第四章

第三話 戦争は当事者だけの問題じゃない?




 航海中の船は非常に慌ただしい。
  風や海流に合わせて帆を張り、時には縮帆、畳帆する。刻々と船底に溜まり続ける汚水も処理しなければならない。荒天に襲われれば荷物などを固定する作業も加わり、忙しいことこの上ない。陸に住む者から見れば滑稽そのものの光景が常時展開される。
  君主が座乗する軍艦であろうとそれは変わらない。むしろ、普段よりも慌ただしいぐらいだ。目も眩むような高いマスト上を行き来する掌帆員たちの危なげない動きを見守っている者がいる。
  彼は目を細めて、眼前の光景とは違う在りし日の情景を見ているようだった。彼も若い頃は――今も十分に若いが――船員たちと同じように慌ただしく動き回っていたのだ。笑みが浮かびそうになるのを押し止めるように嫌なことを思い出してしまった。
  彼がまだ士官候補生であった頃、展帆用意の命令を受けて頼りない足場索と帆架を移動する際に眼前で水兵が落ちたことがあったのだ。助けようと伸ばした手が触れたのは水兵の指先だけだった。落下していく水兵の表情を今も忘れられない。
  頭を割ったその水兵の亡骸を運び、血と内容物で汚れた甲板の掃除を命じられたのも彼であった。
  この世全てが幸いで満たされているのではないと本当の意味で学んだのはあの時であったのかもしれない。そして、海軍士官として船上でも陸でも大騒ぎしていた頃が自分の人生で一番気楽な時期だったのかもしれない。
  少なくとも彼が置かれている状況は気楽とはほど遠い。
  外圧とそれを受けて慌ただしく動き出した内部の者たち。それに対抗するために外から力を求めねばならない状況がさらに気分を沈滞させる。
  この状況を作り出したのは一体誰だ? と考えてみたところで意味がないことを彼は知っていた。突然、海が時化たとき、何かを恨んだところで状況が変わる訳ではないのと同じだからだ。脱するのに必要なのは的確な判断と行動のみなのだ。
  突如、甲高い声が響いた。それに応じるように潮風で錆びた声がした。
「水竜ですな」
  水竜が海面から顔を覗かせ、併走している様が見えた。青い鱗に身を固めた長駆をうねらせながら泳いでいる。水竜は一般に知恵のない駄竜に分類されている。
  普通の獣や魔獣よりも上等の部類に入るが、それでも獣の域をでない存在だ。
「陛下のお力に惹かれたのかもしれません」
「単純に艦隊が珍しかっただけかもしれないぞ」
  陛下と呼ばれた青年、海王プライオス一世は応じた。どちらもあり得ることだからだ。
  プライオスが持つ大海神には海嘯を起こすだけではなく水竜などの大型海棲獣を使役する力もある。水竜が興味を持っても不思議はない。
  そして、彼らが座乗する船はまだ完熟航行を終えたばかりの新造船だ。一般に水竜は新しい船にじゃれつこうとする習性があるのだ。その理由は水竜に聞いてみるしかないので今も謎のままだ。
「完熟航行を終えたばかりだが調子は良さそうだな。バインド提督」
「はい。もう一年も訓練を続ければ総旗艦として恥じないだけの働きをお見せ出来ます」
  アクトゥス海軍総旗艦として建造されたこの艦は現存する軍艦の中で最高の性能を有していると言っても良い。同条件で一対一の勝負をして勝てる船はないだろうと言われている。アクトゥス海軍自慢の次期主力艦の一隻だ。現在、同型艦の建造が進められており、この艦で洗い出された不備を修正されたものが作られている。
  船員の訓練不足ということでまだ総旗艦として代替わりはされていない。
「頼もしい限りだ、提督。それでこそ大海の覇者足り得る」
「はっ。そのお言葉、皆に伝えれば喜ぶことでしょう」
「では、伝えてやるといい。私はもうしばらく風に当たっていよう」
  席を外せ、ということだ。バインド提督は一礼すると職務に戻っていった。
  風を受けて強くはためく王室旗にも、国旗にもなんら不安の色はない。
  威風堂々たるものだ。素晴らしき哉、我が新鋭戦艦よ! と褒め称えても良い。
  しかし、プライオスには全く頼もしく感じられない。確かに現存する艦船の中で本艦は最強だ。選りすぐりの船員。練達の魔導兵を集めて運用されているのだ。
  これで幻想界最強でなくてなんとする。
  しかし、その最強の称号もあくまで同じ艦船に対してのもの。空を征く竜族にはどう対処すれば良いのかさっぱりなのだ。今のところ一番有効だろうとされているのは上空に向かって魔法を放つぐらいだが、心許ないというのが正直なところだ。
  不安に思っているのは彼一人だけではない。連合王国を構成している加盟国の王たちもプライオスと同じように不安を感じているのだ。
  海王の国アクトゥス。
  この国は海聖族が樹立した国家を議長国として、幾つもの中小国家が集まって成立している連邦制の王国だ。
  加盟国家の中で起きた問題はそれぞれの国が処理することになっているが、重要懸案に関しては海王を議長とした最高意志決定議会により処理される。
  各国の王に最高意志決定議会の議決権が与えられ、国力の違いに関係なく等しい権利が保証されている。
  加盟各国は最高意志決定議会とそれに属する機関の調整・命令に服す義務がある。
  それだけではなく、各国の軍事・外交権などは最高意志決定議会に帰属している。
  こうして五大国の一画、海王の国アクトゥスは成り立っている。
  対外的には海王が全ての権力を掌握しているように見られるが、それを握っているのはあくまでも最高意志決定会議なのだ。海王が行うのはその調整に過ぎず、意見が割れ議決が出ないの時には海王の責任で決定を下すことになっている。
  外から見える煌びやかさとは正反対の、自分たちで決められないからと責任を押し付けられる割り合わない役職なのだ。
  アクトゥス加盟国の全ての王には同等の権利が与えられている。その点を利用してリーズが揺さぶりをかけてきている。領土問題で譲歩しろ、開戦となれば自分たちの味方に付け、もしくは動くな等々。様々な形で諸王に圧力がかかっている。
  誰だって竜族は怖い。大国といえども敵うはずがないと思っている。
  支配を受けることになるのであれば、少しでも良い条件を得られる道を模索した方が良いのではないか、と考えても全く不思議なことではない。
  プライオスの加盟国への巡視の旅に最新鋭艦を用いた理由はそこにある。世界最強の軍艦をアクトゥスは持っているのだと自分たちの武威を示すためだ。
  余りにも強大すぎる存在を前に自分たちが五大国の一つであることを忘れかけている者たちに思い起こさせるのだ。自分たちはアクトゥスの構成国なのだと。
  しかし、結果ははかばかしくはなかった。新鋭戦艦だけでは彼らを安心させられないのだ。プライオスもそのことを分かっている。だからこそ、ラインボルトとの同盟交渉を始めたのだ。自らの力が足りなければ、余所から持ってくる。当たり前の判断だ。
  恐らくこの二つがあれば諸王たちも安心を得、リーズとの戦いを決心しただろう。
  しかし、ラインボルトは同盟交渉の最中にロゼフと開戦してしまったのだ。
  開戦するのは良い。領土を侵されて何もしないのは国家として自身を否定することと同義だから。ならば単独でそれをやらずにアクトゥスと共同で当たり素早く戦争を終わらせてしまうべきではないか。
  今の世界情勢を眺めれば岩窟族と小戦をしている場合ではない。まさかとは思うがラインボルトは自らが終わりの鐘を鳴らした竜族の帝政復活を望んでいるのだろうか、と愚かな思考を弄んでしまう。
  ロゼフとの戦争は愚行だと断じながらも、プライオスはその全てを否定するつもりはなかった。彼の巡視の旅もラインボルトが始めた戦争も本質的には同じだからだ。
  自分たちは大国なのだ、と内外に示すこと。要するに周囲から向けられる信頼の問題だ。
  信頼。その言葉にプライオスは酷く陰鬱な気分になった。
  自分は諸王たちから信頼されていない。
  考えてみればこの差は余りにも大きい。魔王の後継者は、手持ちの新鋭戦艦を見せて回るだけの自分とは違い、戦争をしているのだ。
  自分よりも十以上も年下の少年が一国を戦争に駆り立てているのだ。この要素こそが、自分が苦境にある、と感じさせている元凶なのではないだろうか。
  そう、周囲からの信頼こそが彼に欠けているのだ。
  彼は決して無能ではない。むしろ、海王という立場の者に望む才能を有していると言って良いだろう。特に内部調整力と外交力に秀でている。
  リーズと対抗するために組むべきなのはラインボルトと定めたこともそうだし、実際ギリギリまでアスナが同盟締結優先・戦争回避に動いていたのもその現れの一つだ。
  しかし、彼の才能と現状とが噛み合っていない。今、アクトゥスが求めているのは荒事向きの才能だからだ。その才能に欠けていることは先のリーズとの嫌がらせのような小競り合いの際に証明されている。
  故に魔王の後継者に対する感情は明確だ。敬意でも恐怖でもない。
  彼が抱いているのは純粋な嫉妬であった。
「些か風が強くなってまいりましたな」
  御付武官長であるフェイニンだ。プライオスとの付き合いは長く、彼が幼少の頃に付けられた者だ。言うなれば守り役のじいやである。
「そうだな」
  頬に当たる風は先ほどよりも冷たくなってきているような気がする。
「……どうした、爺。世間話をしに来たのではないのだろう?」
  長い付き合いである。彼が誰にも会いたくない気分にあることぐらい守り役の老人が気付かないはずがない。それでも顔を見せたということは何かある。
「もう少し積極的に動かれても宜しいかと存じます」
「というと?」
「小なる者の総和は大なる者に勝ると申しますが」
  連邦国家としてのアクトゥスを例にすれば、海聖族としてのアクトゥス単体は他の加盟国よりも断然大きいが、その他の加盟国全部を併せたものよりも大きくはない、ということだ。
「小なる者を集めるには大なる者が必要です」
「つまり、加盟国の結束に力を注ぐのではなく、ラインボルトとの同盟のみに焦点を絞れということか」
「御意」と頷くフェイニン。
「だが、諸王を無視するようなことにならないか?」
「なるでしょうな。しかし、此度の巡視でも諸王の態度は改まったようには見受けられません。ならば手を代えるしかあるますまい」
  ふむ。とプライオスは頷いた。彼もこのままだらだらと時間を浪費してはいられないと思っていたのだ。フェイニンの言葉でそれは確信となった。
「だが、参戦も物資援助も断られた以上、打てる手はないのではないか? 停戦の仲介なぞ申し出れば逆に恨まれる。どのような国であろうとあれだけの譲歩を足蹴にされれば怒りもする」
  なにしろ、ラインボルト自らがロゼフに足蹴にされたんだから邪魔するなと言ってきたのだから、その怒りようは半端ではないと推測できる。
「恐れながら姫様に魔王の後継者の元へお輿入れいただければ宜しいかと存じます」
「なっ!?」
  プライオスの一粒種。可愛くて仕方のない娘だ。御歳五つの娘を先ほど嫉妬の対象にした男に嫁がせる。その衝撃にプライオスは口にすべき言葉を見失う。
「耳にしましたところ、魔王の後継者は女子供に酷く優しいと聞きます。また、五大国の一つラインボルトと縁戚を結ぶのはアクトゥスにとって何よりの安全保障となります」
  本当に悪い話ではないのだ。同盟のこれ以上ない象徴になるし、リーズと戦争になった際にも援軍派遣に条約以上の強制力を与えることにもなる。
  経済分野での交流も活発になり、両国にとって得るところは大きい。
  当人たちの気持ちを一切、考慮しなければ……。
「また、魔王は非常に子どもが出来にくい存在でもあります。お世継ぎ問題でラインボルトから口を挟まれる可能性はとても低いと思われます」
「だが、すでにエルトナージュ姫が正妻のように扱われていると聞くぞ」
「あくまでも正妻のように、です。公式には寵姫ということになっています」
  父として娘を嫁に出すだけでも一大決心なのに、その相手にはすでに妻同然の女がいるのだ。しかも、エルトナージュが果たしているのは妻としてのものだけではないのは明白だ。
  彼女は政務中であろうと片時も後継者から離れないと聞く。それはつまり、前宰相であった彼女がことあるごとに後継者に助言をしているということだ。どのような立場にある者だろうと横から口だしされるのは面白くない。大功を掲げたとなれば、さらにそう思っても仕方がない。だが、後継者は口だしを許している。
  それはつまり後継者がエルトナージュに酷く甘いという証拠だ。
  父としてそんなところに娘を嫁がせるなど考えたくもない。
  だが、王としての彼はラインボルトと誼を通じるにはこれが最良であるとも理解していた。全く世の中は自分に優しくない。
  人前では決して見せない複雑過ぎる表情を浮かべているプライオスにフェイニンはふっと力の抜けた笑みを見せた。
「まぁ、このような話が諸処で持ち上がっているという話です」
「……ひ、人が悪いぞ。爺」
  拗ねた顔を見せる主君に老僕は一礼する。
「お許しを、陛下。ですが近々、誰かの口から上奏されるかと存じます。副王就任式典にて先方に伝えるのは時期的にも頃合いですので」
「考えておく。……今はそれ以上は言えない」
「今はそれが最良かと。ことは拙速に行うことではありませんので」
  頷くプライオス。
  海風は相変わらず穏やかである。しかし、風を受ける国旗は強くはためいている。
  そう。アクトゥスは大海の覇者であり続けなければならない。決して、再び竜族の水夫に身を落とすようなことがあってはならないのだ。

