第三章

第三話 アスナなんて大嫌い


 廊下に差し込む月の明かりは鋭い。窓の外に見える大きな月は天頂から傾いている。
  昼行性の種族ならばそろそろ床に就こうかという時間帯だ。
  ここ数ヶ月、煌々とした明かりを宿していた王城も最近は往時の落ち着きを取り戻しつつあった。内乱とその事後処理に一段落つけることが出来た証であった。
  王城を満たしていた明かりと慌ただしさは官庁街にある。もっとも、それは引き潮のようなもの。もうしばらくすれば再び慌ただしさを取り戻すことになるだろう。
  そんな王城エグゼリスの中でどのような時であろうと常と変わらない空間がある。
  王の私的な領域。つまり、後宮だ。
  一個人の居住空間としてはあまりにも広い。その後宮の廊下にティーセットと茶菓子を乗せた台車を押す男がいた。白のシャツに黒のベスト姿から執事の一人だと分かる。
  向かう先は後継者の私室だ。最近の後継者は眠りにつく少し前に小さなカップと二、三枚の焼き菓子を口にしながら書籍に目を通すことが日課となりつつあるそうだ。
  そうだ、というのは彼がまだ後継者付きとなってまだ日が浅く私室にお茶を運ぶのは今日が初めてだからだ。
  廊下には彼の他に誰もいない。守護の任にある近衛騎団の部隊は後宮の入り口などの侵入が比較的容易な場所に配置されているのみ。屋内には入ることはない。
  重要人物だとはいえ、ある程度の公私の区別があって然るべきだ。いくら護衛のためとはいえ四六時中武装した者が側にいては気が休まらないというものだ。
  仮に侵入者がいたとしても、それを廃除、または時間稼ぎをし、異変を外部に報せる仕掛けが施されている。この免疫機構から除外されるのは王族と近衛騎団、そして彼ら後宮に配属された執事だけだ。
  廊下に響く車輪の音が冷たい。冴え冴えと輝く月の銀光に照らされているからそう感じるのか分からない。ただただ、無機質な音を奏でている。
  それを押す男の表情も硬い。武勲名高い後継者にお茶を運ぶことに緊張しているようには見えない。しかし、どこか引きつっているように見えた。
  車輪の音が止まる。ドアの前に立ちノックをする。
  程なくして「どうぞ」と返事があった。
「失礼します」
  扉の向こうで揺り椅子に身を預ける後継者の姿があった。
  後継者は彼に一瞥すると、
「ご苦労様。そこに置いておいて」
  テーブルを指し示すと再び手元の書籍に視線を落とした。
「はい」
  トレイに乗せられたお茶と焼き菓子を後継者に言われた通りに執事はテーブルに置く。
「…………」
  彼の存在など意に介さないかのように書籍を読んでいる。何かの物語のようだ。
  まるで顔を強張らせてしまう心境を誤魔化すための無意味な代償行為だ。
  視線に気付いたのか後継者は側近くまで来ていた彼に顔を見せた。一瞬、彼の表情に訝しげな色を顔に浮かべたが後継者は緊張のせいだろうと思ったのか、
「他に用事はないよ。ご苦労様」
  何のてらいのない労いの言葉と笑みを見せる。
  その無自覚な笑顔に、彼は感極まったように頬を震わせた。

 ――その執事は暗殺者でもなければ、人族差別主義者でもない。
  同僚たちの間でも温厚だと評され、後宮付きを命じられるほどに有能な彼の、この行動の由来は、彼の幼年期に端を発する。

 感極まった表情で執事は両手に力を込め直す。驚愕に目を開く人族の瞳に映る自分は歓喜に満ち満ちている。
  法悦。まさに神の恩寵を受けた者の如くの笑顔であった。

 ――焼きごてを使って痕を付けられたように彼の心に付けられた情景。
  狂を発した人族の声と粘ついたような赤い地面、とても澄んだ黒い空。
  そして、大丈夫だと笑いながら冷たくなっていく父の姿。

 掌に感じる血管の脈動と肉の感触。抵抗に抗しきれず押し込められる喉仏が小さな音を立てた瞬間には性的な快感に近いものを感じる。時折、口から漏れ出す苦悶の吐息は美女の喘ぎをも越えるのではないか。
  中性的とも言える相貌も今や赤黒く、そして醜悪に膨れ上がってしまっている。だが、彼には今こそが愛らしく感じる。
  男にしては細い喉笛にくっきりと手指の痕が刻み込まれている。まるで房事で女の首筋に唇の痕を残したかのような充足感を覚える。
  あの女であればどうだっただろうか。さらに美しい痴態を演じてくれたのか、死に至る道程であろうと気丈なままであったろうか。

 ――人族は彼から何もかもを奪い去っていく害悪そのもの。
  ならば、殲滅すればいい、根絶すればいい。
  ……絶滅させればいい。自身の手で、一人でも多く。
  彼は人族差別主義者ではない。 彼は、人族絶滅主義者であった。

「どうした、人族。父は私のために一晩中死の淵にしがみついたぞ。お前はどうなんだ、人族。不遜にも魔王の後継者を僭称し、ラインボルトを乱したのだろう」
  そうだ。この人族はこの国の軍権を己が掌(たなごころ)で弄んだのだ。あろうことか我々魔族を人族如きが指揮をしたのだ。それは何があろうと許されることではない。
  自然に力がこもる。彼の手指は文字通り人族の首に埋没しようとし、爪は皮膚を食い破り血が滲み出している。
「死ね。お前たちは害悪そのものだ。お前を手始めとして全ての人族を殲滅しきってやろう。無様に死ぬことだけがお前たちに許された価値だ」

 死ね。
  その一言で坂上アスナの思考は短絡した。
  突然の事態への混乱と死に対する恐怖、そして苦痛で満ちていたものが一挙に別の物にひっくり返った。そこに書かれている文字は単純にして明快。
  ふざけるなっ!!
