第三章

第四話 交渉が帰結するところは何処か


 紙をめくる小さな音がする。
  テーブルの上に広げられた幾つもの報告書や提案書にエルトナージュは目を通していた。しばらく前まで彼女の執務室で見られた夜の光景はいつの間にやら舞台を自室に移していた。一日の公務を終えたアスナが彼女の、もしくは彼の私室でエルトナージュが戻ってくるのを待っているからだ。約束をしていた訳でもなく二人はこの習慣を受け入れていた。
  二人とも取り立てて何かする訳でもないこの時間を好んでいた。お互いの気配を感じながら過ごす一時は何か変化が起きるまで続くことだろう。
「…………」
  報告書に向けられていたエルトナージュの視線がアスナに向く。
  そこには絨毯の上で俯せになって小さな寝息を立てているアスナがいた。
  同じ時間を過ごしていて初めて知ったことだが彼にはちょっとした癖があった。
  絨毯に寝そべり読書をしていると、そこで眠りたがるのだ。うつらうつらとし始めたのを見かけたらエルトナージュは毎回ベッドで寝るように注意するのだが、生返事をするばかりで結局、絨毯の上で寝てしまうのだ。
  部屋は暖気で満たされており、敷き布団としている絨毯も毛足が長いこともあって風邪をひくことはないのだが、幾ら彼女の私室だとは言え後継者を絨毯の上で寝かせて自分はベッドに身を預けるのは心苦しいものがある。
  かといって同じベッドで眠るとアスナは積極的過ぎて色々と困るのだが。
  彼女は報告書をテーブルの上に置くと立ち上がった。ベッド脇に畳まれた薄手の毛布を彼にかけてやる。アスナが入り浸るようになってから常駐されたものの一つだ。
  肩までしっかりとかけてやるとエルトナージュはアスナの横に腰を落ち着けた。顔を覗き込む。十分以上に幼さを残した寝顔は少女的ですらある。粗野なところが全く感じられない寝顔の持ち主が戦場に身を置き、また凶相を浮かべたことがあるとは思わないだろう。
  激情の主であり、断固たる反撃を旨とするアスナだが、同時に他者に対してひどく甘いところがある。恭順の意を示した者、許しを求めた者、共にありたいと願う者は悉く身内のように扱おうとする。
  それはアスナ流の言葉にするならば、生存のための演技、になるのかもしれない。時に極端とも思えるこの二面性を本質的に有しているからこそ彼は坂上アスナ足りえるのだとエルトナージュは考える。以前は彼女の心を乱す原因であった彼の本質は、受け入れてしまうととても好ましく思える。
  瞼の上にかかった前髪を払ってやる。これまで特に異性を観察したことはなかったがアスナの睫毛は長いように思う。
  ……そういえば前にミュリカがアスナにドレスを着せてみたいって言ってたっけ。
  憮然とした表情を浮かべているのに不思議とドレスが似合っている彼の姿が浮かんだ。
  いつも何かとしてやられることが多いから、今度寝ている隙に着替えさせるのも楽しいかも知れない。
「ふふふっ」
  柔らかな頬を突っついてやりながら、エルトナージュは小さく笑った。
  アスナを受け入れてから笑顔を浮かべることが多くなった。相変わらず仕事の量は尋常ではなく責任の大きさも変わらない。それでも一人で何でも背負わなくても良くなった分だけ精神的に楽になった。それと同時に周囲の雰囲気も随分と良くなった。
  怜悧な鉄面皮よりも少女の笑顔、という訳だ。その変化に彼女自身あまり気付いていないのだが。
「アスナなんて大嫌いなんだからね」
  と、耳たぶを引っ張る。不快げにアスナが唸ると彼女は一度指を離し、しばらくすると優しく揉んでやる。
  言葉の通りエルトナージュはアスナが嫌いだ。より正確を期すならば”人族であるアスナ”が嫌いなのだ。最近はなぜアスナが人族なのだと天を恨んでしまう。
  そうしたところで何が変わる訳でもない。彼の隣に立つことを選んだ以上、生涯にわたって付き合い続けなければならない気持ちだ。母やシアに対する思いと同じく折り合いを付けるしかない。
  そこでふと思った。アスナは何を理由に自分を隣に立つ者として選んだのだろうか。
「…………」
  色々と理由が浮かんだが、途端に馬鹿馬鹿しくなった。すぐ目の前にアスナがいるのだ。折に触れて聞いてみれば良いのだ。
  彼はどういう言葉を返してくれるのだろうか。楽しみなような不安なような気持ちだ。
  相変わらず穏やかにアスナは寝息を立てている。彼の側はとても温かそうだ。
「…………」
  頬が熱くなる。はっとして彼女は部屋を見回す。当然、誰もいない。
  時計はそろそろ就寝の時を指し示そうとしている。夜更かしが過ぎると明日の政務に支障を来す。理不尽なまでに湧き出る離れがたい気持ちを振り払ってエルトナージュは腰を上げた。手早く眠る準備を整えた彼女はベッドに身体を横たえた。
  瞼を閉じ、やがて訪れる微睡みに身を委ねれば良いのだが、どうにも物足りない。何度も寝返りをうつ。いつも通りベッドは程良い柔らかさと固さで彼女を受け止めている。愛用の枕にも変化はない。なのに物足りないのだ。
  諦めて起きた彼女の視線は自然と絨毯の上で寝るアスナに向く。口がアヒルになる。
「あ、アスナのせいなんだからね」
  誰に対しての言い訳なのかエルトナージュはそう呟くとベッドから出た。愛用の枕を手にして。再びアスナの側に戻った彼女は枕を抱き締めながら数分間逡巡した。
「よしっ」
  無駄に気合いを入れた彼女はアスナの隣に身を滑り込ませた。そこは想像していた通りとても暖かかった。この温もりにもっと近づきたくてアスナの胸に頬を刷り寄せる。腕は彼の身体を抱き締め、両の足は絡み合う。そこまでしてようやく満足の吐息を漏らした。
  エルトナージュは眠りに落ちるまでの間、この暖かさを堪能したのだった。

 議場はある種の緊張と感情が渦巻いていた。
  この場にいる過半の者たちは皆、一様に不安を抱えつつも決してそれを表立って口にすることは出来なかった。そのため出席した議員たちの表情は暗い。
  彼らは今日、ある決議を出すことになっている。審議をする時間も、自らの良心と打算を天秤にかけて賛否を決する権利も与えられない。ただ強圧に屈するべくここに集まった。
  ワルタ市議会。ラインボルト北東部に存在する一大工業地域を代表する議会は自らの手でその終焉を迎えようとしていた。
  拒否することは出来なかった。議員たちの家人が人質に取られ、その上拒否をすれば市民たちにとって好ましからざる事態になる恐れがあると脅迫されているからだ。
  議員の一人がちらりと議会の左翼の壁際に並べられた椅子に腰掛けている傍聴者を見た。そこには市議会には相応しくない軍装を身につけた壮年の男たちがいた。
  ロゼフより派遣されたワルタ解放軍司令官ディーズ将軍をはじめとする将官たちだ。
  ワルタの命運を握る彼らの手によって議員たちは召集されたのだ。
「…………はぁ」
  議員の一人がひっそりとため息を漏らした。己の無力さや何ら有効な手段を行使しない政府への憤りを通り越して諦めの心境にあった。
  彼らの耳にはすでに内乱は終結したとの報が達し、軍を派遣するまで苦難に耐えるようにとの指示が来ていた。だが、それは何の慰めにもならない。
  現実としてワルタはロゼフによって制圧されたままであり、ラインボルトがワルタ奪還のために軍を動かしたとしても無傷でいられるわけではないのだ。
  そのため隣席の議員に黙礼を送る以上のことをする気力はなかった。彼らも気分は同じ様だ。ごく一部の議員は常よりも血色が良いようだが、大半は彼と同じように暗澹たる気分を表情に浮かべている。
  時計が九時を指し示す。ゆっくりとした動作で立ち上がった議長は市議会の開催を宣言した。そして、手順に則りとある決議案の投票が開始される。
  本日一つ目の決議案は現ワルタ都市長ウェップの解任の採決だ。
  本議案の提案者であるカディシュ議員は議長に一礼すると滔々と議案説明を始める。
「議員の皆さまもご存知の通り我がワルタはロゼフ軍の進駐により通常の市民生活は失われております。鉱山や工場から聞こえる活気の音や道を駆ける子どもたちの賑やかな笑い声も今や失われてしまいました。また、ロゼフ軍の制圧により、物流は途絶え、ワルタを含め周辺の町村の経済状況は日に日に悪化の一途を辿り、今や占領軍からの施しを受けねば生きていくことも難しい有様です。このような状況を作り出したのは誰でしょうか!」
  議場の中からチラホラとウェップ都市長の名を呼ぶ声がする。出席議員六十五名中五、六名では虚しさしかない。
「その通り。ウェップ都市長の失政が今日の事態を呼び寄せたのです。ロゼフがこのような強硬策に出る以前から友好的な施政を取っていたならばどうでしょう。もしくは国境守備軍の増強を政府に上申していればどうでしょうか。私は確信を持って言える。この両方を、いやどちらか一つでも実現していたならば市民をこのような苦境に晒すことも、国境を守備していた若者たちが命を落とすこともありませんでした。しかし、今更そのようなことを言ったところで詮無いこと。過去を変えることは出来ないのです」
  声音は激したものだが彼の表情には全く熱のようなものを感じられない。カディシュ議員は議案の主旨説明を続ける。彼も分かっているのだ。
  都市長如きではどうすることも出来ないのだと。そして、都市長に罪がないことも。
  だが、カディシュ議員は言葉を止めない。それがロゼフ軍より家族と縁者の生命財産、そして将来を対価として押し付けられた仕事だからだ。
「ですが、未来は不変ではないことを我々は知っています。より良き未来のために、過去に不適切な施政を執った者をこの場から廃除するのです。この事態を招いた者にワルタと周辺町村の未来を託すことは出来ません」
  カディシュ議員はそこで言葉を止めて議場を見回す。彼の目には苦渋を浮かべる議員たちの顔が良く見えたことだろう。そして、焦れるロゼフの将官たちの顔も。
「よって、私はここにワルタ都市長ウェップ氏の解任決議を提案するものであります」
  そう締め括ると彼は再び議長に一礼をし、ちらほらと響く虚しい拍手を身に受けて自身の席へと戻っていった。
「採決を執ります」
  ロゼフ軍が欲しているのは体裁と名分だけだ。審議を行う必要を認めていない。
「賛成の諸君は起立をお願いします」
  将軍らの威圧に抗するべくもなく全員が起立をした。全会一致である。
「賛成多数と認め、都市長ウェップ氏を解任する」
  この瞬間、ウェップは都市長の権限を剥奪され、副都市長が代行することになる。
  感慨の声は議場から湧き出ることはなかった。一分あまりの時間をおいて議長は次の議案に移るべく口を開いた。
「次いで……」
「議長」
  だが、それはウェップの声に遮られた。彼は立ち上がると身体を議長に向けた。
「この場を去るに際し、挨拶をしたいのですがお許し頂けるだろうか」
  議長はロゼフ軍の将軍らとウェップを見比べた。そして、僅かな間を置いて議長は大きく頷いた。ワルタ議会としてささやかながらも逆襲をしようと考えたのだ。
「許可します」
  議長の視界で将軍の一人が立ち上がったが総司令官であるディーズ将軍に制され、不承不承着席をする。
「ありがとうございます」
  ウェップは議長に一礼をし、演壇に立つ。福々しい腹が小さく揺れる。一体何を話すのだ、と議員やロゼフ関係者からの視線を一身に受けながら彼は口を開いた。
「今から五百有余年前このワルタの地は拡大王ルーディスの手によってロゼフから割譲されたことを知らない者はこの場にはいないだろう。もはや、当時を知る者はおらず、史書などの資料を通して窺うより他にない。史書によれば割譲された当時、ワルタには小さな集落が点在するのみの穏やかな地域だったという。だが、鉱山の発見を契機にして係争の地となった。様々な交渉を経ても妥協点を見出せず、戦端を開くことになる。結果はご存知の通り拡大王の栄光に新たな彩りを加えるだけであった」
  聴衆はただ静かにウェップの言葉を聞く。
「私は現状が当時の苦難の再来ではないかと考えている。全ての事象が重なっている訳ではない。私が諸君に気付いて頂きたいのはただ一点のみ。我々はラインボルトを選ぶか、ロゼフを選ぶか迫られているということを覚えておいて貰いたい」
  再びロゼフ軍の傍聴者たちは立ち上がる。しかし、ここでもディーズ将軍によって制止させられる。ウェップはディーズに目礼を送ると演説を続ける。
「史書や英雄譚にある通り拡大王ルーディスは過激であり侵略者であることは間違いのないことだが、同時に慈悲深き王であることもまた事実なのだ。それが偽りではないことは今日のワルタを見れば分かることであろう。長年に渡りこの地に資材や資金、技術、人材が投入され続けたのは我々祖先が積極的にラインボルトの統治を受け入れてきたからに他ならない。だからこそ、私は危惧している。我々の選択如何でラインボルトを激怒させることを。魔王の臣民たることを拒絶する対価の重さを」
  ウェップはその丸い肉の付いた手で演台の縁を握る。
「二ヶ月ほど前、ラインボルトは内乱を終結させた。現生界より召喚された十六の少年の手によってだ。私は恐れている。たった十六の少年が圧倒的な不利な状況を覆した果断さを私は恐れている。果たして後継者殿下は拡大王のように慈悲深い方なのだろうか。裏切りを許すほどの寛容さを持っているのだろうか」
  目の前の不安に隠された選択如何によって姿を見せる未来像をウェップは露わにした。
  そして、議場を見回す。様々な苦虫を噛み潰すような顔が見える。
「この場で発言を許された一人のワルタの住民として議員諸氏に願い申し上げる。ワルタと周辺の町村にとって最良となる決断を下していただきたい。最後に……」
  彼は小さく息を吸い込んだ。そして、良く通る声で言った。
「私は魔王の臣としてワルタの都市長を務めたことを心から誇りに思う」
  傲然たる発言に議場は騒がしくなる。驚きと敵意の視線を一身に受けて、ウェップは議長に一礼して議場から去っていった。
  この後、ワルタ市議会はロゼフ軍の受け入れとロゼフへの復帰宣言を採択することになる。賛成六十四、棄権一。後にウェップと棄権した議員は病死と公表されることになる。

 ロゼフとの交渉は、彼らがワルタを制圧したことが発覚した三ヶ月ほど前、まだ内乱の直中にある頃から始まっている。だが、ロゼフ側は内乱中の国家とは交渉するつもりはないと門前払いをするなどで正式な交渉の機会をもつことが出来なかった。非公式の外交官同士の私的な会食や懇談の場で抗議することしか出来なかった。
  内乱が終結し、改めてアスナとエルトナージュの連署による抗議文書を出すことでようやく正式な交渉が始まった。
  しかし、この交渉は傍目にも誉められたものではなかった。円滑に交渉を進める環境が整備されていないのだ。つまり、両者が相手の主張に対して、それを検討し即座に解答が出来る環境ではないということだ。
  これに関してロゼフ側は全く問題がない。交渉場所がロゼフの首都ウィナイだからだ。もし、彼らが迅速な対応が出来なければ無能の烙印を押されるだろう。問題なのはラインボルトだ。相手側の主張を受け取り、対ロゼフの交渉使節団は自分たちで検討し、重要と判断すればそれを外務省に回し、外務省は宰相や外務卿と検討し、その内容を交渉使節団に送り返し、ラインボルトの返答とするという面倒なやり方をしているのだ。
  領土を巡る重要な交渉であるため使節団の独断で行うわけにはいかないからだ。もちろん、このようなやり方をすることはロゼフ側も了承している。
  彼らは彼らで時間を稼ぐ必要があるのだ。ロゼフ有利に交渉が妥結するように外交努力が払われていた。ロゼフ側の外交官はそれこそ東奔西走するが如く各国に援助を要請したが、結果ははかばかしくない。どの国も早急に内乱を終結させてしまったラインボルトと事を構えたくないのだ。ロゼフ首脳部、特に急進派と呼ばれる者たちは「一戦交え勝利すれば諸国も我らに味方するだろう」とする主張の下に予備役の召集と物資の集積が行われていた。そういう意味からロゼフ側も交渉に時間をかけることは歓迎されていた。
  対するラインボルト側の動きは積極的なものだ。同じ領有権問題を抱え睨み合いを続けるリーズとアクトゥスの動きを封じるためにどちらと同盟交渉を行うかどうかを餌にし、ロゼフと同じくラインボルトに進軍しようとしていた中小国を恫喝とも受け取れる文言で牽制した。サベージに関しては賢狼族は親ラインボルトであり、天鷹族は親リーズという事情から積極的な行動には移れない。
  残る問題はラディウスだが、これに関してはムシュウに入城したリムルの第三魔軍その他が睨みを利かせ、その後方には大将軍ゲームニスが控えている。
  不測の事態が起きない限り、ラディウスに対しては万全であるというのが大方の見方である。ラメルを不法占拠するラディウス軍を維持する以上の物資が搬入されているという情報がないことがそれを裏付けていた。
  この交渉の間、ロゼフがラインボルトから大幅な譲歩を得るために動いていたのに対して、ラインボルトは誰にも口を挟まれずに、自らの手でロゼフを血祭りに上げるために動いていたのだ。
  しかし、ことは戦争である。開戦すれば多くの将兵、市民、金銭を失うことになるため、やらないで済むのならばそれに越したことはない。
  領土を侵されることは誰憚ることなく開戦する大義名分となるが、ラインボルトが即時開戦ではなく交渉という手段を用いたのはそういった理由があるからだ。
  そのためラインボルトが行ったロゼフへの要求は非常に穏当なものであった。
  1,ロゼフ政府による正式な謝罪。
  2,ワルタ及び周辺町村から即時ロゼフ軍の撤退。
  3,国境守備軍の再建費用及び遺族への見舞金を主とした賠償金の請求。
  4,シェティ講和条約――五百年前に締結した講和条約。シェティという都市で締結されたからそう呼ばれる、の再確認。
  5,ラインボルトが明示した本事件の主導者の引き渡し。
  以上、五項目をラインボルトは要求した。謝罪を政府から出させることで国王の権威に最大限の配慮をし、賠償金も非常に少額に設定した。ラインボルトの要求は弱腰そのものである。
  事実、軍からは逆襲すべしとの声が出ていたが、アスナの「軍にこれ以上の血を流させたくない」という主旨の説得により沈静化した。同時に交渉が決裂した時のための準備も始めるように、という積極的な指示も行ったため軍は当面の間、交渉の行方を見守る方針となった。
  だが、ロゼフはこの動きを「こちらの予想以上にラインボルトは疲れている」と判断してしまった。一ヶ月ほどで内乱を収めたのだから、軍はよほど傷ついているはずだと。
  ロゼフは強行に出ることになる。交渉開始からの歴史的背景を根拠とした原則論を展開し、ラインボルトこそ我が国に不当な圧力を加えることをやめろと要求してきたのだ。
  対するラインボルトはシェティ講和条約を根拠としてその要求を突っぱねるというやり取りが続いていた。
「このまま続けてもでは埒があかないようですな」
  ラインボルト側交渉使節団団長であるシェアーズ大使は疲れた表情で言った。交渉開始からずっと気の休まる時がなく、今日も早朝から交渉を続けているからだ。
「こちらから一つ譲歩をしましょう。賠償金の要求を取り下げます。代わりに今回の不幸な事件で命を落とした者の家族に対する見舞金の支払いを要求することにします」
  そういってシェアーズ使節団団長は新たな要求書を交渉相手、ワルタ王国外務大臣ネレスに手渡した。ラインボルトは賠償金支払いという敗北感を軽減する配慮まで示した。
  もちろん、要求する金額は減額されている。ラインボルト側の使節団は皆、苦渋の表情を浮かべている。驚きの声を漏らすロゼフ側の中で一人ネレスは黙然と新たな要求書を読み返している。それにはしっかりとラインボルト側の外務大臣と後継者の署名が認められている。
「非常によい提案です。ですが、そちらは譲歩と言った。こちらにも何かを要求するつもりなのでしょう?」
  ネレスの問いにシェアーズは頷いた。
「貴国の占領下にある地域の全住民を解放していただきたい。後継者殿下は国民が不安と苦難の中にあることを非常に憂慮しておられる」
「なるほど」
  ラインボルトとしてはこれ以上にない譲歩である。国内の突き上げはもちろん、諸外国からの評価も下げることになる。これを提案し、決定したのは誰だろうか。
  宰相か、後継者か、外務省の勢力であろうか。どちらにせよ国の威信よりも国民の生命を優先させる決断を下したのだ。ロゼフとしてもそう悪くはない。
  ワルタを手に入れることは出来ないが、国の体面を守ることが出来、それだけではなく五大国の一つラインボルトをこれほどまでに譲歩させたのだ。
  国の威信を増すには十分以上の成果と言える。得るものは大きい。そして、栄誉ある撤退をするには今しかない。だが、ネレスにはこの場で返答をする権限がない。
「貴国よりの提案、しかと受け取りました。政府にて検討の後、国王陛下に奏上しご裁可を得ることにしましょう。本日の協議はこれまでとしたいが、如何でしょうか?」
「同意いたします、外務大臣。良き返答を得られることを期待しております」
  シェアーズは疲れ切った表情でそう言った。

