第四章

第五話 蒼月作戦

 旧ワルタ市前衛守備陣地群を占拠した第一三○一連隊長キアリス率いる先遣隊は自身と後衛を務める第一魔軍が受け取る物資集積地を予定の箇所に設置すると後方との連絡役を残して前進を再開した。ビオス将軍の率いる陣地構築部隊への引き渡しまでの旧陣地群の維持は第一魔軍が担当することになる。
  キアリスら先遣隊の目的は陣地群周辺に潜む敵の掃討とワルタ市より来襲するであろう敵増援に対する備えだ。
  これまでホワイティア将軍とともに行軍していたため、前線に立つことがなく戦功を掲げる機会を得られなかっただけに彼らの士気は高い。
  キアリスは出陣に際し、一度指揮官全てを集合させ今回の作戦の意図と自分たちの役割を自身の口で改めて説明をし、最後にこう締め括った。
「自分たちの失敗はワルタ方面軍、ひいてはラインボルト全体に損害を与えることになる。
  それ故に貴様らには軽挙妄動を堅く禁ずる」と。
  キアリスの指示の下、行動を開始した先遣隊は順調に陣地群周辺を制圧していった。
  周辺制圧後、街道の支線制圧へと移行する。彼ら先遣隊が曝される危険はここが山場にあると言って良い。支線はそれなりに整備はされているが道幅は狭く、場所によっては先が見えない箇所が幾つもある。伏兵を配する箇所は幾らでもある。
  制圧に派遣された部隊は慎重に敵部隊の制圧を進めていくことになる。
  彼らとは別に先遣隊の本隊を率いるキアリスは自分たちを挟撃しようと動くロゼフ軍に対処しなければならなかった。後詰めに第一魔軍所属の部隊が控えているとはいえ、油断は出来ない。ロゼフ軍は援軍にどれだけの兵力を差し向けるのか、それ以前に伏兵に制圧部隊を殲滅させられるのではないか。
  キアリスはここ数年感じたことのない緊張の中にあり続けた。
  戦況は動く。陣地群周辺の制圧を確認したワルタ方面軍司令部は築城が開始を命じる。
  作戦開始から四日後、陣地築城の総責任者を任じられたビオス将軍が現地に到着した。
  すでに縄張りは完成している。キアリス率いる先遣隊に技師を帯同させ、調査や測量を開始させていたからだ。あとは縄張り図に従って築城していくだけだ。
  到着してすぐにビオスは精力的に動き始めた。具体的な作業指示は工兵部隊の指揮官たちに任せており、何かしら問題が起きたとしても彼の参謀たちが上手く調整してくれる。
  彼が行っていたのは兵や有志の者たちに声をかけ続けることだった。
  兵にとって将軍とはまさしく空の上の人だ。その人物から声をかけられ、時には短い間とはいえ自身が汚れるのも構わず手伝ってくれる姿に兵たちは大いに士気を上げることになった。
  一通り視察を終えたビオスは司令部が置かれるアスト山に登った。
  多くの兵たちが行き来し、山城と化しつつある様を眺めながら山道を登っていく。
「抜け道の調査は済んでいるな?」
「はい。問題はありません。確認された抜け道には罠や警戒の兵を配置することになっています。現在も調査は続行中です。築城の進捗も順調に進んでおります」
「宜しい。有志の市民に対する保護と食事その他に気を配っているな?」
「はい。そちらも問題なく。むしろ、彼らの方が気遣ってくれているようです。守るべき者がすぐ側でみているせいか将兵ともに張り切っているようです」
「張り切りすぎて怪我をせんと良いがな」
  と、思わず苦笑してしまう。工兵に混じって大工などの技師が動き、兵に混じって青年たちが土を掘り、運んでいく。
  そして、一際肝の据わった女たちが炊き出しや繕いをしてくれる。
  新兵教育にて徹底した祖国愛を叩き込まれた兵たちがやる気になるのも無理はない。
「ホワイティア将軍の決断は今のところ正しかったということか。重ねていうが何かあればすぐに有志の者たちを避難させられるようにしておけ。いいな」
「了解しました」
  その後、同じようにビオスは副官に幾つかの事柄について確認と指示を行った。
  話を終える頃、二人は山頂に到着した。
  ここは元々ヴィレン・ブロムが本陣を構えていた城だ。街道を扼する箇所に築城された砦と違い主要部以外は石造りにはなっていない。
  あちらこちらが焼き払われてはいるものの、城の基礎や石造りの建物は補修をすればそのまま使える。また全体を見渡しやすいこともありここにワルタ方面軍の本陣が置かれることになったのだ。
  荷を運び、槌を振るう兵たち動き回り、工兵たちがあちこちの補修作業を続けている。
  その中に見知った顔があった。ダルマを想像させる堅太りとつるりとした禿頭の男にビオスが声をかけた。
「精が出ますな、執行官殿」
  執行官とは王宮府に設けられている官職のことだ。
  その職務は読んで字の如く魔王の意志を実行することにある。彼ら執行官には王宮府に属する組織への命令権が与えられる。その権限の大きさ故に常任は内大臣と近衛騎団団長の二人のみだ。また、非常任である執行官は内大臣を上席として、その調整を受けることになっている。現在、非常任執行官は三人任じられている。
  つまり、ビオスが相対している彼は軍で言うところの将軍に相当する地位にあるということになる。
「お疲れ様です、将軍。相変わらず、盛大に金を使いますなぁ」
「金で兵らの命が買えるのならば安いものと叩き込んだのは執行官殿ですからな。久方ぶりの再会ですので、その集大成をお見せしようと思いまして。いやはや、金に糸目をつけない主君というのはありがたいものですな」
「全くぬけぬけと。若い頃から変わりませんな」
「ははははっ。妻からもよく歳を考えて行動しろと叱られております」
  実のところ、この二人は知己の間柄にある。
  ラインボルトに限らず幻想界には魔獣が多く存在する。軍はこれの討伐も任務とするのだが、ラインボルトは他国とは異なる任務がある。国内を行き来する商隊の護衛がそれだ。
  主目的はラインボルトの地理を実地で見せると、護衛任務の困難さを肌で理解させることにある。それ以外にも将校たちに経済感覚を理解させることも目的の一つだ。
  商隊と護衛隊の間を取り持つために王宮府の者が同道するのだが、彼らから将校や兵を一人前にするにはどれだけの費用が掛かるのか、またそれだけの資金を得るにはどれだけ大変なことかを徹底的に叩き込まれる。
  兵理に適っているからといって大量消費して良い訳はなく、経済的にも理に適っていないと話にはならない。兵士だって粗末に扱って良い理由はないのだ。
  また、物資の輸送が如何に困難であるかも周知させることでもある。
  ビオスが彼と知り合ったのはこの時だ。若年の頃、彼にその辺りのことを徹底的に叩き込まれたのだ。
  余談ではあるが、軍の演習において工兵や補給隊を有した部隊と持たない部隊で演習を行うことがある。総体として戦闘部隊を支える裏方を有した部隊を持った方が勝率が良い。