  明確となった思考はアスナに行動を要求する。行動するのだ。
  反撃するのだ、逆襲するのだ、反攻するのだ、逆ねじを喰わせてやるのだ、攻守ところを変えてやるのだ。そして、殲滅する。そう、敵は殲滅しなければならない。
  なぜなら眼前にいるのは間違いなく坂上アスナの敵だからだ。
  敵は殲滅しなければならない。自身の死を許容することを坂上アスナは許していない。
  半ば像が失われつつある敵を睨み付ける。両手で敵の拘束から離脱するのだ。
  呼吸を塞がれ、全身で酸素を求めて悲鳴をあげていようと関係ない。それこそが反撃。そして、逆襲へと繋げるのだ。
  鼓膜を振るわせる敵の声が何を意味しているのか分からないが、関係ない。敵の両腕を掴み抵抗を始める。持てる力を振り絞るが逃れられる様子は全くない。
  だが、唐突に解放された。座っていた椅子ごと思い切り右向きに叩き付けるように。
  何が起きたのかさっぱり分からない。いや、そんなこと気にする余裕はない。
「ごほっ、ごほごほっ!」
  加減なく取り込まれた空気を身体と喉は拒絶し、血痰を吐かせるほどの咳が出る。
  同時にそれまで阻害されていた流れを取り戻そうとするかのように血液が巡り、酷い頭痛を催す。しかし、アスナの思考は蹲り全身の痛みに悶絶することを拒絶する。
  視線を巡らせて逆襲のための得物を探す。見付けた。
  海神(わだつみ)。アクトゥスより戦勝祝いに送られた槍だ。それを手にしたアスナは未だ実体を掴みきれない二つの人影に向けて、槍を上段から振り下ろした。
  アスナに背を向けていた人影は槍の一撃から逃れようとしたが、その隙をついてもう一人から一撃を受け動きを止められる。振り下ろした槍の穂先が人影の肩を打ち付ける。影の肩を幾らか切ったがそれ以上の痛手を与えることは出来ない。
「くっ!」
  負傷を受けて動きを止めた人影は足を払われる。アスナは倒れた人影の右肩に槍を突き立てた。柔らかく硬いものを貫く感触が手に伝わる。
「あぁぁぁっ!」
  さらに槍に体重をかけ人影の肩を貫いた穂先を床に完全に突き立てる。叫び声を上げる人影は間違いなく記憶にある自分の首を絞めた男だ。今は男が無様な叫び声を上げながら必死に槍を引き抜こうとしている。
「人族がぁぁぁぁっ!」
「その通り、人間だ。だが、それがどうした!」
  全身の痛みを無視してアスナは思い切り男の脇腹に蹴りを入れた。つま先に感じる肉の感触が不快だ。
「人間だからどうだっていうんだ。それだけの理由で殺されてたまるか」
  もう一度強く蹴り付けると今度は腹を踏み付ける。
「だから、潰す。逆襲する権利を行使してやる」
  深く息を吐き出すとアスナは改めて男の姿を見た。槍で戒められたその姿は昆虫標本の様だ。アスナの顔に加虐の昏い笑みが浮かぶ。この際だ、完全に標本にしてやろう。アスナは視線を巡らせ、槍かそれを代用できるものはないか探したが見つからなかった。自分の思い通りならなかったことが不満だ。
  聞くに耐えない罵詈雑言を吐き出す男の口が疎ましい。
「五月蠅い、黙れ」
  アスナは踵で男の顔を踏み付けた。一度だけではない。二度、三度と踏み付ける。四度目で男の顎は外れてしまう。足を退けると鼻を潰され、だらしなく口を開いた血染めの顔があった。無様に声もなく呻き続ける男のこめかみに蹴りを加える。
  だが、それでもアスナの衝動は収まらない。顔色悪く完全に白目を剥いていようと安心出来ない。敵は正真正銘人間ではない。完膚無きまでに徹底しなければならない。その言葉が意味する通りにだ。だから、アスナは倒された椅子を持ち上げると男の左足に叩き付けた。逃がすわけにはいかない。まずは足を潰し、その後で完全な無力化を行えばいい。
  椅子を壊すまで叩き付け脚の骨と肉を破壊し、左腕を割れた椅子の脚で何度も叩き付ける。鈍い音を立てて折れた腕を取り、丁寧に指の骨を折っていく。
「はぁはぁはぁはぁ……」
  同様のことを右腕にも行うとアスナは海神を抜き取った。かなりの痛みがあったはずなのに男の口からは絶叫はもうない。狂を発したのか、ぶつぶつと意味不明なことを呟いている。胸に突き立てることにした。頭を破壊して一撃で楽にしてなどやらない。
  槍を構え狙いを定めるとアスナは腕を引き絞った。
「そこまでにしてください。それ以上は死んでしまいます!」
  幾らか甲高い声とともに背後から戒められる。腕は捻り上げられ、あっさりと槍を手放してしまう。完全に固められた。だが、アスナは逃れようと身体を揺する。
「そこまでにして下さい!」
「まだだ! これはオレを人間だからって理由だけで殺しに来たんだ! 反撃される権利を押し付けたんだぞ。何が何でも権利は行使してやる。無力化してやる、絶対にだ!」
「もう、無力化しています。それ以上なされると死んでしまいます!」
  そこに執事と近衛の一団が駆け込んできた。
  室内の惨状に彼らは目を見開いた。床の上に倒れた血みどろの男と羽交い締めにされたアスナの姿を交互に見ているのが分かる。その視線がアスナの激情に冷や水を浴びせかけた。
