第一章

第十一話 ラメル撤退戦 前編


 ミュリカが入れてくれたお茶が柔らかな湯気を立てている。
  あの絶対的な敗北宣言の効果もあり、多少の緊張を残しているもののヴァイアスの敵意は十分に無視できるまでに抑えられていた。
  その雰囲気のなか、LDに対する尋問は続く。
  現状はあまりにも不可解な点が多すぎるためだ。ムシュウから兵だけではなく住民までもが消えた理由がそれだ。それ以外のことを聞いてもLDは、
「フォルキスが不利となる情報は出すつもりはないからそのつもりでいろ。傭兵は信用第一だからな」
  恐らく本当のことだろう。例え拷問と言う手段に訴えても彼は話すことはないとアスナは思った。
「良いよ。LDがフォルキス将軍のことを話してくれるとは思わないし。それよりも何でムシュウに誰もいないのか教えて欲しい」
  いくらここが戦場になるからと言ってもそう簡単に住民全てが避難することなど不可能だ。富裕層は可能かも知れないが、貧困層は避難できるだけの経済的な余裕はないのだから。避難命令が出たとしても逃げられない人は当然出てくるのだ。
「端的に言えば現在、ムシュウには第一種避難命令が出されている」
「なっ!?」
  アスナの隣に陣取っていたヴァイアスがいきなり立ち上がった。
  彼だけではなくミュリカもサイナも一様に驚きの表情を作っている。
  分からないのはアスナだけ。ただならぬ雰囲気にアスナはヴァイアスに顔を向けた。
「LDの出した避難命令になにか特別な意味があるのか?」
「説明は後だ。ミュリカ、すぐに軍議を行う。必要な人員をここに集めろ」
「各大隊長もね」
「そうだ。場合によってはすぐに動く可能性がある。即応体制を維持するように指示しておけ。軍師、ムシュウの重役たちはどこにいる?」
「当然、私の名で避難させた。重要人物と言って差し支えないのは私と君たちだけだ」
「分かった。サイナは先に会議室に行って準備を始めろ」
「了解」
  ミュリカとサイナは一度、アスナに敬礼をするとそのまま都市長室を飛び出していった。
「何があったか説明してくれ。LDがここを火の海にするから市民を避難させたんじゃないんだろ。分かるように説明してくれ」
  雰囲気でそれぐらいのことはアスナだって分かる。それだけに彼らの行動が尋常ではない事態を招いているのではないかと推測したのだ。
「良いか、アスナ。落ち着いて聞けよ。簡単に言って第一種避難命令ってのはな、その都市のすぐに近くに守備隊だけでは対処しきれない規模の敵が迫ったときに出されるんだ」
「敵って、オレたちのことじゃないよな」
「この場合の敵って言うのは他国からの侵攻だ。つまり、ラディウスが攻めてきたってことだ」

 召集されたアスティーク以下の参謀、そして現場指揮官である大隊長たちはLDからのラディウス侵攻の話しに途端に顔を強張らせた。
  いや、ミュリカからムシュウが無人である理由が第一種避難命令であることを聞かされたときから分かっていたことだが改めてLDの口から聞かされると緊張の度合いはグッと高くなる。
「さて、ラインボルトの置かれている状況だが、正直、悪い方に傾いているとしか表現のしようがない。現状の説明に入る前にこれまでの経緯を話しておこう。ことの起こりは二週間ほど前、ラディウス軍は国境周辺の砦群を奇襲、制圧したことから始まる。国境地帯からの報告を受け、ムシュウから出陣した国境守備軍の主力とムシュウに駐留していた革命軍(我々)の戦力による臨時先頭団を編成させ、ムシュウから半日の距離にあるラメルに陣を敷くことで一時的に押し止めることに成功した」
  LDは机上に広げられた地図を使って現在までの状況を図上演習のように経過説明を行っていく。
「だが、敵兵力は推定で十万。如何せん多勢に無勢だ。遅滞戦術を用いて足止めをしているが兵力の差を縮めることは出来ない。こちらの兵数は激減し、当初の一万 千の兵力は一万ほどになった。組織的な抵抗が難しくなったことに伴い国境守備軍司令とムシュウ都市長の名において第一種避難命令が出された。市民たちは近隣の町村に避難している」
  言葉を続けながらLDは国境守備軍を表す駒と同じように置かれていたムシュウに駐留していた革命軍を地図上のラメルから取り除いた。
  つまりムシュウに駐留していた部隊は戦力としては瓦解したと言うことだ。
  元が補給物資の輸送などの後方任務を主に行わせていた部隊だっただけに戦力的に脆弱だったのだろう。
「避難命令と同時に私は麾下の第一魔軍約五千をラメルに向けて増援に出し、国境守備軍には再編成するように指示を出した」
  新たな駒がラメルに置かれる。それでも兵力的に劣勢であることに変わりがない。
「そして本日、君たち近衛騎団がムシュウを制圧したと言うわけだ。詳しい数字や経過などは先ほど渡した資料を参照してくれ」
  淡々と議事を進めるLDはしっかりと必要と思われる分の資料まで用意していた。
  初めからこういう展開になることは彼の予測の範囲なのだろうが、この手際の良さは感心するやら呆れるやらである。
「以上だ。捕虜として諸君らに話せることはこれだけだ」
  そう言うとLDは部屋の隅に置かれた椅子に腰掛けた。
「そんなとこにいないでこっちに来ればいいのに」
「言っただろう。今の私は捕虜だ。捕虜が作戦立案に参加する訳にはいかないだろう」
「・・・・・・つまり、遠回しに今回の件には口出ししないってことを言いたいわけだ」
「そう言うことだ。私がするのはムシュウ周辺に関する情報を提供するのみだ」
  アスナは、意地悪とLDに悪態を付くと緊張した面持ちの列席者たちを見回した。
「とりあえず、黙っててもしょうがない。オレたちの立場から見た現状確認から始めよう。アスティークさん」
「了解しました」
  参謀長アスティークはLDが広げていた地図の変わりにラインボルト全土の簡易地図を広げた。
「まずはこの内乱におけるラインボルト全軍の動向についてです」
  ファイラスに駒を置き、それを取り囲むように幾つか駒を置く。
「ファイラスはフォルキス将軍率いる第二魔軍を中核とする約二十万の兵によって占拠、籠城中。それをエルトナージュ様率いる首都防衛軍を中核に四万、ガリウス副将率いる第三魔軍五千、デュラン副長率いる騎団別働隊五千によって包囲されています。これに我らに降伏した将兵たちを加えると概算ですが七万弱になります」
  一拍の間をおいてアスティークはゼンに駒を置く。
「続いて第三魔軍の現状です。”彷徨う者”の大量発生に対応すべくリムル将軍は事後承諾と言う形ですが麾下二万の軍勢の半数をゼンとその周辺の町村に配し、兵力を分散させております。また、我々がムシュウに接近したことでリムル将軍は残る一万の兵を率いてファイラス包囲に加わるとの報告がありました」
  それは初耳だった。
  リムルがゼンを封鎖していることに痺れを切らしたのか、”彷徨う者”の処理を迅速に進めるためにファイラスに圧力をかけようと思ったのかは分からない。
  もしかしたら、エルトナージュからの要請を受けてのことなのかもしれない。
  事情は分からないがリムルがファイラス包囲に加わろうとしていると言うことだけは確かだ。
「そして我々はムシュウの奪還に成功。作戦の上では迅速にファイラス包囲に加わる予定です。ですが・・・・・・」
  予定は初めから狂うものであるとは良く言ったものである。その言葉の通りに状況は展開している。
  そして”彷徨う者”の指揮者とラディウスがこの内乱に介入してきた。
  ”彷徨う者”討伐に関しては大将軍ゲームニスに全権を委任し、内乱に参加しなかった兵力の全てはゲームニスの下で運用されるはずだ。
  残るのはリーズ、アクトゥス、サベージに対応する国境守備軍だがこれを動かす訳にはいかない。
  となるとラディウスに対応できる兵力は今、対峙している国境守備軍とLDが増援した第一魔軍五千名のみということになる。
「現状確認してげんなりするってのもなんだなぁ」
「肩を落としている場合じゃないだろう。これからどうするかを考えないとな」
「分かってる。って言ってもやれることは二つに一つなんだけど」
  つまり、ムシュウを放棄し、ラディウス軍と対峙している部隊を見殺しにすることを覚悟でファイラスに戻るか、ラディウス軍との睨み合いに加勢するかのどちらかだ。
  どちらを選択しても大きな危険を孕んでいることに違いはない。そして、どちらが正解だとも限らない。もしかしたら、どちらを選んでも不正解かもしれないのだ。
  だからこそ今、求められているのは、その選択だ。上に立つ者の最大の責務は選択し、決断することだ。そして、この場での最上位者はアスナだ。
  これまでになく重い選択にアスナは気分が悪くなる。
  間違えることは許されず、魔王として一国を背負うと言うことは今のような選択を際限なく続けると言うことだ。考えるだけで全てを放棄したくなる。
  みんな、アスナを信頼しきった目で見ている。一人に責任を押し付けるような瞳は一つもない。どの顔もアスナの決断を信じ、一緒に責任をとると言う意志を見せていた。
  だからアスナは放棄したくなる気持ちを無視するように、考えることを止めた。
  その代わりにLDの報告で疑問に思ったことを一つずつ潰していくことにした。
  そのためにアスナは事態を簡略化して考えることにした。
「LDの話だと二週間前にラディウスが十万の兵力で攻めてきた。それを迎え撃とうとした一万六千の部隊は負けた。LDはムシュウから増援を出して、負けた部隊を再編成させているのが四日前。それと同じ時にムシュウに避難命令が出たと」
  間違いない? とLDに視線を向ける。彼は頷きをもって肯定する。
「それじゃ、ここで一つの疑問。ラディウスは十万って言う圧倒的な兵力で攻めてきてるのに何でムシュウに来るまでこんなに時間がかかってるんだ?」
  ラディウス軍の侵攻が開始されたのが二週間ほど前だ。地図上から考えると国境とムシュウとの距離はそんなにない。迎撃に向かった部隊に足止めを食らったとしても二週間もかかるはずがない。それに一度、迎撃部隊を破ってるのだから尚更だ。
「LD、その辺のこと分かってる?」
「不明だ。だから、その辺りのことを資料に記載していない。四日前に入った情報では侵攻は停止しているとのことだ」
  頷くとアスナは一同を見回した。
「この際、止まってる理由は無視しよう。それを前提に聞く。敵は十万、そしてこっちは一万。勝つ自信はある?」
「敵と対峙している部隊は考慮にいれないのか?」
  と、LDが口を挟む。
「いれない。この状況だから敵にはならないだろうけど、戦力として組み込むには時間がかかるし、なにより敵がそれを待ってくれるとも限らないだろ?」
  なるほど、と面白そうに言うLDをとりあえず無視してアスナは話を続ける。
「それで、どう。戦って勝てる?」
「敵の詳しい戦力編成が分からない以上、確約出来ないがお前が勝てと言うなら勝ってみせる」
  とヴァイアスは言ってのけた。恐らくこれが近衛騎団としての総意だろう。
  アスナは深く腰掛け深く息を吐いた。天井を見上げる。幾つかシミが見える。
  ヴァイアスは勝てると断言せず「勝ってみせる」と言った。と言うことは戦いに勝つことは出来るがかなりの損害が出るということだ。それをアスナは勝利とは認めない。
  では、どうするべきか。早急に内乱を収め、ラディウスに対抗できる状況を作れる方法はないのだろうか、と。
  考える。何とかなる、ラディウスを抑えて内乱を収めるほうに集中出来る方法はないのか。細かい所は考えなくても良い。それは自分よりも優秀な彼らがやってくれる。だから方針を決めれば後は一気に進められる。
  敵を抑え続けることの出来る何かはないのか。・・・・・・何かあるはずだ。
「・・・・・・あっ」
  間抜けともとれる一声を上げると同時にアスナは身を起こした。
「決めた。みんなで逃げよう」
「ムシュウを含める国境地帯を放棄すると言うことですか」
  アスティークが参謀たちを代表して問うてくる。
「ごめん、言葉が足りなかった。近衛騎団の三分の二をラディウス軍と対峙してる部隊と合流して、ムシュウに撤退。その間にムシュウに残った三分の一で籠城の準備をする。LD、食糧とか、籠城に必要な物資の備蓄はどれぐらいある?」
「二、三ヶ月は余裕で持ちこたえられるだけの備蓄はある」
  本来ならば常時二年以上は持ちこたえられるだけの物資をムシュウは備蓄しているが、内乱で備蓄した物資の多くを放出した上に、一連の退避命令に伴い住民たちに当座に必要な物資を放出したのだ。だから、あまり物資に余裕がない。
  それでも二、三ヶ月持ちこたえられるだけの物資が残っていたのは助かった。
「よしっ。それで国境守備軍をムシュウまで引っ張ってきた後、残っていた三分の一と一緒にオレはファイラスに行く」
「なるほど。ムシュウの城壁は無傷。ならばそれを活用するのは当たり前ですな」
「そう言うこと。撤退の際には騎団が殿を担当して、国境防衛軍にはすぐにムシュウに戻ってもらう。ムシュウのことを一番良く知ってる彼らに籠城の手伝いに加わってもらわないといけないからな。・・・・・・こういう方針だけど、意見ある?」
  皆、沈黙をもって返事とした。
「それじゃ、細かい所はみんなに任せるから。それから・・・・・・」
「お前も行くって言うんだろ?」
「うん。それもあるけど」
  アスナはLDを見た。
「私も行くのか?」
「そう。LDが敵と睨み合いを続けてる連中にもムシュウでの結果を言ってくれると色んなことが楽に進められるはずだからさ」
「まったく、捕虜使いが荒い」
  ニィとイタズラな笑みを見せると「それじゃ、始めてくれ」と作戦の立案を促した。
『了解!』
  返事と同時に場は途端に慌ただしくなる。
  アスナが示した概要を如何に実現できるかが議論され、形を組み上げていく。
  その様を横目にアスナは席を立ち、静かに会議室から出た。もうアスナに出来ることはない。だからアスナは皆のためにお茶を煎れることにした。
  すぐ近くに給湯室がありお茶の準備をするのには十分だろう。
  棚を調査して茶葉を発見、そして水をやかんに入れて火を付け・・・・・・。
「そうだった」
  魔法が使えなかったら火が付けられないのだ。それなりの訓練をすれば人族でも初歩中の初歩の魔道具を扱えるようになるらしいが、アスナはそんな訓練を受けていなかった。
  アスナは”魔王”になるのだ。そう言ったことは魔王となってからした方が何かと効率が良いとの判断からだった。
  これまでも調理器具の着火は側にいた誰かにやってもらっていたのだ。後の火加減の調整なんかはアスナでも出来るものだったし。
  と、不意に横から手が伸びてきてコンロに火がついた。
「ありがとう」
「なに。捕虜に対して拘束もなければ、見張りもつけない君に対するささやかな感謝だ。これまでのことがあっただけに覚悟はしていたからな」
「・・・・・・そうだった。LD、あのとき思いっきり痛かったんだからな」
  これでもかって言うぐらいに恨みがましい目で睨んでやる。LDはそれを真っ直ぐに受け止めながらも、
「言っておくが私は謝るつもりはないぞ」
「別に良いよ。LDは約束を守っただけなんだし。咎があるのはオレたち。けど!」
  ズイッとLDに詰め寄る。LDが長身なだけに端から見ると妙に微笑ましい。
「思いっきり痛かったって一言いっておかないと気が済まなかっただけ」
  言いたいことは言ったアスナはLDから顔を離すと湯気を噴き始めたやかんを横目にティーサーバに茶葉を入れ始める。
「しかし本当に君は意外な行動をとるな」
「ん? オレなんかおかしなことしたっけ?」
「普通はどの国の後継者でも敵を前にして尻尾を巻いて逃げようなどと言わない。それを言う君もそうだが、それを当然のように受け入れる近衛騎団も意外だった」
「う〜ん、別に意外でもないと思うけどな。それにオレは勝てない戦いはしないことにしてるんだ」
「その考えの持ち主が良く革命軍(我々)と戦う気になったな。君が召喚された時点では、いや現在もか、兵力差は圧倒的に革命軍(我々)に分があると言うのに」
「追加しておく。絶対に勝たないといけないときもそうだ。それにさ、この場合エルが勝ってもフォルキス将軍が勝ってもしこりは残ると思う。だけど途中参加のオレなら二人のうちどっちかが勝つよりもましな結果になると思う」
「なるほど。理屈は通っているな。だが、実際に君が統率しているのは宰相派であり、明確な勝敗が決する。君がどのような結果を望んでいるのかは分からないが同じ勝者である宰相派の者たちがそれを納得するとは思えないが」
「そっか。そう言うことも考えないといけないのか。ったく次から次に問題が来るんだからたまったもんじゃないよ」
「問題を一つ解決すると、それが次の問題になる。それが国を動かすと言うことだ」
「雇ったら思いっきりその問題に巻き込むから覚悟しておけよ」
「分かっている。雇われる以上、手抜きはしない。それで良いのだろう、アスナ」
「うん」

