第二章
第二話 エグゼリス帰還、そして……
後継者が凱旋する。
その報に首都エグゼリスに住まう者たちは一目、英雄の如き後継者の姿を見ようと中央大通りに集まってきていた。
大通りの両脇には先に帰還した首都防衛軍の兵たちが等間隔に並び、不逞の輩が出ないよう睨みをきかせている。
その一方、沿道では出店が立ち並び集まった見物客相手に威勢良く商売をしている者たちも多くおり、賑わいを見せている。
八ヶ月近く続いた内乱で鬱屈とした空気の中にあった首都は、ようやく安定した時が訪れるたことで爆発的な開放感に満ちあふれていた。まさに首都エグゼリスは祭の様相を呈していたのである。
不意に歓声が沸き上がった。それは凱旋する後継者の一団がエグゼリスに到着したことを意味していた。否応なく歓声が沸き上がり、人集りが押し掛け首都防衛軍の兵はそれを抑えるのに必死だ。
「来たぞ!」
何者かが上げた声を合図にしたかのように、沿道を埋める見物客の前に白銀の鎧の一団が姿を見せた。近衛騎団の先鋒だ。巨大なラインボルト国旗をはためかせて行進を続ける。
それは後継者の武威を知らしめるような空気を振りまいているように見える。
近衛騎団の放つ雰囲気に後押しされて歓声は強く、大きくなる。
彼らは見逃すまいと後継者の姿を探したが、それらしい人物の姿は見つからなかった。
歓声は一時的に爆発し、暫くするとしぼんでしまう波のようなことを続けていた。
その行進の中央で進む馬車の中にアスナはいたのだが、彼は最後まで顔を見せることはなかった。何もアスナが顔を見せて騒ぎが大きくならないように配慮した訳ではない。
ただ単に寝ていただけなのだ。
これまでの戦いで溜まった疲れを癒す間もなく、会議会議の連続で体力的にも精神的にも一杯一杯だった。
しかし、アスナはそんなことを見せようとはしなかった。気にする余裕がないほど忙しかったということもあるが、最大の理由は期待されるとそれに応えたくなる性格のせいだろう。
そのため、折角ファイラスからエグゼリスまでの五日間、書類仕事や会議からは開放されたと言うのに、根っからのサービス精神を発動させて、将軍たちの護衛に付いてきた兵たちに声をかけたり、フォルキスやLDたちと雑談に興じると落ち着きなく動き回っていた。
そして、今日の昼過ぎにはエグゼリスに到着するからと、アスナは自分の馬車にフォルキスとLDを呼び雑談しながら移動することにした。
将軍たちは勝者と敗者の総帥が同時に入城することにいい顔をしなかったがアスナはこれを強行した。
フォルキスたちを表に出せば心ない民衆から罵声や投石を浴びさせることになるかもしれない。それを防ぐための配慮である。最大の理由は、ようやくエグゼリスに戻ってきたのに不愉快な出来事を目にしたくないからと言うのが一番だった。
そして、もう一人この馬車に同乗している人物がいた。エルトナージュだ。
フォルキスとエルトナージュが兄妹のような間柄だったとアスナも聞いている。敵味方に分かれて剣を交えるようなことになってしまった以上、これまでのような付き合いは不可能だとしても、改めて良好な関係を築いて欲しい。言ってみればアスナのお節介だ。
そんな個人的なお節介とは別にラインボルトとしても二人が気まずいままでは何かと不都合なことが多い。
もっとも、それはアスナとエルトナージュの間にも言えることなのだが・・・・・・。
そう言うわけでアスナはお節介全開にして出発してからずっと話し続けていた。しかし、疲れ切った身体で喋り続けるのも辛くなって、話題が途切れたのをきっかけに寝入ってしまった。
自分に身体を預けるアスナにエルトナージュは顔をしかめていたが、安らかに寝息を立てる彼に引きずられたのか、いつの間にか同じように身体を預けて小さな寝息を立てていた。アスナ以上に意地っ張りで、人に頼ろうとしない彼女も疲れているのだ。
互いに身を預けて寝入る二人の表情は普段のそれよりもずっと幼く見える。ミュリカが見れば喜び、サイナが見れば複雑な感情が交じった笑みを見せただろう。
そして、馬車に同乗しているフォルキスとLDは共に困った顔を見せていた。
「敵対していた者に同乗を許すだけでも常軌を逸しているというのに、寝入ってしまうとはな。こういう場合、どう表現すれば良いと思う?」
「そういうお人柄なのだろう、殿下は。もちろん、姫様もだが」
「・・・・・・相変わらず簡単な思考をしているな」
ため息を漏らすようにLDは友人を見ながら言った。
「複雑すぎるお前の友としてはそれぐらいが丁度良いだろう」
視線をアスナたちから離さずにフォルキスは応えた。やれやれとLDは首を振った。
「皮肉も分からんほどに単純だったとは知らなかったぞ」
「・・・・・・では、お前に合わせてやろうか?」
「やめておけ。バカが背伸びをしても結局、バカに変わりはない。・・・・・・しかし」
と、LDもアスナたちに視線を向ける。
「このように見れば、二人とも子どもなのだな。当たり前のことなのだが」
自然と苦笑が浮かび、寝入った二人にかけてやった自分のローブの崩れを直してやる。
「お二人とも御歳十六か。確かにまだ子どもだ」
「その子どもが次期魔王で宰相の重職にある。幼王の例は幾らでもあるが、宰相まで同い年というのは前代未聞だ」
LDはちらりと横目でフォルキスを見た。
「お前が十六の頃は何をしていた?」
「ゲームニス様の計らいで士官学校に入学が許されたのが十四だから、ようやく軍隊生活に慣れ始めた頃か。級友とバカ騒ぎをして教師に叱られたりしていたな。そう言うお前はどうだった?」
懐かしむように目を細めてフォルキスは言った。
「私も似たようなものだ。しかし、それがこの二人にはない。いや、アスナにもそのような時期があったのかも知れないが、今はない。姫君に至っては皆無に等しい」
「哀れんでいるつもりか? もしそうなら、お二人に失礼だろう」
「いや、そうじゃない。私たちはこんな子どもに負けたのだなと思ってな。未だに信じられん」
と、LDは小さく首を振った。銀糸のような細く美しい髪が光を零す。
「考えてみれば、誰も彼もが子どもなのだな。この二人はもちろん、ヴァイアス団長、ミュリカ嬢、リムル将軍。目立つ目立たないに関わらず功を挙げたのは誰もが子どもだ」
「大人は何をしていたのだろうな。自分もその一人なのだと思うと情けなくもなるが」
「結果だけを見れば何もせず、大騒ぎをしただけだ。初めから大人がしっかりしていればこのようなことにはならなかったんだからな」
「・・・・・・耳が痛い話だ」
「そう思えるだけましだと思っておいた方が救いがある。我こそが鎮定した功労者であると闊歩する連中にはその自覚がないだろうからな。もちろん、それが悪いとは言わん。多かれ少なかれ武人は自分の功績を誇張して見せるものだからな」
「なんだ、今日は皮肉にキレがないな」
「私にもこんな子どもに負けた精神的な痛手があるだけだ」
ばつの悪そうな顔をするLDが本当に珍しいのか、ここ数年で一番興味深いものを見たような顔をする。
「なんだ。言いたいことがあるならはっきりと言え」
「いや。現実を見据えることを第一としているお前が、そんなことを言うから少し驚いただけだ」
ちゃちゃを入れるフォルキスにLDは苦虫を噛み潰したような顔を見せる。これまた珍しいことだ。
「同じ事を言わせるな。聞き流しておけ」
憮然とした顔で吐き捨てるとLDは話を続ける。
「なんだかんだと大騒ぎをして、ラインボルトはこの二人の子どもに未来を委ねた。これからこの国はどうなって行くのだろうな。このまま安定へと向かうのか、それとも再び混乱が訪れるのか」
「お前はどう見ている?」
「・・・・・・そうだな。断言し切れないが、このまますんなりと安定するとは思っていない。もう暫く波乱が続くと見ている」
「・・・・・・姫様の幻想界統一への思いか?」
エルトナージュは隠し続けているつもりでいたが、彼女に非常に近い者たちはそれを察していた。エルトナージュが語らずとも、彼女が何を学んでいたのかを知れば自ずと答えは導き出されていく。
「何事も慎重な姫君がこの状況で統一政策を推進しようとは思わないはずだ。問題はアスナの方だな」
「殿下がなにか?」
覗き込むように尋ねるフォルキスに小さくLDは頷いてみせる。
「お前も気付いているとおもうが。アスナは事を迅速に進めようとするところがある。戦時中はその展開の早さが功を奏したが、政治はそう言うわけにもいかん。状況が切迫しているからと言って、迅速に思うがままに事が進められるわけではない」
「慣例や根回しか」
「まぁ、そんなところだ。だが、アスナはそう言ったことを一足飛びにして動かそうとする。彼自らが近衛騎団を率いて出陣したことにも現れているだろう」
「確かに・・・・・・」
「官僚組織はちょっとやそっとでは崩れないように出来ている反面、融通がききにくい。なまじ彼にやる気があるだけにそれとの齟齬に耐えられるかどうか。そして・・・・・・」
LDの視線が愛らしい寝顔を見せるエルトナージュに向けられる。
「姫君は人族に対して酷い嫌悪を抱いている。その上、後継者になりきれなかったという劣等感もある。姫君自身がそれとどう折り合いを付けるかという問題もある」
「混乱するだろうと分かっているのに、殿下に雇われるお前はどうなんだ?」
自分たちでは触れることの出来ない領域の話題だったため、フォルキスはそっと話の流れを変えた。LDも自覚していたのですぐにそれに乗る。
「ここで約束を破れば、私の信用問題になる。それに・・・・・・」
「それに、なんだ?」
「アスナに多少なりとも興味がある。私が放った刺客や策からも生き残り、あのような条件で私と契約履行の約束を取り付けた彼が、ただの山師なのか否かを見極めるのはなかなか面白いことだと思うぞ」
「そういえば快楽主義者だったな、LD」
「このふざけた顔のおかげであまり知られていないがな」
と、LDは薄く笑みを浮かべた。怜悧さを感じさせる相貌と、どこかつまらなさそうな空気を纏うこの男の気質は快楽主義者であった。だからこそ、一つの国に腰を落ち着けることなく傭兵として各地を転々としている。そうする理由は単純だ。余計なしがらみに囚われずに面白そうな所にいけるからだ。もちろん、そうあるためにLDは契約の履行を絶対のものとしている。そうでなければ、傭兵として食いっぱぐれるからだ。
と、不意に馬車が何かの影に入った。
LDは閉ざされたカーテンの隙間から外を覗き見ると丁度、城門を潜っている最中だった。数分もすれば到着となる。
「短い休息は終わり、新たな戦場に到着した、か」
王城と言う名の戦場に。武具による火花も魔法による爆発もない。
しかし、それ故により様々なことが複雑に絡み合った状況を生み出す。
誰が敵で、誰が味方なのか判別しにくい戦場に到着したのだ。
「二人とも、じきに到着だ。起きた方が良い」
近い将来に自分の雇い主になるとは言え、今は虜囚の身だ。その自分が勝者である二人を甲斐甲斐しく起こすのが妙に可笑しくてLDの表情に本人も自覚しない微笑が浮かぶ。
LDに肩を揺すられて、まず目を覚ましたのはアスナだった。
いつの間にか自分が寝ていて二人を放っておいたことに気付いたアスナの第一声は「ごめん。寝てた」であった。
これには二人とも苦笑を禁じ得ない。普通ならばフォルキスたちが何か良からぬ事をしなかったか怪しむべきところなのにこうなのだ。
「殿下もお疲れだったのでしょう。お気になさらずに」
「あっ、うん。・・・・・・で、これってどうなってるの?」
今のアスナはかなり羨ましい状況である。
まだ目を覚まさないエルトナージュは頭をアスナの肩に預け、穏やかな寝息を立てている。暖かいし、柔らかいし、何となく良い匂いだしでアスナは耳まで赤くなっていた。
サイナとあれやこれやとあったからこの程度で済んでいると言っていい。もし、そう言った経験を何もしてなかったら、驚いて大声ぐらいは出していたはずだ。
これまでなんだかんだとあったが、アスナはエルトナージュのことが嫌いではない。
この一ヶ月かけて行われたミュリカの刷り込みのせいもあるだろうが、基本的にアスナは何かに一生懸命な人に好意を感じる方だ。
それに、幻想界を統一するんだと言ったときに見せた彼女の泣きそうなのを堪えて虚勢を張っている顔を知っているから、なおさら放っておくことなんか出来ないのだ。
「見たままの状況だな。君が寝入った少し後で姫君も寝てしまったと言うわけだ。理解したならとっとと起こしてやれ」
「オ、オレが!?」
「他に誰がいる。寝入った女性に肩を貸した以上、最後まで面倒を見るのが男の甲斐性というものだろう」
「う゛っ・・・・・・」
言葉に詰まるアスナにLDは口元に楽しげな笑みを浮かべた。これまで何度となくしてやられているので、仕返しが出来て楽しいのだろう。
「殿下。LDの申すことは聞き流して起こしてあげた方がよろしいかと」
せっかく訪れた反撃の時を邪魔するなと言いたげな不満顔のLDのあっさり無視してフォルキスは続ける。
「姫様も寝起きの顔を不特定多数に見られたくないでしょうからな」
「・・・・・・分かった」
フォルキスに促されてアスナはエルトナージュを起こしにかかる。
声をかけたり、肩を揺らしたりしているがあまり効果を生んでいない。イヤイヤと小さく首を振ったり、枕と勘違いしているのかアスナの腕に抱き付いて「んん〜・・・・・・」と甘えた声を上げるばかりだ。左腕で柔らかくつぶれる胸の感触にどうしたもんかと困ってしまう。
なにより普段がツンツンした態度なだけに、今の彼女は異様に可愛く見える。ふられた者の分別として、心の整理を行ったはずのフォルキスですらも、胸の奥から沸き上がってくるものがあった。
男二人で顔を赤くしていても埒があかないとアスナは意を決して彼女の耳元で何かしら囁きかけた。王子様のキスを受けたかのようにお姫様は眠りの茨から解き放たれていった。
「・・・・・・朝?」
まだ焦点の定まりきれていない眼(まなこ)を左手でこする。右腕はまだアスナの腕に絡めたままだ。
「とりあえず、おはよう」
こくん、と頷くとエルトナージュも「おはようございます」と返してくる。暖かい空気が詰まったようなほんわりとした声だ。まだ、寝ぼけているご様子だ。
「えっと、とりあえずそろそろ離してくれないかな」
「・・・・・・えっ」
「オレとしてはかなり嬉しい状況なんだけど、さすがにこのまま降りるわけにはいかないだろ?」
「・・・・・・!?」
ようやく自分の状況に気付いたのかエルトナージュはさっと身をアスナから離した。それと同時に馬車がゆっくりと静止した。まるでこの瞬間がくるのを見計らっていたかのように。・・・・・・そして。
「アスナの、バカぁぁぁぁっ!!」
叫びとともに放たれた平手をアスナの左頬に炸裂させて、エルトナージュは馬車から逃げるように降りていった。
残されるのは男三人と気まずい沈黙・・・・・・。そして、アスナの左頬に残った赤い手形のみ。
「あのさ・・・・・・」
甘いと思っていたら思いっきり苦い物を口にしたような口調でアスナは沈黙を破った。
「なんだ?」
LDの口調はどこか厳かな色があった。
「オレ、何か悪いことしたかな?」
「状況分析と興味から聞くんだが、姫君に何を言った?」
「朝飯できたぞ〜って。うちの妹は大抵これで起きるから、エルもいけるかなぁって思ったんだけど」
再び降りてくる沈黙。
出迎えに出ていたストラトたちは突然飛び出してきたエルトナージュに呆気にとられ、未だに馬車からアスナが降りてこないことに訝しげな雰囲気になっていた。
しかし、当の三人はそれとは違う複雑な空気の中にいた。十秒ほどの間をおいてLDは結論づけるように呟いた。
「理屈はともかくとして、謝っておいた方が無難だろうな」
「・・・・・・納得いかないけど、そうしておく」
期せずして、これがアスナにLDが行った初めての助言であった。
LDに背中を押されたアスナを出迎えたのは、王事、つまり帝王や王室に関する事柄を取り仕切る王宮府の面々であった。
見た限りこの場にいるのは家令院の執事たちが殆どのようだ。
男女問わずに黒のトルーザーに白のシャツ、その上に黒のベスト姿だ。茜色のネクタイは油断無く締められている。
アスナの下車に合わせて右手の平を胸に当て最敬礼を行う彼ら執事たちには実直さ、誠実さだけではなく控えめな華麗さがあった。
これまで何度と無く丁重に扱われてきたから、それなりに馴れたと思っていたアスナだったが、これには少し気圧された。
大きな門を背景にした広場に整然と並ぶ執事たち。これまで一般庶民でやってきたアスナにとってはまだまだ戸惑いを感じてしまう。
気圧されて少し顔を引きつらせたアスナではあったが、これも凱旋した後継者を出迎えてくれた彼らの好意だろうと解釈することにした。
背後にはヴァイアスが控えている。ちらりと振り返ると「心配ないから」と言わんばかりに小さく頷きかけてきた。
アスナは小さく深呼吸をすると出来るだけ堂々とした態度で歩き出した。
正直、エルトナージュのことが気になったがこの状況でアスナまで駆け出すわけにはいかない。なにより、アスナが王城エグゼリスに滞在していたのは一日あまり。
王城がどういう構造になっていて、エルトナージュがどこに行きそうなのかさっぱり見当が付かない。
数歩ほど進むと執事たちのほぼ中央で最敬礼をしていた人物が顔をあげた。
良く撫で付けられた銀髪、年輪のように時を刻んだ皺、そして片眼鏡。
彼ら執事たちを総括する執事長であり、幻想界に召喚されたばかりのアスナに色々と親切にしてくれた人物。ストラトだ。
彼は笑い皺をさらに濃くする。その表情にアスナはようやく安堵を憶え、笑みを返す。
「お帰りなさいませ、アスナ様」
「・・・・・・えっと、ただいま、でいいのかな」
と、先ほどとは異なる曖昧な笑みでアスナは言った。
「もちろんでございます。我らはアスナ様の無事のご帰還をお待ち申し上げておりました」
「・・・・・・ありがとうございます」
態度や礼で後継者と持ち上げられていてもアスナにはいまいち自信がなかった。それはある意味、当たり前の気持ちだった。
降って湧いてきた後継者の地位だ。突然、貴方は国のあれこれを指導して、多くの人に傅かれる(かしずかれる)地位の人です、と言われても困ってしまう。
これまで内乱を収めようと突っ走っているうちに、望まれているのだからその期待に出来るだけ応えたいと思うようになったが、それでも王様稼業をすることに困惑が大きい。
元々、無意味に偉そうにふんぞり返れない性格なのに加えて、アスナが後継者であることにいまいち確信が持てない最大の理由は、エルトナージュの「後継者と認めない」発言だ。先王の娘とか、宰相だとかそういう政治的な意味合いでのことではなく、面と向かって言われたことが重要なのだ。
内乱が終わっても気を抜かずに突っ走っていられるのはエルトナージュに少しでも認めて貰いたいという気持ちがあるからだ。
「・・・・・・えっと、エルは?」
「何があったか存じ上げませんが、そのまま城内へと入られました。恐らく自室に戻られたのではないでしょうか」
「だったら・・・・・・」
エルの部屋に案内して、と言おうとしたアスナをストラトは止めた。
「それはお止めになれた方が宜しいかと。先ほどミュリカ嬢が姫様の後を追いましたので、彼女に任せた方が無難でしょう」
「・・・・・・分かりました。暫くしてから、話をすることにします」
ストラトは頷くと、アスナを歩みを促すように身体を傾けた。アスナもそれに従おうと足を一歩踏み出したが、そこで止まった。
「ヴァイアス。フォルキス将軍とLDのことを頼む。あと、他の将軍たちのことも」
他の将軍たちとは最後までフォルキスに付き従った士官たちのことだ。
表沙汰にはなっていないし、ヴァイアスも詳しい内容をアスナに話していないが、細々とした暗躍があるようだ。
つまり、旧革命軍の士官の中から取り込めるヤツにはアスナに減刑を訴えでて恩を売り、従わないヤツは故意に騒動を起こさせて始末しようとしている動きがあるようなのだ。
その主導者は一人なのではなく、複数名いるようだとヴァイアスは言っている。
アスナの目が届いているのは最後までフォルキスに従った者たちだけで、他の降伏した旧革命軍の士官たちにも、暗躍の主導者たちの手が伸びているのかどうかは不明だ。が、伸びていると考える方が普通だろう。降伏した方も勝者側と手を組んでいた方が現状でも、そして将来においても安泰となる可能性が十分にある。
早い話、アスナ側についた将軍たちが変なちょっかいをださないように監視を宜しくというわけだ。
ヴァイアスもその辺りは心得ているのか「すでに抜かりなく」と小さく応えるのみだ。
