第四章

第一話 対ロゼフ戦争 前哨戦


「壮観ね。そう思わないかしら、ファインズ?」
  自分の参謀長を見ずに眼下に整列する兵たちを見ていた。どの顔も戦意に満ちている。そして、彼女の指揮下にある部隊はこれだけではない。ここを含めて四カ所存在している。
  特別器量よしという訳ではないが、興奮の熱に煽られて紅潮する頬とうっとりとした口調が酷く艶っぽい。そろそろ壮年の域に突入しようとしているにも関わらず男の恥ずかしくも誇らしい部分を刺激するのは立派の一語と言えるだろう。
「全くです、将軍。武人として生きた者にとってこれ以上の栄誉はないでしょう」
「何を言っているの、ファインズ。栄誉を手にするのはこれからじゃない」
  夢見る少女の如く目を輝かせながらホワイティアは言った。声も踊っている。この二つが彼女の持つ指揮官としての最大の武器だった。この大きな瞳に見つめられ、声音に兵たちは煽られるのだ。そして兵たちは彼女とともに勝利の歓喜を手にすることを渇望する。
  彼女とはそれなりに長い付き合いのファインズも彼女の無意識の魔力に染められた口だ。
「でしたら、その栄誉を手にする機会を与えて下さった後継者殿下に限りのない感謝を捧げなければなりませんね」
「えぇ、貴方の言う通りよ」
  実際に彼女を指名したのはLDだが、それに許可を出したのは後継者である。
  特別、後継者と親しい訳ではない彼女が指名を受けられた理由は彼女の実力はもちろんだが、妥協の産物である一面があることも事実だ。
  ホワイティアは二万の兵を率いる指揮官であったが内乱には参加していなかったのだ。ゲームニスと同様に静観を決め込んでいた。内輪もめは彼女の趣味ではないのだ。
  そのどちらにも付かなかったというのが指名を受けた最大の理由であった。旧宰相派、旧革命軍のどちらに対しても遺恨を持たないため内乱以前と変わらない指揮が出来ると判断されたからだ。調整力に長けていることも指名された理由の一つでもある。
「あの子になら抱かれても良いわ」
「それは……」
  さすがに後継者殿下も嫌でしょう、と口から出そうになったが咄嗟に別のことを言った。
「旦那様が怒りますよ」
  猥談や際どい会話も平気でする彼女だが夫婦仲はすこぶる良好だ。今日も彼女の旦那は町の奥様を相手にパンを売っていることだろう。
「ふふふっ、そうね」
  笑いながら意味ありげに自分の参謀長を流し見た。ファインズが何を言いたかったのか彼女も分かっている。大任を与えられた緊張を軽口で解しているに過ぎない。
  彼女にはワルタ方面軍司令官として公称十五万、実数では十一万の兵が与えられている。その中には第一魔軍の部隊一万名が含まれている。公称の数字が大きいのはロゼフ軍に対するというよりも、自軍の将兵の士気をあげるためのはったりだ。
  慣例上、これだけの部隊を率いる将軍は魔軍の指揮官であるのだが彼女の登用により、この慣例は崩れ去った。
「ホワイティア将軍、全部隊進軍準備は整っております。ご命令を」
  寡黙な副司令官カイシェがワルタ進軍開始時刻の到来を告げる。
「宜しい。これより我らは奪還作戦を開始する。新しく生まれ変わった我らが武威をラインボルトと後継者殿下に示しなさい!」
  そして、後継者より親授された指揮杖を振り上げた。
「進軍開始!!」
  地を揺るがす雷鳴の如き雄叫びが大気に満ち満ちた。

 ワルタ方面軍に与えられた任務は三つ。
  一つは、その名が示すとおりワルタを含む市町村を奪還すること。
  二つ目はロゼフ国内に橋頭堡、つまりロゼフ侵攻のための拠点を構築すること。そして、最後の三つ目はロゼフ軍の殲滅だ。優先順位は上記の通り。
  まず、ワルタを中心として東から第八軍二万をもって町村の開放並びに鉱山などの重要施設を奪還。西方からは第二軍、南方からは第十三軍と第十五軍の計六万をもってロゼフが野戦構築した防御陣地を突破しつつ会戦予定地へと向かう。
  第一魔軍、第六軍は司令部付きの予備部隊として必要な場面で適宜投入することになっている。
  対するロゼフ軍は公称五万――ラインボルトは実数三万強ではないかと見ている、の兵をワルタに一万、一万五千を周囲に野戦築城した防御陣地に配置している。そして、残りは制圧した市町村に配置している。つまり、ワルタを中心とした戦線が構築されているということだ。これにロゼフ本国からの増援を加えてさらに守りを強固にしているとの情報をホワイティアらは得ていた。だが、彼女たちは麾下部隊に対応策を指示することはなかった。全て予定通りに進軍せよとのみ指示していた。

 南方より進軍する部隊の先鋒がヨゼル川に到達した。川幅はさほど広くはなく、水深も浅い。一番深い箇所でも成人男性の腰程度だ。浅瀬を探せば十分に徒歩で渡河することも出来る。だが、後方から来る本隊や輜重部隊に川を徒歩で渡らせる訳にはいかない。
  是が非でもヨゼル川に架かる橋を制圧しなければならない。
  ロゼフ軍からすればこの橋を死守することが出来れば、それだけ有利に状況を展開することが出来る。ならばすぐさま橋を落としてしまえば良いという意見もあったがラインボルト軍の進軍路を特定することが出来る。橋を落としてしまったら、どこから渡河されるか予測出来ないからだ。この橋はいわばラインボルト軍をおびき寄せる餌なのだ。
「全く見事なものだ。ここまで来るとちょっとした城だな」
  先鋒部隊の指揮を任せられたキアリスは呆れ混じりに感嘆の声を漏らした。
  三段も備えられた柵と堀に幾つもの櫓が建っている。石積みの城壁の上には弓を構えたロゼフの兵たちが並んでいる。キアリスのいる位置から見える限りでは魔導部隊の姿はない。
「ロゼフの工兵はなかなかに優秀だ」
「資材は豊富ですからね。工兵の優秀さだけではなく、岩窟族の種族的な気質でしょう。彼らは職人気質の者が多いと聞いております」
  と、彼の参謀長は言った。
「その現れがこの築城か。半年近くも何ら手を出さなかったのだから当然といえばそうなのだが。……良い迷惑だ」
「仰るとおり。我が方の工兵の見立てではあの城壁には強化魔法のみで対魔法処理がなされていないとのことです」
  つまり、城壁を頑丈にする魔法は使用しているが、敵からの攻撃魔法を弱体化、もしくは無効化させる処理は施されていないということだ。
「確かに見事な築城ではありますが、突破は難しくないでしょう」
「半年近く苦労した彼らには申し訳ないが、この橋頭堡を破壊させて貰おう」
  キアリスは参謀長に攻撃の手順、どの箇所を重点的に攻撃するかを指示した。
「準備が完了し次第、攻撃を開始する」

 キアリスの攻撃開始命令を受けて先鋒部隊は行動を開始した。弓兵部隊が並び一斉に弓を射かけた。ロゼフ側も即座に応戦する。城壁上から放たれる矢で空が黒くなったように見える。
  苦悶と絶命の悲鳴が響き渡る中、ラインボルトは弓兵とは異なる部隊をその後方に配置した。魔法部隊だ。城壁を爆破するのだ。一発や二発で破壊できるものではない。
  それでも城壁に重大な損害を与えるに十分であり、何より敵守備兵を焼き殺すことが出来る。城壁から全身火だるまになって敵兵が落ちていく。
  自分たちが掘り、水を張った壕の中に飛び込み死んでいく。瞬く間に焼け焦げた死体が城壁外に増えていく。なんとか焼死から逃れたとしてもすぐに弓兵が放つ矢を受けて落命する。彼らにとって城から出ることは即死に繋がる。
  キアリスは敵兵の死に様を見ない。彼が考えるのは砦の損害の度合いと部下たちが生きているかのみだ。ラインボルト側の損害もそれなりに出ている。だが、この規模の砦を攻めることを考えれば十分に軽微なものと言える。
  傷を負った者は戦友たちの手で後方に運ばれ治療を受けている。魔法部隊の半数が展開する魔法による防御壁によって矢の威力を減らしている成果だ。
  もし、対魔法処理を行える技師がロゼフにいたのならば、魔法部隊がいたのならば。そして、もっと多くの兵をここに配置していればこのような展開にはならなかっただろう。お互いに兵を擦り潰し合うことになっただろう。
  それでもこの場での勝利はラインボルト軍が得ていたことは間違いない。だが、辛勝では意味がない。なるべく損耗せずに突破しなければならない。
  その点でキアリスはロゼフ軍と岩窟族に感謝をした。彼らに魔法の素養を持つ者が少ないことを。数少ない魔法部隊を本隊に集中させていることを。
「投石機の準備、出来ているな?」
「はい。ご命令があり次第、すぐにでも攻撃開始出来ます」
「それとな。投石機が攻撃を開始した後、工兵部隊に柵と壕を潰させろ。爆破処理がされていないか調べることも忘れるな」
  それらは砦の前にのみあるのではない。当然のように橋の前方。つまり、ラインボルト軍の攻撃を阻止するように設えられている。
「彼らの安全を優先……いや、言わずもがなだな。任せる」
「はっ」
  彼の参謀長はすぐに仕事に取りかかり始めた。
  これから先、何度も野戦築城した防御陣地を突破しなければならないのだ。その時、工兵部隊がいないのでは無駄に損害を被るだけだ。
  地味で目立たないが工兵の存在は大きい。ロゼフ軍が行っている通り防御陣地の構築や破壊された橋の修復、橋頭堡の構築など戦略的にも戦術的にも必要不可欠な存在だ。
  時には敵の攻撃に身を曝しながら作業を行うため、損耗率が高い。大切に扱って然るべきなのだ。
「第九大隊に伝令! 一部でも城壁が破壊できたならそこから城内に突撃せよ」
  彼らを自分の脚で渡河させて城壁に取り付かせようという訳だ。
「それとだ第二陣として第七大隊を待機させておけ」
  空を切る鈍い音が響き渡った。空を見上げれば大人二人以上でなければ持ち上げられないだろう巨石が飛んでいく。耳をつんざく音が響く。巨石の幾つかが城内にも投げ込まれたようだ。大きな砂煙が舞い上がったのがキアリスの目にも見えた。
  放たれた四つの内、三つが城壁に激突する。幾らか歪に歪むがまださほどではない。
「さすがに堅固だな。側面から攻撃はどうなっている?」
  キアリスはここに到着する前に部隊を三つに分け、自分は本隊として正面から砦に対し、残る二つの部隊は砦の側面から攻撃するように命令を出していた。
「渡河に手間取ったのでしょう。もうじき……」
  宥めるように参謀長は言った。
「報告します! 右翼別働隊到着。攻撃を開始しました」
「噂をすればなんとやらですな。左翼はどうした?」
「まだです」
「遅い!」
  キアリスの怒声に兵士が小さく肩を振るわせた。参謀長は手で兵士に下がるように指示する。
「おっつけ到着するでしょう。右翼の援護を兼ねてこちらからの圧力も増しましょう」

 右翼別働隊の先鋒は幾つもの縦列を組んで突撃する。彼らは雲梯―つまり、梯子を手にしている。弓の援護を受けているが、砦の右側面を守備していた守備兵が射かけてくる矢を受けて次々と脱落していく。それでも彼らは止まらない。止まれば即死に繋がるから。
  だから、イーゲンも走った。数多くの戦友が血を流し、命を散らして柵を倒し壕に板橋を架けて作った血路を走っていく。戦友の遺体を踏み付けて駆けていく。
  矢が走る音に迫るのを感じイーゲンは肩を縮こまらせた。次の瞬間、彼の頬に温かみのある液体が付着した。咄嗟に顔を上げる。
  自分の前、つまり雲梯の先頭を持っていた戦友の頭頂部に矢が刺さっていた。
「ああああああぁぁぁ!!」
  既に絶命している。イーゲンは叫びながら雲梯に縋り付くように死んだ戦友を放り捨て、城壁に向かって走る。走るしか今の彼には出来ないのだ。
  絶命と痛みの叫びと矢が風切る音に気が狂いそうになりながら、彼は雲梯を立てた。先頭となっていた彼ともう一人は城壁の真下で死んでも雲梯を保持しなければならない。
  もう一人が早く上れと手と声で指示する。イーゲンも同じようにしたつもりだが、果たしてしっかりと言葉になっていたのか分からない。
  同じ隊の兵たちが上っていく。敵兵たちも必死に防戦を続ける。矢を放ち、石を落とし城壁に上ろうとするラインボルトの兵士たちに抵抗を続ける。
  イーゲンの周囲にはそうして叩き落とされた兵士で一杯だ。脳漿をぶちまけた者や眼球が飛び出した者。味方と敵兵とが入り乱れて誰の血と肉なのか判別が付かない。
「くぅ!!」
  彼の左肩に矢が突き刺さった。全身から脂汗が流れ悶え転がりたくなる。イーゲンは城壁を上ろうとしていた友軍の兵に矢を抜いて貰い、雲梯を握ることで痛みに耐えた。
  それ以上のことは彼には出来なかった。兵士たちは続々と上っていく。
『うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!!』
  突然、川向こうから歓声が沸き上がった。先鋒隊にとって何か良いことが起きたのかも知れないと思った。しかし、それで彼の境遇が変わるわけではない。
  死ぬか、全ての兵が城壁を上り終えるまでイーゲンは雲梯を保持し続ける。

