第四章
第二話 対ロゼフ戦争 ワルタ市へ
箒で枯れ葉を掃くようにホワイティア率いるワルタ方面軍はワルタ市から二日の距離にあるレルヒと呼ばれる街に集結しつつあった。
この地は広い平野になっている。レルヒ市の周辺では兵たちが大天幕を張って野営の準備を始めている。大天幕の側近くでは食事時を示すように兵たちが昼食の準備をしている姿が見受けられた。立ち上る白い煙と明るい喧噪は戦時の殺伐さとは無縁に見える。
規律は維持され兵たちの身なりにはだらしなさはない。それは連戦連勝であることと潤沢な補給によって実現されている。
輸送されてくる物資は将兵に対してのみではない。レルヒ市の住民たちへの支援物資も含まれている。当面必要とされる食料や医薬品などを満載した荷馬車が姿を現した時、レルヒの市民たちの歓声はラインボルト軍が街を開放したときよりも大きかった。
ワルタ攻略のための後方支援地となったレルヒには幾つもの貯蔵庫が建てられ、運搬された物資は全てここに納められることになる。
軍とレルヒへの物資納入を担っているのは王宮府に属する企業体だ。彼らは商工会議所を拠点として物資の搬入と分配、そしてレルヒ復興の支援を行っていた。
「戦時中、なんですね」
「ん? あぁ、そうだな」
紫煙を吐きながら年長の男が相槌を打った。
「まさに壮観ってヤツだ。どこもかしこも慌ただしいことこの上ない」
年長の男は後輩と同じように商工会議所の屋上の手摺りに身を預けて眼下の情景を見た。
物資の配給を待つ長蛇の列が幾つもある。さらにその向こうには軍の陣地がある。そこでも食事を待つ列があるのだろう。
「老若男女、貴賤に関係なくな。まさに前代未聞の大支援策だよ。内府も思い切ったことをする」
「けど、ここまで大盤振る舞いする必要があったんですか? この調子だとアッという間に王宮府の財布が空になりますよ」
「それじゃ、何か。国民が困ってるのを見過ごせっていうのか?」
「そうじゃなくて、支援の規模が大きすぎるって意味ですよ」
「魔王は自らの庇護に入った者を見捨てないんだよ。国家は法によって動き、王宮府は魔王の慈悲によって動く。入社したときにそう教えられただろ?」
と、年長の男は苦笑を浮かべながら言った。その表情はどこか誇らしげだ。
幻想界広しと言えども自分の財布が空になると分かっていながら国民を救おうとする王は魔王ただ一人だ。後継者がその精神を受け継いでいる人物であることが嬉しかった。
「個人的に言えば腹を空かせて道端で泣いてるガキも、虚ろな目をしている浮浪者も見たくない。ホンの少しの飯のために身体を売る女なんかもっと見たくないね」
戦場でなくとも貧困に見舞われた国では珍しくもない光景。しかし、ここはラインボルトなのだ。魔王の名によって統治される五大国の一つにそんな光景は似つかわしくない。
「俺もそうですよ。そう思いますけど……」
何が言いたいのか察して横目で後輩をみやる。
「給料の心配はしなくても大丈夫だぞ。再就職の心配もな」
「いや、そんな。俺は別にそういうことを」
図星のようだ。今度こそ本当の苦笑が年長の男の顔に浮かぶ。
コイツはあんまり出世しないだろうなぁ、と思ったのだ。
「これも王宮府ならではの商売の仕方だ。炊き出しや怪我人の看護、第二陣以降の物資輸送。ロゼフ軍が撤退の際に放火した建物や陣地の後始末。あぁ、託児所で子どもの面倒を見るのもそうだな。極端な話、敵と戦うことと治安維持と敵味方の戦死者の遺体処理なんか以外の全ての作業をレルヒの市民たちがやってる」
街の景観を美しくするためという名目で箒や雑巾を持たせてまで雇用を創出している。
「王宮府が臨時職員として雇用して、ですね。ただでさえ火の車なのに給料まで払って。やろうと思えば王宮府の職員だけでも出来るでしょうに。ここに乗り込んできたのは彼らを管理する職員とその補佐だけだなんて」
臨時雇用した者たちには日当が出る。得られる賃金は少ないが収入であることに変わりはない。また、彼らにも配給を受ける権利があるため実質的には賄い付きだ。
「だから、それで良いんだよ。お前の言うとおりこれぐらいなら王宮府だけでもなんとかなるさ。けど、それじゃダメなんだよ。俺たちがやってもレルヒの復興にはならない」
年長の男は煙草をくわえながら話を続ける。
「そうだな。あそこで炊き出しやってるおばちゃんたちで例えてみようか。当面の間、食費のことを考えずに済むから貰った給料は全部自由に使える。それを使って衣類なんかの必要な物を商店で購入する。商店は物が売れて利益を上げることが出来る。そして、商店は新しい商品を入荷しようと注文をする。製造元は注文を受けて商品を作る。製造元は商品の材料を買う。最後にその材料を生産する農業、林業、漁業、酪農、鉱業に金が回る。そうやって回った金の一部はあのおばちゃんたちの旦那の給料になるって寸法だ」
支援を受けるだけでは復興は為されない。ただ怠惰になり、支援を受けて当たり前と思うようになるだけだ。そうならないように彼ら自身で復興を行わなければならない。
別の言い方をすればレルヒの市民たちの誇りを復興させているということなのだ。
「それって王宮府が金を流している間だけ有効な一時凌ぎですよ」
「まぁな。けど、それで良いんだよ。俺たちがレルヒを維持している間に政府がもっと大規模な支援策を実行に移すことになってるんだから。政府も無能じゃないんだ。何とかするだろうさ」
紫煙をくゆらせる年長の男の隣で後輩は盛大にため息を漏らす。
「政府の負担は最小限、王宮府の負担は最大限ってことですか」
「結論が早いぞ。俺たちが目指すところは政府も王宮府も負担は最小限だ」
年長の男は人差し指を立てる。
「王宮府が、つまり魔王が私財をなげうってワルタの同胞たちのために支援をしていると聞けば戦争とは直接関係ない国民はどう思う?」
「そりゃ、尊崇の念を新たにってところです。王宮府から給料を貰ってなかったら、俺だって何も考えないで万歳三唱ですよ。今でも給料の心配さえなけりゃそういう気分なんですし」
「だな。そしてこうも思うはずだ。俺たちにも出来る支援をしようってな」
「……あっ」
「分かったか? 近い内に王宮府に国民から献上金が集まり始める。王宮府に金を献上できると知らないヤツなら魔王印を買ってささやかな支援をしようと考えるはずだ。中小の商店もそうだ。普段よりも割り増しで魔王印を仕入れてくれるだろうよ」
魔王印とは王宮府に属する企業体が販売している商品の俗称のことだ。
「献上金と商品の利益からワルタ全地域での支援負担を減らし、ついでに魔王印の商店への出荷量が増えるということは将来に渡って販売量が増加することになる。国民からの支持も得られるから一石三鳥だ」
宣伝効果の大きさに気付いた有力商家が必ず真似をするだろうから、国と王宮府の負担はさらに減ることになる。
「それじゃ、ワルタ市奪還後に幾つかの有力な商家や工房の買い取りの準備を進めているのも」
「支援策の一環であり、王宮府企業体の強化でもある。予定通りにワルタ市を奪還できれば、次はロゼフに侵攻することになる。前線に送る武器の供給はワルタ市で行うから工房を抑えておけば得られる利益は莫大なものになる。王宮府の持ち出し分ぐらいは回収できるだろうさ。まぁ、先に情報を得ている分、あくどい方法だけどな」
「けど、それじゃその他の商家に恨まれませんか。国民からも懐疑の目で見られるかもしれませんよ」
「そうだな」
煙草の吸い殻を踏み消す。
「だから、それなりに利益を得たら再び独立させることになってる。誰にも文句は言えない。潰れかけた工房を建て直し、幾らかの利益を得た後に再び独立させる。まだまだ利益が上がるのに独立させるんだから、誰が見たって慈善事業だ」
その所行は商家には出来ない。魔王の慈悲を体現するために存在する王宮府に属する企業体だからこそ出来ることだ。
「だけど、一度繋がった縁は消えない。王宮府は工房の技術を用いることが出来る。無理に系列にしておかなくても企業体としての王宮府は強化されるって寸法だな」
「スゴイですね。転んでもタダでは起きないってのを地でいってる」
「計画の七割方上手くいけば元は取れる。八割、九割ともっていけるかは俺たちの頑張り次第だ」
バシンッと後輩の背中を叩くと、
「この計画の骨子を立案したのはお前と同い年のヤツらしいぞ」
「うげぇ。本当ですか?」
「あぁ。頑張れよ、後輩!」
そろそろ仕事に戻るぞ、と声をかけて年長の男は屋内へと戻っていった。
槍を持って戦うだけが戦争ではない。これもまた戦争なのだ。そんなことをどこか愉快な気分で年長の男は思った。
さぁ、王宮府を儲けさせて、給料を上げる糸口にしよう。
公民館に司令部を設置したホワイティアは今後の行動について頭を悩ませていた。
大まかな行動方針はすでにエグゼリスの参謀本部が作成したものがあり、なにより現状はそれから大きく外れてもいないため問題はない。
問題なのは彼女の裁量による部分だ。つまり、ロゼフ軍がどう動くのか予測しきれないのだ。ロゼフ軍はワルタ市に篭もるのか、決戦を求めて討って出るのか。
彼女が手に出来る情報はどれも決定打に欠ける。かといってダラダラと考え続けていることも出来ない。
彼女はソファに腰掛けたまま朱の空を見上げている。同席しているのは彼女の参謀長だ。
「思ったのだけれど、貴族って良い商売よね」
「唐突ですね、閣下」
「あら、貴方はそう思わないの?」
そういうと彼女は視線を巡らせた。元はちょっとした会議室であったここは今では見事なまでの執務室になっている。素人目にも明らかな高級な調度品の数々。毛足の長い絨毯などは一将の執務室だとは思えないほどに立派だ。
貧乏性でもなければ、誰もが心地よく仕事をこなせるだろう。基本的に短躯である岩窟族に合わせたものなので些か小さく感じるが……。
「思いはしますけれどね。ただ、これだけの生活を維持するためどれだけ働かなければならないかを考えると少し嫌になりますよ」
「貴族らしくふんぞり返って下々の者から搾取すれば良いじゃない」
「そして、最期は縛り首ですか」
「それも貴族の最期に相応しいと思うけれど」
「御免被ります。私は今でもそれなりに満足していますから。この戦争を終えて賜暇を頂戴したら家族を引き連れてちょっとした旅行に行くぐらいで十分ですよ。それとも閣下はそんな貴族の生活を送ってみたいのですか?」
「悪くはないかもしれないわね。執事やメイドに傅かれて優雅に午後のお茶を楽しみ、時にはお友だちの屋敷を尋ねてちょっとした宴に参加する」
「そして、旦那様は下々の者を相手にパンを焼くのですか」
ファインズの皮肉にホワイティアは苦笑を浮かべた。