「……ミナ、離して。もう、落ち着いたから」
  大きく息を吐く。嗄れた声音でアスナはそう言った。ここでようやく自分を戒めているのがミナだと気付いたのだ。恐る恐る彼女はアスナを解放した。
  そこでもう一度、大きく息を吐く。これ以上何もしないと見せるために男から離れた。
「何をしている? 早くこれを運び出せ」
  アスナの声音には隠しようのない憤りが宿っていた。

 後宮で起きたアスナ暗殺未遂の報はすぐにエルトナージュの耳に届いた。執務室で報告書や資料に目を通していたエルトナージュは眉をひそめて、
「明日からの執務に支障はないのですね?」
「侍医の診断では問題ないとのことです。治療を終え、気持ちを落ち着けていただけるよう殿下の私室に香を焚いております」
「そう。この件に関して箝口令を敷くよう内府に、いえわたしが出向いた方が早いですね」
  書類を片付けると執事に案内させて後宮へと向かった。向かう先は近衛騎団の詰め所だ。出入り口の前には臨戦態勢を整えた団員が立っている。
  当然、そこだけではない。殺気だった団員たちが後宮周囲を歩哨している。
  エルトナージュたちの影を認めた団員が身体ごと向けて彼女らに大声で誰何の声をかけてきた。手にした槍が向けられる。エルトナージュは足を止めると名を告げる。執事もそれに続く。
「失礼いたしました!」
  団員は敬礼をすると彼女たちに道をあけた。鷹揚に「お役目ご苦労様です」と労いの言葉をかけてやる。視線を周囲に向けてみれば名を尋ねてきた団員と同じように歩哨していた者たちも臨戦態勢をしていたのが分かった。戦場での警戒態勢そのものだ。
  いや、警備の手順は変わらないが団員たちの気分が違う。
  エルトナージュが詰め所に入るとその場にいる全ての者が一斉に視線を向けた。
  内府オリザエールと執事長ストラトにLD、警備隊長。そして、エルトナージュとさほど年齢の変わらないだろう執事が一人。
  人形であるオリザエールとLDを除く全員が多少の差はあれど顔を青ざめさせている。
「申し訳ありません、姫様」
「まずは状況を聞かせなさい。内府」
  はい、と返事をすると現場にいた女性の執事に見たままを話すように命じた。彼女は簡潔に状況を説明した。
「興奮状態にありましたが、今は落ち着かれたようです。ロディマス医師が治療を施しております。首を強く絞められたため暫くは痕が残る以外には特に外傷はないとのことです」
「……それで犯人が誰なのか目星はついたのですか?」
「顔が潰れて判別が就きにくいですのが後宮付きの執事で間違いありません。責任は私にあります」
  深く項垂れるストラトの表情は死刑宣告を受けた者のそれと同じだ。執事の人事管理は彼の職分だからだ。だが、エルトナージュはそれとは別のことに意識が向いた。
「顔が潰れた?」
  エルトナージュは貴女がやったのですか? と執事を見る。だが、彼女は首を振る。
「殿下がなさいました。自分を殺しに来たのだから、反撃する権利を行使したと仰られて」
  眉を顰める。彼女の知る坂上アスナの性格にはない行動だからだ。アスナならば救援が来くると同時に邪魔にならないよう待避するはずだ。決して自ら手を下すことはない。
  アスナは良くも悪くも煽動者だ。そのはずなのだ。
「犯人は?」
「捕らえています。殿下に止めを刺すことだけは思い留まっていただきましたので」
  止めを刺すなどますますらしくない。いまいち信じられない気持ちのままエルトナージュは、「それでどこに捕らえているのですか?」とたずねた。
「ご覧になられても不快な思いをされるだけと心得ますが」
「わたしがどのような感想を抱くかまで斟酌する必要はありません。案内しなさい」
  しばらく黙考したが結局、オリザエールは詰め所の奥へとエルトナージュを案内した。部屋に入ったと同時に空気が粘ついたものに変わったことが分かった。
  普段は団員たちの休憩室に使っているのだろう。ソファに挟まれるように置かれた長めのテーブルの上に件の犯人が寝かされている。男の処置をしている医師が立ち上がったが、続けるように手で制する。
  一見しただけで酷い有様だ。両腕、両脚ともにあり得ない方向に曲がり、何かで抉られた右肩は簡単に血止めをされているだけのようだ。そして、男の顔は見るに耐えないものとなっている。先ほど耳にした言葉に全くの偽りはなかった。
「本当に彼がこれを?」
  はい、とエルトナージュについてきた女性の執事が頷く。厳然たる事実として存在する眼前の半死半生の男とこれまでのアスナの行動とがあまりにも違いすぎて、どうしても事実だと受け取れない。内心の混乱を押さえ付けて諸々の指示を出すことにした。
  アスナに対する再評価は一時棚上げすることにしたのだ。
「内府。この件に関して箝口令を敷くことを要請します」
  内大臣も内閣の構成員の一人だが、宰相に直接の命令権がない。そのため要請という形を取ることになる。王宮府に対して命令出来るのは魔王と王族のみなのだ。
