第二章

第五話 彼の立ち位置、彼女の迷い


 首都エグゼリス。
  この地がそう呼ばれるようになったのは何時か。それはまだここがリーズの支配域であった頃にまで遡ることが出来る。
  当時、ここにはファイラス近辺の守備を行っていたリーズ軍の駐屯所があった。
  リーズ支配領域の統治を行う総督府が置かれたファイラスはその頃から物資や金銭が呼吸をするように出入りしていた巨大な都市だったが、それに比べてエグゼリスは粗末な小城があるのみであった。
  エグゼリスがラインボルトの中枢として機能し始めるのは初代魔王リージュがこの地を根拠地と定めた頃だ。エグゼリスに駐留する将兵たちの生活必需品を供給するために商家が集まり、リージュの庇護を求めて各地から様々な種族の者たちが集まった。
  その為、当時のエグゼリスは首都と呼べないほど貧相な、粗末なあばら屋が建ち並ぶ光景が広がっていた。
  時が流れ、エグゼリスは姿を変えた。
  五大国の一つに数えられる国家に相応しい巨大な、そして様々なモノを呼吸し続ける都市へと。
  リージュがエグゼリスに腰を落ち着けた当時は約四万ほどの人口であったが、今では百万を超えるようになっている。これは役所に住民登録をしている者の人数だ。
  浮浪者などを加えれば、百二十万に届くのではないかと言われている。
  巨大なる都市は昼と夜の顔を使い分ける。日が暮れ、月が天上の主となる頃になると様相は一変する。その中で尤も賑わいを見せるのはエグゼリス各所にある歓楽街である。
  その中で最も大きな場所はどこかとエグゼリスの者に尋ねれば間違いなく、ボシーク通りか、ここアムリタの名が上がるだろう。
  二つの歓楽街は似通った雰囲気を持っているが一つだけ異なる点がある。
  客層の違いだ。ボシーク通りが商家や職人街に近いため一般の市民が多く訪れるのと対象にアムリタは官庁街から近いため役人や王城務めの者が主だ。
  通りを見れば軍の制服を纏った一団がとある料亭に入っていくのが見られた。
  そんな一団を横目に二人の男がとある安飲み屋に入っていった。
「いらっしゃいませ」
  景気と愛想の良い娘の声が出迎えてくれる。
「二人なんだけど、空いてるかな?」
  短髪の男が人差し指と中指を娘の顔の前で立ててみせる。
「はい。こちらになります」
  娘の案内で奥のこじんまりとした席に通される。
「麦酒と適当に三皿ほど味付けの濃いのを持ってきてくれるかな」
  席に就くと同時に短髪の男は注文をした。向かいに座る彼と同年代と思しき男に「それで良いな」と尋ねる。向かいの男は、
「一皿は腹にたまるのを頼むよ」
  と言った。二人とも曖昧な注文だが稀にこんな適当な注文もあるのか、娘は愛想良く「分かりました」と返事をするとお品書きを卓に広げて、三皿ほど適当に選び、男二人の同意を得た。これなら客が気に入らないと難癖付けられても言い返すことが出来る。
  娘の揺れる尻を鼻の下を伸ばしながら見送った後で短髪の男は椅子に身を預けてため息を漏らした。彼の連れは周囲をチラチラと見回している。
  見知った者がいないのを確認した後で連れの男が頬杖をついて呟いた。
「ったく、旦那さんも人使いが荒いよなぁ」
  上司への愚痴や悪口は酒席の華である。
「だな。幾ら儲かるからって扱き使いすぎだっての。もうちょい買い付けやら運送やらをやってる俺らのことを考えて欲しいもんだよ。給料に少し色が付いたぐらいじゃ割に合わないっての。少しはボロ儲けした分を俺らにも回せってんだ」
  内乱後はどうしても大量の物資が必要となる。その物資を動かす商人たちは巨利を得ていた。だが、余り調子に乗りすぎると一般市民から反感を買ったり、投資のし過ぎで潰れてしまう恐れがある。
  今回の儲けが内乱によって、であるため投資熱で自滅するよりも反感を買って後々の商売がやりにくくなる可能性も大きい。
  もっとも彼らのような現場の者は真面目に愚痴をこぼしながら仕事に励んでいるのだが。
「おまちどおさま。麦酒二杯。料理が出来るまでこれで食べてて」
  大ジョッキと一緒に娘が置いたのは小皿に載ったキャベツの酢漬けだ。突き出しという訳だ。
「お客さんとこも忙しいんだ。今、どこも忙しいみたいだし」
「もしかして、聞こえたか?」
  と、短髪の男は苦笑した。
「えぇ、ばっちり。あんまりにも声大きいから他のお客さんが苦笑いしてるし」
「職場の癖ってやつだなぁ。うちの旦那がさ、声を張り上げて気合い入れろってうるさくってさ」
「良いんじゃない? 楽しそうで」
「まぁな。久しぶりに戻ったんだけど、話は変わるけどエグゼリスに変わりはなさそうだな」
「そうね。私の知ってる限りじゃ兵隊さんが来る割合が増えたぐらいかな。疎開してた人も戻り始めてるらしいけど、私らの周りじゃあんまり変わらないかなぁ。やっぱり、他は違うもんなの?」
  と、娘は男二人の顔を見回した。二人は苦い顔を浮かべる。短髪の男が頷いた。
「あぁ、随分と違うもんだよ。仕事であっちこっちで物運んでるから色々見たくないものまで見てきたよ」
  そこで短髪の男は内緒話をするように娘に近づいた。
「アシンって知ってるか? ラインボルトの西にある国境の町なんだけどよ。あそこ、内乱中にエイリアに襲われて酷いことになってるんだよ。そこに救援物資運ぶ仕事もやったんだけど、酷いもんだったぜ」
  男は言う。家々は焼かれ、残されたのは廃墟と虚空を見つめるような町の住人たち。
  二人が訪れた町の周囲では幾つもの墓が林立していたという。
  彼らが物資を届けたのは町のすぐ側までだったが、その様子がよく分かったという。
「内乱が早く終わったのは良かったけど、本当にラインボルトは大丈夫なのかね。後継者も宰相も十六で、第三魔軍の将軍もガキだろ? 先行きが不安だよ、俺は」
「若いってだけじゃなくて人族だろ? 俺は若いってのよりもそっちが心配だよ」
  当人たちは声を細めて話したつもりなのだろうが、それでも普通の音量とさして変わらない。
  店内は変わらない雑談の渦にあったが、彼らの周囲だけ雰囲気が幾らか沈んでしまった。
  短髪の男が語った不安はラインボルトの国民全てが多かれ少なかれ抱いているものだ。