「そうね。お貴族様じゃ、あの人と一緒にはなれないわね。私も御免被るわ」
彼女はちらりと卓に広げられたワルタ地方一帯の地図を見遣ると、
「あり得ないことだけれど、仮にラインボルトがワルタから手を引いていたらどうやってここを統治したんでしょうね。旧ロゼフ領だから当時の家系の者に土地を返すのか、武功に照らし合わせて貴族たちに与えるのか。それとも王家の直轄地にするつもりだったのかしら」
「領地問題ですか。あそこは王権が弱いですからグダグダになったことでしょうね。それを考えると我が国の併合は楽なものですね。全てが魔王の名において国家のものになるんですから」
「強大な権力を有しながら、多くの魔王は専ら権威者でしかなかったものね。この点で昔、ちょっとした議論になったことがあるそうだけれど」
「魔王機関説ですか」
「そう。魔王を国家の権威を代表する最高機関として、だけれど国権からは切り離すという学説だと記憶しているわ」
「実際、悪くはない考えなんですよね。魔王がどのようにして選定されるのかは未だに謎ですから。最高権力者が政治に疎いというのはラインボルト一国だけではなく、幻想界を混乱させる一因にもなりかねませんから」
「だけれど、万が一リーズと全面戦争となったら私たちでは防ぎ切れないわよ。普段、権威だのなんだのと政治から遠ざけておいて、そんな時だけ魔王を引っ張りだすのは都合が良すぎるわよ。別の言い方をすればある程度、政治に関わらせて責任を持たせておいた方が良い。魔王はそのチカラでラインボルトを束ねているのだもの」
「現状ではその考えが主流ですね。建前の上では魔王は三権を掌握しておられるけれど、実際は政府、名家院、大法院がそれぞれ牽制しあいながら国家を運営している」
「だけれど、今はその建前が活用されているわ。何もかもが後継者殿下の主導で行われている。見事なまでに姫様の後釜を引き継いでるわ」
エルトナージュは文字通りの権威者であることを望まれていた。しかし、彼女は権威者ではなく政権を握る者として振る舞おうとした。その結果は言うまでもない。
周囲の期待と彼女の希望の齟齬が内乱という形で噴出した。それを後継者は自ら矢面に立つことで収拾してしまった。結果、エルトナージュが開けた空白に収まってしまった。
「この戦争に勝ったらますます殿下の発言力が強くなるわね。ご本人が望むと望まざるとに関わらずね」
それを哀れだと彼女は思わない。実績を示せば評価されるのは当然のことだから。
ただ、王の場合は個人の功績だけではなく国家として為したことも上乗せされる。
「声望を得るということは同時に様々な面倒ごとを背負い込むという意味でもありますからね」
「そうね。私たちの子どものような歳の子に背負わせるようなものじゃないわね」
ホワイティアには十四になる娘がいる。母親に似たスッキリした性格をし、父親のパン屋を継ぐのが夢の良い子だ。もし、娘が魔王に選ばれたら母親として気が気ではない日々を送ることになるのは間違いない。
「我々に出来ることは務めを果たすことだけでしょうか」
「そうね。勝利を重ねるしかないのでしょうね」
呟くようにそういうとホワイティアはカップに残ったお茶を飲み干した。
「決めたわ、ファインズ。シグル副将をお呼びして」
「了解しました」
立ち上がったファインズは退室するとシグル副将を呼ぶように指示を出した。上官がシグルを呼んだということは決定を下したということだ。参謀長はその時必要とされるであろう資料を纏めるように部下たちへも指示を出した。
ファインズに伴われてホワイティアの執務室に男が二人入室した。ファインズたち三人は同時に敬礼をする。呼んではいない人物がいたことに彼女は不快感とはほど遠い表情で彼らを出迎えた。
「先ほどオード副将が合流なさいました。私の独断でお連れしました」
「ご苦労様、ファインズ」
と、ホワイティアは頷いてみせる。
「第一魔軍副将オード、着任のご挨拶に参りました」
「お疲れさまです、オード副将。かなりの強行軍と聞いています。兵たちの労いに必要なことがあれば仰って下さい」
「はい。兵たちも喜びます」
すでにファインズが諸事万端整えている。ホワイティアの言葉は労いの意味が強い。
彼女は二人にソファを勧め、自身は彼らの対面に腰掛ける。彼女の参謀長はホワイティアの斜め後ろに立って控えている。
「第一魔軍一万五千が合流して下さって本当に心強いわ」
第一魔軍の副将二人が同時に大将軍以外の指揮下に置かれた前例はなかった。内心では自分が大将軍になったような気分であった。そして、このようなことが可能となったのは他でもない後継者の意向が働いたからだ。
「両名ともご期待に応えるよう奮励いたします。私をお呼びとお聞きしましたが」
あまりその事に触れて欲しくないのだろう、シグルは本題に移るように彼女を促した。
「えぇ。今後のことで貴方の意見を伺おうと思いまして。オード副将も同席して下さい」
「はい、閣下」と頷くオード。
「というとハブンその他の街や防御拠点に腰を据えている敵部隊の動向について、でしょうか」
「そのとおりです、シグル副将。ロゼフ軍がワルタで籠城するにせよ、野戦に打って出るにせよ、この一帯の敵部隊を無視することは出来ません」
これらの部隊が糾合してホワイティアらの側背をつかれるのは面白くはない。どうしても敵に対する部隊が必要になる。
「それを我々に命じられると」
頷くホワイティア。
「了解しました。幾つか質問したいことがあります」
「どうぞ」
「こちらから攻撃を仕掛けるのか、ただ睨みを利かせるだけなのか。また、ワルタに篭もる敵本隊が野戦に出た場合はどうするのか。その点についてご指示願います」
「ハブンその他に対しては睨みを利かせるだけで十分です。その方法については一任します。敵本隊が動いた場合はこちらから状況に即した指示を出します」
細かな行動指針は後ほど正式な命令書とともに彼に渡されることになっている。
「承知いたしました、閣下」
「オード副将には申し訳ないけれど少し道化を演じていただきます」
そう言うとホワイティアは地図を指し示して自分の構想を話し始めた。
西方、南方より進軍していたラインボルト軍がレルヒに集結を始めている。
東方から進軍していた敵部隊は着実に町村の奪還作戦を成功させている。先日、ワルタ市に次ぐ工業都市であるタミツを奪還されるという報告が届いた。
ワルタへと続く主要路を守る防御陣地や砦は突破されていないことは幸いである。
それぞれの守備隊司令は本国に帰還したら勲章の申請をせねばならないな、とワルタ解放軍司令官ディーズ将軍は思った。
守備隊司令たちからの要請に応えて、幾らか兵を送って防備を増強するように指示を出している。東からの圧迫を防ぐことが出来るのならば安いものだ。
レルヒに集結しつつある敵本隊に意識を集中することが出来る。
全く腹立たしいことだが、ラインボルト軍の司令官は女将であるという。砦や陣地を突破され続けていることもそうだが、何よりもディーズを憤慨にさせていることはそれであった。この情報が入った時、軍議の場にいた面々は口にするには憚られる語彙を縦横無尽に使って罵ったことは記憶に残っている。
ワルタ周辺の防御拠点に篭もる部隊からの報告書を睨みながらディーズは唸った。
戦況は芳しくない。次々と拠点を攻め落とされ、市町村を奪還されてしまっている。今ではワルタとその周辺とロゼフ本国に繋がる補給路しか維持出来ていない。
拠点間の連絡の不徹底、拠点の防御力を過信し過ぎた結果だ。それと分かっていても繕うことがディーズには出来なかった。
拠点への兵力の追加投入を推す派と戦力集中を推す派が争い、貴重な時間を浪費してしまった。結局、ワルタ周辺の防御拠点に兵力を集中させることで双方妥協することとなった。そして、新たな対立も始まっていた。
ワルタ市の維持に必要な最小限の兵力だけを残して決戦に挑もうという意見の者たちと、このままワルタ市にて戦おうという意見の者たちの対立だ。
前者は追加の部隊を率いていた将や防御拠点に縁者がいた者たちが主だ。後者はそれ以外の者たちという色分けだ。別の見方をするのならばもしロゼフが勝利を手に出来ればワルタを褒美として与えられる者とその望みが薄い者たちという分け方も出来る。
将来、自分のものとなるのだから出来るだけ傷つかずに済ませたいと思うのは当たり前の意見だ。また、兵力の上でもまだワルタ解放軍の方が大きい。
南西方向を守っていた部隊を一つに纏めれば五千にはなる。それを遊軍とする。
ワルタ市とその周辺に駐留する部隊を集めて決戦を挑む。本隊だけでも数の上では優勢なのだ。そこに遊軍に敵の側背を突かせれば勝利を掴めるはずだ。
もし、遊軍五千の牽制を敵が行うのならば、それはそれで好都合だ。遊軍と睨み合い出来るだけの兵力を敵は割かなければならない。本隊との兵力差はさらに開くというものだ。
しかし、ワルタにいるロゼフ軍の指揮権を委ねられたディーズは決戦を決断することが出来なかった。ラインボルトは大国なのだ。
つまり、ホワイティアが率いている部隊はラインボルトにとっては前座でしかない。必ずラインボルト大将軍ゲームニスが本隊を率いて来襲することは間違いないということだ。
首尾良くホワイティアの部隊を撃破出来れば良し。辛勝、痛み分けになれば目も当てられない。そんな状態でワルタ市に篭もった所でゲームニスに蹂躙されてしまうだけだ。
では、このまま籠城していれば勝利を掴めるのかといえば否だ。ホワイティアとゲームニスが合流すれば、遅かれ早かれワルタ市で討ち死に間違いなしだ。
籠城が有効なのは外から味方が駆け付けてくれる場合だけだ。敵の支配域で、その上物資の備蓄も満足でないとなれば尚更だ。
しかし、リーズもラディウスも動き出したという本国からの報せは来ていない。本国からもこれ以上の部隊の増派はない。救援の見込みのない籠城ほど辛いものはない。
コンコンッ、と不意にノック音がした。
「入れ」
「失礼します。新しい張り紙が見つかりました」
またか、とディーズは思った。
数日置きに人目に付きやすい場所に大量に張り紙が貼られていた。数百枚もの張り紙を印刷し、それを歩哨の目を盗んで貼るなど常識外れも良いところだ。
いや、真に恐れるべきなのは自分たちの目の届かない影で何かしら工作が行われていることだ。間違いなくワルタ市に駐留する兵力、配置は知られている。
仮に籠城を選択したとしても貯め込んだ物資に火を放たれる可能性は十二分にある。
「…………」
受け取った張り紙を睨みながらディーズは苦虫を噛みしめたような顔をした。そこには、
『大将軍ゲームニス出陣!
