第二章

第三話 動き出す状況


 ラメル・ムシュウ間で起こった追撃戦から早くも三週間余り経過していた。
  その間、ラメルに駐留するラディウス軍は部隊の再編成に終始していた。本国より別命がない以上、現状を維持し与えられた命令を遂行するのが筋だ。
  当初、与えられた命令はラメルに進駐し北朝、つまりラインボルトより”彷徨う者”が侵入せぬように駆除することだ。これに関しては問題ない。
  さして損害のなかった部隊を周囲に展開し”彷徨う者”は発見次第、駆除するように命じている。また、ムシュウで籠城を続ける北朝軍に対する警戒も怠ってはいない。
  ラメル進駐軍の指揮権を取り戻したサイファ・バルティア上将はそれ以外のことに頭を悩ませていた。将兵たちの士気と規律の維持だ。
  荒涼としたラメルでの滞陣は兵たちの肉体と精神を容易に疲労させる。ただでさえ、勝利とは言えない戦闘の後では尚更だ。
  サイファの麾下にあった第八上軍はさほど大きな被害を受けず、始めから友軍の救出を目的に行動していたため将兵たちの士気や規律は悪くなっていない。
  問題なのは他の部隊だ。苛立ちからくる喧嘩や諍いが頻発し、脱走兵も少なくはない。
  それらを抑える下士官や現場の指揮官たちの手に余るまでになっている。いや、その彼らさえも職務をおざなりにしている面があると報告を受けている。
「まさしく、目を覆わんばかりの状況です」
「まぁ、無理もないがな」
  報告を終えた副官が漏らした感想にサイファは同意する。
  公式にはラメルに接近した北朝の近衛を追い払ったとしているが、現実は見事なまでの負け戦だ。
  第十七軍のフォーモリアス将軍、第二十三軍のバナム将軍は討ち取られ、第十九軍のナイディン将軍は心の病を患った。軍医の見立てでは当分の間、軍務への復帰は不可能だとのことだった。一連の戦闘での被害は甚大である。第十三軍は北朝の近衛によって壊乱し、ベルナ・ロジェスト将軍の第七軍も無視しかねる損害を受けていた。
  いや、ラメルに駐留する部隊の殆どが似たような状態であった。
  ラメルを占領されて、北朝が黙っているはずがない。先頃、届いた本国からの情報によれば第三魔軍を中心とした部隊が編成され、ムシュウに向かう予定だというのだ。
  それに対応すべく再編成を急ぐべきなのだが、将軍たちは自分たちの行状を本国に報告する役目を持つ監察官のご機嫌を取ることに一生懸命になり、その作業は遅々としたものだ。
  無理もないな、とサイファは口にすることなく将軍たちの行動を肯定した。
  ラディウスにとって貴族の地位は絶対的なものではない。何かしらの失態を犯した場合、領地や爵位の召し上げが即座に執り行われる。
  貴族であるならば当然、優秀でなければならないという考えに基づいている。この考えは貴族たちにとっては恐怖であり、常に上昇志向を強制される重圧だ。毎年、幾つかの貴族が取り潰しとなっている。
  だが、貴族としての総数はさほど変化はない。ラディウスでは功績を掲げた者は貴族に列せられるからだ。
  そういった事情からラメルでの戦で犯した失態をどうにか誤魔化そうと彼らが躍起になるのも無理からぬことだった。
「再編成作業が終了しているのは我が第八上軍とロジェスト将軍の第七軍だけです」
「分家筋とはいえ、アイツ自身は現当主の子。監察官のご機嫌とりなんかで気を煩わされる必要がないからな」
「しかし、今回ばかりはお咎めなしというわけにはいかないのでは」
「だからといってやるべき事をしないのはアイツの性格が許さない。それに」
  提出された報告書に向けられていた彼の視線が副官に向けられる。
「ロジェスト家はベルナを見捨てない。罰があったとしても一、二ヶ月程度の謹慎で終わるだろう」
「十二公爵家に連なるが故に、ですか」
「そうだ。それだけじゃないぞ。ここに派遣されてきた将軍たちも俺やベルナほどではないにせよ十二公爵家と繋がりのある連中ばかりだ」
  ラメル進駐という大役をバルディア家とロジェスト家だけの功績にしたくはないが故の人事であったという訳だ。
「俺はそれほど酷い扱いになるとは思ってないよ」
  が、内心では別のことも考えている。
  不要になれば、切り捨てることも厭わないのが十二公爵家でもあるのだから。生き残った将軍たちの処遇がどのようなものになるかはサイファの与り知るところではない。
  何にせよ、自分とベルナに咎らしい咎が及ばないことは間違いない。今、考えるべきことは生き残りに躍起となっている将軍たちに代わってどう効率的に再編成作業を進めるかだ。
「……ベルナに手伝わせるか」
  麾下部隊の再編成作業を終え、暇になっているはずだ。なによりここで先のラメル追撃戦の際に作った貸しを返して貰った方がお互いの為にも良い。
  サイファはそう決めると命令書を認め始めた。
「失礼します!」
  司令部要員の青年がサイファの執務室に飛び込んできた。
「何事だ!」
  許可無く入室したことへの叱責が含まれた声に青年は棒を飲み込んだような姿勢で謝罪の態度を示した。
「はっ。フレイオス・バルディア上将閣下とその護衛部隊がご到着されました!」
「どういうことだ、それは!?」
  サイファは椅子を蹴倒して立ち上がった。睨むように副官に視線を向ける。
  副官は困惑の表情で小さく首を振る。そんな話は聞いていない、と。
  となると、またお得意の自儘をされたということか。
  理屈とは別の所で納得したサイファは脱力したように椅子に身体を預けた。先ほど自分が発した問いを打ち消すように彼は手を振って見せた。
「バルディア上将は今どちらにおられる?」
「士官室にてお休みになられています」
「上将閣下を士官と同じ部屋にご案内したのか。なぜ将官用の部屋にご案内しなかった」
「いや、それは別に構わない」
  副官の叱責をサイファの声が止めた。
「上将がそれを望んだのだろう?」
「はい。休めればどこでも良いと仰られたもので。大至急、バルディア上将閣下のお部屋をご用意しております」
「まぁ、相変わらずということか。それで、上将は何の用でこんなところまで来たんだ?」
「伺っておりません。ただ一時間後にここ、つまり閣下の執務室に将官全てを集合させよとの仰せです」
「それだけか」
「はい。以上です」
「分かった。下がれ」
  失礼しますの声を耳にしつつ、サイファは突然の来訪者が何を携えてこんなところまで来たのか考え始めた。が、すぐにその思考を放棄する。
「将軍らを一時間後、ここに集合するように伝えろ」
「了解しました」
「……あぁ、それから」
  副官を呼び止めると、
「俺も少し寝る。そのつもりで将軍たちの集合は調整しておけ」
  了解の声に労いの色を込めて副官は退室したのだった。
  今更、来訪者が何を考えてここに来たのか思案したところで、出来ることはたかが知れている。ならば、少しでも身体を休めた方が得策というもの。
  彼の人は今回の訪問のように何時も自分に突拍子もないものを持ち込んでくるのだから。

 さして広くはないサイファの執務室に将軍――フォーモリアスら戦死、もしくは心神喪失状態で動けない者の代わりに副将たちがいた――は集まっていた。
  彼らは入室後、一言二言挨拶を交わしただけで沈黙を保ったままだった。どの表情も一様に暗い。これから来る人物の戦歴はラディウスでは良く知られている。
  曰く、彼の将軍は友軍の敗北を糧に成り上がった、と。
  程なくして姿を見せたベルナも諸将と同じ態度であった。ただ、一度だけベルナは視線でサイファに何事だと視線で問いかけたが、サイファは小さく首を振って分からないと伝えた。それ以外に言える言葉がなかったのだから。
  召集をかけられた時間から十分ほど時間が経った頃、ノックもなく入室する者があった。
「いや、遅れてしまって申し訳ない」
  苦笑いと共に姿を現したのは金の象嵌で意匠を凝らした黒色の鎧を纏った男。上背はサイファとさほど変わらないが、その身を作る剛健なる筋肉のせいか実際の身長よりも大きく見せる。
  さっぱりと刈り上げた頭髪を撫で付けながら「済まない、済まない」と苦笑と共に謝罪する様はとても上将とは思えない。
  が、そんな彼を見る諸将は最敬礼をする以外のことはしなかった。
  サイファの上座にその男、フレイオス・バルディア上将は立った。同じ上将という地位ではあるが、フレイオスの方が先任であることはもちろんだが、なにより戦績は圧倒的に彼の方が多い。二人の間にある序列は揺るがない。
「どうやら私の風評が諸卿に思い違いをさせてしまったようだな。全く不徳の限りだ」
  慇懃そのものの姿勢を崩さない諸将にフレイオスは苦笑を濃くする。
「さて、私が連絡もなくここに来た理由だが、先頃耳にした吉報を一刻も早く諸卿に伝えたいと思えばこそだ」
  一堂を見回し、苦笑を満面の笑みに変える。
  あからさまに不審の表情を見せているのはサイファとベルナのみ。将軍たちは困惑の空気を発しながらも、フレイオスの笑みに追従した表情を作る。
「諸卿の軍勢が北朝の近衛を蹴散らし、遁走に追いやったことを陛下はとてもお喜びになっておられるそうだ。近日中に諸卿を帰国させ、その武勇を賞したいとのこと。王宮にいる知己の者からそれとなく教えられたことなので間違いなかろう」
  おおぉ、と将軍たちの中から小さな歓声が起こる。何かしらの処罰があるものと覚悟していただけに彼らの驚きは大きかった。
  中には年甲斐もなく頬を紅潮させている者すらいる。
「そして、これはまだ正式に公表されていないので、声を大きくして言えることではないのだが……」
  声を潜めてフレイオスは続ける。
「諸卿をハドル王国へ派遣する軍に組み込まれるそうだ。全く羨ましい限りのことだな」
  フレイオスの声には多分に羨ましげな色が含まれていた。好戦家である彼にとっては嘘偽りのない感想だった。
  その言葉は将軍らを歓喜させるに十分な効果があった。
  貴族たちにとって他国への進軍は栄達への道そのもの。
  それだけではない。侵攻によって新たに得た領土の半分を自分たちの新たな領地として拝領することが出来るのだ。当分の間は赤字経営となるだろうが、数年後には多くの利益が得られるようになる。ちなみに残り半分は天領として王家の所有となる。
「あぁ、それともう一点あったな。部下たちに伝えられるが良い。帰国後、閲兵式が行われることになっている。兵たちに武具に磨きをかけるようにとな。私の話は以上だ、解散してよろしい」
「敬礼!」
  サイファの号令に将軍たちは一声にフレイオスに対し、最敬礼を行った。
  黙って答礼をするフレイオスの立ち姿はイヤになるほど様になっていた。
  退室しようとする将軍たちと同じく退室しようとしたベルナに声がかけられる。
「あぁ、そうだ。バルディア上将とロジェスト将軍は残れ。貴官らには状況報告をしてもらいたい。私は貴官らの変わりにここに駐留することになっているからな」
「了解しました。……ですが、状況報告に私は不要なのではないでしょうか?」
  と、ベルナ。
「ただ状況の報告を受けるならばそうだ。だが、貴官は前線で敵と剣を交えたのであろう。その貴官の口から北朝がどのようなものか聞いてみたいのだ」
「そういうことでしたら、喜んでお話しさせていただきます」
  サイファは室外で控えているはずの副官に三人分のお茶を用意するように声をかけるとフレイオスに応接室に案内したのだった。