  前者は全ての要素を活用し、且つ如何に裏方を守れるかに注力し、後者は対戦相手の如何に後方を乱すかに力を注ぐことに真剣になるため自然と後方支援部隊が重要視させれるようになる。その為、ラインボルト軍は他国の軍よりも遙かに後方支援に携わる者たちの地位が高かった。
  そして、ビオスがこの地で陣地戦を提唱した理由はこの二つの経験によるところが大きい。後方にレルヒという都市があり、補給が容易である点。陣地跡を再利用した方が兵の損失が少なく済むからだ。兵たちは名誉よりも自分たちを生き残らせてくれる指揮官を支持するものだ。その強い支持があれば、困難に際しても立ち向かって行くことが出来る。
「それでこの様な高いところまで何用で? レルヒで王宮府関連の監督をしておられると聞いていましたが」
「一段落付いたので後は部下に任せてきました。戦後のことを考えてここら一帯の状況を把握しようと思いまして。……しかし、この有様を見ますとため息しかでませんな。補償にどれだけの金が必要か考えると胃が痛くなります。これならば、ここら一帯を買い上げた方が安上がりかもしれませんな」
  この陣地群を構築する為に山林は切り開かれ、場所に酔っては崩されて平地に均されてしまっている。ここには様々な建築物が建てられており、それを撤去しようと思えば相応以上の費用が必要になる。
  何より林業への打撃も大きい。木の生育には長い時間と手間を要する。山林を元に戻すだけでも莫大な費用が必要となる。
  かといって管理を放棄することもできない。そのようなことをすれば土砂崩れが起きるのは必至であり、予想外の天災を引き起こすことにもなりかねない。
「殿下のご意志とは言え、頭の痛い話です。個人的な所感ではこういうことは国にお任せした方が良いと思うのですが」
「だが、その殿下のご意向により様々な所が助かっているのも事実。軍としても大いに助かっております」
「その言葉、部下たちに伝えておきます。しかし、そろそろ自分の歳を考えねばなりませんなぁ。この辺りの陣地群を見て回るだけでも一苦労です。いやはや」
  執行官は腰を叩きながら苦笑いをしてみせる。が、その言葉が文字通りではないことはビオスには分かる。彼はこの辺り、ではなく全ての陣地群を見て回っていたのだ。
  王宮府の執行官ともなれば、必要となればそれぐらいはやってのける。
  この戦いが終わった後、この陣地群を金儲けに使えると踏んだのだろうか。
  現実はそこまで単純ではない。後年、本陣が置かれるここには高地に観測所が欲しいという天文院の施設が置かれることになるが、それ以外の場所は時間と手間暇をかけて山林を回復することになる。
  執行官が視察を続けていた理由はロゼフ軍がこの陣地群にどれだけの労力をかけていたかを知るためだ。この陣地群に投じられた労力からワルタ市の現状を把握しようとしたのだ。
「ビオス将軍。これはホワイティア将軍にもお伝えすることだが」
「なんでしょう」
「次の戦い。是が非でも勝利していただきたい」
「それは無論のことです」
  執行官は頷く。
「決して長期戦にはせず、且つ敵をワルタ市に戻さぬようにお願いしたいのです」
「それは……」
  本作戦の最上の結果がそれだ。もちろん、ワルタ方面軍はそれを目指す。
  だが、確言しかねた。戦いには相手がいるのだ。自分たちと同じように相手も自身の命やそれに纏わる様々なものを賭けて戦いを挑んでくるのだ。絶対は、あり得ない。
  ビオスはそれを口にしかねた。一軍の将たる自分がそれを口にする訳にはいかない。
「これまでホワイティア将軍についてワルタ地方の町村を見てきましたが、ここの陣地群の堅固さを見て確信いたしました。ワルタ市は限界を迎えています」
  そこまで言って執行官は周囲を見回した。敵本陣が置かれていただけに周囲の陣地群がよく見える。どれもオード副将率いる第一魔軍の部隊により焼き払われている。工兵たちが砦群の残骸から使える者を運び出し、またはその場で加工をしているのが見える。
「ここと同規模以上の陣地群が東にもあります。
  そこから推測するにワルタ市が有する体力はすでに限界を超えているでしょう。
  すでにワルタの市民たちは限界を超えています。我々がここまで来たという希望。
  それだけが彼らの支えです。勝利という結果は変わらずとも長く時間が経てば市民たちは我々に対する不信を抱くようになりましょう。それは今後の治安維持や復旧が大幅に遅れることのみならず、軍は市民たちによって後方を乱され、今後の予定を乱されます」
  市民たちを窮状から救い上げるには現状の対策では追い付かない可能性が高いと彼は判断した。市民たちの協力がなければ、予定通りに復旧が進まず、復旧が送れれば人心が離れる。半年もの長い間、この地を見ていなかったツケがここにきている。
「……確かに、心得ました」
「宜しくお願いいたします。では、私はこれで……」
  執行官は一礼すると重たげな身体とは異なる軽快な足取りで去っていく。その途中、第一魔軍の副将であるシグルと出会い、挨拶その他を交わしていく。
  去り際にビオス将軍からも話を聞いて下さいと付け加え、礼を残して下山していく。
  彼はその足でホワイティアのいるレルヒに戻るのだろう。
  こちらに歩み寄ってくるシグルに挨拶をする。
「お疲れ様です、ビオス将軍」
  挨拶を返すシグルは彼の姿をみて苦笑した。
「随分と張り切っておられますね。一瞬、山賊の親分が紛れ込んだのかと思いましたよ」
  実際、シグルの言うことにさほど間違いはない。全身を泥まみれにし、どこかで引っ掻いたのか軍服の裾も破れてしまっている。口元を飾る髭は土埃にまみれてもいる。
  ビオスが大柄なこともあり、これで毛皮でも羽織っていれば見事なまでに戯画的な落ちぶれた山賊の親分となってしまうだろう。
「それは酷い。せめて土建屋の親方と呼んでもらいたいものですな」
「確かに。将軍が現場にいれば、ヤクザ者が暴れようにも返り討ちは必至ですね」
「ははははっ。シグル副将のようにはいきません。いつにも増して男ぶりが上がっていますぞ」
  言われてシグルは自分の姿を見た。ビオスほどではないが彼もまた軍服のあちこちを土で汚していた。
「将軍を見習ってみたのですが、なかなか上手くは……。逆に恐縮させる始末でした」
  と、シグルは恥ずかしげに言った。
「副将は偉丈夫ですからな。声をかけて、誉めてやるだけで十分。私のような無骨者には出来ないことですよ。まぁ、それでも殿下のような気安さはできないでしょうが」
  アスナは行軍中、自身の手料理を近衛騎団の皆に振る舞っている。
  個々人としてならまだしも、一軍の将が兵に対してそのような接し方は出来ない。
  魔王の後継者という実態があるようでない当時だからこそ出来たことだ。
  さすがに今は周囲に対する示しというものがあるため、同じようにすることは難しいだろうが。