率いるは十万を越える大軍
近日中にワルタ到着は間違いなし
ワルタ解放の時は近いぞ!!』
と、大きな字で書かれている。
この張り紙のことは瞬く間にワルタ市に広がるだろう。
希望を取り戻した市民たちに対して不穏なことをすれば、これまで従順であった市民たちが瞬く間に暴徒と化すかもしれない。
リーズ軍を蹴散らした大将軍。自らも多数の竜を狩った人魔の規格外。もはやロゼフ軍など恐れることはない。
そう市民たちが思うことは間違いない。歩哨たちの監視の目から逃れて貼り続けられた張り紙だ。市民たちもイタズラだとはもう思わないだろう。
「張り紙はこの一枚だけか?」
「はい。別種の張り紙はありません」
「ご苦労。下がれ」
退室した兵を見送るとディーズは背もたれに身を預けると眉間を揉んだ。
都合二十万を越える兵がこのワルタ市に殺到する。その時には市民たちも敵になっているはずだ。
考えたくもない状況だ。さて、どうしたものか。
再びノック音がした。今度は激しい上にディーズの許しもなしに扉は開かれた。
「失礼します、閣下。第一魔軍の部隊章を掲げた部隊がワルタ市に向かっています。偵察の見立てではその数、およそ五千!」
「敵本隊に動きは!?」
「まだ、その情報は入っておりません」
「分かった。すぐに諸将を集めろ。いつでも兵たちが警戒態勢に移れるように準備をしておけ」
「了解しました!」
これまでの偵察からホワイティアの軍勢に第一魔軍の部隊が含まれていることは確認されていた。しかし、今日まで彼女は自分の警護役であるかのように前線に投入してこなかった。その第一魔軍がワルタ市に向かっているということは本格的にワルタ市奪還作戦を開始したと考えてもなんらおかしなことはない。
一抱えするほどの大きさの火球が間断なく砦に投擲されていく。
堅牢の文字に似つかわしいほどに頑健な作りの城壁を火球は飛び越えていく。砦内では守備兵たちが生きたまま燃やされていく。
熱と酸欠で藻掻き苦しむ守備兵たちと同じように炎もまた酸素を求めようと空へと向かう。逆巻く火焔で作られた竜巻が砦内にいた兵や備品を燃やしながら天高く放りあげ、城壁の上で呆然としていた兵たちを焼いていく。
自分たちを焼き尽くそうとする炎から逃れようと後方の小さな扉に兵たちは殺到するが、その大半は戦友たちに押し潰されてしまう。あるいは巻き上げられた備品にぶつかり落命していく。中には炎から逃れようとして水瓶に隠れようとした者もいた。しかし、場所取りで兵たちが争うことになり全員が焼け死んでしまう。
今、砦内に貴賤の区別は存在しない。炎は誰であろうと等しく死を与えていく。
いや、やはり貴賤の区別は存在していた。砦の主は数少ない魔導士を自分の側に集めて炎を防がせている。しかし、それも長くは続かない。炎そのものは防ぐことが出来ても熱の除去と新鮮な空気を補充することは出来ない。砦の守備司令に出来たことは兵たちよりも長くこの火焔地獄を脳に焼き付けることだけだった。
最期まで砦に残る。それはある意味で貴者の責務と言えなくもなかった。
この地上に姿を現した火焔地獄はこの砦一つだけではない。ワルタ市を守るように建設された西部陣地群の殆ど全てで同じことが起きていた。
空に立ち上る幾つもの灰色の煙はワルタ市からも確認出来たことだろう。
何が起きているのかを想像するには容易く、林立する煙は見る者に墓標を想像させた。
事実として砦群はロゼフ兵たちにとっての火葬場であった。
後方に本部をおいた第一魔軍副将オードは無感動にこの情景を眺めていた。
こうなって当たり前だからだ。当たり前のことに驚く者はいない。
木や石、肉や脂が焼ける臭いが風に乗って彼のところにまで届いてくる。本部付きとした新兵や若い将校たちは嫌な顔を浮かべていることだろう。オードも内心で思うことはあるが、将としての分別をもって無表情を浮かべている。
攻撃開始から二時間強が過ぎた今、前線から次々と砦を落としたとの報告が届けられてくる。最期まで抵抗を見せた砦もあれば、早々に白旗を掲げた砦もあった。
それらの報告にオードは頷くだけだ。すでに砦を落とした後の対処は各部隊に命じている。生存者がいれば応急処置を施して後送し、他部隊から援軍の要請があれば状況を鑑みて即座に行動せよ、と。
現状はオードが企図した通りに動いている。些細な問題は部下たちが調整しており、彼が直接指示を出さねばならないほどの問題は起きてはいない。
「さすがは第一魔軍」
オードの側にいた少年の域にまだいる年若い将校が呟いた。横目で見る彼の顔色は表現しにくい。圧倒的な戦力により勝利を掴みつつあることへの興奮と、あの嫌でも想像をかき立てる炎と煙を作り出している第一魔軍への恐怖が混交したような色を浮かべている。
「君は魔軍の戦いを見るのは初めてか?」
「はい、閣下!」
まさか声をかけられるとは思っても見なかったのか将校は上擦った声で答えた。
彼はホワイティアがオードに付けた目付役の一人だが、どうやら彼に期待されていることは本来の仕事よりも戦場の空気を間接的にでも体験することのようだ。
「そうか。ならばよく見ておくと良い。これが魔軍の戦い方そのものだ。今でこそ魔軍はラインボルト軍の中核となるべき精鋭部隊という認識をされている。それは間違いではないが全てではない。
真相は魔軍とは兵科に関係なく全ての将兵が攻撃魔法を行使できる者で構成されている部隊のことだ。それが何を意味するかは見ての通りだ。
対魔法処理を施していない城壁の城砦ならば内部を溶鉱炉のように出来、野戦においては矢よりも飛距離があり、速射性もある魔導矢で敵の勢いを削ぐことが出来る」
積極的に前線へ投入されてこその魔軍だ、とオードは言った。
事実、設立当初はその通りに魔軍は運用されていた。
だが、攻撃魔法を行使できる者で構成されているだけあって幾つもの大きな戦果を挙げることになった。その結果、魔軍は一般軍よりも上位にあるという妙な認識を持たれるようになった歴史がある。
事実、魔軍を一般軍と同じように扱う後継者を面白くないと思っている者は多い。
今回の件でもそうだ。一般軍の将軍であり、女将でもあるホワイティアの指揮下に置かれることを嫌がり一部の将校は水面下で色々と運動をしていたほどだ。
その誇り高さにも良い面はある。ホワイティアの指揮下に置かれることが決まっても不満を漏らしていた者たちも実際に前線に投入されれば期待される戦果を挙げていた。
一般軍ならば手こずり、ワルタ市からの援軍に蹴散らされたであろう防御陣地群を数時間あまりで制圧しつつあるのだから魔軍の名はさらにラインボルトで轟くことになるだろう。
彼らはこの戦果をもって後継者に自分たちの武威を示し、以前のように扱われることを望むだろうが、その通りになるのかオードには疑問であった。
ムシュウにて合流した際に幾らか言葉を交わし、その後の軍に対する接し方から推測するに後継者は魔軍を特別視していない。単純に強い部隊ぐらいにしか思っていないようだ。
戦果を挙げたことを賞賛することはあっても、特別視することはないかもしれない。
むしろ、今回のような用い方が正しいと確信する可能性の方が高い。
後継者と魔軍との間で考えの齟齬が生まれ、実際に何かしら好ましくない動きがあった場合、間違いなく後継者は軍改革に乗り出す。
最悪の場合、大将軍の地位の消失や第一魔軍の解体・再編成まで行うかもしれない。
事実、このロゼフとの戦争は軍師LDと参謀本部とで作られたものだ。幾らか実戦部隊からの意見も採り入れられたと聞いているが、戦争計画の背骨となる部分に関しては口を挟むことは誰にも出来なかった。
それが出来たであろう大将軍ゲームニスはエグゼリスにはおらず、仮にいたとしても口出し出来たかどうか怪しいところである。
すでにラインボルト軍の中核としての魔軍はその聖域を崩され始めているのかもしれない。あの坂上アスナという後継者はそれぐらいやっても不思議ではない。
彼にとって特別な部隊は近衛騎団だけなのだから。
そう、全てが内乱を契機として変わりつつある。
偶然が重なった結果なのか、後継者が何かしら企図しているのかは定かではない。
ただ変わりつつあることだけは確かだとオードは感じていた。
この状況の中で自分は何をすべきであろうかと考える。いや、考えるまでもなかった。
武人たるもの主君の望む通りに戦功を掲げる他にない。
後継者が聖域を崩すことを躊躇う一助になるかもしれぬし、例え聖域を失ったとしても戦功はオードが自らの手で得たものだ。重く用いられる一助になりえる。
「副将。周辺の砦群の制圧、完了いたしました」
それらの砦は何から何まで焼かれて、もはや防御拠点として機能しない。
「では、次の段階に進めようか」
オードは幕僚長に振り返ることなく言葉を続ける。
「進軍経路その他騎兵の準備は完了しているな」
「完了しております。ご命令があり次第即座に行動可能です」
「宜しい。敵陣に降伏を促す使者を出せ。その間に各砦攻略に向かっていた部隊を召集、所定の配置につかせろ」
「文面はどうしましょうか」
「そうだな。……ロゼフの将の勇武と兵らの健気に我ら第一魔軍は賛嘆の意を表す。時の勢い我が方にあり。この地に残りしロゼフの将兵は貴公らを残すのみ。
このまま刃を交わし討ち取るは容易くも貴公らの武勇を失うことを我らは惜しく思うところである。降伏することを勧める。しかる後、城外にて互いの敢闘を讃え合えることを望む。以上だ。文面の細かな修正は幕僚長に任せる。返答期限は……」