 サイファにとって、フレイオス・バルディアは苦手な存在だった。
  必要以上の派手好きで、女好きな所には幾らか苦言があるが、一人の武人としても、人物としても敬意を表する相手であると思っている。
  自分に対して過度と言って良いほどの気遣いを示してくれる二人といない人物だ。
  が、だからこそサイファはフレイオスが苦手だった。
  何に対しても競争を強いられるラディウスの貴族たちは他者の追い落としを常に考えている。その中で生きてきた彼にとって無条件の気遣いは居心地の悪いものだった。
  それが真実の好意から来ているのだから、更に質が悪い。
  サイファはフレイオスの側にいると何時も安堵と居心地の悪さを同時に覚えるのだった。
「……以上です。詳細は後ほど報告書としてお渡しいたします」
「ご苦労。ラメルは思っていた以上にキツイ土地のようだな」
「はい。見ての通り、周囲に何もなく、寒暖差も激しい土地です。ただここにいるだけで兵たちを疲労させます。このような場所では輜重部隊から送られてくる物資だけでは足りません。私的に幾つかの業者と契約をしています。水や食料、医薬品はもちろん、女や芸人の手配もしています。閣下のご要望があれば、業者とお引き合わせする手筈を整えます」
  こちらがそれらの計画書です、と執務机から取り出した書類を差し出す。
「頼む。しかし、綿密な計画書だな。さすがは計画殺人者と言ったところか」
「……計画殺人者とは?」
  首を傾げるベルナにフレイオスは笑みで答える。
「ベルナも知っての通り、コイツは綿密な計画を立ててから軍を動かす癖があるだろう。だから、計画殺人者なんだ」
「なるほど、確かにその通りですね」
「だろう?」
  彼はベルナの同意に得意げな笑みでサイファを見遣る。
「……閣下。お戯れが過ぎます」
「閣下は止めろ。今は私的な立場で話をしているんだぞ」
「……分かりました、快楽殺人者の義兄上」
  姓が示す通り、サイファとフレイオスは義理の兄弟という間柄にある。
  フレイオスは大将軍ファルザスの実子だ。大将軍を輩出してきた家系の者に相応しくフレイオスは親の期待通りに幾つもの武功を掲げてきた。このまま順調に時を重ねていけば次代の大将軍となることも夢ではない才気を見せていた。
  だが、当のフレイオスは大将軍となることを望まなかった。彼は一将軍として兵を率いている方が性に合っているのだ。いや、将軍という地位すら過分。大隊長程度で十分だと思っている。そして、生来の素行の悪さ故に廃嫡となり、サイファが養嗣子、つまり家督をつぐ養子となった。
  バルディア家は血筋よりも家名と自らが持つ権勢を保持出来ればそれで良いという考えの家だからこそ、このような無茶が出来たのだ。
  そして、サイファを養嗣子にするようにファルザスに進言したのは他ならぬフレイオスだった。彼からすれば自分に降りかかる面倒をサイファに押し付けたようなものなのだ。
「それで良い。ベルナもガキのの頃みたくお兄様と呼んでくれて構わないぞ」
「ご勘弁下さい。私にも立場があります。それにもうそういう歳ではありません」
「相変わらずの堅物だな。さながらベルナは大義の虐殺者か」
「全く有り難くない称号ですね」
  どこか拗ねたベルナの口調にフレイオスは大声で笑う。
「ははははははっ。武人などやってる者は皆、碌でもないということだ」
  釣られるようにしてベルナも笑む。ベルナもサイファと同じくこの人に安堵を覚えているのかもしれない。
  一頻り笑った後、フレイオスは表情を引き締めた。
「さて、本題に入ろうか。サイファ、父上は怒っておられるぞ。もちろん、ロジェスト公もだ」
  そうだろうな、とサイファは思う。怒らない訳がないのだ。
「北朝の近衛を半壊に追い込んだのならばまだしも、一兵も討つことが出来なかったのだから当然だ。十万の兵力を有し、その上、包囲までしておきながらこの様とは。俺が父上の立場なら問答無用で二人を兵卒に降格しているところだ」
  叱責の言葉でありながら、口調は面白がっている。
  神妙な顔をしつつも、サイファは内心で快楽殺人者の蟲がまた出たなと思った。
「では何故、処罰ではなくこのような厚遇を受けることになったのですか」
  ベルナの問いに幾らか気分を害されたような表情になる。義兄はそんなことよりも北朝がどれだけ強かったかを聞きたがっているのだ。
  ベルナよりも付き合いの短い自分にそれが分かるのは同じバルディア家の者だからなのか、それとも……。
「お前たち二人が十二公爵家に連なる者だからだ。このような些事で潰すわけにはいかない。別の言い方をすれば、父上たちはお前たちのことが可愛くて仕方がないんだよ」
「それは……」
「他の公爵家にしてもそうだ。折角、取り込んだ手駒をここで捨てるより、恩を売った方が得だと考えたんだろうな。もしくはバルディア、ロジェスト両家に貸しを作ったと考えているのか。何にせよ、色々な思惑と打算で出た結論だ。だからといって良い話ばかりではないがな」
「と仰ると?」
  続きをサイファは促す。
「ハドルへの侵攻のことだ。王家から必要な軍資金が余り出ない。確か計上された予算の三分の一ほどだったか。残りはバルディア、ロジェスト両家が支出することになった。王家からの体の良い嫌がらせだな。少しでも公爵家の力を削ごうとしているのが見え見えだ」
  仮にサイファたちがハドルから支出した資金に見合った領土を獲得すれば、その半分は天領となり、新たな王家の財源となる。もし、戦争が長引けばそれだけバルディア、ロジェスト両家の力を削ぐことが出来る。
  王家にとって損は全くないということか。そう結論付けサイファは嘆息を漏らした。
「それにまだ俺たちは楽な方だ。将軍たちはハドル侵攻を命じられたと同時に領地の移転が命じられるんだからな。今の領地からハドルへとな」
  それは事実上の取り潰しだ。名誉と機会と同時に処分も与えるということだ。
「フレイオス様。そのことを何故、彼らに……」
「命令が発せられれば知ることだ。それにな、陛下への拝謁も閲兵式も本当のことだ。今、このことを知らされてみろ。自棄を起こして、叛乱ともなりかねん。その尻拭いをするのはバルディア、ロジェスト両家だぞ。これ以上、王家だけを喜ばせてどうする」
  フレイオスの視線がベルナに定まる。
「俺はな、ベルナ、一人で極上の美酒に酔うよりも、不味くとも大勢で酒を酌み交わす方が好きなんだよ」
  その言葉こそがフレイオス・バルディアの本質。そして、彼が大将軍になろうと思わなかった最大の理由でもあったのかもしれない。
「さて、つまらない話はこれぐらいにして北朝の軍はどうだった。ベルナ、近衛の団長と一騎打ちをやったのだろう?」
「はい。ですが、人魔の規格外と言われる割に余り強いとは感じませんでした。手強くはありましたが、あのまま続けていれば負けることはありませんでした」
  と、ベルナは当時のことを思い出して恨みがましくサイファを睨む。しかし、サイファはあっさりとその視線を受け流す。
「将軍たる者がみだりに敵と剣を交えるものではないと思うが? ヴァイアス団長の個人技は人魔の規格外の中では最低と聞く。打ち破ると誇るには一軍を率いてこそだ。これまで矢面に立つことのなかった近衛を率いてあの撤退戦をしたのだ。なかなかのものだよ」
  何か反論しようと口を開き書けたベルナを遮るようにフレイオスが感嘆の声を上げる。
「ほぉ。北朝最強の名は誇張ではないということか。くそっ、こんなことなら無理をして出てもラメル派遣に名乗りを上げれば良かった」
「義兄上ならばここまで手酷くやられることはなかったでしょう。ですが、義兄上。義兄上が長くこのような場所に留まっているとは思いませんが」
  つまり、ラインボルトの内乱に介入することになろうとムシュウ制圧に乗り出しただろうと言いたいのだ。
「まさしく、その通りだ。こんな何もない場所にいるのは俺の趣味じゃないからな」
  大声で笑う義兄に二人は自然と笑みが浮かぶ。
「仮に辛抱強く義兄上が北朝の近衛が来寇するまで待っていたとしても勝てたかどうかは怪しいと思います」
「……なぜ、そう思うのだ?」
「義兄上が戦う理由はご自身が楽しまれるため、将兵は自身の立身出世のため。対して北朝の近衛は後継者の為に動いていました。つまり、敵は近衛が近衛として戦っていたわけです。それどころかその気分を第一魔軍にまで及ぼしていましたから。弱いはずがありません」
  近衛騎団は”魔王の近衛騎団”という幻想を纏っているという。だが、ただ一つの幻想の助力だけであの撤退戦を演じることは出来ないだろうとサイファは思っている。
  幾つか近衛騎団は幻想を纏っていたのではないだろうか。例えば”後継者の近衛騎団”といったものが。
「近衛とそれまで敵対していた第一魔軍の将兵を一つに纏め上げた後継者か。興味があるな。確か人族と聞いたが」
「当然のことながら後継者の経歴は一切不明です。年齢は十六。どちらかと言えば女顔といった程度のことしか分かっていません」
「……確か近衛の団長も」
「えぇ。後継者と同い年です」
「それじゃ、何か。精強たる十六の小僧二人にしてやられたということか。ははははっ。それでは確かに父上もお怒りになられる」
「もう一つ父上の激情に油を注ぐことがあります。何でも後継者は兵たちに混ざって給仕をやっていたとか」
「ほぉ。……そうやって自ら動くことで、団員たちの心を掴んでいった訳か。なるほどなるほど」
「フレイオス様、如何なさいました?」
  彼の口元には不敵な笑みが浮かんでいた。戦場でのみ見せる笑みが。
「なに、お前たちの後ではこのラメル駐留も詰まらない仕事だと思っていたが、思い違いだったかも知れない。……二人とも聞いたことがないか?」
  満面の、悪鬼すらも逃げ出しそうな笑みを浮かべたフレイオスは言った。
「北朝の近衛に愛された王は身内に誅されるか、幻想界を揺り動かすかのどちらかということを。俺としては是非とも後者であることを望むぞ」

 内乱の後始末で急を要する案件について一通り処理が終わり、多少だが時間に余裕が出来るとアスナに一つ習慣が増えた。近衛騎団の兵営にある訓練場での運動がそれだ。
  団員に手伝って貰いながら柔軟体操をし、グラウンドを並足で一周すると今度は早足で一周するといった具合で体力作りをしていた。
  余り無理をすると胸の傷に障る。何より疲れ切ってしまうと、運動の後に控えている公務に支障が出てしまう。
  そういった事情から体力作りというよりも、体力維持に重点が置かれていた。
「・・・・・・ふぅ」
  二時間みっちりと身体を動かしたアスナはシャツの中に篭もった熱を外に出すべく襟を開閉して外気を取り込む。涼しいとは言えないまでも心持ち熱が下がったように思える。
  アスナに付き合っていた団員二人は周囲に視線を配しつつもくつろいだ表情を見せている。二時間あまり動き回っていて汗一つかいていないのは流石といったところだ。
「お疲れさん。どうだ、体力作りは順調か?」
  声がかけられる。ヴァイアスだ。団員二人はすかさず敬礼を送る。
  答礼を返すと二人にしばらく席を外すように命じる。
「二人とも追い出して、何か難しい話でもあるのか?」
「どちらかと言えば、面倒な話しってのが正しいな」
  やれやれといった感じでヴァイアスはアスナの隣に腰を下ろした。
「騎団に補充人員が入ったってのは聞いてるよな」
「・・・・・・ああ、うん」
  内乱の最終戦、ファイラスの戦いで近衛騎団はフォルキス率いる第二魔軍と真正面からぶつかった。その結果、若干名の戦死者を出した。その中にアスナと顔なじみだった者たちの名も含まれていることをアスナは忘れてはいない。
  苦い表情を浮かべるアスナに敢えて気遣うことなくヴァイアスは続ける。
「その補充人員がどうにも面倒なんだよ」
  胡座の上で頬を付いたヴァイアスは目前で続けられる団員たちの訓練を眺めながらため息を漏らした。
「ラインボルトには貴族がいない代わりに名家があるってのは知ってるよな」
「うん」
「その名家にも色々とあって本当に名誉だけを持ってる名家と時間をかけて実力を付けた名家とがあるんだ」
  そこまで言われるとアスナもヴァイアスが何を言いたいの分かったような気がした。
「ああ、つまりその補充がその実力のある名家出身のヤツで、あんまりしごきすぎると実家から文句が来るかもしれないのか」
「概ねそんなところだな。普通なら本人の志願と所属部隊の指揮官の推薦で入団が決まるんだが、今回はそういう過程すっ飛ばして有名どころの名家出身のヤツが転属してきたんだよ」
  ため息一つ。それだけじゃなくて、とヴァイアスは続ける。
「その名家出身のヤツらの実家から支度金って形でそれなりの金が送り付けられてきたんだよ。息子や弟をよろしくってな」
  つまり、個人としてではなく近衛騎団に対する賄賂ということだ。
  政府や軍に限らず近衛騎団も資金に乏しい状態にある。資金が手に入るのはありがたいことには変わりがない。だが、それに伴う面倒を考えると喜んでばかりもいられない。
「面倒な金だったら突き返せば良いんじゃないのか?」
「もちろん、受け取らずに突っ返したさ。だけど、内府を通じて寄付金って形で押し付けてきたんだよ。内府が正式に受け取った以上、もう突っ返すことも出来ない」
「これまでこういうことはなかったのか?」
「さぁな。俺は知らないけどあったとは思う。騎団も大きな組織だしな。これまではお飾りだけで済んでたけど、これからはそういう訳にもいかない。これからも俺たちを戦場で使うつもりなんだろ?」
  ああ、そっかとアスナは思った。
  ヴァイアスは、いや近衛騎団は今後も自分たちを”魔王の剣であり、魔王の盾”としてアスナが活用するのだろうか、という期待と不安を抱いているのかもしれない。
  考えてみれば最近は後継者としての仕事が忙しくて近衛騎団の主として彼らと一緒に何かするようなことはなかったような気がする。
  恐らく、今後もアスナは政務に追われ内乱中と同じような時を彼らと過ごすことはないかもしれない。それでもアスナが近衛騎団の主であり続けるのなら彼らの不安を取り払って、期待に応えなければならない。
「もちろん。これからも扱き使うんだから、しっかりしていて貰わないと困る。もし、名家連中が何か言ってきたら、オレの名前出せば良いんだよ。最強の近衛騎団であるための訓練に文句つけるのは主の意に反するってさ。何なら命令って形にしても良いぞ。近衛が後継者の命令に従わないってのはまずいだろ?」
「ははははっ、確かにな。・・・・・・けど、良いのか? 名家連中から睨まれるかもしれないぞ」
「大丈夫大丈夫。ホントのところはどうか知らないけど、好き好んで近衛騎団に来た事になってるんだろ。だったら一人前の団員にしないと新入りに失礼だろ」
  さってと、と立ち上がる。ズボンに付いた砂を払う。
「悪いけど、そろそろ行くよ。この後、LDの授業があるんだ」
「そっか。こっちこそ愚痴なんか聞かせて悪かったな」
  と、ヴァイアスも立ち上がる。
「気にしなくて良いって。友だちの愚痴聞くぐらいで嫌な顔するヤツはいないしさ」
「・・・・・・だな。それじゃ、俺も仕事に戻るか。もうじきアスティークたちが帰ってくるし、そうなったら演習開始もすぐだしな」
「お互い忙しいみたいだな。・・・・・・LDに小言を言われないように戻らないと」
「俺はミュリカの説教確定だよ」
  そう言って苦笑を交換すると二人はそれぞれ向かうべき場所に足を向けたのだった。

