第二章

第四話 各国の動向


 晩餐会を終え、エルトナージュに言われたとおり議員一人一人に別れの言葉を伝えて見送ると即座にアスナは表情を険しくした。
「ストラトさん。エルと諸大臣を呼んで。あぁ、LDもついでに」
「承知いたしました。場所はこちらでよろしいでしょうか?」
「うん、よろしく。……あぁ、そうだ。あんまり大事にしないように」
  ストラトは恭しく一礼すると足早に退室した。
  食堂に残ったアスナは温くなったお茶を口にしながら、誰もいなくなった食堂を睨んだ。
「あんな話、聞いてない」
  アシンという地域が内乱の混乱に乗じて侵攻してきたエイリア軍によって荒らされたこと、ワルタという地域が今現在もロゼフに制圧されていることを聞かされていなかったからだ。
  確かに自分は役立たずに違いない。だが、ラインボルトの後継者なのだ。
  知る権利がある。これだけ重要な案件ならば尚更だ。
  そして、何より許せないのがこんなことが起きていたのに、自分は完全勝利していたつもりになっていたことだ。内乱中にこのことを知っていたのなら何か出来ていたかも知れない。両方を救うことが出来なくとも、どちらか片方だけでも。
「何事ですか」
  一番最初に姿を現したのはエルトナージュだった。アスナは彼女に一度、睨み付けると視線を正面に戻した。
「みんなが集まってから話をする」
「……そうですか」
  訝しげな表情を浮かべて、彼女は何時も通りアスナの隣席に腰掛けた。背後に控えていた執事がエルトナージュの前にお茶を出す。
  彼女は小さく礼を述べると一口飲む。小さく吐息を漏らす。
  広い食堂の中で二人は無言で腰掛ける。固い沈黙が場に満たされる。
  諸大臣が姿を見せ始めたのは三十分ほどしてからのことだった。彼らは皆、この時間まで仕事をしていたのだ。そして、最後に姿を現したのはLDだった。
  彼は席には着かずにアスナの右後ろに立った。
「全員揃いました。この召集の理由を聞かせて下さい」
  アスナは大きく頷いた。前置きなしに切り出した。
「アシンとワルタのことを聞かせて欲しい」
「どこで、そのことを?」
  エルトナージュが一瞬だけ息を呑んだように感じた。言葉が幾分、固い。アスナは彼女に顔を向けようともしない。ただ正面だけを向いている。
「今日、晩餐会に出席していた議員から聞いた。その地域の選出だって。どうにかして欲しいって言われたんだ。だけど、オレはそのことを全然知らなかったから何も答えられなかった。そのことで恥をかいたとかそんなこと考えてるんじゃない。こんなに重大なことを何でオレに話さなかったのか聞きたい」
  バンッと掌を卓に叩き付けるとアスナは立ち上がった。そして、エルトナージュを睨む。
「聞いたらこのことがあったのは内乱中だったって言うじゃないか! それなのにこれまで何もしていなかったってことは……」
「そうですよ。私たちは彼らを見捨てたんです」
  エルトナージュの言葉が冷徹の色を帯びて繋げられる。
「なんでっ! 何かやりようがあったんじゃないのか。オレたちはフォルキス将軍たちに勝てたんだ。だったら、何かもっと……!?」
  不意に激痛とともに鈍い音が食堂に響いた。諸大臣たちの何人か驚きで立ち上がっている。アスナの隣席のエルトナージュは目を丸くしている。
  その中で一人、瞳に冷たい熱を帯びさせたLDのみがアスナを見下ろしていた。右手には固く握られた拳があった。
「アスナ、今の君の言葉を世間で何というのか教えてやろう。それは増長というものだ」
  思いっきり脳天に拳骨を貰ったアスナは卓に額を強打し、頭を抱えて悶絶している。その彼の状況を無視してLDはアスナを掴み上げた。
「一つ聞こう。革命軍(私たち)はそんなに弱かったか? 片手間に相手が出来るほど弱かったのか? 君の胸に小剣を突き立てられる状況を作ったのは誰だ? 君に剣を振り下ろしたのは誰だ? 君を震い上がらせた戦いの声を上げたのは誰だ? いや、それ以前に君の剣と盾は全力で戦ってはいなかったのか?」
「…………」
「もう一度、尋ねるぞ。革命軍(私たち)は片手間に相手が出来るほどに弱かったのか?」
「…………」
  掴み上げられたアスナの唇が小さく動く。
「聞こえないぞ。はっきりと言え。声に出したとしても相手に届かなければ、それはただの独り言だ」
「強かったよ! 二度と相手をしたくないぐらいに。自分でもよく勝てたなって思ってる」
「そうだ。お互いに全力を尽くさねばならず、余計なことに力を割くことなど出来るはずがない。だからこそ、ゲームニス殿に”彷徨う者”の処理を頼んだのだろう?」
  そして、そっとLDはアスナを床の上に下ろす。
「それにだ、アスナ。予めこの事を知っていた姫君の心中を察してやれ。革命軍と相対するためにアシンとワルタを見捨てざるを得なかったことにな」
「……ゴメン」
  アスナはエルトナージュと向き合うと頭を下げて謝った。
「アシンとワルタを見捨てたことは事実ですから」
「うん。だけど、一人で抱え込まないで言って欲しかった。何の力にもなれないだろうけど」
「…………」
  エルトナージュはぷいとアスナから視線を逸らした。
「さて、場を乱してしまって申し訳ない。事が露見してしまった以上、後継者に事のあらましを話しておいた方が無難だと思うが」
「って、LDも知ってたの!」
「当たり前だ。これだけ重要な案件について耳に入らないはずがないだろう」
  そこまで言うとLDはエルトナージュに視線で報告を始めるように促した。
  彼女は小さく吐息をすると改めてアスナと向き合った。
「貴方にこの件について知らせないように指示したのは私です。内乱中に知らせなかったのはLDが言ったとおりです。そして、今まで話さなかったのは何も準備が整っていなかったからです。あまりこういう表現を使いたくはありませんが、先の内乱はただの内輪もめです。自由に軍を動かすことも出来ましたが、現在直面している状況はそうではありません。国家が相手になるわけです。鎖国をしていない以上、近隣もしくは遠方の国と条約などを締結して関係を持っているわけです。それらを無視して事に当たれば非難を受けるかもしれません。もし、内乱終結と同時に事のあらましを話せば貴方は間違いなく軍を動かそうとしたでしょう?」
「……そうかもしれない」
「そうやって貴方が号令をかければ軍は動いたはずです。そうなれば間違いなく必要以上に大きな国際問題に発展していました。それはラインボルトにとって好ましくない事態です。理解しましたか?」
「あぁ、うん。何となく」
  と一度頷いて自分なりに咀嚼してからアスナは再び口を開いた。
「つまり、内乱中にそんなこと聞かされたらオレがどうして良いのか分からなくなってしっちゃかめっちゃかになるのを防ぐためで、内乱が終わった後は勝った勢いでオレと軍が暴走しないようにするためってことか」
「有り体に言えばそうですね」
  柔らかくもなんともない率直な言葉にアスナは再び卓に突っ伏した。
「……凄い格好悪い。みんなやることちゃんとやってるのに、オレだけ大騒ぎして怒鳴って」
「自己嫌悪するのなら後で一人になった時にして下さい」
  そう言って一瞥くれる。この態度は言葉そのままの叱責なのか、それとも分かりにくい気遣いなのだろうか。アスナは何となく後者だと思うことにした。
「外務卿、ことのあらましをお願いします」
  指名された外務大臣ユーリアスはアスナとエルトナージュに一礼すると説明を開始した。
「まずは現在も占領が続いているワルタについてからご説明いたします」
  ワルタという地域はラインボルト北東部に位置する。この地域には幾つもの鉱山があり、そこから産出する金属が北東部地域の需要の大半を満たしているという。
  この地域は元々ロゼフが領有している地域だったが、拡大王ルーディスの手によってラインボルトに併合された。ロゼフはこの旧領を奪還するために兵を挙げたというのだ。
「はぁ!? 拡大王って確か……えっと」
「第五十一代魔王です。ちなみに今から五百年ほど前になります」
「そんな大昔のこと持ち出されても……」
「人族と違って幻想界の者は程度に違いはありますが総じて長命です。それでも五百年は遠い過去ですが、人族の感覚ほどではありません」
  と、注釈を加えるエルトナージュ。彼女の言葉を聞いてアスナはふと思った。
  現生界と幻想界は元は同じでも時間の流れが異なるのかもしれない、と。
「外務卿、続けて下さい」
「はい。彼らは自分たちの土地を取り戻すためと我らがラインボルトに侵攻して参りましたが、この主張は始めから破綻しています。領土の割譲や賠償金の支払いなどは全て終戦後に締結される条約に記されたことです。当時、締結された条約文の中に間違いなくワルタをラインボルトに割譲すると記されております」
  条約などと小難しい表現ではあるが、実際の所は保証書なのだ。
  敗戦国に対する要求や条約発効後に両軍が退くことなど多くのことが書かれている。
  ユーリアスの言葉を簡単に表すと条約文の中にワルタをラインボルトに差し上げますと書かれていると考えて貰えれば十分だ。
「大義名分が間違いなくこっちにあるんだったらすぐに追っ払えば良いんじゃないの?」
  アスナの問いにユーリアスは首を振る。
「そういう訳にはいきません。ラインボルト軍の力をもってすれば追い払うことも難しくはないでしょう。ですが、その先は如何なさいますか?」
「先って、追い払ったんだからそこで終わりにならないのかな」
「なりません。ロゼフは総動員令が発布され、予備役兵の召集と訓練が始まっています。戦争が長期化することが予想されます。対して我が国はそれに付き合う余裕がありません」
「そっか。金がないんだっけ」
「それだけではありません。新たな脅威が芽吹く可能性が十二分にあります」
  ラディウスだ。ラインボルトを併呑することがラディウスの至上命題なのだから、この機会を見逃すはずがない。だが、脅威がラディウスだけではないとユーリアスは言う。
「ラディウスに限らず、周辺諸国は皆、脅威となる可能性があります。アクトゥスを除く三大国は虎視眈々とラインボルトを狙っています」
  周辺諸国から見れば内乱による疲弊と魔王不在という条件を備えたラインボルトは好餌そのものだ。
「あれ、けどサベージってラインボルトと仲が良いんじゃなかったっけ?」
  内乱中にそう教えられていたのだ。
「ラインボルトと良好な関係を持っているのは賢狼族だけです。国家としてのサベージを見るのならやはり脅威には違いありません」
  獣王の国サベージ。その名が示すとおり獣人たちによって成り立つ国だ。
  サベージ国内は賢狼族、聖虎族、天鷹族の三つの大きな勢力に分けられ、獣王の地位はこれら三種族の中で最も強い者が受け継ぐことになっている。
  賢狼族とは長く友誼を交わす仲だが、他の二勢力は違う。この両者が結託してラインボルト侵攻を決すれば、賢狼族も否とは言えないだろう。
「ですが、アクトゥスが脅威とならないのは不幸中の幸いです。あの国は現在、リーズとの関係が険悪化していますので、我が国に手を出す余裕はありません。むしろ、交渉次第ではこちらに協力してくれる可能性すらあります」
  そして、リーズは様子見なのだそうだ。ラインボルト、アクトゥスのどちらか隙を見せた方に対して何かしら動きを見せるのではないかと外務省は見ているそうだ。
「現在、関係各国の外交担当者と不介入の取り付け交渉を行っています。そして、ある程度交渉が纏まったとき殿下の名をもって正使を送ります」
「あっ、そのための副王か」
「そうです。そういった周囲の環境が整ったのを見計らった後でロゼフ軍を叩き出します」
  彼女は視線を軍務大臣に向ける。彼は促されるままに言葉を繋ぐ。
「すでに参謀本部は奪還作戦の立案を開始しております。近日中に上表出来るはずです」
「軍務卿。その奪還作戦の総司令官は誰になりそうか聞いているか?」
  突然、LDが口を挟んだ。軍務卿は話の腰を折られたことに不快な表情を隠さなかった。
  そういった事に素直な人物のようだ。
「まだ正式に内定してはいないが、第一軍のケルフィン将軍に任せられるのではないかと聞いている」
「なるほど。ケルフィン将軍か」
  大仰に頷いてみせる。銀の長い髪が揺れ、光を散らす。
「彼ならば大丈夫だろう。だが、彼にはエイリア派兵の方が向いていると判断する。ワルタにはむしろ旧革命軍の部隊を用いた方が良いと考える」
「無理を言わないで貰いたい。軍師殿、貴方もご存知だろう。軍の再編作業は後継者殿下に付き従った部隊を優先して行われている。今から再編作業を行うのは難だぞ」
  その他にも物資の問題や再訓練の問題もある。
「軍務卿が申される通りだ。しかし、政治的にはその方が有効だ」
  周囲を見回し、最後に言い聞かせるようにLDはアスナを見た。
「良いか。皆が知っての通り後継者は罪のある者は裁判によって罰したが、それ以外の将兵は全て許しを与え、帰順を許した。だが、依然として旧革命軍に属した部隊と後継者に付き従った者たちの間に無言の軋轢があるのもまた事実」
  LDは振り返り列席する諸大臣に視線を投げかける。
「現在の状況、そして今後の国家運営のことを考えるのならば軍内部に無用の軋轢が残っているのは好ましくない。彼らをワルタに向け、出陣させることで彼らに新体制、つまり後継者に付き従う立場にあることを自覚させることが出来る。何より、不要な負い目を払拭させることが重要だ」
  軍務卿は腕を組み、唸った。
「お説ごもっとも。私の耳にもそのことを原因とした乱闘騒ぎが起きていることは届いている。だが、再編作業が終わっていないこともまた事実だ。そして、もう一点。私はあくまでも軍務大臣だ。作戦立案にも、軍指揮にも携わる権限はない」
「だが、人事権はお持ちだ。明々後日には私の方で旧革命軍側の再編成案をお届け出来る。もちろん、先に貴公らが行った人事に重なるようなことはしていない」
「越権行為ではなのか?」
「私は後継者の軍師という立場だ。彼の利益になることを行うのが私の存在理由だ」
  二人は一瞬、睨み合うとアスナに視線を投げて寄越した。
  ……面倒事ばっかり、こっちに寄越すよなぁ。
  と、思いながらアスナは嘆息をする。結局の所、アスナの立ち位置は自分で何かするのではなく、出来る者に権威と権限を与えることなのだ。