「各部隊の集合予定地到着は一時間後になります」
「ならば三十分以内の返答を要求する」
「了解しました。すぐに用意いたします」
乱暴に敬礼をすると幕僚長は本部へと戻っていった。
答礼をするとオードは再び視線を砦を睨んだ。あの砦も焼かれるのか、それとも自ら城門を開くのか。いや、砦そのものの運命に変わりない。使えないように破壊するからだ。
選択によって代わるのはロゼフ兵の運命だけだ。
果たして敵将は降伏するのか、それとも生きたまま焼き殺されることを望むのか。
どちらにせよ与えられる時間はそれほどない。すでにワルタ市からそれなりの規模の部隊がここに向けて派遣されているだろうから。
オードが出した使者はロゼフ将兵たちの殺意の篭もった視線を一身に受けながら砦の中を歩いていた。案内役の若い将校の先導を受けて砦群を統括する司令の下へと向かった。
通された先には会議室だ。そこにはこの砦の幹部全てが揃っていた。皆、一様に表情は暗い。ここから陣地線を形成する砦や陣地の惨状が見えていたからだろう。
上座に位置する司令官はかなり年若い。後継者よりも一つ、二つ年長に見える。表情が優れないようだ。無理もない、と使者は思った。
次々と炎上していく砦、そこから響き渡る断末魔。それが今まさに自分へと向けられようとしているのだから。
戦塵の中を駆け抜けた後継者と違い不甲斐ない男だ、とは思わない。同じ境遇となれば自分も青年とさして変わらない顔をするだろう。不敬ではあるが後継者の方が変なのだ。
「第一魔軍副将オードよりの書状にございます」
使者は礼に則った動作で降伏を促す書状を差し出した。従者を介して渡された書状に目を通した後、左の席に腰掛ける司令官よりも年長の男に書状を渡した。男は一読すると、
「そちらの要件は了解しました。こちらの意思を決するまで別室にて待機していただきたい」
「はっ。双方にとって最良となるご決断を下されることをお願い申し上げます」
と、使者は一礼すると案内役の将校に促されて退室した。
ワルタ市前衛守備陣地群司令官ヴィレン・ブロムは退室したラインボルト軍からの使者を見送ると伺うように左の座につくカイツ・ブロムに視線を向けた。
同じ姓からも分かるとおり二人は縁戚関係にある。カイツはヴィレンの従兄だ。
幾らか歳の離れた従弟の不安げな視線にカイツは大丈夫だと頷いてみせる。
しかし、内心ではヴィレンと同じように恐怖が渦巻いている。しかし、そこはブロム家の代表者としての気概で押さえ付ける。
受け取った書状を副司令官に手渡す。
「ラインボルトよりの書状の内容を要約すれば降伏せよとのことです。方々のご意見を伺いたいと司令官閣下はお考えです」
ヴィレンはその通りだと言うように頷いてみせる。カイツの立場は微妙だ。
年若いブロム侯爵家次期当主を補佐することが仕事だ。ヴィレンの言葉を代弁することも出来るが、軍においてのカイツは司令官の副官でしかない。他者に対する命令権は与えられていない。
彼が周囲から煙たがられながらも重く見られているのはブロム侯爵家の代表者としての部分が大きいからに他ならない。無用な軋轢が生じないように気を遣っている。
家格の低い者に対しても丁寧な受け答えをすることはその一環だ。
そして、その家格が問題であった。
「状況は控えめに申し上げても最悪です。瞬く間に支城を攻め落とされたことは言うまでもありません。間もなく各砦に散っていた部隊がここに集結することでしょう。予定では各砦間で連携を行い時を稼いでいる間にワルタ市からの救援を待つことになっていましたが」
「敵部隊接近の報はすでにワルタ市に達しているはずです。さほど時を置かずに救援が到着することでしょう」
しかし、誰も言葉通りに受け取りはしない。軍勢を動かすには時間がかかる。
なにより相手は第一魔軍であると知らせているため送られる兵力は大きくなる。となればさらに時間がかかることになる。少数の先発隊が到着しても返り討ちに会うだけだ。
数時間後に自分たちの喉元に刃を突き付けている第一魔軍の部隊を蹴散らせるだけの増援が来るか分からない。仮に来るとしてもそれまで砦が保つ保障はどこにもない。
「どうにか時間を稼げないか」
「無理だ。ヤツらも時間が最大の敵だと分かっている。時間が欲しいと言ってもはねつけられるだけだ」
「ならば兵力を集結し次第、攻撃を開始すれば良い。こちらは動きたくとも動けないのだぞ」
「兵力の減少を嫌ったのだろう。書状一枚で決着が付くのならばそちらの方が良いに決まっている。どちらにせよ、このままでは敵の目的はこの砦を破却することだろう。そうなればワルタ市の西側は無防備になる」
籠城を続けても、降伏してもロゼフ軍全体から見ればどちらに決めても変わりない。状況を変えるには救援が到着するまで時間を稼ぐこと。だが、それは不可能だ。
こちらがそれを望むように敵はワルタ市からの来援を恐れている。
ならばロゼフ軍にとってよりましな選択を行うしかない。
「転進、するか?」
幕僚の一人がぽつりと呟いた。その言葉がさらに会議室の空気をさらに重くした。。
参加者の何名かがヴィレンとカイツを見た。
ブロム侯爵家は軍に影響力を持つ家柄だ。もし、転進したとしたらその責任は司令官であるヴィレンにではなく、彼を支える司令部の面々が被ることになる。
何かしら一矢報いた上での転進ならばまだしも一方的にやられたのでは立つ瀬がない。
誰がこの若造を司令官に据えたんだよ、という雰囲気が満ち始める。責任をとらずに済む責任者の下で命を懸けるほど馬鹿馬鹿しいことはない。
カイツは幕僚たちが無言で放つ空気を感じていた。そして、彼らが心の内で考えていることも理解していた。
そもそもこの人事そのものがブロム家が口を挟んだ結果だ。
次期当主に箔を付けさせたいというだけでその地位につけられた。ある意味で自業自得、しかし多分に運の悪さもある。
リーズが動いていればこの砦群の司令官職は閑職となっていたはずだからだ。しかし、現実を省みればこの砦こそが最前線となる。
カイツはヴィレンに代わって実質的な指揮を執っている副司令官を見た。
「…………」
沈黙を守ったままだ。彼の無言と向けられる視線が何を言いたいのかカイツは理解した。
転進を選ぶのならばブロム家の者が率先せよ、と。
籠城するよりも転進し、ワルタ市に駐留する部隊と合流した方が良いのではないかという意見が強いように思える。降伏しても、抗戦しても防御陣地は全て破壊されるのであれば、せめて部隊だけでもワルタ市に送った方が良い。
この眼前の第一魔軍の部隊はワルタ市攻略のための先鋒部隊だと十分に考えられるからだ。本格的な侵攻はこれから始まるかもしれないのだ。相対するためにも少しでも多くの兵が必要だ。端的に言えば部隊には価値はあるが、砦にはもはやさして価値はない。
ならばブロム家の体面を保ちつつ、それを実現するにはどうすれば良いのか。
その方策はすぐに思い浮かんだ。必要なのは覚悟だけだ。
ちらりとヴィレンを見た。相変わらず顔色は悪い。しかし、必死に無様な姿だけはさらすまいとしているのが伺える。その健気さにカイツは急速に決意を固める。
歳の離れた従弟は決して大器の持ち主ではないが、このような場所で焼け死ぬような悪人でもない。そして、自分はヴィレンが死から逃れさせるためにここにいるのだ。
「司令官閣下、発言をお許し願えないでしょうか?」
「許す」
一礼し、感謝の意を示す。
「転進すべきだと心得ます。すでに陣地線は崩壊しております。この砦を固守するよりも兵らをワルタ市へと届ける方が戦略的に有意義です」
「転進するとして追いすがる敵軍をどうするつもりだね?」
副司令官は言った。
「私が受け持たせていただきます。殿軍を受け持つ部隊の指揮権を司令官閣下から与えて頂かねばなりませんが」
カイツの発言にヴィレンは目を大きく見開いた。従弟が口は開くよりも早く言葉を続ける。
「閣下、ご決断を。そして、どうか私に敵と剣を交わす栄誉をお与え下さい」
沈黙が降りる。早く決断をしろという視線がヴィレンへと集まる。
彼は数分の間をおいて決断を下した。
「ワルタ市へと転進する。殿軍についてはカイツ・ブロムに一任する。副司令官と謀り、諸事万端整えろ」
「はっ。了解いたしました」
カイツはヴィレンに力強く頷いて見せた。
即座に撤退の準備を開始すべく指揮官たちは兵たちの元へと向かい、幕僚たちは撤退経路の確認や順番を決め始める。
この場に残ったはヴィレンとカイツ、そして副司令官だけだ。
「転進するのは良いとして待たせている使者にはなんと返事をするつもりだ。まさか正直に話すわけにはいくまい」
そのようなことを話せば撤退後、しばらくして追撃されるに決まっている。
「もちろんです。そして準備にも時間が必要です。そのための時間稼ぎもしないといけません」
「具体的にはどうするのだ?」
「敵将に一騎打ちを申し出ます。敵が我々の武勇を讃えたのだから、我々もまた同じようにすべきでしょう。文面はそうですね。
『幻想界に名にし負う第一魔軍よりの賞賛、最も欣快とするところである。
ともに互いの武勇を讃え合いたくはあるが、我らは貴公らの武勇を知らず。
なれば、貴軍の将との一騎打ちを望むものなり。
互いに武技を交わした後ならば我らは喜んで貴公らを賞賛したく存ずる』