  内に内乱の後始末、外にエイリア、ロゼフ、ラディウスその他の問題が山積している。
  エグゼリスは大きく開かれた都市だ。人と物の出入りが激しいこの都市では噂や不安は瞬く間に広がっていく。
  それが大きなうねりとなってエグゼリス全体を覆わないのはアスナが内乱鎮圧を成し遂げたからだ。だが、何か一つでも蹴躓けば瞬く間に不安が覆うことになるだろう。
  ラインボルトの民は年若い人族の少年に未来を託すことに不安を、速やかに内乱を収めてみせた坂上アスナという名の少年に期待を抱いていた。
「俺らがあれこれ言ったところで何か変わる訳でもないけどな。悪いな詰まらない話聞かせて。それから嬢ちゃん」
  そこで短髪の男は面白げな笑みを浮かべた。向かう視線は彼女の背後。
「カウンターの向こうで親父さんがスゴイ顔で睨んでるぞ」

 喧噪で賑わうアムリタの通りを歩いている男三人の姿があった。
  一人は二十代後半から三十代前半と思しき長身の男と十代半ばの少年二人という酷く場違いな取り合わせだ。少年二人は修学院の制服で身を包んでいる。
  二人とも着慣れない服だったが、思った以上に似合っている。
「見ての通りの賑わいだ。役所の連中や騎団の連中も大抵ここで騒いでいる。適当な店を覗けば案外いるかもしれん。何しろ来週には演習開始だからな」
  年長の男が終始ご機嫌の体である。
「久方ぶりの大規模な演習だ。今のうちだと羽目を外してるヤツもいるだろうさ」
  と、右を歩く茶色の髪の少年は言う。
「迫り来る禁欲生活! そう考えると嫌になるよ」
「何が禁欲生活だ。酒も煙草も女もいらないヤツが良く言う」
「酒は好きな味と薫りのに出会ってないだけ。煙草は煙いからいらない。女はミュリカで十分だ」
  と、誰憚ることなく断言するヴァイアス。
「はぁ。ったく、あれだけ色々と俺自らが教えてやったっていうのに何だこの体たらく。人生の半分以上損してるぞ。どう思う、アスナ?」
  左隣を歩くアスナは物珍しげに周囲を見回していた視線を長身の男、近衛騎団副長であり、騎団有数の放蕩男デュランに向けた。
「煙草はヴァイアスに同意見。煙に金払うなんて信じられない。けど、お酒は好きだな。ウイスキーとか結構好きだし」
「おおぉ。その歳で酒好きとは先が楽しみだな。よしよし、今日は俺がトコトン色んな酒を飲ませてやる」
「良いですよ。オレ、酒好きの下戸っていう最悪な体質してるからトコトン付き合ったらアッという間にぶっ倒れますよ」
「なら、尚更だ。上手な酒との付き合い方を教えてやらないとな。これも年長者の務め。骨は拾ってやる。安心してぶっ倒れろ」
  そう言ってデュランはアスナの頭を乱暴に撫でた。
  今のデュランの姿を見て彼があの近衛騎団の第二位者だと思う者は殆どいないだろう。どこからどう見ても上京してきた学生二人を捕まえて連れ回している悪いお兄ちゃんそのものだ。だが、アスナにはそんなデュランの態度が妙に嬉しかった。
  幻想界に召喚されて以来、殆どアスナは十六歳の少年ではなく、後継者としてしか見られていない。内乱を収めてからは更にその傾向が強まった。
  後継者云々に関係なく接してくれるのはヴァイアスやミュリカ、侍医のロディマスと隠居した馬のイクシス。そして、サイナぐらいである。
  この中で子ども扱いしてくれるのはロディマスとイクシスぐらいである。ロディマスとは診察の時、イクシスとは体力作りの時に少し話すぐらいだ。
  その為、完全無欠に子ども扱いされるのは本当に久しぶりのことだ。何となくくすぐったい気持ちになるアスナだった。そんな彼の気分が伝わったのかデュランはさらに強く頭を撫でてやる。
「デュランさん。良いから、頭ぐちゃぐちゃになるって」
「はははっ、悪い悪い。最近、ヴァイアスが頭を撫でさせてくれないからな」
「あれは撫でるじゃなくて引っ掴んでぶん回すって言うんだ。それからアスナ、デュランの口車に気を付けろよ。この人、ホントに滅茶苦茶飲むからな」
「人聞きの悪いことを言うな」
  と、デュランはヴァイアスの頭上に拳骨を落としてやる。
「それと年長者の名前を呼び捨てにするな」
「……分かったよ」
  拗ねたような態度のヴァイアスにアスナは笑う。ヴァイアスもデュランの前では子どもになってしまっている。
「なんか、前にミュリカが言ってたことってホントなんだな」
「ミュリカが何か言ってたのか?」
  両拳でヴァイアスのこめかみをぐりぐりとしながらデュランは聞いた。
「デュランさんのこと苦手だって。今ならその理由が何となく分かる。普段、偉そうにしてる癖にちょっと仕事から離れたらこの調子だもん。そりゃ、苦手にもなるよ」
「そりゃそうだ。コイツに一から十まで仕込んだのはオレだからな」
  近衛騎団の団員としてのヴァイアスの教育係はまさにこのデュランであった。
  個人としての戦い方や部隊の動かし方などの戦闘関連や儀式での立ち居振る舞い方や心得、果てはミュリカとのことで暗躍したのもデュランであった。
  近衛騎団団長と副長という上下関係も当然あるが、そのヴァイアスの団長職ですらデュランが団長だと小難しいことが多くて面倒だからとヴァイアスに押し付けた経緯もある。
  その他、若気の至りの様々な事件を知っているデュランはヴァイアスにとって恩人であると同時に鬼門そのものでもあった。
「それで、夕飯はここで食べるのか?」
  こめかみぐりぐりから逃れたヴァイアスはふてくされた口調で尋ねた。
  今宵の遊びの主催者は当然、デュランだ。万事怠りない。
  アスナが精神的に追いつめられているからどうにかしてあげたいとサイナから相談されたデュランはアスナを街に連れ出すことを計画した。
  まず彼は内大臣オリザエールと今夜の計画を立て、当日の予定を昼過ぎまでで終わるよう調整を行った。ついでアスナを町中に溶け込ませるために執事長ストラトに適当な地方の修学院の制服を用意させた。変装という訳だ。
  なぜ、制服まで用意したかと言うと、ただ適当な服を着せて遊びに行くよりも趣向があった方が面白いとというのが理由だ。今宵の趣向は地方の修学院から近衛騎団に見学に来た少年二人を騎団の悪いセンパイが捕まえて振り回しているといった所である。
