先に風呂に行ってきたら?」
「剣をとって戦った彼らとは違い、何もしていない私が先に入浴するわけにはいきません。ましてや主君を差し置いて」
「そんなの気にしなくて良いから。女の子がいつまでも臭いのは良いことじゃない」
「・・・・・・女の子、ですか」
面食らった表情。それに仄かにだが頬を赤らめている。
「そう。ってことでサイナさんも連れていってやって」
と、自分を臭そうにしている団員たちに命じるとアスナはブルーバリを見た。
「そうだ。ブルーバリさん、持ってきた着替えも多分、酷い臭いが染み込んでると思うから全員分の着替えも用意してもらえますか?」
「承知いたしました」
ブルーバリが頷くと同時に扉の前で控えていたメイド風の女性二人が礼をすると館に戻っていった。頼んだ物を準備しに戻ったのだろう。
「ありがとうございます。・・・・・・ということで」
振り返る。団員たちは誰も彼が疲れよりも、酷い汚れの方が目立つ。
「ちゃっちゃと風呂に入って綺麗になってくるように」
そして、ここまで案内してくれた第一魔軍の士官に視線を向ける。
「彼らを風呂に案内してやってください。それと皆さんも入れるようならご一緒に」
「はっ。承知いたしました」
果たしてどちらに承知したのか分からなかったものの士官は団員たちに「ご案内します」と兵を連れて共同浴場に向かっていった。
「殿下。ただいまお部屋を準備させております。しばし、当家の応接室にてお休み下さい」
「あぁ、それは良いです。ここで待たせていただきます」
「何かご無礼でもしましたでしょうか」
「そうじゃなくてですね。さすがにこれだけ臭いのをこの館に持ち込むのは気が引けるもので」
「そのようなことをお気になさらなくとも。殿下を外に留め置いたと閣下の耳に届けば私どもが叱られます」
ここまで言われてもアスナは首を横に振った。
「ここで良いです。応接室で待ってても緊張するだけだと思うから。知ってますか? 後継者なんて持ち上げられてますけど、前にいた場所、現生界か、現生界じゃこんな凄い所とは無縁だったんですから」
「左様ですか。では、庭にご案内いたします。今の時分ですと夕陽がとても美しいと思います。そちらでお待ちになられたらいかがでしょうか」
庭だったらそれほど臭いも残らないだろう。
それに家令として、後継者を玄関前で放置しておくのはやっぱり心苦しいだろうからと、アスナはブルーバリの言う通りにすることにした。
濡れたタイルが足に冷たい刺激を与える。
境界線であるそこは湿り気と夕暮れの冷気が混じり合い、とても寒い。
僅かに鳥肌が立ったが彼女は無視をして、後ろ手に戸を閉めた。湯気の世界に彼女は踏み込んでいく。普段、結い上げられている髪はおろされ、足を進めるごとに肩よりも僅かに下で小さく揺れる。
隠す物もなく、またその必要もなくなった彼女の肢体はとても艶やかだ。
鍛え上げられた躍動感のある四肢と女性だけが持つことを許された柔らかな曲線、この二つが相まって彼女の美しさを作り上げている。どちらかが欠けても実現しない美しさだ。
首筋にうっすらと浮いた汗が湯気を吸い込み大きくなる。やがて彼女の肌を滑り降りていく。柔らかく豊かな丘陵に沿うように谷間を抜け、縦長の溝に溜まる。
と、彼女が中程まで進み、足を止める。溝に溜まった滴が流れ出る。
湯気に満たされた世界がそこにある。彼女の視線の先は左右一列にならぶ蛇口たちでも、濃い白を上げ続ける広い湯船でもない。
彼女の視線の先は湯船の上に描かれた異質な壁画だ。
朝日が昇るモルティア山である。ご丁寧に壁画の隅に『モルティア山』と描かれているのだから間違いない。間違いないのだが、やはりこの壁画は間違いなのだ。
何しろ、モルティア山は西にあるのだから。
「・・・・・・・・・・・・」
これは一体、何を意味しているのだろうか。
毎日のようにここで入浴をする村の女たちにこの壁画を見せ続けて嘘を植え付けるつもりなのだろうか。それともこの村だけはそう言う風に見えるというのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・」
結局、これはこの公衆浴場の建築に資金を提供した大将軍の趣味か壁画の絵師が勘違いしただけなのだろうと判断した。
理解不能だが、そう言うものなのだろうと一応の納得をさせた彼女は左側の、湯船に近い蛇口前に堂々と機能的に腰掛けた。
どちらかと言えば熱めの湯を好む彼女は赤紐の括られた蛇口を捻り、広げた足の間においた風呂桶に、もうもうと熱気を上げる湯を注ぎ込んだ。風呂桶の三分の二ほど湯を入れると青紐の蛇口から水を注ぎ、好みの熱さまで埋める。そして頭から被る。
舞い上がる湯気に包まれ、僅かに桃色となった肢体に髪が貼り付く。本人の自覚の有無に関わりなく右頬に貼り付いた髪を耳後ろに掻き分ける姿は艶めかしい。
再び湯を注ぎ、濡らしたタオルを右腿の上におく。
石鹸はどこかと、目を走らせていた彼女が止まった。
風呂桶の湯が溢れ始めたが、彼女は動きを見せない。石鹸入れを見つめたまま止まっていた。一つは有り触れた普通の石鹸、もう一つは見るも毒々しい濃緑の石鹸だ。
その濃緑の石鹸は村の外れに多く自生している薬草を練り合わせているのだそうだ。
公衆浴場を管理している老女の話だと美肌の効能がある、のだそうだ。
眉唾物ではあるが、清涼なミント系の香りは不快ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
僅かな逡巡。
天井から落ちた水滴がすぐ側で弾けた。
老女の勧めも無下にするのも気が引ける。それに身体に染みついた臭いを石鹸の匂いが消してくれるのではないかと、なぜか理由付けをして結局、彼女は濃緑の石鹸を使うことにした。
赤紐の蛇口を閉める。
石鹸の色とは裏腹に泡立ててみると普通の白い泡が生まれ、ミント系の香りが鼻腔をくすぐる。泡の感触も普段、使っている物よりも柔らかいように感じる。
右腕から洗い始めて、左腕へと続く。臭いを落とすためにいつもよりも丁寧に洗う。
左手の指の間の一つ一つまで洗い、いつも通りにタオルを胸に持っていく。
と、そこで彼女の動きが止まった。自分の、僅かに上向きの豊かな胸で視線が固まる。
司令部要員の女性陣からは羨ましがられ、自分では違和感の象徴でしかない胸である。
タオルの感触が昼間、アスナを抱き留めたときを想起させた。
そのとき自分で言った、
「大きな胸も悪くはない」
という言葉に彼女はどうしようもない違和感を感じつつ顔を上げた。腰掛ける彼女の真正面に鏡が設えている。
そこに映る人物に彼女は狼狽えた。当たり前だが女性が映っていたのである。
彼女は慌ただしく視線を彷徨わせる。と、大股を開いている自分が異常に恥ずかしく感じ、急いで足を勢い良く閉じた。そして、彼女はなにかを誤魔化すように、両腕のときとは打って変わって雑に身体を洗った。
すでに風呂桶にはお湯が溜まっているにも関わらず、青紐の蛇口を捻り水を注ぎたすと一気に頭から被った。
「っ!!」
声にならない悲鳴を上げて、彼女は勢い良く立ち上がった。豊かな胸が揺れる。
まだ身体のいろいろな所に泡がついているにも関わらず彼女は暖かな湯気を上げ続ける湯船に飛び込んだ。彼女らしからぬことこの上ない。
口元まで浸かった彼女の顔はとても赤い。
「・・・・・・女の子だなんて呼ばれたの、始めて」
サイナはそう呟いて、困ったように顔を洗った。
先ほどまで聞こえていた男湯からの喧噪が全く耳に入らなくなっていた。
「ちょっと、大丈夫かい!?」
「・・・・・・ふぇ」
突然、声をかけられて湯船に沈みかけていたサイナが勢い良く身を起こした。顔だけじゃなく、身体も真っ赤だ。
サイナはあれからずっと湯に浸かりっぱなしですっかり茹だっていた。彼女が上がるのがあまりに遅いのを心配した管理人の老婆が様子を見に来なければ間違いなく湯当たりになっていたはずだ。
「もう出た方がいいね。このままだと湯当たりするから」
「あ、はい」
サイナの返事に、頷き引き返す老婆の背を見ながら彼女は湯船からでた。
湯当たり寸前のふやけた頭に活を入れるべく風呂桶一杯の水と適温の湯を順に被ると浴場を出た。温かな浴場から脱衣所に出るとさすがに寒いが、それが今は心地良い。
風呂に入っている間にメイドさんたちが着替えを持ってきてくれたよと、老婆は彼女に告げるとズイッと瓶入りの牛乳を差し出された。
予想しないことに戸惑うサイナだったが、
「村のために戦ってくださったんだろう? 大したことは出来ないけど、せめてこれぐらいさせてちょうだいね」
と、老婆は人の良さそうな笑みを浮かべて言った。
「いえ、我々は主を守るために戦っただけです。この村のために戦っているのは大将軍を初めとする第一魔軍の方々です」
「そうかい。けど、怪我人を守ってくださったのは本当だろう? だからグイっといっとくれ」
サイナに牛乳を押し付けるように渡すと、番台に戻っていった。と、不意に老婆が振り返った。
「腰に手を当ててグイっとやるのが、コルドンの流儀だから」
「そういうもの、なのですか」
「そういうもんだよ」
そういうものと言われると納得するしかない。サイナは老婆に言われたとおり腰に手を当てて牛乳を飲んだ。老婆は満足げに笑みを浮かべている。
気持ちの分だけ美味しかったような気がした。
管理人の老婆が言うにはサイナは一時間以上も風呂に入っていたそうだ。
いつもならばちゃんと髪を乾かし、結い上げるのだが、鼻がバカになるほどの臭いが染みついたままの主を放置したままで、しっかりと身だしなみを整えていられるほどサイナは図太くもない。
何より今日、剣を捧げて個人的にもアスナの臣下となったのだ。その初日からこれでは格好がつかない。
ゲームニス邸のメイドが用意した長衣は丁度良い大きさだが下着が少し、いやそれなりにきつい。そのことにサイナは困った顔をしつつも最低限の身だしなみだけを整えると公衆浴場を飛び出した。
すでに陽は沈み、視界はいる山の上には月が出ている。
夜気が肌を刺す。その冷たさの分だけ時間が経った証拠だ。
「早く戻らないと」
サイナは湯当たり寸前の身体をよろめかせながら走った。
水を味方とし、水中すらも苦としない海聖族の彼女だが、さすがに一時間以上も風呂に入っているのは辛かったようで何度も転びそうになった。
公衆浴場周辺に団員たちがいなかったのは、参謀としての職務にアスナの護衛と苦労の耐えない彼女を気遣ってのことだろう。疲れをとってくれ、と。
なにしろあの公衆浴場のお湯は冷泉を魔導珠で温めた、温泉もどきだ。
脱衣所に掲げられた効用を見れば疲労回復に美容促進、そしてなぜか子宝までくっついている。もっとも入りすぎて疲労の回復よりも、溜め込んだ感があるが。
「お帰りなさいませ」
ゲームニス邸に戻ると家令のブルーバリが一礼とともにサイナを出迎えた。
「ア、アスナ様はどちらに」
「屋敷の庭でお待ちです。ご案内する前にお飲物でも用意しましょうか」
荒い息を見かねてのことだろう。
その姿からは優雅さと勇壮さを兼ね備えた近衛騎団の団員とは思えない。湯当たり寸前の身体に五分強の全力疾走はきつかったようだ。
「いえ、結構」
と、サイナはたった五回深呼吸しただけで息を整えた。それだけではなく先ほどまでの慌てぶりもなりを潜めて普段の怜悧さを取り戻していた。
ただ身体の芯まで暖まったことで妙に色っぽく見えてしまうのだが。
ブルーバリはそのことを敢えて無視するように「では、こちらです」とサイナを案内し始めた。
案内された庭はさすがは大将軍と言わせるだけのものだった。植木は良く手入れがされ、うるさくない程度に彫像などが配置されている。
月明かりの下、静かな美しさを演出していた。
先導するブルーバリの背を視界に収めつつ、庭園を鑑賞するサイナの視界にここにはあまり似つかわしくない草が映った。
「・・・・・・ユエリア」
それは観賞用の植物ではなく薬草だった。
「ゲームニス閣下のご意向でこの庭は薬草園としての意味ももたせているのです。このコルドンは今でこそ山道が整備され、ケルスとの繋がりを強くしておりますが、ほんの数年前まで外との繋がりの薄い村でした。そのため物資の、特に医薬品に事欠くことが多かったそうです。そこで閣下はコルドンの屋敷の庭を薬草園として使えるようにと作られたのです」
「そうですか」
よく見れば、栽培されているのは取り扱いの簡単な有り触れた薬草が大半だ。どれも軍で非常時に使用することを推奨する薬草ばかりだ。実際に彼女も訓練中にお世話になった薬草も多く見かける。
ここに植えられている薬草の説明をしながら先導するブルーバリの足が止まった。
「あちらでお待ちです。私は殿下のお着替えをお持ちして参ります」
「はい。ありがとうございます」
ブルーバリが指し示したのは庭園の端に設けられた温室だ。
山間の寒さでは育ちにくい薬草などを栽培しているのだろう。それにあそこならば夜気にさらされることもないだろう。
それでも申し訳なさを表情に浮かべながら温室の扉を開けた。
中は外の冷たさとは切り離されたかのように暖かだ。温室の要所に魔導珠がはめ込まれているのが確認できた。常に気温を一定に保つ制御は現在の技術では難しく、実現するためにはかなりの資産が必要となる。最近では庭園にこの温室を持つことが富裕層の流行となっているとサイナは聞いたことがある。
だが、そんなことは関係なく午睡を楽しむのには丁度良いかもしれない。薬草の柔らかな匂いがそれを後押ししているようにも思える。
その温室の中程、庭園がよく見える場所にアスナはいた。用意された椅子に深く腰をかけ、サイナに背を見せている。
彼女はアスナの背後に立つと頭を下げた。
「お待たせして、申し訳ありません」
「・・・・・・・・・・・・」
返事はない。
自分の長湯に怒っているのだろうかと思いつつ、サイナはもう一度、彼に声をかけたが、またもや返事はない。
・・・・・・おかしい。自分の主はこんな怒り方はしない。
怒るときは小犬のように喚き散らし、やがて支離滅裂となるのが常だ。それに怒りを発しているような雰囲気でもない。・・・・・・どういうことだろうか。
疑問を確かめるべくアスナの前に回る。
「・・・・・・なるほど」
脱力するサイナ。彼女の目に映るアスナは穏やかな寝息を立てていた。
