第三章

第二話 エグゼリスの夜


 今後の方針は決定した。
  ラインボルト・アクトゥスを中核とした多国間同盟を形成し、その国力を利用して外交問題を解決。同時にラディウスを併呑し、国力を増強する。
  最後にアクトゥスを解体し、確たる覇権を幻想界に築く。それをもって幻想界統一とするのだ。
  その道程は厳しく遠い。だが、明確な目標が設定されればそれを希望として歩むことが出来る。方針を決定することは非常に重要である。
  だが、ラインボルトの第一位、第二位者である魔王の後継者と宰相、つまりアスナとエルトナージュがこの方針を採択したからと言って、そのように国を動かせる訳ではない。
  不可能ではないが、軋みを上げながら進むことになる。今、アスナたちが直面している問題は出来るだけ多くの賛同者を勝ち得ることだ。
  そういった訳であの鉄板会議から今日までの一週間、アスナは精力的に人と会っていた。
  これまでも多くの面会者と会ってきたが、それとはまるで姿勢が違う。
  今は面会希望者とだけではなく”アスナが会いたいと思った人物”を招待し、時には自分から足を運んで話をするようになった。
  パッと招待客一覧を目にしたとしても、招待基準を推測することは難しい。
  諸大臣や議員、高級官僚から大商人。絵師や音楽家、大道芸人などの芸術家。魔導士などの技術者と節操がない。面白そうなものを片っ端からという印象が強い。
  だが、これがアスナの仕事なのだ。
  今後のラインボルトの舵取りをどうするか意見を話させ、それとなく「アクトゥスから同盟しようって話が来てるけど、どう思う?」と聞き出していた。
  その際、アスナは絶対に自分の意見を言わない。ただアクトゥスに好意的な発言をするに止めた。それ以上に踏み込んだ発言をしたのは一度きり。
  ロゼフに占領されているワルタ、エイリアに蹂躙されたアシン出身の議員と会食した際に、
「どこかと同盟出来れば問題解決に弾みが付けられるんだけどな」
  と、言ったぐらいだ。それらの情報は交換され、一つの解となる。
  後継者はアクトゥスとの同盟を悪いものではないと考えている。
  この推測はラインボルトを枢要にいる者たちの間でそれなりに説得力があるものと受け取られている。アスナは賛成、反対の意見を両方聞いた上でそういったことを匂わせる発言をしたのだから。
  これが鉄板会議で決まったアスナの役割なのだ。
  アクトゥスとの同盟をどうするかの議論を活発化させ、同時に国論を同盟賛成に傾けることだ。招待客との面会を始めてから一週間、それなりに成果は出ているようだ。
  アスナの発言を拡大解釈して賛成派は足場を固め、様子見をしていた者は勝ち組になろうと賛成に目を向けつつある。反対派も消極的反対と積極的反対とに別れることになるのではないかとはLDの意見だ。
  大商人たちとは経済状況への不満を和らげるためだ。後継者と知己を得たというのは彼らにとっても色々と利があるのだ。
  同時にフォルキスたち革命軍を支援していた大商人たちとも積極的に招待をした。彼らの名誉を幾らかでも回復させてやることで恩を売るわけだ。
  少数の大商人が富を集めるのでは都合が悪い。多くの商人たちが牽制しあうことで富の偏在を阻止する狙いもある。
  最後の芸術家たちとの面会は世間への印象操作だ。
  良くも悪くもアスナは武力で内乱を収めた。それは頼もしいと同時に粗野、無骨といった余り格好の良くない印象を持たれてしまう。
  芸術への造詣が深くなくても構わない。それを楽しめる人物だと思わせられればそれで良い。人を和ませるのは剣ではなく、芸術なのだ。
  一方、エルトナージュはアスナが作った雰囲気を活用して議論を戦わせ、様々な準備を始めていた。内務省には同盟の締結、拒否することでどのような問題が発生するか調べさせた。軍には対ロゼフ、エイリア問題と国境周辺で紛争が起きるか否かの検討を、と警察庁には難民流入による治安悪化への対処を、外務省にはアクトゥスと同盟締結の条件を交渉すると同時に拒否した場合の国際情勢はどうなるか推測し、それにどう対処するべきか検討させた。
  内外にラインボルトを統括しているのはエルトナージュであることを示すことでこれまでの失点、つまり内乱を起こした宰相という印象を払拭しようという狙いがある。
  同時に各省庁から同盟に対する意見を出させることで、これから決定するラインボルトの国家戦略が彼らの意見を素案として作成されたものだと思わせるよう誘導するのだ。
  どれだけ優れていようと大上段から方針を押し付けられるよりも、自分たちが意見を出して築き上げた戦略の方がやる気が出るからだ。
  そして、LDはエルトナージュから届けられた各種意見を参考にして自身が立案した大戦略を修正し、具体化する作業を続けていた。
  三者がそれぞれに出来ることをやっており、それが着実に目標へと向かって進んでいるのがアスナには楽しかった。国の行く末を決める大切なことなのだと分かっている。
  それでも楽しいのだ。不謹慎だと言われるかも知れないが、悪巧みは面白いものなのだ。

 すでに日は沈み、どの家庭でも家族の団欒を楽しんでいることだろう。
  彼女、外務大臣ユーリアスは近い将来、ラインボルトを掌中に収めることになる少年と談笑していた。彼女の役宅に訪れた後継者はユーリアスの家族と晩餐をともにすると今は二人きりで談笑していた。
「改めてなんだけど、今日はホントにいきなり押し掛けて申し訳ない」
「殿下をお迎え出来たことは我が家の誇りとなります。そのような言葉は不要に願います」