 キアリスも兵士たちと同じように快哉を上げた。
  ついに左側の城壁の一部が崩れたのだ。キアリスは即座に投石機による攻撃を中止させた。事前に命じていた第九大隊が砦内に突撃を開始する。弓兵の援護を受けるが、渡河途中での損害は皆無ではない。
  右翼では城壁で兵たちが戦っているのが見える。左翼も少し前に到着、攻撃を開始している。
「城壁外に立てられている柵を焼き払った後、魔法部隊は下がらせろ。損害はどうだ?」
「軽微です。このまま推移すれば許容範囲内に収まるでしょう」
  兵たちの死傷を許容範囲と評するのは彼の好みではないが、指揮官であれば是非もない。それに参謀という商売はこのような面を持てなくてはやっていけないことも知っている。
  彼は務めに精励している。好みでなくとも文句を言うつもりは全くない。
「参謀長、意見を」
「右翼別働隊の敢闘のおかげで正面の抵抗はなくなりました。城門が開放された後、総攻撃を具申いたします」
「よろしい。準備完了次第、総攻撃を開始せよ。方面軍司令部よりの通達を最大限尊重するよう各部隊長に改めて伝えておけ」
「了解いたしました!」
  三十分後、総攻撃準備完了の報告がされた。抵抗を失った正面に第二陣として待機していた第七大隊の将兵が殺到する。そして、ついに城門は開かれた。
「総攻撃を開始せよ!」
  鬨の声が沸き起こる。敵を圧倒し、友軍の背を押す強い声があがる。
  兵たちは一斉に突き進む。手にした武器で功績を掲げるために。
  至る所で砂煙が立ち上り、断末魔の叫び声が巻き起こる。
  古来より失陥寸前の城砦で行われるのはただ一つ。一方的な虐殺だ。
  しかし、ワルタ方面軍司令部はロゼフ兵の虐殺を禁じていた。抵抗しなくなれば捕虜とすべしと厳命していた。今、聞こえる絶命の叫びは抵抗をした者たちが発したものだ。
  捕虜から敵軍の情報を得、遺体の埋葬その他雑務を彼らにやらせるためだ。また、それなりに彼らを遇しておけば併合後のロゼフの労働力として活用できる。
  もし、叛乱を企てたのならばその時こそ敵を完膚無きまでに殲滅すれば良い。彼らは捕虜生活でそれを自身の身を以て実感することになるのだ。
「……終わったか」
  総攻撃から約一時間の後、砦から叫び声は聞こえなくなった。代わりに勝利の歓喜に満ちあふれた。
「おめでとうございます」
  彼の参謀長が祝辞を述べる。キアリスは頷きでそれを受け、彼の肩を叩いて労う。
  程なくして城内から正式に砦を落としたとの報告があった。続けざまに幾つか報告が来る。砦内に溜め込まれていた食料などの物資は無傷であった。捕虜とした敵兵は武装解除させた後、一カ所に纏めているとのことだった。そして……、
「守備隊司令も捕虜に出来たのか」
「司令室に押し込めております。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「喚き散らして非常に五月蠅いのです。我々に対する悪態は当然として、部下の兵たちに対するものも。どうやら、ここの守備兵の大半は守備隊司令の領地の出のようで。哀れなものです」
「好きなだけ喚かせておけ。捕虜はこちらに移送しろ。彼らの取り扱いについて私から話しておくことがある」
「了解しました!」
  報告に来た兵は敬礼をし、再び砦に戻っていった。
「参謀長、事後処理は任せる。……食料庫の物を使って兵たちを労ってやれ。酒があるのならそれもな」
「彼らも喜ぶでしょう。では」
  そう言い残して参謀長は与えられた職務に戻っていった。

 キアリスは予備隊から自分の護衛を編成すると連行されてきた捕虜たちは皆、一様に酷い有様であった。簡単な止血以上のことはされていないためか苦痛の声を漏らす者も多い。
  だが、それ以上にこれから自分たちがどのような処遇を受けるのか不安に思っている者が多いように見えた。
「私がこの先鋒部隊の指揮を任されているキアリスだ。今後の諸君らの処遇について話をしたいと思う」
  背で手を組みながらキアリスは話し始めた。
「諸君らはこれから官姓名の申告、遺体の埋葬、瓦礫の撤去に従事して貰うことになる。その後、捕虜収容所に向かって貰う。この収容所を建設するのも諸君らの仕事だ。
  君たちにとって一番重要な命の問題だが、これはラインボルトは国家と後継者殿下の名誉にかけて保障すると宣言しよう。ただし、脱走、反抗的態度を行えば双方にとって好ましからざることを行わねばならない。また、逆に模範的であればラインボルトは諸君らの待遇を向上させる努力を行うことを約束する」
  つまり、彼らがラインボルト統治の根幹となる方針を知る生き証人とするのだ。この処遇に納得しない者も当然いる。捕虜に資金や物資を多くかけるよりも自軍のために使った方が良いと。
  だが、後継者はその意見を一蹴した。出費をケチって後で大損するよりもマシだ、と。
  キアリスも同意見である。叛乱の鎮圧で多数の将兵や国民が悲劇に見舞われるよりも遙かに良い。叛乱が発生する確率を少しでも減るのであればやるべきだと考えている。
  また捕虜の厚遇が彼らの耳に入れば、今後の開城交渉も楽になるかもしれない。
  そのためにキアリスは最後の念押しを行った。
「諸君らの処遇を決めたのは後継者殿下である。お優しいお方ではあるが、その好意が裏切られれば厳罰をもって処すべしと命じられている。その事をゆめゆめ忘れぬように」
  キアリスはもうしばらくすれば療兵が来る。それまで我慢するように告げると護衛を引き連れて今度は砦内にいる守備隊司令の下へと向かった。
  砦内は血の臭いに満ちている。負傷兵の苦吟した声音も聞こえる。
  兵たちは戦死者の氏名を調べて回っている。遺体の搬出もだ。
  その中をキアリスは進んでいく。パッと見では自軍の損害は少ない。その事を知り、彼は兵たちに気付かれないように安堵した。
  突入した大隊指揮官を見付け、労いの言葉をかけてやる。大隊長も部下の将兵と同じように全身血にまみれている。彼に守備隊司令の居場所を聞く。
「お初にお目にかかる。私はワルタ方面軍隷下第一軍団先鋒部隊司令キアリスです」
  司令室に入り、自己紹介をした途端に守備隊司令は罵詈雑言を喚き散らした。
  キアリスは大人の分別をもって、礼儀正しく聞き流す。守備隊司令が息切れをしたのを見計らい要件を口にする。
「貴殿を客人として首都エグゼリスにご招待せよと後継者殿下の命を受けております。ご同道願います」
「巫山戯るなっ!! なぜこの伯爵公子たる私が人族如きの招待を受けねばならん!」
「では、捕虜収容所に連行することにしましょう。他の捕虜と同等の処遇をお約束しますのでご心配なく」
「きさっ、貴様っ! 私が誰なのか分かっているのか!?」
「良く存じ上げております。我々が捕虜とした敗軍の将であります。高貴なるお血筋と聞き、このように礼を尽くしているまでのこと」
  キアリスは一歩踏み出した。
「我らが魔王の後継者の招待を断り、捕虜収容所もお嫌なのであれば私の方から一つご提案を申し上げましょう」
  さらに一歩。もう一歩踏み出す。椅子に腰掛け後ろでに縛られた守備隊司令を見下ろす。指揮官の名誉を尊重して携帯を許している短剣を抜く。精緻な細工を施してあり、一目にも高価な品だということが分かる。
「生きて虜囚の辱めを受けずと申します通りにご自害なされるというのは如何でしょう? 僭越ながら小官がそのお手伝いをしましょう」
「エグゼリスへ私を招待せよと命じられているのだろう。殺しても良いと思っているのか」
「お気遣い痛み入ります。ですが、ご心配は無用に願います。捕虜たちにも伝えましたが、後継者殿下は好意を示すと同時に厳罰に処することを躊躇わぬお方。拒絶されるのであれば、好ましからざる方法を用いても構わないと指示を受けております」
  そう言ってキアリスは短剣を突き付けた。途端に守備隊司令は蒼白になる。
  捕虜交換の際の材料にはなるだろうが。果たしてこの男をロゼフが返還を求めるだろうかと疑問に思う。彼が自分の兵を捨てて逃げようとしていたことを捕虜たちに教えてやり、私刑を黙認した方が良いかも知れないと頭の片隅で思った。
「この場にてご決断を」
「行く。行ってやる」
「……行ってやる、ですと? 申し訳ございません。戦の後の疲れで聞き間違えたようです。もう一度、ご返答をお聞かせ下さい」
「こ、後継者殿下のご招待、慎んでお受けする」
「ご賢察にございます。以後、しばしの間ご不便をおかけしますがご容赦の程を」
「う、うむ」
  一礼するとキアリスは退室した。その瞬間に気分を入れ替える。
  先鋒部隊の司令としての思考に戻った。司令部に戻れば多くの仕事が彼を待っている。
  どの手順で処理をするか考えながら、廊下を歩いていく。
  戦いを勝利で飾った者には次の戦いが待っているのだ。

 中央、左翼とは異なり東から侵攻する右翼、第八軍の目的は市町村と鉱山などの重要施設の奪還が目的になる。その為、通常よりも多くの工兵部隊、療兵部隊が付与されている。また、中央省庁から派遣された官僚たちも同道している。
  官僚たちは市町村からの要望を調査し、同時にワルタという地域全体をロゼフ侵攻の為の後方支援拠点に変えてしまうのだ。
  つまり、ラインボルト各地から送られてくる物資の集結地点であり、兵士たちが使用する武具や資材の生産を担わせるのだ。
  多くの鉱山を保有するワルタは同時に工業地域でもある。これまで通りの社会資本を維持できれば十分にこの役目を果たすことが出来る。
  右翼第八軍はワルタ奪還のためではなく、これから先を見据えて行動していた。
「エプタ、ビタン、ボーセン、ディムンの奪還完了。順調に進んでいるな」
「ロゼフ軍(彼ら)がビタン、ボーセンに中隊規模以上の部隊を配置しなかったのは幸いでしたね。報告書によれば三、四日もすれば通常通りの生産活動を再開できるとのことです」
「そうだな」
  第八軍司令官バーフェル将軍は参謀長の報告に小さな笑みを浮かべた。
  ワルタ方面軍司令部、ひいては後継者の命令を順調に遂行できていることに安堵していた。なにより殆ど損害らしい損害が皆無なのだから大局的に見れば満点である。
  しかし、被害が全くなかったわけではない。戦死者こそ出なかったが重傷者は出た。何よりその四つの町に派遣されたロゼフ軍の部隊による被害もあった。社会資本に対してではない。住民に対してのものだ。自分たちの駐留に必要な物資の現地調達以外にも宝飾品の没収などを行い私腹を肥やしていたのだ。それでも性的被害がなかったことは幸いといえば幸いであっただろう。そうしたロゼフ兵たちも今は捕虜の身である。
「ルマンドはどうしている?」
  内乱中、自分の代わりに第八軍を指揮していた副将の名だ。バーフェル自身も宰相派に属してはいたがエルトナージュの召集に応じてエグゼリスへと向かう途中、落馬して骨折したのだ。その結果、彼は内乱の後半をベッドの上で過ごすことになった。
  今は無事に快癒して第八軍の指揮を執っている。
「予定では今日にもタミツに到着しているはずです」
  タミツはワルタに次ぐ規模の工業都市だ。そこを軽微な被害で奪還できれば万が一ワルタ奪還時で大きな被害を残すことになったとしても当分の間、ロゼフでの戦いを支え続けることが出来る。あくまでも”当分の間”ではあるが。
  それでもタミツを最小の被害で奪還できれば第八軍は与えられた任務の三分の一を達成したことになる。中央、左翼のように決戦に挑むことはないが、バーフェルら第八軍司令部の面々は不満に思うことはない。
  他の将軍とは別に面会を許され、「ロゼフとの戦争は貴方たちの働きで大きく変わる。バーフェル将軍、こちらの意図した通りにワルタを奪還できれば貴方たちを特に評価したいって思ってる。その時を楽しみにしている」と激励していたのだ。
  つまり、誰の目にも分かりやすい戦術的勝利よりも最終的な勝利をもたらす戦略的な成果をより重要視するということだ。
「ルクリームの連隊は上手く負け続けてくれているな」
  届けられた報告書を読みながらバーフェルは言った。
「そうですね。威力偵察も兼ねていますから我々が突破する砦や防御陣地にどれだけの規模か判明したことも大きいです。こちらの意図に気付かれていなければ御の字なのですが」
「そうだな。だが、気にしていてもしかたあるまい。今我々が市町村の奪還と鎮撫に全力を挙げるべきだ。もしもの時の備えだけは怠りなくな」
「了解しました、閣下」