といったところでしょうか」
つまり、「お前ら魔法だけしか撃ってねーじゃねーか。お前も武人ならば正々堂々と一騎打ちに応じやがれ、コンニャロー」ということだ。
両軍の戦力差は圧倒的に開いている。第一魔軍がその気ならば部隊の集結を待って総攻撃を行えばいい。二、三時間もあれば焼失させることが出来るはずだ。
それをしないのは何かしら思惑があるからだと推測できる。
また、一騎打ちの後でならば降伏してやらなくもないとも言っているのだから敵軍もこの申し出を無碍には出来ない。恐らく何度か使者のやり取りが行われるはずだ。
その間に撤退の準備を整えられるはずだ。そして、一騎打ちの最中に脱出すれば良い。
カイツはそのような主旨のことを説明した。
「だが、敵が一騎打ちに応じなければどうするつもりだ」
「最悪でも転進の準備を整える程度の時間は稼げるはずです。敵が一騎打ちに応じようと、応じまいと私にとっては同じ。戦うことに代わりありません」
「貴官が一騎打ちを行うというのか」
「無論です。このようなこと兵にさせる貴族はいないでしょう」
頼もしいことを言ってはいるがカイツもこれが初陣だ。命のやり取りをすることに恐怖を覚えない訳ではない。それでも戦わねばならない理由がある。
副司令官は小さく唸ると、
「それで兵はどれだけ必要だ。ワルタ市へと部隊を戻すことが目的である以上、多くは割けないぞ」
「司令官閣下のお許しを頂けるのならばブロム家の兵百名をお貸しいただければ十分です」
「たった百名なんて!」
ブロム家嫡子の初陣のためにと精鋭をここに派遣されていた。
「それでは僅かな時間でもこの砦を保持することは出来ないぞ」
「籠城しなければならなくなった時は討ち死にするだけのこと。お二人ともご覧になられたでしょう。各陣地が焼き尽くされた様を。死に行く運命にある者は少ない方が宜しいでしょう」
砦に差し向けた使者が戻ってきた。ロゼフ側の使者を伴って。
オードは本部に使者を招いて、敵司令官からの書状を受け取った。一読し、鼻で笑う。
「使者殿、これは何の冗談だろうか?」
「冗談とは?」
「我々は貴公らに降伏を促しているのだぞ」
「そう申されても私に返答する言葉はありません。命じられたままに書状をお届けしたまでのこと。何か不明があれば私に書状をお預け下さるようにとも申しつけられております」
つまり、これ以上砦を見て回られたくないということだ。
「なるほど。すぐに書状を認めよう。しばしお待ち頂きたい」
そう言うとオードは書記官に改めて降伏を促す書状を書かせた。それを受け取った使者は悠然とした態度で砦に戻っていった。
「副将、宜しかったのですか? すでに包囲は完了し、いつでも攻撃を開始できます」
と、幕僚長は言った。確認のために尋ねているのだ。
「一騎打ちに応じれば降伏すると言っているんだ。攻撃する訳にはいかんだろう。第一魔軍の、ひいてはラインボルトの威信に関わる」
それに、とオードは続ける。
「敵の目的はなんだと推測できるか。幕僚長」
「本命は時間稼ぎ。対抗は貴族としての体面を保つためでしょう。我々が気にすべきことは前者だけです。あまり長居をして敵の追撃を受けるのは面白くありません」
「だが、分からないことが一つある。一騎打ちに応じるにしても稼げる時間は一時間ほどだろう。増援が到着できるとは思えんぞ」
「脱出の準備でしょうか」
「なきにしもあらず、だな。こちらも騎兵の準備をしておこう」
「少し予定が崩れましたね」
「予定通りに物事が進む方が珍しいだろう。さぁ、準備を始めよう」
程なくして再び訪れた使者が携えた書状を目にしてオードは敵が脱出を企図していることを察した。書状を要約すれば「砦の周囲を物々しく兵が囲んでいては安心して降伏することが出来ない。包囲を解いて貰いたい」と書かれている。
戦闘で興奮した兵が投降する敵兵に侮蔑の言葉を投げつけることは良くあることだ。中には冗談半分で矢を射かけることもある。それが切欠になり、大混乱に陥った例は幾らでもある。
「お返事を頂戴したく存じます」
「良いだろう。すぐに包囲を解こう。そして、一騎打ちにも応じよう。兵を退くまでの間に準備を整えられるが宜しかろう。ただし、こちらが準備を終えてもそちらがもたついた場合はこちらの譲歩を踏みにじったと受け取り、総攻撃を行う」
オードは脅すように使者に顔を近づけた。
「宜しいか。我々は譲歩したのだ。そのことを決してお忘れになるな」
「お、お言葉しかと承りました」
一礼して立ち去る使者を見送るとオードは幕僚長を見た。
「聞いての通りだ。包囲を解くぞ。出来るだけ慌ただしくしているように見せかけろ。その作り上げた混乱に紛れさせて騎兵を動かす」
「予測した通り敵は脱出を企図しているようですが追撃はどうなさいますか?」
包囲を解けなどと言い出したことが脱出を企図している良い証拠だ。
「放っておけ。この砦を使えないようにすればそれで十分だ」
「了解しました。すぐに準備を始めます」
ラッパと太鼓の音が雄々しく響き渡り、林立する両軍の軍旗は風を受けて翻る。
一つの楽曲としての旋律ではなく、獣の咆吼の如く感情の高ぶりを露わにしている。その”咆吼”に呼応して、兵たちも歓声を上げる。
ラインボルト、ロゼフの咆吼はよくよく観察してみれば違いがあることに気付く。
前者は戦陣で娯楽に飢えた兵たちが上げる歓喜の声。
後者は手負いの獣が上げる威嚇の叫び、だ。
つまり、ラインボルト側は勝利を疑わず、ロゼフ側はこの後始まる撤退の厳しさを一時でも忘れたく叫んでいるのだ。
ある意味、一合も槍を交わすことなく勝負は決していると言えるだろう。
別の言い方をすれば、すでにロゼフ側の心は折れているのだ。
両軍の兵に囲まれるようにして対峙する男が二人。
第一魔軍正式採用された鎧を纏い、手には槍、腰には剣を帯びている。
オードの姿は第一魔軍副将という華々しい姿とは懸け離れた一兵卒と変わらない地味なものだ。ある意味、これこそがラインボルトらしさと言うものなのかも知れない。
しかし、地味ではあるが彼が纏う鎧は性能が良い。ヴァイアスの防御魔法ほど非常識ではないが、並の攻撃では鎧の守りを通すことは出来ないだけの性能を有している。
もっともこの鎧は纏った者の魔力を用いて守りとしているため長時間防御魔法を展開し続けることは出来ないのだが。
そして、そのオードに対峙するカイツ・ブロムの姿は華美である。
金銀をあしらった鎧に背を覆うマントには精緻な刺繍がなされている。また、手にした槍や腰の剣には貴石を用いた象嵌がなされている。
宝石を用いて魔導珠を作ることが出来る。もしかして、あの象嵌は魔導珠なのかもしれないがオードには確認のしようがない。
そのカイツの出で立ちは軍装というよりも式典用に思える。
ある意味、これは式典かとオードは思った。
完全な負け戦であるにも関わらず敵に一騎打ちという譲歩を引き出したという証であり、死地に向かう者たちへの餞(はなむけ)でもある。
陥落寸前の砦一つのために一騎打ちに応じるなど時間の無駄、浪費に過ぎない。だが、今回においては無益であるとは言い難かった。
ロゼフとの戦争全体にどのような影響を与えるかは現段階では不明だが、ホワイティア将軍からの命を実行する際の彩りにはなる。
仮に無意味、もしくは状況が思わしくない方へと傾いたとしても責任はオードに命じたホワイティアにあるのだから気楽なものだ。
しかし、相対するカイツ・ブロムの表情は冴えない。蒼を通り越して、白面となっている。
無理もないと、オードは敵に同情した。
恐らく実戦は始めてだろう。それらしい経験があるとすれば魔獣討伐ぐらいではないか。
青年と呼ばれる年齢に一歩踏み込んだばかりと思しきカイツに一騎打ちをさせるとは残酷なことだ。もっとこういった事に適した者がいるだろうに。
同時に”演出”にはこういった相手は丁度良いとも考えていた。
ラッパや太鼓の音、歓声が最高潮を迎える。
「ワルタ市前衛守備陣地群司令官付き副官カイツ・ブロム!」
「第一魔軍副将ジン・オード!」
『参る!!』
一騎打ちが始まる三十分ほど前に遡る。
砦内を慌ただしく兵士たちが行き来している。下士官たちが叱咤する声が聞こえてくる。
城門前ではカイツが一騎打ちを前にして司令官と言葉を交わしている姿が見える。
一騎打ちの結果がどうなるのか語る口を彼は持たない。
関心がないとは言わないが彼にはやるべきことが山積みだ。そちらを片付ける必要がある。そのためにカイツは敵将に遊ばれているのだから。
ワルタ市前衛守備陣地群副司令官としてやるべきことは多い。
ワルタ市到着までに必要な物資を馬車に積み、載せられない分は脱出後、すぐに処分できるように準備をさせた。
途中、脱走者が出ないよう部隊長たちには兵たちに武器を放り出すことがないように目を配るように指示をした。脱走する兵士たちがまず放棄するのは重い背嚢ではなく武器だ。
抵抗することも出来ずに逃げ出している最中なのだから、逃げる邪魔にしかならない武器を捨てるのは当然のことだ。
だが、それを許せば悪質な伝染病のように瞬く間に兵たちは同じように武器を放棄し、同時に兵であることを放棄してしまう。そうなれば部隊として機能しなくなってしまう。
生きて友軍と合流するにはただ逃げるだけではどうしようもないのだ。
「以上だ。すでにワルタ市には伝令を向けている。恐らくすでにこちらへと駒を進めているはずだ。敵もその事は分かっているはず。そのため深追いすることはないだろうと予測できるだろう」