 五大国の一、サベージの首都カブランディア。
  幻想界で最も多くの、しかし単調なる種族が集う都。己の身に獣を宿す者たちが築き上げた都市だ。カブランディアこそ、獣人たちの誇りであり、自身の英知の象徴そのものである。その全てが虚構ではなく現実であることを満天の下に知らしめるかのような巨城があった。
  全ての獣人たちを統べる存在、獣王が居城ブライティアである。
  月の冴え冴えとした光を受けて浮かび上がる白亜の城に向かって進む馬車があった。
  御者台の両脇に取り付けられたランタンのみを頼りに馬車は王城への道を進む。
  馬車は無紋。酷く地味な印象を与える。しかし、よくよく観察してみればこの馬車は整備も良く美しく磨き上げられているのが分かる。そして、それ以上に目に付くのは馬車を牽く馬だ。並の資産家では持つことは難しいだろう優美にして力強さを感じさせる馬だ。
  馬車は冷え切った夜気を切り裂くようにして城壁の周りを回る。
  石畳とともに軽快な音を響かせていた車輪が緩やかに止まった。着いた先は王城の裏門だ。王城の使用人らが利用する小さな門の前で止まった。
  陽が沈んで随分たつ今はもう門は閉じられている。
「誰何!」
  衛兵の声に応えて御者は手綱から手を離す。そして、懐から棒状の物を取り出した。装飾が施された小さな銀の鍵だ。尻の部分に施された装飾は狼の横顔。
  それを受け取った衛兵は姿勢を正し、御者に頷く。鍵を返すと同僚に開門するように声をかける。自らが居た場所を刻印するように重く軋んだ音がする。
  使用人用とはいえ、ここは王城なのだ。それなり以上に重い扉なのだ。
  城壁の内に入った馬車は進む。向かう先は城内に設えられた蒸留所だ。王城に比すればこぢんまりとした印象を受けるが、その規模は必要な需要を満たすだけの広さがある。
  馬車は蒸留所の扉の前に止まった。御者は落ち着いた調子で馬車の扉を開け、自分の主人に一礼を送る。
  下車したのは些かくたびれた銀髪の男だ。壮年の域にあるように見える。
  賢狼族族長ヴォルゲイフだ。彼は御者が差し出した鍵を受け取ると蒸留所の中へと足を進める。強い酒精の匂いが彼の鼻を刺激する。それに対して感想を抱くことなく彼は背後の従者とともに歩いていく。
  彼は貯蔵庫の一つの前で足を止めた。
「ここまでで良い」
  そういうとヴォルゲイフは従者に任せていた荷物を受け取ると貯蔵庫の中へと入った。
  全てを心得た従者は一礼をすると扉を閉めた。全てを塗りつぶしたような暗闇だけが広がる。月明かりさえ入らない貯蔵庫の中に魔法で作り出した光を放り込む。
  照らし出された貯蔵庫には特別な何かがあるようには見えない。
  彼は奥から四つ目の樽が置かれた棚の足下を手で探った。指先に石が引っ掛かり外れた。
  薄い石の板の下にあるのは鍵穴だ。ヴォルゲイフは御者から受け取った鍵をそこに入れ、回す。カチッ、と小さいがはっきりとした音が響く。同様のことを対面でも行う。そして、彼は中央の通路の床を探り、三つ目の鍵を開ける。そこには取っ手が付いている。
  いつもながら手間がかかると思いつつ、ヴォルゲイフは取っ手を握り、引き上げた。持ち上げられた床の一部の下には階段がある。その向こうには淡い光が灯っている。魔導珠の明かりだ。彼は荷物を手にして階段を下りていく。
  石で作り上げられた通路は狭い。ちょっとした手荷物は持てるが、二人が肩を並べて歩くことは出来ないと思われる。
  暖色の明かりに照らされても、夜気以上の冷たさを感じさせる石の廊下を十分ほど歩く。
  扉がヴォルゲイフの行く手を遮る。到着だ。扉の隙間から魔導珠のものとは異なる赤い光が見えた。
  入室した先にあるのはこれまでの冷たさが嘘であるかのような温かみのある情景だ。
  暖炉の赤々とした炎。周囲の壁は板張りがなされ、床には毛足の長い絨毯が敷かれている。暖をとるには十二分な環境だ。すでに先客がいた。
  一見すると細身だが、分厚い胸板と広い肩幅のせいか逆三角形を思わせる。撫で付けられた茶色い髪を有している壮年の男だ。
「遅いぞ、賢狼の」
  用意されたソファの一つに身を預けていたその男が振り返った。隻眼だ。その男の額から左頬にかけて爪で引き裂かれた傷跡があった。それは明らかに猫科の動物の爪跡だ。
  獣王の位は世襲ではなく次代の賢狼族、聖虎族、天鷹族の族長が戦い勝利した者が王位に就くのだ。強さこそ正しさの証。サベージは尚武の国なのだ。
  そして、隻眼の男の傷はその時つけられたもの。現獣王の爪によってつけられたものだ。
  そのことを彼はいつも笑って、こう話す。
  空を知らぬ獣王が哀れでくれてやったのだ、と。
「遅いと言われてもだな。集合の五分前だぞ。サンジェスト」
  隻眼の壮年――天鷹族族長サンジェストは笑みを浮かべる。
「莫迦者。この場合、時間は関係ない。年上の者よりも遅ければ、その瞬間に遅刻だ」
「年下と言われても一つしか違わないだろう」
「一つであろうと、年下は年下だ」
  筋が通っているような、いないような屁理屈にヴォルゲイフはやれやれと首を振った。
「今代の族長がそれでは、天鷹族も大変だろう」
「私は家臣たちには甘いのだ。時間にさえ間に合えばそれで良い。もっとも彼らは毎度、私を喜ばせてくれるがな。それよりもヴォルゲイフ。今宵はなにを持ってきた?」
  この場には手土産を持参するのが暗黙の了解となっている。サンジェストも自分が腰掛けているソファの側に酒と酒肴を収めた鞄が置かれている。
「どこもかしこも慌ただしくて面白味のあるものはないが……」
  言いながらヴォルゲイフは手荷物の中から琥珀色の液体が入ったボトルを取りだした。
「セインティーグの三十五年が手に入ったので持ってきた」
「……確か三十五年物は醸造所が火災に見舞われて殆ど駄目になったはずだが」
「数少ない無事だったものの一つだと聞いている」
  この酒の意味するところを察し、サンジェストは諧謔の笑みを浮かべた。
「なるほど。この酒が得た幸運を我らで分かち合おうということか」
  二度、三度と頷くと天鷹の長はボトルを手に取り言葉を続けた。
「確かに面白味には欠けるが、意味はある。よかろう。今日の遅刻は許してやる」
「さっそくこの酒の幸運が効果を発揮したようだ」
「ははははっ。そうだな。まったくその通りだ。となれば我らの繁栄はまだしばらくは安泰ということだ」
  呵々大笑と機嫌を良くするサンジェストに同意するようにヴォルゲイフも笑った。
  そう、まだしばらくは安泰なのだ。そう、しばらくは。
「なんだ。なにか面白いことでもあったか」
  声とともに三人目の男が姿を現す。扉を潜るようにして姿を見せた男は大柄だ。全身から覇気を発散しているのが分かる。年の頃は三人と同じ。しかし、膨れ上がった肉体に弛みはなく引き締まっている。
  ヴォルゲイフたちに向ける視線は親しみを宿しているが、それだけでもない。
  武をもって頂点に立った王だからこその威厳がそこにはあった。
  彼こそが獣王、シェヴァリウス三世である。
  しかし、威風払う獣王の気などに全く動ずることなく二人は立ち上がり会釈をした。
「なに、ヴォルゲイフがセインティーグの三十五年物を手に入れたという話だ」
「……ほう。なるほど、それは僥倖だ」
  それだけでシェヴァリウスは察した。
  セインティーグは王室御用達に指定された醸造所の一つだからだ。
「昨今は公私ともに幸運が必要だからな」
  言いながらシェヴァリウスは上座に据えられたソファに腰掛けた。二人にも着席するように促す。
  サベージを支配する三人の男以外にこの部屋には誰もいない。立場を考えるならば非常識に思えるが、彼らは全く気にすることなく自らの手で酒宴の準備を始める。
  自分たちが持ち寄った酒と肴がテーブルに並べられる。
  本日始めにグラスを濡らす酒はヴォルゲイフが持ってきたセインティーグ三十五年と決まった。三人は琥珀色の液体で満たされたグラスを暖炉の上に掲げられた紋章へと掲げた。
  虎、鷹、狼。その全てを有する一匹の獣が描かれた紋章だ。これこそがサベージの体制を象徴する王家の紋章だ。
「三獣はここにあり。我ら天地を駆けし、身体を持ちてこの地を統べる者なり」
  紋章の下部に書かれた言葉を読み上げるとシェヴァリウスはグラスを干した。続いてヴォルゲイフとサンジェストも干す。
  この部屋――三獣の間――でのみ行われる儀式を終えると三人は気楽な姿勢でそれぞれが持ち寄った酒と肴、そして会話を楽しみ始める。
  平民が見れば笑みと共に頼もしさを感じ、ある種の者ならば裏切りにも近い感情を抱いたかもしれない。
  三種族はそれぞれの立場故に様々な場面で競合することが多い。そのため、自然と対立関係となってしまうものなのだが、この通り三種族の長たる彼らは仲が良かった。
  否応なくそうならざるをえなかったと言った方が正確かもしれない。
  獣王とそれを支える副王が二人。この立場は王位継承権を争う戦いの後、変化することはない。武力を用いて王位を奪おうとしても、それは民衆からも他の中小種族からも支持されない。継承の戦いに勝てなかったから武力を用いるのは卑怯卑劣だ、と。
  となれば生涯に渡って公私ともに付き合わねばならない。
  彼らは互いに競合する相手だと認識しているが、同時にサベージという国家を維持、発展させなければならない立場にあるのだ。
  嫉妬や悔恨など様々なものは当然あるし、奇麗に洗い流せるようなものでもない。
  だが、大小様々な苦難を乗り切るためには反目ばかりしている訳にはいかないのもまた事実なのだ。表向きの立場から仲の良さを前面に出すことはないが、彼ら三人は根っこの部分で繋がっている。一蓮托生という訳だ。
  サベージ王家の紋章が全てを表していると言って良い。
  親密度という観点からサベージを見るとまた面白いことに気付く。
  丁度、三角錐を底辺で重ね合わせたような感じになるのだ。
  国家の頂点にある彼ら三人はどの代であろうと仲が良い。
  しかし、国家の中枢から離れ、しかし各種族内でそれなりの発言力を持つ者たちは互いを好ましくは思っていないのだ。そして、一般の国民の殆どは隣人として種族の違いを意識しない付き合いを続けている。言うなればそれぞれの種族の利益を稼ぎ出す者たちが互いへの反感を持っているのだ。
  そして、彼ら中間層の者たちの意見や行動が国家の頂点に影響を及ぼすのもまた事実。
  飼い犬、飼い猫、篭の鳥。
  これらの蔑称を彼ら三人も使う。しかし、それは互いに向けるものではなく、その下にいる者たちに向けてのものだ。獣人たちの楽園とも言われるサベージといえども、そこには様々なものがあるということだ。
「シェヴァリウス。奥方のご加減はどうだ?」
「大分良い。医師の見立てでは来年の春歌祭に出席することが出来そうだとのことだ」
  シェヴァリウスの妻、つまり王妃はここ数年病床にあり、起きあがることも困難なほどに衰弱していたのだ。
「そうか。それはなによりだ。妻を失うのは考えるよりも遙かに重いからな。貴様はまだ我々と同じ気分を味わうな」
  サンジェストもヴォルゲイフも妻を失っている。
「とにかく、礼を言う。貴様の贈ってくれた空くじらの肉がなければ、あれとは共に春を感じることがなかったかもしれないのだから」
「貴様の奥方はサベージでも指折りの歌姫だ。またいつか奥方の歌を聴かせてくれ。それで十分だ」
「伝えておこう」
  大きく頷くシェヴァリウス。
「しかし、空くじらの肉か。貴様、随分と奮発したな」
  空くじらは幻想種に分類される存在だ。その血肉は死の淵にある者を蘇らせ、不老回春、万病に効く薬、そして最上級の美味でもあるというものだ。
  希少価値もあり、非常に高値で取り引きされる。
  シェヴァリウスの手元にも空くじらの肉はあるが王妃に対してであろうと簡単に使うことは出来ない。王としての立場があるのだ。身内のために貴重な物を使うことはどうしても憚られる。身内贔屓と取られるのは立場上、余りにも失点が大きすぎる。
  ヴォルゲイフから空くじらの肉が贈られたことは公にはされてはいないため、私的なことに使える。そういった事情からようやく王妃は快方へと向かい始めることが出来たのだ。
「これでは私から贈らせてもらった寝具一式が色あせてしまうではないか」
「いや。貴様から贈られた寝具は今もあれの身体を暖めてくれている。感謝しているよ」
「そうか。それはなによりだ」
  やがて話題はそれぞれの子どもたちとなる。親ばかそのものの会話が続けられる中、不意にシェヴァリウスの表情が引き締まった。
  グラスの口を撫でていた人差し指が縁を小さく弾いた。二人の視線が彼に集まる。
「そういえば魔王の後継も私たちの子らと同じ年頃だったな」
  その一言で今日の本題に入ったことを知らせた。
  この三獣の間には誰であろうと入ることは許されない。それは他者の目から逃れて親交を深めるためではなく、本来の目的は誰の耳にも入れずに何かを決めるために用いられるためだ。
「戦争。ふんっ、戦争か。全く面倒なことをしてくれる」
  文字通り鼻を鳴らしてシェヴァリウスは言った。
「適当なところで折り合いがつくと思っていたが、開戦するとはな」
  三人が三人とも苦い顔を浮かべる。
  今の状況を作り出した原因の一端は彼ら自身でもあるからだ。
  まずは賢狼族。彼らはラインボルト内乱の際、大量の物資を売ってボロ儲けをしていた。賢狼族として商売をしていたのではなく、傘下にある商家とラインボルトの商家の間で商売が行われていたのだが政治色が強いか弱いかの違いでしかなく、儲けたことに変わりない。ラインボルトが安定したため、今は賢狼族として商売をしている。
  賢狼族一人だけ儲けるのはズルイと天鷹族は竜族からの仲介もあってロゼフに大量の物資を販売して利益を得ている。
  聖虎族も同じようにロゼフとラディウスを相手に大量の物資を売って利益を得ている。
  ロゼフへの物資の販売はラディウスからの後押しのようなものもあったが、実際のところは儲かるからやったのだ。儲けが見込めなければ幾ら付き合いがあろうと手を出さない。
  この段階までならばサベージはボロ儲けでウッハウハな状況なのだが、世の中そう上手くは転がらない。ラインボルトが彼らの予想に反してロゼフと戦争を始めてしまったのだ。
  サベージの予想では、ラインボルトはリーズとラディウスに備えるためにロゼフとの開戦は差し控えるはずだった。
  適当な条件で和解したロゼフから天鷹族は債権を回収する。
  ラインボルトと長期間の睨み合いを続けることになるラディウスは優良な物資調達経路である聖虎族との関係を維持しなければならないので支払いを渋ることはない。
  そして、ラインボルトはリーズ、ラディウスとの睨み合い、国内の復興と大量の物資が必要なので、それを賢狼族から仕入れることになり、さらに彼らは儲かることになる。
  周辺の大国が睨み合いを続けて疲れていく間にサベージは儲けた金で一歩も二歩も先を行く。
  そう考えていたのだ。しかし、現実はラインボルトのロゼフ侵攻である。
  このまま両国の戦争を放置していれば間違いなく来夏にはロゼフという国家は永久に消えてしまう。そうなれば天鷹族の債権は焦げ付き、サベージの経済が困った状況になる。
  サベージとして何かしら動かなければいけない状況になっているのだ。
  だが、ロゼフを支えるためにラインボルトに宣戦布告することも出来ない。
  なにしろラインボルトは自国の領土を侵されても交渉をもって、大幅な譲歩をしてまで事態を平和裡に収拾させようとしたのに当のロゼフがそれを蹴ったのだから。
  世間的に見れば悪いのはどちらか明白だ。それを各国で喧伝しているのだから周到だ。
  サベージだって開戦までなんの働きかけもしなかった訳ではない。あの手この手でラインボルトに対し平和裡に事が収まるよう説得して頑張っていたのだ。
  それはある程度以上に効果はあった。しかし、ロゼフが台無しにしてしまった。
  言うなればラインボルトは国家として退くに退けない場所に追いやられたのだ。
「適当な時期に……そうだな。冬になったら講和の仲介を申し出てみるか?」
  サンジェストはそう言うとヴォルゲイフを見た。シェヴァリウスも同様だ。
  しかし、当の賢狼の族長はさらに苦い顔を浮かべる。
「冗談はよせ。貴様たちもラインボルトの宣戦布告文を知ってるだろう。それなり以上の手土産がなければ聞く耳もたんぞ。連中は私たちも恨んでる」
『…………』
  二人は言葉もなく唸るだけ。ラインボルトだって分かっているのだ。ロゼフの兵站を支えているのはサベージだということを。
「せめてロゼフへの物資提供を止めなければ話すら出来んぞ」
「うちは可能だが……。サンジェスト。貴様の所はどうだ」
「……無理だな。リーズとの付き合いもある。それに少々深入りが過ぎた。損失分を貴様たちが補ってくれるのであれば話は別だが」
  さすがにそれは無理だろう? と目で言ってくる。
  借金は借り主が生きているからこそ意味があるのだ。国家の場合は、死んでしまったからと誰かに返済の肩代わりを迫るなんてことは出来ない。何が何でも生き残って貰わなければならない。
  武力を用いて解決できない以上、講和させて生き残らせなければならないのだ。
  三人の間に沈黙が降りる。パチパチッ、と暖炉の薪が爆ぜる小さな音が聞こえる。
「確かワルタを奪還した後にラインボルトは魔王の後継を副王に就けるのだったな」
  と、シェヴァリウスは言った。
「あぁ。そう聞いているが」
  ヴォルゲイフは、良いのか? と目で二人に問うた。
  自分たちが出席し、彼の息子であるアストリアに介添えの役を受けさせるということはサベージはラインボルト寄りであると幻想界に示すことになる。
  ラディウス、リーズを後ろ盾としている彼らにとっては都合が良くないはずだ。
「この際、名と実を分けるしかないだろう。ラディウスはロゼフとは関係が薄く、リーズも煽り立てた割に動きが鈍い。この辺りが妥当だと考えよう。サンジェスト、どうだ?」
「仕方ない」
  天鷹の族長は頷きとともに同意した。
「このまま推移するのは全体として良くない。ラインボルトにはアクトゥスとともにリーズとも睨み合いをして貰わねばならんからな」
  そう言ってサンジェストは二人を見た。彼らは頷きで同意する。
  大国を後ろ盾にしているとはいえ、彼らはあくまでもサベージの王族だ。後ろ盾として使えるのであれば良いが、あまりにも強大になってもらっても困るのだ。
  サベージは自らの独立を守るために三つの大国の力を利用しているのだから。
  そのためにラインボルトと関係を修復するのも悪い選択ではない。
「それに良い機会でもある」
  と、サンジェストは続ける。
「ラインボルトだけでは飽きたらず幻想界をも掻き回し始めた魔王の後継を貴様に見て来てもらわんといかん。サベージにとって利となるのか否か」
「確かに、そうだ」
  と、シェヴァリウスは頷く。
「伝え聞いたところでは、彼は周囲に担ぎ上げられているだけの存在ではない。自覚的に王としての役割を果たしている。貴様たち、この意味が分かるか? 彼は王であることを利用しているということの意味を」
  この評価は多分にアスナを持ち上げ過ぎではあったが、事実の一面を表してもいた。
  伝統も血統も持たないアスナは王位というものを職業の一つとして捉えている。そして、王という職が有する絶大な権力を多少、濫用しても問題ないということにも気付いていた。
  そうでなければ、内乱後の処理で革命軍の殆どを原隊に復帰させる命令など出せるはずもない。反乱を起こした者、荷担した者は死刑という軍法を、魔王がいない間に起きたことだから、という滅茶苦茶な理由でねじ曲げただけではなく、他者に表立った反対を言わせなかったのだ。
  そのような人物が隣国の王となるのだから、心配してもし過ぎるということはない。
  彼ら三人はそれが如何に洒落にならないことか理解している。絶大な権力を有しながら、同時にこの国全てから縛り付けられている彼らだから理解できる。
  だからこそ、ヴォルゲイフに魔王の後継者に会ってきて貰う必要があるのだ。
「利があるのならば良し。しかし、もし危険だと感じたのならば、どうする?」
  ヴォルゲイフの問いに二人は答えを窮した。現状ではロゼフに手を貸し、参戦ということは出来ないからだ。世界中から極悪人扱いされる。それだけではなくラインボルトとの関係を深めようとしているアクトゥスからも恨まれる。割に合わなさすぎる。
「義勇兵でも送ってみるか? 我らに手を出せばどうなるかその身で分からせる」
  シェヴァリウスは葉巻に火を付けながら言った。
  義勇兵はその名の通り私的な動機で戦争に加わった者たちのことだ。戦争に勝ってもサベージが直接的な旨味を得ることは出来ないが、介入することは出来る。
  要するにささやかな牽制、嫌がらせだ。
「義勇兵の看板を背負っていてもラインボルトから恨まれる。それに今回の戦ではロゼフに大義がなさすぎる。大した人数は集められん」
  サンジェストは首を振る。天鷹族はそのロゼフに物資を提供しているが、それは単純な商売の話だ。儲け話に大義など関係ない、という訳だ。
「むしろ、ラインボルトとの交渉の際に義勇兵の噂があると流した方が良い。このまま戦争が続くと彼らを抑えるのは難しいとでも言ってな」
「後継者は今のところ、個人としてはサベージに対して好意も悪意も持っていない。ならば、今の内に好意を得ておいた方が良いと考える。ラインボルトが相手をすべきなのはリーズであり、ラディウスだと思い出させてやれば良い。サンジェストの言うとおり和平の仲介役を任されてもいいかもしれない」
「それで、賢狼の。ラインボルトはそれなりに面子を立たせてやれば引くだろうが、ロゼフはそう簡単にはいかんぞ」
  紫煙を吐きながらシェヴァリウスは聞いた。
  領土を侵されて黙っていられる者はどこにも存在しない。もしいるとすれば余程の制約がその者を縛り付けているということだ。
「その時は我々もロゼフに宣戦布告して、ロゼフ王を退位させ適当な王族の名で後継国家を樹立させれば良い。ラインボルトには彼らが占領した地域を割譲させて納得させ、我々はロゼフへの負債が焦げ付かずに済む。ロゼフも命脈を保てる」
「悪くはない。悪くはないが軍は誰が出す。私はリーズとの関係から出せんぞ」
  それだけではない。ロゼフは天鷹族の領地と接している。戦後の付き合いを考えると兵を差し向けるわけにはいかない。彼は岩窟族からの非難に対する逃げ道を用意しなければならない立場でもある。
  天鷹族にとって、ラインボルトがロゼフを併呑してしまうと困る理由がもう一つある。
  ラインボルトの万が一の侵攻に備えて守りを固めねばならないことだ。そのためにかかる費用は目を覆いたくなるほどになるはずだ。ラインボルトと国境を接する賢狼族はラインボルトを後ろ盾とし、長い年月をかけて軍事的な緊張を緩和させて、軍事費が増大しないよう心を砕き続けている。しかし、リーズを後ろ盾としている天鷹族にはこの手が使えない。
  そのことに敢えて言及せずにサンジェストは自分の左目をくれてやった相手に水を向けた。
「シェヴァリウス、貴様の方はどうだ?」
「後方支援と獣王としてお墨付きを与えるぐらいだな。サンジェストほど軍を動かすことに制約はないが、ラインボルトと共同でとなるとラディウスがへそを曲げかねん」
  二人の視線は自然と発案者であるヴォルゲイフに集まる。彼は当然の反応だと頷く。
「兵は私の方で出そう。先王の崩御以来、細くなったラインボルトとの糸を太くする良い機会でもある。ただ、貴様たちも何もしないでは済まされんぞ」
「分かっている」
  と、サンジェストは頭髪を撫で付けながら返事をした。リーズに妙な勘ぐりをされず、また配下の者たちをどう納得させれば良いのか考えているのだ。
  シェヴァリウスは二人を見回し、
「今後の方針はそれで良いな。ラインボルトとの交渉はヴォルゲイフが、ロゼフとの交渉は私の方でやろう。サンジェストは自分の足下をしっかりとな」
  二人から同意の頷きを得るとシェヴァリウスは気楽な笑みを浮かべた。
「では、難しい話はここまでだ。……サンジェスト。先ほどから少し気になっていたが、その包みはなんだ?」
  サンジェストのすぐ側には白布で包まれた瓶と思しきものが置かれている。
「ん? これか。珍しい調味料が手に入ったから貴様たちにも試してもらおうかと思って持ってきた」
  話ながらサンジェストは白布を解いた。現れたのは黒い液体で満たされた小振りの瓶だ。
「とある国から輸入したものだ。醤油、と言うそうだ」