「確かに。それはそうと……」
  苦笑を浮かべていたシグルが表情を変えた。探るような目つきをしている。
「執行官殿に含みのあることを言われましたが、何かありましたか?」
「あぁ、そのことですか。実は……」
  ビオスは執行官から言われたことをシグルに話した。
  ワルタ市の状況推測以上に彼が憂慮の表情を見せたのは後方支援都市としての役割に支障をきたす点についてだ。
  彼とオード副将はワルタ市を奪還した後、ロゼフ本国に雪崩れ込み橋頭堡を確保する予定だからだ。後方に不安がある状態での進軍は恐怖以外の何者でもない。
「ホワイティア閣下は多少時間をかけても構わないと思われていたようだが、現実はそうではなかったようだ。作戦が動いた以上、我々にできる事は期待に応えるべく奮闘することぐらいですね」
「そうですな。……それはそうとシグル副将、何か不都合でもありましたか?」
  彼は現在、キアリスら先遣隊の後衛を務めることになっている。後衛任務は部下に任せ、自分は陣地での部隊運用の構想を参謀らと共に練っていた。
  ホワイティアからその程度の裁量は与えられている。
  その彼が持ち場から離れて自分と雑談をするためだけにここまで来るとは思えない。
「第一○一実験砲兵大隊をどこに配置しようかと思いまして。将軍のご意見を伺いたいのです」
  第一○一実験砲兵大隊。砲兵、銃兵、そしてその後方支援部隊によって編成された部隊のことだ。
  幻想界には魔法がある。速射性、連射性、運動性に優れた彼らと比較して砲兵や銃兵は圧倒的に劣る。何より経済性に絶望的に開きがある。
  その為、ラインボルト陸軍においては金食い虫として嫌われ、これまで実戦経験を積むことすら許されてはいなかった。それでも彼らが存在し続けられたのは皮肉にも陸軍の対抗相手である海軍が銃砲を積極的に用いているからだ。
  ラインボルトは陸軍国だ。軍事予算の海軍への割合は陸軍と比して泣けるほどだ。人材にしても圧倒的多数の魔導兵が陸軍に流れていく。鉄砲は魔導兵の代わりなのだ。
  そういった背景があるとはいえ、銃砲の運用技術を海軍の専売特許にされてはたまらないと、陸軍でも細々とだが研究が続けられていた。
  この大隊を率いるデキス大隊長は元々魔導兵科の将校であったが先任大隊長と知己であったことが禍して半ば強引に転科させられたという経緯を持つ人物だ。
  が、本人は非常に真面目な一徹者であるためか、この人事を苦痛に思ってはいないようだというのが周囲の人物評だった。左遷させられたのに気にしない変人、という訳だ。
  それでも、いつまで経っても日陰者というのは耐えられなかったのだろう。今回のワルタ地方奪還戦に参加できるよう彼は大いに運動した。
  結果、第六○三独立強襲戦隊とともにホワイティアの目にとまり、ワルタ方面軍に編入されることとなった。運動性の問題もありこれまで前線で用いられる機会がなく、この陣地戦でようやく日の目をみることになったのだ。
「当人に聞けば良いことだと思いますが? 確か魔導兵と同じ扱いで運用するはずでしたが」
「その当人から私の命令に従うと言われまして、彼らの運用は初めての試みとあって少し頭を痛めております。腹案はあるのですが陣地戦を得手とする将軍の意見を伺いたいのです」
  デキス大隊長がシグルに配置を全面的に任せたのは悪目立ちを避けて、元の同業者である魔導兵から必要以上に恨まれないようにするための措置なのだろう。
「あの連中は金が掛かってますからな。聞いた話では、幾つかの商家が資金援助しているとか。何より下手に使い潰せば海軍の連中に笑われます。それはさすがに癪に障る」
  となれば、とビオスは自分の考えを披露する。
「確かに様々な面で連中が魔導兵に劣っているのは明白。ならば槍兵と弓兵を付けてやればよろしいかと。連射性は弓兵で補い、それでも接近したならば槍兵で対処すれば良い。彼らは大食らいですからな、我々よりも余程後方支援を担う部隊が充実している。多少、所帯が大きくなってもやりくりは出来ましょう」
「私も全く同意見です。それに銃砲がどの程度使えるのかを見るに良い機会でもあります。うちの兵に連中の面倒を見させるつもりです。海軍の連中が頼りにしているのだから、それなりの働きを見せてくれるでしょう」
  大きく頷くビオス。そして、空を仰ぎ見た。釣られてシグルも空を見上げる。
  鳥が飛んでいるのが見える。地上では戦の準備をしているとは思えない長閑な日和だ。
「実験部隊といえば、第六○三の連中はどこにいるのやら。この近辺で演習をしていると聞いたのですが」
  と、シグルが呟いた。彼の管轄下ではないとはいえ、演習をするのならば一目見ておきたいと思っていたのだ。どれだけの威力があるのかが分かれば、場合によっては支援要請を出そうと考えていたからだ。第六○三には竜族が十数人も在籍している。
  投入する機会を誤らなければ戦の主導権を握ることが出来るだろう。
「あぁ。彼らなら築城の邪魔になるからと余所で演習をしているそうです。場所がどこかまでは聞いておりませんが、はりきっておりましたから、元気に飛び回っておりましょう」
  確かにとシグルは苦笑する。自身の目で確認出来なかったのは残念ではあるが、自分にはこの陣地が与えられていると思い直す。
  築城計画は予定通りに進められている。このまま進捗すれば五日後には完成することになる。本職や土運びなどに歩兵だけではなく、魔導兵に発破を手伝わせ、有志の市民まで大量に動員しての築城だ。あちこちで小さな失敗や諍いは起きているものの全て現場で収められている。順調といって良い。それでも敵がこちらの築城完了よりも早く来襲しないとも限らないのだ。
「敵の来襲が早いか。それとも我々の築城が早いか」
「敵が先手を打ち、我々はそれに対応した。しかし、我々がやることに変わりはない」
「戦闘指揮の方は宜しくお願いします」
「了解です。将軍らが丹誠込めて築き上げた陣地を使い潰すつもりで戦いますよ」
  そういってシグルは笑い、シグルもまたそれに続いたのだった。
  この二日後、先遣隊を率いるキアリス連隊長より大隊規模の敵と接敵したとの報告が陣地群に届けられる。その数時間後、これを撃滅したとの報告が届く。
  レルヒにてその報告を受けたホワイティアは、ビオスから届けられた築城状況を含めて勘案した結果、ワルタ方面軍本隊の順次進発を命じるのであった。
  その頃、ワルタ市にてロゼフ軍上層部にて大きな動きが起こっていた。

 ワルタ解放軍司令官ディーズ将軍宛にロゼフ本国より急使が訪れた。
  急使は馬を潰し、自身も憔悴しきっていた事からも急報であることが窺い知れた。
  彼がもたらした報せは首脳陣のみならずワルタ解放軍全体の士気を上げた。
  ラインボルトが実力行使を開始して以来、連戦連敗を続けていた彼らにとって、本国よりもたらされた急報は福音に他ならなかった。