そうして脱出する部隊長たちに必要な命令と訓示を終えた副司令は次いで残留組に指示を出す。
「諸君らは我々が脱出してから二時間、何があろうとこの砦を死守、司令部に積み上げた報告書その他の書類、倉庫に納めている物資を焼却処分せよ。すでにその準備は終えている。諸君らは着火するだけだ。処分実施の頃合いについては貴官に一任する」
残留組の士官の一人に命じる。名目上、カイツが指揮官ということになっているが一騎打ちの後で指揮をとることは不可能だ。討ち取られる可能性は十二分にあり、もし勝利したとしても無事に砦まで戻れるとは限らないのだから。
「また、諸君らの進退について判断の自由を与える。二時間後、脱出可能であれば一目散にワルタ市へと駆けろ。それが無理ならば投降することを許可する。仮に投降せざるを得ない状況となった場合、諸君らの名誉については私が保障しよう」
そういって副司令官は命令書が納められた封書二つを見せ、その一つを手渡す。
「諸君らはあくまでも私の命令に従ったまでのことだ。良いな」
「了解しました」
「宜しい。ただちに任務を遂行せよ」
敬礼して残留組の士官たちはそれぞれの任務を遂行し始める。それを見計らうように一人の軍医が駆け寄ってきた。
「副司令官。……処置を完了致しました」
「……ご苦労。道中、負傷者の看護を頼む。手の空いた者を回すように命じておく」
「ありがとうございます、副司令官」
それでは、と軍医も自らの任務を遂行する。彼が言った”処置”とは脱出に耐えられない重傷者を薬殺にしたことだ。
連れていくことは出来ず、かといって置いていく訳にもいかない。
ラインボルトが捕虜をそれなりに遇しているという情報は彼の耳にも届いている。もっとも、それは信頼性のない噂話程度のものでしかない。
仮に事実だとしても重傷者はそれに適応されないだろうと思われた。
貴族の捕虜は人質として後に身代金と交換され、兵は奴隷として苦役に用いられる。重傷者を治療する手間を考えるぐらいならば殺してしまった方が面倒はない。
身動きがとれずにそのまま敵に殺されるぐらいならば、薬で楽にしてやった方がまだしもましというものだ。
脱出を余儀なくされた時の重傷者の扱いはどのようにしても苦渋しかない選択になるのだ。
先に逝った者たちへ瞑目する暇もなく副司令官は報告を受け、改めて脱出経路の確認を行う間に時間は過ぎ去っていった。
ラインボルト側が提示した刻限がやってきたのだ。
副司令官は一人、城門前で最後の言葉を交わす主従に歩み寄った。
今の彼の表情をとある兵士がこう評した。斬罪に飽きた首切り人のようだ、と。
「閣下、刻限です」
脱出の準備は満足に終わってはいない。だが、これ以上時間を得ることは出来ない。
もはや風前の灯火のような自分たちにラインボルト軍がなぜここまで譲歩したのか。恐らく敵はこちらが脱出を企図していることに気付いている。
敵はこの砦、つまりワルタ市前衛守備陣地群を破壊出来ればそれで構わないと考えているのだろう。この陣地群を抜かれればその先にあるのは丸裸のワルタ市があるのみだ。
東西の陣地群を建造することに注力していたためワルタ市そのものに防衛設備はない。会戦に及ぶか市民を人質に立て籠もるかの二者択一となるだろう。
ラインボルトからすればワルタでの戦いに王手をかけたことになる。
「分かった。……カイツ」
不安げに従兄を見上げる姿はワルタ市前衛守備陣地群司令官とは思えない。声音にもそれが出ている。これから後退という難事を担うには余りにも頼りない。
無理もないと思いつつも、今の司令官の姿を兵たちに見せるのは良くない。副司令官は敢えて兵の目からヴィレンの姿を隠すように立っていた。
「ここはお任せを。ブロム家の名を辱めぬ戦いをいたします。副司令官閣下、どうかヴィレン様をお願いします」
「無論のこと。閣下を無事にワルタ市へとお連れする。貴官は心おきなく戦うが良い」
「ありがとうございます」
と、カイツは一礼する。そんな彼を見るヴィレンは上手く言葉を紡げずただ一言。
「武運を、祈ってる」
「はっ。行って参ります」
一騎打ちの結果がどうなるのかはすでに決まっている。
故にその経過について語る必要はない。
特筆すべきことは一つだけ。カイツは見事に撤退の時間稼ぎをしきったことだ。
全身傷だらけとなり、あれほど豪奢であった鎧も纏う者と同じように無惨な有様となっている。いや、元が華麗であったために余計にそう見えるのかもしれない。
今、カイツはオードの一撃を受けて地に伏していた。昏倒している。
傷だらけではあるが致命傷となるものはない。気絶した原因は疲労とヴィレンらが撤退を成功させたことで見せた隙をオードに付かれて意識を刈り取られたのだ。
一方のオードは無傷だ。さして息も乱すことなく気絶したカイツを見下ろしている。
部下たちの歓声を一身に受けながら彼は手にした槍を掲げてみせた。歓声はさらに沸き上がる。それを余裕の笑みを浮かべながら応じる。
その一方で今後のことを考えていた。
砦の中にはまだ敵兵が残っている。彼らをどうやって降伏させるかの算段は出来ている。だが、それが上手くいくかどうかはまた別問題だ。
オードは倒れたカイツを肩に担うと自陣へと歩み始めた。すぐさま駆け寄ってきた従兵に任せる。もう一人の従兵には手にしていた槍を渡し、タオルを受け取る。
「すぐに軍医に見せろ。捕虜とはいえ貴人だ。丁重にな」
「はっ。承知いたしました」
頷くと従兵の後に続くように歩み寄ってきた副長に視線を向けた。
「お疲れさまでした。副将に演技の才能があったとは知りませんでしたよ」
「いきなり勝負を決すれば折角の娯楽に沸いている部下たちに申し訳ないからな」
とかく兵たちは娯楽に飢えている。厳正な規律を保持する精鋭たる第一魔軍といえども適度に息抜きをしなければ士気が落ちてしまう。
「俺の方としても久しぶりに身体を動かせてスッキリさせてもらったよ。まぁ、なんだ。相手が必死に食らい付いてくれたからこそ出来たことだが。ともあれ、第一魔軍として少しでも点数稼ぎをしないといけない」
「政治に嘴を入れるのは多少、気が引けますがね」
と、副長は苦笑を浮かべた。
「軍事も政治の一部だよ。それに採用するか否かを決めるのは王城だ。俺たちは献策申し上げるだけだ」
「そのためには出来るだけ数が多い方が良いに越したことはない、ですか。ロゼフ貴族の名簿を改めて確認しましたがカイツ・ブロムの生家は名門の連枝です。彼一人でも十分な気もしますが」
言いながら運ばれていくカイツを見る。
「煌びやかな美談は装飾過多なぐらいで良いんだ。その辺りの調整も王城の仕事だ」
上官の言葉に肩をすくめると副長は、
「では、改めて降伏を促す文面はどうしましょうか?」
「そうだな。貴官らの要望通りに一騎打ちに応じ、勝敗は決した。また、不穏な動きをした貴軍に対しても事前の約束を尊重し、当方は動かなかった。これもひとえにカイツ・ブロム殿の勇武を我らが敬するが故である。カイツ・ブロム殿の誇りを尊重するのならば即時降伏すべし。といったところか。細かい部分は任せる。それとあの準備は出来ているな」
「はい。完了しております」
「よし。では、すぐに行動を開始しろ。捕虜の受け入れ、砦の破壊が済み次第すぐに本隊に合流するぞ」
「了解いたしました」
敬礼を行うと副長は駆けていった。
すでに姿が見えなくなった敵軍の後ろを見ながらオードは今後のことを考えた。
状況がどのように動くにせよ今後も戦いが続くことに変わりはない。
出来ることなら楽に戦いたいものだと思いながら彼は部下たちの下へと歩き出したのだった。
ワルタ市より前衛守備陣地群へ派遣された援軍を指揮していたフェドゥエンは眼前の光景に半ば呆然とするほかなかった。表面上は貴族らしく威厳を保っているが鎧の下では鳥肌を浮かべていた。止めどない冷や汗が寒気を催す。
司令部がおかれていた主陣地は完全に焼け落ち、それだけでは満足できなかったのか城壁も打ち崩されてしまっている。そして、次々と彼の元に届けられる支城からの報告の被害はこの場の惨状を上回っている。
虐殺。これ以上の表現は不要という有様なのだ。
まるで自国を侵した者に対する怒りをこの一点に凝縮したような光景だ、とフェドゥエンは思った。彼の感想と現実はそれほど乖離してはいなかった。
内乱でゴタゴタしている最中にやってきた火事場泥棒は一人残らずブッ殺せ。
こういう雰囲気はラインボルト全軍にある。上は将帥から兵卒に至るまで割合はどうであれ同じ気分を共有している。
他の砦や小城で大規模な虐殺が起きなかったのは軍上層部から、より正確に言えば魔王の後継者から明確は命令があったからだ。将校たちは自分たちの気分は横に置いて無用な虐殺が起きないよう下士官らとともに目を光らせていた。
命令には絶対服従するよう教育されていることもあるが、何度も暗殺の魔の手が差し向けられても死ななかった後継者に睨まれれば間違いなく出世の道は閉ざされてしまう。
もう一人の後継者、つまりアルニスとの一件の影響がこういう形で出ていた。
そうであるだけにこの現場の有様は不可思議としか言い様がなかった。フェドゥエンに届けられる報告の中には明らかに投降しようとしていた兵の死体が幾つもあったからだ。
つまり、これはラインボルト軍にとって予定通りの虐殺なのだ。