 改めて言うまでもなくサベージという国家は賢狼族、聖虎族、天鷹族という三つの鼎の足があることで成立している。この三種族はそれぞれに大国を後ろ盾としている。
  リーズとアクトゥスが衝突しようとしており、ラインボルトはロゼフとの戦争の真っ直中にあり、ラディウスとも睨み合いを続けている。
  この情勢下でサベージがどう動くのか。
  各国の外交官や間者たちの視線は首都カブランディアに集中していた。
  現状においてサベージは幻想界に最も大きな影響を与える国であった。しかし、それは同時に舵取りを失敗すれば各国から必要以上の恨みを買うことも意味していた。
  諜報と工作に奮闘しながら、外交官たちはとある少女の動向に注目していた。
  少女の名はニルヴィーナ・イーフィスタ。
  サベージの副王にして三獣公の一人である、賢狼族族長ヴォルゲイフ・イーフィスタの愛娘だ。御歳十六。そろそろ縁談が持ち込まれるお年頃だ。
  王族の娘がどこに嫁ぐのかは常に注目される。それに加えて現今の幻想界の情勢を鑑みれば、ニルヴィーナの婚儀はサベージの方針を象徴することになる。
  サベージの姫たちの中で年頃の娘が彼女一人とあればなおさらだ。
  しかし、当人は暢気なものだ。今日も首都にて政務に追われている父と兄に代わって客の相手をしていた。父や兄と共に客人の相手をすることもある彼女にとっては馴れた席だ。
「素晴らしい毛並み。これが元は魔獣のものであったとは信じられませんわ」
  ニルヴィーナは銀の毛並みの膝掛けを撫でながら言った。絹よりもさらに滑らかで冷ややかな感触がある。その反面、膝はとても暖かだ。
「職人たちの研鑽の賜物です。我がエンハントは小さき国ではありますが麗しき山河と職人たちの勤勉さだけは他国に誇れると自負しております」
  南部諸国の一つエンハントの王太子クロルは温顔をさらに綻ばして応じた。心からの言葉であることがよく分かる。穏やかな声音と巨躯が頼もしさを感じさせる。
「しかし、それもサベージから良質の毛皮を融通していただけるからこそです。今後とも良き間柄でありたいものです」
「殿下の仰られる通りですわ。父も殿下のお人柄を耳にしてお会いできる日を楽しみにしていたのにと残念がっておりました。御国との間柄をさらに強くしなければならなぬぞ、と兄に申しつけておりましたわ」
  実際、エンハントはインティナ山脈を初めとする山々に囲まれた小さな国だがサベージにとっては大切な国であった。先の会話からも分かるとおりこの国は毛織物や毛皮の加工など手工業が盛んだ。
  そして、サベージは土地柄魔獣の発生率が高く良質の毛皮を手に入れやすい。
  その毛皮をエンハントに売り、膝掛けやコートなどに加工、出来たそれらの品をサベージが大口の顧客となることで販売窓口となるのだ。
  言ってみればサベージは材料販売と問屋を兼業しているようなものだ。
  エンハントの毛皮その他は幻想界でも良質だと知られており、二重の利益を得られるこの国との関係を重視するのは当然であった。
  だからこそニルヴィーナが彼の相手をしているのだ。単純に美姫に接待をさせてご機嫌をとるためではない。これは非公式な見合いの席なのだ。
  もし、彼女がクロルに嫁げばサベージ向けの製品の賢狼族への割り当てが多くなり、またエンハントの技術を会得するためにサベージから徒弟を送り込むことも可能になる。
  短期的な利益はもちろん、長期的に見ても彼女が嫁ぐのに大きな意味があった。
「過分なお言葉です。賢狼公には是非とも我が国にいらして頂きたいものです。その際には姫もご一緒に」
「機会があれば喜んで伺わせていただきます。話に聞く夏の緑とインティナ山脈の永久冠雪の白がとても美しいそうですね」
「えぇ。インティナの山々を彩る白い輝きは夜を彩る銀星に劣ることはないでしょう」
  銀星の姫とも評されるニルヴィーナと自国の誇りうる山々の美しさは同じであるということだろう。自身で似合わない言葉だと思っているのかクロルの頬は微かに赤い。
  純朴そうなその仕草にも好感が持てる。クロル個人としても悪くない相手だ。
  君主として多少は頼りなくはあるが、優しい気性の人物で夭折した婚約者の墓前に毎年花を手向けていることが良く知られている。
  エンハント国内は良く治まっており、彼自身も民から人気もある。さして大きな問題がないのであれば彼のような性格の君主であった方が無難だ。
  またエンハントは歴代君主が毛皮加工で得た利益を元に美術品の蒐集、芸術家の保護を行ってきたため文化大国としても知られている。サベージの姫の嫁ぎ先として不足はない。
  何よりニルヴィーナに初めから否はない。父の命に従うのみだ。
  より正確に言えば自分が嫁ぐことでサベージ、賢狼族にとって利益が出るのであればそれで良い。幼い頃からそのように教育されてきたのだから。
  彼女が自分の結婚について気にするのはその点のみだ。そして、嫁ぎ先を決める父をニルヴィーナは信頼している。
  この辺りの事情は何処の王侯貴族、富豪でも変わりない。
  クロルとの結婚に否がない最大の理由は彼から香る幸せの匂いのおかげだ。彼の元に嫁げば大過ない日々を送ることが出来るだろう。
  遠くにインティアの山々を望む草原を駆け回る子どもたちを慈愛に満ちた面持ちで見守るクロル。彼の傍らには幸せで満ち足りた自分がいる。
  そんな光景をニルヴィーナは思い浮かべることができた。クロルにはそういう雰囲気がある。彼とは顔を合わせることはあっても、今日まで挨拶以上に言葉を交わす事がなかった為、噂程度にしかその人柄は知らない。それでも良縁だと思える。
  確かにヴォルゲイフは娘にとって幸いな相手を見付けてきている。
「失礼します」
  二人の席に歩み寄ってきたのはニルヴィーナの侍女であり学友でもあるフェンだ。彼女はニルヴィーナにあることを耳打ちをした。
  伝えられたことに幾らかの逡巡すると彼女はクロルに顔を向けた。
「アーディ家の子息が殿下に毛皮を献じたいと申しております。臣下のご無礼をお許し頂けませんか?」
「喜んでお会いしましょう。アーディ家は確かイーフェスタ家に連なる氏族でしたね」
「はい。古くから我がイーフェスタを支えて下っている家です」
  アーディ家は賢狼族の中でも有数の名家の一つだ。しかし、無骨にして純朴な気性の者が多い家であるため時が流れると共に家名とは不釣り合いなほどに小さくなってしまっていた。それでも名家であり、歴代の当主の純朴さは賢狼の長に愛され近侍として登用されている。ヴォルゲイフの近侍もアーディ家の現当主だ。
「彼は養子ですが、先の選定の儀において第二位者となった剛の者です」
  獣王の位は武をもってその地位を競う。となればその候補者を排出する三種族は自らの政権を確立するために強い者を出そうとするのは道理だ。
  そのため各種族とも貴賤に関わらず獣王候補者、つまり各種族の族長の位を競う場を用意した。所謂、獣王になるための予選と言えるだろう。
  血の高貴さよりも武を重んじる点がサベージならではである。
「賢狼族の勇者にお会いできるのは思わぬ僥倖です」
  笑みを浮かべながらクロルはそう応えたが声音が硬くなっている。
  武に置ける賢狼族の第二位者ということはニルヴィーナの夫候補の一人だからだ。自分が好意を向ける女性を競う相手と会うことを好ましく思う男は殆どいない。
「では、フェン。お連れして」
「はい、姫様」
  フェンはクロルに対して一礼すると退室した。彼女の姿が扉の向こうに消えたことを確認すると巨躯の王子は尋ねた。
「アーディ家のご子息はどのような人物なのですか?」
「名はカイエ。元は狩人の息子ですわ」
  サベージに限らず狩人はある種の特権者だ。山林に潜む獣は数が限られ、それ故に一部の者にのみ山林に入り、獣のを狩ることが許される。
  また素人では遭難し悲惨な末路を辿ることになる場へ赴き、獣を狩る彼らをサベージでは勇気ある者と見なしている。山林にはただの獣だけではなく魔獣も多く棲息しているからだ。肉食獣系の獣人族の名家はその殆どが狩人を始祖に持つことからもそれが分かる。
「選定の儀の後、彼を迎えたいと申し出る家が後を絶たなかったのですが、その中で彼がアーディ家を選んだのは幸いでしたわ。彼は不器用な方のようですからアーディ家の家風に合うでしょうから」
  一時期、彼女の夫になる男たちの中で最有力候補だった人物をニルヴィーナは笑みを浮かべながら不器用と評した。
  権力も財力もある名家から誘いがあったのにカイエは名しか残されていないアーディ家を選んだ。全く賢いのか不器用なのか分からない選択だ。
「殿下と気が合うかもしれませんわね」
「……それは私も不器用だということでしょうか?」
「さて、どうでしょう」
  クスクスと笑うニルヴィーナの姿にクロルは内心に生まれつつあった毒気を抜かれていた。程なくしてノック音がした。ニルヴィーナはクロルに視線を向けた。彼は許しの頷きを見せる。
「どうぞ、お入り下さい」
「失礼します。カイエ・アーディ殿をお連れしました」
  フェイと共に二人の男が入室した。一人はニルヴィーナ付きの騎士であるオーリィ。彼はニルヴィーナの隣に立った。護衛のための措置であり、謁見をそれらしくするための演出だ。
  その後、もう一人が彼女らの側まで歩み寄ると跪いた。
「ご尊顔を拝し奉り恐悦至極に存じます。カイエ・アーディ、両殿下に拝謁致します」
  良く通る声だ。彼の遠吠えは遠くの場所にまで響かせることが出来るだろう。
  年若い同族の女子ならば思わず聞き惚れてしまう。そんな声だ。実際、ニルヴィーナもこの黒髪の青年の声を気に入っていた。
「殿下、この者にお声を」
  ニルヴィーナの促しにクロルは頷いてみせる。
「良く来られた。貴公の名は聞き知っている。賢狼の勇者との知己を得られたことを嬉しく思う。直答を許す」
「はっ。ジンデナ山にて討ち取りました魔獣の毛皮を献じたく罷り出ましたことお許し下さい。此度のサベージ来訪の品としてお納め下さりますよう伏してお願い申し上げます。まずは我が手により討ち取りました魔獣の毛皮をご覧下さい」
  とのカイエの声に従い、外で待機していた彼の従者たちが入室する。
  従者十人掛かりで運び込まれた毛皮がニルヴィーナたちの前に広げられる。皆、従者らしく顔を下げたままだ。
「おおぉ」
「まぁ」
  感嘆の声が二人の口から漏れる。その毛皮は明らかに大きすぎた。十人もの逞しい男が全員で保持しなければならないほどに大きい。夜空を思わせる艶のある黒毛。毛皮だけとなったにも関わらずその威容を示し続ける巨大な熊型の魔獣だ。
  これほどまでに巨大な魔獣が現れることはサベージでも珍しい。
「私も年に何度か魔獣の討伐を父王より命じられるが、これほどのものが存在しているとは。神威を感じさせる巨大な魔獣がサベージにはいると聞くが真実であったのだな」
  この巨大さの前では衝撃以外にはなにもない。率直な驚きの表情のままにクロルはカイエに尋ねた。
「本当にこれを討ったのか。貴公が」
「はい。ジンデナ山にて魔獣を統べつつあったこの大熊を討伐せよとのディテイン公の命により、こちらに揃う我が家中の者とともに討ちました」
「ほう。アーディ家はイーフェスタ家の勃興の頃から側近くで護りの爪を振るってきたと聞くが郎党の者共も勇武の士がが多いようだな」
  この時初めてクロルはカイエの従者たちに意識を向けた。
「皆、顔を見せよ」
  クロルに言葉に従って従者たちは顔を上げた。どの顔も緊張で強張りながらも自身に与えられた名誉の大きさに興奮を隠し切れていない。
「皆、良き顔だ。私はその毛皮を見たときカイエ殿とそなたらのことを思い出すだろう」
  このような場では従者は居ないものとして扱われる。その彼らに意識を向けさせたのはカイエなりの従者たちへの褒美なのだろう。
  金品での褒美が薄い彼らにせめて名誉だけでもと。王位継承者に勇武の士と認められたことは故郷に錦を飾るとまではいかなくとも、十分な箔の付き、それなりに明るい将来が約束される。そこそこ大きな農家から婿に来ないかと声ぐらいはかけられるかもしれない。
  この巨大熊を討つためにどれだけの苦闘を強いられたかは想像することもできない。しかし、雲上の存在とも言うべきクロルから声をかけられただけで彼らは報われただろう。従者の中には泣いている者もいるのだから。
「ディテイン公も頼もしいことだろう。このような強大な魔獣を打ち倒すだけの勇者を臣下に持たれて羨ましい限りだ」
  ディテイン公とはニルヴィーナの兄、アストリアのことだ。
  元々ヴァルデ公という称号を有していたが、次期賢狼族族長となることが決したと同時にその証であるディテイン公の称号も有するようになった。
  ディテインとはイーフェスタ家の始祖が領した地の名前だ。
「いつまでも勇者に膝を付けさせ続けるわけにはいかないな。席を与えよう。その大熊を討った際の話を聞かせて貰いたい」
「光栄です、殿下」
  深々とクロルに対して礼をするとカイエは従者たちに退室するように頷いてみせる。
「あぁ、毛皮はここに置いていくが良い。その方が実感が湧くというものだ」
  クロルにそう言われたが従者たちであったが毛皮を床に広げるわけにもいかず困る彼らを侍女のフェンが指示をして大熊の全身がよく見えるように設えられる。
「もう少し右だ。そう。……うむ、それで良い」
  などと指示をするクロルを見ながらニルヴィーナは、まるで子どものようだと思った。
  大きな身体に似合わない幼い子どものような表情を彼は浮かべている。
  今の彼の頭の中にはカイエがニルヴィーナを争う相手であることは消えてしまっている。彼のこう言った性格は美質であると同時に欠点でもある。しかし、当人はそれが欠点であるなどと全く思っていない風にカイエと言葉を交わしている。
  本当に不器用な方、とニルヴィーナは好意的な笑みを浮かべた。
「まだ日は高いですが酒肴をご用意しましょうか?」
「いや、しかし……」
「兄がいつも狩りの後の酒宴は楽しいと。でしたら、狩りの話をしながらお酒を頂くのも一興ですわ。フェイ、手伝って。オーリィ、お二人の警護を任せます」
「はい、姫様」
「承知いたしました」

 イーフェスタ家も遡れば狩人に行き着くという。より正確に言うならば狩人集団の長だ。
  賢狼族の領内には彼らが討ち滅ぼしたとされる魔獣の残滓と言われる物が残されている。
  討った魔獣は確かに並のそれよりも強大な力を有していたが、聖虎族と天鷹族に比するとどうしても色褪せてしまう。前者は幻想種を討ち、後者は竜族を討ったという。
  獣人という枠組みで見るならば賢狼族の強さは中の上といったところだ。その彼らが王族足り得たのかは非常に簡単な理由がある。
  集団での戦いを得意としたからだ。そして、その延長線上で他の種族との協調、従属体制を他の二種族よりも早く確立させたことにある。
  天鷹族、聖虎族がピラミッド型とするならば、賢狼族は強烈な求心力を発揮しながら多種族を引き寄せる太陽と惑星その他の関係といったところだ。
  そういった関係から多種族との関係を密にする目的で狩りを催すことが多々ある。そこにニルヴィーナも当然、顔を見せる。
  父と兄の反対もあって狩りそのものには参加したことはないが、獲物を捌き調理することに馴れている。狩人を祖とする貴人としての当然の嗜みだ。
  そう言ったわけでニルヴィーナは侍女のフェイとともに肴になるものを調理していた。
  二人が狩りの話題に華を咲かせているのだから、それにあった野趣を感じさせるものの方が面白いだろう。
「クロル殿下の印象はいかがですか?」
  背後で大振りの肉を串に刺して火で炙っているフェイが尋ねてきた。
「良い方だと思いますわ。周りの人たちからも愛される方のようだし、カイエ殿ともすぐに打ち解けて」
「そうじゃなくてですね、ニーナ様」
「ふふふっ。分かってますよ。生涯を共にする相手として、でしょう? ですけど、それはお父様が決められることだもの」
「そうでしょうけど、長はニーナ様のお気持ちも十分に考えてくださるはずですよ」
「だったら、フェイはどう思う?」
  はぐらかしましたね、と一睨みするもののフェイは「そうですね」と話の流れに乗った。
「殿下のお人柄を察するにニーナ様のことをとても大切にして下さると思いますよ。エンタントも話を聞く限り穏やかな国のようですし。静かに過ごすことを望まれるのは良縁だと思います。ですが……」
「面白味に欠ける?」
  苦笑するフェイ。
  もし、アストリアが賢狼の長を継承する戦いに敗れていればニルヴィーナはその勝者になる者に嫁ぐことになっていた。いわば賞品だ。
  勝者は長になるが政治的な教育を受けていない。そんな者に賢狼の将来を全て任せる訳にはいかない。その際は妻となるニルヴィーナが内助の功として、腕を振るうことになる。
  その時、フェイはニルヴィーナの秘書として補佐することになっていただろう。
  確かにそういった将来があり得た者としてクロルは面白味に欠ける。
  では、サベージ国内では最有力候補と見られているカイエはどうかというと……、
「姫様、ディテイン公がお戻りになられました」
「お兄さまが? カブランディアで政務に追われていると伺っていましたが」
「なんとか時間を作って駆け付けた。他国の王族を迎えるのに失礼があってはならないからな。友人ともなれば尚更だ」
  と、赤毛の青年、アストリアが顔を出した。
「お帰りなさいませ、お兄さま」
「うん。今戻った」
  久方ぶりに会う最愛の妹に笑み崩れるが、すぐに眉を寄せた。。
「殿下を放り出して、こんなところで何をしている? オーリィに殿下のお相手をさせているのか?」
「先ほどカイエ殿がいらして狩りの話などされてますわ。私は酒肴の準備をしているところです。以前お兄さまが討伐を命じられた魔獣の毛皮を殿下に献じられて、その時の話をされているようです」
「……そうか。毛皮をか」
  カイエの名と、魔獣の毛皮の件を耳にしてアストリアは表情を重くした。
「えぇ。私も拝見しましたがとても立派でしたわ。殿下も子どものようにはしゃいでらっしゃいましたわ。もうすっかりお気に入りのご様子」
「そうか」
  表情を変えずに同じ返事をアストリアはした。
  苛立ちに近いがそれだけではない。どちらかと言えば落胆に近い匂いを兄から嗅ぎ取った。兄は、カイエがあの毛皮を自分に献じることを期待していたからだ。
  毛皮そのものが欲しかった訳ではない。カイエがそういった行動を自主的にすることを期待していたのだ。
  カイエは今では賢狼の次代の第二位にある者だ。魔獣討伐という武勇もあり、士族や貴族の若者たちの中心的な人物にいつの間にか収まっていた。
  溌剌とした空気と堂々とした振る舞いから青年たちの間では英雄視さえされている感がある。彼らにとっての太陽といったところなのだろう。
  賢狼族の次期族長はアストリアで決まっている。本来ならば太陽はアストリアでなければならない。カイエが輝くとするならば月のような立場でだ。
  しかし、そのことにカイエは気付いていない。周囲もそのことに気付かせようとしない。
  今回の魔獣討伐の一件もアストリアが差し出した手であった。
  もし、カイエがアストリアの思うとおりに行動していたならば、兄の側近くでそれなりの役職を与えられたことだろう。また、共に魔獣退治を担った者たちもそれなりの教育を受けて軍の下士官、経験と功績を積めば士官にもなれたかもしれない。
  それだけの厚遇を与える準備をアストリアはしていた。またクロルへの贈り物として彼もまたそれなりの大きさの魔獣を討伐し、その毛皮を用意していたのだ。
  今回のカイエの行動はそういった様々なことを潰してしまっていた。
  それでもアストリアはこれまでと変わらず、今後もカイエに無言の手を差し伸べるだろう。では、そのことをアストリア自ら、もしくは内意を受けた誰かがカイエに伝えれば良いと思うかも知れないが、それでは意味がない。あくまでも彼自身、もしくはその取り巻きからの忠告を受けて動かなければならないのだ。
  自ら意識しなければ月になどなれないのだから。
  そのことを知るニルヴィーナはだからこそカイエの行動を止めなかった。すでにイーフェスタの従者たちが屋敷に訪れたカイエにそれとなく伝えたはずだ。
  それでも献じたいというのであれば止める理由はない。
「あの方も悪い方ではないんですけれど」
  と、苦笑するに留める。そんな妹の様子を見たアストリアは小さくため息を漏らした。
「ニーナは彼のことを……」
「えぇ。世評通りの方だと思ってますわ」
  側にはフェイがいる。誰の前であろうと兄に臣下の悪口を言わせるわけにはいかない。ニルヴィーナは先回りにそう言った。
「それに私には嫌う理由もありませんもの」
  そして、好意を抱く理由もない。
  彼からは何の匂いもしないのだ。幸せも不幸もその他なにも匂いがしない。
  父と兄はニルヴィーナが逆に心配になるぐらいに幸せの匂いがする。フェイとオーリィ、彼女の周囲にいる侍従たちもそうだ。
  臣下や多種族の中には明らかに不幸の匂いのする者もいれば、民衆たちのように好機の匂いのみを発する者もいる。誰にでも何かしらの匂いがあるのだが、なぜかカイエだけは無臭なのだ。彼と対面をしたときは些か以上に混乱したが、今は彼女なりの結論に達していた。無臭こそが彼の匂いなのだ。
  カイエ・アーディは彼女にはなんら影響を与えることが出来ない、と。
  初対面の時には様々な匂いが彼を纏っていた。しかし、再会した彼は無臭であった。
  その間に何があったのか彼女には知る由もないし、調べるつもりもない。
  結局のところニルヴィーナは父の決めた相手と婚儀を行うことになるのだから。
「ニーナ様。こちらはそろそろ出来上がります。そちらはどうですか?」
「私の方はもう少し。……それはそうとお兄さま?」
「なんだ?」
「お皿を出して頂けないかしら。それと料理にあったお酒もお願いしますね」
「そういったことは酒蔵を任せているマダスカに用意させれば良いだろう」
「本日の趣向は狩りの後の宴ですもの。宴に加わりたくば働くべしという流儀に則って下さい」
「分かった。だが、ニーナ。狩りには獲物が必要だろう。それはどうするつもりだ?」
「それはすでに用意されていますわ。カイエ・アーディが討った魔獣。これで十分でしょう?」
  兄としてはささやかな反撃のつもりだったのだろうが、ニルヴィーナによってあっさりと返り討ちにあってしまった。アストリアは苦笑を浮かべるとテーブルの上に皿を並べると酒を取りに向かったのだった。