 ワルタ方面軍司令官ホワイティア将軍は非常にご機嫌であった。
  全てが順調に推移しているからだ。ロゼフ軍には目立った動きがなく、彼女の部下たちは次々に防御陣地を突破し、市町村を奪還し続けている。
  だが、好事魔多しとも言う。彼女の頭からは常にその言葉が離れていない。
  ホワイティアが今、一番頭を悩ませているのはロゼフ軍がどのように動き出すのかということだ。今のままワルタに閉じこもって市街戦で自分たちに挑むのか、それとも全軍率いて決戦を挑むのか。方面軍司令部ではロゼフ軍は前者を選ぶと考えている。
  ラインボルト軍からすれば人質を取られた形になり、必然的に長期間の睨み合いになるからだ。その間に他国に援軍を求めることを企てるはずだ、と。
「カイシェ。貴方はどう思うかしら?」
  徹底して私語の少ない彼女の副司令官の意見を求めた。
「私ならば素直に前者を選びます。そちらの方がまだ彼らに分がありますから」
「だけど、断言出来かねるという顔をしているわね」
「政治的な問題からそう言わざるを得ません。ロゼフ軍の将官は全て貴族です。このまま敗北を続けてロゼフ本国まで撤退すれば、軍での主導権はもちろん政治的にも致命的です。場合によっては政治的な死を意味する恐れもあります。それを払拭するために決戦を挑む可能性があります」
「今から彼らが防御陣地を放棄して集結しても兵数は私たちの方が上よ? それでも決戦を挑むかしら。同じ時間を稼ぐなら防御陣地に篭もった方が有利よ」
「我が軍と同程度の魔法部隊がいればその選択肢もあったでしょうが、揺るぎのない事実としてロゼフ軍には極少数しか魔法部隊がないのです」
  岩窟族には魔法の素養を持つ者が少ない。だが、反面頑強な身体を持っている。
  カイシェの言う防御陣地に篭もるよりも決戦に及ぶことを選ぶかも知れないという根拠はここにあった。
  陣地に篭もることを選べば一方的に魔法の餌食になるが、野戦であれば岩窟族の種族特性を活かせる場面があるというわけだ。
「つまり、常識に従えばワルタで籠城。だけど、決戦に及ぶ可能性も十二分にあるということね」
「はい。……後学のために伺いたいのですが」
「なにかしら? 夫との馴れ初めかしら? だったら、後で時間をとって話してあげるけど」
「敢えてお伺いせずとも有名ですので結構です」
「あら、残念」
「閣下は決戦と籠城戦のどちらが良いと思いますか?」
「もちろん、決戦に決まっているわ」
「…………」
「一軍の将たる者。一度ぐらいは堂々たる決戦で勝利してみたいと思うものよ」

 ワルタ方面軍が初戦で勝利を収め、戦況もラインボルト有利に推移しているとの報せがエグゼリスに届けられた。束の間、王城は歓喜に沸き上がったがすぐに次の一手の準備が始められる。
  一人の将が王城への登城を許された。女将(じょしょう)である。
  彼女と同様に登城命令を受けた参謀総長と共にアスナの執務室へと向かった。
「失礼いたします」
  入室を許され、二人は最敬礼を行った。
  中央に部屋の主であるアスナが座り、彼の右手にはエルトナージュが無言で二人に会釈を送る。そして、左手にLDも控えている。
「お疲れさま、参謀総長。それから初戦の勝利、おめでとう。これも貴方たちのおかげだ」
「お言葉、慎んで頂戴致します。ワルタ方面軍の将兵にも是非そのお言葉を」
「もちろん」
  喜色一杯に頷いたアスナは視線を女将へと向ける。
「これが初めましてになるかな? ファレス副将」
「はい。初に御意を得ます。第二魔軍副将ファレスにございます」
「ファイラスでの決戦で怪我をしたって聞いてたけど後遺症もなく癒えて良かった」
「お心遣いありがたくあります。革命軍に属し殿下に刃を向け……」
「あぁ、そこまでそこまで」
  アスナは両手を振って制止する。
「そんな堅苦しくしなくても良いよ。普通に話して」
「は、はい。ありがとうございます。殿下のご厚情まことに……」
「だ〜か〜らぁ。そんな難しい言葉を使わなくって良いから」
「……いえ、その……申し訳ございません」
  目を泳がせながら彼女は幾らか俯いてしまう。そんな彼女にエルトナージュが助け船を出す。
「アスナ。彼女は真面目なんです。あまり無理強いして困らせないで下さい」
「……そっか。そういうつもりじゃなかったんだけど、ゴメン」
「殿下の御意に沿えなかった私が悪いのです。殿下からそのようなお言葉を頂戴するわけには参りません」
「ファレス。貴女もそれぐらいにしなさい」
「はっ、申し訳ござ……あっ」
  連続謝罪記録更新中にアスナは思わず吹き出した。思わず赤面する彼女にアスナの笑みはさらに濃くなる。こっそりとエルトナージュの頬が膨れる。
「ファレス副将。こちらから命令を渡す前に一つ聞くぞ。第二魔軍、いけるな?」
「はっ。もちろんです。我ら第二魔軍の将兵一同、どのような任務でも完遂する準備は整っております」
  力強い返答にアスナは大きく頷くと参謀総長に視線を向けた。彼は一歩前に出る。
「ファレス副将。これより正式に後任が決定されるまで第二魔軍将軍代行を命じる。これは後継者殿下の強いご要望である。そのことを心に刻み込んでおくように」
  これまでは将軍不在における緊急措置として彼女に第二魔軍の指揮権が預けられていたが、これにより正式に指揮権を委任されたことになる。
「はっ、ありがとうございます。殿下のご信頼を裏切らぬことをここに誓約申し上げます」
  これはフォルキスとの約束だ。第二魔軍の後任は彼女に任せて欲しいと。
  だが、正式に将軍とするには色々なところから文句が噴出するため代行という措置がとられたのだ。
「ん。それで、これからが本題。ファレス将軍代行。貴女を南方方面軍司令官に任命する」
  アスナの無言で促され参謀総長は自らの手で辞令と命令書を彼女に渡した。
「貴官の指揮下に入る部隊の詳細については命令書を見て確認して貰いたい。予想がつくだろうが貴官の役目は第一、第三魔軍に代わりラディウスに睨みを利かせることだ。つまり、南方方面軍が守護者となるのだ」
  そして、LDは続けて部隊配置の概要を説明する。
  第一魔軍はロゼフへと向かい、ゲームニスは北方総軍――つまり対ロゼフ戦争に投入される全部隊の総指揮を執る。第三魔軍はエグゼリス近郊に駐留し、緊急事態に備える予備部隊となる。ロゼフで何かあれば北へ、ラディウスに動きがあれば南へと向かうという訳だ。内乱からずっとまともな休息を与えていなかったため、それを兼ねている。
「この部隊配置について質問があります。南に対する防備を減らすということは当面の間、ラディウスは積極的な行動には出ないとお考えなのでしょうか?」
  LDにではなくグリーシア参謀総長にファレスは尋ねた。
「その通りだ、将軍代行。第三魔軍からの報告によればラインボルトへの進軍に必要な糧秣が蓄えられてはいない。また、ラディウス領内に放っている諜報員からもラディウス軍が大量の物資をラメルに輸送しようとしているという情報もない。だが、ラメルに駐留している部隊の指揮官はフレイオス・バルディア上将。本国の意向を無視して無理攻めを敢行する恐れもある。その事を留意してもらいたい。人事、兵站については相談を受ける」
「承知いたしました」
「苦労させることになるけど、よろしく」
  ファレスは踵を打ち付けて、格好良く最敬礼をした。
「後継者殿下のご厚情を裏切らぬ働きを致します」
「ん。期待している。略式になるけど任命式は明日。早速、諸々の準備を初めてくれ。退室して良いよ」
「失礼いたします」
  一礼して退室した彼女を見送ったアスナはちらりとグリーシアを見た。常と表情は変わりないように見えるがどことなく顰められているように見える。
「参謀総長、さっきの人事に不満?」
「い、いえ、決してそのようなことはありません」
  慌てた口調だ。この辺り、非常に分かりやすい。
  先日のアルニスとの一件でグリーシアが自分を恐れていることを感じていた。怖がられるのは不快だが、仕方のないことかもしれないとも思っている。
  衆目の中で議員たちを告発して見せたのだ。多少なりとも後ろ暗いところを持っている者ならば緊張して当然だ。それにアスナは既に彼を告発しようと思えば出来るのだ。
  ありきたりな収賄罪と士官学校入学の口利きぐらいだ。それでも参謀総長の職を罷免するには十分だ。その汚点を覆い隠そうと職務に精励しているのもまた事実だ。
  そのためアスナは彼を告発する気はない。もっともそれを彼に教えてやるつもりもないが。
「まぁ、気持ちは分かるよ。最後までオレに剣を向け続けた第二魔軍を守りの要にするのが不安なんだろう?」
  何しろ第二魔軍は最後まで抵抗し続けたのだから。参謀総長として不安要素がある部隊は出来るだけ重要な箇所に使いたくないのだ。
「けど、大丈夫なんじゃないかな。ファレス将軍代行はあんな感じだし」
  それにフォルキス将軍からの手紙もあるし、とアスナは思った。
  フォルキスから第二魔軍の将兵に宛てた手紙だ。要約すれば、叛乱の罪を免除したアスナの厚情に報いろ。自分たちがラインボルトの守り手であることを忘れるな、となる。
  第二魔軍においてフォルキスの存在は大きい。その彼の言葉であれば新体制にも従うだろう。不平等待遇を許さないアスナの方針も利いているはずだ。
「なんにせよ。戦争中なんだ。使える部隊は積極的に活用しないと」
  何より第二魔軍はファイラスでの決戦の際、見事にフォルキスをアスナの下へと届けたのだ。堂々たる正面突破で、だ。その戦力は信頼に値する。
  万が一、何かしらの理由で第二魔軍が機能不全に陥ったとしても予備として近衛騎団と第三魔軍がいる。備えはしているのだ。心配性のグリーシアの杞憂に過ぎないだろうが。
「それじゃ、次」
  アスナはそう言って呼び出しのベルを振るった。すぐに秘書官が顔を出す。
「ケルフィン将軍を呼んでくれ。それと用意していたものを」
  彼は執務室近くの待合室でくつろいでいるはずだ。それとも何のために呼び出されたのか理由を推測しているのかもしれない。
「第一軍司令官ケルフィン、お呼びにより参上いたしました」
  アスナに付け髭と揶揄される彼の口髭は今日も立派だ。しかし、彼の目は幾らか驚いているように見える。エルトナージュ、LDとアスナにとっての両翼とも言える二人が揃っていることに。何か大きなことが自分の身に降りかかると思ったのだろう。
「まぁ、サンドイッチでも摘みながら五人でちょっと内緒話をしよう」
  程なくして届けられたサンドイッチは文字通り山盛りであった。定番のBLTサンドにタマゴサンド、カツサンドがズドンッと一つの大皿に盛られている。
  五人でもこんなに食べきれないだろうと頬を引きつらせるおっさん二人だが、それこそ杞憂である。これの大半はLDの胃の中に消えていく。
  アスナは自分の手で全員にお茶を注いでいく。恐縮するおっさんズにアスナは気にしないで良いと笑ってみせる。
「遠慮しないで食べて。我ながら上出来だと思うし」
「殿下のお手製なのですか」
「オレだけじゃないよ。エルにも手伝って貰ったんだ」
  それはある意味、最上級の歓待と言えるだろう。後継者自らが拵えた料理を饗するなどそうあることではない。だが、ケルフィンは喜ぶよりも、むしろ緊張した。
  自分のことはよく分かっている。内乱中、特に大きな武功を立てたわけではなく終結後も何か重大な献策をした訳でもない。再編成の際、将兵の奪い合いをはじめようとしていた将軍たちの仲裁にたったことはあるが、手料理を饗されるほどの功績でもない。
  だから、これは褒美なのではなく謝罪の意ではないのかと。
「さっ、遠慮なく食べて」
「恐縮であります」
  手近にあった一つを口に運ぶ。正直、味がよく分からない。正面で猛烈な勢いで食べ続けるLDの姿も気にならない。
「食べながらで良いから、話を聞いて。ケルフィン将軍、悪いけど第一軍を返して貰う」
  一番最悪の予測が当たった。開戦に伴い将官の再配置が行われている。これまで指揮能力に定評はあっても主流派ではなかった者が次々と重要な任務を与えられている。
  この再配置が自分に襲ってこないように軍務省の人事部やグリーシアに働きかけていたが全く意味はなかったようだ。
  ケルフィンが口を開くよりも早くアスナは次の言葉を放った。
「その代わりにロゼフ鎮定軍を任せる。部隊の規模はまだ調整しないといけないから断言できないけど三個軍ぐらいを指揮して貰うことになるのかな」
「なっ!? そ、それは……」
  目を大きくして、さらには中腰になるほどに驚きを見せているケルフィンにアスナは苦笑する。手で腰を落ち着けるように促す。
「本人を前にしてこんなこと言うのは失礼だって分かってるんだけど、貴方の指揮能力は並以下だ。だけど、部隊間の調整とか物資の管理、治安維持とかのえっと……」
「軍政です」
  言葉に詰まったアスナにエルトナージュは助け船を出す。
「それそれ。その軍政に関しては他の将軍たちよりも頭一つ分以上抜きん出ているっていうのはこの場にいるみんなの一致した意見。貴方にはロゼフから切り取った領域の占領統治を任せようと思う。これには治安維持とか大将軍たち前線で戦う部隊を支える後方任務だけじゃなくて、ロゼフの貴族たちを降伏させることも含めてる。武力でせめるだけじゃなくて、交渉で降伏させても良い。とにかく大将軍たちの背中で騒ぎが起きないようにするのが貴方の任務だ。ロゼフ併合の地盤を作るんだから、併合が上手くいくかどうかはケルフィン将軍にかかっているって言っても良い。やってくれるよな?」
「……正直申しまして殿下から疎んじられているものと思っていましたが」
「好き嫌いで人事は決めないよ。まぁ、完璧にそうできてるとは思わないけど。そうあれるように心がけてはいるかな」
  実際、この人事はエルトナージュとLDの推薦がなければ彼を選ばなかっただろう。そう言う意味で、この人事は私情が入っていると言える。
「それにロゼフでの占領統治が上手くいけば、エイリア総督を任せようと思ってる」
  一斉におっさん二人がアスナをみた。
「言ったろ。内緒話って。LD、説明してあげて」
「分かった」
  アスナがアクトゥスとの同盟を考えていること。ラインボルトがアクトゥスと組めば、リーズはラディウスと組むだろうと推測していること。
  アクトゥスとリーズが開戦したら、必然的にラインボルトとラディウスの間でも戦端が開かれるだろうということを話した。そして、ラディウス軍はラメルからだけではなく、エイリアとアジタを経由してラインボルトに侵攻してくる可能性があると。
「戦争をやる以上は勝たないといけない。このことはもう宰相のシエンに伝えている。内政面からこの大戦争に耐えられる体制をつくりつつある。参謀本部には軍事面から勝てる方策を考えて欲しい。リーズはまだアクトゥスと同盟するって決めたことを知らないから、気取られないように注意して欲しい」
  そして、アスナはケルフィンに視線を移す。
「エイリアとアジタ次第だけど、もしラディウスの通行を許すのならばもう我慢しない。両国を永久にラインボルトの版図にする。この時、ロゼフでの経験が役に立つと思う」
  お茶を飲んで喉を潤す。少し勢い良く喋りすぎて喉が痛い。
「大戦争ですな」
「そっ、大戦争。もし、自信がないのなら」
「いえ。慎んで拝命いたします。ご期待に背かぬよう職務に精励いたします」
「ん。……参謀総長は?」
「些か話が大きすぎて動転しておりました。今後の方策についてすぐに検討したく思います。この場を辞することをお許し頂けるでしょうか」
「良いよ。くれぐれもアクトゥスとの同盟のことは気取られないように。もしリーズがこのことを知ったらロゼフに肩入れするかも知れないからさ」
「承知しております。では」
  グリーシアと同じようにケルフィンも席を立った。その彼にもアスナは指示をする。
「近い内にロゼフの統治に関する会合があるから、ケルフィン将軍はそれに出席するように。詳しい日時は決まり次第、報せるよ」
  最敬礼をして執務室を出ようとした二人にアスナは個人的な呼びかけをした。
「派閥作って細々となにかするよりも直接オレと繋がっていた方が面白いことになると思うぞ」
  二人は振り返り無言で一礼すると今度こそ執務室を辞した。
  途端に空気が弛緩した。アスナは腰掛けていたソファにだらしなく身を預ける。
「疲れた。LDの言ったとおりにしたけど、あれで良かったのか?」
「あぁ、十分だ。先日のアルニスの一件でグリーシアは君に対してある種の恐怖を持っている。そこに大任を委ねると言えば忠節を尽くして職務に精励してくれるだろう。ただあの手の小心で真面目な人物は時に過労で倒れることもあるから、その点は注意しておく必要があるだろうがな。先に褒美を見せたことでケルフィンもこちらの思惑通りの働きをしてくれるだろう」
「けど、どこかで聞いたけど付け髭ってフォルキス将軍の後釜を狙ってたんだろ? んで、それを足掛かりにして大将軍になろうってつもりで。総督で満足するかなぁ」
「そこまで私たちが気を遣う必要はない。職務は褒美ではないんだからな。だが、大丈夫だろう。ケルフィンにとって大将軍になることが重要なのではなく聞こえの良い重職に就くことが大切だろうからな。歴史ある名家の当主である苦労といったところか」
「はぁ、よく分からないけどしっかりと仕事してくれるんなら良いか」
  やれやれとLDは首を横に振ると立ち上がった。
「私もこれで失礼しよう。これから君たちは観劇に行くんだったな」
「うん。なんかようやく王様らしいことが出来るよ」
  その観劇には当然、エルトナージュも同伴することになっている。
「確か演目は”ウィーシェル”だったな。息抜きには最適の演目だな」
「LDも見たことがあるの?」
「ある。なかなか面白い話だ」
  演目のウィーシェルとは主人公の名前だ。
  騎士になることを夢見てとある国に従者とともに仕官を求めるウィーシェル。酔狂な王は幾つもの奇怪な問題を解決すれば登用すると約束する。そうやって始まる喜劇だ。
  人の良いウィーシェルと苦労性の従者の掛け合いが軽快で、時には皮肉げで長く上演が続けられている。
  LDはうっすらと微笑を浮かべて、
「楽しんでこい。……ではな」
  ぽんぽんっ、とアスナの肩を叩くとLDは部屋を出ていった。
  その彼を見送るとふとアスナは思いついたことを呟いた。
「LDが喜劇を見た? ……なんか信じられない」
「……ふふっ、ふふふふふっ。そうね、どこか彼に似合わないわよね」
「喜劇みて笑ってるよりも小難しい哲学みたいなのを顔を顰めて見てる方が似合うよな」
  そう言って顔を顰めたLDの顔真似をしてみせる。しかし、全然似ていない。
「本人が聞いたら怒るわよ」
  しかし、エルトナージュも笑っている。アスナも笑うと彼女の側に腰を移した。
「時間に余裕もあることだしイチャイチャしよう」
「ちょっと、アスナ。ここは執務室よ、それにまだ陽も。さ、昨晩だってあんなに」
「せっかくの機会だしさ。それに色々と試してみるのも悪くないぞ」
「アス……んんんっ」