  リーズより、竜族の援軍が派遣されたのだ。
  東西より包囲されつつある現状を打破するために、これほど力強い要素はない。
  事実、将兵の士気や規律は回復し、ワルタ市全域を覆っていた不穏な空気を一時的とはいえ払拭していた。
  だが、本国よりの急報を受けたディーズ将軍は快哉をあげることが出来なかった。
  援軍派遣に続いて記されていた本国よりの命令が彼に感情のまま喜びを表現することを許さなかったのだ。
  援軍が合流する前に確たる戦果を掲げよ、との命令を受けたのだ。
  現在進行中の作戦によって得る小競り合いの勝利などではない。
  本国は誰もが認める大勝利を欲しているのだ。
  ワルタ解放軍首脳陣に事の次第を知らせた後、ディーズは自身に告ぐ兵力を握るトナム将軍のみを残した。
「どう思われる?」
  手にしたペンを弄びながら尋ねた。
「どうもこうもない。本国はこちらの現状を把握していないのではないか」
  主戦派を自認する彼でさえ苦虫を噛んだような渋面を見せた。
  すでに状況は変わっているのだ。開戦当初であれば各拠点を基点として兵を縦横に動かす事が出来れば、ワルタ市に押し込められるということにはならなかっただろう。
  しかし、敵は既は集結を完了し、決戦に向けて着実に準備を進めている。
  こういった状況で攻勢に出ても返り討ちにあるのが関の山だ。
  現状から考えれば、敵の攻勢を頓挫させた後、反撃に転じた方が無難だった。竜族が来援するのであれば尚更だ。無為に兵力を失っては折角の援軍も役に立たなくなる。
「本国へは定期的に報告は送っている。目を通していないはずがない」
「となると政治だな。……分からなくもないが」
「転進を繰り返し、敵に包囲されつつある状況を竜族の手で打破する。後日、どのような条件を突き付けられるかも分からない。ならば、少しでも有利な状況を作っておきたいというのは道理には違いないが。トナム将軍、どう動くべきだろうか」
  守勢を維持するという選択肢はありえない。本国は戦果を得るよう命じているのだから。
  早急に戦果を得る必要がある。そういえば、リーズよりの援軍はどれほどの規模になるのか。到着予定日の記述すらなかった。
  ディーズは一瞬、この報せをラインボルトの謀略ではないかと思ってしまう。
  余りにも拙劣に過ぎるが、王城に巣くう宰相らのことを考えればあり得なくはない指示であった。だが、使者は自身を証明する札を有していた。疑いようがないのだ。
  弄んでいたペンが手から離れ、そのまま机の下に転げ落ちる。
  自分のペンと同様に無駄なことをしたなと内心でディーズは自嘲した。
  何をしているのだと言わんばかりの表情を見せながらトナムはペンを拾う。
「打って出るしかあるまい。攻めるとするならば東だな。東部の陣地群に敵を拘束させ、我々がこれを殲滅する。東から進軍する敵部隊の規模からすれば突破されるとは思わんが、圧力をなくしておくべきだろう」
「だが、西はどうするのだ。敵はすでにこのワルタ市に間者を潜ませて情宣活動を行っているのだぞ。ここが手薄になったと知れば、ラインボルト軍は空き巣や、押し込み強盗の如く押し寄せてくるぞ」
「持ちこたえるしかあるまい。早急に西を片付け、とって返す」
「現今の作戦は中止だな。彼らには敵に対する警戒と時間稼ぎを命じる。西への備えはトナム将軍に任せる。私はここで護りを固めておく。それともう一つ……」
  ディーズは小さく手招き、トナムに顔を近づけるように促す。
  怪訝な顔をしつつもトナムはそれに従う。
「万一のことがある。護りを固めると同時にこの街を焼き払う準備を進めておく」
「貴公……正気か?」
  一瞬、語気が強まったがトナムは飲み込んだ。事態が事態だけに外に漏らすわけにはいかない。一呼吸分の間を使って彼は自制した。
  敵に拠点を与えないのは戦の常道だ。このワルタ市を無傷で奪われれば、間違いなくここがロゼフ本国への侵攻の一大拠点となる。戦争の舞台が本国に移れば、もう二度とここに手を伸ばすことが出来なくなる。逆に言えば、ここを潰すことが出来れば、ラインボルト側の計画を遅延させられる。その時間はロゼフ軍の再建に大いに益するところだろう。
「ラインボルト大将軍ゲームニスが来ていると敵の情宣にあったろう。彼が率いている舞台は間違いなく本国への侵攻軍だ。簡単にしてやられるつもりはないが、戦には絶対はない。ならば、最悪の事態に備えておくべきだ」
「ここを焼き払えば、本国への侵攻を鈍らせることができる、か。だが、そんなことをすれば貴公の名が悪罵とともに歴史に記されることになるぞ」
「どちらにせよ、私は蟄居を命じられるよ。もしくは敗戦の責を問われて処刑される。ならば、悪名でも歴史に名を残すのが貴族というものだろう」
  と、ディーズは自虐気味に笑んで見せた。
「その時には貴公に将兵のことを任せたい。本国に戦訓を持ち帰り活かしてくれ」
「……まるで戦に負けることを前提にしているようではないか」
「まさか。そこまで戯曲的な自己愛は持ち合わせていない。私はもう少し生き汚いよ」
「確かに。野外教練で遭難した際、率先してカエルやトカゲを食していたのは貴公だったな。極限状態にあったとはいえ捕まえてすぐに頬張ったのには言葉なかったな」
「貴公も似たようなものだろう。妙なキノコを食べて正体を無くしたではないか」
  と、ディーズは皮肉げに口端を上げてみせた。しかし、彼の目には懐かしさを見せている。トナムもまた同様だ。互いに顔を見合わせ笑い声を上げた。
「誰にでも好ましい思い出はあるということか。……了解した。解放軍司令官の命令をしかと受けました」
「宜しく頼む」
  その後、二人は大まかな方針を作り上げるべく討議を交わしていたが、不意のノックがそれを中断させる。ディーズはトナムにこのままいるように言うと返事をした。
「入れ」
「失礼します!」
  入室してきたのは少年を抜け出しきれない司令部付きの将校だ。彼は髭面の幾らかくたびれた表情の男を伴っている。少年は教本通りの踵を揃えた直立不動のままで報告する。
「第三十二槍兵連隊司令部より、司令官閣下にご報告致します」
「うむ」
「西部陣地群にて三個軍相当が集結するを確認。敵は西部陣地群を警護していた部隊を撃破。第三十二槍兵連隊は残存兵力を吸収。情報の確認のために部隊を派遣しましたが、敵一個連隊相当の部隊と遭遇、撃破されました。連隊と合流を果たした騎兵が持ち帰った情報によると敵は西部陣地群に大規模な補修強化を施している模様。解放軍司令部の指示を仰ぐ。以上です」
「ご苦労。追って新たな命令書を出す。それまで待機しているように。出発まで彼を付ける。何か要望があれば伝えるように。出来る限りのことはさせて貰う。君、任せるぞ」
「はっ」