「お待たせしました」
  その言葉とともにニルヴィーナはクロルたちが待つ部屋へと戻った。フェイも後に続く。二人とも料理を持ってきていない。
  ニルヴィーナはすぐにばれるイタズラを仕掛けた子どものような笑みを浮かべている。
「狩りの話をされているのでそれに合わせた趣向を用意いたしました。フェイ」
「はい」
  と、返事をするとフェイはテラスへと続くガラス戸を開いた。室内に流れてくる微風がカーテンを揺らす。外へと招くように動く陰影に合わせるようにニルヴィーナは手振りで庭を指し示した。
「さっ、どうぞこちらへ」
「姫の趣向ですか。これは楽しみです」
「あまり期待をされても困りますが、楽しんで頂けると嬉しいですわ。……カイエ殿もこちらに」
「はい。姫様」
  ニルヴィーナに先導されて男二人が庭へと足を踏み入れる。そこには良く手入れされた庭園が広がっている。日の光を受けて色とりどりの草花が輝いているように見える。
  幼い頃は兄やフェイ、オーリィと共に駆け回り、何度も老庭師に叱られたものだ。その老庭師も三年前に隠居を申し出、叱られている様を笑って見ていた母ももういない。
  時は流れたがここから見える景色に変わりない。恐らく、これからもずっと……。
「して、姫。どこへお連れ頂けるのでしょう?」
  ふと胸によぎった感慨を心の奥に仕舞い、ニルヴィーナは笑みを浮かべ、
「少し遠いですがあちらに」
  と、が指さす。その先には林が広がっている。庭園に寄り添う様に広がっている。もちろん、この林も自然のものではない。人工林だ。
「なるほど。狩りらしく林の側で、ということですか。して本日の獲物はなんですか?」
「鹿とイノシシ。熊はもうカイエ殿が仕留めていますわね」
「姫様にシシを仕留められたとあっては私の獲物は霞んでしまいます」
「あら。その言葉は心外ですわ。これでも年に何度か狩りをするのよ。今日、仕留めた獲物よりも大きなものを仕留めた事もありますわ。覚えてらっしゃるでしょう、殿下?」
「えぇ。確かにあれは見事でした」
  二年前に訪れた時のことを思い出しクロルは苦笑した。

 賢狼の姫として一度ぐらいは狩りを経験しておけ、とヴォルゲイフに言われて同行した狩りでニルヴィーナは思いがけない展開を経験した。
  狩りそのものは“予め予定”されていた通りに動いた。狩りを経験しろと言ってもそこは娘が可愛いヴォルゲイフである。獲物がゼロでは可哀想だし、大物と出くわして大怪我を負っても困るということで事前に生け捕りにした小柄な鹿を放っていた。
  淑女の嗜みとして一通り武具の扱いには馴れていたが、初めての狩りということもあり全く仕留めることが出来なかった。それでも夕暮れ間近になる頃にようやく一頭仕留めることが出来た。その鹿は事前に手配されていたものではなかった。
  ニルヴィーナの矢を受けて倒れた鹿に止めを刺そうと同行している狩人が近づいた。その瞬間、腹を割き血と臓物をぶちまけながら何かが飛び出し、狩人を押し倒した。大きい。
  それが魔獣だと彼女が理解するよりも早くそれはニルヴィーナに向かってきた。瞬時に四方を囲まれ、逃げるには牝である彼女の方に向かうのが一番安全だと本能として察したのだろう。しかし、護衛に付いているオーリィが立ちふさがる。
  腰の剣を抜き放ち、黒く不定形な何かとしか言い様のないモノに斬りかかった。
  オーリィの剣は確かに魔獣を捉え、切り裂く。草葉に埋もれる様に魔獣は地に叩きつけられた。草葉を擦らせる音を立てながら魔獣は広がっていく。さながら重油のように。
  時折、痙攣をするように震える。まだ生きているのだ。それでも身体の過半を断ち切られて生き長らえられる生き物はいない。
  オーリィを讃える歓声と遠吠えが上がる。姫君を守った騎士に誉れを。
  遠吠えに応じて森のあちこちから同様の遠吠えが返ってくる。その中で一際大きな遠吠えが返ってきた。それこそは族長ヴォルゲイフの遠吠えだ。
  それを受けて雄叫びはさらに沸き上がる。まさに瀑布の如きだ。
  だからこそ、そこに油断が生じた。腐葉土の上に大きく広がった魔獣の中から突如、黒く巨大なイノシシが飛び出したのだ。黒い何かを引きずるようにして。
  いや、出現と表現するのは適切ではない。正確には変化したのだ。
  艶やかとさえ評しうる黒曜の毛皮に覆われ、突き出される一対の牙はその巨体に相応しい凶猛さだ。太古の時代であれば山の神として崇められたであろう威容だ。
  全てが不意を付かれた。獣が持つ魔性そのものを体現するかのような雄叫びを上げて、突進を開始した。変異に気付いたオーリィたちは即座に動いた。
  手にした剣や槍を魔獣の身体に突き立てた。しかし、止まらない。眼前に立ちはだかるオーリィをその牙で薙ぎ倣い、真っ直ぐにニルヴィーナに巨大イノシシは殺到した。

「それでどうなったのですか?」
  カイエは話の続きを尋ねた。ニルヴィーナがここに健在であることからも上手く撃退できたことは分かる。分からないのはどうやって対処したかだ。
  狩人の自分であってもそのような状況に陥った彼女を助ける術を思いつかない。
「あの時は無我夢中で良く覚えていないのだけれど……」
  こちらに来なさいと、ニルヴィーナはカイエを手招きする。
  そして、側近くに来た彼の顔面を右手で覆う。
「人獣化してこうやって魔獣の顔に手のひらを当てて。ポンッ!」
「それはつまり、姫様が仕留められたと」
「だから、言いましたでしょう? 大物を仕留めたと」

 ニルヴィーナは牙をかいくぐり魔獣の眉間に掌底を叩きつけた後、その身に宿る闘気をぶつけた。だが、一度ついた勢いを止めることは出来ない。闘気の爆発が生じた次の瞬間にはニルヴィーナは魔獣の余勢に跳ね上げられ、強く樹に叩きつけられた。
  魔獣の方も至近で受けた一撃にイノシシの形を維持出来なくなったのか、再び不定形な存在に戻って地面に広がった。時折、痙攣している。まだ生きているのだ。
  サベージでは狩りで得た獲物はそれを仕留めた者に生殺与奪の権、所有権を有する。
  逃がすにせよ、止めを刺すにせよニルヴィーナの承認が必要だ。しかし、この時彼女は気絶しておりその判断を下せる状況にない。また、掌底をぶちかました右腕が骨折していた。同行していた女騎士の見立てでは命の危険はないものの早急に医師に見せた方が良いとのことだった。気絶したと思しき魔獣は生け捕りにすることになった。

 穏やかな日向が似合う姫君が魔獣に一撃を加えて仕留めてしまうなど信じるどころか想像することも出来ないとばかりにカイエは目を丸くしている。
  その彼の肩にクロルが手を置いた。
「気持ちは分かるが事実だ。姫、彼に証を見せてやってはいかがかな?」
  その様が面白くてニルヴィーナは控えめに笑いながら「はい」と頷いた。
  彼女は高らかに指笛を吹いた。花壇に隠れるように寝ていた獣が顔を上げた。
  黒毛の狼だ。この庭園を熟知しているのだろう。庭を荒らすことなく、しかし俊敏な動きでニルヴィーナの足下に駆け寄った。
「ミーティア。クロル殿下とカイエ殿にご挨拶をしなさい」
  黒狼は二人を順番に見遣るとペコリとお辞儀をした。
「上手く躾けられましたな」
「はい。幸いにもこういうことに詳しい者がいましたので、その者の手ほどきを受けてなんとか」
  そこまで話すとニルヴィーナはカイエを見た。
「この子がなんであるか狩人であった貴方ならお分かりになるでしょう?」
「黒曜の水鏡ですね」
「正解です」
  この名はこの魔獣の本来の姿とその性質を言い表している。黒い水のような不定形な存在だ。だからこそあらゆる獣の姿を写し真似ることが出来る。
  この特徴は恐ろしいものではあるが、『黒曜の水鏡』は魔獣にしては大人しい気質だ。森に住む獣の身体に潜み養分を貰い、魔獣はその対価として宿主の病を退け怪我を癒すとい共生関係を築いて静かに生きている。宿主を喰らう事もあるが、それは命脈が切れた後のことだ。天寿を全うした宿主を喰らい、その姿を得るのだ。
  このような共生関係にあるため、この魔獣が凶暴性を発揮するのは宿主を殺された時のみだ。己の身を守るために命脈の尽きた以前の宿主の身体を鏡写しにして襲いかかる。
  ニルヴィーナに襲いかかった巨大イノシシの姿もミーティアの以前の宿主なのだ。
  そのミーティアも当時の威容をどこにやったのか忠勇なる番犬のようにニルヴィーナに扱われている。
「大丈夫ですよ。私に危害を加えようとする者以外には大人しいですから。名を与えて縛り、それをもって私の使い魔にしました。狩猟犬の真似事ぐらいは出来ますわ。宴の演出に一役買って出て貰います。ミーティア、先に行っていて」
  一声吼えるとミーティアは森の中へと駆けていった。
  黒狼と入れ替わって、オーリィが馬を牽いた従者を連れてやってきた。
  ニルヴィーナは彼らに労いの笑みを与えると、クロルに向いた。
「それでは参りましょう。殿下、ご一緒してもよろしいですか?」
「無論です」
  クロルは騎乗するとニルヴィーナに手を出しだした。
「ありがとうございます」
  差し出された手を握ると彼女は引き上げられた。同じようにフェイもオーリィの手で馬上にのぼった。
  アーディ家の養子となるまで馬に乗ることが無かったカイエだが、上手く乗りこなしている。狩人だけに獣の気持ちが分かるのだろう。
「オーリィ。先導をお願いね」
「はい、姫様。……フェイ、しっかりと掴んでおくんだぞ」
「はい。分かっています」
  などとやり取りをしながらオーリィは駒を進め始める。その彼らにニルヴィーナたちも続いていく。美々しい庭を眺めながら小道を進んでいく。
  夏の足音を遠くに聞こえ始める季節だ。それを芝や木々の青が教えてくれる。
  午前の手入れを終えてた草花はその身に露を纏い、輝いてすらいる。
  小道の先には新緑を越えた黒き林が見える。道は林の奥へと続いていく。
  木々を縫うように作られた林道が通っている。樹上より差し込む日差しが幾筋も地に降り、遠くから見るよりも遙かに明るく、そして幻想的だ。
  林のどこかで鳴く鳥の囀りと道を叩く馬蹄の音のみが自分を現に繋ぎ止めてくれるかのように感じてしまう。何人であろうと受け入れ、しかし侵すことを許さない何かしらの意志がこの林にあるようにすら思える。
  この林に踏み入れるのはクロルにしても二度目だ。記憶にある雰囲気とは変わらないことに安堵を覚える。ただ駒を進めるだけで清涼ななにかが我が身に流れ込んでくる。
「美しい……」
  背後でカイエが感嘆の呟きを漏らした。彼にとって山林は糧を得、命のやり取りをする場。余りにも現実的すぎる。美しさを感じる余裕などない。
  唯一、神聖さを感じるのは狩りの季節の始まりと終わりに行われる山の神に感謝を捧げる儀式の時のみだ。しかし、この林は違う。林全てが神聖性を帯びている。
  カイエが感じたことはある意味で真実であった。この林を形作る木々は賢狼の始まりの地とされる聖域、月臥(げつが)の森から植樹してここまでにしたのだ。
  人の手による以上、神聖性を宿すことはない。しかし、そうあるようにとの思いを遙かな昔よりも向けられたこの林には間違いなく幻想を有している。
  そして、この幻想を守り育む事も賢狼の長としての役割なのだ。
  人の都合ではなく、木々の都合で通された林道は人が二人通るので精一杯の幅しかなく、曲がりくねっている。馴れない者ならば間違いなく道を踏み外してしまうだろう。
  小半時も進むと、突然開けた場所に出た。
  陽の光が降り注ぎ、目が眩む。林の中との違いに突然現実へと引きづり戻されたような錯覚を覚える。いや、事実そうなのだ。光に目が慣れると眼前に広がる光景はまさに神聖さからは懸け離れた、カイエにとって馴染みのある景色があった。
  石と木を用いて作られた小屋が建ち、その前には焚き火の番をする男がいた。
  男の足下には大人しく伏せているミーティアの姿があった。
  その様子はまさしく牧歌的な猟師の姿そのものであった。
  ミーティアの耳が小さく震え、こちらに顔を向けた。男の方も気配に気付いたのか火から目を離す。こちらの姿を目にした男は破顔して、立ち上がった。
  そして、男が何者であるのかを皆に教えるようにニルヴィーナが彼に声をかけた。
「お兄さま!」

 猟師姿の男、アストリアは妹に笑みと頷きを送ると、彼はクロルに向けて一礼した。
「ようこそ、クロル殿下。我が賢狼の祭場、月咆(げつほう)の森に」
「お招き頂き感謝いたします。ディテイン公」
  下馬し、同じように礼を返したクロルは満面の笑みを浮かべた。二人は直接顔を合わせた回数は多くはないが良い狩り仲間であった。互いに歩み寄ると硬く握手を交わした。
  体格の良さそのままな力強い握手にもアストリアは気にした風もない。彼自身も同様の力で握り替えしている。
  こういう場合、相手と同じように握り替えした方が痛みは少ないのだ。
「久方ぶりになりますな。二年ぶりになりましょうか。ご壮健であられた様で嬉しい限りです。おおぉ、これはいけませんな」
  クロルはアストリアの右手を離すと再び一礼した。
「立太子の儀を無事に終えられたこと、心よりお喜び申し上げる」
  サベージの三王族、つまり賢狼族、聖虎族、天鷹族の次期族長決定の為の戦いを立太子の儀と呼ぶ。次期族長に選出された者の中から次の獣王が決定されるからだ。
「ありがとうございます。その折りに贈って頂いた外套は式典の際に使わせて頂いています」
「嬉しいことを言って下さる。このことを我が国の職人たちが聞けば狂喜することだろう」
「ならば、伝えてやって頂きたい。そなたらの技と心にこのアストリア、心よりの敬意を抱くと」
「伝えてやりましょう。しかし、工房の長は老齢。喜びの余りそのまま昇天しかねん」
「はははははっ。それは困りますな。彼は確か殿下の師でもあられたと聞く。身体を大事にして長生きをして貰わねば」
「全くですな」
  クロルが自国の職人たちを自らの誇りとし、彼らを賞賛することを我が事のように喜ぶ気質であることをアストリアは良く知っている。だから、彼自身への感謝ではなく職人たちへの感謝という形にしているのだ。
  それは彼ら職人の技がクロルの祖国エンハントが有する唯一と言っても良い強みだからに他ならないからだ。
  その為、エンハント王家は職人たちを手厚く保護すると同時に技術が外部に漏れないよう様々な制約を与えていた。所謂、アメと鞭の政策と言えるだろう。
  つまり、王家と職人たちは一蓮托生なのだ。
「お兄さま。そろそろカイエ殿にもお言葉を」
  一通り挨拶と近況報告を二人が終えたのを見計らいニルヴィーナが促した。
  カイエは先ほどから膝を着き、深く頭を垂れたままだ。十分余りとはいえ、湿った地面に膝を着いていたのだから些か冷えていることだろう。
「ご無沙汰しております、殿下」
「魔獣の討伐ご苦労だった。報告書は読ませて貰った。強大な魔獣だったそうだな」
「非才故に手こずりましたが、郎党の者どもの働きもあり無事に任務を全うする事が出来ました」
「報告書にもそうあるな。後ほど改めて褒美をやろう。郎党の者どものを労ってやると良い」
  ちなみに予め用意されていた褒美はすでにアストリアの代理の者を通じて渡されている。
  これはアストリアの言葉の通り労いの意味が強い。
「ありがたき幸せに存じます」
「ご苦労であった。して、その魔獣はどうしたのだ?」
「はっ。血肉や骨は金にし、討伐した魔獣により手酷い傷を負った者に与えました。毛皮はサベージご来駕を祝し、先ほど献上致しました」
「そうか」
  大きく頷くとアストリアはクロルの方に身体ごと向いた。
「臣下の申し出をお受け下さりありがとうございます。私からも御礼申し上げます」
  そこで初めてクロルは事情を察した。カイエはヴォルゲイフ、もしくはアストリアの許しなく自分に毛皮を献じたということを。
  どのような君主であろうと臣下が独自に他国の君主と繋がることを非常に嫌う。純粋な歓迎の意であろうと君主からみれば叛乱の布石に見えかねない。そこまで思わなくとも面白くは絶対にない。
  ましてやカイエは賢狼の若い者たちから支持を得ているとなれば尚更だ。
  クロルの方にも全くその気がなくてもアストリアの気持ち次第で今後どうなるか分からない。こんなつまらないことで長年月をかけて築き上げた両国の関係を潰すわけにはいかない。すぐに誤解を解かねばならない。
「お気になさらずに。カイエ殿が申されたようにあの毛皮は賢狼族より贈られたものと思っております」
  事実、クロルはそう思っていた。強大なる魔獣を討った勇者に新たな栄誉を与える為にこのような形を取らせたのだと思っていた。誤解を解かねばならない。
  しかし、彼がさらに言葉を重ねるよりも早くアストリアが口を開いた。
「有り難きお言葉です。……さて、難しい話はここまでにしましょう」
  そう言って彼は周囲を取り囲む木々の梢を見上げた。
「殿下はこの月咆の森の由来をご存知でしょうか」
  彼ら賢狼族だけではなく多くの獣人が月に神聖を見出し、自らの種族の守護神としている。月は月齢により変化することから、それにあわせた数の月神が存在したが種族間の勢力争いの結果、満月と新月を象徴する双子神に纏められることになった。
  この双子神こそが賢狼族が自らの氏神とする満月を象徴する男神セリン、新月を象徴する女神セレンだ。そして、この二柱の間に生まれた狼神イフェスこそが賢狼族の祖先であり、イーフェスタ家はその直系ということになっている。
  賢狼の祖である狼神イフェスとその子孫たち皆、狩りの達人ではあったが良き狩り場を得られず長い長い放浪の旅を続けていた。その彼らを哀れみ、与えたのが月臥の森だった。
  賢狼族が安住の地を得たことに安堵した狼神イフェスは子孫たちに森の実り多きことを約束し、永きの眠りに就いたという。この神話から月臥の森と呼ばれるようになった。
  実際に神話の通りの事跡を歩んだ明確な証拠は存在しないが、月臥の森を得たことが賢狼族が繁栄する大きな切欠であったことは確かだ。
  豊かさを得れば人口が増える。森が支えられる限界まで、つまり誰もが貧しくなるまで増える。となれば、新たな糧を得るために外に出ざるを得なくなる。
  外に出ることを選んだ賢狼族は皆、森から木の実を首から提げ、定住地を開拓するとそこに月臥の森から苗木を取り寄せて植林したのだ。
  それが賢狼族の領内に点在する月咆の森の由来だ。
  いうなれば、月咆の森が彼らの歴史そのものといっても良い。だから、その始まりの地である月臥の森は宗教的な意味合いだけではなく、彼ら自身の存在を確たるものとする聖地なのだ。
  サベージという国家を建国し、多数の種族と共に住まう都市に月臥の森を作ることは出来ない。そこで月臥の森を出た先人に倣い、木の実を装飾品として身につけるようになった。普段から身につける者は少ないが、祭や公式な場では必ず身につける。
  そして、各地に点在する月臥の森は最も新しき同胞であるサベージの国民に開放されて公園として利用されている。
  月咆の森を多種族を迎え入れるということは種族として友として認めた証なのだ。
  そして今、アストリアたちがいる月咆の森は更に特別な場所だった。
  サベージの王族となり月臥の森から離れざるを得なくなったイーフェスタ家は外に出た同族と同じように苗木を持って行った。その中に始祖神たる狼神イフェスが眠る大樹から接ぎ木して育てた木々が多く含まれていた。ただ月臥の森から植樹して作られた森なのではない。この森は月臥の森に繋がる祭壇として機能しているのだ。
  だから、如何に同族であろうと親しき友人であろうと妄りに足を踏み入れる事は許されない。例えそれが彼らの主君である獣王であろうと。
  そこに他者を迎えることはつまり賢狼族にとって最高の礼遇と言えるだろう。
  アストリアは最後の一点を省いてクロルに話した。聡い彼なれば先ほどから感じている不安が杞憂に過ぎないことだとこの話で理解してくれるはずだ。その為に異例中の異例の待遇をしたのだから。もし、この件がなければここに招くことは無かっただろう。
  そして、クロルはそのアストリアの期待に応えるように安堵を形にしたような笑みを浮かべた。
「我が身には過ぎたる厚遇に些か身が震えますな」
「そう畏まらずに。私たちは狩り仲間ではありませんか。その殿下をここにお連れしない理由は何もありません。それにここは私が父より狩りの手解きを受けた森でもあります。どうでしょう。午餐の後、狩りにでも出ませんか?」
「良いですな。獲物はどのようなものがいるのでしょうか」
「鹿、猪が主です。大物はそうそう巡り会えませんが晩餐の糧を得るには丁度良いかと」
「なるほど。獲物を仕留められなければ晩餐は無しという訳ですな」
「それも良いですね。しかし、よろしいのですか? ここは私にとって庭そのものですよ」
「はははははっ。それでこそ面白味があるというものです」
「では、久方ぶりに殿下の狩りの腕を我らに披露していただきましょう」
  アストリアは自分の傍らで控えるカイエに顔を向けた。
「そういえば狩人としてのそなたの姿を見たことがなかったな。このまま共をせよ」
「仰せのままに。獲物を仕留めた暁には両殿下に献ずることをお許し願います」
「良いだろう。そなたの働きを楽しみにしているぞ」
「はっ」
  返事をしてカイエは畏まった。これで先ほどの件は落着とした。
  カイエは下位貴族や若者たちから支持を受けている。彼を疎かに扱うことは出来ない。
  かといって甘い態度もアストリアには出来ない。彼を取り巻く古くからイーフェスタ家を支える貴族たちの目がある。
  だから、魔獣討伐の褒美として月咆の森に連れて行き、そこで犬馬の労を執らせることにしたのだ。またあの毛皮の件はクロルが「賢狼族からの贈り物」と応えるはずだから、毛皮の出自を知ったとしても余人は正規の手続きを経て贈られたと考えるはずだ。
  カイエがこんなにも早くに月咆の森に招かれたこともあって有耶無耶になるだろう。
  次期族長といえども、アストリアの気苦労は多いのだ。