 ラメルは昔から戦場として知られた地だ。
  ラインボルト、ラディウス間での争いは常にラメルを中心にして展開された。
  ラディウスが国境を侵しても最終的にはラメルまで押し戻され、ここで決戦が行われる。
  この地を覆う赤茶けた大地は幾百万もの血を吸い続けたためだと揶揄されるほどに幾つもの戦いが繰り広げられた。
  故にこの地はこう評される。血染めの聖域、と。
  その古来からの慣習に倣うように両軍はここラメルで睨み合いを続けていた。
  十万のラディウス軍と、一万数千のラインボルト軍。
  戦力差を考えてみれば睨み合いなどと言うことは出来ない。それに加えてラインボルト軍は再編成の直中だ。
  通常ならばムシュウに帰還し、そこで再編すべきラインボルト軍は自分たちの眼前でそれを行っている。
  ムシュウに引くことの出来ない事情があるのか、何かの奇策なのか判断が付きかねる。
  侵攻開始から十五日。ラインボルト国境に展開する幾つかの砦を攻略し、ムシュウから迎撃に来た国境守備軍本隊をも撃破した。
  士気は高まり侵攻再開を具申してくる将軍もいるが、侵攻軍の最高指揮官であるサイファ上将はそれを却下し続けている。
  そもそも今回の命令はあくまでもラインボルト側から”彷徨う者”が大量にラディウス側に侵入してくることに対処しての行動だ。
「閣下。将軍方が進軍再開の要請に来られております」
「またか」
  灰色の髪を掻きむしる。ここ最近のサイファの悩みはそれだ。
  将軍たちからの進軍再開要請と言う名の突き上げだ。
  これまでの戦勝に気をよくしていることに加えて、眼前に狩るべき敵が弱体化したまま陣取っているのだから気持ちは分からないでもない。
  だからといってサイファには進軍再開を命じるつもりは毛頭ない。
  それに彼の義父であるラディウス大将軍、ファルザスからも与えられた任務を厳守し、軽挙はするなと出陣前に言われている。突き上げてくる将軍たちもその場で注意を受けていたはずなのに彼らはそれを忘れてしまっている。
「本日はお引き取り願いましょうか」
  すでに日は随分と西に傾いている。疲れたと言って追い返すことも出来る。実際、ここに陣を張っているだけでも必要な雑務は後を絶たない。他の将軍たちならばそれを部下に押し付けるのだが、サイファはそれを良しとしない。
  そのため、今日もサイファはその処理に追われていたのだ。彼の副官も側で補佐していたためそのことを良く熟知していた。
「いや、会おう。連れてきてくれ」
  了解いたしましたの声とともに副官は出ていった。将軍たちが顔を見せる前に手早く布陣図などを片づけてしまう。放っておけば迂遠な皮肉を浴びることは目に見えている。
  数分後、サイファと同じ年頃の男とその取り巻きのような中年の男たちがサイファの天幕に入ってきた。
「話があると伺ったが、ベルナ卿」
「分かっておられるはずだが、上将閣下」
  無表情に赤毛の青年、ベルナは告げた。
  その涼しげな立ち姿はいかにも貴公子然としている。ともすれば女性に見えるほどの美しさである。そのベルナの瞳がサイファを見据える。
「進軍再開の件ならば先日、申し上げた通りだ。私はそれを命じるつもりはない」
「では、この好機を見過ごすと仰れるのか」
  口調こそ静かだが、その瞳はサイファへの嫌悪を宿している。自慢の赤毛が逆立ち、燃えるように見えるのは気のせいではないだろう。
  視線を移せば他の将軍たちも頷きをもってベルナの言葉に同意している。
  若輩者と言われて当然のベルナが将軍たちから支持を受けている理由は単純だ。ベルナがラディウスの十二ある公爵家の一つロジェスト家の三男だからだ。
  今は分家筋の伯爵家を相続しているが、彼がロジェスト家の者であることに変わりない。
  宰相である彼の父の覚えめでたくするために自身の損得のみでベルナに追従しているのだ。そんな将軍たちをベルナが嫌悪していることはサイファ自身も良く知っている。
  二人は高級士官学校での同期だった。
  片や生粋の貴公子であり、片や名前だけで領地もない男爵家の次男坊。
  お互いに生家を継ぐ権利はなく、予備扱いされていたためか二人ともお互いに近い間柄ではないにせよ実力は認めあっていた。
  士官後、幾つもの政争に巻き込まれたベルナをサイファは助け、その逆もあった。親密ではないが良好な関係が続いたが三年前を境に変わってしまった。
  ベルナが養子として伯爵家を相続したのとほぼ同じ頃、サイファもバルティア家に養子に入った。
  バルティア家、それはロジェスト家同様に公爵位を持ち、特に軍において大きな発言力を持つ家だ。それだけに両家の間柄はあまり良好であるとは言い難かった。
  二人の関係が変わったのは両家の間に横たわる凝りが原因ではなく、実力のみで出世を重ねてきたサイファがバルティア家と言う後ろ盾を得たことで実力とは関係のない世界に入ったことが原因だった。
「お答え頂きたい、上将閣下」
「答えは変わらない。私は軍令部より受けた命令を厳守する」
  ラインボルトで大量発生した”彷徨う者”がこれ以上、ラディウス領に流れ込んでこないよう予防的に国境地帯を制圧するというものだった。
「貴公らも私とともに拝命したことをお忘れか。そして、出陣前の宣誓は偽りか」
  戦場においては命令を厳守し、王の名を汚す行為を禁ずる宣誓だ。
  将軍たちにとっては半ば以上、形骸化した宣誓だが、サイファがその言葉を投げかけているのは将軍たちではない。ベルナに向けてだ。
  本当の貴族である彼がこの言葉に反する行いをすることは絶対にあり得ない。
  僅かに瞑目した後、ベルナは一歩踏み出し、机に手を叩きつけた。
「それ故にです。本営より与えられた命令書には国境地帯を制圧せよと書かれているが、作戦終了期日は明確に記載されていない。いつまで続くか分からない制圧任務を野ざらしに天幕を張っただけの施設で乗り切れると思っておられるのか。故に私はムシュウの制圧を進言します。幸いにも命令書には国境地帯とはどの辺りまでかとは明記されておりません。問題にはなりますまい」
  ベルナの言うことに将軍たちも頷きと視線でもって同意する。それはサイファに威圧を加える意味もあった。
  だが、将軍たちがベルナの言葉の意味を理解している者は少ないだろう。
  誰もがムシュウ制圧だけを意識して、なぜ制圧するのかを理解していなかった。
  難攻不落であるムシュウを制圧できれば、それだけ武名も上がれば出世できる可能性が上がる。将軍たちはその点でのみベルナを支持しているのだ。
  何しろ眼前には再編成中の敵と、その背後に無防備となったムシュウがあるのだ。
  奪取するためにはこれほどの好機はない。
  だが、サイファはそれでもなお乗り気にはなれない。
  命令厳守の意志以上に気がかりなことがあるからだ。
「いくら内乱中とはいえ、我々にムシュウを制圧されれば北朝とて黙っていないはずだ」
  北朝とはラインボルトのことだ。
  その成立の経緯からラディウスは正式な国号はラインボルトであると自称している。
  故に紛らわしさを排除するためにラディウスはラインボルトのことを北朝と呼んでいる。
「なにより北朝の後継者が近衛騎団を率いてムシュウを目指してきていると言う情報がある」
  それにもう一つ。出陣前に義父から聞かされた情報がある。
  ラインボルトからラディウスに”彷徨う者”は流入していないと言う話だ。
  事実、越境するまでに信じられる部下に国境周辺で”彷徨う者”がどの程度の規模で現れているか秘密裏に調査させたが、結果はゼロだ。
  どの町村も、ここ最近は”彷徨う者”は出現していないとのことだった。
  命令書には、ラインボルトで大量発生した”彷徨う者”がこれ以上、自国に流れ込んでこないよう予防的に国境地帯を制圧するとある。
  ”これ以上”とはどういうことなのか。国境周辺の町村にはその手の情報はなかった。
  誤った情報が伝わっているのかもしれない。もしくは義父の与り知らぬところで出された命令である可能性もある。
  そう言った要素を複合して出した判断が、これ以上動くべきではないだった。
  情報を共有しているベルナもサイファと同じ推測に出ただろうが、それでもなお彼は進軍を再開することを選んだのだろう。
  ベルナを抑えるためには兵たちの環境を改善することだが、それが出来るのならばもうすでにやっている。妥協点はもう、ない!
「改めて申し上げておく。私は進軍再開を命じるつもりはない。貴公らは兵を掌握し、勝手なことはしないように。これは命令である!」
  最高指揮官の命令に将軍たちは途端に殺気立つ。
  それを切り裂くように天幕に乱入舎が現れた。サイファの副官だ。
「失礼します。斥候より報告、敵陣に増援を確認」
「規模はどの程度だ」
「およそ六千。敵は、リージュの旗を掲げているとのことです!」
  幻想界でリージュの旗を掲げることが許されるのはただ一つのみ。
  ラインボルトの正統を主張するラディウスと言えども自国の近衛がリージュの旗を掲げることは遠慮している。故に何が来たのかは明白だ。
「北朝の近衛が来たというのか!?」
  将軍の一人の声にベルナは改めてサイファに詰め寄った。
「お聞きになったとおりだ。北朝の近衛には人魔の規格外がいると聞く。上将閣下、閣下がまごついている間に我々は取り返しのつかないこととなった!」
  言い放つとベルナは身を翻し、天幕を出ようとする。
「どこに行く!」
「部隊に戻らせていただく。ことここに至っては奇襲をかけるよりないと判断します。北朝の近衛が来た以上、敵が撤退するとは思えない。私は兵を無駄に殺すつもりはない。心ある者は後に続かれるがよろしい」
  挑発ともとれる発言に将軍たちは我こそはと言う勢いでベルナとともに出ていった。
  サイファの制止の声も聞かずに。高貴なる雑種という言葉を残して。
  天幕の外は紅に彩られている。空と大地を染め上げる紅。
  それはラメルの異名、血染めの聖域を想起させる色であった。

 アスナは近衛騎団を率いてラメルに急行していた。
  サイナの馬に乗せてもらってと言うのはかなりカッコ悪いがしかたがない。
  それに彼女の馬術は巧みで、かなりの速さで走っているにも関わらずあまりアスナに負担をかけることはなかった。
  景色が流れる。争いの中間点であった古戦場に向かうその道程はあまりにも殺風景だ。
  取り立てて何かがあると言うわけでもなく岩と砂で形成された荒涼な大地があるだけだ。
  遮るものがないわけではない。時折、ちょっとした岩山の間を抜けたり、小高い丘があったりと大地に起伏を与えている。
  歴史的な意味と立地条件から道はあまり整備されていない。整備された道と言うのは物資の輸送に都合が良いのと同じく、軍隊の移動にも向いているからだ。
  予定ではラメルまであと二時間ほどの場所で突然、ヴァイアスが右手を上げた。それと同時に彼の周囲にいた騎兵たちが散開し、ほどなくして騎団は停止した。
「停止命令出して、どうしたんだよ」
「あぁ、ここから先は俺たちだけで行く。下手に大人数で押し掛けたら警戒されるだろう。形式的には俺たちにとって両方とも敵、なんだからな」
  何よりラディウス側にとって近衛騎団は明確な敵なのだ。不用意に刺激して準備が終わる前に攻めてこられても困る。
「そっか。で、誰が行くんだ?」
「俺とアスナ、それに軍師。あとは護衛として一個小隊つければ十分だろ」
  確かに十分だ。ヴァイアス一人いれば敵に十分に対抗できる。護衛と言うのはほとんどアスナとLDのためにつけられているようなものだ。
「残りのみんなはここで待機させるのか?」
  一応、アスティークたち参謀の立てた作戦に目を通しているがアスナの記憶の中にはここで待機するなんてことは記載されていない。
「いや。ここからは急行させずに通常通りに行軍させる。騎団が合流する頃には交渉その他は終わってるはずだ。軍師も良いな」
「捕虜に否はないだろう」
  風で乱れた髪を手で梳きながらLDは答えた。どうでも良いがその様は嫌になるぐらいに絵になる。
「アスナも良いな?」
「良いよ。一気に行こう!」
「よしっ。・・・・・・伝令! 全軍に無駄な体力を使わずに来るように伝達。俺たちは殿を仰せつかってるんだ、今は楽をさせてもらっておけとな」

 約二時間後、アスナたち一行は無事にラディウス軍と対峙する臨時戦闘団との合流を果たした。
  臨時戦闘団の司令部に案内される間に見受けられる兵はどれも疲れ切っており、まともな戦いが出来るようには見えない。
  何よりアスナの目を引いたのは彼らの装備だ。
  近衛騎団のような金属に魔導珠を用いたものとは異なり、何かの皮を鞣して(なめして)幾重にも重ねたようなものを彼らは身に纏っている。手にしている武器は素人目にも濫造したとしか言いようのない代物ばかりだ。
  ラディウス軍がどれだけの強さで、どのような装備をしているのかアスナは知らないが、少なくとも大国の名に恥じないもののはずだ。
  内乱中とはいえ、五大国の一つに数えられるラインボルトに侵攻しているのだから尚更だ。
  内乱の問題が一段落ついたらこの辺りから改善しないとな、とアスナは思った。
  軍政改革と呼べるほど大きな事ではないだろうが、装備を改善するだけで随分と戦力は上がるはずだ。
「後継者殿下、ヴァイアス団長閣下、・・・・・・並びにLD閣下をお連れしました」
  気が付けば司令部用の大きな天幕の前まで来ていた。横にいるヴァイアスを見ると、
「閣下、ねぇ」
「うるさいぞ、殿下」
  お互いの苦笑には、似合わねぇなと思いっきり書かれている。
  天幕にはアスナから入っていく。夕暮れの時間のためか天幕内は暗く、一人一人の顔は判別がつかない。それでも皆が起立して、最敬礼をしているのが分かる。
  アスナとヴァイアスは迷うことなく上座に進み、この司令部を司っている国境守備軍の司令と第一魔軍の副将の前に立った。
「迎え入れたと言うことはオレたちの指揮下に入ると言うことで良いんだな」
「はっ。そちらにおられる軍師殿からも殿下が来られたのならば降伏せよと指示を受けております」
  と、第一魔軍の副将は言った。その隣にいる国境守備軍の司令も同じように頷く。
  と言うことは初めから降伏その他の下準備は終わっていたと言うことだ。
  そう言う大切なことを何で言わないんだよと、アスナは目でLDに抗議したが、当人は涼しい顔をしたままだ。
「分かった。お前たちの降伏を受け入れ、現時点をもってオレたちの指揮下に組み入れる」
  そしてアスナは一歩を踏み出す。アスナの意を汲んだ二人の首脳は左右に分かれ上座を空けた。上座に立ったアスナの両脇を固めるように首脳は座し、後見するようにヴァイアスは背後に立った。
「さて、さっそくだが今後のオレたちの行動について簡単に言うと」
  一同を見回す。老若男女と揃っているが皆、自分に注視している。それを確認した上でアスナは告げる。
「この場から即時、撤退する。体面とか気にしない言い方をすれば尻尾巻いてムシュウに逃げるんだ」
  その場にいたほとんど全ての者が表情を止めた。凍り付いたと言った方が良いほどに彼らは固まってしまった。アスナが言ったことを飲み込んだのか表情が変化し始める。
「近衛騎団を率いてるのにそんなことをするのか、だろ?」
  誰かが口を開く前にアスナは言った。アスナの両脇を固める二人が首肯する。
  そのセリフはさすがに聞き飽きたよ とヴァイアスにだけ聞こえるように呟くと、
「はっきり言ってオレは正気だし、本気だ。すでにそのための準備をムシュウでやってるし、そのための行動も取ってる。ムシュウでは騎団の留守番組が籠城の準備をしてる。早い話がもう逃げるために近衛騎団は動いているんだ」
「ですが、殿下! 一国の近衛が敵を前にして一戦も交えず逃げ出すなど聞いたことがありません。そのようなことは亡国の行いです!」
  後継者がそれを率いていたとなれば尚更、そう言う印象を与えることになるだろう。
  そして一度、そう言う印象がつけば挽回することが非常に困難であることは間違いない。
  彼らが必死になるのは自分たちにも関係することだからだ。近衛騎団の逃走はラインボルト軍の誇りをも辱めることにも繋がるからだ。
  指揮系統の異なる両者ではあるが、近衛騎団はラインボルト軍の象徴的な意味合いがある。それが一戦も交えずに逃走することは通常ならば許されることではないのだ。
  だが、アスナはそんなこと気にしない。
「それじゃ、聞こうか。目の前のラディウス軍と戦って勝てるのか?」
  返事はない。
  当然だ、とアスナは思う。素人の自分ですらそう思うのだ。
  曲がりなりにも武人である彼らなら戦うことの無謀さが分かっているはずだ。
  だが武人と言うものは総じて誇り高い。アスナから見れば余計な分まで背負っている。
「勝てる訳ないよな。後で合流する騎団を会わせても二万と少し。このだだっ広いところで自分たちの五倍の敵を倒せるわけがないんだ。良くて相打ちになるだけだ」
  それでも立派な戦果であることに変わりない。
  五倍もの敵を前にして一歩も引かずに相打ちになる。
  悲壮な覚悟と言うものはある意味、人を酔わせるのに十分な魅力がある。
「それが国を守ると言うことではないでしょうか。殿下には早急にエグゼリスに戻られ、我々は全力で敵を討つ。これが当たり前のことです」
  頭に白いものが多く混ざったいかにも堅物そうな士官が言った。
「オレに後のことは頼むって言い残して敵に突撃するのは確かに格好いいよな。いかにも一般受けしそうな話だと思う」
  アスナは士官から目をそらすことなく言葉を続ける。
「だけど、残念ながら貴方の名前は国のための殉死者ではなく無駄死に、もしくは大局を見ることが出来なかった大馬鹿者の代名詞で歴史に残るだけですよ」
  そこまで言うとアスナは抗戦論を一刀両断の如く言葉で畳みかけた。
「いいか。今、ラインボルトは内乱中なんだ。はっきり言ってラディウスに対処する兵力を割けるだけの余裕がない。仮にここで敵と戦って相打ちになっても、ラディウスは次を送り込んでくるのは目に見えてる。その時はどうするんだ? 遮るもののないラディウス軍は無傷でムシュウを手に入れるんだぞ。あの幾重にも重なった強固な城壁を突破してムシュウを奪還できると思うのか? ・・・・・・簡単に出来るはずがない」
  これは作戦立案に携わった参謀の一人からの受け売りだ。
  それに今はラディウス軍も謎の停止をしているが、こんな吹きさらしの場所に二週間もいたのではたまったものではない。眼前の弱い敵さえ倒せばムシュウと言う拠点を手に入れることが出来るのだ。どちらにせよラディウス軍もいつかは動き出す。
「そうさせないためにムシュウで籠城するのが最良だろ。ムシュウだったら五倍の敵とも十分にやり合えるんだから」
  言うべきことは言った。これからの方針もしっかりと告げた。
  あと自分がやるべきことは彼らに決断を促すことだけだ。
「さぁ、どうするか聞かせてもらおうか。オレたちと一緒にムシュウに戻るか、無駄死にするか好きな方を選べ。もっとも縄で縛って引きずってでも連れて帰るつもりだけどな」
  冗談でも何でもない。断られた場合のことを考えて、アスナは騎団に縄を持たせて外で待機させている。だが、それは杞憂で済んだようだ。
  固まっていた場の雰囲気が緩やかに和らいでいく。場の意見は決した。
「第一魔軍副将オード以下、後継者殿下のご下命に従います」
「国境守備軍ラディウス方面隊総隊長マニ以下、後継者殿下のご下命に従います」
  自然、視線は反対論を口にした初老の士官に向く。
「浅薄でありました。殿下のご下命に従います」
「よしっ。それじゃ、今後の細かい説明と調整はヴァイアスたちに任せる。日が沈んだら撤退開始出来るようにしておけよ」
  一斉に彼らは起立すると了解の声とともにアスナに最敬礼をした。
  後は準備をしてムシュウに逃げ帰るだけだ。

 サイファと完全に決裂し、独自に動くことになってしまったベルナは将軍たちを引き連れて自軍の天幕に入っていった。
  ベルナは部下に軍議の準備を整えるよう指示を出し、将軍たちには席に座るように告げた。その席次は将軍としての位階よりも、貴族としての位階によってとられた。
  伯爵位を持つベルナだが、若輩者として本来ならば末席に近い位置に席を取ることになる。しかし、ベルナはロジェスト公爵家の者であり、今回の件の中心であるため上座についていた。
  ベルナの日頃からの教育の賜物か、部下たちはすぐに軍議の準備を済ませた。
  と、同時に将軍たちの麾下にある参謀たちもベルナの天幕に集結した。
  サイファの陣取る本営に比べるとかなり手狭ではあるが、仕方がない。
「北朝の近衛が参陣した以上、衝突は免れまい。さらに向こうには人魔の規格外もいる。兵数では我らが圧倒的に優位に立っているが、兵力として考えるのならば正直、楽に勝てる相手ではないだろう」
  ベルナは誰もが分かっていることをまず口にした。敢えて口にすることで、皆の認識を高めようと言う狙いだ。
「だが、逆に言えば脅威であるのは、近衛騎団と第一魔軍のみだ。残り半数である、国境守備軍は脆弱そのもの。敵もそのことは分かっているはずだ。恐らく敵は」
  話しながらベルナはラインボルト側の布陣地の陣形を仮想設置していく。
「前面に近衛騎団六千、その左右を固めるように第一魔軍五千を半数に分けて配置し、国境守備軍は後方に置き、予備兵力として逐次投入することが予想される」
  言葉の通りにベルナは地図上に駒を置いていく。
  ベルナの考え方は近衛騎団が参戦した以上、ラインボルト側に敗走以外の撤退はあり得ないと言う考えに基づいている。
  常識的であり、堅実な布陣予想だ。これに異を唱える者はまずいないだろう。
  唱えたとしても多少の変更などでしかない。だから、将軍たちはもっともだと頷き、この布陣予想に同意する。その上で自分たちがどう攻めるかがベルナの口から披露される。
「この布陣予想からも分かるとおり、敵は動かずに近衛騎団、第一魔軍で我々の進軍を堰き止めようとしている。これを突破することは容易ではない」
  そんなことは分かっているとばかりに将軍たちは頷く。
「だが、その背後で混乱が起きれば、前面で戦う近衛騎団や第一魔軍の兵たちは浮き足立つはずだ。彼らの背後は脆弱な国境守備軍なので撃破するのも容易い。また、包囲することにもなり、殲滅することも可能のはずです」
  将軍たちの間から感嘆の声が漏れる。だがベルナはそれで慢心することなく、さらに言葉を続ける。
「だが、相手は北朝が誇る近衛騎団と第一魔軍。一筋縄には行かないと思われます。そこで少数の別働隊にてムシュウに急行、占領していただく。例え敵が逃げ出したとしてもすでにムシュウの城門は我らの手によって閉じられており、逃げ込むことは不可能。後は一気に殲滅するのみです」
  今度こそ、天幕内は賞賛の声に満ちた。阿諛追従の将軍たちだけではなく、実力でその地位を手に入れた参謀たちも同じ反応を示している。
  その中で一人の将軍が挙手をした。
  将軍と呼ばれるには痩せすぎで、纏う空気は怜悧と呼ぶには濁りが濃い。だが、彼の用兵の巧みさは誰もが認めている。
「なにかご意見でも? フォーモリアス卿」
  フォーモリアスと呼ばれたその将軍は白いものが多くなり始めた頭を撫でつけると意見を述べ始めた。
「貴公が立てられた策は見事だと思いますが、聞くところによるとラメルに参陣した近衛騎団は六千。そして、後継者が内乱鎮圧のために率いていたのは一万。残り四千はムシュウに残ったままでしょう。素早くムシュウを制圧するためには少数で動かなければならない。だが、少数ではムシュウに残った四千もの兵を殲滅することは不可能かと」
「確かに。ですが、聞くところによると近衛騎団を率いる後継者は身辺警護よりも勝利を優先すると聞きます。ラメルで自軍が重囲にあると知ればムシュウから増援を向かわせるでしょう。手薄となったムシュウを制圧すれば、後継者をも虜にすることも可能ではないでしょうか」
「・・・・・・なるほど。確かに仰られるとおりだ」
「では、我が策に同意していただけるでしょうか?」
  フォーモリアスの同意を得られればこの場でこれ以上の反対意見は出ないと確信できる。
  彼は宮中序列も軍の位階の上でもベルナと同じだ。しかし、彼の姉は先王の寵姫であったことで王家と少なからず縁がある。
  公爵家は王家の娘が嫁すほどの由緒と権力を有する家格である。その公爵家出身のベルナが仮にいなければ彼が上座に座っていたことだろう。それだけにフォーモリアスの同意は重きを成していた。
「同意いたしましょう」
「ありがたい。それでは・・・・・・」
「ただし、ムシュウ制圧は私に任せていただきたい」
  途端、場が殺気立った。
  ムシュウ制圧はラディウスにおいて悲願とも言えることだからだ。度重なる侵攻にも耐えた堅固な都市をほぼ無傷で制圧できたとなれば、その者の名は飛躍的に上がることは間違いない。その上、後継者をも捕獲できれば軍の位階だけではなく宮中序列さえも上がる可能性もある。ラインボルト併合の橋頭堡を手にすることが出来るのだ。
  それぐらいの恩賞があっても全く不思議ではない。
  それだけに、そう簡単に譲れるものではない。
「フォーモリアス卿。御自身が仰られたとおりムシュウ制圧は困難が予想される。貴公にはそれをやり遂げる自信がお有りか?」
「ご存知ないだろうが、私は前回の北伐に従軍している。諸卿らよりムシュウ周辺は詳しいと思うが?」
  ベルナは考える。フォーモリアスの意見は確かに理に適っている。
  少数兵力でムシュウを制圧するのは困難であることに違いはない。後継者がムシュウ残留部隊を向かわせないとも限らない。例え向かわせたとしても、残される部隊を殲滅することが出来るとも限らない。それが後継者を守るためとなれば尚更だ。
  ベルナは顔を上げ、集まった将軍たちを見る。
  どれも凡庸で、有能であると言い難い。今、一番重要なのは長期滞在することになる兵たちに、必要以上の負担をかけないことだ。
  そのためならば、多少の名誉や出世への道をフォーモリアスに譲っても良いだろう。
  将軍たちから不評を買うかもしれないが、彼ら程度ならば黙殺しても構わない。
  それに自分もそれに同意すれば、反論の声すらも上がらないだろう。
  案の定、ベルナの同意に彼らは不満げな表情を浮かべるも反論の声は挙がらなかった。
「では、ムシュウ制圧はフォーモリアス卿にお任せします。兵を選抜し、すぐにでもムシュウに向かっていただきたい」
「承知した。残りの兵は上将閣下への目付にしようと思うがいかがか?」
「そうして頂けると助かります」
  それは本当に助かる話だった。
  目付も付けずにサイファを放置することへの不安もそうだが、これで幾分か他の将軍たちの不満も抑えることが出来る。
  麾下の部隊を戦闘に参加させなければフォーモリアスがムシュウを制圧しても、それはフォーモリアス個人の功績であり、何より作戦が良かったからと言う印象を第三者には与えることが出来る。将軍に対する評価は麾下部隊の指揮能力であり、作戦遂行能力だ。
  つまり、麾下部隊のほとんどを動かさなければ、将軍としてあまり評価されないということだ。
「では、すぐに兵の選抜に入らせていただく。失礼する」
  敬礼でもって見送ると、ベルナは他の将軍たちにそれぞれどのように兵を動かすか指示を下していった。