 ワルタ市での市民生活は窮乏の縁に立たされつつあった。
  ロゼフ軍による占領が始まり食料や医薬品などの生活必需品の流入は停止している。占領初期にロゼフ軍は商店に営業停止命令を出し、生活必需品は徴発――極々少額の支払いで品物を買い上げること、をした。
  これによってワルタ市民たちの生命線はロゼフ軍が握ることになった。
  ワルタ市民の生活環境は三つに大別される。
  一つは都市長や地方議員たちのような有力者たち。
  彼らは家族とともに軟禁生活を送っており、与えられる食料その他は日々の生活に困ることはない。
  二つ目は職人や工場労働者たち。彼らは技能や労働力をロゼフ軍に提供することで糧を得ている。
  三つ目はその他の市民たち。彼らの占領生活はあまりにも単純だ。日々の糧はロゼフ軍の配給によって賄われている。
  一人あたり固いパン一切れに塩辛い豆のスープのみ。それがほぼ毎日続くのだ。各家庭の主婦は占領が始まるまでに所有していた保存食などをやりくりして食事に彩りを持たせていた。それでも占領が始まって半年近くが経過してしまった今、もはや調味料や保存食を使い切ってしまい工夫のしようがない。このパンとスープのみの生活に耐えるしかなかった。
  今日も大鍋とバケットを持った者たちの長蛇の列がワルタのあちこちで見られた。その様子はさながら天災後の避難所のようであった。
  列に列ぶ者たちの表情に出来損ないの人形のように精彩がない。代わり映えのない日常を強制された結果だ。聞こえるものと言えば時折、ぐずった子どもを宥める親の声ぐらいだ。雑談でもしようものなら列を監視している兵士が飛んできて怒鳴られるのだ。
  そして、今日の配給を受けることが出来なくなる。刃向かえば手酷い私刑にも合う。黙って列んでいる方が無難なのだ。
  だが最近、微妙に何かが変わりつつあった。もし、彼らを良く観察している者がいたならばこの小さな変化に気付いたかも知れない。市民たちの瞳が、嵐を耐え翌朝の晴天を待っているような力強さを持ち始めていることに。
「また、こんなに……」
  ロゼフ軍ワルタ守備隊の歩哨を務めるダズは憎々しげに壁に貼られた張り紙を剥がした。一枚や二枚じゃない。人目に付くところの殆どに貼られているのだ。
  張り紙にはこう書かれている。
  ”また一つロゼフの城を陥落させたぞ!
  平穏な日常を取り戻すまでもう少しだ。
  頑張れ!!”
「誰だ。こんな嘘っぱちを書きやがって。俺たち岩窟族の城がそう簡単に落ちるもんかっ」
  張り紙を破り、地面に踏み付けるダズの瞳には間違いなく不安の色があった。
  所詮は下っ端の一兵士。上官の「ただの流言、我らの士気を落とそうとしているゲスの策だ」という言葉を信じる他にない。上官の命令は絶対であり、嘘であるとは思っていないがそれでもダズは不安なのだ。
「そうですよね、ブーチさん!」
  ダズにとって今、最も身近な信頼できる年かさの同僚に縋るような目で尋ねた。ダズだけではない。他にも若い兵士たちがブーチを見ている。彼らもダズと同じ心境なのだ。
  ブーチは古兵らしい重みのある態度で頷いた。
「当然だ。出征式の時にお前も俺たちの最高指揮官、ワルタ解放軍司令官ディーズ将軍閣下の城を見ただろう。お前、あの城が落ちるところなど想像できるか?」
「出来るわけありませんよ! 例え百万の大軍が攻めたとしても絶対に落ちません!」
「そうだ。あの堅固な城を造ったのが我ら岩窟族ならば、ワルタの各地に建設した砦や城も岩窟族の手で作ったものだ。数で攻めるしかない能のない人魔如きが落とせるはずがない」
  言葉ではそう言ってもブーチは内心では別の感想を持っている。前線の戦況がどうなっているのか彼は知らないが、ロゼフ軍の司令部が置かれているワルタ市に毎日このような張り紙がされていることに危機感を感じていた。
  一人二人で出来ることではない。また、市民にもそれは該当する。
  つまり、ラインボルト側が派遣した多数の間者がこのワルタ市で何かをしているということだ。ブーチにとってそちらの方が遙かに恐ろしい。
  だが、彼はロゼフ軍の一兵士。ただの勘を口にして若い兵たちを不安にさせる訳にはいかない。そんなことをすれば文字通り首が飛ぶ。
「だからな、ダズ。こんな嘘を使わないと俺たちに勝てないと思ってるラインボルトなんか鼻で笑ってやれ。張り紙なんかに八つ当たりをしてもみっともないぞ」
「い、いえ、そんな俺は……」
  ドッと笑い声が沸き上がった。真っ赤になるダズの肩を叩きながら、これで良いと思った。少なくともブーチが属する部隊はこの張り紙に惑わされ難くなったはずだ。
  その程度には彼らに信頼されていると彼は自分を評価している。自惚れかもしれないが、この場の雰囲気を良くしたのは間違いなく彼の功績なのだから。
「さぁ、小隊長殿に怒られんうちにとっととつまらん張り紙剥がしを終えるぞ」
  自分たちを監督する下士官に出過ぎた真似をしたことを謝罪しながら、ブーチは思った。勝つにせよ、負けるにせよ若い連中を生き残らせる努力をせんとな、と。