  今回、デュランが選んだコースは遊びというよりも観光としての意味合いの方が強い。エグゼリスのことを全く知らないアスナにその手の場所ばかりを教えるよりも、街全体としてのエグゼリスを教えようという訳だ。
  ラインボルト最後の盾として近衛騎団はエグゼリスで戦闘を行うことも想定されているため、指揮官たちは皆、詳細な首都の地理を記憶している。
  変な話だが観光案内をするには最適な知識を有していた。もっともデュランはただ歴史的な名跡だけを案内していた訳ではない。曰く付きの名所にも二人を連れていった。
  例えば、性別に関係なく女難に巻き込まれる呪われた館や内大臣オリザエールのように家屋全体が生きている喫茶店などにも案内した。
  その後、内乱終結で公演が再開された劇場で歌劇を観覧し、今に至るという訳だ。
「いや。ここには酒の調達に来ただけ。行き付けの店に頼んでおいた酒を回収に来ただけだ。後はこんな場所もあるんだと知って貰いたかったぐらいだな」
  そう言って周囲を見回す。
「ここで飲むのはまたの機会。今日、行くのは別の場所だ。ある意味、そこらの高級店でも食べられないようなものが出るぞ。楽しみにしてろ」
  デュランは意味ありげに笑うとアスナとヴァイアスの頭を腕で抱え込むようにすると歩き始めた。そんなデュランを挟んで二人は楽しげに苦笑を浮かべたのだった。

 エグゼリスにはバスのように路線を走る乗合馬車がある。
  首都であるこの都市は良くも悪くも広大だ。徒歩での移動は大変だ。そのため、市営の乗合馬車が走り回っているのだ。
  アムリタの活気を眺めながら流し歩いた後、三人は適当な乗り合い馬車を拾うと郊外へと向かった。
  付いた先は静かな場所だ。町並みは美しく整備され、建ち並ぶ建物は瀟洒な装いを施されている。窓から漏れ出す明かりがとても暖かくアスナには感じられた。
「ここら一帯はエグゼリスの住人たちにちょっとした贅沢を供する場所なんだ。結婚、出産、誕生日、その他些細な祝い事の幸いを彩る宴が必ずどこかで催されてる。本当の名前は別にあるんだが、俺たちエグゼリスの住人は総じてここを幸いの丘って呼んでる」
  そう言ってデュランは恥ずかしそうな苦笑を浮かべる。
「それ、今思いついたんじゃないでしょうね」
「それこそ、まさかだ。ここは俺がガキの頃から幸いの丘だよ。それに知ってるか?」
  そこでデュランは左隣のヴァイアスを見た。浮かぶ笑みはどこか不吉である。
「ヴァイアスとミュリカが正式に付き合うようになって初めて来たのがここなんだぞ」
「わー、わー、わー!!」
  見ればヴァイアスは暗がりで分かるほど顔を赤くしている。彼が首筋まで赤くなっているのを見るのはこれが初めてかも知れない。
「ほほぅ、それは興味深いお話ですなぁ。デュランさん、後学のために一つその時の出来事を」
「それでは我が主のご要望にお応えして」
  言うと同時にデュランはヴァイアスを羽交い締めにする。いつの間にか彼の口にハンカチまで突っ込んでいる。
「この先の料理店で食事をして、その後近くの公園で初ちゅーだ」
「おおぉ、初ちゅーですか」
「あぁ、初ちゅーだ。ミュリカのこと幸せに出来るよう俺、頑張るからってセリフ付きだ。聞いただけで悶絶爆死しそうだよな」
「むぐー!」
「いやいや。オレ的にはかなりヴァイアスのこと見直したかも。初ちゅーで人生最強の契約書に署名したんだもんなぁ。で、正式な式の日取りはいつ頃に? 大丈夫、祝宴の時はちゃんとみんなの前でオレ挨拶やるし」
「ふぐーーーーー!!」

 程なくして到着したのは二階建ての小さな料理店だ。光を発する魔導珠を使用しているのか垣根で咲く花の色が闇夜に映えてる。
  扉の前には黒板にチョークで幾つも今晩のメニューが書かれている。
  デュランに促され入店したアスナは思わず、感嘆の吐息を漏らした。
  店内を覆う飾り壁はニスで磨き込まれ、店と共に歩んだ年数が深みのある色合いとして感じさせる。照明は落とされ、落ち着きのある明るさを店内を満たしている。
「いらっしゃいませ。三名様でしょうか?」
  上背のある灰色の髪の老給仕が出迎えた。静かな物腰と歓迎の笑みを浮かべている。
  その立ち姿をアスナはどこかで見たような記憶があった。もちろん、この老給仕とは初対面だ。見知っているのは彼の纏う雰囲気だ。
  ……そっか、ストラトさんに似てるんだ。ってことは家令院に関係しているのかな。
  と、アスナは思った。別段不思議なことではない。仮にも後継者を連れ出すのだから万が一のことがないように出来るだけ国が管理出来る場所の方が良いに決まっているのだから。
「いや、招待状を持ってきた」
  デュランはコートの内ポケットから白い無地の封筒を取り出した。受け取り中身を確認した老給仕は一瞬だけその身に緊張を走らせた。
「お待ち申し上げておりました」
  老給仕が持てる最大の敬意をもって彼はアスナに最敬礼をした。その態度にアスナは一瞬だけ後継者としての自分を作り上げる。
  面前で敬意を示す彼に対して相応しいと思える態度で会釈をしてみせる。老給仕はそのアスナの態度に満足したのか顔の皺をさらに濃くして二階への階段に三人に向かうよう促す。
「こちらになります」
  案内された二階は左右の個室となっている。大人数用の客室ということなのだろう。
「お料理の準備は整っております。食前酒をお楽しみ下さい」
  老給仕の背後に控えていた若い男が三人の前に小さなグラスを用意し、淡い赤色の酒を注ぐ。
「それではもうしばらくお待ち下さい」
  一礼すると二人は退室した。
「これってデュランさんが買ってきたヤツですか?」
「いや、あれは俺のお土産だ。持ち込みも良いんだが、店に任せた方が良い」
「へぇ。……美味しい」
  口の中に甘い果実の香りが広がる。とても口当たりが良くて飲みやすい。
「それはなによりだ。良かったな、ヴァイアス。アスナも気に入って貰えたぞ」
「勧めた甲斐があったな」
  どこから照れくさそうにヴァイアスは言い、自分もグラスに口を付けた。
  扉が開き、料理と酒が運ばれてきた。老給仕に続いて六人が続く。最後の一人の姿を目にした瞬間、思わずアスナは立ち上がった。