 ベルナの指示の下、途端にラディウス陣営は慌ただしさを見せ始めた。
  兵たちの動きは夕飯の支度のためだが、指揮官たちは明朝の攻撃に向けて奔走している。
  兵数的には圧倒的に優勢ながらも近衛騎団と第一魔軍の戦力を警戒するのであれば、夜陰に紛れての奇襲が妥当だが、この策が有効なのは自軍が極少数で、敵が大軍である場合のみだ。
  これが逆になれば、敵味方の識別が非常に困難な戦場では同士討ちが発生するのは目に見えている。
  それに今回は包囲戦が主だ。友軍がどこにいるのかを把握することが重要になる。
  包囲が薄い場所や穴が出来れば敵は間違いなくそこを攻めて突破されてしまう。そうなれば作戦は瓦解してしまう。
  ただでさえ、ラディウス軍は貴族的な体質で各将軍の独立性が強い。
  作戦が破綻すれば、例え大局では勝利していても戦線から離脱する部隊が出ても不思議ではない。
  そのラインボルトに侵攻する部隊を総括すべきはずのサイファは一人、本営の天幕にいた。天幕内の灯りは弱く、机の上には茶の入ったカップから湯気が立ち上っている。
  だが、彼はそれに手をつけることなく先ほど受け取ったばかりの書類を凝視していた。
「閣下。これは明らかな抗命罪にあたります。すぐに然るべき処置を行うべきです」
「そう言うわけにもいかんだろう。将軍たちの連名による正当な解任手続きだ。従うしかなかろう」
「ですが、これは幾らなんでも。待機命令に逆らった将軍たちが閣下を解任だなどと。私は悔しくてなりません!」
  どの国の軍にも臨時に上級指揮官を解任する権利が与えられている。明らかに当初の戦略を無視するような行動をとったり、指揮官の作戦遂行能力が失した場合のために与えられる権利だ。だが、各国の軍でこの権利が行使されることはほとんどない。
  人事を司る部署も適材適所に人材を配するだろうし、それ以上に部下による解任権が無闇に乱用されれば軍の統率が乱れてしまう。
  本来、軍人ならば最も忌避すべき上官への反抗が、ラディウスにおいては軍内での統率よりも宮中序列での権威が優先されがちなため、解任権が乱用されるのだ。
  もっとも今回ばかりは普段から乱用されているそれではなく、現場の兵を第一にする考えと、国家戦略を第一にする考えが衝突した結果の出来事だ。
「お前だけでもそう言ってくれると救われる」
  そう言ってサイファは解任されたにも関わらずどこか嬉しげな顔で副官の方を叩いた。
  サイファが机に置きっぱなしにした解任決議の連名書のなかにベルナの名は無かった。

 一時間もすれば夜が明けるだろう。
  そして、日の出とともにラメルはその異名の通り、弱者は立つことの許されない聖域と化すだろう。他ならぬ自分たちがその聖域を作るのだ。
  篝火がベルナの顔を照らす。
  男にしては線が細く、美しい相貌が炎で彩られる。その炎を上回るような峻烈さがベルナの瞳には宿っている。
  ただ立ち、真っ直ぐに敵陣がある方に視線を向けている。それだけでベルナの周囲にいるものは厳粛な気持ちになっていた。
  ベルナの下知を待つ伝令たちは、そこに幻想を見る。
  真に高貴なる者の姿とは、まさしくベルナそのものであると。
  これより戦場へと向かう者たちが最も欲するのは幻想だ。
  この人についていけば必ず勝てる、生き残れると。
  それは決してただの幻や、思い込みなどではない。幻想界では、強い幻想はチカラを持つ。それは本当に微々たるものだが、ほんの僅かな差が生死を分ける戦場では大きな意味を持つ。
  故に、真に高貴なる者である幻想を纏うベルナの麾下には、それに相応しいチカラが与えられる。
「包囲部隊は定位置についただろうか」
「予定通り移動できていればすでに定位置についているはずです」
  影のように従うベルナの副官は答えた。
  頷く。指揮杖を手にした右手が掲げられる。
「攻撃開始。敵戦力を殲滅せよ!」
  了解の声はない。ただその場にいた伝令たちは最敬礼でもってそれに答える。
  散開していく伝令を見送った後、ベルナは副官に向かって頷く。
  副官も最敬礼すると部隊へと戻っていく。
  周囲は慌ただしさを増していく。その中でベルナの周りのみが静けさが漂っている。
  ベルナは誰にも気付かれぬように小さく吐息をする。
  そして一度だけ、決して見えることのない方向へと視線を向けた。俯き、瞑目する。
  出陣の空気がゆっくりとベルナの意識を染め上げていく。
  私的な思いや都合は将軍としての意識や責務に覆われていく。
  顔が上がる。そして、瞳が開かれた。
  そこにはベルナと言う個人はいない。真に高貴なる者の幻想を纏う将軍が立っていた。
  マントを翻し、戦場への第一歩を踏み出す。
  もはや視線はまっすぐに向かうべき場所に、他を見るようなこともない。
  ベルナの背後の先、そこにはサイファの天幕があった。

 攻撃命令を受けて、第一陣を受け持った三個軍、三万の兵が敵陣への突撃を開始した。
  本来ならば矢や魔法を使って攻撃、隊列が乱れたところを騎兵で崩し、歩兵でもって殲滅をするのが常道なのだが、ラディウスは貴族社会であると同時に魔術士至上主義国家でもある。騎兵部隊の大半が貴族の傍流であり、魔法部隊も戦場での損害を出すことを忌避されるため積極的に使われることはない。
  必然的に前面に押し出されるのは簡単に替えの効く歩兵部隊となる。
  このような策を用い続けても大国の地位を保持し続けることが出来るのは、魔法部隊の攻撃力の高さもあるが、ラディウス軍は常に敵の倍以上の歩兵を揃えるところにあった。
  このようなことが出来るのは、ラディウスでは庶民が栄達するためには魔術師として大きな成果を残すか、軍に入隊する以外に道がないからだ。
  そのため、農地が狭いが子沢山の家では次男以下の全ての男子が軍に志願することも珍しくない。
  ラディウスの社会構造そのものが魔法の発展と、軍事力の確保を促すように出来ているのだ。逆に言えば、そうでもしなければ人魔が人口を占める割合が八割を越えるラディウスが国家として生き残ることが出来ないのだ。
  いつものように敵陣への突撃を命じられた歩兵たちは槍を手に、恩賞そのものである敵将の首めがけて駆けていく。
  その彼らを朝日が照らし始める。大地を、丘を、空を、雲を・・・・・・。
  赤い陽が昇るだけで、世界が明らかになっていく。
  感傷を呼ぶ光景が広がるも兵たちは気にかけることなく突き進む。
  その彼らの目に躊躇の色が宿る。はっきりと見え始めた敵陣の異常に気付いたのだ。
  柵や土嚢が積まれた陣はあるが、肝心の兵の姿がないのだ。
  そこはどう考えても慌てて逃げ出したかのようだった。
  天幕はもちろん、炊き出しに使っていた鍋釜、果ては汚れ物と思しき衣類が駕籠に山と積まれている。
  逃げ出したのだ。この陣の有様から想像すると北朝軍は夜の間に自分たちに脅えて逃げたのだ。
  この光景に第一陣の将軍たちを始め、将兵全てが逃げ出したラインボルト軍への嘲笑がラメルに響いた。その間にも小隊長たちは兵たちに陣に不審なところがないか調査を命じた。
  程なくしてラインボルト軍は自分たちの出陣とそれほど変わらぬ時間でここを放り出したことが分かった。暖をとるための薪の燃えかすや、水桶から零れた水がほとんど地面に吸い取られていないところから推測された。
  現場からの報告を受けた将軍たちはすぐに追撃を命じた。
  だが、敵陣の捜索のために大半の兵が散開してしまっており、統率のとれた行動が出来なくなっていた。
  追撃命令が現場の兵たちに届かずに少しでも金目の物がないか調べ回っていた。
  そのうちの一人が何かを踏み潰した。瞬間、陣内のいたるところで爆発が起きた。

 敵陣での連続して起こる爆音、そして朝日に照らされた土煙が後方で突撃の機会を伺っていたベルナからもはっきりと見て取れた。
  ベルナの陣中から喝采が起こった。傍目には敵に大打撃を与えたように見えたからだ。
  そのなかでベルナとその周囲に控えていた側近のみが顔を強張らせた。
「何があった」
  魔導士を有している部隊同士が刃を交える戦場では爆発など珍しくもないことだ。
  だが、それが友軍が突撃して間もなく敵陣でのみ爆発が起こるのは変なのだ。
  敵は近衛騎団に第一魔軍。専門の魔法部隊でなくても十分に魔法で応戦することは可能な軍だ。それだけの精鋭を有する敵が自陣への攻撃に対して受け身になるとは思えない。
  なにより先陣を任せた将軍たちは士族階級である魔法部隊や騎兵部隊を使わずに平民で構成された歩兵部隊を使うことを好んでいる。この好みは彼らが歩兵部隊の能力に信頼をおいているからではない。敵を疲れさせ、その隙をついて魔法部隊や騎兵部隊を用いて友軍ごと敵を殲滅するためだ。魔法行使能力も身分もない歩兵の替えは幾らでもきくからこその戦術だ。
  それだけに突撃してすぐの爆発はベルナには解せなかった。
「罠、でしょうか」
  副官の呟きにベルナは頷きで返した。
  まず、間違いないだろうとベルナは考える。敵にとっての最大の脅威は圧倒的な兵数の差だ。総合的な戦力では優劣がなくとも兵一人当たりが対処できる人数は限られてくる。
  いくら兵の質に勝っていても数で押し切られればいつかは負けてしまう。
  兵数差をひっくり返すことが出来なくとも、戦局を有利に運びたければ罠を用いるのは普通のことだった。
「罠があることは予想していたが、ここまで派手にするとはな」
  そう。派手だ。後方にいるベルナから見ても簡単に分かるほどに派手だ。
  幾つもの盛大に土煙が立ち上り、幾つもの小さな影がそれに巻き込まれているのが分かる。それが単なる土塊なのか、敵陣の備品なのか、それとも・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・」
  ベルナは敢えて、影の正体について考えることはしなかった。考えるのは敵が何を思ってこのようなことをしたのか、だ。
  立ち上がる土煙を見ながら、ベルナはある推測が閃き、愕然とした。
「まさか、そんな、・・・・・・いや、そうでなければ辻褄が合わない」
「閣下?」
  腰に下げた指揮杖の柄を握りしめて固まったままの上官を副官は気遣わしげに声をかけた。ベルナは一人、他人に聞こえるか聞こえないか程度の声で呟き、自分の思考に埋没していく。その思考を遮るかのように伝令が飛び込んできた。
「報告いたします!」
  返事こそ勇ましいものの、表情は困惑の色を浮かべていた。
「承る!」
  副官の声に伝令は背筋を伸ばすと、
「敵陣に兵の姿を認めず。指示を待つ。以上です」
「やはりそうか。敵は撤退戦を行うつもりだ」
「しかし、閣下。仮にも近衛を名乗る者が一度も刃を交えることなく撤退するなど」
「言っただろう、撤退戦だと。敵は近衛騎団に殿軍を任せるつもりだ。そうすれば敵を目前にして逃げ帰ったなどと言われまい」
「では!」
「伝令。すぐに自軍に戻り、こうお伝え願いたい。敵、近衛騎団の強襲が予測される。早急に兵の掌握をされたし。準備が整い次第、我ら第二陣も戦列に加わる。以上だ!」
  了解の声とともに伝令は命令されたことを復唱すると自軍へと戻っていった。
「聞いたとおりだ。敵はムシュウに撤退し、立て籠もるつもりだ。我らは現時点より追撃戦に移る。包囲部隊には撤退した部隊の追撃を命じる」
「では、我らは」
「もちろん、近衛騎団を潰す!」

 重奏とも言える爆音の連なりは逃げるアスナの耳に届いていた。
  振り返れば立ち上る土煙も見える。
「始まった!」
  自分とサイナの腰を縄で縛られて、これ以上にないほど彼女と密着しながらアスナは言った。彼の周囲にはコルドンへ向かったときと同じ部隊が護衛についている。
  そしてさらにその周囲には国境守備軍の兵が併走している。第一魔軍の兵たちは国境守備軍の後方について、あると予測される追撃に備えている。
  サイナの背中にひっついて赤面しつつもアスナは彼女に話しかけた。
「自分で提案しておいてなんだけど、うまくいったみたいだな」
「そうですね。恐らく敵は浮き足立ってるはずです」
  アスナが命じたのは簡単に言えば地雷の敷設だ。
  LDがムシュウでアスナを生き埋めにしようと画策したときに用いた大量の爆発用魔導珠をラメルに持ち込んでいたのだ。LDが初めに用意していたものに加えてムシュウの武器庫で眠っていたものも持てる限り持ってきたのだ。その魔導珠を地雷に近い形に加工したと言うわけだ。
  地雷はその餌食となった者の足などを容赦なく奪っていくため非人道的だと避難されているが、軍事的には非常に有効な兵器だ。
  前述したとおり地雷は踏んだ兵の命を奪うことではなく行動不能にすることが最大の目的だ。地雷を踏んだ兵は足を吹き飛ばされることになるが、生きており、負傷兵として扱われることになる。そして建前上は負傷兵は後方の野戦病院に運ばれることになる。
  そうなれば負傷兵には輸送担当者とその護衛を付ける必要がでてくる。
  地雷の効果はそれを踏んだ兵だけに止まらず、部隊そのものにも大きな損害を与えることになるのだ。その上、安価なのだから廃絶なんて出来るはずがない。
  これが現生界での地雷事情の大まかなところだが、幻想界では地雷の使用率はあまり高くない。魔法があるため爆発物の開発が盛んではないことと、地雷の素材となる魔導珠が高価だからだ。何より地雷の大規模な使用は卑劣であるとされ、近隣諸国から無視することの出来ない非難が沸き上がるからだ。
  今回の地雷もどきの使用は限りなく黒に近いグレーと言える。
  ともあれ、アスナの指示で作られた地雷は本来の目的とはかなり趣が異なる。
「ですが、あのような地雷の使い方は聞いたことがありません」
「そうかもね。オレも砂煙を上げるためだけに地雷を使おうって言ったときに賛成してもらえるとは思わなかったし」
  そうなのだ。ラメルは砂と岩の荒涼な大地であるため、連続して爆発を起こせば砂塵が舞い上がるのは当然のことだ。爆発で敵の指揮能力を混乱させ、舞い上がった砂塵で敵の視界を遮ることが出来れば、殿軍である近衛騎団はしばらくの間、有利に戦いを展開できるというわけだ。そして、それは図に当たった。例え、敵が本格的に罠にかからなくても地雷を警戒して撤退する時間を少しは稼ぐことが出来る。
「あとはヴァイアスたちだけど、大丈夫かな」
「近衛騎団(私たち)に殿軍をご命じになられたのは信頼の証だと思っておりましたが」
  いささかムッとした口調でサイナは言った。
  あの夜以来、彼女はアスナや身近な者に対して、感情を露わにすることが多くなったように思える。それがアスナには嬉しくもあり、くすぐったくもあった。
「もちろん大丈夫だって信じてる。けど、これまで近衛騎団が戦った相手って格下で、そうじゃなくても数はこっちの方が多かっただろ」
  馬が大きく跳ねた。改めてサイナに強くしがみつく。
「けど、今回は敵の方が数が多くて、実力もよく分からない。そう言う相手だと信頼してても不安になるのは仕方ないんじゃないかな」
「アスナ様、ラディウス軍に関する知識は?」
  見えてないだろうがクセで首を振りながら、「全然、知らない」と答えた。
  と、乗馬中の揺れとは違う揺れをアスナは彼女の背中に感じた。
「サイナさん?」
「団長が本気で指揮されている限り大丈夫です」
「ヴァイアス信頼されてるんだなぁ」
  自分もその一人であることを棚に上げてアスナは呟いた。
「それもありますが、団長は・・・・・・」

 眼前で今も巻き上がる土煙を見、爆音を聞きながらヴァイアスは両の口端を上げた。
  久しぶりに自分が戦場に立って戦える高揚感がヴァイアスを包み込んでいた。
  近衛騎団団長としての地位が指揮所に縛り付ける以上に人魔の規格外と言う自分自身が無闇に戦場に出ることを許さない。彼は指揮官であり、戦術兵器なのだ。
  だが、今回は違う。アスナ自らの命令で戦場に立ち、剣を振るうことが出来る。
  殺しは好まないが、戦うことは大好きだ。普段、抑え付けている力を解放する瞬間は何度、経験しても新鮮な喜びを与えてくれる。
  この内乱では特にそうだ。眼前に戦場がありながら自分が乗り込んで剣を振るうことは出来なかった。それだけに今、この瞬間の歓喜はこれまでにないほど大きい。
  魔法部隊に幻影魔法を使わせて周囲の景色に溶け込んでいた近衛騎団は本格的に土煙が立ち上ったのを確認すると次々と姿を現した。
  それと同時にヴァイアスの指揮の元、隊列が組まれていく。
  前列に魔法部隊を置き、その両脇に騎兵部隊が鏃を組んだ状態で待機する。
  そして一個小隊ずつに分けられた歩兵部隊が突撃体勢を維持しつつ、ヴァイアスからの命令を待つ。
「予想される敵の数は五万。対する俺たちはたったの六千だ。笑っちまうほどの兵数差だ」
  隣に寄り添うように立つミュリカを見る。ヴァイアスに視線に気付いた彼女は彼と目を合わせて笑みを浮かべる。これからとっておきのイタズラを始めるときの、ヴァイアスが好きな笑みを浮かべている。
  何の気負いもなくヴァイアスは言葉を続ける。聞こえる者はほんの僅かだろう。
  だが、告げることにこそ意味がある。
  そう。それこそに意味があるのだ。
「だが、だからどうした、だ! 俺たちは近衛騎団だ。ならば、敵が何であろうと関係ない。我らは!」
『我らは魔王の剣であり、魔王の盾!!』
  他を圧する団員たちが自分たちの存在意義を吼える。恐らく団員たちの声はラディウス軍にも聞こえただろう。だが、もう遅い。
「ならばやるべきことはただ一つ。攻撃開始だ!!」
  ヴァイアスの号令以下、前衛に構えていた魔法部隊が一斉に攻撃を開始した。
  威力の大きな爆炎系魔法ではなく、単発ではさほど強力とは言えない魔導矢を放つ。
  魔導士たちの負担も軽くできるし、数を撃つことが出来る。
  この土煙と地雷の影響で敵はどこに密集しているか分からない状況では爆炎系魔法の本来の威力を発揮できない。ならば、一発の威力が弱くても数撃ちゃ当たるを選んだ訳だ。
  放ち続ける魔法の矢は空を埋め尽くす。これで敵の全てを殲滅することは出来ない。
  それでも相応の敵を討ち取ることは出来るはずだ。そして敵の混乱をさらに引き延ばすことが出来る。三分ほど続いた魔導矢による瀑布に続けた後、嘘のように攻撃を停止し、次の布陣地に移動を開始した。
  それに代わって歩兵部隊は前に進み、ヴァイアスの突撃命令を待つ。そして騎兵部隊は、魔法部隊の攻撃と同時に出撃した陣を迂回して敵の背後に回っていた。
  ラディウス軍の基本戦術に対する研究はリーズと同じレベルで行われている。彼らがどのような戦い方を好み、どのような用兵を行うか分かっている。
  対する近衛騎団は対ラディウス戦に駆り出されたことが過去数百年なかった。故に敵は自分たちがどのような行動に出るか予測はつかない。そのような敵と戦う場合は正攻法に頼るのは間違いではない。故に簡単に敵の行動予測ができた。
  アスティークたち参謀は敵が歩兵でこちらを圧倒し疲弊させた後、騎兵部隊で蹂躙させ、魔法部隊で殲滅するつもりだと予測していた。
  ならばその布陣を崩せば圧倒的にこちらが有利となるのは自明だ。いや、そもそもこれは撤退戦であり、近衛騎団の役割は殿だ。
  敵の追撃を押し止めて友軍が撤退する時間を稼ぐの役目だ。だから本格的な戦闘を行う必要は全くない。
  適当に戦って、適当に逃げる。それを何度か繰り返し必要な時間を稼いだあとで最後にヴァイアスは思いっきり暴れてやるつもりだった。
「突撃だ! 適当に戦ってずらかるぞ!」