 挨拶その他をようやく終えた一堂はニルヴィーナに促され、小屋の前に設えられた椅子に腰を落ち着けた。午餐といってもとても簡単なものだ。
  炙り肉を薄く切った物、肉や野菜を放り込んで作ったスープ、それとパンといった組み合わせた。元はもっと酒に合ったものであったがアストリアが戻り、昼食の後でクロルを狩りに誘うという事になったので、この様な形になった。
  それぞれの前に置かれたカップには甘い香りを立てる暖めた葡萄酒がおかれている。
  日当たりの良い場所だが、森の中はそれなりに冷える。
  腹が満たされ、身体も温まれば気分も良くなる。クロルはカイエの一件を貴族入りしたばかりの小さな軽率だとして流したようだ。
  それにはアストリアがカイエを許したという許した事もあるが、どちらかと言えば彼の陰の薄い性格によるところが大きいだろう。尤も当分は政治的な意味合いでカイエと接触を持つことはないだろうが。
  ともあれ、午餐の席は和やかに進んだ。アストリアはカイエに魔獣討伐の話をさせ、クロルに献じた毛皮を披露した。アストリアは幾らかの羨望とともに彼を賞賛した。
  魔獣討伐の話が一段落し、小さな間が出来た所でニルヴィーナが兄に尋ねた。
「そういえばお兄さま。ラインボルトの副王就任式の介添えのお話はどうなりました?」
「気になるか?」
「もちろんです。陛下より申し出を受けるよう命ぜられたのなら、エルへの手紙を託せますもの」
「エル、というのはラインボルトのエルトナージュ姫のことですか?」
  と、クロル。
「はい。私とお兄さまは幼い頃、ラインボルトで過ごした事があるのです。その時にはとても仲良くして貰いましたわ。帰国してからは直接会う機会がありませんでしたけれど、手紙のやり取りは今でも続いています。クロル殿下はエルと会った事はあります? 御国とラインボルトは良き間柄と聞きますが」
  エンハンスにとってラインボルトはサベージに次ぐ大口の取引先だ。
  サベージがエンハンスを下請け工房のような扱いをしているのに対して、ラインボルトはエンハンス・ブランドの販売代理店のような姿勢を取っている。
  クロルらにとってどちらの関係が好ましいかは言わずもがな。かといってサベージよりもラインボルトを重視する訳にはいかない。原材料の供給では質量ともにサベージが上回っている。エンハンスとしてはこうして王族同士の間柄を良好にして少しでも良い条件で取引を続けることだ。
「残念ながら未だその機会を得ておりません。私が外に出るようになったのはつい最近ですので。忙しい時に訪ねても迷惑ですからね」
  忙しいとはもちろん先王崩御から始まるラインボルトの混乱のことだ。大口の得意先がゴタゴタとしてエンハンスとしても気が気ではなかった。
  すぐに新たな販路を開拓しようにもそう簡単にはいかず、サベージに頼れば足下を見られて瞬く間に独占契約となる。実を言うとクロルにとって今回のサベージ訪問にはそういった意味合いがあった。それは憂鬱としか言い様がない。独占契約をするのならば、比較的いい条件を提示してくれ、安定した後のラインボルトとの取引枠を容認してくれやすい賢狼族の方が良い。それでも今よりも利益は減ることになるだろうが。
  しかし、その土壇場でラインボルトは内乱を鎮め、迷惑をかけた詫びとともに今後も良い取引をしたいとの使者がやってきたのだ。
  おかげでクロルは今のように気楽に話が出来る。もし、そういう条件が揃わなければ、カイエとの一件がどうなったか分かったものではない。
  ラインボルトには色々と含むところがあるクロルだが、問題を収めた魔王の後継者には素直に感謝していた。恩義と言った方が寄り彼の気持ちには近いだろう。
「しかし、副王就任式で介添えとは珍しい」
  他国の王子を王の即位式の介添え役にするのは珍しい事はない。国としての上下関係を明示する意味合いもあるが、ラインボルトの場合は常に最重要な友好国に依頼する事が多い。つまり、ラインボルトは賢狼族がアクトゥスと接近していたことを不問とすると言ってきているのだ。サベージとしても要らぬ波風を立たせたくないのだから受けて損はない。
「本来ならば次期魔王のお披露目式ですからね。しかし、すでに先王は崩御されている。今回の就任式が王権の継承と考えているのでしょう」
  それだけ今回の就任式は重要だということだ。いうなれば後継者という形だけの存在から、法的に裏打ちされた確固たる存在へと代わるということだ。
  内乱という非常時とその直後ならばそれでも構わないが戦時となるとそうも行かない。様々な法的な手続きを経なければならない。
  戦争だからといって全てにおいて無茶が通るわけではない。言い方を変えるならば、無茶を押し通す為にはそれなりの手続きが必要だという訳だ。
「それでお兄さま。どうなのです?」
  些か焦れた声でニルヴィーナは再び訪ねた。
「獣王陛下よりラインボルトからの申し出を受けるよう命じられた。若輩の私だけでは心配だと父上も共に行くことになった」
「まぁ。そうなのですか? でしたら、私は一人で屋敷を守らないと行けませんわね」
「いや。今回はお前も共に来るようにとの父上の仰せだ」
「まぁ、そうなんですか?」
  とニルヴィーナは顔一杯に喜色に染めて手をポンと打った。
「このような機会でもなければエル姫と会うこともないだろう」
「本当に久しぶりに会えるんですね。楽しみです」
「そうだな。五年ぶりになるか?」
「はい。エルも随分と変わったでしょうね」
  などと兄と話ながらニルヴィーナは自分もラインボルトを訪ねることの意味を考えていた。兄が話したことも正しいだろうが、父の真意とはそれとは別にあるのかもしれない。
  エルトナージュたちとの再開だけではない。当然、魔王の後継者とも挨拶をすることになる。ひょっとしたら後継者と娶せるつもりなのかもしれない。
  それは可能性として十分にあり得ることだ。サベージとラインボルトの協調は両者にとって得るところは大きいし、昨今はリーズの動向がきな臭い。
  両国が連合して事に当たるには十分な口実になれる。
  もちろん、それには後継者が父の目にかなうかどうかだが、ニルヴィーナはその点について後継者のことを余り悪くは思っていない。
  なにしろ、あのエルトナージュが彼の膝に乗ったのだから。
「殿下。お願いがあります」
  そう言ってカイエは立ち上がった。アストリアの前に片膝を着き深く頭を下げる。
「ラインボルトへの旅の警護の一人としてお連れ頂けないでしょうか」
「そう言った話は父にすると良い。今回、差配は任されていないのでな」
「はい。しかし、殿下よりお口添えを頂きたく存じます。お願い申し上げます」
  カイエは両膝を着き、両の拳を付けてさらに辞を低くした。
「……そうか。ならば父上に話をしておこう。だが、そなたからも父上にお願い申し上げるのだぞ」
「はい。心より御礼申し上げます。殿下」
  深く地に額を擦り付けんばかりにカイエは頭を垂れる。
「そうですわ。ラインボルトへの旅はクロル殿下もご一緒なさいませんか?」
「こら、ニーナ。無理を言って殿下を困らせてはいかんぞ」
「ははははははっ。まだ招待されているとは限らず、また父の意向もありますので。ですが、その時にはご一緒させて頂きます。ディテイン公。申し訳ありませんが、この件も賢狼公のお耳に入れておいてくださいますか」
「妹の我が侭にお付き合いくださり、申し訳ありません。必ず父の耳に入れましょう」
  などと言葉を交わす兄たちを眺めながらニルヴィーナは思った。
  西から漂ってくる匂いにはどういう意味があるのだろうか。
  幸いか、不幸か。それとは別の何かだろうか。それはラインボルトに行けば分かることだ。そして、何者かの匂いを感じるということは、彼女と遙か西にいる誰かが繋がった証。
  彼と私の繋がりにエルやミュリカやヴァイアスはどう思うかしら。
  しかし、ニルヴィーナには不思議と不安はない。むしろ期待するばかりだ。
  果たしてこの匂いの主は私を腕に抱いた時、どう動くのだろうかと。

 今のアスナの執務机の上は一時期に比べて、遙かにスッキリした。
  内乱終結からロゼフとの開戦から暫くは執務机の上から紙の山が消える事はなかった。
  次々と寄せられる報告書にアスナの署名を求める書類、果てはアスナとお近づきになりたい国内外の人々からの手紙や贈り物の目録など大変なものであった。
  魔王の後継者はその殆どが政治の世界とは縁遠いところにいた者ばかりだ。
  その彼らに政治のイロハや礼儀作法や家臣や国民に対する接し方などの初歩を覚えるのが後継者としての期間になる。
  続いて正式な次期国王としてお披露目されて副王になると本格的に政治の世界に入っていくことになる。魔王の名代として公式の場に出たり、署名をしたりすることになる。
  だが、アスナにはそういう段階を踏むことが許されなかった。
  全てが同時進行なのだ。王としての職務を果たしながら、勉強も続ける。
  習うよりも慣れろという訳だ。はっきり言って無茶なことこの上ない。そして、アスナに求められる判断は現在の状況もあり国を大きく動かすものばかり。
  その上、その判断を下すための材料たる報告書がどういう意味の内容なのかさっぱり分からないとくれば、もう思考停止になるのも無理からぬ事だった。
  それを補佐する為に各省庁から補佐官として官僚たちが出向しているのだが、これがうまくいかない。彼らは優秀ではあったが、教育者として合格点を与えられるかどうかといえば否だった。確かに彼らは職務に忠実で丁寧に教えてはくれたが、次々と溢れ出てくる専門用語でアスナを溺れさせはしても救い出そうとはしなかった。
  何だかんだで彼らは与えられた権限以上の事は出来ない、そして互いに牽制し合うこともあって補佐官として上手く機能してはいなかった。
  それに彼ら自身の頭の片隅に「子どものお守り」という言葉があったことも機能不全に陥らせる小さな要因となっていた。簡単に纏めれば、下手なことはせずに「後継者の補佐官だった」という経歴に傷を付けないようにしようという訳だ。
  この状況を打破したのは宰相を辞任したエルトナージュ、ラインボルト内での自分の足場を固めたLDの二人。そして、当時の状況やこれまで抱えていた鬱憤を爆発させたアスナが推し進めたことは言うまでもない。
  二人がアスナの補佐についてからは劇的に処理速度があがった。
  LDは傭兵軍師として作戦構想や様々な提言をする立場にあり第三者に何かを伝える難しさと必要性を熟知していたし、エルトナージュはミュリカとヴァイアスの居残り補習に付き合って様々なことを教えていた為、人に何かを教えることに慣れている。
  なにより二人ともアスナのことをよく知っている。これが一番重要なこと。
  ともあれ、二人がアスナの左右に付いたことで上げられる書類は一度、二人の目に入れられて重要度によって分類され、署名を求める案件にはそれに付随する報告書と共にエルトナージュとLDの意見や解説が添付されてアスナの前に出される事になった。
  結果、各省庁から出向していた補佐官たちは二人に顎で使われ、悲鳴をあげる日々だ。
  これにも二人なりの考えがあってのことだ。
  アスナは普段は温厚で色々と気遣いをする性格だが、断固として何かを始めると決めると気遣いも何もない。背中を押すを通り越して、尻を蹴っ飛ばしてでも動かしてしまう。
  アスナの補佐官となった以上、蹴っ飛ばされてもすぐに仕事に取りかかれる用でなくては困るのだ。だから、二人は無理難題でも吹っ掛けて動かしまくっているのだ。
  ともあれ、新内閣発足から開戦までのどさくさに紛れてエルトナージュとLDは首席補佐官に収まっていた。エルトナージュが政務、LDは軍事。外交に関してはそれぞれの立場からの意見という具合に分担している。
  もっともLDは後ろ暗い仕事やアスナの代理人としてあちこちに首を突っ込む事が多いため、重要案件と週に何度かある講義以外ではアスナの執務室にやってくることはない。
  しかし、今日は久しぶりに三人が揃った。
  外務省から各国の今回の戦争に対する態度が概ね出揃ったとの報告があったのだ。
  アスナたちも出席しての会議が終了後、三人は執務室に集まっていた。
「世は全て事も無し。っていうセリフは外交の世界にはないのかね」
  黒革張りの椅子に深く腰掛けたアスナは解説の付箋付きの報告書を眺めながら呟いた。
  エルトナージュとLDはそれぞれに解説と私見を記した付箋を別の報告書に貼り付けている作業の真っ最中だ。とても一国のお姫様と軍師の姿には見えない。
「国同士の関係で何もないなんてことはありえませんよ。波風がない様に見えるのはお互いに見ないふりをしているか、解決方法が無くて棚上げしているだけです」
  と、作業を進めながらエルトナージュは言った。
「それに真に平等な条約を結んで対等な関係を築いたとしても、誰もがそれを喜ぶ訳じゃないわ。納得は出来ても、満足には至らないんだもの」
「口では奇麗なことを言ってても、誰だって良い物食べたいし、家族を養わないといけないし。斯くして問題は解消されず、か」
  やれやれと首を振るとアスナは立ち上がった。部屋の隅に設えられている茶器置き場に向かう。魔導珠を使用した保温機も用意されており、いつでも熱いお湯が使えるのは幻想界ではかなりの贅沢だと言って良い。
  こんなものを使っていて平等がどうのなんて言えないかと苦笑する。
「LDもいる?」
「あぁ、貰おう」
  と、ソファの方で説明書きを続けるLDが返事をした。実を言うとアスナの執務室には彼専用の机は用意されていない。ソファの前のテーブルで作業をするのが常だ。
「了解っと」
  お茶ならばストラトに頼めばすぐに美味しいものが飲めるのだが、仕事中は出来る限り自分で煎れるようにしていた。ちょっとした気分転換だ。
  今日のお茶菓子は薄く切った木の実を練り込んだ焼き菓子だ。焼いた時の生地の厚さによってサックリとした箇所としっとりとした箇所がある面白い菓子だ。最近のお気に入り。
  個別には分けずに気軽に誰でも取れるバスケットに入れる。
「エル。お茶にしよう」
「えぇ」
  コクンと頷くと手早くキリの良い所まで進めてしまう。
  すでにLDは書類を片付けている。テーブルに茶器一式を並べる。
「はい。どうぞ」
「すまんな」
「どういたしまして」
  そう言いながらLDのカップにお茶を注ぐ。琥珀色よりももう少し濃い色のお茶が円を描くように満たされていく。それと共に緊張を解いてくれる様な暖かな香りが立ち上る。
  ぐっすり昼寝したい時はこれにホンの数滴だけ酒精を混ぜるのが、最近のアスナの習慣になりつつある。
  当然のようにアスナの隣に腰を落ち着けるエルトナージュ。
  お茶だけではなく蜂蜜の入った容器も彼女の側に寄せる。
  エルトナージュの「ありがとう」の言葉に頷きながら最後に自分のカップに注ぐ。
  アスナが腰を落ち着けたのを見計らって、二人はお茶に手を付ける。
  静かだ。執務室に設えられた時計の秒針の音が遠くに聞こえるのみ。時折、茶器がぶつかり合う音や菓子を割る音が混じるぐらいだ。
  一杯目のお茶を飲み終える頃、ポツリと言った。
「アクトゥスとサベージは味方、少なくとも邪魔はしないって考えて良いんだよな」
  先ほどの会議と改めて目を通し直した報告書を思い出しながら。
「少なくとも現段階ではな。戦後はどういう干渉をしてくるかは分からんが」
  エルトナージュも同意の頷きを与える。
「今のところはあれこれと考えてもしょうがないか。見物姿勢のサベージはともかく、アクトゥスの方は妙にやる気なんだよなぁ」
「アクトゥスとしては死活問題ですから」
  と、エルトナージュはため息を漏らした。
「五大国の一つとは言え、リーズと真正面から対する力はありませんからね。アクトゥスとしても戦争回避が第一でしょうが、開戦を厭うこともありませんよ」
  自らの大地、大海、大空を侵されて笑って許していては王ではいられず、政府として存在する価値はない。だが、それだけではない。
  国を失うということは戦火にさらされ、人が傷付き、死ぬだけではない。
  自分へと繋がる歴史や価値観、日常を失うことに他ならない。
  命あっての物種というのも判断として十分にありえる。だが、その命の保証を侵略者がするかの確証なんて全くない。
  何だかんだで戦争には金がかかる。その補填と儲けが絶対に必要だ。それだけの金銭や資源、領土、権益を奪われてこれまでと同じ生活など出来るはずがない。
  すこぶる大雑把にいえば仕事はさらに大変になるのに無茶苦茶月収が減って、福利厚生その他諸々が無くなるようなものだ。尤もこれはまだ良い方なのだが。
  戦争は儲からない。しかし、やらないのはもっと大損をする、と言うわけだ。
  アクトゥスは幾つもの王国が集合して成立している。安易な譲歩は内部のゴタゴタを引き起こすし、リーズとしても竜族よりも下の者に安易な譲歩は出来ない。
「だからって、ラインボルトを当てにし過ぎるのもどうかと思う。ただでさえ色々とうちはゴタゴタしてんだし」
「…………ぁ」
  エルトナージュは小さく声を漏らした。全ては彼女がラインボルトを上手く纏め上げられなかったからだという自責の念が今も彼女にはある。
  しかし、アスナの見解は微妙に違う。世の中、安定を望む者ばかりじゃない。世の中が乱れれば、それはチャンスでもあると考える者がいるのだ。
  確かに切欠はエルトナージュにあるのかもしれないが、魔王の後継者が長らく見つからなかったのだから、魔王不在の状況を維持できるだけの体制を整えておくべきだったのだ。
  まぁ、エルトナージュはその混乱を利用しようとしていたのだから、彼女自身そのことを批判することは出来ないが。
  少なくとも体制作りを怠った大人たちの責任だとアスナは思っている。
  アスナがこういう風な考えだということはすでにエルトナージュに伝えている。
  だから、アスナはエルトナージュの右手を握り、小さく頷いた。