 使節団宿舎に戻ったシェアーズらは一息ついた後、すぐに今後の協議の方策を話し合うことになった。会議室に集められた使節団の面々は一様に不満の表情を浮かべている。
  どの顔にも譲歩しすぎだと書かれている。実際その通りなのだからどうしようもない。
  シェアーズは苦笑をして、皆の心境を代弁した。
「全く我が国は幻想界一豪放磊落だな。今回の新たな要求を聞けばワルタの住民たちは泣いて喜ぶだろう」
  使節たちは彼の皮肉に笑みを作ろうとしたが、形にならない。
  ラインボルトは歴代魔王の大半が平民の出であるため国民に対して非常に手厚い保護をすることで知られている。国家の威信と国民の生命が天秤に掛けられれば苦慮の末に後者がとられる事が多い。だからこそ、種族に関係なく国民は魔王に信服し結束出来るのだ。
  その国家的な気質を知悉していたとしても自分の目でその威信が傷ついていく様を見、時には国民から糾弾される外交官としてはたまったものではない。
「これでロゼフが撤兵を決定してくれれば良いのだがな」
  立ち上がったシェアーズは窓の外遠くに見える繁華街に思いを向けた。
「君たちと同じぐらいの歳だったか。私は数年間、ウィナイに駐在したことがある。腹立たしいこともあれば、楽しかったことも色々とあった。青春と呼ぶには歳を取りすぎだったがね。当時の大使に気に入られてあちこち連れ回されたものだ。ネレス外務大臣と知り合ったのもその頃だ。当時のヤツは伯爵家の嫡子だということを鼻にかけた嫌なヤツだった」
  馬鹿馬鹿しいことでぶつかり合ったことを思い出して苦笑が浮かぶ。そういった過去があるからこそ今回の交渉使節団の団長にシェアーズが任命されたのだ。
「まさかその日の飲み代をどういう配分にするか交渉した相手と国の命運をかけて交渉をすることになるとは思いも寄らなかった。これだからこそ生きるということは面白い」
  交渉ごとを生業にしている者が栄達するには多少なりとも諧謔趣味を持たねばやっていられない。シェアーズは振り返った。
「それでは今後、どのように推移するか検討しようか」
  彼の顔に浮かぶ笑みは何に向けられてのものだったのか、誰にも分からなかった。

 会議室は二色に塗り分けられていた。
  宰相、軍によって構成される強硬派と外務大臣を初めとする穏健派だ。その勢力は圧倒的に前者に分がある。穏健派は事実上、外務省の者だけ。経済関係の閣僚も心情的には一応、穏健派に属してはいるが積極的な発言は控えていた。
  外務大臣ネレスの報告を受けた強硬派は快哉を上げた。自分たちの読み通りラインボルトは非常に弱体化しているのだ、と。
  この光景にネレスは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
  彼らは酔っているのだ、と。
  宰相は悲願であったワルタ奪還へとさらに一歩前進したと、軍関係者はラインボルトが自分たちの武威に屈したのだと勘違いしているのだ。そのようなことは決してあり得ないことなのに。
「外務省はここでラインボルトとの協議を妥結することが最良であると判断します。ここで撤兵しても不名誉にはなりますまい。むしろ、ここまでの譲歩をラインボルトから引き出したことで我が国の国威を諸外国に示すことが出来ます。悪い取引ではありません」
「何を弱腰になっている。ネレス外相、今こそが協議の切所ではないか。このまま押し込めばよろしいのだ。我らの武威に恐れを為すラインボルト軍なぞ烏合の衆! 陛下のお許しがあれば私自らがきゃつらの血で山野を埋め尽くしてご覧に入れよう」
  そう威勢をあげる将軍はラインボルトから名指しで引き渡しを要求されている人物の一人だ。保身のために皆を煽動しようとしているのが分かる。
  しかし、強硬派はこれを真に受けてネレスを弱腰だと非難の声をあげる。
「重ねて申し上げる。ここで妥結するべきです。ラインボルトを甘く見ない方が良い。我が麗しの山野を染めるのは彼らのではなく、我らの血になりますぞ」
「貴様ぁぁっ。我らを愚弄するか!」
「愚弄などしていません。私は事実のみを申し上げただけです」
  事実、ロゼフ軍はさほど強くはない。軍の規模もそうだが、岩窟族はあまり魔法の素養がない。彼らの素養は力の強さや身体の頑丈さに特化している。
  また、山野を巡る相性が良いため木々の影に隠れて奇襲を行えば、ラインボルトともそれなりに渡り合うことも出来るだろうが長らく大規模な戦争を経験してこなかったせいか威風堂々たる正面突撃こそが最上の戦術であると考える風潮にあった。
  ラインボルトやサベージに武官を派遣し色々と学ばせてもそれが軍で反映されることはない。ロゼフ国内では海外への武官派遣は左遷に近いものだと見なしているからだ。
  戦争を経験せず、いつまでも門閥貴族が軍の中枢に居座っていることで完全に硬直化していた。これは軍に限らず政府にも当てはまることだ。
  外務省がそれなりに開明的なのは各国に大使として派遣されることで出世への階段であるからに他ならない。そして、積極的に仕事をしているかと言えば首を傾げる部分もあるのだが。
「むしろ、私には貴公がラインボルトに引き渡されることを拒絶するために煽っているように聞こえるが?」
「無礼な。我が宝剣の錆びとしてくれよう!」
  いきり立つ将軍を制する声がする。
「双方そこまでだ。両者の主張は私も尤もなことだと思う。だが、外相の判断は杞憂だろう。我々にはリーズ、サベージの支援がある。あり得ないだろうが万一ラインボルトと衝突したとしても両国から援軍が派遣されることになっている。何も心配はいらない。ラインボルトはそのことを分かっているのだ。だからこそ譲歩を続けている。違うかね?」
「…………」
「その上、我が国には単独でラインボルトと渡り合えるだけの武威がある。確かに軍の規模は劣るかもしれんが種族としての優位は圧倒的に我々に分がある。人魔如きに恐れることはない。何よりワルタ奪還の悲願を達成する好機は今をもってないと私は信じる」
  つまり、そういうことだ。宰相はワルタを奪還した宰相として名を残したいのだ。
  宰相はネレスが提出したラインボルトからの要求書を一瞥した。
「賠償金の要求を取り下げる代償として、全住民を避難させる。とても飲めることではない。中身を失った入れ物に何の意味がある」
  この時、まだワルタからロゼフ復帰を歓迎する宣言が出ていない。そして、もしもの時のために人質がいるに越したことはない。
「宰相として私はこのような要求を受け入れるべきではないと考える。諸君らの意見は如何か?」
  会議場は賛意の声に満たされる。ある種、熱狂とも言えた。
「この通りだ、ネレス外相。よろしく交渉を続けて貰いたい」
「……了解しました」

 前回の協議から三日が過ぎた。
  ロゼフ外務省職員の先導で通された会議室に入室してすぐにシェアーズ使節団団長はどのような返答があるのか察した。それほどまでにネレス外相をはじめとするロゼフ側代表団の表情は暗かった。
「どうやら、嬉しい返答を頂戴することはかなわないようですね」
  席に着いてすぐにシェアーズはそう言葉をかけた。
「残念なことです、大使。貴方とは若い頃からの付き合いです。何度か疎遠になってしまったこともありましたがこの歳まで友誼を交わし続けられたことは私にとって何よりの財産であります。貴方との関係をこのような形で終わらせるのは私個人としても辛い。また、両国の五百余年に渡る友好を途絶えさせることになることが悲しくてならない」
  俯きがちに独白するように話したネレスは顔を上げた。そこには職務に忠実たろうとする一人の閣僚としての彼がいた。
「協議の結果、先日の要求を受け入れることは出来ないと決した」
「なるほど。……残念です。とても、とても残念です」
「…………」
  ネレスに言葉はない。シェアーズは恐らく人生で最大のため息を漏らした。そして、改めて気を入れた。彼は所持してきた書類をネレスの前に出した。
「……これは?」
  シェアーズは書類に手をおいたままゆっくりと、しかしはっきりとした口調で言った。
「我が国よりの最後通牒になります。先日、お渡しした要求が受け入れられない場合、これを手交せよとの指示を受けております」
  彼は一度、そこで間を作り、ロゼフ側代表団一人一人に強い視線を送る。最後に正面に座るネレスに固定される。
「これをお渡しすることは我が国にとって屈辱であり、多大な損失であります。一外交官として恥辱に他ならず、このような任を与えた後継者殿下、並びに外務卿には恨みを持つ程です。……ご確認下さい」
  ゆっくりとシェアーズは手を退けた。
「確かに受け取りました」
  対するネレスは一礼すると最後通牒に目を通し始めた。彼は思いきり椅子を蹴倒して立ち上がった。
「なっ! 何なのですか、これは!?」
「我が国より貴国に対する最後通牒です」
  皮肉混じりにもう一度、確認させるように言った。
  そして、疲れ切った口調でシェアーズは記載された要求を諳んじてみせた。
  1,ワルタ及び周辺町村から即時ロゼフ軍の撤退。
  2,シェティ講和条約の再確認。
  3,本事件の主導者をロゼフによって処罰すること。尚、この件に関してラインボルトから口を挟むことはない。
  4,相互不可侵条約締結に向けて交渉を行う。
  5,両国の相互発展を目的としてロゼフに対し経済協力を行う。
「これではまるで……」
「その通り、占領を受けた国が提案することではありません。まるで敗戦国に科せられるようなものです」
「分かりません。ラインボルトはなぜこのような提案をするのです」
「両国の友誼のため。ここで途絶えることはあまりにも悲しすぎるとの判断です。我がラインボルトが貴国との友誼のために国の威信と誇りを投げ捨てたことを決して忘れないで頂きたい。貴国との関係を守るためにここまでしたのだと忘れないで頂きたい」
「貴国の深い友情の念に感謝と限りない敬意を表します」
  ネレスの胸に湧き出たのは感動だけではない。同時に恐れも抱いていた。常識外れの譲歩を万が一ロゼフ首脳陣が蹴った場合、この国は永久に消えてしまうのではないかと。
  一命を賭して、いや一族全てを賭けて彼らを説き伏せねばならない。
  それは交渉に参加したロゼフ側代表団も同じであった。誰の顔にも決然とした思いが浮かんでいた。しかし、彼らがその決意を形とすることは永久になかった。
  ドンドンッ、と慌ただしいノック音の後、ネレスの秘書官が会議室に飛び込んできた。
「何事だ! シェアーズ大使らに失礼ではないか!」
「はっ、ご無礼平にご容赦を。ですが……」
  秘書官はネレスに耳打ちをした。彼の表情は一気に青ざめてしまった。
「なんて、ことだ……」
  彼はよろけてその場に倒れてしまった。
「外相!?」
  シェアーズは立ち上がり、旧友の側に駆け寄った。秘書官に助け起こされたネレスは顔面蒼白のまま細い息をする。堅太りの雄大な体付きにはあまりにも不似合い。
  彼はどうにか立ち上がるとシェアーズに一礼する。
「申し訳ない、大使。貴国よりの最後通牒を陛下に奏上したいと思う。本日の協議はこれまでとして宜しいだろうか」
  その言葉でシェアーズは何があったのか察した。ネレス同様に彼も顔を青くする。
「もちろんです。外相、貴方の健闘をお祈り申し上げる」
「ありがとうございます。では、失礼する」
  ワルタ市議会がロゼフへの祖国復帰を歓迎する旨の決議を出したのだ。それを受けて宰相と将軍らは国王にワルタへ増援を派遣する勅命を出すよう迫ったという。
  そして、勅命はほどなくして降ったという。
  すぐさまネレスは王城に馬車を走らせた。ラインボルトからの最後通牒を国王が披見すれば勅命は撤回されるかもしれない。
  程なくして王城に到着した彼はすぐに王に拝謁を願い出たが、彼の前に姿を現したのは宰相であった。
「もう貴公の耳にも達しているだろう。ワルタへ増援を送れとの勅命が下された。ラインボルトとの交渉は終わりだ。貴公はすぐにリーズとサベージに特使を送り援軍を要請せよ」
「その前にこれを、ラインボルトからの最後通牒を陛下にご披見頂きたい。いや、宰相。まずは貴方だ。すぐにこれをご覧頂きたい」
  そう言ってネレスは宰相に最後通牒を渡した。しかし、宰相は手にしたそれを鼻で笑うと床に投げ捨てた。
「なっ!?」
「耳が遠くなったのか、外相。勅命が下されたのだ。もはや陛下のお言葉が撤回されることはない」
  自身の勝利を信じて疑わぬかのように宰相はネレスに向けて侮蔑の視線を向けた。
  それを一身に受けながら彼は投げ捨てられた最後通牒を拾った。何も言わない彼に宰相は鼻を鳴らし、改めて指示をすると去っていった。
  誰もいなくなった広間でネレスは誰に聞かせるでもなく呟いた。
「宰相。貴方は歴史に名を残すことがお望みだったな。おめでとう、これで名を残すことが出来ますな。国を滅ぼした宰相として」
  その後、大臣の権利として王に拝謁しようとしたがそれすらも阻まれてしまい、もはや彼には戦争を止めることは出来なかった。

 交渉決裂の通達はその数時間後に行われた。
  面と向かい合ったシェアーズとネレスは黙ったままだった。先に口を開いたのはシェアーズの方であった。
「お互いに十は老け込んだようですな」
「……全くです」
  再び言葉が途切れる。ラインボルト側代表団の誰もが怒りの表情はなかった。自分たちの団長と同じように疲れ切った表情であった。
「残念です。交渉が成功裏に終われば貴方と久方ぶりにあの薄汚い酒場で杯を酌み交わしたいと思っていたのですが。店主は元気でしょうか?」
「私も長らく顔を出していませんが、壮健であると耳にしています」
「そうですか。何よりです」
  一つ頷くとネレスは視線を窓の外に飛ばした。
「これからこの国はどうなるのでしょうか」
「……帰国し、交渉の経過を報告した後、賜暇を頂戴することになっています。それを使って少し遠出をしようかと考えております」
「よろしいですな。奥方とですかな?」
「それと苦楽を共にした彼らも一緒に。フェナンのギーゼンです。海が美しいことでしょう」
  フェナンとはアクトゥス構成国の一つだ。風光明媚な場所が多いことから観光地として成り立っている。その中でもギーゼンはフェナンでも五指に入る美しさだという。
  身も心も静養するには打ってつけと言えるだろう。
「羨ましい限りだ。私も賜暇を頂けそうだが、それはどうやら長くなりそうです。戦となれば旅行どころではない」
「そうでしょうな。しかし、私は近い将来、貴方と再会出来ると確信しております」
「貴方の確信が現実のものとなることを祈ります」
  ネレスは姿勢を正すと外務大臣の態度をとった。
「早急に貴方がたを国境まで護衛する部隊を編成します。それまでの間、ご不便でしょうが宿舎にて待機していただきたい」
「承知しました。再会できる時を楽しみにしております」
「私もです」
  二人は固く握手を交わすと己のいる場所へと向かった。
  己に課せられた務めを果たすために。

