第一章

第十二話 ファイラスに響く歌 中編


 ”彷徨う者”討伐に関する総指揮をアスナから任せられたゲームニスは軍事基地トルスに部隊を進め、そこを討伐軍の司令部と定めた。
  トルスは基地の名であると同時にそれと併設するようにある中規模の街の名でもある。
  その街は主に基地の兵たちを相手にすることを目的としており、通常ならば賑やかな場所だが、ほとんどの兵が出払ってしまっている今、火が消えたように閑散としている。
  しかし、ゲームニスが”彷徨う者”討伐に関する総指揮をトルスで行うことを決定したため、再び活気を取り戻しつつあった。
  部屋割りや物資の搬入などを終えた兵たちは休養を与えられたのだが、ゲームニスたち司令部の面々はそんな余裕はまったくない。
  なにしろゲームニスはコルドンを出発する前に、近衛騎団より提供された未制圧の革命軍部隊と、内乱に加わらなかった部隊に”彷徨う者”の討伐に参加するよう大将軍の名をもって命令を発していたからだ。
  彼らを有効に運用するためには情報収集と分析能力を有した堅固な司令部が必要になる。それだけではなく、司令部の面々は召集した部隊が必要とする物資の調達や宿舎の準備その他で忙殺されていたのだ。
  二日後には第一魔軍司令部の面々が到着し、本格的に動き出す予定になっており、それまでに司令部としての体裁を整えるべくオスマは動いていた。
  ラインボルト全土に散っている兵に指令を出す上で地理的に一番早いとしてトルスに司令部設置を決めたのは良いが、ここは本来、地方部隊の基地だけに司令室の規模が小さすぎる。とてもではないが広範囲に散った部隊を指揮するには狭すぎるのだ。
  そこでオスマは会議室や資料室などの司令室周囲の部屋を空けさせて幾つも分室を設置した。各部屋との連携が心配されるところだが、実戦に馴れた第一魔軍司令部ならばさほど大きな問題は起きないだろうとオスマは見ている。
  作業の進捗状況を報告すべく本部にオスマは脚を運んだ。人や備品、書類の出入りが激しく慌ただしいことこの上ない。その中で司令室の上座に座り、集められた情報に目を通している老人がいた。
  ゲームニスだ。
  彼は自分のすぐそばに立ったオスマを一瞥すると再び書類に視線を戻し、口を開いた。
「我らの指揮下に入った兵はどれぐらいだ?」
「およそ、六万二千です」
「内乱に未参加の部隊の全てが指揮下に入ったか。内乱に参加している者はどうだ?」
「およそ八千が諸都市を制圧中ですが、未だ返答は届いておりません」
「フォルキスに義理立てしているというところか。あの馬鹿者は兵たちに人気があるからな」
  眉間を揉みながらそう言うゲームニスの口調は、意外にも柔らかい。
  それもそのはずだ。自身の力を上手く制御できなかったフォルキスを引き取って息子、もしくは孫として養育したのはゲームニスなのだから。
  まさしくゲームニスにとってフォルキスは子飼いの将というわけだ。
  それだけにフォルキスが、国政の混乱と士官たちの扇動を受けて蜂起するだろうことは予測していたし、思いとどまるよう説得したところで、一度決断したことを止めるような男でもないことも良く知っている。
  直情径行は引き取った当初からだが、あの頑固さは自分に似たのかもしれないと内心で苦笑した。そして、その辺りに関してはマノアも苦労しているだろうな、と半年以上も顔を見ていない可愛い孫娘を思った。
  マノアがフォルキスに想いを寄せていることはゲームニスも良く知っている。人前では上手く隠し通しているつもりだろうが、孫娘のフォルキスを見る目が全てを表している。
  ゲームニスもフォルキスならば孫娘の婿にすることに異存はない。もう少し落ち着きと思慮深さを身につけて貰いたいところだが、これから経験を積めばなんとかなるだろう。
  ゲームニスは小さく苦笑した。
  考えてみれば面白い話である。
  去年、第三魔軍将軍の後継選考会でリムルではなく、マノアが選ばれていたのならば、すでにこの内乱はフォルキスの勝利で終結していたはずだ。
  全ての魔軍の将軍がゲームニスの縁者となることで彼の影響力が軍で絶対のものとなるのを嫌った、作戦、人事を除く重要事項のすべてを管掌する軍務局の暗躍とリムルの将来に期待した当時の第三魔軍将軍の推薦でリムルが将軍となったのだが、それがこのような状況を生み出すとはさしものゲームニスも思わなかった。
  しかし、とゲームニスは思考を家族のことから、討伐軍の総司令官としてのものに改める。
「兵数が少なすぎるな」
  ラインボルトの国土は五大国中、第三位の広さを誇る。
  その広い国土のどこに現れるか分からない”彷徨う者”に対処するには数が少なすぎる。
  内乱終結までアスナに応援を求めることが出来ない以上、手持ちの兵力でやりくりするしかない。
「内乱に参加しなかった部隊全てが指揮下に入ったことだけでも僥倖と考えるべきでしょう」
「そうだな」
  軍勢としてある程度、まとまって動いているのならば、現状でも対処のしようもあるが、敵がいつどこに出現するか分からない以上、広く兵を配置するしかない。
  しかし、そうすれば”彷徨う者”に兵数の問題で対処しきれるか分からない。
  ゲームニスはコルドンに現れた規模の死者の群はもうないだろうと判断している。しかし、それが絶対ではないことも彼は知っていた。かといって、”彷徨う者”が出現しそうな山村や小さな町村の住民を全て避難させることも不可能だ。
「フォルキスめ、ファイラスに兵を集中させすぎだ」
  そう言うがフォルキスの採った兵力集中策は理に適ったものだ。
  何しろあの当時、つまり革命軍がファイラスを制圧した頃、エグゼリスには無傷の近衛騎団、第三魔軍があり、それに加えて人魔の規格外が三名揃っているのだ。
  仮にゲームニスが蜂起したとしても同じように兵力を集中させてエグゼリスに向かおうと考えるだろう。
  だから、これはただの愚痴であり、悪態でしかない。
「やはり、殿下に内乱を収めていただいた後で本格的に動き出した方が良いのかもしれません」
「・・・・・・そうだな。アスナ様ならば早急に収めるかもしれないな」
  僅かな間をおいてゲームニスはそう言った。
  後継者の出現で内乱は実質的に意味を失った。それでも継続しているのはフォルキスの「後継者が真に我らラインボルトの民を率いる器であるか試す」という宣言に依るところが大きい。
  力の継承によって王位が禅譲されてきたラインボルトでは暗愚が王位を継いだことが何度となくある。それが原因で国家が破綻しないように強固な官僚機構を有しているのだが、それでも魔王の権威は強い。
  国を傾かせた魔王は何人もおり、名君として功績を讃えられた先王アイゼルも即位して間もない頃は王とはほど遠い平民そのものであったし、先々代の魔王はまさしく愚王そのものであった。今でも当時の税率の高さや先々代魔王の出身種族優遇政策などで国家に対する信頼を損ねたことは記憶に残っている。
  そういった先例があるだけに、兵のみならずとも不安になるのは無理からぬことだ。
  だから、内乱の継続は無茶苦茶だが、アスナを試すというのは悪いことではない。
  ただでさえ、史上初の人族出身の後継者で不安も大きいのだから。
  実際にアスナと接したゲームニスはそれほど強い不安は抱いてはいない。
  名君になるとは断言できないが、少なくとも統率者にはなれるだろうと感じている。ゲームニスがそう感じる最大の根拠は近衛騎団のアスナへの接し方だ。
  親しげながらも絶対的な臣従の姿勢を崩さないその姿勢は紛れもなくアスナを主として認めている証だ。
  歴代魔王には耳の痛い話かもしれないが、近衛騎団が忠誠を捧げているのは魔王という存在であり、リージュの旗に対してだ。
  それ故に彼らの歴代魔王に対する接し方はどこか義務的、儀礼的な色が強かった。
  先代、先々代の魔王と近衛騎団の関係を見てきたゲームニスだからこその感想だった。
  もっともアスナが見せる統率者としての片鱗が大国を背負えるものなのか、一武装勢力を率いる程度のものかは分からない。
  しかし、現時点でのアスナを評価するのならば合格点を与えても良いだろう。
  と、司令部構築に忙しく動き回る者たちの合間を縫って兵が一人ゲームニスの前に立ち、敬礼をした。
「何事だ」
「はっ。近衛騎団より伝令が到着しております」
「分かった。すぐに通せ」
  了解の声とともに兵は引き返すと、ほどなくして近衛騎団の伝令を伴って戻ってきた。
「失礼します、閣下。団長よりの書状をお持ちしました」
「ご苦労」
  本来ならば、アスナからとなるのだが、そうすると伝令が上座に立ち、ゲームニスが平伏して書状を受け取るといった面倒な形式をとらなければならなくなるので、敢えてヴァイアスからということにしているのだ。
  ヴァイアスからならば、ゲームニスの方が上位者となるので書状を渡し、返事を貰うだけでことが済む。
  この非常時にそんな面倒なことはやらないで良いとアスナならば言うだろうが、これも後継者の権威を作り上げるために必要なことなのだ。
  何しろ歴代の後継者の多くが平民出身で権威とはほど遠い場所に生きてきた者たちなのだからこういったことで権威を作り上げておく必要があるのだ。
  ともあれ、受け取った書状に目を通し始めたゲームニスは程なくして声を上げて笑った。司令部構築に動いていた兵たち全てが視線を向けるほどの大きな笑い声だ。
「閣下、いかがなさいました」
「読んでみよ、オスマ」
  訝しい表情をしつつも書状に目を通したオスマはゲームニスとは対照的に書かれている内容に目を見張った。
  そのオスマの顔が可笑しかったのか老将の笑みはさらに相好を崩す。
  書状にはムシュウ制圧とラメル撤退戦の経緯、そして第三魔軍の動向が記されていた。そのどれもが非常事態を表すもので、滅茶苦茶もいいところだった。
「軍師殿を無傷で捕縛し、ムシュウを制圧すべく越境したラディウス軍を退けた」
  痛快。そう表現したくなるような濃い笑みを老将は浮かべながら言葉を続ける。
「その上、あの近衛騎団に初手から逃げを打たせるとはな!」
  あまりの常識外れの内容にオスマは書状から目を離せない。
  それもそのはずだ。
  魔王不在の現在の状況で、後継者が近衛騎団を率いて前線に赴くということは事実上親征、つまり君主自らが軍を率いて敵と戦うと言っても過言ではない。それが対ラディウス戦となれば尚更だ。
  だというのにアスナは初めから撤退戦を行うために近衛騎団を派遣しているのだ。
  はっきり言って常軌を逸しているとしか思えない行動だ。
「オスマよ、どうやら次なる魔王は我らをとことんまでに振り回すつもりのようだぞ」
  こんなことを命じる後継者もそうだが、近衛騎団もこの常識外れの主に従うことを楽しんでいるのではないだろうか。
  そしてゲームニスが最も気にかけるのは、この一戦を経たことで近衛騎団は名実共にラインボルト最強の武力集団の地位を確立したこと。
  そのあり方から余程のことがない限り、近衛騎団が軍に口出しするようなことはないだろうが、アスナとの信頼関係を鑑みると、これからはラインボルト軍よりも近衛騎団を重用する機会が増えることは間違いない。
  それは軍を預かる者として面白くない。
  ゲームニス自身はアスナに気に入られているが、それで近衛騎団の信頼と同等の扱いを軍が受けられるとは到底思えない。なによりこの内乱は軍が起こしたものなのだから尚更だ。
  ここで一つ軍も捨てたものではないとアスナに思わせることをしなければならない。それがこの”彷徨う者”の討伐であるとゲームニスは考えている。
  彼はこの討伐の裏の意義を国民を守ることと同じ位置づけで見ているのだ。
  それは軍の権威を守ることであり、ひいてはアスナと近衛騎団の関係に軍が嫉妬しないようにするためだ。古来から君主が特定の者を重用するのは組織を壊す原因の一つでもあるのだ。軍は武力そのものなのだから尚更だ。
  表だってアスナに軍も重用するように進言すれば、この内乱で悪化している文官たちとの軋轢を大きくするだけだ。だから、働きをもってアスナに軍の存在価値を見せる必要があるのだ。
  そういったことからアスナに救援を請うようなことは出来ない。
  その上で”彷徨う者”の討伐はもちろん、実行者を捕縛し、首謀者への糸口を掴まなければならない。
  首謀者の特定まで出来れば御の字なのだが、現実はそうもいかないだろう。
  それにそこまで任務を達成できたとしても、近衛騎団と比肩しうるだけの信頼を得ることは出来ないだろう。しかし、軍の存在をアスナの心に留め置くことは出来るはずだ。
「第三魔軍一万がゼンを中心に”彷徨う者”に対応していると書状にはあるが、これを我が指揮下に置くことを殿下はご承認いただけるのか?」
「殿下は閣下に”彷徨う者”の討伐を委任なされました。閣下の名をもって命ずれば問題ないかと思われます」
  それは遠回しにゲームニスの責任で行えと言っているのだ。
  伝令とはいえ、ここで彼がそうだと頷けば、その時点でアスナの言質を取ったことになる。アスナがそのことに言及していない以上、推測で物を言うわけにはいかないのだ。
  ゲームニスは小さく息を吐くと頷いた。
「分かった。・・・・・・オスマ、私の名でゼンに駐留する第三魔軍に指揮下に入るよう命じろ」
「了解いたしました」
  オスマに頷きかけるとゲームニスは視線を伝令に戻す。
「殿下にその旨、伝えていただきたい」
「了解しました。・・・・・・それでは失礼します」
  と伝令が踵を返したのとほぼ同時に兵が駆け込んできた。汗だくである。
「閣下、緊急事態です!」
  肩で息をしながら兵は敬礼をすると、思いも掛けぬことを口にした。
「前宰相、デミアス閣下を保護し、現在こちらにお連れしているとのことです」
「本当か!?」
  ゲームニスの確認の声を合図にその場が騒然となる。
  前宰相デミアス。
  先王アイゼルの親友にして、長く宰相としてラインボルトの政務を司ってきた人物。
  幅広い知識と人脈、そして内部調整能力に長けており、アイゼルが名君として名を残せたのは彼に依るところが大きい。アイゼルが名君足り得たのはデミアスを信頼し、彼の能力を遺憾なく発揮させることが出来たからだと言って差し支えない。
  長期政権によりラインボルトで比類なき強権を持っていたデミアスだが、アイゼルの死とともに落日を迎えることとなった。
  そして今は革命軍側の資金調達の中心的な役割を果たしたと言われているが、その所在は不明とされていた。
  そのデミアスを保護したとなれば政治的な意味合いは大きい。
「はい。二日後にはトルスに到着する見込みです」
  よしっ、と頷くと去ろうとする伝令の背に、
「アスナ様にはデミアス殿はこちらで保護をし、内乱終結後、エグゼリスに送り届けるとお伝えしていただきたい」
  伝令は了解の声とともに退室した。
  デミアス保護という付加価値を手に入れたゲームニスが今、気を回すべきことは本来の任務を限りなく完璧な形で達成することだ。
  ファイラスで戦機が熟しつつあることに呼応するように、”彷徨う者”に対する戦いも本格的に動き出そうとしていた。

 一言で言い表すのならば敗残兵という言葉が一番相応しいかもしれない。
  ファイラスに帰還した第二魔軍の兵たちの姿は血と砂埃に汚れ、体中から酷い臭いを発していた。纏う鎧は幾たびもの戦い経て焼け焦げ、幾つもの罅が走り、剣で切られた跡に覆われていた。兵が手にする槍の穂先には覇気がなく、項垂れる者も多い。
  その姿を見たファイラスの市民たちは、これが本当にあの第二魔軍の姿なのかと口々に噂しあった。中には兵たちの放つ匂いと雰囲気に吐き気を覚える者もいた。
  これまで何度も出撃しては勝利を収め、数少ない敗北であっても決して覇気を失うことのなかった第二魔軍が意気消沈している。
  何か外で起きたのは間違いないと市民たちはすぐに感じ取った。
  そしてその、何かが何であるかを知るまでさほど時間はかからなかった。フォルキスは箝口令を布くようなことはしていないが、それでも作戦中に見聞きしたことは当然、全て軍事上の秘密、軍機扱いとなる。
  しかし、人の口に戸板は立てられないもの。それが後継者が合流したという情報ならば尚更だ。面白いものでこの情報はどこで仕入れたのか、ファイラスに駐留している革命軍の将兵よりも、市民たちの方がそのことを早く知ったのだ。
  無用の混乱を避けるために市民との接触を控えるようにフォルキスは布令ていたこともあるが、すぐにそのことを兵たちに知らせなかったことが最大の理由だった。
  一度、広がり始めた噂を堰き止めることは誰にも出来ない。噂は尾鰭がついて際限なく広がっていく。
  曰く、後継者は近日中にファイラスに攻め入るつもりだ、とか。
  曰く、後継者は革命軍に協力したファイラスを灰燼に帰すつもりだ、とか。
  LDを助命し、自分の軍師として雇うと言ったアスナがファイラスをどうにかするなどとは思えないが、そのことを市民の前でフォルキスが説明したところで納得してもらえる空気ではない。
  そのことを知ったフォルキスは治療もそこそこにファイラスの全城門の開放を命じ、内乱終結までファイラスを去ることを許したのだ。
  その許可は市民にのみ向けられたものではない、革命軍に参加した将兵全てに対しても許したのだ。
  ファイラスに近衛騎団が到着したことにより、これまでの膠着状態は破れ、その上市民の協力体制も崩れた今、どう足掻いたところで勝ち目はないのだから。
  兵数でみれば未だにフォルキスに分がある。