「あっ!」
  最後の一人、老女は笑みを濃くしてアスナに会釈をして見せた。次々と料理が配されて行く。濃厚なソースの香りがアスナの食欲を刺激する。
  給仕たちが去り、残った老女はアスナの前で最敬礼をして見せる。
「ようこそいらっしゃいました、アスナ様」
「トレハさん、えっ、なんで!?」
「ちょっとしたイタズラです。アスナ様を夜遊びに連れていくとそこのデュランから聞かされましてね。折角だから私も参加させていただいたんですよ。さっ、お座り下さい」
  この場でなくともトレハは明日、葬礼院としての仕事が終わったことを報告するため登城することになっていた。それがこんな場所で再会とは驚きであった。
「あっ、はい」
  ラインボルトの八王家の中で最も高貴なるリジェスト家、建国王リージュを祖とする王家の当主自らが給仕として姿を現すとは思わなかった。
「イタズラは成功したようですね。ヴァイアスも元気だったようでなによりね」
  トレハはヴァイアスの頭を三度、撫でてやる。面映ゆい表情で彼はされるがままだ。
  ヴァイアスもエルトナージュと同じくトレハにとっては孫同然の扱いだった。
「作法ではないけれど、一度に全部持ってきました。三人ともお召しあがれ」
  卓に並べられた料理は見事に雑多だ。
  鉄板の上で肉汁とソースを弾かせるハンバーグは濃厚な香りを立ち上らせ、唐揚げやエビフライといった揚げ物はカラッと揚がって美味そうだ。
  中央に鎮座したサラダボールの野菜は色鮮やかとし、白桃色のドレッシングがかけられている。陶器の上を覆ったパイ生地がきつね色に焼けて美味そうだ。中はシチューだ
  そして、バケットには焼き上げたばかりで小麦の香りが立ち上るパンが並べられている。まるで子どもの好きな料理を一気に集めたような感じだ。もちろん、アスナの好物でもある。
「はい。いただきます」
  フォークとナイフを手に取り、先ほどから気になっていたハンバーグに取りかかる。
  ナイフを入れられたハンバーグからは肉汁が溢れ出す。アスナはソースを搦め、口に運ぶ。予想通りの濃厚なソースとそれに負けない肉の味が舌を喜ばせる。
「スゴイ美味しいです」
「良かった。久しぶりに腕を振るったから少し心配してました」
「これトレハさんが作ったんですか」
「あらあら。そんなに驚くことかしら。ちょっとした手慰みと我が家の家訓に従ったまでですよ。リジェスト家の者は自分の世話は自分で出来るようになれとね」
「へぇ。……こう言っては何ですけど、なんか王家っぽくない家訓ですね」
「そうですね。だから、他の方には内緒でお願いしますね」
「はい」
  孫を見るような目でトレハはアスナに微笑んだ。
「さっ、ヴァイアス、デュランも遠慮なく召し上がれ」
  年長者のお許しを得た三人は遠慮なく、そして不作法に食事を始めた。
  唯一ある作法と言えば、美味しい物を美味しくいただくことだけだ。
  トレハとの会食は楽しかった。日々の些細なことをネタや今日あったこと、仕事での愚痴や自分に会いに来た変わった人、例えば強い衝撃を受けると六人の小人に分割されてしまう人などを目にしたときの驚きを話した。デュランは主に今日あったことを話して聞かせ、ヴァイアスはミュリカやエルトナージュたちのことを話した。
  トレハはそんな三人の良い聞き役となった。特にアスナが感じた幻想界での驚きの一つ一つに一緒になって楽しんでいた。聞き上手なのだ。
  冷めては味の落ちる料理が片付くと自然と会話の熱も落ち着いてくる。
  トレハはお茶を飲みながら穏やかに安堵の笑みを浮かべた。
「安心しました。アスナ様は忙しくも立派に政務をこなされているようですね」
「まぁ、はい」
  そんなことはない。忙しいどころか目が回るような日々だ。
  実際、状況の流れる速さについて行けず自分はここで何をしているんだろうと自問自答してしまうことが多々ある。また、最近ミナから突き付けられた一言。
『実力や状況に関係なく貴方のしたいことはなに?』
  それがまだ見つからない。幻想界統一を掲げたがそれはエルトナージュのしたいことだ。アスナのものではない。それに気付かされてからのアスナは散々であった。
  後継者という名の虚勢はひび割れ、何かしら別の衝撃が加えられたらあっけなく崩れ去ってしまうかもしれない。虚勢のみでここまでやってきたアスナにとってそれは何よりも恐れることであった。責任の大きさは異なるだろうが、トレハはアスナと同じ王族で都市長の経験もある。相談に乗って貰えるかもしれないと思う。
  だが、今ここにはヴァイアスとデュランがいる。二人ともアスナを気遣ってくれ、頼りにもしているがアスナは彼らの主でもあるのだ。
  ここで話せば彼らの期待を裏切るような気がしてどうしても口が開かなかった。
「私の時は大変だったんですよ。王族としての諸事や政務と本当にてんてこ舞い。余りに大変で何度か医者にかかったほどです」
  昔の自分を懐かしむようにトレハは言った。
  ……もしかしたら、呼び水になってくれるのかも。
「それじゃ、トレハさんはどうやってそれを乗り越えたんですか? 何か特別なこととか何かしたんですか?」
「何も特別なことはしてませんよ。ただ些細なことに気付いただけです」
  静かに話すトレハにアスナは無言で先を話してくれるよう促す。
「一つは何がしたいのか決めることです」
  ミナと同じ一言に心臓が大きく胸骨を叩いたような気がした。
「どうやって街の経済を活性化させるとかそういうのですか?」
「そんな難しいことじゃないですよ。何がしたいか、ですよ? 私の場合は生誕祭を盛り上げることでした」
「生誕祭?」
「そうですよ。ラインボルトでは建国王リージュの誕生日を祝日にしているんですよ。彼女に縁のある土地では何かしらの行事をしています。私の領地は彼女の故郷、必然的に壮麗なものになります」
「へぇ」
「だけどね、長い時間が経ってしまうと始めはちょっと大げさな誕生会だったのが今では祭になってしまったの。堅苦しい儀式や様式に縛られてちょっと面白くないと私が娘時代にそう思っていました。だから、都市長になってまず手を着けたのが生誕祭から堅苦しさを無くすこと」