あれだけのことがあったのだ。体力的には大したことはなくても、精神的に疲労したのは間違いない。何よりまだアスナの傷は治りきっていない。身体を動かさなくても体力は自分の傷を癒すことに回される。疲れて当然だ。
「・・・・・・アスナ様」
言葉尻が小さくなる。なぜか起こすことが躊躇われた。
穏やかに眠る彼の横顔は妙に幼く感じる。
それなりに整った顔を作る線は繊細で、男にしては睫毛も長いように思える。眉にかかるぐらいの前髪はとても柔らかく見える。
中性的というよりも、少女的と表現した方が良いかも知れない。
あどけない寝顔を見せる少年が自ら戦火に飛び込むことも厭わず、近衛騎団を率いていることが不思議に思えることがある。
本当に彼は何の力も持たない、召喚されたばかりの人族の少年なのだろうかと。
不快そうに唸るとアスナは寝返りを打つように横を向き、背もたれに頬を預ける。
今の姿勢が気に入ったのか再び穏やかな寝息を立てる。
「・・・・・・・・・・・・」
サイナは黙って、不自然に眉にかかる髪をそっと分けてやる。
彼が自分の主なのである。それはとても不思議な感覚だった。
国や身分、役職に仕えることはあっても、個人に仕えることになるとは思っていなかった。なぜアスナに剣を捧げたのかと問われてもサイナには答えようがなかった。
ただあのとき、応えを求めるアスナには言葉だけで応えることは不適切のように思えた。
自分の見据えるアスナの瞳を思い返してサイナは柔らかく微笑した。
「・・・・・・そうか」
サイナの中で一応の答えが出た。
そう、アスナはただ単に一生懸命なのだ。
宮中の人々が繰り広げる権勢と打算、懐柔と裏切り、そういったモノとは全くの無縁。
その者の本性をさらけ出す戦いの場で、少しでもましな結果を出すために一生懸命な姿は見ているのが心地良いのだ。
彼女が剣を捧げた理由も、近衛騎団が主として心から迎えた理由もきっとそこにあるのだろう。
自分は意外と打算的ではないみたいだと思うと、何となく嬉しくなった。
安穏な寝顔を作っていたアスナの瞼が小さく動いた。
そろそろ起きそうだと覗き込んでいた身体を起こして背筋を伸ばした。無様な姿は見せたくないと。
目覚めは不快そのものだった。
身体や服に染み付いた死臭に気分が悪くなる。周りの薬草の香りで少しはましになっていると思うが発生源が自分なだけに臭いから逃げるわけも行かない。
それに小さな頭痛のおまけ付きだ。
椅子でうたた寝して固まった身体を解そうと背伸びをする。
「おはようございます、アスナ様」
「ふぇっ!?」
声のした背後を振り返ると、そこにサイナが立っていた。
そこで気付いた。いつの間にか日が暮れてしまっている。薄い明るさが温室に満たされている。
「ゴメン、寝てたみたい。起きるまでずっと待ってたんだよな。えっと、サイナさん、湯冷めとかしてない?」
「いえ、その大丈夫です」
「そう。ホント、ゴメン」
「いえ、私の方こそ」
「・・・・・・なにが?」
「いえ、そのですね」
彼女らしからぬ慌てた感じだったがアスナは別段、気にしなかった。
「まぁ、いいや。それよりも風呂の方はどうだった? 家令の人、えっと・・・・・・」
「ブルーバリ殿ですね」
「そう、ブルーバリさんだ。ここの風呂って温泉らしいけど」
「温泉ではなく冷泉です。ですが久しぶりに湯に浸かって、すっきりしました」
「いいなぁ。オレもスッキリしたい。さすがに二週間近くも入ってないとしんどいよ」
「もうしばらくの辛抱です」
「まぁ、ね」
苦笑。胸の傷や火傷のこともあって清潔にしてもらっているが、そこはやはり入浴が習慣である日本人だ。分かっているけど入りたいのである。
「失礼いたします」
ブルーバリがメイドさんたちを引き連れて温室に入ってきた。
彼女たちの手には湯とおろし立てのタオル、包帯と軟膏、そして着替え一式がある。
「お着替えを用意させていただきました。それと軍医殿から包帯を替えていただくよう言付かっております」
ブルーバリが言うには明日の午前中一杯までコルドンの病院で搬送してきた怪我人の面倒を見るとのことだった。何かあれば飛んできてくれるはずだから問題はない。
テーブルのティーセットを片づけるメイドさんを横目で見ながら、
「それで騎団のみんなはどうしてる?」
「こちらでご用意させていただきました食事を召し上がっておられます。今晩の殿下の護衛は第一魔軍の兵が担当させていただくことで合意を得たとのことです」
「いろいろと迷惑をかけて申し訳ありません」
言って小さく頭を下げる。必要以上恐縮される前に頭を上げる。
「いえ、後継者殿下をお迎えできて光栄に存じます」
さすがに中央から派遣された家令だけあってアスナが恐縮されることを嫌がることを察したようだ。丁重ではあるが、慇懃ではない。そんな感じだ。
「お召し替えの手伝いにこの者たちをお使い下さい」
三人のメイドさんが礼をする。
「お気持ちだけ受け取っておきます。相談したいことがあるし、それに人に見せて気持ちの良いものでもないし」
余程、酷くなければ戦傷として誇りにも出来るだろうが、これはそういった類のものではない。少なくともアスナはそう思っている。
「左様でございますか。では着替えがお済みになられましたらこのベルをお使い下さい」
初めからアスナがあのように応えると分かっていたのか、ブルーバリはコトッと小さな銀のベルをテーブルの上においた。
呼び出しのベル。このベルを鳴らすと対になっているベルも鳴り、誰かが呼んでいると知らせる魔道具だ。
ブルーバリはメイドさんたちとともに辞去した。
「執事にメイドさんか。・・・・・・うん、スゴい」
なにがスゴいのか分からないがアスナはしきりに感心した。
それについてサイナは敢えて言及せずにアスナの前に跪き、上着を脱がせ始めた。
「い、いいから。脱ぐぐらいは自分で出来るから」
身体を拭かれるのは少しは馴れたがやはり、女の子に脱がされるのは恥ずかしい。
「お気になさらずに。・・・・・・それよりも相談というのは」
「うん。サイナさんたちが風呂に行ってる間、ブルーバリさんにムシュウ方面に繋がる道の状況がどうなってるか聞いたんだけどさ」
同じ道で引き返しても近衛騎団がケルスを出発する前に合流することは不可能だ。騎団本隊がムシュウ到着前に合流するには地図に記されたコルドンから南部へと続く道を使う方が都合がいいだろうと判断したのだ。
「オレたちが使った山道が出来てからムシュウ方面に出る道は使ってないらしいから今、どうなってるか分からないんだって」
地盤も緩く、道幅も狭いムシュウ方面の山道を利用するよりもしっかりと整備され、道幅も広い新しい山道を使用した方が安全面からも、輸送量の面からも有利だ。
時は金なりとも言うが、そのために命や積み荷を落とす方が大事だから。
「それに二年前に村の近くで土砂崩れが起きたから、ひょっとしたらその道も塞がれてるかも知れないって」
上着を脱がし、包帯を解く手を休めてサイナは黙考した。
「ならば騎兵を様子見に出してはいかがでしょうか。馬の足で通れる道ならば人も通れますから」
「うん。それじゃ、そう言う方針でいこう」
「了解いたしました。出発は明朝でよろしいですね」
「さすがに今日は疲れたからね。動くのは明日からで良いよ。肝心の大将軍がいないんじゃ話もできないし」
「そうですね」
上半身を戒めるように絞められていた包帯が解かれる。
死臭と塗り薬とが入り交じった不快な臭いが立ち上る。
「凄い臭い」
「治療の最中ですから仕方ありません。それよりも痛みの方はありませんか?」
「薬で散らしてるから平気だけど脱脂綿をとるときは痛いかも」
「では、少し我慢して下さい」
言ってサイナは包帯の下に現れた脱脂綿を一つずつ外していった。
黄色い軟膏の塗られたそれを外すたびに小さく表情を歪めるが、痛みというほどでもない。どちらかと言えば痛痒い。
包帯や脱脂綿で厳重に保護されていたアスナの肌はまだ赤く腫れている箇所が見受けられる。そして胸の、心臓のある場所には大きく切り裂かれた痕がある。通常ならばもう抜糸しても良い頃だが、状況が状況だけに見送られている。
考えてみればあの暗殺未遂から今日で八日目、たったそれだけの日数でここまで元気になったのだから医術に関しては幻想界の方が遙かに進んでいる。
もっともロディマス曰く、胸の傷は完治させるにはかなりの時間がかかるとのことだ。
「自分の身体だけど、見てて気持ちの良いものじゃないな」
「ですが、以前に比べてずっと綺麗になっていますよ」
タオルを湿らせながらサイナは言った。
護衛としてアスナの近くにいた彼女は何度かアスナの包帯を替える手伝いをしている。
四日前に見たときに比べて腫れはかなり引いている。今では完治した箇所の方がずっと多いぐらいだ。
強くタオルを絞り、掌ぐらいの大きさにたたむ。
「それでは失礼します」
と、断りを入れるとほぼ完治しているアスナの右腕をとると腫れ物に触るようにーー実際に身体のいろいろな場所が腫れているのだがーー優しく拭き始めた。
痛みは全くなく、逆に丁寧すぎてくすぐったいぐらいだ。
「もうちょっと強く拭いてくれても大丈夫。というかその方が嬉しい」
「まだ完全に腫れが引いていませんから、それは完治するまでご辛抱下さい」
まだ腫れている部分は拭くではなく、浮いた皮脂を吸い取るようにタオルでそっと押さえるだけに止める。
腕などの大きな場所だけではなく指の間や脇の下も丁寧に拭っていく。
ある程度、馴れたとは思っていてもやはりそう言う局部を拭かれると妙に恥ずかしい。
淡く赤面し、目を泳がせるアスナの顔も丁寧に彼女は拭いていく。耳の裏を綺麗にすることは忘れない。
と、ふわりとしたスッキリとした香りが鼻腔をくすぐった。臭い消しに香水でも含ませているのかも知れない。などと考えつつ上半身終了。
タオルをテーブルの上におくサイナの容姿が少し違うことに気付いた。
「髪、下ろしてるんだ」
「はい。なにかおかしいでしょうか」
新しいタオルを湿らせ、ギュッと絞る。
「ん〜ん、そっちの方が似合ってると思っただけ」
「えっ」
「だから、今の方がサイナさんっぽいって言ったの」
「な、何を仰るんですか」
半ば声を裏返させて彼女はタオルをテーブルに置くと、何の躊躇もなくアスナのベルトを外しにかかった。
「サ、サイナさんっ!?」
「おみ足を清めるにはズボンを脱いでいただけなければいけませんから」
アスナと視線を交わすことなく、彼女は手際よくベルトを外してしまった。そして何の躊躇もなくズボンを下ろしにかかる。
「ちょい、待った待った待ったっ!」
「何か不都合でも」
ズボンにーー下着も一緒にーー手をかけたままの彼女は、やはり顔を上げない。
「ある、あるって。そこは自分でするから」
「アスナ様は怪我をされているのですから。お気になさらずに」
「ああああああぁぁ〜・・・・・・」
山では夜の訪れは早い。
まだ陽が沈みきっていなくとも、木々が織りなす闇が夜を呼び寄せるのだ。
山はいつものように冷気を溜め込み、静寂の時を生み出そうとしている。だが、今晩に限りそれは夜の静寂ではなかった。
死の静寂。
剣に怨嗟を切り払われた骸たちが山林を埋め尽くしていた。
そこに生の発露は皆無。ただ静寂という名の沈黙が降りていた。だが全てが終わったわけではない。時折、遠くで怨嗟の声が聞こえる。
現在、ゲームニスの麾下にある兵力は一個大隊、二千名に満たない。
内、”彷徨う者”の討伐に駆り出しているのは半数の約八百名ほどだ。残りの兵力は村人たちに気付かれぬようにコルドン周辺に配し、守備を固めさせている。
制圧部隊は一時、後方に展開している守備部隊と合流していた。
野営地として展開したテント群のほぼ中央のテントで麾下部隊の主要人物を集め、今後の行動指針の検討を始めた。
上座に座るゲームニスの正面のテーブルには周辺の精密な地図が広げられ、部下からの報告を聞いていた。
麾下の損害は皆無と言っても良い。死者も重傷者もゼロだ。
ただ常軌を逸した死臭に酷い頭痛や吐き気を催した者が多数出た。兵として見た場合、”彷徨う者”は非常に貧弱だ。だが戦力として見た場合、侮ることは出来ない。
死を内包し、進撃する死者たちに恐れはない。あるのは怨嗟のみだ。晴らすことの出来ない恨みを糧に集落を荒らす。そこにあるのは死のみだ。
仮に近衛騎団からの報告にあった指揮者の存在が事実であるのならば、これほど効率の良い殺戮集団もないだろう。
捕虜をとることもなく、彼らの食事が遺体である以上、集落を占領する必要もない。
目的が殺戮ならば、維持もまた殺戮なのだ。そして死者が放つ死臭が自身を守っている。
死臭という名の結界に守られた、死界の軍だ。
「以上から敵には指揮者が存在し、死者たちはその意に従っていると思って行動した方が良いと判断します」
「私もその意見に賛成です。我々の日中での戦闘は通常の大量発生時を想定したものでした。ですが敵は我々が押し出してきたと同時に、とかげの尻尾切りのように後継者殿下を護衛する近衛騎団の周囲にのみ死者を残し、整然と山林のなかに後退しています。後続の騎団の部隊からも突然、”彷徨う者”が撤退し始めたという報告を受けております」
「皆も同じ意見か」
部隊長たちは頷きで答える。それが日中での戦闘で得られた戦果だ。
「・・・・・・・・・・・・」
腕を組み、ゲームニスは小さく唸った。
彼の意見も部隊長たちと同じだ。だが腑に落ちないことが一つあった。
「お前たちの意見に私も同意する。しかし対処するにも敵はどのようにして”彷徨う者”を指揮しているかだ」
この瞬間、ゲームニス麾下の部隊は指揮者の存在を認め、それに対処するべく行動することが決定された。そして、”彷徨う者”は障害となり、”敵”とは指揮者の呼称として限定されたのだ。
「皆、気付いているとは思うが”彷徨う者”たちの間に魔力の流れがあった。だが、流れの中心を特定できるほど強くはない。恐らくこれが死者たちを操る術なのだろう。だが、その術が特定できない以上、有効な策は実行できんぞ」
指揮系統の分断は勝利をたぐり寄せるために必要な重大な要素だ。
今回のような兵数が分からない状況ともなれば尚更だ。
「的確な策が打てない以上、山狩りを続けるしかないと判断します」
「他に意見はあるか?」