  しかし、時の勢いというのはバカにならない。近衛騎団の到着はLDの敗北を意味するし、敵側には人魔の規格外が三名揃っている。
  今日のように一カ所に三名が集中するような愚は後継者が許さないだろうから、確実にその力は兵たちに向けられることになる。
  ファイラスにいる兵たちはこれまで何度もフォルキスとエルトナージュの一騎打ちを見ている。その常識から外れた力を自分たちが受けることを恐れているはずだ。
  これが国家の存続を賭けた戦いならばまた話は変わってくるが、この戦いは「後継者が真に我らラインボルトの民を率いる器であるか試す」ことが最大の目的なのだ。
  それはアスナがLDを捕縛したことでほとんど示している。
  ならばこれ以上、兵たちを巻き込むこともないだろう。
  このように判断してフォルキスは城門を開け放ったのだ。
  城門が開け放たれたと知った市民たちはファイラスから避難すべく荷物を纏め始めた。
  馬車を持つ金持ちはそれに荷物を積み、貧しい者はそれこそ手荷物だけでファイラスを去る準備を始めた。その情景は壮観であり、そして異様であった。
  革命軍総司令官執務室の置かれた市庁舎のテラスからフォルキスはその情景を眺めていた。その瞳にいつも覇気はなく、ここではない何処かを見ているようだった。
  必要な指示を出した後は総司令官というものは暇なものである。
  よほどのことが起きない限り、ここで待機しておくのが今のフォルキスの任務になる。
  幸い、と言っていいのか悩むところだがファイラスの都市長や市職員たちが一人でも市民が残っている限り、自分たちはここに残ると申し出てくれたので市民の避難で起こる諸問題は彼らが対処してくれていた。
  同じように将兵たちもファイラスを出て投降することを決めて、その準備に追われていた。フォルキスはそれを止めるようなことはせず、ただ今まで自分とともに戦ってくれたことを感謝しながら、テラスから彼らの姿を見ていた。
  今から投降してもあの後継者ならば彼らを粗略に扱わぬように指示を出すだろう。仮に後継者がそのことに言及しなくともエルトナージュが手を回してくれるはずだ。
  本当に僅かな言葉を交わしただけだが、後継者は捕虜を粗略に扱うことを嫌うように思えた。理由などない。ただ、そう思えたのだ。
  それにフォルキスがこのような解放策を採ったのにはもう一つの理由がある。
  時間を稼ぐためだ。
  市民が大挙してファイラスから避難すれば、後継者はそれに対処しなければならなくなる。それは一朝一夕で出来るようなことではない。
  将兵にもファイラスを出ていくことを許したが、残る者もそれなりにいるとフォルキスは見ている。少なくとも第二魔軍だけでも残ればこの内乱を締め括る戦いを行うことが出来る。
  この城門開放は、その再編成と傷の治療のための時間稼ぎというわけだ。
  不意にノック音がした。続く「失礼します」の声とともにマノアが執務室に入ってきた。
  彼女の手には救急箱があり、続く二人の兵はそれぞれぬるま湯の入った盥(たらい)と清潔なタオルと着替えを持ってきていた。
  兵たちは卓の上に持ってきたものを置くとフォルキスに敬礼を送り、無言のまま退室した。
  てきぱきとした無駄のないマノアの手の動きは、そのまま救護兵をやらせても十分に通用しそうな手際の良さだ。
「準備が整いました。フォルキス様、上着を脱いでください。傷の手当を・・・・・・」
「構わん」
  と、無表情な声でマノアの言葉を遮った。
「放っておいても治る傷だ」
「いけません。いくら人魔の規格外とはいえ、今は傷の治りが遅いはずです」
  人魔の規格外には常識外れの治癒能力が備わっている。傷を負ったところで即座に癒えてしまうほどのものだが、それにも限度というものがある。
  何もないところから物を作ることが出来ないように、人魔の規格外の治癒能力を働かせているのは彼らが有する魔力だ。
  エルトナージュとリムルを相手に戦った今のフォルキスには治癒能力を働かせるだけの魔力が残っていないのだ。
  今の彼の治癒力はそこらにいる人魔と変わらない。
  だから、しっかりと処置をして、身体を休ませなければならない。
「ですから、フォルキス様」
「構わんと言っているだろうが!」
  拒絶の声にマノアは一瞬、目を大きく見開いた。
  戦いの後はフォルキスもさすがに気を荒げてていることもあるが、今の大声はどこか叫びに近いものを彼女は感じた。
  声を上げたフォルキス自身も、らしからぬと思ったのかばつの悪い顔で彼女から顔を背けた。そして、呟くように、
「済まん。・・・・・・悪いが、しばらく一人にしてくれ」
  口を開こうか否か迷っていたマノアはフォルキスの力無い謝罪に、逡巡していた彼女の視線が定まった。ソファから立ち上がるとフォルキスのもとに歩み寄った。
  そして、項垂れてもなお高い顔をマノアは見上げた。逸らすことなく真っ直ぐにフォルキスの目を見る。逸らされる目を逃さないと彼女は身体ごと向き合う。
「何が、あったのですか?」
  普段の彼女が発する遠慮の色はどこにもなく真っ直ぐにフォルキスに訪ねた。
  沈黙が降りる。
  決して逃がさないと見つめるマノアに観念したのか、フォルキスは目を逸らすようなことはしなくなった。しかし、彼の口は開かない。
  ただ迷いを表すように瞳が揺れていた。
  マノアはそれ以上、言葉では尋ねない。ただ真っ直ぐに見つめるだけだ。
  外から聞こえてくる喧噪に変わりはないのに、なぜか大きく聞こえる。そして、とても耳障りだった。執務室に置かれた柱時計の秒針の音すらもはっきりと耳に出来る。
  神経質そうに時を刻む音が不意にマノアの耳から消えた。
  そっとフォルキスが視線を外したからだ。
  それを追おうとしたが、それよりも早く彼は小さく言葉を漏らした。
「兄、なのだそうだ」
「・・・・・・えっ」
「今日、刃を交える前にそう言われたのだ。・・・・・・姫様にな」

 陽が沈み行く。
  今日の役目を締め括るかのように太陽は、空を一層鮮やかな朱に染め上げる。
  それは空だけではなく、テラスから差し込む光は執務室を美しく彩る。
  しかし、一カ所だけ濃い影が存在していた。フォルキスである。
  赤の光を背に受ける彼の顔は暗く良く見えない。ただ、唇の形が苦い笑みを浮かべていた。
「・・・・・・分かっていたことなんだがな」
  そう、分かっている。自分が、妹として、彼に見られていることを。
  しかし、マノアはそれを望んでいない。
  ただの女として、見て欲しい。
  いつから彼に想いを寄せているのか彼女自身もよく分からない。気づいた時には彼女の世界では男性はフォルキス一人で、他はただ自分と縁のある者でしかなくなっていた。
  化粧や着飾ることを覚えたのは彼に少しでも良く見て欲しかったから、知識と武術を得たのは彼に誉められるのが嬉しかったから。
  少しでも彼の側で役に立ちたいから第三魔軍将軍就任の話が持ち上がったとき、前第三魔軍将軍に推挙しないよう頼み込んだこともある。
  彼が夢に出てきたことも、彼の逞しい身体を思い出して自分を慰めたこともある。彼の好みである淑やかな女性になろうとしているのに、現実の自分はなんと浅ましいのかとその度に悔やむ。それと同時にフォルキスに想われるエルトナージュが妬ましかった。
  しかし、その日々も今日で終わった。終わってしまったのだ。
  フォルキスはエルトナージュに想いを告げて、破れはしたものの今は異なる場所に立っている。想いを秘めるというマノアの立っていた場所から違う場所に。
  胸に凝っていた想いを出し尽くすような深いため息が漏れた。
  そして、苦いものから照れへとフォルキスの口が動く。
「済まん。・・・・・・マノアには関係のないことだったな」
「・・・・・・・・・・・・」
  関係のない。
  その一言がマノアの心を凍り付かせた。
  自分とフォルキスとは何の関係もない。思考は停止し、ただ硬直した。
  呼吸することすら忘れて彼女はまっすぐにフォルキスを見つめることしかできなかった。
  関係ない。
  それがこの件に関しては、マノアとは関係ないという意味だと彼女の冷静な部分が理解していた。しかし、そのほかの全てが自分を拒否されたと結論付けさせてしまった。
  理屈など分からない。心も体も何もかもがそう捉えてしまった。
  何も考えられずに、今の体勢を保ち続けることが精一杯だった。
  マノアの雰囲気の変化を察することがなかったのかフォルキスは小さく首を振って、彼女に背を向けた。
「数日中には決戦が行われる。これまでの戦いを締め括るに相応しい戦いにするつもりだ」
「・・・・・・・・・・・・」
  フォルキスの声がする。しかし、茫然自失となったマノアには彼が何を言っているのか理解できなかった。
「バカな話かもしれないな。すでに勝敗は決している。それでもなお戦おうというのだから」
  夕日の影で真っ黒な背が苦笑して震える。
「だが、落ちの見えた演劇でも最後の幕引きまでやる必要があるだろう」
  それが決戦だとフォルキスは言うのだ。そして、幕引きも彼自身が行うのだろう。
  マノアはなにも言わないフォルキスの背を見つめながらそう感じた。
  言わせてはいけない。これ以上、この話を続けさせてはいけない。
  しかし、先ほどの関係ないという言葉が彼女の身を凍らせたままで指先一つ動かせない。
  フォルキスが振り返る。
  闇が顔を覆っていてもいつもと変わらぬ快活な、マノアが好きな表情を塗りつぶすことは出来ない。
「フォルキス様・・・・・・」
  ようやく口から出たのは彼の名だった。それ以上はどうしても出てこない。もし出てきたとしてもどのような言葉が彼女の口から紡がれたのか分からない。
  小さく彼は頷くとマノアの両肩に手を置いた。
「俺はこの内乱を引き起こし、ラインボルトを混乱の極みへと導いてしまった。原因不明の”彷徨う者”の大量発生だけではなく後継者の話によるとラディウスの介入も始まっているそうだ。死者たちへの対処が遅れたことも、ラディウスに介入する隙を作ったのも全て内乱を引き起こした俺の責任だ」
  フォルキスは革命軍総司令官であり、この内乱の主導的な立場にある。
  そして彼はその立場に相応しくムシュウで蜂起し、ここファイラスまでの各都市を制圧していった。
  しかし、翻ってみればこの内乱を本当の意味で始めたのは彼ではないのだ。
  この内乱のきっかけを作ったのは軍内の一部中堅将校たちだった。彼らは魔王不在と政府の混乱に苛立ちを覚え、次の魔王が現れるまで軍が政治を見るべきだと考えたのだ。
  彼らはそれなりに力をもっていたので影響下の将兵はもちろん、同輩や上官に自分たちの考えを浸透させていった。
  政府の混乱に乗じて軍の権限を大きくしようと考える者や、本当に国の将来を憂える者たちと立場は違っても、彼らは次々とその考えに染まっていった。
  フォルキスに自分たちの旗頭になって欲しいと頼みに来た頃にはすでに無視することの出来ない賛同者数となっていた。
  それでもフォルキスは旗頭にならないと固持し、逆に思いとどまるよう彼らを説得した。フォルキス自身も当時の状況を憂えていたが、それで内乱など起こせばそれこそ国を割ることになると分かっていた。
  何より彼が気にかけているエルトナージュに刃を向けては意味がない。
  しかし、何度目かの説得を受けたときに彼らはフォルキス抜きでも決起すると言い出した。そうなれば敗北することは必至だ。
  そして彼らの思想と目つきからして敗北したところで降伏するようなことはないだろう。いつまででも抵抗を続け、その結果、彼らが刃を向けるのは入隊の際に守ると誓った国民だろう。
  しばらく黙考したフォルキスは、全て自分の采配で動くことを条件に彼らの旗頭となることを決めたのだ。
  だから、フォルキスが引き起こしたというのはおかしいのだ。
  彼はただ、旗頭として引っぱり出され、それに相応しい行動をとっていただけなのだ。
  だから、責任があるのは本当の意味で内乱を画策した者たちなのだ。
  凍ったように動かない身体を強引に動かしてマノアはそのことを言おうとしたが、それよりも早くフォルキスは首を振った。
「最高指揮権を持つ者が責任をとらないでどうする。権力を振るう者はその大きさに比例して責任も大きくなる。経緯はどうあれこの手に握ったのならば、それに付随する責任も背負わねばなければならない」
「ですが!」
  絞り出した声はフォルキスには届かない。
「お前にも分かっているはずだ。任官が許される際、ゲームニス様から訓戒されただろう」
  そんなこと分かりすぎるぐらい分かっている。
  しかし、マノアが言いたいのはそのようなことではないのだ。
「だから、マノア」
  両肩を掴む彼の手に力がこもる。
「お前はここに残れ」
「!?」
「第二魔軍にはまだまだお前が必要だ。こんな詰まらない戦いで命を落とすな」
「そんな! 皆が内乱の責任に準じようと出撃するのに私一人残れだなんて!」
  本当は別のことが言いたい。しかし口から出たのはこれだった。
  自分が本当に告げたい言葉は別にあるのにそれがどうしても出てこない。
「それでも大半の者は生き残る。そして、然るべき処罰を受ければ帰順が許されるはずだ。その後をお前に任せたいのだ」
  それが意味することはただ一つ。
  マノアにとって何があろうとも絶対に許容できないことだ。
「反乱を起こした将軍の言葉が通るとは思えないが、次期第二魔軍将軍にマノア、お前を推挙する」
  否定しようのない言葉がフォルキスの口から出た。
「私は・・・・・・」
  この期に及んでもまだ告げたい言葉が出ない。だから、必至に首を振るだけだ。
「分かっている。お前は俺の副官だ」
  そのようなことが言いたいのではない。なのにフォルキスは勘違いのまま話を進める。
「副官がいきなり将軍になるなど前代未聞だ。それが魔軍のとなれば尚更だ。だが、お前は一時期、第三魔軍の後継にと指名されたこともある。それにゲームニス様の推挙が在ればそう難しいことじゃないはずだ」
「いやです。私は、私は・・・・・・!」
「確かに副将のファレスに任せても良い。だが、俺はマノアが適任だと考えている。学のない俺が将軍なんてものを続けられたのは全てお前のおかげだ。そのことは将兵全てが知っている。お前が後継ならば何の問題もない」
  返すのは拒絶。かけて欲しい言葉はそんなことじゃない。
  だから必死になって首を振った。絶対に首肯することは出来ない。
  彼女は肩を掴む大きな手を振り払って横を向いた。これ以上、彼の顔を見ていることが出来なかったのだ。
「頼む。聞き入れてくれ、マノア!」
  フォルキスは正面に回り込み、わざわざ腰をかがめてマノアと目の位置を同じくして見つめた。
「お前が聞き入れてくれなければ、俺は安心して逝けない」
  逝けない。それは死を意味する言葉。
  そしてその言葉を口にしたのは彼女がこの世界でただ一人、身も心も一つとなりたいと思う存在。愛しているなどという言葉では足りない。フォルキスになりたいと思うほどに彼女の想いは強い。
  その想いを向ける相手がいなくなれば、マノアはどうすれば良いのだろう。
  そして、この期に及んでも想いを吐露できない口が恨めしかった。
「頼む、マノア。将軍としての責任を果たした上で散らせてくれた」
  声は出ず、身体も意志に従わない。しかし、それでも彼女の身体は動いた。
  彼の散るという言葉がそうさせたのか、それとも想いが溢れた結果なのか分からない。
  ただ確かなことはマノアの身体は動き、フォルキスの影と一つになったことのみだ。
  僅かに湿った感触と温かさ、そして思っていた以上に柔らかかった。
  刹那なのか、十数秒なのかは分からない。ただ、初めて触れた戸惑いを残しながら二つの影は離れていった。
「マノア、今のは・・・・・・」
  呆然とするフォルキスの目の前で、彼女は俯いて自分の唇に触れていた。
  沈黙が落ちてくる。前髪で顔が見えないマノアはゆっくりと唇から離した。
「・・・・・・ってです」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・勝手です! フォルキス様はいつも、勝手です!」
  拳が強く握られる。
「いつも、いつでも勝手に私の知らないうちに何もかも決めて、何処かに行ってしまうんです! 必死になって追いつけたと思ったらすぐにまたどこかに行ってしまう。今度は追い付こうとしても、それを禁じられたら私はどうすれば良いのですか」
「・・・・・・・・・・・・」
「好きなんです。ずっと、ずっと好きなんです。フォルキス様でなければダメなんです。・・・・・・だから、もう私を置いていかないでください」
  それ以上はもう言葉にすらならなかった。
  身体を凍てつかせていたモノが溶けだしたかのように涙が止めどなく溢れる。嗚咽が続く。まるで子どもが、親を見失ったときのようにマノアは泣き続けた。
  体面も何もなく噎び泣く姿は幼い頃、泣き虫だった彼女の姿に酷似していた。
  マノアと初めてあったのは本当にまだ子どもの頃。祖父であるゲームニスの影に隠れて、伺うようにフォルキスを見ていた。
  仲良くなった切欠は、街まで使いを頼まれた帰りに転んで膝を擦り剥いたマノアを屋敷まで背負って帰ったときだ。
  力の制御のためにしていた訓練を一緒にしたいと言い出したマノアと喧嘩したこと。
  任官が許され、ゲームニスの屋敷を出る際、頑張ってと言いながら両手でスカートの裾を掴んで何かに耐えていた。
