第二章
第一話 祭壇に捧げる花
薄墨で染められたかのように空は暗い。
今、空を満たしているのは霧に似た細かな雨だ。
決着の地であるファイラスは今、この空の重さと同じ空気に包まれていた。
確かに内乱はアスナの勝利で幕を閉じたが、そのために必要とした対価は少なくはない。
物的、経済的な損失はもちろんのことだが、現実として彼らの目の前にはその対価の姿がある。そう、戦死者の遺体である。
決着がついた今も遺体の回収は続けられている。
詳しい戦死者数はまだ不明だが、推定で三千名を越えるのではないかとアスナは聞かされている。そして、それはあくまでも先日の戦いで出た戦死者数だ。
この内乱全体で見れば三万名を下回ることはないはずだ。
近衛騎団、首都防衛軍を含めたラインボルト全軍の総数四十七万五千名からみれば一割に満たない数に見えるが、大損害に違いない。その上、戦死者数を越える戦傷者も出ている。言うなれば、今のラインボルト軍は満身創痍の状態にあるのだ。
大国ラインボルトの疲弊を狙って他国からの干渉が強くなってくるはずだ。ラディウス軍のラメル布陣は長期化の様相を見せ始めている。他の大国が何もしてこないとは限らない。
治安の問題も捨て置けない。内乱という不安に飲み込まれ、あるいは波としてその流れに乗り利益を得ようとする者たちによって、治安が乱れている。
そのような状況では、これからの復興を滞り無く進めることが出来なくなる。犯罪が多い場所で商売をしようと思う者は少ないし、そんなところで生きていこうと思う者も少ない。
まずは魔王のお膝元である首都エグゼリスが安定していないと話にならない。
首都の治安を回復させるために首都防衛軍を一足早くエグゼリスに帰還させることになった。帰還命令そのものはアスナのファイラス入城の翌日には命令書が出されていたが準備のために、出発はその二日後の今日であった。
雨の中、行軍させるのは忍びなかったが一ヶ月以上もエグゼリスを放っておけば治安が悪くなっていても仕方がない。
もちろんエグゼリスにも地区ごとに配置された警備兵がいるが、彼らだけで治安を維持し続けることなど出来ない。
それにアスナを迎えるためにも首都の治安回復は必要不可欠なことだった。
とにかくやることは多い。忙しさで目を回している暇もないくらいだ。
そんなことを考えながらアスナは市庁舎の廊下から外を眺めていた。
雨を打ち付けられ冷えたガラス窓に触れるとうっすらと曇る。
この二日、アスナはずっと会議と事務作業に追われていた。
後継者の名で州都にいる知事はもちろん大都市の都市長に宛てて内乱が終結した旨の書状に署名をし続けたのだ。
内向きだけではなく、同盟国、属国、被保護国の国王に向けても同じ内容の書状を送った。その内容を簡単に言えば、内乱を鎮圧したので治安維持に務め、余計なことを考えるなということだ。
他国にまでこのような書状を出すのは、ただでさえ大変な状況なのだから、これら親ラインボルト国家群の相手をしている余裕などないからだ。
それに支援を押しつけられ不要な借りを作りたくないというのもある。
あくまでラインボルトの復興は内務大臣たちが作成した計画を中核に据えて行うということだ。
ともあれ、そういった当面の事務仕事に一区切り付けたアスナは午前中の空いた時間を使って戦傷者の見舞いに行っていたのだ。
全員に声をかけるなんてことは出来ないし、重傷者の見舞いも許されなかったが、それでも後継者が気さくに声をかけたことで戦後の重苦しい雰囲気を取り払う一助にはなった。
意気を揚げる兵たちとは正反対にアスナの気持ちはどこか冷めていた。
内乱のきっかけを作ったのはアスナではないが、戦いを激化させたのは間違いなくアスナの責任。それを改めて実感したからだ。
もっと穏便で良い考えがあれば彼らは傷に苦しむことなく、外で雨晒しになっている戦死者たちも生きて任務に就いていたかもしれない。
そう思うとやりきれないものがある。それに見舞い以外にも意図があるのだから尚更だ。
アスナはまず自分についた兵たちを見舞い、、その次に旧革命軍の将兵たちを見舞った。
後継者は旧革命軍側であろうと指揮下にあるのなら平等に接する、という意思表示を行動で見せたのだ。それに加え、自分と苦楽を共にした近衛騎団への見舞いを最後にしたことで軍を粗略に扱うつもりはないことも見せていた。
「・・・・・・・・・・・・」
ため息が漏れる。ただ兵たちの見舞いをするだけでも、これだけ政治的なことが絡んでくる。
気付かないうちに遠いところに来ていたんだと、今更ながらアスナは思い知った。
ただの高校生から、一国の支配者へ。”世界”の違いよりもひょっとしたらこちらの違いの方が大きいのかも知れない。
雨に濡れるガラス窓に映る自分の顔はどこか仮面のようだった。
今ならエルトナージュが公的な場に仮面を被ったような表情をしている理由がなんとなく分かったような気がする。
人からの多大な期待に応えるためには自分ではいられないのだ。
この一ヶ月少々の間にアスナは近衛騎団の主として相応しくあれるように考え、動いてきた。この間にアスナは自分と理想とを完全ではないまでも、ゆっくりと重ね合わせて今に至る。
しかし、ラインボルトという国家の後継者となれば話は別だ。
軍の最高指揮権を持ち、文官たちから上奏される政策案を施行するか否かなど望まれていることは多い。そういった幾つもの状況に対処するには到底、自分では追いつけない。
どこかから理想的な存在の仮面を引っぱり出して被るのが手っ取り早い。
「・・・・・・アスナ様?」
アスナの背に気遣わしげな声がかけられる。
アリオンだ。近衛騎団の団員見習いである彼はアスナの世話をするよう命じられていたが、いつのまにか秘書官の真似事をするようになっていた。
「なんでもない」
こんなこと人に相談したところでどうすることもできない。結局、自分がどう受け入れていくかなのだから。
それにヴァイアスにその辺のことを何気ない風を装って相談したら大笑いされながら、
「そんなこと気にしたって土壇場になれば結局、いつも通り周りを引っかき回しながら突っ走るんだから、考えるだけ無駄無駄」
と、あっさりと流されてしまった。
「・・・・・・・・・・・・」
もう一度、ため息が漏れる。今度は先ほどのような疲れの色は全くない。
その変わりにあるのは諦めとはまた違う、「まっ、しょうがないか」という色だ。
考えたところで状況に何か変化があるわけではないし、考えている暇があるんだったら動いていた方がずっと気が楽だ。
何しろそうやって内乱を乗り切ってきたのだ。これからも同じやり方で先に進めるとはアスナも思っていないが、今のところ彼の武器はこれまでの経験だけなのだ。
無理な状況になったのならばその時に考えれば良い。
そう思うと少し気が楽になった。それに・・・・・・。
「自分が背負える責任と無責任がどれだけか自覚できれば、どんなところでも何とかやっていけるもんだ、か」
小学生の時、なり手のいなかった学級委員にじゃんけんという方法で選任され、ちゃんとそれが出来るのか不安になった彼にアスナのジイさんが言ったのがこれだった。
これを聞かされた当時はどういう意味かは分からなかったが、今の立場なら何となくだが分かるような気がする。
例えば、食料の生産や流通を滞り無く進められる法律や政策を立案するように命じることと、上奏されたそれらの許認可を与え、施行を命じるのがアスナの責任だ。
実際に食料を生産するのは農家や漁師など、流通させるのは企業、彼らが不正なことをしないか監督するのは役所の責務だ。
そして、その日に必要な食料を手に入れるのは個々人の責任なのだ。
いくらラインボルトという国家の最高責任者だからといって、その全てに関わってなどいられない。
今のアスナの責任はラインボルトに後継者がいることを内外に示すことだ。内政のことはエルトナージュが色々と提案してくれるはずだから、細かいことは彼女に任せればいいし、今も暴れているらしい”彷徨う者”の殲滅はゲームニスがしてくれるはずだ。
そして、越境しラメルに陣を布いたラディウス軍に関してはこれから決めれば良いのだ。
魔王としての責任がどれだけなのかは実感がないが、そのうち分かるようになればいいのだ。今はただ出来ることをやって突っ走るしかない。
アスナは大きく深呼吸をすると、「んっ!」と気合いを入れ直した。
「あの、アスナ様」
「何でもない。あんまり時間もないし早く行こうか」
アスナの足取りは先ほどまでとは異なりしっかりと地に着いた歩き方になっていた。
結局の所、アスナはアスナでしかないということなのだ。
ノックは三回。
それだけするとアスナは返事を待たずにドアを開けた。
そこも病室には違いないのだが、これまでアスナが見舞いに行った病室のように薬品臭かったり、兵たちの呻き声や談笑の混じり合った混沌とした場ではなく静かそのものだ。
その上、ドアの両脇には近衛騎団の団員二人が警護している。そこからもこの病室にいる人物は一般の将兵ではないことは明らかだ。
「よっ」
気楽に手を挙げて病室に顔を見せたアスナに視線を向けたヴァイアスはつまらなさそうに、「なんだ、アスナか」と呟いただけだった。
「・・・・・・感動がないなぁ。もうちょっと色々とあっても良いんじゃないのか?」
「お前相手に感動するぐらいなら書類に目を通して署名した方がずっと有意義だ」
いつも以上にぞんざいな態度だがアスナも分からないでもない。
病室に運び込まれた執務机に近衛騎団の事務手続きに関する決裁書が積み上げられていた。近衛騎団の被害報告から戦死や戦傷で抜けた穴を防ぐための再編成案など多岐にわたる案件が彼の下に届けられていた。
また、それだけではなく別働隊であったデュランからの詳細な報告書にも目を通さなければならなかった。正直、ヴァイアスは忙しいのだ。
にも関わらず彼はアスナからそれ以外の仕事を押しつけられた。
アスナは憮然とするヴァイアスに肩をすくめると、彼の執務机の隣に設えられたベッドに寝そべった全身包帯巻きの人物に声をかけた。
「リムル、加減はどう?」
そう、この全身包帯の人物はリムルなのだ。彼は目礼で大丈夫だと答えた。
フォルキスが全力で放った闘気を超至近距離で受けた彼は、捕まれていた顔はもちろん全身に酷い怪我を負っていた。身体の至る箇所に火傷を負い、通常ならば死んでしまうところだが、この辺りは人魔の規格外の回復力とエルトナージュの応急処置が適切だったため一命を取り留めてることができた。
日々、快方に向かっているが今は身動きできるような状況にはなかった。
軍医の見立てでは軍務に復帰できるまでリハビリも含めて一ヶ月少々かかるとのことだ。瀕死の重傷をこんな短期間で癒してしまうのはやはり常識外れだ。
しかし、アスナの立場から見ればリムルの戦線離脱は頭の痛いことだった。
それは現在、ラインボルト軍の中核たる魔軍が総じて全力出動できない状態になったことを示している。
ゲームニスの第一魔軍は”彷徨う者”討伐に動員され、一部はムシュウでラメルに陣取るラディウス軍と対峙している。第二魔軍は最後まで抵抗した者としてアスナの処罰を待つ状態にある。
そして、第三魔軍は兵力は大きな損害を受けていないがそれを統率する将軍が重傷では動きようがない。また、第三魔軍も第一魔軍同様に一部が”彷徨う者”討伐に充てられている。以上のことからアスナの思うとおりに魔軍を動かすことが出来ない状況にあった。
二言、三言リムルに声をかけるとアスナはこの病室に来た本題に入った。
身体を左に向けた。そこにもベッドが設えられベッドに腰掛け恐縮した風に頭を下げる巨躯の姿があった。
「傷の具合はどう? フォルキス将軍」
「はっ。殿下のご厚情により快癒に向かっております」
今のフォルキスの姿はリムルのようなある意味滑稽な姿ではない分だけ痛々しく見える。
両腕を包帯で巻かれ動かせないように固定されている。そして、身体の至る所に受けた傷を包帯やガーゼで包まれている。如何にも戦傷者といった風だ。
「そんなに畏まらなくても良いよ。出来るならヴァイアスたちにするみたいに話してくれた方が気楽かな」
そう話しながらアスナはフォルキスの傍らに立ち辞儀をするマノアに会釈する。
「恐縮です。ですが、私は敗将。殿下のお言葉ながらそのように接することは出来かねます」
「真面目だなぁ。ここには他に誰もいないんだから気にしなくて良いのに」
アスナの言うとおりこの病室は近衛騎団による厳重な監視下にある。ヴァイアスがここで事務仕事をする羽目になったのは万が一フォルキスが脱走を企てようとした時に即時に押さえ込めるのはヴァイアスだけだからだ。
と言うのが表向きの理由だ。真実はフォルキスの護衛だ。
”フォルキスを自分の所有物にする”という宣言は、フォルキスを合法的に葬り去る、もしくは軍への復帰を阻止したい勢力にとっては不都合なものだからだ。
アスナの気性を把握しきれていなくても、これまでの経緯を知っていればフォルキスに対してどのような裁定を下すか容易に想像できるはずだ。
そのため、フォルキスの周囲で何かしら騒ぎを起こし、脱走を企んだなどの言いがかりをつけて彼らの思惑通りに事を運ぶつもりかもしれない。
もちろん、ただの杞憂に過ぎないかも知れない。要はアスナの思惑通りに裁定を下せるような下地を荒らされなければそれで良いのだ。
ちなみにこの病室にリムルがついてきたのは瀕死になるまで頑張ったご褒美だ。
「申し訳ございません」
仲立ちしてくれとヴァイアスに視線を送るが、
「旦那は真面目だから、いつもの調子でやるのは面倒なことをやった後にすることをお勧めするぞ。いつだってアスナが気楽な風に進む理由じゃないってことだな」
仮にも主であるアスナに対してする態度ではないと、フォルキスはヴァイアスを睨んだが彼は一度、首を竦めただけで事務仕事に戻った。
アスナもしょうがないとばかりに後頭部を掻くと、
「それじゃ、普通に話をするのは面倒なことをした後でってことで」
「お気遣い下さり・・・・・・」
「あぁ、良いから良いから。あんまり丁重に扱われるとむず痒いから」
両手を振ってフォルキスを制止すると、アスナは一度小さく息を吐いて姿勢を正した。
「それじゃ、面倒なことをしようか。フォルキス将軍」
「はっ」
「第二魔軍の将軍を続ける気はある?」
「・・・・・・状況を鑑みるにそれは不可能かと」
「そうじゃなくて、そういう面倒なことは関係なくてフォルキス将軍は続ける気があるか、ないか聞いてるんだ」
僅かな沈黙が生まれ、二人の視線が交わされる。
「・・・・・・殿下がお望み下さるのであれば否はございません」
この返答にアスナは満足げに「んっ」と頷いた。
「だったら、心おきなく好きなようにやれるわけだ」
「そう上手く事が運ぶと良いけどな」
普段から悲観的な物言いをしないヴァイアスがこういうのだから、そう簡単にいかないことは予想できる。しかし、周りが自分を心配してくれる分、アスナは突っ走れるのだ。
「大丈夫大丈夫。何しろこの国で一番偉いのはオレなんだから。他の誰でもないラインボルトがそこに据えたんだから。文句を言われたらその時に考えれば良いよ」
そしてアスナは近衛騎団の面々に向けるのと同じ何の力も入っていない笑みをフォルキスに向けた。快活とはまた違う、悪巧みの笑顔だ。
「そう言うわけで怪我が治ったら、こき使うからそのつもりでいてよ」
「お手柔らかにお願いいたします」
苦笑とともに辞儀をするフォルキスにヴァイアスは笑みを含ませた声で揶揄した。
「無理無理。アスナの手加減ほど信じられないものはないって」
「そんなことはないと思うけど」
「勝つためなら敵相手に初めから尻向ける戦いをやらせるヤツに、そんなこと言えないだろ? それに加えて兵に向かって死ぬななんて本気で命じるんだから、たまったもんじゃねぇよ」
「そんな無茶苦茶な命令を素直に実現したヤツにも言われたくないよなぁ」
「重傷者が出ただけで、この世の終わりみたいな顔するヤツが主だから、意地でも実現するだろ。何しろ俺たちは近衛騎団だからな」