近衛騎団団長としての顔を見せているので少し言葉遣いに距離感を感じるが、十二分に頼もしい返事だった。
アスナは小さく頷くと一ヶ月以上ぶりに王城エグゼリスへの足を踏み入れた。
王城エグゼリスの歴史は古い。
建国王リージュが入城する遙か昔に建造された古城だ。首都として機能させる素地が全くなかったエグゼリスは幾たびもの拡張工事を繰り返してきた。
戦乱の時代には街の一部を整理して城塞機能を拡張させたり、平穏な時代には城塞部を各省庁の外局などに当てられるなどした。
言うなれば王城の有り様がラインボルトの現状を表していると言っても過言ではない。
そして、現在は後者の色が強い。先王アイゼルの施政の基本は国家財政の建て直しと周辺諸国の安定にあった。その影響下にあった王城エグゼリスは政務機能が拡張された状態にあった。それともう一点、強調されている部分がある。
それは王城の華麗さだ。
先々代魔王の派手好きと、三代前の魔王の見栄っ張りが影響したと言われている。
宰相府でもある外朝、つまり政務を取り仕切る場の玄関の広間の壁には精緻な彫刻が施され、天井を見上げればリージュが起こした独立戦争を描いた絵がある。
そのような華麗さの中で国家の枢機を司る諸大臣や高級官僚その他の人々が最敬礼を持ってアスナを出迎えた。
全てにおいて気圧されるアスナだったが、内心の動揺を押せ付けようと腹に力を込めて進む。ヴァイアスとストラトの足音がとても頼もしく聞こえた。
そして、諸大臣たちの前まで進むと諸大臣の中から一人細長い老いた男が進み出てきた。
背は170の半ばほど、ヒョロリとしているが見かけほど頼りないという訳でもない。どことなく細く長い木を想起させる雰囲気だ。
灰色の長い髪は三つ編みにされて背中に流されている。乳白色の布地に金糸の刺繍がされた長衣を身に纏い、頭には同色の薄紅色の羽根飾りをあしらった帽子を被っている。
実直さを感じさせる青い瞳を良く観察してみればそれがガラス玉であることに気付くだろう。そして、老人の肌もどこか硬質で木目が浮かんでいることも分かる。
そう、この老人は人形なのだ。
遙か昔にいた偉大なる魔導士の使い魔として、人形の身に仮初めの命を吹き込まれて生まれた存在だった。魔導士の助手として生み出されたその人形は長い年月を経て、本物の命を宿すことになった。
幻想界ではそう珍しいことではない。長く愛用されてきた器物が何かの拍子で命を宿した例は幾らでもあった。彼はその一つの例であった。
やがて彼の生みの親である偉大なる魔導士も天寿を迎える時が来た。偉大なる魔導士は人形の行く末を案じ、関係の深かった王宮府に彼を預けることにした。
やがて、彼は王宮府の首座である内大臣に列せられ、歴代魔王に仕えてきた。
ラインボルト王宮に仕える者の最古参として、誰も頭が上がらない存在だった。
「無事のご帰還、心よりお慶び(よろこび)申し上げます」
そして、改めて内大臣オリザエールは深く腰を曲げた。彼に倣って諸大臣たちも礼をする。それにアスナは頷きをもって応じた。
「ありがとうございます、オリザエールさん」
「・・・・・・殿下。我らに対して敬語は不要です。大臣の任を帯びていようとも殿下の下位にあることに変わりありません」
見下ろすように視線をアスナに向けるオリザエールの表情は人形ゆえに表情の起伏は乏しいが、声音は穏やかで窘める色を感じる。
「そうでしょうけど、あまり面識のない年長の方にため口は失礼だと思います」
「では、お慣れになるまで我らのことは官職名で及び下さい。後継者殿下に敬語を使われると恐縮する者も多くおります」
「分かりました。えっと、オリザエールさんのことは内府、で良いんですよね?」
内府とは内大臣の別名のことだ。
ちなみに内大臣は王宮府の長であり、下部組織である家令院、紋章院、地理院、王墓院を統率する者である。ちなみに命令権は魔王にあるが近衛騎団も王宮府に属している。
近衛騎団同様に政治に口出しすることはないが、王として相応しくないことを行った場合、それを諫める(いさめる)任務も帯びているため内大臣の権威は大きい。
「お聞き入れ下さり、恐悦至極に存じます」
深々と腰を曲げて礼を尽くすオリザエールは顔を上げると諸大臣らに道をあけるように促した。
「では、侍医の診察をお受けいただいた後、湯浴みなどされて戦塵を落として下さい」
「えっ、けど戻ってすぐに会議になるってエルが言ってたんだけど」
「その予定ではありましたが、姫様も長い間、戦陣におられお疲れのご様子。内務卿を始めとする諸大臣らは会議の開始時刻を延ばすとのことですので、お気になさらずに」
「分かりました。それじゃ、そうさせてもらいます」
アスナの返事に満足そうに頷くとオリザエールはヴァイアスに顔を向けた。
「ヴァイアス団長。殿下の診察を行っていた軍医を王宮府として正式に後継者殿下付きの侍医とします。後ほど必要な書類を提出するように」
「了解しました」
王城に戻ったらそこにいる医者が自分の専属医になるのだろうと思っていただけに、オリザエールの申し出は有り難かった。
王城の医者の腕が信用できないとは思わない。しかし、これまでいろんな怪我を説教混じりで面倒見てくれたロディマスの方が安心できる。
「ありがとうございます」
「礼は不要にございます。我ら王宮府の者は王族に煩わしい思いをさせぬよう取り計らうのが役目でございますゆえに」
「それでも、気を遣ってくれたことにかわりありませんから。・・・・・・ありがとうございます」
オリザエールは小さく頷いてアスナの礼を受け入れた。
「では、これ以降はストラト殿が案内いたします」
「分かりました。・・・・・・それはそうと」
言いながらアスナは周囲に立ち並ぶ名家出身の者やラインボルトの立法府である名家院の議員たちを見回した。
「回りの人たちにも挨拶をしておいた方が良いと思うんだけど。折角、少しだけど時間が出来たことだし」
「さればこそご休憩に時間を割くべきかと。この場にいる方々の中には、既に殿下への謁見を願い出ている方もおられます。ご歓談するのはその時にすべきと心得ます」
僅かに考えたアスナは結局、オリザエールの言うとおりにした。
話がしたいのなら時間があるときに来てくれれば良いし、ざっと見た限り百人以上の出迎え一人一人に声をかけようと思ったら明日の朝日を拝むことになるかもしれない。
それに、正直に言えば疲れたというのもある。
・・・・・・馬車での旅だったし、ずっとエルやフォルキスのことを気遣っていた訳だし。
そう思ったアスナだったが、それでも性格なのか一度、出迎えに集まった人たちに声をかけることにした。
「出迎えて下さって、ありがとうございます。改めて、ラインボルトの内乱を終わらせることが出来たことを報告します。これから国の建て直しが待っていますが、みなさんが力を出し切ってくれれば乗り切っていけると思っています」
そして、自分の少し後ろで控えていた将軍たちに目を向ける。
「これから催される慰労会には会議のために出席出来ませんけど、オレよりも頑張った将軍たちの武勇伝をたっぷりと聞いて下さい。強面の人が多いけど、ああ見えて話上手な人が多いから楽しみにして貰って良いんじゃないかなぁ」
笑いが起こる。それが快い笑いであったかどうかは分からないが、挨拶としてはこんなもんでいいだろう、とアスナは一礼してストラトを見た。
「それじゃ、ストラトさん」
「はい。ご案内いたします」
アスナは一度、列席者たちに手を挙げてみせると今度こそ歩みを止めることなく進んだ。
自分の背中に向けて敬礼される雰囲気を感じ取った。
やはり、馴れないと思ったが表情には出さないように努めることにした。
エルトナージュが馬車を飛び出して、二十分ほど経っていた。この間、ずっとミュリカは彼女を追いかけて走り続けていた。
最初は小城として出発した王城エグゼリスだが、度重なる拡張工事の末にかなりの広さになっていた。大国ラインボルトを統治出来るだけの行政機能を持たせるためだけではなく、政務のために王城から出ることの出来ない魔王のためにかなり広い区画、内廷が用意されていた。
脇目もふらずにエルトナージュが向かっている先は、恐らくその内廷に設えられた私室だろう。ちなみにミュリカの私室も内廷の中にある。
王族とその世話をする者のみが起居を許される内廷にミュリカが私室を与えられているのは彼女がエルトナージュの学友だからに他ならない。
先代魔王アイゼルが両親を失ったミュリカを引き取った際、エルトナージュに準じる扱いをするように王宮府に命じていたためだ。
ともあれ、内廷に駆け込んだエルトナージュは執事たちのギョッとした顔に気を向けることなく、文字通り自室に飛び込んでいった。かなり混乱していたにも関わらず彼女はしっかりと扉に鍵をかけていた。そのお陰で同じようにエルトナージュの部屋に入ろうとしたミュリカは勢いを殺せずそのまま扉に衝突した。
「ったぁ〜・・・・・・」
鼻を打ったようだ。かなり赤くなっている。
ムンッと改めて気合いを入れ直すとミュリカは閉じこもってしまったエルトナージュを呼び出すべく扉をノックし始めた。
「エル様! エル様ぁ〜!!」
返事はない。このままでは埒があかないとミュリカは実力行使に出ることにした。
・・・・・・お説教は控えめにお願いします。内府様!
表情に乏しい顔で説教をするオリザエールを想像しながら、手にした杖をドアノブに向けると衝撃系魔法を放った。バシンッという高い音を立てて、ドアノブはエルトナージュの部屋に飛び込んでいった。
・・・・・・ちょっとやりすぎだったかも。
後で待ち受けているだろうオリザエールのお説教を想像して、背中に嫌な汗を感じたが当面の目標はエルトナージュに何があったのか聞き出すことだ。
久しぶりに入ったエルトナージュの部屋は以前にもまして蔵書数が増えたように思う。
入って左手にある書斎はもちろん、居間にあたる部屋にまで書架が立ち並んでいる。その内訳は政治、経済、軍事、魔法その他知識を記す書籍が分類されて収められている。
私室ではなく小さな書庫と呼んだ方が相応しい。
私室とはその者の有り様を表すと言う。ならば、まさしくこの部屋はエルトナージュそのものだ。若干十六歳で宰相の地位に就き、国を牽引する者の部屋がまさしくこれであった。また、この部屋とは別に三カ所、同じ様な部屋をエルトナージュは有している。
どの部屋にも個人というものがなく、ただまっすぐに幻想界統一を望んだ少女が積み重ねてきた知識と時間が、このような部屋として具現化しているのだ。
ミュリカはこの部屋に入るたびに薄ら寒い気持ちになる。
いつの日か、エルトナージュ自身が幻想界統一のみを求めるよく分からないモノになるのではないかと。
そして、改めて自分は彼女をそのような存在にさせないためにいるのだと再確認する。
意を決して部屋に踏み込んだミュリカは足下に積み上げられた本の山が幾つか蹴倒されているのに気付いた。
・・・・・・なんだか、エル様らしくない。と言うよりも・・・・・・。
ミュリカは足下に注意しながら、エルトナージュがいるであろう寝室に向かった。
「エル様?」
寝室もまた本で埋め尽くされていた。書架の数こそ少ないものの本が幾つもの山をなしている。恐らくベッドで休む前に目を通してそのままにしたものだろう。
そんな本の峰が連なる部屋のほぼ中央に天蓋付きのベッドがあった。
「・・・・・・・・・・・・」
ベッドの上に鎮座するそれを目にしたミュリカは始め呆然としたが、しばらくすると濃い笑みを浮かべた。
そこにはシーツを被って丸くなっているエルトナージュがいたのだ。小さく不満げな声まで聞こえてくる。
それはとても懐かしい光景。まだミュリカがエルトナージュと同室だった頃、まだエルトナージュの母が生きていた頃、そして、まだエルトナージュが幻想界統一など考えていなかった頃によく見た光景だった。
何か失敗したときや、恥ずかしい思いをしたとき良く彼女はこうしてベッドの中でお籠もりをしたものだ。
どんなに国を牽引する宰相として振る舞おうとしても、それは彼女が被る仮面でしかない。仮面を被るエルトナージュ自身は変わりがないのだ。
何となくそれが嬉しくなって自然とミュリカの声は優しくなる。彼女はベッドにあがると丸くなっているエルトナージュに声をかけた。
「何があったんですか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「またアスナ様と口論になったんですか?」
シーツの下で首を振ったような気配を感じた。
「それじゃ、何があったんですか? 教えて下さらないとお口添えも出来ませんよ」
「・・・・・・・・・・・・」
王宮府やラインボルトの重鎮たちの出迎えを無視した上に会議の開始を遅らせてシーツにくるまっているのだから、何かしらの言い訳をしておかないと格好が付かない。
「それに長い間、こうしてらっしゃったらアスナ様が来ちゃいますよ。お節介が服着て歩いてるような方ですから、絶対に来ます。よろしいんですか? そんなお姿をアスナ様に見られても」
ミュリカの追い込みが上手くいったのか、アスナの行動が容易に想像できたからなのかは分からないがエルトナージュは起きあがるとシーツを脱ぎ捨てた。
ようやく顔をみせてくれたエルトナージュは耳まで真っ赤にした顔でミュリカを睨んだ。
それがミュリカの琴線に触れ、思わずギュッと抱きしめたくなる衝動にかられたが、それをグッと押し止めて、
「それで何があったんですか?」
と、笑顔で聞くことにした。
風呂は広かった。
以前、行った旅行先のホテルで入浴した大浴場よりも大きかったんじゃないか、とアスナは思った。湯船一杯に張られたお湯から立ち上る湯気のために、実際の広さはどれだけあるのか分からなかったが、余裕で百人近くの人が入れるのではないかという広さだった。
しかし、ロディマスから風呂はまだ厳禁されていたので、ゆっくりと湯に浸かれないのが非常に残念だったが。
ストラトに濡れタオルで身体を拭いて貰いながらアスナは、こんな広さを一人で専有するのはもったないし、なによりこれだけのお湯を沸かすのが大変じゃないかと尋ねると、
「こちらのお湯は浄化して、王城に一室を与えられている者たちの浴場や手洗いなどに使用させていただいております。また、魔導珠によって湯沸かしや保温されていますので燃料費も必要最小限に止められております」
とのことだった。つまり、十分に元が取れているということだ。
ちなみに風呂に使用している魔導珠に魔力を供給しているのはストラトたち執事の仕事らしい。
傷の経過は順調で、身体を拭いてもらったアスナは今、大きな長卓を前にして一人で昼食を摂っていた。
これまでも一人で摂る機会はこれまで何度かあったが、この状況はかなり寂しい。
用意して貰った昼食はとても美味しいし文句などないのだが、この広い空間の中、一人なのはいただけない。少し距離をおいて執事二人が控えているのだが、それが余計に寂しさを演出している。
・・・・・・金持ちの食事シーンでこういうのがあるけど、あれって本当だったんだなぁ。
と、微妙な寂しさを忘れようと強引にそんな感慨に耽っていると不意に右側の扉が開いた。
「ん?」
フォークをくわえながら、そちらに顔を向けると、ミュリカを伴ったエルトナージュがいた。顔を真っ赤にして、幾分俯きながらこちらを睨んでいる。
・・・・・・やっぱり、可愛い赤鬼だよなぁ、と思ってしまう。
痛みが引いたはずなのに、何となく疼く左頬を掻いてしまう。それが当てつけに見えたのか彼女の頬が小さく膨らんだように見えた。
「黙ってちゃ先に進みませんよ」
背中からエルトナージュを促しながら、ミュリカは小さく頭を下げて謝った。
アスナもそれを受け入れて、頷く変わりにフォークを皿の上に置いて身体をエルトナージュに向けた。
「ほら、エル様」
多分、到着間際の平手打ちを謝りたいのだろう。LDが言ったとおりこちらから謝った方が良いかも知れないと思ったが、止めておくことにした。その変わりにエルトナージュが話しやすい状況を作ることにした。
アスナは振り返り控えていた執事二人に頷きかけて、暫く席を外すように促した。そして、改めて身体をエルトナージュに向けた。
「話したいことがあるなら聞くよ」
促されてもエルトナージュはなかなか口を開こうとはしない。もう一押しか? とアスナが再び口を開いたのと、ほぼ同時に彼女は大きく腰を曲げた。
「先ほどは申し訳ありませんでした」
「うん。オレも変な起こし方してゴメン」
顔を上げたエルトナージュは小さく首を振って、小さく「そんなことはないです」と呟いた。
気まずくはないが、言葉が出ない二人の間にミュリカが割って入った。
「良かったですね、仲直りができて」
「仲直りって、わたしは別に・・・・・・」
「はいはい。それじゃ、そういうことにしておきましょうか。それよりも、会議まで少し時間が空いたことですし、お昼をご一緒させていただいたらどうです? ねっ、そうしましょう」
言いながらミュリカはエルトナージュの背中を押して、アスナのすぐ側の椅子に座らせた。それからに「よろしいですよね」とお伺いを立てるのだからアスナは苦笑混じりに頷くしかない。
「それじゃ、エル様のお昼を用意して貰うよう伝えてきます。私はそのまま仕事に戻らせて頂きますから、あとはお二人でごゆっくりどうぞ」
それだけ言うとミュリカは慌ただしく退室していった。
ミュリカが去った方向を見ていたアスナとエルトナージュは思わずお互いの顔を見合った。だが、それも僅かな間だけで、彼女はふんっと顔を逸らした。
・・・・・・急に気楽な関係になるわけないから、こんなもんか、とアスナは苦笑を浮かべた。
そんな彼を横目で見ていたエルトナージュは意を決したかのように、
「あ、あの!」
「な、なに?」
エルトナージュに迫られた分だけ後退するアスナ。
「先ほどのお詫びに、わたしの出来る範囲で貴方の言うことを聞きます。何か不便なことがあれば改善するように言います。なにかあればどうぞ」
周りの人たちはとても良くしてくれるので不便に思うことはない。強いて言えば、みんなが敬いすぎて少し息苦しいことぐらいだが、これから王様稼業を続けていく以上、少しずつでも馴れて行くしかないことだ。
「気持ちは嬉しいけど、今のところ・・・・・・」
そこまで言ってアスナは口を閉じた。
エルトナージュが「むぅ〜」と唸っているような顔でアスナを見ている。
これが彼女なりの詫びの仕方なのだから、些細なことでも何か言った方が良いのかも知れない。そう思ったアスナは何かないかと天井を見上げた。
そこには大きなシャンデリアが吊り下げられている。
「そうだ。だったら、魔法の使い方を教えてよ」
「えっ、ですが、今後の方針では・・・・・・」
アスナが魔法を勉強するのは魔王の力を受け継いでからの方が効率が良いだろうと言うことで先延ばしになっている。
人族であっても訓練次第で魔法を使えるようになるが、それでも長い時間がかかるし、その時に変な癖でも付いたら大変だからと言うのが最大の理由だ。
「エルが考えてるような凄いヤツじゃなくて、魔導珠付きのランプとかを使えるようになりたいんだ」
「なぜです? それぐらいならば執事を呼べば済むことでしょう。不要な気遣いは彼らから仕事を奪うことにしかなりませんよ」
「そうなんだろうけどさ、夜、トイレに行くだけでわざわざ呼ぶのは申し訳ないだろ。それに明かりを消してもらわないといけないから、用を足し終わるまで待っててもらうのってなんかいやだろ?」
「それは、確かにそうですが」
「だろ? そう言うわけだから、お願い!」
アスナは両手を合わせて拝むようにエルトナージュを見た。
「それにさ、ミュリカから聞いたんだけどエルって人に物を教えるのが上手いんだろ? エルだったら変な癖が付かないように教えてくれるだろうし」
ズイッと迫るアスナに、今度はエルトナージュが赤面付きで後退する。
「えっと、やっぱりダメかな」
「ダメじゃ、ないですけど」
彼女の返事を合図にアスナはさらに身を乗り出す。
「よしっ、それじゃ決定な。後はどこで練習するかだけど」
「でしたら、時間が空いたときに貴方の部屋で」
それはさすがに拙いだろうとも思ったが、他に代替案も浮かばないし、エルトナージュ自身が良いと言っているのだから、これで良いことにした。
「それじゃ、改めてよろしくお願いします。エルトナージュ先生」
「その、本当にこんなことで良いんですか?」
「別に良いよ。あのことは謝ってくれただけで十分なんだし。それでもエルの気が済まないって言うんなら、魔導珠の使い方以外にもいろんなことを教えてくれるとありがたいかな。幻想界のこととか、ラインボルトのこととかさ」
僅かな逡巡の後、エルトナージュは小さく頷いた。