  数年後、小隊を任せられるようになった彼の下に兵として姿を見せたマノアのはにかみ。
  それら全ての思い出にいるマノアは家族としてのものだった。
  マノアの所作に時々、ドキリとさせられることはあっても、フォルキスにとって彼女は妹だったのだ。だから、気づかなかった。自分がマノアから男として見られていたなんて。
「・・・・・・すまない。少し、戸惑っている。お前のことは妹のようなものだとずっと思っていたから」
  涙を流しながら、彼女は終わったと感じた。
  これまで積み上げてきた関係が根底から崩れ去ったのだ。
  言ってしまったのだから、自分の想いを告げてしまったのだから、もう今までのような関係には戻れない。
  それを恐れて彼女は想いを伝えることが出来なかった。しかし、それももう終わり。
  彼女が終わらせて、フォルキスの言葉がそれを決定付けさせたのだから。
  フォルキスも同じだった。自分の口から漏らした言葉に後悔した。
  妹のようなものだとずっと思っていた。
  それは今日、エルトナージュから言われたことと同じ意味だった。
  好きだと告げられて、妹と答えることはマノアを女として見ていないと告げていることと同義だ。それは気持ちを受け入れるも、避けるもない。
  初めからその天秤の上に乗せられていなかったことなのだから。
  だから、フォルキスは言葉を続けた。
「だけど、マノアの気持ちは、嬉しかった。こんな俺をそこまで想っていてくれて」
  言葉に嘘はない。本当に嬉しかったのだ。そうマノアは感じた。
「正直、まだ戸惑ってる。今まで妹だと思っていたのは本当だからな。だが・・・・・・」
  僅かに瞳に迷いがある。しかし、その逡巡もやがて消えた。
「これからはお前のことを妹だと呼ばないよう努力する。僅かな間でしかないだろうがな」
  それは決戦で散ることで責任をとる考えを改めないということ。
「だから、もう妹じゃないお前を兄貴分として止めたりはしない。もう、お前の考えで動け」
  これ以上、耐えられなくなったのかフォルキスはマノアから視線を外して沈み行く夕日に目を向けた。
「もう、泣くな。マノアに泣かれるぐらいなら、百万の軍勢に囲まれた方がまだましだ」
  情緒も何もない慰め方だが、それがとてもフォルキスらしかった。
  少し振り返ってそう言った彼は一度、手を揚げるマノアの頭に置こうとしたがすぐに引っ込めてしまった。その彼の態度でようやく実感が湧いた。
  もう、兄としてのフォルキスはいないのだ。
  あの大きな手で頭を撫でて貰うことも、心配そうに小言を言われることもないだろう。
  想いを告げて失ったものは大きい。
  しかし、彼女はようやく一人の女として、彼の前に立つことが認められたのだ。
  今はそれが嬉しかった。
「・・・・・・はい」
  もう、泣くなと言われて返事をしたのに彼女の涙は止まることはなかった。
  なぜなら、今、彼女が流している雫は、先ほどまでのものとは異なるのだから。

 漆黒の空に君臨し、星々という名の従者を従える者が自身の威厳を見せつけるかのように輝いている。
  太陽を追い払うように姿を見せた夜の王者はその巨大なる姿を地に住む人々に見せつけている。太陽のような気まぐれな君主ではなく、ただ夜闇を照らすだけの慈愛の主だ。
  銀光の主の名は月と呼ぶ。
  月光に照らされながら近衛騎団は宿営地の設営を続ける。
  その立場から本陣の置かれている砦の側に宿営地を設置すべきなのだろうが、今から布陣場所を変更するのは無駄に混乱を招くだけということでヴァイアスの判断で砦の最左翼に陣取ることになった。
  本来ならば後継者とともに砦に入城するものだと思っていた将兵たちは一様に驚きの表情を見せた。そして、それ以上に彼らの耳目を集めたのが後継者が倒れたという話だ。
  各諸都市を奪還し、一般にまで名の知れたLDを虜にし、静観を決め込んでいたゲームニスを動かすなど兵たちの間では確固たる威名を築き上げていた。
  そしてようやく本隊と合流を果たし、これから革命軍に決戦に挑もうという時に後継者が倒れた。
  エルトナージュはすぐに箝口令を布いたのだが、事が事なだけにどこかでこの件を聞きつけた兵によって口から口へと広まっていった。
  近衛騎団の宿営地設営を手伝っていた兵の一人が不躾にも団員にそのことを聞いた。
  黙って兵の話を全て聞き終えた団員は作業の手を休めて、砦のある方角に目を向けるとこう言った。
「・・・・・・そうか。ようやく倒れてくださったんだな」
  と、安堵の笑みを浮かべながら意味不明なことを言っただけだった。

 テラスの片側の窓が開けられている。
  差し込む月光は柔らかく。部屋にあるものに淡い陰影を与えていた。
  部屋にいるのは二人。
  一人はベッドに横たわり緩やかな寝息を漏らしている。もう一人はそのベッドの側にある椅子に腰掛けている。
  強く風が吹き込んできた。
  艶やかな翠の髪が舞う。それを抑えようとエルトナージュは頭を抑えた。
  風は弱まったが止むことはない。一つに纏めていたはずのカーテンがいつの間にか風と戯れている。
  冷涼と呼ぶには寒すぎるが彼女にとって不快ではない。むしろ夜気を孕んだ風がエルトナージュの思考を落ち着かせてくれている。
  部屋には二人しかいない。一時間ほど前までミュリカもこの部屋にいて、これまでのことを聞かされていたが、さすがに近衛騎団の方を放っておく訳にもいかず自分の仕事に戻った。
  窓から吹き込む風で気を紛らわせられるのは本の束の間のことでしかない。アスナのどことなく幼い寝顔を身ながら、先ほどミュリカから聞かされたことに再び彼女は思考が埋没していく。
  彼女がファイラスでフォルキスと対峙している間にアスナたち近衛騎団に何があったのか、お互いの状況を知っておく必要があるため常に情報の行き来はしていた。
  しかし、LDに関するあれこれや、ラディウスが国境を侵したことなどは全くの初耳だった
  ・・・・・・ラディウスのことは仕方ないかも知れない。
  聞かされた状況を勘案すると近衛騎団としては一人でも多くの兵を作戦に投入したいだろうし、なにより近衛騎団が伝令を走らせたところで本隊、もしくは第三魔軍から応援を向かわせることなど出来ないのだから。
  しかし、LDに関しては別だ。
  アスナが暗殺されかけるという全軍の士気に関わることを秘密にされたのは許せない。
  確かにどのような形であれ雇い主に最大限の利益を上げることを信条としているLDならば拉致や暗殺といった手段をとるのも不思議ではない。それにLDがファイラスを去ったという情報を耳にしたときこのような展開になるのではという予想も出来ていた。
  ・・・・・・予想はしていたけど。
  しかし、アスナはその彼女の予想をさらに上回ることをしでかしている。
  フォルキスとの契約が切れたら、彼は雇い入れることが決まっているというのだ。
  LDの知略をすぐ側で見、何度か教えも請うたことのあるエルトナージュは、彼の持つ知略がこれからのラインボルトに必要だと理解している。
  理解できないのはアスナの方だ。
  自分を殺そうとした男を側近くに置こうなどと普通、考えない。
  併呑した、つまり自分の勢力下においた国の者を重臣に取り立てるということは良くあることだが、それはあくまでも政治的な打算の産物でしかない。
  自分たちの代表が国政に参画していると旧敵国の民衆に思い込ませて政治的な不満を和らげることと、有力者の機嫌取りが主な目的だ。
  有能であり、君主に対して忠誠心があると判断されるのであれば本当の意味で重用される事はあるだろうが、それでも王からは距離を取られるのが普通だ。
  だというのにアスナはLDを軍師にする言うのだ。
  それは作戦や編制など軍事関係について主君に献策するだけではなく、側近中の側近として軍事、政務ともに口を挟むことの可能な立場なのだ。
  世の中にいる全ての軍師が政務にまで口を挟んでいるかと言えば、否だ。
  政務能力がなければ、口を出したところで文官たちから不備な点を突かれて、権威を失墜させる恐れがあるからだ。しかし、LDは違う。彼には確かな政務能力がある。
  父王とデミアスが前面に出ていたので、政務に関しては口出しをしていたようには見えないが、国の内外が比較的落ち着いている時でも父王は良くLDを執務室に呼び、何事か相談していたことをエルトナージュは覚えている。
  己の実力以外に基盤を持たない傭兵だから、ラインボルトに害を成すとは思えないが警戒するに越したことはない。
  今、ベッドで安らかな寝息を立てている男は、恐らく幻想界に名の知れた人物だからLDを雇い入れようと思ったのだろう。
  ・・・・・・なんとなく、腹が立ってきた。
  自分を殺そうとした者を側近にしようと思うのは理解できないが、LDほどの人材ならば雇い入れることは賛成だ。
  しかし、それを決める前に宰相である自分に一言相談の手紙があって然るべきなのだ。
  ・・・・・・・どうして、この人はいつも勝手に事を進めるのよ。
  つまり彼女の腹立ちの理由はこれである。
  エルトナージュはアスナを魔王の後継者だと認めかねている。だから、勝手なことをされたくないのだ。
  ・・・・・・作戦には従うって言ったけど、それとこれとは話は別。わたしは宰相なんだから。
  父王から宰相を任せられてから今日までラインボルトを統べていたのは彼女だ。国政が混乱したり、フォルキスが蜂起したりしたが、それでもラインボルトを引っ張ってきたのは事実だ。それに対する自負もある。なにより・・・・・・。
  ・・・・・・信じられない。お母様を殺した人族なんか。
  結局のところ、彼女の根にあるのはこれでなのだ。いや、これしかないのだ。
  冷静にアスナが辿った経緯を見てみれば十二分の功がある。それはエルトナージュも認めている。見事、と賞賛しても良いぐらいだ。
  ・・・・・・だけど、信じられない。
  だが、常に感情を押し殺している彼女でも、これだけはどうしようもなかった。
  彼女の母が人族だということは関係ない。
  母を見捨てて逃げ出したのが、人族。
  エルトナージュにとって重要なのはそれなのだ。自分の目の前で逃げ出し、助けを呼ぶ声にも一度として振り返ることのなかった人族の背が脳裏にある限り、アスナを信用することなど出来ない。
  彼が彼女に害することは一つもしていない。ただ人族に嫌悪を覚えるのだ。
  極端な例えをすれば彼女の感情は民族問題と同じようなものだ。
  AとBという二つの民族が争い、血みどろの抗争を行った。両者の間で和平が合意されたからと言って問題が全て解決したわけではない。家族が敵対していた民族に殺され、もしくは暴行された者にとって、憎しみは実行者だけではなく敵対していた民族にも向けられるのだ。
  エルトナージュにとって大切な母であると同時に、人族にとっても最高の擁護者であった母を彼らは自分たちの命惜しさに見捨てたのだ。
  幼いエルトナージュの目にはそれは絶対的な裏切りであり、決して許すことの出来ない事として映った。そして母の死後、人族に対する解答を自ら出すきっかけを持てなかったが故なのだ。
  今のエルトナージュにとって、アスナがどれだけ彼女の手助けになることをしようと彼が人族である限り、それを素直に受け入れることが出来ないのだ。
  そして、その憎むべき人族が自分の与り知らぬところで勝手をしている。
  ・・・・・・これなら、強引にでもアレを担ぎ上げた方が良かったかも知れない。
  仮にそうしていたとしたら、今も内乱の直中で、”彷徨う者”にも国境を侵したラディウス軍にも苦慮しているだろうが、少なくとも全てが自分の命令の下で状況は展開していたはずだ。後でアレが何を言おうと、どのようにでもあしらえる。
  しかし、アスナはそう簡単にいかないのは確実だ。
  ・・・・・・わたしの夢を手伝いたいって言ってるけど、信じられない。だったら、いっそのこと・・・・・・。
  幸いにも、この部屋にはエルトナージュとアスナしかいない。なによりアスナは何の力もないただの人族だ。殺すのは容易い。
  風が強く部屋に吹き込んでくる。震えるような冷気に晒されてもエルトナージュは微動だにしない。無言で寝息を上げるアスナを見ている。
  ・・・・・・・・・・・・ハヤメニ、タッタホウガ、イイ。
  眠っている。静かに眠っている。
  そして、ここには二人だけだ。殺す者と、殺される者。
  だから・・・・・・。
  ・・・・・・カコンハ、ハヤメニ、タッタホウガ、イイ。
  何かに突き動かされるようにエルトナージュは立ち上がった。
  アスナを見下ろすエルトナージュの瞳には色がない。
  知性と仁慈を感じさせる黄玉の瞳に輝きはなく、褪せた黄色がそこにあった。
  そこに何の感慨もない。ただ明確な殺意のみがあった。
  妄執。
  今のエルトナージュを動かしているのは間違いなくそれだった。そして、これから行うのは通過儀礼。背を押すだけでしかない妄執が彼女の身体を乗っ取るための儀式。
  そして、それを経れば戻ることは許されない。
  妄執を抱きながら生きていく。例え彼女が自分の夢を実現したとしても消え去ることはない。妄執は、空虚に姿を変えて彼女を蝕み続ける。
  そうと分かっていながらもエルトナージュの力無く下げられた右手は淡い蒼の光が宿り始める。あとはこれを彼に向ければ全てが済む。たったそれだけで、自分を邪魔する者がいなくなるのだ。
  しかし、エルトナージュの瞳には揺らめきが、迷いが残っていた。
  ・・・・・・これで良いの? 本当にこれで良いの?
  自身への問いかけが、彼女をかろうじて押しとどめていた。
  今のところアスナは約束を違えていない。
  内乱を収める。そう宣言したことを実現するために彼は着実に事を進めている。
  近衛騎団の能力があってこその結果なのは当然だが、その近衛騎団がアスナのことを慕っているのもまた事実なのだ。
  父王も団員たちから慕われていたが、それとはまた異なる。
  そう、彼はこれまで苦楽を共にしてきた団員たちに好かれ、そしてアスナもまた彼らのことが好きなのだろう。こういうものは理屈や損得など関係ないところに存在する。
  近衛騎団に好かれる主というのは初代魔王リージュを始め、ごく僅かしかいないだろう。
  その一人であるアスナのことを良く知りもしないで殺しても良いのだろうか、と。
  しかし、もう一人の自分が声高にこういうのだ。
  彼は将来、間違いなく自分の夢の邪魔になる。魔王にしてしまってから後悔しても遅い、と。
  彼女の右手が静かに挙がる。それにともない、妄執が迷いを飲み込んでいく。
  そして、ゆっくりと右手が近づけられる。
  それに伴い、妄執に飲み込まれた迷いは粉々に砕かれていく。あたかも咀嚼しているかのように。
「!?」
  不意に彼女の手の動きが止まり、一拍の間をおいて勢い良く退かれた。と同時に腕の暗い蒼の輝きが消える。
「・・・・・・んん」
  アスナの身体が動いたのだ。それは寝返りを打つような動きではない。
  よく見れば僅かに瞼が動き始めている。
  彼女は退いた右手を左手で覆い、逃げるように一歩下がった。
  驚きで妄執が霧散したのか、今、彼女を包んでいるのは後悔だけだった。
  それは、一思いに殺害できなかった後悔、暗い思いに囚われて何の罪もないアスナを殺そうとしたことへの後悔。
  相反する悔いる気持ちがエルトナージュの表情を曇らせる。今にも泣き出しそうな歪んだ顔をアスナに見せたくなくてテラスの方に足を向けた。
  今なら窓を閉めに行くという口実で僅かな間だろうが、彼に顔を見せずに済む。
  テラスの窓に触れる。そこに移る自分の顔は歪み、瞼がしきりに動いていた。
  ガラスの自分がなぜ殺さなかった、なぜ殺そうとしたと責め立ててくる。
  殺せなかったのは、アスナのこれまでの経緯に砂粒ほどの希望を見てしまったから。
  殺そうとしたのは、自分の夢を実現するのに邪魔になると確信してしまったから。
  エルトナージュは答えを出したのに、聞こえる二つの声は変わらず、「なぜだ、なぜだ・・・・・・」と問い責め立ててくる。
  必死に声を押さえつけようとするが、そうすればするほど声は大きくなる。
  耳を塞いで蹲りたい気持ちに逆らうことだけで精一杯だった。
  そしてこれ以上、直視できずに目をそらしてしまう。肩が震えそうになるのを下唇を噛んで必死に堪える。
  背中にアスナが動く気配を感じる。起きたようだ。
  こんな無様な顔、絶対に見せてやらない。その一事でエルトナージュは襲ってくる感情の波を押し返そうとしていた。
  エルトナージュが必死になっているのに全く気づかないアスナは寝ぼけた声で、
「・・・・・・サイナさん?」
  あまりにも今の自分の心境と、先ほどしようとした事とは余りにもかけ離れた声に、胸の裡で溢れそうになっていた声が消え、呆れが広がった。
  しかし、そのおかげでどうにか平静を取り戻す切欠を作ることが出来た。
  ・・・・・・感謝しないけど、ありがたかったかもしれない。
  自分を落ち着けようと開け放たれていたテラスの窓に触れる。もうそこには泣き出しそうな顔はなかった。怜悧な宰相の仮面を被ったエルトナージュがいた。
  ・・・・・・良かった。
  そう思うと同時に先ほど自分とサイナを間違えたことに少し反発を覚える。
  だからなのか返事に少し不機嫌の色が混じっていた。
  ・・・・・・わたしはサイナじゃない!