 この張り紙をまた別の視点で見ている者もいた。ディーズ将軍率いるワルタ解放軍司令部の者たちだ。皆、一様に額に青筋を立てている。
  敗退に続く敗退に苦況に立たされているからだ。ワルタ市にいる本隊から砦や拠点に増援を出しているがラインボルトの進軍を止めることが出来ない。
「リーズとラディウスの参戦はまだなのか!」
「知らん。そんな情報はまだ届いていない。文句ならば本国に言って貰いたい」
  第二陣として本国より十万の兵が派遣された。これによりディーズは十五万の兵力を指揮下においたことになる。数の上ではラインボルトを上回っている。
  だが、その兵力は各地の陣地などに分散配置されているため兵力集中策を用いるラインボルトの侵攻を止めることが出来ないのだ。
「約束が違うではないか!」
  将軍の一人が吐き捨てるように言った。第二陣が到着して以来、このようなやり取りが何度となく続けられている。時間の浪費だが、そうするより他にない。
  初めから彼らの戦略はリーズとラディウスの戦力を利用することで成立していた。ロゼフ軍がワルタで徹底した防御に徹している間にリーズとラディウスがラインボルトに宣戦布告をする。内乱により疲弊したラインボルトは敗戦し、その結果ロゼフはワルタと賠償金を得る予定であったのだ。これを画策したのはロゼフではない。リーズだ。
  内乱で疲弊したラインボルトにさらなる痛打を与え、アクトゥスとの戦争に口を挟むことが出来ないようにしたかった。また、自国とロゼフだけでは楽に勝利を得ることが出来ない。そこでラインボルトと正統を争うラディウスを誘ったのだ。
  ロゼフ同様にラディウスもこれに乗り、”彷徨う者”の討伐を名目にラメルに進駐したのだ。だが、結果はこの通り。
  ラインボルトの内乱は誰もが思いもしなかったほど早く終結し、ラメルにいたラディウス軍は後継者率いる近衛騎団に痛打を浴びせられてしまった。ラインボルトの国力は内乱前に比べれば目減りしてしまったが、それでも大国として存立するに十分であった。
  リーズとラディウスは動かない。戦略の根幹を失ったロゼフは立ち往生する他なかった。
「いない者をあてにすることは出来ん。我々のみでどうにかする他なかろう」
  今まで黙っていたディーズが口を開いた。
「選択肢は四つ。一つは兵力を結集し、決戦に及ぶ。二つは各地の砦に援軍を送り、敵の侵攻を防ぐ。三つは全ての砦を破却し、ワルタ市で籠城に及ぶ。四つは不本意ながら本国に転進する」
  ディーズの言った転進の言葉に将軍たちは激発した。彼の参謀も控えめに反対の意を唱える。負け続けているとはいえ、まだロゼフ軍は大打撃を被ったわけではないのだ。
  一戦も交えずに本国に帰還したら他の貴族からどのような誹りを受けるか分かったものではない。主戦派の急先鋒は援軍を率いてきたトナム将軍である。
「なんたる弱腰な発言か。我ら第二陣は貴官らとともに逃げ帰るために来たのではないのだぞ! 我らはこのワルタを岩窟族の手に取り戻すため、ラインボルトの奴輩を蹴散らすためにこの地に来たのだ。決して逃げるためではない!」
  トナム将軍は青筋を通り越して、口髭を逆立てんばかりに激昂した。
「私は選択肢としてあると言ったまでのこと。私とてそのような命を兵たちに出すつもりはない」
「ならば司令官として決戦をご命じ頂きたい。ヤツらに良いようにされるのは気に食わん!」
  彼の決戦指向は彼の又従兄弟がラインボルトに討たれたことも原因になっている。堂々たる決戦を行い、無念を晴らしてやりたいのだ。
「全兵力を結集すれば間違いなく勝てる。人魔どもは数を頼りにしている。その兵数の差をなくせば我らの勝利は間違いなし! 敵は三方から攻めてきているが小勢の東部は見事に敵を撃退しおる。その間に南部、西部から迫る敵を各個撃破するのだ」
「東部が支えているのだから、南部、西部の防御を固めるべきではないのか。正式に両国から参戦の話がなくなった訳ではないのだろう。リーズは海を隔てた先にある。今まさにリーズが兵を送ろうとしている時に決戦を挑むのは得策ではない」
  別の将軍の反対意見を皮切りとして会議室は論戦の渦となった。上座のディーズはその様子を眺めながら、今日はこれで会議は流れるなと思った。
  どちらの発言も理屈にかなっているのだ。それだけにどちらが良いのか判断が付きにくい。ディーズ自身、どちらの策を執るべきか決めかねているのだから仕方がない。
  彼に出来ることは本国に両国の参戦を早くするように督促することと、さらなる援軍を求めるぐらいだ。
  現実逃避にワルタ市のあちらこちらに貼られている張り紙のことが頭をよぎった。あの張り紙に書かれている内容は多少の誇張はあるものの真実だ。
  市民を鼓舞するための工作だと素直に考えて良いのだろうか、とディーズは思った。

 ラインボルトにとって最も脅威となるものはなにか。それはリーズの参戦である。
  幻想界第一の大国であるリーズがロゼフとの戦争に加われば、形勢はひっくり返ってしまう。それを防ぐためラインボルトは徹底したご機嫌取りをしていた。
  要路に働きかけてロゼフとの戦争の経緯を説明し、贈り物をして参戦を思い留まるよう竜王に働きかけるように依頼した。この際、活躍したのは外務省から派遣された使者だけではない。外務省からの指示を受けた名家院議員やリーズと取引のある商人たちも参戦回避に向けて動いていた。
  贈り物を渡し、書状には謙った言葉を用いた。見方によっては臣下の礼をとっているようにも読める言葉まで使って機嫌を取った。だが、それでラインボルトの大国としての格を落とすことにはならない。
  現在のラインボルト最高権力者は未だ魔王ではないのだから。もし、アスナが即位をしていたのならばこのような手段は使えない。王はどのような場合でも対等でなければならないからだ。
  ご機嫌取りをする一方で同盟交渉をネタにして焦らしてもいた。両国から同盟の打診を受けているがラインボルトは未だ態度を明確にしていない。
  リーズから見ればラインボルトを自陣営に加える可能性が残っている以上、あまり機嫌を損ねるようなことはしたくない。
  煮え切らない態度をとり続けるラインボルトに苛立ちを覚えている者も当然いる。強硬派の中には内乱の傷が癒えきっていない今のうちに痛打を加えておくべきだという主張をする者もいる。
  ロゼフをそそのかした者の一派もこれに加わり、無視できない勢力となっている。
  だが、今のところこの意見が表面化してはいない。
  ラインボルトとどう対するのか竜王自身が態度を表明していないからだ。
  リーズにおける竜王の権力は絶大である。リーズにある国土の全て、古今全ての財宝、貴賤に関わらず国民全ての生涯を気分次第で左右することの出来る絶対権力者なのだ。
  例え声高に反対意見を唱えても竜王ファーディルスが賛意を示せば、そちらが優先されるのだから。誰もが大声をあげて竜王に睨まれたくないのだ。

 王宮にて戦争に介入するか否かの議論が盛んに行われている頃、リーズの意志決定者は王宮からほど近い離宮にいた。付近を散策し、時には狩りや観劇を楽しんでいた。
  自分が引き起こした戦争に全く気にも留めていないように見えた。いや、ファーディルスは本当に気に留めていないのだ。良心の呵責を感じることもない。
  絶対権力者として生を受けた彼にとって自分で行う戦争は生涯に添える花のようなものであり、自らが引き起こした他者の戦争は観劇のようなものでしかないのだ。
  そのような思考をするファーディルスだが、今回の戦争については別の意味で興味をもって眺めていた。ラインボルトを、次期魔王への階段をのぼる坂上アスナという少年を。
「結局、アルニスは魔王となることが出来なかったのだな」
「御意。彼の者は内政家としては有能であっても、時勢を読む才はなかったのでしょう」
  ファーディルスの対面に座る外務を担当する蒼竜公は言った。アルニス・サンフェノンは彼の主君が取り立てた人物だ。貶すような発言は出来ない。アルニスの縁者も同席しているのだからなおさらだ。
  もっとも、そういった配慮以前に蒼竜公に他者を無意味に貶める趣味はないのだが。
「我らに連なる者の不手際。一族を代表し、お詫び申し上げます」
  と、謝罪の意を表するのは赤竜の長である赤竜公だ。軍事に強い発言力を有している。
  その赤竜公をファーディルスは右手を差し出して、「気にする必要はない」と言った。
「それよりも坂上アスナとはどのような人物だ。そなたたちの所感を述べよ」
「己の無能を知る者であると感じます」
「果断であると見受けられます」
  ファーディルスは笑った。他者を誉めない二人が賛辞を送ったのだ。それも人族に。
  あれだけのことを行ったのだから、認めざるを得ないというのが本音かも知れない。
  だからこそ、ファーディルスは新たな魔王の後継者に興味を持ったのだ。将来、自分の遊び相手になりうるのか否か。
  その坂上アスナを二人が誉めた。つまり、そうなりうる可能性があるということだ。
  そういえば以前、息子――つまり王太子について尋ねた時は言葉を濁したことを思い出した。
  その思考を察したのか蒼竜公が王宮で騒がせている話題を口にした。
「それ故に早々に痛打を与えておくべきと存じます」
「このまま放置すれば手に負えなくなると申すか」
「そこまでは。ですが、我が国にとって煩わしい存在にはなりましょう」
「赤竜公はどうだ」
「私も蒼竜公と意見を同じくいたします。将来、目障りな存在となりましょう。ですが現在、陛下の勅命により内々にアクトゥスと戦端を開く準備をしております。必然としてロゼフへと差し向ける兵力は限られたものとなります。ロゼフへの介入ではラインボルトに痛打を与えることは難しいと愚考いたします」
「ラディウスはどうなのだ」
  と、蒼竜公に尋ねる。
  リーズとともにロゼフを救助するという名目でラディウスを参戦させようとしていたのだ。しかし、ラディウスは動いていない。
「彼の者たちも我が国と思惑は同じでありましょう」
  ラインボルトとリーズが争っている間に漁夫の利を得ようと考えているのだ。もしくはラディウスへの備えをしっかりと行っているからとも言えるが。
「改めてこちらから働きかけても動かないか」
「御意」
  アルニスを送り込むことと、同時に武力介入も視野に入れることは相反することではない。リーズにとってラインボルトが無害化するのであれば、過程はどうでも良いのだ。
  だからこそ、武力介入を支持する意見が出始めているのだ。
  介入すべきではないという意見も当然ある。リーズにとって第一の問題はアクトゥスとの領土問題である。ラインボルトと事を構えても兵力の無駄だという主張だ。
  それら全ての意見をファーディルスは耳にしている。それぞれの意見と国家としての利益を勘案し、自分の嗜好を加味してファーディルスは決定を下した。
「ロゼフが今日より一ヶ月の間、ワルタを保持できれば援軍を送ってやろう。出来なければ放置して良い」
「ロゼフがラインボルトの勢力下に置かれれば、天鷹族が難儀すると思われますがそれでも宜しいでしょうか。また、一部の出過ぎた者の言葉を真に受けてすでにロゼフは全力に近い十五万の軍勢を派遣しておりますが」
  蒼竜公の確認に、
「構わぬ。駕籠の鳥が囀ったところで何が出来る。勝手を為した者の処分はそなたに任せる」
  続いて赤竜公に指示を出す。
「介入する部隊の選定はそなたに任せる。この件について両国に通達する必要はない」
「御意」
「それと戦況についての情報は逐次、余に知らせよ」
  そして、新しい玩具を手にした子どものような顔でファーディルスは笑った。
  アルニスの件、ロゼフの件とことごとく自分の思惑を打ち破られたがアスナがロゼフという血肉を喰らい猛々しい獣となるのか見物するのも悪くない。
  自らの首に食らい付こうとする獣を育てた経験はファーディルスにもまだない。新たな楽しみが出来たことを純粋に喜んだ。
  さて、彼の者はどのようにロゼフを喰らうのか。全くよい余興になる、と。