  二人は揃って敬礼をする。ディーズとトナムは揃って答礼を返すと退室を許した。
  足音が消え去ったのを見計らってディーズは深いため息を漏らした。机の上で両手を組み、額を拳の上に乗せた。
「ため息を漏らしている時間はないぞ。どうするかを考えねば」
  と、トナムは言った。しかし、彼の口調にも苛立ちは隠しきれない。
「分かっている。事ここに至っては仕方あるまい。東には暫く苦労して貰う。我々は全力で西から迫る敵を叩き潰す」
  それとな、とディーズは続ける。
「すぐに私を更迭する準備を進めろ。敵の方が手が早かった。撤退した西武陣地群に篭もっていた部隊の再編成を優先せずに新たな部隊を送り込むべきだった。その他にもここまで状況を悪化させた原因は私にある。更迭する理由としては十分だろう」
「だが、それは……」
  本国が守勢を維持するように命令したからだ。ディーズはそれを遵守したに過ぎない。
  責めを受けるべきは本国の者だ。しかし、それを言っても仕方がないのも事実。
「状況が変わったと将兵に知らしめるにはこれが一番有効だ」
「……貴公、本当にそれだけか?」
「無論、表向きだ。敵はこちらに陣地戦を強いている。魔導兵、騎兵の数は敵が優越している。こちらの利点は槍兵の数と対魔法装備を与えられた重装歩兵ぐらいか。貴公、この条件で完勝できる自信はあるか」
「一軍の将としては困難であるとしか言えないな」
  と、トナムは渋面も隠さずに言い捨てた。
  魔導兵は陣地という強固な盾に身を守られ、攻撃にのみ意識を集中していられる。また、どこか陣地線の弱い箇所を発見し、そこを突破出来たとしても騎兵によって撃破される。それ以前に陣地群周囲を騎兵によって警戒されているため有効な手段を執ることが困難だ。
  その上、自分たちは開けた場所に布陣することになるのだ。
  これを陥落させたければ兵数において優越するか、第一魔軍が行ったのと同じく圧倒的な火力により陣地そのものを破壊してしまうかだ。
  尤も後者の場合は魔軍の存在を誇示すべく特定箇所に重点を置いて焼き払うという演出によって陥落されたとも言えるのだが。
「ならば、可能な限り兵たちを生き長らえさせ、本国の守りを固めさせるべきだ」
  つまり、ワルタ市から撤収すべきだとディーズは暗に言っているのだ。
  ここでは勝てない。だから、勝てる場所で勝利を得るべきだ、と。
「言いたいことは分かるが、本国は戦果を求めているのだぞ。何よりもワルタ市を手放すことなぞ出来るはずがない。誰がそんなことを許可するのだ」
「許可なぞ出るはずがない。だが、納得はさせられる。乱心した何者かが後方、つまりワルタ市を焼き払ったとあれば撤退もやむなしと言われるだろう」
  そして、ディーズは深々と椅子に背を預けた。僅かに軋んだ音がした。
「乱心した何者とは、誰のことだ」
「無論。更迭されて狂を発した私だな。作業そのものは私兵にやらせる。貴公に迷惑はかけないから安心してくれ」
「先ほどの話でもそうだ。なぜ、そこまで敗北を前提に考える。死力を尽くしてこそ活路が見出せるのだぞ。貴公がラインボルトとの戦争に消極的なのは知っているが、しかし立場を考えろ。なによりもそんなことを行えばお家の取り潰しは免れないぞ」
「なぜ、か。そういえば貴公はラインボルトに留学したことがなかったな」
「うむ。その機会は得られなかったな。それが何だというのだ」
  椅子を軋むに任せながら、ディーズは天井を仰ぎ見た。見えるのは天井のみだ。
  しかし、彼が見ているのは自身の記憶。若き日の記憶だ。
「エグゼリスへの旅の途中、様々なところを見たものだ。主要な都市は我らが王都よりも豊かで活気に満ち、名も知らぬ街ですら我らが城館を置く街を優越していたのだ。
  私は感動するとともに、誇りを実感したものだ。このように豊かな国と相対して見事に我らの祖先は退けたのだと案内役の武官がいるにも関わらず口走った。それを受けて武官は何と言ったと思う。歴代の魔王は武威を誇るよりも、臣民と親しむことを喜ぶとな。
  分かるか? この豊かさの過半を軍事力に傾けた時どれだけ恐ろしいことになるのかを。
  恐怖を越えて、戦慄すらした。この国とは敵対すべきではないとな」
  トナムは沈黙を守る。話が大げさにすぎると思うが、今目の前で自分の心情を吐露する男がそういった虚飾を好まないことを彼は知っていた。事実、なのだろう。
  実際、このワルタ市の大きさに感嘆を覚えたのも事実だ。
「リーズやラディウスが支援をしてくれる。実際に軍資金においては大いに援助してくれている。だが、真に必要なのは援軍だ。リーズから送られてきたというが、その規模も、到着予定日すらも報されない。にも関わらず、王城からは戦果を挙げよと言う」
  そして、ディーズは立ち上がり、真正面からトナムを見た。
「正直に言おう。余程のことがない限り、我々の敗戦は変わらない。ならば、後はどれだけロゼフにとって有利に講和を進められるかだ。その為にもここで無駄に兵を失うわけにはいかん」
「ここの司令官は貴公。そして、私は配下の将だ。上官の意向に従わない理由はない」
「すまん」
「妻子についても私の方で手を回しておく。貴公は心おきなく悪名を残せ」
「すまん」
  この後、トナムはワルタ解放軍参謀長と協議し、度重なる心労による心神喪失であることを理由にディーズを更迭する。代理としてトナムが総指揮を執ることになる。
  一連の作られた司令官の交代劇にワルタ解放軍上層部は動揺を見せたが、ディーズがこの決定に従ったこと、そして彼がワルタ市の治安担当者となるとの決定により一応の落ち着きを取り戻す。無論、ディーズを支持する将校たちはトナムの陰謀ではないかと疑ったが、当のディーズが何も語らないため動きようがなかった。
  作戦行動中であった第三十二槍兵連隊を初めとする部隊に陣地群の偵察を命じる。
  三日後、得られた情報を元に陣地群攻略作戦が策定され、行軍を開始する。
  東部陣地群にはあらゆる手段を用いて陣地を死守するように命じられる。
  尚、先の作戦において村落を制圧した部隊は連絡が取れないため、現状を維持することが決定された。それは事実上の放棄であった。

 ワルタ市方面より一個軍規模と想定される敵部隊を確認との報せを先遣隊――キアリス連隊長指揮下――より受けたホワイティアは全軍の陣地への移動を命じ、司令部の移転を決定。移転作業を参謀長に任せ、自身は少数の護衛を伴って陣地に向かった。
  陣地群建設の総指揮を執るビオス将軍からは完成まで二日は必要との報告を受けて、キアリス以下先遣隊にはあらゆる手段を用いて時間を稼ぐようにと下命した。
  陣地群に司令部を構えたホワイティアは定期的に先遣隊からの報告を受けていた。
  築城の基礎が出来ているとはいえ、ビオスはこの短期間で良くやっている。彼は自分の言葉を現実とするだろう。その昼夜を問わない精勤ぶりとその成果は信頼に値する