 騎兵中隊指揮官ゲナッシュは麾下部隊に鏃を組ませ、第一騎兵大隊の先鋒部隊として敵部隊の背後をつくべく全速で移動を続けていた。
  横目に見える敵を包む土煙は消えかけている。それは第一陣の魔法、騎兵両部隊が攻撃に移るまでさほど時間はない。
  ラディウス軍の一般歩兵に対する扱いの酷さは有名だ。このまま何もしなければ敵味方関係なく攻撃を加えてくるのは目に見えている。何よりこの混乱が将軍たちにそれを成すように促している。
  それを止め、さらに敵を混乱させることが出来るかは自分たちの行動にかかっている。
  見えた!!
  整然と隊列を組んだ魔法部隊と騎兵部隊が見える。ゲナッシュの目端にはそのさらに後方に陣取る第一陣の司令部らしき集団が見える。が、そちらに気を向ける必要はない。
  今、やるべきはなのはただ一つ。
「第二、第三は左翼、第四、第五は右翼へ。残りは中央へと突っ切る! その後、小隊ごとに散開し、予定地に集合すること!」
  返事は行動によって成される。小隊ごとに組まれていた鏃が今、ゲナッシュの指揮の下でさらに大きな鏃と化す。そして遂にエルニスで見せたそれよりも遙かに大きく強力な、もはや鏃とは言えない敵を打ち崩す破壊鎚そのものとなった。
  これだけの規模の鏃である。ラディウス側もかなり早くに察知し、魔法部隊の一部が対応に回った。敵部隊長の命令とともに一斉に魔導矢が放たれる。
  騎団魔法部隊と遜色のない威力のそれが鏃に浴びせかけられるが全く効力を発揮しない。鏃の周囲を覆っているのが防御魔法であることもそうだが、近衛騎団もまた強い幻想を纏っているからだ。
  それはベルナの”真に高貴なる者”と言う幻想よりも遙かに強力だ。
  幻想とは与えられるものではなく抱くものだ。いかに象徴たる存在が確固たる力と意志を持っていたとしても麾下にいる者がそれを信じなければ幻想はチカラを与えはしない。
  しかし、近衛騎団の抱く幻想は違う。
  それは完全なる象徴であり、不可侵の存在。彼らが抱くのは憧れであり、誇りだ。
  もはや伝統と評することさえ可能なその幻想を彼らは揺るぎ無い信念とともにその身に宿している。
  彼らが宿している幻想は強力無比である。なぜなら彼ら自身が幻想の担い手なのだから。
  そう、彼らが宿す幻想とは”魔王の近衛騎団”である。
  しかし、それだけが彼らを真にラインボルト最強たらしめている要因ではない。本当の意味での最強である要因、それは・・・・・・。
「防御は気にするな! 我々には幻想と団長がついている。普段はどうしようもない方だが、戦場ではこれ以上信じられる方はいない。良いか! 自分たちの役目を果たすことに専念しろ。心に宿る幻想を裏切るな!!」
  攻撃が効かないと分かった敵魔法部隊は急いで散開しようとするが、もう遅い。
  身を翻し、背を向けた瞬間、敵兵は鏃によってその身を砕かれてしまった。敵騎兵部隊も同様だ。対抗すべく鏃を組むが、騎団の鏃はすでに最高速度に乗っている。
  急造の鏃など触れることすらなく弾き飛ばしてしまう。
  その巨大な鏃はゲナッシュが率いているものだけではなく、彼の属する大隊全てが鏃を組んで敵を蹂躙しているのだ。
  それもただ敵を踏み潰し、隊列を乱しているだけではない。鏃の左右の騎兵が戦車の機銃よろしく魔導矢を乱射する。
  鏃によって隊列を崩された敵兵は容赦なく魔導矢の餌食となる。
  防御力の弱い魔法部隊と騎兵部隊だ。もはや一方的な蹂躙を受けるしかなかった。
  それでも敵兵が積極的に逃げ出さないのは、彼らが貴族の子弟であり、士族身分の者たちだからだ。例え逃げるべき状況であっても彼らは逃げない。いや、逃げることが出来ないからだ。
  軍規で敵前逃亡は死罪と決められていること以上に、逃げればラディウスでの社会的な地位を剥奪される。それは逃亡した本人だけではなく類縁にまで咎が及ぶ。
  故に彼らは全てを賭して戦う。自身に関わる全ての者のために。
  だが、死力を振り絞っての彼らの戦いぶりも騎団騎兵部隊の前には意味を成さなかった。
  なぜなら・・・・・・。

 巻き上がっていた土煙が風にながされ始める頃、ヴァイアスは待機させていた歩兵部隊に突撃を命じた。いつまででも敵が土煙の中でおたおたしていてくれるわけでもないし、こういう状況になれば攻撃に出るよりも体勢を整える方を優先するのが部隊として当たり前の行動だからだ。そうするために一度、自分たちの将軍の下に集結するはずだ。
  そうなれば今、その将軍の近くに配備されている魔法部隊と騎兵部隊を引っかき回している騎団騎兵部隊が危機にさらされることになる。
  それに加えて魔法攻撃を終えた魔法部隊を後退させ、歩兵部隊の撤退の援護をさせるのだ。
「戦局はどうなってる?」
「一応、予定通りみたいよ。ヴァイアスがここに陣取ってるんだから大丈夫。だって、このためだけに誇り高き近衛騎団が貴方なんかを団長においてるんだから」
  もちろん、ミュリカが言っていることは半ば以上、冗談だ。人魔の規格外だからといって指揮能力もないヤツを団長として認めるほど近衛騎団は酔狂ではないのだから。
  言われたヴァイアスもそのことが分かっているから苦笑を浮かべる。
「フォルキスの旦那みたいに闘気の扱いが上手いわけでもないし、エル姫みたいに魔力の扱いに長けているわけでもない。リムルほど剣技に自信があるわけでもない。かといって大将軍みたいにそつなくなんでも出来るほど器用でもない」
「けど、近衛騎団(私たち)にとっては団長はヴァイアスが適任よ。あたしもそうだけど小さな頃からみんなと顔見知りだし、悔しいけどあの旗への忠誠心は一番だから。それに・・・・・・」
  ミュリカは一歩、二歩と足を進めると詩を朗じるように近衛騎団を表す言葉を放つ。
「我らは魔王の剣であり魔王の盾。我らを統率するはただ一人、魔王のみ。我らが誇りは魔王と共にあることなり」
  戦場の中、歌声を聞ける者は彼女の周囲にいる者だけだ。
  聞くべき者はここにはおらず、だけど朗々と大切に詠い終えると彼女は振り返ることなく言葉を続ける。
「だけど、この言葉を歴代の近衛騎団は完璧に実践できなかった」
  当然である。本気で戦いだした魔王とともに戦える者などそうはいない。
  エルニスでヴァイアスは「魔王と一緒に戦場に立っていられるのは至難の業」と言ったがまさにその通りなのだ。
  ラインボルト最強を自認する近衛騎団でも団員全てが魔王とともに戦える訳ではないのだ。
「けど、今の近衛騎団(私たち)はそれが出来る。だって私たちには守りの要がいるんだから」
  振り返り笑みを浮かべる。笑顔を向ける相手を心から誇らしく感じている笑みをミュリカは浮かべていた。
「そうだな。人魔の規格外だなんて持ち上げられててもいろいろと器用に出来ない俺が団長なんてやってられるのはそのためなんだからな」
  ふっと戦場には不釣り合いな気の抜けた笑みを浮かべる。
  戦場を前にしての猛りはもちろん抑えている。機会させあればすぐにでも放つつもりだ。だからといって無様な姿は絶対にさらさない。
  そのような姿は近衛騎団団長として相応しくなく、ヴァイアス自身もそれを良しとしない。なによりミュリカがそれを許さない。
「団長!」
  雰囲気をぶちこわすような団員の声に導かれるようにして土煙を引きながら敵騎兵が姿を現す。その数、二十騎。すでに敵は鏃を組み、最高速度をもってヴァイアスたちに突撃してくる。中央の土煙の中から姿を現したということは自軍の歩兵を押し潰してきたのだろう。敵が何を考えて突破してきたのかは推測の域を出ないが、ここで帰すわけには行かない。
  ヴァイアスの手勢は三個小隊のみ。十分に対抗できる。
  なぜなら彼らはヴァイアスの力を最も強く受ける場所にいるのだから。
「第四、第六小隊は左右に展開。魔法で迎撃! 残りは敵の進行を堰き止めろ!!」
  団長直々の命令に団員たちは無言で従う。
  二つの小隊は左右に展開するとそれぞれの小隊長の号令以下、一斉に魔法を放つ。だが相手は鏃を組んでいる。それも展開している防御魔法はかなり固い。
  それでも二個小隊の集中射撃に半数近くが脱落した。
  残る十数騎がヴァイアスたち目掛けて突撃してくる。
「ミュリカ!」
  彼女はすでに最前列に陣取り、手にした杖を構えている。
  幻想界での魔法の行使の基礎は想像にある。どのような現象を想像し、それが事実であると信じ切ることが出来れば後は自身の魔力が魔法として形作ってくれる。
  ミュリカが今、手にしている杖は幾つもの付属効果を与える。
  想像するのは二つの現象。それを瞬時に組み合わせ形となす。
「はっ!!」
  普段の彼女とは思えない裂帛の気の篭もった声とともに手にした杖を地面に突き付けた。
  杖を押し当てられた地面が僅かに割れた程度だ。が・・・・・・。
  一秒の間をおいて突然、大地が揺れる。地震による揺れとは違う。脈動の一語が相応しい。確かに敵騎兵の足を狙うのは良策だがそれで押し止められない。
  なによりこれがミュリカの狙いではない。
「貫け!」
  地面に突いていた杖をミュリカは敵に向けて叫ぶ。
  彼女の声に叫びに従って揺れは大きくなり、隆起する。それは一瞬。
  隆起した地面は次の瞬間には無数の錐となり、騎馬もろとも兵を突き上げ、貫く。
「くっ!」
  目測を見誤った。最前列にいた三騎を討ち取り損ねた。
  悔しくはあるが後は自分の横を駆け抜けるヴァイアスたちに任せれば問題ない。彼女は締めに入る。
「爆砕!!」
  声とともに手にした杖を右に大きく振る。
  錐によって串刺しにされ、そして宙づりにまでされた騎馬と敵兵に止めを刺す。
  ミュリカの放った言葉が全てであるかのように岩や砂で出来た錐は爆砕した。錐を形作っていた岩や砂は貫いたものの体内を容赦なく蹂躙し、死という結末を決定付ける。
  残された死体は凄惨そのものだ。周囲は血染めとなり、幾つもの肉片と両断された身体が転がる。が、凄惨さの大本はそれではない。
  これでもまだ死ぬことの出来なかった兵たちの呻き声にすらならない漏れる空気の音と壊れた心臓が脈打つ身体だ。
  ここまで身体の損傷が激しいと回復魔法も意味がない。彼らに許されるのは狂わんばかりの激痛を死の穴に身を沈めるまで甘受しつづけることだけだ。
  だが、この惨状に対して謝意も同情も示す者は誰もいない。
  これは戦いなのだから。
  一方のヴァイアスは眼前で起こった血肉と礫の爆砕になど興味を示すことなく部下たちに先行させて、残る三騎を討ち取るべく駆けている。
  手にした魔剣ガルディスが主の期待に応えて蒼い光を発する。ガルディスはあらゆる力の流れを断ちきる。攻撃であろうと防御であろうと関係ない。それが力の流れである限り、ガルディスに断ち切れないものは存在しない。
  先行する小隊が接敵する半数以上の団員が鏃に弾かれ大きく飛ばされる。その代償として騎馬の足を切断することに成功、団員たちは落馬した二人の敵を討ち取る。残る一騎がまっすぐにヴァイアス目掛けて突っ込んでくる。
「・・・・・・っ!!」
  真っ直ぐにヴァイアス目掛けて槍を突き出す敵が何か叫んでいるが、彼にはそれが何を意味するか分からない。分かる必要もない。
  敵は二十騎おり、ヴァイアスには三個小隊とミュリカがいた。だがこの瞬間に残ったのはヴァイアスと敵騎兵のみだ。
  それが全てだ。無粋な介入者はいないし、いたとしても介入することを許さない。
  ヴァイアスの両の口端が上がる。ミュリカにさえそう見せることのない笑みを浮かべる。
  それは自分たち近衛騎団をものともしなかった敵への驚愕であり、ミュリカの魔法から逃れた幸運に対する賞賛であり、仲間の脱落をものともせず突き進んだことへの敬意。
  そして、それほどの敵と一騎打ちを挑めることへの愉悦。
  もはや鏃とは言えない騎兵の槍の一撃が放たれる。速度に乗っている分だけ敵の動きが速い。ヴァイアスもガルディスで対応しようとするが初動の遅れは如何ともしがたい。
  余程の訓練を積んだのだろう。敵騎兵の放った槍は正確にヴァイアスの胸に直進する。ガルディスは槍とは見当違いの場所にあり、防ぐことは出来ない。最後の頼みの鎧ですらこの速度から放たれる槍の一撃に耐えられるものではない。
  獲った! と喜悦とも安堵ともとれる表情を敵騎兵は浮かべる。後は鏃の残滓がヴァイアスを弾き飛ばすだけ。だが・・・・・・。
「!?」
  弾かれたのは槍の方であり、地に伏したのは彼の愛馬だった。
  ヴァイアスと砂煙を上げて転倒した騎馬は前脚を切断され、口から泡を吹きながら倒れ伏している。そしてその向こうには信じられないと表情で語る敵兵がいた。
  良く訓練されていたからなのか、騎兵としての矜持がそうさせたのか、彼は腰から剣を抜いてヴァイアスと対峙した。愛馬を失い、敵陣にたった一人。
  降伏すると言う選択肢もあろうが、ラディウスはそれを許さない。なにより彼自身が許さないのだ。
  それでもヴァイアスの不可解さに敵兵は剣を構える以上の動きが出来なかった。
  確かに槍は彼の胸に吸い込まれるはずだった。だのにヴァイアスは砂埃に汚れただけで傷一つついていない。
  いや、それどころか集まってきた団員たちの全てが彼と同じく傷を負った者がいない。
  不可解を越えている。この中の数人は間違いなく敵兵の鏃をまともに受けて弾き飛ばされたというのに。例え命を取り留めても無事であるはずがない。それが、無傷。
「人魔の規格外だって持ち上げられてても闘気も魔力も十分に扱えない。剣技も自慢できるほどでもない。かといってなんでも小器用に出来るわけでもない」
  誰に告げるでもなくヴァイアスは敵兵の方へと歩み寄る。
「だけど、そんな俺でも取り柄の一つぐらいはあるんだ」
  恐慌に囚われた訳ではない。ただ倒さなければ生き残れない。その単純な状況に乗っただけ。敵兵はまっすぐにヴァイアスに向かって剣を振り下ろした。ヴァイアスは抵抗することなく真っ直ぐにその剣を受け止める。
  だが、敵兵の剣がヴァイアスの肩口を切り下ろすことなくただ蒼い燐光を放って剣を防いでいる。そして、その蒼の光に敵兵は見覚えがあった。
「防御、魔法!?」
「そうだ。それが俺の取り柄だ。俺の防御魔法がある限り、近衛騎団(俺たち)を倒すことは不可能だ。これが近衛騎団(俺たち)がラインボルト最強を称する根拠だ」
  いくら最強であってもここまでくるのに戦死者ゼロと言うのがおかしいのだ。どんなに強くてもいざ、戦いとなればどのような不測の事態が起きるか分からない。
  些細な不運で生死を左右する戦場を幾つも渡り歩きながら近衛騎団として戦死者出すことがなかった理由がここにあった。
  ヴァイアスが近衛騎団全員に対してかけた防御魔法。人魔の規格外と言う常識外れが展開、維持したその障壁こそが近衛騎団を最強にして不敗の軍に、いや、魔王とともに戦うことが出来る近衛騎団たらしめているのだ。
  これを破るにはヴァイアスのガルディスのように断ち切るか、アスナを襲った暗殺者が使った強力な解呪を対象にかけるしかない。
「あの世で誇って良いぞ。あの槍の一撃は間違いなく俺を越えていたんだからな」
  言うと同時にガルディスは深々と敵兵の胸に吸い込まれていった。
  最後の一騎は倒れた。二秒間の瞑目ののち、ヴァイアスはミュリカに視線を向けた。
「ミュリカ、残り時間は後どれぐらいだ?」
「二十秒よ」
「よしっ、第一回戦はこれで切り上げる。後退して体制を整えるぞ」
  一度も倒した死体を見ることなくヴァイアスは後退準備を始めた。
  撤退戦はまだ始まったばかりだ。敵の死体の一つや二つに構っている余裕はない。
  彼は近衛騎団団長であり、主たるアスナから殿軍を任されたのだから。

 ベルナは下唇の裏を噛んで、目の前で展開する戦いを睨んでいた。
  遠目であることに加えて、巻き上がった砂煙の影響もあり戦いの詳しい推移は分からない。分かるのは敵騎兵部隊によって蹂躙される友軍と数多の音が重奏する戦場交響曲のみ。
  それがまだ序奏に過ぎないことをベルナは分かっている。戦いは始まったばかりだ。
  友軍は敵の奇策に混乱しており、歩兵が離散しているのが見て取れる。
  ラディウス軍の歩兵は栄達のために志願した者たちなので戦闘意欲は高いが、その分負け戦だと思った瞬間には離散してしまうことが良くある。
  士族のような枷がないこともあるが、なにより将軍たちが歩兵を消耗品として見ているため、兵としての教育がぞんざいであることに起因している。
  どのような状況でも冷静に指揮官の指示に従えるようにすべく教育を施し、出来る出来ないは関係なく、そうあれる心構えを備えさせる。個々人の技能も大切な要素だが部隊、ひいては軍として歩兵がまず初めに求めるのはそう言った心構えなのだ。
  なまじ戦闘意欲が強いため、一度それが萎えると部隊としての機能はアッという間に瓦解してしまう。今、必要なのは再び兵たちの士気を上げるきっかけだ。
  そのきっかけたるベルナは動けないでいた。いや、この言葉は正確ではない。ベルナの麾下第七軍の兵はすでに突撃準備を終えている。足を引っ張っているのはベルナと同じ第二陣、トゥージェン将軍率いる第二十七軍だ。色々と手間取っているとの報告を受けているが、本当のところは作戦が初手から躓いたしたことを知って後込みしているのだろう。
  表情は常と変わらず余裕を見せていたが内心では苛立ちと怒りで渦巻いていた。
  噛んでいた下唇の裏が切れる。血の味がする。
  切れた箇所を舌でなぞりながら考える。
  このまま、麾下一万のみで突撃を行うか。
「・・・・・・それこそまさか、だ」
  誰にも聞こえることのない呟きが漏れる。
  麾下部隊のみでどうにか出来る時はすでに逸している。今、突撃しても友軍の混乱に巻き込まれるだけだ。今、必要なのは友軍を踏み潰してでも進撃できるだけの数だ。
  今ならまだこの混乱を乗り越えて敵近衛騎団を撃破することが出来る。噂に聞く人魔の規格外がどんなものであろうと数で押せば勝てる。
  ベルナはそう確信している。
  そのためにも早急に突撃を加えなければならない。敵は愚者の集団ではない。
  自他共に認める北朝最強の部隊、近衛騎団なのだから。
  ベルナの懸念はもう一つある。別働隊が自分の命令に従って包囲の動きを停止し、追撃に移っているかどうかだった。
  包囲部隊が相手をするのは弱体化した敵の予備兵力である国境守備軍だった。ベルナがそれを任せたのはナイティン、バナム両将軍だ。この二人が信頼のおける人物だから包囲部隊を任せたのではない。
  正面切って近衛騎団と第一魔軍とを相手にするには脆弱すぎるから包囲部隊を任せたのだ。もちろん、包囲が完成するか否かを決める大切な役割であることには変わりない。
  二人もその重要性を良く理解し、彼らよりも優秀な参謀や現場指揮官たちが速やかに包囲を完成させるはずだ。なによりこの二人は勝ち戦に強い。
  包囲されたことを知った敵が突破しようとしても昇進の種である敵を逃すとは思えなかったからだ。
  だが、そのことごとくが裏目に出ている。
  敵は撤退を始め、こちらの初手を潰されてしまった。戦況はベルナの予想を超えるところにあるが、ムシュウを奪取すると言う大枠はまだ崩れていない。
  ベルナの命令を受けて直ぐに包囲部隊が全力で追撃を行えばまだ何とかなる。
  一度、始まった作戦は後から修正を加えることは不可能に近い。それはどんな名将でも智将でもどうすることもできない。ベルナが包囲部隊に命じたことはまさにそれだった。
  しかし、作戦の大枠を崩さないためにはこの変更命令は不可欠だった。
  ベルナの焦りの最大の原因。それは伝令がそう簡単に命令を伝えられる場所に包囲部隊はいないことだった。一刻も早く伝令が包囲部隊に命令変更を伝えることを願うのみだ。
  視線をトゥージェンの部隊に移す。準備は整いつつあるが、突撃できるまでまだ時間が必要だ。
  焦りや怒りとは別のところで、ベルナは内心でため息をもらした。
「・・・・・・サイファなら」
  サイファならば時間を浪費することなく、もう突撃を開始しているはずだ。彼がこの場にいれば上将という地位も、養子ではあるがバルティア公爵家の嫡子という立場も関係なくトゥージェンのもとに怒鳴り込みに行き、突撃準備をさせているはずだ。
  対する自分はどうだ。ロジェスト公爵家に生まれ、その立場に相応しい教育と立ち居振る舞いを要求され、それを当たり前としてきた自分には出来ることではない。
  一軍の将であるならば、時には粗暴とも言える態度が必要になるが、ベルナにはそれが出来ないのだ。出来ない以前にどうすれば良いのかすら分からない。
  その点はサイファを高く評価していた。荒々しい激情とそれを御する理性を兼ねているラディウスでは希有な人物だ。今の彼には上将という地位が相応しいと思うと同時にベルナは反発したい気持ちもあった。それが好敵手に対するものなのか何なのかは分からない。ただ彼を無視することだけは士官学校時代から出来なかった。
  だが、自分が認めるその男は後方でフォーモリアスの部隊の監視下にある。
「・・・・・・・・・・・・」
  ここにいない者のことを考えても仕方がない。
  与えられた戦力と状況を活用して、得るべき戦果を手にする。
  今、必要なのはそれをなすための行動だ。
「・・・・・・ようやくか」
  伝令とおぼしき騎兵がまっすぐにこちらに駆けてくる。
  ベルナの前で下馬すると伝令は、
「トゥージェン将軍麾下第二十七軍、突撃準備完了しました」
「よろしい、突撃開始だ。狩りに出るぞ。得物は北朝の近衛だ!」
  ベルナの号令を受けて伝令が各部隊に命令を伝えるべく走り回る。
  そして、第二陣は動き出す。
  友軍の混乱を押し潰し、真っ直ぐに得物を狩るために。