  不満をぶつけるように勢い良くカーテンを閉めた。
「エルトナージュです」
  その一言を思い切りにして振り返った。以前からアスナに見せていた顔を作り上げていた。
「エル!?」
  カーテンで月明かりが遮られた今、彼の表情は見えない。恐らく彼の方もそうだろう。
  ・・・・・・こんなことなら必死に表情を作り直さなくてもよかったじゃない。
  こんな簡単なことにも気づかなかった自分が腹立たしかった。
  いや、怒りを身に宿していなければ、あの自責の声に押しつぶされそうだったからだ。
  しかし、エルトナージュ自身はそのことに気付いていない。いや、気付かないようにしていたのだ。
「身体の調子はどうです?」
  普段と変わらぬ声が出たことに安堵して、右手を前方にかざした。
  ぽわぁっと掌が蒼く輝き、光の球体が飛び出した。通常、魔法で生み出される光球は白熱灯のような淡い灯りを発するだけなのだが、今、エルトナージュが生み出した光球は蒼い燐光を周囲に纏っている。
  それはまるで夏の青空をを切り取ったようにも見えた。
「おぉ・・・・・・」
  感嘆の声を漏らすアスナが拍手をする。
  無意識での賞賛に何となく気をよくしたエルトナージュは同じ光球を合計四つ作り出して、天井に飛ばした。
  天井の上にあるシャンデリアに当たり、それを形作る燭台の一つ一つに光と蒼い燐光が宿り、淡い明かりが部屋を照らし出す。
  何か手作業をするには些か手元暗いが話をする分には丁度良い明るさだ。
  一頻り拍手をし終えるとアスナは、
「で、ここはどこ? それになんでエルがここに?」
  切り替えの早さに少し拗ねたような表情をエルトナージュは見せた。
「ここはファイラス近郊にある砦の一室です。そしてわたしがここにいる理由ですが貴方が目覚めたとき誰もいないと不安になるだろうからと、ミュリカにここで貴方の様子を見ていて欲しいと頼まれたからです」
  それにアスナに言われた罰を人に見られずに実行するためにはここが一番だったからだ。
  アスナには反発しているが、自分に非があると思っているから言われたとおりの罰を実行したのだ。そう言うところは真面目である。
  ちなみに馴れない正座で痺れた脚で強引に立ち上がった際、ベッドの縁に思いっきり頭をぶつけたのは秘密である。
  そのことを何となく思い出して赤面する彼女は気分を改めようと咳払いをしてみせる。
「ついでに、貴方がここにいる理由は過労で倒れたからです」
  そう言うとエルトナージュはアスナが身を預けているベッドの側に歩み寄った。そして、ベッド脇のサイドテーブルに置かれた金と銀のベルが置かれている。そのうち銀のベルを鳴らした。呼び出しのベルだ。このベルを鳴らすと対になっているベルも鳴り、誰かが呼んでいると知らせる魔道具だ。
「ロディマスを呼びました。まずは診察を受けて下さい」
  アスナが目覚めたらすぐに呼ぶように言われていたのだ。
  ベルで呼び出されたロディマスはアスナの診察を始めた。
「幾分、疲れも取れているがまだまだ休養が必要だな。細かな仕事は人に任せて今日、明日とゆっくりと休んで滋養のある物をしっかり食べるように」
「それって遠回しにここに軟禁するって意味?」
「当然だ。お前さんは放っておくと人の世話を焼きたがるからな」
「世話焼きって言うけど、こればっかりは性分だしなぁ」
「だからこその軟禁だ。それから姫様も・・・・・・」
  とロディマスはエルトナージュにも矛先を向けてきた。
「お顔に疲れがありますな。小僧同様に休養をとることをお勧めします」
「そう言うわけにもいきません。近衛騎団、第三魔軍を本隊に組み込むための諸手続が待っています。明日にでもすぐに」
「サイナ嬢から聞きましたぞ。小僧が軍使を送った後に決戦という手筈となったと。相手がフォルキス将軍であるならばそれを破るようなことはありますまい。違いますかな?」
  ロディマスはわざとらしく咳払いした。
「一介の医者がこのようなことに口を挟むべきではありませんでしたな。・・・・・・ともあれ、医者としての立場から姫様にも休養を取ることをお勧めします」
  さてっ、と膝を叩いて立ち上がるとサイドテーブルの上に包装紙に包まれた錠剤二粒を置いた。
「寝る前に飲みなさい。気持ちが落ち着いてゆっくりと眠れるようになる。一粒は姫様の分ですので、ちゃんとお飲みください」
「・・・・・・分かりました」
  不承不承、応じるエルトナージュにロディマスは頷いてみせる。
「それから食べられるようなら、何か口にしておきなさい。疲れには食べて寝ることが一番だからな」
「了解。ってことで、今日の当番に何か栄養のつくものを持ってくるように言っておいて」
「人使いの荒い。・・・・・・分かった。その変わり安静にしていること」
「分かりました」
  と、頷いてみせるアスナに小さくため息をもらすとロディマスは部屋から辞した。
「当番、というのは?」
  ロディマスのアスナに対する扱いが軽い理由など聞きたいことはあったがエルトナージュがまず興味を引いたのはそれだった。
「ん? あぁ、食事当番のこと。オレが色々と教えたから結構、いけると思うよ」
「オレがって、まさか貴方が料理を!?」
  後継者が料理をして他者に振る舞うなど前代未聞だ。思わず立ち上がるエルトナージュだったが、こういう反応にはもう馴れてしまったアスナは静かに頷いた。
「そっ。騎団の料理って食べられないことはないけどあんまり美味しくなかったんだよ。だったら、実家でずっと家事全般をやってたオレが作った方がましだってことで自分で作り始めたんだよ。もちろん、一人で一万人分なんて無理だから食事当番になるヤツらに色々と教えたってわけ」
「つまり、誇り高き近衛騎団を餌付けにしたというわけですね」
「餌付けって、人聞きの悪い。オレはただ不味い物よりも美味い物の方が好きだからこうしただけ。まぁ、ちょっとはお節介なこともしたけど」
  アスナはちょっとと言うがミュリカからアスナが行った数々のお節介話を聞かされている。この男がおもいっきりお節介に動き出したらどうなるか考えるだけで頭を抱えたくなる。
  と、何となくアスナの雰囲気に流されてると気づき姿勢を改める。
「それはそうと、この内乱を集結させた後、LDを軍師に迎えたいと仰ってるようですね」
「うん、そう。ミュリカから聞いた?」
「はい。ご自分を暗殺しようとした者を軍師に迎えるなど正気だとは思えません。確かにLDが有能であることは認めます。しかし、彼は貴方を殺そうとしたのですよ」
  自然、語気が強くなる。
「なにより、国家の要職たる軍師の選定になぜ、宰相であるわたしに一言も相談しないで決めたのです!」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
  二人の間に沈黙が降りる。
  問いつめようとアスナを睨むエルトナージュに対して、彼はベッドに身を任せたまま中空を見ていた。何をどう話そうか考えているようだ。
  二分ほど、そうしていたがゆっくりと身体を起こすと視線をエルトナージュに向けた。
「そうだな。今の立場とか状況とか関係なくてLDが味方になってくれるってことになったらエルはどう思う?」
「質問に質問で答えないでください!」
「だから、これはエルの質問に答えるための質問。で、どう思う?」
  しばらくエルトナージュはアスナを睨み付けたが、まったくそれを意に介さないようにアスナは彼女が答えるのを待っている。
  根負けしたのはエルトナージュの方だった。
「ありがたいと、思います。父が、先王が色々とLDに相談を持ちかけていましたから」
  軍事的な知略で言うならばラインボルトにはすでにゲームニスもファーゾルトもいる。エルトナージュがLDを買う理由は軍事、政務ともに高い見識を持っており、それをを裏付けるだけの実績があるからだ。
  それだけを話し終えるとアスナは小さく頷いた。
「それが一つ目のオレの解答だよ。幻想界に名前の知れた軍師がオレと、ひいてはラインボルトとまた契約をしたってことになれば、内乱で弱ってるこの国に手を出そうなんて思うヤツはいなくなるだろ。もうラディウスが手を出してきてるけどLDがいる以上、力押しはしないだろうし」
  ・・・・・・少し感心した。
  何も考えてないと思っていただけに尚更だ。だと言うのに・・・・・・。
「まぁ、一番の理由はLDと話ししてて面白かったからなんだけどね」
「そんなことが一番の理由だなんて」
「わぁぁっ、落ち着いて落ち着いて。なんか髪の毛逆立ってるって!」
  アスナは両手を前に出して思いっきり振った。
  それがまるで獣を宥めているように見えてさらに彼女の気持ちを逆撫でる。
「だってさ、LDに拉致された時にそういう話しになったから相談のしようがなかったんだから仕方がないんだけど、それでも相談しないのは不味かったかなぁって思ったから素直に話したんじゃないか。・・・・・・それにさ」
  エルトナージュの視線がさらに鋭くなってきているのでアスナは早口で捲し立てた。
「幻想界を統一するってことは、他の国を飲み込むって事だろ。ってことは、今以上に人材が必要になってくるし、今まで敵でも併合した後は身内になるわけだから、これまで敵対してても能力と当人にやる気があったら、ラインボルトは登用するっていう宣伝にもなると思って。それにさ、内乱が終わった後、元通りにしやすいだろ」
「・・・・・・・・・・・・」
  エルトナージュはなにも言わずにアスナへの視線をゆるめた。
  理に適っていると思ったのだ。
  確かに併呑した後は旧敵国側の人材があぶれる。それを上手く登用出来ればラインボルトにとって大きな利益にもなるし、併呑後の混乱も最小限で抑えることが出来るだろう。
  内乱後という視点で見てもそれは理に適っている。
  アスナが革命軍首脳部の一人であったLDを重用すれば旧革命軍の兵やその協力者の不満を和らげることが出来るとエルトナージュも思う。
  だからこれに関しては納得することにした。
「・・・・・・分かりました」
  経緯には不満があるが、契約に関しては気分屋であるLDを確保することが出来たのは僥倖だからだ。
  ・・・・・・だけど釘だけは刺しておかないと。
「ですが今後、人事に関しては必ずわたしに相談して決めて下さい。よろしいですね」
「う、うん。善処します、はい」
  これからも同じようなことがあるかも知れないと仄めかすような返事に些か眉が動くが、今は譲歩しても良いかも知れないと思った。
  少なくとも重臣と呼ばれる地位に関しては一言相談があるはずだ。
  もし相談がなかった場合では承認してやらないつもりだ。
  などとこれまでのアスナの行動に文句を付けているとノック音がした。
「どうぞ」
  エルトナージュの許しを得て執事たちがアスナたちの夕飯を乗せた台車を押しながら入ってきた。ナイフやフォークはもちろん、テーブルや二人分の椅子も一緒だ。
「お食事をお持ちいたしました」
  執事たちを代表して、小柄な老女が柔らかな物腰で辞儀をする。
  その彼女の横で執事がテーブルクロスを広げる。
「ご苦労です、シア。いろいろと手間を取らせたようですね」
「・・・・・・当てつけかよ」
  と、どこか拗ねたような口調でアスナは言った。
  しかし、エルトナージュはそれを無視して、シアを紹介した。
「アスナ殿、彼女はわたし付きの侍女のシアです。身の回りの世話などを良くしてくれています」
「お初にお目にかかります、殿下。シアと申します。姫様が清花様のお腹のなかにおいでになる頃からお世話をさせていただいております」
「シア」
  羞恥の混じった声にもシアは笑みを返すのみだ。
「ご丁寧にありがとうございます。坂上アスナです」
  そう言ってアスナは右手を差し出した。
「光栄です、殿下」
「あぁ、その殿下ってのは止めてくれませんか。普通に名前で呼んでください」
「承知いたしました、アスナ様」
  そしてシアは包み込むようにしてアスナの手を握った。それと同時にとても暖かな、親しみのある笑みを見せてくれる。
「同じ人族と会うのは随分と久しぶりです。失礼ですが、アスナ様のご出身はどちらですか?」
「シアさんもそうなんですか!? あっ、出身は日本です。けど、確かにんげ、じゃなくて人族は指定された村から出られないはずじゃ」
「私は姫様の母君のお世話のために村を出ることが許されたのです。特別ということです」
  そして、エルトナージュにとっても特別なのだ。
  母を失ってから自分のことを省みずに勉学と訓練に邁進していた彼女をただの女の子として見てくれたのは彼女だけだからだ。
  それこそ優しく抱きしめ、時には叱りつけることもあった。
  だから、もう一人の母のようにエルトナージュはシアのことを慕っている。そしてあの時、母をたった一人ででも守ろうとしてくれた人でもある。
「準備が整いました」
  執事の一人が声をかけた。シアは執事たちに一度頷きかけると彼らは退室した。
「ささっ、冷めないうちにお召し上がりくださいませ」
「ありがとうございます」
  とアスナは少し身体を重そうにしながらベッドから出ると椅子に腰掛けた。
  エルトナージュも対面の席に腰を下ろした。
「あっと、そうか。シアさんの分がないんだった。けど、オレとエルのを分け合えば三人分にはなるかな」
「お心遣いありがとうございます。ですが、それはまたの機会に。今はお二人に精をつけていただくことが先決です」
「それじゃ、また今度と言うことで」
  少し残念そうにアスナは言った。
「はい。その時を楽しみにしております。実を言うと調理をした団員の方の目を盗んで少し味見をさせていただいたのです。上々の味付けに感心いたしました」
  恥ずかしそうに笑うシア。
「彼らを仕込んだのはアスナ様だそうですね」
「仕込むってほどじゃないですよ。コツとか基本的なこととかを教えただけですから」
「いえいえ。見事なものですよ。日本はサムライの国だと伺っておりましたが殿方も料理が出来るのですね」
「あぁ、それはどうかな。うちはバアさんが、ジイさんみたいにリンゴの皮むきぐらいしか出来ない男になってはいけませんって言って色々と教えてくれたからじゃないかな。オレの友だちもほとんど料理なんて作れないし」
  ちなみにアスナ基準ではカップラーメンは料理が出来るとは言わないのである。
「やはり、ご家庭によって異なるということですね」
「そうですね」
「シア、そろそろ食事を始めたいのですが」
「失礼いたしました。では、すぐに」
  そう言って彼女は台車の上に置かれた料理を二人の皿に盛り始めた。
「なに怒ってるんだよ」
「怒ってなどいません!」
「・・・・・・怒ってるじゃないか」
「きっとお腹を空かされているんですよ」
「あぁ、だったらもっと早くそう言ってくれれば良かったのに」
「違います!」
「分かっています。すぐに盛りつけいたします」
「そうそう。なんか今日の夕飯は気合い入ってるみたいだから、期待して良いと思うぞ」
「アスナ様の仰るとおりですよ。味の方は私が責任をもって保証いたしますよ」
  などと談笑を交わす二人を横目にエルトナージュは腹立たしさを感じつつも、とりあえず果物の皮むきから始めようと密かに対抗心を燃やしていたのであった。

 翌朝、アスナはミュリカに文字通り叩き起こされた。
  ロディマスに貰った睡眠導入剤と久しぶりの柔らかなベッドで深い眠りにあっただけにアスナは微妙に機嫌が悪かった。
「なに?」
  寝ぼけ眼で声もどこか重苦しいものがある。実をいうとアスナは寝起きが良い方ではない。
  何かやるべきことがあったり、緊急事態に身を置いているのならば比較的しゃっきりとしているが一度安心して眠ってしまうと、どうしても起き抜けの機嫌が悪くなってしまう。
  さすがに少し引いたがミュリカは改めて背筋を伸ばして報告すべき事を話し始めた。
「ファイラスから市民たちがこちらに避難してきているんです。それに加えて籠城していた革命軍の兵たちのほとんどが投降するって言っている軍使まで来ています」
  一呼吸分を置く。
「それでですね。彼らにどう対処するかの軍議が開かれることになってるんです。ですからアスナ様、早く起きてください!」
「・・・・・・・・・・・・そう」
  そう言われても今のアスナはまだ半ば以上、眠っている状態だ。とてもではないがまともな判断なんて出来るはずがない。
「アスナ様、聞いてらっしゃいますか? 大変なことが起きてるんですよ、しっかりしてくださいよ!」
  しかしアスナはぼぉっとしたまま動かない。もしかしたらロディマスからもらった薬が効きすぎているのかも知れない。
  これがヴァイアスだったら・・・・・・、とかなり危険なことをミュリカは喚くが当のアスナは全く聞こえていない風である。
  軽く頬を叩いたり、無理矢理立たせようとミュリカは奮戦したがどうやっても普段のアスナに戻る気配がない。
  ・・・・・・これは、まずいかも。
  ミュリカは背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
  一度はこのまま襟首ひっ掴んで会議室まで連行しようかとも考えたが、今のアスナの姿をエルトナージュに見せるのは非常にまずい。
  ただでさえアスナが人族ということで嫌っている上に、これまでの彼が立てた功績に嫉妬すらしているエルトナージュがこんな姿を見れば、彼を殺しかねない。
「もう、アスナ様いい加減にしてくださいよ〜」
  悲鳴にも近い声にもアスナはやっぱり半眼で船を漕いでいた。
「・・・・・・あっ」
  ゾクッとミュリカは寒気を感じた。
  何かが近づいてきている。とてもまずい何かが。
  それはどんどんと近づいてきている。早足を通り越して今では駆け足でこの部屋に近づこうとしている。
「アスナ様、早く起きてください。ホントに大変なことになるんですから」
  そう大変なことになるのだ。
  こう言ってはなんだがミュリカにとってファイラスの市民とともに多数の投降兵が城門を潜ってきたことなど所詮は人ごとでしかない。しかし、今ここに迫ってきている気配は間違いなくミュリカにも関係してくるのだ。
  それをどうにかするにはアスナを起こしてこの部屋から引っぱり出すしかないのだが、そのアスナがどうしようもないぐらいに寝ぼけているのだ。
  そして、ついに・・・・・・。
「いつまで眠っているんですか!」
  ドアが砕き散らさんばかりの勢いで開いた。そこに立つのは昨日のような軍装ではなく、ドレスを思わせるようなローブを纏ったエルトナージュだった。
  普段は怜悧さと穏やかさを見せる彼女の瞳が、思いっきりつり上がっている。
  それだけではなく右の目尻が僅かに痙攣している。
  ミュリカですらこのような彼女の姿を見たことがなかった。
  怒っていても人前では絶対に冷静さを手放すことはなかったのに、今は混じりっけ無しの怒りを周囲に発散していた。
  人目を気にせず大声を上げたエルトナージュもそうだが、彼女にこんな行動をさせたアスナはスゴイとしか言いようがない。
  ・・・・・・なんて言うか、アスナ様って。
  そして、ミュリカですらも後ずさるほどに怒気を振りまいているエルトナージュを前にして、相変わらず寝ぼけたままのアスナはもうなんと表現して良いのか分からない。
「ミュリカ、そこを退きなさい」
「出来ることなら穏便に。それと少し深呼吸してみるのも良いと思いますよ」
「わたしは、冷静です!」
  ・・・・・・そんなこと仰ってる時点で冷静じゃないですよ。
  というよりもこういうやりとりが成立していること自体が冷静な状況ではない証だろう。
  そんなミュリカの感慨を余所にエルトナージュは右手をアスナに差し向けた。彼女の肘近くまで蒼い光が螺旋を描いている。
「エル様!?」
「そこに立っていると風邪を引くことになりますよ」
  言うが早いかエルトナージュは魔法を放った。
  ミュリカは自分の周りだけ防御壁を展開して、その場から素早く待避した。意外と薄情である。
  エルトナージュの手から放たれた魔法力は瞬時に形を変える。
  巨大な水滴である。成年男子が一抱えするほどの大きさの水滴が飛ぶ様はある意味、冗談としか思えない光景だった。それが真っ直ぐにアスナへと向かっていく。
「ヴァブッ!?」
  声と同時に水滴が割れてアスナを巻き込みながら水を撒き散らした。その水量はなぜか水滴の大きさ以上だった。
  惨劇である。
  アスナはもちろん、彼があぐらをかいていたベッドや備え付けられていた家具類がびしょ濡れになっている。
  この部屋で濡れていないのはエルトナージュとミュリカだけである。
  流されるようにして床に仰向けになって倒れたアスナをエルトナージュは見下ろし、
「目が覚めましたか?」
  不機嫌の極みといった感じの声にアスナは、「・・・・・・はい」と全速力で走ったかのような疲れた声とともに頷いたのだった。
「何事ですか、これは!?」
  三人がほとんど同時に声のしたドアの方に顔を向けた。