沈黙が流れる。打開策を立てるにも情報が少なすぎて取りうる手がない。
ゲームニスが現状打破する策の立案から、常套策の立案へと変更したとき末席にいた士官が意見を述べた。
「閣下、”彷徨う者”を調べて見るというのはいかがでしょうか」
「・・・・・・どういうことだ?」
「はい。あれだけの数の死者を姿を見せずに、それも我々に感知されずに操ることは通常ならば不可能です。その不可能を可能にする何かが”彷徨う者”の身体に残されているのではないかと思うのです」
「ふむ。・・・・・・皆の意見は」
敢えてゲームニスは自分の判断を見せずに部下たちの意見を求める。
ほどなく中年の士官が意見を発した。
「私は反対です。ただでさえ、我々の方が数の上で劣勢なのです。今、そのようなことに兵力を回す余裕はないはずです」
「いや、今の意見には一理あると考えます。対処できる手段が見つかれば一気に殲滅することも不可能ではないはずです。仮に何の成果がなくとも、死者たちに何も仕掛けられてはいないという事実が判明し、推測の幅を狭めることが可能なはずです」
ゲームニスは黙って意見が出尽くすのを待つ。
士官の意見は五分五分、僅かに否定派が多い。
「では、貴様の隊に死者たちの調査を命じる。明日一日、調査して何も出なければ山狩りに専念する。良いな」
『了解しました』
起立し、一斉に士官たちは敬礼した。
「よろしい。では、すぐにその旨、策を立案せよ」
命令以下、士官たちは動き出した。
ゲームニスは腕を組み、瞑目しながら今後の展開の予測を始めた。
”彷徨う者”の動きから指揮者が存在することは間違いないだろう。
そして、死者の身体の中から何かしらの証拠が出てくることもゲームニスは確信している。問題はその次の展開だ。いかに効率よく死者たちを改めて眠りに就かせるかだ。
指揮者が何を狙っているのかはもう分かっている。
それはゲームニス本人だ。
だが、数で圧倒してゲームニスを討とうとしてもそれは不可能だろう。老いたりとは言え彼は人魔の規格外だ。周囲の被害を考慮にいれなければ一挙に殲滅することも可能だ。
軍の統率者としての冷徹な判断を下せば、これだけの数の死者を用意するのは骨が折れたはずだ。それを他者に気付かれることなくコルドンに配置することはさらに気を配らなければならない。
ならば指揮者は兵力の無駄な損失は避けるはずだ。
となれば、もう一つの数を頼りにする戦術を用いるのは決定的だ。
所有する兵力を広く配置して、ゲームニスを駆けずり回らせて疲労させる戦法だ。
何しろ敵兵力は食事も睡眠もとる必要がない。補給と休息を必要としない兵はそれだけで脅威だ。死への恐怖がないとなればなおさらだ。
兵数が劣る以上、対症療法的に動けば間違いなく敵の術中にはまる。
さて、どうしたものか。
「奇襲を受ける可能性がある。警戒は密にな!」
月が頂点に登る。
周囲の山々や木々を照らすように煌々と光を降り注いでいる。
陽の光のように無遠慮ではなく、霧雨のように静かに降っている。
幻想界の月は巨大だ。
現生界のそれと比較して、二、三倍はあるのではないかと思われる。そして、黄金に輝き、銀の光を降り注ぐのだ。
太陽の力が弱く、青空を作れない原因はこの月にあるのではないか、という説がある。
信心深い者ならば、力に奢った地上の民を戒めるために神と呼ばれる超越存在が太陽から力を奪ったのだという神話を信じているだろう。
その一方で一部の学者は太陽の持つ力を月が吸い取ってしまったのではないかという見解を出している。
事実、月は魔力の塊だ。
太古から魔法の開発には月夜が相応しいとされ、いくつかの魔法は月と深い関わりを有しており、数多くの恩恵を人々に与えている。
だが、月は恩寵だけではなく、それに等しい災いも与えてくる。
月は魔獣などの忌避すべき存在にも力を与えるのだ。
それは”彷徨う者”にとってもそうだ。死者が蘇りやすいのは満月の夜。
そして最も活動に相応しいのも月が顔を見せる夜だ。
今晩は月の光を遮るものはなく全てに対して平等に光を与えている。
照らされる銀の光の中、戦いの咆哮が上がる。
「敵襲〜! 総員、戦闘態勢に突入せよ!!」
ゲームニスの予測通り、死者たちの夜襲を受けたのだ。
予めこうなることを予測し警戒を密にしてたため、第一魔軍の兵たちは即座にそれに対応した。また、夜目が効く獣人の兵を中心に警戒任務に就かせていたことが有効打となった。
「第三、第六小隊は死者の後方に回り込め。第四中隊は伏兵の存在を確認、発見次第殲滅しろ!」
夜襲をかけたはずの”彷徨う者”は逆に準備を整えた兵たちに迎え撃たれ殲滅されていった。断末魔ともとれる呻き声を上げながら再び眠りに就く死者たちは哀れの一言に尽きた。
その光景をナイトキャップ片手にしながら見る大柄の影があった。
ゲームニスだ。
彼は黙ってことの成り行きを見守る。すでに兵たちは自分の成すべき最善の行動に出ており、改めて追加命令を下す必要はない。
ただただ、ぼんぼんのついたナイトキャップを手に兵たちの戦いぶりを見守った。
戦いは圧倒的に優勢。決着が付くのも時間の問題だ。
「圧せぇっ!! 包囲を縮めろ!」
包囲はなった。他からの介入がない限り、勝敗は決した。
と、囲まれながらも初歩的な組織的な戦いを展開していた死者たちが動きを弱めた。
まるで夢から醒めたばかりのように突然、動きが悪くなった。隊列は乱れ、個々の思うままに暴れ出したのだ。こうなればもう集団戦など出来ようはずがない。
「隊列が崩れた! 一気に切り崩すぞ!!」
指揮官の号令以下、兵たちの動きが鋭さを増す。死者の群に切り込みを入れ浸透、そして中から崩していく。
もう”彷徨う者”の怨嗟の声よりも兵たちの咆哮の方がずっと大きい。
「閣下」
背後から駆け寄ってきた士官が敬礼とともに報告を始めた。
「ご指示を受けた場所で潜伏していたところ不審人物を発見しました」
「捕らえたか?」
「申し訳ありません。抵抗された後、自殺を許してしまいました」
「そうか、仕方あるまい。証拠となる物は見つかったか?」
士官に続くようにもう一人士官が敬礼とともに現れる。”彷徨う者”の体内を調査すべきだと提言した士官だ。
「残念ながら。自殺の前に何かを破壊するのを見かけました。ただ残骸の回収は終了しております」
「分かった。・・・・・・損害はないのだな」
「はい。軽傷者二名が出ただけです」
「よろしい。兵の手当をし、休ませろ。報告書は今朝の軍議までに提出だ」
「了解いたしました」
敬礼し、士官は自分の隊に戻る。
「よし、次だ」
「はい。”彷徨う者”の体内からこのような物を発見いたしまいた」
差し出された士官の掌の上にはビー玉よりももう少し小さな赤い玉がある。
腐食した血液と鮮血とを混ぜ合わせたような色をしている。
「魔導珠、か?」
ゲームニスはそれを手に取り、月にかざす。
通常の魔導珠ならば月光に反応して、中に溜め込まれた魔力が淡く光るのが見えるはずだ。だが、彼が手にしているそれは何の反応も示さない。
「分かりません。ただ同じ物が眠りに就かせた死者の胸に埋め込まれているのを確認しております。その玉がなんであるかは不明ですが、何かしらの関係があると推測します」
「他にもあるのか?」
「無傷なものは今のところ、それだけです。他は割れて欠片が残るのみです」
「分かった。これ一つだけでは確証はとれん。貴様には改めて死体漁りを命じる。これを含め、最低五つは見つけてもらう。それとこれを発見した経緯を報告書にまとめ、今朝の軍議までに提出しろ。気分の良い仕事ではないが、頼んだぞ」
「了解いたしました」
敬礼する士官に頷きで答えるとゲームニスは自分に帯同した第一魔軍の司令部付き参謀を呼んだ。
「オスマ! オスマはいるか!」
兵たちの咆哮を上回る声に従い、ほどなくして一人の男が駆け寄ってきた。
鎧以上に自分の身体を重そうに揺らしながらゲームニスの前に現れた男。彼がオスマだ。
とても最精鋭軍である第一魔軍の参謀の一人とは思えない、どちらかと言えば気の良い商店主をしている方が自然な風貌の男だ。
だが人は見かけに寄らずの言葉の通り、この小太りの男はラインボルトでも有数の戦術家だ。一からの作戦立案に関しては凡百だが、作戦の修正や詰めの作業に関しては右に出る者はいないだろう。
この能力に関してはLDも非常に高く評価している。
「お呼びでしょうか、閣下」
「相談したいことがあってな」
「はい。ここでは何ですので、あちらで」
オスマが指し示した先は戦闘領域から離れた場所だ。そこならば誰かに聞き耳を立てられることもない。
周囲に充満する度し難い死臭を浄化するように降り注ぐ銀光の下、ゲームニスは先ほど受けた報告内容をオスマに話した。
その上で自身が立案した作戦の概要も告げた。
「以上だ。お前の意見を聞かせてもらいたい」
僅かな沈黙。オスマは薄い口髭を弄り始める。思考を加速させるときに行う彼の癖だ。
幾つもの状況設定、条件を変えてゲームニスの立案した作戦が有効か否かを判断しようとする。
彼は不適切であると判断した場合は率直に進言できる人物だ。それだけにゲームニスに見出される前までは一般軍で才を持て余し、冷や飯を食わされていた。
そういった経緯があるだけに二人は主従に近い間柄と言って良かった。内乱に関与しないだけではなく、故郷で隠棲するゲームニスに付いてきたのが良い証拠だ。
その彼が下した判断は「判断に窮する」だった。
「閣下の策はまさに一長一短です。確かにこの策に敵が乗れば一挙に問題を解決することは可能です。ですが、しくじった場合の損害は取り返しが付きません。下手をすれば殿下の御身をも危ぶませることになりかねません」
「分かっている。長期戦に持ち込めばこちらに十分以上に勝機がある。だが、コルドンは拠点としては脆弱だ。長期戦を行えるだけの余力はない。どちらにせよ、時間をかけただけ不利になるのは変わりなかろう」
「では、殿下はいかがなさるおつもりですか」
「問題なかろう。今の後継者殿下を含め三代に渡り、魔王と近衛騎団との関係を見てきたが、あそこまで騎団が忠義を示したところをみたことがない」
近衛騎団という組織はあくまでも魔王に従う者たちだ。だが、今の近衛騎団は坂上アスナ個人に付き従おうとしているようにゲームニスには見えた。
少なくとも、主の命に騎団が嬉々として従う様は見たことがなかった。
人格者であった先王アイゼルでさえ、ほんの数名が個人的な忠節を誓ったが近衛騎団としてはあくまでも魔王だから従うという姿勢を崩すことはなかった。
恐らく近衛騎団が近衛騎団と呼ばれる以前、初代魔王リージュに付き従った者たちと同じ心境にあるのかもしれない。
供にありたい存在である、と。
誇り高い近衛騎団の者に、形振り構わず生き残ることこそが誇りだと言ってのけ、それを受け入れさせたアスナにゲームニスは好印象を持って見ている。
これからどうなるのか興味は尽きない若者だと思っている。
「以上が、私の見解です。攻めに出るのでしたら閣下の仰るとおり早いほうがよろしいかと」
「では、作戦の詰めは任せる。夜明けまでに終えておくように」
「了解いたしました」
途端に重責を負わされてしまいオスマは苦笑を浮かべると作業にかかることにした。
頷きで答えるとゲームニスは負傷した兵たちの様子を見に行くことにした。
現時点でもう自分がするべきことはなにもない。夜明けを待つのみだ。
翌朝、”彷徨う者”の指揮者と思しき人物と交戦したこと、死者の体内に魔導珠と思しき赤珠が見つかったことが報告された。
推測が事実となったことで軍議は一瞬、緊張感に包まれたがゲームニスの一言で逆に騒然となった。
「一度、コルドンに戻ることにする」
激した声を上げる各部隊の隊長たちをなだめると、
「落ち着け。ヤツらの狙いはコルドンではなくこの私だ」
コルドンであるならば数を押し立てて一挙に押し潰せばいい。ゲームニス麾下の部隊が数に劣る以上、対処しきれるはずがないのだから。
また、魔王の後継者であるアスナが標的ということもまたあり得ないというのが共通見解だ。もしそうならすでにアスナは死んでいるはずなのだから。
「だからといってコルドンの守りを手薄にするわけにもいくまい。脆弱ではあるが拠点であることに変わりはないのだからな」
一般人が聞けば酷薄と思ったかも知れない。
未曾有の死者の群を前にしてゲームニスは故郷としてではなく、拠点として守ると言ったのだから。
だが、ここにいるのは第一魔軍の長である大将軍ゲームニスなのだ。
ならば私情を捨て、一軍の将としての行動をしなければならない。それがひいてはコルドンを守ることになる。ゲームニスはそう確信している。
「それに昨晩の奇襲で野営地周辺に幾つもの遺体が散乱している。不衛生な環境では兵たちにも障りがあるだろう」
各隊長たちもゲームニスの言に納得する。
「しかし、何者が閣下のお命を狙うのか」
「さてな。少なくともラインボルト内部の者ではないことは確かだ」
咳払い一つ。
「今は首謀者が誰かを詮索しても仕方あるまい。・・・・・・オスマ」
「はっ。大隊司令部及び第一中隊はコルドンに先行し、受け入れ態勢を整えよ。次いで第二、第三中隊は撤収作業を行い、準備が出来次第コルドンに帰還せよ。これに私も帯同する。第四中隊は周囲の警戒任務に就け。警戒任務には閣下も帯同される」
驚きが走る。
ラインボルト軍の総帥たる大将軍が警戒任務に帯同するなど常識範囲外の出来事だ。
隠しきれずに浮かべる皆の表情にゲームニスは苦笑する。
「忘れたのか。ここは私の故郷だぞ。それに狙われているのは私だ。多少はコルドンから死者たちを遠ざけることのもなるだろう。その間にお前たちは防備を固めておけ」
大将軍がそう断言した以上、彼らが意見できるはずがない。
彼らが静まったのを見計らい、ゲームニスは準備開始を命じた。
『了解しました』
と一同は敬礼をし軍議を行っていた天幕から出ていく。
「インボードと第四中隊の者は残れ。警戒順路の指示を出す」
出ていこうとしていた大隊長であるインボードと第四中隊の面々が残る。他の者が出ていったことを見計らい、オスマは卓の上にコルドン周辺の精密な地図を広げた。
「では、これより貴様らに密命を与える」
先遣部隊を始め、整然と後退している部隊を見送ったゲームニスたちはそれぞれの役割を果たすべく班単位で分かれ、山林の中へと散っていった。