視線は相変わらず書類に向けられているが、その口調と雰囲気はどこか誇らしげだ。そして、彼の頬がほんのりと赤くなっているのはご愛敬か。
アスナとの関係を見せつけられた雰囲気となったことに抗議するようにリムルは「む〜む〜」と不満の声を上げるが間抜けなだけで効果が全くない。
「ってことは、これまで以上にこき使って良いって事だよな」
「ぐっ・・・・・・」
「だよな、ヴァイアス?」
「・・・・・・あぁ、そうだよ。どんな問題でもガンガン持ってこい!」
それは間違いなくやけくそ以外の何者でもない。
「しっかり聞いたからな。よしっ、みんなに文句言われたときはヴァイアスがそう言ってたからって言えば良いな」
「いや、そのだな、アスナ? さっきのは心意気とかそういうことでだな」
「心意気だったら尚更、みんなに言っておいた方が気合いの入り方も違うだろ? だから・・・・・・」
先ほどの啖呵を思いっきり後悔するヴァイアスとそれを追いつめるアスナのやり取りに小さく吹き出した。
「フォルキス様?」
「いや、失礼しました」
笑みの含んだ詫びを入れるとフォルキスはアスナとヴァイアスの二人を見た。
その視線は暖かく、それでいて感慨深げであった。そして小さく首を振った。
「殿下を試すのならばファイラスに籠もらず、即座に追撃に移るべきでしたな。そうすればもっと短期間に殿下がどのような方か知り得たでしょうに」
そして、戦死者、戦傷者の数を今以上に減らすことが出来たはずだ。フォルキスは言外にそう言った。もっとやりようがあったのではないか、と。
「それはどうかな。幻想界(こっち)に来たばっかりの時は内乱をどうにかしたいって虚勢ばっかり張ってたからさ。今みたいにフォルキス将軍と普通に話なんて出来なかったと思う。無茶やって殴られたり、死体を見て吐いたり、みんなとバカやったり叱ったりしたから今のオレがあるから」
そう、自分の命令一つで死地に赴かせる怖さも、何気ない一言で物事が動く重さも理解した。何より自分を主だと思ってくれる彼らに相応しくあろうという覚悟もできた。
「うん、これまでの事があったから今のオレがあるんだ。フォルキス将軍が積極的に動いてたら、今みたいな状況にはならなかったかもしれない。けど、ラインボルトには悪くない決着だったんじゃないかな。後継者が勝ったことで後の処理がやりやすくなると思う。それに外国からちょっかいを出される可能性も少なくなるだろうし」
そう話すアスナを見るフォルキスの目は丸くなっていた。それはマノアも同じだ。
「オレ、何か変なこと言った?」
「お前がまともなこと言うから驚いてるんじゃないの」
「失礼な!」
と、談笑を続けるアスナたちの影でやきもきしている人物が一人。アリオンだ。
秘書官役である彼の最大の使命はアスナを予定表通りに行動させることだ。しかし、これがなかなか難しい。予定された時間が過ぎていると言ってもアスナは聞かず談笑していることが多いのだ。
今日の兵たちの見舞いを見れば予定よりも長く後継者と言葉を交わすことが出来て兵たちにとっては感動的なことだろうが、予定表を持っているアリオンからすればたまったものではない。現にこの病室に来るのだって今後の予定を大きく割り込んでいるのだ。
以前は敵味方であったのに和んだ雰囲気でフォルキスを含めて談笑が出来るのはアスナの人徳の賜物なのだが、いつまでもこうしている訳にはいかない。
「アスナ様、そろそろお時間が」
アリオンは思い切ってアスナにそう告げた。そして、申し訳なさげにフォルキスに一礼した。
「次の予定って?」
「昼食の予定です。その後に控えている会議の準備もありますからあまり時間がありません」
「昼飯か。だったら、ここに運んでもらってみんなで食べようか」
「いや、会議の準備があるんだったら、そっちに専念しろ。せっかくここまでお前の思惑通りに進んでるんだ。詰まらないことで躓きたくないだろ」
「まぁ、確かに」
「よし、決まりだな。アリオン、ちゃっちゃとコイツを連れてけ」
「は、はい。アスナ様」
促されるままにアスナは小さく頷くと改めてフォルキスの方に身体を向けた。
「それじゃ、また今度。早く治るように養生してよ。リムルもな」
「お言葉、痛み入ります」
「マノアさんも、フォルキス将軍の面倒をよろしく」
「はい。承知しております」
アスナはもう一度、頷くとアリオンを引き連れて退室した。
廊下に出てしばらくするとヴァイアスが追い付いてきた。
「悪い、アスナ。昼飯の前に寄ってもらいたいところがあるんだ」
ヴァイアスはそう言ってアリオンに視線で謝った。
「どこ?」
「サイナのところだ」
締め切られた部屋の一角に設えられた魔導珠からは暖かな風が流れている。
窓近くから染み込んでくるベッドからは外の寒さを隠しきることは出来ていない。
その窓を打つ雨は先ほどよりも強さを増しているように思える。
戦場跡で続けられている遺体回収任務に当たっている兵たちが体調を崩さないか心配になるほどだ。雨が降りそうだと予期していたエルトナージュは回収任務に当たる兵の数を増やして交代までの間隔を短くとることで、それに対処した。
もちろん、身体を温めるために酒を振る舞うことを忘れてはいない。
しかし、ここでベッドに身を預けるサイナには関係のないことだった。
今、彼女の心を占めているのは四日前のファイラス決戦での失態だった。
アスナを狙うマノアと対峙し、それを阻もうとした。だが一瞬、気を逸らしてしまったせいでマノアは黒死槍を投擲を許し、アスナの命を危ぶませてしまった。
ヴァイアスの防御魔法で守られているとは言え、黒死槍を防ぎ切れたかどうかは分からない。幸いにも槍はフォルキスによって阻まれたが、そんなことは言い訳にはならない。
あの時、フォルキスは敵だったのだから。
何を代償にしても守りたい人を守ることが出来なかった。
麻酔を施されても、なお消えない脇腹の痛みは何の贖罪にもならない。
ただ恋い慕うだけではなく、アスナは自ら進んで剣を捧げた唯一無二の主君だ。
アスナは『我が剣として決して折れることなく敵を倒せ』と告げて、剣を返した。
にも関わらずサイナはそれを守ることが出来なかった。
マノアを殺すことなく内乱を終えることが出来たことをアスナは喜んでいるかもしれないが、守りきれなかったことに変わりない。
ファイラス決戦から四日。今まで一度もアスナは顔を見せてくれていない。
後継者なのだから諸手続や会議に連日追われているのだと理解している。そして、その傍らにエルトナージュの姿があるであろうことも。
「・・・・・・・・・・・・」
以前、アスナに告げたようにエルトナージュのことを気にかけて欲しいという気持ちに変わりはない。だが、それとは別の所でサイナは不安と苛立ちを覚えていた。
それを言葉にするのならば、嫉妬、となるだろう。
エルトナージュがアスナに対して敵意に近いものを持っていることは十分に感じている。だが、そんなことは関係ない。アスナの傍近くにエルトナージュがいる。それが重要なのだ。そして、こんな気持ちに囚われようとしている自分が酷く浅ましく感じる。
彼女の不安はつまりそう言うことなのだ。失態を演じた自分をアスナが捨ててしまうのではないかと。
すぐにでもアスナに謝りたい気持ちと、捨てられるかもしれないという恐怖が鬩ぎ合い彼女を身動きとれなくしていた。
ゆっくりと膝を抱え、瞼を押し当てる。
小さく肩が震える。それは室内に染み込んできた冷気のせいではないだろう。
膝を抱く、腕に力が込められる。脇腹が酷く痛むが今は気にならない。
そして、窓を打つ強い雨音に掻き消されるような小さな声で彼女は呟いた。
「アスナ様」
捨てられるかも知れないという怖さは消えない。それでもアスナに会いたかった。声を聞きたかった。
トントンッ、と不意にノック音がした。
サイナは身を起こし、ベッドの側に設えた卓の上に畳んで置いていた紺色のカーディガンを羽織る。瞼を押しつけていたシーツが小さなシミを作っていた。
「・・・・・・はい」
返事する声は少し枯れているように聞こえた。一拍の間をおいてドアが開かれた。
「アスナ様!」
彼がここに来てくれるとは思ってもみなかった。サイナは居住まいを正すと頭を下げた。
「怪我の調子はどう?」
いつもと変わらない雰囲気と口調にサイナは言いようのない安堵を覚えた。
「はい。先生からは一月も安静にしていれば完治するとお墨付きを頂きました」
先生とはもちろんアスナ付きの侍医でもあるロディマスのことだ。
自分の治療を担当するロディマスの言葉にアスナは、「良かった」と安堵の笑みを見せた。それに応えるように穏やかな笑みを見せていたサイナの表情が不意に曇った。
「・・・・・・申し訳ありませんでした」
「なにが? オレ、サイナさんに謝って貰うようなことされてないけど」
「アスナ様の身を危ぶませました。あの時、自分の身を盾にしてでもマノア様の黒死槍を防ぐべきだったんです」
そう言って頭を垂れるサイナに、アスナは表情を強張らせた。強引にベッドの縁に腰掛けた。
「我が剣として決して折れることなく敵を倒せ。そう仰って私を臣下に加えていただいたというのに、私は敵を倒すことも出来ずに・・・・・・」
「あのね、サイナさん」
そう言うとアスナは両手で彼女の頬を掴むと自分の方に顔を向けさせた。そこにはこれでもかって言うぐらい不機嫌な、怒りと呆れが綯い交ぜとなった顔のアスナがいた。
「確かにオレは、我が剣として決して折れることなく敵を倒せって言ってサイナさんを臣下に加えたけど、そういう意味であんなこと言った訳じゃないんですけど」
「・・・・・・・・・・・・」
「大将軍に救援を頼みに行く途中で”彷徨う者”の大群に襲われた時、オレ言ったよな。どんなに無様な姿になっても生き残ることを優先しろって。サイナさんあの時、マノアさんを止められなかった。けど、今もこうして生きてくれてる。勝手な言い分だけど、オレにはそっちの方が嬉しいんだ」
捕まれていた両頬が離される。
「それにさ。この間は負けたけど、サイナさんはこのままで終わるつもり無いだろ? 次に何かあった時には、決して折れることなく敵を倒してくれるはずだ。うん、それはオレが保証する」
「はい・・・・・・アスナ様」
返事をし、アスナの胸に身を預けた。耳まで真っ赤にしながら横抱きに彼女を抱きしめた。湿気の伴った汗の臭いがサイナの鼻腔をくすぐる。
きっとこの大雨の中、いろんなところに顔を出していたのだろう。
ラインボルトは一つとなり、アスナの後継者としての地位は揺るぎないものとなった。力無くとも事実上の魔王になったのだ。
至高の地位を得たにも関わらずアスナはアスナなのだ。それがとても嬉しかった。
スッと身体を離され、アスナは彼女の左頬に手を当ててゆっくりと上を向かせた。
何を望まれているのか察したサイナはそのまま瞳を閉じた。
アスナの人差し指と中指は海のような深い青の髪を梳くようにして右手は頬から首へと向かう。
いつの間にか雨足が弱まっている。さらさらと降る雨の音と互いの存在を感じながら二人は唇を重ねようとしていた。
ドンドンドンッ!
無粋である。凄まじく無粋なノック音が響いた。
アスナは小さくため息を漏らしてサイナから身を離した。今も続くノック音を響かせる扉を睨みながらアスナは声をかけた。
「なに?」
しかし、扉は開かれることはなく代わりに切羽詰まった、それでいて申し訳なさそうなアリオンの声が返ってきた。
「お話中、申し訳ありません。ですけど、もう時間一杯です。これ以上、時間を作れません」
自分の予定表を管理している少年の焦りを慮り、「分かった」と返事をした。
表情は見えないが雰囲気で安堵したと感じ取れた。
「そう言うわけだから、そろそろ行くよ」
「はい。くれぐれも言動にはご注意下さい」
いつものように自然とアスナに注意できたことにサイナは、まだ自分は折れていないのだと自信を取り戻した。
それはアスナも同じだったようで、彼はおどけるように「了解」との言葉とともに敬礼をして見せた。
背を見せて扉に向かって歩き出したアスナが不意に足を止めた。
「アスナ様?」
「やっぱり、だめだ」
振り返り足早に詰め寄ると、何事かと見上げるサイナの唇と自分のそれとを重ね合わせた。不意打ちのあまり唇を交わすというよりも、奪うと言った方が良いぐらいの唐突さだった。
「それじゃ、また」
あまりにも突然のことに固まるサイナを後目にアスナは耳まで真っ赤にしながら退室していった。
「・・・・・・・・・・・・」
アスナが残していった唇の感触を確かめるかのようにサイナはしばらくの間、自分の唇をなぞり続けた。
不快であった。
列席した将軍と副将の背後には彼らを補佐する参謀役が二、三名立ち会議が始まるのを待っている。すでに自軍の損害報告に関する打ち合わせは済んでいるのか誰一人言葉を発する者はいない。しかし、すでに彼らが腹の探り合いをしていることはアスナにも感じられた。
会議とはそもそも設定された目的を如何に効率よく達成させるかを決する場だとアスナは思っている。少なくとも近衛騎団で行われた軍議はそうだった。
時に罵声や暴言が飛び交うことがあっても、より良い案を出そうとする意気込みの現れだったからだ。その結果、出た作戦が如何に有効であったかはこれまでの連戦連勝が示している。
そう言った目的に向かって突き進む前向きの会議しか経験していないアスナにはこの雰囲気は不快以外のなにものでもなかった。
「・・・・・・・・・・・・」
不快ではあるがそれを口にすることはない。口にしたところで雰囲気が変わるとも思えないし、会議に少し遅刻した自分がそんなことを言っても説得力がないからだ。
そう、十分少々だがアスナは遅刻したのだ。
アリオンとともに会議室に飛び込んだアスナを待っていたのはエルトナージュの冷たい一瞥と彼女の秘書役をしているミュリカのため息だった。
これからはもう少し会議の時間を意識しようと心に決めたアスナのであった。
着席すると同時に水の入ったコップをアリオンから受け取った彼は、それを飲みながらこんなことを思っていた。
「・・・・・・ふぅ」
カツンッ、とカップを長卓に置いてようやく一息ついた。
「落ち着きましたか?」
「あぁ、悪い。始めてくれ」
アスナの謝意を頷きで受け入れるとエルトナージュは傍らに控えるミュリカに頷きかけた。彼女はそれに最敬礼で応えると会議室を出ていった。
程なくしてミュリカは初老の男性を引き連れて戻ってきた。
長身痩躯、白いものが混ざった頭髪は良く撫で付けられいる。面白味の全くない表情からは彼の実直な性格が伺い知れる。そして、アスナはこの男性が何者であるか知っている。
「ファイラス都市長ドリエ・マクロゴール殿をお連れしました」
右掌を胸に当て頭を下げた。武官たちが右拳を胸に当てるのに対して、文官や市井の民の敬礼はこのように行うのが幻想界共通の礼である。
「お初にお目にかかります、後継者殿下」
声に揺らぎはないが、彼の内心の緊張が何となく伝わってきた。将軍たちの視線を一身に受けていれば尚更そうなっても不思議ではない。
それでも乱れなく礼をし終えたマクロゴールに対し、アスナはこれまで何度となく行ってきた都市長との面談の際と同じように鷹揚に頷いて見せた。
「貴方を呼んだのは他でもない」
こう言うときいつもアスナは時代劇やドラマなどで見受けられるシーンを思い出しながら話している。性格か、馴れの問題かは分からないが何度もこういうことをしているにも関わらず未だにアスナはこういう台詞を自分の口で上手く話すことが出来なかった。
それにマクロゴールに何を話せば良いのか書かれた台本を貰っているのだから、尚更そういう印象が強くなる。
「ファイラス市政を担う人事についてだ」
軍議を始める前に彼を呼んだのはつまりそういうことなのだ。
早急にファイラスの復興も始めなければならない。そのためのファイラス市政を司る者たちの処遇を決定する必要があったのだ。
「約一ヶ月前の革命軍によるファイラス制圧戦の以前から、宰相が派遣した部隊を受け入れていたことからも分かるとおり、貴方に叛意が無かったことは明白だ。だけど、革命軍がこの街を制圧してからは、積極的に協力をしていたこともまた事実」
