第一章

第十二話 ファイラスに響く歌 前編


 深夜。
  ささやかに響く虫の声を押しつぶすような重苦しい軍靴の音がアイシンの町に現れた。
  何事かと旅行者たちが窓から顔を覗かせるが、その集団の姿は夜闇に包まれ、判然としない。分かるのはその影が足取り重く行進を続ける完全武装の兵だと言うことだ。
  この町に不釣り合いな姿が行進を続ける。
  アイシンは宿場町であり、豊富な湯量を持つ温泉があることでラインボルトでも有名な土地だ。
  約三十年前のラディウスの奇襲とムシュウ包囲によって始まった戦争で、このアイシンに前線司令部が置かれた。その時、軍から落とされた資金を糧として大きくなった宿場町である。
  まるで当時の幻が現れたかのように行進はアイシンの中央に向かっている。
  アイシンの中心部には駅があり影の行進はそこで止まった。
  疲れを見せつつも集団は整然と並び、自分たちの眼前に立つ人影に向けて最敬礼を送った。
「近衛騎団団長以下、四千余名アイシンに到着いたしました」
「ご苦労。無事な姿を見られて安心している。それで・・・・・・」
  と彼らの眼前に立つ影は夜闇でもはっきりと分かるイタズラな笑みを見せた。
「みんな戦果はどうだった?」
  その言葉を合図にして団員たちは踵を打ち鳴らし、誇らしげに胸を張った。
「我ら近衛騎団損害無し! ラディウス軍の侵攻を退け、ムシュウでの籠城準備を完了しました。当面のラディウスの驚異は抑え込むことに成功しました。つまり・・・・・・」
  そして先頭に立っていたヴァイアスは勢い良くVサインを見せて、
「完全無欠に俺たちの大勝利だ!」
  ヴァイアスの眼前に立つ影、アスナは顔いっぱいに喜色を浮かべた。
「なに言っても言葉が足りない気がするけど、オレはみんなの主であることをスッゴイ誇りに思ってる! 本当にご苦労様」
  深夜であることも関係なく団員たちは腕を掲げて歓声を上げた。
  突然の歓声に各宿から客が迷惑そうに顔を見せるがアスナと近衛騎団は全く気にすることなく歓声を上げ続けた。

 ラメル撤退戦の終結宣言とも言える歓声が止むとアスナはともにアイシンまで先行した団員たちに各部隊ごとに振り分けた宿へと先導させた。
  その間にアスナはヴァイアスとミュリカ、そしてサイナを連れて自分たちの宿へと向かっていた。
  団員たちは宿に入り、遅い夕飯を取った後、休むだけだったがアスナやヴァイアスはそういうわけにもいかない。
  これまでの経緯を聞かないといけないからだ。
「で、なんでこんな豪勢なところに通されるんだ?」
  そう、豪勢だった。アスナに案内されて到着した場所がこの豪勢な場所だった。
  全体として落ち着いた雰囲気を醸し出しているが、調度の一つ一つを見れば贅を尽くしているものだと分かる。
「オレもそんなに金に余裕がないから団員のみんなと同じで良いって言ったんだけどここの都市長がどうしてもここに泊まってくれって言うからさ」
  ただでさえ疲れた表情だったものが過労死寸前のような相貌にしてヴァイアスはサイナを見た。
「そんなこと言ったのか」
  アスナではなくサイナがこくりと頷いた。
「申し訳ありません。突然そのように口にされてお止めできませんでした」
「いや、良い。アスナだからしょうがない」
「そういう言い方しなくても良いだろ。金に余裕がないのは本当なんだし、ここだってタダで泊めてくれるって言うんだから文句はないだろ」
  と拗ねたように言う。対する三人はやっぱりため息で応える。
「なんだよ、三人そろって。サイナさんもさっきから変だし。オレそんなにまずいことしたか?」
  言いながらアスナはヴァイアスの鎧を脱ぐ手伝いを始める。
  どうみても主従関係逆転の光景だが、この場にいるのはアスナにとって身内なのだから変に肩肘張る必要もない。手伝いたいからそうすると言うのが十分に通用する。
  ちなみにミュリカの軍装を脱ぐ手伝いはサイナがしている。
「致命的にまずくはないけどな、やっぱりまずいだろ」
  幾つも留め金を外して、胸当てをゆっくりと脱ぐ。脱ぎやすいようにアスナは背中から鎧を持ち上げてやる。
「たまに忘れることがあるからもう一度言うけどな。アスナ、お前は後継者なんだ。それを団員と同じ部屋に泊めたとあったら、アイシンの宿場町としての名誉に泥を塗ることになるんだぞ」
「そうなの?」
  アスナはサイナとミュリカに視線を投げる。二人とも重々しく「そうです」と声を重ねる。
「早い話がお前がこの都市で一泊したってだけで都市としての格が上がるんだ。特にここは宿場町だから、後継者殿下が宿泊された宿っていう宣伝効果もあるしな」
  実際、その通りである。アスナがアイシンに泊まることが分かり、町の旅館組合は話し合いとくじ引きの末にこの宿を案内されたのだ。
  ちなみに今、四人がいるのはアイシンで一番大きな旅館の離れだ。
  他にもヴァイアスとミュリカのために隣の離れも確保されている。
「それに加えて子どもにまで人気のある俺たち近衛騎団も泊まってるんだ。アイシンっていう宿場町そのものも有名になる。現生界でも、王室御用達の宿とかあったんじゃないのか?」
「そういえばそう言うのもあったっけ」
「その王族が泊まるはずだった宿を断って護衛と同じ部屋に泊まったら、その宿のことが気に入らなかったって事情を知らないヤツは思うだろ。つまりそう言うことだ」
「えっと、それじゃオレはどうするのが正解だったんだ?」
「偉そうにしてれば良かったんだよ。お前が丁寧な態度をとると相手が逆に恐縮するからって意味もあるけどな。っと、ほら」
  脱いだ右の籠手を受け取りながらアスナは一応の結論を出した。
「そっか。・・・・・・悪いことしたかもな」
「けど、それがアスナ様の良いところでもありますから」
  と、ヴァイアスに比べて軽装なミュリカを脱がせ終えたサイナが言った。
「サイナさんの言うとおりですよ。アスナ様はそのままで良いですけど、初対面の相手とか日常的に顔を合わせない相手にはヴァイアスの言うとおりにしておいた方が良いですね。ヴァイアスも儀式とか人目の就く場所じゃ、偉そうにしてますから」
  それじゃ、少し失礼しますと言ってサイナから渡されたタオルその他を手にして奥に向かった。アイシン名物の温泉があるのだ。
「ちなみに、覗いたら思いっきり殴るからね」
  誰に言っているかは明白である。ミュリカは念押しに言葉を向けた相手に視線を送ると奥に足を向けた。
  パタンと言う軽快な音がすると同時にヴァイアスの鎧を脱ぐ動きは早くなる。
「聞く必要ないと思うけど、なぜにいきなり元気になりますか、君は」
  早業とした言いようのない手際の良さで左の籠手も脱ぐとヴァイアスはポンッと両手をアスナの肩に乗せた。
「良いか、アスナ。ここは温泉で、惚れた女が入ってるんだ。そうなれば男としてやるべきことは一つだと思うけど、どうだ?」
「どうだって聞かれてもはっきり言って困るんだけど」
  特にサイナのジト目がアスナには気になるわけである。
「ミュリカは覗くなって言ったんだ。つまり、いつでもかかってこいって意味だ」
「そうだな。けど、確実に殴られるぞ」
「ぐっ!」
  ヴァイアスの動きが止まる。普段ならばそれでも突き進んだだろうが、今の彼は疲労困憊である。ミュリカの一撃にたやすく沈没する可能性も十分にある。
  今、強行突入するのは危険であるとヴァイアスの本能が訴えかけたのだ。
  団長の暴挙が収まったとサイナは安堵の吐息を漏らす。