その二人の様子を扉の向こうから窺っていたミュリカは、二人が辿り着いた結論に破顔した。そして、音が出ないように両手を合わせると、身を翻して今度こそ仕事に戻ることにした。
二人が自分から良い方向に歩き出したことが嬉しくて、彼女の足取りはとても軽かった。
当初の予定から二時間ほど遅れて会議は始まった。
この会議の位置づけは閣議ということになっている。魔王不在の現在、アスナを仮の王として見るのならば御前会議と位置づけることが出来るが、これを先例として後継者出席の会議にも御前会議としての権威を与えるのは遠い将来において無用の混乱を招く恐れがあるとして、閣議と扱うことになった。
それにはエルトナージュの意思が少なからず影響していたのだが、当のアスナは会議の位置づけの重要性など理解していないのでさほど気にしてはいなかった。
エルトナージュの「取り乱して申し訳ありませんでした」という謝罪を列席者たちは受け入れると、改めて内務大臣ガラナスが代表してアスナたちに戦勝祝いを述べた。
小難しい口上などを聞くときには、とりあえず偉そうにしていればあまり問題は起きないと経験的に知っているアスナは胸を張って、ガラナスの祝辞を聞き終わると列席者たちを見回すと礼を述べた。
「ありがとうございます。色々と予想しなかったことはあったけど、一応作戦通りに内乱を収めることが出来たのはラインボルト軍将兵の勇戦と、みなさん戦後処理委員会の影の活躍があったお陰です。混乱の中、ラインボルト国内を支えて不必要な混乱が起きないように処置してくれたこと、外国からの圧力を抑えてくれたこと。戦っていたオレたちが困らないように物資の調達に走り回ってくれたこと。それに内乱を収めた後の基本的な計画を立ててくれたこと。その他にも政治のことが分からないオレが、思いつかないことで頑張ってくれたと思います」
そこで一度、言葉を区切り列席者たちを見回し、頷く。
「みなさんは内乱終結へ導いた影の功労者です。心からお礼を言います。ありがとうございました」
そして、アスナは小さく頭を下げた。それを受けて列席者たちも最敬礼で応える。これまでも何度も見てきた光景だが、後継者が頭を下げるなんてと驚く者も見受けられた。が、アスナはそれを無視する。そして、頭を上げると鷹揚に頷いた。
「そして、これからがみなさんにとっての本番です。改めて宜しくお願いします」
今度は会釈程度で済ませるとアスナは左隣に座るエルトナージュに視線を向けた。彼女はアスナと視線を合わせることなく頷く。
「現時刻より、戦後処理委員会を解散し、平時の体制で内乱処理に当たることにします。異議のある方はいますか?」
返ってくるのは沈黙による同意。
「では、内務卿。始めて下さい」
はい、と内務卿ガラナスの返事とともにアスナたち列席者は、自分の前に置かれている書類を手に取った。そこには今日の閣議で上げられる案件とその詳細が列記されている。
省庁別に束ねられた書類は一つ一つはあまり枚数はないが、全て合わせるとかなり厚い。その上、細かな字でびっしりと埋まっている。
思わず、うへぇと声を上げそうになったが、エルトナージュの冷たい一瞥が頭に浮かんび、アスナはどうにかそれを飲み込んだ。
「現在、内務省管轄の懸案のご説明をさせていただきます。まずは国内避難民の問題です。現在、我々が把握している避難民の人数および、その避難先についてはお手元の資料をご参考にして下さい」
そこまで言ってガラナスは資料から一度、目を離して避難民たちの現状について話し始める。それを耳にしながらアスナは隣に座るエルトナージュに声をかけた。
「あのさ、国内避難民ってムシュウとかファイラスを脱出した人たちのことで良いんだよな?」
「はい。その他にも我々や革命軍が自分たちの住んでいる街に近づいてきたと知って避難した者や、大量発生した”彷徨う者”によって潰された小さな町や村の生存者も国内避難民として扱われます」
「えっと、難民とは違うわけ?」
どちらかと言えば、難民という言葉の方がアスナには耳なじみだった。
何がどう大変なのかはよく理解していないが、まれに難民問題が大変だということをニュースで聞いていたからだ。
「違います。両者の違いは幾つもありますが、今は外国に避難した者が難民、住んでいた場所からは避難したが国内に留まっている者が国内避難民だと思っておいてくれれば結構です」
「ん。分かった、ありがとう」
礼を言うとエルトナージュは小さく「約束を守っているだけです」と呟いて、視線を逸らした。
やがて、内務卿の話は彼らへの救済策の素案の説明に入った。
「お手元の資料にある通り、国内避難民は大別して三種類存在しております。一つは内乱終結に伴い帰宅出来る者たち。彼らに対しては内乱が終わったことを知らせ、帰宅を促せばことは済みます。幸いにも内乱は比較的早期に終結していますので、住居家財の所有権を巡る争いは極々僅かなものであると推察できます。それらも司法の手で処理を行えば問題はありません」
住居家財の所有権問題というのは、簡単に言えば留守中に家財道具を他人に持ち出されてしまっていたり、家や土地を勝手に他人に売られてしまったりしたときに起きる問題だ。
非常識に思えるかもしれないが、内乱が長期化すると国家はそういったことにまで目を向ける余裕が無くなり、平時ではあり得ない無茶苦茶なことが横行することが多い。
この問題の解決を難しくしているのは、避難していた者とこれまで住んでいた者のどちらかに所有権を認めても、必ず住む場所を失う者が出ることだ。
住居を勝手に売った方が悪いことには変わりないのだが、その者を罰したところで解決するような問題ではないのだ。
そして、難民・避難民問題はそれ以外にも多くの問題を抱え込んでいる。
「問題は内乱が終結しても帰宅出来ない者たちです。正確に言えば、第一種避難命令が出ているムシュウの住民、そして”彷徨う者”によって壊滅させらえた町村の生き残りたちの取り扱いです」
ムシュウの第一種避難命令とは、近距離までラディウス軍が接近してきたときに発令されるものだ。一度、発令されると全住民は強制的に避難を命じられ、脅威が去ったと確認されるまでムシュウには許可された者以外近寄ることすら許されない。
そして、現在もこの第一種避難命令は有効だ。
「ムシュウに関しては問題ないのではないかね? 四隣の諸都市には第一種避難命令発令と同時に避難民の受け入れ義務が生じることになっているはずだ。仮設住居なり用意できるよう常時、備えているはずではなかったかね?」
とは軍務大臣の言葉だ。
「軍務卿の仰るとおり、備えはあります。ですが、それが十分に足りているとは限りません。また、想定している通りに人数が分散しているとも限りません」
つまり、A市には想定した以上の人がやってきてどうしようもない状態だけど、B市にはそれほど避難してきていないので余裕がある、といったことだ。
「また、各都市の市職員たちが避難民に対応出来ているとも限りません」
「つまり、内務省はムシュウの避難民を把握しきっていないと見て良いのですね?」
エルトナージュの怜悧な瞳が内務卿を見据える。それに臆することなく彼は認める。
「残念ながら。先日、内務省からムシュウ避難民に対応する人員を派遣したばかりです。何分にもムシュウ一帯は革命軍の支配地域でしたので、どうしても対応が遅れてしまいます」
「分かりました。続けて下さい」
「はい。続いて”彷徨う者”によって町村を追われた者たちに関してですが、彼らを被災者として取り扱うことをご提案いたします」
幻想界では”彷徨う者”は天災として処理されることが通例となっている。
「えっ、なんで」
思わずアスナはエルトナージュに視線を向ける。彼女が”彷徨う者”に町村を追われた人たちは国内避難民として扱われると言ったのだから。
だが、彼の疑問の声に応えたのはエルトナージュではなく別の女性だった。外務大臣ユーリアスだ。
「それは私ども外務省からの要請の結果です、殿下」
ゆっくりとした、しかし芯のある声だ。
「ラディウスによるラメルへの進軍と人為的な”彷徨う者”に繋がりがあると推察するのは容易ですが、それを断定できるだけの証拠がありません。仮にラディウスの仕業であったとしても、現在ラインボルトには対処する余裕はありません。もし、被害者を国内避難民として認めれば、”彷徨う者”を操っていた者の背後にある組織を刺激することにもなりかねず、再び何かしら行動を起こすかもしれません。それ故の災害被災者なのです」
「内務省としても、現在な段階で例の”彷徨う者”が人為的であることを広く知らしめる行為は無用の混乱を招く可能性があると判断し、外務省からの要請をいれました」
それでも噂として人為的な”彷徨う者”の情報は国内を飛び回ることになるだろう。だからといって、国家がそれを煽っても何も良いことはない。
「なるほどね。それで避難している人たちが困らないように出来るだけ支援が出来るのなら良いか」
アスナは窺うようにエルトナージュの顔を見る。彼女は小さく頷いて同意する。
「うん。それじゃ、そういうことで行きましょう」
「ご承認下さりありがとうございます。続きまして治安状況に関してですが」
そこで内務卿はなぜか軍務卿に一瞬だけ視線を向けた。
「内乱の終結を知り、安堵した民は日常生活を取り戻そうと動き始めております。そのために些か問題も起きておりますが、それは警察庁の手によって取り締まり、両者の和解を進めております。ですが、まことに申し上げにくいのですが・・・・・・」
「それについてはこちらから申し上げましょう」
立ち上がった軍務大臣はアスナとエルトナージュに一礼すると内務卿が言い淀んだことを話し始めた。
「端的に申し上げれば、脱走兵が治安を乱しているのです」
「・・・・・・はい?」
予想しなかった発言にアスナの声が少し裏返った。
「奇声を上げないで下さい。それにこれは事実です。・・・・・・軍務卿、続けて下さい」
「はい。お手元の資料の二十七頁をご覧下さい」
言われたが、どこに軍務省の資料の束があるのか分からないアスナは少しおたおたする。
そんなアスナを横目で見ていたエルトナージュはそっと、「上から四つ目の束です」と教えた。
「ありがとう」
「・・・・・・いえ」
列席者たちが告げた頁に目を向けたことを確認すると軍務卿は説明を再開した。
「先ほど宰相が仰られたように治安を乱しているのは脱走兵たちであります。これはラインボルト軍にとっても遺憾であり、また屈辱的なことです。お手元の資料にあるとおり、軍務省と内務省の共同調査によって判明した脱走者の犯罪はかなり広範に発生しております。すでに警察庁の手によって少数の脱走兵が捕縛されたと報告を受けていますが、賊徒と化した脱走兵の捕縛には至っておりません。軍務を所管する者として、全く申し訳ないことと思います」
小さく頭を下げて諸大臣、特に国内行政の中核を担う内務卿と治安維持を担う警察庁長官に謝意を見せる。
しかし、軍務を所管すると言っても軍務大臣がラインボルト軍全てを管理している訳ではない。軍務省の仕事は人事と軍に必要な様々な事務仕事の総括、そして行政府や立法府との折衝を行うことだ。軍務大臣が現場の将兵に命令することは出来ない。
実際にラインボルト軍を指揮しているのは大将軍を長とする統帥府である。
そんな体制では軍務大臣と大将軍ではどちらが上位なのかという問題が起きる。が、ラインボルトでは軍務大臣の方が上位であると定められている。
人事権を持ち、大蔵省との予算交渉権を持っているのだから当然と言えば当然だ。
軍務省は統帥府にいらぬ口出しをせず、統帥府は軍務省の顔を立てるべしとする風潮になっている。
頭を下げて謝罪する軍務大臣の様子を見ながらアスナは、戦場から逃げだしても不思議じゃないよなぁと思った。
だが、そんな彼の感想とは裏腹に列席者の一部はよく聞き取れないが、軍務大臣に文句を言っているように感じた。それがアスナにはちょっと不快だった。
「軍務卿、一つ質問良いかな?」
「はい。なんなりと」
武官らしく軍務大臣は奇麗な敬礼をアスナに見せる。
「オレの実感としてラインボルト軍は勇敢で、命令を実直に遂行しようと頑張っていたと思う。軍がちゃんと兵隊としての訓練とかをしているから、彼らは戦えたんだよな?」
「もちろんでございます。兵の教育には常に魔王と国家に対する忠誠を基本とし、軍規を守るようて叩き込んでおります。ですが、それでも・・・・・・」
と、続ける軍務大臣の言葉をアスナは遮る。
「だったら、良いよ。今まで通り頑張ってくれればそれで良い」
「はっ、感謝の極みにございます」
改めて最敬礼を行う軍務大臣の背に責任追及の声がかかる。
「ですが、脱走兵が出、賊徒と化したことは事実。軍務卿は何かしらの責任をとるべきではないでしょうか」
「最終的な責任をとるのが責任者の仕事だよな。けどさ、戦場ははっきり言って恐いよ。後ろで偉そうにしていれば良いだけのオレですら、何回逃げ出したいって思ったか分からないし」
「しかし、殿下はここにおられる」
「それは近衛騎団のみんなが守ってくれたから、最後の最後で踏ん張ることが出来たんだよ。けど、前線に立つ兵隊はそうじゃない。仲間が支えてくれるかもしれないけど、自分の身体を盾にしてまで守ってはくれない。何かの拍子で逃げ出したくなってもしょうがないよ」
「では、殿下は脱走兵をお許しになると仰るのですか?」
「そうは言わないよ。幻想界で一番弱いオレがここに座ってるんだから。結局のところ、軍務卿をクビにしても脱走兵は出るんだから意味はないって」
こんなことアスナにしか言えない。
軍務大臣自らが釈明しても、ただの言い訳にしか聞こえないだろうし、他の列席者が口添えしても同情的なことしか言えないだろうから意味はない。
かといって兵以上に果敢に戦い、アスナ派本隊を鼓舞し続けたエルトナージュにも言えない。人魔の規格外が逃げ出したかったけど、頑張ったと言っても心に響かないからだ。
幻想界ではどうしようもなく弱い人族、その上で最後まで踏みとどまったアスナだからこそ言葉にそれなりの重みがあった。
「確かにその通りです。兵の運用と管理は統帥府の役目。また、わたしが受けた報告によると脱走者の数は通常のそれより低い。そして、犯罪発生率もそれほど高くありません。軍務郷に責めを負う立場にありません」
と、エルトナージュがアスナの言葉に続いた。
責任追及の声を上げた者も本気でそう思ったわけではないだろう。ただ、身内たる軍の一部が犯罪を起こしたことが許せなかっただけだ。
「お口添え下さり、心より御礼申し上げます」
「別に軍を依怙贔屓にしているわけじゃないから気にしなくても良いよ。さっきのはただ感想を言っただけだから。・・・・・・エル、司会司会」
「・・・・・・軍務卿、続けて下さい」
「はい。賊徒化した脱走兵の捕縛には部隊を派遣して処理すべく作戦を立案するように統帥府に伝えております。近日中に作戦案をご呈示することが出来るはずです。ですが、部隊を動かすための資金がございません。大蔵省には事前にそのことをお知らせしていたが、この場で改めて本作戦に必要な追加予算を計上願いたい」
「そちらが提示された額を用立てることは不可能だと、先日本件の担当者にお伝えしたはずです」
「だが、それでは脱走者たちを取り締まることは出来ませんぞ」
「そういった不測の事態に対応するための予算が計上されております。そこから出せないのですか」
と、内務大臣は口を挟む。彼としては必要以上に軍に資金が流れるのは困るのだ。
国家再建に必要な計画はどれも資金不足の状態で動き始めている。追加予算が欲しいのは内務省も同じなのだ。
「後継者殿下が発案なされた反攻作戦の際に使用されたことをお忘れか?」
軍を動かすということはそれだけで莫大な資金が必要になる。そのために色々なところからひっかき集めたのだが、まず第一に使われたのが軍務省の緊急事態に備えた予算だった。
「確かに緊急事態対応予算には幾ばくか残っておりますが、それでは足りないのです。また、賊徒の討伐に平行して軍の再編計画も進められている。我々とて財政がどういう状況か理解しており、切りつめられるところは切りつめております。それでも足りないのが現状なのです」
そこで一度、軍務卿は一息つく。
「賊徒と化した脱走兵を放置するのは内務省とて看過出来ぬことでしょう。復興も大切ではありますが、治安の回復が急務だと心得ます。また、脱走兵を放置すれば、軍の威信は失墜し、ひいては国家の権威を損ないかねませんぞ。そうなれば、内務省も困ると思いますが。どうでしょうか。幾らか内務省にあてられた予算を治安維持に回していただけないものだろうか」
「確かに国家の権威を守るためにも治安の回復が急務であるとのご意見には同意します。また、内務省も協力を惜しむつもりはない。だが、予算をそちらに回すことは同意しかねる。こちらとて予算は逼迫している状態なのです」
そして、内務大臣は大蔵大臣に視線を向ける。
「大蔵卿、どうにかならないかね?」
「無い袖は振れません。幾ら幻想界と言えども金のなる木はないのですから」
端的な一言である。内務大臣、軍務大臣ともに低いうなり声を上げる。
他の諸大臣にしても心境は二人と同じだ。やることはそれぞれ異なっても、追加予算が必要なのは同じなのだから。
「あのさ。さっきから話を聞きながら、貰った資料を読んでたんだけど。ここに書いてある作戦って、つまり逃げ出したヤツ全員を捕まえることを目的としてるんだよな」
と、アスナはエルトナージュにたずねた。
「その通りです。・・・・・・それがなにか?」
「いや、うん。素人考えなんだけど、話しても良いかな」
僅かに逡巡したが彼女は「どうぞ」と発言を促した。
「ちょっと話を戻すことになるんだけど、さっきの避難民の話ではそれぞれの事情で扱いを変えるってことになってただろ? それを脱走兵にもやってやれないかな」
「どういうことです?」
「つまり、脱走兵にも二種類いるんじゃないかって話。強盗とかしないでただ逃げ出しただけの兵と、山賊みたいなことをやってる兵とがいるんだろ?」
そこまで話してエルトナージュの表情に理解の色が見えた。
「つまり、取り締まるのは賊徒化した脱走兵のみで、他の者は無視をするということですか」
「そう。これなら、幾らか経費が浮くんじゃないかな?」
「なるほど。それならば、幾らか内務省が予算を融通してくれれば十分に実現可能だと思います」
「・・・・・・部下に検討させたく思います。ですが、その案ならば実現可能かと存じます」
と、大蔵大臣と内務大臣は手元の資料に目を通しながら迂遠に同意する。だが、
「申し訳ございませんが、殿下のご提案は承伏しかねます」
軍務卿は申し訳なさそうに首を横に振った。
「やっぱり素人考えだった、かな」
「いえ。現状では上策と存じます。ただ、賊徒にまで堕ちなかった者を放置するというお考えには賛同できません。そのようなことをすれば、軍規が有名無実化してしまいます。先ほど後継者殿下はラインボルト兵は勇敢に戦ったと仰いました。それには国家と魔王への忠誠、そして厳格に適用される軍規があればこそです。もし、それでも殿下のご提案を進めるのであれば、ラインボルト軍は早晩、烏合の衆と化すことは間違いありません」
「・・・・・・それじゃ、調査中ってことにすれば良いんじゃないかな」
「不敬を承知で申し上げれば、それは欺瞞に過ぎません」
「ならば。内乱終結を祝した恩赦という形にするのはいかがでしょう?」
と、エルトナージュは提案した。
「軍規に従うのならば、脱走は死罪です。ですが、投降した者には罪を減じ、一定期間の労役を課すのです。軍への復帰を望むのであれば、新兵として再訓練をさせる」
「なるほど。では、士官はどうなさるおつもりですか?」
「禁固刑に処した後に自主的に除隊させればよろしいかと」
兵と士官の扱いが全く違うのは当然である。指揮する立場の者が逃げ出しては兵に示しが付かない。
ちなみに自主的に除隊させるのは、クビになるよりも自分から辞めた形を取った方がまだましだという考えがあるからだ。脱走した士官の今後の体面のためというわけだ。
「両殿下のお言葉はまことにごもっともです。しかし、この件に関しては協議の上、近日中にご返答いたしたく存じます」
「内務卿、大蔵卿もそれで構いませんね」
「はい」
「こちらにも調整が必要ですので、早急に結論を出していただきたい」
「承知した」
「よろしい」
エルトナージュは内務卿に視線を向ける。
「・・・・・・では、他に話すべきことはありますか?」
「ありません。当面、必要な施策は全て両殿下および戦後処理委員会の承認を受けております」
「分かりました。では、外務卿」