  そこには驚きの表情で固まったままのサイナの姿があった。
「は、はははっ、これは、その。あんまりにもアスナ様が起きてくださらないからエル様が実力行使に・・・・・・」
  そう言ってミュリカはエルトナージュに視線を向ける。が、当のエルトナージュは子どもっぽくそっぽを向いた。翠の髪が揺れる。
「アスナ殿がすぐに起きないのが悪いんです」
  昨日は二人とも夜遅くまで色々と討論(や)りあったらしいことを聞いていたサイナはため息を漏らした。そして、屈み込み、床に広がる水に触れた。
  と同時にサイナの掌から放たれた蒼い光が水面を覆うと、水は幾つもの小さな雫となって宙で一つの塊となった。エルトナージュが放ったときと同じ大きさの水滴となったそれは、立ち上がったサイナに擦り寄るように近寄った。
  彼女は水滴の表面を一度撫で、
「ご苦労様。元いた場所に連れていってあげて」
  囁くように語りかけると一抱えもあった水の塊が少しずつ消えていった。
  そして部屋は元通りというわけではなく色々なものが散乱した状態に変わりがなかった。それでも水気が消えたのは幸いであった。
「今のも魔法なんだ」
  感嘆の声と共に拍手をするアスナにサイナは少し赤面しながら、
「水の精霊を召還して、ここに呼ばれた水をもとに戻しただけです」
  私たち海聖族は彼らに好かれていますからと付け加えながら、彼女はアスナの手を取って起こした。そして、サイナは呆れきった顔でミュリカを見た。
「貴女ならアスナ様の寝起きが悪いことも、何か飲み物を差し上げればすぐに起きてくださることも知ってるはずでしょう?」
「・・・・・・あっ」
  どうやら、ミュリカは完全に忘れていたようだ。
  今度こそ盛大にサイナはため息を漏らした。そして、彼女の矛先はエルトナージュにも向けられた。
「姫様はご存じでなかったので仕方のないことだとは思いますが、これはやりすぎです。よろしいですか・・・・・・」
  と、これから三人はこれから軍議などないかのように始められる説教に肩身を小さくするのであった。

 会議室には将軍や副将、参謀たちが席を並べ、その上座にアスナは腰掛けいる。彼の右隣にはエルトナージュが、左隣にはリムルが着座している。
  ヴァイアスはアスナを後見するように彼の背後に立っている。その様はさながらアスナの権威の具現者であるかのようだった。
  アスナは挨拶もそこそこに軍議を始めるように指示を出した。
「ファイラスから避難してきた市民の総数は調査中ですが、ほぼ全ての市民が城門を潜ったと見て間違いないかと思われます。現在、市民たちはこの砦の左翼で第八軍の部隊によって一カ所に集められて殿下のご指示を待っています。近隣に頼れる者がいる場合はそちらに行くよう指示していますので、ここに残るのは半数にも満たないと思われます」
「市民の半分ぐらいか。ちなみにファイラスの人口ってどれぐらい?」
  これまでアスナは色々と基本的なことを勉強してきたがその中にファイラスの人口なんてものは入っていない。
「約六十万です。しかし、これは住民登録をしている者だけですので実際は七十万を越えると推算されています」
  と報告をしていた参謀が答えた。
「七十万、か。多く見積もって三十五万。・・・・・・洒落になってないなぁ。で、投降してきた革命軍の将兵の数は?」
「十二万二千五百六十二名です。これは彼らが投降する前日に派遣された軍使から伝えられた数字なので間違いありません」
  そこでなぜか参謀が言い淀んだ。先を続けるようにエルトナージュは促した。
「はっ。・・・・・・また、ファイラスを守備していた第四軍ナイシア副将以下九千四百二十七名も開放するとのことです」
「生き恥を晒しおって」
  小さいが確実に聞こえる悪態に続いて同意の声が何カ所かで沸き上がる。
  アスナは敢えてその不快な声を止めようとは思わなかった。止めたところで後で色々と言うに決まっている。ならば誰がそんな馬鹿なことを言っているのか把握しておいた方が良いと思ったのだ。
  そして、それ以上にアスナは彼らの態度に怒っていた。
  ・・・・・・捕虜になって何が悪いんだよ。オレなんかLDに拉致されたんだぞ。
  しかし、虜囚の辱めを受けずという考えがあるのもまた事実なのだ。
  軍人は大概誇り高い人物が多い。平時は税金泥棒と言われることもある彼らだが、一度有事となれば矢面に立つ気概があると自負しているからだ。
  故に戦って死ぬことを良しとしても、敵に捕まり生き恥を晒すなど我慢ならないというわけだ。その他にも尋問されることによって情報を漏らしたくないからこのような風潮を許しているのかもしれない。
  だが、捕虜ほど敵情の一端を知っている者もいないのも事実なのだ。
  彼らがどのような扱いを受けたかによって敵軍の雰囲気や兵站状況がどうであるかなどが予想する事もできる。何より彼らが負けたときの状況がどんなものであったのか聞けば今後の作戦立案に役立つ。
  生きて虜囚の辱めを受けずと考えるよりも、どんなことをしてでも帰還しようとする生き汚さを持っている者の方がずっと強いとアスナは思っている。
  何より生きて帰還した者を侮辱するのは許せなかった。
  そうは思っていてもアスナは出来るだけ顔に出さないようにした。今、そんなことを喚き散らしても意味がないし、会議も進まない。
  だったら、自分の態度と命令でその意志を伝えた方が良い。
「分かった。捕虜になっていた人たちにはオレがお疲れさま、良く生きて帰ってきてくれたって伝えておいて。それから身体の調子が悪かったら医者に見せたり、食事を用意してやったりして。後は・・・・・・そうだな。元気な人からファイラスの状況はどんな感じだったか聞いておいて。何か参考になるようなことを知ってるかもしれないし」
「了解しました。・・・・・・ですが」
「捕虜になった罰はないのか、だろ? そんなの必要ないよ。これはオレのやり方だから文句は言わせない。良いな」
  敢えて語気を強くしてアスナは断言して見せた。
「承知いたしました。ではすぐにそのように」
  敬礼すると参謀は会議室を出ていった。捕虜となっていた者たちを受け入れた部隊にその旨、命じに行ったのだろう。
  ふぅ、とアスナは小さく息をもらした。
「さてっと話を戻そうか。確か籠城してたのが二十万だから、今も残っているのは七万八千近くになるかな」
「違います。約五万名です。アスナ殿の計算は戦死者も加えています」
  エルトナージュは訂正した。その声には何の感慨もない。
  彼女はアスナの指示に従うということを終始貫徹するつもりなのだろう。敢えて自分の考えを口にしないことでアスナの考えややり方を見ようと思っているのかも知れない。
  つまり聞かれたら答えるけど、それ以外は意見しないというわけだ。
「そうだった。・・・・・・しっかし、二万か。大きな数字だよなぁ」
  この数字はあくまでも革命軍側のもので、彼らと対峙していたエルトナージュが率いた本隊の戦死者数を加えていない。全体での戦死者数は二倍以上になる。
  いや、この内乱でラインボルトが被った損失は計り知れないだろう
  しばらく天井を見上げながら感慨に耽っていたアスナだったが体勢を戻して、将軍たちを見回した。自分に集中する視線にアスナはうっすらと苦笑を浮かべた。
  どの顔も驚きの色があった。革命軍討伐を宣言したときのような虚勢がなく、むしろ余裕すら感じさせる態度に彼らは驚いていたのだ。
  そしてこのアスナの雰囲気の変化は、彼が近衛騎団とともに戦い抜いてきた証でもあった。ここにいるのはただの人族の少年ではないことを彼らは感じ取っていたのだ。
  もっともアスナはなぜ彼らがこんな顔をしているのか気付いていなかったりする。久しぶりに顔を合わせるからこんなものだろうとだけ思っているのだ。
  しかし、若輩であり、人族でもあるアスナをバカにしている色が数名の視線に混じっていることはしっかりと感じ取っていた。これまで何度も謁見を受けたことで、何となくだがそういうモノを感じられるようになっていた。
「ごめん。・・・・・・話を戻そうか。彼ら、つまり投降してきた将兵と避難してきたファイラスの人たちをどう扱うか意見のある人は遠慮なく言ってほしい」
  しばらくの間があった後、将軍の一人が挙手をした。第一軍司令官ケルフィンと名乗った。
  濃い口髭を蓄えた如何にも偉そうな風貌である。そして捕虜たちに対して悪態の口火を切った人物でもある。正直、あまり良い印象をアスナは持たなかった。
「どうぞ」
「敵軍はすでに瓦解寸前にあり、兵数の上でも士気の上でも我らに分があります。市民たちはここから少し離れた場所に留め置き、決戦の後ファイラスに戻すべきかと存じます」
「ふむ。それじゃ、投降してきた革命軍の将兵はどうするの?」
「兵に関しては武具を剥奪の上で三個大隊ほどで監視させ全てが終わった後、帰順を認めればよろしいかと存じます」
「士官はどうするの?」
  敢えてケルフィンが兵という言葉を使ったこと。そして、それ以上にアスナは革命軍を敵だと断定するこの将軍の言葉が気になった。
「彼らはこの内乱を引き起こしラインボルトを混乱に導き、殿下に弓を引いた責任があります。よって極刑に処すべきです」
  士官は死刑、けど兵士は免罪にする。
  同じ内乱を引き起こした者なのに、扱いがこんなに違うのには当然理由がある。
  軍を構成する基本は兵だが、それを動かしているのは士官たちだ。責任の重さが違うのは当然のこと。そして上官の命令は絶対であると入隊してからずっと教育し続けている。命令の内容に疑問を抱かずにただ黙々と遂行するのが良い兵隊だからだ。
  なにより兵まで極刑に処しては軍勢が大きく減少してしまうし、いちいち首を刎ねていては時間がいくらあっても足りない。
  だから、責任者である士官の首を刎ねることで兵たちの罪も処理しようと言うわけだ。
  そもそもこの場で投降してきた革命軍の対処を決めること自体が異常なことだったりする。
  王権が強いとはいえラインボルトは法治国家だ。あらゆる事が法によって縛られ、運用されている国家だ。
  ならば反乱に対する処罰も法で規定されて然るべきなのだ。つまり、泥棒をすれば刑法に記された窃盗罪その他の刑罰が科せられるという具合だ。
  一応、ラインボルトにも反乱に対して作られた法がある。しかしその法は反乱者は逆賊であると大仰に記されているだけで、どのような処罰を下すのかは明記されていないのである。
  こんな意味のない法律など不要に見えるが実はかなり重要だったりする。
  この法律があることにより逆賊の処罰に関して、勝者は法的な縛りを受けずに済むからだ。つまり、逆賊を生かすも殺すも思うがままというわけだ。
  法治国家であるラインボルトが勝者の意志のみを反映するなどあってはならないことだが、この場合は例外となる。
  なぜなら、逆賊は国家に反し、あらゆる法を拒否していると見なせるからだ。その存在を法律で裁くことは出来ない。だから、勝者の思惑で裁くことが出来るのだ。
  もっとも幾ら言葉を重ねても詭弁に変わりない。しかし、幻想界に存在する国家全てが反乱を起こした者に対して一方的な処罰を行っているのも事実なのだ。
  反乱の規模が小さければ見せしめのために皆殺しにすることだってある。
「・・・・・・・・・・・・」
  ケルフィンの具申した内容に全然、納得していない風であるがアスナは黙って他の者にも意見がないか促した。
「・・・・・・他に意見は?」
  改めて列席者たちを見回して、意見を求める。
  促されてちらほらと意見が出るが、どれも先ほど出た意見と同じだ。
  市民をどこそこに置いた方が都合が良いだとか、極刑に処するのは大隊の指揮官以上にすべきだとかそんなものだ。アスナが欲しい意見はそんなものじゃないのに彼らは口々に同じようなことを述べるだけだった。
  視線をリムルに向ける。
「リムルは意見ある?」
「・・・・・・良いんですか?」
  この間のこともあってリムルは、アスナとこれまで以上に距離を取っているように思えた。それでもアスナは彼に意見を振った。
  アスナはリムルのことが嫌いじゃない。手に負えないところがあるが、ヴァイアスとミュリカからそれとなく彼が色々と重いモノを抱えていることを聞かされているので、今はそういうものなのだろうと納得している。
  それにこの反攻作戦を立案しているときのリムルは軍事に対して全く無知なアスナにも分かりやすく説明しながら、色々と提案してくれていた。
  そのときのリムルは真摯だったし、一生懸命だった。
  そして、アスナはそういう人が好きだった。
  だから、自分を伺うように見るリムルに小さく笑みを見せて、良いよと頷いてみせる。
  リムルもぎこちないが笑みを返してくれる。
「投降してきた将兵は極刑にはせず、帰順を許すべきだと思います」
  ガタッと将軍たちが動いたが、エルトナージュの「静粛に」との言葉に再び椅子に腰掛けた。ケルフィンの前に置かれたグラスが倒れていた。
「理由は?」
「これまで降伏した部隊は帰順を許してきましたから、ファイラスに籠城していた士官だけが極刑になるのは公平に欠くと思います」
「確かにリムル将軍の仰る通りかと存じます。しかしこれまでとは状況が異なります。ここは厳刑に処して二度とこのようなことが起きないよう見せしめとすべきです」
  始めに意見を述べたケルフィンが反論をして見せた。その口調の端々に若輩者が口を挟むなという色が出ている。以前からそういう反感があったのだろうが、先日の独断行動をきっかけにして表面に滲み出始めていた。
  それにリムルの意見はケルフィンの思惑に反する。彼は勝敗の決した内乱の後を見ている。この内乱において革命軍に身を置いた将軍や副将はラインボルト軍の半数を越える。それにどちらにも組みしなかった大将軍ゲームニスを初めとする上級指揮官を加えると実に三分の二が勝者ではないのだ。
  そうなると自然と軍内部の力関係は変わってくる。
  この内乱で活躍をした近衛騎団は軍に対する発言権はないし、第三魔軍は先日のリムルの一件があるため発言力が拡大するようなことはないだろうとケルフィンは見ている。
  そして、この内乱によって軍内部に生まれた空白域を制するのは勝者側ではこの場にいる将軍の中で最先任である自分だと彼は思っているのだ。実際、彼はラインボルトに古くからある名家の出身で人脈、資金力ともに豊富だ。そのおかげで将軍の地位を手に入れたといっても過言ではない。
  その証拠にこの内乱では隊列の端を動き回るだけとケルフィンの戦功は無いに等しい。
  しかし、持ち前の立ち回りの巧みさを用いて第二魔軍将軍の地位を狙っていた。
  そのためには邪魔になる可能性のある革命軍の士官を排除しておく必要があるのだ。
「リムル将軍はまだお若い。それ故、状況の変化に気付かれておられないのやもしれませんな。ここは逆賊を処罰し、殿下のご威光をラインボルト全土に示すべきと心得ます」
  それとなくリムルが判断力に欠けると印象づけさせようとしている。あまりにもあからさますぎて、アスナはため息をもらしたくなるのをぐっと我慢した。
「リムル将軍、貴殿は魔軍を指揮する責任ある立場ですぞ。ならば殿下を惑わせるような言葉は慎まれるのが肝要ですぞ」
  迂遠に黙っていろと言いつつ、ケルフィンはリムルを睨み付けた。
  しかしリムルは口を閉じることはない。言うべきことを言わなくてはならない。彼は第三魔軍将軍であり、なによりヴァイアスがリムルを見ているからだ。
  リムルは卓を叩き付けて身を乗り出した。
「状況は変わってない! 革命軍は投降するって言ってるけど、まだ武装解除してないんだよ。その状況で士官は極刑に処すなんて返答をすれば徹底抗戦するようになるのは当たり前じゃないか! それにこれまでに帰順した将兵もそれに加わる可能性だってある」
「では、どうすると仰るのです。内乱を起こした者の罪を問わないとでも仰るのではありますまいな!」
「そこまでは言ってない!」
  バシンッと再び卓を叩いた。ヴァイアスに甘えているときとは全く違う彼の雰囲気にアスナは少しリムルの見方を変えた方が良いかもなぁ、などと思いながら続けられる両者の討論をうっすらと笑みを浮かべながら聞いていた。
  視線を他の者たちに移してみる。
  両者のやり取りはどちらかと言えば世界的な慣例を支持しているケルフィンに有利だ。そして、そのケルフィンの意見に一々頷いてみせる将軍や副将が多いことから、この場の雰囲気でも厳罰をもって対処すべしという意見が強いようだ。
  表だってリムルの主張を支持している者は誰一人いない。第三魔軍副将のガリウスも列席しているが口を噤んだまま静観しているというのも面白い。
  両者の口論が感情的になる寸前にアスナは立ち上がった。
「はい、そこまで!」
  大きく両手を叩いて二人の口論を止めた。これ以上放っておいても百害あって一利無しだ。
「二人の意見はよっく分かった。とりあえずその問題は横に置いて、ファイラスから避難してきた人たちをどうするかだ。近くにいてもらって決着がついたら家に帰すって言ってたけど実際そんなことできるわけ?」
  視線を発言したケルフィンに向けるとアスナは続けた。
「決着がつくまでどれだけ時間がかかるか分からない。その間の七十万人分の食料とテントとかすぐに用意できるのか?」
  と、ケルフィンに尋ねるも彼は口ごもるだけだ。
  ・・・・・・この人は市民のことはどうでも良かったってことか。
  そう思ったアスナは視線をエルトナージュに向けた。
「エル、宰相としての意見はどう。ここでファイラスの人たちの面倒がみれるのか?」
「不可能です」
  エルトナージュは明確に断言した。
「現実問題として七十万の市民と投降してきた将兵、それに我々が必要とするだけの食料はここにはありません。切りつめて配給しても一週間分も在りません」
  砦の食料庫にはそれなりの兵糧が備蓄されているが、元々ファイラスから纏めて避難民が出ることを想定していなかったので彼らに与えられるだけの食料はないのだ。
  それに本隊は籠城しているのではなく包囲しているのだ。それほど多くの水や食料を備蓄しなくてもエグゼリスや他の諸都市から随時馬車で輸送させれば事足りるのだ。
「今からいろんなところから掻き集めるってのは? ファイラスってラインボルト第二の都市って呼ばれるぐらいだから物の出入りとか活発だったろうし、手配すればすぐに集められないかな。もちろん、集める場所はここにだけど」
「無理です」
  これまた彼女は断言してみせた。
「この砦を中心にして行われている兵站計画はあくまでも我々が必要とする分だけの物資のみ運び込まれています。また、ファイラスは我々が封鎖しているため通常の物流も一ヶ月以上停止しているので尚更です」
「簡単に言えば、このままここにファイラスの人たちにいてもらっても、オレたちには何もしてやれることはないってことだな」
  ファイラスの市民をここに留め置くと提案したケルフィンに当てつけるようにアスナはわざと確かめるように言った。
  正直、先ほどのケルフィンのリムルとのやり取りは露骨すぎて気分が悪かったから、リムルに代わってアスナが攻撃したのだ。
  エルトナージュもそうだったらしくわざとらしいほど大きく頷いてみせる。
  彼女としてはリムルに対して向けた若輩者は口を出すなという雰囲気が気に入らなかったのかもしれないが。
「その通りです。周辺の市町村に彼らを分散して受け入れてもらうのが最良でしょう。問題は市民たちを秩序立てて護送するにはどうするかということですが」
「そうだな。それは・・・・・・投降した将兵に任せようか。そうすれば投降すると見せかけて背中を刺すんじゃないかっていう疑いをかけられる恐れもないわけだし」
「殿下! 厳罰に処すべき者を用いるべきではありません」
  椅子を蹴倒してケルフィンは立ち上がった。偉そうな髭面がアスナを睨むが、彼は全く気にしない。ゲームニスやアスティークに比べればこの程度の髭は仮装の付け髭と大差ない。
  掴みかからん勢いで身を乗り出すケルフィンにアスナは睨み返してやる。
「ケルフィン将軍。何時、オレが、投降してきた将兵を、ここで、処分するって決めたんだ?」
「しかし、敵士官を厳罰に処さねば示しが付きません!」
「それじゃ、七十万ものファイラスの人たちの護衛は誰がするわけ?」
「それは・・・・・・」
  ケルフィンはそれ以上言葉が出なかった。
  なぜならこれから自分たちが戦うのは命を捨てて挑んでくるフォルキスなのだ。ファイラス市民の護衛に兵を割ける余裕は全くない。
  本音は護衛無しでファイラスの市民を移動させれば良いと言いたいところだったが、それを言えば間違いなくアスナから非難を受けるだろうから彼はぐっと堪えた。
「無駄に兵力が割けない以上、護衛は他の誰かにやって貰わなきゃいけない。だったら、投降してきた将兵に任せた方がいろんな意味で良いだろ。そういうわけで革命軍将兵に対する処罰は決戦が終わった後に考えることにする。他に意見があるんなら今のうちにどうぞ」