「そう言うことでやっぱり覗くのはやっぱりまずいだろう」
  主の念押しが加わりもう大丈夫だと、サイナは人数分のお茶の準備を始める。・・・・・・が、しかしである。
「けど、一緒に入るのは大丈夫だ。だってミュリカは覗くなって言っただけで一緒に入るのはダメだって言ってない」
「あ、アスナ様?!」
  サイナの裏返った声に続いてカップからお茶があふれ出した。急いでハンカチで零れたお茶を拭き取る。
  しかし、アスナの扇動は止まらない。止めとばかりにヴァイアスの目を真っ直ぐに見つめて、「だろ?」と念を押す。
  途端にヴァイアスの表情に生気が戻り始める。彼は頷くと手をアスナの前に差し出した。アスナも応えるように彼の手を握る。
  お互いに一度頷き合うと、ヴァイアスは先ほどまでとは比較にならない速さで具足を脱ぎ始める。一方のアスナは手早くタオルと下着を用意してやる。
  お互いに準備を終えたのはほぼ同時。
  アスナは万感の思いを込めて、タオルその他を手渡してやる。
「健闘を祈る。ただし、もうじき夕飯が到着するから長湯は禁止だからな」
「分かった。手早く済ませるから夕飯には間に合わせてみせる」
「そう言うことじゃないんだけど。まぁ、とにかく健闘を祈る」
  これから無謀な挑戦をする友人のためにアスナは最敬礼で送る。
  ヴァイアスは頷きで応えると一気呵成とばかりに服を脱ぎ散らかしながら浴場へ駆けていった。
「だ、団長!?」
  サイナの声はヴァイアスには届かない。むしろ加速する彼は浴場に到着する頃には全てを脱ぎ終えていた。ほんのわずかだがヴァイアスの引き締まった尻が垣間見えた。
  瞬時にサイナは赤面して顔を背けると、
「アスナ様、あんなことを仰って宜しいのですか」
「良いの良いの。ヴァイアスも分かってて煽られたんだから」
「ですが、ミュリカは・・・・・・」
  甲斐甲斐しいとさえ言える手付きで脱ぎ散らかされた服を纏めていく。
  その姿はとてもラインボルトの次なる支配者のものとは思えない。
「なにがあったのか詳しく分からないけど、二人をの顔を見たらかなり大変だったって分かるだろ? だから、こういうときは他人に迷惑がかからない程度にバカ騒ぎをした方が良いんだよ」
  汚れ物を駕籠の中に放り込むと、間違いないよとばかりに自信のある笑みをサイナに向けてみせる。
「お爺さまのお言葉ですか?」
  アスナの行動や考えの規範がどこにあるのかサイナも分かるようになっていた。
「ん〜ん、違う。こっちに来て、みんなに教えてもらったこと。戦いが終わった後はみんな、どんな形だろうと気晴らしをしてただろ。それと同じ」
  国のため、アスナのためとは言え、命のやりとりをして平気でいられる者は本当に極少数でしかない。ならばその裡に溜まったものを解放してやらなければ心身が保たない。
  それはアスナも似たようなものだ。実際に命のやりとりをするわけではないが、殺しを命じるのは辛いことだった。
  エルニスで見たあの光景を忘れることは出来ないが、ヴァイアスたちと騒いでいればあの光景に押しつぶされることはない。そこからアスナは学び取ったのだ。
  と、浴室から響く「ヴァイアスゥ〜!!」と言うミュリカの怒声がアスナの背中をなぜか震わせる。続く声も怒りに染まっているが、どこか楽しげでもあった。
「でしょ?」
「・・・・・・そうですね」
  サイナは微苦笑で応えるしかなかった。
  ほどなくしてノック音がした。
  立ち上がり応対しようとするサイナを手で押しとどめてアスナが出る。
  扉の向こうにいたのはアスナとともにアイシンに先行していた団員の一人だ。
「全員、入室完了しました」
「ん、ご苦労様。それじゃ、予定通りこれをよろしく」
  玄関横の花瓶に隠すようにして置いていた封筒の束を手渡す。
  それが何であるかを聞くことなく団員は敬礼とともに動き出した。
  見送りを終えたアスナに改めてサイナはお茶を出す。
「本当にこのようなことをしても良かったのでしょうか」
「良いんじゃないかな。あそこのバカ騒ぎと似たようなものだって」
  アスナの視線が相変わらず騒がしい浴場に向けられる。
「内乱もラディウスの介入で真面目すぎることになってるからさ、ここで少しまともじゃないことをするのも悪くないんじゃないかな」
  出されたお茶を口にする。かなりお高いのだろうが、アスナには良い香りだとしか分からない。
「ですが、それでこの内乱が収まるものでしょうか」
  疑っているわけではない。アスナがヴァイアスたちにさえも内緒で命じたことはそれだけ前代未聞だったからだ。
「さぁね。けど、この内乱をどうにかしたいってみんなが思ってたら何とかなるんじゃないかな」
「アスナ様の思惑通りにことが運べばきっと歴史に残る出来事になるでしょうね」
「そこまで大げさなことじゃないって」
  そんなアスナの遮りの言葉に同意するように再びノック音がした。
  今度はアスナよりも早く立ち上がったサイナが警戒しつつ扉を開けた。そこには数名のメイドが頭を下げて並んでいた。移動卓も一緒だ。
「アスナ様、夕餉の用意が調ったようです。入室を許可されますか?」
「良いよ。二人を呼んでくるから」
  サイナに促され、恐縮しながら入室するメイドたちの様子に笑いをかみ殺してアスナは浴場に声を掛けた。
「二人とも、夕飯が来たぞ。いちゃつくのは後にして、飯にしよう!」
  浴場から何かがひっくり返り、盛大に湯が跳ねた音がするが気にしないことにする。
  なにしろ、本当に久しぶりに豪勢な料理にありつけるんだから。

 エルトナージュは内乱が始まってから今日に至るまでに六s近くも痩せてしまった。
  ファイラス包囲軍の司令官として、宰相として国の内外の対処を行わなければならないと激務が続いていたこともあるが、彼女がこんなにも急激に痩せた原因は別にある。
  それは一週間ほど前に何の連絡もなくファイラスに駆けつけてきた第三魔軍にあった。
  到着した第三魔軍は包囲部隊の一部を蹴散らしながら、ファイラス攻撃を開始したのだ。
  それは当初の予定にない行動だった。
  ここが戦場であるのならば不測の事態が起きるにも当然だ。しかし、第三魔軍の行動はそれを越えるものだ。
  リムルは直率している部隊のみならず、包囲に加わっていた第三魔軍副将ガリウスにも攻撃を命じたのだ。
  ガリウスはファイラスへの攻撃はアスナたちの合流を待ってから行うべきだと進言したが、リムルはそれを聞き入れずに攻撃を開始したのだ。
  例え第三魔軍と言えどもファイラスを陥落させることなど不可能だ。
  ファイラスに籠もっている革命軍本隊は健在なのだから。
  いくらリムルが人魔の規格外で率いる兵数以上の戦果を挙げられるからと言っても必ず勝利できるとは限らない。
  ファイラスにはフォルキスがいるのだ。
  剣技の上ではリムルに先を譲るが総合的な戦闘力で見ればフォルキスに分がある。
  リムルが剣技による闘気の運用に集中しているのに対して、フォルキスは闘気そのものの扱いに長けている上に戦闘経験も豊富だ。
  このまま静観していれば壊乱するのは第三魔軍の方だ。
  ガリウスはそう判断し、エルトナージュの現状維持命令を退け、直属の上官の命令に従うことにした。
  一方のリムルはそんな副将の考えも頭にはなく、ただひたすらにファイラス攻撃を続けさせていた。
  大した攻城兵器など持たない第三魔軍が用いた策は単純明快。
  ただひたすらに兵を前面に押し立てて攻めると言うものだった。言い換えればただ徒に屍を築くだけの策だ。