促され、立ち上がった外務大臣はアスナたちに一礼すると話し始めた。
「戦後復興も重要な課題でありますが、四隣の情勢にも目を向けていただきたく思います」
そして、もう一度外務大臣はたおやかに列席者に向けて会釈をした。
このようにして、閣議は不要な混乱を起こすことなく粛々と進められていった。
空を照らしていた陽が西に沈んで随分と時間が流れた。
凱旋した将軍らを慰労すべく、有力者の子女らは煌びやかに着飾って出迎え、煌々たる灯りと華やかな演奏、そしてテーブルの上に並べられた料理と酒が振る舞われた。
劣勢の状況にも関わらずつかみ取った勝利に、誰もが酔っていた。
だが、その勝利の立て役者たるアスナの姿はない。もちろん、エルトナージュも。
空を見上げればかなり高いところで月が輝いている。昼過ぎに始まった閣議は今も続いているのだ。
それでも談笑に紛れて、この場にはいないアスナを讃える声を時折耳にすることが出来た。
グラスを片手に談笑を交わす紳士の中に厳つい髭面の男がいた。
ケルフィンだ。彼は宴が始まってからずっと列席者たちの挨拶を受け続けていた。
戦勝祝いを述べるのとは別の意図も含まれていた。
後継者の人となりはどのようなものか、そして施政方針は何であるかを聞き出したいのだ。
アスナと接したことのない者たちが色々な場所から伝え聞いた話を統合すると、かなり恐ろしい人物として形作られるからだ。
確かに召喚されて間もない人族の後継者が瞬く間にエグゼリスに参集した部隊を掌握し、自身も近衛騎団を率いて数多の戦場に立ち、勝利を得てきた。
そして、彼らもよく知る軍師LDが放った刺客の凶刃を受けたにも関わらず、生き残りそのLDを自分の軍師にするという。また、劣勢ながらも迫り来るラディウス軍をラメルに押し返すために、かの誉れ高い近衛騎団に撤退戦を行わせる。
革命軍との決戦の際にはフォルキスの喉元に剣を突き付けて屈服させたという。
もし、エルトナージュがこれを行ったというのならば、誰もが「さすがは姫君だ」と賞賛するに止まっただろう。
だが、アスナはただの人族なのだ。彼らの知る人族の姿とは、弱々しく保護すべき存在だ。このようなことをやってのけた人族は物語にすら登場しなかった。
アスナは出陣前に自分の発言力を確固たるものにすると宣言し、自ら戦場へと向かい、それは大成功を収めた。だが、それだけに彼を人伝にしか知らない者たちには幾らか畏怖の念を憶えさせてしまった。アスナは頑張りすぎたのだ。
そのため有力者たちは彼の人柄を聞き回っていたのだ。
迂遠な事情聴取から開放されたケルフィンは顔には出さなかったが、ほっと一息ついた。
講釈士向きだとアスナから密かにお墨付きを貰った彼だが、さすがに同じ様な話を何度もするのは疲れたようだった。
しかし、その分だけの価値はあった。これまで付き合いのなかった者たちと面識を得たことだ。付き合いの程度はどうあれ色々な人に顔を売っておけば後々役に立つかも知れない。
側を通った執事から酒を受け取り、周りを見回した。
相当な活気と笑顔で会場は満たされている。あの笑みの下では自分と同じくしたたかなことを考えているのだろうと思うと、なぜか可笑しかった。
ふと、視界に第十二軍のネイト将軍が年若い女性に囲まれながら、ファイラスでの決戦の様子を語っている。そこには人脈を作ろうとする意図はなく、ただ騒がれて嬉しいという気持ちがあるだけだった。
青いなと思うが、自分以上に武功を立て、それなりに後継者にも名を売っているネイトが人脈作りに励まれるぐらいなら、将軍らしからぬだらしない顔を晒して貰っていた方がずっとありがたい。
それに彼は準備が整い次第、神経を使うだけでさしたる武功も上げられないムシュウに派遣されることになるのだ。今ぐらいはいい目を見ているのも良いだろう。
それだけでケルフィンはネイトへの関心がなくなった。そして、再び視線を彷徨わせて目的の人物を捜す。・・・・・・いた。
ケルフィンは執事からもう一つグラスを受け取ると、会場の隅に立つ恰幅のいい男に歩み寄った。
「どうした。参謀総長ともあろう者がそのような暗い顔をして」
そう言って彼は男にグラスを差し出した。
「なんでもない。貴殿が気にされることではない」
参謀総長と呼ばれた男、グリーシアは苛立たしげな顔をしてそう言い捨てた。
「何でもない顔ではないと思うが? この晴れがましい席で陰鬱な顔をしているのは貴殿ぐらいだぞ」
戦略を立案し、派遣する部隊を決定する軍令部の長と一軍の将とでは当然、前者の方が偉い。だが、階級の上下はあるもののこの二人は友人関係にあった。
再び差し出されるグラスに、グリーシアは舌打ちをすると奪うようにして受け取った。
「粗方、後継者に存在を無視されたと思っているのだろう」
「・・・・・・まったく、そのとおりだ」
自棄になったような低く洗い声を出して、グリーシアはグラスを呷った。
「気持ちは分かるが、その憤りは筋違いだぞ」
「・・・・・・なに?」
「端的に言えば後継者は君たち軍令部の存在を知らない。よく考えれば分かるはずだ。後継者は召喚されてまだ間もない人族なのだぞ?」
「・・・・・・確かに、そうだが」
「だが、逆に言えば軍令部に悪感情を抱いていない。むしろ、君たちの存在を知らなくて、何もさせなかったことを悔やむだろうな」
「後継者のことを良く分かっているようだな」
アスナの影に隠れてしまっているが、それなりに戦功を挙げたケルフィンへのささやかな皮肉だった。しかし、当のケルフィンはあっさりとそれを受け流す。
「良くは知らない。だが、何度か言葉を交わせば大まかにだが、その人となりは推察できる」
「だが、何か功績を挙げて後継者に好印象を与えようにも、すでに内乱は終結しているのだぞ。かと言ってラディウスと戦端を開くわけにもいくまい」
幾ら戦功が欲しいとは言え、疲弊したラインボルトで戦争に勝てるとは思わない。それは蛮勇を通り越して、ただの愚行だ。
「当然だ。私とてこの状況でラディウスと戦端を開くなどと聞けば職を賭して止めにかかる。だが、我らがラインボルトとことを構えているのは何もラディウスだけではないだろう」
「なかなか物騒なことを話しておられるな。場に相応しい話題に変えた方がよろしかろう」
と、禿頭の老人が二人を窘める。ケルフィンたちは姿勢を正して会釈をする。
「これは、ウォレス殿。ご忠告痛み入ります」
「なに。若い者を窘めるのは年寄りの趣味のようなものだ」
若者扱いされて二人とも小さく苦笑する。ケルフィンもグリーシアも壮年の域にある。
「だが、その話には些か興味がある。政府は頑張っているようだが、それでも手が回らないところがあるからな。私たちが手を引いてやらねば倒れるところが数多くでそうだ」
長くラインボルトの立法府たる名家院の議員を務めてきたこの老人は派閥の領袖として、強い影響力を持っていた。それだけにウォレスの人脈はケルフィンのそれとは比較にならないほど広い。
ラインボルトでは政治家と将軍とが接近するのはあまり良くないとする風潮にあるが、付き合いは皆無ではない。お互いに顔を売っておけば何かの機会に役に立つことがある。
今がまさにその時だろうとケルフィンは畳みかけた。
「まことにごもっともです。よろしければ日を改めまして一席設けたく思います」
「ははははっ。凱旋した将軍の招待を断るわけにはいくまい」
「ありがとうございます。では、近日中に」
「楽しみにしているぞ、ケルフィン殿」
笑みを残して別の列席者の下へと歩いていく老人の背中に二人は会釈を送った。
とりあえず機会を作ることが出来たと髭の下に笑みが浮かぶ。が、それに水をさすようにグリーシアはケルフィンの肩に手を置いた。
「良いのか。議員と結託することはもちろんだが、お前の考えは身の破滅を呼ぶぞ」
「そのような間抜けなことはしない。それともこのまま何もしなければ、そのうち後継者のお気に入りに参謀総長の地位を奪われるかもしれんぞ」
「うっ。・・・・・・だが」
「では、適当な閑職を見繕っておくのだな。貴殿の後には恐らくその席はかの天才軍師殿が座ることになるだろうな」
「それは、・・・・・・拒否する!」
先王アイゼルの御代、何度となくグリーシアはLDに辛酸を舐めさせられてきたのだ。LDの能力は認めるが、相容れることが出来ない。
グリーシアにとってLDはそういう男なのだ。
「ならば、やるしかなかろう。貴殿が有能であると示すには動くしかあるまい。後継者の信頼という点で、すでに貴殿はLDに遅れを取っているのだからな」
アスナがエグゼリスに戻ってから早くも四日の時が流れていた。
その間、彼は連日朝から晩まで会議に出席しては素人発言を連発し、僅かに出来た時間の合間に謁見者に会ってよく分からない美辞麗句を聞かされると、忙しい毎日を送っていた。
正直なところ、自分だけの時間は睡眠中とトイレにいる間ぐらいなものだ。
僅か四日だが、アスナは疲れていた。体力的にもそうだが、どれ一つとして間違いを許されない難問を前にして精神的に疲れ切っていたのだ。
エルトナージュや諸大臣たちもアスナが政治に関しては素人そのものであることは十二分に理解しているので、それほど無茶なことは要求してはこない。
だからといって、アスナを甘やかせるほど彼らは優しくないし、何より状況がそれを許さない。
各省庁は提出する書類には自分たちの判断を付記してからアスナに見せているし、会議中はエルトナージュがどうするかを決め、アスナがそれに同意することの方が多かった。
全て彼女に任せてしまえば楽なのだろうが、性格的に彼にはそれが出来なかった。
ともあれ、前日までの会議で未整理の問題の方針は決まった。後は各省庁の担当者たちが折衝して作り上げた修正案を承認すれば良いだけだ。
他の細々としたことは内乱中、すでにエルトナージュと戦後処理委員会の連名である程度決まっているのでアスナが気にかけることは重要懸案のみだ。
そして現在、アスナは前日までの会議で決まったことを承認する書類にひたすら署名をしていた。
「おおおぉ〜・・・・・・」
本日、五度目の呻き声が彼の口から漏れた。そして、突っ伏した。
やがて、小さく痙攣を続ける右手が治まった。アスナはゆっくりと上げた顔を上げた。顔色はあまり良くない。それでもまだ二十枚強はある書類に署名をしようとペンを持ったが手が笑ってしまって、上手く字が書けない。
延々と同じ字を書いていたためと、書き慣れない文字がそうさせるのだ。アスナが署名に使用している文字は日本語ではない、幻想界の文字なのだ。
これまでの経験からアスナは会話と文字を読むことには困ったことはない。幻想界に何故か召喚される間にこちらの言葉を”話せる”ことと”読む”ことが出来るようになったようなのだ。
アスティークの話によると人族は総じて幻想界の言葉を話すことが可能のようだが、文字を読めるか否かは個人差によるところが大きいそうだ。
幻想界に紛れ込む前から文字が読める者は幻想界でも文字が読め、そうではない者は読めないのだそうだ。
原因は不明であり、これを研究する学者も少ないことから、「文字を知る人族は、幻想界に紛れ込む最中に知識としての文字を幻想界側に合わせている。そのため、文字を知らぬ者は読むことが出来ないのだ」というのが定説となっている。
文字が読めるのならば、書くこともできるだろうと思いつく人もいるだろうが、それは無理なのだ。
乱暴な言い方をすれば、文字とは絵だ。”薔薇”や”醤油”などの小難しい漢字を読めても、書けないのと同じ感覚だ。
そんな訳で内乱中からアスナの日課の中には書き取りの練習が組み込まれていた。それは忙しい今も続けられている。
何となく小学校の漢字ドリルをやっているようで、少し情けないが書けない方が何かと不便だと思い、少しずつ頑張っている。
「んんんん・・・・・・。はぁ、やっぱりダメだ」
少し休憩と再び大きな執務机の上に突っ伏した。震えは治まったが、右手に変な力が篭もって上手く動かないのだ。
目を閉じれば、時を刻む秒針の音が微かに聞こえてくる。時折、風の音がそれに混じる。
ただ、それだけ。あとは執務机の冷たさを頬に感じるだけだ。
自分の吐息で湿った机から微かに木の匂いがする。学校のそれのような不躾な匂いではなく、角のない丸い匂いがする。
それが何となく可笑しくて、突っ伏したまま笑みが浮かぶ。
高校の授業風景を思い出したのだ。授業中に寝てしまう生徒というのは、それなりに見ることのある光景だが、アスナにはそれが出来なかった。
特に真面目だとか、授業に熱心だった訳ではない。どんなに眠くても、なぜか机で眠ることが出来なかった。理由は分からないが、きっと体勢に問題があるのだろうとアスナは思っている。
ふと、王様の真似事をしている自分と、大して面白くない授業を聞いている自分のどちらが本当の自分なのか分からなくなった。
しかし、答えはすぐに出る。両方とも本当のことで、現在と過去の違いがあるだけだ。
・・・・・・なんでオレこんなこと考えてるんだろ。
顔を横にして目を開けてみれば、自分の署名を待つ書類が積み上げられている。
これが今のアスナの現実なのだ。
王様の真似事であろうが、実際にやっていることは積み上げられた書類に署名していくだけでしかない。
それぐらいは自分の名前の書き方を憶えた幼児でも出来るし、教師が黒板に板書した文字を書くのと感覚的にはさして変わらない。
その考えがバカバカしく思えて、どうしても笑みが零れる。広い執務室に響く自分の笑い声を聞きながら、こんなのが可笑しいなんてやっぱり疲れてるんだろうなぁ、とアスナの冷めた部分が思った。
だが、笑いは活力になる。それが出所不明の笑いであっても。
一頻り笑い終えるとアスナは身体を起こし、背もたれに身を預けて大きく伸びをした。コキコキコキッと気持ちの良い音を背中で鳴らせる。
それでも、何となく満足できなくて席を立ち、ストレッチを始めた。
アスナの身体は同年代の少年に比べて、柔らかい方だ。少し辛いが前屈をすれば、掌を床に着けることも出来る。それがちょっとした自慢だった。
毛足の長い絨毯の敷き詰められた床に腰を下ろして、身体を曲げながら時計に顔を向ける。次の予定まで十分に余裕がある。少し休んでから再開しても、お茶を一杯飲めるだけの余裕がある。時間にゆとりがあると分かるれば、気持ちも楽になる。
一通り体操をし終えると、最後の締めに大きく背を伸ばす。不意にノック音がした。
正面の扉からではなく、隣接された秘書室の方からだ。
「あっ、はい。どうぞ〜」
アスナの許しを得て、扉が開く。そして、姿を見せたのは予想外の人物。
「失礼いたします、アスナ様」
「サイナさん? ・・・・・・に、アリオン君も」
おまけ扱いの発言をされて複雑な顔をするアリオンだが、粗相なく最敬礼をしてみせる。
「着任のご挨拶に参りました」
「ってことは、またサイナさんが護衛を? 怪我はもう良いの?」
声は彼女のことを案じているが、表情は物凄く嬉しそうである。
ちなみにアスナの護衛は王城到着と同時に通常体制で行われることになった。つまり、日替わりで交代して護衛するのだ。
「傷はすでに塞がっています。お心遣いありがとうございます。そして、護衛の件は残念ながら違います」
そう言ってサイナはアリオンに視線を向ける。彼はサイナの前に進み出ると、緊張した面もちで着任挨拶を始めた。
「本日より、アスナ様付きの秘書官を申しつけられました。よろしくお願いします!」
「そうなの?」
「はい! 何か雑事がありましたなら、お申し付け下さい」
「つまり、アリオンはこれまで通りアスナ様の身辺をお世話するという訳です」
「・・・・・・ありがたいことだけど、それって大丈夫なの? 近衛騎団から秘書官を出すってやっぱり拙いんじゃないの?」
近衛騎団は政府にも軍にも口出ししないのが不文律だ。それを破るということは、近衛騎団側の独立性を揺るがすことになりかねない。
「ご安心下さい。これは王宮府からの要請によるものですから、アリオンを手放す以外に近衛騎団に損失はありません」
「ふぅ〜ん。・・・・・・けどさ、それ嘘でしょう?」
内府オリザエールは色々と良くしてくれているが、それでもアスナと近衛騎団が近すぎることにあまりいい顔をしていないように思える。
嫉妬などの感情的なものではなく、互いの職分を守ろうという意味だ。アスナも薄々とだが、それを察していた。
「やはり、ばれてしまいましたか」
普段、見せることのないイタズラな笑みが小さく彼女の顔に浮かぶ。サイナが笑顔を見せてくれるだけで、アスナも何となく嬉しくなる。
ついさっきまで自分の頭に浮かんでいたことが、何だったのかと思えるほどに。
「正直に申し上げますと、この件の首謀者は団長です」
後継者や諸大臣などの重職にある者に直属して、予定管理や機密事項を取り扱うだけではなく、仕える相手が滞り無く仕事が出来るよう雑事の処理を行うのも秘書官の役目だ。
仕事の上では色々と頼めるだろうがアスナの性格上、個人的な用事を顔合わせしたばかりの秘書官たちには頼みにくいのではないかと、ヴァイアスは考えたのだ。
そこで白羽の矢が立ったのがアリオンだった。
彼は内乱中、サイナとミュリカの手伝いという形ではあるが、アスナの世話係を命じられていたし、アスナと一緒に騎団厨房長就任を画策した間柄だ。それに人当たりが良いので、秘書室に溶け込むのも早いだろうということも理由の一つだ。
ともあれ、ヴァイアス自らがエルトナージュ、オリザエールの二人を説得して、アリオンはアスナ付きの秘書官になったというわけだ。
「そっか。気が付かないところで色々とやってもらってたんだ。なんか有り難すぎて、申し訳ないって気がする」
「そのお言葉を聞けば団長も喜ぶと思います」
もう一度、「ありがとう」と礼をいうとアスナはアリオンに視線を向けた。
「確認のために聞いておくけど、アリオン君はオレの秘書になって良いの? これまで通り近衛騎団にいてもらってもオレとしては問題ないし、多分ヴァイアスも文句言わないと思う」
アリオンは近衛騎団内では見習いでしかなかった。だが、ただの見習いでもないのだ。
アスナの世話係を命じられていたことからも分かるとおり、将来の幹部候補生でもあった。これまで頑張ってきたものを自分の都合で棒に振らせるのはアスナとしても心苦しい。
だが、アリオンは何の気負い無く返事をした。
「正直、近衛騎団には未練があります。けれど、同じ見習いでも秘書官である方がアスナ様のお側近くでお仕えできますから、むしろ誇らしいことだと思います」
「そう言って貰えるのは嬉しいけど、そんなに良いもんじゃないと思うよ? 騎団みたいに格好良くないしさ」
「地位や名声が欲しくて近衛騎団入りを目指したわけではありませんから問題ありません。それよりも、その・・・・・・」
そこでアリオンは口ごもった。なぜか彼の頬は絵の具でも塗りたくったかのように赤くなった。
「・・・・・・言いたいことがあれば、言って良いよ」
「は、はい! その、いつか一人前になった時、私の剣を受け取っていただけないでしょうか。えっと、私の気持ちはそういうことです」
出過ぎたことを言ってしまったと語尾は小さくなってしまう。そんな彼の態度が何となく可笑しくてアスナとサイナは笑みを零した。
良く監察すればサイナの笑みにはホンの少しだけ本人も気付かない嫉妬が混じっていた。恐らく、彼女自身そんな顔をしていたことに気付いていないだろう。
「なんなら、今やっても良いよ」
「そんな、いけません! そのようなことをしていただくと団長やサイナ様たちに申し訳ありません」
そこまでオレは立派なものじゃないんだけどなぁと思いながらも、アスナは頷いた。
「分かった。アリオンくんが自分で一人前になったって自覚できた時、それでもオレのことを主にしたいと思ってくれたなら、喜んで受け取らせてもらうよ」
「私如きの願いをお聞き届け下さり、恐悦至極に存じます」
本当に顔を真っ赤にしてアリオンはお礼の言葉を捲し立てる。
「それじゃ、オレの秘書になったアリオン君に最初の命令」
「は、はい!」
興奮しすぎて、無駄に声が大きい。が、それすらも微笑ましい。
アリオンとは一つしか違わないと言うのに何となくアスナは、自分が凄く年上になったような気がしてしまった。だが、その理由はすぐに察しが付いた。
彼を通して、現生界にいる弟を見ているのかもしれない、と。再び沸き上がった郷愁の念を振り払うように、アスナは言葉を続けた。
「身内だけの時はこれまで通りの口調で良いから」
「分かりました!」
元気良く返事をするアリオンに頷くとアスナはサイナに視線を移した。
「サイナさんもオレの秘書になってくれたの?」
そうだと嬉しい。無茶苦茶嬉しい。
何かと忙しくて話をする機会が全くないので少しアスナは欲求不満気味なのだ。