  その一方でホワイティアは焦れてもいた。今、命を張っている先遣隊はホワイティア直属の第十三軍の将兵で構成されている。いわば彼女の子飼いだ。
  後詰めとしてシグル副将に率いられた第一魔軍の部隊を配置しているが、彼らを消耗戦を展開する最前線に投入して磨りつぶしてしまう訳にはいかない。確かに作戦では先遣隊が接敵すると同時にシグルに指揮権が委譲され時間を稼ぐことになっている。
  だが、ここに付帯事項があるのだ。第一魔軍の投入は撤退支援を除いて、可能な限り控えること、とホワイティアが命じているのだ。
  これから展開するのは山城に立て籠もって戦う防衛戦だ。攻撃魔法を全力で行使できる彼らこそが主役となると言っていい。だからこそ、子飼いの部隊を潰してでも温存しなければいけない。
  ……当初の予想では、もう少し時間が掛かると思ったのだけれど。
  と、ホワイティアは地図を睨みながら思う。願望と異なることが起こって当然なのが戦場だ。その一方で彼女はこの展開を予想はしていた。
  だからこそ、他の将軍たちから恨まれぬように自分の第十三軍にこの任務を与えた。
  無論、彼女の願望通りに事が動けば武勲となることも勘案してことだったが、世の中思い通りにはいかないということなのだろう。
  そこにのっそりとビオス将軍が顔を出した。
「報告に参りました」
  そういう彼の表情、声音ともに疲労の色が濃い。好悪どちらの報告なのか察することが出来ない。
「築城工事、完了致しました」
「お疲れ様でした、ビオス将軍。本作戦が成功の暁には殿下に特に勲功篤い働きをしたとご報告します」
「ありがたくあります。ですが、それも全て前線にて必要な時間を血で購った先遣隊の将兵にこそ相応しいかと考えます」
「貴方がそういうのならば。……あまり時間はありませんが工事にあたった将兵に休息を与えて下さい」
「ありがとうございます」
  築城部隊の元に駆け戻るビオスを見送るとホワイティアは彼女の参謀長を呼んだ。
「ファインズ!」
「はい、閣下」
「すぐに部隊の布陣を開始しなさい。先遣隊には私たちと合流するように命令を出します」
「了解しました」
  ファインズは手早く自分の帳面に命令書の草稿を書くとホワイティアに見せる。了承を得るとそれを伝令に渡す。伝令が慌ただしく駆けだしていく。
  ホワイティアは安堵の吐息を小さく漏らす。だが、ファインズはそれに同意する気配がない。見れば彼はどこまでも事務的な表情のままだ。
  直感する。彼は自分が耳にしたくないことをこれから口にするのだ。その予想は現実となる。悪い予想ほど当たるのもまた世の常なのだから。
「閣下。先ほど、第一三○一連隊が壊滅したとの報告がシグル副将より届きました。キアリス連隊長以下連隊本部要員全てが行方不明になりました。現在、シグル副将の指揮で部隊の集結を図っているとのことです。敵軍の推定到着時刻は明朝一○○○とのこと」
「分かりました。第一三○一連隊は無事任務を全うしました。その旨を殿下にご報告しましょう。参謀長、麾下全軍に通達。○八○○をもって作戦開始とします。警戒を厳にするよう改めて注意を喚起しなさい。私は暫く兵らの様子を見てくる。あとは任せます」
「はい、閣下」
  従兵を連れて方面軍司令部を出た彼女は一時間ほど言葉通りに動いた後、誰の姿もない地平を見た。瞑目するのは僅かな間、従兵の一人は彼女の口が小さく動いたことに気付いた。どのような言葉をホワイティアが漏らしたのかは聞こえない。
  確かなことは彼女にとって大切な儀式が終わったということだけだ。
  ホワイティアは常と変わらない態度でワルタ方面軍を指揮するのであった。

 そして、時刻にして一○五○。
  ついにラインボルト、ロゼフによるワルタ地方を巡る決戦の幕が開く。

 矢が降り注ぎ、魔法による爆発。そして、何より同胞たちの断末魔の声が戦場に響き渡る。眼前に展開する陣地群は慈悲も容赦もなく、淡々と死体を製造するかのようだ。
  その無感動さは機械そのものだ。ただ水車の力で粉をひき続ける臼のように友軍を磨りつぶしていく。
  遠目にその成果物である焼け焦げ、あるいは矢で身体を貫かれて絶命した者たちが転がっている姿が確認できる。哀れなのはすぐにそうなれなかった者たちだ。死への渇望と生への欲求が混ざり合った絶叫があちらこちらから奏でられる。
  詩人を気取る貴族はこの叫びを戦場音楽と呼ぶが、一兵士でしかない彼はそれに真っ向から反対したかった。これはそんな雄壮なものでは決してない。
  死神が開いた地獄への扉。そこから漏れ聞こえる呼び声だと。
  恐ろしさに手足が痺れ、何も考えられなくなってくる。目の前には地獄が待っている。指揮官たる連隊長殿はそれに向かって突進をしろという。
  そんなことはしたくない。だが、その遠い地獄よりも、側にいる下士官殿の罵声が恐ろしい。眼前の地獄から這い出てきたかのような恐ろしい形相で整列を強制される。
  恐怖で何がなにやら分からない。ただ言われるがままに槍を手にして整列を行う。
  胡乱とも言える沸騰した頭のままに彼はこのワルタ市に来てからのことを思い出した。
  戦闘らしい戦闘もせずにワルタ市を制圧、その後、各地を転戦し、完全にワルタ地方をロゼフの名の下に掌握をした。その一連の出来事はまさにロゼフの雪辱を晴らすものに他ならなかった。過去に奪われた岩窟族の土地。それを奪還したのだ。
  岩窟族の勇士たる誉れはここに極まれり。
  その時の自分はまさしく気分は高揚し、英雄の末席に位置しているものと思っていた。
  だが、今この時はどうだ。地獄の城門を潜らんとする罪人のようではないか。
  栄光の裏には凋落と言う言葉がべったりと張り付いている。彼は一兵士でありながら兵家の常というものを体験させられている。
  果たしてこれはワルタ市で彼が陰で行っていた様々なことの報いなのだろうか。それともこの果てにこそ、全ての行いの精算が待っているのだろう。
  分からない。何も分からない。ただ確かなことは身を震わせるほどの罵声を受けながら整列をさせられているということ。
「第二三三槍兵連隊、前へ!!」
  突撃ラッパが鳴り響く。それは自分たち兵を鼓舞するものではなく、死出の門を潜るように促される死神のラッパそのものに感じられた。
  だが、逃げ出すことは出来ない。そうすれば逃亡罪で殺されるだけだ。
  進むでも逃げても地獄がまっている。ならば、手柄を立てれば褒賞が得られる眼前の地獄の方が良い。
  前へ、前へ、前へ、前へ、前へ、前へ……。
  ただひたすらに突撃開始線に向けて前進する。
  爆発によって巻き上げられた戦友が自身を形作っていた部品と鮮血を撒き散らしながら飛び込んでくる。未だ死ぬことの出来ない彼の絶叫や呻きを行進は踏み潰して突き進む。