 度重なる戦いで血を吸いすぎたため、この地は紅い。
  そう評されるラメルは紅い砂礫が一面に広がる荒野だ。
  雨は滅多に降らず草が生い茂ることもない。一見すれば死の大地に見えるラメルだが、忍耐強く観察を続けていれば別の顔に気付くことが出来る。
  ここは多くの種類の小動物が棲んでいるある意味での楽園であった。南北を通行する以外になんら価値のなく大国の緊張に曝され続けるこの地を好んで開拓しようとする者はおらず、魔獣も極々少数しか棲んでいない。
  過酷な環境であるからこそ、絶滅することなく今日まで生き残ってきた生物の宝庫、生物学者にとって垂涎の地であった。
「…………」
  岩陰に隠れて息を潜めながら小動物を観察している男がいる。
  ラメルに溶け込むような紅い作業着に身を包み、びっしりと小さな文字で埋め尽くされたメモ帳を手にしている。小動物を見つめる瞳は真剣そのものだ。
  視線の先にはイタチのような身体が長く四肢の短い動物がいる。それは小さな後ろ足で器用に立ち上がり食事の最中だ。その植物は岩の上に着床し、空に向けて放射状に葉を伸ばしている。岩の上では根から水分を取ることが出来ない。ということはあの葉で水分を吸収しているのだろう。乾燥した大地から得るよりも、朝露から取り入れた方がましだったのかもしれないと男は思った。
  再び視線をイタチのような動物に戻す。それは植物の実で頬を一杯にしている。実を噛んだ瞬間、口から水分が飛び出した。
「……おおぉ」
  思わず男は小さく感嘆の声を漏らした。あの実には大量の水分が含まれているのだ。
  楽しげに男はその様子を絵にする。上手だとは言い難いが特徴をとても良く捉えている。
  観察が終わったらあの小動物の巣まで尾行し糞を調べてみよう。糞に種が原型を留めたまま排泄されることが分かれば、あの植物は小動物たちの水源となることで種を増やしているという仮定を立てることが出来る。
「閣下!」
  良く通る呼び声と慌ただしい蹄の音に小動物は逃げ出した。これでは尾行出来ない。
  閣下と呼ばれた男は苦り切った顔で岩陰から姿を現した。盛大にため息を漏らした。
「緊急事態にでもならない限り探しに来るなと命じたはずだぞ、副官!」
  興を削がれたため些か機嫌が悪い。下馬すると副官は敬礼をして報告をする。
「その緊急事態です。北朝がロゼフに対して宣戦布告をしたとのことです」
「……それのどこが緊急事態だ。ったく、そうなることは端から分かってることだろう」
  苛立たしげにポケットから葉巻を取り出し指先で火を付ける。三度ほど吸い気分を落ち着かせる。気分を害されたことは間違いないが、司令官に報告して然るべき情報なのだ。
「それでムシュウの兵力に変化があったのか?」
  男――フレイオス・バルディアは煙草入れを副官に差し出す。恐縮しながら受け取る。
「ありません。斥候からは静かなものだ、とのぼやきまで付くほどです」
「まぁ、そうだろうな。連中は南に対する備えだ。俺たちが動かなければ動かんだろう。リーズの動きは何か情報が入っているか?」
「特には。本国からの命令もありません」
「現状維持。隙あらばムシュウを奪え。そうでなければ現状維持。つまらん役目だ」
  好戦家として知られるだけあってフレイオスはラメルに着任して以来、何度もムシュウに対して挑発を繰り返してきたが全く効果がなかった。
  むしろ、自分たちの挑発を士気高揚の種に使っていたほどだ。
  麾下部隊の将軍たちの一部には無理攻めを主張する者もいたがフレイオスは無視をした。ムシュウに篭もった敵を攻めるのは無意味であるし、何より彼は戦好きでも負け戦は好きではないのだ。
  そのため、本国が期待したとおりにフレイオスはラメルに腰を落ち着けていた。
  彼は義弟の置き土産――兵士たちを慰安を委託する業者を活用し、時には自らが主催して剣闘士大会を開催したりして士気の維持に務めていた。
  特に剣闘士大会は有効であった。優勝者を自身の従兵にしたのだ。有力な将軍の従兵となることも出世の糸口となる。貴族は無理でも士族への道は確実に開けるからだ。
  そうやって新たに取り立てた優勝者は他の従兵と共に近くの拠点でテントの番をしている。剣の腕は立つようだが、その他の面では余り役に立ちそうにない。
  適当な頃合いを見て他のヤツの従兵にしてやろうとフレイオスは考えている。
「将軍たちはどうしている?」
「いつ本国から進軍命令が来ても言い様にと兵たちを鼓舞しております」
「……迷惑な話だ。北朝が大敗北でもせん限り本国から進軍命令は来ないってのに」
  漁夫の利を得られると見込んだからこそ、本国はラメルへの派兵を決めたのだ。リーズからの働きかけがあったからこそ、”彷徨う者”の討伐という欺瞞を用いてまでラメルに部隊を進めてその準備をしていたのだ。
  その予定が崩れた今、王宮では責任問題や事後処理をどうするかで紛糾していることだろう。その一環でバルディア家、ロジェスト家を追い落とす策謀も展開されて、訳の分からないことになっているとも耳にしている。
  この内輪もめに北朝が一枚噛んでいないとは言い切れない。
  何はともあれこんな国内情勢で事を構えて勝てるほど北朝は弱体化してはいない。それだけは明確だ。
  国内外の状況がどうであれラメルにいるフレイオスには口の挟みようのないことだ。
「将軍たちは放っておけ。命令なく動けばどうなるかサイファたちの一件で十分に思い知っている。それでも動いたら責任を持って潰すよう副将には命じている。騒ぐほどのことでもない。そんなことよりもだ」
  フレイオスはそう言って副官の肩を叩いた。
「お前、ここに来る途中にこれぐらいの大きさの巣穴を見なかったか?」
  もはや、武人としての彼はいない。動物学者としてのフレイオス・バルディアになってしまっている。副官は内心でため息を漏らしながらこれまでの道程を思い出すことにした。
  フレイオスが両手で作った輪よりももう少し小さな穴があったのを見かけたような気がした。
「巣穴だとは断言できませんが、小さな岩の側にそれらしいものがありました」
「でかしたっ! すぐにそこまで案内しろ」
  喜色を一杯に表しながらフレイオスは副官を促した。まさしく意気揚々である。
  フレイオス・バルディアは武人としての名が大きすぎて、あまり世間では知られていないが動物学者たちの間では馴染みのある人物であった。忍耐強い観察で数々の発見をし、出征先にて新種を発見することもあった。
  ラインボルト、ラディウスの係争地であるラメルに調査団を派遣することは両国間の緊張を不必要に高めるとの理由で行われてこなかった。
  そのため、ラメルには未発見の種が数多く棲息している。
  戦好きである彼が閑職に進んで手を挙げたのは義弟可愛さだけではないということだ。
「閣下、軍務中にこのようなことをすれば監察官殿に何を書かれるか分かりませんが」
  フレイオスの副官に付いてから何度目か分からない諫言を口にした。
「気にするな。これも貴族の嗜みというものだ」
  文化、芸術、学術に私費を投じるのは嗜みといえる。しかし、学者や技能者を後援し、その成果を楽しむのが一般的だ。フレイオスのように自ら学究の徒になることは珍しい。
「妻が植物学者をやってるんだ。夫がそれに付き合わない訳にはいかんだろう」
  フレイオスの妻は自宅で植物園を作り、自ら野山に向かって草花を採取するほどの行動力の持ち主だ。まだ婚約者でしかなかったフレイオスに如何に研究と観察が面白いのかを語り、ついには将来の夫を学究の徒にさせたのだ。
  そのせいか夫婦仲は至って良好。ただし、世間では尻に敷かれていると表現されるのだが。
  副官が見付けた穴は間違いなく巣穴であった。フレイオスは歓喜し、調査を始めた。
  巣穴の主は出かけたままのようだ。岩の上を調べるとそこには動物の糞がある。
  その糞から植物の芽が出ていることを見付けた。自分の仮説が当たったことに歓喜したフレイオスは副官の背を叩き、「褒美に俺の手料理を食わせてやろう」と言った。
  手料理といっても干し肉を焚き火の炎で炙るだけなのだが。
  この後、フレイオスは副官を引き連れて夜行性の動物の観察を始めることになる。
  副官はなぜこんなことにと思いつつも上官の命には逆らえず従兵のように扱き使われることになるのであった。

 フレイオスは満足げであった。あの後、幾つか新たな発見をしたのだ。これでまた妻に自慢が出来ると。彼の妻は武功をあまり評価しないのだ。
  やがて、肌を振るわせる冷気と深い夜闇を切り裂くような暖かな明かりが見えてきた。
  拠点に到着したのだ。大声で戻ったことを知らせる。それに応えてこちらに駆けてくる人影があった。見知らぬ体格だ。即座にこの人影が何者か察した。伝令だ。
「何事だ!」
  即座に武人としての表情でフレイオスは声を上げた。
「食料庫が焼かれました。お早くお戻りを!」
「どの程度の規模だ」
「およそ半数に火が付けられました。詳しい被害は分かっておりません」
  やられた。ラメル駐留軍を実力でもって廃除できないのならばこういった工作を仕掛けてくるのは当たり前だ。当然、フレイオスもその点で警戒を怠っていない。
  兵に警戒を厳重にするように言い聞かせている。それでもこの結果である。
「すぐに戻る。撤収の準備を始めろ! 貴様はこれから渡す書状をもって国境周辺の食料品を買い集めろ。すぐに増援を送る」
「了解しました」
「よし、行け!」
  伝令が走り去る背を眺めながら思考を巡らせる。
  今のところ、これ以上の手は打てない。本国に送る報告書の文面を考えながら、フレイオスは従兵たちの撤収作業を眺めているしかなかった。

 急ぎ駐留地に戻ったフレイオスは辺りに漂う臭いに眉を顰めた。炎と煤の臭いが漂ってきているのが分かる。副官を引き連れて司令部に駆け込んだ彼に副将は敬礼を送る。
「申し訳ございません、閣下」
  謝意を示す副将を右手で制止すると即座に状況説明を求めた。
「それで状況はどうなっている。かなり大規模にやられたとは聞いている」
「全焼は食料庫三十五、穀物庫五十五、備品倉庫八が全焼。同じ順番で半焼が五十五、六十八、二十一。貯水槽にも穴を開けられましたが塞ぐことに成功しましたが、どれだけ漏れたのかは現在調査中です。また、半焼した倉庫に収めていた物資が使用可能かどうかも現在調査中です」
「……それで全てか?」
「いえ。これは司令部直轄の倉庫です。他の部隊にも損害が出ているとの報告を受けております」
「ここまで派手にやられるといっそ清々しい気分になるな、おい」
「全くです。物資の補充のことを考えればそれどころではありませんが。すでに兵站に指示をして物資の調達を開始しております」
「俺の方からすでに国境周辺の町村から物資提供するように伝令を送っておいた。兵站にそのことを伝えておいてやれ」
「了解しました」
  副将は側に控えていた司令部課員に頷いてみせる。課員はすぐにその旨伝えに走っていく。
「半焼したものも全焼したと仮定した場合、ラメルで駐留を続けることは可能か?」
「厳しくはありますが可能ではあります。これまでの朝夕二食を一食に変え、品数も減らせば新たに物資を調達するまで持つと兵站部は申しております。ですが……」
「兵たちの士気が激減することは避けらんか」
  このような何もなく過酷な場所で軍を軍たらしめ続けることは非常に難しい。士気と軍規の維持にフレイオスをはじめ司令部は細心の注意を払っていた。
  食事に不満が出ぬように出来るだけ温かな食事を用意し、芸人や女を呼び慰安させる。
  他にも様々な鬱憤晴らしを企画して、この地での駐留を維持し続けているのだ。
  そのためにバルディア家が投下している資金は決して少額ではない。
  そこまでして維持し続けていた士気はこの一件で一気に激減することは間違いない。
  盛大に燃え上がる倉庫と立ち上る煙を見た兵たちは間違いなくこの荒涼たる大地に恐怖を覚えるようになる。そして、減らされた食事がさらに兵たちを追いつめる。
  何もないラメルでは食料と水を失うことは死を意味するのだ。細いながらも命脈が保たれていたとしても全ての者がその恐怖に耐えられるものではない。
  一人が逃げ出せば、後は雪崩のように脱走が続出するようになる。脱走は死罪だ。
  当分の間、断末魔の声が消えることはないだろう。
「部隊の半数を帰国させることを提案いたします。そうすれば残留部隊は食料に事欠くことがなくなり、士気低下を最低限に抑えることが出来るはずです」
「現実的で諸手をあげて賛成したいところだが却下だ。俺たちは死守命令を受けている」
  別命あるまでフレイオスらはラメルを維持することを命じられている。例え全滅すると分かっていても維持し続けなければならないのだ。
  これはフレイオスがラディウス軍内部で煙たがられているからではない。政治的な要請なのだ。
「もし、一部でも帰国させればラメルへの再出兵は不可能になる。サイファが”彷徨う者”討伐で国境を越え、俺たちは北朝のゴタゴタの隙をついて交替した。さすがに次はない」
  すでにラインボルトは後継者の下で結束をしている。戦時中の今なら尚更である。
  そして、兵力の交替をしようとすれば間違いなくラインボルトは動く。リーズが静観している今、戦端を開くのは得策ではない。
「兵を帰国させるということは俺たちにとって兵の戦死と同義だ。副将、分かるな。……兵たちの鎮撫と脱走の監視その他諸々の策を立てろ」
「ですが!」
「すでに命令は発した。すぐに取りかかれ」
「……承知いたしました」
  敬礼をし、すぐにその策を立てるために駆けだした副将の背を見送り、フレイオスは自分の執務室に向かった。扉を閉める。執務室の片隅には動物学者としての彼が存在している。そこに採取物や手帳などを放り投げる。
「…………」
  手で顔を覆いながら大きく息を吸う。
  その間に倉庫に火を放った者、この一件を利用して自分を追い落とそうとする者、そしてラインボルトの後継者を丁寧に惨殺する。何度も、何度も……。
  そして、深く息を吐いた。退けられた手の下からは幾分血走った目が現れる。瞬き一つで完全にフレイオスは平静を取り戻した。
  失敗如きで荒れるのはバルディア家に連なる者に相応しくないと父に教えられた自身を律する方法の一つだ。
  深呼吸する間に自分の邪魔をした者を惨殺することを想像せよ。そしてその後は忙しさに身を投じるのだ、と。
  フレイオスは本国に送る報告書、始末書を認めることから始めた。将軍たちが苦言を聞かせに来るまでの暇潰しになる。
  苦虫を噛み潰した表情を隠さずにフレイオスはペンを走らせるのであった。