「そのご指示はすでに後継者殿下より受けております。犯人を治療し、背後関係を調べるようにと。また、執事長および警備隊長の責任は不問とし、今後も仕事に精励するようご指示されました。なお、この箝口令は近衛騎団団長にも適用されます」
  冷静そのものの指示だ。もし、ヴァイアスがこの事態を知れば演習を中断してエグゼリスに戻ってくる可能性が十分にある。そうなれば何事かあったと勘繰られることは間違いない。ますます犯人に対するこの仕打ちをした人物の対応とは思えない。
「では、そのようにお願いします」
  再び顔の形を失った男を見る。改めて執事の証言を反芻する。槍で床に貼り付けにすると両脚を骨折させて逃げられなくし、反撃できないように両手を破壊する。顔面に対する攻撃はアスナの反撃に抗する気を失わせるに十分だ。
  ただの過剰防衛とするには要所を押さえすぎている。
「この男の動機が何か分かっていますか?」
「判明している経歴にも不審な点はありません。アスナ様との接触は少ないので個人的な怨恨も皆無かと」
「人族だからと」
  ストラトの言葉を遮るように女性は言った。
「えっ」
「殿下は人族だからという理由だけで殺しに来たと仰いました」
  背筋が震えた。心臓を掴まれたという表現すら生温い。
  薄く鋭い、しかし決して折れることのない刃を突き付けられたような感触。死ぬことも抵抗することも許されずただ嬲られるだけを目的とした刃を付き入れられたかのように。
  そこに果たして殺意が存在するのか。自動的と評する以外にない衝動を感じた。
  そして、それを向けられる可能性をエルトナージュは有している。
「…………」
  もしかしたらこのテーブルの上で呻き声を漏らしていたのは自分だったのではないかと思ってしまった。彼女は人魔の規格外であり、アスナはただの人族。種族としての力の差は何があろうと覆ることがない。それでもエルトナージュは自分があのようになると想像してしまったのだ。だが、それは妄想でもなんでもなく、現実として確かに存在している。
  他でもないエルトナージュ自身がこうなる可能性を作りだしたのだ。
「そうですか」
  と、エルトナージュは頷くと内府らに背を向けた。それ以上の感想を口にすることが出来なかった。もう一つの彼女の結末を前にして圧倒されていたのだ。
「姫様、どちらへ?」
「自室に戻ります。供は不要です」
  現実から自身を隔離するかのように彼女は自室へと飛び込んだ。
  血の臭いが身体に染み込もうとしているような気がして気持ちが悪い。あの愚かな男の臭いがではない。あれを為した坂上アスナの粘つくような狂気に染められそうだと思った。
  身に纏うドレスを脱ぎ捨て浴場に飛び込むと冷水を頭から被った。だが、爽快感は全くない。身体の奥から熱が湧き出てくる。嫌な汗が滑らかな肌に浮かび、流れる。
  先ほどから、あの男が人族だという理由だけでアスナを襲ったと知った時から息苦しさを感じていた。何も触れていないというのに首の回りに圧迫感を感じるのだ。
  だが、それに対する恐怖は皆無だ。あるのは不快感。首へのありえない圧迫感と掌の熱が疎ましい。忘れよう、忘れるのだ。と、思考を明日以降の政務について向けようとするが、彼女の理知はそうすることを拒絶する。彼女の心の内にある何かがそうすることを許さないのだ。脳裏に浮かぶのは抵抗を許されず、アスナの手で絞首される自分の姿。
  今までこのようなことは一度たりともなかった。エルトナージュにとって坂上アスナは利用しにくい有用な駒であって、それ以上では決してなかった。
  それが今、誰にも決して許さなかった心の奥底に居座っていた。心の隙を縫って入り込んだ訳でも、情愛をもって彼女が迎え入れた訳でもない。
  アスナの内奥に潜む狂気の軍勢を用いて、彼女の心(聖域)を蹂躙し、制圧しきってしまったのだ。屈辱以外の何者でもない。だが、抵抗しようとすればするほど彼女の身体は積極的に聖域の支配者を受け入れようとする。
「そんなの……いやよ」
  艶めかしいという言葉すら空虚に感じさせる肢体を抱き締める。内側から溢れ出す熱に耐えるように彼女は奥歯を噛みしめる。一方的に蹂躙されることは好みではない。
  坂上アスナを打倒するのだ。自分がなそうとしたことを突き付けることで宣戦布告をし、堂々と勝利を勝ち取る以外に聖域に巣くったあの男を追い出すことが出来ない。
  決意とともに彼女はぬるくなった湯船から出た。身体を拭いた彼女が身に纏ったのは寝衣ではなく薄手の蒼いドレスだった。
  私室を出たエルトナージュの姿はさながら生贄に捧げられた美姫のように見えた。

 昏い。
  部屋の主の心境を現実に持ち出したかのように昏い。
  薄手のカーテンを透過する月光は凍えている。部屋を形作る陰影は濃い。触れれば最後、奈落へと引きずられるのではないかと思わせる。