その中でゲームニスは一個小隊を率いてコルドンから二時間ほど離れた沢に来ていた。
沢の川幅は広いが水深は中州でも膝までいかないほどだ。川遊びには丁度いい場所だろう。
その光景を優しい目でゲームニスは見ていた。
幼い頃、ここで生傷を作りながら遊んだのを思い出していた。あの頃の遊び仲間はある者はコルドンに残り、またある者はゲームニス同様にコルドンから巣立っていった。
孫に囲まれた穏やかな余生を過ごす者もいれば、すでに旅立った者もいると聞いている。
そして今、自分は軍装を纏い、兵を率いてここに来ている。
「分からんものだな」
「・・・・・・閣下?」
「気にするな。少し郷愁に浸っていただけだ。それよりもいつ来ても良いように備えていろ」
「はっ!」
それでも兵たちの動きや表情が固いように見受けられた。
そうなって当然だ。軍隊において上官の存在は絶対だ。
その頂点にいる人物が目の前にいるのだから萎縮しても仕方がない。それに加えて、人魔の規格外でもあるのだから。
肌でそれを感じつつもゲームニスは周囲に目を配り続けていた。
空には太陽があり、月光とは違う暖かな光を降り注いでいる。流れる川は光をキラキラと反射させている。
長閑(のどか)そのものの光景だ。弁当片手に遊びにくるには丁度良い日和だ。
と、沢に沿って流れる風が不快な臭いを運んできた。
「・・・・・・来たな。総員、戦闘態勢をとり守りを固めろ!」
『了解いたしました!』
ゲームニスと自分たちの隊長を中心にして兵たちは円陣を組む。
兵たちが槍を構えるのとほぼ同時に死者たちが姿を現した。
月光の下では不気味さが強くでていたが、陽の光の中では生理的な嫌悪が先に出る。
腐敗により今にも落ちそうな腕、皮膚が流れ落ちるように弛み、幾つかの死者は眼球を眼窩から垂らしている。
心構えのない者が見れば吐き気を催し、あるいは卒倒しそうな光景だ。
死体という存在にある程度の免疫を持つ第一魔軍の兵ですら幾らか顔を青ざめさせている。
ゲームニス自身も内心では酷く不快感を宿している。それでも将としての気概がそれを表に出すことを許さなかった。
ただ死者を冒涜する敵に憤怒の形相を浮かべていた。
「全力で弔ってやるぞ!!」
轟声とともに戦端は開いた。
一時撤退を命じられた先遣隊は馬を駆って山道をひた走っていた。
左右を流れる木々の緑は、ここに死色の軍が蠢いているとは思えない。
だが、それは間違いなく存在し、コルドンに無言の静かな圧力を加えている。
彼らの役目は陣地構築と、近衛騎団に協力を取り付けることだ。前者はすでに何度も訓練や実戦でも経験しており、そのための物資も問題ない。
問題なのは近衛騎団への協力要請だ。
彼らラインボルト軍と近衛騎団の立場は微妙だ。
同じ魔王に仕える者同士ではあるが、指揮系統は全く異なるため共同戦線を張るのに戸惑いがあるのだ。
近衛騎団は魔王の直属機関としての誇りを強く持っているため、国軍側の指揮官に従うことを嫌うのだ。それは国軍側にも言えることなのだが。
反発し合うわけではないが、良好な関係にあるとも言えない。両者はこれまで無視し合うようにして存在していたのだ。
通常なら大将軍直々の要請であれば近衛騎団もすんなりと受け入れるだろう。だが、今回は後継者が側にいる。
その状態で近衛騎団が指揮権をすんなりと渡すとは到底、思えなかった。
だがコルドン防衛という観点から考えると自分たち第一魔軍と同等、もしくはそれ以上の戦力を有する近衛騎団を遊ばせておくことは出来ない。
先遣隊を率いていた大隊長インボードはコルドンに戻ると同時に村を守っていた小隊にこれからの必要事項を伝えるとその足でゲームニス邸に向かった。
ゲームニス邸の様子はあまり変わりがない。前庭の要所に騎団の団員が警備しているだけで異変はなにもなかったように見受けられる。
協力交渉に臨まなければならないインボードは自分を落ち着かせるように深呼吸一つするとゲームニス邸の門扉を叩いた。
「お帰りなさいませ、インボード様。閣下より何かご指示でも」
「うむ。後継者殿下に謁見賜りたい」
「分かりました。すぐにお伺いしてきますので、客間にてお待ち下さい」
初老の家令はインボードに一礼すると、近くにいたメイドに頷きかけるとアスナの下へと向かった。
残されたインボードはメイドに案内された客間のソファに腰掛けながら、これからの交渉を思うと気が重くなるばかりだった。それに加えて彼にはゲームニスから託された密命もある。
全てが順調に進まなければ事が破綻する可能性は十二分にある。
綱渡り。その言葉が最も相応しいように思えた。
後継者に関する情報は何もない。遠目に見た限りでは優男以上の者には見えなかった。
およそ軍事組織を率いるに相応しいとは思えない細身の少年。
ゲームニスに心を寄せる者たちによって日々、もたらされる情報で後継者がどのような人物であるかは彼の想像の中で一応、形作られている。だが、自分たちと同等以上である近衛騎団をその実力で率いているというその一点だけは信じられなかった。
近衛騎団は魔王に従う存在であって、いくら後継者だとはいえ個人に仕えるような者たちではないからだ。
人格者として誉れ高い先王アイゼルでさえ、近衛騎団は魔王としてのアイゼルに付き従っただけに止まっている。
それを良く知っているだけに後継者とは言え、何の力もない人族の少年に近衛騎団が従っていることが不思議で仕方なかった。
と、ノックとともに家令のブルーバリが入ってきた。
「殿下がお出でになられます」
立ち上がり、インボードは後継者の姿を確認すると最敬礼を持って迎えた。
初めて間近でみる後継者は、遠目に見たとき以上に幼い印象を受けた。
とても騎団が主として戴いているとは思えない。事前情報と現実の齟齬に小さな戸惑いを覚えた。
背後に美貌の団員を付き従えてソファに腰掛けた後継者は、インボードにも腰掛けるように言うとさっそく切り出してきた。
「大将軍から伝言があると聞きましたが」
「はい。殿下のご滞在中、コルドン防衛のために近衛騎団に協力を要請いたします」
「状況はそんなに悪いんですか?」
尋ねられれば全て情報を開示せよと言われていたインボードは今回の”彷徨う者”が人為的であった物的証拠を掴んだこと、指揮者らしき不審人物の存在を確認したことを説明した。
後継者は改めてソファに深く腰掛け沈思した面持ちで「それで?」と先を促した。
「敵の規模が分からない以上、深追い出来ないとの大将軍閣下のご判断から一度、コルドンの防備を固めて長期戦に臨むことが決しました」
「・・・・・・それだけ? 他にはなにもなし」
「はい。私が言付かったことは以上です」
落胆の表情を見せる。大将軍に救援要請をしに来たのに逆に要請されたのだから無理もない。
「そう。・・・・・・それで、大将軍は今、どこに?」
「兵たちとともに近辺に敵が潜んでいないか調査されております。閣下はコルドン出身ですので」
「捜索中ってことか」
と、なぜか後継者は嬉しそうな表情を浮かべた。
「ご理解いただけたでしょうか」
「はい。・・・・・・それじゃ、こちらからも一つ質問があります」
「何でしょうか」
「オレたちが加勢すれば誰も死なせない自信がある?」
「はい。コルドン住民は命に替えましても守りきってみせます」
「そうじゃないって。オレは誰もって言ったんだ。コルドンの人はもちろん実際に剣をとる貴方たちも含めてってこと。誰一人死なせずに乗り切る自信があるなら要請を受け入れる」
無茶の条件だ。
戦いに出る以上、死の可能性は必ず存在する。足下に転がる小石の数だけ存在すると言って良い。その全てを全員、回避しろと言っているのだ。
個々の質に劣る”彷徨う者”とは言え数が揃えば十分に脅威となる。それを相手に一人の戦死者も出すなというのは滅茶苦茶な話だ。
だが全ての歯車が上手く噛み合えば不可能ではない。
「誰一人、死なせることなく乗り切って見せます」
「約束できる?」
「はい。お約束いたします」
「よしっ。サイナさん、隊長たちを呼んできて」
「了解いたしました」
程なくして歩兵及び騎兵部隊の隊長を伴ってサイナと呼ばれた士官が戻ってきた。
「みんなの疲れはとれた?」
「大丈夫です。いつでもご命令に従えます」
「ん。それじゃ、現時点からコルドンを出発するまでの間、歩兵部隊は第一魔軍の指揮下に入り、コルドン防衛に務めるように。騎兵部隊は現状通り、オレの護衛ということで」
『了解いたしました』
淀みなく最敬礼を返す部隊長たちにインボードは呆気にとられた。
反発もなければ、無言の抗議すらない。ただ命令を真摯に受け止める姿だけがあった。
「ありがとうございます、殿下。では、すぐに合流していただきたい」
「了解。すぐに兵を集めます。集合場所はあなた方の宿営地でよろしいのでしょうか」
インボードは頷く。まず以前いた場所に集合し、そこで皆に詳細を説明することになっている。今、参謀のオスマがその手はずを整えているはずだ。
「では、殿下。失礼いたします」
インボードは自分たちの指揮下に入った隊長とともに辞去した。
屋敷を出るまでの道すがらインボードは作戦の概要を隊長に説明した。
「貴隊には終始コルドンの防衛に務めていただく。陣地構築にも積極的に意見を出していただきたい」
「了解した。しかし、閣下も無茶な作戦を思いつかれる」
どこか楽しげに笑みを浮かべる隊長にインボードは「閣下も?」と聞き返した。
「アスナ様もかなり無茶をなさる方のですよ」
隊長は「全く困った主です」と苦笑を浮かべた。
何がどう彼らを変えたのかは分からない。だが、後継者を敬愛していることだけは確かなようだった。
宿営地に戻ったインボードは、合流し陣地構築の指揮を執っていたオスマに要請受諾を報告した。
その間にも後続の部隊が到着し始めた。
合流した近衛騎団の団員と自分の麾下の兵との顔合わせを行い、合同で陣地の構築に乗り出した。陣地は少数でも十二分に支えるように配慮が成された陣地を構築していく。
インボードが兵や下士官たちを直接、監督している間にオスマは中隊長、小隊長を集めこの一時撤退の意味を説明し、今後の行動の指示を下した。
やがて陣地が粗方、完成すると伝令が駆け込んできた。
「合図が上がりました!」
沢は死に満ちている。
死臭が充満し、至る所に再びの眠りに就いた死者たちが転がっている。
戦闘開始からすでに三時間近くが経過している。
守りを固め、少数規模で間断なく”彷徨う者”の群がゲームニスたちに襲い続けていた。ラインボルト最精鋭軍である第一魔軍と言えども、自分たちと同規模の敵を倒し続けることには限界がある。
倒しても倒してもきりがないのは精神的にもきついものがある。環境的にもあまりに濃い死臭に呼吸すら困難だ。
兵たちからすれば小出しにされるよりも一度に纏めて攻められた方がずっと対処しやすい。爆炎系の魔法を使用すれば炎と爆風で魔法という視点以上に多くの破壊を与えることが出来る。
だが、このように小出しされると彼らが行使できるのは対人用魔法に限られる。そして魔法の行使にはそれぞれが持ち合わせている魔法力と、それを魔法へと形作る意思力が必要となる。
終わりの見えない敵の襲撃に魔法力はともかく、意思力はかなり挫かれていた。
その彼らを精神的に支えたのは大将軍ゲームニスの存在であった。
自分たちと同じように槍を手に単騎で沢を縦横無尽に奮戦する老将の姿は伝説的ですら合った。
振り回される槍は魔力で強化され、ただの一振りで十数もの死者を屠り、その老いを感じさせない体捌きは闘気によって補強されている。
ゲームニスが動く度に黒々とした血飛沫が舞い、肉体の部位が散乱する。
豊富な実戦経験に裏打ちされたその戦いぶりは舞踊のようにすら見える。
武人が見せる剣舞よりも華麗にして、凄惨。
舞楽は肉切り、骨断つ音。囃し立てるは断末魔の声。
ただひたすらに、一心不乱に舞う。
戦場(いくさば)という名の舞台で生という名の観客の喝采を浴びるためにただひたすらに舞い続ける。
「むっ!?」
舞うゲームニスの目に新たな共演者が姿を現した。
「ようやく本格的に来たか。・・・・・・皆の者、死に抗せよ! 手にせし槍に意思を込め、心の内に生への渇望を抱け。貴様らは我が配下、第一魔軍の兵である!! ただひたすらに死に抗せよ。己の死すら切り伏せるのだ!」
『了解いたしました!』
「よろしい!」
口の両端をつり上げて満面の笑みを浮かべて戦う。
愉悦とは異なる、精悍そのものの笑みをゲームニスは浮かべていた。
その笑みの強さに比例して、”彷徨う者”が増えていく。今や沢を埋め尽くすほどに死者が犇めいている。
ゲームニスはいつの間にか開いてしまった小隊との距離と合流すべく槍を振るい続ける。常套手段をとるのならば、ここで戦術級魔法を行使すれば良いのだが老将はそれをしない。
兵たちと同じように槍と対人魔法の行使にのみ終始している。
纏った軍装を赤黒く染め、死体を踏み潰してゲームニスは小隊と合流を果たした。
「損害はあるか!」
「損害は皆無。戦闘続行可能です!」
「よろしい。では・・・・・・」
「閣下、死者の隊列が崩れました」
「やったようだな!」
ゲームニスの喝采に応えるように沢を取り囲む山林の中や岸壁の上から空に向けて光の球体が上がった。
沢から離れた山林。その木の上には軽装の兵、三名が隠れるようにいた。
彼らはここで周囲を捜索し、指揮者と思しき人物を捕獲、もしくは殺せと命じられているのだ。
木の上に潜んですでに三時間以上が経過している。
その間、彼らは眼下の沢で苦闘を展開するゲームニスたちを見ていることしか許されなかった。手を出すことは何があっても許さないと厳命されている。
次々と現れる”彷徨う者”の姿は遠目で見た場合の方がずっと恐怖だ。
そして、これだけの数の死者を用意するのにどれだけの墓を暴き、どれだけの民を殺戮したのか考えると、どうしても思考停止状態になる。
蠢く死から意識を外そうと彼らは周囲の監視を密にする。
聞こえる怨嗟の声に死臭からはどうしても逃れることは出来ないが、生理的な嫌悪と恐怖は遮断できる。
不意に沢からのものとは異なる音が混じった。
木の上の兵たちが慌ただしく視線を動かし始めた。
”来たか”
”みたいだな。どうしますか?”