  一人の政治家として後継者の訪問は非常に意味のあることだ。彼女は外務大臣の地位にあるが、その立ち位置は臨時職に近い形にある。彼女は魔王にではなく、宰相によって任命されたからだ。こうして、後継者と親しくすることでその立場を確かにすることが出来、省内での発言力強化に繋がる。
「そう? 良かった。ようやくこっちにも馴れてきたから、色んな人と話をしたくて押し掛けたり、招待したりしてるんだけど。ホントは迷惑がられたりしたらいやだなぁって思ってたんだ」
「それは杞憂ですよ、殿下。不快な思いをする者はいないと思いますわ。むしろ、お会いしたいと願っている者はたくさんいるはずですよ」
  その一方で、この後継者の訪問に警戒もしていた。
  後継者がこの一週間、目を見張るほどの数の人物を招待している。それらはとても幅広いが公職にある者たちには一つの共通点がある。
  ラインボルトの将来をどうするのか。そのためにアクトゥスの同盟をどう考えているのか。後継者は明言を避けているが、それなりの方針を持っているはずだと彼女は推測している。今でも明確に思い出せる。真っ直ぐに、無邪気に放った「幻想界を統一する」の言葉を。それをまだ本気にしているのかは分からない。
  本気にしているのならば、今回のアクトゥスとの同盟と連動させて国際情勢を動かそうと考えているはずだ。何しろ彼にはあのLDが軍師に就いているのだから。
「殿下はこちらに召喚されるまで学生であられたとか」
「うん、そう。こっちで言うところの……なんだろう? ゴメン、まだこっちのこと良く知らなくて」
「仕方有りませんわ。おいおい理解されていけば宜しいかと思います。私にも一人息子がおりまして、今は大学院で勉強に励んでおります」
「へぇ。それじゃ、将来は外務卿と同じ道に?」
「そのようです。親としては嬉しい反面、もう少し得の出来る職業に就いて貰いたいと思うのですが」
「それはオレも思うな。それなりに良い生活させてもらってるんだろうけど、気疲れするわ、仕事は山積みだわ、戦争中だわで割に合わないよ。ホント、オレにも給料寄越せって叫びたいよ」
  そんな後継者の愚痴にユーリアスは苦笑する。
  確かに王なんて職業は真面目にやればやるほど割に合わなくなる。積極的に政務を取り仕切ろうとすれば官僚や議員たちから不快感をもたれ、王宮府の職員からは王としての儀式を執り行う回数が減ると渋い顔をされる。
  軍からは近衛騎団に権益を侵害されるのではないかと疑心暗鬼をされることもある。
  それらを一つ一つ耳に入れ、届かなくても想像して色々と調整をしなければならない。本当に王という職業は割に合わない。
「ですが、一時期の張りつめた雰囲気が無くなり随分と余裕をもたれているようにお見受けしますよ?」
「それはね。色んな人と話をして、みんなそれぞれの立ち位置で頑張ってるって分かったから。あの空回りっぷりを思い出すと恥ずかしくてたまんないよ。」
  だが、それぞれの立ち位置にある者が主張することは身勝手なもので、それをどう調整するのかで悩むものだ。後継者にその悩みがないということは彼の中に明確な何かがあると考える方が自然だ。
  近衛騎団を掌握し、瞬く間に内乱を収めたこの少年は大器であると彼女も感じているが、だからといって無意味に泰然自若と出来る性格でもないと思う。
  そんな後継者が平静としていられるのはすでに方針が決まっているから。
  それはアクトゥスとの同盟を後継者が望んでいるということ。
「後継者となられた方は誰でも必要以上に気負うものですよ。私は外務大臣という重職にありますが、もし何かの間違いで殿下のお立場に据えられれば混乱いたします」
  それは紛れもない本心。外務省の長に立つことは望んでも、国家の主になることは望みたくもないと彼女は思っている。
「ありがとう」
  小さく頭を下げると後継者はカップに口を付けた。ふぅ、と吐息を漏らす。
「あのさ、外務卿。ここだけの話なんだけど……」
  そう言って後継者は身を屈めて、彼女に近づいた。
「なんでしょう?」
「幻想界に召喚されたばっかりの頃、オレ会議の時に言った”幻想界を統一する”ってヤツ。あれ、みんなどう思ってるのかな?」
「どう、とは?」
「ほら、これから反撃だ! って時だったからさ。何かみんなに気合いが入るようなことを言わなくっちゃって思ってあんなでっかいこと言ったんだ。それで、まぁ何と言いますか」
  そう言う後継者はかなり目が泳いでいる。
  ……勢いで言ったことを取り消したいけど、どうしたら良いのか分からないのね。
  彼女は幾らか微笑ましい気分になると同時にその相談相手として外務大臣である自分を選んだのには感嘆の念をもった。
  この後継者が放った幻想界統一宣言に諸外国は公式声明を出していないが内心では警戒しているはずだ。それを内々に否定しておいて欲しいということだろう。
  誰かの入れ知恵なのだろうが、自ら足を運んで取りなしを頼んできたことは好意に値する。それに後継者が即位した後も信頼を勝ち得ることが出来るだろう。
「多少、不謹慎ではあったと思いますが、あの場では必要だったと思いますわ。もし、殿下が強い言葉を選んでしまったとお思いでしたら、私の方から否定しておきましょうか?」
「……うん。その、お願いできるかな?」
「承りました。今後も何かご懸念がありましたら私にお申しつけ下さい」
「ありがとう。……ふぅ、良かった。これからアクトゥスと同盟するかしないかって時にこんな噂が流れてたら困るもんな。変に周りの国を刺激しても損するだけだし」
  ここでアクトゥスの話が出た。だが、ユーリアスは表情を変えずに後継者の目を見て、尋ねた。
「アクトゥスとの同盟、殿下はどうお考えですか?」