 交渉決裂の報がエグゼリスに到達したのは、八日後の早朝のことだった。伝令用に強化・調整した馬を一頭潰しての日数だった。
  叩き起こされこの報を耳にしたアスナは深くため息を漏らした。譲歩に譲歩を重ねたにも関わらず足蹴にされたことに怒りの気持ちはなかった。ただ、落胆だけがあった。
  アスナは軍や外務省、内務省、名家院の議員たちから強硬策に出るようせっつかれる度に交渉による妥結が最良だと説得をし続けた。今年十七の少年がやるようなことではない大人たちとの交渉をアスナはやった。にも関わらず結果はこれである。
「全く、やれやれだな」
  側に控えたストラトから冷えた水の入ったコップを受け取る。一気に飲み干す。
「エルは?」
「すでに閣議の準備を始めておられます。開始予定時刻は八時にございます」
  慇懃にストラトはそう答えた。あの暗殺未遂事件から彼との間に微妙な空気が流れたこともあったが、今では元の鞘に戻っている。主が以前と同じように接することを望むのであれば従僕に否はない、という訳だ。
「三時間後か。今ごろ色んなところで大慌てになってるだろうなぁ。閣議をやるってこと以外に何かするように指示は出てる?」
「大将軍、リムル将軍、各国境守備軍及びワルタ方面にて演習を続けている一般軍に警戒態勢が出されました。参謀本部ではワルタ奪還及びロゼフ侵攻計画の裁可を頂く準備を開始しております」
  アスナは頷く。コップの底に残った水を舐めるように飲む。
  恐らくアリオンたち秘書官も各省庁からあげられた情報を纏める作業をしているに違いない。しばらくしたら纏まった報告書がアスナの下に届けられるだろう。
「軍務省、内務省において策定した兵站計画を実行する前準備を開始、外務省において宣戦布告文の作成に入っております。大蔵省では臨時予算の編成案並びに戦時国債の発行額の検討を開始していると聞き及んでおります」
「どこもかしこも大慌てだな。あぁ、そうだ。閣議にはLDも出席するように指示を出しておいて」
「承知いたしました」
  扉の側で控えていた執事にストラトが頷いてみせる。執事は一礼すると退室していった。
  再びアスナの口からため息が漏れる。ストラトは朝食の準備を始めている。書類を見ながら食べられるように本日のメニューはサンドイッチだ。手際よくサンドイッチの山が作られる。かなりの量だ。
  一人で食事をすることを嫌うアスナの命でストラトがご相伴することになっているのだ。最近ではエルトナージュと食事を共にしているため久しぶりだ。
  本日、三度目の盛大なるため息が漏れる。
「アスナ様。ため息をし過ぎると幸せが逃げると言われております」
  やんわりと窘められてアスナは苦笑した。深く椅子に腰掛け直した。
  視線を窓の外に向ける。カーテン越しに差し込む明かりは時間を追うごとに強くなる。
「戦争。戦争か……」
  呟くと実感が湧く。これからの戦争は初めてアスナが初めから関わる戦争なのだ。内乱の時のように巻き込まれ、それを何とかするために戦ったのとは事情が違う。
  そして、もう一点。身内の争いではなく、国家間戦争なのだ。
「ストラトさん。もし、戦争をやりたくないって言ったらどう思います? 国の主としてダメだって思います?」
「……いえ。個人としても、王としても大切なことと存じます。王たる者はいたずらに兵を用いることは亡国の行いにございます」
「うん」
「同時に国難の折りには兵を用いることを躊躇することもまた亡国の行いにございます」
「国の威信とかそういうのが損なわれると他の国に舐められて色々といちゃもん付けられて大変なことになるからですか?」
「もっと根本的なことです。国土とは民の日常に繋がるもの。そうですね。今時の戦の争点となっているワルタを例にしますと、彼の地は各種鉱物を産し、ラインボルト北部地域の需要を満たす重要な地。もし、ワルタを失えば北部地域が難渋するだけではなく、他の地域にも負担がかかることになります。民の生活は様々な要素によって支えられており、一つでもかければ昨日までの日常は失われてしまうのです。そして、民の生活を支える様々な要素を産み出しているものこそが国土なのです」
「けど、資源が欲しいんだったら貿易で手に入れることだって出来るじゃないですか。これまでと比べて少しぐらい割高になっても誰も死なないで済む方が良いと思うんだけど」
「残念ながらそうは参りません。売り手がラインボルトとの貿易を拒絶すればどうなりましょう?」
「…………」
「経済とは巡り巡るもの。例え人の住めない小島であろうと譲れるものではございません。小島を失えば漁民たちは漁場を失い、魚介類を商う者たちや包丁を握る者、船大工も困りましょう。そして、こういった者たちと取引をする者たちも難儀をすることになりましょう」
「うん」
「建国王リージュは国民に対して安寧なる日常を守ることを約束なさいました。それは憲法を越える国と民を結ぶ絶対の約定にございます」
「だけど、戦争をすれば兵は死ぬし、国民にも辛すぎる思いをさせることになる」
  アスナはたまに祖父母やその友人たちから昔話を聞いていた。喜怒哀楽、様々な話を。
  それ故に想像できる。幻想界を統一するのだという意思に揺らぎはない。しかし、出来ることならば戦争をせずに済むのならばそれに越したことはないとアスナは思っている。
  そんな若い主の意を汲んで従僕は応えた。
「臆病者だと、所詮は人族だと陰口を叩かれながらもアスナ様は今の安寧を守るために尽力為されました。残念ながらそれが実を結ばなかった以上、アスナ様は未来の安寧を守らねばなりません」
「未来のため、か。便利な言葉だな」
「結構なことではございませんか。掌中にある便利な物を用いるに何の遠慮がいりましょう。それが善意であろうと、悪徳であろうと関係ございません」
  そこまで言うとストラトは踵を打ち付けて直立して断言する。
「それこそが大義名分というものでございましょう」
  アスナは双眸を大きく見開いた。初めてその言葉の意味を知ったとばかりに。いや、今こそ大義名分の意味する根幹を知ったような気がした。
「それともこのように申し上げた方がよろしいでしょうか」
  小さく息を吸う。
「ロゼフは、アスナ様に反撃する権利を押し付けた、と」
  瞳は焦点を定め、喉の奥が震える。
  ストラトの言った言葉がとても心地良い。小難しいことを取り払い、現状を言い表すのに的確だ。事は単純にして明快。つまり、やられたからやり返すのだ。
  一頻り笑ったアスナはストラトに質問を重ねた。
「その大義名分を振り回して自分の好き勝手にやるのはどう思います?」
「国民との約定を反故にしない限りにおいて、お好きになされれば宜しいかと」
「分かった」
  アスナは大きく口を開いて笑みを作った。それはまさに傲岸不遜そのものであった。