サイナが秘書官となってくれれば、四六時中一緒にいることも夢ではないのだから。
「残念ながら、私は以前の通りです」
見習いのアリオンならば周りも目を瞑るだろうが、参謀であるサイナが秘書官になるのは、どうしても近衛騎団からの介入として映ってしまう。
「あぁ、まぁ、そうだよね」
アスナもその辺りは想像できるし納得もできるのだが、非常に残念なことに変わりがない。
そんなあからさまなアスナの態度が嬉しいのかサイナは笑みを浮かべた。
「ですが、アリオンが職務に馴れるまでの一ヶ月の間、秘書室に出向することになりました」
この出向命令はアリオンと同じくヴァイアスの気遣いであるのと同時にアスナの人となりを秘書室の者たちに教える意味もあった。
彼女の脇腹の傷が塞がったとは言え、それはあくまでも一応だ。まだ、激務に耐えられるまでには回復していない。ある意味、サイナのリハビリの要素もあった。
それに期間限定ならば、余所から文句を言われることもない。
ともあれ、裏事情は何であれ一ヶ月限定とはいえ、サイナと一緒にいられるのは純粋に嬉しい。
ニヘラ〜、とだらしのない満面の笑みをアスナは浮かべる。精神的にもかなり参っていたので、この吉報が嬉しくて数本頭のねじが吹っ飛んだようだ。
そして、居たたまれないのはアリオンである。恥ずかしそうに、けれど嬉しげな笑みをサイナまで浮かべているのだから尚更である。
二人に気を遣って退室しようとしたアリオンを押し止めるように、正面の扉からノック音がした。何もやましい所がないはずの彼だったが、なぜか身体を大きくビクつかせた。
一方のアスナとサイナは表情の差違はあるものの同じ不満げな顔で扉を睨んだ。
「アリオン君、開けてあげて」
あからさまにため息を漏らすとアリオンに命じた。
無粋な乱入者の正体は宰相府に属する官僚であった。
「失礼いたします、殿下」
礼をしつつもアスナの側近くに控えるサイナとアリオンの姿が気になるのか、なかなか用件を言い出さない。
「気にしなくても良い。二人ともオレの秘書官だから問題ない」
官僚はサイナたちが近衛騎団の装束を纏っていることに訝しい顔をしたが、秘書官だと断言した後継者に異論を挟めるわけがなく、用件を述べ始めた。
「先ほど、前宰相デミアス様が到着されました。梨園宮(りえんぐう)にて王宮府の者が歓待しているとのことです」
梨園宮とはその名の通り、昔城内にあった梨の木が植えられていた一角に立てられた小さな館だ。この梨園宮の主な役目は政治犯と貴人の捕虜を収容するための施設だ。ちなみに現在、梨園宮にはフォルキスとLD、その他の旧革命軍の重鎮が滞在中である。
「そう。ご苦労様。下がって良いよ」
礼をして官僚は執務室から辞した。それを見届けるとアスナは二人を手招きした。
「今すぐに内府とヴァイアスとストラトさんを呼んできて」
「まさかと思いますがアスナ様・・・・・・」
サイナのどこか達観したような口調にアスナは破顔する。
「そのまさか。今晩、デミアス前宰相と話がしたい」
「今すぐにお三方をここに呼ぶのはあからさますぎます。アスナ様がデミアス様と会見をなさるのを姫様はいい顔をしないはずです」
「それはそれ。オレはエルの味方をするつもりだけど、何でもかんでもエルの言うとおりにするつもりはないんだ。・・・・・・それに一度でも良いからちゃんと話をしておかないと、オレが納得できる結論を出せないよ」
そして、アスナはアリオンに視線を向けた。
「多分、こういうあんまり表沙汰に出来ない事で人を呼んでもらうのはアリオン君の仕事になると思う」
それは信じて貰っているということと同義である。それを覚ったアリオンは頬を上気させる。
「お任せ下さい。お三方をお呼びする口実はどうしましょうか?」
「そうだな。ヴァイアスにはアリオン君とサイナさんをオレに付けてくれたことのお礼が言いたいから。内府にはデミアス前宰相をどう扱っているか聞きたいから。ストラトさんには、時間に少しだけ余裕が出来たからストラトさんの煎れたお茶が飲みたいからってところかな。細かいところはアリオン君に任せる。・・・・・・良いよね、サイナさん」
良い返事を期待して真っ直ぐにサイナを見るアスナは、棒を口にくわえて遊んで欲しいと勢い良く尻尾を振る子犬に見えた。
サイナはそんなアスナの目に見据えられて僅かに頬を上気させる。僅かに逡巡した素振りを見せた後、彼女は小さく「分かりました」と共犯者になることに同意した。
満面のイタズラな笑みを浮かべるとアスナはもう一人の共犯者、アリオンに命令を下した。
「それじゃ、よろしく」
元気良く執務室を飛び出していったアリオンを見送ったアスナは「さてっ」と手を叩くと執務机に戻った。
「・・・・・・アスナ様?」
「取りあえず、残ってる書類の署名をとっとと終わらせないとね。遅れて誰かが様子を見に来たときに計画がばれたら元も子もないし」
アスナは心底楽しそうな顔をしながら残された仕事に取りかかった。
相変わらず手は痛いが、楽しいことのためには少しぐらいの苦労は厭わないのがアスナだ。あまり言うことを聞かない右手を叱りつけながら署名を続けた。
前宰相デミアスとの会談はアスナが思っていた以上にあっさりと実現した。
難色を示すだろうと思われた内府オリザエールはアスナの希望を聞き届けた。あまりにもあっさりと了承した内府に思わずアスナは「ホントに良いの?」と聞き返した。するとオリザエールは、自分たち王宮府は職分を越えることを命じられたのであり、アスナが責任を負うのであれば問題ないといった内容のことを迂遠に答えた。
やはり止めておこうかと思ったが、当人の話を聞かないで裁判をするのは良くないと判断してオリザエールに改めてデミアスとの秘密会談の準備をするように命じた。
本日の日程を終えたアスナは疲れた身体に気合いを入れ直し、デミアスのいる梨園宮に向かった。
中年の執事に先導されるアスナとヴァイアスは家令院の者たちと同じ白のシャツに黒のベストにトルーザーを着ている。移動中、不信に思われないようにするための処置だ。
案内された梨園宮には王宮府の職員、執事、そして近衛騎団の団員たちが多く詰めている。
突然、姿を見せたアスナとヴァイアスの姿に彼らは幾分驚いた表情を見せた。職員、執事たちはアスナが先導されて入ってきたことからオリザエールの了承が得られていると判断し、団員たちは「やっぱりな」と小さくため息を漏らしたのだった。
そして今、アスナはデミアスの前にいた。
お互いに挨拶を済ませた後、開口一番デミアスは、
「この夜分に何用でしょうか、殿下。老いた身には夜更かしは辛うございます。暇つぶしをしたければ、わたくしのような老人とではなくそこのヴァイアスとした方が楽しいと思われますが?」
と言ってのけた。直訳するならば「話すことはない。無駄話するぐらいならとっとと寝ろ」といったところだろうか。
「デミアス卿、その言葉は聞き捨てならない。後継者にそのような物言いは不敬以外のなにものでもない!」
「私は後継者ともあろう者が命数の尽きた老人と夜話をする必要はないと申し上げたまで。それが不敬であるとは、次代の魔王は些か狭量のようですな」
「そこまでにしろ、爺!」
激した声を上げるヴァイアスにアスナは振り返って制止した。
「ヴァイアスも、だ。こんな時までオレを持ち上げなくて良いから」
「しかし!」
「デミアス卿が言ったろ。命数の尽きた老人って。もう死刑を覚悟してる人に大声あげても意味ないって」
と、アスナは楽しげに言った。デミアスの纏う空気がアスナのジイさんの戦友に良く似ていたのだ。それが少し嬉しくて、凄く懐かしかった。
「夜分にお訪ねしたことは申し訳有りませんでした。ですが、お話を伺うにはこのような時間しかなかったことをご理解下さい。お飾りだけど、毎日忙しいですから」
「ならば、明日に備えてお休みになられた方が宜しいでしょう。わたくしの予想ではそろそろ論功行賞及び裁判が始まるはず。こちらとしても寝不足の顔で死を賜りとうございませんゆえ」
「よくそんなことが言えますね。貴方は死刑になることを受け入れているようですけど、こっちは死刑を宣告することを受け入れていないのに」
「心の痛痒を厭われるのならば、この年寄りと言葉を交わさぬ方が宜しいしょうに」
言葉を交わせば情が湧く。情が湧けば死の宣告した後で後悔が生まれるかも知れない。
「そうでしょうね。けど、エルやオレの側に付いた人たちから聞いたことだけで、貴方を裁きたくない」
「律儀なことですな。しかし、それで何が変わると? わたくしめの死罪は裁く以前に決定されたことでしょうに。わたくしの名はラインボルトに災禍を撒き散らした巨魁として残るのですから。名を残したくば巨悪を築けとはよく言ったものです」
「そうですね。けど、その期待は裏切られますよ。なにしろオレが幻想界統一なんて大悪事をやってのけるんですから。デミアス卿の名前はちょろっと出てきて終わりですよ」
呆気にとられた顔をした後、デミアスは大声で笑った。胸のすくような大きな笑い声だった。
「なるほど。これでは割に合いませんな。しかし、そのお考えは殿下のものとは思えません。何方に吹き込まれたのですか?」
「・・・・・・どうして、そう思われるんですか?」
表情から笑みが消えて、瞳に剣呑な色が宿る。
「世界に覇を築かれようとされる方が会ったこともない老人に死を宣告することに痛痒を憶えるはずがございますまい」
「そういう覇者がこの国にはいるじゃないですか」
「建国王陛下ですか。・・・・・・良く勉強されている」
言われアスナは揶揄するように背後に控えるヴァイアスを見た。
「何しろリージュ陛下のことが大好きな連中とずっと一緒にいましたからね。嫌でもいろんな逸話を憶えますよ」
「なるほどなるほど。ですが、殿下。その程度でわたくしめを納得させることは不可能ですぞ。殿下は幻想界へ召喚されて間もなく幻想界統一を宣言なされているのですから」
それに、とデミアスは続ける。
「心の底ではこれ以上の戦を望んでおられないのではありますまいか?」
「・・・・・・そう思う根拠はなんですか?」
「勘、としか申し上げられません。宰相という職は国内外の有力者と接することが多い立場にあります。相手が何を求めているのか、こちらの要求を受け入れられるのか否かを見極めねばやっていけません。また、こちらが欲しい情報が常に全て揃っているとは限りません。それ故、相手の心底を読みとらねば宰相など務まりませぬ」
デミアスは視線が真っ直ぐにアスナを捕らえる。
「殿下は幾らか先王陛下に似たものをお持ちのように思えます。つまり、戦を厭うお心を」
睨み合った以上、先に視線を外した方が負けだ、とアスナのジイさんの教えにある。
真っ直ぐにアスナの言葉を待つデミアスの視線にアスナは目を伏せることで敗北を示した。剣呑たる睨みであるのならば、切り捨てるように睨み返すことも出来る。
だが、穏やかに待っているだけの視線を切り捨てることなどアスナには出来ない。
小さく鼻から息を吐くと背後に控えるヴァイアスを見上げた。
「ここにいるヴァイアスは近衛騎団の団長として? それともオレの友だちとして?」
「殿下はどちらをお望みでしょうか?」
「オレの友だちとしていてくれた方が嬉しい」
「・・・・・・分かった。この部屋にいる間はそうしよう。それでそんなことを聞いた理由は、もちろんあるんだろ?」
「あぁ。ここで話したこと、聞いたことは絶対、誰にも話さないって約束して欲しいんだ。当然、ミュリカにも話さない」
「・・・・・・了解。ここでアスナと爺が話をしたって聞いても多分、ミュリカは何があったか聞かないだろうけどな」
「オレもそう思うけど念のために、な」
さて、と座り直すとアスナはデミアスに真相を話した。
「正直に言えば幻想界統一なんてどうでも良いと思ってます。そんなことに目を向けるよりもラインボルトの建て直しに全力を尽くした方がずっと意味があると思ってます。それに自分の命令一つで兵士を殺すのは正直辛いです」
「そうお思いになりながら、何故、幻想界統一を始めるという宣言を撤回なされないのです? 不本意なことに手を染めるほど愚かではありますまい」
「・・・・・・幻想界統一はエルトナージュの目標なんですよ。オレはその手伝いをしているだけ」
「なっ! エル姫がか!?」
と、ヴァイアスは目を丸くしてそう言った。
「そう。幻想界(こっち)に呼ばれてすぐエルトナージュがオレの部屋に来たのは知ってるだろ?」
城内警備も近衛騎団の重要な役目だ。後継者と宰相が会ったことを知らないはずがない。ヴァイアスもそれを首を縦に振って認める。
「その時にエルから聞かされたんですよ。魔王になれなくて悔しい。”彷徨う者”を滅ぼすために幻想界を統一したいって」
「ちょっと待て! ”彷徨う者”と幻想界統一がどうして重なるんだ! ”彷徨う者”の方は分かる。清花様を殺したのはあいつらだからな。だけど、どうして・・・・・・」
「さぁ、そこまではオレも聞いてない。ただ泣きそうな顔で叫んでるエルを放っておけなくてさ。それにうちのジイさんが言っていたんだ。笑ってしまうほどバカな夢を真剣に話せるヤツに会ったとき、そのときオレに実現したい夢がなかったらそいつの夢を手伝ってやれって。だから、オレはエルの手伝いをしてる」
「だがな、”彷徨う者”を滅ぼしたかったら、ヤツらが発生しないようにする技術を作って、それを外交で広めた方が穏当だろう」
「それは私の責任です」
デミアスの思わぬ言葉にアスナとヴァイアスは彼に視線を向けた。
「姫が十二、三の頃でしょうか。夜分にわたくしめの屋敷をある提案を携えてお訪ね下さったことがありました」
「提案って?」
と、アスナは先を促す。
「”彷徨う者”を滅ぼすことを目的とした国際機関の設立です。提案書は稚拙ではありましたが、当時の姫が扱いうる情報を元に作られておりました。十二、三の子どもが作ったにしては上等だと言えるでしょう。しかし、わたくしはそのご提案を退けました」
「どうしてですか?」
”彷徨う者”の処理はどの国においても苦慮している問題のはずだ。サイナたちと一緒に襲われたときのような大群はないにせよ、あれが危険であることに変わりない。
誰かが音頭をとって呼びかければ集まってくるのではないかとアスナは思った。
「実現不可能だからです。一つは国力に合わせて負担金額が異なるのに受けられる恩恵が平等である点。二つは”彷徨う者”を発生させなくする技術が確立するか分からない点。三つは宗教の問題です。ある意味、最も大きな障害は第三の問題でしょう」
デミアスが言うには幻想界において宗教は名目上は政治に口出ししないことになっているが、彼らは政治権力と結託して無視できない勢力になっているそうなのだ。
そうでなくとも、国によって事情は異なるが民心の安定に宗教が寄与しているので疎かな扱いが出来ない。
つまり、土葬して土に還るとしている宗教の信徒に火葬を命じることは無茶だということだ。幾ら”彷徨う者”といういつ発生するか分からない脅威に対応するためとは説明しても、容易く聞き入れられるはずがない。
それに彼らはこう叫ぶはずだ。
死者全てが”彷徨う者”になる訳ではないじゃないか。これまで通り発生した都度に処理していけばいいじゃないか、と。
「そして、”彷徨う者”を滅ぼすのだという価値観を皆に共有させるには幻想界を統一でもしなければ不可能だと申し上げたのです」
「だからか。エル姫が突然、遊ぶ時間を全て勉強に時間に当てだしたのは」
恐らくヴァイアスは母を殺されて我武者羅になるエルトナージュを気遣うことはあっても、彼女の真意に気付くことはなかったのだろう。
それも仕方のないことだろうとアスナは思う。ヴァイアスはその少し前から近衛騎団に見習いとして入団を許され、訓練の日々だったそうだから。
しかし、そんな事情は関係なく気付けなかったことを後悔するように彼はため息を漏らした。
「・・・・・・そっか。そういう事情があったんだ。・・・・・・けど、デミアス卿の言葉を素直に受け取ったのに先王が亡くなった途端に貴方と対立しだしたんだろう?」
随分前にLDが言っていた。内乱の発端はエルトナージュとデミアスの対立が原因だと。
「姫の真意が何であるか推測する以外にありませんが、恐らくはラインボルト王になろうとしたのではなかろうかと」
「だから、先王の葬式のやり方に固執したのか」
二人の争いの発端が先王の葬式のやり方だったことをアスナは知っている。
「けど、自分が先王の後を継ぐんだって宣言するんならデミアス卿が提案したとおり派手にやった方が良かったんじゃないのかな。自分はこれだけのことをしたんだっていう良い宣伝にもなるわけだし」
「今思えば、姫様にとってはどちらでも良かったのでしょう。わたくしめを排除することが目的だと考えれば合点がいきます」
「なぜだよ。爺が側にいた方が何かと頼りになるだろう」
恐らく無意識に口から零れたヴァイアスの言葉にデミアスは何も告げずに目を細めた。
「魔王の後継者ではない姫がラインボルト王を宣するためには、魔王としての力を持たぬ者に王位を禅譲するというこの国の仕組みを変えなければなりません。しかし、これは容易く実現できぬもの。わたくしが政権の中枢にいたままラインボルト王への道を歩まれようとするならば、間違いなく反対する勢力はわたくしめの下に参集するでしょう」
宰相として長く政権を担ってきた彼には広い人脈がある。何よりラインボルトを発展させてきたという声望がある。ただの御輿ではなく指導者として仰ぐに十分な人物だ。
「そうなったら自分の手には負えなくなるから、政争って形で国の中枢から追い出すって訳か」
デミアスという中核がなければ、反対勢力も数が多いだけの烏合の衆になると考えたのだろう。脅迫や、自分の陣営に誘うなどして十分に各個撃破できると彼女は考えたのだろう。
・・・・・・けど、逆の意味で考えたら、エルはデミアス卿のことをそこまで買ってたってことだよな。
エルトナージュは凄いとアスナは実感している。その彼女が恐れた人物が目の前にいる。
王城内の空気からデミアスの死刑もやむなしとアスナは思っていたが、考えを改めることにした。これだけ凄い人を殺すのは勿体ない、と。
「何とかデミアス卿を城から追い出すことが出来たけど、フォルキス将軍を御輿にして内乱が起きるわ、人族のオレなんかが後継者として召喚されるわで八つ当たりしたくなっても不思議じゃないよな」
エルトナージュも本心ではデミアスを追放などしたくなかったのではないかと思う。
ヴァイアスが、そしてミュリカも以前に何度かデミアスの人となりを聞いたとき彼のことを無意識に「爺」と呼んでいた。
二人がデミアスをそう呼んでエルトナージュが呼ばないはずがない。そのような間柄であっても、幻想界を統一するためには仕方がなかったのだろう。
そして、形だけでも後継者捜索が続けられる中、内乱が起きてしまい、普段ならば幻想界の者を後継者に据えようと周りも思うはずが、状況がそれを許さずアスナの召喚をエルトナージュは阻止することが出来なかったというのが大まかな流れだろう。
「・・・・・・八つ当たりってなんだ?」
「襟首を締め上げられて、オレなんか魔王に認めないって言われたんだよ。オレの方も訳の分からないまま幻想界(こっち)に呼び出されたのに、貴方なんか要らないみたいなことを言われてカッとして掴みかかったからあんまり悪く言えないか」
「それで良く手伝うなんて言えたな」
「そっちこそ、オレについた方が面白そうだって理由で手伝ったくせに」
「俺も人のことは言えない、か」
そして、二人はお互いの顔を見合わせてイタズラな笑みを浮かべた。
「まぁ、オレたちのことは良いとして」
再び視線をデミアスに戻す。彼は孫が友人と仲良くしているのが嬉しそうな好々爺のように目を細めて二人を見ていたが、アスナの視線を受けて表情を改める。
「デミアス卿が内乱に荷担した理由は何なんですか? いろんな人に貴方のことを聞いて、今日話をさせてもらった印象じゃエルに復讐しようって考えるような人じゃないと思うんだけど」
「殿下は人がよろしゅうございますな。ですが、第一印象だけで人を判定するのはお控えになった方が宜しい」
「良く言われます。けど、最近はそれでも良いんじゃないかって思うんですよ。この国を一人で背負うなんて無理な話だし、支えてくれる人は大勢いるから何か拙いことをしそうになったら注意してくれますよ」
しかし、デミアスは首を横に振った。
「殿下が強き王であろうと強権を振るわれるならば臣下は脅え、諫言を申し上げることはなく、強権を振るうことを恐れれば臣下は侮り、甘い言葉で殿下を拐かすでしょう」
「それじゃどうしろと仰るんですか?」