  交渉の基本は第一撃で相手を脅かすことだ。一外交官としての常套手段をとった。
「……オレの素人意見よりも、外務卿の……」
  だが、ユーリアスは後継者の言葉を遮った。
「殿下。外交官とは国家の主の意志を携えて交渉をする者のことです。私にも意見はあります。しかし、最終的な決断を下すのはラインボルトの主となられる殿下です。お考えを伺わせて下さい」
  間が生まれる。ささやかな間を挟み、後継者はカップから立ち上る湯気を見ながら口を開いた。
「ラインボルトが積極的になれる方を選びたい。守るにしても反撃する機会を窺ってないと勝てないしさ。今は痛くても最後にはこう両手をあげてよっしゃー!」
  後継者は身振り手振りで言った。天井に両の拳を突き上げている。
「って叫びたいんだ。かなり恥ずかしい言い回しで申し訳ないけど」
「率直で宜しいかと思いますよ」
  と、ユーリアスは笑いを噛み殺す。品のある初老の女性なので、アスナも釣られて笑ってしまう。
  その一方でユーリアスは後継者の意見を汲み取っていた。
  今のところ同盟支持に傾いている、と。
  同盟否定派の多くはリーズと事を構えるべきではないとか、良い様に使い捨てられるだけだという消極的な意見ばかりが目立っているからだ。
  同盟をせずにこうしようという案が聞こえてこない状況では無策と同じである。
  火中の栗を拾うことになるのか、死中に活を求めることが出来るのかは分からない。ただ、確かなことは手を伸ばさなければ栗は拾えないということだ。
  ……どちらの結果になるか分からないけど、後継者が同盟支持に傾いているのならそのための研究にもう少し人員と予算を割り振っておいた方が良さそうね。
  そして、今の発言を口外せずにいようとユーリアスは心に決めた。
  これを聞いた否定派が積極策を見出そうとしても碌なものにならないのは予想がつくからだ。
  その後、政治的な話はなくなり気楽な雑談となり、やがて暇の時を報せるノック音が響いた。
「失礼します。アスナ様、そろそろお時間です」
  近衛騎団から転属したという秘書官の少年だ。小間使いのようなことをしていると聞いている。
  腰を上げた後継者を見送ろうとユーリアスは玄関に足を運ぶ。すでに彼女の家族が玄関に揃っており、後継者は一人一人に礼を述べていった。最後にユーリアスに声をかけた。
「ん。それじゃ、外務卿。今日はその、色々とありがとう」
「またのご訪問をお待ち申し上げます」
  そう言って彼女は一礼をした。後継者はそれに頷きで返礼をすると秘書官の少年を引き連れて王城へと帰っていった。
  気さくな人物とは言え、そこは次の魔王である。さすがに緊張したのだろう。途端に玄関に集まっていた皆の雰囲気が弛緩した。
  だが、それを見計らったかのように外務省官邸付きの執事が顔を見せた。
「閣下……」
  何事か耳打ちするとユーリアスは小さくため息を漏らした。
「すぐに準備をして。……申し訳ないけどまた大切なお客様がいらっしゃいます。お出迎えをお願いしますね」
  申し訳なさそうに家族にそう言うと彼女は小さく息を吸い、威儀を正した。
  程なくして姿を現した人物にユーリアスと彼女の家族は最敬礼をもって出迎えた。
「拙宅にお越し頂き恐悦至極に存じます」
  アスナにしたよりもさらに辞を低くして彼女は続けた。
「外務大臣ユーリアスにございます。後継者殿下」

 印象に残るのは頭髪と同じ色の瞳だろう。
  一見すれば鎮火しつつあるような弱々しい焔の赤。
  だが、一度その内を覗こうとした者を焼き尽くさんとする紅蓮が宿っているのではないかと思わせるほどに意志の力が彼の瞳には宿っている。
  その身を包む色鮮やかな紅の装束よりも彼の本質を語っているように思える。
  長く外務省にあり、何度と無く貴顕と相対したことのある彼女だが竜の貴族を前にする時は常に緊張を強いられる。それは種族として存在する絶対的な力の格差。
  竜の貴族にのみ許された装束を纏う青年は紛うことなき正貴族。竜王の国リーズにて伯爵位を有する人物であり、襟にある赤い竜刺繍が赤竜に連なる者であることを示している。
  竜の貴顕で伯爵ともなれば相当な地位だ。本人の才覚次第で国の中枢に席を設けることも不可能ではない。だが、彼には一つ致命的な欠陥があった。
  両親が純血の竜族であるにも関わらず彼は先天的に竜へと戻ることが出来ない眷属、忌み子だったのだ。それは竜族にとって最大の汚点。
  忌み子を生んでしまった両親は周囲から白い目で見られることになる。
  幸いにも後に弟が生まれ、家格を下げる事態にならなかった。だが、当人にとってはどうでも良いことだ。忌み子にとって身近な比較対照が出来ただけのことなのだから。
  そういう環境で育つ忌み子の多くは二つの道を歩むことになる。
  一つは自暴自棄となり、やがて法によって処断される道。もう一つはひたすらに己を磨こうとする道を歩む者たちだ。
  青年、アルニス・サンフェノン伯爵は後者の道を歩くことを選択した。
  彼の半生は決して煌びやかなものではない。ただ、燃え続ける為だけにありつづけたといっても過言ではない。
  周囲に自分を容認して貰うために努力を続けた。
  地位に相応しい知識や技能、礼儀や所作を身に付けてきた。だが、そうすればするほどに耳に届く声が大きくなる。
「忌み子でなければ……」
  アルニスはそれから耳を塞ごうと形振り構わず生きてきた。ただ、ひたすらに自身を燃やし尽くすように生きることこそが赤竜に連なる者として相応しいと言わんばかりに。