  そう言われて、これまで通り厳罰論を唱えられる者はいない。
  アスナは魔王の後継者であり、その背後から近衛騎団団長が彼らを睥睨しているのだからなおさらだ。
「反対意見がないみたいだし、この件はそう言うことで決定。その上での提案ってある? 出来るならつまらない問題を起こさずに護衛を引き受けて欲しいし」
「それならば入隊式をやり直させるというのは如何でしょうか」
  末席に近い位置に座っていた若い−−といっても二十代後半ぐらいの−−将軍が挙手とともに提案してきた。
「入隊式?」
「そうです。入隊式を執り行うは彼らの帰順を殿下がお認めになったと明言することと同義です。その上で市民の護送を命じれば彼らの心の負担が少しは軽くなるのではないでしょうか」
  それと同時に護送される側であるファイラスの市民の不安も払拭することが出来る。
  市民の一部には自分たちも処分されるのではないかという不安があるため、何もしないで投降した将兵に護送を任せると要らぬ混乱を呼ぶかもしれないからだ。
「・・・・・・うん、その案は面白いね。採用しようか。ってことで投降した兵の再入隊式の準備は貴方に一任します。すぐに取りかかって」
「りょ、了解しました」
  立ち上がり年若い将軍は最敬礼をして会議室を飛び出そうとしたところをアスナは止めた。
「まだ名前聞いてなかった。教えてもらえます?」
「はっ。第十二軍司令官ネイトです」
  アスナは確かめるように頷いてみせる。
「それじゃ、ネイト将軍。多分、投降してきた将兵も不安がってると思うから出来る限り混乱させないようにしてよ」
  後継者に名前を尋ねられたから少しネイトの頬は上気している。
「肝に銘じます。では、準備に取りかかりたいと思います。失礼します」
  気持ちのいいほど綺麗な敬礼をしてみせるとネイトは会議室を飛び出していった。
「護衛の問題はこれで解消。後はファイラスの人たちをどう分けるかだよなぁ」
  なにしろ七十万もの避難民である。皆、同じ場所に疎開させることは不可能だ。
  いくら首都エグゼリスが今も成長を続けている巨大都市だからといっても限度というものがある。そうなると当然ファイラス周辺の市町村に分散して疎開してもらわなければならない。
  かといって無作為に受け入れられる定数毎に集団を作るわけにはいかない。これが疎開である以上、彼らは疎開先に迷惑をかけることになる。もし何かあった時、自分たちの代表となりうる人物がいなければ両者の諍いが発展して取り返しの付かないことになるかもしれないからだ。
  だから、どのように集団を作るかはこれからの彼らの疎開生活を左右する重要なことであり、それを行ったアスナたちの威信に関わることもでもあるのだ。
  もっともアスナはそこまでこの件が重要だとは思っていない。
  ただ、こんなことになった以上、疎開する方にも受け入れる方にも出来る限り気持ちよく避難生活をさせたいと考えているだけなのだ。
「何か良い案はないかな。人数割りをするのにも、その後の疎開先でも出来るだけ問題を起こさないで済む分け方が一番良いんだけど」
  場に沈黙が降りる。誰もアスナと視線を合わせようとはしない。
  彼らは軍人なので、このようなことを考えるには不向きなのかも知れない。あるいはアスナがネイトと話している間にケルフィンが周囲の将軍たちを睨み付けていたので、それに遠慮しているからかもしれない。
  五分ほどアスナは黙って彼らがなにか意見を言わないか待っていたが、結局何一つでなかった。リムルも良い考えが思い浮かばないみたいだし、エルトナージュは静観を決め込んでいるようだった。
  アスナは疲れたように背もたれに身体を預けるとそのまま振り返ってヴァイアスを見た。
「何か良い考えないかな」
  という言葉に将軍たちは一様に動揺の表情を見せた。
  が、アスナは気にすることなくヴァイアスに提案があれば言うように促した。
「特に意見はありません。私などよりも宰相の意見を伺うべきかと思います」
「だってさ、エルは良い案がある?」
  ヴァイアスのついでのような聞き方に少し不快に思ったようだがエルトナージュは頷いた。
「ファイラスだけに限らず都市は区画に分けられています。その区画の住民を一つの集団とすれば問題も起こさずに済むと思います。さらにその責任者を区長に任せれば宜しいかと」
「あぁ、なるほどね。ご近所ならみんな顔見知りだろうし、自然と助け合いとかも出来るだろうしね。けどさ、住民登録してない人たちはそれじゃ区分けできないよな」
「そういった者たちを一つの集団として適当な軍基地に避難させましょう。今、ラインボルト全軍が動いている状態ですから十分に空きがあります。そして彼らの世話を護衛についていた部隊に任せれば問題ないでしょう。避難民には多少、窮屈な思いをさせることになりますが、住民登録をしていないのですからこれぐらい我慢してもらいましょう」
  住民登録をしていないということは、つまり住民税を払っていないということだ。これぐらい待遇に差が出ても仕方がないというわけだ。
「分かった。エルの案でいこう。後は・・・・・・疎開を受け入れてくれる市町村の選択だな」
「それはこちらだけで決められることではありませんので、それぞれの諸都市に打診して受け入れ可能な人数を聞いてから彼らの疎開先を決めましょう。ただ、住民登録をしていない者はすぐに疎開させることは可能です。ここより徒歩で三日ほどの場所に演習場がありますから、準備が整い次第そこに向かわせましょう。そこには水、食料も備蓄されていますから問題はないでしょう」
  アスナは頷いて同意する。
「これで方針は決まったな。避難してきたファイラスの人たちは区ごとに分けて、周辺の市町村に疎開させる。それでその護衛は投降してきた革命軍の将兵に任せる。それで、その将兵たちには改めて入隊式を行う。この三つは決定事項だからみんなそのつもりで。細かいことはエルの指示に従ってくれ。正直、誰に何を任せれば良いのかまだ分からないしさ」
  それじゃ、とアスナは立ち上がった。
「軍議はこれで終了。オレは先生の診察を受けてくるから、何かあったら呼んでくれ。・・・・・・以上」
「お待ちを。避難民と敵にはどうするおつもりか、まだ伺っておりませんぞ」
  ケルフィンに呼び止められたアスナは顔だけを彼に向けて、
「どうするかもなにもフォルキス将軍はオレの首だけを狙って来るんだから、どういう布陣にするか決まってるだろ」
  そこで一度言葉を切り、リムルに顔を向けた。頷き賭ける。
「第一陣はリムルの第三魔軍」
  続いてアスナはエルトナージュを見る。
「第二陣として、両翼に宰相軍を置いて第三魔軍の援護をさせる」
  そして、ヴァイアスに頷き賭ける。
「そして、第三陣としてオレの近衛騎団を置く。多分、穴が出来るだろうから、それは一般軍で塞げば大丈夫のはずだ。細かいところは分からないから任せるよ」
  簡潔にそう言い残すとアスナはヴァイアスを引き連れて会議室を後にした。

 包丁とまな板が奏でる音というのはいつ聞いても心地良い。
  楽器のように喜怒哀楽の機微を聞く人に伝えることは難しくとも、平穏に関しては世界一だろうとアスナは思っている。
  その証拠に軍隊の直中で、避難民の誘導で大変な状況だが、それでもアスナがいるこの簡易厨房だけは間違いなく平穏そのものだ。
「だから、・・・・・・聞いてるのか、アスナ!」
「聞いてるって。それよりも手が止まってるぞ」
  先ほどの軍議での鬱憤を晴らすべく夕飯の準備をしているのだが、横で行われている無粋な説教のおかげであまりスッキリしていない。
「なんだって、俺がレタスなんか千切らないといけないんだよ」
「何でって、みんな忙しくって人手が足りないからだろ。それから、千切ったレタス大きさバラバラだぞ。サラダは見た目が大切なんだからもっと綺麗にやってくれないと困るだろ」
  確かにヴァイアスが千切ったレタスはどれも不揃いだ。大皿に盛るときかなり考えながら配置しないと見た目が滅茶苦茶になりそうだ。
「脇役だからって疎かにするなよ」
  そう言いつつアスナは大鍋で煮込んでいるホワイトシチューをお玉でゆっくりと掻き混ぜている。
  ちなみにシチューに使っているルーもアスナの手製である。難しいように思えるが実際に作ってみると意外と簡単である。
  薄力粉に溶かしバターを加えて一つの塊になるようにし、そこに屑野菜や屑肉で作ったスープを玉にならないように少しずつ加えていく。続いて暖めた牛乳をスープと同じようにして溶かし入れていき、あとはそれをとろ火にかけ、焦げ付かないように粘り気が出るまで混ぜ続ければ完成である。
「それに俺だってついさっきまで忙しかったんだからな。周りの市町村に向けての書類に署名したり、再入隊式に立ち会ったり、文句を付けに来た付け髭の相手をしたり。ずっと、オレの後ろでそれを見てたんだから知ってるだろ」
「あぁ、知ってる。知ってるから言うけどな。はっきり言って、やりすぎだ」
「やりすぎって、なにがだよ。オレが騎団でやってきたこととあんまり変わらないと思うけど」
「それが拙いんだよ。近衛騎団(俺たち)はお前がどういうヤツか分かってるから、アスナの無茶に付き合える。けど、他の将軍にしたら初対面のようなもんなんだぞ。それに華々しい戦果を挙げて合流したお前とは違って、ここでフォルキスの旦那と睨み合いやってた将軍たちは大して自慢できるようなことがないんだ」
  つまり、本隊の将軍たちも立ててやれということだろう。
「言いたいことは分かるけどさ。だからって、あの付け髭の言うことを丸飲みなんて出来ないだろ」
  ちなみに付け髭とは、ケルフィンのことである。
「水も食料もないのにファイラスの人たちをここに置いておくなんて無理だし、投降してきた士官を皆殺しにするなんてしたら、歴史の本に何て書かれるか分かったもんじゃないって。しかも、その本に書かれるのはオレの名前で、言い出した付け髭は関係ないってことになるんだから。はっきり言って割に合わないよ」
「・・・・・・少し口を慎んでおけ。ここは近衛騎団の宿営地だが、聞かれたくないヤツに聞かれるかもしれないんだからな」
「分かってる。けど、オレはこれからも納得できないようなことはするつもりないから。・・・・・・ほら、ジャガイモ茹で上がったぞ。皮むきよろしく」
  ジャガイモの入った鍋からお湯を流しに捨て、ヴァイアスの前にズデンッと置いた。
  アスナは鍋にかけていたコンロの火を止めた。そして、火傷防止にボールに水を溜めると二人の間に置いた。二人は両手を濡らすとそれぞれジャガイモを手に取った。
  無茶苦茶、熱かった。けど、これも美味しい物を作るための越えなければならない壁である。ちなみにこのジャガイモの山はマッシュポテトになる予定だ。
  二人の背中ではサイナがポテトサラダを作っている。何が楽しいのかサイナは笑みを浮かべながら二人の話を聞いている。
  後継者と近衛騎団の団長が肩を並べて茹でたジャガイモの皮を剥いている姿というのも珍しい。団長が手伝いをしながら小言を言っているのだから尚更だ。
「それから、軍議の場で近衛騎団(俺たち)に意見を求めるなんて絶対にするなよ。近衛騎団は文武に対して口出ししないってのが不文律なんだからな。刺激して今の関係を崩すのは良くない」
  ちなみに文武とは、政府と軍のことである。
  近衛騎団の独立性を維持する代償として、彼らのすることに口を出さないというわけだ。
「あぁ、それはわざと」
「なに? ・・・・・・あつっ」
  剥きかけのジャガイモをボールに放り出してヴァイアスは左手を水に浸けた。
  身と皮との間に溜まった汁が飛び出したのだ。あれは驚きがある分、余計に熱い。
「だから、わざと刺激したんだって。なんとなく軍議に出てた将軍たちってさ、地位の上にあぐらをかいてるみたいだろ。だから、軍が使い物にならなかったらオレは近衛騎団をバシバシ使ってくからって意味であんなこと言ったんだよ。それから、ヴァイアスがああいう風に言ってくれるって踏まえて言ったことだよ」
  わざとらしいほど盛大なため息をヴァイアスは漏らした。その直後にまた、熱っとジャガイモを放り出したのだから締まりが悪すぎる。
  背中の方で小さな笑い声が聞こえる。
  ばつが悪そうに流しに落としたジャガイモを拾い上げると再び皮をむき始める。
「確かに今のラインボルト軍は長い間、大きな戦争を経験してなかったから本来の存在意義から離れて権謀術数の巣窟になりかけてる。外からそれを見てる俺でもそれが分かるんだから内はもっとどろどろしてるかもな。けどな、それにしたってあの発言は刺激が強すぎだ」
「それはちょっと反省してる。けどさ、あの付け髭の言い方があんまりにもあれだったからさ」
「・・・・・・まぁ、分かるけどな。リムルに向かって露骨にガキが意見するんじゃねぇって言ってるようなもんだったしな。ついでだから言っておくけど、あのケルフィン将軍はフォルキスの旦那の後釜を狙ってるみたいだぞ。少なくとも宮中でそういう噂話が立つぐらいには動いていると思って良いだろうな」
「・・・・・・で、どうなの?」
  手を止めることなくヴァイアスに伺うように視線を向ける。
  フォルキスの後継が務まるのか否か。アスナとしてはケルフィンが内乱後、第二魔軍将軍をつとめられるだけの人物ならば、しばらくはその地位に置いても良いと考えている。
「一応、将軍なんだから無能じゃないだろうな」
「それって遠回しに使えないって言ってるのと同じだぞ」
  ヴァイアスの手が止まる。そして、思い返すように会話を再開した。
「・・・・・・正直に言えば、そうだな。けど、フォルキスの旦那と比べるとどうしても見劣りするのは仕方がないだろ」
「まぁ、そうなんだろうな。これだけラインボルトがゴチャゴチャしてるってことは、それだけフォルキス将軍が有能だって証拠だもんなぁ」
「だからって油断するなよ。ケルフィンはヤツの家が持ってる金と人脈でのし上がってきたヤツだから、目に見えないところで何をしでかすか分からないからな」
「いやな話だなっと」
  手にしていた最後のジャガイモの皮をむき終えた。
「いやな話だろうが、首を突っ込むって決めたのはお前だろ。こっちも終わりっと」
  ヴァイアスの分も完了である。後はこれを潰して、溶かしバターと卵黄、牛乳を少し加えれば準備完了である。
「ふぅ、疲れた」
  馴れない台所仕事にヴァイアスは一度背伸びをすると首を回した。ゴギゴギッといい音が響く。
「まだ、終わってないぞ。手を洗ったら次はパンを切ってバケットに盛ってくれ」
「人使いの荒いヤツだなぁ」
「これぐらいうちの弟だってやってる。うわっ、十二歳児に負けてるし」
「やれば良いんだろ、やれば!」
  半ばやけくそな声が厨房に響く。
「そうそう。サイナさん、そっちはどう?」
「後は生クリームをホイップすれば準備は完了です」
  言葉と同時にシャカシャカと音を立てながら泡立て器とボールが忙しなく音を生み出す。
  このクリームは冷蔵庫で冷やされているプリンに添えられることになっている。
  冷蔵庫で出番を待っているプリンは彼女のお手製である。
「分かった。それが終わったら盛りつけの準備を始めて。ヴァイアスじゃ、綺麗に出来ないだろうし」
  うるせぇと不格好な姿勢でパンを切り出しながらヴァイアスは悪態をつく。その声に笑みをさらに濃くしてサイナは「承知いたしました」と返事をした。
「しっかし、俺たち何やってるんだろうなぁ」
「何って、夕飯の支度だろ?」
  振り返らずにアスナがそう答えると本日一番のため息がヴァイアスの口から飛び出した。
「そうじゃないだろ。お前は一応、魔王の後継者で俺は近衛騎団の団長。ついでにサイナは参謀だぞ。重要人物三人が寄り集まってしてることと言えば夕飯の支度。もっと色々とやることがあるだろ」
「色々って?」
  大きめのスプーンでジャガイモを潰しながら聞き返した。
「ケルフィンじゃないけど、お前の派閥を作っておけってこと。いくら後継者だからって言っても、派閥なり後見人なりを作っておかないと先々困ることになるぞ」
「近衛騎団がいるから大丈夫だろ。リムルもいるしさ」
「そう言ってくれるのは嬉しいけどな。さっきも言ったけど近衛騎団は文武ともに介入せずっていう不文律があるからそういうのには使えないんだ。リムルにしたってそうだ。あいつは入隊してから将軍になるまで第三魔軍から出たことがない生え抜きだから周囲に人脈がない。それにリムルは人付き合いが下手だからこういうのには使えないんだよ」
  その言葉の裏にリムルの人付き合いの下手さはヴァイアスべったりだけじゃないような気がした。しかし、それを聞けるような雰囲気ではないので、アスナは話を先に進めることにした。
「・・・・・・LDは?」
「あのな、傭兵やってる軍師に力を発揮させるのがお前だろ。その軍師に後見なんて出来るはずないだろ」
  スプーンを動かす手が止まる。まるで今気が付いたようにアスナは晴れやかな声を上げる。
「そうか。考えてみればヴァイアスの言うとおりだ」
「頼むから、右腕受け取ったことを後悔させないでくれよ」
「・・・・・・善処します」
「その間はなんだ、その間は!」
「これからも色々とあるんだろうなぁってことで一つよろしくしてやってくれ」
  それを最後に小難しい話は終わった。
  時折、軽口を交わす程度で、夕飯の支度は順調に進み、そろそろ終わりを見せ始めていた。
  アスナはそこの深いお椀にクリームシチューを注ぎ、その上にマッシュポテトを被せて蓋をしていく。七人分用意し、それをオーブン皿に乗せると予め温めておいたオーブンに投入する。あとは蓋代わりのマッシュポテトが良い具合に焼ければ完成だ。
  続いてパーティー料理の定番である唐揚げを揚げ始める。と、そこに・・・・・・。
「アスナ様〜。エル様をお連れしましたよ〜」
  ミュリカだ。声とともに姿を見せた彼女は言葉の通りエルトナージュを連れていた。
  熱した油で踊る唐揚げから目を離して、エルトナージュに菜箸を持つ手をあげて見せる。
「お疲れさま。今日の仕事はもう終わったんだよな」
  気軽に声をかけるアスナだったが、エルトナージュはきょとんとした顔で厨房を見回していた。
「はい。言われたとおりに全て処理してから来ましたが。これは、一体」
  鶏肉を揚げる後継者に、不格好にパンを切り出している近衛騎団団長、そしてサラダを盛る近衛騎団参謀、である。
  真っ当な常識を持つ者ならば目を疑うような光景である。
「・・・・・・サイナまでこんなことを」
「このような姿で失礼します」
  一旦、サラダを盛る手を止めてサイナはエルトナージュに敬礼する。
  エプロン姿がなぜかとってもよく似合っている。若奥さんな風情である。
「以前、料理など出来ないと言ってませんでしたか?」
  言外に信じられないという意味を持った言葉にもサイナは笑みを崩さない。それどころか幾分、胸を張って答えた。
「はい。ですが、この一ヶ月ほどでアスナ様の邪魔にならない程度には出来るようになりました」
「そう・・・・・・なのですか」
  エルトナージュにはサイナも料理が出来るようになっていたという事実が驚きだったようだ。大抵のことは何でも器用にこなすエルトナージュだが、お姫様稼業のため家事全般が全く出来ないのだ。出来ないというよりも、やる機会がなかったといった方が良いだろう。その辺りにエルトナージュは女性として少し劣等感を覚えていた。
  以前、サイナを招いてのお茶会の席で彼女も出来ないことを知って安堵していたのが、それが今崩れ去ってしまったというわけだ。
  その彼女の動揺に気付いていないのかミュリカが追い打ちをかける。
「アスナ様が近衛騎団の食事当番を総括するようになってからは、司令部のみんなも手が空いてたら容赦なく手伝いに使われたんですよ。アスティーク様なんて内乱が終わったら奥様に夕飯を作ってやるんだぁなんて仰ってますし、ヴァイアスだって簡単な朝食が作れるようになったんですよ」
「目玉焼きにトーストとかは誰でも出来るだろ」
  なにげなくヴァイアス。
  しかし、エルトナージュには出来ない。それ以前になにをどうすれば目玉焼きが出来るのかすら分からない。
  彼女の中で眠っていた劣等感が再び目を覚まし始める。
「無駄話はその辺にしておいて、エルは座って待っててくれていいよ。後、五分ぐらいで出来上がるし」
  パシパシッと菜箸をぶつけてみせる。
  そのアスナの器用さに刺激されたのか、劣等感に狼狽えていたエルトナージュの瞳が定まり、対抗心で燃え上がった。
「いえ。わたしも手伝います」
  このエルトナージュの一言にアスナを除く全員が動きを止めた。
  唐揚げを生み出す油の音だけがやけに大きく聞こえる。僅か数秒だが妙に長い沈黙を破ったのはミュリカであった。
「エ、エル様? もうすぐ出来ると仰ってるんですから静かに待っていた方が良いんじゃないですか?」
「皆が調理をしているのに一人だけ待っているなんて出来ません。わたしだって多少のことは出来ます」
  嘘つけ!