「LDの再編成案が出来たら、後でじっくりと話をして決めてくれ。……けど、さっきLDが言ったことは悪いことじゃないと思う。内乱はもう終わったんだから、旧革命軍にいたからとか、オレの側にいたからどうだとか関係なくしてもらった方がありがたいかな」
  自分だけでは箔が付きにくいだろうなと思い、「エルはどう思う?」と彼女にも振ってみる。
「それで構わないかと。ただ、一つ苦言があります。LD。今後はこのような場ではなく、正式な手続きを経てから話して下さい」
「留意しておこう」
  LDはエルトナージュと軍務卿に会釈をする。
「話戻して、さっきのケルフィン将軍がエイリア向きだって話はなんなんだ?」
  と、アスナ。彼のケルフィンに対する位置付けは部下の独断を許した将軍ということになっている。後は付け髭。この二つだ。もちろん、口に出して言わないが。
「その説明をするためにはまず、ラインボルトとエイリアの位置関係を知らなければならない」
  と、LDは予め用意していた紙に地図を書いてみせる。
  コンド山脈はラインボルトとエイリアを分断しているだけではなく、ラディウスとの間も分断している。
「見ての通り、エイリアとラインボルトは国境を接していない。正確には両国の間にコンド山脈という峻険な山々が横たわっている。そこを行軍することは不可能だ。兵員の移動が困難なことはもちろんだが、一番の問題は兵站を維持できないことだ」
「なんか地図で見るのならば一種の長大な壁みたいだな」
「そう。この壁があるために両国は必要以上に軍事的な緊張を持つことはなかった。その話は先に置くとして、ここにアジタという小国がある」
  新たに描かれたのはラインボルトはもちろん、エイリアと比べても圧倒的に小さな国だ。
  それが両国の間に挟まっている。その小国と接している地域が、
「アシン。……って、攻めてきたのはエイリアだろう。それっておかしくないか?」
  コンド山脈が壁として機能しているのであれば、エイリア軍も攻めてくることは出来ない。そして、荒らされたのはアシンなのだ。
「通行許可を出したようなのです」
  ため息混じりにエルトナージュはそう補足した。
「つまり、幾らかの代金を受け取ってエイリア軍の通行を許したということです」
「彼らの立場からすればこれ以外にない選択だったでしょうね。彼の国は我が国と良好な関係を築いていましたが、我が国を庇い立てするほどの義理もない。仮にエイリアからの通行許可の要請を断ったとすれば、叩きつぶされるのがオチです」
  と、ユーリアスは言う。
「エイリア軍が撤退し、内乱も終結したのを見計らいアジタから外務省(私ども)宛に密使が来ています。謝罪する用意がある、とのことです」
「自分とこを荒らされたくないからエイリアの素通りを許したけど、ラインボルトと仲違いするのも拙いから速攻で詫びを入れてきたって事か。節操なしここに極まれり、だな」
  むぅと唸りながらアスナは椅子の背に身体を預けた。
「個人ではそうかもしれませんが、国家間であればそう珍しいことではありません。むしろ、頭を下げるぐらいで問題が解消されるのなら安いものですよ」
  と、うっすらとした苦笑を浮かべながらユーリアスはアスナを窘める。
「頭下げて、金を出しても相手が謝罪を受け取らなかったら、無意味なんだけどね」
「殿下?」
  アスナの呟きにユーリアスは眉を顰めた。
「なんでもない。それで、アジタからの詫びは受け入れるつもりなの?」
「その方が無難かと。むしろ、エイリアとの交渉を手伝わせた方が得です。軍師殿、失礼」
  LDから書きかけの地図を受け取ると彼女はエイリアを取り囲むように三つの国を描いた。次いでエイリア南部のラディウスとの国境線を描く。
「この斜線の部分は?」
「三年前、エイリアがラディウスに割譲した地域です」
  今から五年前に勃発したエイリア・ラディウス間での戦争の結果、ラディウスが手に入れた領土のことだ。
  当時、ラインボルトはラディウスのこの動きに対し、非難声明を出したものの当初は軍事的、経済的な圧力を加えることはなかった。
  平和主義者であった先王は対話によって事を収める方針を決し、リーズ、アクトゥス、サベージの三ヶ国もラインボルトと同じく非難声明を出すように要請するが、対応は三ヶ国の対応は冷淡なものであった。
  リーズはラインボルトに対する牽制役として見なしているラディウスが国力を増強することは望ましいと考えラインボルトからの要請を黙殺。
  アクトゥスはこの件を静観することで、ラディウスとの関税問題に決着を付けようとしていた。
  そして、サベージは現獣王が親ラディウス派である聖虎族という点から戦争の早期終結を望む声明を出す程度に止められた。
  この大国の動きに脅えたのはエイリアと国境を接する三ヶ国だ。仮にエイリアが完全にラディウスの手に落ちたとすれば、今度は自分たちが脅威に晒される。
  彼らは自分たちの庇護者としてラインボルトを選んだ。
  交渉の結果、ラインボルトを盟主とした同盟が締結される。同盟の柱は相互不可侵と安全保障だ。つまり、余所からちょっかい出されたら助け合いましょうという条約だ。
  だが、この同盟はエイリアのラインボルト進軍の際に何の役にも立たなかった。盟主であるラインボルトが内乱の真っ直中にある上にラインボルトに進軍するエイリア軍に手を出せば、強硬手段に出ることもあり得るとラディウスから圧力をかけられていたからだ。
  正式に同盟の解消はされていないが、有名無実化していた。
  ユーリアスの説明を聞きながら、アスナは深いため息を漏らした。
  ……ホント、色んな意味でラインボルトって大国なんだなぁ。自分のせいで幻想界が混乱したって言ったエルの気持ちがなんとなく分かるな。
  ちらりと隣席のエルトナージュを見遣る。常の怜悧な横顔がある。
  そこに情動など感じられず、淡々と事を処理しようとする姿勢のみが見受けられた。
  ……だけど、あの時、泣きそうになりながらオレに掴みかかってきたんだよな。
  本当は泣きたくなるほどの責務を抱え、だが周囲の状況はそんな彼女に容赦がない。
  好意的な目で見られていないと分かっていても彼女を放っておきたくなかった。
  出来てることは殆どなくても、エルトナージュの手助けをするためにアスナはここにいるのだ。誰かに言われるまでもなく、アスナの意志で。
「そして、エイリアが動いた理由がここにあります。つまりラディウスからの圧力にあると見て待ちがないでしょう。この地域には現在も六万ほどの軍勢が駐留を続けています」
  数字に間違いがないですね?、と投げ掛けられた彼女の視線に軍務卿は間違っていないとばかりに頷きで表す。
「割譲された地域の統治体制が確立するまで軍に治安維持をさせるのは当然のことなのですが、ラディウスはそれと同時に軍事的な圧力を加えています。恐らくは圧力を軽減することを引き替えにエイリアを動かしたのではないかと推察します」
「証拠はあるの?」
「ありません。ですが、状況を鑑みるとラディウスがけしかけたとしか思えません。殿下もよくご存知のはずです」
  アスナとラディウスの間にある接点はただ一つ。
「ラメルのあれか」
「そうです。ラメルに侵攻してきたラディウス軍とエイリア軍とはほぼ同時期に動いています。また、最近入った情報ですが、エイリアと対峙していたラディウス軍の圧力が幾分、軽減したとのことです。ラインボルトとしてはそれだけ分かれば十分です」
「まったく、徹底的にこっちの邪魔する気なんだな、ラディウスって」
  アスナは椅子に預けた身体をずり落ちるように滑らせてる。
「だらしないですよ。アスナ殿」
「ゴメン」
  エルトナージュに窘められて、姿勢を正す。
「それでエイリアに対する対処はどうするつもり?」
「正直に申し上げまして、軍を動かす為の金銭的な余裕がありません」
  同意するように軍務卿、大蔵卿の二人が大きく頷く。
「ですが、何もしないわけにはいきません。アジタに有事の際には軍を通行させることを認めさせ、アシンにて軍に大規模な演習を行って貰います」
  軍事演習を行う為の予算は予め計上済みなので問題ありません、と軍務卿が付け加える。
「それが圧力になるって訳か」
「その通りです。しかし、それだけでは足りません。エイリア周辺の三ヶ国に呼びかけて討伐軍を挙げるように交渉の準備を始めています。ですが、交渉は難航しています」
  同盟の有名無実化が影響しているのだ。
「誰だって他人のケンカに口を挟みたくないよな。勝てる見込みがあるならまだしも」
  色々な条件が整わないうちにラインボルトが動けば、間違いなくエイリアを援護することを名目にラディウスが動くはずだ。そんな大戦争に巻き込まれても得る物は少ない。
  ましてやラインボルトは戦後処理と国家再建の途上にある。ラディウスとの全面戦争となった場合、ラインボルトに勝ち目はない。そんなラインボルトに手を貸せば自分たちの国が多大な損失を被ると考えているのだ。
「確証はありませんが、ワルタを占拠しているロゼフ軍を叩き出せば交渉は進展すると思われます。いえ、動かしてみせるとこの場で断言いたします」
  その言葉を区切りとしてユーリアスは話を締めた。
「うん、頼もしい。何にせよ、まずはロゼフをどうにかしないといけないってことか」
  そして、もう一度小さく頷く。アスナが立ち上がった。
「さっきはバカな真似をしてごめんなさい。これからもどうか、よろしくお願いします」
  そうして、深々と頭を下げたのだった。

 ラインボルト北東部に位置するワルタは多くの鉱山を有している。
  その麓には採取した鉱石の製錬や加工を行う工場が軒を連ねている。
  ワルタから産出する金属が北東部地域の需要の大半を満たしていると近隣の州から謳われることを示すように一大工業地域であった。
  昼間であれば逞しい鉱夫や工員たちが汗を流して働く姿が目に付く。だが、今は往来に人の姿は疎らだ。事情を知らぬ者が見れば、この都市は廃れてしまったのだと思うだろう。
  この都市だけではない。近隣の町村も似たようなものだった。
  外出禁止令。ワルタを制圧したロゼフによるこの命令が原因であった。
  ロゼフとはラインボルトの北東部に位置する国の名であり、現在ワルタを武力制圧している国のことだ。ラインボルトとサベージに挟まれる形で存在し、両国に対して鉱物や木材を輸出し、食料などを輸入することで成立している国だ。ロゼフの北には中規模の港湾都市もあり、海を挟んだ向こうにあるリーズとその衛星諸国とも取引を行っている。
「この都市を制圧したときの活気が嘘みたいですね。まるで廃墟の雰囲気だ」
「そうだな。息が詰まるような静かさってこういうのを言うんだろうな」
  短躯に髭面の男二人が歩調を合わせながら往来を歩いていた。手には槍を持ち、急所のみ金属で覆われた革鎧で堅太りの身体を守っている。
  彼らはロゼフ軍の歩哨。つまり、不届き者がいないか見回りをしているのだ。
「ブーチさん。俺なんか今、凄い不思議な気分なんですよ」
「ん? あぁ、そうだな。街全体が息を潜めている中を歩くなんてそう出来ることじゃないからな」
  ブーチと呼ばれた左を歩く年かさの男は相づちをうった。
「それもあるんですけど、うちの曾祖母さんがガキの頃、ここに住んでたらしいんですよ。その時からこの街って凄い活気づいてて、空を見上げたら白い蒸気とか黒い煙とかが見えたそうですよ。今、空見上げても煙なんか一つも見えなくて、バケモノでも出てきそうな場所になってるのが不思議なんすよ」
「ダズ。人前でそんな事は言わない方が良い。下手すれば流言の罪で処断されかねんぞ」
「そんな、俺は別に」
「話したお前に他意がなくても、聞いたヤツがどう思うか分からないだろう。そもそもこの出兵だって強引なもんだ。俺の知り合いにここと取り引きしてる商人がいるんだが、そいつと出兵前に呑んだときにこう言ってたよ。戦争やってここを奪い返すよりも、これまで通り商売やった方が得だって、な」
「ブーチさんの話の方がヤバイじゃないすか。反逆罪ですよ」
「お互い様だ。なっ、分かったな」
  と髭の下にある皺の彫りを深めてブーチはダズの背を思いっきり叩いた。
「っつぅ……。分かりました」
「よし。それじゃ、とっとと見回りをして飯食いに行くぞ」
「はい。けど、またあの堅いパンと味のないスープかと思うとやる気も起きませんね」
「なんだ。お前まだ聞いてなかったのか? 今日からまともな飯が食えるそうだぞ。肉付きだぞ、肉」
「本当ですか!」
「あぁ。こんなことで嘘吐いてどうする。兵站が整ったみたいだな」
  ロゼフ軍は当座に必要な分の物資のみを持って進軍を開始していた。ラインボルトは内乱中であるため、大規模な反撃や抵抗を受けないだろうと見越してのことだった。
  準備不足も甚だしい行動だが、エルトナージュが行った首都エグゼリスへの兵力集中策と相まってロゼフ軍はこの賭けに勝利した。
  都市制圧後、彼らは発行した軍票を用いて現地調達を行っていた。そして、一ヶ月余りが過ぎた今日、ようやく補給物資の第一陣が到着したというわけだ。
「俺も自分の目で見たわけじゃないがな、聞いた話だとエライ量の物資だそうだぞ。食い物だけじゃなくて、酒もあるそうだぞ」
「へぇ。そりゃ、凄い。今日辺り、ワルタ奪還記念で宴会でもやるのかな」
「さぁな。それはお偉いさん方の気持ち次第だな」
  久しぶりにパァ〜っと騒ぎたいな、などと暢気なことを言うダズに苦笑しつつも、ブーチは別のことも考えていた。
  ダズに話した通り自分で見た訳ではないが、補給物資を満載した馬車が長蛇の列を作っていたそうだ。一兵士として、物資不足に泣かなくて済むのはありがたいが、この物資の出所に疑問を覚えていた。
  簡便な地図で見ればロゼフは中堅国と呼ぶに相応しい国土を有している。だが、大小幾つもの山々に囲まれた国で、麦などを栽培できる広い平地を持っていない。
  必要な食料の多くは主要な産業である林業と鉱業から得た外貨で購入しているのだ。
  そういった国柄故に武具の類ならまだしも多くの食料を手に入れられたことが不思議であった。そういった物資の輸送に使った馬車はどこから来たのかという疑問もある。
  広い平地を持たないロゼフは馬の飼育にも向かないからだ。あの食料と馬はどこから来たのだろうか?