  微かに聞こえる刻時の音は進めさせるのではなく、永遠に閉じこめてしまうために刻んでいるように聞こえる。凝固した空間。しかし、部屋に漂う拭いがたい臭いだけが生々しさを有していた。最も暗く澱んだ影の中に彼はいた。
「良くここにいるって分かったな」
  膝を抱えて蹲っていたアスナが顔を上げた。首に巻かれた布に痛ましさを感じるよりも先に彼が放つ冷たい空気に身が震える。触れすぎれば凍傷を負いかねないほどの冷たさだ。
  それでもエルトナージュは歩みを止めず彼の側へと近づいていく。その度に彼女の聖域を支配する像が明確になっていく。
「まだこの部屋にいると思いましたから」
  アスナの二、三歩前で立ち止まる。彼女を見上げるアスナの目はどこか虚ろだ。普段の快活さは消え失せ、今は何に焦点を合わせて良いのか分かっていないようだった。
「何しにここに来た? 今は誰だろうと話ができる気分じゃない。どうでもいい話し相手が欲しいなら別をあたってくれ」
「……むしろ、貴方の方がわたしと話がしたいのではないのですか?」
  苦しいほどに胸が高鳴っている。狂気を前にした恐れなのか、戦いを前にした高揚感なのかは分からないが。
「今なら何を聞かれても正直に話してあげます」
  凝固した空気は刻時の音すら押し潰す。もはや、この部屋はアスナの内心そのものであった。沈黙は続き、お互いの視線は交差する。いや、汚泥の沼に入り込んでしまったかのようにエルトナージュは身動きをとることが出来なかった。
「……エルも、オレを殺そうとしたことがあるのか?」
  彼の瞳は果てのない闇を覗き込んでいるのではないかと錯覚するほどに黒い。だが、微かな揺らぎもある。汚泥にあるたった一粒の砂金を諦めずに探しているかのように。
  だが、エルトナージュは慈悲もなく事実の名を持つ汚泥にアスナを叩き落とした。それをもって宣戦布告とするために。
「あります。その首に触れたこともあります」
  念を押すように言った。城塞に篭もった敵を誘引し、打倒するために。
  だから、決定的な一言を彼女は告げた。
「わたしにも権利を行使しますか?」
  アスナの瞳孔がはっきりと絞られた。そして、今こそ彼女の妄想が現実となった。
  視界が歪む。窒息の苦しみよりも、男の掌から強引に押し付けられる熱が彼女の心を灼く。打倒することなぞ端から無理だったのだと嘲弄するようにエルトナージュの身体は動かなかった。もはや自覚するよりなかった。
  坂上アスナの狂気が彼女の聖域を制圧した瞬間、いや、今こそエルトナージュは彼に傅いてしまったのだ。現実と妄想の狂気が彼女の内と外を蹂躙する。
  ふと、懇意にしている口の悪い近衛の士官から聞いたことを思い出した。
  アスナ様は酷く質の悪い毒をお持ちです、と。
  今、その毒を浴びている。痺れるような熱が全身を犯していく。
  ベッドに押し倒され、さらなる圧迫が加えられる。今、この時だけならばアスナに殺されても構わない。人族云々は関係ない。ただの坂上アスナに奪われることを望んだのだ。
「…………」
  しかし、エルトナージュの望みは叶えられることはない。アスナは両手に込めた力を抜いたのだ。堪えていた何かを強引に吐き出すように大きく息を漏らす。しっかりとつけた手指の痕をなぞるように触れる。
「気に入らない。なんだよ、それ」
  突然、与えられた大量の空気にのど頚が悲鳴をあげる。アスナの冷たい視線に晒されながら何度も咳き込んだ。
「これ以上の権利は行使しない。はっきり言って今のエルは殺す価値もない」
「な、んで……。今ならわたし、貴方の手で」
「それだ。なに従順に殺されようとしてるんだよ。冗談にしちゃ笑えない。もしかして、今日のことで責任とか罪の意識とかに目覚めたのか? だったら、熨斗付けて返却だ。そんなもの押し付けられてもオレは迷惑でしかないんだよ」
  虚(うろ)のように黒かったアスナの瞳には今や剣呑に煌めいている。
「それともオレのことバカにしてるのか?」
「そんなつもりない……」
「エルもこの国の連中と同じでオレに面倒を押し付けようとしたくせに」
「……してない」
「した!」
「してないわよ!」
「ウソ吐け。だったら何であんなことしたんだよ。オレのこと大っ嫌いなくせに!」
「そうよ。アスナなんて大っ嫌い! 人の心の中にずかずかと入ってきて何様なのよ」
  バカッ、と罵声をあげるとエルトナージュは自分に覆い被さるアスナの胸ぐらを掴んだ。
「全部全部全部、アスナがやったことじゃない。追いつめられてしまった内乱をひっくり返したことも、近衛の心を掴んだことも、LDやフォルキス様を手に入れたことも、何もかも上手く収めてしまったことも全部、全部!」
  わたしが手にしたかったもの、大切なものを全部奪ったのはアスナ。
「アスナが嫌いよ!」
「ちょっと待てよ。それってただの嫉妬じゃないか」
「そうよ。自分でも嫌になるぐらい馬鹿馬鹿しい嫉妬よ! でも、だからなに。わたしが大切にしたかったもの、手に入れたかったものを横取りしたことに変わりないじゃない。人族は、アスナはいつだってわたしから奪っていくのよ!」