  ミュリカ、ヴァイアスだけではなく、サイナまでもが心の中でつっこんだ。
  辛うじて三人とも口には出さなかったが、表情はそれを如実に表している。さすがにつきあいが長い分、ミュリカの立ち直りは早かった。
「えっと、あのですねエル様・・・・・・」
「遠慮なんてしなくてもいいだろ。エルがその気なんだからさ」
「けどですね、アスナ様・・・・・・」
  なんとかエルトナージュが料理経験皆無であることを伝えようとするが良い言い回しが思いつかず、おたおたするミュリカを余所にアスナは彼女に指示を出した。
「といってもほとんど調理が終わってるから、今日のところはミュリカと一緒に食器を並べておいて。それが終わったら盛りつけが終わったものから出してくれれば良いよ」
「・・・・・・分かりました」
  不本意なような、ホッとしたようなどちらとも取れる口調でエルトナージュは了解した。
  その背中でミュリカはあからさまにホッとした顔をしている。
「ですが、次はもっと早く呼んでください。わたしも皮剥きぐらいできるんですから」
「了解。それじゃ、頼んだからな。ミュリカも」
「はい。さぁ、エル様お皿が待ってますよ〜」
  半ば強引にエルトナージュを後ろに向けて背中を押した。
「急がなくても皿は逃げません。・・・・・・ミュリカ」
  どことなく楽しげなエルトナージュとともに歩き出したミュリカは姿を隠す瞬間に小さくアスナに向けて会釈をした。アスナもそれを返した。
  姦しく交わされるエルトナージュとミュリカの声が消えると同時に厨房に漂っていた緊張がふっと緩んだ。
「エル姫も何考えてるんだよ。・・・・・・それ以前になんで俺たち緊張なんてしてたんだ?」
「・・・・・・なぜでしょうか?」
  顔を見合わせて苦笑するヴァイアスとサイナに、「二人とも手が止まってるぞ」の声とともに手を二度叩いた。演劇めいた慌てた態度で二人は作業を再開した。
「もうじき、リムルも来るだろうし早く仕上げに入るぞ」
「はい」
「了解っと、・・・・・・そう言えば一人分余計に作ってるけどあれは誰の分だ?」
「あぁ、あれ? あれはLDの分。なんていうか、この前に拉致されたときの返礼みたいなもんかな。あの時、結構な食事をご馳走してもらったし」
「・・・・・・律儀だなぁ、お前は」
「誉め言葉として受けとっとくよ。そろそろ揚げ終わるから二人とも手早くな」
  出来上がるのとほぼ同時に「こんばんわ〜」の声とともにリムルがやってきた。
  ちょっとした宴の始まりである。

 定時連絡を任されたのが運の尽き。
  司令部要員の一人であるフェリスは大きめのお盆に二人分の夕飯を乗せてとあるところに向かっていた。
  お盆の上に並べられた夕飯から立ち上る香りは、お腹の中で飼っている小人さんを大いに刺激してしまい、ぐぅぐぅ不満の声を上げ続けている。
  このまま回れ右をして自分の兵舎で二人分の夕飯を堪能したい誘惑をグッと我慢して彼は足を進めていた。
  正直言って、この任務は気に入らない。しかし、これが主の命であり何者にも譲りがたい報酬を受け取ってしまった以上、達成しなければならない。
  そう分かっているのだが、やはり気に入らない。
  フェリスが夕飯を運べと命じられた先には一人の男が軟禁されている。
  その男の名はLD。
  現革命軍軍師であり、近い将来にはアスナの軍師にもなる人物である。
  そして、近衛騎団(自分たち)の隙をついてアスナを拉致し、あまつさえ暗殺さえしようとした人物である。
  暗殺されかけた当人であるアスナは気にしていないようだが、彼を守る立場である近衛騎団にとってはまだ消化不良の部分は多くある。
  不満はあるが、これが主直々の命令なのだからと割り切ってフェリスはLDが軟禁されている天幕の前に辿り着いた。
「止まれ」
  監視役の一人がフェリスを呼び止めた。同じ団員といっても何せ総人数一万五千名の巨大組織だ。同じ部隊か良く任務をともにする部隊でなければ顔など覚えているはずがない。
「軍師殿に夕飯を届けに来た。許可証はこれだ」
  そういってフェリスはお盆を片手で持つと、ポケットから一枚の紙片を監視役に差し出した。
  それに目を通した監視役は警戒の空気を緩めた。
  紙片には、「LDの夕飯だから、通してやって。 アスナ」と書かれていた。
  こんなふざけた許可証はアスナ以外に発行しない。そもそも許可証の体裁にすらなっていない。それだけに革命軍側の間者である可能性は低いのだ。そしてそれ以上にフェリスが運んできた料理から放たれる香りが真実であることを物語っていた。
「許可証を受領した。入ってくれ」
  監視役は振り返るともう一人の監視役に頷きかけた。
「ありがとう」
  礼を述べるとフェリスは扉を潜った。
  天幕の中央に設えた卓に十数冊もの本で作られた山の向こうにLDはいた。
  揺り椅子に身を預け、読書に耽っていたLDが顔を上げた。銀糸のような長い髪が小さく揺れた。男でも思わず見惚れてしまう相貌には眼鏡がかけられていた。
  眼鏡という要素が加わるだけで途端に彼の雰囲気が知的なものに変わってしまうのだから面白い。
  LDは本を閉じると、「もう夕食の時間か」と穏やかに言った。
  その有り様はとても虜囚の身とは思えない。思索に耽る学者か、貴族の子弟と言われたが納得できる。
「はい。アスナ様が調理されたものです。温かい内に召し上がって頂きたいと言付かっております」
「分かった、そうさせてもらおう」
  揺り椅子から立ち上がり、一度背伸びをすると彼は山となっていた本を卓の下に移動させた。準備はそれだけで完了である。
  そのあまりの適当さにフェリスは少し腹が立った。
  後継者直々に調理した夕食を頂くのにこのような態度はなんなのだ、と。
  彼の思っていることを察したのか、LDは小さく笑みを浮かべた。
「礼を失するとは分かっているが、生憎とここにはテーブルを飾るような物はないのでね。外の牢番に頼めば用意してくれるだろうが、夕食が冷めてしまうだろう。その方がアスナに対して失礼だと思うがどうだ?」
「・・・・・・失礼いたしました。思い違いをしておりました」
  フェリスは一礼するとお盆を卓の上に置き、LDのために用意された夕飯を並べていった。
「いや、気にしなくても良い。君たち近衛騎団が私を快く思っていないのは分かっているつもりだ」
「・・・・・・それは」
  咄嗟になにか言おうとしたが言葉は出なかった。LDの言ったことが事実だからだ。
「私は君たちが守るべき主を拉致し、暗殺を企てたのだから当然のことだ。本来ならば自決するなり、逃亡するなりすべきなのだろうが、厄介なことにアスナとの約束がある」
  困ったものだなとLDの顔に苦笑が浮かぶ。困ったと良いながらどこか楽しげにも見えるのがフェリスには不思議だった。
「・・・・・・ファイラスに到着したあと軍師殿は逃亡すると思っておりました」
「そうだな。私はまだフォルキスの軍師だからそういう行動をとるのが普通なのだろう。しかし、現状ではヤツに有利な行動はとるのは不可能だ。降伏交渉を行えばヤツを助けることは出来るだろうが、当のフォルキスがそれを望んでいない。そのような状況で交渉を持ちかけるわけにもいかんだろう。それに・・・・・・」
  サラダにドレッシングをかけていた手が止まった。
「あのお人好しは結果はどうあれ必ずフォルキスを助命するために動くはずだ。となれば私がのこのこと出ていく必要はないというわけだ」
  そこまで言うとLDは顔を上げ、フェリスを見上げた。
「折角だ。私と一緒に夕食にしないか?」
  言葉だけを見れば誘いなのだが、口調と視線には全く友好的な色はない。
  相手は将来、アスナの軍師になるのだが今は虜囚の身だ。すぐに辞退しても良いのだがなぜか射竦められてしまい逆らえない。フェリスは結局、首肯してしまった。
  一瞬の後、猛烈な後悔が彼を襲ったが、後の祭りである。
「そうか。それはありがたい」
  LDは何かを企んでいるかのような怪しげな笑みを浮かべながらフェリスの夕飯を食卓に並べていった。そして椅子代わりが分厚い本の山である。
  フェリスは心の中で涙を流しながら着席したのだった。

 卓の上に揃えられていた酒瓶や肴が退けられ、絨毯の上にぶちまけられた。
  それだけでも腹の虫が治まらないのか彼はそれを乗せていた卓すらも蹴倒した。
「人が下手に出ていればいい気になりおって!」
  二回、三回と蹴り続けついに卓を蹴り割ってしまった。
「少しは落ち着いたらどうだ?」
  腰の剣をも抜いて暴れ回るケルフィンに冷淡な視線を向ける壮年の男がいた。
  泰然と椅子に腰掛け果実酒の入ったグラスを回している。
「これが落ち着いていられるか! 人族の小僧にケルフィン家当主であるこの私が虚仮にされたのだぞ!」
「確かに面白い話ではないな。建国王以来、代々将軍を輩出してきた名家だからな。末席とはいえ、私もケルフィンに連なる者だ。気分の良いものではない。だからといって、暴れれば解決するわけでもないだろう」
「分かっている!」
  乱暴に椅子を立て直すと、苛立ちそのままに腰掛けた。
  子どもが見れば泣き出しそうな怒りに染まった髭の強面を前にして男は薄い笑みを浮かべた。
「当代の後継者はなかなかの胆力の持ち主だな。貴方のその顔を前にしても全く動じなかった。ケルフィン家の権勢を知らず、その上威圧も大して意味がないとなると厄介だな。もっとも、先の軍議で貴方が提案した案を退けたのも暗に必要以上の人死にを嫌ったためだろうがな」
「ならばどうするというのだ! このままでは軍内部の勢力図を書き換えることが難しくなるぞ」
  彼はすでに勝敗の決した内乱の後を見ている。
  この内乱において革命軍に身を置いた将軍や副将はラインボルト軍の半数を越える。それにどちらにも組みしなかった大将軍ゲームニスを初めとする一派を加えると実に三分の二が勝者ではないのだ。
  そうなると自然と軍内部の力関係は変わってくる。
  この内乱で活躍をした近衛騎団は軍に対する発言権はないし、第三魔軍は先日のリムルの一件があるため発言力が拡大するようなことはないだろうとケルフィンは見ている。
  そして、この内乱によって軍内部に生まれた空白域を制するのは勝者側で最も有力な自分だと彼は思っているのだ。軍歴を見てもさしたる功績を持たない彼はケルフィン家が持つ豊富な人脈、資金力を活用して将軍の地位を手に入れたのだ。
  その証拠にこの内乱では隊列の端を動き回るだけとケルフィンの戦功は無いに等しい。
  だが、逆に見れば彼の部隊は常に損害率が低いのだ。それ故に家名とともに一定の権勢を持ち続けることが出来た。
「何より目の前にぶら下がった第二魔軍の指揮権を黙って見過ごすわけにはいかん!」
  そう、持ち前の立ち回りの巧みさを用いて第二魔軍将軍の地位を狙っていた。
  そのためには邪魔になる可能性のある革命軍の士官を排除しておく必要があり、それ故にアスナに士官を厳罰に処すべしと進言したのだ。
  ケルフィンの見るところアスナは反乱を起こした者を罪に問うつもりはない。帰順を認め反乱前と同じ役職に置くつもりだ。
  そのようなことをされれば、大きくケルフィン閥の勢力を大きくすることが出来なくなる。確かに個々の発言力を減らすことは出来るだろうが、数の上では敗者の方が多いのだ。
  ケルフィンの第二魔軍将軍就任に反対する者が現れるはずだ。
「そうだな。ゲームニス老によって奪われた大将軍の地位をケルフィン家が奪還する足掛かりになるからな」
  ゲームニス以前の大将軍であったのはケルフィン家の者だった。名将を輩出したことはないが軍内部の駆け引きに秀でた彼の家はそれで三代にわたって大将軍の地位を受け継いできたのだ。
  それをゲームニスに奪われ、あまつさえ第二魔軍将軍を彼の子飼いであるフォルキスに与えられたのがケルフィンにとって許すことは出来なかった。
  それもそのはずだ。名目上、次の大将軍は将軍全てから選抜されることになっているが、ラインボルトの歴史を顧みると第二魔軍将軍が出世して、大将軍を引き継ぐことが多かった。第二魔軍将軍の地位を得るということは将来の大将軍の地位を得ることと同義なのだ。
「そうだ。だからこそ汚らわしい人族の命にも従ったというのに。増長しおって!」
「・・・・・・暗殺でも企てるか? 上手く言えば重畳。もし失敗しても投降してきた将兵が行ったとすればあの少年も厳罰に処するのではないか?」
「そのような安易な手が通用するものか。それにあの小僧を守っているのは近衛騎団だぞ! 不用意に手を出せばどんな仕返しをされるか分からん!」
「近衛騎団にケルフィン家の息のかかった者はいないのか?」
「ただのお飾りに投資するほど我が家は酔狂ではないわ」
「・・・・・・ならば現状では打つ手なしか。一挙にことを運ばず腰を据えて進めた方が良さそうだな。政治的な駆け引きは得意だろう? 幸いにも彼は自ら政敵を生み出したのだからな。貴方はそれを上手く利用すれば良い」
「常套手段が一番、か。だが、その前に小僧に近づこうとする愚か者を処分しておく必要があるな。無駄に勢力を大きくされると厄介だ」
「それについては私に一任してもらおう。戦後処理に紛らせて左遷させるよう圧力をかけておこう」
  大したことではないと言うかのような口調にケルフィンはうっすらと笑みを浮かべた。
「しかし、その人畜無害という顔で良くそのようなことが口に出せるな。我が義弟とはいえ薄ら寒いぞ」
  言葉とは裏腹にどこか楽しんでいる口振りだった。
「これはこれで不便なのだぞ。そういう義兄殿はあからさまに腹黒い顔をして良く将軍の地位まで昇ったものだ」
  軽口の応酬ではあるが決して健康的なものではない。
  なにかあればすかさず蹴落としてやるという色がありありとあった。それを知った上でケルフィンはこの義弟を使っていた。そういう意味ではかなりの人物であった。
  戦場の裏側ではその後を狙う策謀は続いていたのだった。

 食事とは楽しいものである。それがアスナの手製ともなれば自覚しなくとも心が踊るものだ。
  本質的に見れば、食事は生きるための栄養補給でしかない。しかし、人は調理する技術を得た瞬間から食事は味を楽しむという要素が加わり、楽しみともなった。
  それは優秀な知能を持つ証と言うことも出来るかも知れない。
  ともあれ、食事とは楽しいものなのである。少なくともフェリスにとってはそうだ。
  しかし、この妙に重苦しい空気は何なのだろうかと思う。
  先ほどから交わす言葉もなく、ただ食事を進める音が聞こえるのみ。
  アスナには悪いが味なんて全然分からなくなっている。
「英雄という存在(もの)を知っているか?」
  今まで黙って食事を続けていたLDが唐突にそういった。
「えっ」
「英雄だ。幼い頃に英雄譚の一つや二つ読んだことがあると思うが」
  読んだことはある。
  単騎で真なる竜族を打ち倒したとされる十人の英雄を讃えた屠竜十傑集やハーネストと呼ばれる小国の危機を救ったデルディア戦記などかなりの数を読んでいる。
  なかでも建国王リージュの英雄叙事詩は諳(そら)んじられるほどだ。もっとも、リージュの叙事詩に関しては近衛騎団の団員ならば似たような物だろうが。
「ありますが、それがどうかされたのですか?」
「・・・・・・では、アスナのことをどう思う?」
「アスナ様は我ら近衛騎団が仕えるに値するお方だと心得ます」
  淀みなく答えたフェリスの言葉にLDはどことなく不満げである。
「いや、どう見ているかと聞いた方がよかったか。・・・・・・私は彼を英雄だと見ている」
  LDは手にしたフォークを皿の上に置き、布巾で口を拭った。
  そして、フェリスの深奥に手を伸ばすかのような鋭い視線を向けてきた。
「一般に英雄とは、才知、気力、武勇に秀で、偉大な事業を成し遂げる人物と思われているが実際のところは違う。英雄とはその者が持っている能力で計るのではなく、単純に常人では成し遂げられないことを行った人物のことだ」
  彼はその視線から逃れることは出来ずLDの言葉を正面から受け止める。
「考えてもみろ。数多の英雄譚の中で、先ほど私が言った条件に当てはまる英雄はどれだけいる? 私が知る限りでは皆無と言って良い。比類なき美点を持つとともに愛すべき欠点も持ち合わせている者が大半だ」
「そうかも、しれません」
  断言出来ないが、どの英雄譚にも華々しい功績とともに影の部分が存在している。いや、その影の部分があるからこそ英雄譚は物語足りうるのだろう。
「では、翻ってアスナを見てみよう。彼は非力な人族だ。魔力も腕力も、特異な能力も持ち合わせていない。男にしておくにはもったいないほど家事に手慣れた部分を除けば極々普通の人族と言えるだろう。数多の英雄譚には絶対に名を残さない、それこそ風景にすらなれないと言って良い人物だろう」
  まさしくその通りだ。むしろ今更なにを言うのかと重う。
  アスナがただの人族でしかないことは近衛騎団の誰もが知っていることだ。
「だが、その何の力もない人族の少年によって内乱はここまで状況を変えてしまった。アスナが召還されるまで君たちと革命軍との関係がどのようなものだったか覚えているだろう。革命軍はラインボルト軍の半数以上をその指揮下に置き、エグゼリスの喉元に刃を突き付けていた。それが今ではこうだ。なぜだ? なぜこのようなことになった?」
  なぜも何もない。アスナが反攻を決意し、将軍たちもそれに乗ったからだ。
  顔にフェリスの出した答えが浮かんでいたのかLDは首を振ってそれを否定した。
「それは違う。アスナが反攻を宣言したから、ここまで劇的に状況が変わったわけではない。最大の原因は彼自らが近衛騎団を率いて動いたからだ。仮にアスナが宣言をし、エグゼリスに残っていたならば私は迷わずフォルキスに進軍再開を具申し、アスナを掌中に収めていたはずだ」
「そんなことは・・・・・・」
  自分たちがいる以上不可能だ、とは言えなかった。
  LDは近衛騎団の厳重な警護にあるアスナを拉致し、暗殺未遂まで行ったのだ。
  そして、LDは王城がどのような区画となっているか良く理解している。その彼から見ればアスナを確保することは容易かっただろう。
  なにより今の近衛騎団の有り様はアスナとともに戦ったからこそ生まれたものだ。命を賭してまで守ろうとしたかどうか怪しいところだ。
  そして、その考えがLDの発言に繋がるのかも知れないとフェリスは思った。
「話を戻そうか。アスナは魔王の後継者という立場だが現実として何の力も持たない人族の少年だ。だが、エルニスを初めとする諸都市を制圧し、何者かによって生み出された”彷徨う者”討伐を隠棲していたゲームニス殿に任せることに成功している。また、ラディウス国境を越境してきたラディウス軍を退けることにも成功している」
  一拍、LDは間をおいた。そして、叙事詩を詠うように彼は言葉を紡ぎ始める。
「現生界に住まう人族の少年は危急の時にあるラインボルトに召還される。そして、数多の試練の末に反乱者の総帥と決着を付ける時を迎えようとしていた」
  そこで一度、言葉を区切った。そして断定するような冷淡な声でLDは告げた。
  さならが死刑宣告のような声で。
「アスナは英雄だ。だが、それ故にこの内乱の後、彼の死は決定づけられている」
「なっ!?」
  アスナが英雄だということよりも、彼の死が決定づけられているという言葉に絶句した。