厳粛なる表情と態度ではあるが緊張しているのがありありと伝わってくる。
「その上でオレたちは結論を出したことを念頭において貰いたい」
「はい」
マクロゴールがしっかりと返事をしたことを確認するとアスナはエルトナージュに結論を告げるように促した。
「ファイラス都市長ドリエ・マクロゴール。ファイラス制圧後の積極的な革命軍への協力には思うところはありますが、それはわたしたちが革命軍の動きを見誤ったことにも責任の一端があります。翻って制圧時の貴方を初めとする市職員はファイラス市民の動揺を最小限に抑え、約一ヶ月の間市政を堅持したことを評価します。以上のことを踏まえ、改めて貴殿に都市長の任を与えます。市職員に関しても扱いは同じとします。これはわたしと内務卿を議長とする戦後処理委員会、そしてアスナ殿が出した決定です」
エルトナージュはミュリカに目で合図をすると傍近くまで来た彼女に再任を認める書類を手渡した。
他の革命軍に協力した都市長も同じように再任されていることを知らなかった彼は死を賜るものと覚悟していた。しかし、結果は再任である。
マクロゴールは後継者と宰相、そして諸将が列席する場だというのに途端に表情を弛緩させた。途端に彼の身体を征服していた極度の緊張から開放されたのだろう。
しかし、それも僅かな間のことでしかない。姿勢を正した彼は「ありがとうございます」と礼をした。そして、身を起こした彼の表情にはある種の決意が宿っていた。
「ですが・・・・・・」
私にはこれまでの責任があります。と辞退の言葉をアスナはすかさず遮った。
「ちなみにその命令書の受け取り拒否は認めないから。マクロゴールさん、これは罰なんだよ。貴方と市職員は全力でこれから戻ってくるファイラスの市民たちの受け入れ態勢を整えて貰う。その後にそれ以上に大変な実行作業が待ってるんだ。責任をとるなんて言って、そのしんどい仕事を人に押しつける方が無責任だと思うけど?」
これは台本にはない。紛れもないアスナの気遣いと本音だった。
なにしろこれから自分は後継者という辞任できないめんどくさい仕事をしないといけないのだ。責任取って辞退しますと言われて、ハイそうですかなんて応えるほどアスナは優しくはない。
マクロゴールは礼をするとそのまま片膝を付いた。彼はアスナの気遣いを受け入れたのだ。それを見たエルトナージュに促されてミュリカは任命書を彼の前に差し出した。
「ファイラス都市長の任、拝命いたします」
「その任命書は現時点より有効なものです。健康管理を怠ることなく職責を全うして下さることを期待しています」
「承知いたしました。両殿下のご期待に添えますよう全力を尽くします」
言葉に飾るものがない分だけ彼のやる気が感じられた。アスナは満足げに頷くとマクロゴールは退室していった。
その間にミュリカとアリオンは二人の前に置かれた書類の入れ替えを行った。それが終わり一枚目が間違いないことを確認するとエルトナージュは一度、列席者を見回し立ち上がった。
「では、軍議を開始します。本会議の目的は、第一に現有戦力の確認、第二にラメルにて陣を構えるラディウス軍に対峙する部隊の選定、第三にアスナ殿により”彷徨う者”討伐を命じられたゲームニス殿への援軍の選定とします。革命軍将兵に対する正式な裁きと論功行賞はエグゼリス帰還後とします。宜しいですね」
「誠にごもっとも」
ケルフィンの返事と、他の将軍たちから上がる追従の声にアスナは胡散臭さを感じたが、顔にそれは出なかったはずだ。何気なくエルトナージュの顔を伺ってみたが相変わらずの鉄面皮で何を考えているのか分かりづらい。
「では、第三魔軍より報告を始めて下さい」
「はっ」
返事とともに起立したガリウスはアスナに向けて最敬礼をする。リムルが重傷なので、今の彼の肩書きは第三魔軍将軍代行である。
「現在、我が第三魔軍は大きく部隊を二つに分けています。まず、ゼンを拠点としてギルティア副長以下一万の将兵が”彷徨う者”討伐に当てております。現在、ファイラスに駐留している将兵は一万二千八百五十一名。うち負傷者は五千三百八十八名、戦死者数は二千百四十九名です。ゼンの部隊を吸収すれば部隊として一応の体裁を取ることも可能ですが、その再編成に二週間を要すると参謀たちは結論づけております。また、我が第三魔軍最大戦力であり統率者たるリムル将軍を欠いているため往事と比べるべくもなく戦力は低下しております。将軍に関してはフィアナ女史より報告させます」
「お初にお目にかかります、殿下」
実はお初でも何でもなく手術後のリムルの容態を逐一アスナに報告しに来ていたのは彼女だった。第三魔軍が近衛騎団に次いでアスナから信頼されていることをあからさまにしないための言動だろう。
「現在、リムル将軍は宰相殿下の然るべき応急処置のお陰もあって経過は順調です。軍医の見立てでは二ヶ月ほどで軍務に復帰できるとのことです」
そのことも知っている。アスナとしてはこんな芝居をするのが可笑しくてならなかったがこれも仕事なんだろうと割り切って受け答えすることにした。
「分かった。リムル将軍には傷の治療に専念するように伝えて置いてくれ」
「承知いたしました」
報告を終えたフィアナに代わるようにガリウスは立ち上がった。そして、踵を打ち鳴らして略式敬礼をしてみせた。
「後継者殿下、本会議の議題について申し上げたいことがあります」
「・・・・・・どうぞ」
「我らは後継者殿下のご下命とあればラメルを不法占拠するラディウスの輩を蹴散らすことも、”彷徨う者”討伐にも加わりもしましょう。ですが、必要な物資、兵員、時間が無ければご期待にお応えできるか分かりません。その点について十分ご留意の上でご下命くださるようお願いいたします」
受け取り方を一つ間違えれば、アスナから強い叱責を受けるような発言に場内は騒然となった。
アスナが軍事行動に関して素人なのは周知の事実だ。しかし、アスナはこの場にいる誰よりも大きな戦功を上げ、尚かつ魔王の後継者でもあるのだ。
そのアスナを無能者呼ばわりするのは不敬罪にあたる可能性もある。
すかさず列席者の一人がガリウスの発言に食らい付いた。
「それはあまりに不敬な物言いではないか。殿下は準備が整い次第、魔王を継ぎ、我らが主君となられる方ですぞ。口が過ぎるのではないですかな」
それに追随するように列席者たちは頷いたり、同意の声を上げる者も出た。
彼らの意図は不敬云々を追求するためではなく、必要以上に煽ることで第三魔軍に対するアスナの心証を悪くするのが目的なのだ。
が、それは大して効果を上げてはいない。
アスナの目には「細かいことを気にするなぁ」とか「どの辺りが失礼なんだ?」といった感じに映っているのだ。素人もここに極まり、である。
詰まらないところを論う(あげつらう)列席者の方がアスナの心証を悪くしているのに彼らは気付いていない。
「そこまでにしてください。今は・・・・・・」
注意をしようとしたエルトナージュの言葉を遮るようにアスナは手を挙げた。
「アスナ殿?」
「ちょっと良いかな」
「・・・・・・どうぞ」
礼代わりにアスナはエルトナージュに頷きかけると一堂を見回した。
「ガリウス副将の意見は尤もだと思う。確かにオレは軍のことを分かっていないに等しい。そのオレがみんなに命令を下すのはみんなにとっても不安なはずだ。ガリウス副将は、何も知らないオレに部隊を送り出す上で注意した方が良い点を教えてくれただけだと思っている。だから、言うべきことはしっかりと言って欲しい。それが理由で咎めるなんてことは絶対にしないから」
そこまで言ってアスナは一度、ガリウスに頷きかけた。
「それからもう一つ。改めて言うことでもないと思っていたけど、やっぱり言っておくことにする。オレに対して必要以上に恭しい態度をとる必要はない。もちろん、余所の国からの使者や謁見を求めてきた人たちなんかがいる場合はもちろんこれまで通り。これがオレの方針だから覚えておいて欲しい。・・・・・・タルク将軍」
「はっ」
突如、呼ばれてタルクは立ち上がった。幾分、驚いた表情である。まさか、自分の顔と名を後継者が覚えているとは思わなかったのだ。
「オレのために汚れ役を勝手出てくれて感謝している」
「恐縮であります」
「エル、話を先に進めて」
「はい」
返事をする彼女の表情は先ほど以上に鉄面皮に覆われているように見えた。
アスナが上手くまとめてしまったのが面白くないのかもしれない。
「・・・・・・ガリウス副将、他に言うべきことはありますか?」
「ありません。殿下、先ほどよりの不敬をお許し下さい」
ガリウスはそのまま最敬礼をする。その姿はこれまで彼が見せたどの敬礼よりも美しかった。それはガリウスの出した試験にアスナが一応の合格をしたことを示していた。
そう、ガリウスは敢えて周囲が騒ぐようなことを言ってみせたのだ。
もちろん彼の言ったことに間違いはないし、ムシュウに派遣されるのは自分たち第三魔軍を中心とした部隊であることも予想した上での発言だった。
早い話、自身と第三魔軍の声望を掛け金とした勝負にガリウスは勝ったと言うわけだ。これによりアスナは可能な限りラメルへ派遣される部隊に便宜を図ってくれるはずだ。その上、あの受け答えで彼は個人的にアスナからさらに好感を覚えて貰えたことを意味している。
「では、第一軍ケルフィン将軍、報告をお願いします」
「はっ」
返事とともに髭の将軍が立ち上がり、大仰な態度でアスナに向けて敬礼をしてみせる。
「現在、我が第一軍の現状でありますが・・・・・・」
この一言から始まったケルフィンの報告は先のガリウスのそれと百八十度異なっている。ガリウスの報告が明確な数字と手持ちの兵を活用して動けるようになるまでに要する日数のみであったのに対し、ケルフィンの、いや彼に続く将軍たちの報告は自分の武勇が如何に優れていたかを誇る物語であった。
例えば何月何日にあった戦いで我が麾下の部隊は敵をどれだけ打ち倒したとかそう言った話が多く含まれている。
もちろん、彼らの報告の中にも正確な数字が入っていたが彼らの話に尾鰭が付いているような感があるのはどうしても否めない。彼らの話には真実もあれば誇張もあるだろう。
彼らの武勇談を耳にしながらアスナはちらりと左隣に座るエルトナージュを伺い見た。
相変わらずの澄まし顔である。そこに苛立ちのようなものを感じない。
アスナは将軍たちの報告はこういうものなのだろうと納得することにした。
それに将軍たちもこういう報告に馴れているのかなかなかの話上手なのだ。
ガリウスのような簡潔な報告も好みだが、ともすれば会議の内容が分からなくなるアスナにとってはこういう報告のされ方も暇にならずにすんで良かった。
最後にエルトナージュから首都防衛軍の現状報告及び首都エグゼリスに帰還したことが報告された。
ちなみに近衛騎団からの報告はない。内乱が終結したからこれ以上、近衛騎団がしゃしゃり出るのはあまり良くないので団長代理であるデュランは出席を控えることになった。早い話、ここから先は軍が行うべき事だというわけだ。
アスナの配下にある諸将からの報告の結果、現在必要な物資、再編成までの時間を与えれば動ける部隊がどれであるかは明確となった。第三魔軍、第一軍、第九軍、第十五軍である。
兵力不足なのだから近衛騎団も使えば良いのだが、彼らには地方の諸都市に向かわせて国民に対して、内乱が終結したことを目に見える形で知らしめる役に付くことになっている。象徴には象徴としての仕事があるのだ。
「現在、動くことが可能な部隊は第三魔軍、第一軍、第九軍、第十五軍の四つ。この中からラメルに陣を布くラディウス軍と対峙する部隊を選定することになります」
エルトナージュのこの言葉で途端に場の空気が緊張したものに変わった。
それはそうだろう。ようやく内乱が終わって一息付けると思った矢先にラディウス軍との対峙を命じられるのはたまったものではない。
こう言っては何だが、この内乱はアスナという錦の御旗を巡る争いでしかなった。
しかし、ラディウス軍との対峙はそんなに楽なものではない。下手に相手を刺激して両軍が衝突することになればあっという間に事態はややこしくなってしまうからだ。
その上、成功してもさして功績が無く、失敗すれば更迭どころの騒ぎではなくなる。
そんな神経をすり減らすような戦場に誰も行きたくないと言うのが彼らの本音だからだ。
「宰相、発言をお許し願えますか」
「なんでしょう、ケルフィン将軍」
「はい。我が国の混乱に乗じて国境を侵すのは言語道断であり、ムシュウへの派兵の重要性は承知しております。それ故、我が第一軍をそれから外していただきたい」
「どういうことでしょう。第一軍の損害が一番少ないことは先ほどの報告からも明らか。余力を残している者にこそ派兵を命じるのが筋だと思いますが」
「宰相の仰せごもっとも。ですが、先日の決戦では我らは命令伝達の遅れから、第三魔軍に多大なご迷惑をおかけしてしまいました。リムル将軍、ガリウス副将ともに私どもの謝罪を受け入れて下さいましたが、将兵全てがそうであるとは限りません。長期の対陣が確実である以上、起こりうる無用の軋轢を未然に防ぐべきと心得ます」
まことにごもっともなのである。先の決戦の後から第三魔軍と第一軍の将兵の間に微妙な空気が流れている。そのことはアスナとエルトナージュは耳に挟んでいる。
こう聞くとケルフィンは初めからこのような展開になることを予期して攻撃開始を遅らせたようにも思える。しかし、それを追求したところで証拠がないので意味はないが。
「殿下、宰相。ご賢察をお願いいたします」
小難しいことになってきたなとばかりにアスナは腕を組んで小さく唸った。
ケルフィンの意見はアスナの耳にも的を射ているように聞こえる。だが、どうしても胡散臭さを消すことが出来ない。
決戦前の軍議で革命軍側についた士官全てを処分するとケルフィンが言ったから、そう感じるのかもしれないとアスナは思った。
ここで不用意なことを言って場を混乱させるのは拙いだろうからと、アスナはエルトナージュの発言を待つことにした。
その彼女は鉄面皮の下で色々と考えているようだった。
エルトナージュは数秒ほど瞳を閉じて黙考するとこの場での結論を出した。
「ケルフィン将軍のご意見は尤もなことと思います。確かに国境地帯への派兵は重要なことです。派兵する部隊の選定は慎重を要すること。必要な物資の集積まで時間があります。その間に討議を重ねて派兵する部隊を決定しましょう。アスナ殿もそれで構いませんね」
「あぁ、慌ただしく選んで問題が出ても困るからな。けど、ムシュウには二ヶ月分の物資しかないから遅くとも二週間後には部隊を決めないといけない。そのことを頭において貰いたい。オレから言うことはこれぐらいかな」
そこまで言ってアスナはもう一度、コップの水を飲んだ。
「あぁ、そうか。ムシュウ行きが誰になるか分からない以上、大将軍への増援も決まらないわけか」
「そうなります」
エルトナージュの目がごく僅かながら細められたように見える。
”彷徨う者”を滅ぼすことを最大の目的としている彼女にとっては由々しきことだろう。とはいえ、拙速に決めてしまっても国境での両軍の睨み合いが不測の事態となっても困る。
決定を先延ばしにしたエルトナージュの判断はそれほど悪くはないだろう。それでも決まらない場合はアスナがエルトナージュの意見を聞いた上で決めれば良いだろう。
「とりあえず今決められる事はないわけだ。ということで今日の軍議はこれで終わりにしよう。エルも良いな」
「はい。今日のところは各部隊の戦力が確認出来ただけでも成果があります。みなさん疲れていることと思いますが自軍の再編を急いで下さい。以上です。みなさん、ご苦労様でした」
閉会の言葉と同時に一堂は起立し、一斉にアスナとエルトナージュに向けて敬礼をして自分の仕事に戻っていった。最後まで残ったのはお偉いさん二人とその秘書役二人のみだ。
さすがにアスナの身内とも言える者だけが残ると身体がだらけてしまう。