  考えても答えなどでる訳がなく、ブーチは浮かれすぎているダズを説教しながら歩哨任務を続けることにした。

 ロゼフより派遣されたワルタ解放軍司令官ディーズ将軍は自身の武威を示しているかのようなピンと立てられた髭を弄りながら対面に座る人物を睨んでいた。
「ウェップ殿。先日、お伝えした要請の通り都市長として我が軍の受け入れとワルタの祖国への帰還を歓迎する旨の声明を出して頂きたい」
  言うなれば降伏宣言だ。ロゼフ軍がワルタに進軍してから一ヶ月の間に周辺の市町村の制圧は終了し、その仕上げがこの降伏宣言という訳だ。
  ワルタ都市長ウェップはディーズの言葉を唸り声で受けた。返答に窮するという姿勢だろう。そのウェップを見ながらディーズは内心で嫌悪を覚えていた。
  ……岩のような頑強な身体を誇る我ら岩窟族の精神が汚されたような身体だな。
  ウェップの福々しい腹と頬を見ながらディーズは思った。
  ……ラインボルトなぞに留まった裏切りもの故か。
  拡大王ルーディスの手によってラインボルトの領土となったワルタには当時、多くの岩窟族が住んでいた。講和条約の発効の後、ワルタに居住する岩窟族には二つの選択肢が提示される。ロゼフの民として生きるか、ラインボルトの民として生きるかの選択だ。
  ラインボルト国民となっても、私有財産の没収も居住地の移動命令も出さないと決められていたため多くの岩窟族がワルタに残る選択をした。
  彼らは自分たちの生活を守るために祖国を捨てたのだ。それ故にロゼフ側に住む同族からは裏切り者という偏見をもたれるようになり、必然としてロゼフ国内で生きる岩窟族こそが至上であるとする種族主義が台頭するようになった。
  ディーズはその種族主義者だった。彼の思想をそのまま実現することが出来たのならば、岩窟族以外の種族は処刑、もしくは追放を言い渡し、ワルタに居住する岩窟族は本国へと強制送還し、正しい岩窟族としての教育を施そうとしていただろう。
  だが、本国からの命令はラインボルトとの交渉材料として住民たちを使うので傷つけるなというものだった。
  内心ではもっと強行な手段を行使して良いのではないかと考えるディーズには歯痒い思いであった。
「ウェップ殿。ご返答は如何に? 返答によっては好ましくない行動をとらねばならなくなりますぞ」
  ディーズの言葉に従うように背後の兵士たちは自身に殺意を纏う。
  彼が脅迫まがいの要請をしているのには訳がある。ラインボルトの逆襲を恐れているのだ。彼を含めロゼフ首脳陣は内乱が長期化するものと判断していたからだ。
  事実、後継者が出現するまで半年の時を過ぎており、革命軍と宰相派の全面衝突が起きるとの見方が有力だった。そうなればロゼフにとっても色々と有利である。
  国力を低下させたラインボルトにロゼフと戦争を行えるだけの余力はなく、交渉によってワルタを奪還することが可能であるとしていたのだ。
  だが、現実はそうではなかった。後継者出現から一ヶ月余りで革命軍は崩壊、積極的に帰順を許したこともあり、ラインボルト軍の損失はロゼフが考えていたよりも遙かに軽微なもので済んでしまった。
  今のところラインボルトに動きはないが、それは自分たちに向ける刃を研いでいると考える方が自然だ。残された時間はあまりない。
  早急に都市長であるウェップからワルタのロゼフ帰属を宣言させる必要があった。
  この宣言そのものは何ら法的に意味をなさない。だが、都市長の声明があれば周辺諸国からの支持を得やすくなる。ラインボルトの国力を低下させることを望む国々は積極的に支持をしてくれる可能性もある。
  内乱で国力を低下させたラインボルトは各国の説得に応じる可能性が出てくる。
  ……我が国の将来を握っているのがこの裏切り者というのが腹立たしい。
  唸り続けるウェップを睨み付ける眼光は鋭くなる一方だ。
「返答されよ!」
  と、思い切り拳を椅子の肘掛けに叩き付けた。精緻な彫刻が施された肘掛けにひびが走る。
「将軍。貴官らの申し出は誠にありがたいことだと思っております。ワルタに住む住民全ての権利は守られ、我々地方行政にある者も現状維持というのは破格の処遇でしょう。だが、ワルタに住む全住民を代表する立場である私には将軍の要請をお受けするわけにはいかない」
  都市長はこの彼の自宅に軟禁状態にある。外部からの情報が遮断された状態にある彼が内乱終結を知っているはずがない。いつまで時間を稼げば良いのか分からない以上、早急に帰属を決めて、ロゼフ本国の機嫌を取った方が得策だ。
  にも関わらずウェップは首を横に振ったのだ。
「理由をお聞かせ願おうか。本来ならば岩窟族以外の者を追放するところを現状維持とした我らの処遇に何の不満があるというのだ」
「先ほども申し上げた通り、貴官らの提案は有り難いものです。また、貴国の兵が粗暴な振る舞いをしていないことも感謝してもしきれません。ですが、我々が憂慮すべきは今ではなく未来なのです。ロゼフにおられる同族の方々が我らワルタの岩窟族を裏切り者と呼んでいることを知っています。同族である我らですら裏切り者扱いであるのならば、他の種族はどのような扱いになるのでしょう」
「確かに一部の者の間にはそのように君らを見る風潮は残ってはいる。だが、国王陛下の名の下で諸君らの権利は保障されているのだ。心配することは何もない」
  自身のことを棚に上げてディーズは返答する。だが、ウェップは頷かない。
「我々はそう思わない。ワルタがラインボルトに帰属して約五百年。それだけの時間が流れても裏切り者という汚名は消えなかった。もし、ここで我々がロゼフに帰属することを了承したとしましょう。そうすれば、今度は裏切り者に加えて節操なしとの誹りを受けてしまう」
  ウェップは乗り出すようにして言葉を続ける。
「私たちの世代のみがその不名誉を被るのであれば我慢もしましょう。しかし、この誹謗中傷は子や孫の世代、さらに後の世代まで続くでしょう。我々、ワルタに住む民はそれを受け入れることは出来ない。都市長としてこの意志を貫くことを宣言しましょう」
  ワルタという地域全てに槍の穂先を突き付けられているにも関わらず、断言しきったこの都市長にディーズは感嘆の念を覚えた。だが、それとは別の部分で憤慨もしていた。
  今にも剣を抜き放ちそうな怒気を全身に漲らせながらディーズは都市長を睨んだ。
  発言を撤回しないとばかりにウェップは視線を逸らさない。
  数秒間の睨み合いの末、先に息を吐いたのはディーズの方だった。
「よろしい。本日はこの辺りでお暇しましょう。ゆっくりと考えを改める時間も必要でしょうからな」
  そう言い残してディーズは部下を引き連れて退室した。
「切り捨てて、別の者を都市長に据えた方が早いのではないでしょうか?」
  背後に控えた副官の進言を即座に却下する。
「馬鹿者。そんなことをすれば我々が悪であると自ら宣伝するようなものだぞ。それにだ。ここで強硬な手段に出れば周辺諸国からの支持も得られない。忘れるな。まともにラインボルトとぶつかれば負けるのは我々だということをな」
「では、都市長の家族を交渉材料に使うというのはどうでしょう?」
「それも無理だな。あれは様々な物を覚悟した目だ。家族を交渉材料としたところで拒否されるだけだ。裏切り者とは言え、同族だ。無意味に同族の血を流すべきではない。それよりも正式な手続きでウェップを罷免した方が無難だ。市議会の議員共も捕らえているな? 議員たちはウェップほど肝は据わっていまい。交渉の余地は十分にある」
「はい。都市長の罷免には市議会議員の三分の二の賛成が必要です。交渉に時間を頂くことになりますが、よろしいでしょうか?」
「構わん。この際、重要なのはラインボルトの法によって選出された都市長が声明を出すことだ。分かっているな? 罷免の理由はワルタ住民を危険に晒し続ける都市長を容認し続けることは出来ないからだ。決して我々が圧力をかけたからではない。あくまでも彼らが自発的に行った結果だ」
「了解いたしました」
  副官は敬礼をすると駆けだしていった。
  都市長宅を辞するとすでに日は大きく西に傾いている。噂に聞くワルタの工場群が挙げる煙は見えない。
  濃い朱の空を見上げながらディーズは呟いた。
「差別問題か。それは本心ではあるまい」
  ウェップが真に恐れたのはワルタの衰退だろうとディーズは考えている。鉱物の精錬には高熱が必要になる。その高熱を発する魔導珠は全てラインボルト製だ。
  順調に事が進みワルタがロゼフに帰属した場合、ラインボルトからの魔導珠の供給は激減することになるだろう。そうなれば生産量は激減し、失業者が増大する。
  そして、失業者の増大は治安の悪化に繋がり、産業の再興の大きな妨げとなってしまう。
  魔導珠の供給をこれまで通りロゼフが行うと言えば、ウェップも態度を軟化させた可能性もあっただろう。だが、それは出来ない相談なのだ。
  ロゼフで生産される魔導珠は国内需要を満たす分しかない。輸入という手段もあるが、足下を見られて高値で売りつけられることは目に見えている。
  ワルタから上がる収益と魔導珠購入などの諸経費で相殺されることになるだろう。
  だが、ワルタを取り戻すことは無駄ではない。現在はロゼフ本国から産出する鉱物資源は豊富だが、枯渇する時が必ずくる。その時に備える上でもワルタは重要なのだ。
  ……商人風に言うならば、将来への投資だな。
  ワルタの同族を裏切り者と呼ぶ理由の根本にも経済が存在している。
  ラインボルトが有する資本、技術力、市場などを背景にして成長を続けるワルタはロゼフよりも遙かに豊かだ。祖国を捨てた者が自分たちよりも良い生活をしているのが許せないのだ。同族であるが故の鬱屈だった。
  ワルタがラインボルトに割譲されてから五百年余り。その間にワルタの同族を裏切り者と見る者は少数派になったとディーズは思う。
  拡大王ルーディス以来、ラインボルトと事を構えたことがなく、経済的な交流も深め中産階級以下は殆ど裏切り者と見てはいないだろう。
  そう見ているのは国家の指導を行っている者たちだ。
  ディーズ自身もワルタの同族を裏切り者と見る者の一人だが、然るべき教育を施せば再び同胞として迎え入れられると考えている穏健派に属している。だが、主流はワルタの同族を蔑視する者たちだ。ウェップの不安も決して杞憂ではないのだ。
「閣下。そろそろお時間です」
  第二副官に促され、ディーズは夕焼けの朱の中に踏み出した。
  数日後にはウェップの罷免とワルタのロゼフ帰属宣言を手にすることが出来るはずだとディーズは確信している。その後は本国の外交官の仕事になり、自分たちは交渉が妥結するまでこの地を死守するまでだ。
  身体に溜まった疲れを吐き出すように息をするとディーズは本国に対し、今日の決定を了承するよう求める手紙を認めるべく司令部に足を向けたのだった。

 ラインボルト南西部に存在するエイリアという名の国は歴史ある国家として知られている。豊かな実りを約束する豊潤なる農地を多く有し、そこから得られる農作物を背景にした軍事力によって最盛期には巨大な王国を形成していたほどだ。
  豊かさは怠惰と奢りを呼ぶ。国内での政争や地方貴族の台頭などにより、その国土を四つに分断された歴史を有している。
  ラインボルト、リーズ、アクトゥス、サベージ、ラディウスによる五大国体制が成立している現在では往時の国威を取り戻すことは叶わないだろう。
  しかし、エイリアの歴史が長いことに変わりない。芸術面では近隣諸国から憧れの目を向けられていた。エイリアの都市計画や建築技術の粋を集めて作られた首都は訪れる者全てが驚きの念を覚えるという。特に貴族たちが住む地域ともなれば、建ち並ぶ屋敷の壮麗さにため息ばかりが漏れるほどだ。
  その中で豪壮な屋敷は何処かと道行く人に尋ねれば十人中四、五人はエイリア国ヌベーヌ伯爵フェニーナの名を上げるだろう。だが、その壮麗なる屋敷の主は暗澹たる気分を押し隠しながら面前で言葉を連ねる正装の男の声を拝聴していた。
  彼は最上位の正装に身を包んでいる。面前の男を自ら正門前で出迎えたほどだ。
  それだけではない。面前の男の言葉を起立したまま聞いているのだ。伯爵であり、エイリアの重鎮でもある彼がこのような姿勢を示す相手はそうはいない。
「……よって、我がラインボルトは貴国の行動に対し遺憾の意を表します」
  そう、ラインボルトよりの使者なのだ。内容はエイリアがラインボルトに行った行為に対する抗議だ。正式な抗議文が書かれた書簡を使者の手から受け取る。
「承りました。貴国よりの言葉、間違いなく然るべき方にお伝えしましょう。長い道中でお疲れでありましょう。歓待の準備を整えております故、是非ともお受け頂きたい」
「伯爵閣下のお心遣い、お受け致したく存じます」
  と、ラインボルトからの使者は深々と辞儀をした。
「おおぉ、それはありがたい。私は四年ほどラインボルトにて修学した経験がありましてな」
「伺っております。修学院にて素晴らしい成績を残されたとか」
  修学院とは次代のラインボルトを担う人材を育成する学校のことだ。四年の間に必要な知識と技能を叩き込まれるのだ。卒業後、それぞれの分野についてさらに学びたいと思う者は各州に存在している大学、もしくはエグゼリスにある大学に進学することが出来る。
  ちなみに修学院の受験資格は特に定められておらず、諸外国からの子弟受け入れも行っている。人材の交流を積極的に行うことで修学院の質が低下しないようにすることもお題目の一つだが、国家として見るのならば若年の時代をラインボルトで過ごさせて、ラインボルト派を他国の中に作ろうという考えが主となる。
  フェニーナは若かりし頃に想いを馳せるように目を細めたが、それも僅かなことすぐに沈痛な表情を浮かべる。
「恩師と素晴らしき友人があればこそです。それ故、此度の両国間に起きた悲劇に心を痛めておりますれば、使者殿とは色々とお話を伺いたいと思っております」
  少しでも使者からラインボルトに関する情報を引き出したいという訳だ。フェニーナは確かに親ラインボルトの立場にあるが、第一はあくまでも祖国エイリアだ。
「実を申せば私は伯爵閣下と同じ学舎の出なのです。私も当時のことをお伺いしたく存じます」
「それは全くの奇遇ですな。色々と楽しい話を伺えそうだ」
  奇遇でも何でもない。ラインボルトはフェニーナの出身校がどこか知った上で彼を使者として送ってきたのだ。そこから読みとれることが一つある。