「伝統とかを変えるんだから反対とか凄かったんじゃないですか?」
「もちろん、大変でしたよ。その反対を押し切るために政務も王族としての務めもしっかりと果たしましたし、祭が楽しくなるように色々な下準備もしました」
  トレハは乾いた喉をお茶で潤し、続ける。
「やりたいことが定められればその他のことは目的のための階段に思えるようになれますよ」
「あぁ、そっか。仕事とか行事をこなすんじゃなくて、手段にするのか」
「えぇ。政治は元々国を豊かにして、国民が普通の一生を送れるようにするのが目的ですからね」
「……考えたら政治家って真っ当にやればやるほど貧乏籤な仕事ですね。みんな、普通の一生が送れるのが当たり前だって考えてるし」
「そうですね。だから、こんな楽しみに政治を使っても良いと思うんですよ。もちろん、やりすぎはいけませんけどね」
「もう一つは、何ですか?」
「楽しんでしまうことよ。何事にも通じることですけど、都市や国の経営は些細なことでも大きな動きを見せますから楽しいものですよ。楽しむことが出来れば、何か起きても楽しめることが増えると思えますよ」

 トレハに見送られ、店から出たアスナたちは近くの公園にまで散歩に出た。乗合馬車が来るまでの間、散歩をしながら時間を潰そうというわけだ。
  小高い丘の上にある公園から空を見上げると満点の星空がある。
  黒天に散らばる銀の煌めきにアスナは息を飲んだ。現生界では見ることが難しい、地上を圧倒するほどの輝きで満ち満ちている。
  夜気を伴った微かな風が酔いで火照った身体を心地よく冷ましてくれる。
  それだけではない。胸の奥で澱んでいた様々なものが取り除かれたような気がした。まだ、自分の中に解答はない。それでも随分と楽になったことは確かなことだった。
「二人とも、今日はありがとう」
  照れくさくて大きな声で言えなかったが、ヴァイアスとデュランの雰囲気がさらに柔らかくなったのが分かった。
  ふと、視線を地上に戻してみる。デュランは自分の観光案内にアスナが十分以上に楽しんで貰えたことに満足げな笑みを表情に浮かべ、ヴァイアスはアスナと同じく空を見上げている。
  彼もアスナと同じく忙しい日々を過ごしている。彼にとっても良い気分転換になったのかもしれない。
  そんな口をぽかんと開けて星空を見上げるヴァイアスを見ながら、アスナは呟いた。
「この満点の星空の下でヴァイアスはミュリカと初ちゅーをしたのか」
  途端に顔を真っ赤にさせたヴァイアスの羞恥に極まった叫び声が大きな月が浮かぶ空に響き渡ったのであった。

 アスナが自分は何がしたいのか煩悶としている反面、一部の官僚たちはそんな彼を歓迎していた。国家を維持、発展させることを存在意義とする彼らにとっては劇薬に他ならなかったからだ。良くも悪くも彼ら官僚は劇的な変化に弱いのだ。
  内乱を一ヶ月ほどで収めてしまったアスナの武名は現在の幻想界で比類無く、彼が積極的に旗を振れば、諸大臣たちの諫言があったとしても押し止めることは難しい。
  有能、無能に関係なくただ一人の意志で国家の行く末が決定されるのは官僚たちにとって面白くないのだ。彼らには国家を動かしているのだという自負があるから。
  そのため、殆ど諸大臣から上表される政策案を承認し続ける今の後継者は非常にありがたかった。このままアスナには黙っていて貰い、ラインボルトの復興を軌道に乗せることが出来れば、国内においてアスナに対抗しうる発言権を得ることが可能だ。
  そんな官僚たちと同じく一日も早く議会が再開することを望む名家院の議員たちも勇躍していた。彼らの選出地からの陳情を政府に届け、同時に選出地の不満を調整することに尽力していた。
  その為か復興予算決定からその為の企業選定まで通常よりも早く行われた。アスナの発言力を低下させるためというのが後ろ向きではあるが、実際に内乱で損害を受けた国民たちからすれば歓迎される展開であった。
  相変わらず国民の間でのアスナの人気は凄まじいものがあるが、日一日とラインボルト上層部でのアスナの発言力は低下しつつあった。
  だが、そういった状況を非常に不満に思っている人物がいた。
  エルトナージュだ。アスナを魔王にしたくないと考えている彼女がである。
  彼の失脚を狙うのであれば、今以上の好機はないだろうにも関わらず彼女は宰相の仕事以上のことは何もしていなかった。前宰相デミアスを失脚させ、内閣の刷新をやってのけた彼女ならば造作もないことのはずだ。
  確かにラインボルトは魔王を元首とすることで成り立っている。また、アスナが旗を振って内乱を収めたことで彼の即位は避けがたい。
  ならば内政、外交面で失点を回復し、アスナには政務を執り行うには知識不足だと王族としての行事や視察などを次々と行わせ、政治から遠ざければ良い。
  過去にもラインボルトは政治に向かない魔王をそうやって儀式と権威の檻の中に閉じこめたことがある。だが、エルトナージュはそれをしない。
  正々堂々、真正面からアスナを完膚無きまでに叩きのめすためではない。そういうやり方は彼女の好むところだが、それのみに拘っているわけでもない。
  結果が得られるのならば汚い手も平気でとることも出来る。
  絶好の機会であるにも関わらず何もしない自分にエルトナージュはいらだっていた。
  ……取れる手段は幾らでもあるのに、何で。
  何をどうするのかはすぐに頭に浮かぶ。だが、実際に動こうとするとどうしてもためらってしまう。最近のエルトナージュは忙しさはもちろん自分の気持ちを持て余してしまって不機嫌の極みであった。
  先日もエルトナージュ付きの侍女であるシアから「お顔が強くなってますよ」と窘められた。慌てて鏡を見れば、如何にも不機嫌な自分の顔があった。
  それもこれもアスナが悪いのだ。
  外交交渉がなかなか進展しないのも、軍が早くエイリア、ロゼフと戦わせろと催促してくるのも、名家院の議員たちがうるさいのもアスナのせいだ。
  それだけではない。宰相閣下は不機嫌だと宰相府の者たちだけではなく官僚たちの間でも噂をされているのも、昨日の夕飯に嫌いなベディ茸が出たのも全てアスナが悪いのだ。
  ……誰でもない私がそう決めたのよ!