隠密行動をとる彼らの会話は簡単な手話となる。
手話と兵の視線を受けて彼らを指揮する下士官が頷く。
”姿を確認した後、五分後に捕獲を開始する”
二人は頷きで応え、捜索を再開する。同じく下士官も山林の向こうに視線を向ける。
見える先には山林の作る影があるのみ。その影を見ながら下士官はこの作戦の部隊配置その他を立案した参謀、オスマに舌を巻いた。
昨夜の奇襲からある程度、接近しなければ操れないと推測されている。
とは言え、ここで捜索任務に就いていても指揮者を発見できるとは限らない。
だがオスマは地理的な条件からこの場所を特定したのだろう。
”来た!”
兵の合図に下士官は山林の向こうに目をやった。
影の中から姿を現したのは死の軍団を指揮する者とは思えない姿の男だった。
一般人が着るような簡素なシャツにズボン姿。ただ彼の右腕には禍々しいまでの赤黒い光を放つ腕輪を填めている。
間違いない、あれが指揮者だ、と下士官は確信した。
先日、自害した指揮者と思しき人物が同じ様な腕輪を填めていたと聞いている。
男はゆっくりとした足取りでこちらに来る。真っ直ぐに。
緊張感に満ちる。まさかここまで正確に来るとは彼らも思っていなかった。
男は歩いてくる。下草や落ち葉、枯れ木を踏みながら、散歩をするような足取りで来る。
”どうします!?”
”もう少し待て”
男の歩みに何かが混じり始める。
”!?”
見ればそこにも”彷徨う者”の群が控えている。かなりの数だ。恐らくあれがこの男が率いている死者なのだろう。あれだけの数を三人で相手することは不可能だ。
一度、やり過ごしたのち奇襲をかけるべきか。もしくはすぐに動くか。
捕獲することを考えると、どちらも危険性がある。
男が彼らの潜む木の下にまで来た。
緊張感からか兵の一人が小さく掴んでいた木を揺らしてしまった。
「なっ!?」
こちらを見た男が驚愕に目を開いた。今まさに大将軍ゲームニスを討とうとしていた矢先に、実は自分たちが罠にかかったと知ったのだ。
・・・・・・やむを得ない。
「殺れ!」
下士官の命令に従い、二人は飛び降りた。手には剣ではなく大振りのナイフだ。
男も行動に移ろうとしたが、僅かに遅い。事前の補足の有無が明暗を分けた。
兵の一人は男の背後に降り、延髄を断つ。だめ押しとばかりにもう一人の兵が心臓にナイフを突き刺した。
為す術もなく男は絶命した。
このような任務に就いていた以上、優秀な人物であったことは間違いない。
だが、自分たちが絶対に優位であるという奢りがこの男を死へと導いたのだろう。
不意に足音が近づいてきた。それもかなりの早さだ。
見れば指揮者を失い統制が無くなった”彷徨う者”が自分たちを引き裂こうと襲いかかろうとしていた。
「まずいっ!」
下士官は木の上から飛び降りると男が填めていた腕輪を、腕ごと切り取った。
指揮者自身を捕獲できなかった以上、関係する物品の回収をしなければならない。
「回収完了。合図を上げた後、撤収する」
下士官は左手を高く、そらに突き立てるように光の玉を空に放った。
指揮官の排除に成功、と。
空に上がった光の数だけゲームニスに有利となった。
その数、十八。少なくともそれだけの数の指揮者が存在し、一度にそれだけの数を討ち取ったのだ。
槍を振るいながらゲームニスはほくそ笑んだ。
「まったくオスマの読みは的確だな」
敵が欲しがる自分の首を囮にして、”彷徨う者”と指揮者を誘き寄せ、周囲に潜伏させていた兵で一気に指揮者を捕獲、もしくは討ち取る。
それがゲームニスが立案した作戦の概要だ。
誰でも思いつきそうな単純な策だ。だが、これを実際に成功させることはかなり難しい。
この地は山間にあり、多くの木々が自生し、下草が繁茂している。そのような所に少数の兵を潜伏させても指揮者を発見することはまず不可能だ。
あらかじめ、指揮者が現れるであろう場所に兵を配置しておかなければまず捕獲することはもちろん、討ち取ることすら出来ないだろう。
その難解な条件をオスマは克服したのだ。
また、オスマはそれだけではなく兵をコルドンに撤収させることで、敵にゲームニスを襲いやすい状況を作り出した。もっともこの兵の移動は他にも意味がある。
仮に今回の作戦が失敗してもコルドンという拠点があれば十分に死者たちを殲滅することが可能だ。また作戦が成功した場合でも、戦場となっている沢までコルドンからならば幼少の頃、ゲームニスが使用した獣道を使えば、短時間で死者の包囲、殲滅が可能となるのだ。
指揮者を失い、隊列を崩したとは言え、その脅威はあまり軽減はされない。
生と未来を奪われた怨嗟の暴徒はただただ生ある者を妬み、自分と同じ境地へと引きずり込もうとするのだ。統率を失った今こそが”彷徨う者”としての本分なのだ。
それを支え続けるには兵たちの疲労は極みに達していた。
小隊の兵の大半は負傷し、ゲームニスを初めまだ戦える者に庇われている状態だ。
「もうすぐだ! もうすぐ救援がくる。それまで持たせろ!!」
応えるように爆音がした。炎が立ち上り、死者が宙を舞う。
「閣下!!」
「ようやく到着したようだな。最後まで気を抜くでないぞ!」
兵たちの咆哮が続く。少しずつ、だが確実に近づいてくる。
「合図を上げろ。我らはここにいるとな」
負傷し、砂利に伏した兵の一人が空に向けて光を放った。
それが目印となり、足音はさらに近づいてくる。今や死を切り伏せる音すらも聞こえる。
「閣下、ご無事ですか!」
ついに合流を果たした。ゲームニスが維持していた小さな守りはさらなる守りにより大きく膨れる。
「安心しろ、歳はとっておるが貴様らよりも頑丈だ。それよりも彼らを頼む」
「了解しました。おい!」
声と同時に治療が始まる。
「戦況はどうなっておる」
「作戦通り、大隊長の指揮により包囲を作りつつありますが、”彷徨う者”の数があまりに多く完全な包囲は不可能かと思われます」
「それでコルドンはどうなっている」
「陣を固め、防御を固めております。救援に向かう際一度、”彷徨う者”と遭遇戦となりましたがこれを撃破。討ち漏らしたとしても十分に対処可能です」
「そうか。ならば包囲、殲滅を終了した後、山狩りを開始せよとインボードに伝えよ」
「了解いたしました」
「よろしい。では、ここは任せる」
「閣下!?」
「完全な包囲殲滅が出来ないのだろう。ならば可能な限り数を減らしておくべきだろう」
すでに陽は沈み、淡い魔導珠が発する光に客間は照らされている。
調度を始め、落ち着きを演出している客間に先ほどから似つかわしくない忙しない音が小さく鳴り続けていた。音の中心地はベッド近くに設えたテーブルだ。
椅子に腰掛けたアスナはしきりに貧乏揺すりをしていた。それにあわせてティーセットが音を立てているのだ。
本来、こんな癖を彼は持っていない。持ち合わせない癖を引っぱり出して焦りを抑えようとしている。だが、こんなことで抑えられるはずがない。
そんなことアスナが一番分かっている。分かっているから余計に苛つくのだ。
ゲームニス邸に逗留してから早くも三日。未だに屋敷の主は戻ってこない。
それどころか、一度として大将軍から現状を報告する伝令が来なかった。
来たのは協力要請があったときのみ。
伝令を送れないほど”彷徨う者”の討伐が難航しているのか、アスナに伝令を送る必要がないと考えているのか分からない。
サイナは前者だと言い、アスナの理性も同じ判断を下している。
だからと言って、感情もそれに従うとは限らない。むしろそのことを認めているからこそ、感情が意固地になっているのかもしれない。
考えてみれば幻想界に来てから何もできなかった日は、この数日が始めてではないだろうか。幻想界(こちら)に来てから今までずっと突っ走ってきたアスナには、この突然の空白に耐えきれるものではなかった。
この内乱に決着がついた後ならば、こういった数日を押し付けられても落ち着いていられたかもしれない。だが今は危急の時なのだ。
内乱の真っ直中で、もしかしたら今日もファイラスでは戦闘があったかも知れない。報告にあった”彷徨う者”の大量発生でまた一つ集落が消え去っているかも知れない。
何より今、近衛騎団が相対しているのは幻想界に威名を轟かせる軍師、LDなのだ。
だのに渦中にいなければならない自分がこんなところで何もできないでいる。
焦りは募るばかり。消え去らない。消し去る手段が見つからない。
不意に洞窟の奥で鳴る管弦楽器のような音がした。
客室に設えた柱時計の時報だ。見れば針は十時を指している。
ラインボルトにおける時計の普及率は高くない。所有しているのは中産階級以上というのが一般的だ。
普及しない一因に価格の問題がある。幻想界の時計は非常に高価なのだ。
製造が一つ一つ手作りだということもあるが、最大の原因は過剰までに精緻細工が施されていることだ。時計職人たちの誇りとして、彼らは彫刻や金細工、凝った仕掛けを施さないと気が済まないのだ。
それは時間は神が、もしくは国家が管理すべきものとして特別視され、特権者たちだけが所有を許されていた時代(ころ)の名残だった。
もっとも時計があまり普及しない最大の原因は幻想界の人々の体内時計の精度だろう。
人族のそれを凌駕する精度を持っているため日常生活を送る上では不要なのだ。
その柱時計が時を告げ終わるのと同時にノック音がした。
「どうぞ」
苛立ちを隠しきれない声に従って入ってきたのはサイナだった。
「・・・・・・なに。大将軍が帰ってきたのか?」
愛想の欠片もない問いかけを受け流すように彼女はいつも通りの平静を見せていた。
「いえ、就寝のご挨拶に参りました」
とは言っているが数時間、休んだ後で再びアスナの警護に戻るのだろう。
他の団員たちもそうだ。皆、アスナの警護に昼夜問わず頑張っている。
イクシスは昔、ゲームニスを助けた人物として近衛騎団が第一魔軍の兵や村人と無用の衝突をしないように気遣ってくれているし、ロディマスも村に運び込んだ負傷者の治療を行っている。
ここで何もしていないのは、何もできないのは自分だけだ。
そんなアスナにサイナは気遣わしげに接してくれるのだが、それがまた彼を苛立たせることになっていた。
「そう。だったらおやすみ。今日はもういいから」
自分の口から出た心にもない言葉がさらにアスナを自己嫌悪に追い込む。
「・・・・・・アスナ様」
「なんだよ。オレのことなんて、もうどうでも良いから。早く休めばいいだろ!」
「落ち着いて下さい」
「落ち着けって、落ち着けるわけないだろ!」
椅子を蹴飛ばしてアスナは立ち上がった。
「大将軍と話をしにきたのに三日も帰ってこなくて、こうしている間もヴァイアスたちはムシュウに迫ってて、ファイラスでも戦闘が起こってるかも知れないんだぞ。”彷徨う者”たちに小さな村が潰されてるかも知れないんだぞ。そんなときにじっとしてなんか出来るわけないだろ! なのに何もできないなんて」
「アスナ様はいま出来ることをされています。ムシュウ方面に出る山道が通れるか騎兵に調査するよう指示を出され、このコルドンが”彷徨う者”に襲撃を受けないよう防備を固めるよう残りの団員たちに命じられているのです。アスナ様はやるべきことは全てしていらっしゃるんです」
「そんなのは詭弁だ。実際に仕事をしているのは団員のみんなだ! オレは何もしてない。何もできないんだ!」
「そんなことはありません。アスナ様が命じられたから我々は動いているのです」
「嘘吐くな! オレがなにも言わなくてもサイナさんが同じことを命令したはずだ」
苛立ちと焦りがアスナの思考を空回りさせる。自分を卑下することしか出来なかった。
「・・・・・・アスナ様」
「話すことはもうないんだろ。だったら、出ていってくれ。それとも今すぐ大将軍を連れてきてくれるっていうのかよ!」
大声を上げながらアスナはテーブルを平手で叩いた。
これ以上、サイナの顔を見ていたくなかった。彼女に心にもない罵声を浴びせかけるのは辛すぎたからだ。苛立ち、不安、後悔で顔を歪ませている。
それを一言で言い表すのなら、途方に暮れた幼子のようだった。
「私ではアスナ様の問題を解決することは出来ません」
何かを迷うように俯いたまま彼女は言った。
「分かってるんだったら、すぐに・・・・・・」
「ですがお身体の苛立ちを鎮めることはできます」
「どういう・・・・・・!?」
スッと顔を上げると彼女はアスナに歩み寄ると自分の唇でアスナの言葉を堰き止めた。
硬くて、柔らかい。そんな感じ。
ほんの数秒だったのか、数分だったのか分からない。友人から聞いた甘く痺れるような感覚はなく、ただただ驚いた。
離れると普段、絶対に見られないほどに表情を強張らせ、赤面した彼女がいた。
「サイナさん」
目を見開いて、それ以上、言葉を紡げないアスナをゆっくりと彼女が抱きしめた。すっきりとしたミント系の香りに混じって甘い香りがアスナの鼻腔をくすぐる。
甘く清涼な香りと自分を包む温かく柔らかな感触にアスナはようやく、自分がサイナとキスをしたという事実を受け止めた。そしてそれがアスナを狼狽えさせる。
「・・・・・・なんで」
さきほどまでの苛立ちと不安は突然の彼女の行為に塗りつぶされてしまった。
「私の身体でアスナ様をお慰めします」
「なっ!?」
抗議の声を上げようと開いた口に彼女はいきなり舌を思い切り滑り込ませてきた。
咄嗟に逃げようとするが、サイナの左手が背に、そして右手は頭を抱えられていて逃げることは出来ない。
彼女の舌が無茶苦茶に動き回る。歯茎をなぞられ、舌を触れられる。次第に絡められていく。