「こちらの事情はあちらには関係ない。要はラインボルトがこれまで通りの役割を果たしてくれればそれで良いと考えているだけだよ」
  話の流れを元に戻すようにLDは言った。
「役割って?」
「リーズとの戦争の殆どにラインボルトが絡んでるの。つまり、どの国も私たちを矢面に立たせたいのよ」
「各国の言い分は、その為の魔王だ、というところだ」
「なんともはや露骨だなぁ」
「それだけ重要視されているということでもあるし、だからこそロゼフとの戦争でも各国が私たちに好意的なのよ。もちろん、アスナが指示した無節操なまでの宣伝も効果もあってのことだけれど」
  無節操、というのは有力者や商人だけでなく、農家や職人に至るまで様々な階層の人たちにラインボルトが譲歩し、ロゼフがそれを足蹴にしたことを宣伝したのだ。
  そのお陰でラインボルトは正義だという雰囲気が形成されている。そして、これが結構重要だったりする。
「それでアクトゥスとはどうするつもりだ? 最終的な決定を行うのは君だ。すでに方針を決めているのなら聞いておきたいが」
「まだ何にも。とりあえず、あちらさんがオレたちに何かをして恩を売りたがってるってのは分かったよ」
  今はまだ正式な形での同盟締結の申し出はない。だが、色々な形でアクトゥス側の気分を伝えてきている。慌ただしいことこの上ない、というのがアスナの感想だ。
「方針って程じゃないけど、貰えるものは貰っておいた方が無難かなってぐらいか。軍を信頼しているけど、戦争は何が起こるか分からないんだ。その時の仲介役とか快く引き受けて貰えるようにそれなりにお付き合いしておいた方が良いと思う。二人はどう思う?」
「私もそれで良いと思うわ」
  LDの方に顔を向けると彼も同意の頷きをしてみせ、彼の考えを口する。
「我々は間接的な協力で十分と思っていても、あちらはそうとは限らないかもしれないがな」
「というと?」
「少しはラインボルトの為に血を流しておきたいんだよ。彼らは以前のラインボルトとリーズの戦では、ラインボルトからの要請に消極的な姿勢だった。その負い目が彼らにはあるんだよ。事実、陸軍、海軍ともにそのことを忘れては居ない。共同作戦の一つでもやって今後の為の和解をしておきたいと考えているはずだ」
「けど、何かの間違いが起きて大量出血でもされたら、恨まれるのは当然……」
「私たちでしょうね。それに軍の方でもいい顔をしないかもしれませんよ。独力で出来ることに他者から口を挟まれることを好む人は少ないですから」
「手伝って貰う場合は軍にヘソを曲げさせないようにしないといけない訳か。ったく、あちらを立てれば、こちらが立たずだな」
「そういうものよ」
  慰めるようにエルトナージュは言った。
「まぁ、何にせよアクトゥスは味方なのはありがたいな。熱烈すぎて、なんかラブレター貰ったような気分だけどさ」
「らぶれたー?」
  小首をかしげるエルトナージュ。
「恋文のことだ、姫君。その口ぶりだと貰ったことがあるのか? アスナ」
  エルトナージュは物凄い勢いでアスナの方を向いた。その目はすこぶる真剣だ。
  一方のアスナは苦笑を浮かべなが手を振って否定した。
「ないない。そういうのは一度も貰ったことがないって」
  これは正真正銘本当のことだ。悲しいかな幻想界に来るまで浮いた話というのを経験したことがない。
「LDの方こそどうなんだよ。オレのところにも色々と噂話が来てるぞ。あちこちウロウロしてた頃は相当悪いことしてたんだろう?」
  などと二人が話をしているその隣でエルトナージュは、「そうなんだ……ないんだ」と小さく俯いたまま反芻している。焼き菓子を手頃な大きさに割るつもりなのだろうが、考えに没入しすぎて粉々にしてしまいそうな勢いだ。
  最近、彼女はこういうことが多くなったように思う。
  すぐ隣に座るアスナにはもちろん何を呟いているのか聞こえているが気付かないことにしている。
  エルが楽しそうだから別に良いか、という訳だ。
  それにこういうことの後にはかなりの高確率でアスナにとって嬉しい事が待っている。邪魔をするのはお互いにとって無粋というものだ。
「あっ。……んんっ。二人とも無駄話はそこまでにして下さい」
「お、再起動した」
「再起動? なんのことです?」
  釈然としない表情でやんわりと睨む。しかし、手のひらに菓子くずを一杯付けていては迫力もなにもない。可愛い。
「まぁ、良いから良いから」
  と、宥めながら彼女が割った菓子を一つまみする。
「西はとりあえず政府の提案通りってことで、東はどう?」

 二人を順番に見回した後でアスナは言葉を続けた。
「ラインボルトと賢狼族は仲が良いみたいだし、サベージそのものとしても今のところ口を挟んでくるつもりはないみたいだし」
「そうだな。総体ではそうでも各個としてどう動くか、だな。このままロゼフを併呑すればサベージとしても大損だ。彼らに物資を供給しているのは彼らだ。やりすぎれば軍事介入してくるかもしれない。私の意見としては彼らが本格的に介入してくるのは戦後だと見ている。なにしろ、サベージは債権者だ。強引で、無茶苦茶で、理屈に適わなくとも彼らはロゼフを生き残らせる為に躊躇無く動き出すだろう。どんなに非道な悪徳金貸しでもやらない方法を用いてでも資金の回収を行う。だが、その為には債務者が存命していなければならない。全く金の怨みは恐ろしい」
  などと言っているがLDの口端は楽しげに上がっている。根本的にこの男も外道だ。
  大損だ、大損だと言われているが実際のところサベージが持っているロゼフの債権がはどうなのか分かっていないのが実情だ。
  なにしろロゼフ単体では火事場泥棒でもラインボルトにちょっかいを出せない。
  長期間の外征を行えるだけの物資を用意できるだけの資金力がないのだ。
  そこで彼らに金を出したのがラディウスとリーズだ。両国ともラインボルトのゴタゴタが長引いてくれた方が有り難いものだから、軍資金を提供していた。それを用いて近場のサベージから物資を購入していた訳だ。
  それでも足りないからロゼフはサベージから借金をしている。この借金がサベージが持っている債権ということになる。
  巨額には違いないが、リーズ、ラディウスから提供された資金の大半がサベージに流れている。損益で考えるのならばそこそこ儲かっているといった感じだ。
  だが、世の中良いところよりも悪いところに目がいくもの。それなりの利益が出ていてもロゼフが潰れれば巨額の債権が焦げ付くことには変わりがなく、ロゼフと商売をしていた商会の中には大変なことになるところが幾つかある。
  それが大商家なのだから、大騒ぎする理由としては十分だ。
  ちなみに巨額の資金を提供したリーズとラディウスは公式には騒いでいない。
  理由は単純だ。大国として火事場泥棒を唆したとは言えないからだ。水面下ではあれこれとしているのだが。
  と、その辺りのことをLDは話して聞かせた。
「それともう一点ありますよ」
  エルトナージュは奇麗な人差し指を立てながら言った。何も付けていないのに爪が艶々としている。
「地図を見て貰えれば一目瞭然ですが、ロゼフとサベージ、というよりも天鷹族とその麾下種族の領地は隣接しています。彼らからすればラインボルトと隣接したくはないんですよ。これまでは必要最低限で済んでいた国境警備予算が突然跳ね上がるのだから、辛いでしょうね。それにラインボルトとの窓口は基本的に賢狼族が行っていますから、サベージ国内の勢力図が動き出して困ったことになるはずですよ」
「賢狼族とは仲が良いんだし、勢力拡大の後押しをする約束をする代わりにってのはダメかな。確か賢狼公の子どもと友だちなんだろ?」
「さすがに顰蹙(ひんしゅく)を買いますよ。それにアストリア殿は私的な事には力を貸してくれますが、公的なことに関しては賢狼族とサベージに利益がなければ首を縦に振るような方じゃありません。もちろん、今の賢狼公にしてもそういうお人柄です」
「賢狼族方面からの懐柔とかはあんまり期待したい方が良いかなぁ。仮に介入してくるとしたらどんなところになると思う? LD」
「そうだな。和平交渉の仲介を名乗り出る。領土の割譲後に一部変換するよう圧力を加えてくる、といったところか。最悪の場合は軍事介入もあり得る」
「確かに、最悪だ。そうなったら負けは確実かな」
  そうなるだろう、とLDもエルトナージュも頷く。二人の見解が一致しているのならばまさしく絶対だ。
「となると、適当なところで和平交渉か。けど、軍の方はぶっ潰す気満々だからなぁ」
  アスナが思いっきり煽ったんでしょう。という視線を思いっきり二人から浴びる。
  まさしくその通りで苦笑が浮かぶ。だが、アスナだって言い分はある。あの時は色んなものが重なりすぎていてぶち切れていたのだ。情状酌量の余地があるはずだ。
「まぁ、オレもそのつもりで話を進めてるんだけどさ。さすがに余所を刺激しすぎてもあれだからなぁ」
  まったくやれやれだ。アスナは乱暴に頭を掻きむしりながら、ソファに思いっきり倒れ込んだ。相変わらず天井が高い。手を掲げる。
「とりあえず、絶対条件はワルタの奪還とこれまでの損害に見合うだけの賠償金を貰うこと。だけど、ロゼフは借金だらけで賠償金どころじゃない。だったら、今のところロゼフで一番金が稼げるのは何かな?」
  アスナは天井を見上げたままだ。変な感じに血が頭に上って妙な気分になってくる。
「鉱山と港湾都市キストね。この二つが生命線と言っても良いわ」
  だらしのない格好のアスナに何か言いたげだが、エルトナージュは質問に答えることを優先した。どことなくだらしのない猫みたい、と思っていたりもする。
「賠償金代わりにこれらを抑えるのは悪くない。だけど、キストを押さえるとやっぱりサベージへの圧力になる。キストを守るために海軍基地を置いたら、それだけサベージ海軍への圧力になるもの。現在の規模はさほどでも将来的な脅威にはなるのは確実。それを彼らが歓迎するとは思えないわね」
「だが、アクトゥスは歓迎する。少なくとも黙認の方向に動くと思う」
  と、LD。
「というと?」
  幾らか気怠げに身体を起こす。実際、最近のアスナは疲れ気味だ。
  外に出れば気も張っていられるが身内の二人しかいないこの場ではどうしてもだれてしまう。
「彼らが対リーズ問題を抱えているからだよ。アスナ、仮にキストを押さえることが出来ればラインボルトは今以上に海上権益を強化できる。将来的にはリーズと海上権益で衝突するのは絶対だ。となれば、リーズの矛先がアクトゥス一極に絞られ難くなる。脅威の分散、もしくはラインボルトへの押し付けとも言えるがな。だが、皇竜海を握れば東西貿易で得られる利益は確かに莫大だ。取れるのならば取った方が良い」
  皇竜海とはリーズとラインボルトなどがある大陸とを分かつ内海のことだ。
「そうですね。だからこそ、反発が大きいんですよ。サベージもそうですが皇竜海に面している国々も反発しますよ。彼らの権益を奪うことになるんですから。キストを恒久的にラインボルトが押さえるには最低でもアクトゥスとサベージの承認が必要です。彼らの承認を得るには……。そうですね。彼らを納得させるだけの名文と利益の分配などですね。利益の面で露骨にやるのは外聞もありますから、アクトゥスとサベージ向けの新株を用意するのも一つの手だと思いますよ」
「株? キスト全体を一つの会社にして各国に株の一部を売るってこと?」
「この場合の株は貿易商その他に対しての出店権、つまり一部の商家にのみ貿易の独占を許すということだ。市場を開放すると言えばすぐに商人たちが手を挙げるはずだ。そこにサベージで不渡りを出しそうな商人たちに優先権をちらつかせれば、サベージもこの申し出を断り切れないだろう」
「それは良いとして、新しく呼ぶってことは今商売しているところはどうなるんだ? 将来、開発するにせよ商人たちにとっては商売できるならすぐにでもやりたいだろうし。既存の連中は追い出すの?」
「敗戦国ですから、財産没収の上放逐が普通です。ただ、さすがにそれは後々問題がありますから王宮府の例に則って、地元の乗っ取りが行われると思いますよ。既存の外国商家に関しては不都合がない限り比較的安価で株を売るのが定例になってます」
「デミアス卿がその辺りのことを上手く取り計らってくれるか。仮にキストを獲れたら、新領土の統治資金は楽になる?」
「すぐにとは行きませんが、将来的には楽になるのは確実です。東西貿易の中継点の一つにもなりますし、ロゼフの鉱物資源や材木なども需要がありますから、新領土経営の大きな力になってくれますよ」
「てことは何が何でも獲らないとダメだな。軍事的にも、商売としても、将来においても」
  道理でキスト関連の資料が大量に用意されてる訳だ、とアスナは改めて思った。
  政府としてはただでさえ戦争で財政が洒落になっていないのだから、そこに新領土経営の資金を長期間出し続けるのは余りにも辛すぎる。負担を減らせる事ならば大歓迎。
  海軍だけではなく政府も通常以上に力を入れて支援を行っている。
  だが、領土獲得反対派がいるのも事実だ。新領土を得るということは軍事的な負担が恒常的に増すということになる。その負担を越える利益を新領土から得られるのか、という疑問の声が政府はもちろん、議員たちの間でもある。
  奇襲作戦という性格上、議員たちにも秘匿されているキスト制圧作戦が彼らの耳に入ればさらに反発の度合いはさらに大きくなっただろう。
  なにしろ海を制するにはかなりの資金が必要になる。船舶は先端技術の塊といえる。それを操る船乗りたちを育成するのにも多額の資金が必要だ。
  むしろ、占領した領土を放棄する見返りに賠償金やラインボルトにとって非常に有利な条約を結んで利益を得る。つまり、属国化した方が手っ取り早くて良い。
  それでも政府が海軍の作戦を了承し、渋る陸軍の尻を叩いたのは次の対リーズ戦を睨んでのことだ。賢狼族を通じての内陸だけではなく、天鷹族を通じての海上から物資を得るルートを強化したいからだ。仮にリーズがサベージの商船に対して攻撃を加えた場合はサベージを戦争に巻き込む事が出来る。
  もっとも、リーズとしてもサベージとまで事を構えたくはないはず。ならば、確実性の高い輸送経路を確保出来るのならば、やらない理由は何もない。
  東と西に関してはやるべきことは明確だ。越えるべき障害は多く、その先に向かうことは困難ではあるが、目に見えているのであれば決して不可能な事ではない。
  何より当面の間は敵対の意思がないのが良い。
  先行き不明で五里霧中なのは南北の大国。リーズとラディウスだ。
  この両大国がどう動くのかの方がよっぽど気になる。まさに頭痛の種だ。
「キストを取った場合、リーズが口を挟んでくる可能性はやっぱり……」
「十二分にある。ただ、どの程度の介入になるかまでは分からん。今上竜王の権勢は古今を通して五指に入るだろう。全ては竜王のさじ加減一つだ」
「竜王か。どんな人なんだ? 確かLDってラインボルトに来るまではリーズに雇われていたんだろう?」
「あの時の私の雇用主は連隊指揮を任された貴族だよ。竜王相手ではどれだけ武功を重ねても一介の傭兵如きが拝謁の栄に浴するなんてことはないさ。例外があるとすれば没落貴族出身の傭兵ぐらいか」
「今上の竜王は随分と腰が軽く広範に人と会っていると聞いていましたが貴方とは会わなかったのですね」
「所詮は傭兵だ。それに私もそういった面倒ごとは御免被る。武功の全ては雇い主に押し付けて、私は約束通りの報酬を受けた。それで良い。むしろ腰が軽いのは先王とアスナの方だと思うがね。あからさまに敵対していた者を側近としている。歴史上でもそうあることではないよ」
「はいはい。どうせオレは変わり者ですよ。……話を戻して竜王は噂通りの人物だってことで良いんだよな。個人としてもすこぶる強くて、王様としてはさらに強烈」
  今上竜王ファーディルスが即位して間もなく先々代から何かと反抗的な態度をとり続けていた黒竜公を夜討ちではあるものの少数の供回りのみで討ち取っている。
  黒竜公討伐という強烈な一撃で周囲が混乱、動揺している間に様々な政策を実行し、その殆どを彼は成功させた。その結果、これまで同盟の盟主的な存在であった竜王という地位を絶対君主へと押し上げることに成功している。
「硬軟取り混ぜた物事への対応と、誰もが忌避する強権発動を辞さぬ行動力はまさに王者そのものです。政治的に停滞していたリーズを突き動かし、改めて幻想界第一の大国であることを示し続けています」
  それらのことを話したエルトナージュの声音には畏敬の念が篭もっているのがアスナには分かった。もしかしたら、彼女は王としての指針を父王にではなくファーディルスに求めていたのかもしれない。
「そういった強すぎる王だからこそ、外征を始めようとしているのかもしれません」
「……どういうこと?」
「彼は至尊の座を目指しているかもしれないということです。つまり皇帝への道です」
  竜族においてその称号は神話的とすら表現できるほどに眩いかつての栄光だ。
  皇帝を宣するにはもちろん条件がある。
  第一に竜王の地位にあること。
  第二に全てのリーズ貴族が有するあらゆる特権を与奪する権限を有すること。
  第三に百の諸族が臣従していること。
  第四に二十の諸国を臣従させていること。
  第五にレムニア教団が預かる帝国権標――つまり帝冠などの皇帝の権限を象徴する宝物群――の返還を受けること。
  以上の条件を満たした者が皇帝を宣することが出来る。
  現在、ファーディルスは第一、第二条件を満たし、第五に関しては彼の実弟がレムニア教団で要職の地位にある。
  竜王自身は帝位について言及したことは一度もない。国王が王権を強固にしようと動くことは珍しくなく、王族が落飾することも珍しいことではない。
  だが、ここにアクトゥスとの対立が激しくなってきたことを加味すると話が別の色合いを持つようになる。
  なにしろアクトゥスは複数の王国を内包する連合王国だ。もし、リーズがアクトゥスを解体すれば第三、第四条件の達成に限りなく近くなる。
「皇帝に、か。どうりであっちこっちに自分の味方になれば良好な関係を築けるって誘いをかけている訳だ。味方を付け増やせるし、第三、第四条件を満たす一因にもなって一石二鳥。いやぁ、なんというか凄いね」
「なにを感心して居るんです。アスナにもその誘いが来ているんですよ。それに今上竜王は自分の中で第六条件を作っている可能性だってあるわ。つまりラインボルトの崩壊」
「そういや皇帝不在の状況を作った原因はラインボルトにあるんだった」

 