これまで積極的に捕虜を取っていただけにこの対応は不可解なのだ。もちろん、気分のままに虐殺を行ったという可能性もなくはない。だが、このワルタ市前衛砦群から届いた情報ではここを攻撃していたのは第一魔軍。ラインボルトの最精鋭部隊なのだ。
一、二カ所が現場の気分で虐殺が展開されることはあってもこの司令部が置かれていた主陣地以外全てで行われるのは明らかにおかしいのだ。
実際は少数ながら生存者がおり捕虜として後送されたのだが、彼らがそれを知ることは出来ない。ただ眼前にある虐殺の光景のみが全てだ。
フェドゥエンは心の中でため息を漏らした。
あの少年を連れてこないで正解だったな、と心の底からそう思った。”あの少年”とはもちろんここ一帯の砦群の指揮を任されていたヴィレン・ブロムのことだ。
援軍と合流したヴィレンはすぐにフェドゥエンに報告をし、その後主陣地に残った殿軍の将兵たちの救助に向かうように懇願した。
フェドゥエンは困惑した。彼が援軍を率いて助ける者たちはすでにここにいるのだ。
極少数の将兵のために部下を危険にさらすことは出来ない。なによりヴィレンと合流した時点で任務は達成不可能。ともにワルタ市へと戻るしかない。
フェドゥエンはそのことをヴィレンに告げたが、カイツを助けに戻らねばならないと固く心に誓っている少年には通じなかった。仕方なくフェドゥエンはヴィレンを疲労と初陣の興奮で錯乱気味だと断定して従兵にヴィレンを軍医の元へと連れていくように命じた。
あのままではようやく友軍と合流して安堵している部下たちに転進を命じるかも知れなかったからだ。そうなれば悲劇しか起きない。
立場上口を挟めなかったヴィレンの副司令官は今後、どうするのかと尋ねてきた。
ワルタ市前衛守備陣地群司令部の指揮下に入ることになっていたが、すでにその機能は失われており脱出してきた兵たちの戦意もない。副司令官は彼に命令出来る立場にあるがそれが出来る状況ではない。なにしろ彼らはフェドゥエンの部隊に”保護”されたようなものだからだ。となればフェドゥエンの意見が今後の行動に反映されることになる。
常識的に考えれば指揮下に入るべき司令部がすでに撤退してしまったのだから、それを護衛してワルタ市に戻るべきだ。
しかし、慌ただしく出陣して何もせずに引き返すのは余りにも体裁が悪い。
僅かばかり悩み。決めた。
ヴィレンたちには護衛を付けてこのままワルタ市へと撤退させ、陣地群に斥候部隊を出して敵情を調査する。もし、敵がその場に残っていたら殿軍としてヴィレンたちのワルタ市帰還を援護し、敵影がなければ半数を殿軍に、残りを陣地群の調査に向かうことにした。
兵たちには迷惑この上ないが少しでも積極的な行動を示しておかないと立場がない。それにフェドゥエンはこの調査の安全性を高く見積もっていた。
ヴィレンの報告では前衛陣地群を陥落させたのは第一魔軍推定五千、あとは後続の輜重部隊のみとのこと。敵の任務はワルタ市への門を開けることだと推定できる。であるならば深追いはしないはずだ。ヴィレンたちが追撃を受けなかったのがこの予測を補強する。
総攻撃の可能性は考慮しない。もし、敵本隊が動いたのならばすぐにその情報がワルタ市に届く手筈になっているからだ。そして、このフェドゥエンの推測は正解だった。
ヴィレンへの、というよりもブロム家への気遣いとしてカイツの遺骸がないが探させたが見つからない。それどころか主陣地に立て籠もった将兵の遺体もないという。
他の陣地の将兵は虐殺していながらカイツら殿軍を任された者たちの捕虜にしたというのだろうか。もしそうならば、この差に不可解さは更に増す。
何かあると考えるのが自然だ。その疑問への解答にはならないが、それを構成する材料の一つを携えて彼の副官が駆け寄ってきた。
「司令。斥候から報告が参りました。その……」
言い淀んだ副官にフェドゥエンは訝しい表情を浮かべた。
敵の姿を発見したのならば言葉を選ぶ必要はない。ならば斥候は何を発見したというのか。
「なんだ。はっきりと報告をしろ」
「はっ。エクトー子爵を名乗る人物他数名を保護いたしました」
「なんだと?」
エクトー子爵のことは彼も知っている。軍で余り評判の良い人物ではないことも。
上司にはへつらいを、同輩には敵意を、部下には横暴をという言葉を地でいく人物だ。これは誰だってそうなのだが彼はさじ加減がどうにも悪すぎる上に露骨だ。
何よりその悪さに当人が全く気付いていないのが問題だった。
「確か敵の攻撃を受けて行方不明になったと聞いていたが」
砦を落とされたことを非難する声はあっても生死の心配をする声は少なくともフェドゥエンは聞いたことがない。ともあれ、そういう人物なのだ。
彼一人だけではなく他数名ということは……。
「撤退し、ようやくここまで合流できたということか」
そうであるのならばエクトーの苦労は並大抵のものではなかったはずだ。敵の追撃をかわしつつ見知らぬ土地を移動するのは個人に求める困難を越えている。
エクトー個人への評価は変わらないが軍人としては考えを改めるべきだ。そうフェドゥエンは思ったが、それは副官によって即座に否定される。
「いえ。それが子爵閣下と思しき方はあちらの林で木に縛られています」
「どういうことだ?」
「それは小官にはなんとも。敵がやったであろうという推測以上のことは」
副官の言うとおりである。評判は悪かろうが貴族である。
捕虜にしておけば身代金を手に出来るなどの使い道があるのにそれをしないのは変だ。
あれこれと推測するのは先回しにしてフェドゥエンはエクトーの身元確認に向かうことにした。彼の部隊で子爵と顔を合わせたことがあるのは彼だけなのだ。
衛兵とともに現場へと向かった彼が見た光景は何とも言い難いものがあった。
騎士服を纏った中年の男が騎兵部隊の指揮官に向かって罵詈雑言の限りを放っている。
声音と使用される品のない語彙は間違いなくフェドゥエンが知るエクトー子爵のものであった。早く縄を解けというだけの主旨の発言だけでよく口汚い表現が出来るものだと関心すらしてしまう。と、唐突にエクトーの口が止まった。フェドゥエンに気付いたのだ。
自分へと向けられる言葉を礼儀正しく無視をして、
「失礼」
と、彼はエクトーの胸元に差し込まれていた二通の書状を抜いた。
両方とも宛名はワルタ解放軍司令官ディーズ将軍宛となっている。
差出人はワルタ方面軍司令官ホワイティア将軍と第一魔軍副将オードと記されている。
改めて縛られている者たちを見る。エクトー以外に見知った者はいない。身なりから推測するに他は皆、騎士階級の者のようだ。
ラインボルトが何を考えているのか全く想像も付かないが何であれ”戦果”を手にすることが出来た。いや、どちらかといえば手土産といった方が良いかも知れない。
喜ばれるか否かは分からないが対面だけは保つことが出来る。
フェドゥエンは自分の懐に書状を収めると兵に命じた。
「子爵殿をはじめ全員の縄を解いて差し上げろ」
そこまで言って彼はエクトーに対して一礼して見せた。
捕虜となり、どういう経緯か分からないものの同胞に保護された安堵とそれを隠そうとする気持ちが合わさったのかいつもよりも口汚い。これが彼なりのストレス発散法なのだろう。だからといってそれにいつまでも付き合っているつもりはない。
「お疲れさまでした、子爵殿。ディーズ将軍を始め軍首脳の方々が心配されておりました。任務がありますのでワルタ市への帰還は今しばらくお待ち下さい」
この手の男への一番簡単な対処は徹頭徹尾下手に出ることだ。軍での序列はフェドゥエンの方が上だが爵位の上ではエクトーが上だ。彼は男爵なのだ。
縄が解かれ、部隊指揮官であるフェドゥエンが下手に出たことで一応の満足を得たのかエクトーは汚い口を閉じて鷹揚に頷いた。少なくとも粗略に扱われないと感じたのか途端に大人しくなる。これで部下たちは仕事に集中できる。
彼らに付けられる従兵が多少哀れだが、これも彼らの務めだ。諦めて貰うしかない。
フェドゥエンは副官にその旨伝えると自身は伝令将校を呼び、エクトーに託された敵将からの書状をディーズ将軍に届けるように命じた。自分は他にも生存者がいないか確認してから戻るとも付け加える。
そして、ふと思った。
同じ敗残者でもヴィレンとエクトーの態度は随分と違うものだな、と。
前衛陣地群崩壊の報はワルタ解放軍首脳部を青ざめさせるに十分であった。
比喩でも何でもなく会議室に召集された彼らは一様に凍り付いていた。
あの陣地群は簡単に陥落するようには作られてはいない。主陣地の城壁には対魔法処理が成されており、それを支える中小の陣地はそれぞれに連携がとれるように配置されている。そして、それが十分に機能するだけの兵数を備えていた。
司令官であるヴィレン・ブロムは年少だが、彼に付けた副司令官は軍歴の長い粘り強い人物だ。ヴィレンには何かあれば副司令官に全てを任せて、彼の采配を見て勉強するようにと言い含めていた。つまり、あの男でも押し止められなかったということだ。
ワルタ市帰還後、ヴィレンたちはディーズに前衛陣地群崩壊の報告をし、今は休息が与えられている。兵たちもそうだが、なによりも急場を脱した少年にこそ休息が必要だった。
ディーズの前には二通の書状がある。すでに封蝋は切られ、会議の出席者に回し読みされている。
ワルタ方面軍司令官ホワイティア将軍からの書状にはエクトーらがなぜ解放されたのかが記されていた。