 本日は昼食の後にLDの講座が予定に入っている。
  彼はアスナの軍師として雇われているが、実際の役割は軍事のみに留まらない。政務に対する助言やアスナが表立って行えない事柄の実行者としての役目もある。
  そして、彼はアスナの家庭教師でもあった。
  内乱を鎮定した功績のあるアスナは周囲から期待される後継者だ。現在はその期待が良い意味で回転し、内乱の後始末などが順調に進められてる。だが一度でも躓けば、期待は失望となり、これまで抑え込まれていた不満が噴き出してくる。
  万が一、アスナが躓けば最悪、暗殺されることになるかもしれない。ラインボルトには何人もの後継者を魔王に相応しくないと抹殺してきた歴史がある。
  ただでさえ、幻想界には人族に対する偏見がある。脆弱で物の役に立たない人族を自分たちの王に推戴したくないと考える者は少なくないはずだ。
  ・・・・・・その当人が偏見を受けていると思っていないのは幸いだな。
  と、LDは思う。他者の視線や劣等感を原因に身を滅ぼした者を彼は何人も知っている。
「人魔が最大勢力だって聞いてたけど、この資料だと獣人族が最大なんだな」
  本日の講義はラインボルトに居住する種族に関してだ。
「数にして四分の一強が獣人たちで占められ、五分の一が人魔となる。が、こちらの資料を見てみろ」
  執務机に差し出される資料にアスナの視線が向く。
「その資料にある通りラインボルトに居住する獣人の種族の数は多く、そして彼らは少数派に属している。確かに獣人という括りで見れば、彼らはラインボルトの主要な種族ではあるが、個々の種族の頭数が少ないため大きな発言力を持ってはいない。そのため、人魔はラインボルトの最大勢力となっている。が、発言力の大きさで言うのなら人魔も獣人族とさして変わらない」
「なんで? 政治とかもそうだけど、何をするにしても頭数の多い側の発言力が大きくなるもんだと思うけど」
「理由はただ一つ。人魔には種族としての長がいないからだ。頭数が多いということは同時に幾つもの意見や考えが出るということ。それらの意見を調整し、一つに纏め上げられる存在がなければ大きな発言力を得ることは出来ない。彼らは自分たち、つまり人魔の王として建国王を推戴したが、知っての通り魔王はチカラの継承によって為される。建国王の死後、人魔たちは新たに自分たちの長として建国王の娘エルトナージュを戴こうとした」
  エルトナージュの名はこの建国王の一人娘に由来している。
「その動きを察した彼女は領地の経営を人に任せ、今上の施政を手伝いたいという名目で二代魔王リウスの下に向かった。建国王の娘である彼女が人魔の長になれば、国を割る事態にまで発展する可能性があったからな。結果は今に繋がる通りだ。人魔は自分たちの長を戴く機会を失ったが、ラインボルトにとっては英断そのものだ。この動きによってラインボルトは安定し、禅譲によって魔王の地位が受け継がれるなどの制度が固定化させることが出来た。現在の人魔にしても彼女の判断は歓迎すべきものだろう」
「分からないな。長って言ってみれば自分たちの代弁者だろう? やっぱりそういうのがいた方が良いと思うけど」
  頷きでLDはアスナの意見が間違いではないと答える。
「長を得られなかった人魔たちは他種族と協調する道を選んだ。多数派が総体として、少数派を気遣うということはまずあり得ない。この種族としての姿勢がラインボルト国内における人魔の地位を向上させた。同時に出身種族に関係なく魔王の擁立に真摯であった事もそうだ。歴代魔王の中には出身種族を優遇し、特定種族を弾圧するようなこともあったが、人魔は一度として弾圧されることはなかった。むしろ優遇されることの方が多かったぐらいだ。多数派であり、何より即位間もない自分を盛り立ててくれた種族をないがしろにはできないだろう?」
  うん、LDの言うとおりだ、とアスナは頷いた。
「確かに種族の長がいないことは不利な面もある。だが、ラインボルトがある限り、長がいない不利を被ることはない。むしろ、人魔は長がいないことの不利を知っているからラインボルトの存続を第一に考えている」
  これは人魔だけに限ったことではない。他の種族にしても同じ事が言える。
  幻想界全体から見れば少数派である彼らは他国に併呑された場合、ラインボルト以上の待遇を受けることは絶対に出来ない。
  だからこそ、後継者の暗殺が起こるのだ。暗愚にラインボルトを滅ぼされないように。
「では、アスナ。これまで話したことを踏まえて問題だ。ラインボルト軍は五大国中最弱と言われているがその理由が何か分かるか?」
「軍を構成している種族が不統一だから、種族毎の特技を活かす戦い方が出来ないからだろ。こういう言い方好きじゃないけど、戦争って命をひっくるめて消費することだから兵隊の補充も比較的楽に出来ないといけない。ラインボルトは少数派の種族が多くいる。けど、彼らの特技に合わせて戦うのは戦況が複雑になりすぎて、補充されたばかりの兵隊じゃ間合いを合わせるが難しすぎるから、かな」
  この他にも装備が粗悪なことなどもあげられる。
「いやにすんなりと答えたな。誰かから聞いたのか?」
「内乱中にアスティークさんから聞いたんだ」
「なるほど。では、もう一問だ。ラインボルトは五大国中最弱ではあるが……」
  コンコンと不意にノック音が響いた。
  設問を出していたLDは薄紙一枚分程度に表情を変える。興を削がれて気分を害されたのだ。
「入れ」
  LDの許しを得て、姿を見せたのは執事だ。
「何事だ。今は講義の時間だと知っているはずだが」
「申し訳ございません。軍師様にお客様がいらしております。私どもも今は殿下の講義のお時間と承知しておりますが、お客様がお持ちになられた招待状には軍師様の印が押され、時間の指定も確かに……」
「済まない。失念していたようだ」
  LDは執事に謝罪の意で会釈をする。表情にも申し訳ないという思いが現れている。もっとも、その表情も普段のLDに比べればといった程度だが。
「ってことは、今日の授業はここまで?」
「講義は、な」
  LDは身体を執事に向ける。
「客をここに連れてこい」
  よろしいのでしょうか、と視線で尋ねる執事にアスナは頷きで了承する。
「承知いたしました。しばし、お待ち下さい」
  恭しく一礼した後、執事は退室した。
「それで、LDのお客さんって誰なんだ?」
「古い知人だ。――そうだな。分かり難く言えば、古本屋だな」
  とだけ答えて意味深な笑みを見せたのだった。

 ほどなくして執事と共に執務室に入室したのは初老の男性とアスナとさほど歳の違わないであろう少女であった。
  後継者と謁見することを事前に知らされていたからか、二人とも身なりの良い服装をしている。そこからも旧知の仲らしいLDに会いに来た訳ではないことを示している。
  つまり、始めからアスナとの謁見を前提にしてこの二人は来たということだ。
  そんな話聞いてなかったぞとLDを睨むが、彼は涼しい顔をして受け流している。
「拝謁の栄に浴し、恐悦至極に存じます。私、ナシエにて古書店を営んでおりますガレフと申します。そして」
  ガレフと名乗った老人は左隣で跪く少女を指し示す。
「孫のミナにございます」
「ミナと申します」
  二人の名乗りにアスナは大仰に頷いてみせる。
  後継者ともなると親しく自己紹介をすることが正しいとは言えない。
  威信云々ということもあるが、アスナは貴顕に親しく接せられても逆に戸惑う者が多いからだと納得することにしている。これでもアスナは内乱を鎮定した後継者という事になっているのだから。
「坂上アスナです。お二人とお会いできて嬉しく思います」
「ははっ」
  慇懃に跪く二人はどこの街にもいそうな民そのものだ。大きな緊張と幾らかの好奇などが入り交じった雰囲気を纏っている。幻想界に召喚されて以来、何度もこうした謁見を受けてきた経験からこういったものを察することが出来るようになっていた。
  そのアスナの目から見てもこの二人は普通だった。いや、むしろ普通すぎた。
  緊張が大きい者、好奇が多い者、後継者から何かしら利益を得ようとする者。これまでアスナと謁見した者はこの大体この三つに分類できる。
  だが、この二人はこの分類に当てはまらない。全てが均等なのだ。
  不審が顔に出ないよう自分の左隣に立つLDを見上げた。彼はどこか面白がっている顔をしている。が、それだけで何も口にしようとはしない。
  本当ならば二人をアスナに引き合わせた当人が今日の謁見の主旨を話すことが筋なのだ。それをしないということは。
  ……これもLDの問題ってことか。
  ため息を吐きたくなる。LDと直接顔を合わせる前、つまり内乱中にヴァイアスたちからLDの人柄を聞いていたが、その時の彼は冷徹で実務一点張りの印象を受けた。
  それが今では、少なくとも自分の前では何事にも教師然としている。むしろ、そうあることを楽しんでいるようにすら見える。
  最近は内乱中、引っかき回された仕返しをされているんじゃないかとすら思うことがある。ともあれ、何かしら答えを出さなければ話は進まない。
  ……けど、答えを出す材料と言えばLDの知り合いぐらいしかないし。
  ヒントを出せと睨む。彼はうっすらとだが確かに優越感を帯びた笑みを見せて、自分の胸を指し示した。それだけでアスナはこの二人が何者か察した。同時にこの二人の不自然なまでの普通さも。
「前は降伏の使者で、今日は古本屋か。今回の武器は分厚い本の角ってとこか?」
「殿下がお望みとあれば」
  多分に冗談を含んだ口調でガレフは応えた。彼らがアスナを暗殺しようとした暗殺者の関係者なのだと認めたのだ。
「まさか。今のところ自殺願望はないから遠慮しておくよ」
「左様にございますか。では、死をお望みになられた際は是非とも我らにお申し付け下さりませ。苦しむことなく来世にお送りいたしましょう」
  ガレフの言葉で何故、彼らが正式な手続きを踏んで謁見を申し出なかったか分かった。
「つまり、LDだけじゃなくてオレとも契約をしたいのか」
「いや、私との関係は解消されている。その上で君と契約をしたいそうだ」
「理由は? オレとしてはLDを通じてあれこれしてもらった方が便利なんだけど。正直、オレだと何をして貰えば一番良いのか分からないし」
「その辺りのことはすでに話はついている。彼らのことは私が総括するから、君に煩わしい思いをさせることはない」
「だったら、尚更LDと直接契約をした方が良くない?」
  アスナの問いにガレフはLDを揶揄するような笑みを浮かべ、
「正直に申し上げれば、懐具合の問題にございます。殿下のお命を頂戴するために蓄えの殆どを失ったようですから」
「……へぇ。ちなみにオレの値段ってどれぐらいだったんだ?」
「具体的な額についてはご容赦を。ただ、名の知れた大商家を買い上げられる額とだけ申し上げておきます」
「君のお陰で一文無しだよ。とにかく、金の問題だ。金がなければ何も動かないことは君も実感しているだろう?」
「毎日毎日予算の話をしていればね」
  盛大にため息が漏れる。大まかな予算の割り当ては決まり、色々と動かしているが特別予算の目処がついた途端に予算の分捕り合戦が始まった。
  アスナは黙ってそれを眺めているだけなのだが、それだけでも疲れる。
「如何でございましょう。殿下にとって悪い話ではないと思いますが」
  自分たちが暗殺しようとした相手を前にして全く悪びれた風もなくガレフは言う。
  その姿勢に腹立たしさも、恨みもある。あの短剣が胸に刺さった痛みと感触は今でも忘れてはいない。だが、厄介なことにアスナの心の中ではそれに納得する部分もある。
  他者の命を奪った、奪おうとした点ではアスナも同じだからだ。
  エグゼリスで諸将、諸大臣を前にして革命軍への反撃を命じ、その他にもアスナが立った戦場では彼の攻撃命令があって初めて近衛騎団は戦った。
  ――兵たちは命じられたから戦うんだ。そして、それを最初に命令するのはお前だ。お前の殺意が戦場に屍を築くんだ、と。
  エルニスでヴァイアスがアスナの胸ぐらを掴んで言ったことが深く刻み込まれているが故の納得だった。
  LDを見上げる。彼からもアスナの決断を促すように見つめ返してくる。
「暗殺だけをやってる訳じゃないんだよな」
「はい。昨今では情報収集を主としております。ご要望とあればどのようなことでも承ります」
  そう告げるガレフの口に諧謔の色はなく、それが真実であることを意味する凄みがあった。もし、戦場に立つことなくこの視線に晒されれば、無様に醜態を晒したことは間違いないだろう。それだけの真剣味がガレフの口調と表情にはあった。
「どのようなことでも、か」
  と、アスナは気負いなく呟き、深く椅子に身を預けた。
  ガレフが向ける空気は確かに人を飲む類のものだが、フォルキスが自分に向けた戦気に比べれば大したことはない。この程度なら簡単に受け流すことが出来る。
  いや、戦場の空気を肌で感じて、そういった類を察する感覚が麻痺してしまったのかもしれない。その為かガレフの表情の変化にも気付いていない。
「確かに損なことじゃないよな」
  今後、幻想界の統一を考えると後ろ暗い事をしなければならない時が来るかも知れない。また、ラインボルトが有する諜報機関とは別に私的な諜報活動があれば同時に多角的に情報を収集することが出来る。
  LDの推薦と近衛騎団を出し抜いた事からも彼らが使えることは間違いない。
  だが、だからこそ素直に契約できないのだ。
  彼らは義理やアスナへの興味云々ではなくLDの懐具合を理由に契約相手をアスナに変えることを提案してきた。彼らのような者が新たに客を求めるのは不自然なことではない。
  不自然なのは新たな客としてアスナを選んだことだ。それは事実上のアスナの私兵化を意味する。実際はどうであれ第三者はそう見ることになる。
  顧客の幅を狭めることになるのは間違いない。 
  それに何か不都合があれば彼らを切り捨てることだってある。そうなれば、ラインボルトの機密を知る彼らを生かしておく訳にはいかない。LDがその辺りの事を見過ごすはずがないからだ。徹底した粛正なり何なりがあるはずだ。
  到底、金の問題だけで釣り合いのとれるような契約ではない。
  アスナのジイさんが言っていたのだ。
  自分だけ得をする約束は後で大きな損をすることがある。だから、約束はいつも公平でないといけない、と。
「それでそっちにはどんな得があるんだ? 正直、金以外でそっちが得になることがないと思うんだけど」
  美味い話には裏がある。特に彼らのような相手との契約となれば尚更だ。
「どうやら、殿下は我らが考えていたよりも随分と聡いお方のようですな」
「意地悪な連中に囲まれてたら、誰でもこうなるよ。例えば、これとか」
  言ってLDを指さしてみせる。
「失礼なことを言う。私は職務に忠実だというのに」
「ははははははっ。なるほどなるほど。扱いにくいとのLDの言は真実のようですな。では、契約に際し幾つか殿下にお願いがございます」
  報酬などの実務関係の交渉ではないはずだ。こういったことは事前にLDとの間で交渉が行われ、合意に至っているはずだ。
  アスナの下にやってくるのは彼の立場にしか出来ない厄介事に決まっているのだ。
「何匹か王城に虫を飼って頂きたく存じます」
「虫?」
  何の比喩なのか分からず、アスナは眉を顰める。ちらりと祖父と同じく跪くミナに視線を移してみる。彼女は改めて深々と一礼してみせる。
「つまり、城に連絡員を置けってこと?」
  問うが、ガレフは首を縦にも横にも振らずただ真っ直ぐにアスナを見ている。
  ……外れてないけど、正解でもない、か。
  何より連絡員を置くことぐらいで彼らとの関係に釣り合いがとれるとは思えない。
  ……虫、虫、城に虫。――あぁ、そっか。
「獅子身中の虫」
「御意」
  つまり、彼らはただの雇われ者でいるつもりはないということだ。王城内に手の者を置くことでラインボルトの機密の一端を持ち出す機会を得ようという魂胆なのだ。明確な証拠を入手出来なくとも城内の人の動きから何かしら察するものはあるだろうから。
  また、王城内に間者を潜ませることで外部にアスナの私兵になった訳ではないことを示すことも出来る。
「我らを益虫とするか、害虫とするかはまさに殿下次第にございます」
「仮に貴方たちと契約するとして、城に入り込んだ虫の扱いはどうなるんだ? ラインボルトにとって外に知られたくない情報をそっちが手に入れようとした場合とかさ」
「その場合はそちらの自由にして頂いて結構でございます。尋問しようが、首を刎ねようがご随意に」
「それじゃ、こっちもそれなりの防衛策を立てて良い訳だ」
「まさに。私どもが自由にラインボルトから機密を盗み出せるお願いでは殿下も了承して下さいますまい」
  当然だと言うようにアスナは頷いてみた。そして、執務机に置かれた呼び出しのベルを振った。そして、姿を見せた執事にストラトを呼ぶように命じる。
「決めたのか?」
  とのLDの問いにアスナは小さく首を振った。
「ストラトさんの意見を聞いてから決める。エルにも話を通しておいた方が良いかな?」
「今は時期尚早だな。まだ、アスナと姫君の関係は微妙だ。私としても横槍を入れられたくないからな」
「分かった。しばらくの間はエルにも秘密にしておく」
  程なくして執務室にノック音が響いた。ストラトだ。
「失礼します。殿下、どのようなご用命にございましょうか?」
  ガレフたちの手前、ストラトも名前ではなく殿下の敬称を用いる。
「ちょっと、相談したいことがあってさ」
  と、前振りをして説明を始めた。ストラトが求めるであろう細かな点についてはその都度、LDが注釈を入れながら。
「ってことなんだけど、ストラトさんの意見はどうかな」
「殿下がお望みとあれば、私どもに否はございません」
「城の中に部外者を入れることになって、その部外者が怪しい事をやるんだけど、それでも問題ないの?」
「全く問題ございません。私にお預け下されば、少々お時間を頂くことになりますが新参者を立派に執事として身を立てられるように仕立て上げます。また、執事としてあるまじき行動をとった者には再教育を施します。殿下はただ彼らをどのように使われるかのみをお考え下さい」
「分かった。立派な家令になることを期待してるよ」
「承知いたしました」
  深々とアスナに向けて礼をする。そして、ストラトはガレフに身体を向けた。
「では、ガレフ殿。お預けいただける者の人数、そして彼らが到着する日取りをお教えいただけますか?」
「明日にはこちらに差し向けましょう。お預かりいただく人数はこのミナを含めて六名にございます。執事長殿」
  彼女は間者であると同時にアスナに差し出された人質をも兼任しているのかもしれない。
  アスナの好みに著しく反することだが、仕方のないことなのだろう。
「承知いたしました。ミナ嬢は本日から務めを始めると考えてよろしいのでしょうか」
「差し支えなければお願いします」
「ミナにございます。以後、よろしくお願いします」
  どことなく硬質の声で彼女はストラトに挨拶をする。
「分かりました。……殿下、他にご用がなければ失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
「うん。ご苦労様」
「では、失礼します。――ミナ嬢」
「はい。失礼します、殿下」