  でも、嬉しかった。とても、嬉しかった。
「けど、味方だって言ってくれて嬉しかった。自分でも無理だってバカだって思う幻想界の統一を手伝ってくれるって言ってくれて嬉しかった。どう考えてもわたしが原因で、失態なのに庇ってくれて嬉しかった。色々と気遣ってくれて本当に嬉しかった」
  両親を失い、ミュリカがヴァイアスの元に行ってしまってから損得無しにただ自分を大切にしてくれるのがとても嬉しかった。
  何もかも自分から奪っていったくせに、無条件で嬉しい思いをくれる。その齟齬がどうしても彼女には折り合いを付けることが出来なかった。
  エルトナージュは大きく息を吸うと思いっきり言ってやった。
「わたしはアスナが大っ嫌いよ!」
  飛沫が彼の顔に散らされる。姫君にあるまじき行為だがエルトナージュは気にしてはなかった。アスナが彼女の前に現れて以来、心の内で澱んでいたモノを放出した興奮でそれほどころではなかったのだ。アスナが強引に踏み込んだのではない。日々の何気ないことが地に水が染み込むように彼女の心にアスナを住まわせていたのだ。それが今日の出来事で一気に牙を剥いた。だが、その牙はもやは彼女に向けられることはない。
  アスナを睨み付けながら彼が罵声を返すのを待った。だが、返ってきたのは底なしに快い笑い声だった。
「はははははははははははっ」
「……なによ。いきなり笑い出して」
「良いな、エル。それ、スゴク良い。今のが見られただけで今日までやせ我慢して必死に演技してきた甲斐があるよ」
「……演技」
「そうだよ。エルなら分かるよな。オレたちの側についてた連中はどいつもこいつも自分で考えないで責任を押し付けてたってことを。連中を庇っても無駄だぞ。これはオレが実際に見て聞いて感じたことなんだからな。内乱が起こる前もそうなんじゃないのか? 魔王の後継者がいない異常事態だってのに政府も議員も軍も右往左往したり文句言うだけだったんじゃないのか? 連中と話しをしたら必ずと言って良いほどオレにお願いしてくるからな。提案じゃなくてお願いだぞ、お願い。影でオレのこと人間だとか、ガキだとか文句言ってるくせに自分がやってるのはお願い。それこそガキでも出来ることだぞ。バカにしてるよな」
  アスナの言うことはエルトナージュの実体験と重なる。何をしても、何もしなくても連中は文句を言うのだ。腹立たしいことこの上ない。こちらの苦労を何だと思っているのだと思うことが多々ある。
  アスナの舌鋒は彼が最も心を許している者たちへも向く。全く容赦がない。
「騎団もそうだ。連中、魔王ってヤツに幻想抱きすぎだ。アイツらが望むような態度をとり続けるのがどれだけしんどかったか。始めはオレのことコイツ大丈夫なのかよって目で見てたのが今じゃ尊敬の眼差しだぞ。別にオレは連中のためにそんなことした訳じゃないってのにな」
「そうよ。なんでアスナがあんなに前に出たのよ。号令をかけるにしても王城でふんぞり返ってても良かったのに」
「大丈夫か、エル。仕事のし過ぎでバカになったんじゃないのか? ひょっとしてさっきのもそれが原因だったり」
「なってないし、それも違う! それで理由は?」
「死にたくなかったからに決まってるだろ。もし泣いて叫んで八つ当たりして何もしなかったら、号令かけるだけかけて何もしなかったら絶対にオレを殺してただろ」
「……えぇ、そうね」
  幾らかの間をおいて彼女は肯定した。
「そんなヤツなんてわたしにとって邪魔でしかないもの。だけど、今のアスナは色んな意味で殺しにくいわ。イヤになるぐらい貴方の判断は正解よ」
  そこまで言ってふと疑問が沸き上がった。
「まさかミュリカやヴァイアスの感心を得るために演技をしてたんじゃないでしょうね」
「それこそまさかだ。オレはそんな演技なんて出来ないぞ。アイツらと一緒にいる時は殆ど素だって。けど、その他大勢の前じゃある程度演技してる。連中から騎団で好かれてる魔王の逸話とか聞いてそれを真似したりな。最近じゃ大臣や議員の中からよさそうなヤツらの態度とかを真似てる」
「ミュリカが言ってたわ。貴方は周りの影響を受けやすいって」
「ははははっ。さすが、ミュリカ。オレのことよく見てるよ」
  耳をなぞっていた手指はいつのまにかほっそりとした首筋に移動していた。
「ここまで言えば分かるよな。オレがバカみたいに一生懸命仕事してるのは保身のためだ」
「わたしに言ってくれたことも全部保身のため?」
「違う。エルに言ったことに嘘なんて一つもない」
  そう言うとアスナは彼女に自分の身体を預けた。
「一人だけでも嘘を吐かなくても良い相手が欲しかったんだ」
「えっ、あっ、アスナ?」
「エルだってオレに甘えてきたんだから、オレだって甘えて良いだろ」
  ゆっくりと背に回された腕が強く彼女を抱き締める。耳元に彼の長い吐息が聞こえる。
  しばらくあたふたと宙を掻いていたエルトナージュの両手はやがて恐る恐るアスナの背に置かれた。触れた彼の背が妙に硬い。
「アスナ?」
「……死ぬかと思った」