 ラメルは砂と岩が広がる荒涼たる場所だ。そう言う場所では夜明けの寒さは尋常ではない。包囲軍の一つを指揮するバナム将軍は吐く息の白さに顔をしかめながら歩兵部隊の移動を監督していた。と言っても実際、何かをするではなく彼直属の部隊に守られながら兵たちの移動を大仰に見ているだけだ。実際に監督しているのは副長以下の司令部の者たちだ。別にバナムが無能だからこうしているわけではない。
  作戦が動き出したら不測の事態が起きない限り、将軍と言う存在はほとんどすることがないからだ。だったら後方の司令部でふんぞり返っているよりも、こうして兵がその姿を見える場所で偉そうにしている方がずっと意味がある。
  偉そうな態度、別の言い方をすれば勝利への自信という言葉に繋がる。
  兵たちが一番恐れるのは当然、戦死であり負け戦だ。負ければ全てを失うと言っても良いだろう。それだけ重大なことだけに彼らが一番に欲するのは指揮官の揺るぎない態度だった。
  何がなんでも勝利を掴んでやると言う意気込みや、勝って当然だと言う態度が兵たちに自信を与えるのだ。ある意味、指揮能力と同じぐらいに将軍と言う存在に必要な要素と言えるだろう。
  指揮能力は凡人そのものであったが、その点においては一流といえるだろう。
  髭面の強面と言うことも幸いしている。実際の実力は横に置くとして、風体だけは歴戦の勇将に見えた。
  が、実際のバナムは顔色とは違って心の内では色々なモノが渦巻いていた。戦いを前にしての興奮、少数とはいえ近衛騎団と第一魔軍を相手にする恐怖、そして手柄を得て栄達することへの期待だ。何より思ったよりも行軍に時間がかかってしまい、予定位置に陣を敷くことが出来ないでいることだ。
  将兵に急がせているが、予定時間までに間に合いそうにない。作戦は実行に移された瞬間から狂い始める。突撃予定時間が刻一刻と迫ってくる。
  ・・・・・・それに、とバナムは内心で呟いた。
  最大の不安は同じく包囲軍の右翼に陣取るナイディン将軍のことだ。
  平素では表だって見せていないが、正直に言えば嫌いだった。もちろん、そんな私情など将軍である以上、揉み消しているがナイディンへの嫌悪と言う火種だけは決して消えることがない。
  何がナイディンへの嫌悪の源泉となっているのか不思議なことにバナム自身分からなかった。強いて上げるのならば似たもの同士ということになるだろうか。この二人、家格も容姿も軍歴もほとんど同じなのだ。条件としては好敵手となっても不思議ではないのだが、−−実際、バナムは自身のわだかまりをなくそうと努力はしたが−−どうしてもそうはならずにどうしようもない嫌悪しか残らなかった。恐らくナイディンもそうであろう。
  普通の者ならみっともなく百面相するところだろうが、子爵位を持つ家に生まれたことで終始ふんぞり返ってるのが日常であったことが幸いして、変わらず彼は偉そうであった。
「申し上げます。物見より第一陣が攻撃を開始したとのことです」
  大仰にバナムは頷くが内心では焦燥感で彩られていた。それを抑えて現状に応じた命令を下す。
「・・・・・・その方は各部隊を回り、こう申し伝えよ。第一陣、攻撃開始。手柄をふいにしたくなければ急ぎ定位置につくようにとな」
「はっ!」
  これで将兵の戦闘意欲は増し、今までよりも包囲の準備は早くなるはずだ。その反面、僅かながらも包囲に綻びが生じるだろうが仕方がない。
  自分たちが包囲し、敵の逃げ道に蓋をしなければこの作戦は破綻する。
  まずは包囲を完成させることだ。それから包囲を縮めても遅くはないはずだ。
  敵は第一魔軍であり、近衛騎団なのだ。そう簡単に討ち取られるとも思えない。こちらの包囲が完了した頃には敵も疲れているはずだ。その後、一気に討ち取る。
  多少、朋輩に恨まれる事になるだろうが手柄は獲った者勝ちだ。それは向こうだって分かっていることだ。
  バナムはそう思うことで必死に燻る焦燥を抑え込んだ。だが、その蓋はあっけなく蹴り飛ばされてしまった。
「申し上げます。ナイディン将軍麾下第十九軍突撃を開始しました!」
  駆け込んできた伝令の言葉バナムは手にしていた指揮杖を振り上げ、直ぐ側に控えていた兵の肩に思いっきり打ち付けた。
「抜け駆けしたというのか!」
  凡庸でいかにもお貴族然としたバナムがここまで激するところを見たことのなかった兵たちは顔にこそ出していなかったが皆、一様に驚きの雰囲気を発している。
  周囲の変化に気付けなくなるほど激したバナムはその頭でナイディンへの不快感の根底になにがあったのかに気付いた。
  彼の初陣のときだ。今と同じようにナイディンと部隊を並べていたのだが彼は上官からバナムの攻撃を援護せよと命じられていたにもかかわらず、先陣を切り本来、バナムが相手をすべき敵に攻撃を加えたのだ。後れをとったバナムはナイディンに代わって援護をする羽目になり、上官から厳重注意を受けることになったのだ。
  まさにあの時の再現であるかのようにナイディンは抜け駆けをした。
  今やバナムの表情は赤を通り越して青にすらなっている。ナイディンの抜け駆けの報を聞いた彼の参謀長が駆け寄ってきた。
「閣下。ナイディン将軍の抜け駆け、如何致しましょうか」
  ナイディンの抜け駆けで包囲は崩れてしまった。今更、ここを堅持したところで何の意味もない。軍人ならば執るべき行動はただ一つ。
「我らも突撃する!」
「ナイディン将軍を援護するのですね」
  抜け駆けは許されないことだが、されてしまった以上その側面援護をして不必要に被害が増さないように動くべきなのだ。そして普段のバナムならばそう言う行動をとる。
  だが、バナムは再び指揮杖で手近にいた兵の肩を思い切り打ち付けると、
「私は突撃しろと命じたぞ。ナイディンを押し潰してでも前に出るのだ」
「し、しかしそれでは・・・・・・」
「反論は許さん! 即刻そのようにせよ!」
  三度、振り下ろされた指揮杖を肩に受けた兵は遂に跪いてしまった。
  その兵を介抱しようと動く者はいない。跪いてしまった兵が悪いのだ。将軍の周囲を守る部隊がこんなことで跪くことは許されない。この一戦の後、処分が下されることだろう。
「りょ、了解いたしました」
  普段、目にすることのないバナムの態度に参謀長は驚き、司令部へと駆け戻っていった。
  そして自分の側で膝をついた兵を一瞥すると、
「なにをしている。早くこの者を処分せぬか!」
  バナムの命に従い、膝を突いた兵は両脇を抱えられて人目のつかない場所に連行された。そこで何が行われるかは想像するのは容易だ。言葉にするのなら、将軍直率部隊に弱卒は不要、つまりそういうことだ。
「まだか! このままではナイディンの抜け駆けを許してしまうではないか!」
  言うは容易いが一万もの軍勢を効率よく活用することは簡単ではない。それに加えて今は兵を移動させている真っ最中だということが動かすのを難しくしている。仮にも将軍である彼ならば分かっていることだが、頭に血の上ったバナムには兵が動き出すまで待つ余裕がなかった。
  バナムは三人、指揮杖で打ち据えたのち、遂に痺れを切らせて手近にいる伝令全てを召集した。バナムの大音声に彼の司令部要員たちが飛び出してくるが彼らが何か言い出す前に一睨みで黙らせる。
「よいか! ナイディンの抜け駆けによりすでに作戦は破綻した。あの男は我らが得るであろう功までも手にするつもりだ。それを見過ごすほど私はお人好しではない。全軍、一塊りとなり突撃を敢行する! 立ちふさがる者は友軍であろうと踏み潰せ。兵どもにこう申し伝えよ。敵は北朝の近衛。二、三も首を獲れば栄達の道が切り開けるであろうとな。行けぇい!!」
  バナムの命を受けた伝令が駆ける。兵の間を縦横に駆けていく。
  そして与えられた言葉をそのまま兵たちに伝えていく。大声で、ひたすら大声で叫び続ける。それを耳にした兵たちは一様に互いの顔を見合わせた、言葉の意味を消化しきると喜色の歓声を上げた。
  彼ら平民出身の兵の志願理由は立身出世し、貧しい今の状況から脱却することだ。それだけに今のバナムの言葉は効いた。
  なにしろ将軍自身が敵の首を二、三も獲れば栄達の道が開かれると言ったのだから。将軍に人事権はない。手駒にしたい者を推薦する様なことはあるだろうが一介の兵一人一人のためにそのようなことをする将軍はどこにもいない。
  だが、兵たちにとってはそんなことは関係ない。彼らの立ち位置から見上げて一番上にいるのは自分たちの指揮官である将軍なのだ。
  それ以外のことは知らないし、知るつもりもない。無学なのではない。そう言うことを知らせないように軍はしているのだ。
  だから将軍の言葉が全て。将軍が敵の首を獲れば栄達出来ると言ったのだからそうなるのだ。
  しかし、同じ命令を聞かされた現場指揮官たちは兵たちとは真逆に嫌な汗を額に滲ませた。兵と直接顔を合わせる彼らはその矜持で顔色だけは変えなかったが、内心では出された命令の無謀さに恐怖していた。
  兵たちを直接指揮する小隊長は下級ながらも士族に列せられており、それに相応しい教育も受けている。それだけにバナムの命令の無茶苦茶さを痛感していた。
  ナイディンの抜け駆けは確かに許せないが、だからといってバナムまで作戦行動から外れ、ナイディンの行動を側面援護する訳でもなく友軍を踏み潰してでも前に出たとなれば死罪は免れないだろう。かといって将軍直々の命令に従わなければ抗命罪としてやはり死罪だ。どう転んでも死罪は免れない。
  この状況で生を掴むには罪に目を瞑らざるを得ないほどの戦果を挙げるしかない。
  兵たちの喜色とは別に現場指揮官たちも生き残るために決死の気迫を裡に蓄え始めた。
  それに考えようによっては兵たち同様に自分と同じ現場指揮官の首を獲れば昇進、それがなくとも恩賞が出るはずだ。少なくとも処罰の対象にはならないはずだ。
  と、現場指揮官たちは自己保身として闘志を燃やし始めていた。
  命令が麾下の兵たちに伝わるとバナムは突撃命令を下した。
  それはもう無茶苦茶の一言に尽きた。一丸となっての突撃は傍目には脅威そのものだったが、内実は部隊単位での整然とした突撃ではなくただ兵の塊が突撃しているに過ぎなかった。

 一方、抜け駆けしたナイディンだが、彼は別に功を焦って抜け駆けしたのではなかった。
  彼はバナム同様に凡庸な将軍だ。だが、他の凡庸な将軍と違い彼はそのことを自覚していた。それだけに彼は色々と手を尽くしていた。大した武勇も知略もないのならば、せめて不測の事態が起きてもすぐに対応できるようにしておこうと心がけてきた
  今回も偵察の範囲を広げて情報の幅を広げていた。
  その偵察から第一陣が苦戦しており、その上、予備戦力として近衛騎団、第一魔軍の後方に配置されていると予測していた国境守備軍がいないとのことだった。
  その報告を受けたナイディンはすぐに敵は撤退戦を行うつもりなのではないかと思い立った。まさかと思ったが偵察から上がってくる情報は全てそれを示していた。
  本来ならばこの作戦の総指揮権を持つベルナにその旨、報告して命令を受けるべきだがそんな悠長なことをしている間にも敵は逃げ、距離を稼がれてしまう。
  ナイディンは決断を下した。一通り部隊に下命すると伝令を呼び、バナムへの要請を託した。
「敵は撤退戦を行うつもりだ。我が第十九軍は第一陣の援護を行う。貴軍は撤退する敵を補足、殲滅していただきたい。本作戦の帰趨を決するのは貴軍のお働き次第。成功すれば第一の功と思われる。健闘を祈る。以上だ」
  命令を受けた伝令はすぐに駆けていく。その姿に一瞥すると正面を見据えた。
「バナム卿に任せれば大事ないだろう」
  ナイディンはバナムのことを信頼していた。若輩の頃、血気と極度の緊張で猪突猛進しがちであった彼を良く援護してくれたのがバナムだった。
  また酒席をともにすることも多く、腹の探り合いが主である将軍たちの間でナイディンにとって、バナムは気を許せる人物であった。
「閣下。突撃準備完了いたしました」
「よろしい。突撃開始せよ!
  そして、ナイディン直営の本陣と騎兵部隊を除き彼の麾下部隊は突撃を開始した。
  現場指揮の総括を任せた副長ケイムに率いられ、鬨の声と砂塵を引き連れて兵たちは突撃していく。敵を包囲するため歩兵を広く展開した陣形のままで突撃を開始した。敵味方ともに爆発で巻き怒った砂塵に巻かれて状況が分からない以上、兵力を集中して突撃させるよりも分散させて投入した方がましだとナイディンは判断したのだ。広く展開しておけばどこかの部隊が必ず接敵する。
  乱戦と思われる戦場に統率のとれた兵を投入すれば、例え少数であっても効果はあるのだ。そして、ラディウスの虎の子たる魔法部隊も投入された。突撃部隊の援護ではなく、離脱する敵兵を連べ打ちにするためだ。
  ナイディンが敵の離脱を防いでいる間にベルナ率いる第二陣が駆けつける。その後、彼はバナムを追いかけるつもりだった。騎兵部隊が残されたのはもしものときのための予備戦力であると同時にそう言う意味も与えられていたからだ。
  兵たちが敵の背後に迫ろうとしている間にもナイディンは打てる手を打ち始める。
  事後承諾になるがベルナにその旨の言葉を預けた伝令を送り、ここでの一戦に決着がついた後、どのようにしてバナム率いる第二十三軍に速やかに合流できるかが検討されていた。
  ラディウスと接する国境地帯周辺とムシュウまでラディウス側はかなり高精度の地図を作製している。ムシュウをラインボルト制圧の橋頭堡にしようと考えているラディウスはこれまで起こした幾多の戦争、そして平時での隠密行動で測量を積み重ねていたのだ。
  その地図を基にして行軍計画が参謀たちの手によって行わせている。
  ナイディンも司令部の置かれた天幕に戻り、報告を待っていた。
  ほどなくして、警戒任務に就かせていた斥候が天幕に飛び込んできた。
「何事だ!」
  斥候のただならぬ雰囲気にナイディンはただでさえ強面の顔をさらに引き締めた。
「バナム将軍麾下第二十三軍、一塊りとなって敵に向けて突撃を敢行しました! また、我々の背後を突き、味方同士での争いに発展しております!」
「なっ!?」
  言葉が喉からでない。叫びたいことは多くあるが不思議と口からは何も出てこない。ただ椅子を蹴倒して卓に手を置いたままナイディンは固まっていた。
「伝令はどうした! バナム将軍にことの次第を知らせに行ったのだろう」
  茫然自失の体であるナイディンの代わりに彼の参謀長が伝令に聞いた。
「不明です。自分はただ見たままをご報告しているだけです」
「閣下、如何なさいますか」
  如何もなにもない。こうなった以上はナイディンの考えたことは完全に水泡に帰した。別の言い方をすればベルナの策もまた破綻したと言える。
  斥候の報告を信じ切れないナイディンはおぼつかない足取りで天幕の外に出た。信じられなかった。容姿に似合わず何かにつけて控えめなバナムがこんなことをするなど。
  だが、ナイディンが目にした光景は彼が期待したものとは全く異なっていた。
  友軍の援護に動いたナイディン麾下の第十九軍の背にバナム麾下の二十三軍が食らいついているのだ。さながら川に落ちた家畜が肉食魚に身体を喰いつかれているようにも見えた。その肉食魚の後方にはフォレックと呼ばれる広葉樹の葉を三枚、風車の様に配置した旗が見える。
  バナム子爵家の家紋。それはバナム自身が槍を手にして出陣したことを意味していた。膝を屈し、言葉もなかった。
  職務遂行能力を失ったと判断した参謀長はナイディンの復帰までの間、臨時指揮権の行使を宣言し、早急に行うべき命令を出し始めた。

 一塊りとなったバナム率いる第二十三軍の将兵たちはただひたすらに敵に向かって直撃する。隊列も何もあったものではないが、それだけに彼らの勢いは凄まじいものだった。
  転倒する者が出れば助け起こすことも出来ずに軍靴に踏み潰され、あまりに密集しすぎているため自分たちの手にする得物で味方を傷つける有様だった。
  しかし、彼らは止まらない。眼前に栄達への鍵となりうる敵がいるのだから。
  なによりこの突撃が間違いではないことを示すかのように第二十三軍司令官バナム将軍もこの集団とともに敵に向かって突撃しているのだから。
  少数の負傷者と脱落者を出しながら駆ける彼らの眼前に友軍の、第十九軍の兵の背が見えた。バナムからは友軍であろうと邪魔をするのならば踏み潰せと命じれられているが、さすがに彼らも友軍との交戦は固く禁じられていることを知っている。
  酔っぱらっての些細なケンカであれば兵舎の掃除一週間で済むだろうが、交戦となれば死罪は免れない。その彼らの背中を押したのはやはりバナムだった。
「進めぇ! 我らの邪魔をする者は誰であろうと踏み潰すのだ!」
  免罪符は得た。
  もし、監察官によって罪状を告げられてもこう、答えれば良いのだ。
  バナム将軍がそう命じたからやったのだ、と。
  第二十三軍の兵たちは再び歓喜の声を上げて突き進む。
  邪魔な第十九軍の兵たちの背を槍で突き、剣で切り付け首を刎ねる。奇妙だと思いつつも友軍が追い付いてきたことを歓迎していた兵たちは突然の凶行に何が起きたのか理解できなかった。肉に刃物を差し込むように、−−実際、出血を強いながら−−第二十三軍の兵たちは突き進む。
  何故こんなことになったのか理解は出来ない。だがこのまま何もしなければ友軍に殺される。第十九軍の兵たちは頭で考えてではなく、本能としてそれを理解した。
「貴様らぁ〜っ!!」
  感情に制圧されてしまった兵の裏返った声と閃いた剣の鈍い光を合図に遂に友軍同士の衝突が始まった。
  が、それは第二十三軍にとっては些細なことだ。一塊りとなって突撃している第二十三軍に対して包囲陣形のまま突撃を行っている第十九軍では多勢に無勢だ。何より奇襲を受けた形であるため第十九軍は屍を晒すだけだった。
  この凶行を知った第十九軍副将ケイムは理由は分からないまでも無駄に兵の損耗を嫌い、兵たちに道を譲るように命じた。それと敵陣の左右で停止し、体勢を立て直すと同時に司令部に伝令を送ることを決めた。友軍から裏切りが出たのか、それとも単なる事故であったのか不明である以上、一度待機して上の判断を仰ごうというのだ。
  一方、第十九軍と言う壁を突き抜けたバナム率いる第二十三軍の兵たちは突撃を続けていた。もはや彼らの前には邪魔をする者は何もいない。
  見えるのは眼前にいる獲物のみ。遠目にもよく分かる白の鎧が迫ってくる。
  その鎧の一つ一つが自分たちを栄達に導くのだ。彼らには相手がラインボルト最強である近衛騎団だとは分かっていない。しかもその先頭で手にした剣を肩に担いでいるのが人魔の規格外でもあることなど兵たちが知る由もない。