 閣議と銘打ってはいるが、その実は御前会議であった。宰相を初めとする諸大臣だけではなく軍関係者も多数出席していた。
  出席者たちの雰囲気は明確に二分していた。ロゼフとの交渉が決裂に終わったことが信じられない者たちと、そら見たことかと非難する者たちだ。
  前者は文官に多く、後者は武官だ。元々、武官たちは交渉などではなく準備が完了次第、即時ワルタ奪還に動くべきだと主張する意見が多数あった。内乱で印象が悪化した軍からすれば、国土と権益を守るという本文を国民に改めて示す良い機会でもあるからだ。戦争になれば軍により多くの予算が振り分けられるからというのもある。
  儀仗兵よろしく近衛の団員がアスナの出御を告げる。
  出席者たちは起立をし、一斉に礼をする。それを受けてアスナは鷹揚に頷くと着座をした。手振りで全員にも着席を許す。LDはアスナの右後方に控えている。
「エル、始めよう」
  左隣に座るエルトナージュに頷きかける。
「はい。閣議を始めます。皆もご存知でしょうが、改めて申し上げておきます。八日前、遺憾ながらロゼフとの交渉が決裂に終わりました。これまでの経緯の報告、今後の方針並びに行動予定を決します。軍からも意見を求めるために参謀総長を初めとする方々にも出席していただいています。外務卿、交渉の経緯の報告をお願いします」
  エルトナージュに促され、外務大臣ユーリアスは起立をした。同時に外務官僚たちの手で出席者へ資料が配付される。
  ユーリアスは一礼すると経緯報告を始める。
「結果は宰相からお聞きの通り決裂となりました。外務省としましては全力を持ちまして交渉を続けましたが、妥結に至らずまことに遺憾に存じます」
  その口調に苦渋の色は感じられない。押し隠しているのかどうか分かりかねる。淀みなく報告を始めるユーリアスの声に耳を傾けつつ、アスナは視線を長卓の右側にずらりとならぶ軍関係者を見た。武官たちは程度の差あれ表情に内心の意見が浮かんでいた。
  すでに結果が出ているのだから、今後どうするのかを討議する方が先決だろう、と。
  対する諸大臣たちは逆に悲嘆しているように見える。これまで続けていた国家再建計画が開戦により歩みが大幅に遅くなることに落胆しているのだろう。
  それではエルトナージュはどうだろうか。と隣を盗み見る。
「…………」
  いつも通り超然とした鉄面皮で報告書を黙読している。アスナの視線に気付いた彼女は横目で彼を睨み付けた。アスナは誰にも分からない程度に苦笑いを浮かべる。
「以上の方針により、我々外務省は後継者殿下並びに宰相の許しを得てロゼフとの交渉を続けていた訳ですが……」
  大会議室にユーリアスの声のみが響く。が、唐突に異音が混じった。
  アスナは眉を顰めて報告書から視線を異音のする方、扉の方に視線を向けた。諸大臣や武官たちも同様だ。どうもただならぬ雰囲気だ。
「何事だ!」
  武官の一人が声を張り上げた。バクラ将軍だ。
  そう言えば、オレも同じようにあのオッサンに怒鳴られたっけ、と懐かしく思いつつも妙に笑いたい気分になった。場を弁えて我慢したが。
  しばらくの間をおいて扉が開かれた。近衛の団員の制止を振り切って入室してきたのは十数人の男たちだ。
「……なんだ?」
  アスナは眉を顰めて呟いた。よくよく観察してみれば見覚えのある顔が幾つかある。名家院の議員たちだ。派閥の領袖との呼ぶべき者まで含まれている。
  その中で特に目を引いたのは赤い頭髪と瞳の青年だ。年の頃は二十台後半か三十台前半ぐらいか。もっとも、見た目と実年齢が一致しない種族もいるので実際はどうか分からないのだが。彼は議員たちを従えるようにして先頭に立っている。
  青年が議員たちの中心となっているようだ。
「閣議の最中です。貴方たちの入室を許可した覚えはありません。即刻、退去して下さい」
  立ち上がったエルトナージュは彼らにそう言い放った。幾らか語気が荒い。
  鉄面皮モードの彼女にしては珍しい。
「確かに許可はありませぬが、参加する資格はあると思いますが。宰相」
  赤毛の青年を介添えするように立っていた初老の男は言った。
「我が主、アルニス・サンフェノン伯爵殿下は紛れもなき魔王の後継者。この国難に対処すべく討議する場への出席する権利があると存じますが?」
「これは思ってもみなかった意見ですね。アルニス殿はすでに後継者たる権利を放棄したものと考えていたのですが」
「それは貴女の見解に過ぎない。私は戯れでもそのようなことを口にした覚えはないぞ」
  赤毛の青年、アルニスが口を開いた。なかなか良い声だ、とアスナは思った。
「では、お尋ねしましょう。アルニス殿、貴方はラインボルトへと招かれた当時、こう仰いましたね。私は内乱に関与しない、と。これはすなわちラインボルトを背負って立つことを拒絶する発言。後継者たる権利を放棄したと受け取って差し支えないでしょう」
  そこまで言ったエルトナージュは右手でアスナを指し示し、
「なにより我々ラインボルト政府はこちらの坂上アスナ殿下を唯一無二の魔王の後継者として戴いています。後継者を名乗ることはご遠慮願いたいものです」
「エルトナージュ姫。それは飛躍のし過ぎというものだ。私は自身が魔王の後継者であると自覚しているが故にあのような発言をしたに過ぎない。魔王とはすなわちラインボルトに遍く君臨する者だろう。そのような立場の者がどちらからを支持することはその有り様として相応しくないと判断してのことだ。そちらの彼のようにどちらかに偏るのは魔王という存在の行いとしては不適切であったとは私は思う」
「当時、仲裁に出なかった理由はなんです。貴方の言い分ならば、それこそが魔王の後継者の行いそのものでしょう」
  エルトナージュが果敢に攻めているようだが、対するアルニスはのらりくらりと原則論を展開してかわしているように思えた。アスナの私見ではちょっとだけアルニス有利か。
「もっともな意見だ、姫。私もそうするべきだと第一に考えた。だが、意味はなかったろう。忘れたのか。貴女はラインボルトに招かれたばかりの私にこう言ったのだぞ。後継者の名において即時反撃を、と。貴女だけではない。将軍たちも同じ期待を私に向けていた」
  アルニスはいや違うな、と呟いた。
「内乱を収めるのに武官が私を推戴したいと考えるのは当然だ。おかしいのは貴女だろう。王族たる貴女はまずなにより魔王の意思を共有すべきだ。それはつまり、後継者による内乱の仲裁と国内の安定を図るべきだと私に上奏することだ。だが、貴女が私に言ったのは即時反撃だ」
  当時のエルトナージュがそう言ったことは無理からぬことだ。もし、素直にアルニスに仲裁されてしまったら、その後に待っているのは自身の更迭だ。
  幻想界統一を胸に秘めていた彼女からすれば、容認しがたいことだ。
  形勢はまた微妙にエルトナージュ不利へと傾いた。徹底してエルトナージュだけを攻撃している。責任を彼女にのみ被せて軍から不興を買わないようにしているのだろう。
  アスナは視線を巡らせる。将軍たちは口を挟もうとはせず、諸大臣も同様に静観の構えだ。アルニスを支持しているのであろう議員たちは自分たちの中心人物の言葉が持つ熱に煽られたのか、それとも思惑通りに事が運んでいるのが楽しいのか顔色が良い。
「…………」
  エルトナージュは返答に詰まった。僅かに言葉を探した彼女が次に口を開こうとするよりも早くアスナは声を出した。
「オレだけ置いてけぼりみたいなんだけど?」
  声音にはたっぷりと不満が乗せられている。これまで場を観察するにアスナを除く全員があのアルニス・サンフェノンなる人物が何者であるのか知っている。
  振り返ってみたLDも知っていたようだ。薄く苦笑を浮かべている。
  かなり不満であった。自分に関係していながら、これだけ重要な話が自分の耳に届いていなかったことに。同時に納得もしていた。
  すでにアスナは内乱を収めたことで内外に魔王の後継者として認知されている。この時点でもう一人の後継者がひょっこり顔を出す意味はない。知らせてアスナを不必要に不安な思いをさせることもないという気遣いだろう。だが、それはそれ。これはこれなのだ。
  アスナは、一人蚊帳の外にされるのが好きじゃない。
  彼は立ち上がると、
「まずは自己紹介から始めましょう。挨拶は大事だって、うちのジイさんが言ってましたしね」
  そう言って一礼する。
「はじめまして、坂上アスナです。現生界から召喚され、魔王としてラインボルトを託された者です。よろしくお願いします」
  その態度はあくまでも年長者に対するものだ。決して格下であるとは示さない。それぐらいはアスナにも出来るようになっている。
  相変わらず心の奥にあるやせ我慢を総動員し、背中には嫌な汗が浮いている。しかし、アスナにはエルトナージュという見栄を張りたい相手がいるのだ。彼女に無様な態度を見せる方が嫌だ。
「ご丁重なご挨拶痛み入る」
  一般人の挨拶にご丁重もクソもない。皮肉だな、とアスナは思った。
「私は北方の大陸を制覇せし竜の血族にして、ラインボルトを君臨することを望まれた者、アルニス・サンフェノン伯爵です。以後、お見知り置きを」
  アスナは鷹揚に頷くと椅子に腰掛けた。今の気分のままくずれた姿勢で。
  もはや行儀良く会議をする気分ではない。ここは戦場だ、と意識を切り替えた。
  執事を呼び、自分とアルニスにお茶を持ってくるように告げる。それと一緒に細々としたことをストラトに当てて言付ける。LDも一緒に何かを命じているのが聞こえる。
「伯爵ですか。そういった身分の方と会うのは初めてですよ。竜の血族ということはリーズの?」
「その通り。竜王陛下より賜りし位階であり、我が出自を示すものです」
「そうですか。オレはそういったことに詳しくないのですが、古い家柄なのでしょうね。きっと、途方もない歴史を持たれている家柄に違いない」
「仰るとおり我が家は赤竜公に縁を持っています。呪われた身ゆえに当主の座は幼き弟にありますが、竜王陛下は私の内治の才を賞し爵位をお与え下されたのです」
  呪われた身というのが何を意味するかアスナはすぐに察した。彼は竜族の忌み子なのだ。
  純血でありながら竜の姿へと変化することの出来ない呪われし子。
  首都防衛軍副将たるファーゾルトは自己紹介の際にその辺りのことを話してくれたことを覚えている。あまり触れられたくなさそうだったのが印象に残っている。
  だから、アスナは自分からそこに言及するつもりはない。
「つまり、貴方の爵位は今上竜王陛下より賜ったのですか」
「如何にも。それが何でしょうか?」
「リーズの爵位を持つ者が魔王の後継者を名乗るのは不適切ではないかと思っただけです」
  爵位を持つ者が魔王となれば、実体はどうであれラインボルトはリーズの下に見えてしまう。五大国の一つに数えられるラインボルトの君主としては良くないことだ。
  しかし、アスナは指摘しただけでそれ以上踏み込むことはしなかった。この場にいる皆にそのことを提起するだけで十分だし、何よりアルニスの目が少し怖かったのだ。
「それで議員方は何をしにここへ? 貴方たちがこの場にいる資格も、許可をした覚えもないが?」
  細身の老人が前に出た。この場にいる議員の中で最も大きな発言力を持つ老人だ。
「国難であるが故、国を思うが故にこのような強行に出たまでのこと。坂上アスナ君、貴方がその場にいることは相応しくはない」
「君かよ。ついこの前あった時には殿下殿下って呼んでたくせに」
  ボソッと呟いた声が聞こえたのはエルトナージュとLD、参謀総長ぐらいだろう。三人とも礼儀正しく無言だ。
「お伺いしましょう、ドゥーチェン議員。何がどう相応しくないか。……そうじゃないな。貴方たちの要求はなんなんだ」
  つまり、彼らは自分とアルニスを両天秤にかけたのだ。そして、何かしらの理由によってアルニス支持に傾いた。それはつまり、アスナがかれらの要求を受け入れれば再び天秤はアスナに傾くという訳だ。そもそもこの場にいる議員は確かに有力者ばかりだが、有力者は他にもいるのだ。彼らが全てではない。
  アスナの露骨な物言いにドゥーチェンらは顔を顰めた。こういった所も彼らからすれば不満なのだろう。
「君が恐れ多くも魔王の後継者であると仮定して言おう。まず一つ、エルトナージュ様を宰相の職から解任して頂きたい」
「……ほう」
  途端にアスナの声が低くなった。目も細くなる。
「王族に対してこのような物言いは不敬ながらも国の行く末のためお許し頂きとう存じます。現在の国難はすべからくエルトナージュ様の宰相就任より端を発しております。王不在を良いことに専横の限りを尽くさんばかりに各所に口を挟み国政を混乱させました。先の内乱で革命軍と呼ばれた彼らが何を考えて挙兵したかは皆もご存知の通りでしょう」
  そして、ドゥーチェンはエルトナージュの失策の一つ一つを丁寧に上げていった。元々そういう性格なのだろう。丁寧というよりもねちっこい。
  だが、彼の言った事例は全てただの言い掛かりではないことも確かだった。
  ラインボルトを混乱させ、ラディウスやロゼフ、エイリアにちょっかいを出されたのは間違いなく彼女の責任なのだ。
「…………」
  ストラトの手によって届けられたお茶を飲みながらアスナは行儀悪くドゥーチェンの話を聞いていた。老人は露骨にエルトナージュの失敗のみをあげつらっている。
  彼女がどれだけ身を粉にして政務に取り組んでいることを、彼女がいたから内乱の後始末が円滑に進んでいることを、失敗を認めた上で最小の被害で事が収まるように尽力したことをこの老害は無視している。
  口に含むお茶の味も香りも全く分からない。ただの熱いお湯のようだ。
  はっきり言ってむかつくことこの上ない。久しぶりにはらわた煮えくり返るような気分だ。明確な敵意がアスナに向けられているのが分かる。
  つまり、先ほどのエルトナージュとアルニスのやり取りはこの伏線だったという訳だ。そして、アスナが決して彼女を解任しないことを見越してのことだ。同時に彼らの耳に届いているのだろう。最近、二人がとても親密になっていることを。
  もし、アスナが解任を拒絶すれば国の重職を情実で任じる者に王たる資格はないと攻め立てるに違いない。腹立たしいことこの上ない攻め方だ。
「さぁ、聞かせて貰おうか。坂上アスナ君」
  錆びた金属を擦り合わせたような声で非常に不快だ。
「…………」
  お茶を口に含む。沈静効果のあるものだがあまり効果を発揮していない。今、ここで手札を出してやろうか。今後のことを考えるとまだ温存しておいた方が良いように思えるが、そんなことどうでも良くなってくる。
  エルトナージュの功罪はアスナも良く知っている。この場にいる者が知り得ないことまで。それでもアスナが彼女を宰相の地位に就かせている理由は単純にして明快だ。
  坂上アスナはエルトナージュの味方である、と心に定めているからであり、一番信用している相手だからに他ならない。他にも様々な個人的な感情からも彼女には何があろうとも自分の側にいて貰いたいのだ。それをこのクソジジイが取り上げようとしている。
  断じて許せることではない。後先考えずに殲滅してやろうか。
「どうしたのかね?」
「……分かりました。宰相の職を辞しましょう」
  左の席から返答があった。
「エル!!」
  剣呑そのものの瞳でアスナはエルトナージュを見た。彼女は小さく首を振って、何も言わないように無言で告げる。
「元々、内乱が終わり事後処理が一段落すれば辞表を提出するつもりでした」
  そんなつもりは全くなかったはずだ。アスナの信頼の下で辣腕を振るうつもりだったはずだ。アスナもそのつもりだったのだ。
「ロゼフとのどう相対するかを決するかは新内閣の下で行うのが宜しいでしょう」
  それはエルトナージュの退陣を求めていた議員たちにしても同じだったろう。あまりにもあっさりとした受け入れに拍子抜けしたような表情を浮かべている。
  が、次の瞬間アスナを攻める要素が失われたことに気付きドゥーチェンは苦々しい表情を一瞬だけ浮かべた。アルニスは無関心にお茶を啜っている。
「ご英断と存じます。ラインボルトの未来は明るいものとなりましょう」
「それで後任は誰を指名するのですか」
  エルトナージュの促しに議員たちは一斉にアルニスを介添えするようにいる初老の男を見た。
「シエン殿が適任かと。内務大臣など重職を経験されておられる。現状ではこれ以上の人選はないかと」
  指名を受けた当人はしかしゆっくりと首を横に振った。
「辞退申し上げる。私は権力欲しさでこのようなことをしたのではありません。他に然るべき方がいらっしゃると思います」
  口調は場違いなほどに穏やかだ。謙遜でもなく本心からそう思っているようにアスナには感じられた。そのシエンを見下ろしてアルニスは言った。
「シエン、宰相としてその才覚を発揮せよ」
「しかし、私は……」
「すでに命は発した。従え。宜しいか、坂上アスナ殿」
  隣席のエルトナージュが小さく頷いた。が、アスナは決断を下すまで数秒の時間を要した。
「ただし、無駄に国を混乱させないようにロゼフとの件が片付くまで三卿並びに軍務大臣の変更は認めない。それで良いのならシエンを宰相になることを認める」
  三卿とは、内務大臣、外務大臣、大蔵大臣のことだ。ラインボルト建国当初、大臣職はこの三つしかなかったことに由来している。また、権限も大きいため今でもこう呼ばれているのだ。
「……承りました」
  シエンが一礼して受け入れた。アスナは鷹揚に頷くと、
「すぐに新しい内閣の人選を始めろ。退室したいのならば自由にして良いぞ」
「はっ、承知いたしました。ですが、ことの成り行きを見守ってからにしとう存じます」
  口振りからしてある程度、人選に宛があるのだろう。いや、内務卿であったというから当時の顔ぶれを召集するつもりなのかもしれない。
  エルトナージュが認めたのだから、仕事が遅いということはないだろう。
  アスナは再び視線を議員たちに転じた。
「それで次の要求は? これ一つだけじゃないだろう」
  促されて壮年の男が一歩前にでた。
「議会の再開をお願いいたします」
「分かった。シエン、宰相の任を引き継いだらすぐに名家院議長と相談して再開の準備を始めろ」
  エルトナージュが罷免される恐れがなくなった今、再開を渋る理由は何もない。それに順番が逆になるがシエンの宰相就任の了承を議会から得ておく必要もある。
「承りました」
「はい、次」
  半ば以上、投げ遣り気味にアスナは議員たちに要求を言うように促していった。正直なところ腹が立っていて彼らとまともに相対している余裕がないのだ。
  怒りを抑え込んでいるが故に投げ遣りであった。今のアスナの思考は別のことに飛んでいた。それでも議員からの要求のアスナは一つ一つ対応していった。
  自分の選出地域の復興などの要請には内務卿に説明をさせて、対案があるのならば提案書を纏めて新内閣に提出、それが有効かつ実現可能ならば実行するようにシエンに命じた。 外交関係についても同様だ。外務卿に要点のみを説明させて、納得させた。
  その他幾つかの要求もアスナは受け入れた。
「他には? こんな機会はもうないだろうから言いたいことがあったら言え」
「…………」
  要求は出尽くしたようだ。ため息が漏れる。内心の怒りを抑え込むのにも疲れてきた。
「それじゃ、改めて聞こうか。オレの何が不満だ?」
  返答を期待しない問いかけだ。アスナは議員たち全ての要求を受け入れたのだから当然だ。後に残るのは彼が若すぎるとか、人族であるといったことしかない。
「内乱を収めたぞ、内乱の後始末も順調に進めてるぞ、軍が出来るだけ傷つかないように特赦を出したりして国防力が落ちないように配慮もした。貴方たち議員からの要求も受け入れた。何が不満だ?」
「…………」
  声は返っては来ない。アルニスとシエンは我関せずの態度だ。
  沈黙が大会議室に降りる。静寂を破ったのはLDであった。
「もう良いだろう。相手に徹底した配慮を示すのは君の長所だが、やりすぎだ。今から後任の宰相殿に苦労をさせてどうする」
「LD?」
  場の視線が一斉に彼に集まる。彼は薄く笑った。
「しかし、有効でもある。すでに魚は網の中だ。君の好きなようにしろ。我慢は身体に良くない」
「……知らなかった。LDもそんなこと言うんだ」
「私の使命は君に最大の利益を与えること。これもその一環だ。あとでとばっちりも受けたくはない」
  あまりにもはっきりとした物言いに笑みが漏れる。
  アスナらしからぬ笑い方に大会議場の面々は戸惑いの表情を見せた。何事もないような態度をとっているのはエルトナージュとLDのみだ。
  一頻り笑うとアスナはストラトを呼んだ。大会議室の扉の向こうで控えていた彼は手に幾つもの書類を携えていた。
「議員の方々は確かこう言ったな。国を思うが故にこんなことをしたって。それじゃ、今度はこっちから聞かせて貰おうか」
  立ち上がり、右手をテーブルについて言い放った。
「アルニス殿は魔王は公正であるべきだからこそ内乱に関与しなかったって。そうですね、アルニス殿?」
「その通りだ、坂上アスナ殿」
  アルニスの返答に満足げな表情を浮かべてアスナは大きく頷いた。そして、はっきりとした口調でアスナは議員たちの名前を上げていった。
「なぜ、貴方たちがそこにいる? 革命軍を影から支持していた貴方たちがなぜそこにいる?」
  途端に大会議場はざわめく。議員たちの中には濡れ衣だと叫ぶ者もいるがもはやアスナに容赦はない。容赦する理由が何もないのだ。
「当然、証拠はあるさ。何なら今から提示してやろう。ストラトさん、一つ一つ読み上げて」
  命令を受けたストラトは丁寧に一言一句はっきりと手紙を読み上げていった。それは彼らと革命軍とを繋ぐ手紙であった。直接、フォルキスらに宛てたものもあれば、商家に協力するよう促す手紙もある。また、間諜によって集められた情報も含まれている。
  それらが諸大臣、軍関係者に公開される。彼らの間から唸り声が漏れた。
「本当に国を思ってのことか疑わしいもんだ。アルニス殿を担ぎ上げることで内乱中のあれこれをなかったことにしたんじゃないのか? それとも革命軍の蜂起で失敗した権力拡大をもう一度狙ったのか? まぁ、どっちでも良い。結果は同じ。貴方たちを起訴することにする。そちらの要求を飲んだんだ。悪い取引じゃないだろう?」
  恨み言や命乞いのような声が聞こえるが全てに受け答えするつもりはない。
「蓋を開けたのは貴方たちだよ。起訴しないように言ったのはエルなんだから。当分の間、議会を開けないからその代わりにってな。けど、エルが退陣して議会も再開するんだから起訴しても問題ないよな」
  アスナは手渡された書類に目を落としながら続ける。盛大にため息を漏らす。
「ドゥーチェン議員。貴方もそうだ」
「……はて、私は革命軍と呼ばれる反逆者どもと誼を通じた覚えはありませんが? 妙な言い掛かりは止めて頂きたい」
  謝罪の言葉を口にするつもりはない。その代わりに別のことを話す。
「ついこの間のことだ。後宮でオレは暗殺されかけた」
  どよめきが大きくなった。当然だ。後継者の暗殺未遂なぞ大問題だ。
「もしやその暗殺を指示したのが私だと仰りたいのか?」
「いや。そうじゃない。詳しい経緯を話すのは面倒だから省略するが、その暗殺者の背景を調べて行ったら妙な集会、いや秘密倶楽部と言った方が良いか。そんなのに行き当たった。名前は紅の硝子杯」
  ドゥーチェンは無表情だ。
「文字通り血を受けて赤くなったグラスってことなんだろうな。会の目的は幻想界を侵した人族に厳罰を処すること。簡単に言えば人間を集落とかから拉致して拷問にかけるのが目的。ホントに悪趣味この上ない」
  嫌悪を吐き捨てるようにアスナは言った。
「吊し上げて体中を傷つけたり釘を打ち付けたり、車輪に身体をくくりつけて引き裂いてみたり、魔獣に襲わせたり喰い殺させたりと……これ以上は口にするのも嫌だな。こんなこと良く思い付くもんだよ。その辺り、どう思う? 紅の硝子杯のドゥーチェン会長」
「何を馬鹿な。荒唐無稽が過ぎると人格を疑われますぞ」
「それなら良かったんだけどね。残念ながら適当に何人かご足労願って話を聞いたら、貴方がやったことをすぐに話してくれたよ。貴方が会長だって。何にせよもう終わりだ。すでに関係各所に通達して一斉に検挙に動いている」
「なんたる暴挙。なんたる暴言。肉人形如きに国が動かされるとは。許されることではない。肉人形が玉座を汚すことなぞ誰であろうと許容することはできん!」
「この場で拘束する」
  アスナは扉の側で控えている近衛の団員に合図をした。団員が一歩を踏み出すよりも早くドゥーチェンは動いた。
「待て!」
  団員二人が老いた小さな肩を左右から掴んだ。しかし、急激に変化が起きた。ドゥーチェンの両腕が失われたのだ。腕だけではない、両脚も失われた。襟首から抜け出た老いた老人は蛇のように身体をうねらせて迫る。変化は続く。身体はさらに伸び巨大化する。老人の口は大きく引き裂かれた。あまりにも急激な変化に団員はもちろん、アスナすら動きがとれない。口を大きく開けて迫るドゥーチェンの姿は蛇そのものだ。
  鋭く伸びた牙からは毒を撒き散らしながらアスナを飲み込もうとする。この場で的確に動くことが出来たのは二人だけ。
  蹴り飛ばすように立ち上がったエルトナージュはアスナの肩を掴んで引き倒した。
「エル!?」
  アスナの代わりに牙の的となった彼女は平然と左手をドゥーチェンの口に向けて突きだした。彼女が手を開いた瞬間、小さな爆発が起きた。
  二つの牙が折れ弾け、毒の唾液が周囲に飛ぶ。エルトナージュの頬や胸元にそれは散り、酸のように彼女の肌を焼く。しかし、彼女は眉一つ動かさない。
  魔法力で強化され、蒼く輝く右の拳がドゥーチェンの頬を打つ。細身の身体からは信じられない勢いの拳を受けて大蛇は床に叩きつけられた。魔法により拘束をしているためもはや大蛇が動くことはかなわない。
「なぜだ。姫君には分かるはずだ」
  侮蔑を隠さない視線を浴びせかけながら、
「若返りを繰り返し、知者として畏敬をされる巡りし蛇(くちなわ)の長老に何があったか知りませんが……」
  そう前振りをするとエルトナージュは決然と言った。
「わたしのアスナに危害を加えようとする者は誰であろうと廃除する。ただ、それだけです」
  彼女は近衛の団員に頷きかけ、動けなくなったドゥーチェンを運び出すように指示をした。
「アスナ」
「……うん、ありがとう」
  エルトナージュの手を借りて立ち上がったアスナは礼を言うと視線を大蛇に向けた。目の端にアルニスがその老いた蛇の尾を踏んでいたのが目に入った。
  ふぅ、と安堵の吐息を漏らすと椅子に深く腰掛けた。冷めたお茶を飲んで少し気分を落ち着けさせようとする。あまり効果はないような気がする。
「後継者並びに王族の殺害未遂。全ての名誉を剥奪の上で法に基づいて処理をしろ」
  これで三回、いや四回目か。全く大人気だな、とアスナはカップに口を付けながら苦笑した。ラインボルト史上、最も命を狙われた後継者なんじゃないかとも思った。
  カップを置いた。小さく陶器がぶつかる音がした。そして、もう一度吐息をした。
「アルニス殿。貴方がどうなのかは知りませんけど、貴方の支持者の実体はこの通りです。これでもまだ後継者を名乗るんですか?」
「当然のこと。私にはその資格があるのだから。だが、譲歩する用意はある。坂上アスナ殿、貴方に継承の優先権を譲ろう」
  ふっ、と場の空気が緩む。それでも十分以上に緊張状態にあるのだが。
「対価は何ですか?」
「この者たちの起訴を取りやめることを。仮にも私に臣従した者だ。このまま捨て置く訳にはいかない」
「……そこの蛇を許すことは出来ないが、その他の議員ならば受け入れましょう」
「それで構わない。私もあれの所行は好ましくないと思っている」
  アルニスの受け入れにアスナは頷く。
「他には?」
「ない。十数人の未来を賄ったのだ。それで十分だ」
「分かりました。今後、この件についてこちらから起訴することはない。但し、彼らが職務に相応しくない行いをした場合はその限りではない。それで良いですね?」
「当然だ。私の臣下が相応の振る舞いを行うのは当然のことだ」
  交渉成立だな、と呟くとアスナは内大臣オリザエールを呼んだ。程なくして姿を現した彼に向けて、
「アルニス殿のことは任せる。粗略なことがないように」
「承知いたしました」
  アルニスに顔を向ける。二人の視線が絡み合う。が、数秒で外される。
「話は終わりです。アルニス殿、退室して頂きたい。シエンと内府はこのまま残るように」
  残る者と去る者。同じ資格を有する者は分かたれて元いた場に戻っていく。
  お互いに何を手に入れたのかと考えたが、すぐに何も増えてはいないことに気付いた。むしろ、アスナは多くのものを失った。
  議員に対する手札に高官たちの自分への温和な印象、そして何より宰相であるエルトナージュを失った。魔王の後継者という地位を維持するための代償としては大きすぎる。
  対するアルニスはシエンを宰相に据え、アスナの手札から救い出したことで議員たちからの信望を勝ち得た。何より後継者がもう一人いるのだと示すことが出来た。勝者は間違いなくアルニスだ。まったくもって腹立たしい。
  近衛の団員がアスナに一礼すると扉を閉めた。
  沈黙が大会議場を支配する。全ての視線がアスナに向けられる。カップの底に残ったお茶を飲み干す。ストラトにお代わりを持ってくるように言った。
  そして、腹立たしさとやせ我慢で作り上げた鎧で集中される視線を弾き飛ばしながらアスナは口を開いた。はっきりとした口調で大会議場にいる全ての者に向けて言った。
「それじゃ、改めて会議を始めようか」
  立ち上がる。そして、傍目には傲然と見える態度で出席者を見回した。
「もう色んな手順を端折って話を進めよう。ロゼフは交渉で問題を解決することを拒絶した。資料を見てくれたら分かるだろうし、耳にもしているだろう。オレは交渉で解決することを優先するように外務省に指示をした。だけど、結果はこの通り。つまり、連中はラインボルトの好意を足蹴にしたってことだ。魔王の後継者として命じる」
  そして、アスナは大きく息を吸った。
「開戦の準備を始めろ!!」
  視線を外務大臣ユーリアスに向ける。
「外務省はすぐに宣戦布告の準備を始めろ。ついで大国にその旨通達をし、この件には何があろうと介入しないように説得しろ。ロゼフと同じようにラインボルトに軍を派遣しようと考えていた国を恫喝してラインボルト支持の声明を出させろ」
「承知いたしました」
「内務卿は軍務大臣と相談してロゼフの併合する準備を始めろ」
「併合するおつもりですか!」
  内務大臣ガラナスは立ち上がった。
「当然。全員に言っておく。全てはこの方針で動くように」
「外務省では戦時中でも交渉できるようにと準備をしておりますが」
  と、ユーリアス。彼女もアスナが併合すると言い出すとは思わなかったようだ。
「うん。それで良い。逃げ道を与えてやって良い。講和の条件は領土の割譲と賠償金の支払い、今回の件の主要人物たちの処刑とロゼフ王家の断絶、政府代表には交渉をしたロゼフの外務大臣、えっと……」
「ネレス殿です」と、エルトナージュが教える。
「そのネレスを据えること。あくまでも要求を突き付けるのはこっちだってことを忘れないように」
「お言葉ですが殿下。そのような要求は決して受け入れられないかと。特に王家の断絶は」
「その代償としてこちらが要求する以上の領土の割譲と賠償金の支払いをロゼフが申し出るのなら王家に関しては引っ込めて良い」
  次は軍務大臣や参謀総長ら軍関係者に顔を向ける。
「そういうことだからワルタ奪還後の行動は政府と良く話し合って決めて欲しい。オレから特に指示することは一つだけ。占領地域の住民は敵国民として扱うのではなく、戦時のラインボルトの国民として扱うように善処することだ。つまり、略奪、暴行その他諸々を行わないこと。もし、それを行ったバカがいれば軍規に基づいて処罰すること。良いな、これはオレが後継者であり魔王である間は絶対に続く命令だ。心しておくように」
「承知いたしました」
  軍関係者を代表して、軍務大臣と参謀総長が応える。頷くとアスナはLDを見た。
「それと軍事関係の会議に出席するときはオレの補佐としてLDをいつも出席させる。オレが出席出来ない場合はオレの代理でもあるからそのつもりでいろ」
  返答を待たずにシエンを見る。
「シエン。さっきも言ったけどすぐに新内閣の準備を始めろ。内府、認証式の準備にどれだけかかる?」
「二日は必要かと」
「思ったよりもかかるな。もっと簡単に済ませられないのか」
「略式でも二日必要です。殿下に式次第を覚えていただかなければなりませんので」
  つまり、アスナ次第ということだ。思わず苦い笑みが浮かぶ。
「分かった。それじゃ、二日以内に組閣の準備を整えろ」
  そして、アスナはエルトナージュに目を向けた。
「エルは引継の準備をしろ」
「分かりました」
  他にも色々と言いたかったが、数秒ほど彼女の顔を見ながら悩んだが結局、何も言わなかった。
「ロゼフへの宣戦布告は新内閣が成立してから出す。良いな!」
『承知いたしました!』
  出席者全てが起立をし、一斉にアスナに向けて礼をした。
  アスナは鷹揚に頷いてそれを受けると小さく苦笑を浮かべた。
「内乱の次は戦争か。まったく、ラインボルトは慌ただしい国だな」
  との呟きに「アスナが君主だからでしょう」とエルトナージュに突っ込まれて、アスナの苦笑はさらに濃いものとなった。