  足の裏の感じる異様な感触が現実感を失わせる。すでに頭は沸騰しきっており、現実感を失わせている。矢羽根が作る不気味な風切り音が自分のすぐ近くにいた兵士の頭に吸い込まれた。革の兜を貫かれているにも関わらず彼は足を止めることはない。
  あぁ、そうか。と彼は自覚した。すでに自分は聖職者たちがいう幽世に足を踏み入れているのだ。だから、彼は簡単に死ぬこともなく前進を続けていられるのだろう。
  おかしなものだ。自分は今まさに生きながらにして幽世にいるのだ。実家に帰ったら両親に話して聞かせよう。二人の驚く顔が想像できるようだ。
  そして、再び鬼そのものの下士官殿が整列を叫ぶ。そういえば、先ほどの下士官殿はどうしたのだろうか。まさか一足早くに死出の旅に向かったのだろうか。
  全く気の早いことだ。
  そして、高らかに突撃ラッパが吹き鳴らされる。どこかぼやけた感があるのは血に濡れているからだろうか。
「突撃〜!」
「突撃〜!」
「突撃〜!」
  あちこちで命じられる突撃命令を受けて彼らは一斉に駆け出す。自分たちはあの壕を飛び越えてその向こうにある陣地を制圧する。それが出来れば自分たちの勝利だ。
  走る。戦友たちとともに駆ける。ただただ一心不乱に。
  前進するにつれて降り注ぐ矢の密度が上がっていく。周囲で絶叫が起こり転倒する者が続出する。それに巻き込まれる者まで出てくる。先発した部隊が設置した簡易の橋から足を踏み外して壕に落ちる者もいる。
  誰もがそれぞれに死神に連れて行かれる中、彼は擦り傷一つ負うことなく駆けている。
  その事実が彼を勢いづかせ、初めて興奮をさせる。
  いける、と。自分は絶対に死なないのだと。これだけの矢の雨が降り注いでいるのにこうして無傷なのだから。そうだ、自分は一番槍の功名を得るのだと。
  そう乗り込むべき陣地はすぐそこなのだ。すでに敵兵の姿すら見えている。
「わあああああああああああああっ!」
  叫ぶ。心の内に居座ろうとする恐れを追い出し、敵を圧倒する為に叫ぶ。
  と、その時。
  これまで経験したことのない圧倒的な衝撃をその身に感じた。それが何であるかを自覚する前に彼は絶命した。
  彼がその身に受けた砲弾は地を転がり、死体を跳ね台として飛んでいく。
  数多の兵の身体を貫いていきながら……。

 旺盛なる攻撃魔法の威力を眺めながら第一○一実験砲兵大隊を率いるデキスは麾下の砲兵が作り出した戦果に大いなる満足を得ていた。
  平射砲より放たれた砲弾は頑健で知られる岩窟族の身体を貫き、勢いを持った鉄弾が次々と敵兵を薙ぎ倒していく。
  デキスは手にした刻時計を見る。
「砲撃の間隔も上々だな」
  魔法兵ほどの短い間隔で砲撃を続けることは出来ない。だが、その穴を埋められるだけの兵力があれば十分に敵兵を抑え込むことができる。
  砲撃が止んだことを知り、敵が突撃を始める。砲撃の回数もすでに十二回。
  そろそろ敵もこちらの砲撃までの間隔を掴みつつあるのだろう。
  これまでのようにこちらの砲撃で敵が怯んだところを隣の陣地に配置された魔導兵が一掃するという定型的な迎撃は難しくなりそうだ。
「銃兵! 第○六銃兵中隊前へ!」
  嗄れた声でデキスは叫ぶ。
「射撃線に敵部隊が入ると同時に斉射開始しろ」
「了解しました」
  第一○一実験砲兵大隊は訓練を重ね、銃砲を扱う部隊として及第点を与えられる程度の練度はある。だが、如何せん実戦経験がない。
  戦場の空気に飲み込まれてしまうことは十分に想像できることだった。
  そこでデキスは射撃線を設けることで対処することにした。
  どのような状況であろうと物事は単純であった方が失敗は少ない。
  射撃線に敵が侵入したら射撃をし、引いたら止めると事前に通達している。
  この発想は取り立てて珍しいものではない。魔法兵部隊を陣地で運用する際に用いる手法だ。デキスはこの魔法兵の手法を流用したのだ。
  様々な音が響く戦場ではそもそも指揮官の号令での斉射は不可能だ。
  ならば視覚に頼れば良い。第○六銃兵中隊は果たして、この手法が銃砲を扱う部隊にも有効であることをデキスは証明してみせた。
  各小隊長は部下たちを掌握し、退避命令が下るまで指揮下の銃兵たちに射撃を続けさせる。銃兵たちは噴出する焼けた煤が頬を焼く痛みに顔を顰めながら、自分の射撃が敵を撃ち倒す姿に面白味を感じていた。
  その様はデキスに腹が膨れるほどの喜びを与えていた。
  純粋に戦果として見れば、彼らの両脇を挟むように布陣した魔法兵を主とした部隊の足下にも及ばず、彼らがいなければ陣地に乗り込まれてしまうかもしれない。
  だがもし、もっと自分たちの部隊の規模が大きければどうだろうか。扱っている兵器の性能が良くなればどうだろうか。
  機動力と汎用性の二つにおいて魔法兵は自分たちを優越しているが、戦場を限定することが出来れば十分な活躍を見込める。
  対歩兵用にと持ってきていた散弾が思っていた以上の成果を挙げている。
  戦闘終了後、砲が使えなくなるが状況が厳しくなれば適当な大きさの石を放っても良いだろう。ラインボルト軍は常に魔導士が不足している。
  銃砲は資金と時間を投入すれば、誰にでも扱える武器だ。
  空軍を有さない国に対する防備に用いられれば、より多くの魔導士を対リーズに投入することができる。そうなれば、砲兵・銃兵の地位を確立することができる。
  これこそがデキスの悲願であった。
  彼は第一○一実験砲兵大隊を任される前まで魔法兵を率いていた。
  経歴を見ても魔法部隊を率いるに過不足のないものだった。平凡な部隊長であったと言えるだろう。特筆すべき点があるとすれば、計数に強いところぐらいだ。
  当人も自分の軍歴の最後は予備役連隊を率いるところまで出世できれば御の字と思っていた。そこに実験部隊を任せる旨の辞令が下される。青天の霹靂であった。
  『海軍に対抗するために』銃砲の実験部隊を作る噂があっただけに、これは一種の懲罰人事なのではないかと噂が立った。だが、実際は単純に計数が強く、特定の派閥に属していないからだった。貧乏籤を引いてしまったのだ。
  実験部隊の指揮官に任じられた彼は与えられた予算の少なさに気絶しそうになった。
  海軍に対抗するため、という裏の名目があるため、それなりの予算が付くものだと思っていたが、どうやら実験部隊を作った段階で陸軍上層部は満足してしまっているようなのだ。
  これにはデキスの古巣である魔法兵将校たちからの横槍があったからだ。
  彼らから様々な意見書が提出され、調整が行われた末の予算の少なさだった。
  本来であれば実験部隊を設立する際には後見役として将軍が就くのだが、魔法兵たちの反感を恐れてか陸軍有力者の支援がなかったことも大きい。
  だが、逆に考えれば柵が非常に少ないのだ。故にまずもってデキスは資金集めに奔走することになる。