「常にその危険があることを胸に留めおくことです。そして、如何なる時も諫言を奏上できる人物を侍らすことしかありません」
「・・・・・・人材不足ってことか」
人材の質で考えるのならば十分な人物が揃っている。しかし、彼らはあくまでも先王アイゼルに仕えていた者たちとエルトナージュが抜擢した者たちだ。
事実上、近衛騎団はアスナの配下となったが象徴的な意味合いは強いが、実際の政治的な力はない。
・・・・・・そういえば、前にヴァイアスが似たようなこと言ってたっけ。
以前、彼が言っていた「味方を作れ」という趣旨の言葉はそういうことなのだ。
アスナの立場を強固にするためにも、そして彼の身を守るためにも。
「それはそうとデミアス卿。案外、話を逸らすのは下手なんですね」
「普通は逸らされた時点でわたくしの真意を慮り、話題を戻さないものです」
「爺。アスナにその理屈は通じないぞ。コイツは聞きたいことがあったら、何が何でも聞き出そうとするからな」
多分、騎団内でアスナがやっていた説教のことを言っているのだろうと思ったが、揶揄されるような言い方をされると少しむかつく。が、今は我慢することにした。
この復讐は今後、いつでも出来るのだから。
「ヴァイアス発言はこの際、無視をして聞かせて下さい。どうして、革命軍に協力したのか」
五分ほど睨み合っていただろうか、デミアスは視線を逸らすように小さく吐息をした。
「わたくしが革命軍に協力した理由は二つ。一つは戦後の文官勢力をある程度維持するため。古来より軍事政権が長期的な安定をもたらした例は極少数。ラインボルト軍には占領地支配は出来ても恒久的な統治を行う能力はありません」
これは分かる。つまり、元々文官、武官とで役割分担していたのだから、どちらか片方がその役目を肩代わりしてもまともに機能しないということだ。
「もう一つは?」
「無用の徴発や略奪を防ぐためです。軍をただ動かすだけで莫大な費用がかかります」
これはアスナも分かる。
移動するためには食事をしなければならないし、翌日に疲れを持ち越さないようにしっかりとした寝床も用意しないといけない。そのために必要な経費は全部、指導者負担となる。アスナの場合は国庫から出せたがフォルキスたちは立場上、反乱者だ。
「仮に革命軍が潤沢な資金も持たずに蜂起した場合、彼らは間違いなく徴発という名目で諸都市を略奪して回ったはずです。フォルキスの性格ではこのようなことを好まないでしょうが、部下を養わなければなりませんので目を瞑ったことでしょう」
「なるほどね。・・・・・・それでデミアス卿を革命軍に引き入れたのは誰ですか?」
「申し訳有りませんが、お答え出来かねます」
「爺。そこまで話しておいて、誰が誘ったか言わないんだよ!」
「良いよ。誰が誘ったかぐらいは想像できるから。ヴァイアスだって誰かなんて想像できるだろ?」
「・・・・・・軍師だろう。革命軍側でそういう動きが出来るのは軍師しかいないんだから」
内乱の発端である政争の一方の主役を自陣に引き入れるなど武官たちは考えもしないはずだから。デミアスは二人の推測に無言を貫くことにした。
LDがアスナの軍師になると聞いているのかも知れない。デミアスの参画の裏で動いていたのがLDだと明確になれば、彼にも咎が及ぶと考えているのかも知れない。
「けど、これで判断に必要な材料は揃ったって訳だ。デミアス卿、最後に一つ聞かせて貰えませんか?」
「・・・・・・なんでしょうか、殿下」
「これからもラインボルトのために役に立つ気はありますか?」
「それは無理な話です。わたくしめの死罪は揺るぎないものと心得ます。如何に殿下が大功を挙げ、発言力をお持ちになられていてもこれを覆すことは不可能です」
「そういう事情は無視して、デミアス卿の気持ちを聞かせて下さい。もちろん、幻想界を統一するってこともひっくるめて、ですよ」
デミアスはそっと目を閉じた。幾ばくかの時が流れやがて老人は目を開いた。
「この年寄りが国の役に立つのであれば」
彼が何をどう判断してこの言葉を発したのか、その真意は分からない。しかし、デミアスの口調は確とした意思があったようにアスナには思えた。
「それじゃ、決定ですね。デミアス卿、裁判の日をお楽しみに。どちらに転んで貴方に失望はさせないよう努力します」
無事終了、とばかりに椅子の背もたれに身体を預けて大きく背伸びをした。
そして、そのまま後ろにアスナは倒れた。打ち所が悪かったのか、それとも疲れが溜まっていたのか、ぶっ倒れたままアスナはヴァイアスの手によって自室に搬送されたのであった。
デミアスとの会見から早くも五日が過ぎていた。
この日もアスナはラインボルト各地から謁見を求める者たちとの会見の場を設けたり、エルトナージュや軍から上げられてくる政策案の決裁を行っていた。
重要度の高い決裁書にはエルトナージュの意見が付記されていたため、殆どアスナは署名するだけが仕事になっていたが。
それでも時折、重要度の低い決裁書が混じっており、それをアスナの判断で決裁していった。これが意外と頭の痛い問題なのだ。
内乱の後始末の場合ならば、官僚たちが必要な計画を立て、それに纏わる立場の人たちと調整を行い、予算を付ければ良いだけだ。エルトナージュや諸大臣、担当官の説明を聞いた上で承認を下す。名目上はアスナの名で施行されるが、基本的には上諸大臣、担当官の上奏という形なので責任は幾分軽く感じる。
が、アスナに回されてくる厄介な懸案というのは純粋な判断だ。
例えば、名家の跡目相続をどうするかとかがそれに当たる。
本来ならばこういった仕事は王宮府隷下の紋章院が判断を示して調停することになっているのだが、それをアスナにやらせて経験を積ませようというわけだ。
争っている当事者からすれば迷惑な話なのだが、国家の視点で見ればさして力を持たない名家の跡目争いなど次期魔王の実地訓練の題材程度のことでしかないのだ。
「お疲れさまでした」
執務机に突っ伏したアスナに声がかけられた。サイナだ。
労いの言葉と一緒にお茶も差し出される。
「ん。ありがと。これもお仕事ってのは分かるけど、やっぱり疲れたよ」
先ほど、その跡目争いをしていた両者を執務室に呼んで事情を聞いたところだった。
話を聞くうちに家名を継ぐのは自分だと言いつつも両者とも結局は遺産を巡る争いであることが判明した。
事の発端は今は亡き先代の優柔不断な態度が原因だった。
この先代当主は長男を嗣子として教育し、周囲からもそのように認識するように広言していたのだが、死が迫った頃、唐突に私生児を跡継ぎにすると言い出したのだ。
長男は一時の気の迷いとして放置していたのだが、先代当主はその旨を遺言状に残していた。そして、父の意を継ぐと私生児が次期当主に名乗りを上げたと言うわけだ。
それぞれの言い分を聞いた後で同席させていた法務官に件の遺言状が法で定められた方法で書かれているかを調べさせた。
「これも魔王になるための修行なのですから、大過なくやり遂げないといけませんね」
「そうなんだけどさ。さすがに疲れたよ。大体、自分の家のことは自分のところで話を付けろっていうんだよ」
「お互いに面子と立場がありますから、そう簡単に纏まるものではありません。ですが、上手く処理なされたのではないでしょうか」
「そうだと良いんだけどね。けど、遺言状ってすごいよな。たった一枚の紙切れでここまで騒ぎになるんだからさ」
争いの鍵となっていた遺言状は法的に不備のないものであることが判明した。
が、アスナは跡継ぎとして紋章院に登録されていた長男を正統な跡取りとして認めた一方で、私生児には遺産の二割を譲渡すべしという裁決を下した。
それぞれの事情とは別に両者の経歴や現在の立場を鑑みて、長男が名家を継いだ方が無難だと判断した。政治的な発言力はなくとも居を構えている地域ではそれなりに重く見られている家の当主に今まで周囲が知らなかった人物を据えるよりも、知名度のある長男を選んだと言うわけだ
これは同席した法務官に問題ないか聞いた上での判断だ。
「そう言えばサイナさん、長女だよね。弟が生まれてどうのこうのって言ってたけど、やっぱり家を継ぐことになってるの?」
ラインボルトにおいて王家、名家ともに「性別に関係なく長子を以て跡継ぎとする」という考えが一般的である。これは初代魔王が女性であったことに起因している。
女性だから当主になれないとすれば、ラインボルトは建国時からすでに間違っていることになるからだ。
「いえ。私は弟が生まれるとすぐに跡継ぎの地位を放棄しました。それに名家としての名誉もこのまま近衛騎団に籍を置き続ければ退役後にいただけます」
すでに彼女は低位ながらも近衛騎団内で参謀の職に就いている。このまま大過なく職務を全うすれば十分に貰える立場にあるというわけだ。
いや、それどころか彼女は王族の地位を得ることも可能なのだ。
アスナがその気になって彼女との関係を公にした瞬間から彼女は王族としての礼遇を受けることが出来る。もっとも当の本人がそれを望んでいないのだが。
「そっか。そう言えばサイナさんは参謀だったっけ」
「……なんだと思ってらしたんですか」
些か声に不穏な色が混じる。彼女は実力で手にした今の地位に誇りを持っているのだから当然だ。
「いや、そのなんて言うかさ。これまでずっとオレの側にいてくれたからあんまり実感っていうか。えっと……ほら、ヴァイアスなんか団長なんて全然見えないわけだしさ」
「…………」
「…………」
じっと見つめるサイナ。そして、蛇に睨まれた蛙状態のアスナ。
結局というか、当然というか、とにかく敗北したのはアスナだった。
「ごめんなさい」
「分かって下されば結構です」
と、柔らかい笑みを見せてくれる。
不意に柱時計が鳴った。見れば時計の針は十一時を刺している。
考えてみれば本日始めの仕事が跡目争いの判断だ。何故か、アスナは少しげんなりしてしまう。だが、そんな感傷もすぐに払拭した。
本日、十一時は意味がある時間なのだから。
「始まりましたね」
「うん」
本日午前十時。王城近傍に立てられた公民館にて内乱中の罪を裁く裁判だ。
つまり、フォルキスの裁判が始まったのだ。
「今日の跡目争いだけでもオレのところに持ってくるまで結構な時間が掛かったんだろ? それが戦後裁判になったらどれだけ時間が掛かるんだろう」
「それほど時間はかからないと思います。裁判という形式をとってはいますが、実質的にはアスナ様のご意志に従って判決を下すわけですから、恐らく一週間ほど終わると思います」
この裁判は内乱を総括する意味で重要な位置づけにあるが、実質上は筋書きの決まった茶番劇でしかない。本日に至るまでにアスナを含めて何度もどのような処分が妥当か議論した結果を、裁判という形で世の中に知らしめるといった方が分かりやすいかも知れない。
「そう簡単にいくと良いんだけどね」
「何かご懸念でも?」
アスナの口を塞ぐようにノック音がした。すかさず入室の許可を出す。
「失礼します、アスナ様」
顔を見せたのは近衛騎団から秘書官に異動したアリオンだ。彼には同伴者がいた。
「LD様をお連れいたしました」
「ん。ご苦労様。ついでに三人分のお茶を持ってきて」
「分かりました」
アリオンに労いの言葉をかけて視線をLDに向ける。
「久しぶり」
彼と会うのは本当に久しぶりだ。エグゼリスに到着して以来、顔を見ていない。
忙しいこともあったが、仮にも虜囚の身であるLDに会うことにいい顔をしないだろうエルトナージュに気を遣って控えていたのだ。
だが、それも今日までだ。昨日で彼とフォルキスとの契約は切れている。
「そちらは少し痩せたか?」
「まぁ、何だかんだで忙しいから。それで早速なんだけど」
言ってアスナは執務机を物色し始める。
上から便せんや筆記用具、二段目には本日処理する書類の束が収納されている。
そして、一番下には初心者向けの政治関係の本などと一緒にお菓子の箱詰めが収納されている。頭を使っていると糖分が欲しくなるのだ。
書類の束とは区別された用紙を取り出した。そこには文章が細かく羅列されている。
「これに署名して」
LDとの契約書だ。
「用件は分かっていたが唐突だな。だが、良くも悪くも唐突なのは君の持ち味か。……取りあえず、私に与えられる職権はどうなっている?」
不遜ともとれる口調で話ながらLDはアスナが差し出した契約書を受け取る。
「基本は先王陛下と同じにしてある。軍師をやってもらうつもりだけど、正直オレはいろんなことに素人だから”場合によって与える権限・役職を変更することもある”って付け足させてもらった」
つまり、状況によっては軍師から宰相に変えたり、清掃係にすることも出来るという訳だ。もっとも、これは極端な例だが。
「なるほど。確かにこんな職分があやふやな条文があれば、契約しようなどと思わないな」
「無条件で契約してくれるんだから、少しぐらい無茶を言ってもいいかなぁって思ってさ」
そこまで言ってサイナの煎れてくれたお茶に口を付ける。少しだけ温くなっている。
契約書を読み進めるLDが不意に固まった。
「アスナ、二つほど聞きたいことがあるんだが、良いか」
「ん。何か変なところがあった?」
「この条文は一体なんだ?」
叩き付けるようにLDは契約書をアスナの前に差し出した。彼が指し示したのは賃金関係の箇所と契約期間についてだ。
「こっちの金銭感覚がまだ良く分かってないんだけど、やっぱり安い?」
「当然だ。私を雇うために十倍の額を示す者がいるほどだぞ。少なくとも先王はこの五倍を出していた」
「始めはさ。給料も先王陛下の頃と同じにしようと思ってたんだけどエルたちから反対を受けたんだ。内乱に荷担した者を何の裁きもせずに雇い入れるのは他に示しが付かないって」
「では、契約期間が君の存命中というのも罰だということか」
「まぁ、そんなとこかな。給料はほとぼりが冷めた頃に先王陛下と同じだけにするつもりだけどね。けど、しばらくは我慢して貰うことになるかな」
そこまで言ってアスナは戻された契約書をくるりと回転させて、再びLDに差し出した。
「納得したところで、ちゃっちゃと署名して」
「気軽に無条件で、などと口にするべきではない良い教訓だな」
「こっちとしては殺されかけた上で手に入れた条件だから、撤回するつもりはないぞ」
しばらく睨み合っていた二人だが、結局はLDが折れた。彼は執務机の上に乗せられたペンを取り、契約書に署名を済ませた。
「ほら」
「ん。確かに。これでLDも完全無欠にオレの味方になった訳だ」
「些か表現に抗議したいところだが……。私の力が及ぶ限り君に利益をもたらし続けることを誓おう」
それは契約の宣誓。
如何に精緻な契約書を作成しようと、彼の心から出た宣誓に勝るものはないだろう。と、そんなことをアスナは思った。
「早速だけど、今日からの裁判、LDはどう思う?」
「どう、とは。つまり、フォルキスを助命して復職させられるか否かという質問か」
頷きで肯定するアスナ。
「詳しいことが分からない以上、一般論でしか答えられないが、まず不可能だな。何と言ってもフォルキスは革命軍の最高司令官をやっていた。騒乱罪、国家反逆罪、軍規違反と挙げれば幾らでも死刑に出来る要因がある。敢えてそこから目を瞑ったとしても、内乱に決着を付ける意味でもフォルキスに死んで貰った方が収まりが良いと考える者も多いはずだ。だが、後継者であるアスナはそれを望んでいないのだな」
「もちろん。結果とか経緯は色々あるけど、ラインボルト軍の半分以上が味方して統率できたほどの人をこんなつまんない事で殺したくないだろ? それにエルのことが好きで宰相なんてめんどくさいことをやらせたくないって気持ちで内乱を起こしたんだから、結構面白いじゃない」
はぁ、とため息と一緒にLDは肩を落とす。サイナも同じ様な表情だ。
「後半部分は聞き流すが、そのような考えだと後世の歴史家に情で法をねじ曲げたなどと言われるぞ」
「死刑にしたらしたで、周囲の反対意見に流されて有能な将軍を殺した愚か者って言われるって。どっちに転んでも文句を言われるんだからオレは好きにやるだけ」
「歴史家を嫌っているような物言いだな。何か嫌なことでもあったのか?」
「……別に。歴史は好きな方だけど、後になってああだこうだ感想を言ってもしょうがないよなぁって思うだけ。そんなことはどうでも良くて、一応会議でフォルキス将軍の身の振り方をどうするか決めたけど、それだけじゃダメかな」
フォルキスを始めとする旧革命軍幹部の処分を内々に決め、彼らを実際に裁く特別法廷の判事たちに伝えている。その辺りのことをLDに説明した。
「難しいだろうな。先ほども言ったが内乱を決着したことを周知させるためには生け贄があった方が分かりやすい。誰かが内乱の一切合切を引き受けなければならない」
「オレの意見は聞き入れられないってことか」
「参考にはするだろうが、全てを聞き入れることはないはずだ。君は後継者であって、魔王ではない。それにラインボルトは魔王のみで成り立っているわけではないからな」
LDのこの言葉は少し重いようにアスナには感じられた。
内乱を収めることで自分の発言力を確固たるものにすると宣言して出陣し、どうにか終わらせることは出来たし、アスナ自身の功績もかなり大きい。
それでも、まだ自分の意見が絶対のものにはなってはいない。まだ足りないのだろうか。
アスナの自問を汲み取るようにLDは言葉を続ける。
「君が多大な功績を挙げて発言力を持ち後継者としての立場もあるそれと同じように官僚や軍にも面子というものがある。むしろ、今回の一件は彼らの不始末だ」
発端がエルトナージュとデミアスの政争であることを暗喩しているのだろう。
「徹頭徹尾、君の指図に従うのはこれまで国家の運営に携わっていた者として許容しきれるものではないのだろうな」
「それじゃ、どうすれば良い?」
「地道に根回しをするしかないだろう。尤もフォルキスを生け贄にしたいと考える者も同じ様なことをやってくるだろうがな」
「それじゃ、その辺のことを頼める?」
「……これが初仕事と言う訳か。分かった。結果については確約できないが、君を失望させないよう全力を尽くすことを誓おう」
「頼りにしてるよ。あぁ、そうだ。デミアス卿も死刑にならないように出来ないかな」
固まり頬をひくつかせる。その上、LDはこめかみを押さえる。彼の印象からほど遠い。
「……そんなことが出来ると思ってるのか?」
「……出来ないかな?」
「限りなく不可能に近いな。先も言ったが内乱の原因として生け贄になる必要がある。フォルキスを救うためにデミアス殿を生け贄にするのが手っ取り早い。それにだ、姫君がそれを許すかわからん。フォルキスの助命には同意しても、デミアス殿はまた別の話だろう。私と同じくフォルキスの代わりに仕立て上げるつもりかもしれん」
だが、アスナはを首を横に振る。
「却下。大雑把にしか知らないけど、デミアス卿は有能なんだ。フォルキス将軍と同じで殺すのはもったいないよ」
肩を落とし、LDはやれやれと首を振った。
「仮に君の望み通りデミアス殿も助命できたとしよう。だが、それでどうするつもりだ。姫君に代わって宰相に就けるつもりか? いや、君にそのつもりがなくても姫君がそう考えても不思議ではない」
「そうなんだろうけどね。取りあえず表向きは隠居って形にして、エルには内緒で相談役になってもらおうかなって思ってる。正直な話、今のオレは政治のことなんかさっぱり分からないから、殆ど操り人形状態だからさ。こっちからも何か提案できるようにならないといけないかなぁって思うんだ」
「つまり、内密に君専属の諮問機関、もしくは政策集団を作り、その長にデミアス殿を据えるという訳か」
「先王陛下の頃から宰相をやってたデミアス卿なら誰に何を頼めば楽に事が進められるか知ってるだろうしね。それにヴァイアスがたくさん味方を作れって言ってたし」
そこまで言ってアスナはサイナを見た。
「サイナさんたち近衛騎団はオレの味方になってくれたけど、原則として政府にも軍にも口出し出来ないから、どうしてもそう言うのが欲しいなぁって思うんだ」
「なるほど。考えていないようで意外と考えていたようだな」
「あのね。人のこと何だと思ってたんだよ」
「さてな」
と、LDの口元が笑みを作る。それも僅かな間だけだ。すぐにいつもの冷めた表情に戻る。
「デミアス殿の助命に動く前に一つ尋ねておこう。彼は君に手を貸す意思があるのか? もし、デミアス殿が内乱の罪を被るつもりでいるのに助命すれば要らぬお節介になるぞ」
「それは大丈夫。手を貸してくれるって約束してるから」
「手回しが良いというか、自分の立場を考えずに動き回るというか」
感心しているのか、呆れているのか判断の付きにくい口調だ。
そして、LDは「分かった」と頷く。
「どちらに転んで君に失望はさせないよう努力しよう」