 アスナの口から開戦の命が発せられ、会議室は途端に熱気を帯びた。
  戦争を回避できなかった悲嘆も、無意味な交渉をしたとの侮蔑も全てある種の興奮によって塗り固められた。皆が一気に慌ただしく動き始める。
  それは開戦することが決まったからだけではない。先ほどアスナが議員たちに突き付けた刃の影響もあったろう。仕事を疎かにすれば後継者の懐からどんな刃が飛び出すか分からないと。
  エルトナージュは引継の、シエンは新たな閣僚人事の準備のためにすぐに退室した。開戦の直前となって内閣が替わってしまうなど前代未聞なことだが、戦争遂行のために重要な閣僚はそのまま残されたから混乱はそれほど大きくはならないはずだ。
  慌ただしく指示が出される中でアスナも会議室で質問攻めにあっていた。
  彼の前にはワルタとロゼフの地図が広げられている。
「ワルタを取り返す方針としてオレが命じるのは二つだけだ。住民の可能な限りの保護とインフラの保護だ」
「いんふら、とは?」
  内務卿ガラナスが聞いてきた。こちらではない言葉なのかも知れない。
「あぁ、えっと病院とか学校とか役所、道路とか工場とか港みたいなその街を維持発展させるための基盤、みたいなもんかなぁ」
「つまり、社会資本というわけですな」
「うん、そうそう。ワルタは工業都市だから工場とかそういった設備を敵に壊されると復旧にどれだけ時間と金がかかるか分かったもんじゃない。産業大臣、その辺の試算とかしてる?」
  初老の身なりの良い男を見る。背がしゃんとしているのが見ていて心地良い。
「最悪の場合、現状に復すまで十数年、再投資する資金は殿下をご不快にさせるに十分な数字になると出ております」
  詳しい数字を言わないのは余程桁が大きいのだろう。
「それは工場その他設備に関しての数字ではないかね?」
  と、内務卿ガラナスは尋ねた。
「もちろんです。それ以外の設備に関してはわたくしどもの管轄外ですので」
「……必要となる投資の額はさらに跳ね上がりますな」
「大蔵省としてはそのような金額をご用立てすることは不可能と申し上げておきます」
  と、大蔵卿は釘を差した。
  内乱の後に戦争と今でさえ尻に火のついた状態なのだ。ここで必要以上の出費は断固拒否したい考えだった。
「まっ、そういう訳で軍には社会資本の保護に力を注いで貰いたい。これはロゼフでの戦いにも適用される方針だからよろしく」
「軍としては殿下のご方針に否はございません。しかし、全てを守りきることは不可能です。住民保護と社会資本の保護、どちらを優先すべきとお考えでしょうか?」
  参謀総長グリーシアは小心故にアスナの方針に忠実であろうとした。それがアスナに辛い決断を口にさせることになった。
「……社会資本の保護を優先する」
「ワルタの住民たちは犠牲にするというのだな」
  LDは言った。意地悪言うなとアスナは睨み付けたが、彼は進んで悪役をやろうとしているのだろう。そう思って彼は小さく吐息を漏らした。
「当然、軍には出来ることは全部やってもらう。だけど、優先するのは社会資本だ。言い方は悪いかも知れないけど、ワルタのことは他の地域にとっちゃ対岸の火事。住民優先してもワルタで仕事が出来なくなると他の地域に人が大量に流れ出して混乱するし、ワルタの復興のために色々と負担をかけることになる。絶対に今以上に大変なことになるよ。けど、社会資本が健在なら何とかやっていけるはずだ。生き残った住民も復興の目星が残ってるんだから頑張ろうって気にもなるはずだ」
  これは内乱中にアスナが自分の目で見て感じたことだった。内乱で各都市の住民は少なからず死んでいるし、社会資本にも被害を受けている。経済難民の受け入れとその混乱はまだまだ残っており、再投資をどうするかでも随分と揉めたのだ。
「それでワルタの者たちに恨まれてもか?」
  ホントに意地悪なヤツだ。思いっきりアスナはLDを睨み付けると頷いた。
「王様なんて恨まれて幾らの商売だよ。参謀総長、優先順位の決定は内務卿と産業相と相談して決めるように」
「承知いたしました」
  恐らくLD辺りの口からそれとなくアスナの方針は伝えられているはずだ。事前に立案していた作戦に組み込むことが出来るようになっているのだろう。参謀総長グリーシアはさして慌てているような風にはなかった。
「ロゼフに進軍してからの方針の説明はLDに任せる」
「承知した」
  これまでアスナの後ろに立っていたLDが隣に移動した。閣僚その他の衆目の中、彼はアスナに雇われてから初めて軍師としての言葉を口にした。
「後継者はロゼフを併呑せよとの意向を示した訳だが、これを実現するのは非常に困難であると言わざるを得ない。しかし、政治的に見ればこの戦は避けられることが出来ず、またラインボルトにとって有益であると私は見ている」
  口調に澱みはなく、彼の目は卓上の地図に向けられている。
「開戦を避けられないというのは言わなくても良いだろう。だから、まずはこの戦争で得られる利益について言及しよう。一つは対外的な問題だ」
  外務卿ユーリアス、軍務大臣を順に見る。
「この戦いに勝利することでラインボルト軍は弱体化しておらず、逆鱗に触れれば国を失うかもしれないと思わせることが出来る。この武威を背景とすれば今後の外交交渉はかなり優位に進められるだろう。ラディウス然り、エイリア然りな。またラインボルトに属する中小国の離反を思い留まらせ、他の大国に付け入る隙を与えずに済む。また、リーズ、アクトゥスから同盟の打診が来ている。どちらと同盟を結ぶにせよ安く買いたたかれることがなくなる」
  説明を続けるLDの言葉を頷きながらアスナは聞いている。
「また、この戦争を切欠として二派に分かれてしまった軍を再び統合することが出来るはずだ。昔から外に敵があれば強く結束できるものだからな。また、国民に軍がラインボルトの守り手であることを再認識させる好機でもある。軍にはそのことを念頭において頂きたい」
  次いで内務卿ら内治の重臣たちに視線が向けられる。
「外敵の存在は内政においても有益だ。国民に、戦時中なのだから多少の我慢は仕方がないと思わせることが出来る。諸大臣らはこの時間を有効に活用するのだ。戦時中に様々な問題解決の準備を終わらせ、終戦した後に一斉にそれらを実行に移せば国への信頼を増すことが出来る。だが、これをしくじれば国内の不満が噴出すると私は見ている。戦時中の耐乏から解放されて、国民の鬱憤が我々に向けられるというわけだ。諸大臣には与えられた時間は短く、場合によっては戦争に勝った意味を失わせる可能性があることを念頭において頂きたい」
  諸大臣を順繰りに見ていたLDは再び卓上の地図に視線を落とす。
「ロゼフを併合することでラインボルトが何を得られるのか。豊富な鉱物資源と北部の港湾施設。そして、国土だ。あまり一般には知られていないがロゼフにはまだまだ未開発の領域がある。投資をすれば相応の実入りを期待することが出来る。短期的には苦しいが中、長期的に見れば旨味があると言える」
「LD、質問。ロゼフってラインボルトとサベージに挟まれてるのに開発していないなんて不自然じゃないのか? 独立守ってこうと思えばそれなり以上に国力が必要だろ」
  挙手をしてみせるアスナはロゼフの下にあるラインボルトを、右手にあるサベージを順に指し示して尋ねる。戦争を始める利点について一段落ついたためLDもアスナの疑問に答えた。
「それには幾つか理由がある。まずは外的要因から話そう。先に説明したようにロゼフには鉱物資源、港湾、未開発の国土と旨味がある。
  だが、だからといって手を出してサベージと事を構えてまで欲しいと思えるほどでもない。貿易で十分に必要な鉱物や木材は輸入できるからな。サベージにしても状況は同じだ。
  大国に挟まれながらも軍事的な圧力を受けていないため、急いで国力の増大に邁進することはないと考えているわけだ」
  ラインボルトもサベージも国境警備程度の部隊しかおいていない。
「次は内政面だ。あの国は貴族の勢力が大きく、過去に何度か王家の交代を経験している。さて、アスナ。これに国土の開発を絡めると何が推測できる?」
「……貴族が強いってことは彼らの領地のことに口を挟みにくいってことだよな。その貴族が自分の領地を開発して成功すれば力が大きくなる。……あぁ、そっか。出る杭は打たれるのか」
「その通り。地方領主が台頭しようとすれば王家や他の貴族がそれに難癖を付けて止めさせていたんだ。しかしだ。これは彼ら、特に王家にとっての処世術でもある。ロゼフ王家の力は他の有力貴族とさして変わりない。天領はさほど広くはなく所有する鉱山の数も少ない」
  天領とは王家の直轄地のことだ。
「彼らが他の貴族より一歩抜きん出ている理由は港湾設備を握っているからだ」
「王様っていうよりも貴族連合の筆頭って感じだな」
「まさにその通り。だが、これらの要素を我々も利用する。参謀総長、軍が想定している進出限界点は何処になりますか?」
「ヴィートゥンです、軍師殿」
  ヴィートゥンはロゼフの首都から一週間の位置にある都市だ。かなり奥深くまで入り込んでいるが今一歩首都には到達しない。
「首都には辿り着けないのか」
「全て我々に都合良く動くのならば首都を陥落させ、ロゼフ王に城下の盟を誓わせることも可能でありましょうが、全てが企図した状況となるとは限りません」
「……このヴィートゥンって街までなら確実な訳だ」
「はい。そして、決戦の地になると想定しております。ヴィートゥンは敵軍の総帥が治める領地の中心都市です。情報によれば血気に逸る人物のようで自身の領地に踏み込まれて我慢の出来るような人物ではありません。必ず決戦を挑んでくるでしょう」
  参謀総長グリーシアが指し示すヴィートゥンを睨み付けながらアスナは疑問を口にした。
「首都がヤバイのに自分の領地を守るために軍を動かすってのはちょっと信じられないな。戦力を温存しておいて出来るだけ有利な講和が結べるようにすると思うんだけど」
「アスナ、君が言ったことだろう。彼らにとって王とは自分たちの筆頭でしかないと。仮に領地を荒らされ、奪われたとしても王家から何一つ補償を受けることは出来ないんだ」
  そこまで言うとLDは口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「だが、ヴィートゥンの領主は幸いにも軍の総帥を任されている。首都に近づけさせないためにも決戦に挑むのが彼らの道理というものだ。ロゼフ王とは外戚関係にあるから尚更だ。それに岩窟族は正々堂々真正面からの戦いを好む勇武の種族だからな」
「そして、決戦の地はオレたちが全力を出せる場所なのか。それから? 決戦するってことは相手も主力だろ。それを打ち破ったんなら首都まで一気駆けのような気がするんだけど」
  と、アスナは尋ねる。疑問は次から次に湧き出てきている。
「打ち破るのは主力だけです。すでに予備役の召集が始まっていると聞きます。彼らの相手をするには心許ないのです。第一陣はヴィートゥン制圧後、そこを策源地として首都に参集する敵軍と睨み合いを続けます。その間に素通りした領域を第二陣に切り取らせるのです。この第二陣が戦後の統治に向けた基礎作りを担うことになります。その後は外務省の仕事という運びです」
  参謀総長が自信を持ってそう言い、LDも口を挟まないということはこれで戦争には勝てるのだろう。そのことにアスナは疑いを持つつもりはなかった。
  この戦略で間違いなく勝利を得られる。だが、それは完全勝利ではない。
「王家の領域には手を出していない、か。それで併合を承諾するかな。ロゼフ軍の総帥が自分の領地のためにオレたちに決戦を挑もうとするように。ロゼフの王家もこれまでラインボルトが占領した地域を差し出すことで手打ちにするかも」
「不満か、アスナ?」
  尋ねるLDにアスナは肯定も否定も出来ずに首を傾げてしまう。
「これで勝てるんだから十分なんだけど。……う〜ん、オレたちの提案を足蹴にしたロゼフの王家が無傷ってのが気に入らない、のかなぁ」
「ならば、私から一つ献策をしよう。ヴァイマー司令長官!」
「はっ!」
  武官たちの末席に座っていた他とは異なる身なりの男が立ち上がった。提督然とした衣装を纏った威丈夫だ。サイナと同じ様な深く蒼い髪から海聖族かな、とアスナは思った。
「ラインボルト海軍第一艦隊司令長官ヴァイマーにございます」
  野太く良く通る声が会議室に響く。立ち上がったヴァイマーはかなり上背がある。
「軍師殿! このような話、聞いていませんぞ」
  激して声を張り上げるグリーシアの姿を見ながら、どこの世界でも陸軍と海軍は仲が悪いんだなぁとアスナはしみじみと思った。
「雇い主が最大の利益を得られるように尽力することが私の役目だ。私はこの方針の下、貴官らと同様に海軍(彼ら)にも助言をしたまでのこと。
  進出限界点がヴィートゥンだと言ったのは貴官だろう。私は貴官らだけで十分にロゼフとの戦争に勝利できると確信しているが後継者はその上を望んでいる。それを現実のものとするために私は海軍を用いる策を献じようとしているだけのこと。
  私の役目として何かおかしな事はあっただろうか?」
  うわっ、この人こっちに責任持ってきやがった。
  アスナは露骨に嫌な顔をしたが当のLDはまったく気にしていないようだ。
「貴方のお役目ならばそうですな、軍師殿」
  そう言ってグリーシアは引き下がった。幾らか顔が引きつっているように見えるのは気のせいだろうか。それでも着席と同時に「金食い虫に何が出来る」と小声で吐き捨てたのが聞こえた。予算の取り合いは恐ろしいと改めて思うアスナである。
「ご理解頂けてありがたい、参謀長。ヴァイマー司令長官。話を始めていただきたい」
  ヴァイマーは嫌味なぐらいに色気のある一礼をアスナに向けてしてみせると口を開いた。
「端的に申し上げます。ロゼフ海軍を撃破した後、エシュア湾にて上陸作戦を敢行します。主制圧目標は港湾都市キストです」
「貿易の遮断を行う訳か。それだったら、海上封鎖だけで十分だと思うけど?」
「ご慧眼にございます。仰るとおりそれだけでも十分に効果を上げることが可能ですが、眼目は上陸部隊によるロゼフ北部に領地を持つ貴族たちに圧力をかけることにあります」
  つまり、北と南から圧力をかけて貴族たちを一斉にラインボルト側にひっくり返そうということだろう。ラインボルトが国是として種族差別を禁じていることも有利に働くはずだ。もちろん、全ての貴族がラインボルトで生きることを是とすることはあり得ないが。
「ヴァイマー司令長官。海軍が持つ陸兵は兵数から考えて港湾施設の奪取とその後の警備以上のことは荷が勝ちすぎると思うが?」
  参謀総長グリーシアの口調には棘がある。その彼の態度をアスナは意外だと思いながら見ていた。表立って強気な態度に出るような人物だとは思っていなかったのだ。
「もちろんのこと。我らは海軍。水の上とその沿岸にしか責任が持てません。陸のことは戦野を駆ける勇士にお任せするのが筋でありましょう。ロゼフ王に殿下の轡を取らせるための水先案内の役を我らに任じて頂きたい」
  ロゼフでさらなる戦果を挙げる機会をやるから海軍(おれ)たちにも一枚噛ませろってことか。
  海軍はこれで自分たちの存在感を示せるし、LDは海軍に恩を売ることが出来る。そして、アスナはロゼフを併合出来る可能性をさらに上げることが出来る。悪い話ではない。
「参謀長、意見は?」
「はい、殿下。ヴァイマー司令長官。貴官と軍師殿が考える策を現実のものとするには四万は欲しいところだ。海軍にこれだけの兵と物資を輸送する能力があるのですか?」
「残念ながらそれだけの輸送力を海軍は持ち合わせておりません。なければ作れば良いだけのこと。すでに我が方で新たな建艦計画を立案しております。殿下のご認可を頂ければ四ヶ月後には策を実行に移せるものと心得ます」
「軍務大臣。船を造る金ってあるの?」
  アスナの問いに軍務大臣は首を振る。
「ありませんな。海軍局より計画書を受け取りましたが軍務省がお預かりしている予算では実現不可能と判断しました。実行するためには新たに特別予算を頂戴せねばなりません」
「ちなみに幾らなわけ?」
  軍務大臣は苦笑混じりに言った金額はあまりにも桁が大きすぎて訳が分からない。アスナは出せるのかと大蔵卿に目で尋ねた。彼は表情を蒼くして「無い袖は振れません」とのみ答えた。国の財布を預かる彼からすれば戦争を行うことすら内心では反対なのだ。
  国に金がない以上どうしようもない。だが、ヴァイマー司令長官は余裕の体だ。
「恐れ多いことではありますが、計画に必要な資金を殿下のお財布より出して頂きとう存じます」
「……はぁ!? オレ、そんな金持ってないぞ。第一こっち来てから朝から晩まで仕事してるけど、給料なんて……」
  思わず立ち上がったアスナは唐突にあることに思い当たってしまい、崩れ落ちるように再び椅子に座った。そして、そのままガツンッと長卓の上に頭を置いた。
「給料なんて一度も貰ってないじゃないか。……は、はははっ。王様って無賃労働者だったんだ。社会奉仕の精神って素晴らしいね。そういや今まで貯めた貯金も使えないんだよな。十万ちょっと、十万ちょっとが」
  頭の上で小さくため息を漏らしたLDはアスナの襟首を掴むと椅子の背にもたれさせた。
  そして、執事に内府を呼ぶように命じる。咳払い一つ。
「個人資産を失ったことは同情するが、今の君は幻想界有数の資産家だ」
「えっ、そうなの?」
  しっかりとLDは頷いてみせる。
「王立と名の付く施設や機関、鉱山や水路を所有し、その他にも幾つもの事業も行っている。国内外に多額の債権も持っている。確かに君が直接給料袋を受け取ることはないが、日々君の個人資産は増えているんだよ。信じられないならばこういう言い方をしよう。私の給与は君の財布から出ているんだ」
「知らなかった……。オレ、大富豪だったんだ」
「詳しいことは後で内府に尋ねろ。彼は魔王の資産管理もしているからな」
「うん。……そっかぁ、金持ちだったんだ」
  ちなみに近衛騎団が軍から独立し、その指揮権が魔王にある理由の一端がここにある。彼らを維持し、運用するための資金の大半を魔王が出しているからだ。税金で養われている国軍とは扱いが違って当然という訳だ。それは王宮府にも言える。
  王宮府を会社組織に当てはめるのならば、内大臣オリザエールは魔王グループの会長となり、ヴァイアスは警備部門の長となる。王立を冠する施設や機関は子会社に相当する。
  そして、魔王は全ての株式を所有する株主だ。
  国家予算の中には王室費が計上されているが、それは王宮府を完全な魔王の私的組織ではなく国家機関としての色彩を持たせるためだ。
  そうしなければならない理由の代表例が近衛騎団だ。如何に魔王がラインボルトの元首だとはいえ私兵を持つのは好ましくはなく、また、内乱中のように国軍と行動を共にすることがあるため国家としてただの私兵では困るのだ。
  言うなれば国が王宮府に口を挟むための口実だ。
「オリザエール、お呼びにより参上いたしました」
「何度も呼び出してゴメン。ちょっと、聞きたいことがあるんだ。ヴァイマー司令長官、内府にもう一度説明して」
「はっ」
  アスナに促されてヴァイマーは説明を始める。生まれが人形だから表情は全く変化のない彼も提示される金額には驚くはずだ。アスナはオリザエールがどのように驚くのか少し楽しみだった。
「以上であります」
  最後にヴァイマーは一礼をした。対するオリザエールは数秒間の沈黙の後、
「後継者殿下が命じられるのであれば、出資いたしましょう」
「はぁ!? あの金額を出せるの?」
「問題ありません。我ら王宮府は王族方がお入り用とされるものであれば即座にご用意するのが役目。資金繰りで困るようなことはございません」
  予想以上の金持ちっぷりにアスナは感想を口にすることすら出来ない。そんな彼を引き戻すようにオリザエールは言葉を続けた。
「ですが、個人的見解を述べさせていただければ本計画への出資はお勧めしかねます」
「……理由は?」
「戦後の利用価値がございません。利用目的が見つかるまで死蔵するとしましても維持費、停泊費用その他諸経費で負債が増すばかりです。ヴァイマー司令長官。これらの船団は海軍がお使いになられるそうですが、諸経費は貴官らが負って下さるのでしょうか?」
「いや、それは……」
  口ごもるヴァイマーに変わってLDが口を開いた。
「その点に関しても一案がある。リーズかアクトゥスに払い下げればいい。少なくとも投資した分の資金を回収出来るはずだ。
  船団の建造を発注する造船会社に王宮府麾下の企業を加えれば、仮に赤字となったとしてもそれで補填が利くと思うが。どうだろうか、内府殿」
「…………」
  黙考するオリザエールの横顔を見ながらアスナはバカみたいに口を開いたままだった。
  イケナイ取引が目の前で行われているのだから当然だ。同時に魔王が自分の財布で船団を用意出来る理由が分かった。こうやって少しずつ資産を増やしていったのだ。
  議員や官僚が自分の権限や権威を用いて資金を稼ぐのとは訳が違う。王宮府は国家そのものを用いて資産を増やしているのだ。これで増えないはずがない。
  だが、これを絶対に悪であるとは言い切れない面もあった。王宮府の出資がラインボルトの社会資本の整備に貢献しているからだ。また、災害の見舞金や先の内乱で発生した避難民に食料や医薬品、その他必需品を提供するための資金も出している。ただ稼いでいるだけではないのだ。
「外務省はその際に口添え頂けるのでしょうか?」
「船団の提供は友好に資することでしょう」
  ユーリアスは品良く苦笑を浮かべながら請け負った。
「ありがとうございます。大きな懸念はなくなりました。後継者殿下のご判断に従います」
  オリザエールの許可を受けてアスナは頷き、少しだけ考える。
「参謀総長。ヴァイマー司令長官の持ってきた計画でラインボルトが完全勝利を掴めるかどうか検討するように。掴めると判断したのなら船団を作ろう。両者ともそれで良いな」
『承知いたしました』
  両者は起立し、アスナに対して最敬礼をした。そして、身体を起こしたヴァイマーが再び良く通る声で言った。
「後継者殿下、重ねてご無礼申し上げます。船団の新設をお許し頂けたのならば船団に王立の名を冠することをお許し下さい」
「差し出がましいですぞ、司令長官!」
  グリーシアの叱責をヴァイマーは無視する。
「陸海関係なくリージュの旗の下、殿下とラインボルトのため一丸となり勝利を献じる機会を頂戴しとう存じます。この通り、伏してお願い申し上げます」
  王立を関した組織、機関にはその証としてリージュの旗を掲げることを許される。もしアスナが許せば旗が掲げられるのは船団の旗艦となる船になる。
  つまり、上陸作戦に関する主導権が欲しいと言っているのだ。
  何が欲しいのか分かりやすく言われることは嫌いではない。自分の息子よりも遙かに年下のアスナに膝を着いてまで欲しいと思っているのだ。
  そして、この要求はそれほど不当なものではない。
  アスナは黙ってオリザエールを見た。さすがにまだ後継者でしかない自分が王立の名を与えて良いのか分からない。
「異例ではございますが、殿下がお与えになると仰られるのであれば否はございません」
「ん、分かった。船団を作ることが決まったらそれに王立の名を冠することを許そう。ついでにアクトゥスから貰った海神を司令長官に貸して上げよう」
  海神とは内乱を収めた祝いにとアクトゥスより贈られた魔槍だ。海軍に貸与して活用させた方が良いだろうとアスナは思った。
「殿下!」
  グリーシアの大声に掌をみせて黙らせる。
「ただし、ここまでオレから色々と引き出したんだ。失敗しましたなんてことは許されないって覚えておくように。万が一そんなことになったら、海軍に面白くないことをしなくちゃいけなくなる。司令長官、オレは人を褒め称えることの方が好きなんだ。そのことも忘れないように」
「はっ。……はっ、承知いたしました! 後継者殿下のご厚情にこのヴァイマー、海軍を代表して頂戴いたしましたお言葉、しかと肝に銘じまする」
  飴と鞭。先の議員とのやり取りをその目で見ているのだから効果は十分にあった。そして、参謀総長に顔を向ける。
「参謀総長、悪役になってくれてありがとう」
「きょ、恐縮です」
  片方の意見を採用もしくはそれに類する行為をしたのならば、もう一方にも何かしら花を持たせてやる。近衛騎団で教えられたことだ。グリーシアは面映ゆい表情を浮かべた。
  少なくともこれでアスナに対する悪感情は向かないはずだ。
  こんなことを考えながら話をしているなんて自分は随分と遠くに来たな、と思わず遠い目をしてしまう。
「軍の行動に関する概要は以上だ。次いで占領下のロゼフをどう統治していくかについて話そう」
  LDの解説を耳にしながらアスナは誰にも分からないようにそっとため息を漏らした。
  ようやく前半戦終了。いや、ひょっとしたらまだ始まったばかりなのかも知れない。
  今日の会議は長くなりそうだ。乾いた喉を潤そうとお茶を飲みながらアスナはそんなことを思った。