 ラメルでの事件はアスナの耳にも届いていた。
  駐留しているラディウス軍を監視していた第三魔軍からの報告だ。
  軍と外務省の担当者を自分の執務室に集めて説明を求めていた。アスナにとっても寝耳に水の話だったのだ。
「つまり、両方とも知らないし、やってもいないんだな」
「はい。撤退要求以上の刺激をラディウスに与えるべきではないというのが外務省の見解です。自らそれを崩すようなことはありえません。何よりこんな大がかりな工作を行える機関を我々は擁しておりません」
「軍も同様です。南の北進にはムシュウにいる軍勢で十分に抑えることが可能と判断しています。第二魔軍到着後はさらに堅固な守りとなります。かといって南が全力で動けば抗しきることは難しいのです」
「まっ、そうだろうな。ロゼフに全力を向けてるのに別の所にまで手を出すなんてバカはいないし。この件でラディウスが逆恨みして攻めてくる可能性は?」
「それを防ぐために工作を行うことを提案します」
  とは外務の担当者である。続ける。
「恐らく彼らにとって我が国が第一の容疑者となり、近日中に詰問の使者がエグゼリスに訪れると思われます。その際に今回の不幸を悔やむ言葉を送り、食料を援助するのです」
「つまり、食い物やるからその代わりに撤退しろっていうんだな」
「いえ、この件では援助を申し出るのみです。戦時中であるにも関わらず、背後で不法占拠を続けるラディウス軍に無償支援を申し出る。それを各国に喧伝すれば当事者であるラディウスはどう思うかは別として第三国はラインボルトの工作であるという印象は薄れるはずです。それでもラディウスが動けば周辺諸国からの支援を受けやすくなります」
  アスナは一つ頷くと軍の担当者を見た。無表情だがどこか不満げな雰囲気を感じる。
「これは軍にも関わることだから両者で相談してから改めてオレの所に持ってきて。……この話は外務卿やシエンは知ってるの?」
「いえ、……私の独断です」
「それじゃ、まず上司と相談するように」
「申し訳ございません」
「悪い案だとは思わないから、しっかりと相談して欲しい」
「はい」
  恐縮する外務担当者にアスナは頷きかけると、
「それじゃ、二人ともご苦労様」
  失礼します、と退室した二人を見送ったアスナは革張りの椅子の背にもたれ掛かりながら右手に机を構えるエルトナージュを見た。
「犯人がどこの誰か分かる?」
「ラディウス、リーズ、ロゼフ。どれもありそうで決定打に欠けます。だから、まずは身内を調べましょう。軍と外務省以外でこんなことが出来るのは」
「LD、か」
  如何にもやりそうだなぁと苦笑しながらアスナは執事にLDを呼びに行かせた。
  程なくして姿を現したLDは微苦笑を浮かべながら、
「ラメルの件なら私ではないぞ」
「さすが、耳が早いなぁ」
「今、軍と外務省はその件で大わらわだよ。むしろ、私も彼らと同じように困ったことになったと思っているところだ。まったく勝手なことをしてくれる」
「勝手なことをしてくれる、ですか。命じたのは貴方ではないけれど、誰がやったのか見当は付いているということですね?」
  と、エルトナージュは尋ねる。
「アルニスだ。彼の手駒が勝手にやったことだよ」
  LDは勝手に執務室に用意された茶器で自分の分のお茶を煎れる。
「はぁ? あの人、そんなの持ってたのかよ」
「どこで知己を得たのかは知らないがガレフと同じような連中だ。実力の程はこの通りだよ」
  ついでに二人のカップにも注ぐ。そして、菓子の用意も始める。ここで一服するつもりのようだ。
「ラメルで行ったことは言ってみれば私たちに対する売り込みであり、手土産代わりだ。君に呼ばれる直前に連中の代表者が私のところにきて雇ってくれと言ってきたよ。ご丁寧にもアルニスの紹介状まで携えてきたよ」
  やれやれだ、とLDは小さく首を振った。事実のもみ消しをどうするかで頭が痛いのだろう。この銀髪の軍師はすでにどのような応急処置をするか命じているだろうが、それだけでは足りないとも考えているのだろう。
「……LD。ガレフとは初めて聞く名ですが何者なのですか?」
「そういえばエルにはまだ話してなかったっけ。LDが組織ごと抱え込んだ非合法組織だよ。相応の金さえだせば暗殺、密輸、情報収集なんでもやってくれる。オレのこの傷を付けたのも連中だし」
  アスナはそう言って服の上から傷に触れた。目を見開き、腰を浮かせたがゆっくりと息を吐いて彼女は再び腰を落ち着けた。
「時々、アスナが真性のバカなんじゃないのかと思うことがあります。良く平気でそんな組織を抱え込むことを了承しましたね」
「まぁ、良いじゃない。色々と役に立ってくれてるしあの暗殺未遂事件の時に助けてくれたのはその組織の一員なんだし。あれで帳消しだよ。後は得をするだけだ」
「その底抜けに他人を信用する癖に今更何も言いませんが……」
  エルトナージュは瞳に力を込めてLDを見た。
「その組織、信用できるのですか?」
「連中は私との契約を破ったことは一度もない。私にとってはそれで十分だ」
「そうですか。責任は貴方が取るというのならこれ以上は言いません」
「もちろんだ。紹介者である以上、最後まで責任は持つ」
  強い口調で請け負うとLDはお茶を口にした。
「話を元に戻そう。雇い主の意向を聞いておきたい。彼らの望みはガレフたちと同等の権利を得ることだ」
「……その前に聞いておきたいんだけどさ、同じ様な組織が二つもあったら縄張り争いみたいなことが起きる可能性はないのか?」
  後継者をやっていてその大変さを十分以上に実感しているだけに気になるのだ。
「そうならないよう調整するのも私の仕事だ。それにこの時点で諜報、工作能力を向上できるのはありがたい。サベージでの調査が順調ではないからな」
  五大国揃って慌ただしいなぁ、とアスナは思った。
  サベージもロゼフとの戦争に一枚噛んでいる。
  ロゼフに物資を主として供給しているのはサベージだからだ。正確には天鷹族、聖虎族の息のかかった業者が行っているのだ。
  その情報をつかんだラインボルトはサベージ政府に対して物資の供給停止を要求するが、政府は「特に違法行為を行っていない以上、政府が口を挟むことは出来ない」と拒絶をした。だが、そんなことはない。紛れもない戦争協力である以上、何かしらの政治的な意図が絡んでいてしかるべきなのだ。
  このサベージの返答にラインボルトはリーズ、ラディウスの意志を反映してのことだと判断した。また、ラインボルトが弱体化すればサベージ国内の勢力図も変わる。
  それを見込んで裏から商人たちを動かしているのだろう、と。
  しかし、状況はサベージの目論みから外れつつある。
「最近、ロゼフに物資を供給している商人たちが頻繁に天鷹族、聖虎族の有力者と接触を持ち始めている。
  商人たちも無償でロゼフに物資を提供している訳じゃない。物資の対価として多額の債権を有している。その額は相当なものになっているはずだ。
  もし、当初の思惑通りならば多大な利益を得ていただろうが現実はこの通り。ラインボルトは断固たる処置をとり、リーズ、ラディウスは動いていない。このままではロゼフの滅亡は間違いなく、商人たちの債権はただの紙切れとなり共倒れだ」
「そうならないようにサベージが仲裁に乗り出すかもしれないのか」
「その通り。最悪の場合には参戦もあり得る。あまりにも数字が大きすぎる。もし、債権が焦げ付けばサベージは不況に突入だ。彼らにとっても死活問題なんだよ」
「……迷惑な話だな。儲かるからって首を突っ込んで、勝手に自爆して。ホントに迷惑な話だ」
「かといって放置して良い話でもありませんよ」
  と、エルトナージュ。
「そこでこの問題がサベージの有力者たちによる指示であると白日の下に曝し、その後でその商人たちをロゼフ復興計画に参加させることを提案する。これは長期計画なので資金繰りを何とかすれば倒産することはないだろう。もちろん、この提案で全ての損失を埋めることは出来ないがな。そこは自己責任というものだ」
「それでサベージが引き下がるでしょうか」
「主立った商家が一斉に倒産するよりもましだろう。それに商人と有力者の繋がりを公表すれば、参戦の大義名分は立たない。有力者や商人の利得のために戦争することほど馬鹿馬鹿しいこともない。ガレフたちにその工作を任せようと考えている」
「……分かった。今度の占領統治検討会議でその提案をして」
「無論だ。それで彼らを雇うことを了承してくれるのだな」
「う〜ん……そうだな。さっきのLDの提案が会議で了承されたら正式に雇っていいよ。今は仮契約ってことにしておいて。それから、連中に二度と勝手なことをさせないこと」
「了解だ。……では準備を始めよう」
  そう言ってLDはお茶を飲み干し、退室していった。いつものように茶菓子はなくなっている。
「リーズ、ラディウスにサベージと。これでアクトゥスまで絡んできたどうなることか」
「さすがにそれはないでしょう。むしろ、これだけ大変な状況ですから何らかの恩を売っておきたいと考えているかもしれません」
「そうだと良いんだけど。まっ、ちょっかい出してきた時は何かしら考えれば良いか」
  脳天気とも言える結論だが、今のところこういう姿勢でいるしかないアスナなのであった。

 ロゼフでの政治的な勢力図が大きく変化すると思われたが、誰もが想像していたような激震が起きることはなかった。ラインボルトが最大限の譲歩を示した最後通牒を無視した責任は当時の外務大臣ネレス一人に負わせることで決着が付いた。
  大臣職にあるものはいつ何時であろうと謁見を願い出ることが出来る。それをしなかったのはネレスの怠慢であり、王がそれを知り得なかった原因は彼にあると。
  宰相コワレスは自ら手を回してネレスの謁見を妨害していたことを棚に上げて彼を攻撃した。そのコワレスの攻撃は罪から逃れるものであることは誰の目にも明らかであったが、戦時においては不用意に宰相を変えるべきではないとする意見が後押しとなり、この無理な主張が通ることになった。
  また、コワレスは揺らいだ自身の地位を盤石なものとするために大貴族に多額の金をばらまいた。そして、大貴族たちに改めてコワレスを信任するように王に迫らせた。
  しかし、それが砂上の楼閣でしかないことを彼は自覚していた。
  宰相の地位にいられるのは戦時だけ。戦後になれば必ず突き崩されてしまう、と。
  だから、彼は自らのためにもラインボルトに勝たねばならない。少なくともロゼフ優位で講和を結ぶ必要がある。
  そのためにもコワレスは積極的に援軍要請の使者を各国に送った。リーズやラディウスだけではなくサベージやアクトゥス、ともにラインボルト侵攻を誘った中小国へも積極的に使者を送った。だが、望ましい返事はなかった。
「なぜ、リーズは動かん! この話を持ち込んできたのはリーズではないか。ムイス、どうなっているのだ」
  新しい外務大臣ムイスは申し訳なさげに、
「こちらも必死に説得しておりますが、梨の礫で」
  歯ぎしりをするコワレス。自分を見る閣僚たちの視線に気付き順番に睨み返してやる。
  言葉ではない分だけ彼らの目は雄弁である。
  状況を省みず屈辱的な譲歩を繰り返していたラインボルトを足蹴にしたのは貴方ではないか、と。露骨な責任逃れの件もあり、批判の視線は色濃い。
  では、その時お前たちはどうだったのだ、とコワレスは叫びたかった。
  確かにラインボルトとの交渉内容は部外秘として彼らには概要しか説明しなかったが、それでも知っていることに変わりない。その時、誰一人として講和を主張する者はいなかった。それどころか自分と同じように早期講和を口にしていたネレスらを弱腰だと突き上げていたではないか。
「…………」
  だが、彼にも分別はある。ここで喚き散らしたところで事態が解決するわけではない。
  ラインボルトは武力だけではなく徹底した外交的な攻勢にも出ている。此度の戦争にくちばしを挟む可能性のある国全てに対して口を挟まないよう要請している。
  対ロゼフ宣戦布告に至る経緯の公表はここでも利いている。宣戦布告は相手国に開戦を通告するだけではなく、自国民や第三国に特定の国家と戦争状態に突入したことを知らせることも目的としている。
  中立国はラインボルトに硬軟取り混ぜて念押しされ、この宣戦布告で仕上げられている。
  好意的解釈をしようにもロゼフ側に非があるのは間違いない。
  どの中小国であろうと本格的にラインボルトと事を構えたいと思っていない。ラインボルトに匹敵する大国が旗頭にならない限りは。
  だが、現実はそうではない。大国は全て沈黙を続けている。アクトゥスに至ってはラインボルトが援軍を要請すれば派兵もやぶさかではないとまで言っていると聞く。
  ラインボルトはこの申し出を丁重に断ったが中立国の参戦を躊躇させるには十分な効果がある。恐らくアクトゥスも本格的な参戦をするつもりはないだろう。
  自分たちの好意を示す良い機会だとしか考えていないはずだ。
  リーズ、ラディウスが動かないのであればサベージを引き込むしかない。彼の国は此度の戦争でロゼフに軍需物資の提供を続けている。もし、ロゼフが幻想界の地図から消え去れば彼らの手に残るのはただの紙切れだ。さらにサベージを此度の戦争に引き込むためにも債務を膨らませる必要がある。そのためにもまず……。
「まずは一つでも勝利を得ることが必要のようだな」
  腕を組み沈黙をしていた初老の男が口を開いた。ロゼフ軍総帥レゼント将軍だ。
  王とは外戚関係にあり、軍だけではなく貴族たちにも影響力のある人物だ。
「我らだけの力で勝利を得ねば、誰も手を貸そうとは思うまい。小さなものでも構わない。勝利を積み重ねれば状況は自ずと好転するだろう」
「では、将軍。何か策があると?」
「無論。まずはワルタに展開している全部隊に本国への転進を命じる。この際、ワルタ市を焼き払っておく。本国へと侵攻してきたラインボルト軍を隘路に誘い込み各個撃破するのだ。兵站線も断絶すればラインボルトの進軍を止めることが出来る」
  この策は特に目新しいものではない。拡大王ルーディスの侵攻を押し止めた時に用いられた策だ。有効な策であることはすでに実証されている。
  しかし、レゼントは大臣たちから昂然たる反対を受けた。当然だ。この策が全て上手くいったとしてもワルタ市を焼き払う以上、ラインボルトは撤退時にその報復として占領地域を焼き払うことは間違いない。それも歴史が証明している。
  貴族たちにとってとても許容することは出来ない。列席する大臣の中にはそれらの地域に領地を持っている者もいる。当時の事はある程度の誇張も含めて彼らにも伝わっている。
  会議場は怒声で溢れた。ワルタを焼くために軍の派遣を決定したのではないぞ、と。
  反対の渦に放り込まれたレゼントは再び黙り込んだ。コワレスは彼の態度に疑問を覚えた。このような事を言えば反対されることは目に見えている。
「では、次善策を提示しよう。領兵の投入を提案する。諸卿らの同意を得られればすぐにでも陛下に勅許を願い出よう」
  領兵とは貴族たちの私兵のことだ。領兵に対する命令権は貴族にあり、例え王といえども直接命令することは出来ない。
  だが、例外もある。戦時においては領兵を国軍に編入することが可能なのだ。
  その際に必要なのは王の勅許と貴族たちの同意だ。領兵は貴族たちの権力の源泉の一つであるため、纏め上げればそれなりの軍勢となる。
「…………」
  しかし、諸手をあげての賛意はない。唸り声が上がるばかりだ。領兵の維持費は貴族持ち。戦争に投入するとなれば、貴族たちも相応以上の持ち出しをしなくてはならない。それが嫌なのだ。
「将軍、領兵を投入せずに済ませるために国軍があるのではないか。ワルタには増援を送った。これでどうにかなると思うがどうだろうか」
「私は万全を期すためにこのような提案を諸卿にしたのだ。現にロゼフのディーズ将軍からさらなる援軍の要請が来ている。単なる杞憂ではないと思うが?」
  反論の声はない。しかし、無言の反感はある。
  ここまでか。コワレスは一同を見回し、
「今日はこれまでとしよう。これまで通り各国の参戦を促し、領兵の投入が検討されていることを諸卿にそれとなく伝えておく。これでよろしいな」
  諸大臣らは頷いた。どれも不承不承といった風情だ。コワレス自身も領兵の投入には反対だ。しかし、自分の保身を考えれば是非もない。
  どのような形であれ勝利しなければ、彼の政治生命は終わってしまうのだから。