  ラインボルトはエイリアに対して強硬策を採るつもりがないということだ。
  予想通りか。この姿勢はこちらとしてもありがたい話だ。
  内乱終結後、すぐに他国と戦争を起こす余力はラインボルトにはないということだ。ラインボルトとの関係は冷え切ってしまうが、戦争となるよりずっとましだ。
  交渉次第では、予想していたよりも軽微な損失でことが収まるかもしれない。
  フェニーナは表情に笑みを浮かべながら、そう思った。
「後継者殿下は武勇に優れた方とお聞きしております。もし、ご存知ならば幾多の武勇伝もお聞かせ願いたいものです。何しろ賊軍、失礼。貴国では革命軍と呼称するのでしたな。革命軍に首都を奪われようとした時に現れ、瞬く間に平定されたのですかな。まさに英雄譚そのもの。我が国としては身が震える思いです」
  言葉では後継者を持ち上げてはいるが、本心ではただのお飾り。大義名分の旗として上手くラインボルト宰相エルトナージュに使われたのだろうとフェニーナは考えている。
  魔王と呼ばれる者の大半はその治世の最初期は無能者そのものだからだ。
  その中で最後の身が震える思いというのだけは本心だ。もし、ラインボルトがアシンの復讐に動き出せば、エイリアが崩壊するのは間違いないからだ。
「まったくです。一部の者の中には後継者殿下は拡大王の再来ではないかと噂しているほどです。かく言う私もそうなのではないかと思っております」
  拡大王ルーディス。
  ラインボルトでは建国の母、リージュに次ぐ人気を誇る王だ。彼はまさしく英雄譚の如く人生を送った。幾多の戦場を勝利で飾り、彼の周囲には常に美姫が彩ったという英傑だ。
  フェニーナ自身も幼い頃から胸躍らせた英雄譚の主人公だ。
  しかし、それは誇張に過ぎない。お飾りをさらに煌めかせているだけだろう。
  どの国でも新王や王太子を装飾するために歴史上の人物と重ねるのは良くすることだ。
「ほう。それほどの武功をお立てになられたのですか」
  ただの誇張だろうと思っていても、追従は忘れない。たったそれだけで少しでも相手の気分が良くなれば、今後の情報収集も楽になる。
「招来されて間を置かず内乱の平定を指示されただけではなく、後継者殿下御自身も近衛騎団と共に戦場を駆け巡られました。ご出陣を拝見することは叶いませんでしたが、聞いた話によると威風堂々たるものであったとのこと。その後、エルニス奪還から始まって……」
  魔王にのみ従う近衛騎団を動かすために後継者を担ぎ出したのだろう。向かう先が戦場ではあるが、後継者を守ることを考えるならば、常時警護出来るよう近衛騎団とともに行動した方が良い。また、革命軍の心理に賊軍という言葉を植え付けやすくすることも、後継者自身に箔を付けることも出来る。そこに驚くべき事はない。
  使者が語る後継者の武勇伝を楽しげに聞きながら、追従の姿勢を見せる。
  だが、しばらくしてフェニーナは頷くことすら出来なくなった。表情は変わらず笑みであったが、首筋には不快な汗が浮かんでいた。
  使者は全くの雄弁であった。聞く者の胸を高ぶらせるに十分。抑揚にはっきりとした強弱を付けた語り口調はまるで自身がその場で見ているかのようだ。
  フェニーナもまたそうだ。しかし、彼が立っているのは後継者の側ではない。
  後継者の敵として立っている気分であった。

 王城に向けてひた走る馬車の中、フェニーナは渋面を作っていた。顰められた眉は深い皺を作り、御者の背中を見る目は血走っていた。額に浮いた太い血管がひくついていた。
  彼がここまでの渋面を作ったのは五年前に勃発したラディウスとの戦争以来だ。
  これは予想以上の危難だ。さて、どう報告するか。
  使者から聞いた話と受け取った書簡は伝え方次第でエイリアの方針をラディウス寄りにしてしまうに十分な意味があった。
  明日には重鎮たちが騒然することは間違いない、とフェニーナは見ている。
  使者との会談を終えた後、開かれた歓待の宴は最上級のものだった。フェニーナと親しい貴族たちも招待しての華やかなものであった。
  使者は彼らと挨拶を交わし、迎賓室でフェニーナが聞いた後継者の武勇伝を聞かせて回った。政治に関与していない子女たちは興奮した面持ちで聞いていたが、男たちは総じて青ざめた表情をしていた。夜が明ければ招待客たちの口から一気に後継者の武勇伝が広まるはずだ。後継者の武威を広め、今後の交渉を有利に進めやすくする効果がある。
  だが、使者の雄弁では薬が効きすぎる。貴族たちを完全に恐怖で凍えさせてしまっている。これではラインボルトが侵攻してくれば最後の一人になるまで戦い続けると主張する強硬派や親ラディウスの立場の者たちが力を増すだけだ。
  受け取った書簡に記されていた講和の条件についても。
  一体、ラインボルトは何を考えているのだ。
  思考は空転するばかり。情報が圧倒的に足りない。
  答えを出せぬフェニーナを乗せた馬車は城門を潜った。
  出迎えの近衛兵の手によって身体検査を受けた彼は控えていた侍従の案内で国王の書斎に向かっていた。私室たる書斎での謁見になったのには理由がある。
  まだ表沙汰に出来ない報告を行うであるのと同時に王城の一郭に駐留するラディウス側の駐在武官に知られたくないからだ。幾ら彼らでも王の私室まで入ってくることは出来ない。内密の話をするためには打ってつけの場所という訳だ。
「お待ちしておりました。フェニーナ伯。これより先は私がご案内申し上げます」
  と、書斎へと向かう廊下で王の近侍に先導されることになった。
  慣例通りの引継だが、フェニーナは執事の態度に訝しいものを感じた。何かに注意しているような雰囲気なのだ。
  謁見の場が変わったか。それとも別の何かがあったのか。
  先導する近侍が進む廊下は王の書斎とは異なる方向へと変わった。数分ほど歩いた後、不意に近侍が足を止めて振り返った。
「フェニーナ伯。申し訳ございませんが、これで目を隠させていただきます」
  近侍の掌に載っているのは黒い布だ。
「王命とあらば否はない」
「ご無礼致します」
  近侍は一礼するとフェニーナの目を黒い布で覆い、後頭部できつく縛る。
  その後、彼に手を取られて五分余り歩いた後、どこかの部屋に入れられたことに気付いた。目隠しを外されたフェニーナが目にしたのは壮年の男だ。
  エイリア国王ベディン二世だ。そして彼の両脇を固めるのは宰相ブラキストンと先のラディウスとの戦争を指導したギヌア将軍。そして、外務大臣の三人だ。
「拝謁の栄に浴し、恐悦至極に存じます。臣フェニーナ、ご用命により参上いたしました」
  何の躊躇もなく拝跪するフェニーナにベディン二世は鷹揚に頷いてみせる。
「余り時間はない。立つが良い」
  エイリアの重鎮が長時間一カ所に集まれば、監視役のラディウスの駐在武官が気付く恐れがある。
「そなたの下に訪れた使者の口上を報告するが良い」
「はっ。簡潔に申し上げれば、ラインボルトは……」
「フェニーナ伯。我々の立場から言えばラインボルトと呼ばず、北朝と呼称すべきだと思うが?」
「宰相閣下。正統ラインボルトが用いる呼称を独立国家たるエイリアが使用する方が不適当だと思われます」
  この売国奴が。
  内心でフェニーナはそう毒づいた。さして実力もなく、家格も低いこの男が宰相の地位にあるのはラディウスの後押しがあるからだ。
  ラディウスの勢力拡大と自身の権勢の維持を重ねているこの男は敵国に利する政策を次々と実施している。罷免したくとも後ろ盾たるラディウスに抗する力のないエイリアにはどうしようもない状態にあった。宰相就任から二年の間に彼は確固たる権力基盤を築き上げていた。
  いや、一番の問題はこの男が売国行為をしていると思っていないことだな。
  ラディウスとともに生きることが唯一エイリアが繁栄する道だと信じて疑わないのだ。
  利益と信念を兼ね備えたこの男を変えることは不可能といっても良い。
  今回のラインボルト侵攻を押し進めたのも彼なのだ。
  ラインボルトか、ラディウスかで揺れる国内を一気に親ラディウスに傾けようと思っての行動だろう。
「余は時間がないと言ったぞ。両者とも使いやすい呼称を使えば良い」
  ベディン二世に窘められ、両者は恐縮と謝罪の姿勢を見せる。
  この発言の中にフェニーナはまだ王は確たる方針を持っていないことを見た。どちらに就くか決めていないと態度で示したのだ。
「フェニーナ伯、続けよ」
「はっ。簡潔に申し上げれば、使者の口上に過激な文言はなく、遺憾の意を表するとのみでございました。受け取った書簡はこちらになります」
  と、近侍を挟んでベディン二世に書簡を渡した。王は素早く目を通すとブラキストンにそれを手渡した。王の表情に幾らかの安堵が見受けられた。
  抗議文の内容が穏当であったためだろう。だが、ブラキストンはぴくりと眉を動かした。
  彼は外務大臣に書簡を手渡すとフェニーナを見据えた。
「差出人の名が戦後処理委員会とあるが、これはどういうことだ。北朝の使者は事前交渉のために来たのではないのか」
  通例ならば宰相、もしくは外務大臣の名で抗議文が送られ、同時に事前交渉が行われる。それが妥結された後、君主の名で正式な抗議及び調印がなされることになっている。
  臨時組織としてラインボルトの国家運営を任されていたとは言え、他国に送る書状としては不当だ。その上、
「本日、訪れた使者は交渉役ではありませんでした。お渡しした抗議文と後継者の武勇伝を語ったのみでございます」
「ほう。どのような内容だったのだ?」
  同じ王として、ラインボルトの後継者がどのように語られたのか気になるのだろう。だが、フェニーナは主君の気分に水を差すように近侍を介してもう一つの書簡を渡した。
「お話しする前にラインボルトが提示して参りました講和条件をご覧下さい」
  それに目を通した王は顔を真っ赤に染めて膝掛けに拳を叩き付けた。
「どういうことだ、これは!」
  ラインボルトから提示された講和条件は以下の通りだ。
  エイリア国王の正式な謝罪。
  アシンに侵攻した部隊の最上位指揮官の処罰。
  エイリアの国家予算五年分に相当する賠償金の支払い。
  エイリア・アジタ間の国境地域の非武装地域化とラインボルト軍の駐留。その駐留費用はエイリアが負担。
  王太子のラインボルトへの留学。つまり、人質だ。
「これは敗戦国の扱いではないか!」
  激したベディン二世は再び肘掛けを叩き付けた。
「陛下。以前よりご提案申し上げておりました通り、正統ラインボルトと安全保障条約を締結すべきです。多少、不平等ではありますが北朝に国を焼かれる訳には参りません。陛下の赤子たる民のためにもどうかご英断を」
「むぅ……」
  ブラキストンの提案にベディン二世は唸り声を上げる。
  ラインボルトの講和条件に激していたベディン二世もラディウスとの安全保障条約には明確な返答をしなかった。
  安全保障条約。つまり、簡潔に言えば他国からの侵攻があった場合、全力をもって援軍を送るという条約だ。
  大国にとっては勢力圏の拡大に繋がり、小国にとっては他国からの干渉を退ける一助となる。だが、ラディウスが提示した条約の内容は両国間の安全保障に留まらない。
  エイリアの属国化、露骨な言い方をすれば自治領化だ。
  ラディウスはエイリア軍の指揮権と人事権の委譲、軍事顧問団の首都駐在、ラディウス本国からの命令を実行、エイリアとの調整を行う総督府の設立が含まれている。
  ラディウスから派遣されてくる総督は王の施政に対して助言し、王はこれを尊重しなければならないと記されているのだ。主権の委譲に匹敵する条約なのだ。
  交渉によって総督が有する権限を制限することは出来るだろうが、軍の指揮権と人事権は間違いなくラディウスの手に委ねることになり、彼らの戦争に延々付き合わされることになるのは目に見えている。
  つまり、始めからラディウスにとって都合良く動いているのだ。
  フェニーナは内心で嘆息した。
  内乱中のラインボルトに侵攻し、エイリアに恨みを買わせる。激怒したラインボルトとの間に戦端が開かれると同時期に安全保障条約を締結。条約に従ってラディウスは対ラインボルト戦争を開始する大義名分を得たいのだろう。
  現在、ラインボルトは内乱によって疲弊し、要である魔王もいない。そのような状況でラディウスの本格的な侵攻を押し止めることは不可能だ。ラディウスの一人勝ちを他の大国が許すはずがない。何かしらの合意が出来ていると考える方が自然だ。間違いなく同時期に適当な名分を作ってラインボルト侵攻を開始するはずだ。
  我が国はラインボルトという大魚を釣るための撒き餌という訳か。
「陛下。ご英断を!」
  と、迫るブラキストンにベディン二世は唸り声をあげる。ギヌア将軍と外務大臣は王命に従うのみとばかりに事の成り行きを見守っている。
  反対の声を上げられるのは私だけか。
「ラインボルトの後継者はムシュウにて軍師LDを生け捕りとし、内乱終結後には自身の軍師とすることを約束させたそうにございます」
「それは真か」
「使者の口上を信じるのならば。また、近衛を率いてラメルに陣を布くラディウス軍に痛打を浴びせたとも申しております。ご存知の通り、ラメルの軍を指揮していたのはラディウスの大将軍ファルザス殿のご子息。血縁ではございませぬが、自身の実力のみでバルディア家の後継となった方にございます」
「ただの誇張に過ぎまい。北朝の後継者は十六のそれも軍指揮の経験もない少年が北朝の近衛を指揮することなど出来まい」
  ブラキストンの反論を無視して、フェニーナは沈黙を守るギヌアに視線を向ける。
「ギヌア将軍」
「なにか」
「我が国随一の猛将たる貴公にお尋ねします。貴方ならばたった一夜でそれまで剣を交えていた部隊を自軍の指揮下に置き、作戦の一翼を担わせることは可能でしょうか? 同時に負傷者を後送する準備を整え実行することは可能でしょうか? 自軍の十倍の敵と剣を交え、誰一人戦死させることなく作戦目標を完遂させることは可能でしょうか?」
「それは武人の所行ではない。私に言えることはそれだけだ」
「フェニーナ伯! 世迷い言はそれぐらいにしてもらいたい。児戯でも分かるような誇張をさも現実であるかのように申し述べるべきではない」
「国家の意思を伝える使者が子どもでも分かる嘘を述べるとお思いですか。王となる者が誰にでも分かる虚飾で彩ることに何の利益があります。国の威信を著しく傷つけるだけですぞ」