 宵闇の喧噪がボシーク通りに満ち満ちていた。
  客引きをする女の声。どこで飲むか相談する男の声。すでに出来上がった座から聞こえてくる乾杯の声。それら幾つもの猥雑な声と空気がそこにあった。
  酒と煙草、濃い料理の匂い。そして、化粧の臭いが混じり合った独特の空気が漂うこの通りはエグゼリス有数の歓楽街であった。
  この世の憂さを一時でも晴らすべく毎夜、狂騒に彩られるボシーク通りに普段と違った賑わいが加わった。
  驟雨。宵闇の喧噪に水を差すように突如、大雨が降り始めた。
  通りを歩いていた人々は手近な飲み屋に逃げ込み、飲み屋の店員たちはそういった客の出迎えに忙しく働いている。
  足早に店内に駆け込む人の流れに老境の域に差し掛かりつつある男の姿があった。
  撫で付けられた灰の髪は今や無惨な様となり、仕立ての良い外套も同じだ。
  彼は人の流れを分け入ってとある小径に身を滑り込ませた。どうにか人の行き交いが出来るほどの道幅のそこにも逃げ込んだ者たちの姿は多かった。
  蒸し暑さと人の臭いに辟易しながら、小径を進んでいく。
  程なくして目当ての店を見付けた。引き戸――立地条件から小径に沿ってある飲み屋はその殆どがこういう扉だった――を開ける。清涼な印象の鈴の音が来店を知らせる。
「いらっしゃいませ」
  穏やかな声の出迎えに男はそっと息を吐いた。
  彼女が店主なのだろう。歳と共に衰える艶やかさの代わりに品の良さを手に入れたような女だ。差し出されたタオルで身体を拭きながら、悪くないなと思った。
  外の猥雑さが嘘であったかのように静かな趣であった。遮音の魔法でもかけているのだろうが、この落ち着きは店内の調度が生みだしているように感じる。
「知人と会うことになっているのだが」
  男――名家院議員ウォレスは深みのある声で尋ねた。
「伺っております。こちらです」
  受け取った外套をハンガーに掛けた店主はウォレスを奥の一室に案内した。
「失礼します。お連れ様がお着きです」
「ご苦労」
  奥の座席にいたのはウォレスとさほど年齢が変わらないであろう男だった。
  彼はウォレスに対面の席を勧め、店主にあれこれと注文をした。
  店主が席を離れると完全な密室となった。大声でない限り、外に声が漏れることもないだろう。
「悪くない店だ。貴様がこんな店を知っているとは思わなかったぞ」
「昔、ちょっとした縁で手助けをしたことが切欠でな。言っておくが、貴様が考えているような無粋な関係ではないぞ」
「そうか。浮いた話一つなかった貴様がついにと思ったが。相変わらず細君一筋か」
「貴様と同じ価値観で俺を見るな。大体、二人で飲むなど初めてのことだろう」
  言われてみればそうだ、とウォレスは思った。
  男――前内務大臣シエンとの付き合いは長いが酒を酌み交わすようなことはなかった。顔を合わせる時は常に互いの意見をぶつけ合う時だ。二人の仲は政敵と呼んで差し支えないだろう。しかし、おかしなことに互いを嫌いあってはいなかった。
  自分の主張に対して真っ向から反対意見を述べてくれる者はお互いにとって希有だったからだ。
「俺を酒席に招くとは歳をとった証拠だな」
「その招きに応じた貴様が言えることか。それよりもしっかりと撒いたのだろうな?」
「貴様に言われた通りにな。だが、家令を誤魔化すのには骨が折れたぞ」
  家令院から重臣や議員たちの下に派遣される家令たちは家政を補佐すると同時に彼らを監視する存在でもあった。その家令に行き先を誤魔化すように言ったということは何かしら表沙汰にしたくない話があるということだ。
「失礼します」
  店主の声と共に酒と酒肴が到着した。盆の上にはかなりの数の皿が並んでいる。
「一度に持ってこさせた。これだけあれば十分だろう?」
  ウォレスは頷きで同意する。余人に聞かせたくない話をするためにもだが、何より酒肴を並べて好きなように摘むのは彼の好みにもあっている。
  果実酒の瓶を開けた店主は「どうぞ」とウォレスのグラスに注いだ。小さく会釈を返す。
  シエンのグラスにも果実酒を注ぎ、「ごゆっくり」と個室から辞する。
  お互いにグラスを掲げる。決して当てることはない。彼らはあくまでも政敵であるからだ。酒で喉を潤すと並べられた酒肴に取りかかる。
  濃い味付けの料理が主だ。立ち上る香りが胃を刺激する。
  長く煮込まれたであろう鶏肉は柔らかく、染み込んだソースが口に広がる。
  二人とも無言で人心地つくまで存分に酒と酒肴を楽しむことにした。
「国政の方はどうだ?」
  俺たちの間にある話題といえばそれだけだな、と思いつつ酒で口の中の脂を飲み下す。
「やはり、気になるか?」
「当然だ。俺もラインボルトの民だぞ」
  そして、前内務大臣でもあった。気にならないはずがない。言外にシエンは告げる。
「悪くはない。何事も順調に処理が進められている。疎外しようとする者はなく、利権絡みの争いもなく全てが滞りなく進んでいる。悪くはない」
「そうなのだろうな。あの姫君ならば内乱鎮定の余勢を駆って戦後処理を進めることを考えるはずだ。だが、内乱の後処理が片付く一方で新たな問題も起きている。表面化していないだけでな」
「何を今更。一つ問題を解決すれば、それを原因として新たな問題が生じる。かくて政治的問題は永遠の連鎖を持って処理され続ける。貴様もよく分かっていることだろう」
「あぁ、よく分かっている。嫌になるほどな。だが、俺も貴様も新たに生じる問題の数が可能な限り少なくなるよう配慮してきた」
「それ故に常に物事は停滞しがちになり、問題は山積する。何が良いということはない。物事の殆どは一長一短だ。誰もが同じ場所には立っていないし、同じ方向を見ている訳ではない。だからこそ何かを解決すれば、新たな問題が生じる」
  そこまで言ってウォレスは無性に恥ずかしさを覚えた。このような説教をする相手ではないのに居丈高に語ってどうするのだ、と。
  彼は内心で渦巻く羞恥を誤魔化そうと言葉を続けた。
「まさかと思うがもう楽隠居に飽きたのか?」
「そうだな。そうなのかもしれん」
  同意の言葉を呟くとシエンはグラスの底に残った酒を飲み干した。
「最近、俺の下に陳情しに来る者が増えてきた。多少の事ならば口利きをしてやれるが、大臣職を罷免された者を尋ねるにしては事が大きすぎる」
  ウォレスを睨むようにシエンは見る。
「貴様を尋ねる者はもっと多いはずだ」
「……あぁ、確かに。表面化していないが不満の声は確かにある」
  内乱で受けた損失を補填して貰いたいとか、支援をしたのだから何かしらの利益を供与してもらいたいとか色々だ。
  それだけではない。性急な処理により、損失を被った者も少なからず存在している。そんな彼らからの突き上げだ。何より厄介なのは陳情に来る者たちが議員活動に必要な資金を提供していることだ。議員たちも何かしら動きを見せなければ身の破滅だ。
「だが正直な話、今の状況で何が出来る。民の生活は平時に戻りつつあるが、政治的には未だに戦時だ。政府の機能は強化され、名家院の権限は著しく制限されている。正直な話、現状では俺も貴様と同じ口利き以上のことはしてやれん」
「早急に議会を再開し、平時に戻すべきだと主張する議員もいるだろう?」
「もちろんだ。だが、その主張もただの遠吠えにすぎん。内乱中、名家院は殆ど何もしていない。むしろ内乱後を狙って革命軍に内応していた者もいただろう。そういった諸々の事情から名家院の発言力の低下は著しい。正直、あの内乱で得をしたのは後継者殿下ただお一人。いや、近衛もだな」
「今、ラインボルトが抱えている最大の問題があの後継者殿下だな。分かるだろう? あの方はラインボルト史に名を刻むほどの大功を掲げられたがそれ故の問題もある」
  シエンが何を言いたいのか分かっている。頷き、続きを話すように促す。
  彼は分かり切ったことも一から話し始めないと気が済まない質なのだ。
「ラインボルトは王政をとっているが実体は官僚たち、中央と地方の議員たちによって運営されている。生まれた頃から王としての教育を施せない事から生まれた知恵だ。委譲された権限に基づいて官僚たちは国を動かしてきた。それだけに彼らにはこれまでラインボルトを動かしてきたという自負がある。仮にこのまま順調に後継者殿下が王位に就かれたとしよう。絶大な権威を有する王の存在は官僚たちにとって疎ましい以外の何者でもないだろう。先王陛下は数々の改革を行われてきたが、その実際はデミアス殿が差配してきた結果だ。先王陛下はデミアス殿を始め諸大臣に必要な権威を与えていたに過ぎん」
  話しながら、グラスに酒を注ぐ。ウォレスにもどうかと瓶を傾けてくる。二つのグラスは再び赤い液体で満たされる。
「噂に聞く後継者殿下の気質は先王陛下と違うことは明白だ。上表を受け、自ら考え、適切な人物に指示をし、目的を達成させる。恐らくこれは近衛がそうなるように仕向け、内乱中の経験が作り上げたものだろう。確かに立派なものだ。だが、官僚たちは決して喜ばないだろう。今はまだ良い。内乱鎮定から間もなくどこも慌ただしい。だが、熱が冷めればどうだ。何かしら後継者殿下と官僚たちの間で軋轢が生じるぞ。歴代魔王の中にも官僚たちとの軋轢が原因で国政を誤らせた王が何人かいる。それともう一点。こちらの方が深刻な問題だ」
「殿下が人族だということだろう?」
  口を挟むウォレスにシエンは頷く。
「そうだ。我らラインボルトの民は如何なる種族であろうと魔王であるのならば、気にすることはなかった。だが、人族というのはさすがに拙い」
  冷めて脂の浮いた肉を不味そうな顔で口にする。
「幻想界では人族の扱いは奴隷、愛玩動物、良くて保護対象だ。それを王に戴くのは拒絶反応が大きい。人族から幻想界に適応した人魔ですら彼らを保護対象以上の存在として見ていない。姫君の母上……」
「清花様か」
「清花様の人柄のお陰で人族への見方が変わる兆しがあったが、あの事件を切欠にラインボルトにおける人族の見方が決定された。何の役にも立たない種族だ、とな」
  あの事件とはエルトナージュの母、清花が巡視の旅の途中”彷徨う者”に襲われた事件のことだ。この時、清花には多くの人族が共をしていた。
  だが、彼らは清花を見捨てて我先にと逃げ出してしまったのだ。中には清花を護るために戦った者もいたが、世間の目は逃げ出した人族にのみ向くことになった。
「そういう貴様は人族をどうみているのだ」
「我々と何ら変わりなくそれぞれだ。己の思うところを実現しようと動く者もいれば、逃げ出す者もいる。それは種族に関係なくそういった違いはあるものだ」
  長年、国政に携わってきた結果、得た答えである。ウォレスもその考えに同意している。
「人族に対する偏見は根強い。必ず人族を王に戴きたくないという不満が沸き上がる。対外的にもそうだ。如何に五大国に数えられようともその王が人族出身ではなめられる」
「貴様、何を考えている?」
  探るような深い声。そして、真意を口にするまで逃がさないとばかりに鋭い視線がシエンを捉える。あまりにも彼の口調に熱が篭もりすぎているのだ。
  自分の法案を批判する時でさえ、冷静さを脇に控えさせていたような男がだ。
「俺も貴様と考えていることは同じだ。ラインボルトの存続。ただそれだけだ」
「貴様の憂慮は俺も認識している。ラインボルトの存続を考えるのならば、ここで憂えていても仕方ない。国政に復帰したいのならば俺の方から口利きしてやっても良いぞ」
  だが、シエンは首を振って断る。
「駄目だ。姫君が許すはずがない。仮に復帰できたとしても名前だけの役職だ。それでは意味がない」
  彼はデミアスと共に免職されたのだから、エルトナージュに好印象を抱かれているわけがないのだ。そして、アスナが彼女の言葉に重きを為しているのは知られている。
「歯痒いものだが、出来ることは少ない」
「遠回しに言うな。俺に頼みたいことがあるのだろう?」
「あぁ。貴様に頼るなど面白くないが仕方がない。明日、後継者殿下と晩餐を共にするそうだな? その席に二人同席させてやりたい者がいる」
「どこの出身の者だ」
  自分の派閥に属している議員ならばまだしも全ての議員の名を覚えてはいない。
  だが、出身地が分かれば自ずと彼らが問題にしていることが何か分かる。
  シエンが口にした土地の名前を耳にしてすぐに彼らが後継者に何を言いたいのか察しが付いた。ウォレスは国益と自分の利益に反しないか瞬時に判断を行う。
  悪くはない。軍に恩を売ることが出来る上に献金の提供者にとっても利益があることだ。
  何より国益に適う。それは間違いない。
「良いだろう。但し、土壇場でのことだ。許しが得られない可能性があるからそのつもりでいろ」
「もちろんだ。感謝するぞ」
「そうだ、恩に着ろよ」
「分かっている。ここの払いは俺がもってやる」
「安い取引だな」
  と苦笑をする。
  そう、安い取引だ。今後、こちらからシエンに何か頼む場合でもその返しは酒宴で良いと言っているのだ。全く安い取引だ。
  ウォレスは苦笑をさらに濃くして、グラスを煽ったのだった。