「…………」
内心でため息が漏れる。情けないという他に言葉が見つからない。
騎士たちは配下の部隊の指揮にやる気がなくなり、木を切り出して木材や薪を作るなどの労役をサボタージュしたり、規定の労役を達成した部隊に与えられる酒を指揮官権限と称して独り占めしてしまうなどが記されていた。
ラインボルト軍としても確かな労働力として捕虜たちを用いるつもりはない。だが、彼らを食べさせなければならない。食費の分だけ働いて貰おうという考えだ。
それに彼らに課せられた労役は捕虜たちの住居を造ることにも繋がっている。捕虜とした工兵と彼らに付けられた兵で収容所の整地や住居の建設を行っているからだ。
冬になる前に人数分の収容施設を完成させなければ寒風に身を曝す者が出てしまう。
ワルタの冬は厳しい。彼らも必死だ。ちなみに周囲の塀や監視塔などの施設はラインボルト側で作っている。
一方、貴族身分にある者たちは表向き魔王の後継者ということになっているので、監視役の従兵を付けられるなどそれなりの待遇を受けている。
その一環として捕虜になったときに身につけていた物――ポケットの中も含む、は全ての私有を許している。その他は没収されるが。
鎧や身につけていた宝飾品などを対価として欲しい物品を購入することも出来る。
エクトーはそれらで従兵数名を買収し、脱走の手引きをさせようとしたという。
何とかして脱出し、友軍と合流したいと考えるのは当然だ。
幻想界には捕虜に関する国際的な条約は存在していない。ただ、武人の倣いとして捕虜はそれなりの待遇に処すべしとあるだけだ。
つまり、捕虜の生命と待遇を決するのは交戦国の善意と打算のみということになる。
それなりの身代金を用意できない、政治的影響力もない小領主に利用価値は殆どない。ならばと、万に一つの可能性に賭けたのだろう。
ホワイティアからの書状にはこう結ばれている。
『貴人にあるまじき態度である彼らを我が軍で処する価値なく、貴軍に返還す。
英雄譚に記されし、岩窟族の勇武と礼節が死せることを哀しむものなり。
誇り高き岩窟族の勇士と剣を交える栄誉が得られることを切に願う』
そして、もう一つ。第一魔軍副将オードからの書状はそれとは真逆である。
ヴィレン、カイツ主従への歯の根が浮くほどの賛美と敬意に満ちあふれている。
捕虜としたカイツを魔王の後継者に謁見させたいとまで書かれている。ここまでくるともはや貴族の待遇ではない。王族の捕虜に準じたものだ。
この書状をヴィレンに見せてやれば精神的に憔悴した少年を立ち直らせる一助となるだろうが、それは後回しだ。
「これは明らかな挑発だ」
全員が書状に目を通したことを確認するとディーズは苦々しげにそういった。
返ってくるのは呻き声しかない。決戦指向のトナム将軍も言葉がない。
援軍の第一陣が到着する前に陣地群が失陥してしまったのだから。
岩窟族の精強をもってすればラインボルト軍など烏合の衆と発言していたが、あまりの戦力差に感想すら口に出来ないでいる。
「前衛陣地群に対する一部例外を除く徹底した攻撃し、我々に復讐心を駆り立てさせたことも挑発と考えるべきだ。つまり、奴らは我々がワルタ市から出陣し、野戦での決戦を挑むように仕向けているのだ」
それはなぜか、と自問自答する。
「市民たちの生命財産を可能な限り失わずにワルタ市を奪還したいと考えているからだと推測できる」
「では、ディーズ将軍はワルタ市にて籠城し、時間を稼ぐべきだと?」
と、トナム将軍の問いにディーズは首を横に振った。
これまで周囲の意見調整に終始していた人物とは思えない。彼に纏わる様々な柵を取り払い、ワルタ解放軍司令官としての権限を行使することに決めたのだ。
「兵理ではそうしたいと考えるが政治的な制約がそれを許していない。ワルタ市議会は祖国への復帰を決めたのだ。復帰間もないワルタ市を戦場としては敵を蹴散らしたとしても今後の統治が難しくなる。また、敵にも市民という枷を失わせることになる。敵は眼前だけではなく、次も控えていることをお忘れになるな」
次とは大将軍ゲームニス率いるロゼフ侵攻軍のことだ。
籠城してホワイティアを退けたとしてもワルタ市が使えなくなれば、兵の休息その他が出来なくなる。それではゲームニスに敗北するのは目に見えている。
政治的には別の見方も出てくる。ラインボルトは捕虜を厚遇しているにも関わらずロゼフがワルタ市民を人質に籠城をすれば近隣諸国から白い目で見られてしまう。
ただでさえ近隣諸国はラインボルトに睨まれて中立という名の見て見ぬ振りをされているところにそんなことになればシカト間違いなしだ。何が何でも味方が欲しいロゼフにとっては痛恨事どころか、瀕死に追い込まれてしまう。
先にディーズが言ったワルタ市議会が祖国への復帰を決議したというのにも関係してくる。涙ぐましいまでの努力をして将兵全てに略奪を厳禁するようにしていたのは『ワルタ解放・ロゼフ復帰』というロゼフの目的を近隣諸国に良いことのように見せるための一環だからだ。もちろん、将兵に略奪なんかさせたら将来手に入る収入が激減するからということも重要な要素だ。
「そして、もう一点。部隊配置が敵に漏れる可能性がある。不定期に貼られる張り紙があることは周知の通りだ」
監視や警邏を厳にしているが未だに犯人は捕まっていない。犯人、つまりラインボルトの手の者が定期的に情報を外に持ち出していると考えるのが自然だ。
事実、LDとホワイティアにはワルタ市の状況報告が届いている。ワルタ市の社会資本を可能な限りの保護するよう命じられている彼女にとって必要不可欠の情報だ。
情報収集と市民の鼓舞、ロゼフ軍が籠城を選んだときは物資集積所に火を放つように命じられている。
これらの任務すべてを同一の者たちが行っているのではない。
幾つもの班に分けられ一つの任務にのみ精励するようになっている。協力したくとも現場の者たちは誰が任務に就いているのか知らされていない。
これは芋蔓式に摘発されないようにするための処置だ。
『うわあああああぁぁっ!!』
唐突に完成が沸き上がった。外からだ。
「なにごとだ!?」
出席者の一人が立ち上がり声を上げた。それに応えるように会議室のドアが開かれた。
「失礼します!」
ディーズの副官だ。魔法部隊の指揮官が彼の後に続く。
「ラインボルトです。ラインボルトが通信魔法を使っています」
副官と交代するように魔法部隊指揮官は前に出ると通信内容を口にした。
それが意味するものは彼らにとって絶望以上のなにものでもなかった。
歓声。歓声。歓声。
各所で沸き上がったそれは波紋のように周囲へと広がり、やがてワルタ市全域を歓喜の声で満たした。
暴動発生かと占領軍の将兵たちはすぐに鎮圧行動に出たが抑えきれるものではなかった。半年以上に渡って続けられていた抑圧に大きな綻びが生じたことを彼らは知ったのだ。
声が届いた。張り紙という不確定な情報ではなく明確な外からの声が。
勝利。解放。ロゼフは出ていけ。
数限りない市民たちの声を前にしてロゼフ兵たちは戸惑いと恐怖を覚えていた。
なにより頭の奥底から響いてくる声が恐ろしかった。
通信魔法には大きな二つの制約がある。
一つは特定個人に通信することが非常に困難であり、無差別に声を届かせてしまうこと。
もう一つはある程度以上の魔力を持っていなければ受信できないことだ。
後者に関しては送信者が大きな魔力を持ち、それを通信魔法に使用すればさして魔力を持たない者でも受信することは可能だ。
本来、通信の秘密を守ることは出来ない魔法だが、今はそれが逆手に取られた。
情報のやり取りには不向きだが、広報活動には有利なのだ。
そして、この通信魔法は対抗処理をしていなければ受信を妨げることが出来ない。
「ブーチさん……」
ロゼフ軍の一兵卒であるダズは縋るような目で年かさの同僚を見た。
しかし、頼りになる古兵は彼に構っている余裕はなかった。呆然と晴れ渡った空を睨み付けていた。ブーチの耳には周囲に沸き上がり、止めることのできない市民たちの歓声がどこか遠い場所でのことのように感じられた。
若い兵たちが頭に響いてくる情報そのものと周囲の状況に脅えていたが、ブーチはそこから半歩先のことを見ていた。
もはやワルタ市は占領地ではなく、敵中になってしまったのだ。
都市全てを覆い尽くす歓喜の声は、何かしらロゼフ軍との間で事件が起きたとき怒りの声に変わることを想像したのだ。その時、自分は生き残ることが出来るのだろうか。
ロゼフ軍は決戦を決意した。それしか手がなかった。
このままワルタ市に居座っていても事態は悪化する一方でしかなく、占領を続けるには何にもまして勝利するほかない。
ワルタ解放軍司令官としてディーズは命令を発した。
それは歓声に対抗するような叫びのようにも聞こえた。
ワルタ市民のみなさん。
こちらはラインボルト軍所属ワルタ方面軍の者です。
方面軍司令官率いる本隊はすでにレルヒを解放し、
数時間前にはワルタ市を包囲する西の陣地群を壊滅させることに成功しました。
他の市町村も同様です。次はみなさんが解放されるのです。
ワルタ市のみなさん。解放の時はもう間もなくです。
後継者殿下は決してみなさんを見捨ててはいないことを忘れないで下さい。
”豊穣の季節”はみなさんとともにあります。
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