  しかもリムルはそれを麾下の第三魔軍ではなく、ファイラス到着までに降伏、ないしは内乱に加わることのなかった部隊を掻き集めて作った臨時戦闘団に攻撃を命じたのだ。
  麾下の第三魔軍は後方で支援攻撃をするに止まっている。
  眼前で友軍が屍を築いている様に参謀たちはリムルに攻撃停止を進言するが全く聞き入れない。それどころか昼夜兼行で攻撃を行うように命じるありさまだ。
  この状況にエルトナージュがなにもしていないはずがなく、彼女は何度となく攻撃停止命令を出したがリムルは法的根拠を盾にして聞き入れようとはしなかった。
  魔軍は一般軍の上部組織であり、魔軍将軍に一般軍を含めて編成された部隊の指揮権が与えられている。そのためリムルが一般軍の兵を率いることに問題はない。
  実は現状で問題があるのはエルトナージュの方だった。
  確かに彼女は魔王の後継者であるアスナからファイラス包囲軍の指揮権をゆだねられている。しかし、その指揮権に法的な根拠はどこにもなく後継者による委任と、彼女自身の権威でのみ成り立っているのだ。
  本来、宰相であるエルトナージュが命令権を持つのは文官と首都防衛軍のみだ。
  そのため軍を率いる法的な根拠が全くないのだ。
  そして、実を言うとそれはアスナにも言えることだった。
  後継者はあくまでも後継者でしかなく、法は何の権力も与えていなかった。
  過去の後継者が有した権力は、ラインボルトの最高意志決定権を有する魔王より与えられたものなのだ。
  簡単に言えば魔王に仕事を任せられなければ、後継者には何もすることが出来ないということだ。
  そして魔王不在時での後継者の権能について定められた法も存在しない。
  そういった事情がファイラスでの指揮命令系統の乱れを生み出す原因の一つとなっていたのだ。
  非常時なのだから、法の拡大解釈や超法規的処置を行い臨時に権力を後継者が有するようにする意見も出陣前に出たがエルトナージュはその意見を却下した。
  現生界では国家とは主権、領土、国民で構成され、統治機関を持つものと定義されている。そして、法の下で運営されている。
  もし、非常事態だからといって法的根拠もなく簡単に権力を委任したりすれば、国家としての仕組みそのものが軋みを上げてしまう。
  これまで後継者とエルトナージュ自身の権威で包囲軍を統率していたが、法的根拠の前ではただ威張っているだけにすぎない。
  もっともその法律も絶対的な権威があるからこそ成り立つのだが。
  ともあれ現状のファイラス包囲軍で最上位指揮権を有するのはリムルと言うことになる。

 次々と出城に届けられる第三魔軍の戦況にエルトナージュの苛立ちは最高潮を維持し続けていた。届けられる戦況報告はどれも看過できないものばかりだ。
  これまで彼女は可能な限り革命軍、アスナ派ともに無駄に戦死者を出さないように苦心してきた。もちろん、その思惑通りにことが進むわけがなく何度か大損害を出したこともあるが、今もファイラスの包囲を続けられているのは兵の無駄死にを可能な限り避けてきた証だといえるだろう。
  それをリムルがぶち壊しているのだ。
「リムル将軍は一体、何を考えているのですか!」
  布陣図が広げられた卓をエルトナージュは思いっきり両手で叩いた。
  普段から怜悧を身に纏っている彼女のあまりの激高ぶりに周囲の者は一様に目を丸くした。
「停戦命令は間違いなく届いているのでしょう。なぜ聞き入れないのですか!」
  毎日のように、ではなく数時間おきに停戦命令を出しているにも関わらずリムルは無視を続けている。そして今回も。
「自分はファイラス包囲軍の最高位者だから、と仰るのみです」
  事実は門前払いだ。同じ台詞を何度もリムルは聞くつもりはない。
「将軍ならば分かるはずでしょう。勝手な振る舞いをすれば作戦が崩れると!」
「落ち着きください、姫様。まずはガリウス殿の抜けた穴を塞いでくれたデュラン殿に感謝の言葉を贈るべきではないでしょうか。また、これ以上、リムル将軍の側に就く者が出ないよう諸将に包囲の重要性を説く必要があると心得ます」
  激するエルトナージュを首都防衛軍副将ファーゾルトが諭す。
  確かに彼の言うとおりだとエルトナージュは熱した頭を冷ますように目を閉じた。
  彼女にとっての数少ない幸いはリムルの指揮下にあるのは彼が率いてきた部隊とガリウス副将が率いる部隊のみだという事実だけだった。
  彼女が直率する首都防衛軍をはじめとする本隊とデュラン副長の近衛騎団分遣隊が変わらず自分の指揮下にあり、包囲を維持できている。
  なかでもデュランは麾下部隊を割いて、ガリウスが抜けた穴を埋めてくれているのは本当にありがたかった。
  小さく息を吐き、胸の裡の苛立ちを出来るだけ冷ます。
  怒りと言う炎は鎮火していないが、まともな判断が出来るまで抑えることが出来た。
  そして、息を吸い込み気を入れる。意識を切り替えて今、やるべきことを思考し始める。
「ファーゾルト。諫言、感謝します」
「いえ、出過ぎたことを申しました」
  やはり、この老将は自分の師なのだと実感した。これまで誤った判断をして、包囲を崩される原因を作らずに済んだのは間違いなくこの師の諫言の功績だ。
  そして、その師を自分につけてくれた亡き父に感謝した。
「では、すぐに諸将をあつ・・・・・・」
「失礼します!」
  司令室に駆け込んできたのは斥候だ。
  息せき切った形振り構わぬ姿に何かしら大事が起きたことを二人は察した。
「何事だ!」
  ファーゾルトの一喝で斥候は威儀を正すと端的に報告をした。
「第三魔軍単独で攻撃を開始しました」
「単独と言うことは、リムル将軍自らが、出陣したと言うことか」
  ファーゾルトは確証を得るべく敢えて区切るような言い方をした。
「はい。将軍のお姿をしかと確認しましたので間違いありません」
  頷くと老将はエルトナージュを見た。決断を促すような視線を送る。
「お聞きになったとおりです。今後、起こる事態は明確です。リムル将軍に対抗するためにフォルキス将軍が出陣。リムル将軍は姫様のようにファイラスに被害が及ぶことを気にしないでしょうから、全力でぶつかるはずです。そうなればフォルキス将軍も全力を出さざるを得ますまい。そうなればファイラスが灰燼に帰すことでしょう」
  ファーゾルトの予測は誇張でも何でもない。
  彼自身、二人の全力衝突を目にしたことはないが何度となくエルトナージュとフォルキスの一騎打ちを見てきているのだ。
  ファイラスに影響を与えないよう力を抑えているにも関わらず、互いの部隊に大きな損害を与えるのだ、全力を出した場合は確実にファイラスに無視できない損害が出るのは明白だ。
  なにより両者ともに闘気を扱う者同士なのだ。破壊力で言うならばこれまでの比ではないはずだ。
「如何なさいますか。ファイラスを代償にすればフォルキス将軍を討つこともたやすいかと思われますが」
「ファーゾルト、そのような下手な扇動をしなくても良いですよ」
  老将の気遣いにエルトナージュは、力の抜けた微笑を浮かべた。
  それは二人の周囲で務めをこなす参謀や司令部要員に伝播し、苦笑として形作られた。
  ファーゾルトは咳払いをし、場を沈めるとエルトナージュを見据えた。
「では、ご命令を。今後の我らの行動は如何いたしますか」
「両軍の衝突を実力で阻止します。首都防衛軍は出撃準備を。残る諸将には第十二軍を中核としてファイラス包囲を堅持するよう命じます」