  彼が漏らした声は震えていた。隠しきれない何かをそれでも必死に押し止めようしているのが分かる。
「怖かった。死ぬのって、あんなに怖かったんだな。痛くて、苦しくて少しずつ身体が消えていくような感じがした。ホントに何なんだよ。人間で悪いのかよ。オレがあいつに何をしたって言うんだ。毎日毎日、誰にも恨まれないように疎まれないように顔色伺いながら仕事してるんだぞ。何かして貰ったお礼だってちゃんとしてたし、仕事だって溜まらないように必死にやってるんだ。なのに何で殺されなきゃならないんだよ」
  男が女に抱き付いて涙声で弱音を吐く意味が分からないほど彼女も浮世離れしてはいない。それがアスナのように強がりとやせ我慢を続ける男のものとなれば、死にたくなるほどの羞恥に違いない。それでも彼はエルトナージュに縋って泣いているのだ。
  彼にかけられる気の利いた言葉は見つからず、抱き締め返すことしか出来ない。
  アスナが落ち着くまでエルトナージュは静かに彼を抱き締め続けた。
  やがて、彼は短く吐息をすると「ありがとう」と小さく呟いた。ちらりと横目で見えた彼の耳は赤くなっている。
「世の中って、何でこうも気に入らないことばっかりなんだろうな」
「うん。けど、アスナはその末にラインボルトを手に入れたじゃない」
「別に欲しかった訳じゃないさ。押し付けられただけ。だけど、この国はオレのものになったんだよなぁ」
  彼の言葉に感慨はあっても実感は感じられなかった。空を見上げたら雲が浮いていた。それぐらいの意味しかアスナにとってはないのかもしれない。
「はっきり言ってこの世界も、この国も好きじゃない。けどさ、オレは魔王の後継者なんだ。色んな事を作り替えることが出来る可能性を持ってる場所に立ってるんだ。だから、オレはこの世界をオレ好みの世界に作り替えることにする」
  そうしてアスナは身を起こした。黒く艶やかな瞳がエルトナージュを見つめる。
「一緒にやろう、エル。オレたちで気に入らないものを作り直すんだ」
「うん」
  何も考えずに気持ちの赴くままにエルトナージュは頷いた。破願するアスナに釣られるように彼女も笑みを浮かべた。
「アスナが魔王になることを認めて上げる。……違う。わたしがアスナを魔王にする」
「ははははっ。良いな、それ。うん、スゴク良い。それじゃ、これからずっとオレと一緒だ。……ところで、それでもオレのこと嫌い?」
「もちろん、アスナなんて大っ嫌いよ!」
  ここ十年は見せたことのない満面の笑みでそう言い放ったエルトナージュにアスナは苦笑を浮かべた。そして、反撃だとばかりに彼女の唇を奪ったのだった。

 それから二人の関係は変化した。
  一緒にいることが多くなった。お互いの部屋に訪れて夜を共に過ごした。
  特に何かをするという訳ではない。アスナの勉強にエルトナージュが付き合ったり、ただ雑談をして過ごしたり、本を読んで過ごしたり、お互いの頬を掴んで派手に喧嘩をすることもあった。もちろん、現在直面している政治的な状況について意見を交わすこともあったが、その頻度はこの一週間ほどで一度きりだ。
  エルトナージュ付きの侍女であるシアはこの入り浸りの状況に眉を顰めたが、二人が全く迷惑だと思っておらず何もかも上手くいっているのだから小言以上のことは言えなかった。困った笑みを浮かべるのみだ。
  今夜も二人は一緒にいた。アスナはソファに横たわり書庫から拝借した小説を読み、エルトナージュはそんなアスナを眺めている。
「アスナ」
「なに?」
「この前の暗殺未遂の報告書が来てるわよ。見る?」
「……掻い摘んで読んで。多分、専門用語とか満載で分かりにくいだろうし」
  頷くとエルトナージュは持ってきていた報告書を読み始めた。
「男の名はユアン」
  その男は幻想界の者としては珍しく、人族と接する機会が多かった。
  父の営む小さな運送屋が人族の集落に物資を運ぶ業者に指定されていたからだ。母は早世していたこともあり彼は幼い頃から父とともにあちこちに行くことが多かったという。
「その時になにかあったのか」
「仕事の途中で父親が人族を拾ったそうなの。どんなやり取りがあったのかは不明だけど、この時彼の父親は人族に殺されたそうよ」
「動機はそれか。けど、そんなことがあったならストラトさんが見過ごすはずないと思うけどな」
「改めて彼の身辺を調査したらこの件は強盗事件として処理されていたの。子どものお父さんが殺されたって証言だけで犯人の種族まで確定できないもの。今回の彼の証言と照らし合わせてようやく判明した事実よ」
「……で、その犯人は?」
「見つかっていないそうよ。どこかで野垂れ死んだか、魔獣に喰い殺されたかのどちらかね」
  ため息を漏らすと彼女は続きを読み始めた。
「その後、彼は老夫婦の養子となるわ。生活面で不自由することもなく、進学もしている。どうやら、そこで人族差別主義に触れたみたい。父が人族の集落への予算を増やし始めた時期から目立ち始めたから」