 ラインボルト独立戦争記は様々な栄光と虚飾とで彩られたこの国の始まりの物語だ。
  学校に通うようになった子どもが一番最初に触れる歴史であり、ラインボルトの民に最も知られた物語。その扱いは神話のようだと言っても過言ではない。
  だが、実際のところは奇襲とゲリラ戦といった泥臭いものばかりだ。
  確かに建国王が名のある竜族を一騎打ちで倒したこともあるが、その殆どが竜族が住まう屋敷地ごと魔法で破壊で決着を付けていた。時には街ごと破壊することもあった。
  これに対して当然、リーズは怒った。各地から力ある竜族が鎮圧に向かったが、その殆どが建国王の手によって抹殺された。
  彼ら竜族が率いてきた多種族からなる軍勢の殆どは指揮官を失い、右往左往し、最終的にはラインボルト草創期の軍の中核を担い、リーズからの独立を果たした後の支配を裏付ける力となっていった。
  さて、急速に頭数が増えると問題になるのが人材の質と数、そして何より金の問題になる。
  人に関してはリーズ軍にて経理の下働きをしていた下士官たちや商人たち、竜族領で徴税官をしていた者の部下たちが任用された。
  そして、その人を動かす金をどうやって生み出すかが問題になった。土地からの収入は全くなく、幾人かの商人から支援を受けてはいたがそれだけでは追い付かない。
  そこで利用されたのが討ち取った竜族の死骸だ。
  彼らの爪や牙、鱗や骨はそれなりの加工を施せば一級品の魔具になる。当初はその原材料として、後には加工品としてこれを売り払って兵たちの口を満たしていたのだ。
  これが諸外国の有力者たちに非常に高額だったが、よく売れた。
  そして、この金策は思わぬ効果を及ぼした。
  竜族の、ひいては帝国の権威失墜のラインボルト側における象徴となったのだ。
  金はあってもまだ足りない。売れる物ならなんでも売り払えとばかりに竜族の死骸を諸外国に売りまくったことで、それは確実となった。
  極少数であれば墓あらしが流通させたことはあった。しかし、今回は規模が全く違う。あちこちで竜族の遺骸を用いた製品が売られるようになったのだから、周囲に及ぼす影響が全く異なる。
  当時は竜族を倒すことなど何があろうと不可能だと思われており、実際その通りだった。
  それが次々と討ち取られているのだ。当初は眉唾ものであったが近隣属領から鎮圧に派遣された名のある将軍たちの骸がその属領に売られるようになってからは“竜を凌駕する者”が現れたことが事実として受け入れられるようになった。
  あちこちで竜族に支配される諸族が立ち上がり、軍は反乱を起こした。そして、ついに竜族は大陸からたたき出されることになる。
  といったラインボルトその他諸族における動きはリーズ崩壊の一因でしかない。
  本質的な要因はそれとは別にある。
  それを語るにはまずリーズという国家が成立する経緯から始めなければならない。
  リーズは正確には竜族が建てた国家ではない。彼ら竜族を神の御使いとして奉った諸族が連合して建国した国の名であった。
  リーズ建国前までの竜族は今のような国家を運営する存在ではなく、各地に住処を持ち時折一族の長のもとに集まり、交流を持つという生活をしていた。
  牧歌的な生活を営む彼らがなぜ他の種族から神の御使いと見られたのか。それは彼らの食生活にある。当時の竜族は魔獣を主食としていたのだ。
  彼らの巨体を維持するには豊富な魔力を内包する魔獣の肉が適している。
  その魔獣は諸種族にとっては脅威だった。家畜や作物を荒らすだけではなく時には集落を遅うこともある。魔獣は当時から日常のすぐ隣に存在する脅威だった。
  恐れるべき魔獣のみを捕食する竜族は彼らにとってまさに神の御使いそのものであった。
  諸種族は竜族に対する礼といつまでも自分たちを守ってくれることを願って贈り物をした。食料は元より財宝、時には集落で一番の美女も竜族に捧げられた。
  この竜族に捧げられた女性たちが竜族を変える大きな要因となる。
  彼女たちが竜族に自分たちの言葉、風俗、物語を教えた。自分の一族以外にさして興味を持たなかった彼らがこの時はじめて外の世界を認識したと言って構わないだろう。
  当時の竜族の世界とは穏便に縄張りを維持することと、良き伴侶を得ることぐらいだった。捧げられた彼女たちが語った話は彼らの世界を大きくした。
  竜族が普段は人型をとるようになったのはこの頃からだ。
  姿を自分たちに合わせる様を見た諸種族はさらに畏敬の念を深めて彼らの住処を改築して神殿とするようになった。
  竜族の定着により諸種族は大きな繁栄を始めることになる。魔獣の脅威が軽減したことにより生産量が増加し、時には竜族の威を借りて戦を行い領土を広げていった。
  やがて、ある変わり者の竜族が捧げられた女性を孕ませた。眷属の誕生だ。
  生まれた子はやがて女性の故郷に戻され、出身種族の特権階級の礎となる。
  離合集散を繰り返し、やがて幾つもの竜族を奉る国家が成立する。王族は元より、貴族や神官たち支配階級は眷属で占められるその国々は連合して新たな領土を求めて海外に目を向ける。
  しかし、彼らの海外植民計画は海聖族によって頓挫し、無事上陸出来ても獣人たちによって壊滅することになる。
  これら一連の事件をして、竜族に連なる諸国は『これは文明に対する挑戦である。我々は蛮族どものを平定し、教育を施すことこそが竜に連なる者として当然の義務であり、神々より与えられた使命である。よって我々は一致団結をして事に当たらねばならない』との宣言を旗にして一つの国家へと纏まることになる。リーズ共和国の成立である。
  その間、竜族は神殿に住まいこれまで通りの生活をしていた訳ではない。彼らは王たちよりも上位の存在として君臨していた。巨大な神殿には人型となった一族が多数の眷属や奴隷に傅かれて住まうようになっていた。そして一族の有力者は政治を司る者たちを観察し、時には働きかけて国を動かしていた。
  外征も竜族の働きかけによるものだった。貢ぎ物によって豊かになった彼らは急激に個体数を増やし、自分たちの子弟の縄張りを得るべく外に土地を求めていたのだ。
  外征の失敗により、今までのような緩やかな連合では実現出来ないと考えた竜族は大陸を一つの国家として形作ることを決め、実行に移させたのだ。
  統合の象徴として、という口実でこれまで政治的に表に出なかった竜族が元老院議員として参加することになった。また、軍事的にもこれまで魔獣討伐以外では軍を率いることが無かった竜族が外征に参加した。
  リーズ共和国がまず目指したのは渡海を邪魔する海聖族の討伐だ。
  海上での戦いでは海聖族が圧倒したが、竜族の上空からの攻撃にはそれを有効に防ぐ手だてがなく次々と海の男たちは海底に没していった。
  水死することのない海聖族も重傷を負い、海棲魔獣に襲われてはどうしようもない。
  数多の軍船、多くの海の戦士たちが失われてしまった。これまで海上交易により、大きな富を得ていた彼らにとって海軍の壊滅は生活基盤の破壊に繋がる。
  だが、彼ら海聖族はリーズに大きく欠けている海上警備能力を有している。リーズは多額の献上金を納めさせ、海上警備を担わせることで彼らを自分たちの体制に組み込んだ。
  後には元老院議員を排出することに成功していることを考えれば、最恵待遇であったことが分かる。
  渡海の安全を得たことでリーズ共和国の外征は本格化する。
  幾つもの属州を得、諸族を支配下においた。リーズ共和国に敗れた王たちは多額の賠償金と奴隷を支払い、王冠を維持する為に歳貢を行うことになる。
  この侵略の歴史は幻想界の交通網の整備の歴史でもある。
  土地の季節や天候、交通量にあった道路が整備された。その工法の種類は多く、盛り土を固めて側溝を付けたものから、地中に固い材木や石を敷き詰めて路盤を頑丈にした。
  リーズ共和国はこういった手間を惜しまず、属州政庁に道路関連の専門部署を設置し、被征服民を管理官に任用して管理・維持をさせた。
  この道路網の整備の目的は物資財宝の輸送、軍隊の移動に用いられた。
  重要度の高い情報に関しては竜族自らが空を駆って伝達された。
  この道路は共和国維持を目的に用いられたが、征服地の文化の伝達路としても利用された。この道路を通じて様々な技術、芸術、宗教が広がり融合することになる。
  こうして領土が広がり、幾つもの国や種族を麾下に入れる過程で改めて竜族の権威付けを行う必要が出てきた。他の種族はそれにぞれに独自の神々を奉っており、幾ら竜族を神の御使いであり、邪なる魔獣を打ち倒す者だと説明をしても受け入れられるはずがない。
  被征服民にとっては魔獣と変わらぬ恐ろしい存在なのだ。
  そこでリーズ共和国は主要な種族が有する神話を編纂し直し、広めることで対処された。
  レムニア教団の成立と国教化だ。
  土着の神々と竜族が結びつけられ、聖俗両面からの支配を目指したのだ。だが、それは竜族は魔獣討伐を行うという契約を被征服民と交わしたことを意味してもいた。
  しかし、それで問題はなかった。総督、もしくは大土地所有者として属領に派遣された竜族が狩りの一環として行っていたからだ。
  また、この狩りは別の意味もあった。被征服民が脅威に感じる魔獣を容易く討ち滅ぼす強大なる竜族の力を誇示し、逆らうことの無意味さを思い知らせることにも利用された。
  また支配者たちが快適に暮らせるように建設された都市の壮麗さによる共和国の文化大国としての威厳を示し、被征服民有力者のリーズ化することによって支配を維持されていた。アメと鞭、恐怖と寛容による支配という訳だ。
  一方、その頃リーズ本国では戻ることの出来ない流れである事態が進行していた。
  竜族による政治権力の寡占化だ。
  リーズ共和国の政治体制を簡略化すれば、最高指導者である執政官、元老院、政務官、護民院の四つに分類される。前者三つは国政について主に行い、護民院は本領や属州の地方行政を司る。ちなみに地方行政の長である総督は政務官に属し、地方の役人は基本的に現地採用となる。
  執政官は竜族独占が確立し、元老院や政務官の重職も殆どが竜族、もしくは竜の眷属で占められるようになっていた。
  共和国成立時の議員や役人たちは世代交代により影響力が低下し、竜族の神格化も進んだことにより中央政界への進出が非常に難しくなっていた。
  もはや共和国は竜族の武威を背景にした多種族国家ではなく、竜族による支配を維持するための機関となりつつあった。
  竜族の支配独占を危惧した共和派は各地で蜂起し、長きに渡って内乱が続くがやがて撃破されてしまう。これらの内乱が竜族支配を確固たるものとした。
  これら内乱で多大なる功績を掲げた四人の将軍が東西南北の統治責任を担うようになり、将軍より上位であるとして竜王を名乗ることになる。
  彼ら四竜王の上位として執政官がいたが内乱鎮圧の武功を有する彼らを制御することは出来ない。事実上、この四竜王による寡頭政治体制であった。
  この体制に反感を持った元老院派が反乱を起こす。陰謀と暗殺、そして反乱により三人の竜王が政治の舞台から去り、元老院側も多くの実力者を失い影響力は大きく減少した。
  生き残った竜王ハミルと元老院は和睦。竜王位と執政官職の兼務が承認され、『偉大なる平和の守護者』の称号が贈られた。この他にも敗者の領地などの特典も贈与された。
  ハミルはこれらの地位と特典を世襲のものとして確立することに成功し、彼の子孫は元老院の決議拒否権や最高神祇官職、全属州総督の任命権などを得て竜王位を絶対的なものとした。そして、リーズの最高権力の全てを掌中に収めた時の竜王サナルは全ての属州の総督や元老院議員、百の諸族の長と二十の諸国の王を呼び集め、改めて臣従の誓約をするように要求する。参集した者たちはこれから何が行われるのかを聞かされてはいなかった。
  しかし、共和国の絶対権力者に否を言える者はいない。また、彼らは自分たちに要求された臣従の誓約とは共和国に対してであると思っていた。
  しかし、現実は彼らの予想を上回った。
  サナルは自身を諸王の王たる存在『皇帝』に即位したこと、以降リーズは帝国と称することを宣言した。
  最高神祇官職も兼ねる彼はレムニアの神々よりの祝福を祈り、皇位と帝国を象徴する帝冠を自らの手で被り、帝国とその臣従する諸王国全ての武力を象徴する聖槍、最高神祇職を示すレムニアの印章を象ったペンダントなどの帝国権標を身につけた。
  誰もがあまりの事態に口を開く事が出来なかった。仮にいち早く正気を取り戻した者がいたとしても否を口にすることは出来なかっただろう。
  ここにリーズ共和国はリーズ帝国へと移行することになる。
  幻想界全ての頂点に君臨すると宣言したサナルはただ権勢欲を満たすことのみを追及する男ではなかった。
  彼は帝国全土で常態化していた不等な搾取、贈与や収賄の一掃に取りかかった。
  この当時、リーズは広大な帝国を統治するに相応しい組織的な官僚群を有してはいなかった。大雑把に言えば、皇帝が属州の総督を任命し、その総督が徴税官を任命する。実際にあれこれと動くのは徴税官というわけだ。そして、この徴税官もその名の通りで如何に税を取り立てるかに終始しており、真っ当な行政を行っていた者はとても少ない。
  またこの徴税官の任命というのが厄介なのだ。総督や影響力のある元老院議員がこの官職を売買していたのだ。こうなれば贈与や収賄が常態化するのも無理からぬことだった。
  そして、彼ら徴税官は元手を取り戻すために法で定められた税率を超えた徴税を行っていた。提督はそんな徴税官の行為を黙認する引き替えに賄賂を受け取っていた。
  サナルはこの病巣の切除を始める。種族に関係なく行われた厳罰化により沈静化させることに成功したが、体制そのものまで着手することはなかった。
  文化・芸術を奨励し、内乱で破壊されて地方の建築物の修繕に取りかかった。
  その中でも特に彼が力を入れたのが性愛に関してだ。サナルは詩人や文学者、劇作家たちを支援して、性愛に関する多数の作品を世に送り出させ、また子作りを行う夫婦には多額の支援を与えもした。いわば性の開放だ。
  元老院派が起こした内乱により竜族は著しく個体数を減らしていたのだ。そこに不等搾取への厳罰化で処刑された者が多く出たことで種としての危機感をサナルは感じていたのだ。彼はひとまず帝国経営に眷属たちを積極的に登用してその場を凌ごうと考えた。
  しかし、眷属たちにとっては出世への門戸が開かれたと解釈され、サナルは彼らから絶大な支持を受けることになった。
  これらの施策により竜族は緩やかに個体数を増やし、帝国への再編も軌道に乗り始めた。
  皇帝サナルによって育てられた帝国という巨樹はやがて幾つもの撓わ(たわわ)な果実を実らせた。豊かさを背景とした爛熟したリーズ文化が本格的に生まれたのだ。
  文化の果実には廃頽(はいたい)というの名の余りにも甘美な蜜が含まれていた。
  初代皇帝サナルが竜族に与えた芸術と性愛の果実、そしてその果実を実らせる眷属たちの登用は彼の同胞を堕落させる制度へと変質していったのだ。
  竜族は実務的な仕事は自らの眷属に丸投げし、自身は奢侈と美食に耽溺した。
  男も女も性愛に耽溺し、伴侶のある身であっても他人との愛欲に身を委ねた。
  哲学者や良識を持つ者はこのありさまを嘆き、皮肉な風刺の詩として発表するも「見ろ。貧しき者の僻みを」と嘲笑されるのみ。
  さすがにこの風潮に歯止めをかけなければならないと決断した時の皇帝が取り締まりを命じた。その時、娼館にて逮捕されたのは元老院議員を夫に持つ女性であった。
  彼女はその取締官の前で誰憚ることなくこう宣言した。
「男たちは将来、伴侶となる女を身篭もらせるための訓練、自らの身の回りの世話をさせるためにと称して下賤なる女たちと性を謳歌している。私がここにいるのもそれと同じ。夫の胤を受けた時、すぐに芽吹かせることができるよう準備しているだけ。男とは違って私たち女は他種族の牡の穢れた胤を身篭もることなんてないのだから」
  そして、自分を捕らえた取締官を誘惑したという。
  また豊富な知識を得た女性たちは積極的に男たちに議論を吹っ掛け、名だたる思想家、弁護士も言い負かされ男たちは閉口するほかなかった。
  男性社会の崩壊、というよりも女性が男性の悪徳を共有したと評した方がより正確だ。
  男女ともに己を律し新たな価値観の創出する流れでなければならないのだが、そうはならなかった。
  こういった帝国での社会背景の元でラインボルト独立闘争が始まるのだ。
  政府はこの独立闘争を徹頭徹尾独立の為の戦いであると位置づけてはいなかった。
  単なる現地民の蜂起でしかないと考えていたのだ。数多の同胞を討ち取られ、その亡骸を売り払われたとしても全体としての認識は変わらなかった。
  むしろ、後々自分の懐に入る金銭が増えるのではないかとほくそ笑んでいた。
  女たちはこの戦いを男性社会打破の象徴として見ていた。他種族であろうと女が男の竜族を圧倒し、戦う様はこれまで経験したことのない物語として映り、リージュ――この頃はまだラインボルトという国号はなく単に彼女の名からリージュの乱と呼称していた――を討伐することは自分たちへの攻撃であると解釈していた。
  夫や父に働きかけて本国からの討伐軍派遣を小規模化させ、且つ遅らせた。
  また、純血の竜族の代行として実務を行う眷属たちは危惧を覚えつつも独断で命令を出せる権限もなければ、余計なことをして責任を追及されたくもなかった。
  どのような判断であるにせよ、帝国支配層はリージュの独立闘争を大事件とは認識してはいなかった。目障りな羽虫が飛んでいるといったところだろう。
  帝国崩壊の原因は彼らの価値観と体制が成り立たなくなったからとした方が良い。
  リージュが現地の竜族相手に暴れ回っていた頃、帝都では慶事に沸いていた。
  皇后が身篭もっていたのだ。生まれた子どもが男子であれば次代の皇帝となる。
  次なる偉大なる平和の守護者にして、最も神々に近い御子の誕生はそれ自体が神聖な儀式となる。妊娠が確認されてから皇后は様々な儀式を経ることになる。
  そして産気づいた皇后は産屋と呼ぶにはあまりにも壮麗な屋敷に入り、高貴なる血統の女性たちに見守られながら出産をする。
  見守る女性たちは皇后に次ぐ存在と見なされ、女性にとって最高の栄誉であるとされた。
  彼女たちの役割は神々へ無事出産が済むように祈りを捧げ、誕生の後は皇帝に誕生の報告をし、輿で町々に出て生まれた御子が如何に神々しい姿であったかを喧伝することになっている。皇帝より佳肴が振る舞われ、帝都全てが沸き上がる祭となるのだ。
  果たして生まれた御子は男の子であった。
  女性たちの口から祝福の歓声が発せられることはなかった。産屋には産まれたばかりの子の泣き声のみが響き渡っていた。
  あり得ない静けさに皇后は出産の疲労をおして身を起こした。そこには大きな殻を破って愛らしい泣き声を上げる人型の我が子がした。
  竜族は卵生で出産の後、しばらくして孵化をする。その赤子は本来の竜の姿で産まれる。
  しかし、そこには人型の子どもだ。忌み子の誕生である。
  皇后は絶対にあり得ぬ光景に卒倒した。それと同時に出産を見守っていた女性たちが叫び声を上げ、ある者は皇后と同じく卒倒し、またある者は恐怖のあまり神々に祈りを捧げた。その中でた正気を保つ者たちがいた。
  彼女らは儀式に定められた通り皇帝に誕生の報告を行った。
  皇帝は青ざめた。すぐに事の真偽を自身の目でも確認すべく産屋に向かった。
  そこには確かに人型をとる我が子がいたのだ。
  竜族の女は同族の男の子しか産むことが出来ない。また血統を維持するために皇后は特に厳格な監視下にあり、皇帝と同席でない限り他の男と接触する機会がない。
  となれば、この卵の殻の中で泣き続ける男の子は皇帝の子でしかありえない。
  竜族が人型で産まれるなど皇帝である彼とて知らぬことであった。
  一頻り我が身と皇后に降りかかった不幸を嘆いた皇帝はこの事実を隠蔽することにした。我が子は無事に誕生した。しかし、健やかな身ではないので成長するまで静かに育てることにしたのだ。この子が本来の姿を取り戻せれば良し、第二子を授かればそれも良し。
  今はこの事実を隠さなければならない。不仲にある帝弟がこれを知れば、どんな行動に出るか分からない。皇帝は産屋にいた女性たちに口を閉ざすように命じた。
  皇帝の命令は神々のそれと同義である。しかし、場合が場合であった。
  産屋にいた女性の一人が帝弟にことの次第を話してしまった。
  この話を耳にした帝弟もにわかには信じられることではない。信じられないが、皇子誕生してから皇帝が様変わりしたことは彼も感じていた。
  慣例として誕生後に一族の者や側近にのみ許された皇子のお披露目は取り止められ、扶育を自らが行うと宣言したのだ。これは絶対にあり得ないことだ。
  皇帝とはすなわち帝国である。皇子を隠すということは次代の帝国を隠すということに他ならない。ついに帝弟は元老院にて皇帝にこの一件の質問をした。
  これに対して皇帝は「皇子は身体が弱く静かに成長を見守ることにした」の一点張り。