「了解いたしました。すぐにそのように」
  ファーゾルトの返事に参謀も司令部要員たちも一斉に動き出した。
  状況は動き出す。
  包囲から、人魔の規格外三名が一堂に会する場へと。

 同規模の闘気のぶつかり合いは、その闘気の持ち主に影響を与えず周囲へとばらまかれる。持ち主の意志を離れた闘気は爆発という形でその周囲を破壊する。
  リムルとフォルキスの初撃だけでそれだけのことが起こった。
  二合、三合と互いの剣を重ね始めると、もはや二人が率いる兵は近づくことすら出来ない。
  逃げ場を求めて発散され続ける鮮烈な赤の中央にあるのは二人の影のみ。
  爆発音よりもさらに強い剣劇の音を奏でて二人は舞う。
「あああああぁぁぁっ!!」
  リムルの上段より振り下ろされる剣をフォルキスは下段より大剣を振り上げることで防ぐ。体格差、剣の重量差に勝るフォルキスは受け止めるだけに止めず、そのまま押し出すように振り上げる。
  リムルは空中で体制を整えると着地の姿勢をとる。
  しかし、フォルキスは振り上げた剣を手放し、身を沈め、着地するリムルの足を払った。
  リムルもそれを予期していた。同じ転倒するのならばフォルキスに一撃加えた方がましだと、無理な体勢で剣を振り下ろした。
  対するフォルキスは徒手。いかに闘気で腕を覆ったとしても斬撃に特化した剣気に覆われたリムルの剣を防ぐことは出来ない。
  殺った! と剣を振り下ろす瞬間にリムルは喜色を浮かべた。
  しかし、彼の剣が振り下ろされそうとした瞬間、フォルキスは自身の拳を地面に叩き付けた。瞬間、彼の闘気が地面より吹き出した。
  闘気とは攻撃のみに特化した力。それに触れれば何者であろうと破壊する。対抗するには同等の闘気をぶつけるしかない。
  しかし、リムルが発しているのは剣技に特化した剣気だ。フォルキスのような総合的な運用には不向き。
  振り下ろされる剣気よりも、振り上げられた拳の如き闘気が一瞬早く、敵を捕らえる。
  殴りつけられ体勢を崩すだけではなく、闘気はリムルを捕縛する。
「!?」
  自身を拘束する闘気を打ち消そうと剣気を放ち、逃れようとした。
  一瞬でリムルは拘束から脱する。
  しかし、フォルキスにはその一瞬で十分。彼は立ち上がると渾身の力を込めてリムルの左脇腹に蹴りを叩き込んだ。
  それはリムルを守る剣気の壁を貫き、鎧を砕く。そしてそれだけでは止まらずフォルキスの闘気はリムルの生身の身体そのものを浸食する。
  いかな人魔の規格外と言えども思いっきり他者の闘気を身体に押し込められては、本来の尋常ではない回復能力を行使することはできない。
  その上、押しつけられた闘気が内臓を破壊し続けるため、動くことも許されなくなる。
  異物を押しつけられたリムルは抗う術もなく吹き飛ばされる。
  球のように二度、三度と弾むと剣鬼と恐れられる将軍は砂と血にまみれて頽れた。
  破壊された内臓に溢れた血液がリムルの口から噴き出す。
  フォルキスの手から放れた大剣が回転しながら落下する。重い、ズンッという音ともに地面に突き刺さる。
「無様だな、リムル。姫様と歩調を合わせず、ファイラスの城壁に屍を積んだ結果がこれか」
  フォルキスは愛用の大剣を引き抜くと、肩に担いだ。そして、リムルに歩み寄っていく。
「今はまだ未熟だが、将軍としての自覚はあると思っていたが。見込み違いだったようだな」
  蹲り吐血をするリムルを蔑むように見下ろす。手にした大剣を握る手には力があり、いつリムルが反撃に移っても迎撃出来るように気を配っている。
「この暴挙の原因はやはりヴァイアスか?」
  ピクリと蹲るリムルの肩が動いた。
「あいつも哀れだな。報告では後継者に気に入られているようだが、この単独行動を知ればヴァイアスへの信頼も崩れるだろう。アイツはお前を庇うだろうからな」
  唾を吐きかけるようにフォルキスは言い捨てた。
「よかったな、リムル。お前の不始末はヴァイアスがつけてくれる。・・・・・・全く無様だな」
  担っていた大剣をリムルに突き付ける。
「我が儘だけで軍を動かし大局を誤るなど、将軍として以ての外だ!」
  再び大剣に赤く輝き始める。そして・・・・・・。
「恥を知れ!」
  突き出される。しかし、
「そんなの、フォルキス様だって同じじゃないか!」
  リムルの右手が振るわれ、大剣を弾いた。
  そして口から、鼻から血を出しながらフォルキスに向けて左手を繰り出した。
「くっ」
  リムルが扱えるのは剣気。剣と最も相性が良く、そして剣技にのみ特化した闘気だ。通常ならば、手足に剣気を帯びさせるようなことは出来ない。
  しかし、その手が形作っているのが手刀であったのならば。
「はっ。そう言う使い方もあるか!」
  左の手刀を大剣で弾くも、すぐさま右の手刀が迫る。剣の間合いを失う代償として、小回りの利く攻撃が次から次へと繰り出される。
  リムルの体術は基礎的なものでしかない。しかし、それでも手刀を剣技の応用で繰り出せば普段のそれと遜色のない攻撃となる。
  もはや油断は出来ないと判じたフォルキスは迫り来るリムルの手刀を大剣で弾くのではなく、その進路を塞ぐように地面に突き付けた。
  リムルの手刀を阻む大剣は衝突と同時にその刀身の至る所にヒビが走り始める。
「同じことやってるフォルキス様にだけは、言われたくない!」
  拒絶の意が込められた手刀がフォルキス自身を象徴する大剣を貫いていく。
「そうだ!」
  認める叫びを放ちながら、彼の拳が貫かれようとしている手刀を叩きつぶさんと繰り出される。
  衝突。両者の闘気が爆発を生み、その中間点である大剣は完全に砕け散った。
「だが、お前が見ているのはそこまで。俺が見ているのはそこから、先だ!」
  赤の剛拳は大剣を突き抜けてくる新鍛の手刀を潰して、リムルの頬を殴りつけた。
  だが、今度は殴り飛ばされることなくリムルは堪えた。
「知らないくせに! 僕のこと、何も知らないくせに!!」
  飛ぶ左の手刀を右の拳が弾く。
  リムルの脳裏に浮かぶのはあの頃の日の当たらない石造りの部屋。
「知るわけがない。お前はなにも話さないんだからな!」
  フォルキスの左拳がリムルの腹を抉る。それでもリムルは倒れない。右の潰された手で強引に手刀を作り袈裟切りに振り下ろす。
「・・・・・・知らないくせに、知らないくせに知らないくせに知らないくせに!!」
  右、左、左、前進、右、左、右とリムルは手刀を繰り出す。
  そのたびに浮かぶのは消すことの出来ない記憶。癒えることのない全身の傷と臭く汚れた包帯。首の後ろに差し込まれたよくわからないモノ。
  外を見せてくれたのは従兄を名乗る少年。あの少年がいないと、またあそこに連れ戻される。あんな嫌なところに戻るのは絶対に嫌だ。
  だから倒すんだ。殺して、踏み潰して会いに行くんだ。もう、あんな場所にいたくない。
「知らないくせに! 知らないくせに!!」
「だから、知るわけがないと言っているだろうが! 確かなことは、お前が誰にも言えない理由で兵を死に追いやったことだけだ」
「そっちだって、同じなくせに! フォルキス将軍だってみんなに言えない理由で戦ってるくせに。エルトナージュ様のためにこんなことしたくせに!」
「当然だ!」
  裂帛の気迫で両者の拳と手刀が激突する。
  拳が上段から打ち下ろされ、手刀が下段から振り上げられようとしる。しかし・・・・・・。
「どういうことですか、それは!?」