  なるほど、そういうことか。とフェニーナは話ながら理解した。
「使者を歓待する際、多数の貴族を拙宅に招きました。使者は彼らと挨拶をする度に後継者の武勇伝を語ったのです。宰相閣下が仰るとおりただの虚飾であるのならば、彼らに講談師のように何度も語る必要はありません。交渉担当である私にのみ話せば十分でありましょう。つまり、私に聞かせた武勇伝が真実であると証明するためにあのようなことをしたのでしょう」
「ラインボルトは十倍の兵力差なぞものともせず作戦目標を完遂できると言いたいのだな」
「まさにその通りです、将軍」
  大きな身振りでフェニーナは頷いてみせる。にこれまで沈黙を守っていた外務大臣が口を開いた。
「フェニーナ伯。貴方はラインボルトが武力解決に動くと判断しているのだな」
「いえ、閣下。ラインボルトは交渉による解決を望んでいます」
「その根拠はなんだね?」
「陛下にお渡しした書簡にあります。通常、このような書状は抗議文を認めたものと講和条件を認めたものを一纏めにして渡します。ですが、今回は別個で渡して参りました。つまり、両国間にある問題の重大さに比して柔らかな文言で纏められた抗議文は交渉による妥結をしたいという意志を表し、敗戦国に突き付けるかのような講和条件はラインボルトの憤激を表しているのでしょう。ラインボルト国内で燃えさかる我が国への憎悪を抑える役目でもあると推測いたします」
  そして、視線をブラキストンに向ける。
「武勇伝を積極的に語ったのも同じ理由からでありましょう。交渉が妥結しなかった場合は武力解決も辞さず。また、ラディウスの介入があったとしても躊躇することはないと我が国にいる親ラディウスの方々への意思表示と見て間違いありますまい」
「それは楽観て……」
  フェニーナの当てつけのような言葉にブラキストンは反論しようとするが、ベディン二世がそれを遮ってしまう。
「では、貴公は今後どのようにすべきだと考えている。存念を申せ」
「はっ。私はラインボルトとの交渉に全力を尽くすべきと心得ます。講和条件を見る限り、到底受け入れることは出来ませんが、それはラインボルトも十二分に分かっているはず。先にも申し述べた通り、あの講和条件はあくまでもラインボルトの怒りの表明でしかなく、交渉を続ければ現実的な条件に落ち着くことは間違いありません。講和し、関係を修復できればラディウスの影響力を減少させることも可能でありましょう。二つの大国の影響を受け、難しい立場となりますが主権を守ることが出来、また無理難題を押し付けられることもないと存じます」
  今の発言は全て今ある材料から組み上げた推測に過ぎない。だが、反論する材料がないこともまた確かなのだ。ラインボルトの影響力を用いて、ラディウスのそれを相殺する。
  フェニーナの提案の要を要約すればこういうことなのだ。
  エイリアは国家主権を維持することが出来、親ラインボルトである彼にも、親ラディウスのブラキストンも等しく利益がある状態にするのだ。誰も損しない方法という訳だ。
  これならば反論はないだろうと思っていたが、ブラキストンは否の声を上げた。
「私は信じられない。お忘れか。五年前の正統ラインボルトとの戦争を」
  それは両国間に存在する巨大な楔だ。
「当時、我が国は北朝に支援を要請しました。我々が欲したのは正統ラインボルトを退ける軍であり、多くの物資でありました。だが、彼らが我々に対して行ったのは正統ラインボルトへの非難声明のみ。その彼らを信じることは私には出来かねる」
  ブラキストンがラインボルトを信じられないのは五年前の戦争で彼は息子と多くの親族を失ったからだ。救援があれば今も生きていただろう人々を彼は知っているが故に信じられないのだ。
「確かに正統ラインボルトは我々が愛する山野を蹂躙し、国土を奪った憎むべき者たちでありましょう。ですが、確たる力を持っています。例え主権を侵され、屈辱で奥歯を噛み砕こうとも民に安寧の日々が残れば良しと心得ます。こちらが積極的な態度を示せば、正統ラインボルトも陛下を無碍に扱うことはありますまい」
  ブラキストンは威儀を正して、ベディン二世に一礼する。
「陛下。今が岐路と心得ます。どうか、民のためにご英断を」
  やられた、とフェニーナは内心で舌打ちをした。
  売国という行為を心情的に訴えかけることで誤魔化されてしまった。その上でベディン二世の判断に委ねる態度を示してこちらの反論を防がれた。
  ベディン二世は瞳を閉じ、数秒間黙考すると現在の結論を口にした。
「確かに我が国にとって岐路であろう。それ故に軽挙は慎むべきことだ。今は情報収集の時と判断する。その上で討議を重ね結論を出すことにしよう。散会だ」
  安堵した。あのまま一気に親ラディウスに傾くとは思っていなかったが、優先的に動く命令を出されてはどうしようもなかった。
  フェニーナたちはそれぞれの思惑を抱きつつ、王に一礼したのだった。

 酒が不味い。いや、ここ数年で美味い酒を飲んだことは一度としてない。
  回転する思考が熱を持ちすぎて、全く酔うことが出来ない。
  今晩の酒は最悪の極みと言えるだろう。
  空のグラスを手にしたままブラキストンは虚空を見つめた。
「正統ラインボルトこそが我が国の将来を約束する、か」
  感情の宿らない言葉が漏れる。グラスの中の氷は踊り、小さな音を鳴らす。
  親ラディウスの代表格と見なされているが、彼の胸の裡にあるのはラディウスに対する好意などではなく明確な憎しみの感情だった。
  どのように言い繕うとも彼の妻子や親族を殺したのはラディウスに他ならない。
  それでも彼が親ラディウスを貫き通そうとしているのは冷徹な世界情勢から勘案したからだ。内乱で疲弊したラインボルトよりもラディウスの方が強いと。
  仮にラインボルトが内乱前の勢力を取り戻せたとしても、それは数年後のことだ。エイリアが頼りとするには些かおぼつかない。
  フェニーナの言うようにラインボルトと講和が成立し、両国間で安全保障条約に類する条約が締結されたとしても反故にされる可能性は十分にあるとブラキストンは考えている。
  今のラインボルトに他国へ援軍を送る余力はない。
  ラメルに陣を布くラディウス軍に対して何らかの対抗策を講じていないのが良い証拠だ。それだけではない。ラディウス経由で入手したロゼフのワルタ占領の情報だ。
  確たる証拠がないため王に上奏していないが真実であろうとブラキストンは見ている。
  ラディウスからこの情報が届いたのは一ヶ月前のことだ。すぐさま事実か否か確認させるため間者をワルタに派遣している。近日中に詳細な報告が届くはずだ。
「両国の力が均衡しているのであればフェニーナの考えも悪くはない」
  グラスの中の琥珀色の液体は溶けた氷と混ざり合い、揺らぎを見せている。
「むしろ、我が国にとって最良と言えるだろう。だが……」
  だが、その均衡をラインボルトが自ら崩してしまったからこのような状況になったのだ。
  内乱を経たラインボルトの衰退は著しいだろう。
  それはラインボルトと国境を接し、緊密な関係にあるアジタが幾ばくかの通行料だけでエイリアの進軍を許したことからも判断できる。
  アジタは小国であるが故にこの辺りの見切りはエイリアよりも遙かに鋭い。
  そこからもラインボルトの状況を推察することが出来る。むしろ、内乱の辛さはエイリアの方が良く分かっている。
  エイリアは内乱の末に国家が分裂して出来た国だからだ。
  国家としての体裁を整え、新たな法の整備や国民の鎮撫、経済の建て直しなどやらなければならないことが山積であったと聞く。もはや、歴史の向こうにあるこの内乱だが、間違いなくエイリアに大きな影響を残している。
  それがどれだけのものなのかは王城を見れば一目瞭然だ。
  至る所が痛み、さほど重要ではない尖塔は崩れたまま放置されている。かつてエイリアの栄華を象徴した王城の姿はそこにはない。
  往時の王城を描いた絵画と比較して、現在のエイリアの衰退に悲しくなる。
「北朝も我が国と同じ道を辿るのだろう」
  現状のまま事が推移ししていくとすれば、ラインボルトは国家としての体裁は保つことが出来るだろうが、魔王の力の継承は間違いなく阻止されるとブラキストンは見ている。
  ラインボルトは広大だ。衰退しているとは言え、たった一度で全土を平定することは不可能だ。となれば、一度目の講和の際に種族としての魔王を根絶することが条件に含まれることになるはずだ。ラインボルトを大国たらしめているのは要である魔王がいるからに他ならない。
  交渉は難航するだろうが最終的にはこの条件をラインボルトは飲むことになるだろう。ラインボルトを狙っているのはラディウス一国だけではないのだから。
  拡大王ルーディスによって領土を奪われたロゼフのような国はもちろん、間違いなく他の大国も動く。一番動きを活発化させるのはリーズだろう。そのリーズの介入を最小限に収めるために早期講和が必要となる。
  魔王という要を失ったラインボルトは引き返すことの出来ない衰退の道を辿ることになる。
「ならばこそだ。ならばこその主権委譲なのだ」
  超大国となったラディウスはエイリアに対して何ら配慮を示すことはない。圧倒的な武力でエイリアという国家は軍靴に踏み潰されてしまう。それだけではない。この地で営々と築き上げてきた歴史と文化を消え失せてしまうかもしれない。
  そうなる前に屈辱に身を焼くことになろうとも軍事、外交を始めとする主権を譲渡し、ラディウスで一定の勢力を保った方が良い。
  王位を禅譲する代わりにエイリア王は大公として身を安んじ、貴族たちも王と同じく幾らかの領土を手放す代償として貴族としての地位を守ることが出来る。
  それが出来るのは両大国が衝突する前の今しかないのだ。
  ブラキストンはそう確信している。
「……ふぅ」
  グラスにはすでに氷は消えていた。ブラキストンは気にすることなく一気に酒を呷った。
  不味いことには変わらない。だが、飲まずにはいられない。
  明日にはラディウス側に今日フェニーナから聞かされた話を伝え、今後のことを協議しなければならないからだ。
  一連の情報を纏めた書類を封書に入れるとブラキストンは着替えることなくベッドに横たわった。酔いを感じなくとも身体は眠りを欲していたのだ。

 軍事基地トルス。
  現在、ラインボルトに巣くう”彷徨う者”討伐部隊を統括する司令部が置かれている場所だ。トルスはこの基地の名であると同時に街の名でもある。
  併設するようにある同名の街はこの基地で生活をする者たちが欲するモノを供給し続けている。それは食料や医薬品、衣料品、そして性に関することまでと幅広い。
  一時期はそういった必需品の供給が追い付かなくなるほど兵力が集中していたが今は平時よりも幾らか多い程度の兵力が駐屯していた。
  他の部隊は諸都市に散らばり、そこで”彷徨う者”の討伐任務を続けているのだ。
  トルスに駐屯する兵たちと、ラインボルト南部で討伐任務に就いている部隊の総指揮を執っているのはラインボルト大将軍ゲームニスである。
  彼はアスナから命じられた”彷徨う者”討伐の任務を実に手際よく遂行していった。
  ゲームニスと同じく内乱に対して静観を決め込んでいた部隊だけではなく、戦闘に加わらなかった各地の革命軍部隊にも討伐任務を命じたのだ。自身の権威と内乱が鎮定されつつある状況も手伝ってゲームニスは瞬く間に討伐部隊の編成を終えてしまった。
  その後、彼の故郷コルドンで手に入れた情報とリムルからの情報を下にして人為的に発生した”彷徨う者”がどのような状況で出現したのか分析し、資料として纏め上げた。
  それは正確なものではなく、あくまでも憶測でしかなかったが、一応の指針を作り上げたことで部隊は本格的に動き出した。
  ゲームニスが動かしたのは軍だけではない。市町村に対しても”彷徨う者”の情報を一部開示し、墓地周辺の見回りを強化させ、発生予防に務めさせ、異変があったのならば自分たちで処理しようとはせずに軍に任せるよう徹底させた。
  潜伏していた犯人が始めから少数であったのだろう。何度か手こずる事態に陥ったが、ゲームニスは大過なくそれをやりすごした。
  出来ることならば犯人を生け捕りにしたかったが、それは叶わなかった。何人か追いつめることに成功するもののその全てが自害してしまったからだ。その数、十八名。
  ラインボルトが本格的な討伐に乗り出したこと、その結果、十八名の仲間が処理されたことで犯人たちも行動を控え、帰還に専念するはずだ。
  ここまで来ると”彷徨う者”討伐の総指揮をラインボルト軍の総帥たる大将軍ゲームニスが執る必要がなくなってくる。然るべき一将に任せるべきなのだが、今も彼はトルスでその任務を続行中であった。
  だが、当のゲームニスは指揮を部下に任せ、第一魔軍に属する参謀オスマとともにラインボルト全土を描いた地図を睨んでいた。そこには自軍の部隊がどこに配置されているか、他国の軍がどう配置されているのかが示されていた。地図上に置かれた青い駒がラインボルト軍、赤い駒が他国の軍だ。
「こうしてみると私がコルドンにいた意味があまりないな」
  ゲームニスの顔に苦笑が浮かぶ。
  彼が内乱に加わらず故郷コルドンにいた表向きな理由は国の乱れに嫌気がさしてということになっている。実際は内乱を必要以上に拡大させないためであり、他国の侵入に対して無傷の部隊が必要だと考えたからだ。
  だが、現実はロゼフのワルタ占領を許し、ラディウスは今もラメルに居座り続けている。
「ですが、さしたる被害も出すことなくコルドンに押し寄せた”彷徨う者”どもを処理することが出来ました。閣下が死者たちを引き寄せ、被害を拡大させなかったことは十分に意味のあることかと。失礼かと存じますが、コルドンの地は我が国にとってさして重要な場所ではありません。そこで処理出来たことは僥倖でありましょう」
  と、オスマは行った。参謀よりも商家の旦那の方が似合っている。福々しい腹がそれを強調する。
「それは不幸中の幸いというものだ。私が意図したことではないぞ。だが、戦果には違いない。”彷徨う者”の掃討も粗方済んだ。これでラディウスがラメルに居座る名分がなくなるな」
「間違いなく。エグゼリスにもその旨、連絡したのですが一向に帰還命令が届かないのは何故でしょう」
  大将軍の地位は第一魔軍の指揮官であると同時にラインボルト軍の総帥でもある。国難に見舞われている今、エグゼリスで総指揮に当たった方が良い。