「あぁ、そうだ。今日、サイナさんにテスト勉強見て貰うことになってるけど、みんな来る?」
  今日の授業も終え、手早く帰宅の準備をしたアスナは斜め後ろの席のヴァイアスに声をかけた。来週には中間テストが始まるのだ。今日、明日の土日で追い込みをかけるつもりだ。
「悪い。今日はリムルと先約があるんだ。ミュリカと三人でな」
「そういうことだからゴメンね」
  手際よく帰宅準備を整えたミュリカは申し訳なさそうな笑みで手を合わせる。
「そういう事なら仕方ないか」
「何の話?」
  帰り支度を整えたエルトナージュがアスナたちの輪に加わった。
「今日、サイナさんにテスト勉強見て貰うことになってるんだ」
「そうなんだ」
  と、彼女の目が幾分細められる。
「で、みんな一緒にどうかなって話。エルはどう?」
「行く! 時間と場所は?」
「オレんちで、時間は二時過ぎぐらい。そうだ。昼飯うちで食うか?」
「良いの?」
  頷く。彼女の家は父子家庭で父親のアイゼルは仕事で帰りが遅い。
「一人分、増えたところであんまり変わらないって」
「それじゃ、お願い」
「了解。……あぁ、夕飯の買い物に付き合って貰わないといけないんだけど良いかな」
  彼女はこくんと頷いた。仄かに頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「準備完了。それじゃ、行くか。ミュリカ」
「えぇ」
「遊んでばっかりいないでちゃんとテスト勉強しろよ」
  というアスナにヴァイアスが切り返す。
「どっちかって言うとそっちがそうなるんじゃないのか?」
「……否定出来ないかも」
「ちょっと待って」
  いつもの調子で別れの挨拶を進めるアスナとヴァイアスに割って入るようにエルトナージュが声を上げた。
「ミュリカたちは来ないの!?」
「私たちは先約があるの。だから、今日はエルとアスナくんとサイナ先輩の三人ね」
  そこまで言うとミュリカは邪悪な笑みを浮かべる。エルトナージュに何か耳打ちをした。見る間に彼女の頬は赤くなり、恨みがましい目でミュリカを睨んだ。
「今日のアスナは両手に花ってことだな」
  ヴァイアスの揶揄にアスナは一発見舞って聞き流す。
「そういうことなんだけど。どうする?」
  逡巡の後、彼女はしっかりとアスナの目を見ながら「行く」と告げた。
  その後、アスナはエルトナージュと連れ立って学校を出た。
「今日は中華のつもり」
  と言ってスーパーで必要な食材を買い込んだ。エルトナージュの父親が今日は出張ということもあり、昼だけではなく夕飯も坂上家で一緒することになった。
  アスナとエルトナージュ、サイナにアスナの弟妹の五人分だ。そのため、結構な量だ。
  自宅には一通り必要な調味料が揃っているので買ったのは素材と切れかかっていた鶏がらスープの素を買った。
「夕飯をご馳走してもらうお礼だから」
  と、エルトナージュは勉強中に摘むスナックとジュースを買っていた。
  アスナの自宅は高校から自転車で二十分ほどの距離にある。途中、スーパーに寄ったので帰宅したのは一時を幾らか過ぎた頃だった。
「ただいま〜」
「おかえり〜」
  台所の方から返事があった。
  エルトナージュからジュースなどが入ったビニール袋を受け取り、上がるように促す。
「……お客さん? あ、エルさん。いらっしゃい」
  顔を出したのは妹の美羽だ。中学二年の十四歳だ。
「こんにちわ、美羽ちゃん」
「こんにちわ。制服ってことはお昼まだだよね?」
  美羽の意味深な口調にアスナは「何か作ったのか?」と尋ねる。
「三度目のリベンジ。チャーハンを作ってみました」
  会心の出来だったのか美羽はピースまでしてみせる。前回、前々回ともにぐずぐずになってしまったことから考えると真っ当な物に仕上がったようだ。
  が、アスナはエルトナージュと顔を見合わせ苦笑する。
「なに? 途中で何か食べてきたの?」
「タイミング悪いというか、以心伝心というか。今晩は中華にするつもりで買い物してきたんだよ」
「別に良いじゃない。日本のチャーハンは本場とは違うんだから。うちなんてたくあん刻んで入れてるんだしさ。和魂洋才こそ日本のあるべき姿ってね」
  あんぱんの心などと言いながら、アスナが手にした買い物袋を覗き込んだ。
「おっ。結構、豪勢じゃない。エルさんとサイナさんが来るから気合いを入れましたな。お兄様」
「まぁな。それとこの前、美羽が言ってた杏仁豆腐まで買ってきたんだぞ」
「さっすが、お兄。こういう気遣いに抜け目ないね。……けどさ、こんなに買い込んでどうするつもり?」
「五人で食べればちょうど良いだろう?」
  そう答えるアスナに美羽は演技臭いため息を吐いてみせる。
「お兄、忘れてるでしょ。今日、ユキは友だちのとこに泊まりに行くって。お昼ご飯食べてちょっと前にすっ飛んでったよ」
「あっ」
  完全に忘れていた。確か二日前に弟の雪人が土日にかけて友人の家に泊まりに行って良いかアスナにお伺いを立てていたのだ。
「まったく」
「それじゃ、四人分か。ちょっと多めになるけど食べられなくはないな。幸い育ち盛りの食欲魔人が一匹いることだし」
「誰が魔人よ。それに残念ながら私、今日帰り遅くなるから晩ご飯いらないし」
「遅いって何時ぐらいだ?」
「九時ぐらいには帰ってくるつもり。お許しいただけますか、お兄様?」
  両親が不在がちの坂上家において生活費その他を掌握しているのはアスナだ。となれば、必然的に美羽たちの小遣いはアスナから渡されることになる。
  約束した時間に帰宅出来なかった場合は来月の小遣いが大幅に減額されるので二人ともこの点に関してはアスナに絶対服従であった。
「分かった。遅くなりそうだったらちゃんと電話いれるんだぞ。それから……」
「分かってるから。今日ぐらい小言は良いじゃない。エルさんとサイナさんで両手に花なんだから」
  ウシシシ、と笑う美羽にエルトナージュが口を挟んだ。
「ちょっと待って、美羽ちゃん。何で今日来るのがわたしとサイナだけって分かったの?」
「えっ、そうなんですか? 私、ちょっと煽り文句のつもりで言ったつもりなんだけど」
「はぐらかさない。アスナが他にも誰かを誘うのは分かってるはずよ。勉強会なんだから。なのに両手に花なんて言うのはおかしいわよ」
  目を細めて追いつめるエルトナージュに美羽は幾らか仰け反る。不審そのものを体現するように目を逸らした。
「白状しなさい。ユキくんの外泊は偶然かもしれないけど、ミュリカたちに電話して今日、用事があるって嘘を吐くように頼んだんじゃないの?」
「はははははっ。……お、お兄ぃ」
  助けを求めるような声にもアスナは余計なことするな、バカという意を含ませた視線を美羽に浴びせかけるだけだ。
「えぇ〜っと、あっ、もうこんな時間。急いで準備しないといけないから、それじゃ!」
  シュタッと右手を挙げると美羽は飛ぶような勢いで階段を駆け上がった。
「逃げやがった。どうしようか、改めてみんなを呼ぼうか?」
  が、エルトナージュは首を横に振った。
「多分、もうそれぞれに予定が入ってると思う。邪魔するのも悪いし」
  後半部分はミュリカたちに対するものだろう。これ幸いとテストのことなど忘れて、どこかに遊びに出かけているかも知れない。
「それじゃ、美羽謹製のチャーハン食べたら、テスト勉強始めようか」
  美羽が作ったチャーハンに点数を付けるとすれば七十点だった。残り三十点は経験不足とアスナの好みである。土曜の一時過ぎということで、大河ドラマの再放送を見ながらだ。
  昼食を片づけ、そろそろ大河も終わりに差し掛かってきた頃、電話がかかってきた。もちろん、携帯の方にだ。液晶に表示された名前はサイナのものだった。
「もしもし」
『あっ、アスナ君? サイナです』
  じきに約束の時間だ。そこに電話をかけてきたということは、
「もしかして、何か急用でも出来た?」
『うん。ちょっと頼まれたことが長引きそうなの。そっちに着くの三時過ぎになりそうなんだけど、大丈夫かな?』
「大丈夫大丈夫。明日は日曜だし、少しぐらい遅くなっても良いしさ。サイナさんの分の夕飯の準備もしてるし。うちで食べてくだろ?」
『うん。ありがとう。それじゃ、すぐに用事済ませてそっちに行くから。それじゃね』
「了解」
  返事をして、携帯の通話を切る。その際、何故かお辞儀をしてしまうのはアスナの癖だ。
「サイナさん、三時頃になるって」
「うん」
  と、エルトナージュは頷き、視線をアスナに据えた。幾らか揺らいではいるが視線を大きく逸らすことはない。
「聞いても良い?」
  逡巡の色が多分に含まれた問いにアスナは訝しく思いつつも頷いた。
「サイナのこと、好き?」
「えっ、あ、うん」
  唐突な展開にアスナは自分の頬が沸騰したのを自覚した。それでも彼はしっかりと頷いた。
「それって友だちの好き? それとも……恋人の好き?」
「ちょっと、待った! 何でいきなりこんな話しないといけないだよ。オレがサイナさんのことどう思ってようとエルには関係ないだろ」
「関係ある! わたし、アスナのこと好きだから」
  始めの一声の威勢は消え、俯くと同時に声が尻窄みとなる。上目遣いにアスナを見遣る彼女の顔はこれまで見たことがないほどに赤く染まっている。
  一方のアスナは突然の告白に完璧に固まってしまった。エルトナージュに負けず劣らず首まで赤くなっている。
「だから、答えて」
「えっと、うん。オレ、サイナさんのこと好きだよ。恋人の好きの方で」
「……そう」
  彼女の表情から精彩が消えていく。しかし、アスナは彼女の変化に気付く余裕がなく額や背に熱い汗が浮かんでいるのを自覚しつつ言葉を続けた。
「だけど、エルのことも嫌いじゃない。その、多分、好きだと思う」
  言葉を畳みかけるようにそこまで言うとアスナはエルトナージュに頭を下げた。
「ゴメン。折角、告白してくれたのにこんな返事しか出来なくて。その、ゴメン。節操なしだって分かってるんだけど、自分じゃどうしようもなくって。エルに告白して貰って、凄い嬉しいし、テスト勉強なんか放っておいてこのままお祝いなんかしたい気持ちなんだけど、やっぱり嘘は吐けなくてそれで、えっと……」
  自分ですら何を言っているのか分からなくなり、混乱する頭のままアスナはゆっくりとエルトナージュを伺った。彼女は目を丸くし、暫くして頬を紅潮させた。
「それ、ホントなの? 同情とかそういうんじゃなくて」
  暫く視線を泳がせていたエルトナージュはようやくそれだけを言葉にした。
「うん。自分でもどうしようもないヤツだと思うけど、二人とも好きだから」
「…………」
「…………」
  それ以上、何も話せることが思いつかないアスナは視線を泳がせながらエルトナージュの返事を待った。コンッと彼女の額がテーブルに当たる音がする。
「……節操なし」
  テーブルに俯せになった彼女はそう呟いた。
「うっ」
「優柔不断、両天秤、内股膏薬、女の敵、ラブコメ男。アスナの前世って、絶対にタンポポに決まってる」
  ラブコメ男まではまだしも、前世が無節操に種をばらまくタンポポっていうのは勘弁してくれ、とアスナは思った。だが、一ヶ月ほど前にその場の勢いに任せて、サイナといたしているので反論が出来ない。
「何で、こんな人好きになったんだろう。絶対に男運ない」
  酷い話である。だが、全面的にアスナが悪いのでこれまた反論のしようがない。
  それから五分ほどエルトナージュの罵詈雑言は続いた。これ以上、悪口の表現が思いつかなくなった彼女はゆっくりと身体を起こした。
「……ねぇ!」
  椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった彼女はバンッとテーブルに両手を叩き付けて、アスナに迫った。気迫が高まりすぎて、目が据わっている。
「き、キスはしたの!」
  ……何てこと聞くか、コイツは!
  むぅぅ、と睨んでくるエルトナージュを前にしながらアスナは思った。
  これなら無実の罪で捕まって尋問される方がましだよなぁ、と。
  惚れた弱みである以上、嘘は吐けないし、黙秘も出来ないのである。少なくともアスナはそうなのだ。
  数瞬、言い淀んだが結局、アスナは「しました」と素直に白状した。
「むぅぅ……」
  怒りと嫉妬、そしてそれ以外の何かが込められた視線をぶつけてきた。やおら、アスナの制服のネクタイを掴むと自分の方に引っ張ってきた。
  何か決意をしたようなエルトナージュの顔が目の前に迫る。
「これで、互角だから」
「エル、んむっ」
  ぶつけられるように彼女にキスをされた。勢いが有りすぎたためカチッと歯がぶつかる音がした。色気も何もない初めてのキスに笑いが込み上げてくる。声にこそ出なかったが、妙なおかしさのお陰で不必要な身体の緊張が消えた。
  一度、唇を離す。エルトナージュは恥ずかしそうにしつつも、二人の初めてのキスがこんなものだったことに不満げに顔を背けた。
  だから、アスナはエルトナージュの頬に触れて改めて自分の方に向かせる。
「今度はこっちからだから」
  唇を触れ合わせた。しっとりとした柔らかさを感じる。
  嬉しくて、恥ずかしくて居ても立ってもいられない気持ちになる反面、アスナはとてつもなく強い違和感を感じた。
  ……なんだろう?
  その違和感の正体はすぐに気が付いた。匂いだ。
  エルトナージュは春の草花を想起させる柔らかい匂いなのだが、今アスナの鼻腔を刺激するのは濃い蜜の匂い。思考を蜜のぬめりの底に沈めてしまいそうな濃い匂い。
  アスナの知っている匂いと今、感じる匂いの齟齬は大きくなり、そして……。