ただそれだけのことなのに頭の芯が痺れ、何も考えられなくなっていく。
理性の壁を舐め取られていくような感覚。
口腔で自分の舌以外のものが蠢くのは不思議と不快ではない。むしろ気持ちいいくらいだ。一方的に舌を攻められアスナはすぅっと力が抜けてしまい、彼女に支えられてベッドの縁に腰を下ろされた。抱きしめられていた身体とともに暖かな唇が離れていく。
「・・・・・・あっ」
女の子のような可愛い声を上げてしまいアスナは赤面してしまう。
「少し、お待ち下さい」
言って口端に垂れた唾液を親指で拭い取ってやる。
キスの魔力に囚われたアスナはされるがまま、彼女の顔を見ていた。
普段の怜悧さを表情に浮かべつつも、頬は桃色に染まり、とても蠱惑的に見える。
どことなくぎこちない笑みを見せるとサイナはゆっくりと長衣の裾に手をかけた。
「サイナさん!?」
声を裏返させて立ち上がろうとするアスナの肩に手を置いて押し止めた。
「そのまま見ていて下さい」
解けかけた魔法をかけなおすように彼女は再びキスをした。
重ねるというよりも舐めるような口づけにアスナの思考は再び麻痺してしまう。
長衣とズボンを脱いだ後に現れたのは近衛騎団の団員たちが内服として着ている身体の線が良く出るスーツだ。
抱きしめられて感じたときよりも量感のある二つのふくらみは美しい曲線を描きつつも苦しげにスーツを押し上げ、ほっそりとした腰から胸とは違う引き締まった曲線が描かれる。そして躍動感のある筋肉に包まれた両脚へと続く。
アスナの喉が大きく動く。抑えられない鼓動が息を荒くしていく。
じんわりと、だが確実にアスナの内に理性を焼き払う熱が生まれ始めていた。
やがて内服をも彼女は脱ぎ捨てた。
「・・・・・・・・・・・・」
思わず息を飲んでしまった。
彫像では決して作り得ない、生の美しさを放っている。羞恥に桜色に染める肌を遮るものは、もうしわけ程度に胸と腰を覆う薄い青の下着のみだ。
彼女は、自身の違和感の象徴である胸を右腕で一度、隠そうとしたが止めて、そのまま提げている左腕を掴んだ。その仕草までもが美しい。
ただ人族と異なる箇所がある。肩から肘まで、腰から膝裏にかけて、そして首もとに首飾りのような円弧を描く青い痣のようなものがうっすらとある。
それは彼女が海聖族である証だ。
海聖族は水中で活動する場合、青い痣を基点にして魔法力で作り出した擬似的な鱗を生やし、水から拒絶されることを防いでいるのだ。
自分の主の視線から逃れるように背けていた、羞恥に染まった顔をゆっくりと上げる。そして、彼女は伺うような表情をアスナに投げかけた。
「その、人族でいらっしゃるアスナ様の目には気味悪く映るでしょうか」
そんなことはない。アスナは完全にサイナに見惚れてしまっていた。
首を振るアスナに彼女は吐息をするように「よかった」と呟いた。
普段のサイナらしからぬ仕草にアスナは言いようのない愛らしさを感じてしまった。彼女の容姿、仕草、そして言葉に囚われており、アスナは逃げ出すことも、声を上げることすらもせず、歩み寄ってきた彼女を見ていることしか出来なかった。思考停止のアスナは促されるまま、ベッドに上がる。
そして優しく抱きしめられる。
「アスナ様、私をお抱き下さい」
耳元でささやき、左耳を唇で甘噛みされる。
快感なのかどうか分からない刺激が背中を駆け抜ける。
「なんで、こんなことする・・・・・・んあっ」
突然、優しく歯で噛まれた。三度ほどそうすると彼女は歯形が付き添うなほどに強く噛んだ。
「サイナ、さん」
彼女はさらに擦り寄り、潰れるほどに自分の胸をアスナに押し付ける。
「アスナ様をお慰めするためです」
うっすらと付いた歯形を舐める。舌で形を確かめるように舐める。
舌が動く都度、漏れそうになる声を堪えながら抗議した。
「こんなこと、しなくて良いから」
だが彼女は耳を傾けようとはしない。耳の形を確かめ終わると舌先をアスナの首筋を滑らせ始める。背中にまわされた彼女の右手が左脇をくすぐる。
「あああぁあぁ・・・・・・」
抑えきれず漏らした声にアスナの首は羞恥の色に染まる。
「ご無理をなさらずに私を好きになさって下さい」
彼女の左手でアスナの寝間着のボタンを下から撫でるように外し始める。
「それに私は知っています。司令部の男たちに花街に誘われても何かと理由を付けて断られていたでしょう」
ラインボルトにも男たちに一時の夢を与える歓楽街が存在する。
大きな都市ならば規模の差はあるものの、そういった区画は必ずある。
そういった場所で休養を取る団員たちは少なくない。近衛騎団の誇りを謳っていても彼ら自身を形作る基礎はただの男だ。
徹底された規律と生と死の狭間に常時いれば鬱憤も溜まってしまう。
彼らはそれを晴らすために娼館へと繰り出していくのだ。
「なぜですか、アスナ様」
言えるわけがない。経験したことがない場所に連れて行かれるのが怖かっただなんて。
首筋を甘く噛んでいた彼女が唇を離し、求めるような視線を送ってくる。
「あ、あの・・・・・・」
「仰らなくて良いです。分かっていますから」
上着の全てのボタンが外され、包帯に包まれた胸がはだける。
彼女は包帯を湿らせるように、アスナの胸に舌を這わせていく。
もう火傷はほとんど完治している。それでも敏感になった肌が痛みとは違う鋭い刺激が背筋を走り、アスナの背を仰け反らせる。
「もう我慢なさらなくても良いんです。出陣以来、一度もご自分で慰めてもいらっしゃらないんですから」
「なんでそんなことまで知っ・・・・・・あぁっ!」
胸に巻かれた包帯を押し上げるような小さな隆起を舌で転がされた。
「お忘れですか。私たちはアスナ様の警護だけではなく、身の回りのお世話もさせていただいていることを。何か変わったことがあればすぐに気付きます」
胸から離れ、彼女はアスナを覗き込む。
「いつものように我が儘をぶつけて下さい。もし分からないのなら教えて差し上げます。・・・・・・それに」
武人とは思えない細く長い繊手がアスナの足の間を撫でていく。
「私も、アスナ様が欲しい」
理性が、決壊した。
交歓の余韻に浸りながら、擦り寄り、抱きしめ合っていた二人はいつの間にか小さなまどろみの中にあった。肌で感じる温もりと鼓動の音がとても心地良い。
やがて、アスナはゆっくりと身を起こした。まだ余韻が身体の芯に残っているのか、どこか気怠い。
アスナは脱ぎ散らかしたズボンからハンカチを取り出すと、力無くベッドに身を預けたままのサイナの事後処理をしてやる。こういうことは男の仕事のような気がするから。
「じ、自分でしますから」
「いいから」
何をされるのかに気づき身を起こすサイナを押し止めると、アスナは手早く、綺麗に拭き取ってやるとベッドの隅に押しやられていたシーツをかけてやる。
アスナもサイナに寄り添うようにして横臥すると、彼女の顔を覗き込む。そして、いま出来る最高の不満顔、ジト目でサイナを睨んだ。
「・・・・・・ウソつき」
まさかこんなことを言われるとは思わなかった彼女は大きく目を開けた。
「な〜にが、もし分からないのなら教えて差し上げます、だよ。自分だって初めてだったくせに」
途端に耳まで赤面するとサイナはかけられたシーツを引き上げ、顔の半分を隠してしまう。その仕草が妙に可愛くて自然と頭を撫でてしまう。
「・・・・・・じゃないです」
「ごめん、良く聞こえなかった」
「半分はウソじゃないです」
「・・・・・・半分って?」
赤面したままの彼女はアスナから目をそらすと、
「アスナ様が欲しいと言ったのはうそじゃないです」
「えっ、・・・・・・あー、その」
今度はアスナが赤面する番だった。
「うそじゃないですから」
「・・・・・・うん」
途端に顔を合わせられなくなった。照れくさくって、けど不思議と嬉しい。
「けど、あんな無茶苦茶なやり方をしなくても良かったと思う」
「あのようにしなければ、その気になっていただけないと思ったので」
「まぁ、そうかもしれないけど。・・・・・・サイナさん」
「はい」
「ヤっちゃった後でこんなこというのは卑怯だって分かってるけど、・・・・・・ホントにオレなんかで良かったの?」
アスナの問いに沈黙で彼女は応えた。
怒らせたかと思ったが、アスナの口からは謝罪の言葉よりも問いかけが出てきた。
「男のオレが言うのもなんだけど、騎団のみんなって格好いいし、強いし。オレなんか・・・・・・」
それ以上、自分を卑下するような言葉は出なかった。サイナのどこか怒った顔を前に黙るしかなかった。
「・・・・・・ゴメン」
左手でかけてもらったシーツが落ちないようにしながら、サイナは左手で項垂れるアスナの手を握った。
「私は、アスナ様が良かったんです。・・・・・・それにアスナ様はとてもお強いです」
口を開こうとしたアスナを、サイナは小さく首を振って止めた。
「そう言う意味の強さではありません。アスナ様の強さは一言で言い表せるようなものではないんです」
「そんなの、オレは」
「何の力もなく、幻想界の一般常識すらも知らないただの人族が幻想界有数の武力機関である近衛騎団を意のままに操っているのはなぜですか?」
「それはオレが後継者だからで」
「初めはそうかもしれません。少なくとも私はアスナ様のことを初めはそう見ていましたから。ですが、一緒に戦って、食事をとって、大騒ぎをしてただアスナ様が私たちと一緒にいて下さっただけで、私たちはアスナ様に従おうという気になるんです」
そして言い含めるようにサイナは断言する。
「それがアスナ様の強さです。誰にも真似できないアスナ様だけの強さなんです」
目に見えない強さというものは周りの者以上に、自分自身が実感することは非常に難しい。だが、染み込むようなサイナの言葉にアスナは「それがオレの強さ」と反芻する。
ことり、と心の中で一応の整理がついたような気がした。
自分で納得したわけじゃない。だけど、この一生懸命で不器用なサイナがそう言ってくれたのだから、少なくとも自分にはそう言うところがあるんだと思えた。
アスナはゆっくりと顔を上げた。自信に満ちた微笑を浮かべるサイナを見た。
「・・・・・・ありがとう。サイナさんみたいな女の子にそう言ってもらえると少しは自信を持って良いって思える」
「・・・・・・・・・・・・」
なぜか彼女は赤面させ、少しだけ俯いてしまう。
「あの、オレ、なんか変なこと言ったかな?」
「いえ、その、・・・・・・女の子だなんて、殿方に呼ばれたことが皆無に等しいもので」
「そうなの?」
サイナが女の子なのは十二分以上に知っている。身も心も女の子以外の何者でもない。
ひょっとして両性の人なのだろうかと思ったアスナがそれを口にする前に、サイナはポツポツと話し始めた。
「私の家は代々武官を輩出している家系なのです。そのため我が家の男子は幼い頃からそのための教育を受けることが決められています」
名家の称号を与えられた家ではそう珍しいことではない。
積み上げてきた経験と能力を次代に受け継がせることもあるが、家名に恥じない地位と実力を子どもに求められるのだ。
「ですが、父の代で問題が起きたのです」
代々武官を輩出する家系として家を継ぐ男子が生まれることが待たれたが、彼女の両親はかなりの高齢となるまで子どもが出来なかった。そしてようやく生まれたのがサイナだった。
彼女の両親はようやく生まれた我が子に大いに喜んだが、祖父はあまり喜ばなかったという。家を継ぐのは男子であるべきだという考えだったからだ。
だが彼女の両親は再び子どもを成すには歳を取りすぎており、次を望むのは難しい。
そこでサイナの祖父は彼女を家を継ぐのに相応しい”男子”として育てることにした。「当然、両親はそれに難色を示したそうですが、祖父に反対しきれなかったのです。我が家では祖父の言葉は絶対に近いものですから」
そうして自分が世間一般の女の子とは違うことを知らずに彼女は祖父の下で”男”として武官となるべく教育を受け続けた。
だが、成長すれば否応なく身体は女性として成熟していく。
それが彼女の心の中で幾つもの齟齬を生み出していく。その齟齬を打ち消そうと彼女はさらに訓練を続け、近衛騎団に入団した頃には平均的な武官を越える力を持つようになっていた。だが、彼女の祖父はそのことを喜ばなかったらしい。
「入団する少し前に母が身籠もり、弟が生まれたんです。すると今度は入団を辞退し、女らしくしろと祖父は言うんです。私をこうした祖父が、私を否定する。私はどうすればいいのか」
アスナは自分の手を包んでいたサイナの左手を握り返した。
「正直、サイナさんじゃないオレじゃ、なにが良いか悪いかなんて言い切れない。こんなこというのは傲慢だって分かってるけど、・・・・・・少なくともオレにとっては良かったと思う。サイナさんが近衛騎団に入団してくれてなかったら、今こうして一緒にいなかったし、それに今のサイナさんだからオレ、好きになったんだと思うから」
「・・・・・・ありがとうございます」
「だから、この内乱が終わった後、正式に・・・・・・」
付き合って欲しい。その言葉は静かに首を振ったサイナによって止められた。
「・・・・・・なんで」
心も体も、彼女の全てで自分を受け入れてくれたのに。
「お気持ちは嬉しいのですが、私ではアスナ様の寵姫に相応しくありません」
「相応しいとか相応しくないとか、そんなの関係ないだろ。オレはそんなの気にしない!」
「アスナ様が気になさらなくても周りが気にします。アスナ様は魔王となられるんです。その、寵姫ともなれば、外交式典などにも着飾って出席しなければなりません。私にはそういったことは出来ません」