「お二人ともご苦労様でした」
柔らかな香りとともにミュリカは二人の前にお茶の入ったカップを置いた。
アスナは礼を言うと早速一口飲んだ。暖かな紅茶が身体の全体にしみいるような気がした。そこで初めて自分が緊張していたのだと気が付いた。
「アリオン君、次の予定は?」
「あっ、はい。一時間後にエグゼリスから届いた書類の決裁をお願いすることになっています」
決裁と言っても大げさなことではない。すでにエルトナージュが承認した書類に署名するだけのことだ。
「ってことは予定よりも早く終わったのか。なんかまとめると将軍たちの自慢話を聞いたって感じがするだけだったなぁ」
「そんな身も蓋もないこと仰らないで下さいよ」
どことなく情けない声を出すミュリカ。しかし、事実は曲げようがなかったりする。
「どっちにしろ、しばらくは軍を動かせないってことか」
アスナは立ち上がると大きく背伸びをした。そして、未だに鉄面皮を外さないエルトナージュに声をかけた。
「エルはこれからどうする? オレは遅めの昼飯にしようと思ってるけど」
「私は後で貴方に届ける書類に不備がないか確認をします」
「分かった。それじゃ、一時間後に」
ひらひらとアスナは手を振りながら退室していった。
が、すぐにまた扉が開いた。顔だけを会議室に入れたアスナがいた。
「そうだ。今晩、何か用事が入ってる?」
「なにもありませんが、それがなにか?」
余りに子どもっぽいアスナの態度に彼女は目を瞬かせた。
ほんの少しだがエルトナージュの鉄面皮がずれたように見える。
「だったらさ、遅くなっても良いからオレの部屋に来てくれないかな。色々と話したいこともあるし」
「・・・・・・構いませんが」
ん、と安堵の笑みを見せるとアスナは「それじゃ、また後で」と言い残すと今度こそ本当に会議室から出ていったのであった。
ガチャンと些か重い音を響かせて今度こそ扉はアスナの姿を隠した。
何となくミュリカと共に彼を見送ったエルトナージュは、思考を次の仕事に向け始める。手元に置かれた資料を集めて、長卓の上にトントンと落として角を揃えてやる。
書類に目を通しても三十分少々余裕が出来る。短いがその間にお茶にするのもいいかもしれない。
そのことをエルトナージュ付きの侍女であるシアに伝えてきて貰おうと、ミュリカに顔を向けた。が、彼女は先ほどと変わらずアスナが去った後の扉を呆然と見ている。
「・・・・・・ミュリカ?」
まるで声をかけられるのを待っていたかのように、彼女は勢い良く振り返ってエルトナージュに詰め寄った。今にも飛びかかってきそうな勢いだ。
「どーしましょう、エル様。お誘い受けちゃいましたよ!」
あまりの勢いに幾分、エルトナージュはたじろぐ。
「こう言うことに関しては奥手っぽいと思ってたのに。アスナ様って意外と大胆だったんですねぇ」
興奮しているのか感慨に耽っているのか判別しにくい空気を纏いながら、ミュリカは同意を求めるでもなくそう呟いた。
「何を言っているんですか、貴女は」
十二分に呆れの色が混ざっている。アスナと自分との関係はそんなものではないのだ。
誘いを受ける受けない以前に友好的な関係ですらないのだから。
・・・・・・そう、絶対にそんなことにならないんだから。
幻想界の存在すら知らなかったアスナを魔王に据えるために幻想界(こちら)に召還したにも関わらず、自分は彼を魔王の後継者として認めないとまで言ったのだ。
それだけではない。これまでも何度か彼に対してきついことを言った。
アスナは現在、望みうる最良の条件を掴み、この内乱を宣言したとおりに収めた。しかし、自分はそのことに感謝や賞賛、それ以前に心からの労いの言葉すらかけていない。
彼にかける言葉はどれも上辺だけ。内心では彼の手腕への嫉妬と、人族に対するどうしようもない憎しみが燻っている。
彼さえいなければと、アスナと合流してから何度思ったか分からない。実際に行動に移ろうとしたことも一度や二度ではない。
その彼女を思いとどまらせているのは彼を高く評価している自分もいるからだ。
ミュリカを初めエルトナージュに近い近衛騎団の団員たちが彼に敬愛の、もしくは友愛の感情を抱かせ、アスナ自身も近衛騎団に全幅の信頼を寄せていること。
宰相や王族の肩書きなど最初からないかのように話しかけてくるアスナに腹立たしさと同時に、ほんの僅かだが心地よさを感じたことをエルトナージュは認めていた。
だが、彼女は一番初めに彼を拒絶したのだ。幻想界に召還され、自分でも無茶だと思う夢を聞いても、真っ直ぐに差し出してくれた手を拒絶したのだ。
今更、心の鉄仮面を外してアスナと正面から、友人のように話をするなんてことはできない。何より今のエルトナージュはそう望んでいないのだから。
しかし、ミュリカはエルトナージュ自身が定める立ち位置を無視して興奮の度合いを上げていく。僅かながら頬が上気している。
「何って、今晩のお誘いのことじゃないですか」
「お誘いも何も、今後のことで聞きたいことや相談したいことがあるんでしょう」
全くもってその通りな言葉だが、ミュリカは気合いを込めて両の掌を長卓に叩き付けるとそれを全面否定した。少しだけ痛そうな顔をしたのはご愛敬。
「い〜え、絶対に違います! 宜しいですか、エル様。もし、万が一アスナ様にエル様とご相談したいことがあったのなら、どうして今からそれをしないんですか? 一時間っていう時間は短いようで意外と長いですよ。一日は二十四時間。その二十四分の一もあれば二つや三つぐらいの相談は十分に出来ます」
ミュリカが身を乗り出して畳みかける分だけ、エルトナージュは身体を後ろに仰け反らせる。ちょっとやそっとではお目にかかれない光景である。
「彼も遅めの昼食をとると言っていたでしょう。馴れない軍議の後で一人でゆっくりと休みたかったと考える方が自然です」
「アスナ様のことをまだお分かりになってませんね。アスナ様は私たち近衛騎団をとことんまで振り回した方ですよ。緊張して疲れた何てことはあっても、一人になりたいだなんて思うほど細やかな神経の持ち主じゃないです!」
酷い言われようだが、これが近衛騎団としての見解なのだから仕方がない。
むしろこういう見られ方をされるアスナの方が悪いのかもしれない。
「って、話の流れを変えないで下さい!」
再び長卓を叩き付けるミュリカ。
「変えたのは貴女でしょう」
先ほどよりも強く叩きすぎたのか、手を振って痛みを消そうとする彼女を醒めた目でエルトナージュは見る。それを敢えて無視しながら、痛む手に息を吹きかけつつ、ミュリカは話を進める。
「ともかくですね、夜のお誘いなんです。アスナ様、きっとその気ですよ。あっさりと構いませんってお返事されたから、きっとかなり気分が盛り上がってるはずですよ」
そう言われるとエルトナージュも不安になってくる。
彼女にその気が全く、欠片もないからと言って、アスナもそうであるとは限らない。
それに仕事の合間にミュリカから聞かされる行軍中での出来事の中に他の団員に混じって女性団員の着替えや沐浴を覗き見しようとしていた話があったこと。
そして、ファイラスで合流したときにアスナが自分に向けた好色そうな視線を思い出した。今更ながら早まったかも知れないと自分の言葉に後悔し始める。
エルトナージュの表情にそれが現れたところを見計らってミュリカは追い打ちをかけ始める。
「今更、そんな顔なさってもダメですよ。もうお約束しちゃったんですから」
「急用が出来たと、例えばエグゼリスから至急わたしの決裁を求める案件が届いたと言えば」
俯きながら呟くように方策を口にするエルトナージュをミュリカはあっさりと否定する。
「エル様はまだお認めになってませんけど、一応アスナ様は魔王の後継者なんですよ。しかも、最近じゃそれを自覚してるみたいですし。エル様が至急の案件が届いたからなんて仰れば絶対に首を突っ込んできますよ。そうなったら嘘だってすぐにばれちゃいます」
そこまで言うとエルトナージュを見捨てるように少しだけ背を向けた。
「今晩、用事があるか尋ねられた上でのお誘いをお受けしたんですから、もう逃げ道はありませんよ」
言い含めるように告げると彼女は大きく頷きかけた。
「覚悟を決めましょう、エル様」
「・・・・・・・・・・・・」
エルトナージュの沈黙を同意と意図的に曲解したミュリカはさらに言葉に熱を込める。
「そうと決まれば段取りを決めないとダメですね」
そう言うと彼女はわざとらしく右の人差し指を振りながら段取りを決めていく。
「とりあえずいつも以上に気合いを入れてお肌を磨かないと。それから薄化粧を施さないといけませんね。香水はやめておいた方が良いかな。ジュギョウサンカンがどうので良い思い出がないとか仰ってましたし。それから新しい・・・・・・」
「それではまるでわたしが・・・・・・みたいじゃないですか」
肝心な部分がミュリカには聞こえなかったが、エルトナージュが何を言ったのかはすぐに察することが出来た。
「そんなことありませんよ。シアさんがいつも仰ってるじゃないですか。いつ如何なる時でも出来うる限り、身だしなみを整えておきなさいって」
「それは、そうですが」
言いながらエルトナージュは困った顔をしながら纏っていた外套で少し身体を隠す。
彼女のそんな態度に心の中で満足する。ミュリカの術中にエルトナージュが填った証拠だからだ。こんな子どもだましなことを言って彼女を言いくるめられるのはミュリカとシアだけになってしまった。それが嬉しくもあり、寂しくもあるミュリカだった。
ともあれ、今は良くも悪くもアスナのことを意識してもらうことが先決だと、ミュリカは未来の希望へと目を向けた。
今のエルトナージュにとってアスナは認めがたい魔王の後継者であり、大きな功績を挙げた嫉妬の対象。そしてなにより、嫌悪すべき人族なのだ。
宰相の責務という重石がエルトナージュの頭上にあり、順調に物事が進んでいる今は大丈夫だが、不測の事態が起きたとき彼女がどういう行動に出るのか分からない。
正直、今のエルトナージュは物凄く不安定な状態にある。
だからこそ、積極的に彼女の不安定要素たるアスナとの仲を取り持とうと頑張っているのだ。くっつくことはなくても、せめて友だちになって欲しい。
もちろんサイナには申し訳ないと思ってる。だが、彼女とエルトナージュとを比べると、どうしてもエルトナージュの味方をしてしまうのは仕方のないことだ。
内心の微妙な葛藤を押し込めて、
「そう言うわけで、シアさんにその辺りのことをお願いしてきますね」
そう言うとミュリカは笑顔で回れ右をする。彼女の動きに迷いはない。むしろ楽しげだ。
「・・・・・・ミュリカ」
期待したとおりにエルトナージュに呼び止められた。思惑通りにことが運ぶことが楽しくて、それでも彼女は笑い出したいのを堪えながら振り返った。
ここ数年、見せてくれなかった困った顔をするエルトナージュがなにを言ってくるのか確信しながら。
ファイラスはラインボルト第二の都市と呼ばれるだけあって、国内はもとより他国の重鎮も多く来訪する。
賓客の多くはファイラスに都市経営のノウハウを教えて貰うと称してやってくるが、彼らの主目的はこの地に根を下ろす大商人たちとの商談だ。
そんな彼らを歓待する迎賓館は長い歴史を持つ。
リーズがまだ帝国を名乗れるだけの権威と国力を有し、また現在のラインボルト領がリーズから独立する以前からあるとされる古い建物だ。
もちろん、その長い歴史ゆえに何度も修繕と一部建て直しをしているが、外観の意匠はリーズ統治時代からさほど変わっていないと言う。
それはファイラスが独立前まで現ラインボルト領を統括する総督府があったことへの誇りから来ているのかもしれない。
ともあれ、国内外の重鎮が訪れる迎賓館の最上級の客室が今のアスナの部屋となっている。アスナが幻想界(こちら)に来たばかりの頃に宛われた、王城の一室よりもさらに上等だろう。
調度のことなどアスナには分からないが、それでも一つ一つが酷く高級なのが分かる。
何というかそこらにある物と雰囲気からして違うのだ。だが、それも嫌味さはない。
王城の一室と同じように調度たちが嫌味さを打ち消し合っている。
夜となり雨も止んだが、冷気はまだ色濃くファイラスに残っている。アスナのいるこの部屋は魔導珠を用いた暖房器具が部屋を暖めているが、少しそれから離れると肌寒く感じてしまう。
もっとも、一人でエルトナージュを迎える準備をしているアスナには肌寒さは殆ど感じられないのだが。
大まかにだが準備を終えたのを見計らったように扉がノックされた。
「はいは〜い!」
返事をしながら扉に向かい、開けた。
そこには顔一杯に「わたしは、不機嫌です!」と太筆で書かれたような顔をしたエルトナージュが立っていた。彼女は頬は僅かに赤くして、上目遣い気味にアスナを睨んでいるものだから、可愛いんだか、怖いんだか分からない。
日中は必要以上に鉄面皮を装っているだけに、今の彼女との差にアスナも少し狼狽えてしまう。
「えっと。ひょっとして無茶苦茶忙しくて無理させた?」
「約束通りに来ただけです。貴方が気にすることではありません」
「ま、まぁ。それはそうなんだけど、さ」
それでもやっぱり彼女の纏う雰囲気に気圧されて、自分の方が悪いことをしているんじゃないかって気になってしまう。
「そうじゃなくてですね。初めて殿方のお部屋に誘われて緊張なさってるんですよ」
「ミュリカ!」
と、エルトナージュの背から顔を出すとイタズラな笑みを見せた。
「こんばんは、アスナ様。一人じゃ不安だから一緒に来て〜って、エル様にお願いされたのでついて来ちゃいました」
そこまで言って彼女は小さく舌を見せた。
「わ、わたしはそんなこと言ってません! 変なことを彼に吹き込まないで」
「ホントのことじゃないですか。初めはお一人で行くつもりだったのに、私と話しているうちに勝手にイロイロと想像して不安になったから、エル様が付いてきてって仰ったんじゃないですか」
「それはミュリカが・・・・・・。何をおかしな顔をしているんです!」
二人の掛け合いがあまりにも余人が知る彼女たちとはかけ離れているのが可笑しくて、アスナは笑いを堪えていた。どうにか笑いを飲み込むと、
「大丈夫大丈夫。エルが考えてるような事はしないから」
「わたしは不埒なことなど考えてません」
「別にオレは、エルが不埒なことを考えてるなんて一言も言ってないけど」
こんなあからさまなことに填められたと、エルトナージュは顔を真っ赤にした。
「考えてません!」
不機嫌な、それでも恥ずかしげな顔を背ける。
そんな彼女を可笑しそうに見るアスナは改めて、彼女の表情を変えるのは面白いと再確認するのであった。
「良いですか、そんなことを考えてここに来たのではありませんから!」
「はいはい。そういうことにしておくよ」
「違うと言っているでしょう! ちょっ、聞いているんですか!」
「聞いてるって。それよりもここで立ち話しててもしょうがないし。中にどうぞ。ミュリカも」
人前では、ミュリカの前ですら一線を引くようになったエルトナージュをこうもあっさり素面にしてしまうアスナに、感嘆とともに少しの嫉妬の混じった目でミュリカは見ていた。そこに声をかけられたものだから少し戸惑ってしまう。それでも表情は変わらず笑顔だ。
「よろしいんですか?」
「良いよ。あんな言い方をしたから、心配してミュリカが来ると思って三人分、お茶の用意おいたから。それに・・・・・・」
そこまで言ってアスナはエルトナージュの方に視線を向ける。そこには、からかわれただけだと気付いたエルトナージュが憮然とした表情でアスナを睨んでいる。
はっきり言ってかなり怖い。美人はどんな表情でも迫力がある。
「お怒り遊ばされてるお姫様を宥めるのを手伝って貰わないといけないしさ」
「それで、話とはなんです?」
部屋に通されたは良いものの、アスナにからかわれてご立腹なエルトナージュは喧嘩腰でそう言った。本人は抑えているつもりかも知れないが、怒りで放出された魔法力で彼女の周囲が蒼白く光っている。はっきり言ってかなり怖い。