 ラインボルトがロゼフとの開戦を決断したその夜、関係各所では夜もなく慌ただしく動き回っていた。その例に漏れずにアスナの軍師であるLDも幾つもの会議をアスナの代理として出席していた。軍や政府を戦時に切り替えるための諸手続から開戦日時が決められ、必要な手続きが次々に為されていった。
  深夜。昼をその身に宿した王城から一台の馬車が走り出した。窓にはカーテンが覆われて、誰が乗っているのか分からない。
  馬車は中心街ではなくエグゼリス郊外へと向かう。等間隔に林立する街灯が馬車を照らし出す。この道の先には高級住宅地がある。
  その中の一つに王宮府が所有する邸宅がある。非公式の外交交渉や一時的に他国の要人を匿うために利用されている建物だ。馬車は邸宅の中に入っていった。
  扉の前に整列した執事たちが馬車を出迎える。
「ご苦労だった」
  御者にそう声をかけて下車したのはLDだった。鋭く煌めく銀の髪が風に靡く。
  LDは執事たちと幾つか言葉を交わすと屋敷の仮の主の元へと案内された。
  通された先は迎賓室だ。執事に出されたお茶を飲みながら主の到来を待つ。
「このような時間に訪れるのは些か非常識だと思うが」
「私も忙しい身なもので。非礼をお許し願いたい。アルニス・サンフェノン伯爵閣下」
「今日、名乗りを上げたのだ。もう一人の後継者として扱って貰えるものと思っていたのだがな」
「私の立場では貴方をそのように扱うことは出来かねるな」
「そうか」
  声音だけで苦笑を表しながらアルニスはLDの対面のソファに腰掛けた。彼に付き従っていた執事が卓に酒と酒肴を用意する。終えると執事は一礼して退室する。
「人の眠りを妨げてまで訪れた理由を尋ねようか」
「遅ればせながら顔見せをしておこうと思いましてね。それとも久方ぶり、と申し上げるべきかな」
「ほぅ。私のことを見ていたとは驚きだ。私も一時期王宮に出入りしていたが、さして重要な仕事をしていた訳ではないというのに」
「多少なりとも竜王に目をかけられていたのだから、注目する価値はある。少なくとも私にはね」
  アルニスのグラスに酒を注ぐ。そして、自分のものにも注ぎながら言葉を続ける。
「竜王は出来物だ。竜族にしては珍しく竜族至上主義の色が薄い。有能であれば種族に関係なく活用しているのは貴方たちからすれば変人のそのものだろうな。伯爵にとってそうであるように、私の人物評もそれとは異なるが」
「どう異なるのだ。聞かせて貰えないか?」
「端的に言えば竜王は国を動かすことを楽しんでいるんだ。王たる責務に汲々とするのではなく、王権を大いに用いているわけだ。自身の力がどれほどのものか確かめるようにな。貴方のような生まれの者や他種族を用いるのは自身の権威はどれほどのものか確かめるためと言えるだろう。利用した者がしくじればあっさりと切り捨てられることはご存知だろう?」
「そうだな。確かに陛下はそのような気性のお方だ。では、LD。貴方があの少年に手を貸しているのは私が持たない何かが原因ということか」
「どうなのだろうな」
  グラスの酒に映る自分の姿を見ながらLDは呟いた。
「正直、私にも分からない。あれの言葉を借りればその場のノリ、ということになるのか。いや、その一点が面白くて契約を結んだのかもしれん。それだけで今後、王としてやっていくことは出来ないがな」
「貴方が今日まで私たちに対して監視以上のことをしなかった理由はそこか」
「悪い取引ではないと思うがね。
  貴方は自身が後継者であると皆に周知させ、政府の首座にシエンを据えてある程度の影響力を得た。また、羽虫のように周囲を飛び回る議員たちを廃除し、アスナの逆襲から救うことで貴方への恩義を持たせた。
  これで少なくとも公に貴方を廃除することが難しくなり、同時に王族に準じるだけの予算が貴方に付くことが確実となった。これで貴方は望む全てを手に入れた訳だ」
「その対価として少年に自身の足下が決して奇麗なものではないと思い知らせたのか。教師だな、LD」
「今の私には誉め言葉だ」
「だが、それだけでは腑に落ちない。それを教えるためにしては対価が高すぎる。議員たちへの告発まで使わせることはなかっただろう」
  議員たちへの切り札を使うように唆したのは確かにLDだ。
「必要以上に儲けさせる趣味はない。しっかりとその分の対価は頂戴している」
「ほう。……私は気付かない間に支払っていたのか」
「貴方からではない。強いて言うのならば場を提供してくれた礼だとでも思っていただきたい」
  それ以上、詮索はするな。言外にそう告げるLDにアルニスは数秒の沈黙をもって了承する。
「そう言えば、このような夜分に尋ねてきた理由を聞いていなかったな」
「病を患い快方した後は再びその病には罹りにくいそうだ。これは体内でその病に対する免疫力が付くからだ。最近、医学者たちの間でこの免疫力を利用した研究がされていると聞いたことがある。無害化した病原体を注射し、特定の病に対する抵抗力を付けさせるのだそうだ」
「興味深い話だな。我ら竜族は病に罹ることもなければ、多少の手傷もすぐに快癒してしまうから、その話のありがたみを実感できないのは少し残念だ」
「リーズにいた頃、そのせいで風邪を患った際、少しばかり難儀したものだ。薬学の知識を得ていたことが幸いした」
  LDはアルニスに無害な毒でいろと言っているのだ。そして、もし何か妙なことをすれば断固たる対処をすると。
「政治、軍事だけではなくそちらにも造詣があるのか」
「造詣という程ではない。ただ興味の赴くままに僅かばかり囓ったまでのことだ」
「羨ましい話だ。……どうだろう、LD。しばらく、その興味の赴くままに得た知識を私にも教授してもらえないか」
「……ふむ」
「このような時間に叩き起こした対価としては相応だと思うが?」
「承知した。私にとっても気分転換になるだろう」
  話を始める前に舌を滑らかにするためにグラスの酒を舐めながら、何を話そうか考える。
  それにまだまだアルニス・サンフェノンに対する人物観察が十分ではない。彼はアスナにとって毒だが、それだけの存在なのかを見極めなければならない。
  毒は使い方によって、薬にもなるのだ。アルニスは果たしてどちらなのか。
  それはLD自身にも当てはまることだった。彼は薬には違いないが劇薬だ。
  今日の一件でLDが受け取ったもう一つの物。それはエルトナージュの宰相辞職だ。
  内乱中も自派を維持し続け、勝利の後は事後処理を軌道に乗せた手腕はLDも高く評価している。だが、彼女ではこの先を乗り越えて行くことは難しい。
  エルトナージュにはアスナ同様に足下を疎かにしがちな部分がある。それが内乱を引き起こし、アルニスを過小評価して今日を招くことになった。
  経験を重ね、そこから学び続ければ補うことが出来るだろうが、彼女の適正を考えれば根回しと足場固めに動き回り続けねばならない宰相には向いていない。
  彼女には別の形でアスナの役に立って貰わなければならないとLDは考えている。もっとも、彼にそれがどんな役目か教えてやるつもりはない。
  二人が気付かなければ自分がその役目も担えばいいだけだと考えているからだ。
  あの二人がどのような立ち位置に落ち着くのか。アスナの性格を考えれば今晩にでも何かしら動きを見せるはずだ。さて、夜が明ければどのようなことになっているのか。
  LDは酒の高揚感に身を任せつつ、うっすらと笑みを浮かべたのだった。

 とにもかくにも慌ただしい一日であった。
  昼過ぎまで続いた会議の後、昼食を挟んでアスナは新内閣の認証式の式次第を覚え、その合間に届けられる書類に目を通し、認証していく。
  国民に対する開戦の通告文とロゼフに対する宣戦布告文に署名をする際、手にしたペンが妙に重く感じたのが印象に残っている。
  忙しさからアスナが解放されたのは夜の十時を幾らか過ぎた頃であった。
  夕食を済ませ自室に逃げ込んだアスナは簡単に汗を流すとエルトナージュの部屋へと向かった。彼女が何を考えて宰相を辞職したのか想像できるが、それでも文句の一つも言わないと気が済まない。少し乱暴にノックをした後、返答を待たずに部屋に入った。
  怒鳴りつけてやろうと開いた彼の口はそのまま固まってしまった。数秒の間をおいてようやく口に出来たのが、「……これはまた、大惨事だな」であった。
  部屋のあちこちに酒瓶が散乱し、割れてしまった硝子の破片が鋭い光を反射している。
  瓶の数は二十は越えているだろう。窓や壁は硝子とともに酒がぶちまけられて、これを為した者の心境を物語っている。
「申し訳ございません、アスナ様。この様ですので今晩は」
  一人で後片づけをしているシアは悲しげに笑んでみせた。
「文句を言える状況じゃないですね。掃除、手伝いましょうか?」
「アスナ様にそのようなことをしていただく訳には参りません。もし宜しければアスナ様のお部屋に運んで頂けませんか。この臭いの中でお休み頂くのは心苦しいのです」
  否応はない。アスナも同じ事を考えていたのだから。
「もちろん」
  卓の上はもちろん、足下にも酒瓶が林立する中で俯せに眠るお姫様を起こさないようにアスナは抱き上げた。彼女の額に張り付いていた肴のハムが落ちる。
「全くこれだけ良く飲めたもんだ。今晩はトイレとベッドを行ったり来たり決定だな」
  他人がこの惨状を前にすれば彼女らしくないなどと口にしただろうだが、アスナは彼女がやけ酒を飲んで暴れたことに文句を言うつもりはない。むしろこうなって安心していた。
  幼い頃から”彷徨う者”を消し去るため国を動かせるだけの権力を得ることを目指してきた彼女だ。偶発的とはいえ得た宰相の地位をこのようなことで奪われたのはとても悔しかっただろう。ある意味、自棄になって王城を壊さなかっただけまだ理性が残っていると言える。人魔の規格外はそれだけのことが出来るのだから。
  アスナが不満に思うのはやけ酒に自分を誘わなかったことぐらいだ。
「よっと」
  彼女の膝裏と背に回した腕の位置を整える。小さく寝息を立てるエルトナージュの頭がアスナの胸に乗っている。
「正真正銘のお姫様だっこだな」
  随分と酒臭いお姫様だけど、とアスナは苦笑する。
「それじゃ、シアさん。エルを貰っていきます」
「……アスナ様」
「なんですか?」
「どうか、どうか姫様を宜しくお願いします」
  そうしてシアは深々と頭を垂れた。
  彼女の母親代わり、祖母代わりとして接してきた彼女が何を言いたくてこうしたのかは分からない。一晩ご厄介になりますと言いたかったのか、これからもお願いしますと言いたかったのか。少し考えたがどちらの意味であろうともアスナの返事に変わりはない。
「もちろん」
  アスナは笑ってそう応えた。
  自室に戻ったアスナは静かに彼女をベッドに寝かせた。目覚める気配はない。
「ったく、これじゃ怒る気力も失せるぞ」
  エルトナージュの顔を見ながら盛大にため息を漏らした。よほど派手に泣いたのだろう。幾筋も涙の痕が残り、鼻下は上唇まで濡れてしまっている。その上に崩れた薄化粧が加わり、あの部屋の惨状以上に他人には見せられないものとなっている。
  やれやれ、と首を振るとアスナは濡れタオルを用意して顔を拭いてやる。化粧落としはその後だ。シアに道具一式を借りて手早く行う。
  幼い頃、祖母に遊びで化粧をされた時の経験だ。遊びの対象が妹に移ってからの方が化粧落としの回数は多い。
  ほどなくして奇麗になった彼女の寝顔を眺めながら、さてどうしようかと考える。
  このまま彼女とベッドを共にするか、絨毯の上で寝てしまうか。
  答えを出す前にエルトナージュの瞼がゆっくりと開いた。
「…………アスナ?」
「おはよう、酒臭いお姫様。気分はどうだ?」
「最悪。水、ちょうだい」
  そう言って彼女は気怠げに身を起こした。
  コップに水を注ぎ、渡してやる。奪い取るように受け取ると彼女は一気に飲み干した。
  そして、小さく俯いて目を閉じた。淡い蒼光がエルトナージュの身体を二秒ほど包む。
「ん。……もう大丈夫」
「今のは?」
「解毒魔法の応用。魔法力で酒精を分解して体外に排出するの」
  呑みすぎた反動が来ているのだろう。身体を前に倒して呻いている。
「ううぅぅ……」
「ったく、シャワー浴びてスッキリしてこい。その間、シアさんに着替えを持ってきて貰うから。それとも先に薬を用意して貰おうか?」
「シャワーにする。気持ち悪いのはすぐに治るから」
  のろのろとベッドから這い出ると彼女はおぼつかない足取りで浴場に向かった。
  格好悪い姿の大盤振る舞いである。それだけアスナに対して楽な気持ちでいる証とも言えるかも知れないが、世話をするアスナの気分としては少し情けない気分になる。
  アスナは片付けを続けているシアにエルトナージュが起きたことと、着替えを用意して欲しいことを伝えた。そして執事を呼ぶと念のために鎮痛剤とジュースを持ってくるように命じた。
「今日は命令してばっかりだな」
  苦笑が浮かぶ。全くホンの数ヶ月前までこんな事になるとは思わなかった。
「戦争か。ジイさんたちの昔話でしかなかったのに、まさか自分がやることになるなんて思わなかった。けど、やるからには何が何でも勝たないとな」
  アスナのジイさんたちは華々しい話だけを彼には聞かせた訳ではない。それと同じぐらいに悲惨な話や苦労した話を聞かせていた。特に戦後の混乱がアスナの印象に残っている。
  当時の状況と幻想界の有り様は全く違うが、国民に要らない苦労をさせることになる。
  だから、勝たないといけないのだ。同じ苦労をするのなら必要な苦労の方が良い。
「失礼します、アスナ様。姫様のお着替えをお持ちいたしました」
「ご苦労様です。風呂場に置いておいて下さい」
  シアは一礼すると奥の浴場へと姿を消した。何かしらの小言が聞こえてくるが気にしないことにした。その代わりに楽しげな苦笑を浮かべた。
「ったく、開戦前夜って感じなのに何でこうも所帯臭いかなぁ」
  それはそれで良いのかも知れないと思った。戦時中であろうと何であろうと自分の周りはこんな感じで良いんだ、と。