「オレはただサイナさんが好きで、側にいて欲しいだけなんだ」
「ありがとうございます。ですが、そのお言葉は姫様におかけ下さい」
と、彼女は笑みとともに言った。瞳の奥に宿る寂しさにアスナは気付かない。
「エルトナージュに!? なんで」
「ミュリカほどではありませんが、私も多少、人よりも剣が使えるということで姫様と多く時間をともにさせていただきましたから。姫様は私以上に何もないんです」
「何もないって、エルはお姫様で宰相じゃないか。何もないはずなんて、ないだろ」
「だからです。姫様は物心つく頃にはすでに後継者としての片鱗を見せていたと聞きます。そのため、幼い頃から私と同じように次代の魔王に相応しい教育を受けてこられ、ご本人もそのことを自覚なさっていたとミュリカから聞いています」
その後、母親を”彷徨う者”に殺されしまい、さらに知識と武術の習熟に没頭していくことになる。
「ご成長とともに姫様の力は強くなりましたが、後継者としての器は片鱗を見せた程度でそれ以上、大きくはなりませんでした。そして、先王陛下が病床に伏されたことで宰相を拝命なされ今に至ります」
そんなことミュリカからもLDからも聞いていることだ。
「お分かりになりませんか? 姫様は物心ついた頃から後継者として、先王陛下から宰相を任されてからは宰相としての時間しかなかったんです。もちろん、側にミュリカがいましたからいろいろと引っ張り回したと思いますが、それもほんのわずか」
「それって、つまり」
「はい。エルトナージュという名の女の子はいないんです。今はエルトナージュという名の宰相がいるだけです」
それはとても寂しいことだと思う。
一度手に入れた地位は自分よりも優秀な者が出てくるまであらゆる手段を使って守れというのがアスナのジイさんの教えにある。これは当たり前のことだ。
それは役職とは一個人のみが独占するものではないことを意味している。
だがそうなると、役職でしかないエルトナージュから別の、時勢にあった人物を宰相に就けるということは彼女を殺すことと同義であることになる。
幻想界に来て彼女から酷い拒絶の声を浴びせられたにも関わらず、彼女の手助けしたい、放っておけないと思ったのは、無意識のうちにそれを感じ取っていたのかも知れない。
何となくアスナはそう思った。それと同時に小さなため息も漏れる。
「ったく、なんでこうもオレが好きになった女の子はみんな、エルトナージュの方を気にしてくれって言うんだろうな」
「ひょっとしてミュリカのことを?」
「ちょっと、ね。けど、ミュリカにはヴァイアスがいるし、それにオレのこと友だち以上には見てくれないだろうしさ。・・・・・・ちょっと怒った?」
「いえ。ただ、同じ事を考えていたのが不思議だと思っただけです」
「・・・・・・くしゅん」
我ながら女の子みたいなくしゃみだと自己嫌悪になる。それに考えてみれば今も裸のままだ。一度、そのことを意識してしまうと必要以上に恥ずかしい。
おたおたとするアスナにサイナは小さく笑むとくるまっていたシーツを広げた。
「アスナ様」
「えっ、良いの?」
笑みを浮かべたまま彼女は頷いた。ほんの少し前まであれだけ交わし合っていたにも関わらず、アスナは緊張した面持ちでサイナの隣に寄り添った。
シーツが二人をくるんだ。とても暖かく、とてもいい匂いがする。
それが凄く嬉しくて、くすぐったくってアスナは笑った。
「なんか恋人同士みたい」
「・・・・・・アスナ様」
「あ、うん。エルトナージュのことだよな」
そう今の問題は彼女のことだ。アスナはエルトナージュのことを手助けしたいとは思っているが、好きでも嫌いでもない。だけど、一番の問題なのは、
「だけどさ、エルトナージュはオレのこと思いっきり嫌ってるからどうしたものか」
変な気分だった。
すぐ隣に好きになった女の子と裸で一緒のシーツにくるまってるのに、別の女の子の話をしているなんて。それに違和感を感じるが、不快感は全く感じない自分は不誠実なんだろうなと思う。
「まずは多く言葉を交わして、同じ時を過ごすことだと思います。お互いのことを良く知ることは大切なことですから。・・・・・・アスナ様?」
そっとアスナは彼女の手を握った。
「うん。初めは滅茶苦茶だったけど、途中からはサイナさんが好きだって気付いて、サイナさんもオレが良いって言ってくれたから抱いたんだ。それで今はサイナさんに言われてエルトナージュのことを考えてる。これってやっぱり変だよ」
手を握ったまま彼女の身体を引き寄せて抱きしめる。
「サイナさんはエルのことを考えてくれって言った。それは分かるんだ。オレも放っておけない気がしてるから。だけどオレの気持ちは? サイナさんのことが好きだって言うオレの気持ちはどこに行けば良いんだよ」
「・・・・・・申し訳ありません」
肩に頭を乗せるように項垂れるサイナの謝罪の声をアスナは聞かない。聞かないが、その言葉を原動力とした。謝ってもらいたくて、あんなことを言ったんじゃないんだから。
「決めた」
言葉とともにさらに強く抱きしめる。
「寵姫にはならなくても良い。けど、サイナさんはオレの臣下だから側にいてもらう」
不誠実さで言えば今、アスナが言ったことのほうがずっと不誠実だ。
剣を捧げ、個人的にも臣下になったとは言え、その者を常に側近くに置くと宣言することはあまり良いことではない。何しろ依怙贔屓をすると堂々と言ってのけたのだから。
だが、今のアスナにとってはそれは、だからどうした、なのだ。
「それでは公平さを欠くと周囲から言われます」
統治者は、王は公平でなくてはならない。それが建前だ。
一部の寵臣ばかりを重用すれば国が傾くことだけは確かだ。
「言いたいヤツには言わせておけば良いんだ。オレは魔王になって幻想界を統一するって言うとんでもない我が儘をやるんだ。だから、オレはオレのやりたいようにやるんだ」
抱きしめていた腕を緩めて、サイナの目を真っ直ぐに見る。
「だけど、サイナさんがイヤだって言うんだったら、なかったことにする」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
二人の視線が絡み合う。やがてサイナはアスナに身体を預けた。
「私は、アスナ様の臣です。アスナ様が私を捨てない限り、お側近くでお仕えします」
「良かった」
やはり必要以上に力が入っていたようでふっと身体が心と一緒に軽くなったような気がする。そして、嬉しくてたまらない。自分の気持ちを受け入れてくれたのは本当に嬉しい。
「ですが、私よりも姫様との時間を多くとって下さい」
かなり不本意だが、それが彼女の最大限の譲歩なのだろう。アスナは頷いた。
「エルと出来るだけ話をするよ。エルのことも好きになるかどうかは分からないけど、少なくとも友だちになれるように頑張るよ」
「はい。私には何もできませんが、頑張って下さい」
「うん。・・・・・・けど、今はサイナさんと二人っきりだから。・・・・・・ダメ、かな?」
赤面し、しばらく目を泳がせた後、
「ダメじゃ、ないです」
アスナは満面の笑みを浮かべるとサイナをギュッと抱きしめた。
翌日、ついにゲームニスがコルドンに帰還した。
ゲームニスを始め第一魔軍の面々の姿は、近衛騎団がコルドンに到着したときと同じように酷い有様だった。
だが、彼らの表情は誇り高く、晴れ晴れとしている。
あれだけの、山を埋め尽くさんばかりの”彷徨う者”を彼らは一人も欠けることなく撃破したのだ。その彼らを村人たちは歓呼の声で出迎えた。
そんな村人たちと同じようにアスナもサイナと騎団の隊長二人とともに屋敷の前でゲームニスを出迎えた。
交わされるのは労いと感謝の言葉のみ。そして、
「このような、なりでお話を伺うわけにはいきません」
「そうですね。風呂と食事の後で良いです。そうだな、話は夕食の後にしませんか?」
「承知いたしました。では、のちほど」
あまりに素っ気ない応対だったがアスナはあまり気にしていない。
ガス抜きが出来たこともあるが、何より側にサイナがいることが大きかった。
ゲームニスを見送った後、アスナは背後に控えるサイナたちに顔を向けた。
「それじゃ、報告をお願い」
はい、と返事をすると騎兵部隊の隊長が一歩前に出た。
ゲームニスが帰還するのとほぼ時を同じくして、ムシュウ方面に出る山道を調査を行っていた騎兵が帰還したのだ。
「調査に向かった兵からの報告では、数カ所、道がぬかるんでいますが、そこさえ気を付ければ問題なく通行は可能とのことです」
「ここからムシュウまでのどれくらいかかる?」
「騎馬で約二日です」
「人の足では?」
「四日ほどです」
「・・・・・・それじゃ、歩兵部隊には先行してもらおう。サイナさん、意見は?」
「ありません。すぐにそのように手配いたします」
「ん。お願い。・・・・・・さてっと、そろそろ先生のところで包帯を交換してもらいに行こうかな」
「お言葉ですが、アスナ様」
と、一歩踏み出したアスナをサイナは止めた。
「なに?」
「恐らく、先生は第一魔軍の方々の治療に当たる準備をしていると思うのですが」
「そうか。・・・・・・先生ならそうしそう。けど、それだとオレが出来ることって何もないな」
本当にすることが何もない。暇人その一である。
「お部屋で午睡を楽しまれてはいかがでしょうか」
午睡、つまり昼寝のことだ。確かに昨晩はいろいろとありすぎて、長くは寝ていない。
「う〜ん、昼寝したら夜、寝られそうにないし。・・・・・・温室に行ってぼぉっとしてるよ」
「分かりました。ブルーバリ殿にはそのように伝えておきます」
「ありがと。それじゃみんな、後のことはよろしく」
サイナと二人の隊長の了解の声に満足げに頷くと温室のある庭園に向かった。
陽は高い。風は少し肌寒いけど、十分に良い天気だ。
何も考えないでぼぉっとするには丁度良いかもしれない。
先日まで鬱憤を隠しきれずに苛立ちを見せていたアスナが一転して、スッキリとした表情を見せていることに隊長二人はお互いに顔を見合わせた。
どうしたのだろうか、と。
よくよくアスナを−−サイナもだ−−を観察していると別段、変わりないように見えるが、どこか変わったようにも見える。
やはり、昨晩なにかあったのかもしれない。
二人の親密さは深まったように見えるが、明確にお互いに一線を引いている。そんな感じがする。
何があったのか二人に聞けば良いのだろうが、二人はそれをすることが躊躇われた。
無粋な様な気がしたこともあるが、アスナの機嫌が良くなったのだから悪いことではないはずだ。そう、悪いことじゃないのだ。
「それではすぐに作業を始めなさい」
『了解しました』
陽は沈み、夕食も終わって、今、アスナの目の前にいるのは大将軍ゲームニス。
二人ともそれぞれ正装であり、多少の緊張感を演出している。
会談の出席者は三人。当事者であるアスナとゲームニス、そしてサイナだ。
彼女は近衛騎団代表として出席しているのだ。
両者は互いに提出した報告書に目を通している。
アスナとサイナには”彷徨う者”の掃討に関する報告書。ゲームニスには第三魔軍からのものに、騎団への補給部隊が襲われたときの状況報告、それに出発直前にケルスに到着したエルトナージュからの報告書を加えたものだ。
二つの情報を纏めると状況は凄まじく悪いことが分かる。
現在、判明している”彷徨う者”の出現域はラインボルト南部から中部にかけて、かなり広範囲に渡っている。詳しい調査が内乱の影響で遅れているが、その被害は二つや三つの村や小さな町では済まないだろうというのがアスナ派内部での見解だ。
それにゲームニスからの報告書が加わり、今回の件がかなり酷い状況であることが裏付けられた。
”彷徨う者”を人為的に製造できるかどうかは不明だが、少なくとも何者かが死者たちを操っていたことが確認され、それを裏付ける物的証拠も確保している。
複数名の指揮者の存在が確認されたことは正体不明の組織がこの内乱に介入しているということだ。
アスナはあまりの状況の悪さに大きくため息をもらした。隣に座るサイナを覗き見れば、ため息こそ漏らしていないが、あまり良い表情を浮かべていない。
気分を変えようと小さく深呼吸をするとアスナは改めてゲームニスを見た。
一言で表現するのならば重厚。風格あるその姿にアスナは改めて姿勢を正す。
「前振りは必要ないと思います。魔王の後継者として、”彷徨う者”の討伐を大将軍ゲームニスに要請します」
「お断りいたします」
老将はただ一言をもって返答した。
単純明快な拒絶の言葉にアスナは身を乗り出しそうになったが必死になって抑えた。昨晩の事がなければゲームニスを掴みかかっていたかも知れない。
「理由を聞かせて下さい」
「現在、ラインボルトは殿下とフォルキスとで内乱状態となっております。ここに私が”彷徨う者”の討伐のためとは言え、出馬をすればまず間違いなく戦局が変わり、国内はさらなる混乱を呼ぶことになるでしょう。これは誇張でも自惚れでもなく事実として受け入れていただきたい」
それは近衛騎団でもゲームニスが”彷徨う者”の討伐に動いた場合、戦局はどうなるか意見を出し合った。
アスナ派、革命軍からはゲームニスを慕う兵たちが彼の下に集い、隠棲を続けていた兵たちが動くことになる。その結果、ラインボルト国内は統率の乱れた状態で兵が勝手に動き回ることになる。まず間違いなく国内はさらに混乱することになる。