「あ、あぁ。えっと、今日の軍議の反省会と、これからのことの相談を、な」
対するアスナもやりすぎたかもと、ちょっと腰が退けている。
近衛騎団とともに戦陣にあるときから、何かにつけて色々と怒られてきたアスナだが、真っ正面から敵意の混じった怒気をぶつけられたことはなかった。
その二人をエルトナージュの背中から見ていたミュリカは、やっぱりこうなったと小さくため息をもらした。そしてエルトナージュをからかう片棒を担いだ責任もあるミュリカは、率先して二人の間に横たわる危険な雰囲気の中に入っていた。
「軍議と言えば、ガリウス副将とタルク将軍の言い合いを上手く纏めましたよね。いつもみたいに実力行使するんじゃないかって、冷や冷やしましたよ」
実力行使とは、拳骨と説教である。戦陣にあるときにもめ事が起きたとき、当事者はもちろん、それを見ていた者の話を聞いた上でどちらが悪いのかアスナは裁いてきた。
その取っ掛かりとしてまず行うのが、この実力行使だった。
アスナもそのことを言われているのだと分かっているので、苦笑を浮かべる。
「あぁ、あれ? あれはアスティークさんの真似。ほら、騎団で軍議をやるときにも何回か今日みたいなことがあっただろ」
「今のを参謀長が知ったら感動して泣いちゃいますよ。私の言葉をしっかりと聞いて下さっていた〜、とか言って」
アスナの顔に照れ笑いが浮かぶ。
「うん。でさ、その時のアスティークさんが格好良かったから、いつか絶対にやってやろうって思ってたんだ。意外と早くその機会がきてオレも驚いてるけど」
と、思いっきり楽しそうに笑った。これまでアスナにとっての軍議とはそういう事だったのだ。何を話し合っているのかは分かっていも、内容はさっぱり理解出来ないから、こんなところを見ていたのだ。
エルトナージュとミュリカに呆れの表情が浮かんでいることに気付かないように、アスナは二人に椅子を勧め、人数分のお茶の準備をしながら話を続ける。
「けど、そういうのを差し引いてもどっちが悪いって訳でもないんだからさ。ガリウス副将はちゃんと準備してくれないと満足に働けないから注意して欲しいって釘を刺してくれただけだし、タルク将軍にしたってお飾りのオレを持ち上げてくれただけなんだしさ」
アスナのことを後継者だと認めていないと言っているエルトナージュだが、アスナが自分でお茶の準備をするのにいい顔をしなかった。だが、ミュリカが「アスナ様の趣味みたいなものですから」と小声で言って抑える。
「はい、お茶。シアさんほど上手じゃないけどその辺は勘弁な」
「いえ、・・・・・・ありがとうございます」
からかわれたことを忘れていない。だが、今のアスナの話に−−思いっきり呆れたけど−−少しだけ感心したので、エルトナージュはこれ以上怒るのを止めることにした。
彼女の雰囲気でそれを察したのかアスナもホッとした表情を浮かべる。
「けど、外野の雑音は嫌な感じだったな。そうだそうだって言うぐらいながら、どこが悪かったのかとか言えばいいのに」
受け取ったお茶を一口飲んだエルトナージュは今のアスナの話に、これだから、と小さくため息を漏らした。
「貴方は人を良い方に見過ぎています」
「そっかな」
「タルク将軍らがあのようなことを発言したのは、第三魔軍への悪印象を貴方に植え付けようとする一環です。この内乱で大きな戦功を挙げたのは近衛騎団と第三魔軍のみ。将軍たちからすればそれが面白くないんです。論功行賞のこともありますから」
エルトナージュの説明にアスナは腕を組んで唸った。
「それは思い過ごしだろ。ファイラスでエルたちがフォルキス将軍を抑え込んでくれてたから、オレたちが自由に動けたわけだし」
「・・・・・・・・・・・・」
エルトナージュは何と返せばいいのか言葉に迷う。
自分が嫌われていることを彼は知っているはずだ。その上でミュリカたちと接するのと変わらない態度をとられるととても困る。それが自分を評価するものだったら尚更だ。
・・・・・・エル様、こういうのに馴れてないからなぁ。
と、それを察したミュリカはアスナの注目を自分に向けようと少し強引に話題を逸らした。
「そう言えば、論功行賞はどうなさるおつもりなんですか? ・・・・・・あっ、お聞きするのはいけませんよね」
「聞くも何も、オレだって今日の軍議で論功行賞はエグゼリスに帰ってからって聞いて驚いたんだから」
「えっ。もしかして、エル様。論功行賞っていう大切なことをアスナ様とご相談なさっていなかったんですか!?」
小さく頷くエルトナージュに、ミュリカは驚いた。
内乱の後始末や、ラディウス問題。”彷徨う者”の掃討などやることは多いが何にもまして先にやっておかないといけないのが論功行賞のはずだ。
エルトナージュは文官の長である宰相だが、その重要性を知らないはずがない。
「エグゼリスに帰ったら発表するって言っちゃったんですよ。間に合うんですか?」
「各部隊の戦果は軍功帖に纏めています。後は・・・・・・」
「ちょっと待った」
アスナの制止に二人の視線が彼に集まる。放っておかれたためか、少し目が細められ、口が尖っている。
「論功行賞ってつまりあれだろ。余所の国の土地をぶんどって手柄のあった人に分配するってヤツ。けどさ、今回のこれは内乱だから土地なんか増えてない。そんなので論功行賞なんて出来ないんじゃないのか?」
つまり、アスナが思い浮かべる論功行賞とは戦国時代のそれと同じなのだ。
何某を攻め滅ぼした戦で功績があったので、貴様には何石加増してやろうみたいな感じだ。
「それにラインボルトには領主なんかいないんだろ? そう聞いていたけど」
そうなのだ。ラインボルトは君主として魔王を戴いているが、王を支えるのは貴族ではなく試験や面接、技能などで選抜された官僚たちだ。
血縁ではなく、力の継承によって魔王の位が禅譲されるのに、貴族は血縁によってその位と権力を譲り渡していくなど不可能だ。何より国民が納得しない。
それ以前にラインボルトは独立戦争時にリーズ貴族を全て抹殺、もしくは追放してしまったので、建国当時から貴族おらず、有力者の貴族化もなされなかった。
しかし、それでも例外はあったりする。
「領主のような者は、います」
と、エルトナージュは言った。
「・・・・・・えっ、そうなの?」
「歴代魔王の数少ない子孫が領主として、地方の小さな町を与えられます。極小規模ではありますが、貴族のような扱いを受けています」
と言ってもラインボルトの王族制度は、あまり良いものでもなかったりする。
領主と言っても与えられる権限は都市長に毛が生えた程度だ。それに好きかってやったり、地方行政官として不適格と判断されると領地召し上げとなる。
そんなことになれば、なまじ王族の名がある分だけ不名誉さは増すことになる。ラインボルトの王族は常にそういう緊張感の下で領地経営を行っている。
「へぇ。けどさ、そんなことやってたらそこら中に小さな領主が出来て収集付かなくなるんじゃないのか? 確かエルの親父さんが七十六代目だろ。それに子どもが一人っきりってこともないだろうしさ」
「・・・・・・現存する王家は八家です」
考えていたよりもずっと少ない数にアスナは「えっ」と聞き返した。
「わたしを含めて八家のみだと言ったのです。魔王はある意味、完全な存在です。ですから、力を継承すると・・・・・・」
そこで何故かエルトナージュはアスナから視線を逸らした。なんだ、とアスナは首を傾げる。三秒ほどの間を空けて、彼女は話を再開した。なぜか頬が少し赤い。
「その、生殖能力が著しく低下するのです」
「良い例として第五十一代魔王のルーディス様がいますよね」
第五十一代魔王ルーディス。それは拡大王の異名を持つ英傑の名である。
彼の異名が示すとおり、彼の在位中の基本政策は領土拡大であった。彼の指導の下、ラインボルトは数々の中小国家を併呑していった。
その数、十二カ国。
後にも先にもこれだけの国を攻め滅ぼした魔王は彼一人しかいない。
軍事に強い者は反面、政務には弱く疎んじる傾向にあるが、ルーディスはそうではなかった。政務も戦争の一局面であると見ていた彼は、そちらを疎かにすることはなかったからだ。事実、彼の政策を見習い、または踏襲する魔王はかなりいるし、今もその施策を発展させた政策が行われることがある。
知名度の面では初代魔王リージュには及ばないが、ラインボルト史を学ぶ者にとっては最も興味深い時代の主人公がルーディスなのだ。
このように煌びやかで華々しいルーディスだが、彼には聞く者に苦笑される異名もあった。
それが好色王の異名である。
彼は攻め滅ぼした国の王族や貴族の美姫、街で見初めた一般の女性を次々と寵姫にしたことでも有名だった。
公式、非公式に関係なく彼の寵愛を受けた女性の人数は三桁を超えていたのではないかと言われている。それだけ活力に溢れた彼でも一人も子どもを作ることが出来なかった。
この話を冗談交じりでミュリカは話した。彼女の話はリージュの物語と同じように正確だ。なぜなら、リージュとはまた違うがルーディスも近衛騎団に愛された魔王だから。
アスナはそれを楽しげに聞いていたが、目だけはどこか冷淡だった。
エルトナージュたちはそのことに気付くことはなく、話は論功行賞に戻っていった。
「簡単に言いますとラインボルトでの論功行賞は勲章や特別給与、宝物殿に収められている物を下賜することで行われるんです」
そこまで説明したミュリカの後を続けるようにエルトナージュも口を開く。
「ですが、今のラインボルトには財政的な余裕はありません。少なくとも将兵を満足させるだけの褒賞を与えることは難しいのです」
もっとも、戦後の論功行賞はどんな場合でも難しく、財政的に厳しいことに変わりがない。何しろ自分が財政危機を迎えるのと同じように、敵もまた財政危機に陥っているのだから。敵から奪った金品を分けようにも、それが無いというわけだ。
「だったらさ、ちゃんと事情を話して論功行賞は無しってことにすれば良いんじゃないのか? みんなだって国の財布に余裕がないのを知ってるはずだろうし」
ミュリカのルーディスの物語が意外と長かったため、すでに皆のカップにはお茶が無くなっている。アスナは一人一人にティーサーバから注いでやる。
だが、エルトナージュは小さく首を振ってアスナの考えを否定した。
「理屈では分かっているでしょうが、感情ではそれを許さないと思います。何であれ、彼らは命を懸けて戦い、勝利を掴んだのですから。それにここで論功行賞を中止すれば、次に何かあったときに軍が言うことを聞かなくなるかもしれません」
「あぁ、なるほどなぁ」
アスナの口からため息が漏れる。疲れの色が少し濃いようにミュリカには思えた。
「なんて言うか、エルから回されてくる書類に目を通すだけでもしんどいのにそんなこともやらないといけないのか」
アスナは疲れたように呟くとそのままずるずると椅子から滑り落ちていく。
毛足の長い絨毯が柔らかくアスナを受け止める。
「行儀が悪いです」
エルトナージュの注意が飛ぶがアスナは生返事をするのみ。ノロノロと椅子に座り直すとお茶を口に運ぶ。柔らかな香りが疲れを和らげてくれるような気がする。
気を取り直すようにアスナは一度、背筋を伸ばすと、
「それで、エルはどういう論功行賞をするつもりなんだ?」
「すでに大蔵卿に宛てて褒賞に使うための予算を割り振るように指示しています。将兵全てを満足させることは不可能でしょうが、与えないより、はるかにましでしょう」
「なるほどなぁ。まっ、その話はそのまま進めるとして、次なんだけど・・・・・・」
言いながらアスナは立ち上がると、ベッド脇のテーブルに置いていた書類を持ってきた。
書類にはアスナの自筆で、なにやら色々と書かれている。
「ムシュウに誰を向けるかも決めないといけないんだよな」
そして、エルトナージュの前に現在のラインボルト軍の兵力を大まかに纏めた書類を置く。書類に記載されているのはアスナ派に属している部隊のみだ。
ファイラスで投降した革命軍部隊が記載されていないのは、然るべき裁きを経た後で再編成しなければ使えないからだ。数が揃っていても部隊として使えなければ烏合の衆でしかない。
「今日の軍議の前までは第三魔軍を中核にして、そんなに損害のなかった第一軍と、第三魔軍との連携が上手くいった第十二軍をムシュウに先行させて・・・・・・」
手にしたペンで第一軍と第十二軍に丸印を付ける。
「ある程度兵力を取り戻した部隊を順次送り込んでラディウスに対抗しようって思ってたんだけど。付け髭があんな事言い出したから。第三魔軍と第一軍ってそんなに仲が悪いのか?」
付け髭とは第一軍のケルフィン将軍のことである。
彼の髭がどこか立派すぎて嘘臭いのでアスナは彼のことをそう呼んでいる。
「険悪とまではいきませんが、良好だとは言えません。第一軍の動きが遅かった分だけ辛い戦いを強いられたのは第三魔軍ですから。それに第十二軍としても同じで、第一軍の一部部隊に攻撃されては良い感情を持てるはずがありません。ラディウス軍と長期の対峙が予想される以上、問題を抱えた編制で向かわせるべきではありません」
「となると、部隊として使えるのは近衛騎団になるんだけど、これ以上頑張って貰うと第三魔軍と同じように軍から嫉妬されるだろうし・・・・・・」
と暫く天井を睨みながら何事か考えていたアスナは、身を乗り出すように提案した。
「例えば一時的に一般軍のどれかを解散させて、他の部隊に吸収させるってのは出来ないかな? 少なくとも穴の空いた部隊よりもましだと思うけど」
「出来なくはありませんが、解散を命じられた将軍が部隊を簡単に手放すとは思えませんよ。それに手放させたとしても、正常に運用させるためにはやはり訓練が必要になります」
「かと言って、ラメルのラディウス軍を放っておくわけはいかないんだよなぁ。向こうを誉める訳じゃないけど、ラディウス軍ってこう整然と隊列を組んでて・・・・・・」
と、身振り手振りを加えてラメルで目にしたラディウス軍の様子を話すアスナをエルトナージュは鉄面皮を幾分ずらした真剣な表情で聞いている。
決して良好だとは言えない二人が、一つの目的のために頭を悩ませたり、話をしているこの光景は不謹慎かもしれないが、ミュリカにとって嬉しいものだった。
これをきっかけに少しずつ話をする切欠を二人が自発的に作ってくれるようにしてもらわないといけない。
未だ混乱の続くラインボルトのためにも、そしてこの二人のためにも。
「お茶、入れ直しますね」
この手の話題には立場上、彼女は口出しできない。だったら、出来るだけ今の環境を良い方に向けるよう心を配ることにした。
何より二人ともほんの少しだけ距離を縮めてくれたと思うから。
雨足は遠のき、カーテンを開けてみれば、空を埋めるかのような星の煌めきが見える。
強い幻想を纏う英雄は天に昇り、星座になると信じられていた時代に作られた星座たちが、地上の夜を見下ろしている。だが、星座となることが許されたのは太古の英雄のみ。
現在の英雄は星にはなれず、書物の中に消えていく。それが少し寂しいようにミュリカには感じられた。
半開きとなっていたカーテンをサッと閉めて、ふと視線をベッド脇のテーブルに向けた。そこにはアスナの字で色々なことが書き散らかされている。
これまでの疑問点を纏めたものだったり、将軍たちの特徴や経歴、これから何が待っているのかなど、人づてに聞いたことやエルトナージュから渡された書類に書かれたことを一生懸命に自分の中に消化しようとした証だった。
以前、アスナは「どうやったらみんなが胸を張って自慢できる主になれるか考える」と言っていた。この走り書きの紙の束は、アスナの頑張りそのものだ。
自分と何の縁もなかったラインボルトのために、軍のことも政治のこともよく分からないのに必死に追い付こうとして、本当に良く頑張ってくれている。
ミュリカはテーブルに向かい合って相談をするあの二人が似ていると思っている。
性格や趣味、嗜好その他諸々違うところは多いが、根本は一緒だと。
それだけにミュリカは不安になるときがある。ちょっとした拍子で躓いたときプッツリと切れてしまうのではないかと。