 敵の第一陣に突撃を敢行し、乱戦となる前にヴァイアスは近衛騎団を撤退させた。
  乾いた土地柄と言うこともあり、騎団の突入でさらに巻き上がった砂煙の中から返り血と土埃を身に纏った団員たちが次々と姿を現し、一心不乱に脱出する。
  敵は砂煙と騎団の奇襲で大混乱にある。すぐには組織的な追撃に移れるとは思えない。例え第二陣が突撃をしてきても、この混乱した状況を踏み越えてくるのは骨が折れるはずだ。
「脱出するぞ!」
  ある程度、団員たちを集合させると馬上のヴァイアスは先頭を切って離脱を開始した。
  その逃げる様は幻想界に鳴り響くラインボルトの近衛騎団とは思えない無秩序な集団であった。本来の部隊でなくとも隊長の下に集合して簡単な隊列を組んで動くものだが、今の近衛騎団はそれをしていない。まさに一目散だ。
「ちゃんと俺たちの後に続いてるか?」
  手綱の中でヴァイアスに包まれるようにして同じ馬に騎乗しているミュリカに聞く。初めての撤退戦、初めての殿軍にヴァイアスもあまり余裕がない。単騎でなら絶対に生還する自信はあるが今、ヴァイアスに求められているのは撤退戦をしながら戦死者ゼロでムシュウに近衛騎団を連れていくことだ。
  ヴァイアスの護りと団員たちの力ならば切り抜けられると確信しているが、それでも厳しいことには違いない。
  ・・・・・・ったく、アスナの期待に応えるのも大変だよな。
  その期待が絶対に不可能なことではないのがまた大変なのだ。別の言い方をすれば無茶なことを命じても何とか出来ると信頼されているということなのだが、それでも大変なことには変わりがない。
「大丈夫。ちゃんと、予定通りに付いてきてるわよ」
  先頭の自分たちを中心とした一団に続いて、幾つかの団員の集団が続いている。
「よしっ、一気に突き抜けるぞ!」
  眼前には自分たちを覆うように迫る敵兵の壁がある。あの程度の厚さならば、今の勢いを堅持していれば突破することは容易だ。後続も敵に包囲さえされなければ脱出は可能だ。
  周囲に目を配れば、ヴァイアスと併走する団員たちはそれほど負傷してはいないが確実に疲れが出ているのが分かる。
  その原因は先ほどの戦闘だけではない。ムシュウでのLDとの心理戦で疲労し、その翌日にはラメルまで来ている。それに加えて地雷の敷設の手伝いやこの作戦を行う上での伝達や意志の疎通などとやることは多かった。
  その上での戦闘なのだ。彼らが疲労を抱え込むことは当然だ。
  撤退戦は長くなることは予測済みだったので、その対策も行っている。だが、それが図に当たるかどうか分からない。何しろあまりにも幻想界でも例がないことだからだ。
「ったく、ホントに例外続きだな」
「ヴァイアス?」
  切迫した状況なのに苦笑が浮かんでいたみたいだ。自分を仰ぎ見るミュリカになんでもないと言うと真っ直ぐに前を見た。
「・・・・・・・・・・・・?」
  突然、敵兵の壁が割れたのだ。割れたと言うよりも踏み潰された。友軍であるはずの壁を押し潰して兵の塊が姿を現した。なにが起きたのか判然としないが敵は真っ直ぐに自分たちに突撃していることだけは確かだ。
「・・・・・・ヴァイアス」
  恐怖とはまた違う震えた声がミュリカの口から漏れた。遠目からも敵は隊列を組んでおらず、暴徒の如き無秩序さで突撃してきているのが分かる。正確な数字は分からないが数千は間違いないだろう。
  対する近衛騎団も敵と同じく隊列を組んでいない状況だ。となれば勝敗を決めるのは純粋な数の差だ。例え突破できたとしてもアスナの望む結果とはほど遠い。
  ならば、ここで自分がすることはただ一つ。
「ミュリカ。・・・・・・突破できると思うか?」
「さすがに、厳しいと思う」
  ヴァイアスの力はあくまで護りが主だ。団員たちが隊列を組み、一丸となっていればこちらの望む突破も出来るかも知れない。だが、現状はそうではない。
「やっぱりそうか。・・・・・・なぁ、ミュリカ」
  ん? と、彼女はヴァイアスを仰ぎ見る。彼はミュリカを見ずに迫り来る兵の塊を見据えている。
「上手くやれたら今晩、膝枕な」
  軽い口調だが真剣そのものだ。だから、ミュリカもヴァイアスが何をしようとしているのか分かった。剣技や闘気の扱い、魔法力の扱いも彼が持った力に見合うほどのものではない。だが、それでもこの場ではやらなければならなかった。
  人魔の規格外云々は関係ない。彼が近衛騎団団長だからこそやらねばならなかったのだ。
  ならば、ヴァイアスの相棒で副官であるミュリカがすることは決まっている。
  今、見せられる最高の笑顔を浮かべて、
「良いわよ、膝枕だけじゃなくて耳掃除もしてあげる」
「はっ。だったら、何がなんでもやらないとな」
  破顔するとヴァイアスは手綱をミュリカに預けると馬の上で膝立ちになった。
「それじゃ、後は任せた」
「えぇ」
  彼女の頭に一つキスを落とすと、身を躍らせた。流れる地面に着地。衝撃に激痛を感じるが無視するように踏み出し、加速する。対衝撃魔法を自身にかけて踏み出すたびに受ける衝撃を緩和させる。そして、足を前に運ぶ毎に加速していく。
  全力で駆ける軍馬をも越える加速にヴァイアスの両の脚だけではなく、全身の骨が軋み、筋繊維が断裂し、内臓が悲鳴を上げるが彼は加速を止めない。その必要はない。ただ、痛いだけなのだから。
  無茶な加速で身体が壊れても、すぐに回復してしまうのだ。人魔の規格外の自然治癒力は異常なのだ。その強大な力を振るうには身体が脆弱すぎる。だから、人魔の規格外は損傷した身体を即座に治癒させてしまう能力があるのだ。
  だが、それも完璧ではなく身体を壊せば痛みを伴う。
「・・・・・・・・・・・・っ」
  それを無視してヴァイアスはガルディスを抜き、肩で担う。さらに加速する。
  眼前に見えるのは塊だ。それが敵兵だと理解しているが、あそこまで密集しているとただの塊と見た方が分かりやすい。肩で担うガルディスの柄を強く握る。
  ・・・・・・上手くいくかな。
  これからする事を実際に目にしたこともあるし、創り方も知っている。だが、ヴァイアスに才能がないのか長時間、形を維持し続けることは難しかった。
  彼自身もそのことを自覚していたが、だからといって今の状況がそれを許してくれるわけがない。
  何より今、ガルディスを握る右腕が、アスナから与えられた右腕がある限り、主の期待を裏切ってはいけないのだ。
  想像する。思い描くのは巨大な、巨大な大剣。フォルキスが魔獣の群に向けて使ったときの大剣を想像す・・・・・・、いやそれだけでは駄目だ。もっと巨大な大剣でなければならない。そうでなければミュリカたちだけではなく、その後ろからついてくる団員たちも突破することは出来ない。もっと巨大で強い大剣が必要だ。
  そう、フォルキスのような切り裂くだけの大剣では数千もの敵を退けることは出来ない。
  かといって器用に闘気を操ることもできない。・・・・・・だったら、下手は下手なりにやれることをやる。
  戦う意志を集中させて、ヴァイアスに内にある力を闘気とする。そして溢れ出す闘気の流れを構築し、どう言った効果を与えるかを決定する。
  今の闘気の終点はガルディスの剣先。そこで今、ヴァイアスの闘気は溜まり、河川が決壊する寸前のような強大な力が収束していた。
  ガルディスは斬の力を持った魔剣である。故にヴァイアスの闘気はガルディスに影響され、切り裂きの力も与えられる。今やガルディスは赤熱する溶岩のような輝きを発していた。ありったけの力を込める。今は出し惜しみする状況ではない。
  後のことはその時考える。何かあったとしてもヴァイアスにはまだ近衛騎団がついているのだから。
  握ったガルディスの柄に左手をそえる。そして・・・・・・、
「・・・・・・・・・・・・っ!!」
  ラメルの荒涼な大地を揺るがすような地響きを圧するようにヴァイアスは吼えた。
  全身にかけた加速を押し止めるように右足を踏み込んだ。
  瞬間、瀑布のような敵の火炎弾がヴァイアスに襲いかかる。止むことなく浴びせかけられる炎熱はヴァイアスの全身を焼くが、その程度のことに意識を向けてはやらない。
  踏み込んだ脚を支点にして体重は勢いのまま前方へと移動する。ヴァイアスはその勢いをガルディスに込めて、横胴に振るった。
  収束した闘気は振るわれたガルディスの剣先の軌道を描いて飛び、さらに拡大伸張する。
  闘気は巨大な赤の三日月となって敵兵に向かって飛ぶ。
  それは破壊することに特化した力。いや、それしか出来ない力が飛ぶ。

 功名と栄達を得るために先頭をひた走っていた一兵卒ソルビタンは将軍の伝令の言葉を耳にして、誰よりも早く駆け出した。
  抜け駆けなどと何だのと言われても彼は先頭を目指してひた走った。
  手に入れるんだ、絶対に!
  ソルビタンには夢があった。栄達して、自分を貧乏人だと馬鹿にした故郷のヤツらを見返してやるのだ。そして、彼女を娶るのだ。
  そのためには何がなんでも手柄を得なければならない。
  敵は北朝の近衛だと聞いている。敵は自分よりも強いのは分かっている。
  だけど、自分よりも強い敵を倒したからこそ手柄になるんだ。
  ソルビタンは槍を片手にひた走る。自分に追い付いてきた友軍の兵の穂先に何度も腕に浅い傷を付けられながらもソルビタンは走った。
  どれだけ走ったのか、血気に逸る頭では分からなくなっていた。
  ただこちらに真っ直ぐに向かってくる兵の群が見えた。
  あれか!
  明らかに自分たちとは異なる装備。決して華美ではないが、威と美を見る者に感じさせる白の鎧を纏っている。それが一団でくるのだ。壮麗と呼ぶに相応しい。
  対する自分たちはどうだ。獣の皮を鞣したものに急所にだけ金属で覆われたものだ。
  格が違う。ソルビタンがそう思っても不思議ではなかった。
  しかし彼は、彼らはこれからその一団と戦わなければならない。戦って、勝利して、栄達への道を突き進むのだ。
  手にした槍をギュッと握って、これから始める事への恐怖を握りつぶす。
  そうだ。ヤツらの首級をあげて彼女を娶るんだ!
『・・・・・・・・・・・・っ!!』
  誰かが上げた雄叫びに呼応して、あちこちで轟声が上がった。
  ソルビタンもそれに加わり声を上げる。友軍の敵を威圧する吼え声はあたかも自分が発していると錯覚してしまう。
  敵の一団から一人、こちらに向かって駆け出してくるのが見えた。
  一兵士にすぎないソルビタンには、敵兵が何を思ってこんな行動に出たのか想像も付かない。アイツの首級を獲り、気勢を揚げることだけを考えるのだ。それだけでも十分に手柄となるのだから。
  しかし、兵たちが上げた雄叫びを切り裂くような高音とともに後方から何かが飛来した。
  火炎弾だ。魔法部隊が一斉射を始めたのだ。
  首級を横取りされた気分だったが敵はあの一人だけではない。まだ幾つも首級は残っている。
  眼前で幾つもの火炎弾が着弾して、炎を振りまく。
  まだ、それなりに距離があるにも関わらず、砂塵とともに熱風がソルビタンたちを襲う。
  灼けた空気に呼吸が出来ないが、それでも彼らは突き進む。
  首級を獲り、彼女を娶るんだ!
  と、ひた走るソルビタンの視界を防ぐように騎兵部隊が前に出た。それだけではない。併走したり、彼の後ろを走っていた兵たちが次々とソルビタンを抜いていった。
  すでに全力で駆けている彼にはこれ以上の加速は出来ない。
  くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそぉ〜っ!!
  意志と身体がついに噛み合わなくなり、ついに彼は躓いてしまった。
  この密集状態での転倒は死を意味する。敵との戦いの末の死ならば文句も悔恨もあるが、どうにか受け入れることは出来る。だが、友軍に踏み潰されて死んだとあっては無念以外のなにものでもない。
  だが、全力で駆けていた彼の身体は持ち直すことを許さず、傾くに任せてしまった。
  転倒する視界のなか、悔しさで一杯の頭でソルビタンは見た。
  赤い光が、駆けていく騎兵の腿から上を切り飛ばし、自分を追い抜いていった兵たちの胸から上が無惨にも飛ばされていく様を。そしてその元凶たる紅い光。
「っ!?」
  転倒した。赤い光が纏った鎧ごとソルビタンの背を焼いていく。激痛に顔を歪めるが彼の本能が引火した背を地に擦って鎮火させることを許さない。
  今、体勢を変えれば死ぬ。踏み潰されるかもしれない恐怖よりも、身体の上を通る赤い光の方がずっと恐怖だったのだ。なにより次々とソルビタンの背にのし掛かられて身動きがとれなくなっていた。
  友軍の叫び声と馬の嘶く声、そして何かが吹き出す音。噎せ返るような粘質の臭い、焼けた肉の匂い。そして、赤、朱、赤・・・・・・。
  あまりの非現実にソルビタンの意識は沈んでいく。
  オーリィ、そう呟いて彼の意識は底に落ちた。

 ヴァイアスの放った三日月形の闘気は敵の中央を穿った。
  元々、闘気の扱いが下手クソなだけに放ったそれは敵集団の中央で形を失い、闘気として拡散した。フォルキスやリムルならば敵の最後尾まで貫いただろう。
  欠片となった闘気は弾丸のように周囲の兵たちに孔を開けてさらに貫く。例え貫通銃創のように穴そのものが致命傷でなくとも、闘気で受けた攻撃はそれに対抗できるだけの力がなければ炎を熾し、相手を焼く尽くす。
  事実その通りとなった。集団中央以降の兵たちは中小の穴から吹き出した炎に焼かれていった。ある意味、三日月形で身体を上下に切断された者の方が幸せだったかも知れない。例え血をまき散らし、臓物をぶちまけ、ある者は衝撃で眼球すらも飛び出してしまったとしても殆どの者は即死だったから。
  血と炎で朱に染まったラメルをヴァイアスは疾駆する。
  右手には魔剣ガルディスを、左手は魔法を連射する。辛くも生き残った者たちを狩っていく。まさしく死を量産していく。
  ヴァイアスは闘気も魔法力も巧く扱えない。剣技だって達人だとは言えない。だが、護りだけは一流だ。ならば、それに相応しい戦い方をすればいい。
  彼を傷つけることは雑兵には不可能だ。ならば、下手であっても持てる力を全力で行使すれば勝てる。ヴァイアスは自身のやり方をこの場で徹底した。
  恐怖して逃げ出す兵の背には魔法を浴びせかけ、槍で刺突してくる兵にはガルディスで迎え撃ち、切り伏せる。
  どんな攻撃も通用せず、刃向かう者は徹底的に打破するその様はまさしく戦鬼そのもの。たった一人で死を築き上げていく様に脱走する者も出始めた。数の上ではまだ近衛騎団六千を圧倒しているにも関わらずだ。
  それでもヴァイアスは振るう剣を止めはしない。ただひたすらに敵を切り伏せていく。
  逃げ出しているとは言え、まだ近衛騎団が脱出できるまで安心できない。
  ガルディスを振るいながら再び闘気を剣先に集中させ始める。
  逃亡兵は出始めたがそれはまだ全体ではまだ僅かだ。だからまだ削る必要がある。
  だからガルディスを核として巨剣を作り上げる。
  剣としては粗雑で、造ったそばから拡散し始める。ヴァイアスは形を維持し続けるほど闘気の扱いに長けてはいない。ならば、それでも維持し続けるにはどうすれば良いか。
  答えは簡単だ。常に新しい巨剣を造るように力を注ぎ続ければ良いのだ。
  人魔の規格外という非常識だからこそ出来るやり方だった。
「あああああああああぁぁっ!!」
  雄叫びを上げてヴァイアスは作り上げた巨剣を振り回す。一振り毎に敵の身体が両断されていく。朱を吹き出す間欠泉が存在しているかのようだ。
  組織的な行動が出来ないようにヴァイアスは指揮官と思しき兵を優先して切り伏せていた。その彼の目に兵たちとは異なる豪奢な鎧を纏った男と、それを守る一団がとまった。
  爵位を有する者。そしていかにも精兵と思しき者たちに守られた者が何者かは限定される。
  この部隊を統率する将軍か、それに準ずる者だ。あれを討てば離脱はさらに容易になるはず。襲い来る者、逃げる者を切り倒してヴァイアスは貴人とおぼしき男に向かっていく。
「き、貴様は何者なんだ!?」
「近衛騎団団長、ヴァイアス!」
「人魔の、規格外か!?」
  恐怖に歪んだ顔で貴人は叫んだ。馬を駆って必死に逃げようとするが馬自身はもちろん、貴人とその護衛部隊以外の兵が恐慌状態にあり、彼らはそれを蹴散らしながら進まねばならなかった。
  対するヴァイアスは貴人の部隊が掻き分けた兵の後を追っていく。
「何をしておる。あやつを討ち取るのだ!」
  貴人の命令に従い護衛の兵が次々にヴァイアスに槍を突いてくる。この混乱の中でも隊列を崩さないのは見事だったが、今はそれが裏目に出た。
  ヴァイアスの一閃で抵抗も何も出来ずに貴人の馬もろとも切り伏せてしまった。
  腿から下を削ぎ落とされたように失った貴人は脅えた顔に狂気を瞳に宿してヴァイアスを睨んだ。
「ば、化け物め!?」
  ・・・・・・化け物か。
  その言葉を何度、聞いたか分からない。
  規格外として覚醒した頃は家族はもちろん周囲の者全てから化け物扱いであった。
  特に力の制御が下手なヴァイアスは良く暴走を起こして周囲に多大な迷惑をかけていた。そんな彼に友人など出来るはずもなく、両親も持て余した。
  心ない者に石を投げつけられたこともある。化け物と呼ばれて。
  人魔の規格外だと分かり、王城に引き取られるまでこの境遇は続いた。
「化け物、か」
  だが、今は違う。
  人魔の規格外であることも全部含めて自分を受け入れてくれる相棒がいて、団長として迎えてくれた団員たちがいる。
  そして、友人でもある主も得た。
  今でも奇異の眼で見られることはある。だが、それがどうした。
  自分が人魔の規格外であるからこそ得ることの出来た、掛け替えのない者たちなのだから。奇異の眼で見られても、石を投げつけられても笑い飛ばしてやる。
  だからヴァイアスは心から誇らしげに笑みを浮かべた。
「当然だろ。俺たちは近衛騎団だぞ。魔王と供にあることを誇りとする俺たちが化け物と呼ばれるだけの力を持たなくてどうするんだよ」
  宣言するように言い放つと馬と自身の朱に沈む貴人にガルディスを振り下ろして絶命させた。これで指揮系統を復帰させるまでかなり時間を稼げるはずだ。
「この貴人の仇を討ちたいと思う者は前に出ろ! 近衛騎団団長ヴァイアスが相手になろう!」
  毅然と立ち、周囲の兵を睥睨する。
  本当は疲労の極みにあった。人魔の規格外と言えども疲れはある。ましてや力の扱いが下手な彼がこれだけ暴れたのだから尚更だ。
  ガルディスを敵兵に向けて言葉を続ける。
「生を欲するのならば我らの前から立ち去れ。ラメルの地をさらに朱に染めたいのならばかかってくるが良い! 俺が、いや・・・・・・」
  背後から聞こえてくるのは耳慣れた地響きと気配。
「俺たち近衛騎団が貴様らを殲滅する!!」
  ヴァイアスの大音声にか、彼の背後から近づく近衛騎団の一群に恐れたのか分からないが敵兵は雲散霧消していった。
  元々、彼らの士気の高さは近衛騎団を討ち取ることだった。それが自分たちでは討ち取ることなど出来ないと分かり、士気はすでに萎えてしまっていた。そしてヴァイアスに、ひいては近衛騎団に対する恐怖しか残っていなかった。
  その団長が抵抗せずに逃げるのならば見逃すと言っているのだ。残ろうと考えてる者は極少数でしかないだろう。
  背後から駆けてくる団員たちがヴァイアスの横を抜き去っていく。
  どの顔も敬意と誇りに満ちた精悍な顔を見せている。
「ヴァイアス!」
  人魔の規格外であることも含めて自分を受け入れてくれた相棒の声が聞こえる。
  振り返れば、自分に頷きかけて右手を差し出すミュリカの姿があった。
  ヴァイアスも同じく右手を掲げて、彼女に浚われるようにして軍馬に乗った。
「ご苦労様。久しぶりに暴れられてスッキリしたんじゃない」
「・・・・・・状況はどうなってる?」
  軽口の応酬に付き合わないヴァイアスにミュリカは少し眉を潜めたが副官としての顔で私見を口にした。
「正確には分からないけど、このまま全員脱出できると思う。ホントに一人でどうにかしちゃったんだから、ヴァイアスの力は化け物じみてるわよね」
  背に感じるヴァイアスの身体がほんの僅かだが固くなったような気がした。
「ミュリカは、そう言う俺は嫌か?」
「ヴァイアス?」
「・・・・・・・・・・・・」
  雰囲気がどことなく出会った頃に似ているような気がした。だから、ミュリカはわざとらしいほど盛大なため息をもらした。
「なに似合わないこと言ってるのよ。忘れたの? あのとき、好きな所も嫌いな所も、人魔の規格外だってことも全部ひっくるめて、ずっと一緒にいるって言ったじゃない」
  ちょっと怒ったような口調でミュリカは言った。いや実際に少しだけ彼女は怒っていた。
  あの戦場で何を見て、何を聞いたのかは知らない。
  だけど、そんなことで自分の彼に贈った言葉に不信を抱かれるとは心外にもほどがあると。
  その彼女の怒りが伝わったのかヴァイアスはミュリカの頭に額をつけて少し笑った。
「最高にいい女だよな、ミュリカは」
「・・・・・・ばか。良いから、貴方はちょっと休みなさい。一人で頑張ったんだから、あとはあたしたちに任せてくれれば良いから」
「あぁ。・・・・・・後は任せるよ」
  そう言って暖かな背中に身体を預けた。
  戦場には不釣り合いな暖かな安堵を頬に感じながら僅かな間の眠りにヴァイアスは身を委ねた。
  第一段階は完遂した。作戦は続く第二段階に近衛騎団は移行したのだった。