  それがどのような半生だったのかユーリアスは知っている。外務省が調べ上げた彼の経歴や風聞はどれも忌み子に対する風当たりの強さを物語っている。
  だが、同情するつもりは全くない。そうする必要がないからだ。
  一人の公僕として彼を見た場合、非常に有能だからだ。
  早世した父に代わり領地経営を始めたアルニスは忌み子の風聞があるにも関わらず、大過なく統治していた。何か問題が起きても迅速かつ的確に指示を行った。
  地方行政を統括する内務省に欲しい人材と言えるだろう。同席する前内務大臣シエンがアルニスを次代の魔王にと押すのも分からなくもない。
「外務卿」
  発せられる声音は非常に重々しい。威圧的ではなく、峻厳なる峰を前にして圧倒されるような印象を与えてくれる。人を率いる者が求める深みがある。
  勇武の相ともいえる強面と立派な体格がその印象を際だたせている。今は感情の色を見せない紅の瞳だが、自分の庇護者には慈愛を向けるのだろう。
  危難を打ち払うような厳めしい相貌、領民に対する慈愛を示す優しげな瞳の伯爵様。
  それがサンフェノン領の民が彼に捧げた評価であった。
「早速だが本題に入ろう」
  自分の対抗者たるもう一人の後継者、坂上アスナがつい先頃までここにいたことを知っているだろうに何も探りを入れてこない。まるでアスナの存在なぞさしたる障害にはならないと思っているかのように。
「先日、指示をしていた我が故国との同盟だが、政府内ではどのような意見なのだ」
  アスナがアクトゥスとの同盟を考えているのと同じように、アルニスは故国と同盟しようとしている。ある意味、当然のことだ。
  現在、リーズとアクトゥスは大きな火種を抱えている。それはすでに何かしらのやりとりで解消できる段階にはなく開戦もやむを得ないという意見が出始めている。
  戦争回避に向けた動きがある一方で、開戦となった場合に備えて各国に対する同盟工作を開始しているのだ。両国の優劣を決する天秤の重りがラインボルトであった。
「静観か、アクトゥスかに傾いております」
「そうであろうな。この国の成り立ちを考えれば無理からぬことだ」
  アルニスは懐から一通の便せんを取り出し、ユーリアスの前に差し出した。
  青い封蝋に刻印された紋章は稲妻と竜の翼が描かれている。蒼竜公の紋章だ。
  蒼竜は竜族でもっとも長く飛翔でき、高速に移動できることから古来より外交の任にある。その長が蒼竜公だ。
  そこから推察するとこの書状は正式な外交文章ではないが、重要な案件であることは間違いない。恐らく同盟の条件についてと見ていいだろう。
  だが、もう一点疑問がある。それは……。
「殿下。ご披見なさらずに私に渡したことは何か意味があるのでしょうか?」
「それはそなたに手渡すように頼まれたものだ。それを私が見るわけにはいかんだろう」
  ……なるほど、そういうことね。
  ユーリアスは納得した。つまり、アルニスの存在が希薄化しつつあるため、リーズ側からの書状を取り次がせることで存在感を取り戻そうということだ。
  自分はもうリーズではなく、ラインボルトの者なのだと言いたいのかと思った。それは深読みしすぎだったかもしれない。
「なるほど。では、失礼いたします」
  ペーパーナイフで封を切る。書状の内容は予想通り。
  簡略に内容を並べるとこのような感じだ。
  アクトゥスと戦端が開いた際、軍を発し国境周辺にて牽制をする代償にロゼフ、エイリア、ラディウスとの問題を協力して解決する。
  周辺諸国にラインボルト復興のための資金援助を呼びかける。
  他にも幾つか経済的に利得となる事柄が列記されている。
  最後に、貴国が賢明なる判断を下すことを求めるで締められている。
「しかと受け取らせていただきました。明日の閣議にて蒼竜公の書状を宰相に手渡すことに致します。その際、こちらの書状の出所は……」
  アルニスはまだ一度も公の場に姿を現したことはない。エグゼリスからほど近い離宮を拠点として多数派工作を続けているだけだ。
  これを切欠に姿を表に出すことも出来るはずだ。アルニスにその気があるのなら事前に周知させておくとユーリアスは言いたいのだ。
「それについては外務卿、貴女のところで取り扱って貰いたい」
  これまで黙っていたシエンだ。彼はアルニスに視線を向けて言葉を続ける。
「不必要に政府を混乱させることを殿下は望んでおられない。貴女たちがこの件について心に留めおいてくれればそれで良い」
「分かりました。そのように致します」
  その後、しばらく政府の近況やラインボルトの復興状況が話題となったがそれも長くは続かなかった。執事に用意させていた酒席が整ったのだ。
  酒を舐めながら会話は弾む。三人は芸術や文化について語り合った。様々な場所に大使館員として訪れたことがあるユーリアスが舌を巻くほどにアルニスは各地の文化について良く知っていた。その語り口調は落ち着きに満ちており、さながら人文学の教師を名乗っても不自然がないほどだ。
  やがて夜が深まり、アルニスは辞去し拠点としている離宮に帰っていった。
  残ったのはユーリアスとシエンだけだ。お互いに卓を挟んだまま言葉はない。
「そうだ、忘れていた」
  不意にシエンが沈黙を破った。彼は持ってきた鞄から小さな箱を取り出し、彼女の前に差し出した。箱には蒼竜公の紋章が描かれている。
「蒼竜公から貴女に、だそうだ」
「そう。……なるほどね」
  箱の中にはグラスが二つ。これが何を意味しているのかユーリアスはすぐに察した。
  大きくため息が漏れる。
「美酒か毒酒か、ね」
  リーズの故事にこういった話がある。