  両者の動きを止める女の声が響く。
  翠の髪と抜剣した銀が陽の光を反射し、それよりも強い眼光が二人を貫く。
「以前に申し上げたとおりです。姫様には政は似合わない。穏やかに時を過ごされる方が似合っている。私は国難を退けることと同じくそれを願って蜂起したのです!」
「勝手です。フォルキス様はいつも勝手です!」
  握る拳は強く。手にした剣は真っ直ぐにフォルキスを指す。
「いつも勝手に人の道を定めようとして。わたしは自分で決めたんです。進みたい道を選んだんです」
「それが間違いだと言うのです、姫様。今は不相応だと分からぬ貴女ではないでしょう!」
「そう言われたから辞任すれば将来においても不相応になります。第一、フォルキス様がそこまで心配される必要はありません!」
  拒絶の言葉が二人の間を隔てる。
  彼女が率いていた首都防衛軍はファーゾルトに率いられて第二、第三魔軍の仲裁に入ろうとしているがその実力差から両軍の境に割ってはいることが出来ずにいた。
  三人の周囲には誰もいない。それは止める者がいないことも意味していた。
「ですから、フォルキス様、すぐに兵を・・・・・・」
「惚れた女が困難な道を進もうとするのを止めるのは間違いではないだろう!」
「えっ」
  怒気に覆われた雰囲気も瞳もフォルキスを指す剣先さえも動揺に彩られた。
「どう、いうこと」
「言葉の通りです。貴女には昔のように笑っていて欲しい。すぐに宰相位を捨て、穏やかな暮らしを送っていただきたい!」
「・・・・・・そんな、フォルキス様のことはわたし、お兄様としか」
  絶対的で、すでに分かり切っている答えを耳にしてフォルキスは苦笑した。
  血と砂埃で汚れた姿はうらぶれたと表現しても良い空気を一瞬だけ纏った。
「答えなど分かっていました」
  俯き小さく息を吐く。
  ゆっくりと顔を上げ、エルトナージュを見据える。
「ならば兄代わりとして申し上げる。ガラス片の敷き詰められた道を歩むのは止めるのです!」
「辞めません!」
  頭(かぶり)を振る。そして視線は真っ直ぐにフォルキスへと向かう。
「わたしは自分の夢のために辞めるつもりはありません。傷つこうが、何が起きようがわたしは歩みを止めるつもりはありません!」
「ならば・・・・・・」
  フォルキスは砕かれた大剣の柄を拾い上げた。例え砕かれようとも闘気で剣を形作ることが出来る。
「血染めの道の第一歩は私を倒すことで踏み出されるが良い」
「フォルキス様!」
「何が起きようと歩みを止めるつもりはないと仰られたのは貴女だろう! 私を踏みつぶせぬようでは何も成すことはできない! 出来なければ宰相位を捨てられよ」
  エルトナージュの雰囲気が凍る。
  いつもの怜悧さではない。それは目的のために感情を廃した者の空気であった。
「リムル将軍。即刻、軍を纏めて退きなさい。その右手ではしばらく剣は握れないでしょう」
「いやだ。ぼくはフォルキス様を倒すんだ!」
  エルトナージュは僅かな間、瞳を閉じた。
「・・・・・・そう」
  吐息のように声が漏れる。
  開かれる瞳に宿るのは冷たい。黄玉ではなく金にすら見える。
「ならばリムル将軍。ファイラス包囲軍の指揮権を有する者として処罰します」
  エルトナージュは剣をフォルキスに向けたまま、左手はリムルに向ける。
「お二人に最後の質問をします。わたしに従い軍を退いてくれますか?」
「お断りする」
「お断りします」
  返るのは拒絶の言葉のみ。
  エルトナージュは右の剣と、左の掌に蒼の光を宿す。
「ならば、踏み潰します」

 止める者のいなくなった戦いは際限を忘れたかのように続く。
  初めに衝突をした第二、第三魔軍はもちろん、それを仲裁しようとした首都防衛軍すらも戦場を形作る要素となっていた。
  それはある意味、必然とも言える結果と言える。
  彼らを統率する将がそれぞれの思いをもって戦いを始めてしまったのだから。
  だからもう止める者はいない。止められる者はここにはいない。
  戦いは続く。際限なく続く。終わるまで、屍の上に勝者が立つその時まで終わらない。
  火は重なり炎となる。そしていずれ災いとなる。
  三つの軍が作り上げる戦火と言う災いは血と叫びと剣劇を飲み込んでさらに成長を続ける。
  この一月の間、ファイラスで展開されたどの戦いよりも苛烈な戦いが今、行われていた。
  互いに手加減も手心もない。殺すか殺されるかの戦いが行われていた。
  まともな戦場ならば狂ったような、相手を貪り喰うような戦いは滅多に起きない。
  自分たちの将の戦いを自分たちが体現するのだと言わんばかりの苛烈さだった。
  兵たちは戦うことを止めない。例え自分たちの将の攻撃に晒されたとしても。
  なぜなら彼らを止める者はここにはいないのだから。
  誰も止めようとしない軍楽に紛れて、それとは異なる楽曲が混ざり始める。
  音程は低く、奏でる音は威。音律は早く、表される色は白銀。
  楽曲はその演奏を強め、軍楽を覆いつくさんとする。
  決して混じり合うことを許さず、楽曲は戦場に響く。
  軋みを上げながら奏でられた軍楽は楽曲に覆われ、演奏を止めていく。
  切り裂きながら続けられる演奏は完全に軍楽の響きを断つと、楽曲の主催者はただ一言命じた。
「あのバカ騒ぎを止めてこい!」と。
  戦場を覆った楽曲の名を近衛騎団と言う。

 打ち合う剣も、放たれる魔法も、闘気もその過程はあまり関係ない。
  結果だけが全てを物語っている。
  それは単純なる一言。破壊の一語のみ。
  互いに力を繰り出す度に傷つき、それ以上に周囲を破壊していく。
  三人が三人とも止めることを考えず、ただひたすらに力を行使する。
  我を通す。ただそのためだけに力が振るわれる。
  そこには力も考えも意志も存在している。故に破壊は止まらない。
  地を抉り、将兵を傷つけ、城壁を壊し、あまつさえファイラスの市民すらも傷つける。それでも止まらない。止まるわけにはいかないのだ。
  しかし、そんなこと知ったこっちゃない者がいた。
  死ぬ目にもあって、予想外のゴタゴタにも巻き込まれて、それでも皆と一生懸命に突っ切ってきたのに、目の前で起きている状況にはっきり言ってブチ切れたのだ。
  だから、その者は自分が持つ最大の力にこう命じたのだ。
「あのバカ騒ぎを止めてこい!」と。
  だから白の残映が駆けていく。近づくことすら困難な場所へと駆けていく。
  むやみやたらと破壊を撒き散らす三人に向かって真っ直ぐに、一直線に。
  なぜなら白の残映もまた、このバカ騒ぎに怒っていたからだ。
  三人が距離を取り、それぞれに構える。そして踏み出した。
  何かしらの大技でも繰り出すつもりだろう。しかし、そんなこと関係ない。
  白の残映は三人のほぼ中央に飛び込み、三人の攻撃を一身に受けた。
  そして、反撃もなにもなく、ただ叫んだ。
「この戦い、近衛騎団団長ヴァイアスが剥奪する!!」

 突然の思わぬ乱入者にエルトナージュだけではなく、残りの二人も動きを止める。
  砂煙が晴れた先に姿を見せたのは紛れもなくヴァイアスであった。
  その鋭い立ち姿を確認できたからか、幾分甘えた声でリムルは彼の名を呼んだ。
「ヴァイアス」
  しかし、呼ばれた当人は怒りの混じった視線で一瞥すると三人から間を取るように移動する。近づいてくる馬蹄の音は彼のすぐ隣で止まった。
  馬上の主は額に汗で髪を張り付かせ、砂埃に全身をまみれさせながらも三者を睥睨した。