 目覚めた。だが、同時にまだ眠っているようにも感じられる。
  鼻腔や身体の全てはもちろん、意識すらも包み込むような濃い蜜の匂い。
  唇に触れるモノは熱く、口腔を蠢き舌を絡め取る感触は甘く、その快感は尾てい骨にまで響くような気がする。だが、思考は周囲を満たす匂いに沈んだまま。
  キスをされていたのだと気が付いたのは、紅い瞳の少女の顔を目にした時だった。
「……ミナ?」
  今日、契約を交わした暗殺組織の長、ガレフの孫娘だ。アスナの記憶違いでなければ彼女の目は青だったはずだ。しかし、今の彼女の瞳の色は夕焼けが最後の瞬間に放つ濃い紅だ。
「はい」
  覗き込むように真っ直ぐとアスナを見下ろす彼女は小さく、だがはっきりと返事をした。
  窓辺から射し込む月明かりに映し出されるミナの表情には感情が宿っていなかった。
  ミナの紅い瞳に見つめられながら、アスナは尋ねた。
「なんで?」
  アスナの腰に馬乗りになっている彼女は少し身体を前に倒す。全てのボタンを外されたブラウスから黒の下着に包まれた乳房が見える。肌の白さと相まって嫌でもそこに目がいってしまう。彼女の着衣は下着とブラウスのみ。
「殿下と契りを交わすために参りました」
  彼女の言う”契り”が何を指しているのかは頭では分からなくとも、身体がそれを理解している。先ほどから肋の檻から飛び出さんばかりに心臓が早鐘を打ち、股間は熱と固さを帯びて自己主張をしている。馬乗りになっている彼女にはアスナがどういう状態にあるのか分かっているはずだ。
「契約ならもう済んでると思ったけど」
「はい。書類上では確かに」
  そう言って彼女はアスナの右手を取り、自身の乳房に当てる。胸を包む生地の感触とともに、柔らかさを伴う弾力を掌に感じる。
「ですが、長は殿下ともう一段高い関係を結びたいと考えています」
  左手も同じように掌が彼女の胸を包む。朦朧とした意識のままアスナは手指に力を込める。ブラジャーのレース生地とともに手指が沈む。
「私のこの身を殿下に差し上げます。その対価として私たちを重用下さい。……んんっ」
  紅い瞳と彼女の声に導かれるままミナの胸の感触を愉しむ。柔らかく暖かいそれは手指の動きに合わせて形を変える。
  アイシンの温泉宿以来、触れていなかった女の肌の柔らかさとしなやかさに魅了される。
  身を起こしたアスナは左手を彼女の肌に滑らせながら背に向かわせ、抱き締める。
「んふぅ……はぁ」
  吐息とも喘ぎともつかない彼女の息を首筋に感じながらアスナは右手をブラジャーの中に潜り込ませる。乳房を覆う黒い布を押し上げ、艶やかな丘陵を鷲掴みにして転がす。掌に感じる屹立した乳首に擦り付けるように。指で乳首を弄る度に漏れる心地よい声にアスナの思考は完全に麻痺していく。
  自分に差し出された女の身体を貪り、喘がせることのみに没頭していく。
  強引に自分に顔を向かせ、彼女の唇を奪う。口を割らせると甘露な露を絞り出すようにして彼女の舌に自分のそれを絡ませる。
  背や脇腹をくすぐっていた左手で彼女の尾てい骨に至る窪みを刺激する。胸から離した右手を腹からヘソに、そして秘めやか部分を通り過ぎて太股を撫でさする。
  彼女の股の間に近づけると熱気とともに、確かな湿り気も感じる。
  ショーツに生まれた染みを広げるように人差し指でそこを揉みながら、アスナは彼女の首筋に顔を向けた。汗の浮いた首筋を一舐めすると強く吸い付いた。
「ああぁ……」
  臀部に回した左手が彼女の震えを伝えてくる。ブラウスから左手を抜くと彼女のセミロングの髪を梳くようにして包み込むとそのままゆっくりと押し倒していく。
  促され従順に横たわる彼女の姿に既視感を覚えた。サイナの時もこんな感じだったのだ。
  既視感は違和感となり、意識が焦点を取り戻す。それと同時に酷い後悔の念を覚えた。
「殿下、どうなさったのですか?」
  熱の宿った声音だ。彼女のしなやかな指がアスナの頬に触れる。
「躊躇なさる必要はありません。私は殿下に献ぜられた物です。お好きになさって下さい」
  そして、彼女は紅潮した頬をさらに紅くして告げた。私も、殿下が欲しい、と。
  それはサイナがアスナを求めた言葉であり、二人を繋ぎ合わせた言葉だ。
  身体は未だ彼女を求めて止まない。しかし、心は完全に萎えていた。もはやサイナに対する罪悪感のみが身体の中をのたうち回っていた。そして、エルトナージュに対しても。
  ……って、なんでここでサイナさんだけじゃなくて、エルの顔まで浮かぶんだよ。
  アスナは苦く顔を顰めるとミナの乱れたブラウスのボタンを留め始めた。
「なぜです。私は……」
「これ以上は、出来ないから」
  吐き出すようにアスナはそう口にした。
「あれだけ私に触れていながら、なぜですか」
  彼女の心と体を蕩せていた熱は、憤りの熱へと姿に変わりつつあった。
「好きじゃない女の子とはしたくないから。こんな気持ちでするのはミナに失礼だし、好きな人のことを裏切れない。多分、オレって自分が思ってる以上に不誠実なヤツなんだ。ホントに好きな人がいて大切にしたいって思ってるけど、他の女の子のことも凄い気になってる」
「ご自身がすでに不誠実なのだと自覚されているのならば構わないでしょう」
  そう言って彼女は覆い被さるアスナの首に手を回して自分の胸に抱いた。ブラウス越しに感じる胸の柔らかさと陶然とさせる温かみを頬に感じる。
「それに私は捧げられた献上品です。物をどう扱おうと罪悪感を覚える必要はありません」
「不誠実だからだよ。オレ、無節操で優柔不断でタンポポなヤツだけど、だから、一つでも良いから筋を通したいんだ。せめて、どんな人の前でもスゴイ好きだからしたんだって胸を張りたいんだよ。他の人に受け入れられるかどうかなんか関係ない。オレがそうするんだって決めたんだ」
  それに、とアスナは彼女の温かさを振り払うように身体を起こした。
  紅い瞳がまっすぐに自分を見つめている。それから目を逸らさずに言葉を続ける。
「人を物扱いするのは好みじゃない」
「今更」
  その一言に幾らか嘲笑が含まれているように思えた。
「内乱中、将兵たちを盤上の駒のように扱った方の言葉ではありません。殿下のご命令で一体どれだけの者が傷つき、命を落としたかご存知ないのですか」
「三万五百八十二名。オレの殺意がこれだけの人を殺したんだから忘れられる訳がない。だけど、それがどうしたんだよ。内乱中だったんだ、後継者なら当然のことだろ」
  アスナは右手でシーツを握り締める。硬く、強く、痛みに耐えるように。
「戦争なんて碌でもないし、平和で暢気な毎日の方が良いに決まってる。だけど、やらないとダメなら徹底的にやってやる。どうせ戦いになったら誰かが死ぬんだ。だったら、オレは勝つために人を駒みたいに動かして物扱いしてやる。無駄死になんか絶対に許さない」
  ふぅ、と一息入れ、すぐに気合いを入れ直す。そうでもしなければ、このまま流されるままに彼女の身体を求めてしまいそうだったからだ。
「だけど、それとミナとのことは関係ないだろ。ミナが今日のことをどう考えてるかなんか知らない。けど、さっきのことは後継者とかミナの稼業のこととか関係ない。オレとミナだけの関係なんだ。だから、物扱いなんか出来ない」
  言いたいことは全部言ったアスナはベッド脇の小さな卓に置かれた呼び出しのベルを鳴らした。数分後には当直担当の執事が来るはずだ。
「今日のことでオレから契約を破棄するとか、ミナを追い出すなんてことはしないから。人が来る前に出ていった方がお互いのために良い」
  背中に衣擦れの音ともに、ミナが自分の背に立ったのを感じる。
「……殿下」
「なに?」
  振り返ると同時に渇いた音が室内に響いた。頬が酷く熱い。
「貴方は自分勝手だ。私が今晩、どんな決意でここに来たのか、長が何故私を献じたのかも考えないで自分の都合ばかりを押し付ける」
「当然だろ」
  何を今更とばかりに胸を張ってアスナは言った。
「オレは魔王の後継者なんだから」
  その明快すぎる一言にミナは目を丸くし、次いで俯き下唇を噛んだ。そして、「卑怯者」と吐き捨てるように言葉を残すと窓から飛び出していった。
  彼女の姿が消えたのとほぼ同時にアスナの気も切れた。そのままベッドに倒れ込んだ。
「うわぁ……」
  シーツには彼女の香りが残っていた。そして、ミナの肌の感触もはっきりと覚えている。
  残された匂いと温かみが確かに彼女がここにいたことを示している。そして、その彼女にアスナは……。
「まずいなぁ」
  煩悶とする彼の思考を一端中断させるようにノック音が響いた。
「どうぞ〜」
「お呼びでしょうか、アスナ様」
  顔を見せたのはストラトと執事二人だった。入室と同時に顔をしかめた彼は「失礼します」と断りを入れると全ての窓を開け放った。
  室内に篭もっていた匂いを冷涼な風が洗い流していく。だが、アスナの中で燻り続けている熱を冷ますには至らなかった。
「取りあえず冷たい水。それから先生に睡眠薬か何か貰ってきて。はっきり言ってこのままじゃ寝られないよ」
「承知いたしました」
  ストラトは小声で背後に控える執事二人に指示を出した。
「そのご様子から推察するにミナ嬢とは何もなかったようですね」
「はぁ!? なんで知ってるんですか」
「何故、とは心外です。主の寝所に入ろうとする者を見過ごすはずがございません」
「だったら、とっとと止めて下さいよ。安眠妨害ですよ、これ」
  妨害にしては快楽の度合いが大きいが、眠りを妨げられたことは間違いない。
「申し訳ございません。しかし、彼らと契約をなされたのはアスナ様です。となれば、彼女とのことは私どもが感知するのは筋違いと心得ます。何より男女のことは当人が決することが常識でございます」
「だったら、命令です。多分、もう無いと思うけどこれからはオレが呼ばない限り彼女をこの部屋に近づけないように」
「承知いたしました」
  と、慇懃に一礼するストラトをジト目で睨む。が、彼の前では柳に風である。
  程なくしてロディマスが顔を見せた。今の彼は正式にアスナの専属医となっている。
「これは凄いな」
  入室早々、風通しをしてさえ残る甘ったるい匂いに老医師は顔をしかめた。
「その様子だと何もなかったようだな」
  呆れと感心とが入り交じった口調で声をかけながら、アスナの前に置かれた椅子に腰掛けた。
「なんで二人ともすぐに事情を把握するんです。それに濃いって? 少し甘いってぐらいだと思うんだけど」
「これは完全に鼻がいかれてるな。良いかね? この部屋に満たされている香はエディアの香といって性欲を増進させるものだ」
「…………」
「娼館では雰囲気作りに極々微量使うらしいが、ここまで濃くなると」
「破戒の香、ですか」
「恐らくはな。気分はどうだね?」
「最悪。それよりも何、その如何にも危険物な名前は」
  ベッドに寝転がったままアスナは尋ねた。行儀悪いことこの上ないが色々なものを我慢するのに必死で他のことに気が回らないのだ。
「いわゆる聖人と呼ばれる立派な者でも淫欲の徒に堕ちるぐらい強い効果があることから付いた名だよ。今も我慢し続けてるお前さんは聖人を越えたということだな」
  からかうようにロディマスはそう言うが、実際の所は常人でも何とか自制することが出来る程度の効果だ。もっともその自制が大変なのだが。
「まさか。目の前に居るのが年寄り二人だからどうにかなってるだけだよ。女の子が出てきたらどうなるか分かったもんじゃない」
「はははははっ。それはたまらんな」
「笑い事じゃないよ。これ、どうにかならないの? 解毒剤とかさ」
「残念ながら無いな。女性に慰めて貰うか、時間をかけて身体の外に出すしかない。私に出来ることは鎮静剤を打ってやるぐらいだよ。これも気休めでしかないがね」
「うぅ〜、最悪だ」
  ベッドに顔を押し付けながら呟く。くぐもった声が響く。
「医師としても、同じ男としても女性に鎮めて貰うことを勧めるよ。幸いお前さんにはそれを頼める相手がいることだしな」
  魅力的な提案である。だが、身体の訴えと同じようにアスナの内心にはサイナに対する罪悪感も渦巻いているのだ。どちらかと言えば後者の方が大きかった。
  先ほどまでミナがいた部屋にサイナを呼ぶのは心苦しいのだ。
「……我慢する。鎮静剤打って」
「真面目というか、律儀というか」
  手早く準備を整えたロディマスの手で鎮静剤が打たれた。その後、気を紛らわすためにストラトを相手に遅くまで話をしたのだった。

 久しぶりの旧友との酒席は快いものだった。
 人生において友を得るということは至宝を手にすることと同義だとシエンは考えている。友にも種類がある。出会い戯れる間柄、共に同じ方向を見つめる間柄、そして同じ場所に立ち、しかし相対する間柄。
 シエンとウォレスはその三つ目の関係だった。ウォレス自身はどう考えているのか分からないがシエンは彼のことを友だと思っている。
 だが、今回の一件で友を失うことになるかもしれない。共に謀議を行うなど彼の考える友の間柄では決してないからだ。それは利用し、利用される間柄だ。
 一人小部屋に残ったシエンはそんなことを考えながらグラスを傾けていた。すでに閉店時間を過ぎ、店内には誰もいない。
 店主は残ったシエンを気遣って私室に戻っている。小部屋に灯る小さな光だけが、彼に許された明かりだった。
 不意に店内に人の気配が生まれた。店主ではない。もっと重い気配だ。
「相席してもよろしいか?」
 一言で形容するのなら黒い男だ。全身に闇を纏っているかのような印象を受ける。
 シエンは頷きで相席を許し、男の前にグラスを置いた。琥珀色の液体が注がれる。
「無事に送ったか?」
 シエンの問いに「細君の小言までしっかりと聞いて参りました」と会釈をしながら応えた。
「そうか。……済まないな。このようなことお前たちの本意ではないだろうに」
「構いません。貴方がこの国の将来のためを思って動かれるのと同じです。私たちは私たちのために動いている」
「そうだな。我々はただの選択肢の一つに過ぎない。幾つもある選択肢のな」
「では、その選択肢を誰が選ぶのでしょう。後継者ですか?」
「後継者であり、私であり、君でもあり、ここにいない無数の誰かだ。誰か一人のみの意志で動くほど国というものは軽くはない。だが、最終的に選び捨てるのは後継者なのかもしれんな」
「そして、後継者もまた選び捨てられる、ですか」
 頷くシエン。
「王城にいる後継者はそのようなこと考えもしていないだろうがな」