  その昔、東方にあるとある国でのこと。一人の杜氏がいた。杜氏は小さな酒造で酒を造っていたが、ある年のこと、偶然にも杜氏は今まで誰も見たことがないほどの上質の酒をつくりだした。その香りは王を陶酔させ、土地神の祠に奉納すると災害・厄病などがまるでその土地を避けるように起こらず、まさに神酒と謳われた。
  その酒の噂は、天上の神々の王である、天帝のもとまでにも届いた。天帝は杜氏のもとに使いを出し、使いは杜氏の枕元に立ちこう言った。
「今後お前の作る酒を全て天帝に捧げよ」
  しかし杜氏は断った。自分の酒は天帝だけの物ではない、酒を好み、愛する全ての人々のものだ。
  その言葉を聴いた天帝は激怒した。そして次の年、杜氏は新たな酒を仕込んだ。神酒と謳われた酒と同じ手順を忠実に再現した。ところがその年にできた酒は全て毒にかわり、王は倒れ、奉納した土地には疫病が蔓延した。
  杜氏は王の暗殺を企んだとされ、処刑された。
  人々は天帝が自分に従わなかった杜氏に対し、つくる酒の全てが毒の酒に変わる呪いをかけたのだ、と噂しあった。
  このことから、美酒と毒酒、という言葉には自分の力を捧げなければ殺される。つまり、味方をするか、殺されるかの二択を迫る意味となった。同時に逆らえば何が有ろうとも死を与えるという決意表明でもある。
「露骨な脅迫ね。ラインボルトも安く見られたものだわ」
  彼女の口調は怒りよりも、むしろ呆れの色が濃い。
「リーズからすればどこであろうと態度は変わらんさ。むしろ、故事になぞらえただけ分だけ気を遣っていると思うがね」
「仮にも自分のところの貴族が次代の魔王になるのかもしれない国だものね。歯に衣着せた言い回しをした所で傲慢であることに変わりはないけれど」
  以前の同僚であったこともあり、彼女の言葉には気安さがある。だが、それもここまでだ。小さく吐息を漏らすと意識を切り替えた。
「シエン殿。そろそろ本音を聞かせて頂けないかしら? まさかとは思うけど宰相に罷免された腹いせにあの方を担ぎ上げているんじゃないでしょうね」
「それこそ、まさかだよ。これでも私は愛国者だ。正直に言えば姫君には腹に一物あるが、そんなもの幾らでも押し殺せる。純粋にラインボルトの将来を考えてのこと。考えてみて欲しい。私がアルニス殿下を担ぎ上げなければ、間違いなく砂糖菓子に群がるアリのように有象無象が擦り寄り、ラインボルトはさらなる混乱を迎えていたはずだぞ。むしろ、私が彼らを抑えていたから内乱の事後処理が順調に進んだとは思えないかね?」
  話ながらシエンは蒼竜公より送られたグラスを卓に並べ、そこに葡萄酒を注ぎ、それをユーリアスの前に差し出す。次いで自分のグラスにも注ぐ。
「それに個人的な見解だがアルニス殿下を次代の魔王に据えることは悪くはないと思うが? 竜族特有の傲慢さが幾らかあるが、それは威厳とも言えるだろう。その生い立ちと領地経営の実績を見れば重臣たちの意見を良く聞き、上手く調整してくれるだろう。内乱の事後処理という難物を処理するには最適の人物に思うがね」
「外交面でもリーズの権威を利用出来るから、現在直面している諸問題の解決にも役に立つ、と」
  アルニスとアスナの立ち位置は実に対照的である。
  前者は短期的な問題解決には有用だが、長期的に見ればリーズの間接統治を受ける可能性がある。
  後者は短、中期的に困難が幾つも待ち受けているが、ラインボルトの自存自立を守ることが出来る。
「その通り。十六の子どもにラインボルトの将来を担わせるより遙かにましだ」
「仮にあの方を魔王として、貴方はリーズからの圧力をはね除ける自信があるの?」
  のどの渇きを覚えて今まで使っていたグラスを手に取る。さすがに蒼竜公からのグラスで飲む気にはなれなかった。シエンは平気で手をつけているが。
「それは貴女の仕事だろう、外務卿。私はただの民間人だ」
「民間人でいたいのならもうこんなことから手を引きなさい。もし、あの方が王位に就かれれば間違いなく貴方は宰相よ。本人が望む望まないに関わらず周囲が貴方を宰相の地位に押し込める。結局は姫様への復讐なのね」
「否定はしない。だが、勘違いして貰いたくない。それは私の優先順位ではかなり下だ。一にも二にもまずはラインボルトの国益を考えてのこと。この国のことを考えれば私たちはただの歯車だ。だが、噛み合わせの悪い歯車は全体の動きを疎外する。これは排除しなければならない」
  その言葉でユーリアスはシエンが何を考えているのか悟った。
「つまり、ラインボルトがどちらを魔王に選んでも国論を一つに纏まるようにするつもりね」
「その通り。どちらに転ぶにせよ困難が待ち受けていることに変わりない。時勢に立ち向かうためには国論を一つに纏める必要があるからね」
「大した悪党ね」
「悪人でないだけマシだと思うがね」
  そう言ってシエンはグラスを呷った。
  彼のグラスに入っていた葡萄酒は美酒であったのか、それとも毒酒であったのか。この時点では誰にもまだ分からないことであった。

 後継者の私室はちょっとした高級ホテル並の広さを有している。
  ちょっとした人数を招待して宴会を開くことが出来るほどだ。当然のように浴場や簡易のカウンターバーなども設えられている。
  至る所に気配りがなされ、居心地の良い空間となっている。
  もっともその私室の主であるアスナは殆ど寝に帰っているだけであった。極端な話、煎餅布団でもあれば十分なのだ。
  そんな現状と環境の差違に時々アスナは悲しくなるが役得を満喫できる日が来るのを楽しみにもしていた。
  その後継者の私室に続く部屋にちょっとした書庫があった。