だからこそ、二人には共に在って欲しい。
初めはエルトナージュの支えになって欲しいと思っていた。だけど、今は共に在って欲しいと願っている。二人の友人として、心から、そう願っている。
ふと時計を見れば、針はすでに十二時を指そうとしている。
二人とも早朝から動き回っていたので、そろそろ疲れも溜まり始めていた。
「今日はこれぐらいにしよう。あんまり根を詰めても良いことないだろうし」
「そうですね」
あっさりと同意するエルトナージュにアスナは少し拍子抜けした。しかし、そう思ったことを顔に出さないように注意しながら、だらけた姿勢を正す。
「とりあえず、今日決めたことを纏めようか」
アスナの言葉にエルトナージュは頷いた。
「論功行賞についてはエルが言ったとおりに進める。けど、何か思いついたらちゃんと話して検討すること」
「そして、ラディウスに関してはアスナ殿の提案通り、第三魔軍を中核に第四軍、第十二軍をムシュウに派遣。第四軍、第十二軍の兵力補充のために補給担当だったバクラ将軍の第九軍を解散させる」
繋げるように言ったエルトナージュにアスナは頷く。
「それで、バクラ将軍は軍の輜重局を拡大させた部署の責任者に勲章付けて栄転させる」
幻想界の統一を考えると、どうしても長期の兵站活動に耐えられるだけの組織が必要になる。これをバクラに任せようと言うわけだ。
実際、彼はこの内乱で物資の損失を最小限に抑えることに成功している。アスナが提案したこの人選にエルトナージュも異論がない。
それに都合の良いことにバクラ自身がこの場にいないし、第四軍は革命軍にファイラスを制圧された汚名を濯ぐことが出来る。また若輩として将軍たちから軽く見られている第十二軍のネイト将軍に箔を付ける事もできる。何より、将軍たちの了承も得やすいということもある。
「そして、兵力補充後の訓練はムシュウ近郊で行う。この際、ラディウス軍を刺激しないよう向こうに軍使を送って、訓練の日程を知らせておく」
どちらにせよ軍の再編成のためには訓練をしないといけないのだ。だったら、それを逆手にとり、ラディウス軍の牽制に使えばいいと言うわけだ。
それにようやく平定されたラインボルトにこれ以上の領土侵犯を行えば、他の大国から非難されることは間違いない。
対峙が長期に渡ることはあっても、舵取りを上手くすれば乗り切れるはずだ。
「それから駄々をこねるリムルの説得はオレが担当する」
ある意味、バクラの説得よりもこちらの方が大変だ。ようやく内乱が終わってヴァイアスと一緒にいられる状況となったのに、今度はいつ終わるか分からないラディウスとの睨み合いを命じられるのだから。アスナも少しぐらいなら無茶なわがままを聞くつもりだ。
今日、決まったのはこの二点のみだ。”彷徨う者”の対処や国内避難民の問題など決めることが山積している。正直、これでは先が思いやられる気分である。
それでも、当面の問題二つに一応の方針が固まったのは気分を楽にしてくれる。
「さてっと」
思いっきりアスナは背伸びをする。ゴキゴキッと背中が悲鳴を上げるのがちょっと気持ち良い。ついでに首も回してみる。こちらも盛大な音がした。
「ふぅ。・・・・・・二人とももうちょっと時間良いかな?」
「別に構いませんが、まだ他に相談したいことでも?」
「いや、ちょっと内乱が終わってお疲れ様ってのをやりたくてさ。ホントはみんなを呼んで派手にやりたいところだけど、無理っぽいしさ」
呼びたい面子がそれぞれ忙しかったり、そもそもファイラスにいなかったりしている。それにこれからのことを考えると慰労会のようなことをやる時間をとるのも難しいだろう。
「良いですね。この前みたいに賑やかにするのも楽しいですけど、仕事の後に静かな酒宴も大人な感じがして良い感じです」
と、すかさずミュリカは口を開いた。
エルトナージュが渋い顔なんてしたら今までの良い雰囲気を壊してしまうかもしれなかったから。それにミュリカ自身も久しぶりにエルトナージュと何気ない話しがしたかった。
「それじゃ、準備してくるからしばらく待ってて」
立ち上がるとアスナは簡単な柔軟運動をしながら、部屋の奥に行った。
その背中を見送ったミュリカはちらりとエルトナージュの方に視線を向けた。案の定、渋い顔をした彼女がいた。勝手に話を進められて少し拗ねているのだろう。
もしくは今決まったことを提案書として整理したいのかも知れない。
「そんな顔しないでくださいよ」
「しかし、明日も早いのですよ? それに二日後には慰霊祭が営まれる予定なのに祝宴だなんて不謹慎です」
「それを言っちゃうと論功行賞なんて不謹慎の最たるものですよ。・・・・・・けどそうじゃないと思います。戦死した兵たちを悼むのとは別に、私たちはこうして無事に内乱を生き残ったんですから。それをお祝いしたいって思うのは悪いことじゃないですよ」
それに、と言葉を続けながらミュリカはアスナがいる部屋の奥に顔を向けた。
「アスナ様なんか、何度死にかけたか分からないんですから。きっと、命を懸ける局面を潜り抜けられたんだっていう区切りが欲しいんですよ。それにお付き合いするのは、アスナ様を巻き込んだ私たちの礼儀だと思います」
「・・・・・・・・・・・・」
俯き言葉も出せない。事実その通りなのだから。
その一点においてのみ、エルトナージュはアスナに負い目を感じていることをミュリカは知っている。その上で彼女は針の一刺しをしたのだ。
前ばかりを見ているエルトナージュに右にも、左にも、後ろにもちゃんと人がいることに気付いて欲しくて。けど、これ以上はミュリカも言わない。言わずに笑顔で話を変えた。
少し意地悪な笑顔で。
「それはそうと、どうでした?」
「どうって?」
「ですから、アスナ様とちゃんと向き合ってお話をした感想ですよ」
「ただ相談を受けただけです」
言葉のみはいつもの強気だが、ミュリカの針の一刺しが効いているのか、口調は少し弱い。
「だって、アスナ様のことを試すんだって仰って、みんなで頑張った結果、こうして内乱を収めることが出来たじゃないですか。けど、エル様はアスナ様のこと信用できないんですよね」
「・・・・・・・・・・・・」
言葉にも態度にも出ていないが、ミュリカには小さく頷いているように感じた。
無理もない。彼女は目の前で母を見捨てる人族の姿を見ているのだから。そう簡単に信じられる訳がない。
ミュリカだってそうだ。
エルトナージュの母は彼女にとっても、それに近い存在なのだから。恐らくヴァイアスにとってもそうだろう。
アスナやシアのことは好きだが、積極的に不特定多数の人族と関わりたいとは思わない。
ミュリカですらそういう色眼鏡で人族を見ているのだから、実際にその場にいたエルトナージュがどう感じたか察するにあまりある。
人族に対する考えを変えろとは言わないし、言えるはずがない。
「けど、それが普通ですから。人づてに聞いた評判だけじゃ信用しにくいもの。だからこそ、色々と話をしてアスナ様の人となりをエル様の目で見極めて下さい」
「ミュリカがこの一ヶ月ほど彼を見てきたように、ですか」
はい、と力強く頷いた。
「・・・・・・そうですね。そうなのかもしれない」
エルトナージュがそう思ってくれたことが本当に嬉しかった。
と、そこに酒肴を乗せた台車を押しながらアスナが顔を出した。
「お待たせ。ミュリカ、テーブルの上の片づけよろしく」
「あっ、はい。分かりました」
「あの、わたしも何か手伝います」
思わぬエルトナージュの申し出に二人は顔を見合わせ小さく笑った。
「それじゃ、テーブル拭いて」
そう言ってアスナは布巾を彼女に投げ渡した。
「あっ、はい」
その後、テーブルクロスが敷かれ、その上に酒肴とグラスが並べられる。
「それじゃ、お疲れさまってことで。かんぱ〜い」
アスナとフォルキスが雌雄を決したファイラスの戦場跡に兵たちが集結し始める。
彼らは自軍の駐屯地から取り寄せた濃紺の式典礼装に身を包んでいる。馴れない白の手袋に居心地悪そうな顔をしている者も見受けられる。
そう言った若輩者に睨みを利かせる古参兵はさすがに立ち居姿も美しい。
その古参兵の中には武勲の証である勲章を授与された者も多くいるが、彼らが今胸に提げているのは黒字のリボン。喪章だ。
式典に臨む晴れやかさはなく、粛々と兵たちは隊列を組んでいく。
数万名にも及ぶこの隊列だが、目立った乱れがない。もし、上空から見下ろすことが出来る者がいたとすれば、彼らの隊列はまるで線が引かれているかのように見えただろう。
彼らの気持ちを引き締めているのはこの厳粛な空気のためだけではない。
これから執り行われる式典がそうさせるのだ。
戦没者追悼式。
敵も味方もなく、同じラインボルトの者として戦った兵の御霊を送るためであり、内乱終結を内外に示すために必要な儀式の一つでもある。
そして、ここにいる兵たちがこれから送り出す戦友たちの亡骸を回収したのだ。
この場を乱そうと考える不届き者が出るはずがない。
隊列を組む兵たちの前方には、参列者の規模に比べて慎ましやかな祭壇が設けられている。献花台にはすでに色とりどりの花が手向けられ、その前に置かれた机には、この内乱で散った全ての戦没者たちの官姓名が記載された名簿が乗せられている。
そして、祭壇の左脇には王墓院に属する楽団が控え、楽器の最終調整を行っている。
王墓院とはその名が示すとおり、歴代魔王の亡骸が眠る王墓とその周辺の墓地の管理を行う機関である。また、それだけではなく今回のような国葬や重要人物の葬儀を取り仕切る役も担っている。
ラインボルトは多種族国家である。
そのため、何かしらの宗教や仕来りに偏った葬礼を国家が執り行うわけにはいかない。
宗教色を排除した儀礼を整える機関として、王墓院が必要なのである。
そして、この王墓院を取り仕切るのは笑い皺の目立つ初老の女性である。
柔らかな灰色の髪を結い上げ、小柄な身体を黒地の喪服で包んでいる。胡桃色の瞳は報告をする各部署の責任者たちに向けられている。
真剣味のある瞳の一方で、彼女の雰囲気は柔らかさを損なわれていない。
それは年かさ故に持ち得たものなのか、生まれ持ったものなのかは分からない。ただ、彼女がそのような人となりであることだけは確かだ。
最後の担当者の報告が終わると、女性は表情に厳粛さを増し、「よろしい」と頷いた。
「けど、思ったよりも早く準備が終わりましたね」
担当者の感想に女性は小さく「そうね」と返した。
予定では一時間後に完了するはずだった。これだけ大規模になれば準備にも時間がかかる。祭壇の準備もそうだが、当日一番時間がかかるのは参列者たちの集合だ。
規律を重視する軍の追悼式と言えども、万単位の兵を動かそうと思うと、時間もかかるし色々と問題が発生する。
だが、今日に限っては問題は殆ど起きず、起きたとしても双方の責任者が互いに陳謝することで手打ちとなったそうだ。
「内乱が終わったばかりですから、彼らも身内同士で争うのを控えるようになったんでしょう。そもそも、この内乱のきっかけそのものだって・・・・・・」
「おやめなさい。私たち王墓院の者は政治のことを口出しすべきではないわ。このような場ならなおさらね」
「はい」
柔らかいが有無を言わさぬ口調に男性職員は反省の意を込めて姿勢を正す。
「では、私は殿下に準備が完了した旨、お伝えしてきます。恐らく一時間繰り上げになるはずです。皆、そのつもりでいてください。以上です」
それぞれの担当者たちは頷きや返事でそれに応え、部下たちにもその旨伝えるべく散っていった。背後では再び、楽団が楽器の調整を再開し始める。
ふと、女性は空を見上げた。それは澄み切った朱に彩られている。
厳粛な空気を乗せて、緩やかに流れる風も悪くはない。
「御霊を送るのに相応しい日ね」
白い花びらが風に運ばれていくのが見えた。
一方その頃、アスナはサイナをお茶の相手にしながら、戦没者追悼式の段取りの最終確認を行っていた。
今のアスナの身を包んでいるのは近衛騎団用の式典礼装だ。本来、鎧も合わせて使用されるものだが、内服とそれを覆う長衣だけで済ませている。
通常ならば後継者に相応しい礼服を用意すべきなのだが、時間の問題もあってこれまで通り、近衛騎団の礼装を使用することになったというわけだ。
「一口に葬式って言っても色々と手筈があるんだなぁ。えっと、手順とかなんていうんだっけ」
「式次第です。それよりも追悼の辞は頭に入っていますか?」
「かなり不安だけど、まぁなんとかね」
そして、追悼の辞を暗記しなければならなくなった理由を思い出して苦笑が浮かぶ。
このような場でアスナに好き勝手に喋らせるのは危険だというヴァイアスの忠告を受けて、エルトナージュが作成した追悼の辞だからだ。
内容は当たり障りのない文言ばかり。しかし、葬礼の場ではそれで構わない。
「良かった。せめてこのような場ぐらいは大人しくしていて下さらないと近衛騎団(私たち)としても立つ瀬がありません」
「オレってそんなに信用されてないのかなぁ」
「そうではありません。ただ、少し心配なだけです。いつものようにやられて何かあったとき困るのはアスナ様ですから」
「まぁ、それはそうんだけどさ」
と口を尖らせたアスナだったが、すぐに気遣いの表情に変える。
「・・・・・・それを言うとサイナさんこそ大人しくしておいた方が良いんじゃないの? 脇腹の傷、まだしっかりと塞がってないんだろ?」
公式にではないがアスナの寵姫同然である彼女の治療には十分以上の配慮がなされている。それでもまだ傷が塞がりきるほどではない。
「先生には許可を頂いています。それに・・・・・・」
そこまで言ってサイナは少しだけ拗ねたような笑顔を見せる。
「左の鎖骨にひびが入っている人に言われたくありません」
「うっ」
それを言われると何て言い返して良いのか分からない。亀裂骨折だけでなく、酷い打撲もしているのだからなおさらだ。
この左の鎖骨にある亀裂骨折と打撲はフォルキスの大剣を受けたときに出来たものだ。彼の剣戟をまともに受けて、これで済んだのは幸運と言えるだろう。
「それにアスナ様のように怪我を押して動き回っていたわけではありませんから」
固定帯と痛み止めの薬を服用するだけで負傷兵の見舞いに出歩いたり、軍議に参加したり、遅くまでエルトナージュから渡された書類に目を通して署名すると言った雑事も行っていたのだ。
確かにサイナに大人しくしていた方が良いと言っても説得力はない。
「それにこの追悼式はアスナ様が正統なラインボルトの後継者であることを内外に示す意味もあるんです。末席からそれを見ていたいと思うのはいけないことでしょうか?」
真っ直ぐな、嘘偽りのない彼女の視線にアスナは敗北のため息をもらした。
その意味を察したサイナはすぐに目尻を和らげた。
「降参です。ただし、絶対に無理をしないこと。良いね」
「はい」と、彼女は微笑を濃くした。
一方のアスナは彼女の笑みに見惚れて頬を赤くする。本人は気付いているかどうか分からないが、雰囲気がとても柔らかくなった。任務や訓練の最中は依然と変わらない凛々しさを見せているが、私的な時間になると穏やかなで暖かな表情を多く見せるようになった。
美しさの幅が広がったようにアスナは感じている。これまで纏めていた深い蒼の髪を下ろすようになったのがその象徴にも感じられる。
思わず見惚れるアスナに、サイナは小さく首を傾げてみせる。その動きに合わせて背中まである長い髪が僅かに揺れる。
何となく恥ずかしくなってそっぽを向いて、わざとらしく咳払いをしてみせる。
「話を戻して、追悼式のことだけどさ」
と、強引に話の軌道修正をする。サイナもアスナが照れていることに気付いて頷いてそれに乗る。
「戦死者の弔いまで政治のことに利用するんだな。こういう時ぐらいそんなこと考えなくても良いのに」
実を言うと、ここのところアスナの行動の多くが政治的な意味合いを持ちすぎていて辟易していた。
「アスナ様がそう思っても、人はそう見ません。この追悼式が国葬である以上、その喪主を務める者がラインボルトの舵取りをする者となるのは間違い在りません。それが魔王の後継者たるアスナ様であれば尚更です」