 首都エグゼリスの北東部にナシエと呼ばれる区画が存在している。
  その区画は怪しげなモノのやり取りがされている場所だ。骨董品や古書、正規の流通に乗らない魔道具の売買が行われている。所謂、物好きが集まる場所なのだ。
  日中は瞳に狂を宿した者たちが往来しているここも夜が深まる時間となると街路を行き交う人の姿は疎らだ。
  人目を憚るように店の裏に滑り込む者や家具や何かが収められた箱などを満載した荷馬車が街路脇に停車して、従業員らしき人影が店内に物を運び込む姿を見ることが出来る。
  その街路の影を縫うように足早に歩みを進める人影があった。闇色のフード付きの外套ですっぽりと身体を覆っている。傍目には人目を憚る物を売りに来た者のように見える。
  やがて、人影はとある古書店の裏口に身を滑らせた。
  音を立てることなく扉が閉まる。人影はフードを脱いだ。
  ミナだ。任務失敗の苦渋を表情一杯に浮かべている。
「酷い顔ね」
  店の奥から姿を見せたのは如何にも経理然とした服装の地味な女だ。
  両腕に填められた黒のスリーブと飾り気のない眼鏡をかけている。まだ、仕事中だったようだ。
「ミリーナ……」
  姉とも言える女性を前にしてミナは苦渋の表情がさらに濃くなる。いや、感情の表出をさらに強く抑えたと言った方が正しいだろう。
「……私って」
「長に報告しに来たんでしょう」
  抑えきれない感情が吹き出しそうになるのをミリーナは止める。
「話したい事があるならそれから聞くわ。私もその間に残った仕事を片づけておくから。行ってらっしゃい。長は書斎にいらっしゃるわ」
  小さく頷くとミナは店の奥へと入っていった。そして、通路の中程で立ち止まり、右足を強く踏み付けた。するとそこは凹んだ。次いで左手を右の壁に押し付ける。そこも凹んだ。同じ事を左右対称に行うと廊下に変化が生まれた。小さな振動音とともに廊下が落ち窪み階段となった。階段の先には闇が漂っていた。そこにミナは足を進めていく。
  そして、突き当たりにある壁に手を触れ、習慣に従って鍵を開ける。
  扉の向こうはかなり広い空間が広がっている。煌々とした明かりに照らされていることからこの場に昼夜の区別がないことを察することが出来る。
  幾つもの仕切りで区切られたそこは多くの人が行き交い慌ただしげに動いている。ミナの姿に気付いた者は彼女に会釈を送る程度で自分の仕事を優先している。
  彼らは全員、ガレフを長とする暗殺組織の構成員たちだ。首都とその近郊で入手した情報がここに集められ、整理されるのだ。また、ここは実行部隊の詰め所でもある。
  忙しげに働く職員たちを擦り抜けてミナは奥の一室の前で立ち止まった。ノックをする。
「……入れ」
  扉越しの許しを得て、彼女は入室した。
  書斎の四方には書棚が置かれ、その中央には大きめの執務机が置かれている。だが、今はその執務机の上には各方面から上げられた報告書がうずたかく積まれている。
「……失敗したようだな」
  ミナを一瞥するとガレフは目を通していた書類に署名をし、認可した書類の束の上に載せた。かけていた眼鏡を取り、老人は話を聞く体勢をとる。
  彼が纏う空気は孫娘に対するものではない。完全に長としてのものだ。
「報告しろ」
「はい。ご指示通り後継者と契りを結ぶべく交渉を行いましたが、……失敗いたしました」
  彼女の声には苦渋以外の何かが含まれている。しかし、そのことにミナは気付いていない。
「粗相をしたということはないな?」
「ありません。ミリーナに教わったとおりエディアの香と魅了の魔法を使い、事に及んだ際も不手際はなかったものと心得ます」
  ガレフはミナの報告を真っ直ぐに彼女の目を見ながら聞いた。虚偽の有無を探っているのだ。彼は嘘はないと判じた。
「そうか。そこまでして拒絶されたか。今後の付き合い方を考え直した方がよさそうだな」
「後継者は組織との契約を破棄するつもりも、私を追い出すこともしないと言っていますが」
「そうであっても、だ。むしろ、今回の一件で借りを作ったと考える方が良い。後継者はそう考えずともLDは違う。情報収集その他で実績を積むしかない。全く、これであの男に貸しを三つも作ってしまったぞ」
  一つはアスナと引き合わせて貰うこと、もう一つはアスナの寝室に手引きをして貰うことだ。最後の一つはアスナに対するものだが、直接ガレフたちに指示を出すのはLDである以上、彼に対して貸しを作ったことと大差ない。
  俯き沈思していたガレフは顔を上げるとミナを見据えた。
「お前はこれまで通り、王城での任務を続けろ。別命あるまで現状維持だ」
「分かりました」
  会釈をして退室するミナの耳に祖父の言葉が小さく届いた。
  やはり、不向きなのかもしれんな、と。

 書斎を辞したミナは足早に地上の古書店の中に戻っていった。
  不向きなのかもしれんな、祖父のその一言が胸を締め付ける。自分を否定されたような気になる。そのようなことはないと頭では分かっていても今日の失敗がそれを肯定しているように思えてならない。
  ミナは地下への階段を隠すとそのままミリーナの私室へと駆け込んだ。部屋の主はまだいない。そのまま、彼女のベッドに倒れ込んだ。
  聞こえるのは微かに窓を揺らす風の囁きと遠くから響く時を刻む音色のみ。
  やがて、それに新たな音が加わった。足音だ。まっすぐにこの部屋に近づいてくる。
「そんな寝方をしていると身体に毒よ。寝るんならちゃんとベッドに上がりなさい」
  顔を見せたのは女性だ。
  艶やかな黒髪は柔らかな波を作り、切れ長の瞳と細面の作りには知性を感じる。だが、それだけではなく愛嬌も存在している。
  男に媚びるものは皆無だが、男を惹き付ける色香を発散していた。
  声をかけられたミナは緩慢な動きで身を起こした。
「ミリーナ」
  彼女はミナの頭を撫でるとベッドに腰掛けた。ミリーナの容姿は一階で事務仕事をしていたときは異なる。全くの別人だ。ミナは今の彼女の姿を三番目のミリーナと呼んでいる。
  ミリーナは自称変装の達人なのだ。が、この域までくれば変身そのものだ。
  彼女曰く、化粧と変装、そして基礎的な変身魔法を用いているのだそうだ。状況に合わせて姿を変えているのでどれが本当の姿か分からなくなったと笑ったことがある。
  実際、この古書店はミリーナ一人で切り盛りしている。事務員の姿と老店主の姿を使い分けてこの店を維持している。
「酷い顔ね。それだけで何があったのか分かる顔よ」
  そう言うのは誉められた事じゃない、と一睨みするとミリーナは表情を和らげた。
「その様子だと解任された訳じゃなさそうだけど」
「……なんで分かったの」
  目を丸くするミナにミリーナは本当におかしそうな笑みを浮かべる。
「今、ここで落ち込んでたから。解任を言い渡されたら、長にもう一度機会を与えてくれって噛み付いてるはずよ」
「うっ」
  その情景が容易に想像出来てしまいミナは再びベッドに突っ伏した。
「話があるんでしょう? 相談でも愚痴でも聞いて上げるから話しなさい」
  のろのろと起きあがったミナはコクンと頷き、事のあらましを話し始めた。本来ならば同じ組織の者であろうと自分の任務のことを話すことは許されていない。だが、今回は特別だ。初めて大きな任務を与えられたミナの支援をするようミリーナは命じられていたからだ。
  事のあらましを聞いたミリーナは一言。
「後継者ってもしかして、男色家なのかしら」
  行軍中に目覚める者が稀にいる。近衛騎団に属する者の殆どが美男だ。極限状態であればそうなっても不思議ではない。
「そんなことない……」
  首に巻いていたチョーカーを外す。アスナの唇が付けた赤い印が残されている。
「そこまでされて最後まで行かなかったの? 男色家以前にただの根性無しなんじゃ」
  もう一度、反論の声を上げようとしたが思いとどまる。後継者に味方する道理はないのだから、と。その代わりに彼から言われたことを口にした。
「好きじゃないから抱けないって」
「……なるほどね。確か後継者は十六よね。ヤりたい盛りの男の子がそんなこと言ったのか」
「ミリーナ?」
「だったら、まだ何とかなるかもしれないわよ。時間が掛かるけれど、正攻法が一番ね」
「正攻法って、まさか」
「そう。後継者がミナのことを好きになるよう仕向けるのよ。エディアの香を我慢してあんな台詞を口にしたってことはそれだけ情が深いということ。上手くすればこちらが要求する以上の待遇を手にすることが出来るかもしれない。長がミナを解任しなかった理由はそこにあるのかもしれない」
「けど、長は不向きなのかもしれないって」
  俯くミナの頭が優しく撫でられ、思ってもみなかったことを言われる。
「それはそうでしょう。自覚してないでしょうけど、ミナってかなり情が深いわよ。現場じゃなくて後方で情報の整理とか分析をやっていた方があっていると思う」
「私は!」
  反論しようとするミナをあやすように言うと抱き締めて背中を叩く。
「分かってる。長の孫娘である以上、率先して現場に出なければならない、でしょう?」
  頷く。頬に当たるミリーナの胸の感触に不思議と安堵を覚える。
「私は現場に出ることだけが全てじゃないと思ってるけど。……まぁ、ミナはミナのやりたいようにやれば良いか。何かあれば私たちが支えてあげるから。差し当たり必要なのは……」
  と、そこまで言うとミリーナは邪悪な笑みを浮かべた。
「エディアの香で火照った身体を鎮めてあげることかな」

 エルトナージュを始めとする諸大臣が列席する朝議――つまり前日までに処理を行った案件と手にした情報を報告する場にアスナも出席していた。
  相変わらずお飾り以上のことは出来ない上に諸大臣たちもそれ以上のことを望んではいない。ただ、分からないことを逐一尋ねるので朝議に時間が掛かるようになったという不満の声がある一方で、素人にも分かりやすいように報告、資料その他が纏められるようになったので情報の共有が楽になったという声もあった。
  だが、今日に限ってアスナは一言も質問をすることはなかった。諸大臣を始めとする官僚たちは訝しがりながらも報告を進めていく。
  今のアスナに彼らの報告を咀嚼して、質問をする余裕が全くなかった。
  アスナは危険の渦中にあったからだ。
  それは昨晩から始まり、そして今も収まることのない災禍だ。
  燃えさかり続ける熱と粘つくような情念がアスナの身の内を焼き焦がしていた。
  先夜の一件の後、ロディマスに睡眠薬を処方してもらい、強引に眠りに就いたが結局、完全に収まることはなかった。やり場のない劣情に朝食は殆ど喉を通らないほどだった。
  ちらりと隣席に座る人物を見遣る。
  そこには凛とした姿勢を崩さずに朝議を進めるエルトナージュの姿があった。
  大人びた横顔と時折見せる年相応の所作に胸の鼓動が高鳴る。
  抜けきらないエディアの香の効力だけではなく、昨晩見た夢の影響なのか普段以上にエルトナージュの事を意識してしまう。
  有り体にいえば、どうしようもなくエルトナージュが可愛いのだ。隣の椅子に座っていることが嬉しくて、なのに居心地が悪い心境だった。
  不意に彼女がこちらを向いた。丸みを帯びた瞳が不機嫌そうに細められる。
「な、なに?」
  いつもならば腰が退けるようなその視線にもアスナは赤面をしてしまう。
「……聞いていなかったのですか?」
「えっと、その、……はい、申し訳ないです」
  朝議の場で上の空は迷惑ですと苦言を呈しつつ彼女は左斜め前に座る内大臣オリザエールに視線を向ける。
「内府、もう一度説明を願います」
「承知致しました。後継者殿下に副王の地位に立って頂きたく存じます」
「副王?」
  聞き慣れない単語にアスナは問い返した。
「はい。ラインボルトにおける副王とは魔王不在の間、一時的に王権を握る者のことにございます。本来ならば魔王が崩御し、即位までのごく僅かな間にのみ存在する地位ではありますが、殿下もご存知の通り現在のラインボルトは内乱の事後処理その他に追われ、魔王の力を受け継がれるための時間的な余裕がございません。ですが、王無くして国は成り立ちません。例外的にではありますが時が来るまで殿下を副王として戴きたく存じます。すでに機族、龍族の両大公に後見を願い出て了承いただいております。是非とも副王就任をお受け下さいますようお願い申し上げます」
  お願いも何もすでに万事整えている以上、断ることなど出来ない。それでも疑問に思ったことは尋ねる習慣を持つアスナは了承する前に質問をした。
「竜族ってリーズのことだろ? そこから後見人を呼ぶのって拙くないの?」
「竜族ではなく、龍族です」
  とエルトナージュは紙の上に書いてみせる。簡単な絵付きだ。そこには所謂、蛇のような長い体躯を持つ龍が描かれていた。ペンを走らせる彼女の白く細い指に魅入ってしまう。
「龍族はラインボルトの北西に領地を持つ幻想界有数の力ある種族です。ラインボルト建国後、国家を安定させるために尽力して頂いた方々です。そのため、彼らの長にはラインボルトから大公位が贈られ、彼ら領地は自治領として遇されています。機族の方々に対しても同様です。それ故に貴方の後見をお願いすることになったのです」
「あぁ、出陣前にストラトさんが話してくれた白龍の鎧の鱗をくれた龍のことか」
「そうです」
  と、頷く。捕捉として大公位を有する彼らは宮廷序列において王族よりも上になるのだそうだ。王族の中で対等なのはリージュの血族たるリジェスト家の当主のみ。
「そっか。けどさ、別に副王ってのにならなくても良いんじゃないのか? これまでも後継者のままで何とかやってきた訳だし」
  副王になることに不満はないが、就任式などがめんどくさいのだ。
「すでにその段階は越えております」
  と、声を上げたのは初老の小柄な女性。外務大臣ユーリアスだ。
「諸外国を相手にした場合、後継者では軽く見られてしまいます。すでに幾つか外交問題が起きております。詳細は近日中にお知らせしますが、後継者のままでは交渉役が難儀な思いをする可能性がございます」
「せめて形だけでも王様やって、周りにはったりかませってこと?」
「まさにその通りです、殿下。副王となって頂くことで内外に時期整えば正式に魔王の力を継承されることを示すことが出来ます」
  ユーリアスの言葉にエルトナージュの雰囲気が一瞬だけ変わったことにアスナは気付いたが、無視することにした。
「納得頂けましたでしょうか?」
  オリザエールの問いに頷きで答える。
「最後にもう一つ。やっぱり、就任式みたいなのをやるの?」
「もちろんでございます」
「け、けど、ほら、ラインボルトって今、懐具合が厳しいだろ。そういうのにお金をかけるのはどうかと思うんだけど」
  やはり、式典関係は堅苦しくて好きになれないアスナなのである。
「その点もご安心下さい。列席可能な重臣諸将の参列の中、大公殿下お二人よりの任命をお受け頂くのみです。祝宴の方は……」
「そっちは正式に即位してからにしよう。仮なのにお祝いするってのも変な話だし」
  本音は列席者に挨拶回りするのが面倒なだけだ。
「承知いたしました」
  取りあえず、めんどくさいことは最小限で済まされることが分かってホッとしたアスナは隣に座るエルトナージュを見た。アスナが魔王になることに反対している彼女の賛同を得ておいた方が良いと思ったのだ。
「エルも賛成?」
「……反対だったら、この場で話を持ち出していません」
  そっぽを向いて言い訳めいた口調でエルトナージュは言った。その仕草が再びアスナを刺激する。否応なくアスナの頬は赤くなる。
「うん、分かった。それじゃ……」
  抑えられない頬の熱を紛らわそうとアスナは正面を向いた。立ち上がる。
「副王になるよ。これからもよろしくお願いします」
  と、頭を下げた。それに応えて列席者たちも頭を下げた。
  真意はどこにあるのか分からないが、エルトナージュも諸大臣たちと同じように礼をしてくれたことにアスナは深い安堵を覚えたのだった。