改めて誓いの言葉を継げるLDにアスナは小さく笑った。
意味不明なことで笑われ彼は表情で不快を表明する。
「いや、ごめん。オレもLDと似たようなことをデミアス卿に言ったんだよ。それがなんか可笑しくてさ。……それじゃ、改めて」
そう言ってアスナはLDの前に立った。長身の彼と相対するとどうしても見上げるように見てしまう。
「これからよろしく」
差し出した手に逡巡の目で見ていたが、LDはアスナの手を握り返した。
「君が仕えるにたる人物になることを祈ろう」
「うん。LDが泣くぐらい振り回せるように頑張るよ」
笑顔でそう答えると、LDは非常に複雑な表情を浮かべたのだった。
ラインボルトは司法・行政・立法の三権が分離され、その三つを統御する形で魔王が君臨している。そのため、この三権に干渉が許されるのは魔王のみ。
時折、政治的な要求から横槍が入ることもあるが、原則的にこの三者は独立して存在し、互いを監視する立場にある。
その内の一つ、司法を司る大法院の長である大法院長官はこの一月気の休まる暇がなかった。その原因とは革命軍の裁きだ。
フォルキスを始めとする被疑者たちの取り調べに政府・軍ともに口を挟んできて思うように事が進まない。
政府から前宰相デミアスを極刑に処すように圧力をかけられ、軍からはフォルキスを極刑にするよう圧力が掛かってきている。
両者は反乱者であり、敗北者なのだから現行法を厳に適応すれば簡単に極刑に処することが出来る。
だが、後継者はそれを良しとしない。政府・軍の高官と協議して出した結果を遵守するように言ってきている。つまり、フォルキスとデミアスの助命だ。
裁判を任せると言っておきながら、口を挟むのは業腹ものだが三権分立の原則に則って、法に定められた処罰を下そうにも後が怖い。
明確な暴力を掌中に握る軍はもちろん、デミアスの失脚とそれに伴い内閣改造を断行したエルトナージュが何かしらの報復に出ないとも限らない。
かといって、両者を極刑に処せば、後継者に睨まれる。
言葉を交わしたのは一度きり――フォルキスとデミアスを助命するように言ってきた時だけ。長官の第一印象ではただの子どもだった。
とても、内乱終結の立て役者だとは思えなかった。しかし、長官がどのような印象を持とうが事実は変わりない。
あの朗らかに笑う表情の裏に近衛騎団を叩頭させ、頑なに傍観の姿勢を崩さなかった大将軍ゲームニスを動かした何かがあるのだろう。
むしろ、そのような強烈な二面性を持つ後継者から冷視されることが長官には恐ろしかった。それに先頃、LDが正式に後継者の軍師になったことと長官の耳にも入っている。
敵対していたにも関わらず有能であれば禍根なくあっさりと手を組んだ両者が今後、何かしら動きを見せることは間違いないはずだ。
まだ力の継承と即位を済ませていない後継者は政府・軍とは違い明確な力を持たない。それ故にどのような行動を見せるのか全く予想が付かない。
不気味さでいえば後継者が勝ると言えるだろう。
「……ふぅ。まさか老境にさしかかって、このような難題を押し付けられるとは」
深く背もたれに身を預けると長官は額を揉みほぐし始める。全くとれる気配のない目の疲れに長官はため息を漏らす。気分を改めようとカップを手に取る。
「……まったく」
すでにお茶は飲みきってしまっていた。長官は手元の呼び出しのベルを二度振る。
僅かな間をおいてノック音が響く。
「入れ」
「お呼びでしょうか、長官」
と、中年の秘書官が礼をしつつ入室する。
「済まないが、茶を一杯頼む」
「承知いたしました。こちらからも一つ長官のお耳に入れておきたいことがあります」
「なんだね?」
「はい。失礼します」
秘書官は長官に歩み寄るとその耳元で囁いた。
「LD殿が来ています。如何なさいますか?」
「LDが、だと?」
眉を顰める。まさか彼自らが昼間に面会を求めてくるとは思わなかった。
「何故、すぐに知らせなかった。仮にも後継者殿下の軍師だぞ」
「承知しておりますが、事前に面会を求められた訳ではないので、改められるように申し上げたのですが――」
……実直で有能だが、融通が利かないのがこの男の難点だな。
だが、その融通の利かなさが時にはありがたいこともあるのだが。
「分かった。LD殿、自らが来たのだ。何かあったと考えた方が自然だ。お通ししろ。二人分の茶を忘れずにな」
「承知いたしました」
退室する秘書官の背をため息で見送ると長官は立ち上がった。彼はその職責に相応しい威厳を身に纏うべく深く息を吸い、腹に力を入れる。
十数秒後、再びノック音がする。長官の返事とともに姿を現したのは長身にして白皙の青年、LDだ。
「突然の訪問をまずお詫びする」
と、LDは謝罪の言葉と同時に会釈をしてみせる。
「そちらもお忙しいだろうにお待たせして申し訳ない」
「お気遣いなく。今のところ後継者からはこの件以外に仕事を与えられていないので、そちらのご都合に合わせたまでのこと。先ほどの秘書官を叱責せぬようお願いする」
この件とは、裁判のことであるのは間違いない。
つまり、LDは大法院長官である自分に宣戦布告をしに来たということだろうか。
長官は僅かに早くなる胸の鼓動を覚られぬよう表情を引き締めた。
「分かりました。それでご用件はなんですかな?」
椅子を勧めながら長官は話を促した。
「何かと苦慮されておられるだろう長官にとある情報を提供しようと思いましてな」
LDは二つに折り畳まれた一枚の紙片を卓の上に置いた。
「それはなんですかな?」
訝しげな声を隠さず長官は尋ねる。対するLDは大した物ではないと言わんばかりの態度で、
「本当の意味で内乱を起こした者たちの名を連ねたものだ。さすがに一切の裁きを受けず無罪放免はスッキリしないのでな。遅蒔きながら司法取引だと思っていただければ結構」
LDの言葉の真意は別のところにある。この傭兵(男)が裁きを受けないぐらいで良心を苛む訳がないのだから。LDがとったこの行動の真意は――
「つまり、彼らを生け贄にせよ、と仰るのか」
「この裁判を任されたのは長官、貴方だ。私が口を挟むのは越権だろう。しかし、私見ならばお聞かせしよう」
司法に携わる者としては些か不愉快だが、所詮は裁判の名を借りた出来レースでしかない。圧力しかかけてこない政府や軍とは異なりLDは提案を持ってきた。
八方塞がりの状況で別の道を指し示して貰えるのは正直ありがたかった。
「では、そのご意見をお聞かせ下さい。この件は難題ですのでご意見はありがたい」
頷くLD。素直に釣られたのだから笑みの一つでも見せてくれれば良いものをこの男は表情一つ変えずに頷くのみに止めた。
「大まかにだが、裁判記録を読ませていただいた。内容は予想通り、フォルキス不利に動いている。ヤツ自らが素直に自分が革命軍の長として蜂起したと言っているのだから当然だ。しかし、真相はそうではない。フォルキスは長に据えられ、指揮権を委譲されたに過ぎない」
「旧革命軍にはその発起人とも言える者たちがいたと? それがこの紙片に列記された者たちというわけですかな」
「その通り。フォルキスも国家の安危を憂慮していたが、当時の状況を考えれば蜂起するほどのことでもなかった。フォルキスを長にと彼らは詰め寄ったがヤツはそれを断り、何度も思いとどまるよう説得もした。が、徒労に終わった。フォルキスが長とならずとも自分たちで蜂起すると言い出したのだ。それと前後してデミアス殿の解任が決定した。確かに姫君は為政者としての素質を持っているだろう。しかし、年若く経験もない。後ろ盾のない宰相が魔王不在という国難を乗り切れるとは思わないだろう?」
「…………」
一個人としては当時は憂慮すべき状況だった。司法を司る者として口を挟めなかったが、許されるのならば苦言を呈しただろうと長官は思う。
だが、それを口に出すほど彼はLDを信用していない。
「デミアス殿の失脚で内乱急進派の将校をフォルキスの手で抑えることは出来なくなった。ならば、彼らの手綱を自分が握り、民に不要の被害を与えないようしようとヤツは考えた。軍を動かすには一にも二にも金が要る。名のある将軍であるのならばまだしも中級の将校では部隊を動かせるだけの資金を集める人脈もなければ信用もない。そんな彼らが無計画に動けば、資金難から世直しを名目とした略奪が横行するのは目に見えている。歴史に詳しい長官ならばそのような例は幾つもご存じだろう」
……知らないふりは許さないというわけか。
LDの話は些か危険の色が濃い。下手をすれば勝者であるエルトナージュを批判するところまで飛び火するかもしれない。その火中に飛び込むのは御免被りたいのが本音だ。
長官は言葉を選びながら言葉をつなぐ。
「さほど詳しい訳ではありませんが、そういった事例があることは存じ上げております。ですが、フォルキス殿が革命軍の長としてラインボルト南部各地を不法に自らの勢力下においていたことは揺るぎのない事実ですぞ」
「それを否定するつもりはない。そんなことをすればフォルキスに何と言われるかわからんからな」
と、LDは表情らしいものを見せる。
「それでは反逆の罪は免れませんぞ」
「反逆とは誰に対してだ。広義に反逆とは権力や権威に対し、逆らい背くことだ。では、ラインボルトにおける権力と権威とはなんだ? その全ては魔王にあり、宰相を始めとする官僚や将軍たち武官は魔王より権力と権威を委任されているに過ぎない。当時は魔王不在であり、後継者すら存在しなかった。そう考えるのならば反逆罪など詭弁に過ぎない。それに反逆と言うのならば姫君こそ反逆者ではないのか?」
「なっ!?」
……何を言い出すのだ、この男は。
長官は絶句して言葉が出てこない。いや、敢えて何も口に出来なかった。
いくら後継者より信任を得ているとはいえ言葉が過ぎる。
もし、宰相の耳に入ればどうなるか分からないのだぞ、と。
長官は目でLDを窘める。だが、当の本人はどこ吹く風だ。
「考えてみればいい。宰相となった姫君の補佐をするためにデミアス殿は敢えて降格となることに甘んじ、それに相応しい行動を取っていた。その彼に難癖つけて失脚させたのは先王の意に背くことになるのではないのか?」
「宰相には閣僚の罷免権があるのですぞ。法的に問題はありますまい」
LDは首を振ってそれを否定する。
「確かにその通りだ。しかし、魔王の勅命によって為された人事を宰相の判断のみで罷免した例はない。宰相はあくまでも行政府の長でしかないのだ。それをあたかも王であるが如く振る舞うことこそ反逆ではないか? 何より姫君は魔王の許しもなく独断で軍を動かした。内乱における罪を問うのであれば、姫君もまた法廷に立たなければ公平を欠くというものだ」
「些か言葉過ぎる。考えてみれば分かることであろう。当時は魔王不在に加え、大将軍も不在であったのだ。誰かが軍を統御して蜂起した貴方たちに抗するしかない。それが先王陛下の遺児であるエルトナージュ様であっても不自然ではなかろう」
「これはおかしなことを仰るな、長官。この裁判は旧革命軍が違法であることを問うものだろう。同じく法を犯したにも関わらず勝者であるというだけで裁かれないのは、法の下の平等に反するのではないか?」
ここまで畳み込まれるとむしろ冷静さを取り戻す。所詮はただの前振りなのだ、と。
「LD殿。芝居はそれぐらいにして、この紙片をどう使うのかご意見を伺いたいが?」
「失礼した。だが、どう処理するかのみに苦慮されている長官には当時の状況を整理する必要かと思ったのだが。ともあれ、戦争を司法の名の下で裁こうと思えば無理が生じるのは必然だ。ならば何をどうすれば国益を得られるか考えれば良い」
「それで彼らを生け贄にということですか」
今だ折り畳まれたままの紙片を長官は見やる。
「その通り。フォルキスの武威はこの度の内乱を見れば明らかだろう。また、個人としても人魔の規格外だ。将軍職を剥奪され、一兵卒に降格となったとしても他国に対する十分な牽制になる。デミアス殿もまた然りだ。彼の政務能力は私よりも長官の方がよくご存じだろう。確かな才覚と実績を持つ者を助命する代償に騒ぎの根本となった者を処断したほうが良いのは明白だ。それにだ。結局の所は面子の問題でしかない。政府は蜂起の理由とされた政争を起こしたこと、軍は反乱者を出したことに負い目を感じているだけにすぎん」
そういって紙片の上に人差し指を立てる。
「フォルキスは一時将軍職剥奪の上で彼らを処刑すれば、軍の面子は保たれる」
「それは良いとして、誰か適当な証言者がいないことにはどうにもなりませんぞ。まさかと思うがLD殿、貴方が法廷に立たれるおつもりですか?」
「いや。さすがにそんなことをしている時間はない。それよりも当事者に話して貰った方が何かと迅速に動ける」
「なるほど」
そのまま長官はソファに改めて深く腰掛けた。
「司法取引という訳ですか」
適当な誰かを数名選び出し、自分たちが革命軍の発起人となったことを法廷で証言すれば助命すると取引をするという訳だ。もし、断れば本人はもちろん、親類縁者も同罪と見なすと迂遠に脅迫することも含まれる。
「だが、貴方が考えることを予想する者もいるのでは? あのお二人を亡き者としたいと考えている者もいるようですからな」
「そこは心配無用だ。すでに手は打ってある。彼らには内乱の原因を作った者として最後までその務めを果たして貰わなければならないからな。文官に対する生け贄もすでに用意してある。こちらも問題ない」
そこまで言ってLDは意味深な笑みを見せたのだった。
……完全に彼の術中に填ったな。
長官はそう内心で苦笑いを浮かべつつも、彼の提案を自分なりに消化すべく思考を巡らしながら話を聞くのであった。
「忙中閑あり、だな」
深々と黒革の椅子に身を預けたケルフィンは気怠げにそう呟いた。
右手の煙草は紫煙をくゆらせている。ただ、灰が床に落ちるのみ。
彼の前にある執務机には幾つもの書類の束が重ねられている。それは第一軍の再建計画及びその進捗状況に関するものだ。
底にうっすらと琥珀色の液体――酒が残ったグラスが書類の束に隠れるように置かれている。
職務時間中に飲酒するのは怠慢ゆえではない。いわゆる気付け薬の代わりだ。喉が焼けるようなきつい酒を飲むことで意識を保っている。
だが、ケルフィンはそれに目を通そうとはせずに虚空を眺めていた。
ここ数日、満足な睡眠もとれずに身体は疲れ切っていた。
現在、ラインボルト軍は再編成作業に追われていた。
治安の維持や経済の再建などの内政問題だけではなく、内乱終結後の混乱を狙って手を出してこようとする周辺諸国に対抗するためには必要不可欠である。
しかし、内乱で生じた人的な損失は少なくはない。
それを補填するために内乱中に志願した者たちの訓練を行っているが、そう簡単に終わるはずもない。そこでラインボルト軍は一時的な軍の整理縮小を決定した。
旧革命軍の部隊を解散させ、アスナについた将軍の部隊を当面の間、ラインボルト軍の基幹として優先的に兵力が補充することにした。
ただし、全ての部隊がそうであるとは限らない。
第二魔軍は現状維持とされ、他の比較的損害の少ない部隊も解散せずに兵力の補充されることになった。
一方、兵力を吸収される側は司令部のみが残り、基幹部隊の兵力補充が終了した後で再編成作業が行われることになった。
そのため現在、軍務省周辺に置かれた各軍の臨時司令部は蜂の巣をつついたような慌ただしさの中にあった。
他の部隊と比べて損害の少なかったケルフィンの第一軍もその例に漏れず忙しかった。
今、彼が惚けていられるのは出すべき指示は全て行い、報告待ちをしている最中だから。これもほんの一時でしかないことを経験的にケルフィンは知っていた。
そして、この休暇に終わりを告げるようにノック音が響いた。
グラスの底に残った酒を呷るとケルフィンは入室を許可した。
痩躯の男だ。青年の域を幾らかでた男だ。見る者に実直さを印象づけさせる細い目だが、その下にはうっすらと隈が浮かんでいた。彼は第一軍の参謀長だ。
「失礼します、閣下」
鷹揚に頷くとケルフィンは姿勢を正して頷いた。
「進捗状況はどうだ?」
「順調です。ご指示された通り、他の部隊と競合しない目立つ軍歴を持たない者を優先的に集めました。ですが、本当にこれでよろしかったのでしょうか。閣下がお望みになれば第一軍を強化出来ます。せっかくの好機を見逃すのは勿体ないと思いますが」
「今更、我々が部隊強化に乗り出せば他の部隊から反感を受けるのは確実だ。以前にも言っただろう。他の部隊の人員争奪を調停して恩を売る方が後々のためになると」
「それは理解しておりますが……」
確かに恩を売っておけば、こちらが何か困った事になった時、もしくは何か要求を通した時に支持を得やすくなるだろう。
だが、部隊を率いる者として、やはり精強な人材は欲しいのが本音だ。強い者が麾下にいれば、それだけ発言力も大きくなる。
「参謀長、お前の言いたいことは分かる。だが、私には有能な者を使いこなすことは出来ない。そのような凡将の下では有能な者も満足に力を発揮できない。どちらにとっても不幸なことだろう。私に必要なのは有能でもなければ、無能でもない者だ」
「では、閣下に請われ幕下となった私は有能ではないとのご判断ですか」
「怒るな、参謀長。先も言っただろう無能な者もいらないと。無能であれば、私の指示を全うできまい」
言葉はなく参謀長は小さく頷きで応えることにした。
「そうだ。ファイラスの決戦時で同士討ちを演じた馬鹿者たちを放り出すことは成功しているな?」
「はい。それに加えて以前から第一軍にそぐわない無能な者はこの混乱のどさくさに紛れて放り出しました」
「そうか。ご苦労」
渡された報告書に目を通しながらケルフィンは頷いた。
無駄に兵力を失うことを嫌った彼は革命軍の突撃力が鈍ったところを側面から攻撃するつもりでわざと攻撃命令を遅れて出したのだ。
だが、その後で起きた第十二軍との同士討ちは全くの事故だった。一時期、軍内部では決戦前の軍議の際、兵の入隊式を執り行おうと提案し、後継者に受け入れられたネイト将軍に対する嫌がらせではないかとの噂が立った。
それは誤解以外の何者でもない。この噂を消すためにケルフィンは多大な私財と苦労を要した。
二人の言う無能者とはその部隊の将兵と以前から幾つか問題を起こしていた将兵たちのことだ。
「物資の調達も順調のようだな」
「はい。皆が人員の補充に力を注いでいる分、物資調達は楽でした」
そうは参謀長は言うが申請すればすぐに手に入るというものでもない。元々、ラインボルト軍の再建予算は全く足りていない。
軍関係の物資を生産している商家には内乱中から発注を行っているので、必要な物資そのものはあるのだが支払う金がない。
正確には発注した物資の余剰分を支払う金がない。
商家としても政府から注文を受けて生産したは良いが、余剰分はいらないと言われても困るという訳だ。すでに生産するために必要な物資の調達を終えているのだから。
商家は共同では出来るだけ資金を回収しようと、利益率を下げて国に物資全てを買い取ってくれるよう交渉している。
そのため、ラインボルト軍が必要とする物資は商家の工場や倉庫にある。
参謀長が確保したと言った物資は内乱中に支払いが済み、受け取った物資だ。
比較的容易に必要物資が手に入った裏には、将兵の補充で譲歩したことが影響しているのは間違いない。
参謀長が提出した書類の内容は人員と物資の補充状況に関するものだけではない。
受け取った書類の中には現存する部隊を統括しているケルフィンの義弟たる副将からのものも含まれていた。何かしら裁可を求めるものではなく現状の報告書だ。
それらを通して目を通したケルフィンは二つ、三つ質疑応答を行い参謀長からの報告を聞き終えた。
新たに出した指示は現状通りに再編成作業を続けろといった内容のもの。
「了解いたしました。では、失礼いたします」
敬礼にケルフィンは座したまま答礼を行う。一歩、下がった参謀長が思いだしたように言葉を繋げた。
「すぐに副官殿が来られるはずです。酒は控えられた方がよろしいかと存じます」
書類の山でグラスを隠したはずが、参謀長からは見えていたようだ。ケルフィンは小さく舌打ちをする。
「詰まらないことを言うな。すぐに呼んでこい」
「差し出がましいことを申しました。副官殿を呼んで参ります」
退室した参謀長と入れ替わって個性を全く感じない男が入室してきた。どこにでもありそうな平凡な顔の作り、強いて個性を上げるのならば眼鏡をかけていることぐらいだ。
そんな男がケルフィンの副官であった。
「報告に参りました。まずは裁判についてですが、ご指示の通り軍側の判事を十二分にフォルキス殿が不利となるように煽り、政府側の判事には幾ばくかの金を握らせ、こちらの意見に耳を傾けて頂きました。さらなる後押しを進めるかご指示を願います」