  シアに注意されたばかりだというのに怒りの雰囲気を発散し続ける彼女に諸大臣たちは一応に引きつった顔をしていた。表情は何時も通りの涼やかな仮面を被っているから尚更、彼女の纏う雰囲気は際だっていた。
「あぁ、殿下のご到着はまだか」
  あまりの居心地の悪さに内務大臣ガラナスが部屋の隅に控える執事に尋ねた。
  執事は一礼すると「今しばらくお待ちを。ただいま、ご様子を伺いに向かいましたので」と答えた。職務意識が高いのか執事は事実のみを伝えた。
「そうか。そうか、うむ。何か急用でも出来たのやもしれんな」
  後継者隣席の閣議に遅刻するのならば事前に報せがきてもおかしくはない。急用が出来たとしてもそれは同じだ。
  だが、本日の閣議は重要度で考えるのならばかなり低い。言うなれば現在、進行中の政策の進捗状況の報告会だ。何かを決定するようなことはない。
  細かな調整も実務者たちが協議をして終わらせている。極端な話、報告書のやりとりだけで事が済む。こうして彼らが集まるのは提出された報告を後継者と内閣が了承したと示すためだ。それこそが閣議での一番の意味だ。
  ガラナスの言葉を最後に再び、場は緊張が支配する静寂の場へと戻ってしまった。誰もエルトナージュと視線を合わせようとはしない。
「失礼いたします」
  一人の少年が入室してきた。後継者付きの秘書官の一人、アリオンだ。
  彼は一礼するとまっすぐに無言の怒りを発散し続けるエルトナージュに歩み寄り小さく耳打ちをした。彼女は小さく頷く。もし、彼女を良く観察していた者がいれば、エルトナージュの黄玉の瞳がさらに細められたことに気付いただろう。
  すっと立ち上がるとエルトナージュは列席者を見回す。
「後継者は所用で来られないようです。閣議を始めましょう」
  閣議の開始を告げる声はどこまでも冷たかった。

 その頃、アスナはぶっ倒れていた。
  午前中の仕事を終え、昼食後しばらくして倒れたのだ。過労である。
  デュランに連れられて気分転換出来たが、それでも日々の馴れない仕事と緊張は彼の身体に疲れとして少しずつ溜まっていった。
  さしたる前触れもなくアスナは倒れたのだ。天地を照らす太陽が西に大きく傾いてもアスナは目を覚ます様子はなかった。
  アスナを診察した侍医のロディマスは一晩、栄養のあるものを食べて、ぐっすりと眠れば翌朝には起きられるようになるだろうとのことだ。
「医者としての意見を言えば三、四日何もしないで過ごさせた方が良いんだがな」
  と呟いた。彼もアスナが多忙の身であることを理解しているのだ。
  アスナが眠る私室の前には主を守るように不動の体勢で立つサイナの姿があった。
  何人たりとも主の眠りを妨げさせはしないとばかりに。

 アスナ、アスナ、アスナ、アスナ!
  過労で倒れるなどバカげている。体調管理も仕事の内。それを怠るというのはどういうことなのか。それ以前に彼は自分を取り巻く状況というものを理解していない。
  このような立場の危うい時に倒れるなどもってのほかだ。自分から足下を崩す手伝いをしているようなものだ。
  自分ならこれだけの状況が揃っていれば幾らでも彼の名声を維持しつつ、魔王の権力を奪取することが出来る。外の出来事ばかりに目を向けて自分を良く知ろうとしないのが腹立たしい。
  アスナは力を持っているのだ。内乱中に見せた行動力はどこにいったのか。軍師としてLDの力をなぜ使わないのか、近衛騎団の忠誠をなぜもっと世論に訴える材料としないのか、なぜ比類無き名声を活用しないのか。
  彼女自身が望んでも得られなかった様々なものをただ掌で遊ばせ続けるアスナが腹立たしい。なにより、そんな彼に期待しているのではないかと思ってしまう自分が腹立たしかった。
  閣議を終えたエルトナージュはまっすぐにアスナの私室へと向かっていった。
  警備上、入ることの許されない魔王の私的な領域、後宮にも彼女は何の問題もなく入ることが出来る。何しろその後宮に彼女の私室があるのだから当然だ。
  アスナに一言文句を言わねば気が済まないと憤慨に身を焼きながらエルトナージュは歩みを進めていく。その彼女の足が途端に止まった。
  廊下を遮るように立つサイナの姿があった。
「エルトナージュ様、どちらへ?」
「後継者に用があります。そこを退きなさい」
「申し訳ありませんが誰であろうとお通しする訳には参りません」
「何故です。宰相であり、先王の娘でもある私が後継者に話があると言っているのです。そもそも近衛騎団の一団員が私の通行を遮る権利はありません」
  怒りに染まっていたエルトナージュの瞳が細められる。凍えた焔が宿る。
「近衛としてではなく、アスナ様に剣を捧げた女としてここにいます」
  なぜか、サイナの口から出た”女”という言葉が胸の中で黒い何かに変わる。
「そう。ならば近衛としてではない者を後宮に入れる訳にはいきませんね。すぐに排除するようヴァイアス団長に要請しましょう」
  王族といえども近衛騎団を指揮することは出来ない。だが、エルトナージュは王族であると同時に宰相でもあるのだ。近衛は彼女の要請を断ることは出来ない。
「ご自由に。ですが、幾つかお伺いしたいことがあります」
  サイナのその言葉でエルトナージュは察した。彼女は自分に会うためにここにいたのだと。同時にこれがサイナからの挑戦だと定めた。戦いである以上、逃げはしない。
「何でしょう?」
「貴女はアスナ様をどうしたいのですか?」
「…………」
  答えられるはずがない。彼女自身、アスナをどうするのか持て余しているのだから。
  決まっているのならば余計なことなど考えずに実行に移すことが出来る。
「答えられませんか。そうでしょうね。エルトナージュ様のご気性ならば心に定めたならば行動に移されていますからね。デミアス卿を罷免した時のように」
  彼女はまっすぐにエルトナージュを見た。その瞳には小さな怒りが宿っているのが見て取れる。エルトナージュのような無差別に焼く炎ではなく、まっすぐに彼女だけを焼こうとする炎が。
「内乱末期、アスナ様からエルトナージュ様とどう接したら良いのか相談されたことがあります。その際、私は言葉を交わすことから始められてはどうかと答えました。アスナ様のことです。私の拙い助言を受け止めて下さったはずです」
「…………」
  確かに勉強を見て欲しいとか、食事を一緒にしようとか何度も話しかけられたことがある。借りを返すために彼の勉強は見たがそれ以上のことは言外に拒否してきた。