  だが、未だにエグゼリスから帰還命令が出されない。
「私の追い落としを計る者が影で反対しているのかもしれんな」
「ケルフィン将軍か、グリーシア参謀総長でしょうか」
  昔から大将軍と参謀総長の地位にある者の関係はあまり良好ではない。
  組織図で見れば大将軍の方が上位にあるが、実際に軍事戦略の立案や調整などを行っているのは参謀総長率いる参謀本部だ。
  実戦部隊の代表者としての色合いが強い大将軍とはどうしても対立してしまうのだ。
  故に両者は常に主導権争いを続けていた。内乱前ではゲームニスの戦績や声望もあり、彼が主導権を握っていたが、今は少し微妙なところであった。
  参謀本部も内乱中は我関せずを貫いたため似たようなものなのだが。
「LDかもしれんぞ。アスナ様はあれを軍師にしたそうだからな。ある意味、統帥権を握ったようなものだ」
  統帥権とは、軍の最高指揮権のことだ。次代の魔王たるアスナの軍師となるとそれを間接的に行使することも可能だ。恐らく彼はそうするだろう。
  私益のためではない。雇い主であるアスナに最大限の利益を与えるためにだ。
  いや、ある面において私益かもしれない。LDは己の楽しみとして軍師をしている側面があるからだ。
「アレにあごで使われるのは気分の良いものではないが、グリーシアの下風に立つよりもましだ。知っておるか、オスマ。LDはお前よりもケチな性分だぞ。見栄に時間や金を浪費することを一番嫌う。反面、使えるモノならば何でも使って利益を出そうとする男だ。身分など関係なく活用する。全く面倒な男だ」
「それは大盤振る舞いと言うのではないでしょうか?」
「いや。ケチだな。多少の損を含んだ大盤振る舞いではない。アレは何であろうと損したくないのだ。これをケチと言わずして何という」
「はぁ……」
  分かったような分からないような生返事をするオスマにゲームニスは苦笑する。実を言うと彼自身もよく分かっていないのだ。ただ思ったままにLDへの評価を口にしたまでのことなのだ。
  と、不意にノック音が響いた。
「入れ」
「失礼します。エグゼリスより使者が参られました」
  従兵とともに入室した使者がゲームニスに敬礼をする。
  ご苦労、と答礼を返すと彼は使者を近くに来るよう頷きかける。
「後継者殿下よりの書状であります」
  差し出された書状を受け取る。
「確かに受け取った。ご苦労。下がって良し」
「はっ。失礼致しました」
  使者を見送るとゲームニスは早速、アスナからの書状に目を通し始める。
「なるほどな。我々を徹底的に活用するつもりらしいぞ。オスマ、近日中に残存する第一魔軍全部隊がここに集結する。そして、”彷徨う者”討伐部隊はそのまま私の麾下で運用されることになる。再編作業で忙しくなるぞ」
「ラメルで何か動きでも?」
  現在、ラインボルトが直面している最大の懸念はラメルにいるラディウス軍だ。それに自分たちがぶつけられると考えるのが自然だ。
「いや、書状にはラメルで動きがあったとは書いていない。だが、備えておいて損はない。それにだ。どうやら我々はラディウス以外にも睨みを利かせることになりそうだぞ」
  そこまで言うとゲームニスはケルフィン将軍の第一軍などを示す駒をエイリアに置いた。
「どうやら、LDはロゼフとだけではなくエイリアとも一戦交えるつもりらしいぞ」
  つまり、ケルフィンがエイリア相手に手こずったのならばすぐさまゲームニスが投入されるということだ。
  また、ムシュウにはリムルの第三魔軍が派遣され、これに対処するとのこと。ラディウスの攻勢が激化したのならゲームニスがこれを支援することも命じられている。
「もし、同時期となった場合の優先順位はどうなっておりますか?」
  つまり、エイリア侵攻とラディウスの北伐が重なった場合のことだ。
「当然。ラディウスに向かう。ケルフィンへの支援は再編中の第二魔軍にやらせるとのことだ」
「軍の総帥に命じる任務ではありませんね」
「文句も言ってられん。ラインボルトが有する最大戦力は人魔の規格外だ。国難の時こそ便利使いしてもらわんとな」
  そして、ゲームニスは視線に力を宿し、オスマを見る。
「すぐに物資の調達、再編成及び訓練計画を立案しろ」
「了解致しました」
  辞去するオスマを見送ったゲームニスは深く身体を椅子に預けた。
  再びアスナから送られた書状に目を通し始める。彼が眺めているのは最後の二枚だ。
  一枚にはアスナ自身からの近況報告。
  そこにはフォルキスに対する死刑判決が下ったこと、その彼を救命するために先王の誕生日を口実に恩赦を与えるつもりでいるから支持して欲しいとある。
  後は慌ただしげなエグゼリスでの日常が綴られ、最後には解任するつもりは全くないから今後ともよろしく、という言葉で締められている。
「もしや、私を一番便利使いしようとしているのはLDではなく、アスナ様かもしれんな」
  思わず笑みが零れる。そうあって欲しい。あの少年は魔王となるのだから。
  ありとあらゆるものを便利使いして、ラインボルトを立て直して貰わなければならない。
  伝え聞くアレでは絶対にラインボルトの再建は叶わない。それだけは間違いない。
  ゲームニスの手がアスナからの私信を捲る。
  それはマノアからの手紙であった。
  内乱を起こしたことでゲームニスに迷惑をかけたとの謝罪から始まり、自身の近況が語られる。フォルキスへ想いを伝えたことが照れを感じさせる文で綴られている。
「このような状況でなければ、良くやったと誉めてやりたいところだがな」
  しかし、彼の表情は笑みで綻んでいる。武人としてではなく、一人の祖父としての顔であった。あの変なところで引っ込み思案な孫娘が一歩踏み出したのだ。
  幼い頃からの想いが成就したかどうかまでは書かれていないが、伝えられたことは大きな成果に違いない。
  手紙はマノアの今後についても書かれている。
  彼女は恩赦の後、退役して、リジェスト家に預けられるフォルキスについていくというのだ。フォルキスからは人伝に思い留まるように説得されたが、意志は変わらないと。
「それも良いだろう。だが、惜しいものだな」
  マノアには武才があるのだ。それをこのまま眠らせるのはラインボルト大将軍として惜しい気持ちがある。また、孫娘の将来を思う祖父としてもだ。
  アスナはフォルキスを助命した。ということは再登用も考えているということだ。
  どのようにしてそれを実現するつもりなのか皆目検討がつかないが、アスナには頑張って欲しいと思う。マノアの祖父として、フォルキスの育ての親として。
  そのためにもラインボルトを守らなければならない。この国にはあまりにも多くの守るべきものがあるのだから。

 ラインボルトの東にある大国サベージ。
  獣王の国の俗称を有するこの国は、その名の通り獣人たちによって成り立っている。
  彼ら獣人は数が多く、また多種多様だ。その獣人たちを束ねているのが三つの種族。
  賢狼族、聖虎族、天鷹族の三種族だ。
  サベージ国内で最も広い領地を有する彼らを頂点とし、その庇護下に数多の獣人たちが属することで成立している。だが、それだけに常時、国内に火種を有する国でもある。
  彼ら三種族はサベージという国家を形成するまで対立する大国の後ろ盾を受けているからだ。
  聖虎族は当初、南部諸国の力を背景にしていたが、彼らがラディウスに飲み込まれるとすぐさま鞍替えをし、親ラディウスの姿勢を打ち出した。
  天鷹族は利害関係の一致や同じ翼持つ者としての共通点。何より幻想界最強種たる竜王の国リーズに接近し、その後ろ盾を得ることに成功している。
  そして、賢狼族は他の二種族同様に利害関係の一致からラインボルトを後ろ盾の相手として選んでいる。
  ラインボルトと賢狼族は両者の間にあるビューヌ湖の水利権を巡って戦争を起こした歴史もある。だが、この問題を解決するための協議を切欠に積極的な交流が始まり、現在の友好関係にある。それら諸問題を協力して解決してきたことから、両者の関係は盟友と呼んで差し支えない。
  その賢狼族族長ヴォルゲイフの下にもラインボルトからの使者が訪れていた。
  サベージ国内にも外務省があり、表向きは外交を取り仕切る役所として存在しているが、ラインボルトを始めとする大国との接触はそれぞれに後ろ盾を有する種族が行っていた。
  もちろん、外務省に対しても同様の書類を送っているので問題はない。
「此度の内乱において数々のご支援を頂き、心より御礼申し上げます」
「友邦の危機となれば、手を差し伸べるのは道理というものだ」
  皺深い顔に笑みを浮かべて、頷いてみせる。若い頃は輝くような銀であった頭髪は年を重ねる毎にその煌めきを失い、その対価として落ち着きのある灰色になっている。
  友邦の危機とは言うがその実は内乱なのだ。どちらか味方した方が破れれば、今後のラインボルトとの関係に支障を来す。
  ヴォルゲイフはそう判断し、賢狼族として静観することにし、また同時にサベージにラインボルト内乱に干渉させないことで両者に対して恩を売ることにした。
  その彼が宰相派支援を決定した最大の理由は後継者が自ら近衛を率いて反撃に出たと知ったからだ。後継者という決定的な駒を有した方が勝利するのは道理だ。
  そして、投資するのならば勝者でなくてはならない。それが理由だった。
「そうだな。アストリア」
  隣席の青年にヴォルゲイフは視線を向ける。
「全くです、父上」
  次期族長であり、ヴォルゲイフの長子であるアストリアだ。母の血の濃さを示すように美しく輝く赤熱の頭髪を後背に向けて逆立たせている。だが、その気性は両親の良い部分を受け継いでくれている。ヴォルゲイフとしては些か向こう見ずな点を心配しているが、周囲の者たちは跡継ぎとして不足無いと見ている。
  先年、従兄との後継争いに勝利し、次期族長の地位を確固たるものとした。内外にそのことを示すべくヴォルゲイフは息子を公的な場に同席させるようにしていた。
「飼い猫とかごの鳥が何かと騒ぎましたが、ラインボルト支援を強行して幸いでした」
  と、アストリアは恩義を売ることも忘れない。
  ちなみに飼い猫とは聖虎族、かごの鳥とは天鷹族のことを意味する蔑称だ。他の二種族は賢狼族のことを飼い犬と呼んでいるのだからどっちもどっちである。
「その点については感謝の言葉も見つかりません。後継者殿下、宰相閣下ともにこの感謝の念を忘れることはありません」
  使者は大仰に平伏してみせる。言葉に偽りがないと態度で示しているのだ。
「相身互いというものだ。さぁ、立ちなされ。我らとラインボルトは友だ。そのように平身低頭するものではなかろう」
「恐縮であります」
  ヴォルゲイフは使者に対面の椅子に腰掛けるよう促す。
「して、お国の方は如何か? 戦後処理で何かと大変であろう」
「はい。しかし、我らラインボルトの民は後継者殿下の下で心を一つにして復興に励んでおります。つきましては幾つかお願いしたいことがございます」
「ほう」
  ヴォルゲイフの長い眉に隠れる目尻が小さく動いた。
「お伺いしよう」
「近日中に後継者殿下は副王の地位に就かれます。その際の介添えとしてアストリア様に式典にお越し願いたく存じます」
  それは後継者の権威を高め、同時にラインボルトと賢狼族の関係が変わることなく友好的であると内外に示そうという意味がある。
「また、我が国の懸案の一つとなっておりますロゼフのワルタ占拠に関しましてサベージには不介入を内外に宣言して頂きたくお願い申し上げます」
  最後の三つ目は今後も可能な限り支援をしてもらいたいとのことだった。
「なるほど……」
  やはりそうきたか。と、ヴォルゲイフは目を細めた。次いで息子が余計なことを言わぬよう視線で釘を刺す。アストリアは分かっているとばかりに小さく頷いてみせた。
  三つ目の依頼は構わないだろう。これまでの友誼に従って、支援金を出す準備はすでに整えており、すでに内務大臣を首座とする戦後処理委員会との間で話はついている問題だ。
  だが、先の二つは問題だ。賢狼族単独で動けることではないからだ。
  ラインボルトが抱えている問題はヴォルゲイフもよく分かっている。内に戦後処理があり、外にはエイリア、ロゼフ、ラディウスとの問題がある。
  賢狼族はラインボルトの友であると同時にサベージの重鎮でもある。その賢狼族の次期族長が副王就任式に介添え役として出席したとなれば、どう見られるかは明らかだ。
  サベージはラインボルトに味方すると宣言することと同義だ。
  それを親ラディウスである聖虎族が認めるはずがない。何より現在の獣王はその聖虎族出身で、ラディウスとの関係を密にしているのだから。
  また、内憂外患を抱える国に対して必要以上に親しくすることは危険だ。個人的意見としては支援することもやぶさかではないが、ヴォルゲイフは族長なのだ。
  自身の心情よりも賢狼族の将来を考えなければならない立場にある。簡単に言うならば、沈みそうになっている船からいつでも逃げ出せるようにしておきたいということだ。
「どうか、賢狼族、ラインボルトの将来のためにもお願い申し上げます」
「……むぅ」
  唸り答えに窮するヴォルゲイフを助けるようにノック音が響いた。
「何用だ?」
「申し訳ありません、お父様。ラインボルトから使者が来られたと知りましたので、是非ともお話を伺いと思い居ても立ってもいられず……」
  ヴォルゲイフは灰の髪を撫で付けるように頭を掻くと使者に小さく頭を下げた。
「申し訳ない。しばらく娘の我が侭にお付き合い願えないだろうか?」
「いえ。噂に聞く銀星の姫君にお目にかかれるのは光栄の限りに存じます」
  使者は起立をして、ヴォルゲイフの娘を出迎える姿勢を見せる。
「かたじけない。入室を許す。入ってきなさい」
  ヴォルゲイフは息子に頷き、妹の介添えをするよう促す。
「失礼いたします」
  ドアが開かれる。付き添いの近侍を背後に控えた少女が立っていた。
  銀星と評される長く美しい銀の髪が窓から射し込む光を受けて煌めく。顔造りは涼やかだが、ふっくらとした頬の丸みが彼女に柔らかな印象を与える。
  賢狼族に限らず、獣人たちは変身を疎外しないようゆったりとした服を好み、少女の身を包むドレスもその通例から外れない。それでも女性としての柔らかな曲線は十分に見て取れた。銀の髪と絹のような滑らかな白のドレスが相まって、空に流れる星の大河を思わせる。好奇心に輝く瞳が使者を見つめる。