  王となる者が学ぶべき知識を著した書物から個人的に趣味のものまで幅広く収められる書庫だ。余談になるがこれら魔王の所蔵する書物は王立図書館の別館に収められることになる。歴代魔王の所蔵した書籍はラインボルトの歴史として残されることになる。
  その書庫に本を収めている二人の男がいた。LDとガレフだ。
  現在のところアスナの家庭教師を自称するLDが表向き古書店業を営むガレフに今後の勉強に必要な書物を持ってこさせたのだ。
  知る者が見れば怪しいことこの上ない組み合わせである。
  二人して黙々と書棚に本を収めているだけなのだが、どうしても悪巧みをしているように見える。ある意味、不幸な二人だ。
  そのガレフに一人の青年が近寄り耳打ちをした。彼は小さく頷く。
「殿下は無事に帰城され、大浴場にて疲れをとられているとのことだ」
「そうか」
「……それからさほど間を置かずに外務卿の役宅にアルニス殿下とその供に前内務卿シエンが訪ねたそうだ」
「ほう。当てつけのようだな。何を話したか分かったのか?」
「残念ながら。むこうにも我々と同等以上の手練れがいるようだ」
  そういうガレフの口調は先ほどと何も変わりはないが、どこかため息のようにLDには聞こえた。
「まぁいい。大方、リーズから何かしらの提案があったのだろう。明日にも分かることだ」
  アルニスがリーズの貴族であることはLDも当然知っている。となれば、リーズがそれを利用しないはずがない。
「分かっていたことだが、これでアクトゥス派とリーズ派とに奇麗に分かれたな。これで色々と本格的に動き出すだろう。内と外で慌ただしいことだ」
  しかし、その口調は楽しげだ。対するガレフは窺うような鋭い視線をLDに投げかけた。
「以前から聞きたかったのだが、なぜすぐにアルニス殿下を擁立しなかったのだ。先に発見されたのはアルニス殿下だろう」
「擁立しなかった理由か」
  収めた本の位置が気に入らなかったのか、LDは入れ替えを始める。
「有り体に言えばフォルキスが彼を好まなかったからだ。内乱中の国をどのような形であれ収めようとしない者を王に迎えることは出来ないとな」
「だが、悪い手ではなかろう。あの時点で宰相側についたとしても負ける可能性が高く、フォルキス将軍についたとしてもお前の手でお飾りにされる。自身を立てようとすれば両者が睨み合いをしているところに出て、仲裁するのが一番だ」
「それを否定するつもりはない。だがな、それは政治家のやることだ」
「王も政治家であることに変わらない」
「確かに。幻想界にいる殆どの王は政治家だ。しかし、それを魔王に当てはめるべきではない。魔王は良くも悪くも幻想の存在だ。政治よりも高みから君臨しなければならない。ラインボルトの民が魔王に期待することは一つ。自身と家族、そしてそれに繋がる周囲の人々。その総体としての国家を守って欲しいとな」
「だが、現実に国を動かすのは政治家だ。アルニス殿下を据えるのは悪くないと思うがな」
  根無し草であるガレフにとって、ここでアスナが失脚すれば途端に大口の雇い主を失ってしまう。にも関わらずアルニスを擁護する発言を続けるのはLDが何を考えているのか探ろうとしているからに他ならない。そこから今後の指針を得ようと言うわけだ。
「平時であればそうだ。だが、この状況下では勢いのある者を玉座に据えた方が良い。アスナは王として些か腰が軽いがな」
  と、苦笑する。
「アスナが王の器であるか私にはわからん。ひょっとしたら、ただ周囲を騒がせるだけの山師なのかもしれん。それでもあれはあの劣勢をひっくり返した。後継者という名前だけのカードを使い、勝負に勝った。それだけでもラインボルトを継ぐに十分な資格がある」
  言いながらLDは法律の入門書に手を触れる。
「そういった武功だけではなく、国事行為を積み重ねることでアスナの存在感は比重を増している」
  国事行為とは憲法に定められた王の儀礼的、形式的な行為のことだ。
  内乱の後始末を行うための”法律を認証”し、先王が崩御した後に組閣し直された”大臣を後継者の名で任命”し、勲章や賞状などの”栄典を授与”している。
  それらは全て王のみが出来る行為だ。
「止めとして名家院を召集すればもはや揺るぎようがない。だが、それはまだ無理だな」
  国会に相当する名家院は召集後、すぐに内閣不信任案を提出するだろう。内乱は宰相派の勝利で終わったがそれは結果にすぎない。
  あの内乱を引き起こした切欠を作ったのはエルトナージュなのだ。その責任を追及する声が出てくるのは当然のこと。そして、それをアスナは受け入れることが出来ない。
  かといってこのまま名家院の機能を停止させたままでは国を安定させることが出来ない。不信任案賛成派の切り崩しが行われているが、あまりはかばかしくない。
  内乱前に言うことを聞かない名家院を解散に追い込もうと画策したエルトナージュへの反発が原因だとLDは考えている。これは損得ではなく、議員たちの意地の問題になっているのだろう。
  それだけにこの点がアスナの急所となっている。早急に何らかの手を打つべきだが、意地に対処することほど面倒なことはない。
  それはアルニスを擁立しようとしているシエンも分かっているはずだ。間違いなくそこを攻めてくる。議員たちもアルニスの存在が支えとなりうる。
  人族に対する偏見の目もある。人族を王に戴くことに不安を覚える者も潜在的に多くいる。脆弱な人族を魔王にするぐらいならば、敵対国であるリーズの貴族出身者を次期魔王に据えた方がましだと考えている者もいるだろう。
「何にせよ内乱を終結に導いたことでアスナの名は内外に知らしめられた。国事行為その他を行い、実績も積んでいる。アルニスらが何をしようと大勢には変わりない」