 トランディア・フォーモリアス伯爵。それが彼の名前だ。
  フォーモリアス伯爵家はラディウス建国の中心的役割を果たし、現在も国政の中枢で強権を振るう創始貴族五十八家ではないものの、開祖は武勇で知られた人物であり、現在の領地はまさしく開祖が戦で他国から切り取ったものだ。故に宮中では創始貴族に準じる家格だった。いや、フォーモリアスの姉が先代冥王の寵姫として入内し、男子を出産しているため家格としては創始貴族に匹敵すると言っても良いだろう。
  また、今上は弟にあたるその子を可愛がっており、直接の縁はないものの弟の外戚ということでフォーモリアスには色々と便宜を図っていた。
  だが、それだけに他の貴族たちからの風当たりも強かった。息子や娘を積極的に他家に養子に出したり、嫁がせたりして門閥を作ってはいるが一代で築けるものはたかが知れている。下級貴族を幾つも束ねても発言権が大きくなることはないからだ。
  自分の代ならば現在の権勢を維持することもできるだろうが息子の代ではどうだろうか。
  フォーモリアスは権勢の拡大はおろか現状維持すらままならないだろうと判断していた。
  息子の回りは出自を問わずに掻き集めた者たちを側近として固めているが、それでもなおフォーモリアスはそう言う判断を下していた。
  決して息子も無能なわけではない。本来の家格と領地を切り盛りするには十分な才覚を示している。
  だが、フォーモリアス自身が築き上げた権勢を維持できるかとなると、難しいとしか言いようがない。逆に言えばフォーモリアスはそれだけのものを築き上げていたのだ。
  初老に差し掛かった彼は考えを変えて、これまでの権勢の一部を放棄する代償に有力貴族、有り体に言えば十二公爵家に近づいた。
  権勢のために開祖以来、営々と築き上げてきたフォーモリアス伯爵家を潰すことほど愚かなことはないからだ。
  そこでフォーモリアスはロジェスト家に接近することを選んだ。現当主は宰相の職にあり、その一族は文官に軸足を置いているが武官への影響力も維持している。
  現に現当主の実子であるベルナは若年ながらも将軍の地位にある。
  この状況を最大限に利用しない手はない。
  そのような策を巡らすフォーモリアスは麾下にある騎兵千騎を率いて一心不乱にムシュウに駆けていた。その彼らの後方には歩兵二千が必死についてきている。
  今の彼の頭にあるのはこの一戦で上げた手柄をベルナに譲り、ロジェスト家に恩を売ることだ。ムシュウ陥落を指揮したとなれば軍部でのベルナの発言力は増大することは間違いなく、それを助けたフォーモリアスもロジェスト家と懇意にする機会を得ることが出来る。フォーモリアス伯爵家の存続のためにはどうしても、成さなければならないことだった。またそれとは別にフォーモリアスにはムシュウを陥落しなければならない理由があった。ある意味、ロジェスト家に恩を売るのは従であり、あくまでもついでだ。主は別にある。そのために密かに弁舌を振るっていた。
  そう。ベルナにムシュウ攻略を決断させるために他の将軍たちを焚き付けたのはフォーモリアスだった。
  ベルナの持つ能力と求心力、上将たるサイファに抵抗できるのがベルナだということ以上に、ロジェスト家と縁を持つためにもベルナを立てる必要があった。
  そしてなにより彼がムシュウ制圧に拘る理由、それは勅命だからである。
「・・・・・・なぜ私にのみそのような勅命を下されたのかは分からないが」
  馬上でフォーモリアスは内心で呟いた。
  甥にあたる王弟の呼び出しに王宮に出向いた先に今上その人がおり、ラインボルト内乱と言う好機を活かすべくムシュウを奪取せよとの勅命をその場で受けたのだ。
  なぜ軍部を通して命じなかったのか分からないが、フォーモリアスは今上にその理由を聞くようなこともしなかった。
  表沙汰に出来ないことではあるが、勅命であることには違いないからだ。
  勅命にはただ従っていればいい。なによりムシュウを奪取することが出来れば、今以上に今上に目をかけてもらえ、勢力を拡大することが出来る。
  つまり、フォーモリアスは将来の保身と栄達を一挙に得るべく動いていたのだ。
  その両方を手にするためにはムシュウ制圧を自身の手で行う必要があった。
  目的地近辺の地理に明るいと言うのも事実であり、彼は記憶を頼りにひたすらにムシュウを目指していた。
  ほどなくして赤茶けた地面には下草に覆われ初めた。
「閣下!」
  騎兵部隊の一つを指揮する男が馬面を寄せてきた。
「そろそろ。予定地です」
  頷くフォーモリアス。
  可能な限り人目の付きにくい場所を選んで行軍していたが、一千騎もの部隊が集団で移動すれば敵に発見される可能性は高い。
  そこでフォーモリアスはムシュウまで残り三分の一となったところで部隊を一度、分散させて個別に行軍させることにしていた。
  集合地点はムシュウの前に広がる人工林の中だ。集結後、機を見てムシュウに突撃を敢行する。
  砂礫を潰したように分散した騎兵たちは無事に再び合流できることを祈りつつ、馬面を自分たちの進むべき方角へと向けた。

 揺れに規則的な律動は感じない。
  嵐を前にした風のように荒々しさと静けさとが不規則に身体を揺らす。それでいて揺れには乗る者への気遣いも感じる。
  決して心地よいとは言えないが、不快でもない揺れにヴァイアスの意識はゆっくりと覚醒していく。
  濃い、貼り付くような乾いた臭いに混じって、嗅ぎなれた好ましい匂いが鼻腔をくすぐる。どことなく塩気を感じさせるその匂いは安堵させるだけではなく、彼の鼓動をも速くする。安堵と興奮とを引き起こす匂いはとてもあまい。
  砂糖菓子や蜜のような甘さではない。ただ、あまいと、そう感じるのだ。
  半ば覚醒したヴァイアスは身を預けていたそれを大切に抱きしめる。
  暖かく、柔らかい。安堵の息が漏れる。
「・・・・・・そんなとこに息吹きかけないでよ!」
  無粋な轟音の中でもはっきりと抗議の声が聞こえる。些か羞恥が混じっているのは気のせいではないだろう。
  だが、ヴァイアスは抗議の声に抱きしめる腕に力を込めることで応じる。腕は交差することなく包み込むように、逃がさぬように抱く。
  手甲のため暖かさは感じないが、柔らかさだけはとてもよく分かる。右掌に感じる柔らかさは愛おしさすら感じる。彼の掌よりも幾分か余るそれは手指を動かすたびに胸の奥から無尽蔵に愛おしさが沸き上がってくる。
「人が手を離せないことを良いことに、変なとこ触らないでよぉ!」
「うおっ!?」
  愛おしさそのものであったそれからいきなり放たれた強烈な殺気にヴァイアスの意識は完全覚醒した。
「みゅ、ミュリカ?」
「じゃない! 早く手を退けてよ」
  えっ? と言う声とともに右掌に感じるものに改めて手指を動かす。
「あ、あぁ・・・・・・」
  そこでようやく自分の右掌が包むものが何であるのかヴァイアスは理解した。そして、ミュリカの抗議の声も踏まえて彼女に耳に顔を寄せると、
「このままじゃ、ダメか?」
「なに言ってるの。今はまだ戦闘態勢中なのよ!」
「いや、頑張ったご褒美と言うことで」
「ダメ! みんな見てるし、こんなところじゃイヤ!」
「えっと、それってつまりこの作戦が完了したらシても良いってことだよな?」
「・・・・・・バ、バカァ〜!!」
  ミュリカの拒否ではない罵声に併走している団員たちの間から苦笑が沸き上がった。
  第一撃は成功したとは言え、切迫した状況には変わりない。とても笑っていられる状況ではないのに、団員たちの笑いは次々に伝播していった。
  全力で走っている間の笑いなど呼吸を乱して無駄に体力を奪うだけだ。にも関わらず団員たちは笑った。
  決して楽観できる状況ではないのに、いつもと変わらぬ惚気っぷりを見せる二人に団員たちは心強さを感じたのだ。
  ラインボルト最強と評されていても圧倒的な兵数差は恐怖でしかない。第一撃とヴァイアスの奮戦でそれなりの数を削ったが敵全体から見えれば些細なものでしかない。
  それは実際に剣を振るい、その上、近衛騎団団長であるヴァイアスが一番よく分かっているはずだ。人魔の規格外と言えども恐ろしかったはずだ。
  だと言うのに一眠りした後にはいつもと変わらぬヴァイアスがそこにいたのだ。
  だから、笑いが伝播した。
  団長の無責任なまでの頼もしさに、そして何より裡に沈殿した恐怖を笑い飛ばすために。
「もう、最っ低!」
「そんな、膨れなくても良いだろ。ちょっと寝ぼけてただけなんだし」
「うるさい! もう、またしばらくみんなにからかわれるんだから」
「いつものことだろ、それって」
  ボッ、とミュリカの首筋まで赤くなった。隠しようのない笑みを一度浮かべると、ヴァイアスは表情を改めた。普段のそれから、近衛騎団団長のものへと。
「それはそうとあとどのぐらいで到着する?」
  ミュリカも吐息で意識を変えると副官としての報告を始めた。
「あと五分ほど走れば第一中継点に到着予定よ。それに予定ではそろそろ騎兵部隊が敵先鋒部隊に奇襲をかけていると思う」
「予定通りか」
「えぇ。けど、思った以上に敵は戦闘体勢を維持出来てるみたい」
  敵の動向を監視している兵からの報告だった。
  近衛騎団の今後の行動は奇襲と撤退とを繰り返すことだ。そのためには敵の詳しい動向を知る必要がある。ある程度、参謀たちが敵の動きを予想しているが、その全てが当たることはまずあり得ない。現場での修正にはどうしても情報が必要なのだ。
「それに敵から見た戦況報告が後方に飛ばされてるみたいなの」
「・・・・・・どういうことだ?」
  言葉と同じく表情も眉を顰めた訝しいものとなる。
「分からない。通信なんかしてもあたしたちに傍受されるだけなのに」
  幻想界にも魔導士間で行う通信が存在する。術を行使する魔導士の力が強ければ遠隔地にまで情報を飛ばすことは出来るが、それだけに同じ魔導士には簡単に傍受されてしまうのだ。簡単に言えば魔導士にしか聞こえないが、凄まじい大声で話しているようなものだからだ。だったら、特定の魔導士にのみ傍受できる技術を開発すれば良いと思われるがなかなかそうもいかない。
  魔導士に限らず幻想界の者たち全てが有する魔力には特性と言うものがある。例えば闘気に変換しやすいもの、魔法力に変換しやすいもの、その両方に自由に変えられるもの。地水火風、光に闇などなどの属性も入り組んでおり、解析するためには時間と多大な費用が必要となる。
  そう特定の人物にのみ伝えるためにはこの魔力特性を把握して、通信する必要があるのだ。そして何より実用化を遠ざけている最大の要因は魔力のもう一つの特性にある。
  魔力は魔法力ないし闘気に変換して一定量以上使用すると、身体に変調が来さないように少しずつ魔力特性が変化するのだ。
  これでは常に状況が変化し、受信者の生命も補償できない戦場では活用することは出来ないと言うわけだ。
  それを敵は使っている。訝しいと思うのも無理はないことだ。
「戦況報告だけ、なんだな」
「それも大雑把にね」
  言うなれば戦場の実況中継だ。魔導士かそれに準ずる魔力を宿した者に限定されるとは言え、送信されている情報は敵の士気を挫く要素になっていると言っても過言ではない。
  ここで思いとどまってくれれば、自分たちとしても御の字だが一戦交えた以上、敵がすんなりと停止するとは思えない。敵が何を考えているのかが分からない。
  ヴァイアスは一度、吐息を漏らして思考に一段落付けることにした。
「今のところこちらに害がないんだ。無視することにしよう。ただ、警戒だけは厳重にな」
「多分、みんなも分かってると思う」
  頷く。そして、この不可解な問題よりも重要な問題に思考を切り替える。
  団員たちの疲れを軽減することだ。団員たちには必要最小限の水を携帯させているが到底足りるものではない。もっともそれに対処する策もすでに行われているが。
  なにぶん、ヴァイアスの知る限り初めての試みだけに上手くいくか心配だった。
「第一集団は補給。残りは直進しろ!」
  確認のためとも言えるヴァイアスの指示が飛ぶ。
  それとともに騎団は二つの塊に分かれる。ヴァイアスたちを含めた先頭集団は横道にそれ、残りはムシュウへと直行する道を駆けていく。
  後続と分かれたヴァイアスたちは敵から死角となる場所に設置された中継点に到着し、そこに並べられた卓に置かれた幾つもの水筒を取っていく。
  水筒の中身もそれを真似て簡単なスポーツドリンクだ。水に疲労回復を促す果物の果汁が混ぜられている。
  ロディマス曰く、重労働者が好んで飲んでいるものなのだそうだ。
  冷たくはないが、柑橘類に似た匂いと酸っぱさで意識をスッキリとさせる。
  一息付けたということで団員たちの表情にも幾分、疲れの色が薄くなる。
「アスナの発案、当たりみたいだったな」
  軍馬にも水を与えるために歩兵その他の部隊を先行させて騎兵部隊だけ中継点に残っていた。時間的に楽観できないが軍馬にも水を飲ませてやらないと、これからの無茶に付き合わせることは出来なくなる。
  同じく下馬した団員たちは一通り身体を伸ばすとそれぞれの馬の世話を始めた。
  ヴァイアスとミュリカも言葉を交わしながら同じように世話を焼いていた。
「そうね。腰に提げた水筒だけじゃ正直、保たないかもって思ってたから」
  それに戦闘で水筒を落とす者は必ず出てくる。水を失ったことで士気が低下することにもなったかもしれないのだ。
「まさにアスナ様々だな」
  この中継地点を作るはアスナの提案は彼独自のものではない。まさしく、テレビで見たマラソンの給水所の光景そのままである。
  いくら訓練と実戦で鍛え上げられた団員たちと言えども、補給もなしに全力で戦い、離脱を繰り返すことは過酷でしかなかった。
  アスティークらが作成した作戦の説明を聞いたアスナはその点にのみ口を挟み、マラソンの給水所のような場所を何カ所か設置できないかと提案したのだ。
  準備に時間がかかると参謀たちの間からは反対の声もあがったが、現場指揮官たちはアスナの提案は有効であると支持したため実行に移されることになった。
  実際、各地に中継点を設置するのに多少の時間を要したがラディウス軍が動き出す前に対峙していた部隊と合流を果たすことが出来た。
  ちなみにこの卓や水筒の数々は馬車で輸送しており、ムシュウに帰還する際には戦闘に支障が出ると判断された者が乗せられることになっている。
  最も、こんなことが出来るのも近衛騎団がラインボルト国内の正確な地図を所有しているからに他ならない。
「よしっ! 先行したヤツらに追い付くぞ」

 戦場を巡る戦況報告の受け取り主は誰であり、一体何の目的で送信しているのか首を傾げているのと同じようにベルナもまた訝しみ、同時に怒りを覚えていた。
  配下に発信源を特定させて、切り捨てさせようかとまで考えたほどだ。
  このようなことを戦場で平気で行えるのはベルナの知る限り一人しかない。
  そう、ラメルの陣地に残ったサイファだ。彼は状況がそれを必要とするのならば
  送信されている情報は簡単な内容であるが、それだけに端的に事実をベルナに突き付けていた。これ以上にない率直な暗喩だ。
  お前の負けだ。即刻帰還しろ、と。
  馬上のベルナが振るった指揮杖が彼の腿を強く叩く。怒りを素直に表したかのように強い、だが濁った金属音が響く。
  馬鹿にして・・・・・・。
  ギリっと奥歯が噛まれる。
  ベルナも状況を理解している。正直に言えば、退いた方が無難だ。
  追いかけ続けても最終的には敵はムシュウに篭もってしまうことは明白だ。初手で躓いた時点でベルナの作戦の大枠は幾つものヒビを生み出しているのだから。
  しかし、ベルナにはこの行動を中止する訳にはいかなかった。
  彼がロジェスト公爵家の者であり、軍部への影響力を保持するためにも中止することはできない。そして、それ以上にベルナが作戦の続行に固執する理由がある。
  それはムシュウに先行したフォーモリアスがムシュウ制圧に失敗したとは限らないからだ。無事にムシュウを制圧し、城門を閉じれば敵は逃げ込む場所を失う。
  そうなれば一方的に殲滅することが出来る。
  先の一戦で人魔の規格外の異常なまでの強さを実感したが、いくら規格外と言えどもそう何度もあれだけのことが出来るとは思えない。
  数で押せば必ず討ち取ることができる。
  ベルナは軍馬に鞭を入れて、敵の後を追う。
  一方、サイファは相変わらずラメルに敷いた陣で情報収集に専念していた。
  彼はベルナの評したとおり、必要であるならば戦場の倣いを無視して勝利を得ることに躊躇しない。だから、参謀たちの反対を押し切って通信による情報収集を行わせた。
  情報の漏洩など気にしない。すでに状況は動いており、敵やベルナが停止しない限り追い付くことはできない位置にいるのだから。一々、伝令を使って情報を収集していたのでは間に合わないからだ。
  そうして送られてきた情報は配下の参謀たちの手によって整理と分析、そして敵の行動予測が行われる。
  そこから推測されることは二つ。本当に撤退だけを考えているのか、もしくは・・・・・・。
「閣下」
  刻々と送られる情報から変化し続ける図上を睨み、思考の海に潜行していたサイファを参謀長が引き上げた。
「討議の結果、参謀(我々)は一連の敵の行動を罠であると判断いたします」
  サイファの意見も同じだ。しかし、彼は頷きだけで止める。
「根拠はなんだ?」
「はい。根拠は敵の行動にあります。初戦での人魔の規格外による第二十三軍の壊滅は例外として、敵の行動には共通する点があります」
  第二十三軍とはバナムが率いていた部隊だ。現在、指揮官を失い、兵の大半を失った第二十三軍は行動不能となっている。
「敵の攻撃は一見すると派手ではありますが実際の損害は軽微なものです」
  証拠を示すようにこれまでの戦闘で受けた損害を概算ではあるが口にしてみせる。
  平均して戦死者は百に満たない。対して負傷者は三百前後常に与えている。
「先の貴様の言葉に反しないか? 戦死者は少なく、しかし負傷者数は確実に増やす。どう考えてもベルナ卿らの足を遅くすることが目的に見えるぞ」
  サイファはすでに参謀長が何を言いたいのか分かっている。それでも彼は参謀長にそれを言わせるためにこんなことを言った。入手した情報を分析し、将軍の意に適った策を提示するのが参謀の役目だからだ。ここでサイファが答えを先に口にすれば彼らの面目が潰れてしまう。
  些細なことかもしれないが、それぞれの役割を全うさせてやることが組織運営には大切だったりするのだ。
「その時間稼ぎこそが敵が貼る罠への布石です」
  大軍であればどんな状況であっても有利であるとは限らない。その不利となりうる状況の一つが行軍中である。
  兵が移動するためにはどうしても整備された道を通る必要がある。もし、整備もされていない地面を行軍すれば無駄に体力を奪い、膝を壊す者が大量に出てきてしまい、いざ戦場に到着しても戦うことが出来なくなるからだ。
  しかし、整備された道を通って行けば問題なく戦場に到着できるかと言えばそうでもない。道幅が狭いと一車線当たりに通行できる兵の人数が限られてくる。もちろん、どこかで何かがあった際のために伝令が通れるだけの幅を確保する必要があるから歩兵が使える道幅はさらに狭くなる。そしてそれが大軍となれば、道は兵で埋め尽くされ長大な列が生まれてしまう。この状況で敵に横槍を刺されればまず間違いなく大きな損害を受けることになってしまう。
  その可能性を極力低くするために列を幾つもの集団に分割し、集団の間にも間隔を作ることで狙われた箇所意外に損害を受けないようにする方法が通常採られるのだが、いまベルナたちが行っているのは追撃戦だ。そんなことを行っているゆとりはまったくない。
  その全力で駆けている兵の塊に殿軍を受け持った近衛騎団が突撃、離脱を繰り返せば多大な損害を受けることは間違いない。
  にも関わらず戦死者は少なく、反面、負傷者は相応に出しているというのだ。
  これはつまり、地雷と同じ効果を狙ったものだ。
  無情かも知れないが戦死者はその場に捨てておけば良いが、生きている負傷者を放っておくことは出来ない。それに対処するために時間と兵とを割かなければならなくなる。
「当初、敵が撤退戦を行うつもりだと聞いたときは北朝の近衛と第一魔軍とが交互に友軍先鋒に攻撃を加えて国境守備軍の撤退を支援するものと思っておりましたが、これまでの報告からそれを行っているのは北朝の近衛のみです。では、第一魔軍は一体、何をしているのでしょう。殿軍の負担を第一魔軍が北朝の近衛に押し付けるとは思えません。主として動かなくとも支援は行うはずです。それさえもないと言うことは第一魔軍が何かしらの罠を張り、北朝の近衛がそこに友軍を誘導している。そう判断いたしました」
「良く言った。貴様らの判断を今後の行動の指針とする」
「では・・・・・・」
「ベルナ卿らの救出に動く。オクタヴィアを呼べ!」
  ほどなくして呼び出された背の高い引き締まった体躯の持ち主が天幕に入ってきた。実直そうな瞳をサイファに向けて敬礼をする。彼はサイファの副将で名をオクタヴィアと言う。
「お呼びでしょうか」
「ベルナ卿らの救出を行う。準備を始めろ」
「了解しました。第十七軍はいかがいたしましょうか」
  第十七軍とはフォーモリアス麾下の部隊だ。サイファをこの場から動かさないために彼の麾下部隊の前に陣取っている。これをどうにかしないと動くに動けない。
「当然、我々とともに動いてもらう」
「説得できるでしょうか? ルイア副将は実直な方と聞いています。フォーモリアス閣下の命令に反する行動をとられるとは思いませんが」
「その問いに対する答えは、結果が出れば全て分かると返しておこうか」
「・・・・・・なるほど」
  サイファは諸事と細かな命令をオクタヴィアに与えると副官を連れて、第十七軍の司令部へと向かった。