「……怒ってる?」
  黄玉の瞳が上目遣いにアスナを見る。
  熱い湯を浴びたのか頬だけではなく首もとまで桜色に染まっている。
  風呂上がりの暖かな空気を纏った彼女は艶やかさよりも可愛らしさが先に立つ。
  部屋には二人だけだ。小言と着替えを置いたシアはすでいない。
「怒ってるに決まってるだろ。勝手にあんな大切なこと言い出して」
  アスナは自分が腰掛けている椅子の対面を指さした。僅かに逡巡したが言うとおりに彼女は座った。
「最初に言っておきますけど、わたしは謝るつもりないからね。むしろ、バカなのはアスナよ。あんな詰まらないことで切り札を使って。もっと大事な時に使いなさいよ」
「あれ以上の使いどころはないだろ。絶対にこの一件が噂になって議員たちはオレに変なことをしようって気にはならないはずだしな。それよりも話を逸らすな」
  言いながらも彼女の前にジュースを差し出してやる。
「なんで宰相を辞めろって要求を受け入れたんだよ。大方、自分が辞めればアイツらにオレを攻める材料が無くなるって思ったんだろ」
  なぜ、彼女がアルニスの存在をアスナに言わなかったのか。その理由については尋ねるつもりはなかった。お飾りにならないアスナを廃除しようと考えた彼女だ。もし、廃除されていればアルニスを傀儡にするつもりだったのかもしれない。
  アスナを魔王にすると心に決めてからは、彼の存在はどうでも良いものと思っていたのだろう。内外ともに知れ渡った後継者を先王の娘であり宰相である彼女が支えていれば誰にも文句を付けられることはない。しかし、現実は彼女の想像通りには行かなかった。
  いや、彼女の約束は自分が宰相を辞めることを含めたものだったのかもしれない。
「分かってるなら聞かなくて良いじゃない。アスナを魔王にするって約束を守っただけじゃない。これでアスナの後継者としての立場は絶対になったんだし」
「オレもエルの味方をするって約束したよな。なのにこっちが何かする前にあんなこと言って。まだ、オレのこと信じられない?」
「そんなこと……ないけど」
「だったらなんでさ。約束を守らせてくれないのって結構、辛いんだぞ」
「……ごめんなさい。けど、その約束はもう忘れてくれて良いわ」
「どういうこと?」
「引継と身辺整理が終わったら城から出ないといけないの。王族であっても理由もなく王城に居座るのは慣例に反するのよ」
  それは王城に存在する権威は魔王のみにするという配慮からだ。権威者が複数人いれば新たな王の邪魔でしかないのだ。
「エルは城に部屋を貰ってるじゃないか。そんな慣例なんか気にしなくて良い」
「王族が慣例を無視できる訳じゃないじゃない。無理よ。わたしは領地に行かないといけないの」
「オレが居て欲しいって言っても?」
  彼女は小さく頷く。
「それだけじゃダメよ。理由が小さすぎる。王城でなければ出来ない仕事に就くとかじゃないと。けど、シエンがわたしに役職を与えないでしょうね。前宰相を部下に使うのは嫌だろうし。王宮府でもそう。世話をするはずの王族を働かせるなんて考えもしないはずよ」
「トレハさんは? 王墓院は王宮府の一部署じゃないか」
「王族が魔王の墓所を守ることに不自然なところは何処にもないわ。それに王墓院で仕事を貰えたとしてもこれまで通りここにはいられない」
  確かにその通りだ。王墓はエグゼリス郊外にあるとは言えかなり離れている。王城から通うよりも隣接する宿舎で起居した方が良い。王城にいる理由にはならない。
「そっか。打てる手はないのか」
  うん、と彼女は頷きジュースを少しだけ飲んだ。
「領地か。どんなところなんだ?」
  話ながら思考は別のことに向かう。さて、どうしたものか。
「実は一度も行ったことがないの。ずっと王城だったし、お父様が崩御されてからは宰相の職務に就いていたから訪ねる機会が一度もなかったのよ」
  自嘲するように彼女は唇を歪めた。
「それに領地に行っても邪魔者扱いされるだけよ。これまで代官が上手く統治してくれていたから、わたしに入り込む隙なんてないわ。きっとこれまでの毎日が嘘だったみたいに何もない日々になるんでしょうね。ふふっ、なんか今日まで頑張ってきたのがバカみたい」
  泣き笑いの表情を浮かべながらエルトナージュは話した。
  そんな彼女の顔を見ていると急速に決意が固まる。
  今、アスナが考えていることははっきり言って突拍子もない。しかし、現状を打開する方法はこれしか思い浮かばなかった。
「あのさ、エル」
「うん」
「仮にだけどさ。王族の慣習とかしがらみとかその他諸々の事情がなかったとしたら。エルはオレと一緒にいたいって思う?」
「……えぇ。出来るならアスナの隣にずっといたいって思う」
  頬を微かに赤らめさせながら彼女はしっかりとした口調でそう言った。
「それじゃ、オレの寵姫にならない?」
「えぇぇぇっ! いや、だって、そんな……えあっ!?」
  椅子を蹴倒して立ち上がったエルトナージュを落ち着けるように両手を振ってみせる。
「表向き。表向きだって!」
「……えっ。それはどういうことよ」
「だから、表向きエルはオレの寵姫になるんだよ。そうしたら城から出ないで済むし、オレの相談役とかそういう役職になれば仕事が出来る。何より一緒にいられる」
  言いながら右手の指を一本ずつ立ててみせる。
「我ながら一石三鳥の良い考えだと思うんだ。どうかな?」
「悪くないと思うけど。その提案、わたしばかりに都合が良くない? その、サイナのこととか」
  すでにアスナはサイナとのことを彼女に話していた。その際、手酷い折檻と手厚い看護の両方を受けたことを彼は思い出した。
「もちろん、サイナさんのことも大切にする。自分よりエルのことを考えて欲しいって言ったのはサイナさんなんだし。ちゃんと話をして納得して貰うよ。それにあくまでも表向きな訳だしさ」
  しかし、どこかエルトナージュは不満げな表情を浮かべて呟いた。
「……なんて言えば良いのか分からないけど、そういうのはちょっと気に入らない」
「もうサイナさんがいるのに寵姫になってくれだなんて、虫が良すぎるよな」
「そうじゃないの。いえ、もちろんそれもあるけど、一番気に入らないのは表向きに寵姫になるっていうことよ。そういうことに表も裏もなく本当に大切なことなんだから。それにアスナの寵姫になるんだったら、そのもっと堂々と出来ないと……」
  そういえばエルの母親は先王の寵姫だったな、とアスナは思い出した。
「サイナに顔見せできない。前にもっとアスナのことを見ろって彼女に怒鳴られたことがあるのよ。それまで政治的な意味以外で貴方を見るようにし始めたのは多分、その時からだと思う」
「……そんなことがあったんだ」
  エルトナージュは小さく頷いた。
「それに二人とも好きあってるんでしょう? その二人の間にあやふやな気持ちのままのわたしが割ってはいるのが気に入らないの」
「さっきエルは言ってくれたじゃないか。オレとずっと一緒にいたいって」
「けど、わたしは人族のことが大嫌い。どうしても折り合いが付かないのよ」
  真面目で真摯な所は彼女の美徳だが、時折それで足踏みをしてしまうところがある。もしかして彼女が宰相を辞めざるをえなかった理由はこういう性格にも理由があるのかも知れない。もしかしたら、今日までの中途半端な関係も彼女を悩ませていたのかもしれない。
  アスナは近い将来、人間であることを捨てて魔王となるが、そんなことで彼女が納得できるとは思えない。こういった問題に妥協や提案で対処出来る訳がないのだ。
「ねぇ、アスナ。話したくなかったら別に良いんだけど、サイナとはどんな切欠でそういう関係になったの?」
  そういえば、詳しい話はしていなかった。サイナとのことを話始めた途端に折檻が開始されたので無理もない。むしろ、そこまでしたのに寵姫になることに躊躇されるのは凄く変な気分だった。
「簡単に言うと、サイナさんに夜這いされたのが切欠だな」
「……はい?」
「だから、サイナさんに夜這いされたのが切欠」
  思い出してみると、本当に無茶苦茶な始まりだ。
  アスナは当時のことを話せる限り詳しく彼女に聞かせた。初めは怪訝な顔をしていたエルトナージュは少しずつ呆れの色が混じっていった。
  話し終えると彼女は盛大にため息を漏らすと頭を左右に振った。
「なんだか、色々と考えていたのがバカみたい。貴方たち無茶苦茶過ぎるわよ」
「オレも話ながら同じ事思った。自分の気持ちと勢いに素直すぎる」
「それでその後は? どこかに逢い引きに出かけたとか」
「……どこにも行ってないかも」
「バカッ! サイナが可哀想じゃない」
「だ、だって怪我してたし、暗殺の危険もあるからって勝手に外に出るなってヴァイアスたちに言われたし、エグゼリスに戻ってからも忙しかったし」
「言い訳しないの! 最近まで貴方の秘書官だったんだから、アスナがその気なら何か出来たはずよ」
  馴れないことの連続で今以上に目が回るような毎日だったが、彼女の言うとおり夜は自由になる時間がそれなりに確保されていたのだ。確かに言い訳のしようがない。
「はい。ごもっともです。反省しました」
  身体を縮こまらせて申し訳なさを示すアスナにエルトナージュは鼻を鳴らすと腰を落ち着けた。不機嫌そのものでそっぽを向く。
「なんでわたしがサイナのことでお説教しないといけないのよ」
「ご迷惑をおかけします」
  主導権は完全に逆転した。低頭平身の心境である。
  もはやアスナの方から寵姫云々の話など出来る雰囲気ではない。
  横目でちらりと彼を見るとエルトナージュは口を開いた。微かに頬が赤い。
「アスナはサイナのことが好きなのよね?」
「……うん、好きだよ」
  その気持ちに嘘や義務感は一切ない。そして、それを口にすることをはばかるつもりもない。
  そっぽを向いていた彼女の目がこちらを見る。
「それじゃ、わたしのことは?」
  この問いかけを耳にしてアスナは酷い自己嫌悪を覚えた。エルトナージュに一度も自分の気持ちを伝えたことがなかった。それで良く寵姫になって欲しいと言えたものだ、と。
  だから、アスナは真っ直ぐにエルトナージュを見据えて言った。
「好きだよ。大嫌いって言われても気にならないぐらい。そうじゃないな。そんな聞きたくないことまでしっかりと伝えてくれるエルが良いんだ」
  そして、色々な気持ちを一つに込めて、
「オレには絶対にエルが必要だ」
「…………」
  首もとまで真っ赤にしたエルトナージュは黙ってアスナに小指を差し出した。
「それじゃ、約束して。何があろうとアスナの隣にいるのはわたしだって。そうしたら、アスナの寵姫になってあげる。表向きなんて付かない正真正銘の寵姫になってあげる」
「さっきまで人間が嫌いだからって凄く迷ってたくせに」
「ふんっ、こんなこと提案するなんて一時の気の迷いよ。ずっと続くかもしれない気の迷い。……それともわたしとの約束はいやなの?」
  拗ねるような口調だが、瞳は不安で揺れている。
「まさか」
  そんな彼女の気分を吹き飛ばすようにアスナは顔一杯に喜色を浮かべた。
  そう言ってアスナは彼女の小指に自分のそれを絡めた。
「こっちこそ、望むところだ」

 突然のエルトナージュ内閣の退陣は少なからず混乱を招いた。
  後継者の信頼が篤いことで知られていただけにこの一件の驚きは大きなものだった。しかし、それを上回る決定を耳にして関心の目が幾らか逸れたのだ。
  エルトナージュ退任の理由は戦争を乗り切るためと公表され、彼女には様々な叙勲や褒賞が後継者の名で行われたが、ラインボルト上層部では更迭されたのではないかという意見が一般的だった。真相を知ろうとする者もいたが、関係していると思われる人物は皆、口を噤むか言葉を濁して逃げてしまっていた。
  ともあれ、後継者により宰相へと任ぜられたシエンは即座に必要な諸手続をとった。
  各省庁にはあらかじめ伝えられた方針で戦時体制を作り上げ、自身の宰相就任の了承を議会から取り付けて盤石なものとした。
  エルトナージュの退陣声明発表から一週間後、ラインボルトは新内閣の下でロゼフとの戦争への道を歩み始めた。

 優先度の高い指示を終えたシエンは今、後継者の下へと向かっていた。最重要人事の認証を得るためだ。廊下を行き交う者たちが彼に向ける視線は一様に冷たい。
  何かしらの手段を用いて、宰相の地位を簒奪したのだという噂があるのだ。そのことは彼の耳にも届いている。しかし、それをどうこうするつもりはなかった。
  シエンにそのつもりがなかったとはいえ、奪い取ったことは事実だからだ。なにより、後継者からそれなりに信用されていることが分かっているからだ。
  今日までに幾つか後継者の方針に反する政策を上奏したが、その全てが了承されたからだ。全体としての方針さえ崩れなければ後継者は多少の変更は気にしないようだった。
  それどころか、そちらの方が無難だという策を献じたことを誉めたぐらいだ。
  当初は自分に対するこの扱いにシエンは戸惑ったが、すぐに納得した。後継者はエルトナージュが彼を支持しているから信用しているのだ、と。
  そして、そのエルトナージュは彼のことを機能として見ている。つまり、彼が宰相として不足のない働きをしている限り信任に揺るぎがないということだ。
  なんとも単純明快であろうか、とシエンは思う。実を言えば後継者からかなり露骨な嫌がらせがあることを覚悟していたため拍子抜けであった。
「何事だ?」
  後継者の執務室周辺が異様に騒がしいのだ。近づくにつれて人口密度も上がってくる。
  予想通り騒ぎの中心地は執務室であった。官僚たちが執務室の隣に設えられた秘書室にたむろしている。かなり騒々しい。
「これは宰相閣下」
  秘書室の室長は額をハンカチで拭きながらシエンを出迎えた。彼の姿に気付いた官僚たちが一斉に礼をする。シエンは会釈を返しながら室長に尋ねる。
「後継者殿下にお目通りを賜りたいのだが……これは何事だね」
「殿下のご裁可を頂戴する懸案の詳細をご説明するために各省庁より彼らは来ているのです」
「なるほど」
  ラインボルトでは重要度の低い懸案、つまり判断をしくじっても国家としてそれほど影響のない小さな懸案を後継者に任せて、政治的な決断力や知識などを実地で学ばせている。
  各省庁にはそういった判断に必要な情報を後継者に届ける役職があり、彼らはその部署の者たちということだ。
  王として大成したならば彼らは政治の中枢に立つ花形部署の一つとなるが、政治に関心を持てない王であれば閑職部署となる。重要度の変化が著しく激しいのだ。
  そういった事情からこの部署に配属されるのはそれなりに教育者としての素養があると認められた者たちになる。彼らは王の手足であり、教師でもあるのだ。
  もっともそういった適正をもった人物が常に存在しているとは限らないのだが。
「しばしお待ちを。殿下のお許しを賜って参ります」
「よろしくお願いする」
  会釈をする。改めて秘書室内を見回す。三日前に訪れた時とは段違いの騒々しさだ。
  先王の頃から忙しい部署だったが、今はそれに輪をかけて慌ただしい。
  ただ忙しいだけではないことをシエンは気付いた。長らく行っていないが祭の風情に似ているのだ。自分たちを活用され、全力を傾けられる機会を与えられて喜んでいるのだ。
「閣下。すぐにお会いするとの仰せです」
「ありがとう、室長」
  執務室は隣の秘書室とはまた別の意味で騒々しい。あちらこちらに書類が山積みとなりソファや床の上で何かしらの仕事をしていた官僚が立ち上がり、一礼して退室する。
  僅かな間でも休憩が許されて皆、どこか安堵した表情を浮かべている。
「何事ですか、これは」
「ご覧の通り、仕事中。朝からちょっと張り切りすぎて目が痛いよ」
  そういってアスナは濡れ布巾を目の上においた。宰相を迎える際の態度ではないが、誰も気にしていないのだから問題ない。
「言葉が足りませんでしたな。私がお尋ねしたいのはなぜ姫様がこちらに机を構えているのかということです」
  彼女はシエンを一瞥すると書類に目を通している。この場にいるが口を挟むつもりはない。
「なぜって、仕事を手伝ってもらってるから。宰相辞めて暇を持て余していたみたいだし、相談役になってもらったんだ」
  事実は少し異なる。エルトナージュが相談役になることをアスナにお強請りしたのだ。
  忙しすぎる日常から突然、解放されて何をして良いのか分からなくなったのだ。何もせず不平不満を口にするよりも、現実を変えることを好む彼女はアスナの相談役になりおおせたのだ。ちなみに今日が初日である。
  本来であれば、軍師であるLDがこのような仕事をするべきなのだが彼はアスナの代理人として軍事、占領政策に関する会議に連日連夜出席している。
「それにこうしていれば一緒にいられるし、まさしく一石二鳥。仕事もはかどって一石三鳥だと思わない?」
「公私混同です。槍玉にあげられるかもしれませんぞ」
「貴方がそれを言うかなぁ。アルニスの命令で宰相になったくせに」
「だからこそです。私のように陰口を叩かれることになります」
「何をしたって悪口を言うヤツはいるさ。それよりも前よりも能率の上がる方法があるのにそれをしない方が悪いとオレは思うけど? それにエルがやってるのは分からないところの解説とか、改善点を指摘してくれることだし。どういう判断をするかは全部オレがやってるんだ。証人が欲しいんならここにいる連中全員に聞いて貰ってもいいぞ」
  思いつく損得全てを勘案済みというわけだ。シエンはこれ以上言うまいと思った。
  能率が上がっていることは事実であろうし、何より活き活きと働いている彼らから仕事を取り上げることは出来ない。シエンは黙認することにした。
「重要人事についてご裁可を頂きたく参りました。ロゼフ領の占領統治を統括する総督にデミアス殿を就けることをお許し頂きとう存じます」
  前宰相デミアス。先王の盟友であり、エルトナージュにとっては祖父のような人物だ。内乱中は革命軍を経済面から支えたが、明確な証拠がないということになっているため不起訴となり、現在は自宅にて静かに暮らしている。
「総督にはデミアス翁とは別の人をって内務卿が言ってたけど?」
「先日、病であることが発覚し、辞退したとのことです」
  ホントかよ? という顔をアスナはしているが事実である。
「内務卿はそれを承認している? それとデミアス翁本人の意思も」
「確認しております。殿下のお許しを頂ければ拝命するとデミアス殿も仰っております」
  総督は王の名代として属国、属領、そして新たに編入された領土に派遣される統治機関の長だ。司法・行政・立法の三権、並びに治安出動に限定されているが軍事指揮権を与えられるため、王の勅許と内閣の認証を必要としている。
  小さな王とでも言うべき存在なのだ。
  アスナは聞いてはいないが、限定的ながらも軍事指揮権も総督には与えられているためシエンは軍務大臣からもすでに承認も得ていた。必要な根回しはすでに済んでいる。
  しばらく、唸っていたアスナがちらりとエルトナージュを見た。彼女は小さく頷いた。
「デミアス翁にはラディウスの総督になってもらうつもりだったんだけどなぁ」
  ピクリ、とシエンの眉が動く。
「ラディウスとも事を構えると?」
「こっちがその気じゃなくても、向こうはその気になるんじゃないかな。ラメルに居座ってる訳だし。……これから話すことは国家機密だからそのつもりで聞いて。アルニスにも話しちゃダメだからな」
  そう前置きしてアスナはアクトゥスと同盟を結ぶこと、リーズとアクトゥスとの間で戦争が起これば、同時にラディウスも参戦してくるだろうと予想していること。その他、幾つかの予想をシエンに聞かせた。しかし、幻想界統一については話さない。
  そこまで二人ともシエンを信用していない。
「それは、決定事項なのですか?」
「そう、決定事項。色々と話を聞いてアクトゥスの方が付き合いやすいって判断したんだ。リーズが強くなったら今以上に付き合いにくくなるんじゃないかってさ」
  今、アスナから聞かされた情報を整理し、一つの予測をシエンは立てた。
「ロゼフとの戦争を隠れ蓑に来るべきリーズ、ラディウスとの戦争に耐えられる体制に刷新せよと仰るのですか」
「その通り。戦争をやるなら何が何でも負けられない。折角、誰にも怪しまれずに色々とやれるんだしさ」
「……まさかロゼフとの戦争は全てその為だと?」
「それこそまさかだ。戦争なんてやらずに済むならそれで良いんだ。ただ状況を活用しているだけ」
「……承知いたしました。殿下の方針に従います」
「なんかちょっと拍子抜けだな。リーズとの同盟に賛成なんだと思ってた」
「その認識は誤りです。私はアルニス殿下に敬意と忠節を持っておりますが、リーズに対しても同じ気持ちを持っているわけではありません。アクトゥスとは友邦であることがラインボルトの利であり、ラディウスを討ち滅ぼすことはラインボルトの悲願ですので」
  シエンは冷徹な愛国者、とはエルトナージュの言葉だ。それをアスナは彼の口調から実感した。国家に利があるのであれば何であろうと断行し、損失が多ければ回避しようとする。その彼が賛成したのだ。間違いなくラインボルトは戦争に耐えうる体制へと変貌を遂げるはずだ。だが、それだけに扱いにくいかも知れないとアスナは思った。
  彼が愛しているのはラインボルトの民であり、国土であり、歴史であって国家体制や権力ではないのだ。
  しかし、そうであるが故に彼にも分かっているはずだ。
「そういえばアルニスとは連絡をとってるの?」
「はい。静かにラインボルトの行く末を見守っておいでです」
「そっか。それじゃ、今度会ったときにでも伝えておいて。オレが即位した後も心配しなくても良いって。ちゃんと規則に従った待遇をするから。まぁ、爵位を捨てなかったら賓客って扱いになるのかな。まぁ、その辺りのことは内府に任せているから何かあったら相談してくれれば良いよ」
「お伝えします」
  敢えてこのような話をしたことでアスナが言外に伝えたかったことが何かシエンは理解したはずだ。静かにしているのならばこちらからは手出しはしない。変なことをしたら何かしら行動に出ると。そして、シエンの働き次第でその尺度が変わることも。
「……アスナ、そろそろお昼です」
「ん。どう、シエンも一緒に昼ご飯にしない?」
「はっ、光栄に存じます。喜んでご相伴に預かります」
  ラインボルトの新体制はこの時、始まったといっても過言ではない。