  それだけに彼らは何をしたいのか全く掴めない。単純にリーズの指示だと考えるべきではない。それはあくまでも一要素でしかない。
  何かしら大きな理由があってしかるべきだ。しかし、それが現段階では分からない。
  そのため彼らに対してLDは静観の構えを維持し、切り崩し工作はエルトナージュに任せていた。
  結局のところ、LDはエルトナージュの進退について関与するつもりはないのだ。彼にとって重要なのはアスナを魔王にし、彼の願いを現実のものとすることだから。
  そのため、彼が力を注いでいるのはアルニスらに対してではない。
「王立諮問局の掌握は済んだ。そろそろ次の段階に進む頃合いだ」
  LDの言う王立諮問局とはその名が示すとおり、魔王の諮問に対応するための機関だ。随分と昔からある機関だが先代の頃、LDの手によってその機能が拡大され、一種の情報機関となっていた。言うなればLDの手足となる部署という訳だ。
  当時、当然のように機能拡大に各省庁は難色を示したが先王アイゼルの裁可が降りたことと運営費が王室持ちということもあり、半ば強引に機能拡大が行われた曰く付きの部署だ。公的にLDはこの王立諮問局の局長の地位にある。
  その諮問局を改編し、その役割そのものを変える準備を始めていた。いわば、幻想界統一の暗部を担う機関として。
「ガレフ。以前から指示していたロゼフへの物資提供者の捜索にさらに力を注いでくれ」
「エイリアからの情報量が減るが構わないのだな」
「当然だ。いつまでも領土を、それもそこそこ名の知れた都市を占領され続けるのは外聞が良くない。軍も早晩動き出すはずだ。ロゼフを追い払うのは彼らに任せ、我々はその後のことを考える」
  そこまで言うとLDはガレフに細かな指示を始めた。
  内外の状況は水面下で動き続けている。

 雄壮。
  そう表現する以外にない雰囲気をその屋敷は醸し出していた。
  客を出迎える玄関は広く、万人を別なく受け入れると同時に威を感じざるを得ない空気を纏っていた。時を塗り込めたように深みのある色調で整えられていた。
  執事に出迎えられた男は帽子を脱ぎながら相変わらずの豪壮さに感心と呆れが綯い交ぜた思いでこれらを眺めた。
  ここはアスナに付け髭のあだ名を付けられたケルフィンの邸宅だ。今日、ここで男たちが今後、どのように動くかを協議するために集まった。
  二人の後継者の間でどう身を処すか。どちらについた方が利があるのか。自分にとって、ラインボルトにとって。
「皆、すでに集まっているのかね?」
  男、ラインボルト軍参謀総長グリーシアはケルフィン家執事にそう尋ねた。
「はい。閣下が最後のお客様となります」
「そうか」
  返事はどこかため息めいている。
  グリーシアは元々、政争に向いている性格ではない。その彼が現在の地位にあるのは多少の運と有力な将官たちの牽制と妥協の結果だ。
  つまり、グリーシアならば大きな不利益を被らないだろうと。そして、それは的を射た判断であった。
  小心であるが故に仕事は着実で、他者の権益を侵す冒険に出たこともない。だが、それ故に現在の地位に固執してもいた。
  通された部屋にはすでに十人前後の顔があった。どれも壮年の域に入った者、もしくは越えた者で構成されている。
  もし、この顔ぶれをアスナが見たら部屋に満たされる紫煙の臭いも相まって、親父クサイとの言葉を口にしただろう。
「来たな、グリーシア」
  いつもながらに立派な髭を蓄えた屋敷の主が彼を出迎える。
「遅くなった。……お久しぶりです、ウォレス議員」
  この場の最年長者である禿頭の老人に一礼する。
「お忙しいようですな、参謀総長」
「お気遣い痛み入ります」
  と、曖昧な笑みで応える。その後、ウォレスの紹介で初見の者たちと挨拶を交わす。
  奇麗に二分されているな。
  雑談を交わしながらグリーシアはそう思った。
  彼と同じケルフィンと親交のある武官たち。片やウォレスを始めとする名家院の議員たちだ。個々人での付き合いはあっても一堂に会するような機会はグリーシアも数えるほどしか経験がない。
「とにもかくにも慌ただしいことだ」
  お互いに顔と名前が一致した頃、ウォレスがそう口にした。本題に入ろうということだ。
「全くですな。ウォレス議員」
  同意するケルフィン。
「この騒ぎを軍はどのように見ておられるのですかな?」
  視線は自然とグリーシアに向かう。この場にいる武官で最上位者は彼なのだから。
「そうですな。軍としては先の内乱のこともあり、政治に必要以上に口を挟むべきではないとの意見が大勢を占めているようです。個人としては色々と思う方もいるようですが」
  と、あくまでもこれは軍の雰囲気であって自分の意見ではないと仄めかす言い方をする。
「目下、軍が気にかけていることは軍の再建とロゼフ、ラディウスにどう対処するか検討することに力を注いでいるのが現状です」
  当然のようにアルニス側からグリーシアに接触が持たれている。あちらも彼の急所を理解しているのか、LDを追放し、今後も参謀総長の地位を保障することを約束してきている。恐らくケルフィンにもアルニスが即位した後に第二魔軍将軍に据えるとの内示が示されているはずだ。もちろん、他の有力武官たちにも。
  ……だが、これに乗って良いのかという思いもある。
  今、首のすげ替え、つまり後継者を変更すればその影響を一番に受けるのは他でもない軍だからだ。
  宰相派に属した将兵たちはアスナに戦友じみた同胞意識を向けている。その傾向は若手の将校、下士官兵に強い。また、革命軍に属していた者はあのフォルキスを破った者として畏敬の念と帰参が許されたことに恩義を感じている。