  そして、その視線は最も傷つき汚れた巨躯に止まる。
「馬の上から失礼します、フォルキス将軍。改めて初めまして、坂上アスナと言います」
「お見知り置き、恐悦至極に存じます。第二魔軍将軍フォルキスにございます」
  と、彼は心からの敬意を表するように深く腰を下げて最敬礼をしてみせた。
  対するアスナも馬から下りて、同じように最敬礼する。
「そんな、後継者がそのようなことを」
  遅い制止の声がエルトナージュの口から飛ぶが、アスナは身体を起こすと彼女を睨んだ。
「黙ってろ。今のところフォルキス将軍と俺は対等なんだ。その相手が敬意を見せてくれたんだから、こっちもそれに相応しいことをしないと失礼だろ」
「ですが!」
「黙ってろって言っただろ!」
  エルトナージュを睨む瞳には怒気があり、なによりアスナの持つ雰囲気が一ヶ月前とは随分と変わってしまっていた。
  その瞳の強さにエルトナージュをそれ以上、言葉を続けることが出来なかった。
「フォルキス将軍、そろそろこのバカ騒ぎを終わりにしませんか? ラディウスや”彷徨う者”が内乱に水を差してる」
  ラディウスの介入は初めて耳にした事実だ。思わずアスナに詰問しようとしたが、彼の側で控えるヴァイアスの視線に負けて言葉がでなかった。
「これ以上、続けてもこの国の利益にはならないでしょう」
「確かに。ですが、ここまで事態が大きくなった以上、けじめが必要と心得ます」
  それはつまり、決戦による決着を望むということだ。
  これで内乱を終結させてしまえば、確かに不満も残ることだろう。それは出陣前にアスナが言ったことでもあるのだから。
「それに殿下にとって不利益にはならないはずです」
「・・・・・・分かりました。それじゃ、準備が整い次第、そちらに軍使を向けます。その上で決着を付けることで構いませんか?」
「承知いたしました」
  アスナは頷きで答える。
「それじゃ、第二魔軍から撤収を開始してください。無用な混乱を起こさないよう近衛騎団には命じていますのでご心配なく」
「お心遣い、痛み入ります。それでは・・・・・・」
  フォルキスはアスナに再び敬礼をして見せ、エルトナージュには目礼を送ると背を向け、歩き出した。
  数歩、進むと不意に彼は立ち止まった。そして振り返ることなくアスナに訪ねた。
「二つばかり、お伺いしても宜しいでしょうか?」
「・・・・・・どうぞ」
「殿下は、なぜ、戦われるのですか?」
  フォルキスの問いかけはこれまでの、なぜ幻想界に来たばかりの人族がという問いかけではないとアスナは何となく感じた。
  だから、彼は改めて自分と彼女に確認させるために口を開いた。
「笑ってしまうほどバカな夢を真剣に話せるヤツに会ったとき、そのときオレに実現したい夢がなかったらそいつの夢を手伝ってやれって」
  自然とアスナの顔に微笑が浮かぶ。
  思っていた以上にすんなりと口に出来たことがなぜかとても楽しかった。
「うちのジイさんが言っていたんですよ」
  それを聞いたフォルキスは、「なるほど」と呟くと小さく首を振った。
「それで、もう一つは?」
「LDの消息はどうなっていますか? ムシュウ到着の報告以来、音沙汰なしなので」
「ピンピンして後からここに来ますよ。フォルキス将軍の契約が切れたらオレと契約してくれるって約束してくれましたし」
「そうか。・・・・・・それは良かった。ありがとうございます、殿下。では、失礼します」
  去っていく背中は大きく威厳すら感じる。
  しかし、エルトナージュの目には寂しさを帯びてるように見えた。

 どれだけの間、三人が争っていたのかは知らないがすでに陽は傾き始めている。
  濃い朱の世界の中、見渡せる光景は酷いものだった。
  至る所に破壊の爪痕が残されている。その全てに定まった形はなく、傷の上に傷を作り上げているといった感じだ。
  遠くに見えるファイラスの城壁もまた例外ではない。
  三人の攻防の余波を受けて、東の城壁の一部が崩れてしまい、瓦礫が堆く(うずたかく)積まれている。遠目にも分かるほどの派手な崩れ方だ。
  被害は城壁だけでは済んでいるはずがない。城壁の崩れに巻き込まれた者、建物の下敷きとなった者、そして攻防の余波そのものに殺された者もいるだろう。
  これは内乱という名の戦争なのだ。一般民に被害が及ばないわけがない。
  アスナ自身、そういった人たちを多く見てきたし、被害を受けた者のために出来る限りのことをするようにと、出陣前の会議で重臣たちに命じている。
  フォルキスはファイラスという都市に籠城しているのだから、被害がでるのは当然だ。
  しかし、だからといって許容できるものではない。
  なにより、三人が三人とも敵対しているかのように戦うなど言語道断だ。
  フォルキスと話をして、ヴァイアスたち近衛騎団の者たちだけではなく、帰順した将兵たちから聞いたとおりの人柄と雰囲気に嬉しくなったアスナだったが、改めてこの光景を見ていると腹が立ってきた。
  視線をこのバカ騒ぎの当事者たちに向ける。
「・・・・・・はぁ」
  思わずため息が漏れる。
  リムルは血と土埃で汚れた姿でヴァイアスに抱き付いて、満面の笑みを浮かべて何かしら話しており、当のヴァイアスはアスナの視線を感じて、目で謝罪の意を表す。
  そしてもう一方の当事者、エルトナージュは表情と纏う空気全てを使って納得いかないと表現していた。
  二人ともどう好意的に見ても反省しているようには見えない。
「それじゃ、さっそく事情を聞かせて貰おうか。なんでこんなことになったのか」
  説教するにせよ、処分するにせよ事情を聞かないことにはしようがない。
  味方同士で剣を交えるなんて、それだけで厳罰ものだが、アスナは杓子定規にそうするつもりはなかった。戦う以上、何らかの理由があると思っているからだ。
  しかし、二人とも憮然とした顔のまま口を開こうとはしない。
  はっきり言って焦れる。これだけ派手に動き回って、理由を話さないことなんて許されないし、アスナは絶対に許さない。
  アスナは黙って二人が説明を始めるまで待っていたが、どちらも話すつもりはないらしく憮然とした表情のままだ。
  一緒にいるヴァイアスは何度か口を挟もうとしたが場を弁えて(わきまえて)黙っている。
  三人のことを良く知っている彼にとってこの場は居心地悪いことこの上ない。
  アスナは小さくため息をもらした。そして、何を思ったのかエルトナージュの側に歩み寄った。
「な、なんです」
  問いかけにアスナは答えない。もはや実力行使あるのみだ。
  無言で近づいてくるアスナに身構えるエルトナージュの左頬を掴むとそのまま引っ張って、今度はリムルの方に足を向けた。
「はひほふふんへふか!!」
  あまりにも突然の奇行に三人とも動けない。ただ一人動くアスナはリムルの右耳を引っ張って自分の側に引き寄せた。
「アスナ!?」
「ひはっ!」
  リムルの抗議の声なんか聞いてやらない。
  二人が何か動きを見せる前にアスナは二人の頭を抱え込むように持つと、思いっきりぶつけた。
  がっ!! という鈍い音に側で見ていたヴァイアスも思わず痛そうに顔をしかめた。
  そして、やっぱりこうなったかと、彼は右手で顔を覆い、首を振った。
  これでも一ヶ月以上、一緒に過ごしてきたのだ。こういう場合になればアスナがどういう行動に出るのか想像できたし、結果も予想通りだった。