やれやれ、とアスナはだらしなく椅子の背に身を預けた。考えてみれば、こういう態度をとることが多くなってきたような気がする。
「これも魔王の周りにある色々なものってことか」
これからアスナの言葉の通り色々と大切な戦没者追悼式が控えているのに、だらけすぎているアスナを窘めようとサイナが口を開いたのとほぼ同時にノック音がした。
「どうぞ」
すかさずアスナは体勢を整えて来客に備える。
「失礼します。後継者殿下」
敬礼と共に入室したのは初老の女性。王墓院の長である葬礼長トレハ・リジェストである。
彼女の顔を見るやサイナは慌てて起立し、最敬礼で彼女を迎える。
同じ王宮府に属し、一機関の長と近衛騎団司令部付き参謀とでは格が違うのはもちろんだが、サイナがここまで慌てて最敬礼をするほど葬礼長の官職は重くはない。
サイナをこうさせているのは別の理由があるからだ。
「どうなさいました、トレハ殿下」
彼女は殿下の尊称を持つ数少ない人物の一人。初代魔王リージュを開祖とするリジェスト家の現当主なのだ。
リージュの旗を掲げる近衛騎団の者として、いやラインボルトの民として失礼な行いをすることが許されない人物と言えるだろう。
ある意味、彼女の方が後継者よりも格が上だと言って差し支えない。
「面を上げなさい。王族と言っても今はただの葬礼長です。そこまで辞を低くする必要はありませんよ」
ラインボルトの気風として、生まれよりも現在の立場を重視することが多い。王族と言っても普段は一都市長として扱われるのと同じ事だ。
ちなみに彼女も領主として都市を有しているが、老齢を理由に息子を代官におき、自分は葬礼長として王墓の周りの花壇の手入れをしたり、同僚とお茶を飲んで過ごす日々を過ごしている。ある意味、王墓の墓守として最適な人物かも知れない。
「ですが、しかし」
さすがに恐れ多いのか頭を上げようとしないサイナにアスナは声をかけた。
「トレハさんもこう言ってるんだからさ。それにこれ以上、頭を下げ続ける方が失礼だよ」
と、アスナもすかさずトレハの気持ちを察して言葉遣いを改める。持ち上げられすぎて気持ち悪いのはよく知っているから。
そして、手際よくトレハにお茶を出す。
「・・・・・・はい」
アスナの言うとおりに顔を上げるサイナにトレハは小さく笑った。
「あらあら。私の言うことは聞かずにアスナ様の言うことは聞くのね。どうやら、新たな魔王は近衛騎団に随分と好かれているようですね」
好かれているの部分にサイナは赤面で反応をした。
「あらあら」
「い、いえ、これはその・・・・・・」
「敢えてそのことについて追求するのは止めておきましょう。後継者殿下」
一拍の間をおいてトレハは表情を柔から緊へと改めた。
「式典の準備が完了いたしました。予定を一時間繰り上げることを提案いたします」
応えるようにアスナも思考を切り替えて頷く。そして傍近くに置いている呼び出しのベルを鳴らした。程なくして家令院から派遣された執事が姿を見せた。
「お呼びでしょうか、殿下」
執事はトレハの姿を認めると彼女にも最敬礼をしてみせる。
「エルとヴァイアス、それからプレセアさんを呼んできて。相談したいことがあるって」
プレセアとは王墓院の下部組織である葬礼騎士団の団長を務める女性のことだ。
ちなみに葬礼騎士団は王墓の盗掘を企む不届き者を捕らえたり、時折周囲の一般の墓地から出現する”彷徨う者”の処理を行うことを主要な職務としている。
また、今回のように王墓院の者がどこかに派遣される場合には護衛として同伴することもある。
閑職ではあるが、格の上では近衛騎団と同等とされている。いわゆる名誉職的な扱いだ。
「承知いたしました」
執事が退室したのを見計らって面白い物を見付けたかのような目でトレハはアスナを見た。それが何であるか分からずアスナは小さく首を傾げる。
「あの娘のことを愛称で呼んでらっしゃるんですね」
「そういうトレハさんだって、宰相をあの娘呼ばわりしてるじゃないですか」
「それは当然です。私はあの娘の名付け親のようなものですからね」
「えっ。けど、エルの名前は・・・・・・」
「そうですよ。我がリジェスト家の開祖であり、建国王リージュの娘の名が、エルトナージュ。先王がその名にあやかりたいと仰って、当主である私に許可を求めてきたのです。ですから、名付け親のようなもの」
それに、とトレハは微笑を濃くして話を進める。完全にお婆ちゃんの顔だ。
「私はあの娘のおむつを替えて、あやして上げたたこともあるんですよ。七歳になるまで面倒を見ていましたけれど、本当にあの娘は手の掛かる、けれどとても良い子」
アスナの傍に歩み寄り、彼の手を握って小さく頭を下げた。
「後継者殿下。くれぐれもあの娘のことをお願いいたします」
「えっと、お願いされるよりも、する方のような気がしますけど。分かりました」
「・・・・・・良かった。ありがとうございます、アスナ様」
彼女の安堵の声にアスナは改めて頷いてみせる。顔を上げると自然と苦笑が浮かぶ。
「それにしても、みんなオレにエルのことを頼むんですね。サイナさんもミュリカもヴァイアスも」
「あの娘は色々と損をしていますから、周りの者が気を遣って上げないと幸せにはなれないほど不器用ですから。それに人並みの幸せや楽しいことを知らないと良い政治を執ることは難しいでしょう?」
そこで一拍トレハは間をおいて、アスナが出したお茶に口を付ける。
「政治の究極的な目標は民が暢気に暮らせる世の中にして上げること。その政治の舵取りをする者が幸せなこと、面白いことを知らないのは羅針盤を持たないで航海に出るようなものです」
「・・・・・・そうか。そう言う風に考えるのも一つなんだ」
「そうですよ。アスナ様が直面されている様々なことは全て、民に暢気な日常を取り戻させるための手伝いですから。貴方ほどではないにせよ、私も都市長として民に責任のある立場でしたから、お気持ちを察することが出来ます」
アスナは小さく頭を下げてトレハの気遣いに感謝の意を表した。
「ありがとうございます。少し気が楽になりました。やっぱり、代々都市長をやってきた家の人は言うことに重みがありますね」
「あらあら。年寄りを持ち上げても何も良いことはありませんよ」
「けど、参考になることをたくさんご存じだと思います」
規模や権限の大きさに違いはあっても、官僚たちの上に立って多数の民を背負っている点ではとてもよく似ている。
「出来るならオレの相談役とかになってくれたら嬉しいんですけど」
「アスナ様」
と、サイナは小声でアスナに注意した。
さすがに政治の場から退いたトレハを相談役とはいえ、第一線に引っぱり出そうとするのは良いことではない。
何より初代魔王リージュの子孫を側近くに置くのは政治的影響が大きすぎて、文官たちから静かな反感を買う可能性が高い。
今、アスナが行うべきなのは新規召し抱えや抜擢ではなく、文官たちからの支持を集めることだ。
サイナの危惧が何であるか察したのか、トレハは彼女に笑みでそれとなく頷きかけた。
「せっかくのお言葉ですけれど、辞退申し上げます。年寄りの冷や水と笑われますし、王墓の周りにある花壇の世話もしないといけませんので」
「そうですか・・・・・・」
しゅんとしたアスナに笑みで目を細めると、トレハはこれまでとはあまり関係のないことを口にし始めた。
「この時期、ファイオラが奇麗なんですよ。紅く可愛らしいので、これが咲くと鉢に分けてエルとミュリカに送って上げているんです。もうじきソルナートも咲くかしら。この花の別名をご存じかしら?」
と、いきなり振られたサイナは頬を紅潮させた。
近衛騎団に属する者として、リージュの子孫に声をかけられるのは嬉しいのだろう。
「はい。花弁の薄水色と四日ほどで枯れてしまうところが、蒼天日の空に似ていることから、蒼天の花と」
「そう。ファイオラの紅を常の空と見立てて二つの花を贈ることが、この季節に相応しい時候の挨拶の仕方なんですよ」
そこまで言うとトレハは意味ありげな視線をアスナに向けた。
訳が分からずアスナはサイナに助け船を求めるように視線を送った。彼女も意味ありげな視線をアスナに向け、頷くのみだ。
それでも分からないアスナはこれまでのトレハの会話を思い返して、ようやく目の前で微笑を浮かべる初老の女性が何を意図してこんなことを行ったのか気付いた。
「良いですね。花のことは全然詳しくないですけど、現生界の空に似ているって聞くと見てみたいです」
「そうですか。では、咲きましたたらファイオラと一緒にして贈らせて頂きます。お手紙と一緒に」
「ありがとうございます。オレからも手紙を出しますよ。書くのに馴れてないから変なのになると思いますけど」
しっかりと言外の意図に気付いたアスナにトレハは満足げに笑う。
つまり、彼女は相談役として側近になるのは断ったが、相談事があれば手紙という形でなら乗ると言いたかったのだ。そして、それを彼女の方から申し出るのは少し傲慢が過ぎる。いくらトレハの方が格上と言っても、後継者に不遜な態度はとれない。
だから、こんな回りくどい言い方をして、アスナからの申し出という形にしたのだ。
これも後継者を盛り立てる方法の一つと言える。
「下手は下手なりに味があるものですよ」
「なんかけなされてるような気がするんですけど」
「さて、それはどうでしょうね?」
と上品なトレハの笑い声を中断させるようにノック音が響いた。
「あっ、はい」
失礼しますと入室したのはエルトナージュだった。その彼女に対してサイナは最敬礼で迎えた。王族三人に囲まれて少し居心地が悪いかも知れない。
「何か問題でも起こりましたか?」
「問題ってほどのことじゃないけど、まぁそれはヴァイアスとプレセアさんが来てから話すよ。とりあえずお茶でも飲んで二人を待ってて」
アスナは言いながら準備をしようと立ち上がる。
「アスナ様、私が」
さすがに一番下位にある彼女が何もしないわけにはいかない。立ち上がろうとするサイナをアスナは押し戻す。
「サイナさんはまだ怪我が治りきってないんだから、こう言うことはやりたいヤツに任せておけば良いんだよ」
「ですが・・・・・・」
「やりたいと言っているんですから、やらせれば良いんです。それよりも何故、貴女がここに?」
どこかツンツンした口調をあっさりと受け流して、サイナの代わりにアスナが口を開いた。
「オレの話し合い兼弔辞の聞き役をやってもらってたんだよ」
「・・・・・・怪我の方は大丈夫なのですか?」
「はい。お気遣いありがとうございます」
そう言われてはエルトナージュも引き下がるしかない。そして、そのまま彼女はサイナの隣に腰掛けた。
「どうぞ。お茶菓子がないけどその辺は勘弁な」
「・・・・・・ありがとうございます」
どことなく納得行かない風な口調にトレハは小さく、けれど楽しそうに笑った。
「本当にミュリカが言っていた通りね。アスナ様の前に出ると必要以上にツンツンしているって。同じ年頃の男の子と接するのが恥ずかしいのかしら?」
思わぬ指摘をされたことに動揺したのか、エルトナージュの頬が幾分紅潮する。
「そんなことありません。トレハ様は勘違いしています!」
「あらあら。お婆様って呼んでくれないの?」
「今のわたしは公人です。・・・・・・話を変えないでください。わたしはただ彼のことが・・・・・・」
「だから、そう言うところがツンツンしていると言うんですよ。普段の貴女はもう少し穏やかでしょう? そんな大きな声で抗議するようなこともありませんよ」
「・・・・・・・・・・・・」
ムッとしつつも反論のしようがないエルトナージュは腰を落ち着けるとそっぽを向いた。
そんな態度の彼女にアスナたちは微笑ましくも、少し驚いた目をした。
おぉ、とアスナも思わず拍手をしてしまう。
「あっさりとエルを言いくるめた。さすがはおむつを替えていた人だ」
何気なく呟いたアスナの感嘆の一言にエルトナージュが赤くなった。顔だけでなく、首筋まで真っ赤だ。立ち上がるとバンッと彼女はテーブルを両手で叩いた。
「なななな、なんてことを話すんですか!!」
羞恥と怒りでどもりながら怒鳴るエルトナージュの姿はかなり新鮮である。
照れ怒る彼女も可愛いかも、などとサイナを隣にして思ってしまい、アスナはちょっと罪悪感を憶えてしまう。
「ちょっとした昔話をしただけですよ。それに誰でも赤ちゃんの頃はおむつをするものよ」
「ですけど!」
エルトナージュの抗議の声にも、トレハは柳に風と受け流すのみ。彼女に文句を言っても仕方がないと判断したエルトナージュはキッとアスナを睨んだ。
真剣な赤い顔に思わず、女の子の赤鬼だとアスナが思ったのは秘密である。
「忘れなさい!」
「いや、えっと」
「良いから忘れなさい。先ほどお婆様のした話を即刻忘れなさい!」
「けど、こういうのって忘れようと思って、忘れられるようなことでもないし」
すぐに頷けば良いものをアスナは素直に反論してしまう。そうなればさらにエルトナージュが血圧を上げることになるのは当然の理である。制止役のミュリカがいないのだから尚更だ。
「努力もなにもしなくて結構です。ただ全力で忘れれば良いんです!!」
もはや彼女の声は叫びと言っても過言ではない。
「何事ですか!」
普段のエルトナージュらしからぬ大声に何者かが許しもなく、ドアを蹴破って入室してきた。
それはヴァイアスと、すらりとした長身と鮮やかな赤毛が印象的な壮年の女性、プレセアだった。両者ともに腰に提げた剣の柄に手をかけている。
笑顔のトレハとおろおろと止めようとするサイナ、そして、耳まで真っ赤にしたエルトナージュに襟首を捕まれているアスナであった。
「何事ですか、これは!?」
目を丸くして大声を上げるプレセアに一堂は固まる。その彼女の隣でヴァイアスは頭を抱えていた。誰もが身動きを取らないなかで、トレハだけは笑い続けていた。
「何でもないのよ。ただ、ちょっとだけ過激に親睦を深めていただけ。そうよね、二人とも」
「えぇ、まぁ」
曖昧な笑顔でお茶を濁すアスナに対して、エルトナージュはアスナの襟から乱暴に手を離すとそっぽを向いた。
「なんでもありません。貴女が気になさることはありません」
と、アスナと接するのとはまた別なそっけない態度で言った。
エルトナージュはプレセアのことが苦手だった。
彼女もプレセアが能力、人格ともに優れ、まだまだ近衛騎団団長として職責を果たせることを知っていし、こう言っては何だが若年のヴァイアスよりも堅実で幅のある運用が期待できる。能力だけ見ればプレセアは信頼に足る人物だとエルトナージュも思っている。
では、なぜそんな彼女が近衛騎団団長の地位を退き、葬礼騎士団へと移籍したのか。
表向きは先王アイゼルの崩御に伴い、近衛騎団も世代交代を行ったとされているが、真実は彼女が葬礼騎士団への移籍を強く望んだからだ。
忠誠の念からだけではない。彼女はアイゼルのことを心から深く想っているからだ。
それこそがプレセアが葬礼騎士団に籍を置いている理由だった。
だが、父の娘としての心境は複雑であった。
エルトナージュの生母である清花とは友人の間柄であり、幼いエルトナージュをあやし、叱ったこともあるプレセアに今も肉親に近い情を感じている。だが、成長するにしたがって、どうしても受け入れがたいものがあるのだ。
プレセアの方もそのことを察しているのか、以前に比べて一歩距離をおいてエルトナージュと接するようになっていた。
「左様ですか。トレハ様がいらっしゃる事から察するに葬礼の準備が整ったのでしょうか?」
「あぁ、だから二人を呼んだんだ。両方とも準備終わった?」
「ご命令下されば、すぐにでも動けるよう準備を整えております」
「右に同じく」
頷くとアスナはエルトナージュの方に視線を向けた。
「エルの方は?」
「・・・・・・出来ています」
「ん。それじゃ、将軍たちに三十分繰り上げて式を開始するって伝えてきて」
呼び出した執事にそう伝えるとアスナは皆を引き連れて、部屋を出た。
死者たちへの礼と誓いを述べるために。
整然と隊列を組む兵たちの間を鎮魂の曲が流れていく。