「確かに何度か政務以外のことで話しかけられたこともあります。ですが、私が宰相である以上、後継者と距離をとるのは当然です」
  言いつくろいである。だが、王族としての育ち故か口調に後ろめたさなど微塵も感じさせない。
「それが本心だとはとても思えません。エルトナージュ様は逃げているように見受けられます」
「私は、逃げてなんかいない!」
「なら、なぜアスナ様と言葉を交わさないのですか。君臣の間に距離があるのは理解しています。ですが、そんな型にアスナ様を当てはめることは不可能です。あの方は死地にある時、自分のために死ねとは言わず、自分と共に生きろと吼える方です。階(きざはし)の上の玉座にあるより、触れあえる場所にあることを望む方です」
「だから何だというのです。彼が望む関係と私が望む関係は別でしょう」
  しかし、サイナは小さく頭を振った。
「自分を偽るのはお止め下さい。団長やミュリカがアスナ様と話されている姿を目にされたエルトナージュ様が寂しげな顔をされていたのを知っています」
「何時のことを言っているのか知りませんが、そんなことはありません」
「そうですか。ですが、忘れないで下さい。すでに手は差し伸べられていることを。エルトナージュ様に握り返してくれることを望む手が」
「…………」
  無言のエルトナージュにサイナは一礼すると足を踏み出した。彼女と交差する瞬間、サイナは最後に言葉を残した。
「アスナ様は何があろうとエルトナージュ様の味方です。私は……それが羨ましいです」

 エルトナージュに背を向けて足早に去るサイナの顔は悲しみに歪んでいた。
  アスナがエルトナージュに差し出す手は、同時に彼女を求める手であることをサイナは知っている。自分ではないことが悲しかった。
  だから、職務を終えたら一人で泣こう。一人ならば誰にも心配をかけずに済むから。

 目覚めは最悪であった。
  両手足を縛られて底なし沼に放り投げられたような無力感が身体を支配している。
  目を開けることすら億劫で、このまま沼の底まで落ちていった方が楽なのではないかと思われるほどだ。考えることすら面倒だ。
  が、すぐ近くにある気配が気になって再び眠りに就くことが出来ない。ゆっくりと目を開ける。朧な視界に入ってきた色は翡翠の色。淡い明かりの中でも鮮やかな翠の髪の主は俯いたままで表情は分からない。
「エル? なんで……」
  彼女が自分の側にいるのが不思議でならなかった。閣議の時か、ごく偶に魔法の練習に付き合って貰う時ぐらいでしか顔を会わさない彼女がベッド脇に座っている。
  自発的にエルトナージュがこの部屋に来たのは初めてのことかもしれない。
  室内には闇が満ち、光量を抑えたランプの灯りがアスナとエルトナージュの周囲を照らしていた。すでに夜なのだ。
「あっ!」
  慌てて身体を起こそうとしたが、一瞬目の前が真っ黒に染まり身体は起きあがることを拒否する。アスナは諦めてそのままベッドに身を沈める。
「……ゴメン」
  閣議があることを忘れていた。
  午前中はいつも通りアスナのもとに持ち込まれた簡単な案件を処理し、昼食前に簡単な運動をしようと王城の中庭に向かおうとした所で記憶がなくなっている。
  そこで倒れたのだろう。全身を支配する倦怠感は前に倒れた時と同じだ。
  深く吐息を漏らすと改めてアスナは、
「本当にゴメン」
「すでに終わりました。それに差し迫った懸案はなにもないですから」
「けど、仕事はちゃんとしないとダメだろ。これからはこんなことないようにする」
  エルトナージュは俯いたままだ。普段の毅然とした空気はどこにいってしまったのか、路傍で迷子になった幼い女の子を思わせる。
  超然とし、大人たちの前でも臆する風もなく宰相としての仕事をこなしている彼女とは思えない。ほっそりとした肩に力はない。落ち込んでいるというよりも、何かを迷っている風にも見える。
「エル?」
「どうして……」
  彼女の声音が少し震えている。溢れ出ようとする感情を押し込めているかのように。
「どうして、いつもそうなのよ」
「何が?」
  エルトナージュは顔を上げた。その表情は彼女の内面を表すように歪んでいる。いつもの仮面はどこにもない。
「貴方には幻想界のことなんか関係ない。なんでそんなに頑張るのよ。過労で倒れてまで。分かってるの。貴方の顔色、凄く悪くなってるのが」
「だって、しょうがないだろ」
「しょうがなくなんてない! 貴方は知らないでしょうけど、為政者として立派だった魔王は本当に数が少ないわ。みんな、身に余る力を持て余して結局、儀礼を司るだけの存在になって生涯を過ごすの。政務なんて放り投げて気楽に過ごせば良いじゃない。それに貴方は幻想界の者じゃない。余所者なんだから」
「余所者でも出来ることはある。それに内乱中、立ち寄った街じゃ必ずラインボルトの事を頼まれたんだ。街の有力者にじゃないぞ。そこらにいるような普通の人に頼まれたんだ。この国を頼むって言われたのに内乱が終わったら後は放ったらかしなんて出来るか。それに……」
  重い身体を強引に起こす。
「言ったろ。エルの夢を手伝うって」
  揺らぐ黄玉の瞳を真っ直ぐに見てアスナは続ける。見栄も虚飾もなくただ心に浮かぶままエルトナージュだけに言葉を贈る。
「初めて会ったあの時に言ったことは今でも変わってない。オレはエルの手助けをするって言ったことは本当だから」
「なんでよ。なんでそんなことが言えるのよ。わたしは貴方のことが嫌いなのよ!」
「あれだけ言われれば嫌っていうほど分かるよ」
  苦笑が浮かぶ。魔王とするために召喚していながら、彼女はアスナに「魔王になることを認めない」と言ったのだから。
  エルトナージュは自分の母親を敬愛し、その血が自分の中に流れていることに誇りを持っているが同時に自分に流れる人族の血に言い様のない嫌悪を抱いている、と以前ミュリカから聞かされたことがある。彼女付きの侍女であるシアに対する思いも同じなのだろう。
  アスナへの感情はさらに複雑なのだろう。人族であることはもちろん、魔王の後継者に選ばれたことも彼女の悪感情を増幅させる要因となっているのだろう。
  人族は彼女から母親だけではなく、魔王の力と地位を奪っていったから。
「だったら、なんでわたしの手助けをしようだなんて言うのよ! 同じように嫌えば良いじゃない。貴方の権勢を邪魔する者だって排除しようとすれば良いじゃない。わたしもその方が貴方に対処しやすくなる。どうして、敵にならないのよ」