  帝弟は過去の帝国の慣習、虚弱な皇位継承者が誕生した際は皇族は神官を従え、皇子とともに神々に皇子の健やかなる成長を祈るものだと主張した。
  この主張は全くの道理であった。祈りを捧げる儀式は簡単なもので皆でレムニアの神々に祈りを捧げ、最高神祇官たる皇帝自らが聖別した乳で幼子の口を湿らせるだけだ。
  これは政治的にも重要な儀式であった。皇位継承権のある者が虚弱な幼子を盛り立てることを神々に誓約することでもあるからだ。
  帝弟自らが口にしたということは私心はなく純粋に甥を心配しているとの表明であった。
  しかし、皇帝は首を縦には振らなかった。振ることが出来なかった。
  両者の距離は遠くはないが、しかし溝はとても深かった。
  始まりが私心無き憂慮であったことが、やがて断絶へと繋がっていく。
  そして、公然と存在する秘密を隠し通すことは出来ない。
  帝弟は自分に注進した女性を保護すると同時に帝宮の女官や奴隷たちの抱き込みを行っていた。やがて、産まれた子についての確たる証言を得た。
  証言者を引き連れた帝弟は再び元老院にて公表し、産まれた御子の廃嫡だけではなく、皇帝の退位を求めた。皇帝は神聖にして不可侵、故に虚言を弄してはならない。
  この事態に否を皇帝は否を叫んだ。これは帝位を求めるための陰謀に他ならない。反逆であると断じ、兵たちに捕縛を明示した。
  しかし、事前に根回しを受けていた元老院議員たちはまず皇帝が疑いを解くべきであって、捕縛はその後でなければあらゆる法は正義を失うと断じた。
  議会は紛糾し、やがて皇后が妙な御子を産んだことは真偽を取り混ぜて帝国全土――支配階層はもとより、市井に至るまで――に広まった。
  帝国が強固であった理由は竜族の強大さと、それに裏打ちされた神々の祝福にあった。
  聖俗両面における世界最高位にある皇帝が神々の加護を失った。
  この事実、歴代皇帝が纏っていた『皇帝』という名の幻想は消え去っていた。
  辺境で起こった反乱になど構っている余裕はなくなった。今上帝への不審と帝位継承権問題は激化し、ついに御子の存在は隠しきれなくなった。
  争いの中で様々な証言が現れ、ついには出産に立ち会った女性たちも証言をし始め、純血でありながら人型で産まれた御子の存在は明かなものとなった。
  皇后までが元老院で証言をさせられることになった。彼女はこの争いに憔悴の極みにあった。皇帝の血を汚した女の烙印を押すかのような質問の嵐に皇后の心が破綻した。
  皇后は自分以外にも人型で産まれた子どもを産んだ女性たちがいることを暴露したのだ。
  その中には高貴なる血統を誇る女性たちも数多くいた。
  これが更なる混乱を呼び、各地で竜族同士の争いが勃発した。
  こうして、神の御使いであった竜族が地に堕ちたのであった。
  内乱と反乱により帝国はその形を失い、皇帝たる全ての条件を失うことになる。
  反乱を鎮圧する余力はなくなり属州では独立が相次ぎ、皇帝を名乗るための第三条件――百の諸族が臣従していること――、第四条件――二十の諸国を臣従させていること――が満たされなくなる。
  一度、下り坂に転げ落ちると勢いは止まらない。
  皇室の権威失墜に伴い、第二条件――全てのリーズ貴族が有するあらゆる特権を与奪する権限を有すること――が形骸化。
  元老院議員たちは自身よりも下位の者や同族を集め、彼らは本来皇室の縁戚にのみ許されていた大公位を自称し、半ば独立することになる。
  皇室そのものも皇位継承問題のいざこざが元で本家筋は断絶、一大公家に堕す。帝国権標は混乱の中いつの間にかレムニア教団が預かることになってしまい、時間の経過と共に王権神授の色合いを持つようになる。
  全ての条件が満たされなくなり、ここに帝国は崩壊したのであった。
  それでも竜族はリーズという枠組みだけは崩すことがなかった。それほどまでに帝国の栄光は輝かしく、それを継承することに執心していた。
  その為にはまず第一条件である竜王になる必要がある。こうして、リーズは王位継承の争いを長きに渡って続けることになる。
  これが五大国体制を作り出す時間的な余裕を与えることになり、今に至るのだ。
  リーズが帝国再興を目指すのは個人的な権勢欲だけではなく、リーズという国家が無意識のうちに志向する妄執そのものなのだ。
  ラインボルトが帝国崩壊の要因であることは確かであるが、絶対的な要素ではありえない。しかし、政治的に両国はラインボルト独立が切欠であるとする必要があった。
  リーズは自滅という惨めさから目を逸らすために、ラインボルトは建国への道程を輝かしく見せるために必要なことであった。
  欺瞞といえばこれ以上のことはそうはないだろう。
「う〜ん」
  アスナは天井を見上げながら、こういった経緯を思い出していた。
  諸外国との付き合いでは歴史の勉強は必須だ。相手がどういう歴史の流れを持ち、自分たちと関わっているのかを知らなければ、問題の解決が難しくなる。
  その最たるものが領土問題だろう。係争中の土地がどういう歴史的な経緯を持つのかが分かれば、周囲を納得させて認められ易くなる。
  また、相手から向けられる好意や敵意の原因を知ることにも役立つ。
  そういった理由で内乱中から少しずつラインボルトと関係の深い国々の歴史概要を勉強していた。事細かな年号は記憶おらず大雑把な流れのみだが、それで問題はない。
  詳しい経緯を調べたい時の索引として記憶が使えれば十分だ。
「仮にエルの推測通りに竜王が魔王をブッ倒すことも条件に入れていた場合、ロゼフとの戦争にこのまま口を挟まないなんてことはないんじゃないのか? だって、あそこを取れば海に出られるし、領土も広くなる。将来的にはリーズにとって脅威になる。ロゼフが助けを求めれば参戦する理由にはなるし、戦後は何かと理由を付けて居座って圧力をかけ続けることだって出来る」
「長期的に見れば、そうだな」
  と、LDも同意する。
「だが、短期的に見れば内乱、ロゼフとの戦争と続いてラインボルトの財政は限界だ。そこに戦後統治に掛かる諸経費、港湾や道路などの整備に掛かる費用、海軍の増強、陸軍の補強などを加味すれば再び戦争などやっている余裕はなくなる。その間にアクトゥスとの戦争を片付ければ良い。ラインボルトへ圧力をかけるのはその後からでも遅くはない」
「LDが竜王の立場だったらどうする?」
「ラインボルトが下手を打てば介入。順調ならば不介入だ。軍がどこかで大敗を喫し、その立て直しが出来ないようであれば裏から介入をして泥沼化させる。順調ならば先に話したとおりアクトゥスとの戦争に集中する。ロゼフは見事にラインボルトの足を引っ張ってくれている。ラディウスは歯噛みしているだろうが、リーズは満足しているはずだ」
  ということはこれもやっぱり予定通りに重要な箇所だけを攻め取り、出来るだけ早くに戦争を終わらせるしかない。相手に嘴を突っ込ませる暇を与えず、その隙も作らない。
  常道であるが、それが一番難しい。
「やれやれだ。それで歯噛みしているラディウスは? 連中もラメルに居座ったまま十分にオレたちの足を引っ張ってくれている。連中、完全に立ち往生じゃないのか?」
「立ち往生?」
  と、首をかしげるエルトナージュ。言葉は通じるが、意味までは通じないことが稀にある。彼女は母が人族だということもあり割と通じるほうだが、通じないこともある。
  それをLDが注釈する。
「立ったまま死ぬことが転じて、身動きが取れない、もしくは行き詰まっていることを意味する言葉だ。姫君」
「よく知ってるな、LD」
  ちょっとした驚きだった。現生界の故事に由来する言葉は割と通じない事が多いのだが、この軍師には割と通じるのだ。
「昔、人族に興味を持った変わり者がいただけのことだ」
「へぇ〜」
  アスナがそれはどこの誰かを訪ねるよりも先に話を軌道修正してしまう。
「ラディウスに関しては現状維持が続くと私は見ている。撤退派、進軍派、日和見と公爵家が分裂している以上、動く事は出来ない。このままだらだらと限界が来るまで無駄な費用を垂れ流すのが関の山だ」
「冥王の勅命で一決っていう可能性は?」
「それはありませんよ」
  と、これはエルトナージュだ。
「あの国では王権が弱い。公爵家の決定に署名をする為にいるようなものです」
  ラディウスも初めから王権が弱かった訳ではない。むしろ、絶対的であった。
  しかし、不幸にも不出来な冥王が数代続いたことがあった。これにより国家的な危機を迎えたラディウスは王に助言をするという名目で公爵家による集団指導体制に移行する。
  この体制がどれだけ強固かは、冥王への即位が公爵家からの支持が必要な点から窺い知ることが出来る。結果、さして政治に興味が無く公務にのみ精励してくれる者が王位に就くことになる。この場合にいう公務とは子作りや儀礼、式典、文芸振興などのことだ。
  こんな王では如何に何かしら決断をして、声を発したとしても即座に動き出すことはない。国家を存立させると同時にラインボルト征服を志向し続けざるを得ない宿痾たる冥王はどこまでも無力な存在なのだ。
  ラインボルトとラディウスの最大にして明確な違いをエルトナージュは続けていった。
「アスナとは違うんです」
  実を言うとラインボルトも王は単なるお飾りとなる場合がある。むしろ、お飾りであった例の方が豊富だ。重厚な官僚組織に支えられたラインボルトでは強烈な王権の持ち主はともすれば迷惑でしかない。また、議員や官僚たちが民が深刻に思うほど悪くもない。
  徳行と悪行が合わさり、利権を得るべく国を富ませ、やりすぎによって放逐される。
  どこの国でもある、さして珍しくもない政治の営みが続けられている。
  ただ続けるためであれば、強固な王権は必要がない。
  しかし、アスナは悲しいかな内乱、戦争と非常事態が立て続き即位していないにも関わらず、強烈な王権を発動し続けてきた。
  煙たがられ、一部からは憎悪すら向けられてはいるが、古今では珍しく政府にも軍からも篤い信頼を寄せられている。今のラインボルトではアスナの発言は重い。
  その一方でエルトナージュやLD、宰相のシエンを初めとする重臣から公然と叱られているのだから、その辺りでも変わっている。
「えっと、ありがとう、で良いのかな?」
「えぇ」
  なんとも面映ゆい。幾らか赤面してしまう。実を言うとエルトナージュから余り誉められた事がないのだ。その為、どうにも気持ちが表情から溢れそうになる。
  しかし、嬉しさが決壊してしまうよりも先に、
「ご自由に。別にわたしは誉めている訳じゃないですからね」
「う゛っ」
「わたしやLD、周囲の皆が支えているのだから当たり前です」
  しかし、言外にアスナは自分たちが支えるに足ると言っている。それにアスナが気付くか。果たしてアスナは苦笑しながらこう応えた。
「だったら、オレは支えてくれるみんなのためにも頑張らないと」
「えぇ。当然です。だって……」
  微妙に耳を赤らめるエルトナージュを制止するようにLDが咳払いをした。
  二人して「空気読め!」とLDを睨むが逆に半眼で睨み返される。
  お前らこそ、空気読め、と。
「ラディウスに関しても政府案通りに現状維持で構わないんだな」
「まぁ、そうなるかな」
  結局、全て政府の見通しを了承することになった。
  この会合にしてもアスナが先の会議をしっかりと理解しているかの再確認という意味合いの方が強い。
「こっちが引っかき回してるのか、それとも踊らされてるだけなのか。やれやれだな」
「それはあちらも同じよ。操り人形の糸は絡まり過ぎて思わぬ動きをするものだもの。よかれと思って切ったら、なぜか動かなくなることだって多い。だったら、絡まった糸の根本を見極めて、それを利用した方が建設的。今は相手の方が上手なだけ」
「同時に相手の糸を何本か切り捨てられる武器も必要だ。あの件、そろそろ進めても構わないと思うが? 幸いなことに世間の耳目は戦争に向いている。状況から見ても運用試験としては申し分ない」
「政府と参謀本部はなんて言ってる?」
「政府は君が承認すれば予算措置を執ると言っている。参謀総長も同様だ。大将軍を初め関係する各所にも全て話を通している。政府同様にどこも君の承認があれば、とのことだ。但し、どのように運用するかに関しては余り口だしして欲しくはないようだがな」
  口だしに関しては、そうだろうなぁと納得する。
  何だかんだでアスナは素人なのだ。彼が知っているのは誰にこの仕事を任せれば良いのかだけだ。そして、王様はそれで十分なのだ。
  この件もまた、誰に任せれば良いか分かっている。残る問題は、
「当人にはもう話した?」
「いや、まだだ。事が事なだけにまずは外堀を埋めないとな。ヤツには私の方で話をしておこう。彼にはアスナの方から話をした方が良い。分かっているな?」
「それがオレ個人としても、王様としもやらないといけない責任だって言うんだろう」
「分かっているなら良い」
「あぁ、そうだ。越冬の準備ってどうなってる」
  と、思い出したようにアスナは確認した。
  ロゼフの冬は寒い。本当ならば越冬などしたくはないのだが、その前に戦争が終わることはあり得ない。ならば、将兵を冬将軍に討ち取られないよう準備を予めしなければならない。今はまだ雪の季節にはほど遠いのだが、用意する物資の量を考えれば遅いぐらいだ。
「国内だけでは民生用もありますからエンハントなどにも必需品の発注をしています。何とかなるとは思いますよ。一部の兵には暫く寒い思いをさせることになりますが、凍死させることだけはないはずです。そうですね、LD?」
  彼女の口調は明らかに憂慮の色がある。調達計画に対してではない。
「そうだな。少なくとも軍務省の計画ではそうなっている。大勢に問題はなかろう」
「そっか。うん……そうなんだよな。うん」
  しかし、アスナは納得しきれている顔ではない。それにLDは小さく息を漏らした。
「昔、あるところに商才に長けた男がいた。彼は行商から身を起こし、大店の主となった。彼は機会を逃さぬ目をもち、様々な商売の種を聞き分ける耳を持っていた。その中で特に秀でていたのは迅速に行動する点だった。ある時、手持ちの倉庫に視察に出た。彼自らが出なければならないほど大きな取引だった訳だ。そこでは出荷の準備が大急ぎで進められているはずだった。しかし、彼が訪れた時倉庫で行われていたのは別の作業だった。なぜだと思う?」
  なぜいきなりこんな話を始めたのかが分からないままにアスナは首を横に振った。
「梱包用の箱がまだ全て届いていなかったんだ。そこで倉庫の管理者は人員の割り振りを変えて、箱が到着するまで従業員たちに別の作業を行わせることにした。優先順位の低い仕事を空いた時間と人員を使って先に片付ければ、その分だけ急ぎの仕事に人員を多く回せ、遅れを取り戻す事ができると責任者は判断した。だが、この慌ただしい状況を見た店主はすぐに最優先の仕事を進めるように指示をした。偉大なる創業者であり、雇用主である店主に口答えをすることなどできるはずがない。その結果、現場は大混乱に陥り、期日以内に仕事を完遂できず商家は信頼を大きく損ない、商売の上でも後々まで大きな損失となる」
  そこでLDは二呼吸分ほど間をあけた。今のたとえ話でアスナが理解したのかを見ていた。アスナの苦々しい表情が言葉以上に理解したことを語っている。
「兵たちに苦労をさせないという君の考えは悪くないが、余り考えすぎるのも良くない。出来ることには自ずと限界はある。開戦前に参謀本部から越冬の可能性があると報告を受けるとすぐにその準備を始めるよう指示をしていただろう。君の立場で出来る最善はすでに尽くしている」
「分かってる。うん、分かってるんだ。けど、それでも心配なんだからしょうがないだろ」
「アスナ……」
「はぁ」
  彼にしては非常に珍しくあからさまなため息をLDは漏らした。
  やおら右手をアスナの頬に当て、親指で強く擦った。
「なに?!」
  親指に着いたものを眺めながらLDは聞いた。
「最近、鏡を見ているか? 化粧で誤魔化しきれない程に疲れが出ているぞ」
  小さくアスナの肩が震え、俯いた。
  王様である以上、疲れを見せられない。せめて顔色だけでも良く見せようとアスナはストラトに頼んで化粧を用意して貰っていた。
  侍医のロディマスからは内密に精力剤まで処方されて誤魔化してきた。
「そんなに酷い?」
  上目遣いに聞いた。視線は二人の間を揺れる。
「……はい」
「あぁ」
  大きく頷くとLDはソファに深く身を預けた。
「アスナ。ここらで一度、休みを取った方が良い。一ヶ月ほど長い休みを取ってはどうだ。正直なところを言えば君の頑張りに私も驚いている。自覚的に責務を果たそうとすることは誰にでも出来ることじゃない。まだまだ不十分な面はあるが、今の君が持てる力から見れば十分以上だ。その無理が身体にも出ている。早急に片付けなければならない案件は全て片づいている。今のうちにゆっくりと休むべきだ」
「けど、戦争中に休むなんて!」
  思い切りテーブルを叩きつけて立ち上がった。睨み付ける。
「これは私からだけの提案ではない。政府からの要望でもある。ここで提案を退けたとしても、数日のうちに王宮府から正式な形で上奏されるはずだ」
「……オレがいたら邪魔ってことか?」
「有り体にいえばな。戦時中にアスナに倒れられたりでもすれば、それだけで士気に関わる。なにより疲れた頭で余計な指示をされれば間違いなく現場が混乱する。邪魔者扱いされたくなければ、しっかりと休んでからにしろ」
「…………」
「それにだ、アスナ。姫君のことも考えろ」
「わ、わたしのことですか?」
  突然、話を振られて目を白黒させる。
「側に迎えて以来、どこにも連れて行っていないのだろう? どこにも遊びに連れて行かないのは甲斐性なしというものだぞ。それに常々王様らしい生活をしたいと愚痴をこぼしているだろう。いい機会じゃないか。誰も邪魔をせずに王らしい優雅な休日を過ごせるんだぞ。姫君にその辺りの手解きを受けるのも良いだろう」
「……卑怯者。はぁ、分かったよ。休みをとることにする。もちろん、エルも一緒だからな」
「えぇ。折角だから、ミュリカたちも一緒に」
「そうだな。護衛役とかなんとか適当に口実作って呼ぼうか」
「ありがとうございます。アスナ」
  心から嬉しそうな笑みをエルトナージュは見せる。彼女もアスナのことを心配していたのだ。休日の話も近いうちに切り出そうと考えていた。LDに先を越されたのは癪だが、アスナが受け入れたのは悪いことじゃない。なにより自分の為というのが良かった。
「どういたしまして」
「さて、話が纏まったところでこの場はお開きとしよう。アスナはそろそろ昼寝の時間だろう。ゆっくりと休んでこい。あぁ、姫君には申し訳ないが少し話がある」
「話ですか?」
  エルトナージュだけでなくアスナもいぶかしげな目をLDに向ける。
  二人だけで話をする機会はこれまで殆どなかったからだ。
「そういう顔をするな。君の教育方針での調整をしたいだけだ。同席しても構わないが一つ一つ実例を挙げて君の物覚えの悪さを示すことになるがどうする?」
  ソファから立ち上がったアスナは引きつり気味の顔で右手をあげた
「はははははっ。それじゃ、オレ昼寝してくるから。エル、あとで」
「はい。後ほど」
  逃げるように退室したアスナを見送ると、エルトナージュは久方ぶりに見せる怜悧な瞳をLDに向けた。その鋭さは宰相時代と全く変わらない。
「それで話というのはなんでしょうか?」
「少し釘を刺しておこうと思ってな」
「釘……。何のことですか」
「政府、議会、財界へと幅広く手を伸ばしているだろう。そういったことを控えて貰いたい」
「ますます分かりませんね。ここのところ私はアスナの補佐しかしていませんが」
「姫君。貴女がアスナに何を期待しているのかを敢えて聞こうとは思わない。それはアスナが知っていれば良いことだからな。だが、余りにも動きすぎると逆にアスナの足を引っ張ることになる」
「…………」
「役割分担をしたいと提案申し上げている。アスナの後ろ暗い影は私が引き受ける。姫君には陽の当たる部分を担って貰いたい。私は雇われ者だ。不必要となれば切り捨てることも出来る。だが、姫君はアスナにとって不可分の存在だ。汚れ役をするべきではない」
「LD。貴方が何を言っているのか私には分かりません。戯れ言ならば誰か他を当たりなさい」
「そうだな。戯れ言には違いない。では、本題だ。アスナの勉強は進み具合はどうだろうか?」
「遅いです。まだ、アリの歩みの方が速い」
  と、エルトナージュは盛大なため息を漏らして、アスナが聞けば泣いてしまうような実例を挙げてその学習の遅れを嘆いた。進み具合はLDの方と似たり寄ったり。
  努力は認められるが、飲み込みが遅いというのが二人の共通見解となった。
  後日、LDの元に匿名で政財界の暗部を纏められた書類が届けられたのだった。
  この情報は後々、アスナにとって不都合となる者たちを失脚、もしくは鞍替えさせる為に用いられる事になる。




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