  幾ら近衛騎団と言えども軍隊であり、過酷な戦いが続けば鬱憤も溜まり喧嘩の一つも起きる。その場合は喧嘩両成敗ということで両者ともに軍規で罰せられることになっている。しかし、その現場近くにアスナがいた場合はこれとはまた少し違う結果がまっている。
  双方の話を聞いた上でアスナが悪いと判じた方に容赦なく拳骨をくらわせ、双方に説教をして周囲に謝らせた上で軍規に定められた罰が科せられるのだ。
  アスナが近衛騎団に支持されている理由はなにも食事だけではないということだ。自分たちを見て、話を聞いて、何かしらの動きを見せることの積み重ねだったのだ。
  しかし、そんなことを知らない二人は、まさかアスナがこんなことをするとは思わず、側頭部の痛みを甘受していた。
「さっ、話して。このバカ騒ぎの原因は?」
  しかし、二人は頽れて(くずおれて)苦悶の呻きを上げるのみ。上手い具合に互いの衝撃が伝わったのだろう。
  余談になるが古今東西、こんなしょうもない方法で人魔の規格外に苦悶の声を上げさせた者はいない。
  いわゆる歴史的瞬間であった。
「それとも、もう一度さっきのを味わってみる?」
  ジト目で、すでに彼の手は二人の側頭部に添えられている。返答次第では第二撃である。
「分かりました。話します。だからもうあんな巫山戯たことは止めてください」
  あんな無様な仕打ち、耐えられないとエルトナージュは根を上げた。拷問されたり、厳罰を受けるよりもずっと堪える。
  なにしろ、あんなこと一度として受けたことがないのだから。
  対するリムルは素早くアスナの手から逃れて、ヴァイアスの腕に抱き付いた。仕方がないとヴァイアスは首を振るのみだ。
  あの調子だと話を聞くにもまともなことは聞けないだろうととりあえず、リムルはヴァイアスに任せることにした。
「それで、原因は?」
  エルトナージュは一度、リムルを睨み付けるとポツポツと話し始めた。
  リムルが彼女の指揮に従わなかったこと、エルトナージュは第二、第三魔軍の衝突を食い止めようと間に入ったこと。
  説得をしたが受け入れられず、こういう結果になったこと。
  アスナは話の端々に何となく彼女の言っていることが全てではないと思いつつも黙って話を聞いた。
  エルトナージュの話が終わると視線をリムルに向けて、「今の話、あってる?」と聞いてみる。一応、双方の話を聞かないことには判断のしようがない。
「だって、エルトナージュ様は宰相なんだから僕たち魔軍の指揮権なんかないんだから」
  その辺りのことはアスナも知っている。これでも行軍中、おたま片手に基礎的なことは勉強したのだから。
「それに早く内乱が終わった方がヴァイアスが喜ぶと思って」
  そうだよね? とヴァイアスの顔を覗き見る。しかし、ヴァイアスは怒っているのか、困っているのか表現しがたい顔で小さくため息をもらした。
  そして、何かしら口にしようとした彼よりも早くアスナが話し始めた。
「ヴァイアスに会いたかったって気持ちがどれだけ強いか正直、オレには分からないけどさ、ホントのところリムルはヴァイアスのこと、なにも考えてないんじゃないのか?」
「なんでそんなこと言うんですか!」
  途端に殺意そのものに彩られた瞳をリムルはアスナに向けた。
  しかし向けられた当人は平気な顔をしている。正確には平気な顔を一生懸命しているのだ。本当はあまりの瞳の強さに漏らしそうなぐらい怖いのだが、それでもアスナは平気な振りをした。ここで少しでも怖がっているところを見せれば説教なんか出来る分けないんだから。臍に力を込めて、リムルを睨み返す。
「だってさ、この作戦の基礎の部分はオレたち四人で決めたんだぞ。オレとヴァイアスとミュリカとリムルで。それをヴァイアスのためだって言って、ぶち壊しにしようとしたんだから。これじゃ、喜ぶどころか怒るだろ、普通」
  リムルの顔が僅かに青くなる。そして伺うようにヴァイアスの顔を見るが、目を合わせてもらえず項垂れてしまう。
  さて、とアスナはこの話に区切りをつけるという意味を込めて言った。そして、出来るだけ無表情のままに処罰を言い渡す。
「第三魔軍将軍リムル。追って命じるまで南門付近に陣を布き、防御態勢を維持すること。その後、リムルは一時間正座して反省すること。以上!」
「それだけですか!」
  アスナの処罰にエルトナージュが口を挟む。
「リムルは人為的な”彷徨う者”の出現の第一報を知らせたし、それに対する必要な処置もしてる。だからそのことを考えて、処罰は正座一時間。エルも本陣に戻ったら正座一時間だからな」
「そんな! 軍規に照らした上で処罰を行うべきです。それをこんな・・・・・・」
「良いんだよ、これで。罰はそれ自体に意味はなくて、悪いことをやった反省に受けるものだろ。だったら、死刑にしても牢屋に入れても反省しないヤツは反省しないし、正座一時間でも反省文原稿用紙三枚でも反省するヤツはするんだ」
  もちろんそれだけじゃない。罰は反省の意味だけではなく、それを与えることで周囲に納得させる意味もある。しかし、その辺りのことをアスナは目を瞑った。
  法に則って正確に処罰をすればリムルだけではなく、それを止められなかった上に騒ぎを大きくしたエルトナージュも罰することになる。
  ようやく内乱も終わりに近づいているのに、こんなつまらないことで二人を切るつもりはない。その末での内乱終結など、アスナは勝利と認めない。
  一呼吸分、間があく。
「オレは二人とも反省できるヤツだと思ってる。少なくともヴァイアスやミュリカの言ったことを信じられるのと同じだけ信用してる。・・・・・・ヴァイアス、リムルに付き添ってやってくれ。ついでに宰相軍にも本陣に戻るように伝えておいて」
  首都防衛軍のことだ。司令官が宰相だからという安易な理由から宰相軍の別称を持っているのだ。
「お前の護衛はどうする?」
「護衛もなにも敵なんかどこにもいないんだから大丈夫だろ。それに・・・・・・」
  視線は背後に向く。そこには騎馬の一群がまっすぐに彼らの下に向かってきている。
  夕暮れという赤い闇の中を駆けてくる彼らが何であるか確認するまでもない。
「万が一、何かあったとしてもみんなが何とかしてくれる」
「分かった。リムルを連れてったらすぐに戻るから」
「夕飯ぐらい一緒しても良いぞ。他はどうだか知らないけど、少なくともフォルキス将軍は動かないだろうから」
  それだけは確信できる。
  フォルキスが手傷を負っていることもあるが、アスナが軍使を送ったあとで決着を付けることに同意したのだから。大切な約束は決して破らない。
  近衛騎団の皆がそう言っていたのだから間違いないのだ。
「・・・・・・悪い。行くぞ、リムル」
「・・・・・・うん」
  リムルはアスナに何か言いたそうだったが、ヴァイアスに促されるまま歩き出した。
  二人の背を見送るとアスナは肩から力を抜いて、未だに地に腰を下ろしたまま自分を睨んでいるエルトナージュを見た。
  しかし、どちらかと言えば怒っていると言うよりも拗ねているように見える。
「信頼しているのですね、近衛騎団を」
  口調にもその色が出てる。正解のようだ。
「まぁね。オレの我が儘も無茶な命令にも完璧に応えてくれたし。それに、オレに出来ることはそれしかなかっただけだよ。・・・・・・それはそうと」
  アスナは口の端に笑みを浮かべると、わざとらしいほど恭しくエルトナージュに手を差し出した。
  明らかにからかわれていると思いつつも彼女は僅かな逡巡ののち彼の手を取った。