  軍の指揮が維持され、予定表通りに軍の再建が続けられているのはアスナの存在があるからに他ならない。
  名誉の面でもそうだ。もし、アルニスが後継者となれば授与された勲章や賞状のありがたみは薄れてしまいかねない。場合によっては失効してしまうかもしれない。
  栄典の授与は王にのみ許された国事行為だからだ。
  ただでさえ後継者が軍を動かす法的根拠はない。ここで後継者の変更が行われれば、後継者でもない人族が軍を動かしたとして政治問題化してしまう。
  この問題がうやむやになっているのは魔王不在である現実とただ一人の後継者だという認識があるからに他ならない。
  そのような主旨のことをグリーシアは述べた。
  僅かな間が置かれた。手にした葉巻を弄っていたウォレスが口を開いた。
「なるほど。軍は自身の維持のために坂上アスナを後継者としておきたいと考えているのだな」
「まったくその通りです」
  そして、彼個人の事情としてもアスナを支持した方が都合が良い。確かにLDを廃除できることは魅力的だ。だが、その結果もたらされる事態に参謀総長として対処しきれる自信がない。結果、職責を果たせない人物の烙印を押されかねない。
  小心であるが故に自身を良く知る彼らしい結論であった。
  もっとも彼が口にしたことはこの場のケルフィンを始めとする武官たちも同意していた。
  もう一つ共通点があるとすれば、自分たちが持ち上げた、もしくは帰順したアスナから離反することへの抵抗感が強いといったところだ。
「議員方はどのように見ておられるのでしょう。なかなか慌ただしいようですが」
  と、ケルフィンは尋ねる。
「名家院は一枚岩ではないよ。むしろ、そうである方が珍しい」
  葉巻を弄ぶ手が止まる。
「だが、共通していることもある。内閣が常会の召集を決定しないことだ」
  憲法には年一回国会の常会を召集するとある。議員たちは内乱も終結したのだからすぐに召集すべきだと主張しているが、エルトナージュはそれを拒否している。
  国会の召集は王の国事行為だから、というのが彼女が拒否する理由だ。
  以前からいる国務大臣を追認することや栄典の授与とは違い国会の召集を後継者が行うのは王権の侵害に他ならないと。
「国を正常化するためには一日も早く国会を召集する必要がある。後継者が変われば当然、内閣も替わり臨時会も開催され国は常態に戻る。確かに姫君の言われていることは間違いではない。後継者が王権を行使した前例はない。同時に王が不在という事態も前例がない。だが、現実に問題が存在し、それに対処するのが政治というものだろう」
「超法規的措置、という訳ですな」
「その通りだ、将軍。現状の混乱が落ち着いた後に今回の事態を参考に王室典範を改正し、王が不在の折りの後継者の在り方を規定する。憲法も改正し、それに関する条項を追加すべきだろうが、それでは大事に過ぎる。副王に関する条項を根拠にすれば問題なかろう」
  王は王室典範に基づいて副王をおく場合、副王は王の名で国事行為を行うとされている。
  それを拡大解釈をして、魔王不在時の後継者にも適用しようという訳だ。
「とにもかくにも我々にとって重要なのは国を常態に戻すことだ。それが為されるのであれば何も文句はない」
「では、議員方、いやウォレス議員はアルニス殿下を支持されると?」
「それは性急すぎますな、参謀総長。そうですな、言葉にするのならば好意的沈黙といったところでしょうかな」
  つまり、日和見をしようということだ。今回の件を勢力拡大の材料にするつもりはないと解釈することもできる。
  すでに彼は大派閥の主だ。出遅れたとて彼の存在価値が低下することはない。
  ならば、なぜグリーシアらとこのような場を持ったのか。軍の姿勢を知りたかったのだろう。何だかんだで軍の影響力は大きいのだから。
  対するグリーシアたちが得たものも確かにある。大派閥の主であるウォレスが日和見を決めたという事実だ。それは軍が望む姿勢と合致している。
  このままアスナが後継者であるならば、坂上アスナが正統なる後継者であるのだから要らざる口出しをする必要がないと主張し、アルニスが勝利すれば、先の内乱の反省から軍が政治に口を挟まず、今は軍の再建その他に精励することが第一であると主張すれば良い。
  なんともはや、英雄などになるものではないな。
  と、グリーシアは内心でアスナに同情した。必死になって立ち回った揚げ句に据えられた英雄はただ周囲の者に利用され、消費されるだけなのだから。
  同時に嫌な考えも頭をよぎってしまった。
  英雄を利用する対価は誰が支払っているのだろう、と。
  少なくとも軍は払っていない。議員たちもそうだ。では、内閣か。
  英雄たる坂上アスナを利用しているのは他ならぬ内閣だ。だが、グリーシアは即座に否定する。坂上アスナが内閣に何かを要求したとも、その逆も聞いたことがない。
  ということは一方的に利用しているだけなのだろうか。そんなことをLDが許すとはとても思えない。
  ならばこれから支払わされるのか。それともすでに気付かないうちに支払わされているのか。
「…………」
  なぜか背中にいやな寒気を感じた。
  グリーシアが感じる言い難い気味の悪さを拭い去るようにケルフィンが声を出した。
「さて、難しい話はこれまでにしましょう。ささやかではありますが酒宴の準備をさせています。お時間が許されるのならばお付き合い願いたい」
  その後も一度張り付いた不安感は消えずにグリーシアは悪酔いすることになるのだった。




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