 第二魔軍司令官代行ファレスがエグゼリスを発ってから十日が過ぎた。彼女と入れ替わるように一人の老将が少数の護衛を従えて首都エグゼリスに戻ってきた。
  ラインボルト軍総帥であり、第一魔軍司令官ゲームニスだ。アスナの「部隊は予定通りで良いから大将軍は急いでくるように」との命に応えてのことだ。
  帰京した旨を関係各所に伝えると二時間後に登城せよとの指示が出された。
  ゲームニスはエグゼリスに与えられた役宅で汚れきった身体を清め、礼装を身に纏って登城した。幾らか疲れがあるが、それが今は心地良い。
  ここ最近は書類仕事に追われて身体を動かす機会がなかったからだ。老いたりとはいえ、ゲームニスは現役の将軍であり、人魔の規格外なのだから。
  半年以上ぶりに王城に登ったゲームニスは城内の空気が変わったことに気付いた。
  活気に満ち満ちているのだ。戦時故の慌ただしさとは違う、若者の持つ幾らか危なっかしい溌剌さを感じさせる。
  ……城は生き物とは良く言ったものだ。
  口端に彼は小さな笑みを浮かべた。王城の主が変わっただけでこのように様変わりしたことは自分が流れにおいていかれたような寂しさと、新たな主への頼もしさを実感するに十分だ。
「無事のご帰京、お喜び申し上げます。大将軍閣下」
「久しいな、ストラト殿。壮健であったようで何よりだ」
「ありがとうございます」
  ゲームニスを迎えたストラトは一礼して控え室へと案内する。アスナとの面会時間よりもまだ二十分ほど早い。控え室に通されたゲームニスはストラトを相手に時間を潰すことにした。話題は全く差し障りのないことばかり。
  ストラトの家族は壮健であるか、イクシスはどうした、ロディマスは元気であるかなどゲームニスにとって身近な者たちの近況を尋ねることが主であった。
  言葉が切れる。ゲームニスは窓の向こうに見える晴れ渡った空に目を向けながら、
「王城は随分と空気が変わったな。先王陛下の御代はどのような時でも平静さを保っていたものだ」
  それは泰然自若とした巨木がそこにあるような空気だった。慌てることを知らぬかのような落ち着きのある先王アイゼルの下、宰相デミアスがしっかりと政府や名家院を掌握していた。大きな変化はなかったが当時のラインボルトは盤石の言葉が相応しい。
  当時を覚えているゲームニスからみれば、今の王城はなんと慌ただしいことか。
「王城を変えたのはひとえにアスナ様のご人徳の賜物でありましょう。次代の魔王として頼もしい限りでございます」
  ゲームニスは頷いた。
  勝利者の絶大なる権威を振り回してアスナは見事に内乱後の混乱を最小限で抑え込んだ。実を言うと彼の予想ではここまで落ち着くには早くても二、三年はかかるだろうと思っていた。それをこの短期間に収めたのだから立派だとしか言い様がない。
  幾ら勝者の権威があり、LDの補佐と助言があったとしても容易ではない。アスナが今の状況にまでラインボルトを導けたのは諸大臣や官僚、武官たちを働かせたからに他ならない。
  世に官僚ほど扱い難い者はいない。選良者であることや与えられた権限の大きさから驕り、上から命令を出しても動きが緩慢であることは良くある。省庁や部署の縄張りを意識しすぎて物事が上手く進まないなどもそうだ。
  内乱の事後処理ともなればこの縄張りという存在が一気に噴出する。一つの事案を片付けるために官僚が揉めて時間のみが空費しても全く不思議ではない。
  これらが表立って問題にならなかったのは外敵の存在が大きい。アスナはその点を殊更に強調していたという。当人は意識していないだろうが国家的な危機感は官僚たちの尻を叩くに十分だ。また、内圧としてLDの存在もあげられる。
  LDは処理の遅い事案について口を挟んだのだ。自分たちの仕事に介入され反感を覚えるが、後継者の代理人のように扱われるLDに対して無茶なことは出来ない。かといって怠業でもしようものならすぐさまアスナの名前で公職から追放、つまりクビにされてしまう。内と外からの圧力に官僚たちはそれこそ馬車馬の如く働いた。
  巧みなのはここからだ。鞭を与えると同時に飴もアスナは用意していたのだ。
  何かしらの成果を出した者には直接、もしくは上司を通じて間接的にお褒めの言葉をおくったのだ。官僚たちにとってはこれは大きい。
  今後の昇進や昇給に影響を与えるであろうし、上手くすれば次代の魔王と直接結びつけるかもしれない好機だからだ。信賞必罰を徹底したとも言える。
  これは近衛騎団での経験であろうし、LDの入れ知恵でもあろう。だが、これを実行したのは間違いなくアスナ当人なのだ。
  この方針は当然ゲームニスにも適用される。”彷徨う者”の討伐とその後のラディウスへの牽制役で内乱に関与しなかったことは相殺されるだろう。
  となればアスナがゲームニスをどう評価するかは今後の働き次第となる。
「大将軍閣下。お時間です」
「うむ」
  ストラトの先導で案内されたのは後宮の奥にある庭園だった。魔王が誰の目も気にせずに憩えるようにと作られたそこはラインボルトの主だけの場所としてはかなり狭い――が、それでも十分に散歩を楽しめる程度には広い、庭園だ。
  腕のいい庭師に手入れされているためか片田舎の長閑な雰囲気を草木が演出している。今日のような暖かな日和ならば庭に揺り椅子を出してうたた寝をするのも良いだろう。
  久方ぶりに訪れるこの庭園にゲームニスは目を細めた。先王が存命であった頃、何度かここに招かれてとりとめのない四方山話をしたものだ。
  王城の空気が変わってしまってもこの庭園だけは変わってはいないように思えた。それがゲームニスには嬉しかった。
  庭園の草木を縫うように通された小径の先には小さな東屋がある。
  コンコンッとストラトは東屋の扉をノックする。返ってきた入室の許しにストラトは扉を開けた。
「失礼いたします。大将軍閣下をお連れいたしました」
  一礼するストラトにアスナは「ご苦労様」と労いの言葉をかける。
  エルトナージュとLDもこの場に同席を許されている。
「ゲームニス、お呼びにより参上致しました」
「うん。久しぶり、大将軍。コルドン以来になるな」
  近衛の第一種礼装で身を包んだアスナは隠すことなく喜色を見せた。着慣れない礼装を着ているのはゲームニスに合わせてのことだ。
「はい。その節に働いた無礼お許し下さい。また、その後のご高配心より御礼申し上げます」
  ご高配とはゲームニスの大将軍留任だけではなく、フォルキスの助命や孫娘のマノアからの手紙を取り次いでくれたことだ。
  最敬礼をする老将にアスナは大きく頷いてみせる。堅苦しい礼はここまでだと言うようにゲームニスに席を勧める。腰を落ち着けたゲームニスにエルトナージュがお茶を差し出す。柔らかい香りが湯気とともに立ち上る。感謝の一礼をする。
「アスナ様の寵姫になられたと伺いました。おめでとうございます」
「はからずもそういうことになりました」
  と、エルトナージュは微苦笑を浮かべた。
「はからずもって、酷いなぁ」
「当たらずも遠からずだと思いますが?」
  やれやれと肩をすくめるアスナとエルトナージュの間にある空気に妙な軋みのようなものは感じられない。好ましからざるやり方でエルトナージュが寵姫になったのではないと分かり、誰にも分からないようにひっそりと安堵した。
「LDも壮健でなによりだ。まさか貴殿がアスナ様に雇われるとは思わなかったぞ」
「私も姫君同様にはからずもということだ。アスナに扱き使われているよ。戦いには何があろうと負けるべきではないな。そのことを身を以て実感しているよ」
「はははははっ。となれば私もアスナ様に便利使いされるということですかな」
  そういってゲームニスは本題に入るように促した。四方山話はその後でも十分に出来る。
「そうだよ。大将軍には当分の間、隠居して庭いじりなんてさせるつもりはないからな」
  アスナはニヤリと笑うと姿勢を正した。
「噂には聞いてるだろうけど、大将軍にはロゼフに止めを刺してもらうことになる。本当だったら総軍を任せて全体を統括してもらうつもりだったんだけど時間の問題とかまぁ、色々で出来なかったけど、その辺りのことは大将軍の権威とかで何とかして欲しい」
「承知いたしました」
  アスナの言うとおり時間や投入できる兵力などによって総軍を編成出来なかったのだろう。しかし、恐らく最大の障害となったのは参謀本部の横槍だろう。
  軍での主導権を握りたい彼らがゲームニスが総軍を率いてロゼフを制圧することを嫌ったのだろう。役割ごとに方面軍を編成することで武功と名声をゲームニス一人に帰することを防いだのだ。そうなれば全体の作戦を立案した参謀本部の名声が上がることになる。
  腹立たしいことではあるが、許容することは出来る。軍事戦略を立案する彼らにも相応の権威が必要だからだ。むしろ、これまでないがしろにされる傾向にありすぎたとも言える。が、それとは別で大将軍たる自分を蚊帳の外にされたのは面白くはない。
  だが、大将軍たる分別をもって表情には出さない。アスナたちは何かしら察しているような雰囲気だがそれに言及せず、別の話をふった。
「細かいことは後でLDに話してもらうとして、一つ大将軍に相談したいことがあるんだ」
「なんでしょうか」
「人事の相談なんだけどさ……」
  そう切り出したアスナは自分の考えていることを話した。
  ゲームニスはそれを黙って聞きながら、やはりアスナは変わったと思った。
  それを成長と判断するかは見る者によって変わるだろうが間違いなく果断さが増している。初対面の当時は歯を食いしばって前に進もうと足掻いているように見えたものだ。
  内乱での戦いとその後の処理、そして今日に至る様々なことがアスナにそれを持つことを強く要求したのだろう。
「それは決定事項なのでしょうか」
「まだ、そこまではいってない。ただ、そういうことを考えているってだけ」
「なるほど。……後任は誰をお考えになっておられるのですか?」
  アスナは後任の名前を告げた。
「妥当な人選ですな。しかし、彼を北に向けることは些か酷ではあります」
「うん。だから、南に向ける。二人にはまだ話していないけど、悪くはないと思う。大将軍の意見は?」
「……アスナ様の考えに賛成です。妥当であってもそれで当人たちが納得するとは限りませんが」
「そこはオレの役目かな。将来のためにもやらないといけないし。まっ、大将軍に賛成して貰えて良かったよ。自信を持って話が出来るし」
「なによりです。ロゼフとの戦が続いている間に人事異動を行われるのでしたら私がお預かりしましょうか? あれにとっても良い経験になるかと」
  それに誰も部下として使いたがらないだろうとゲームニスは思う。それに彼にも責任の一端を負う義務があるのだから。
「ん。分かった。その時になったら大将軍にお願いすることにするよ」
「はっ。承知いたしました」
  一礼するゲームニスにはアスナは大きく頷くと掌を一つ叩いた。
「小難しい話はこれで終わり。昼ご飯にしよう」
  呼び出しのベルで控えていたストラトを呼び会食となった。
  その後、ゲームニスの武勇伝やエルトナージュとの昔話などの四方山話に花が開いた。
  先王の頃のように主君とこのような席を与えられる自分は果報者であると思うゲームニスであった。



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