  引き上げた彼女の手を握ったまま向かい合うと、
「改めて久しぶり。お互い無事でなによりだな」
「はい。アスナ殿も」
「そう堅苦しくしなくても良いよ。呼び捨てにしてくれた方がオレも気楽だし」
「・・・・・・いえ、けじめですから」
  それがどういう意味でのけじめなのかはアスナには分からない。
  けれど、今はこれで良いのかもしれない。そう簡単に彼女が変わるとも思えないし、いきなり変わられてもこっちが困る。
  いつか彼女の共犯者として認めてもらえる日が来るまで出来ることをやるだけだ。
  それにしても、とアスナは思う。
  なぜここまでして彼女のことを気にしているのかは正直、アスナにも分からない。ただ、泣きそうな顔で、何が何でも幻想界を統一してみせると断言した彼女を放っておけなかったからとしか言いようがない。
  幻想界統一のためには戦争は避けて通れない。知識ではもちろん、体験としても戦争なんて碌でもないことは分かっている。
  これまでの戦いを経て、それでも彼女を手伝いたいという気持ちは変わっていなかった。
  思わず苦笑が浮かぶ。
  サイナのことが好きで、とても大切に思っているのに他の女の子のことを凄く気に懸けている。本当に自分は不誠実だと思う。
  それで良いとサイナは言うが、彼女の言葉を逃げ道にするつもりはない。
「・・・・・・どうか、しましたか?」
  怪訝な表情でこちらを見るエルトナージュに首を振ってみせる。
「なんでもない。ちょっと今までのことを思い出してただけだから」
  そう、考えてみればこれまでほとんど彼女と話をしたことがないのだ。答え云々を出すのはこれからで良いのかもしれない。
  今はエルトナージュを手伝ってやりたいっていう気持ちが本当なのだと信じられればそれで良い。
「エル様ぁ〜!!」
  と、アスナの思考を遮るような大声が響いた。
  見れば騎馬の一群がすぐそこまで来ており、先頭を走る軍馬に跨るミュリカがこちらに向けて大きく手を振っている。
「ミュリカ」
  呟きとともにエルトナージュは柔らかな笑みを浮かべた。
  それは若葉のように柔らかく本当に嬉しそうで、アスナも思わずつられてしまった。
  何より宰相として、司令官としての顔の下にある一人の女の子としての笑顔にアスナは何となく嬉しくなった。
  軍馬の脚が止まるのを待たず飛び降りたミュリカはその勢いのままエルトナージュに抱き付いた。
「お久しぶりです。お元気だったようでよかったです」
「貴女もね、ミュリカ」
「はい。ホントにいろんなことがありましたけど、なんとか切り抜けてきました。ホンッとにもう、色々とあったんです。もう、これでもかって言うぐらい。・・・・・・それというのも」
  と、なぜかミュリカはアスナをジト目で見た。
「オレのせいか!?」
「当然です。予想できなかった事件のほとんどにアスナ様が絡んでるですから!」
  笑顔で断言すると彼女はエルトナージュに神妙な顔で、
「気を付けてください。アスナ様は平気で無茶を仰いますし、思いつかないような事件を引き起こす方ですから。ホントに大変でしたよ」
「人聞き悪いことを吹き込むな! 大体、そういう面倒なことは向こうからやってくるんだからオレにはどうしようもないことだろ」
「けど、渦中にいるのはいつもアスナ様ですよね〜」
「ぐっ」
  その辺りは否定できない。
  ミュリカとともにアスナの護衛に来た団員たちが一様に頷いているのだから尚更だ。
「だからエル様、気を付けてください。・・・・・・まぁ、何をしても無駄かも・・・・・・エル様?」
「・・・・・・仲が良いのですね」
  僅かにうつむいてそう呟いた彼女の声音には寂しさと微かな嫉妬があった。
  彼女の一言に誰もが動きを止めた。エルトナージュに一番近いミュリカですら、口にする言葉を選んで逡巡している。
「そのような寂しい顔をなさらないでください」
  団員たちの中から一人、歩み出てきた。サイナだ。
「姫様と親しくさせていただいているミュリカや私などの思いは自惚れだったのでしょうか? それに先ほどのお言葉を団長が聞けば怒鳴られますよ」
  俯いたままの小さく頷くエルトナージュの頬は微かに赤くなっていた。
「サイナ。・・・・・・ありがとう。ミュリカも」
「あたしも少しはしゃぎ過ぎちゃいましたから。けど、エル様のことが大切なのはホントですよ」
  上目遣いでそう言うミュリカにエルトナージュは申し訳なさそうに頷いた。
  微笑を浮かべ、一度アスナに視線を送るとサイナはエルトナージュに最敬礼した。
「ご挨拶が遅れました。お久しぶりです、姫様」
「そうですね。貴女も元気そうで何よりです」
  ミュリカに向けていたものとはまた違うが、親しげな笑みを浮かべて話し始めた。サイナも萎縮した様子が全くないところから、前にサイナ自身が言ったとおり友だちに近い関係なのだろう。サイナは、エルトナージュより二つ年上でしかないのだ。気が合えば仲良くなれるのも不思議ではない。
  その二人の間にミュリカが入り、互いの近況報告大会が始まる。
  女三人よればかしましいと言うが、この場に限れば一番騒がしくしているのはミュリカで、残る二人は頷いたり、相槌を打ったりしているだけだ。
  それでも端で見ているアスナたち男連中は言いようのない疎外感を覚えたのも無理のないことだった。
  そのことにいち早く気づいたのはサイナだった。
「アスナ様、どうかなさいましたか?」
「美人が三人集まると華やかで良いなぁって思ってさ。うん、ちょっと見惚れてた」
  冗談交じりにアスナはそう言った。しかし、アスナは自分が言った言葉に照れていた。
  見惚れるなんて言葉、普段では絶対に聞かないし、それがまさか自分の口から飛び出るとは思わなかったからだ。
  冗談交じりに言った当人が赤くなっているのだから情けないところだ。
「いや、そうじゃなくて。あっ、綺麗だって思ったのは本当で、・・・・・・あれ、オレなに言ってんだ」
  そして、意識し出すと不思議なもので恥ずかしいわ、照れくさいわでアスナ自身、感情を処理しきれなくなってしまった。
  三人が三人ともそれぞれの目でアスナを見るものだからなおさらだ。
「それにほら、エルの格好もスゴイし」
  今のエルトナージュの格好は見ようによってはかなり扇情的に見える。
  先ほどまでの戦いで纏っていた鎧が砕かれたのだろう。今の彼女を包むのは内服とマント、そして髪飾りにも見える頭冠のみ。
「何て言うか、む、胸とかお腹とかベルトで縛られてるみたいに見えて」
  近衛騎団の内服ほどではないが、それでも身体の線を浮き上がらせる。それだけでも十分魅力的なのに胸や腹、手首などをベルトで締め付けているのだから必要以上にそこに目がいってしまう。
  ほっそりとした手首や、切り裂かれた服の隙間から見せる肌の白さとか、ベルトで少し潰された胸とか。どうしてもそう言うエルトナージュの女の子な部分に目がいってしまう。
  アスナがなにを意識して、どういう状態になっているか察したエルトナージュはすぐにマントで身体を隠し、怒った顔を彼に向けた。
  その彼女の仕草が、そしてどこか拗ねた顔で自分を見るサイナを必要以上に意識してしまって・・・・・・。
  どうしようもなく赤熱してしまった頭が自分自身を放棄したかのように彼の視界は黒一色に染まってしまった。
  早い話、アスナはぶっ倒れたのだ。

 


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