「使者殿。賢狼族族長ヴォルゲイフが娘、そして我が妹のニルヴィーナです」
「お初にお目にかかります。使者殿。ニルヴィーナと申します。此度は私の我が侭をお聞き届け下さりありがとうございます」
  使者も一礼し、名乗ると惚けたような微笑をニルヴィーナに向けた。
「星の輝きの如き美しい姫君と伺っておりましたが、これは認識を改めなくてはいけません。国に帰りましたら、皆にニルヴィーナ様は天の大河の如き美しさであると教えてやろうと思います」
  世辞でも外交辞令でもない本心からの感嘆の念にヴォルゲイフはもとよりアストリアも満足げな笑みを浮かべた。二人ともニルヴィーナを溺愛しているからだ。
  アストリアが妻の頭髪と苛烈な性格を受け継いだのと同じく、ニルヴィーナはその容貌と天真爛漫な笑顔を受け継いでいた。また、ヴォルゲイフ譲りの美しい銀の髪も父親として誇らしかった。
「ありがとうございます。エルは息災ですか?」
  ニルヴィーナとエルトナージュはいや、アストリアを含めた兄妹は幼い頃、二年ほどラインボルトで過ごしたことがある。人質、という訳ではない。
  当時の魔王アイゼルの娘、エルトナージュと歳が近いこともあり、両者の関係をより親密なものにするためだ。大人たちはそのような思惑を持って彼女たちを一緒に過ごさせたが、当人たちにはそのようなことは関係なく友情を深めていった。
  宰相となり、内乱が始まってからは手紙のやり取りも止まってしまったが、それまで受け取った手紙などをニルヴィーナは大切に保管している。
「ご壮健であられます。ラインボルトのため懸命に尽くされております」
「そうですか。それは何よりです」
「お立場故に手紙を差し上げることは出来ませんでしたが、エルトナージュ様よりお言葉を預かっております」
  宰相ではなく、エルトナージュと言ったのはあくまでも私的なことだと印象づけるためだ。私的であろうと宰相であることは変わりなく、手紙という形では何か起きたときに賢狼族が不利にならないようにとの配慮という訳だ。
「それは嬉しいです」
  使者は一つ会釈をするとエルトナージュの言葉を伝え始めた。
  内容はいたって日常的なものだ。自分の身辺が慌ただしくなり、手紙を送れなくなったことへの謝罪から始まり、自分やミュリカ、ヴァイアスがどうしているかが語られた。最後にヴォルゲイフやアストリアが何事もなく息災か尋ねる言葉で締められた。
「エルは元気のようですね。出来ることなら私からの……」
「いや。使者殿も大変だろう。それは手紙にしたため預けなさい。使者殿、お願いできるか?」
「もちろんでございます」
「ありがとうございます、使者殿」
  ニルヴィーナは笑みとともに会釈をする。そうして、視線を兄に向ける。
「お兄様はどうなさいます?」
  小首を傾げて尋ねる妹の愛らしさにアストリアは目を細めながら、
「そうだな、……いや、止めておこう。兄妹揃って手紙を書くのは格好の付くことじゃない。お前の方から宜しく言っていたと伝えてくれれば良い」
  それは照れといったものではなく、全くの政治的配慮からだった。さらに言葉を尽くすならアストリアとニルヴィーナの重要度の違いとも言えるだろう。
  いくら二人が幼い頃からの友人だからといって、今のアストリアは次期賢狼族族長なのだ。その彼がラインボルトの宰相であるエルトナージュに手紙を出せば、難癖を付けられる可能性は十分にある。対してニルヴィーナはサベージ内で何の役職にも就いていない。
  それでも族長の娘だから勘繰られるだろうが、アストリアよりもましである。
  何より、彼女から手紙を出すということで賢狼族の意志、ラインボルトとの関係をこれまで通りやっていきたいと言う思いは通じるはずだ。それこそが重要なのだ。
「分かりました。使者殿、宜しくお願いします」
「承りました」
  ニルヴィーナの会釈に一礼した使者を前にヴォルゲイフは立ち上がった。
「申し訳ないが、そろそろ時間だ。この後、晩餐の席を用意している。ご出席いただけるか? 折角だ。その席で後継者殿がどのような方か伺いたい」
「はい。有り難くお受けいたします」
  ヴォルゲイフに続いて起立した使者は腰を曲げて礼をする。
「先ほどの件だが、ラインボルトへの支援は事前の取り決め通りに従って行わせていただく。だが、残る二つはこの場での返答はしかねる。あれは賢狼族(われら)だけで決められる要請ではない。今はこれ以上のことは出来かねる」
  今は、という部分を些か強調する。
  それで気分は伝わるはずだ。自分たちにさらなる多面的な支援を求めるのならば、まずはラインボルト自身で事態を動かせ、と。
「しかとお言葉承りました」
  表情を引き締めた使者は深々と礼をする。大仰に頷くとヴォルゲイフはアストリアに顔を向けた。
「使者殿に粗相のないようお相手せよ。ニルヴィーナ、お前もだ」
「はい。お父様」
  宜しいと頷くとヴォルゲイフは辞去した。
  ラインボルトからの要請をどうするか賢狼族の要人たちと協議するために彼は足早に廊下を歩き去っていった。

 母親譲りの赤熱の髪が、薪を足場に舞踏する炎を賛美するかのように赤々に輝く。
  元来、赤狼は炎と相性が良い。多少の炎では身を焼くことは出来ず、逆に操ることも可能だ。一昔前、山間の村が山火事で閉じこめられたことがあった。その救助と支援に向かったのが赤狼だった。彼らの力で災害の規模から考えると奇蹟と思える救助劇が展開されたという。
  また、炎に好まれていることから、一般的に赤狼は賢狼族の中でも好戦的だ。
  アストリアは本物の戦場に立ったことはないが、次期族長候補として何度も魔獣討伐に参加したことがある。あの緊張と興奮以上の愉悦が味わえるであろう本物の戦場にアストリアは恋い焦がれていた。
  婚約者に対して一途だとサベージでも知られている彼が唯一、心惹かれる女性が戦の女神であった。その女神に愛され、数多の戦場を駆け抜け、最後には英雄の幻想を纏ったという後継者に対して深い嫉妬と尊敬の念を覚えずにはいられなかった。
  何より最終戦にてフォルキスと対峙し、彼に剣を突き付けたことは賛嘆以外の言葉は思い浮かばない。
  アストリアはラインボルト滞在中、エルトナージュたちだけではなくフォルキスら将来、ラインボルトの重鎮となるであろう者たちとも親交があった。
  その中でフォルキスとは武術の稽古をつけて貰ったことがある。年齢や体格の違いはもちろんあるが、あの圧倒的な存在感を前にしてまともに戦えるとは思えなかった。
  今ならば勝てなくとも、負けることはないだろうと思っている。つまり、一撃離脱だ。
  フォルキスが本格的に動き出す前に渾身の一撃を加え、倒してしまうのだ。帰郷して以来、何度も想像の中のフォルキスと戦ったがこれ以外にまともに戦える手段が思い浮かばなかった。
  その彼と真っ向から後継者は対峙したのだ。それも、何の力も持たない人族がだ。
  使者の話ではヴァイアスの防御魔法がかけられていたというが、それも絶対のものではない。むしろ、フォルキスの渾身の一撃の方が強いと考えるのが自然だ。
  もし、自分がその場に、人族としての身体を持って立っていたのならばどうだっただろうか。考えるまでもない。無駄と分かりつつも逃げ出すしかない。
  むしろ、後継者としての自分の価値を前面に出して、戦場の後方に陣取っていたことだろう。しかし、魔王の後継者はフォルキスと対峙し、彼の首もとに剣を突き付けた。
  会ってみたい、という想いが膨れてくる。賢狼族も内乱中のラインボルトの状況を知るべく積極的に情報収集をしていた。もちろん、後継者の動向もだ。
  それらを統合してすでに好奇心は満ちていた所にあの使者が語ったファイラスでの最終戦で溢れてしまった。
  介添え役の話はアストリア個人としては願ったりの要望ではあるが、彼にも立場がある。サベージ三王家に名を連ねる賢狼族の次期族長の地位は軽くはない。
「んんんぅ……」
  アストリアの膝を枕に丸くなっていたニルヴィーナが寝返りをうった。
  暖炉の明かりが照らし出す艶やかな銀の髪を照らし出している。寝乱れた妹の長い髪を梳ってやる。するとニルヴィーナは気持ちよさそうに鼻息を鳴らすと、匂い付けをするようにアストリアの膝に自分の頬を擦り付けた。
  頭の上に飛び出した狼の耳がぴくぴくと動いている。それをくすぐってやると、身をよじらせて伏せられていた尻尾が二度、三度と振られた。
  ニルヴィーナは無意識のうちに耳や尻尾だけを出してしまう癖があった。賢狼族の姫として、いやそれ以前に獣人として誉められたことではないのだが、アストリアは妹のこの姿がどうにも可愛くて矯正することは出来なかった。
  容貌だけではない。仕草や纏う雰囲気までもが愛らしくてたまらない。
  ニルヴィーナが妹であることが悔やまれ、同時に誇らしくもあった。
  震える耳を弄ってやりながら、アストリアは思う。
  ニーナは婚期が遅れるだろうな、と。
  彼自身、情けないとは思うが妹の伴侶となる相手は自分よりも強い相手でなければならないと思っている。そのような相手はそうそういない。
  婚約者との仲は良好であり、二人といない伴侶となる女性だと思っているが、アストリアにとってニルヴィーナはその範疇外にあるということだ。
  と、不意に背後のドアが開かれた。ヴォルゲイフだ。
「父上」
「ここにいたか。あぁ、起こすのは可哀想だ。そのままで良い」
  身体ごと振り返ろうとした息子を掌で制する。
「晩餐では些かはしゃぎすぎだったな」
「久方ぶりにエル姫の近況が聞けて嬉しかったのでしょう。一年ぶりのことでしたから」
  揺り椅子に身を預けながらヴォルゲイフは息子をからかうような笑みを見せる。
「お前もだろう。使者殿が語る後継者の武勇伝にのめり込みすぎていたぞ」
「申し訳ありません」
「構わん構わん。実を言うとな。私も胸が躍った。若い頃に経験した戦を思い出したほどだ。いや、それ以上だな。あれは幼い頃、守り役が語った軍記物語を聞いた時の気分だ」
「では、ラインボルトにさらなる支援を行うのですか?」
「お前はどう思うのだ」
「……我らが動くのは時期尚早と考えます」
  息子の答えにヴォルゲイフは満足げに頷いてみせる。
「そうだ。まだ、動けない。何より飼い猫とかごの鳥を説き伏せることが出来ない。歴史が物語っているだろう。乱世の英雄が治世の名君となるとは限らない」
「しかし、ラインボルトの弱体化は我々にとっても良いことではありません。以前、話にあったアクトゥスとの関係を緊密化させるおつもりですか?」
「つもりではない。すでにアクトゥスに、海王に対して機嫌伺いの使者を送った。ラインボルトが判断を誤り、状況が悪化したとしても滅びるようなことはなかろう。だが、弱体化は必至。ならば、その不足分を他から補うのは道理というもの」
  穏やかに兄の膝の上で寝息を立てる愛娘を見る。邪気のない寝顔に目が細められる。
「ニーナは何か言っていたか?」
「特には。ただ、使者殿の話を楽しんでいただけのように思います」
「そうか。そうだろうな」
  この三人の中でニルヴィーナが最も人を見る目がある。笑顔を浮かべていようとも邪心を胸に抱いていれば、それを看破するだけではなく、相手の人となりをすぐに察してしまうのだ。
  それは賢狼族の姫として希有な才能と言える。だが、厄介なことにその善し悪しの判断基準が賢狼族にとって、ではなくニルヴィーナにとってなのだ。
  ヴォルゲイフは娘がラインボルトからの使者の話で何か思うことがあるのであれば、それも判断材料にするつもりだった。
「まぁ、良い。我らとしてはラインボルトの動向を当面の間、静観し、アクトゥスとの距離を近づける。この方針で行くことになった。アストリア。お前もこの方針に従うように」
「承知しました。父上」

 酒は呑んでも、煙草は吸わない。
  それがアスナの生涯を通して守ろうと思っている信念である。
  小学生の頃、バスで隣席になった愛煙家の吐き出す煙が原因で酷い乗り物酔いになり、散々な思いをしたことがあった。アスナ曰く、胃を吐き出しそうになったぐらい、だった。
  それを切欠にして、アスナの心の奥底深くに根付いた信条がこれであった。
  だが、今かつてないほどにその信条が揺らいでいた。
「こういう時、煙草とか吸えば少しは気が紛れるのかなぁ」
  革張りの椅子に深く身を預け、天井を見上げながらアスナは呟いた。
  もし、適当な誰か、ストラトにでも頼めば持ってきてくれるのだろうか。それとも、やんわりと注意されるのだろうか。
  ヴァイアスに話せば、健康云々以前に、似合わないから止めろと言われるに決まってる。
  それに、煙草を吸ったぐらいで落ち着いた気分になれるとは思っていない。むしろ、イライラの解消のために煙草を吸っている自分を想像して顔を顰めるばかりだ。
  考えてみたら、オレって一応後継者なんだよな。ってことは出てくるとしたら当然だけど、ご立派な葉巻。値段を聞いたらとても火なんか付けられないようなヤツになるのか。
「これでペルシャ猫と赤いガウンとかが揃ったら、完璧に悪の総帥じゃないか。ったく」
  アスナは額に手を当てて、盛大なため息を漏らした。
  だが、何かしら気散じが必要なことは確かだ。秒針に追い立てられるように予定が詰まっていることも多分にあるが、今アスナを押し潰そうとしているのは外交関係についてだ。
  ようやく内乱を終結させ、さぁこれから後始末だという時に余所からちょっかいを加えられるのだから気分の良い物ではない。直接的な言葉を使うならば、むかつくの一語に尽きる。
  その反面、諸外国がラインボルトに攻め込んだり、圧力を加えてくるのも当たり前だとも思っていた。隙を見せたラインボルトが悪いのだ。
  それに諸外国にも事情というものもある。
  大雑把にではあるが、アスナの元にも重要な国々の立場を分析した資料が届いていた。アスナにも分かりやすいように平易な言葉で作られたそれに目を通したが、出てきたのはため息しかない。
  ラディウス、エイリア、ロゼフの三ヶ国には撤兵、謝罪と賠償を要求しているが当然のことながら礼儀正しく追い返されている。
  盟友関係にある賢狼族から物資その他の調達は出来るようだが、それ以上の協力が欲しければ事態を好転させろとのことだった。つまり、ラインボルトと仲良く衰退するつもりはないということだ。他の友好国も賢狼族と大して態度に違いはない。
  それらとは別に取り扱いが難しいのはアクトゥスとリーズだ。