「そうだな。……いや、止めておこう。LDとの衝突は回避するのが無難だ」
LDが後継者の軍師となったことは即日全軍に達せられている。それだけではない。外交の場でもそれとなくこの一件を臭わせることを流している。
LDの威名を使って他国からのラインボルトへの干渉を抑えようとする策だ。
先王の時代より、LDは至る所から情報を収集し、それをもって表裏問わず辣腕を振るってきた。ここでさらなる一押しを行えば、どのような反撃にあうか分かったものではない。ケルフィンの耳にも後継者の意を受けてLDがフォルキス及びデミアス助命に動いていることは届いている。
ケルフィンにとってデミアスの処遇はどうでもいいことだが、フォルキスに関しては裁判により死罪となってくれた方がありがたい。
だが、現実とは常に自分の思い通りには動かないことを彼は良く知っている。
フォルキスの死による利益とLDと衝突する危険を秤にかけた結果が先の一言だ。
「よろしいのですか。もう一押しすれば確実にフォルキス殿を葬り去ることが可能に思われますが」
「構わない。これだけ煽っておけば後は判事たちが勝手にやってくれる。少なくとも軍への復帰は不可能になるはずだ。それで満足としよう」
ケルフィンの目的はラインボルト軍の兵権をこの手に握ることだ。つまり、大将軍となることだ。
伝統的にラインボルトでは次期大将軍は第二魔軍将軍であった者が引き継ぐことになっている。もちろん、例外もあるが多くはこの伝統に倣っている。
フォルキスの第二魔軍将軍任命には苦渋を舐めたが、幸いにもそのフォルキスが賊軍の総大将となってくれた。今のこの機を逃さずに第二魔軍将軍の地位を得るために色々と画策している。人事の調整を買って出たのは将軍たちの人気取りを行った理由の大半がここにあるからだ。
その目的から考えるのならばLDとの衝突、引いては後継者との意見の衝突は危険すぎる。
「了解いたしました。グリーシア参謀総長より、マレインでどうだろうか、とのことです。参謀総長の権限によりすでに研究を開始しておられるようです」
「マレイン、か。悪くはないがあそこはラディウスの影響下にあるだろう。大丈夫なのか?」
「参謀総長は大丈夫だと。あの国の財政状態を考えれば大事にはならないだろうとのご判断です」
「だが、注意を怠るべきではない。多角的に情報を収集し、判断されるよう伝えておけ」
「了解いたしました。以上です、失礼いたします」
退室した副官を見送るとケルフィンは改めて深く黒革の椅子に身を預けて疲れの篭もったため息をもらした。そして、自慢の剛毅なる髭を弄る。
後継者がこの髭を揶揄して『付け髭』とあだ名を付けていることをケルフィンは知っている。腹立たしくもあるが、的を射ていると苦笑してしまう。
この彼自身も立派すぎると思う髭は正真正銘、彼が生やしたものだ。この髭は大隊を率いるようになってから蓄えるようになったのだが、その当時は確かに付け髭をしていた。
執務机の引き出しから琥珀色の酒が入った小瓶を取り出す。グラスに注ぐ。
ケルフィンは当時の自分の滑稽さを嘲笑いながら舐めるようにグラスの酒を飲むのであった。
その報がアスナの下に届いたのは、彼の執務室に西日が射し込み始めた頃だった。
つい先ほどまで資料を挟んでエルトナージュと喧々諤々やり合っていたが、少し前にお互い納得できる落としどころに至り、今は差し向かいでお茶を飲んでいた。
最近、こういう機会が増えてきている。というよりもアスナが故意に増やしたのだ。
アスナが一方的に話しかけて、エルトナージュが受け答えするという図式はこの時間を作り始めた当初から変わりない。それでも彼女が二人でお茶をする時間を嫌がらなくなったのは格段の進歩といって良いだろう。
惚けたように見える表情でエルトナージュは西の窓から顔を見せる夕日を見つめている。
穏やかな紅の中にある彼女の横顔に憂いはない。それでもどこか儚げに見える。
普段の凛々しさは静まり、日暮れを愛でる彼女はアスナと同い年の少女のものでしかなかった。フォルキスの言葉も強ち間違いではないのかもしれない。
彼女は宰相として強権を振るうよりも、穏やかな日常の中にいる方が似合っているのかも知れない、とこの横顔を見ているとアスナもそう思ってしまう。
しかし、それを押し付けるつもりは毛頭ない。エルトナージュが宰相であることを望み、その地位に相応しい手腕を持っている限り解任するつもりはない。
何時か、彼女やサイナ、ヴァイアスたち気の許せる皆だけでのんびりと日々を過ごせる時が来ればいいなと思ってしまう。多忙な日々を過ごしていると、それが何と贅沢なことなのかよく分かる。
尤も暇であることを好まない彼らのことだ。暇になったらなったで別の何かを見付けるのだろう。それを思うと何となく可笑しくなってアスナは苦笑を浮かべた。
「……何か?」
ちらりとこちらを見たエルトナージュにアスナは苦笑を濃くする。
「いや、別に何でもない。ただ、こういうのも良いなって思っただけ」
僅かにだが目を大きくした。プイッと顔を背けた彼女の顔が赤いのは夕日以外の理由だったら、面白いなと思うアスナであった。
不意にノック音が執務室に響いた。無粋には違いないが、それを積極的に行う者は秘書室にはいない。何かしら重要な報告が届いたのだろう。
「どうぞ」
アスナの許しを得て、姿を見せたのはアリオンだった。その他にもう一人、壮年の男性を連れている。
「フォルキス将軍に対する判決が出ました。詳しくは廷吏殿よりご報告します」
廷吏。つまり、法廷事務を執り行う事務官のことだ。
「そっか。判決が出たか」
アスナはエルトナージュとともに立ち上がると執務机に戻った。エルトナージュはその傍らに立つ。
どのような姿勢で聞いたとしても内容に変わりがない。しかし、これは礼儀だ。
幾分、灰色がかった髪を持つ廷吏は執務机前に進み出ると「ご報告申し上げます」と前置きをすると、一息で告げられる報告を行った。
「軍刑法第二編第一章、叛乱罪により第二魔軍将軍兼鎮定将軍フォルキス・オーガタイルに対し死刑、但し被告が持つ名誉の剥奪は後継者殿下の別命がない限り剥奪しないものとするとの判決が下されました」
その一言に室内が幾分、暗くなったような気がした。執務室内の空気に関わりなく廷吏は職務を遂行する。
「裁判の経緯及び判決書はこちらに纏めています。宰相への報告書は宰相府へと届けております」
「ご苦労です」
「解説がご入り用ならば」
そこまで言うと数十枚の冊子を提出した。
「いや、いいよ。ご苦労様」
「……はい。失礼いたします」
辞去した廷吏とアリオンを見送った後、エルトナージュはアスナに視線を向けた。
「あのような態度は誉めらたものではありませんが」
解説を止めさたことで彼の自尊心に幾らか傷つけたと言いたいのだろう。そんな事はアスナも分かっている。だが、そんな気遣いをするほどアスナには気持ちの余裕がない。
「この後、少し時間作れる?」
「多少は」
頷くと秘書室にLDを呼ぶように命じた。
アスナと契約を結び、軍師となったLDであったがその立ち位置は非常に不安定なものであった。本来、国家に軍師という役目は存在しない。
軍においてそれに相当するのは参謀や幕僚と呼ばれる者たちだ。軍の作戦・用兵などの一切を計画して指揮官を補佐する将校だけではなく、彼らは指揮官一人では手に負えない処務も担当している。
一般が言葉から連想する軍師の役目は参謀や幕僚の職務と大差ないだろう。だが、歴史を顧みると軍師と呼ばれた者は少なからず政治に対しても口出ししている。
王の信頼を受け、その命に従うと必然的にそうなるのだろう。
アスナが望んだ軍師も政治・軍事両方に精通した者だ。
その望みに答えるべくLDはまず先王が自分に与えた権力を掌握するために動いていた。
この場合、アスナから明確な機能を与えられなかったのは幸いであった。
軍師の立場はあやふやであるが、そうであるが故に各部署に口出しできるからだ。もちろん、それが許されるのは雇い主の、つまりアスナの権威が確固としてあるからに他ならない。
すでに先王に雇われていた頃からの部下たちを集め、アスナ直属の諮問機関を発足させた。諮問機関として出発させたのはアスナの世間体を慮ってのことだ。
革命軍の軍師を務めたLDを長とする機関に先王の時代と同じ権限を持てば、いらぬ反感を買う恐れがある。その反感は確実にアスナへと向かう。
アスナが魔王となるその時に向けて、いつでも以前と変わりない力を発揮できる準備をしているのが現状だ。
そのLDの下にもフォルキスの死刑判決の報は届いていた。程なくして秘書官からアスナが呼んでいると伝えられ、自分の雇い主の前に立っていた。
不機嫌そのものの表情で座るアスナにLDは苦笑を浮かべた。
「フォルキス将軍の判決が出たのは聞いた?」
「もちろんだ。すぐに私の下にも届いたよ」
常と変わらない口調のLDにアスナの不機嫌の度合いはさらに増す。
「そんな顔をするな。顰めっ面をしても判決が変わるわけでもない。本件に関しては控訴もないのだからな」
「不機嫌にもなる。LD、言ったよな。オレを失望させないって。死刑だぞ、死刑。そうならないようにって頼んだの忘れたのか」
「忘れてはいない。私がここにいるのは君に利益を与えるためだからな」
「だったら、なんでこんな判決が出たんだよ」
「もちろん。君に利益を与えるためだ。済まないが、まだ判決書に目を通していないのでな。そこの報告書を見て貰って構わないか」
「……良いよ」
はぐらかされたことの不満を隠すことなくアスナはLDに報告書を手渡した。
彼は裁判の経緯は無視し、判決の主文と理由のみに目を通した。
LDの口元が笑みを作った。面白いものを見たと言わんばかりの笑みだ。
「宰相。貴女もこれをご覧になられたか?」
「もちろんです」
アスナほどあからさまではないものの幾らか口調に不満の色が見て取れる。
「そうか。ならば、宰相。貴女の目から見てこれをどう読みとられる」
「……事実上の弾劾です。政府と軍に対する」
弾劾、つまり不正や罪過をあばき、責任を追及することだ。
当時の政府の動きと軍の暴発を判決書の中に盛り込んでいるのだ。もちろん、直接的に責めてはいない。フォルキスの行動理由の説明の随所にそれらが織り込まれていた。
「その通り。このような判決文を作るに至った全ての関係者は賞賛して然るべきだ。彼らは政府と軍からの圧力に屈することなく真っ当な判決を下したのだからな」
「まぁ、それはそうかもしれないけど」
この内乱当初は関係者ですらなかったアスナだからこそ言える台詞だ。その言葉にエルトナージュは誰にも悟られずに臍を噛んだ。
「それにこの判決は君にとって不都合なことは皆無だ。ここでフォルキスを助命すれば、国民からは法を無視する横暴な後継者と見られる。政府と軍にしてもそうだ。表だって声を上げていないが、少なくない者がフォルキスの死刑を望んでいる。私はそう見ているが宰相の意見はどうだ?」
「……否定は出来ません。先の最高会議で出したフォルキス将軍への処分を不服とする高官は少なくないようです。恐らくは軍も」
フォルキスの死刑に反対する立場にある彼女の声音には苦渋の色が感じられる。
「つまり、彼らが望んでいるのは明確な生け贄だ。判決理由に書かれた不始末全てを押し付けるためのな。だが、この結末で実害を受けた者以外はフォルキスに対する関心を失うだろうし、政府と軍はこの判決によって溜飲を下げることが出来る。君に対する不満は薄まり、むしろ君を支持する者が増えるかも知れない。不利益など全くないだろう?」
「分かるけど、それでフォルキス将軍が死刑になったら意味ないだろ」
「いや。そんなことはない。落ち着いて考えてみろ。まだ判決が下されただけで、斬首になった訳じゃない」
ラインボルトにおける死刑の方法は刑法により絞首と定められているが、軍刑法によって死刑となった者は斬首されることになっている。
この違いは表向き剣を握る者が起こした不始末は剣によって付けるべしという考えとされているが、実際のところは簡単に刑に処すことが出来るからだ。
「……死刑になるまで時間があるからその間に何か手を打てってこと? 恩赦とか」
教え子の解答を誉める教師の表情でLDは頷く。
「まさしくその通りだ。近く先王の生誕日がある。それを口実にしてフォルキスの死刑を取り下げる」
「それでは折角静まった不満も噴出するのでは?」
エルトナージュの問いにLDは面白味を感じた。アスナを嫌っているというのに、援護する疑問を口にしていることに。
姫君の内心でも色々とあるようだな、と表情には出さずに笑んだ。
「そうならぬよう五百年の禁固刑にする。事実上の死刑には違いないが、首を刎ねられる心配はない」
「うん。それは良いんだけど刑務所でこっそりと殺されない? LDみたく暗殺者放ったりさ。成功したら御の字。失敗しても刑務所で暴れたってことで恩赦の取り消しってことになるんじゃないのか?」
「もちろん、その辺りのことを考えている。フォルキスの身柄はリジェスト家にお預けする」
「お婆様にですか。ですが、しかしそれは……」
彼女の驚きの声にもLDは自信のある表情で言葉を続ける。
「形だけな。実質的にはリジェスト家に預けることにする。本音を言えばトレハ殿下のお側に置ければ一番なのだが、エグゼリスに近すぎる」
何より王墓に罪人を連れていくのはあまりにも外聞が悪いことも理由の一つだとLDは付け加える。
「それは分かりますが、何もリジェスト家に預けなくても……」
「あのさ」
反論を口にしようとしたエルトナージュにアスナの声が割って入った。
「事情が分かってないオレを放ったらかしにして話を進めないでくれないかなぁ」
幾分、ジト目でアスナは二人を交互に睨んだ。
「確かにそうだな。宰相、貴女が説明してやってくれ。さすがにこの国の者でない私が話すのは拙いだろう」
何がどう拙いのかアスナにはさっぱり分からないようであったが、エルトナージュは頷くと事情を話し始めた。
「ラインボルトには特別に功労のあった者が罪を犯した、もしくはその嫌疑をかけられ失脚した者を王家、もしくは名家に預けることが慣習となっています。死刑を免じ、禁固刑となった場合、フォルキス将軍はそのような扱いを受けることになります」
「罪は罪として罰するけど、それまでの功績を考えてせめて名誉だけでも守ろうって考えか」
「そうです。しかし、過去五十年お預けの処分となった者がいないのです。確かにLDの案は妥当に思いますが、リジェスト家に預けるのは問題が大きすぎます。リジェスト家が治める地は建国王の故郷にして、蜂起した場所なのです」
ラインボルトにとっての聖地と言えなくもない場所なのだ。王墓に向かわせるのもそうだが、建国王の故郷に罪人を預けるのは確かに反対の声があっても不思議じゃない。
反対の声が大きくなれば、フォルキスの王家に預ける話そのものが立ち消えとなる可能性がある。エルトナージュの懸念とはそういうことだった。
しかし、LDは自信に満ちた口調でそれが杞憂であると言う。
「調べれば分かると思うが幾つか先例がある。もし、何か言ってきたとしてもフォルキスには鎮定将軍の称号がある。先王自らが称号を贈った者を受け入れられる格式があるのはリジェスト家だけだ」
鎮定将軍とは特別な役職を指すものではなく、純然たる名誉称号だ。
フォルキスが軍に入隊してしばらくした後に起こったリーズとの戦争が勃発した。その戦いで彼は大きな功績を挙げ、出世の糸口を作った。
その後、将軍就任と同時に先王はフォルキスに鎮定将軍の称号を贈ったのだ。
「それにだ。名目上とは言え、建国王の子孫たるトレハ殿下にお預けとなったフォルキスに手を出して問題を起こせば、預かり主であるトレハ殿下を糾弾することになる。この国の成り立ちから言ってそのようなことは出来ないだろう?」
LDが内乱のきっかけを作った士官たちを真の意味での首謀者に祭り上げ、フォルキスにかけられるはずの罪を押し付けたのはこれを狙ってのことだった。
もちろん、このことをアスナに話すつもりは毛頭ない。
「うん。そこまでは納得した。そこからはどうするんだ? 元罪人を将軍に戻すなんて出来ないだろ、普通」
「普通ならばな。だがアスナ、君は幻想界を統一するのだろう? その経過が連戦連勝という訳にはいかない。当然、我々が予想しなかった事態は起きる。一刻も早く戦力を増強する必要に迫られれば、フォルキスの将軍復帰を反対する声は少ないはずだ。将軍でなくても、実戦部隊の指揮官としてでも構わない。なにしろヤツは人魔の規格外だ。使い道は幾らでもある」
「黒いなぁ」
「何とでも言え。実行するのは君なんだからな。それから宰相、貴女もだ。政府内の意見の取りまとめや恩赦を出せる雰囲気作りが出来るのは貴女だけだからな。軍の方は現状維持で構わないだろう。大半が旧革命軍に属した者たちだ。軍は、というよりも内乱中、君たちについた者たちは反対意見は言えないだろう。むしろ積極的に賛成して、旧革命軍側の将兵の支持を取り付ける動きがあるかもしれない」
つまり、軍内部の微妙な不和ですら利用すると言っているのだ。
「そこまでいくと呆れるのを越えて感心するよ」
「言っただろう。君の不利益になることはしないと。ともあれ、私の仕事はここまでだ。こちらにもまだやることが残っているんでな。失礼するぞ」
「ご苦労様。……ああ、そうだ。LD」
呼び止められて彼は振り返った。
「なんだ。他に聞きたいことでもあるのか?」
「そうじゃなくて。今晩辺り、フォルキス将軍と会おうかなって思ってるんだけど」
だが、LDは首を振る。
「やめておけ。この時期に会うのは外聞が悪い。ストラト殿の手を借りたとしても絶対ではないからな。どうしても伝えたいことがあるなら執事を通じ口伝えでやれ」
それだけを言い残してLDは退室した。
LDの退室を見送った後、アスナは視線を感じた。エルトナージュだ。
「なに?」
「いえ、彼は貴方の前ではあのような態度なのですか?」
「そうだけど。上下のけじめを付けろって言いたいのか?」
「そうではありません。ただ、その少し驚いただけです」
驚いた、という彼女の言葉にアスナの頭上に疑問符が更に増える。彼女が何を言いたいのかさっぱり分からない。
「彼が人前であんなに表情を変えたことに驚いただけです」
ああ、そっか。アスナは納得した。
アスナの前では豊かと言えないまでも感情を表情に浮かべて話すのだが、他の者の前ではあまりそれをしないのだそうだ。
「LDに何をしたのですか?」
「別に特別なことしてないけど。エルと話してる時と同じ」
つまり、幻想界に名の知れた軍師としてではなく、また先王の姫君としてではなく共犯者として接しているということだ。
呆れた顔で小さくため息を漏らす
「……仕事に戻ります」
「オレもそうするかな。ちゃっちゃと仕事を済ませないといけないし。ああ、そういえばミュリカから聞いてるか?」
「何をですか」
「オレの部屋でリムルの壮行会やるんだ。怪我も治ったし、それにそろそろムシュウに出発する準備で騒ぐ暇なんてなくなるだろうしさ」
あの撤退戦においてラディウス軍は数名の将軍を失った。そのため、組織的な行動がとれず今は再編成と各部隊の指揮権の掌握に躍起になっているという。
それと睨み合っているのは第一魔軍と近衛騎団、国境守備軍ラディウス方面隊などで臨時編成された部隊だ。それぞれに領分が異なる部隊を長期に渡って運用するのは無理がある。正規に編成された部隊と交代させた方が良い。
ラディウス国内でラメルと同規模の部隊が編成されているという情報が入っている。それがラインボルトに差し向けられるのか、他国に向けられるものなのか分からないという。
そういった点からもリムルのムシュウ行きは必要であった。
「……何時から始めるのですか」
「特には決めてない。ある程度集まったら始めるつもり。どうかな?」
今後の予定のことを考えているのか数秒ほど思案した後エルトナージュは小さく頷いた。
「少し遅くなっても良いのでしたら、参加します」
「ん。それじゃ決まりな」
それから二日後、前宰相デミアスに対する判決が下された。
商人や有力名家などの資金提供者たちの取りまとめを行ったことで幇助罪に問われた。しかし、その商人たちは革命軍に対して作った借財を帳消しとすることで罪は免除されたので、デミアスはフォルキスのように死刑判決を受けることはなかった。
彼に下されたのは執行猶予付きの禁固刑であった。アスナの名で蟄居謹慎を勧める書状が出され、それをもって罰とした。
この二人に判決が出たことでラインボルトを騒がせた内乱は真の意味で終結したのであった。
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