 朝議を終え、二組ほどの謁見を受けた。その後、昼食を摂ったアスナは執務室で突っ伏していた。そろそろ色んなものが我慢の限界に達しそうになっていた。
  執務室内は涼やかだが、それで身体の火照りを鎮めることは出来ない。
「はぁぁぁぁ……」
「酷い顔だな。欲求不満が服を着て歩いているようだぞ」
「LD、うるさい。昨日の夜、何があったか知らないくせにからかうなよ」
「夜這いされたんだろう?」
「ちょっ、何で知ってるんだよ!?」
  ガバッと起きあがるアスナ。LDはさも当然と言わんばかりの態度だ。
「ミナと言ったか。あの娘が君の寝所に入れるよう手配したのは私なのだから当たり前だろう」
「LD!!」
  思い切り両手を執務机に叩き付ける。
「そう怒るな。私は君の利益になることをやったまでだ」
「どこが利益なんだよ。ホント、大変だったんだからな!」
  昨晩の事を思い出して再び心臓が早鐘を打ち始める。それだけではなく他の部分も反応を示す。
「利益だよ。昨晩の一件の結果がどうであれ、彼らを通常価格よりも安く使うことが出来るようになったんだからな」
「だからって、オレに何の断りもなくそんなことするなよ」
「断りを入れれば、君は拒絶しただろう」
「当然だろ、そんなこと」
「君の性格を考えればそうだろう。だがな、彼らにも事情がある。考えてもみろ。何故、自分たちの長の孫娘を君に差し出したのかを」
「ふむ。……LDはそこのところの事情は知ってるの?」
「もちろんだ。そうでなくては色々と手配していない。ちなみに彼らの事情は話せないぞ。彼らとの契約の際、他言無用と言われたからな。知りたければ君が彼らに尋ねればいい」
  はぁ、とため息を漏らす。上手い具合に怒りを逸らされた気分だ。再び執務机の上に突っ伏す。
  怒りを霧散させるようにノック音が響いた。反射的に「どうぞ」とアスナは返事をした。
「失礼します」
  サイナだ。二人分のティーセットを載せた台車を押して入ってくる。
「お茶をお持ち……どうなさったんですか、アスナ様」
「なに、気にするような事じゃない。ただの欲求不満だ」
「よっきゅ……」
  LDの言葉の意味するところを察したサイナは頬をうっすらと朱に染める。
「いやっ、違うから! ……ぐむっ」
  起きあがろうとしたアスナの頭をLDは強引に執務机に押し付ける。
「何も違わないだろう。サイナ嬢は聞いていないのか? 昨晩、アスナが夜這いされたことを」
「ちょっ、LD! 違うから。サイナさん、違うから!」
  アスナの抗議を無視してサイナの目が細められる。纏う空気は戦場にある時のそれに近い。
「軍師様。何処の、誰が、そのような不埒なことをしたのかご存知でしょうか?」
「もちろんだ。昨日からストラト殿に預けられているミナという執事見習いだ」
「ありがとうございます。それでは所用を思い出したので失礼します」
  台車をそのままに慇懃な姿勢で一礼すると彼女は踵を返した。
「ちょっと、サイナさん、待った待った!」
  押さえ付けられていたLDの手を振り払う。
「……なんでしょう?」
  剣呑な色を多分に含まれた返事にアスナの腰が幾らか退けた。
「えっと、危ないことは控えて欲しいんだけど」
「不埒者一人、切り捨てることに危険はありません。ご安心下さい。事後処理にアスナ様のお手を煩わせることはしません。それでは」
「だから、それが危ないことなんだって! それに我慢したんだ。未遂だったんだから穏便にいこうよ」
  不審げにアスナを見つめるサイナの視線がLDに移った。彼女が何を聞きたいのか察した彼は大きく頷いた。
「本当だ。むしろアスナを誉めてやった方が良いぐらいだ。エディアの香と魅了魔法を使われても我慢したんだからな。まぁ、魅了魔法に関してはアスナには通じないがな」
  アスナには常時、ヴァイアスが防御魔法をかけている。アスナを害するあらゆるものを防いでしまうのだ。さすがに匂いなどの類を防ぐことは出来ないが。
「それにだ。アスナが何と言って押し留まったか教えておこう」
「LD!!」
  赤面して声を荒げるアスナを無視して、LDは人の悪い笑みを浮かべて言い放った。
「好きじゃない女の子とはしたくないから、と。無節操で優柔不断でタンポポなヤツだけど、だから、一つでも良いから筋を通したいんだ。せめて、どんな人の前でもスゴイ好きだからしたんだって胸を張りたいんだよ。他の人に受け入れられるかどうかなんか関係ない。オレがそうするんだって決めたんだ。だそうだ。全くバカと言うか、自分に正直というか。私も何度か人の惚気話を聞いたことがあるが、ここまで脱力させられる惚気方は初めてだぞ」
「な、なんでそんなことまで知ってるんだよ」
  アスナの恨みがましい目で睨むが、赤い果実のような顔をしていては迫力など皆無だ。
「関係者から聞いたに決まっている。雇い主の寝室を覗き見する趣味はないからな」
  クククッと小さく笑いを噛み殺すと、
「さて、私はここらでお暇しよう。朝議でもそうだったが、そんな調子で講義をしても身に付かないだろう」
「う゛っ」
  確かに上の空だった。正確には隣席のエルトナージュのことが気になってしょうがなかった。まともな受け答えが出来たのは副王就任に関する事柄だけだった。
「このまま無理に講義を始めればアスナに襲われないとも限らんしな」
「そんなことするか! LD襲うよりもサイナさんを抱き締めた方が嬉しいに決まってるだろ! ……!?」
  勢いに任せて口走ったことにアスナは全身で冷や汗を浮かべた。
「ち、違うから! や、違わないけど、えっと、えっと、だからその……」
  アスナだけではなくサイナも顔を真っ赤にして固まっている。腰の辺りで組んだ指が慌ただしく動いている。
「クククッ。無理は身体に毒だ。秘書室には課題を出しているから緊急の用がない限りは入室を禁じておこう。あぁ、それともう一つ。この執務室には遮音の魔法がかかっているから多少、声を上げても隣室には聞こえないから安心して、サイナ嬢に優しくして貰え」
「だ、だから違うって。LD!」
  抗議の声はあっさりとLDは無視をされる。ごゆっくりと、背を向けるLDにサイナが制止させた。
「お待ち下さい、軍師様。私は……」
  赤面し、どうしようもなく狼狽えているサイナがいる。LDにからかわれたことに一言文句を言いたいという風ではない。彼女が何を言いたいのかLDはおおよそ読みとった。
「年長者として助言出来ることは一つだけ。好きにすれば良い」
「ですが、私がアスナ様のお側に侍るわけにはいきません。アスナ様は魔王となられる方です。私などがこれ以上親しくするわけには……」
「そんなことない。オレはサイナさんに」
「君は黙っていろ。男女の事は相手が同意して初めて成立するものだ。君が良くてもサイナ嬢が身を退きたいというのならどうしようもないだろう」
「それは、そうかもしれないけど。だけど!」
  LDはアスナの側まで歩み寄ると再び彼の頭を机の上に押し付けて黙らせた。
「いだっ!?」
「黙っていろと言っただろう。良いか、サイナ嬢。もう一度、言っておこう。君の好きにすれば良い。助言をしたところでどうするか決めるのは君自身だ。だが、もう答えは出ているんじゃないのか?」
「――えっ」
「本気だったかどうかは私には分からないが、先ほどミナ嬢を切り捨てに行こうとしただろう。身を退こうと考えている者がとる行動じゃない」
「それは、近衛の一人として、それにアスナ様に剣を捧げた臣としてです」
「なるほど。では、問題の解決方法は単純にして明快だ。即刻、近衛を辞し、アスナに捧げた剣を捨てて貰え。後はアスナの前から姿を消せば何も問題はない」
「……それは」
  机に押し付けられたアスナがLDの手を押しのけようとするが、意味を為さない。ただ、モゴモゴと情けない声を漏らすのみだ。
「軍師としての立場から言えば、君たちの中途半端な立ち位置は非常に困る。内乱を鎮定し、それなりの地位を手にしたとは言え、盤石ではない。副王就任の要請もそうだ。あれはラインボルトを取り巻く状況が後押しした結果だ。その状態で君たちが仲違いすれば、固まり始めた地盤が簡単に揺らいでしまう」
「そのようなことはありません。近衛騎団の一団員如きがそのような大それたことにはなりえません」
「間違いなくなる。サイナ嬢が、ではないぞ。しくじるのはアスナだ。過去何人か色恋に気を取られすぎて身を滅ぼした者がいる」
  いいか、と前置きをしてLDはさらに続けようとするが、
「ああぁぁっ、もう!」
  渾身の力を振り絞ってアスナはLDの腕を押し返した。
「もう一人の当事者を放ったらかしにして話を進めるな。サイナさん」
「……はい」
「オレはサイナさんが好きなんだ。エルのこと可愛いと思うし、気になってもいるけど、それでもサイナさんのことは誰にも渡したくないぐらい好きなんだ。そういうの無節操で不義理だって嫌になるぐらい分かってるけど、そんなことどうでも良いぐらいに好きなんだ」
「……アスナ様」
  アスナの自分勝手なまでの告白に目を丸くするサイナ。対してLDは盛大にため息を漏らした。
「何で君はそこまで場を引っかき回すのが好きなんだ。全く、気勢が削がれた。済まない、サイナ嬢。選択肢云々について訂正させてくれ。仮に君が姿を消したら、この愚か者は草の根分けて君を捜し出そうとするだろう。君がアスナに恋心を抱く限り、始めから選択肢などなかったみたいだ」
  もう一度、彼の口からため息が漏れる。
「私も軍師をやって長いが痴話喧嘩に巻き込まれるのは初めての経験だ。後は君たちで話をして決着を付けろ。それからもう一つ。サイナ嬢はこういったことを相談できる友人を作れ。私に軍師は出来ても恋の相談役は出来ないと痛感したよ。ではな」
  そう言い残してLDは執務室を出ていった。その背中はとても疲れたように見えた。
  執務室に残った二人はお互いに赤面をしながらも、全く異なる表情を浮かべていた。
  困惑と真剣、だ。
「オレ、サイナさんのことが本当に好きだから」
「本当に私なんか……」
「なんかじゃない。オレはサイナさんが良いんだ。臣下だからとかそんなの関係なく一人の女の子として一緒にいて欲しい」
  飾り気も何もない言葉だ。いや、元々アスナは言葉を飾れるような性格ではない。それ故に口にした言葉は紛れもない本心だ。
「オレはサイナさんが欲しい」
  数分だったのか、数瞬だったのか分からない。ただ、幾らかの時間をかけてサイナは小さく、しかし確かに頷いたのだった。
「私をアスナ様に差し上げます」
  アスナは破願するとホンの少しだけ背伸びをして彼女の唇に触れたのだった。

 後継者ともなると夕食の場ですら政治的な活用がされる。賓客を招いての所謂、晩餐会だ。表立って交渉しにくい事や人脈を作るために行われているそれにアスナもめんどくさくとも出席をしていた。諸処の段取りを組んだ訳ではないが、彼が出席する晩餐会は全てアスナが主催者ということになっている。
 本日の列席者は名家院の議員たちだ。
  彼らの主な目的は自分たちの顔をアスナに売ることと、議会の再開を促すことだとはエルトナージュとLDの言だ。
  列席するラインボルトの重鎮たちを前にしてアスナは上座より乾杯の音頭をとる。
  手にしているのは炭酸で薄められた弱い果実酒だ。場の礼儀として乾杯だけは酒精入りだ。二杯目以降はお茶となっている。
「本日は私の招きに応じて頂き嬉しく思っています。皆さんとの出会えたことに感謝を。乾杯!」
  酒精の味よりも果実の香りが強いそれは飲み口が良い。橙色の液体が見た目にも奇麗だ。
  それを三分の一ほど飲むとアスナは着席をした。だが、議員たちは立ったままだ。
  ……何か作法を間違えたっけ?
「副王にご就任なさると伺いました。おめでとうございます」
『おめでとうございます』
  名家院議員ウォレスの言葉に従い、議員たちが祝辞と共に叩頭する。
「ありがとうございます」
  と、アスナは会釈を返しながら苦笑する。
  ……午前中にあった朝議の事がもう知れ渡ってるんだ。耳が早い。
  皆さん、おかけ下さいと促し、アスナは背後に控えるストラトに料理を運んでくるように命じる。
  ……さてと、へまをしないようにしないとな。
  この場にいる議員たちの纏め役らしいウォレスと言葉を交わしながらアスナは人知れず気合いを入れた。これまで呼んだ客たちのように愛想笑いをしながら話をすれば良いというものではないからだ。
  彼らは確たる力を持つ議員たちだ。ここでアスナが変な事を言えばそれを言質にとられてしまうかもしれない。
  ……今日も料理を楽しむことは出来ないのか。
  テーブルに出されるテレビでしか見たことがない豪華な料理を前にして、アスナは心の中で嘆息を漏らした。
  変な話かも知れないが、普段のアスナの食事は一般のそれとさして変わりがない。もちろん、食材は厳選され、腕のいい庖丁人が調理しているのだから非常に美味だ。
  が、献立そのものは非常に一般的だ。アスナにも作れる物ばかり。
  今のような豪華な食事が出るということは後継者として見栄を張らなければ時なのだ。そのため、アスナにとっては嬉しくもなんともなかった。
「こちらはブオーレより選出されたフェニラ議員です」
「ルコラ・フェニラと申します。ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます」
「こちらこそ。お会いできて嬉しいです、フェニラ議員。前に料理長から聞いたんですがブオーレにはクノスという果物があるそうですね」
「はい、殿下。今年は大きく実を育てていると聞いています。収穫されましたら是非ともご賞味いただけると光栄です」
「えぇ、楽しみにしています」
  といった具合にウォレスの紹介でアスナは議員一人一人に挨拶をしていった。本日の列席者の数は三十六名。彼らの大まかな経歴と出身地のことはこの二日で徹底的に頭の中に叩き込んでいる。誰だって初対面の相手が、それも後継者が自分の出身地のことを知っていたら嬉しいに決まっている。彼らに好印象を持たせるための第一歩だとしてLDに覚えるように言われたのだ。
  ……これって絶対に暗記のテストだよなぁ。
  と、内心で苦笑する。だが、自分の受け答えで議員たちが嬉しそうな顔をするのは悪い気はしない。ただ、時折自分たちの地元の問題を陳情されて、困ったことにもなったがエルトナージュから教えられた通り、「よく相談した上で事に当たろうと思います」の一言で誤魔化した。そして、残り二人となった時、問題が起きた。
「残る二人は一緒に紹介させていただいて構わないでしょうか?」
「どうぞ」
「アシンより選出のフェイナ議員とワルタより選出のクノス議員です」
  紹介された順番に二人は挨拶をした。だが、その彼らの挨拶がアスナの耳には届いていなかった。彼らは今日の晩餐会の出席者ではなかったからだ。
  当初、予定されていた二人が所用により出席できなくなったので代わりにという話だったことを覚えている。だが、土壇場での変更だったため彼らに関する情報は全く頭に入っていなかった。
  ……これは拙いかもしれない。
  と、笑顔を幾らか引きつらせながら思った。
「本日は突然の出席をお許し下さり、光栄に存じます」
  と、フェイナ議員は切り出した。アスナは鷹揚に頷くのみ。
「本来ならば副王就任が決定されたことのお祝いを申し上げたいのですが」
  声音でフェイナが緊張しているのがすぐに分かった。彼の後ろに続くクノスもよく観察してみると同じように表情を強張らせている。
  後継者を前にしての緊張とは違う。戦闘開始を命じられた兵たちのような表情だ。
  何かこちらが困るような話題を持ってきたのだろう。アスナはちらりとウォレスを見た。彼は素知らぬ顔でフェイナの言葉を聞いている。他の議員たちもそうだ。
  議員たちの纏め役である彼が何も口を挟まないということは事前に彼はこれから話されることを知っているのだろう。知らないのはアスナ一人だけなのかもしれない。
「私の故郷、アシンは内乱中の混乱に乗じて侵攻してきたエイリア軍によって荒らされ……」
  フェイナの視線がクノスに移る。
「ワルタは現在もロゼフに制圧されております。殿下、どうか故郷をお救い下さい!」
「そして、我が故郷の者たちの仇を!」



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