 開戦決定の報は瞬く間にラインボルト全軍に通達された。
  訓練は中止され、部隊を戦時に適した組織への改編が開始された。同時に国境周辺に駐屯する部隊には警戒態勢が命じられ不測の事態に備えた。
  各都市に置かれている軍の事務所には開戦の報を聞いて多くの若者たちが兵員登録を申し込みに来たが事務官たちは「諸君らは日々の暮らしを守っていただきたい。それこそが後継者殿下のご意志であり、ラインボルトのためになる」と追い返した。
  正直に言えば、彼らを兵として受け入れる余裕が今のラインボルトにはないのだ。すでに予備役兵の召集が始まっている。すでに様々なことを熟知している彼らを活用した方がずっと効果があり、かつ安上がりなのだ。今から新兵を一から鍛えるには時間も金もかかりすぎるのだ。
  大半の者は事務官の言葉に従って日常へと帰っていったが、少数ではあるが意地を通す者ものもいた。
  口角泡拭いて愛国の意思を伝える若者に老いた事務官は苦笑しながら、
「その気持ちは崇高だと私も思うが、仮に入隊が許されたとしても君が想像しているようなことは何もないぞ? 新兵が華々しい最前線に出ることもなければ、上官に気に入られて出世を重ねるようなこともない」
  それはこの老事務官が若い頃に夢想したことだった。しかし、現実は閑職同然の国境守備隊を転々とし、軍役の最後をこの事務所で閉めようとしている。
  良い思い出もあるが、それと同じか、それ以上に面倒なことにも遭遇している。
  若者は激しやすく染まりやすい。後継者や近衛騎団団長、第三魔軍将軍らに触発されてのことだろう。彼らの活躍は年老いた彼にとっても胸躍るものだったのだから、彼ら若者が耳にすればどうなるか簡単に想像できる。つい先ほどもその結果を目にしたばかりでもあるのだから。
「君に待っているのは辛い訓練の日々だけだよ。繰り返しになるが日々の暮らしを守ることも立派な戦いだ」
「それでも構いません。是非とも入隊させて下さい!」
  青年は受け付けに頭を打ち付けんばかりの勢いで頭を下げた。その姿勢に老事務官はちょっとした違和感を覚えた。この情熱は立派なものだが、それが愛国精神の発露だとは思えなかった。どうにも個人的な理由で動いているように感じられた。
  ロゼフと何かあるのか? と思い受け取った書類に目を通すがそこから関係を見出すことは出来ない。青年の出身地はこの街だ。運送業者に務めているが、ロゼフやワルタと取引をしている訳でもない。また、彼が岩窟族でもない。関連性が全くないのだ。
「どうしてそこまで入隊に拘る理由はなんだい?」
「国境を侵し、ワルタを制圧したロゼフを打ち倒すべく私も剣を……」
  緊張しすぎて言葉が滅茶苦茶だ。苦笑したいところを敢えて老事務官は表情を険しくして言った。
「そうじゃない。聞かせて貰いたいのはそういうことじゃない。君だけの個人的な理由だよ」
  このようなことを聞かずとも許可の判子を押せばいい。軍務省からも特に熱意を持つ者であれば採用を許可するとの通達がきているのだから。
  それでもこんな風に話を聞くのは、この青年がどこか危なっかしい印象を持ったからだ。
  青年はなかなか口を開かない。話して良いものか迷っているようだ。老事務官は静かに待っている。二分少々が過ぎた頃、ようやく青年は口を開いた。
「あ、あの。オレ、結婚を約束した娘がいるんです。けど、彼女の親父さんが許してくれなくて」
「ならば、なおさら入隊などバカげている。今の仕事に汗を流して親御さんに認めて貰う方が良い。なにより君の良き人を心配させることになる」
「……彼女の親父さん、軍人なんです。青瓢箪に娘はやらん。軍に入って鍛え直して来いって言われたんです。だから……」
  老事務官はため息を我慢しつつ、眼鏡を外して眉間を揉んだ。
  軍人であることに誇りを持つことは結構だが、自分の考えを押し付けるのは好ましくないと彼は考えている。
  第一、青瓢箪は言い過ぎだ。確かに意思はあまり強くなさそうだが、優しげな面差しには彼が生来もっている誠実さを感じさせる。娘の良人としては過不足ないだろうに。
「君の彼女はこのことを知っているのかね?」
「はい。親父さんの許しなんかいらないから、一緒になろうって。なんだったら駆け落ちしても良いって言ってくれてます。けど、ただ二人っきりの父娘ですからそんな強引なことも出来ません。だから、彼女の親父さんの言うとおりにしようと思って志願しました」
「入隊したことで死ぬかも知れない。君の良き人を泣かせるかも知れない。そのことを頭に入れて今日一日考えてみなさい。それでも入隊したいと言うのならラインボルト軍は君を受け入れよう」
「はい! ありがとうございます」
  翌日、顔に赤い五弁の花を咲かせた青年がやってきた。どこか晴れやかな表情の中に強い意志を感じさせる瞳が老事務官の印象に残った。
  老事務官は起立をして、青年に右手を差し出した。握手だ。
「ようこそ、ラインボルト軍へ。我々は君を歓迎する」
  力強く握り返してくる青年を見ながら、老事務官は久しぶりに”友人”に宛てて長い手紙を書こうと思った。
  基礎訓練を終えた青年に命じられた配属先は職歴を考慮して兵站局、つまり国内の物資を集積地へと運ぶ部署となった。ラインボルトにとっては輜重兵を一人獲得し、青年は彼女の父親から婚約の許しを獲得した。
  もちろん、このような物語があちこちで起きていたわけではない。事務的に処理されただけの場合もあれば、もっと馬鹿馬鹿しい物語となった場合もあったが、ともあれラインボルト軍は新たに入隊した彼らを加えて着実に開戦の準備を始めていた。

 途端に騒がしくなったラインボルトでも常と変わらず平静な組織もあった。
  訓練に精を出している近衛騎団である。当然、彼らの元にも開戦の報せは届いている。
  ヴァイアスの名で団員にも報せられたが、彼らは予定通りに訓練を続けている。
  新たに入団を許された新人たちはソワソワとしていたが兵ならば下士官に一喝を受けて静まり、「俺たちは近衛だぞ。アスナ様がエグゼリスにいらっしゃるのに戦陣に立とうとしてどうする」と笑った。
  その様子を眺めている人物が一人。ヴァイアスである。
  訓練状況の視察の名目で散歩に出ていたのだ。体の良い息抜きだ。
  営庭で訓練を続けている団員たちは彼の存在に気付いていない。気付いていたとしても好意的に無視している。今日も団員たちは元気である。
  ヴァイアスは再び新兵教育を受けている団員たちに向けられる。下士官の声が大きいので彼のいる場所まで聞こえる。
「お前たちの気持ちは良く分かる。だが、気持ちだけでは戦場には立てんぞ。訓練をしろ、訓練を。お前たちが近衛騎団として過不足ない技量を身につけたらアスナ様も我らを活用してくださるだろう」
  しかし、それを聞いていたヴァイアスは冷淡に、それはどうかなぁと思った。
  ロゼフとの戦争に自分たち近衛騎団を投入されると彼は考えていなかった。
  アスナが幻想界で最も信頼している組織は間違いなく近衛騎団である。そして実体はどうあれ近衛騎団が最強であることを最も信じているのもアスナなのだ。
  となれば、アスナがロゼフとの戦争に自分たちを投入するはずがない。もっと厳しい局面に近衛騎団を使うとヴァイアスは予想している。
  自分たちの主の期待に背くつもりはない。どのような局面であろうと生き残れるよう兵たちを、そして自分を鍛えるのだ。
「似合わね〜なぁ」
  そういってヴァイアスは土手に寝転がった。
  本日も快晴である。このまま午睡を愉しむには打ってつけだ。しかし、それは許されなかった。こちらに向かって見知った姿がこちらに駆けてきている。ミュリカだ。
「団長。参謀本部より軍使が到着しました。至急お会いしたいとのことです」
「分かった。すぐに行く」
  立ち上がり本部に向かって歩き出す。その彼に付き従うミュリカに声をかける。
「デュランとアスティークに……」
「すでにお呼びしています。……少しは気晴らしできた?」
「出来る訳ないだろ。外に出てまだ十分も経ってないんだぞ」
「それじゃ、今晩にでも出かけない? 良さそうなお店紹介してもらったのよ」
「アスナ次第だな。軍使が持ってきたのは俺たちへの要請書だろうし」
「あたしたちも動くのかしら?」
「さぁな、それこそアスナのみぞ知るってところだ」
  軍使から受け取った要請書――軍が直接近衛騎団に命令を下す権限が無いため要請という形を取る、の内容はあらかじめヴァイアスらが予想していたとおりだった。
  別件の要請があるまで、訓練に精励することを望むというもの。
  早い話がロゼフとの戦争で近衛騎団を使うつもりがないから訓練していろ、ということだ。気楽ではあるが蚊帳の外にされたような気分になるが、近衛騎団はこの要請を了承する。近衛騎団と軍の関係を規定する条文にこのような一節がある。
  戦時において近衛騎団は軍からの要請に対し、王より特別の命がない限り、最大限の尊重をしなければならない、とある。近衛騎団にとって要請は命令と同義語なのだ。
「まっ、予想通りの展開だな」
  テーブルに置かれた要請書を眺めながらヴァイアスは端的な感想を口にした。
  デュラン、アスティークとともにミュリカのお茶を飲みながらまったりしている。
  要請書を受けて今後の方針を決定する会議という名目だが、実質は息抜きだ。彼らにとっても、部下たちにとってもだ。上司と一緒では息抜きも出来ない。
  アスティークは自分の財布で買った菓子を部下たちに振る舞うように従兵に指示を出していた。
「蚊帳の外というのは些か不満ですが、新兵の訓練を考えればありがたい要請ですな」
  ハチミツを錬り込められた焼き菓子を口にしながらアスティークは言った。この巨漢の参謀長は甘い物好きであった。
「そうだな。ようやくまともな動きが出来るようになってきたところだしな。と言ってもまだまだ使えるほどの技量はないが」
  そう言ってデュランはヴァイアスを見た。
「おい、ヴァイアス。お前、アスナから本当に何も聞いていないのか?」
「聞いてない。ただ扱き使うって言ってたからこのまま俺たちを放っておくなんてことはないさ」
「そうなれば、我々の相手はロゼフよりも厄介な相手ということになりますな。ラディウスへの牽制に使われるおつもりなのか」
「……アスティークもそう思うか」
  と、ヴァイアス。彼の視界の端にいるミュリカは要請書と一緒に届けられたエルトナージュからの手紙を読んでいる。嬉しそうだ。
「他国との戦争となれば魔軍を投入するのは必然。リムル将軍では他の将軍方を纏めるにはやや荷が勝ちすぎています。となれば、大将軍が総指揮をとることになるでしょうが」
「あの爺様はエグゼリスにいないだろう。今からじゃ到底間にあわんぞ」
  作戦に参加する部隊との調整や兵と物資の輸送をどうするかなどやることは山積みだ。ゲームニスが総指揮をとるのであれば、すでにエグゼリスで仕事に取りかかっていなければ間に合わない。
「その辺りの情報はないのか?」
  デュランはヴァイアスを見たが、彼は首を横に振るだけ。
「なんにも入ってきてない。本格的に蚊帳の外にするつもりだな、これは。内乱で少し頑張りすぎたんだろうさ」
「やれやれだな。こういう時、騎団の孤立主義が痛いな」
  軍内での派閥争いに巻き込まれることがない反面、軍との繋がりが薄いためどうしても情報が入りにくいのだ。
「分からないことをあれこれ考えてても仕方ない。ミュリカ、その辺のこと手紙になにか書いてないか? ……ミュリカ?」
  ヴァイアスが声をかけるもミュリカは固まったままだ。少し肩が震えている。
  そして突然、勢い良く立ち上がった。
「なによ、これ〜!!」
「みゅ、ミュリカさん?」
  思わずヴァイアスの腰が退ける。デュラン、アスティークは揃って眉を顰めた。
「ヴァイアス! ヴァイアス、これ見て! デュランさんたちも」
  そう言ってミュリカはテーブルにエルトナージュからの手紙を広げた。
「ここっ、ここ見て下さい!」
  ミュリカの指さした先にはこう書かれていた。
『追伸。
  アスナの寵姫になりました』
「…………」
  男三人はきっかり十数秒固まった後、一斉にミュリカを見た。
「わ、私に聞かれても分かりませんよ。私だってこれをみたばっかりなんですから」
「他には何もかいてないのか? 例えば大まかな経緯とか」
「ないわよ。ヴァイアス、ここにちゃんと追伸って書いてるじゃない」
「いや、まぁ。そうなんだが……けどなぁ。うん、なんていうか納得でないっていうか」
  非常に複雑な心境であった。あの、エルトナージュが自分たちのいない僅か一ヶ月ほどの間で何がどうなってアスナの寵姫になると決めたのか。さっぱり想像できない。
  しかし、筆跡は間違いなくエルトナージュのものだ。非常に残念ながら。
  ……残念って何がだ?
  思わず首を傾げてしまうヴァイアスにミュリカは膨れる。
「ヴァイアス、エル様のこと好きだものね」
「いやいやいや、それは幼なじみの好きであってだな」
「へ〜、ほ〜、ふ〜ん」
「なんだよ、その疑いの目は!」
「べっつに〜。普通はそこで一番好きなのはミュリカだぞとか言ってくれるものだと思うんだけどなぁ」
「そ、そういう恥ずかしいことはだなぁ」
  と冷や汗を流すヴァイアスに続くように咳払いがされた。
「二人っきりの時にしろ」
  あぁ、熱い熱いと手で自分の顔を仰ぎながらデュランは言った。アスティークに至っては甘すぎるものを食べ過ぎたようにこめかみを押さえている。
「……ご、ごめんなさい!」
「経緯はどうあれ、めでたいことに変わらないさ。ミュリカは嬉しいんじゃないのか? 姫様とアスナをくっつけようとあれこれしていたそうじゃないか」
「はい。アスナ様となら絶対に幸せになってくださると思いますし」
  しかし、懸念もある。サイナをどうするのかということだ。
  彼女は今も訓練中だ。本部付きであるため顔を合わせる機会も多い。
  このことを知った今、普段通りに彼女と接することが出来るのか。黙っていればいいのか、それとも話しておくべきなのか。
  近衛騎団の首脳はたっぷりと十分余り黙考した結果、
「余人が口を挟んで良い問題じゃないな。当人たちで決着を付けるまで黙っているのが無難だ。特にミュリカ」
「わ、私ですか!?」
「世話焼きなのは良いが、この件に関しては口出し無用だ。良いな?」
「……分かりました」
  それで一応の決着は付いた。同時に皆、同じ様なことを頭に浮かべていた。
  アスナは何時も厄介ごとを押し付ける、と。




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