  絞り出すように叫ぶ彼女の声音は拒絶というよりも、哀願に近い。
「それは無理な相談だよ。オレはエルの敵になんかなれない」
  自分の胸に手を当てさらにエルトナージュは叫び続ける。
「なら、敵になれるようにしてあげる。私は貴方の暗殺を考えたことがあるの。一度は自分の手で……」
「うるさい!」
  出せるはずのない大声で彼女の叫びを止める。再び視界が黒く染まるが気合いで押し留まる。
「そうやって自分から悪者になろうとするな! 仮にエルの言ったことが本当だとしても絶対に信じないぞ。オレが信じなかったら嘘なんだからな」
「そんな、無茶苦茶よ!」
  エルトナージュが悪役になることなど許されないのだ。彼女は他人よりもずっと頑張って、今も頑張り続けているのだ。その彼女を悪役になどさせてなるものか、と。
「あぁ、そうだよ。オレは無茶苦茶だ。内乱終わって細々と訳の分からないこと押し付けられてどうかしてた。オレが出来ることは無茶言って人を動かすことだけなんだ。自分で何から何までやろうなんて考えてたのがバカだった!」
  このとき、アスナは完全にキレていた。自分自身でも何を言っているのか分からないほどに。だからこそ、彼の口から出る言葉は全てが本音だ。
  そして、アスナは起きあがるとエルトナージュの胸ぐらを掴み、自分の方に寄せた。
「良く覚えておけよ。オレは、エルの味方になるって決めたんだ。もう、周りにあわせてどうこうするなんて考えない。これからはオレはオレの好きなやり方でやってやる。嫌なら嫌でいいさ。オレはオレで勝手にエルの味方をやってやる!」
「そんなのただのお節介よ」
「あぁ、そうだよ。けどな、うちのジイさんが言っていたんだ。誰かの味方をすると決めたなら、お節介と言われても自分が納得できるまでやり続けろってな。だから、オレはエルの味方を止めないぞ。まだエルのために何もやってないんだからな」
「迷惑!」
  自分の胸ぐらを掴むアスナの腕を振り解くと今度はエルトナージュがアスナの襟を締め上げた。
「だいたい、どうしてそこまでわたしの味方であることに固執してるのよ。アスナの一番理解できないところはそこなの!」
「そんなのエルが大切だからに決まってるだろ」
「……ななっ!?」
  捕まれた襟首をそのままにアスナはエルトナージュの両の頬を思いっきり引っ張る。
「何だよ、あの人前で被ってる鉄仮面は。ずっとあんな顔されてちゃ心配して色々と口も手も出したくなるのが普通だろ。もっと気持ちを顔に出して良いんだぞ。ってか、むしろ思いっきり出せ! はっきり言って平気な顔してるつもりなんだろうけど、雰囲気で丸分かりなんだよ」
  仕返しとばかりにさらにアスナの襟を締め上げてくる。苦しいがまだまだいける。
「わたしはこの国の宰相で王族なの! 私の感情で一々周囲が慌ただしくなっては困るからよ。なぜ、そんなことも分からないのよ」
「分かる訳ないだろ。悔しかったりむかついたりしたら怒ったらいいし、嬉しかったら笑えばいいんだ。悲しかったら泣けばいいんだ。エルの方こそ分かってんのか!」
  そう言って思いっきり彼女の頬を引っ張る。そして、そのまま持ち上げた両手でエルトナージュの肩を叩く。握る手に力が篭もる。
「エルはオレと同い年なんだぞ! もっと気持ちを表に出して良いんだ。それに周りはみんな大人なんだ。女の子一人怒ったとしてもそれで遠慮なんかするかよ」
「そんなことない! 私は宰相よ。彼らの罷免権を持ってるの!」
「そんなことある! ミュリカから聞いたけど、今の大臣たちってエルが選んだんだろ。中にはエルの先生だった人もいるんだろ。クビになるぐらいで遠慮するもんか!」
  さらにアスナは続ける。
「大体、一人でなんでもかんでも抱え込むな」
「あ、アスナには言われたくない。何を考えてるか知らないけれど、四六時中難しい顔してるくせに」
「だから、これからは難しいことは考えない。もう一度言うぞ。オレはやりたいようにやるって決めたんだ。徹底的に周りを巻き込んでやる。ラインボルトだけじゃないぞ。幻想界全部だ」
「周囲に迷惑をかけて、私の味方をして、それでアスナの手に何が残るのよ。ただの自己満足って言うつもり?」
「極端に言えばそうだよ。オレはエルの笑顔が見たいんだ」
「……なぁぁっ!?」
  これ以上ないまでに近づいた彼女の顔が暗がりでも分かるほどに紅潮している。アスナもそうだ。しかし、勢いは止まらない。完全に開き直りの境地である。
「笑ってる時のエルって本当に可愛いんだぞ。だってのにいっつも鉄面皮で仏頂面なんか勿体ない。ミュリカにだけ笑顔を向けるのはずるい!」
「む、無茶苦茶! そんなことで……」
「男にはそれで十分なんだ」
  臭いセリフここに極まれりだな、とアスナは思った。だが、同時に深い満足感も覚えた。昔話をする時のジイさんたちが決まって口にしていた言葉だ。
  妙に誇らしげにこの言葉を言うジイさんたちに一瞬、触れられたような気がした。
  満面の笑みが浮かぶ。何となく恥ずかしくて隠そうとしても無理だった。
  ガタッと椅子を蹴倒してエルトナージュが立ち上がった。
「エル?」
「ば……」
  見上げる彼女は真っ赤な顔だ。肩と同じく握った拳も震えている。
「バカー!」
  部屋を震わせるのではないかと思わせるほどの大音量で叫ぶとエルトナージュは逃げるように部屋から飛び出していった。
  残されたアスナは至近で浴びた大声でベッドの上で撃沈していた。
「さすがはお姫様。大声も半端じゃない」
  と訳の分からないことを呟く。まだ、耳の奥が痺れているような気がする。
  仰向けに寝転がる。自分にかけられたシーツがひんやりとして気持ちが良い。
  体が重く体調は悪いが、気分は最高だった。恥も外聞も気にせずに一気にぶちまけてすっきりとした。結局のところ、そういうことなのだ。
  外交がどうだ、エイリアやロゼフがどうだ、内政がどうだなどアスナの立ち位置に関係ないのだ。他人の迷惑も関係ない。ただ、エルトナージュの味方をしたい。
  バカで無茶苦茶で正気を疑われる理由だが、アスナにとってはそれで十分。
  そうとなれば、自分に何が出来るかすぐに思い浮かぶ。
  今はゆっくりと寝よう。明日から始めるのだ。
  本当の、アスナの幻想界統一を。




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