 その頃、ヴァイアス率いる近衛騎団は本日、五度目の突撃を敢行し、望む戦果を挙げて撤退する機会を伺っていた。

「止まられよ!」
  鋭い制止の声にサイファと副官は立ち止まった。
「これより先は第十七軍の陣地、お引き取りをお願いいたします」
  隊長と思しき中年の男の言葉に、
「貴様ぁ、こちらにおられるのは・・・・・・」
  副官の荒い声をサイファは右手で止める。
  そのようなことを言わなくても、自分の豪奢な身なりを見れば誰であろうか相手も推測できるはずだ。その上で男はサイファたちを止めたのだ。
「我らはルイア副将に話がある。通してもらおう」
「申し訳ありませんが、副将より何人たりとも通すなと命じられております」
「指揮権は奪われたが、この身は上将位にある者だ。それでも通さないというか」
「申し訳ありません」
「・・・・・・では、こう尋ねようか。貴殿の判断一つでフォーモリアス卿を初め友軍を壊滅させることを是とするのか?」
「・・・・・・それは」
「答えよ! 貴様の判断で大局を決することが許されるかと聞いている!」
  別の言い方をすれば、友軍が壊滅した責任をお前がとれるのかということだ。
  そんなものとれるはずがない。上将であるサイファですら、責任を取りきれるものではないのに現場指揮官がとれるはずもない。現場指揮官の男は折れた。
「申し訳ありません。お通し致します」

 近衛騎団、撤退再開。負傷者を出すものの戦死者なし。
  気絶した敵兵の顔に「ヴァイアス参上!!」の文字が書かれていた。

 現場指揮官の案内でサイファたちは第十七軍司令部に到着した。
  天幕内ではサイファたちが動き出したときの対処が検討されていたのか副将を初めとする指揮官に参謀たちが揃っていた。
  ・・・・・・丁度良い、とサイファは顔には出さずにほくそ笑んだ。
「上将、閣下」
  息を飲むようにそう口にしたのはこ上座にて軍議を司っていた女性だ。二十代後半と思しき落ち着いた容姿から彼女がルイアであるとサイファは判断した。
「なぜ、ここに」
「話があったから来たまでだ、ルイア副将。貴公らは現時点より私の指揮下に入り、友軍の救出に向かう」
「お待ち下さい! 我々はフォーモリアス閣下よりこの場から決して動くなと命じられております」
「それがフォーモリアス卿の生死に関わるとしても、か?」
  サイファが行っていた通信はもちろん彼らも耳にしている。彼の言うことが正しいことも理解しているが、直属の上官であるフォーモリアスの命令を遵守しなければならなかった。なにより・・・・・・。
「フォーモリアス閣下より、自分が危地にあると知っても動くなと命じられております。いかな上将閣下のご命令と言えども聞くわけにはいきません」
  確かに階級では将軍のフォーモリアスよりも上将であるサイファの方が偉い。しかし、指揮権を剥奪された上将よりも、直属の指揮官であるフォーモリアスの命令が優先されることもまた事実だった。
「ルイア副将、貴公は今、フォーモリアス卿の生死に関係なくここを堅持なさると言ったな」
「・・・・・・はい」
「確かにフォーモリアス卿の副将であるならば、その判断は正しい」
  良いながら前に進み出る。卓の前で立ち止まる。
「しかし!」
  バシンッとサイファは卓に右掌を叩きつけた。卓の上の物が幾つか落ちる。
「貴公の副将位はフォーモリアス卿に与えられたものではないだろう。麾下の兵もフォーモリアス卿の所有物では無かろう」
  実務的なことは別として、それらを統帥している存在はただ一人。
「そうだ。貴公の副将位も兵も全て魔王陛下より与えられたものだ。それは敵を追う将兵らも同じく魔王陛下の所有物だ。それが損なわれようとしているのをみすみす見過ごすことが我々に許されるのか!」
  再び、サイファは卓を叩いた。
「否だ! 断じて否だ!!」
  指揮杖を引き抜き、真っ直ぐにルイアに向けた。
「上将として命じる。我が先鋒となり、危地に陥ろうとする友軍を救出せよ」
  その場にいる全員の視線がサイファに集中している。後は最後の止めを刺すだけだ。
「例え貴様らが否と申しても、我らは友軍を救出するために進軍を開始する。貴様らを踏み潰してでもだ!」
  立ち上がり敬礼をするルイアが何を言うのかサイファには分かっていた。

 ラインボルトに魔軍があるように、ラディウスにも上軍と呼ばれる部隊が存在している。
  定員は一般軍の二倍にあたる二万名だ。これに作戦規模に併せて補給部隊が指揮下に加えられることになる。
  また、その名が示すとおり上軍は将軍たちが指揮する一般軍を統御し、勝利することが求められている。
  まれに起こる反乱の鎮圧や魔獣の駆除といった内憂には一般軍に任されるのに対して、上軍が相手をするのは他国だ。
  上軍の指揮官たる上将を補佐する副将の扱いも一般軍と異なる。柔軟な運用が出来るように配下の副将には定員五千名の部隊を任せることが出来るのだ。
  兵数の差はあるもののこのあたりはラインボルトと同じである。もっともそれは当然で、この編成はラインボルトを真似たものだからだ。
  一般軍との違いはそれだけではない。司令部の規模が大きいのはもちろんとして、上軍に属する兵は全て健脚揃いだ。前述したとおり、しっかりと整備されていない道を歩くのは負担が大きいこともあるが、実をいうと戦争中、兵が損失する原因は病気や行軍中の脱落、迷子などが主だったりする。
  場合によっては戦場に到着しても兵の損失が大きくて戦えないということもあるのだ。
  外征の中核となる上軍が戦場に着いても戦えないでは話にならない。なにより、敵よりも早く戦場に到着できれば、それだけ戦いを有利に進めることができる。
  行軍速度が早いというのは戦争においてそれだけ大切なことなのだ。それを突き詰めたのが上軍である。
  そのなかでもサイファは特に行軍訓練を行わせることで有名だった。極端な話、戦闘訓練よりも行軍訓練を重視する傾向にある。
  将軍たちの間では、偏執的だとすら言われているサイファだが全く気にした風もなく、自身も兵たちに混じって行軍訓練を行っているほどだ。
  彼が初めて部隊を預かったときから続けてきたことだし、この訓練のおかげで今まで生き延びることも、ここまで出世することもできたのだから。
  サイファの仕官以来、付き従ってきた古参兵たちはその実績を知っているので反発の声はない。新参者が不平を漏らしても鉄拳制裁で黙らせるほどだった。
  そのサイファ率いる第八上軍はまだ進軍していなかった。
  ベルナのときのような第十七軍が進軍することを渋っているわけではない。あと十数分もすれば進軍を始める予定になっている。それにサイファは故意に第十七軍との間に通常以上に大きな間隔をあけることにしたのだ。
  敵がどんな罠を張っているのかは分からない。しかし、何かしようとしている以上、自分たちが寡兵であることも加味した行動に違いない。
  その敵の罠を食い破るには一丸となって救援に向かうよりもある程度、間隔をおいて連続して突撃した方が成功しやすいだろう。
  仮にルイア副将率いる第十七軍が罠にかかっても第二陣としたオクタヴィアの部隊がそれを援護し、最後に自分が突撃をして戦況を変えるのだ。
  進軍開始までの時間もサイファは無駄にはしない。
  友軍を救出し、ラメルに敷いた陣に帰還した後の受け入れ態勢の手はずを整えるように指示を出していた。
  各軍に属する戦闘には不要としてラメルに残されており彼らは今、第一戦で出た負傷者の手当を全力で行っている。
  正直、陣地に保管している医薬品や食料といった物資はかなり不足しており、救出してきても、なにもできない可能性がある。万全ではないにせよ物資の補給は必要だ。
  そこでサイファはラディウス側国境周辺の町村が保有する物資を徴発することにした。
  ラインボルト側でそれが出来れば良かったのだが、激戦地であるラメルが近いということもあってムシュウ以外に集落がないのだ。
  ちなみに徴発とは現場の部隊が領民の保有する物資を買い取ることだ。掠奪ではなく対価を支払うのだから大して文句はでないだろうと思われるが、実際はそんなことはない。
  物資の市場価値から考えると遙かに安い。徴発される方からすれば、奪われることと大差ない。
  かといって軍隊の方も悪意を持って、安く物資を買い上げている訳ではない。軍の方も資金がなくて安く買い上げるしかないのだ。
  軍隊はなにをするにも凄まじく金がいる組織だということだ。
  そういったことから自国で徴発を行うのは民が不満を抱くきっかけになるためやめた方がいい。しかし、物資はどうしても必要だ。だから・・・・・・。
「自分が口を挟むようなことではないことは承知しておりますが。このようなことは前代未聞です」
「そうだな。私も聞いたことがない」
  副官ラースと会話しながらサイファは手紙をしたためていた。足下に三つ、くしゃくしゃに丸められて転がっている便箋が失敗の数を物語っている。
  右手で頭を掻きながら、筆を進めていく。貴族の嗜みとして、文字そのものは優美だが、文章そのものは、あまりそうではなかったりする。
  出来た。さっそく誤字脱字がないか読み返す。
「・・・・・・・・・・・・」
  やっぱり、駄目だったようだ。そのまま突っ伏す。
  サイファの手から手紙が落ちる。それを床に落ちる前にラースは拾い上げる。
「・・・・・・確かにダメですね」
「そういうのならラース、君が書いてくれ」
「ご冗談を。報告書の類なら喜んで代筆させていただきますが、お父上に差し上げる手紙を代筆というわけにはいかないでしょう。今回は内容が内容だけに是が非でも閣下ご自身がしたためていただかなければなりません」
  そう。サイファは今、義父であるラディウス大将軍ファルザスに宛てての手紙を書いていた。
  ラディウスの国法では、現場の最高指揮官の許しがあれば、国内での徴発を許しているがラディウス領土の三分の二は貴族領だ。
  そしてラインボルトと接する国境近辺にあるのは貴族領だ。作戦のためだからと言って、自由に出来るものではなく、大きな借りを作ることになってしまう。
  そこで、公爵である養父にその辺りの事後処理を頼むために手紙をしたためていたのだ。
  ラースが言う前代未聞というのはこのことだ。ラディウスに限らず親兄弟をはじめとする類縁から協力を求めることは珍しくない。ただ、サイファが一度もそれをしたことがないから、というのが前代未聞の根っこになっている。
「分かっているが、どう書けば良いのかが分からないんだ」
  実を言うとサイファ、生まれてから手紙を書いたことが片手で数えるほどしかなかった。そのため普段から書き慣れた始末書や報告書とは異なりなかなかいい文面を練ることが出来ずにいたのだ。書き上げては読み返しているのだが、それも手紙というよりも報告書、もしくは嘆願書のような印象があってどうもうまくいかない。
「なにも難しくお考えにならなくても良いと思うのですが、閣下がお感じになられたこと、お父上にお伝えしたいことを書けばよろしいのでは?」
「それが出来れば、もうやっている!」
  近しいもの以外では聞かせない噛み付くような声を上げる。「ですから・・・・・・」と宥めるようなラースとやりあっていると、不意に咳払いの音がした。
「失礼いたします」
  きっかり五秒の間をおいて白衣を纏った禿頭の老人がサイファの執務室に入ってきた
。軍医長だ。
「今後、必要になるだろう医療物資の一覧を纏めて参りました」
「・・・・・・ご苦労」
  いささかばつの悪い顔を見せながらサイファは労った。
「負傷者の様子はどうだ?」
  今、サイファのいるラメルの陣地はまさしく野戦病院と化していた。
  指揮権を剥奪され、ルイア副将に動けないように監視されていても友軍として負傷した兵を見捨てることは出来ない。
  サイファの性格云々ではなく傷ついた友軍がいたのならば、可能な限り救助するのは当然のことだからだ。
  軍医たちが兵の手当や手術に奔走するだけではなく、食事を与えるなどもしていた。
  それを分かっているのかベルナたちも負傷者を次々と後方のサイファに送っていた。
  現在、サイファ麾下の一千の兵はその対応に当てられていた。
「傷が癒えれば軍務に復帰できる者を優先的に処置をしております。その他の者は追加物資の到着次第ということになります。・・・・・・ただ」
  非人道的だ何だのと言われるだろうが、これは仕方のないことだった。
  医薬品が足りない以上、傷が癒えれば戦線復帰出来る者から優先的に処置する方が効率的だ。適切な処置を行えば命に別状のない者でも、快癒後も障害が残る者を優先する訳にはいかないのだ。
  このような状況なのだから、辛うじて生きている者となれば言わずもがなである。
「ただ、なんだ?」
「はい。第二十三軍の生き残りは負傷だけではなく心を病んだ者も多くでております。正直、今の我々では手に余ります。人員を増やしていただくか、もしくは・・・・・・」
  殺して戦死者とするかだ。
「そんなに酷いのか」
  戦場で心を病む者は必ずでる。殺し、殺される極限状態に陥るのだから無理もないことだ。その症状は酷い場合では奇行という形ででる。
  そういった者たちになれている軍医でも手に負えないというのはあまり想像できない。
「酷く恐ろしい目にあったのでしょう。ここに連れてくるまでは震えているだけだったのですが、落ち着きを取り戻した途端に、手を着けられないほど暴れ始めたのです」
  確かに酷い状態には違いないが、珍しいことではないし軍医長が問題にするほどのことでもない。
  サイファの疑問が表情に出たのか、禿頭の軍医長は一度、頷き言葉を繋げた。
「我々もいつもの手順で落ち着かせようとしたのですが、今回ばかりは手が着けられません。出陣の準備のどさくさに紛れて武装し、幾つかの天幕を占拠している状態です」
「なっ!」
  言葉もない。いくら心を病んでいるからと言ってもこれは許されるものではない。明らかに反乱だ。あまりに突飛すぎて、サイファは冷静に武具の管理者には然るべき処罰が必要になるだろうなどと考えてしまった。
「この陣地を固める部隊が現在、彼らと対峙していますが、このままでは物資の調達や陣地の維持に支障を来すと思われます。また、立て籠もっている者の中に早急に処置をしなければならない者も含まれています。放っておいても命には別状はありませんが、このままでは障害を残したり、最悪の場合、腕や脚を切断することにもなりかねません」
「それで、軍医長。貴方が必要だと考える兵数はどれぐらいだ?」
  それが答えとなった。心を病んだ兵を戦死者として処理しない。
「一千名ほどで十分かと」
  陣地の維持や物資輸送のための人材ですでに千五百ほどが残ることに決まっている。さらに千名を残留組に追加するのは指揮官としては痛い。先ほどの決定に迷いが生じる。
  瞑目し、思考を走らせる。
  逐次、先を行くベルナたちの動向が報告されるがそこから敵の狙いがなんであるのか推測するのは難しい。そういった状況に飛び込むのだから兵は多い方が良い。
  かといってここで兵を惨殺すれば後々、影響が出てくるのは目に見えている。
  ならばどうするか。思考はさらに走る。
  他の将軍ならばどうするか、義父ならばどうするか、・・・・・・ベルナならどうするか。
「・・・・・・・・・・・・」
  吐息が漏れる。そう、ベルナならばどうするか考えるまでもない。
  心を病んだ兵を守り、友軍をも救いだそうとするはずだ。
  それ以外の回答をあの好敵手は持ち合わせていない。ベルナを誰よりもよく見てきた自負のあるサイファはそう結論づけた。
  そしてなにより、このようなことでベルナの侮蔑を受けるのは耐えられない。
  他の誰にどう言われようと構わないが、ベルナに蔑まされることだけは耐えられる自信がない。
  それに、兵力が割かれると言っても何のことはない。麾下の兵たちが抜けた分をどうにかするはずだ。これまでもそうだったのだから。
  顔を上げ、視線をラースに向けた。
「恨まれることになるが、残留組を増やす。早急に選抜をしろ」
「了解しました」
  敬礼とともにラースは飛び出していった。
  そしてサイファは残った軍医長に頷きかける。
「そういうことだ。負傷者の治療に全力を尽くしてくれ」
「ありがとうございます。一人の医者として閣下のご決断は望外の喜びです」
  頷きで返す。
「では、失礼いたします」
  敬礼をし、退室しようとした軍医長が足を止めて振り返った。
「・・・・・・老婆心ながら助言を一つ。親として、子から手紙をもらうのは嬉しいものです。例え内容がなくとも、わがままを押しつけるようなものでも嬉しいことには代わりありません」
「とても手紙とは思えないものでも、か?」
「はい。きっと大切な思い出になるでしょう。あの時、こんな下手な手紙を送りよってと」
  禿げ上がった頭を撫でつけると軍医長は一礼する。
「出過ぎたことを申しました。改めて、患者の元に戻らせていただきます」
  軍医長は微かな微笑を残して今度こそ退室した。
  一人残されたサイファは唸りながら頭を掻くと、改めて便箋に向かい始めた。

 籠城の準備は着実に進められていた。
  留守居部隊の指揮を任されたアスティークは参謀たちの統括を次席参謀に任せ、各所に発破をかけて回っていた。
  まず一番、はじめに足を運んだのは物資管理を任せた部署だ。担当仕官から、LDの言った三ヶ月分の食糧の確保がされていることが証明されたとの報告があがった。
「計画的に節約すれば四ヶ月は保たせることが可能です」
「水の方はどうなっている?」
  籠城には食糧とならんで水の確保は重要だ。ある意味、水の方が大切だと言ってもいいかもしれない。
  ここでアスティークが言っている水とは飲める水のことだ。
  ムシュウの近くには物資輸送、生活用水にと活用されている大きな川がある。生活用水はこの十分以上の水量をもつこの川から引き入れられているのだが当然、この水をそのまま飲料水とするわけにはいかない。
  しっかりと濾過や殺菌をしなければ腹を下したり、病気にかかったりする。
  そうなれば、兵力は減少してしまう。水の確保は城としての機能を維持するためには必要不可欠なものなのだ。
「問題ありません。すでに不要な上水道には栓をし、地下貯水場に流し込んでいます」
  水が必要なのは誰にでも分かることだが、確保できる分はどうしても限られてしまう。
  しかし、ムシュウは城塞都市だ。
  地下に雨水や水道水の余剰分を貯蔵できる仕組みになっている。普段は火災の鎮火や水洗トイレなどに回されているが、本来は籠城のための貯水場なのだ。
「地下貯水場の浄化設備も問題なく稼働しています。水質も問題ありません」
  頷く。
「よろしい。続けて頼む」
  仕官の敬礼に見送られながら外に出るとアスティークは見える城壁を仰ぎ見た。
  現在、準備のために必要な城門以外は全て閉ざされ、城壁内側の各所に置かれた兵の詰め所はさながら武器庫のような扱いとなってムシュウ中央から残された武器を運び込んできている。
  それだけではなく、廃屋として処分されることが決まっている建物を壊して、これも敵兵にぶつけるための武器とするのだ。
  梯子などや攻城兵器に対しては岩や木材を城壁から叩き落とすのはかなり有効なのだ。
  遠目に見る限り、問題はなさそうだ。
「こちらにおられましたか」
  息せき切って参謀の一人がアスティークの元に駆け寄ってきた。
「なにか問題でも起きたか?」
「はい。南側の防風林を中心に騎兵と思しき陰を発見したとの報告が入りました」
「いつのことだ?」
「つい先ほどです。城門を閉じる準備をしていた者がたまたま気づいたそうです」
「・・・・・・ほぉ」
  感嘆とともに顎をさわる。
  ムシュウの南側半分を重点的に植林された防風林は、文字通りの意味に加えて敵にこちらの状況を悟らせずに相手の隊列や規模を見るためのものであったりする。
  都市にある一際高い物見台からはそれがよく見えるのだ。
  もちろん、そこにも見張りの者を立てている。その見張りの隙をついて伏兵となったのだろう。アスティークはその瞬時の判断を逃さぬ敵将に感嘆の声を漏らしたのだ。
「敵の規模は分かるか?」
「正確には判断つきかねますが、報告から推測するに林の中には百名前後が隠れているかと思われます。ただ、その程度の兵力で我々が守備するムシュウを落とすことは不可能です。おそらく騎兵による突入で迅速に城門を確保し、その上で別の場所に隠していた兵を突入させるつもりではないでしょうか。私見ですが、」
  アスティークは顎を触りながら十数秒ほど沈思した。出た結論は参謀の判断と同じだった。兵力差はあっても奇襲をかけることで挽回しようと言うのだろう。
  もし、この偶然がなければひょっとしたら敵の思惑通りに事が運んだかもしれない。
「どのように対処しましょうか?」
  留守番組の総責任者はアスティークだ。実質的なムシュウ防衛司令という扱いなのだ。
「進捗状況はどうなっている?」
「問題ありません。予定時刻までには準備は完了すると各部署より司令部に報告が来ています」
「よろしい。ならば、我々がしなければならないことは一つだけということだな」
  普段のアスティークの雰囲気とはまるで異なる獰猛とも壮絶とも呼べる笑みを浮かべた。
  対する参謀は改めて威儀を正してアスティークの言葉を待った。
「もてなしの準備が済み次第、玄関を掃き清める!」




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