「君も数多くの英雄譚を読んでいるのならば知っているはずだ。英雄の末路は碌でもないと」
  今に残される英雄譚の多くが手にした栄光の代償だとばかりに悲劇的な最期が用意されている。そして、アスナも眩いばかりの栄光を手にしつつある。それを手にした後には悲劇しか用意されていないというのか。
  そこでフェリスは思い出した。建国王リージュの英雄叙事詩を。
  叙事詩によると他の魔王と同じように彼女も力に飲み込まれるが、その最期は穏やかなものだったと締められている。
「ですが、偉大なるリージュ様の・・・・・・」
「確かに彼女は英雄だったが、後半生は英雄ではなく王だ。だから、平穏な最期を迎えることが出来たのだ」
「・・・・・・・・・・・・」
  分からない。英雄であっても、王であってもリージュであることには変わりない。
  LDは何がこの二つに何が違うの言っているのか分からない。
「分からないか? では、両者の違いを見るために建国王の英雄叙事詩を題材に説明してみようか。竜族の徴税官によって彼女の恋人が半死半生の重傷を負わされたのを切欠に魔王の力が発現したところから叙事詩は始まる。村を恋人ともに追われた彼女は各地を転々とし、いつしかそれなりの軍勢を手に入れていた。やがて彼女は、自分たちが穏やかに暮らせる国を作ろうと、当時帝国を名乗っていたリーズに反旗を翻し、数多の戦いの末にラインボルトの礎を築くことになる」
  そこで区切るとLDは僅かに身を乗り出すとフェリスの目を覗き込んだ。
「そこで一つ疑問が生まれる。確かに彼女には絶大な力がある。が、それだけで戦争に勝つことは出来ない。戦史を見てみれば分かるが、魔王による親征が失敗したことは何度もある。大局的な視点でみるならば、魔王もまた戦争を形成する要素でしかない。では、なぜリージュはラインボルトを建国することが出来たのか。叙事詩を分析しても分かるとおり、彼女に軍事的な才能はあまりない。また、率いる兵も武具と呼ぶにはあまりにも粗末な代物しか持ち合わせていない。対するリーズはその逆だ。軍略に精通し、将兵に与えられた武具は当時、最高のものだったろう。戦う前から結果が見える戦いに勝利したのは歴史が示す通りリージュだ。この状況を覆した最大の要因は彼女が持つ魔王としての力ではない。彼女が、英雄だったからだ」
  失礼と一言断ってLDは冷め始めたお茶で口を潤した。
「幻想界(ここ)では、強い幻想はチカラを与える。では、数ある幻想の中で最も強いチカラを与えるものは何か。それは”英雄”だ。君たちは”魔王の近衛騎団”という幻想とヴァイアス団長の防御魔法だけに守られていた訳ではない。今のアスナが持つ”英雄”の幻想があったからこそ、あれだけの連戦にも関わらず戦死者ゼロという非常識な結果をもたらしたのだ。オレに断り無く勝手に死ぬな。”英雄”の幻想はまさしくその願いをアスナに与えたわけだ」
  指摘されてみれば確かにそうだった。
  ”魔王の近衛騎団”という幻想とヴァイアスの防御魔法があったとしても戦死者ゼロなど絶対に不可能なのだ。戦場は何が分からない場所だ。どれだけ用意周到に準備をしたとしてもいざ蓋を開けてみるまで結果は分からない。
  ましてや、ラディウスとの戦いは近衛騎団が壊滅しても不思議ではない状況だった。それが戦死者ゼロ。その上、敵軍は部隊としての機能を麻痺して動けなくしてしまった。
  今まで自分たちの努力の結果だと思っていたが、実際はより大きなモノに護られていたのだ。
「・・・・・・一つ勘違いをしているようだから言っておくが、これまで君たちが手にしてきた勝利は間違いなく君たちが掴んだものだ。幻想は纏う者の後押しをするが、結果は与えることはない。アスナが望んだ結果を手にすることが出来たのは君たちの努力の賜物だ。それを間違えるな」
  ハッとして顔を上げた。そこには怜悧のみを宿した瞳がこちらを見据えているだけだ。
  今のは慰めの言葉だったのだろうか。いや、事実を述べただけだとフェリスは向けられる視線から何となく察した。
「・・・・・・ありがとうございます」
「礼は無用だ。・・・・・・さて、話を戻そうか。ラインボルトの礎を築いたリージュはここで思い切った転身を図ることになる。彼女は王になることを決意する。これまで家族同然の付き合いをしていた将兵たちと距離をおき、彼女の即位後に重臣として扱われることになる有識者や有力者たちと多く時間をとることになった。国造りが進められる中、その輪に加わることが許されなかった将兵たちが不満を上げることになる。彼らには自分たちの血でラインボルトの礎を築いたという自負があったからな。しかし、リージュは不満の声があることを知っても、軍が国造りに本格的に参画することを許さなかった。ついに彼女の腹心ともいえる将が反乱を起こしてしまう。これに対してリージュは徹底的な殲滅を行い、これを機に軍の粛正を行った。これまで家族同然であった彼らを疎外し、追放したのか分かるか? 最大の功労者である彼らがなぜそのような目に遭わなければならなかったのか」
「リージュ様は王たらんとしたからでしょうか。王は軍のみの統率者ではなく、国家の統率者です。それにラインボルトは軍が政務に口出しするのを許していません。また、建国したばかりの状況で内乱が大規模化することを恐れたのではないでしょうか」
「その通りだ。当時の将軍たちは建国の功労者であることを笠に着て、横暴な振る舞いをしていた側面があったため粛正を行い必要以上の力を削ぐためだったとも言われているな。ともあれ、彼女は正式にラインボルト王に即位する頃には文武ともにその権力を掌握していたというわけだ」
  それはまさしく幻想からの脱却。・・・・・・いや、そうではない。
「彼女は英雄幻想と呼ばれる武具を脱ぎ捨て、王冠という名の権力を被ったわけだ」
「数多くの英雄が悲劇的な末路を歩む理由が、それですか」
「そうだ。全てを為し終えた英雄は為政者たちにとって疎ましい存在だ。彼らは英雄が自分たちの座を奪うのではないかと疑心暗鬼になる。周囲から頼りにされた強大な力と比類無き威名が今度は英雄自らを追い込んでいく訳だ。そして導き出されるのは悲劇。暗殺、無実の罪と方法は様々だがその末路は無惨な死だ。これを避けるためには身を守るだけの権力を得るか、表舞台から姿を消すかのどちらかだ」
「だから、アスナ様の末路も死だと仰るのですか!」
  椅子を蹴倒し、卓の上のカップすらも倒してフェリスは立ち上がった。
「今のままならばな。幻想は所詮、幻想でしかない」
「リージュ様の叙事詩の通りアスナ様も魔王となられるのです。例え刺客が襲おうとも我々が」
「確かにアスナは魔王の後継者だ。そして、近衛騎団(君たち)は彼を守り続けるだろう。しかし、君たちが対応できるのは暴力のみだ」
「そんなことは・・・・・・!」
「そうだ。君たちは近衛騎団だ。独立機関であるが故に文武ともに介入することは許されていない。そして、アスナを襲うのは直接的な暴力ではなく政治力だ。近衛騎団に対処することは出来ない。それにラインボルトの政治史を見ても後継者が謀殺された例は幾らでもある。禅譲による王位継承が行われる以上、愚者が王となる可能性は常ある。それを未然に防ぐために行われたこともあるだろうが、大半が政治勢力を掌握できなかった、もしくは気に入られなかったためだな。そして、アスナは明らかに政治勢力に疎まれる。考えてもみろ、アスナは幻想界の統一を目指すと宣言している。これを嫌う政治勢力は多いはずだ。単純な反戦勢力はもちろん、他国の影響を受けた者も当然反対する。中には彼が人族というだけで反対する者もいるかもしれない。その状況下でもなお即位できると思うか?」
「・・・・・・我々は黙ってみていることしか出来ないのですか」
「それは分からない。だが、近衛騎団にしか対処できない状況というものもあるはずだ」
  これまでの傍観者のような口調に忠告の色が混ざっているような気がした。いや、これまでの会話全てがフェリスへの、いや近衛騎団全体への忠告ではなかったのか。
  フェリスに向けるLDの表情にも瞳にも変わりはない。しかし、フェリスにはそう感じられた。
「なぜ、私にそのようなことを仰るのです」
「契約が切れるまで私はフォルキスの軍師だ。アスナに有利な助言をするつもりはない。だが、これは・・・・・・そうだな。難しく言えば、礼だな」
  照れているのか僅かにLDの視線が逸れた。しかし、それも一瞬のこと。すぐに鋭利な刃物のような視線がフェリスを突き刺した。
「心しておいた方が良い。君たちの相手はもはやフォルキスではなく内にいるとな」
  話は終わったとLDはフォークを手に取り食事を再開した。
  温かだった料理はいつの間にか冷めてしまっている。味も幾分、落ちてしまっているかもしれない。それが、内乱のあとに始まる宮中劇を表しているようにフェリスには思えてならなかった。

 宴といってもお姫様であるところのエルトナージュがいるせいもあって出だしは静かなものだった。食器が立てる音と時折交わされる二言三言の会話のみ。
  しかし、そんな厳粛な雰囲気はリムルとミュリカがぶち壊しにする。そういつものように。
「ヴァイアス、これ美味しいよ。食べて食べて」
「むっ。ヴァイアス、こっちの方が美味しいわよ」
  と、ヴァイアスを巡る争いが勃発したことを契機に場は宴らしくなっていった。
  エルトナージュは何度か窘めはしたが、結局は彼女もそれに巻き込まれてしまった。
  といってもこの場にいる面々にはまだ共通の話題は一つしかない。自然、話の方向はそちらに向かった。もちろん、真面目なものではなく冗談と誇張に彩られた会話だが。
  そう、この内乱で何があって自分たちはなにをしたのかということを。
  月が頂点で輝く頃、彼らの話の種は尽きてしまい、そろそろお開きになる雰囲気になったときアスナは少し姿勢を正した。
「それじゃ、少し気分を改めて軍議でも始めようか」
  これまで張りつめていたものから一時的に開放された気分になっていた一同は思いも寄らぬアスナの発言に視線を彼に集中させた。
「軍議ならば先ほど終わったばかりではないですか」
  これまでアスナが見たなかで一番穏やかな表情を見せていたエルトナージュが立ち上がると同時に宰相のそれに変えてしまった。
「まさか、軍議の席で決定したものを破棄し、ここにいる者だけで勝手をするつもりではないでしょうね」
「半分当たりで、半分外れ」
「ふざけないで下さい!」
「ふざけてなんかない。頼むから少し落ち着いて話を聞いてくれ」
  五秒ほど睨み合いが続いたが、エルトナージュは腰を落ち着けて身体をアスナに向けた。
「・・・・・・分かりました。では、話して下さい」
  頷く。
「じゃぁ、まずは大本の所に話を戻そうか。オレたちの最終的な目的はなんだ?」
「幻想界の統一だな。ミュリカ、お代わり」
  と、カップのお茶をあおり、何でもないことのようにヴァイアスは言った。
「そう。だから、オレたちが何かするにしても、そのことに通じてないといけないよな。そういう目で見てオレが反撃に討って出ようって言った理由は?」
「アスナ様の名の下でラインボルトを動かせるだけの権威を得るためですね」
  サイナとともに全員のカップにお茶を注ぎながらミュリカは言った。アスナは肯定するように頷いた。
「正確にはオレの名前を前面に出してってとこかな。これからどうするかはここにいる面子と、これから加わる面子でどうやって幻想界を統一するかを決めるんだ。そのための権威を確立することだな」
  残っていたお茶を飲みきる。それで一息つく。
「今のところどうにか順調に進んでる。けどさ、実際に幻想界の統一なんて大事業にはどうしても人手が必要になる。そこで相談なんだけど、フォルキス将軍を今まで通り第二魔軍の司令官に出来ないかな」
「そんな、こと、出来るわけがありません」
  エルトナージュもアスナが何を言いたいのか理解している。
  フォルキスを第二魔軍将軍に留任させることが出来ればラインボルトのためにも、幻想界統一のためにも利があることは分かっている。
  だからといって、内乱の首謀者に対して何のお咎めも無しというわけにはいかない。死をもって償うべし、というのが蜂起を主導した者の末路だ。
  恐らくフォルキスの言う決着も、自らの死を意味しているはずだ。それに死を覚悟した者にどうやって生き恥を晒せと言えるだろうか。
  この場にいる殆どの者がフォルキスの思いを汲み取っていた。ただ一人を除いて。
「フォルキス将軍の気持ちに応えて討ち取ってやるってのは、物語としては綺麗だよな。けどさ、本気で責任をとらせるつもりだったら、生き恥なんて無視してラインボルトのために役立ってもらわないと」
  一拍を置く。
「それに考えてもみろよ。フォルキス将軍はただ蜂起しただけじゃないんだ。ラインボルト軍の殆どを味方に引き入れて、それを賄えるだけの資金源も手に入れてたんだ。もちろん、LDとか表に出てこない人たちのおかげだろうけど。そういう人たちを引き入れたのはフォルキス将軍だろ。それだけの人を殺すのは惜しいよ」
  そして、アスナはエルトナージュ、ヴァイアス、ミュリカと見回した。
「それにさ、フォルキス将軍は三人の兄貴分なんだろ? オレはこの間、一回会っただけなんだけどさ、ヴァイアスやミュリカたちから聞いた限りだと、すっごい頼りになる人みたいだし。騎団のみんなだって一人もフォルキス将軍の悪口を言うヤツはいなかった。敵対してるのに誰も責めない人って本当にスゴイと思う。そういう人をオレは味方にしたい」
  立ち上がりエルトナージュの背に立ったアスナは彼女の肩に手を置いた。思ったよりも華奢だったことに驚いた。
「エルだって、宰相の立場とかそういう小難しいのを抜きにしたらフォルキス将軍のことを殺したくないんだろ?」
  小さな肩が震えるが、言葉は彼女の口から出ては来ない。アスナもそれを期待せずに話を続ける。
「少なくともオレはあの人を殺したくない。オレが全部預けても大丈夫だって信じられるヤツらが頼りになるって言ってる人を殺したくない」
  アスナはエルトナージュの肩から手を離し、彼女から一歩、二歩と距離を取った。
「けど、オレ一人じゃどうしようもない。だから、みんなに手を貸して欲しい」
  それはおかしな光景だった。
  会ったことがあるのはただの一度、交わした言葉も本当にごく僅か。そして、フォルキスを助命して本当に嬉しいのはエルトナージュ、ヴァイアス、ミュリカなのだ。
  だから、おかしいのだ。
  殆ど人づてにしか聞いたことがない者のために、誰もこんなことはしない。
  アスナは、腰を深く曲げて頭を下げていたのだ。
  あまりにもありえない光景に沈黙を続けるしかなかった彼女たちを動かしたのはエルトナージュだった。
「何をするつもりなんですか。それを聞いてから返事をします」
  その彼女の判断に倣うようにヴァイアス、リムルは頷いた。
  アスナは顔を上げると頷きでそれに応じ、考えていることを話し始めた。
  その内容はあまりにもバカバカしく、それ故に効果の有無など論じることは不可能だった。今、アスナが公開した作戦を表立って将軍たちに話そうものなら一笑に付されるか怒声を浴びせられるかのどちらか確かだろう。
「正直バカバカしい作戦なんて呼べないようなもんだって自分でも分かってる。けど、決着をつけるのにはこれが一番いいんじゃないかって思うんだ。実を言うともう準備を始めてる。けど、誰か一人でも反対するなら、この作戦は中止にして昼間に決めた対抗策でいく」
  だから、よく考えて応えてくれ、と続けるとアスナは彼らの返事を待った。
  否か、応か。
  アスナの作戦に乗ったとしてもことが上手く運ぶとは限らない。もし、上手く言ったとしても戦後処理を自分たちに都合良く乗り切らなければフォルキスを助命することは出来ない。アスナもそのことは良く分かっている。それでも彼はフォルキスを助けるために動きたかったのだ。
  エルトナージュたちは黙ったままだ。
  なぜなら、アスナの提案は将軍たちへの裏切りでもあるからだ。そのときの反発が苛烈なものになるのは目に見えている。
  そうなれば当然、今後の軍との折衝を行いにくくなる。今だけに目を向けても一般軍の士気が衰えるのは間違いない。
  そして、フォルキスならば間違いなくそこを突くはずだ。
  言ってみればこれは賭なのだ。乗るか、反るかのみだ。
「くくくくくっ・・・・・・」
「ヴァイアス?」
  ミュリカとリムルの声が重なった。
「こそこそと何かやってるなぁと思ってたら、こんなことやってたとはな。・・・・・・サイナは知ってたのか?」
「はい。アスナ様の計画の準備をお手伝いしました」
「サイナさんを責めるのはお門違いだからな。責めるんならオレに・・・・・・」
「そうじゃない。・・・・・・粗方、オレとリムルとエル姫が一緒に聞かないと不公平だって思ったんだろ」
「まぁ、そうなんだけど」
  見透かされてるようで少し面白くないアスナは拗ねたような声で言った。その彼の態度がさらに予想通りだったのか、ヴァイアスは再び押し殺したように笑った。
  ひとしきり笑い終えると、「・・・・・・悪い」と断って一度、深呼吸をした。
  そして起立し、威儀を正すとヴァイアスは右拳を胸に当てた。
「我ら近衛騎団が主に捧げる言葉はただ一つです」
  ヴァイアスの言動が何を意味するのか察したサイナとミュリカも彼と同じように意義を正した。そして、同時に彼らは腰を曲げただ一言、「了解いたしました」と応えた。
「だったら!」
  飛び上がるように席を立ったリムルはヴァイアスの右腕に自分の腕を絡めるとアスナに笑いかけると、
「僕もやります!」
  ヴァイアスが同意すれば自動的にリムルもそうなると分かっていたが、それでも嬉しいことには変わりない。アスナは頷きで四人に感謝の意を表す。
  そして、視線は自然とエルトナージュに向く。
「エルは、どうする?」
  集中する五人の視線など感じないかのように彼女は空になったサラダボールを見つめていた。思案の海に身を委ねた彼女の目に映るのは、夕飯の残りなのか別のものなのか・・・・・・。
  ゆっくりと、小さく彼女は息を吐き出した。そして、アスナに視線を向ける。
「わたしはこの内乱で貴方を試すと言いました。これが貴方の考えならば従うだけです。命令して下されば、わたしはそれに従います」
  真っ直ぐにアスナの目を離さずにエルトナージュは言った。
  アスナは彼女の視線を受け止めると頷いた。
「それじゃ、命令だ。さっき、オレが披露した作戦を実行する。そのための下準備をしておけ。それから、このことは絶対に外部には漏らすなよ」
「了解しました!」
  ヴァイアスたちと同じように声には出さなかったが、エルトナージュも確かに頷いていた。
  アスナの策がどのように転ぶかは分からない。
  しかし、この選択をしたことだけは絶対に後悔しないとアスナは彼女たちの顔を見ながら固く決心した。
  どのように展開するかは誰にも分からないが、間違いなくこの内乱は終結する。
  これからやることは多いだろう。しかし、それが自分たちが望む決着(答え)を導くための式ならば苦にはならない。
  そう、決戦はもう間近なのだ。



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