  遠い意味では今回の一件は先王の善行がアスナを危難に晒したともとれる。エルトナージュとしては複雑な心境だった。だが、彼はそんなこと気にしない風に彼女に続きを話すように促した。
「人族への予算増加反対が叫ばれていた中で彼は一切そんな活動に参加しなかった。実の両親と同じように養父母も人族には同情的だったらしいから、気を遣ったみたい。彼は世間の動きを横目に優秀な成績で学業を修了した。官吏になることを養父母に勧められたみたいだけど、彼は家令院に、執事となる道を選んだ。魔王の側近くで働きたいというのが表向きの志望動機」
「……他にも何かあったのか? アイツが家令院に入ったのはオレがこっちに喚ばれるずっと前だし」
「わたしの母を殺すため。彼にとって人族が王城にいること自体許せることじゃなかったんでしょうね。それが魔王の寵姫になるなら尚更」
  エルトナージュの母を殺す。それは現実のものにはならなかった。
  彼が自らの手で殺したいと切望する女は死んだのだ。”彷徨う者”如きに。
  側にいた有象無象の人族が保身のために女を死体に差し出した。事実がどうであれ彼はあの事件をそう受け止めた。
  人族は彼から何もかもを奪い去っていく害悪そのもの。
  ならば、殲滅すればいい、根絶すればいい。
  そして、男の狂気はアスナに向けられ、返り討ちとなった。
「……そっか」
  それ以上の感想はアスナの口から漏れることはなかった。彼自身、どのような感想を抱けば良いのか分からないのかも知れない。
  それはエルトナージュにも言えることだった。彼女とユアンは似通っているところが幾つかある。だが、両者の結末はあまりにも両極端だ。何が二人を分けたのか。
  考えるが彼女には見当もつかない。もし、アスナに尋ねたらこう言ったかも知れない。
  エルが自分で選んだんだから、そっちの方が良いって思ったんだろ。
  本当にそう言いそうでエルトナージュは妙におかしかった。気分を改めるように話を続ける。
「家令院からユアンをどう処理するか伺いが来ているわよ。どうするの?」
「どうするって。法律に従って処理すれば良いだろ」
「……本音は?」
「もちろん、絞首刑。やられたことはやり返さないと気が済まない」
「だったら、そう伝えておくわ」
「ちょい待った!」
  絨毯の上に寝そべっていたアスナが身を起こした。
「なんでいきなりそうもすんなりと決定するかなぁ」
「だって、この件は内密に処理するって決めたのはアスナじゃない。となれば、あの男をどうするか決めるのもアスナ。貴方がやりたいようにやって問題ないわよ」
「なんというか、こういう話を聞くとつくづく自分が後継者なんだなって実感するよ」
  盛大なため息一つを漏らす。
「……記憶喪失にする魔法ってある?」
「詳しくはないけどあるって聞いてるわ。まさかと思うけど」
「そのまさか。当人が生きたいって言うんなら記憶消して適当に理由付けて王城から追放、死にたいってんなら死刑にすれば良い」
「寛大過ぎるご差配ね」
「こうしてりゃ、もしこの件が外に漏れてもそれでこそ魔王の器量だとかで悪い印象にはならないだろ」
  悪びれることなく笑うアスナにエルトナージュはやれやれと首を振った。
「それともう一つ。彼の身辺を調査した結果、判明したことなんだけど……」
  そう前振りをして話したことは徹底してアスナを不快にした。
「なんて言うか、世の中気に入らないことだらけだな」
「……そうね。それでどうするつもり? 手を付けるには少し厄介よ」
「取りあえず保留。調査を続けることにしよう。エルの意見は?」
「わたしもその方が良いと思う。……それはそうと、アスナ」
  あまりこの話題を引き延ばせば、アスナをまたあの時と同じ目をさせることになるかもしれない。そう思いエルトナージュは話を変えた。
「最近、会議の場でもわたしに対する態度がぞんざいだと思うんだけど」
「あぁ、……そうかも。けど、それを言ったらエルだって同じだろ。微妙に態度が違うぞ。めんどくさいし二人っきりの時と同じような話し方にしようか?」
「いやよ。アスナはそれでも良いだろうけど。わたしには無理よ。誰もこんな話し方をしてるわたしなんて印象もってないもの」
「ヴァイアスやミュリカの前でも?」
「二人は例外よ。……それよりも、何か目に見える形で私たちがそれなりに親しくなったって分かることをした方が良いかも」
「それなり、ねぇ。うん、それなりに二人で色々したなぁ」
「バカっ!」
  お茶請けのシフォンケーキを掴むとアスナに投げつけた。頬は分かりやすいほどに赤くなっている。空中でそれを掴んだアスナはご機嫌にシフォンケーキを口に運ぶ。
「で、なにやるんだ? 二人でどっかに遊びに行こうか」
「……そうね。準備はわたしの方でやっておくわ。今度はわたしが招待してあげる」
「ん。楽しみにしてる」
  笑みを交わす二人の平穏な時間は間もなく終わりを告げる。
  再び激しく動き出す時が迫りつつあったのだ。




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