静かな、しかし戦死者たちを讃えるような高らかな音色が風に乗ってファイラスの地に広がる。
幻想界に数ある宗教でも、魂は天へと還ると定めてるものは多い。もし、本当にそれが事実なのであるならば今、楽団が演奏するトランペットを主とするこの曲は、天へと還っていった兵たちに聞こえているかも知れない。
そして、それが事実なのだと思わせるほどに空は澄み切っている。
ただひたすらに静かなその曲が兵たちの追悼と賞賛の念を表しているかのように響き渡る。この曲の名を”国の鎮め”と呼ぶ。
その曲に導かれるように近衛騎団は行進をする。
白地に黒と金糸で彩られた長衣に身を包み、その上から白銀に輝く鎧を身に纏っている。
羽織る短めの外套をはためかせながら彼らは行進を続ける。
四列縦隊で進む近衛騎団は兵たちと合流を果たすと、ヴァイアスの号令でそれぞれ中央に身体を向けた。
近衛騎団に迎えられるようにして別の一団が進み出てくる。
その一団は装備こそ近衛騎団の物と変わらないが、構成する団員たちは兵と呼ぶには皆、歳を取りすぎているように見える。
しかし、彼らの表情と纏う空気は古強者そのものであり、一糸乱れぬ隊列は侮りを許さず、威厳に満ちている。
葬礼騎士団。
王の墳墓の守護を任せられた誇り高き者たち。現在の構成団員の大半は先王の崩御とともに葬礼騎士団へと移籍し、歴代魔王の眠りを守ろうとする者たちである。
葬礼騎士団の歴史は古く、初代魔王リージュの晩年にまで遡ることができる。
リーズからの開放、ラインボルト建国と安定化に尽力した彼女に永い眠りが訪れようとしていた。軍を中心としてその死に殉じようとする者が出始めた。
その殆どが独立戦争以来の者たちであったが、中には若年の近衛騎団の一部もその風潮に流されようとしていた。
リージュはこれが先例となって殉死が慣例化することを嫌い、禁止する布令を出したがあまり効果は無かった。
それだけリージュに対して敬愛と尊崇の念が向けられていた証とも言えるが、彼女自身はそれを喜ばず、むしろ自分の死に一時の感傷で付き合おうとされるのは後味が悪いと感じていた。
彼女は側近と相談した結果、王墓院と葬礼騎士団を創設することに決める。
共に墓に入るよりも、生きて墳墓の地を守ってくれる方が嬉しいと説得した結果、殉死は取りやめとなり、殉死を望んだ者たちは王墓院と葬礼騎士団へと移籍することになったのだ。これが王墓院と葬礼騎士団の創設の由来である。
その葬礼を乱す者を打ち据える騎士たちに守られながらアスナはイクシスに騎乗し、エルトナージュを伴って祭壇に向かって進んでいた。
やがて、葬礼騎士団は近衛騎団に挟まれるようにして隊列は進む。迎える近衛騎団は号令無く、しかし一糸乱れず抜剣し、朱の空に突き立てる。そして、胸の前で掲げた。
剣の一つ一つが戦死者の墓標にも見える。その中をアスナたちは進む。
やがて、葬礼騎士団の先頭は祭壇の前まで到達する。だが、隊列は止まらず二つに分かれると、葬礼騎士団の団員たちは兵たちに対面するように直立した。
その彼らに送り出されるようにしてアスナとエルトナージュは共に下馬をし、壇上に上った。将軍たちは起立し、敬礼でアスナたちを迎える。
アスナはそれに頷きをもって応える。その彼の背後で近衛騎団の団員たちは剣を収め、正面を向く。一方の葬礼騎士団は剣を抜き、それを一度空に掲げると地に突き立てた。
アスナたちは最も祭壇に近い椅子に腰掛けると、壇上の端に立つトレハに頷きかけた。
「これより戦没者追悼式を執り行います」
開式の辞を合図に第一軍将軍ケルフィンが立ち上がり、参列者を睥睨した。
「総員!」
ケルフィンの大音声が響く。
「後継者殿下と戦没者に対して敬礼!!」
号令に従い、参列者たちは一斉に最敬礼をする。アスナも彼らに対して答礼する。
そして、アスナが顔を上げたのを見計らって、トレハは祭壇脇に控える楽団に合図を送った。指揮者は頷くと奏者に向けて指揮棒を振るった。
演奏されるのは静かな曲、国歌「豊穣の季節」だ。
本来、祭歌として作られたこの歌の伴奏を慰霊式ように編曲したものだ。
厳粛さを増した伴奏に兵たちの歌声が乗る。
ある者は戦死した戦友の冥福を祈りながら。
ある者はこれまでの戦いに思いを馳せながら。
ある者は内乱が終結したことを実感しながら。
風と旋律が思いと歌声を乗せて広がっていく。戦死者たちが物を語ることを許されているのならば、怨嗟の声と等しい数の歌声が聞こえたかもしれない。
そして、幾分かの失望も混じっていただろう。
それは式場にはフォルキスたち旧革命軍将兵の参列は許されなかったからだ。
公然たる反対こそなかったが、勝者と敗者のけじめは必要であるとされたからだ。そして、それはフォルキスの考えとも一致していた。
戦いが終わったからと言って、すぐに肩を並べられるわけではないということだ。
やがて、静かに国歌の斉唱は終わる。その余韻が消え去らぬうちにトレハは式を進行させる。一分間の黙祷の後、トレハに促されてアスナは祭壇の前に立った。
そして、祭壇に向かって一礼すると、あらかじめエルトナージュが作成した悼辞を述べ始めた。
静かに、ゆっくりと悼辞を述べるアスナを見ながらエルトナージュは国歌斉唱の際に見せた彼の様子を思い出していた。
皆がそれぞれの思いを歌声に乗せて歌うする中、アスナは一人国歌斉唱に加わっていなかった。
思い返してみれば、ファイラスでの決戦の後、フォルキスの歌声によって始まった国歌斉唱にも彼は加わっていなかった。
アスナに気付かれないように彼の表情を窺ってみると、そこには無表情なアスナがいた。
彼女自身はまだ公然と彼を魔王の後継者として認めがたいと思っていても、アスナが立てた功績は万人が認めるところだ。堂々と国歌を歌えば良い。
むしろ戦火を拡大したのはアスナなのだから、国歌を持って戦死者たちを追悼して然るべきなのだ。内乱の発端は自分であると自覚している彼女は、二度とこのようなことを起こさないと戦死者に誓いながら国歌を唱った。
だが、アスナは口を閉ざして眼前で隊列を組む兵たちを見ていた。
ただ遠い目で、どこか手の届かない場所を見つめるかのような目で兵たちを見ていた。
・・・・・・何を考えていたのよ。
分からない。合流してからいつも注目していた訳ではないが、エルトナージュの知る限りあんな目をするような人物ではない。
「・・・・・・・・・・・・」
今も悼辞を続けるアスナの纏う空気は先ほどのものとは異なり、真剣味と哀悼の色が確かにある。それでは、あの時の遠い目はなんだったのか。
・・・・・・やっぱり、わたしが彼を認めないから。
先王の娘であり、宰相である自分に拒絶されていることへの抵抗だろうか。
しかし、アスナがそのようなやり方を好まないことをミュリカたちの話や短い間に感じた印象から理解している。では、なぜあんな目をしたのだろうか。
・・・・・・分からない。
やがて、アスナは形式に則った内容の悼辞を終えた。この後は連隊長以上の士官たちが代表して祭壇に献花をすれば一通り式は終わる。
王墓院の職員の手から白い花が渡されると、アスナはそれを祭壇に献じずに兵たちの前に立った。
予想しない彼の行動に兵たちの間に声のない困惑が広がった。
エルトナージュにとって悔しいことだが、力と王位を継承に関係なくアスナは兵たちから多くの支持を受けている。
アスナは幻想界に召喚されてすぐに将軍たちをまとめ上げ、出陣の号令をかけただけでなく、近衛騎団とともに多くの戦場を戦い抜き、勝利を得たのだ。
突如として現れ、一ヶ月ほどで内乱を収束させたこの偉業に彼を英雄視する者も多い。
そのアスナが自分たちを見回して、小さく息を吸った。
「全将兵に憶えていてもらいたことがある」
アスナにかけられた拡声魔法によって、彼の声は遠くまで広がる。
突如、始められた予定外の演説にエルトナージュは止めようと腰を浮かせようとしたが、兵たちの注目に気付いた彼女には何も出来なかった。
何より兵たちがアスナに向ける視線の色に少なからず衝撃を憶えたから。
自分ですらおとぎ話に出てくる頑張るお姫様として見られているのに、アスナに向けられているそれは尊崇そのものだ。
「この間のファイラスでの決戦と今日の慰霊式で本当の意味で内乱を終結させたって言って良いと思う。これもここにいるみんなが一日でも早く身内同士の争いを終わらせようと頑張った結果だ」
アスナの視線は兵たちから遠くエグゼリスのある方向へと向けられる。
「それはここにいるみんなだけじゃない。エグゼリスにいる文官たちもバクラ将軍率いる第九軍、それにフォルキス将軍たち旧革命軍の将兵たちもそうだ」
「なっ!?」
思わぬアスナの発言に今度こそエルトナージュは立ち上がった。将軍たちも顔色を変えている。革命軍将兵に対する処分が正式発表されていない現時点で、旧革命軍を養護するような発言は控えるべき事柄だとアスナも分かっているはずなのに。
将軍たちの驚きはすぐに兵たちにも伝播する。
ある意味、将軍たちよりも衝撃は多かったかも知れない。
勝者の代表であるアスナにこのような発言をするとは思っても見なかった。彼らは命を賭して戦い抜いた勝者なのだから。なのに後継者は勝者も敗者も同じであると言う。
全ての者が動揺するのも無理はない。いや、その中で近衛騎団の者だけは常と変わりない。動揺を隠している訳ではなく、遅かれ早かれこうなることを予想していたからだ。
今回の内乱に初めから善悪など存在しない。
兵たちも頭では理解している。旧革命軍の将兵にも蜂起するだけの理由があり、それが納得できるものであることは理解できる。
だが、すぐに旧革命軍(彼ら)を受け入れることは出来ない。多くの戦死者を出したのだから当然だ。少し前まで隣で戦いっていた戦友が殺されたのを見ているのだから。
兵たちの間から沸き上がったうねりのような声が静まるのをアスナはただ黙って見ていた。
・・・・・・こうなることが分かっているはずなのに、なんでこんなことを言うのよ。
エルトナージュは歯ぎしりするように奥歯を噛むとアスナを睨んだ。
彼女だって今のままでは軍として正常に機能しないことは理解しているが、今のアスナの発言は拙速に過ぎる。これまで順調に事が運んでいただけに腹立たしさが沸き上がってくる。
だが、それとは別の所でエルトナージュは冷徹な計算をしていた。
アスナがこの場を上手く収集出来ればそれはそれで良し。だが、このまま兵たちからの信頼を失えば傀儡にしやすくなる。
もし、それに抵抗するならすげ替えれば良いだけだ、と。
「こんなことを話せば、みんなから非難されることは分かってる。けど、敢えて言うことにしたんだ」
様々な感情が渦巻いている中でアスナは真っ直ぐにそれを受け止めていた。
エルトナージュも思惑と期待とが入り交じった目で彼を注視する。
「みんなも分かっていると思うけど、内乱は終わってもラインボルトの危機は乗り切ってない。”彷徨う者”の大量発生はまだ完全に対処しきれていないし、ラメルにはラディウス軍が不法占領したまま。それだけじゃない。内乱が原因で起きたいろんな問題はほとんど解決していない」
ちらりとアスナが自分を見たような気がしてエルトナージュは小さく顔を背けた。
今、ラインボルトが直面している諸問題が起きた原因は自分にあるのだから。
「少し考えてみて貰いたいんだ。どうにか内乱を収めたけど、軍は仲違いしたまま。文官たちは内乱の後始末に走り回って余計なことに気を回す余裕のない国を余所の国の君主が見たら、どういう選択肢を頭の中に浮かべると思う? オレだったら自分とこの国と同じか、少し小さい規模の国と臨時の同盟を結んで混乱している国に戦争をふっかけることを考える。もちろん、これは極端な考えだけど、あり得ない話じゃない。実際、ラディウスはムシュウを制圧しようと動いていたんだから」
そこでアスナは一拍を置いた。
まるで兵たちに自分の発言の意図を受け入れる時間を与えるかのように。いや、兵たちだけではないのかもしれないとエルトナージュは思った。
自分たちに対しても彼は話しかけているのかも知れない。
「つまりそう言うことなんだ。ラインボルトはまだ危機を乗り越えていない。この一ヶ月、それなりに政治のことは勉強してきたけど、それでもやっぱりオレは宰相や将軍たちに比べれば素人同然。彼女たちに色々と教えて貰いながらなんとかやってるぐらいだ」
と、アスナはエルトナージュに視線を向けた。
「その素人のオレの目から見てもラインボルトは内乱が終わったって、浮かれ続ける余裕はないんだ。もう一度、言っておこうか。はっきり言って、この国は危ない状況にある」
話していることは絶望的にも関わらずアスナの表情と態度はそんな色は全くない。
むしろ、堂々とした無意味にまで自信にあふれているように見えた。
「みんなの中にはその問題をどうにかするのが上の者の仕事だろうと思ってる人もいるだろう。・・・・・・うん、オレもそう思う。けど、それだけじゃダメなんだ」
そして、アスナは隊列の中央で整列する近衛騎団に顔を向けた。
とても誇らしげで、嬉しそうな照れ笑いを浮かべながら。
「知っての通り、オレは近衛騎団と一緒に戦ってきた。正直な話、これまでの戦いはラインボルト最強の近衛騎団でも大変だった。何度も革命軍の部隊と戦ったし、オレ自身も何回か死にかけたこともあった。本音を言えばさ、無茶苦茶恐くて、何でこんな目に合わないといけないんだ〜って何度も思った。格好悪いけど、何回も騎団のみんなの前で愚痴をこぼしたことがある。けど、そんなオレでも近衛騎団のみんなは主だって立ててくれて、幾つもの戦場で戦い抜いてくれた。だから、オレも近衛騎団の主に相応しいように頑張ってきたんだ。オレと騎団のみんなが一緒に頑張ったから、今ここにいられるんだ」
そこまで言ってアスナは近衛騎団の団員たちに向かって笑みとともに強く頷きかけた。自分の誇りは近衛騎団とともにあると語るかのように。
そして、視線を再び兵たちへと向ける。
「これから待ち受けてる問題との戦いもそうだ。オレたち上に立つ連中は問題解決のために走り回ることになる。だから、みんなにもそのことを理解して貰いたいし、一緒に頑張って貰いたい。さしあたって軍に最優先で求めるのはラディウスへの対抗でも、”彷徨う者”の処理でもない。ラインボルト軍の再建だ。宰相派でも革命軍でもない。これからこの国に必要なのはラインボルト軍なんだ」
将兵全てがアスナの言葉に傾注する中でエルトナージュは一人、小さく俯いていた。
自分が兵たちに語りかけても、ここまで聞き入ってくれるだろうか。革命軍に対抗するために軍を纏め、今も国家再建のために奔走していても、結局の所は内乱を勃発させた原因なのだから。
「”我らは魔王の剣であり魔王の盾。我らを統率するはただ一人、魔王のみ。我らが誇りは魔王と共にあることなり”って言葉を近衛騎団の存在意義にしてるように、みんなにはラインボルトの剣であり、盾であることを、そして将軍たちにはその担い手であることを改めて自覚して貰いたい」
手にした白い花をアスナは胸に掲げる。
「オレは内乱で散った全てのラインボルト軍将兵にもう内乱なんて起こさないっていう誓いと、さっき言ったことの決意の証にこの花を祭壇に捧げる」
陽の光を受けて、花は白く輝いているように見える。まるでアスナの思いが花の形をとって具現したのではないかと錯覚するほどに。
そして、祭壇に振り返るとアスナは献花した。その背後では今のアスナの言葉を受け入れた者、考えてみようと思った者たちが次々と最敬礼をし始めた。やがて、場の空気はアスナの考えに従ってみようという色に染まり、将軍たちもそれぞれの思惑を抱きつつもアスナに向けて最敬礼をして見せた。
その中でただ一人、エルトナージュだけは下唇を噛んで俯いていた。
将兵に旧革命軍との融和とラインボルト軍再建に邁進するのだと印象づけさせたことへの感嘆の念と、それをたった一度の演説でやってのけたアスナへの言いようのない嫉妬が彼女の心の中で鬩ぎ合っていた。
そして何より、こんなことを感じてしまう自分に対して酷い嫌悪を抱きながら。
|