それに加えてゲームニスが挙兵した理由ーー何者かの手によって”彷徨う者”が操られ、暴れ回っていることーーがラインボルト中に広がるのは目に見えている。
そのことを分かった上でアスナはゲームニスに動くように説得をする。
「大将軍の仰ることはオレたちも想定しています。それでも動いてもらいたいんです。ラインボルトが今以上に混乱することも分かっています。それでも何も手を打たずにしているわけには行かない。だけど、今は内乱の真っ最中です。だから、どちらの陣営にも就いていない大将軍に動いて欲しいんです」
「では、殿下。こちらからもお伺いします」
「なんでしょうか」
「殿下は現在の国内状況を把握され、何者かによって内乱は介入されているという事実も認識された。この状況下でなぜ、内乱という馬鹿げたことを続けようとなさろうとするのです」
「大将軍もご存知でしょう。フォルキス将軍はオレがラインボルトの王として相応しいかどうかをこの内乱で試すと宣言したんです。オレはそれに応えないといけない」
「確かにそうですな。ですが、第三者の介入を受けた以上、内乱を即刻停止し、介入に一致団結して対処する必要があるのもまた事実。猪突猛進のきらいがあるもののフォルキスも道理を弁えた男。今の状況を知らせ、殿下御自身が話せば兵を収めるはずです。そうなれば私も微力ながらお力添えいたします」
「大将軍の言うことは正しいです。正しいけど、だったらこの内乱で命を落とした者たちはどうするんです。墓前にお前たちは無駄死にだったって言うんですか!」
「だが、介入者に国を崩壊させられるよりはましでしょう。内乱にかまけて大事を見過ごしたとなれば、万世の笑い者ですぞ!」
「だから!」
ついにアスナは椅子を蹴倒すように立ち上がると、テーブルを大きく叩いた。
ティーカップが揺れて、紅茶が零れる。
「こうして、大将軍に手を貸して欲しいって頼んでるんじゃないか!」
「落ち着き下さい、アスナ様」
押し止めようとサイナはアスナの肩に手をおいたが、激した彼はさらに言葉を募る。
「何より今回の件が、どこかの誰かの介入だってことを証明したのは大将軍なんだぞ。あれだけの数の”彷徨う者”がラインボルトを彷徨えば、どんなことになるかオレ以上に大将軍の方が分かってるはずだ。違う!」
「殿下よりは承知しておるのは確かでしょうな」
「だったら、動いてよ! あんな思い誰にもさせたくないんだ。だから!」
「答えは変わりません。お断り申し上げる」
「なんで!! ・・・・・・・・・・・・ぁ」
突然、視界が揺らいだ。
目の奥からゆっくりと闇が広がってくる。
まずい、と思ったが闇を押し止めることは出来ない。意識を染め上げるように闇は広がり、本当にアスナは意識を失ってしまった。
ただ自分を呼ぶサイナの声が聞こえたような気がした。
アスナの突然の昏倒で交渉は中断した。
サイナはしきりにアスナの名を呼び、ゲームニスはブルーバリにロディマスを呼びに行かせ、他の使用人たちにアスナを客室に運ぶように指示を出した。
ほどなくして到着したロディマスは手伝いにサイナのみを残し、客室に集っている者たち全てを追い出した。
追い出されたゲームニスは所在なく客室の前にいたが、ここにいても仕方ないと屋敷の庭園に向かった。
大きな月が出ている。
月光に照らされる庭は静かな美しさを作り出している。
冷たい夜気が突然の事態を今更ながら冷ましてくれる。
「月見かね?」
声のする方に顔を向ければ、そこには一頭の葦毛の馬がこちらに歩み寄ってくる。
「イクシスか。年寄りに夜更かしは辛いんじゃないのか?」
「年寄りなのはお互い様。それよりもアスナ殿の加減はどうだね?」
「今はロディマスが診ている。・・・・・・大事ないだろうとは言っていたが」
「ならば心配いらないな」
「・・・・・・・・・・・・うむ」
「相変わらず、ロディマスとの間に含むところがあるようだね」
「いや、後悔があるだけだ。・・・・・・私の話しよりも殿下はいつもこうなのか?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言えるの」
「どういうことだ?」
面白がるようにはぐらかすイクシスにゲームニスは怪訝な顔を向けた。
「怪我を良くするということだよ。細かいところはロディマスから聞いた方が良いかの」
「・・・・・・そうか」
僅かな間が出来る。
微風が足下を駆け抜けていく。
「動かない、と聞いたが理由は何だね?」
「唐突だな。このような場で話すことではないと思うが」
「私に館に上がれというのかね?」
「確かに、それは無茶だな」
小さく苦笑する。イクシスにそれをさせた原因は自分なのだから。
ただそのことを謝るつもりはない。イクシスは自分に謝って欲しくて変身の魔法を使ったのではないから。だから、ゲームニスは感謝の言葉だけを彼に告げてきた。
「それにアスナ殿が倒れ、サイナ嬢が看病している以上、私が話を進めるしかなかろう?」
「まさか、こうなることを見越してコルドンまで来たのではないだろうな?」
「それこそ、まさかだよ。ただお前さんとアスナ殿を引き合わせるのに丁度良いだろうと思っただけだよ」
「・・・・・・殿下はどのようなお方だ?」
「お前さんこそ唐突だの。・・・・・・そうさの、放っておけばどこまでもやろうとする御仁だの」
どういうことだ? と視線で問うゲームニスにイクシスは小さく頷き、
「言葉の通りだの。アスナ殿は与えられた責務を全うしようと無茶をなさる。私たちが側で面倒をみてやらないといけない、という気にさせるんだの」
「・・・・・・そうか」
「とにかく一生懸命な御仁なのだよ。それはお前さんも感じたことではないかね?」
頷くゲームニス。
馬車は横転し、死者に囲まれながらも近衛騎団を叱咤し続けたその姿が思い返される。
「ゲームニス。お前さんがアスナ殿の頼みを断る本当の理由はなんだね? 内乱に首を突っ込んでラインボルトを混乱させたくないと言っておったようだが、すでに第三者による介入が始まった以上、その理由は適当ではないの。本当の理由はなんだね?」
「・・・・・・伊達に歳はとってないようだな」
「それはお互い様だよ。・・・・・・それで何なのだね? アスナ殿に嫌われてまで突き通そうとする理由は」
間が空く。言うべきか、言わざるべきか迷う。
今、ゲームニスの考えはあくまでも推測の域を出ない。この考えは下手をすれば国際問題に発展しかねない。不用意な発言は控えるべきなのだろう。
だが、沈黙を守ったところでイクシスが納得するはずがないことも知っている。
「ラディウスだ」
ラインボルトの南に位置する大国、ラディウス。
ラインボルトとラディウスとは歴史的に見て、友好的な間柄にはない。
同じリーズという脅威を抱えているアクトゥス、サベージとは違い協力体制を取ろうという雰囲気にはなれないのだ。
何よりラディウスはラインボルトから分離独立した国家であり、自分たちこそが真のラインボルトであると主張している国家だ。その証拠にラディウスにおける内部文章においての国号はラインボルト、君主の尊称は魔王となっている。
ラディウスという対外的な国号は独立の指導者でありラディウス初代国王たる人物の名から来ている。
そのラディウスが内乱の最中にあるラインボルトにちょっかいを出してこないはずがないのだ。
「アクトゥス、サベージはともにラインボルトには借りがあるため、戦端を開くとしても内乱に介入するという手は使わない。リーズは無駄に誇り高いから介入するとは思えん」
「残りの中小の国々はラインボルトに介入できるだけの国力はない、かね」
「そうだ。となれば残るのはラディウスのみだ。あの国の魔法技術は他を抜きん出ている。”彷徨う者”を作りだし、操る技術を開発していても不思議ではない」
「それが動かない理由かね?」
頷くゲームニス。
「ここならば国境からも近い。ラディウスが動けば私が堰き止め、時間を稼ぐつもりだ」
「なるほどの。・・・・・・だが、ここで待っていても仕方ないと思うがね」
「どういうことだ?」
「ムシュウには軍師殿がおられる。国境周辺で何かあれば然るべき手を打たれるだろう。あの御仁が何もしないとは思えないからの」
「そうか。軍師殿が来ているか」
と、二人の会話を断ち切るように何者かが庭に姿を現した。
「ここにいたのか」
姿を現したのは白衣の初老、ロディマスだ。
表情にあまり険がないところからアスナの容態は深刻ではなさそうだ。
「どうだね。アスナ殿の容態は?」
「ただの貧血だ。・・・・・・頑張りすぎだな」
やれやれとロディマスは首を振る。それが酷く疲れて見える。
「そう何度も殿下は倒れられているのか」
と、ゲームニスは聞いた。ただロディマスに視線を合わせようとはしない。
「そうだな。死にかけるほど出血すれば、人族でなくとも貧血の一つにもなるだろう」
「なっ!?」
まさか後継者であるアスナがそんな状態にあったとは思いも寄らなかった。
衝撃を受けるゲームニスにイクシスが追い打ちをかける。
「軍師殿の放った刺客に襲われて生き残れたのだから、貧血ぐらいで済んでいるのならば御の字だの」
「それを治療する私の身になってからそう言うセリフは言って貰いたいものだな。兵でもない小僧がこう何度も殺されかけるのはたまらん」
「そうだの」
笑い混じりにそう言うイクシスにロディマスは渋い顔をする。
「笑い事じゃない」
「ちょっと待て。殺されかけただと、後継者殿下が。近衛騎団はなにをしていたのだ!?」
「当然、万全の警備体制を整えておったよ。だが、相手がそれよりも上手だったということだの」
「暢気に構えている場合か。殿下は暗殺されかけたのだろう!」
「アスナ殿は気にしておらんよ。内乱を収めた後、軍師殿を雇うと公言しておるからの」
「なっ!?」
またもや絶句するゲームニス。
いくら度量が大きい者でも自分に対して暗殺者を送った者に対し、寛容な態度で接することは難しい。仮に自分がそうなれば然るべき処断を下す。
「考えを変えたとは言っておらんようだし、今も本気のようだの」
馬面がゲームニスに向けられる。
「お前さんはさきほど、アスナ殿はどういう御仁か聞いたの。つまり、こういうことなのだよ」
黙り込み、何かしら考え始めたゲームニスを一瞥するとロディマスは背を見せた。
「以上だ。私は病院に戻る。兵たちの面倒を見てやらねばならんからな」
それだけを残すようにしてロディマスは病院に向かって踏み出す。
と、それを止める声がかかった。ゲームニスだ。
「なんだ」
振り返ることなくロディマスは問う。
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙が交差する。数秒ほど待ったが答えはなくロディマスは再び足を一歩進める。
「・・・・・・・・・・・・済まなかった」
白衣の背に向けられたのは謝罪の言葉。
「何のことだ。私はお前に謝罪されるようなことをされた覚えはないが」
「・・・・・・娘のことだ。私はあのとき」
十数年前、馬車が魔獣の群に襲われる事件が多発したことがあった。
民間の力では対処しきれないと時の政府は軍に掃討を命じることになる。
派遣された部隊は着実に魔獣の群を掃討していく。その任務途中、彼らは横転し、魔獣に襲われている馬車を発見した。馬車の乗客は彼らに救出されたが酷い有様だった。
馬や御者、護衛として雇われていた傭兵はもちろん、乗客のほとんどが喰い殺されていた。助け出すことが出来たのはほんの少数だけだ。
近くの都市で待機していたロディマスは患者の中にゲームニスの娘夫婦がいることを知り、彼が担当することになる。だが、搬送途中で娘婿はすでに死去していた。ロディマスは必要な治療を施すと、ゲームニスに娘は必ず助けてみせるという言葉を添えて手紙を送った。
だが、治療の甲斐なく娘はゲームニスに看取られて死去してしまった。
娘の死に直面したゲームニスは担当医師であったロディマスを責め立てた。後にゲームニスは別の医師から、あの場にロディマスがいたからこそ娘の最期を看取ることが出来たのだと聞かされた。
だが、その時には二人の間に溝が出来ており、元の友人関係に戻ることは出来なくなっていた。
ゲームニスは後悔していた。その後悔も含めての謝罪だった。
「あの娘のことは全て私の責任だ。救うと言っておいて救えなかったのだからな」
「だが!」
「私にはお前の謝罪を受け入れる資格はない」
ロディマスは振り返った。
「だから、ゲームニス。お前は悔いのない決断をしろ。私から言えることはそれだけだ」
小さな微笑を残すと初老の医師はもう振り返ることはなかった。
残されたのは老将と老馬のみ。
老医師の背をいつまでも見つめるように佇むゲームニスにイクシスは言った。
「ロディマスはお前さんのことを許しておるよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「これ以上、謝罪の言葉を重ねる必要もなかろう。それでも足りぬというのなら、あの偏屈ジジイの言ったとおり、これから先、悔いのない決断を下し続けることだの」
イクシスはそれだけを残して去っていった。
残されたのは老将一人。佇む姿を夜風が撫でていく。
振り仰げば煌々と光る月があり、アスナの眠る客間がある。
「悔いのない決断を、か」
言葉とともに歩き出す。
残されるものはなにもない。ただ夜風が吹くのみ。
それはラインボルトに吹く新たな風の流れの始まりだった。
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