「入ってないか」
  手に取ったティーカップの中だけでなくガラス製のティーサーバも空だ。のどが渇いている訳ではないが、気散じにお茶を飲んでいたからカップ一杯のお茶などあっという間だ。
  数瞬、追加を頼むかどうか悩んだが結局、呼び出しのベルを手に取った。
「失礼致します」
  程なくして追加のティーサーバが運ばれてきた。ついでにと頼んだお茶菓子も乗せた移動台を押して入室してきたのはミナだった。
「……ご苦労様」
  彼女との関係もアスナの悩みの種であった。何しろ彼女は暗殺者組織からアスナに差し出された貢ぎ物なのだ。それに彼女は出会ったその日に男女の一線を越えかけてもいる。
  悪感情はないもののやはり苦手意識はある。あの晩以来、夜這いに来ることはなく他の執事たちと同じ仕事をこなしている。LDからミナの事情を知らされているストラトの”配慮”で彼女はアスナ付きの執事の一人となっている。正式には執事見習いだが。
  家令院から支給される制服がよく似合っている。姿勢が良いからだろう。立ち姿は他の執事たちと見劣りするところがない。テキパキとお茶の用意を調えてしまう。
「他にご用命はおありでしょうか?」
「あぁ、そうだな」
  ちらりとミナを見る。アスナに向ける瞳の色に悪いものは感じられない。暗殺者だから感情の制御は容易なのかもしれないが。
「…………」
  何となく一人でお茶を飲むのがいやでアスナはぽつりと言った。
「ミナ、今時間ある?」
「私の職務は殿下の身の回りのお世話をすることです」
  つまり、アスナが何か頼めばそれに従うのが一番の仕事ということだ。
「そっか。だったら、一緒にお茶どう? だだっ広い執務室で一人でお茶ってのも寂しいし」
  我ながら言い訳臭いなぁと思いつつアスナは伺うように彼女を見た。幾らかの逡巡の後にミナは「承知いたしました」と自分の分のティーカップを持ってきた。
  こうして、あまり馴染みのない二人のお茶会が始まったのだった。

 どうにもやりにくい。
  対面に腰掛けるミナを身ながらアスナはそう思った。どうにも会話が弾まないのだ。
  王城での仕事はどうだとか、アスナの身の回りで起こった些細なことをアスナが一方的に話していた。無視される訳ではなく受け答えしてくれるのだが、そこどまりなのだ。
  あの夜から仕事以外で彼女と接することがなかったのだから無理もない。
  襲われた方が言うのもなんだが、彼女に恥をかかせたということになるのだろう。そんな相手と差し向かいでお茶を飲んでいるせいか彼女も所在なさげに見える。
  ふとアスナは気付いた。彼女の立ち位置がかなりあやふやなんじゃないかということに。
  彼女は信用の証として、差し出された貢ぎ物のような存在であり、ガレフの孫娘でもある。当然、他にいるガレフの手の者以上に監視の眼も厳しいはずだ。
  となると彼女は祖父から何も指図されていないのではないか、と。
「私のこの身を殿下に差し上げます。その対価として私たちを重用下さい、か」
  ミナの肩が小さく震えたように見えた。彼女は持っていたカップを置き、真っ直ぐにアスナを見る。
「ここで私をお望みでしょうか?」
「違う違う。そんなつもりないって」
「そうですか」
  些か残念そうに見えるのは気のせいだとアスナは思うことにした。
「LDはちゃんとミナたちに色々と仕事を頼んでるのかなぁって思っただけ」
「幾つか指示を受けているようです」
「ようですってことは、ミナには何も?」
「私は殿下への貢ぎ物ですから」
「受け取ったつもりはないんだけどな。まぁ、良いか。とりあえず、ミナは執事の仕事以外何もしてなくて、オレの所有物になってる気分ってことか」
「気分などでは、いえ、その、はい」
  納得いかないという口調だがアスナはそれを無視して言葉を続ける。
「そっちからの提案だから言い出しにくいのかもしれなけど、好きにして良いんだぞ」
「申し訳ありません。お言葉の意味が理解できません」
  頭を下げるミナの態度にアスナは苛立たしげに言葉を続ける。
「いつでも契約を破棄しても良いってこと。ミナなら今のラインボルトがどういう状況か分かってるはずだ。北はロゼフに占領されて、南はラディウス。西のエイリアとはいつ本格的に戦争になるか分からない。それだけじゃない。友好国ってことになってた国はラインボルトと距離を取り始めてる」
  眼前に座るミナは真面目な顔でアスナを見ているのみだ。動揺も何もない。
「アクトゥスからは一応同盟を結んでラインボルトに入ってきた害虫を駆逐しても良いって言ってきてるけど、連中その対価としてリーズと戦争になったら全面的に協力しろってさ。それだけじゃないぞ。ラインボルトでは取り扱いが難しいフォルキス将軍を預かろうって申し出てきたけど、あれは絶対に一宿一飯の恩義とかで迫ってフォルキス将軍をリーズとの戦争で使うに決まってる」
  ちらりとアスナは自分の執務机の側に立て掛けられている槍を一瞥する。
  刃は蒼銀に輝き、柄舌から刺先にかけて荒れた波を表した紋様が描かれている。
  海王自らより戦勝祝いにと贈られたものだ。銘を海神(わだつみ)と言う。
  この槍を与えられるということはアクトゥスにおいて最上級の栄誉の一つとされる。一般の兵士であろうとこの槍を下賜された瞬間から貴族と同等と礼遇を受けることが出来る。
  言うなれば英雄の証だ。
「あんなもん送り付けられてもオレには使えないっていうのに」
  海神はその名が示すとおり水系列の属性を有する者が手にすれば格段に力を増す魔具だ。
  海王の王位を象徴し、海上で使用すれば海嘯を起こすという大海神の機能の一部が与えられている。
  海王と後継者では当然、後継者の方が下位になる。だが、次の魔王に贈る物としては穏当ではない。それはアクトゥス側も分かっている。
  だから、後継者が海神の持ち主として相応しい者に与えても良いと言ってきた。
  そうして示される意味は一つだ。今はアクトゥスの方がラインボルトよりも上である、と。それは一面において揺るぎのない事実でもある。
  海王と魔王、純粋に王としての格はどちらが上かと問われれば間違いなく海王に軍配が上がる。いや、幻想界で最も格が低い王が魔王だ、と言った方がより正確だ。
  国情により立ち位置は異なるものの王は国家の歴史や文化などの様々なもの象徴する存在であり、何よりそれだけのものを築き上げてきた年月を王として血統を守ってきた者だ。
  それだけではない。王位の継承についても厳格な決まりがある。父系と母系だ。
  父系であれば、現王、その父、祖父、曾祖父、と父方の祖先を遡ると建国王に辿り着けるというものだ。母系は父ではなく、母方を遡ると建国王に辿り着くといった具合だ。
  父系でも女性が王になることが出来る。だが、その子が王になることは出来ない。子どもから見れば、父親の父系を辿っても建国王に辿り着かないからだ。
  それでも女王の子が王位に就けば、それは全く伝統を有さない新しい王朝が誕生したことを意味する。
  幻想界に存在する王朝から見れば、ラインボルトは代替わりする毎に新王朝を建てている変な国なのだ。良く言えば新参者、悪く言えば成り上がりだ。
  その魔王の権威を補完しているのがラインボルトの国力とリジェスト家だ。
  リジェスト家は初代魔王リージュを祖とする王家だ。ラインボルト建国から連綿と続いていた歴史と伝統を有し、またリジェスト家は母系継承を続けてきた。
  言うなればラインボルトの照覧者なのだ。
  そのリジェスト家の当主から王冠を授かることで魔王となる者は王としての権威を得ているのだ。王統を有さないラインボルトの苦肉の策である。
「……ってこと。分かるだろ。今、ラインボルトがどれだけ大変かが!」
  アクトゥスのことだけではなく、リーズなどラインボルトを取り巻く環境がどうであるかをアスナは一気にぶちまけた。卓に思い切り叩き付けた右手が痛い。
  普段、出さないような大声で捲し立てたせいもあり、息が荒い。十数秒ほど息を整えると浮いていた腰をソファに落ち着ける。
  対するミナは別段、驚いたような表情もせず、カップから零れたお茶を布巾で拭いている。その態度がアスナの癇にさわる。
「抜けるんなら早い方が良い。LDにはオレから言っておくし」
  その方が良いに決まってる。彼女たちはラインボルトとは関係ないんだから。とアスナは思う。
「その判断を行う任に私はありません。私から言えることは」
  卓を吹き終えた彼女は姿勢を正すとまっすぐにアスナを睨むように視線を向けた。
「私たちがそういったことを考慮した上での決定だと考えているんだったら、それを訂正して頂きたいです。そうですね。一言で口にするのならば、ふざけるな、といった所ですね」
「なっ!」
「国が傾いている。だから何だというんです。まだ、傾いているだけで倒れてしまった訳じゃない。十分に立て直すことも可能なはず。確かに私たちが知りうる限りでもラインボルトは危急の時にあるでしょう。私の個人的な意見でも、分の悪い賭けだと思ってる」
「だったらなんで、ラインボルトに賭けたんだよ。LDは詳しく話してくれなかったけど、そっちも大変なんだろ。全額賭けた一発勝負なんかじゃなくてもっと堅実に……」
「私たちが賭けたのはこの国じゃない」
  と、ミナはアスナの言葉を遮る。
「貴方の運です。分かっていますか? 貴方がしたことがどれだけのものだったかを。圧倒的に不利な状況にあった内乱を一ヶ月ほどで収めてしまったことの凄さを」
「それは色んな人が頑張ったからで、オレは殆ど何もしてない」
  最近のアスナはあの内乱に対する自分の評価はこの一言が全てであった。
  部隊指揮など何もせず、ただはったりを言い続けたことぐらいだ、と。
  だが、ミナはそれに同意せず視線にも揺らぎがない。
「それじゃ、言い方を変えます。革命軍への反撃を押し進めたのは誰? 近衛騎団から心よりの敬礼を捧げられているのは誰? LDを捕縛し、軍師としたのは誰? 大将軍ゲームニスを動かしたのは誰? ラメルでの撤退戦の際、第一魔軍と国境守備軍を臨時戦闘団として纏められたのは誰がいたから? そして、フォルキスとの一騎打ちで彼の喉元に剣を突き付け、敗北を認めさせたのは誰?」
「…………」
「貴方です。坂上アスナ」
  真っ直ぐに突き付けられる事実。その全ては間違いなくアスナが成したことだ。
  だが、アスナの口から出るのは一つ。
「運は運なんだ。いつまでも続かない」
「それを現実の力にするために今があるんです。あのLDが何もしない訳がない。この国の官僚たちもそう。危急の時だからこそ貴方が作った時間を……」
「分かってる! そんなこと分かってるんだ。大変で、少しは時間が出来たからその間に出来ることをやらないといけないって。けど、オレがやってることは城にやってきたお客に作り笑いを見せてるだけだ。それだけなんだよ!」
「なら、何がしたいの?」
「えっ……」
「実力や状況に関係なく貴方のしたいことはなに?」
  幻想界統一。そのために自分はここにいる。
  だが、アスナはそう口にすることが出来なかった。本当にそれが自分のしたいことなのか分からなくなっていた。そのことに気付いてしまった。
  崩れかけた絶壁に立っているつもりが、実は足場など無く足下には奈落のみが広がっているような感覚が全身を襲った。
  と、不意にノック音が響いた。
「…………」
  だが、アスナは反応しない。俯き、固まったままだ。
  再びノック音が響く。先ほどよりも強い。
「…………」
「殿下、来客のようですが」
「……あっ、うん」
  顔を上げるとミナは自分のティーセットを移動台の上に乗せてしまっている。いつ食べたのか彼女用のお茶請けは無くなっている。
  卓の上にはアスナのティーセットとティーポットのみ。
「どうぞ」
  出される声に覇気はない。
「失礼します」
  入室してきたのはサイナだった。一礼して顔を上げた彼女はミナの姿を認めると目を細めた。その視線には敵意を見て取れる。彼女はアスナの口からミナとの顛末を聞かされているからだ。
  一方のミナはサイナの視線など何処吹く風とばかりに卓の上を布巾で拭いている。
  それを終えると「他にご用命はおありでしょうか?」と尋ねる。
「……ないよ」
「では、失礼いたします」
  そう言うと彼女は型通りの見事な礼をしてみせると移動台を押して退室しようとする。扉の前を塞ぐサイナと僅かばかりの間、視線が交差する。が、それまでだ。
  ミナが会釈をし、サイナが道を開ける以上のことはなかった。
  退室すると同時にミナは振り返り、もう一度礼をすると扉は閉められた。
  執務室にはアスナとサイナのみである。
「で、サイナさん。何の用?」
「はい。近衛騎団からの報告書をお持ちいたしました」
  すでに彼女は近衛騎団に復帰している。現在は参謀職から離れ、ミュリカの補佐をしている。彼女の取り扱いは騎団内でも難しい問題となっていた。
  先の内乱で出来た損失の埋め合わせとしてサイナには中隊を任せて良いのではないかという声もあった。だが、彼女はアスナのお気に入りだ。
  そのサイナに何かあっては問題になる。ならばどうするかと議論百出した結果、ミュリカの補佐という立ち位置になった。正確には司令部付き護衛中隊を任されることとなった。
  もっともこの中隊には一人も兵がいない。臨時に編成しなければならない状況、あの内乱中でのアスナの護衛などを任せるための中隊ということだ。
  そう言ったことからアスナへの報告は彼女の仕事となっている。これも気遣いである。
「そう。机に置いてって。後で目を通しておくから」
「はい。アスナ様。何かありましたか?」
「別に。ただ色々と目の前に突き付けられただけ。用事は報告書持ってくるだけ?」
「はい。……あの」
  だが、彼女の言葉はアスナに遮られる。
「サイナさん。悪いんだけどしばらく放っといてくれない」
「あっ。はい、分かりました。失礼します」
  言葉を残し、彼女が部屋を辞した音を扉が鳴らす。
「……はぁ」
  執務室にはアスナ一人。彼はソファにだらしなく寝そべると深いため息を漏らした。
「サイナさんに当たってどうするんだよ。……情けない」
  だが、胸の奥で澱む様々な物は解消されることはなかった。むしろ、より一層堆積してしまったように思えた。



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