  銃砲を扱うには何をするにも湯水のように金を使わないといけない。
  彼は海軍に銃砲を卸している商家に接触を試みることを考えたが、ここで陸・海軍の対立が邪魔をしてくる。かといって陸軍と繋がりのある商家に頼る事も難しい。
  後援者がいない彼に出資をして、見返りがあるか分からない。何より、商家の間でも魔法兵が砲兵・銃兵を敬遠していることは知られていた。
  それ故に王宮府に弾薬の調達を依頼することにした。
  デキスはさながら王宮府、ひいては王家が支援をしているかの様に装って商家に対して交渉を行った。当然、デキス如きの偽りを交えた交渉に海千山千の商家の主が騙されるはずがない。しかし、彼らは独自に情報を得ていた。
  実験部隊の弾薬の調達依頼に際して、王宮府を統括する内大臣オリザエールが薄利で良いと指示を出したというのだ。つまり、王宮府ではこの支援は儲けに繋がると考えたのだ、と。
  大口の顧客である魔法兵部隊から睨まれるのも困る。そのため王宮府に倣って、彼らが欲しがる物資を安価で提供することで落ち着く。
  予算額は変わらないが調達費用を大きく圧縮することができた。浮いた分を訓練に回すことが出来る。銃砲も魔法と同じく実際に撃って訓練することが一番なのだ。
  陸軍が本格的に銃砲の導入を考え出せば、支援はさらに大きなものとなるだろう。
  その為にも彼ら第一○一実験砲兵大隊は実戦を経て、戦果を掲げなければならなかった。
  鉄弾が飛び跳ね、銃弾が敵兵の身体にめり込んでいく。
  血を吹き出し、死体になりきれずのたうち回る敵兵の姿にデキスは笑みを隠せずにいられなかった。このまま勝利すれば、自分たちは必ず注目される。
  潤沢な予算を得られるだけではなく、もしかしたら正規部隊が編成されるかもしれない。
  そうなれば、ラインボルト軍史に銃砲の父として名を残せるかもしれない。
  隠しきれない笑みを隠すために右手で口を覆う。
  自分の、そして苦楽を共にしてきた将兵たちのためにも失敗をする訳にはいかない。
  実戦を経験した将兵は今後、正規部隊が編成される際に非常に重要な存在である上に今の技量を獲得するために投じられた金銭を莫大なものだ。
  ただの一人であろうと戦死者を出すわけにはいかない。
  今の第一○一実験砲兵大隊は貧乏所帯なのだから。
  如何に銃砲を扱う部下たちの技量に信頼できても限界はある。こちらの攻撃に怯むことのなく突撃を続ける敵兵全てを撃ち倒すことは不可能だ。
  最後の砦となるのは槍兵の穂先だ。
「第○六銃兵中隊、第○三砲兵中隊は退避。第五○八槍兵中隊前進。敵を防げ」
「了解しました」
  自分たちの周囲を鑑みるにこれを凌ぐことができれば一息つけそうだ。
  敵は攻撃の主軸である街道突破への圧力を強めつつある。
  主攻撃軸から離れたここへは今以上の圧力がかけられることはないだろう。
  となれば、こちらに差し向けられた敵部隊を如何に主攻撃軸からはずれたこの場に拘束するかを考えるべきだろう。部隊として動けないことは戦死していることと変わりない。
  この辺りも魔法兵の運用と同じ点だ。十分な戦果として見て貰える。
  そういえば、後継者殿下は自分の許しなく死ぬなと近衛に言ったそうだ。自分たちもその言葉にあやかることが出来るだろうか、と益体もなくデキスは思った。

 兵たちの威勢が戦場を駆け、それを圧し潰して仕舞わんばかりの爆音が連続する。
  突撃ラッパが高鳴るたびに兵たちは突撃していく。
  彼らの眼前にあるのは山だ。木々を切り、山肌を切り崩し急造の高台とする。
  その前には幾重にも作られた壕と塁壁が張り巡らされている。
  一つ一つの障害は単純なものであり、纏まった兵力があれば突破にはさほどの困難はないだろう。だが、それが幾重にも張られてしまっては二つ、三つも突破すれば勢いはなくなる。前線からの報告によれば、敵は塁壁を死守するつもりは全くないという。
  ある程度以上の圧力が掛かれば、即座に後方に移動し、そこに待機していた部隊とともに反撃に出る。突破した先にはさらに多くの敵兵が待ち構えていることになる。
  無論、いつまでも機能するようなものではない。兵たちが疲れれば、或いは指揮官の過失が原因で破綻してしまうだろう。
  では、その時がくるまでワルタ解放軍は待つことが出来るのか。否だ。
  敵は正面だけにいるのではない。東からも迫りつつあるのだ。兵力を無為にすり減らすことは出来ない。
  今やワルタ解放軍の総司令官となったトナム将軍は戦術上の常識に従い、小高い丘の頂上に陣を布き、敵陣を睨み続ける。
  彼の視界で時折、中空に舞い上がるモノは土塊か、果たして……。
  地獄絵図さながらの光景を睥睨しつつ、トナムは比較的突破が容易な箇所がないか探す。
  身も蓋もない話だが、今眼前で奮闘を続ける兵たちは敵の防備がどれほどのものか探るためにぶつけられている。捨て駒とできるように素行の悪い者が多く含まれている。
  散々軍に迷惑をかけたのだから、最期の奉公としては妥当なところだろうというのが司令部の一致した見解だ。
「閣下」
  呼び声にトナムは振り返る。彼に仕えて長い参謀長の男だ。名をスエスという。
  岩窟族らしからぬ細身の長身の男だ。そのためか口の悪い者たちからは「古木」とあだ名を付けられている。トナムは彼の実直な質を好んでおり、武人として傍らにおいてきた。
  トナムが派閥の領袖としてロゼフ軍で重く見られているのは、スエスが麾下部隊の面倒を良く見、問題を大きくならないよう手を打ってくれているからに他ならない。
「ハラード街道上の防備が手薄のようです。街道上に設置した中央陣地を信頼しているのでしょうか。確かにあれは常識外れな数の魔導兵を投入されて、なお城壁は崩れませんでした」
  それは第一魔軍が焼き払った陣地だ。ロゼフ軍工兵たちの手による陣地は幾らかの補修を済ませれば十分に再利用できるものだった。
  周囲を壕に加え頑強なる城壁で守られており、容易なことでは陥落させることは出来ないだろう。
  指揮とは別に街道を封鎖するに足るだけの防御力がこの陣地と防壁には与えられていた。
「他は壕、柵、塁壁を組み合わせて幾重にも守りを固めているのに対し、ハラード街道にはこの組み合わせが二つある程度です。街道制圧を命じた部隊はこの障害を突破。その後、中央陣地からの攻撃によって戦闘力を失っております」
  そこでスエスは言葉を止める。これ以上の判断はトナムの領分だ。
  自分の立場と役割を良く弁えている。この辺りもトナムが傍に置く大きな理由でもある。
「街道側面に伏兵がいる可能性は? 中央陣地の火力はどうだ?」
「突破に成功したハックドゥ連隊長は捜索を行ったところ、伏兵の存在を確認できずとのことです。また中央陣地は第一魔軍が詰めているようです。旺盛な火力を誇示しております」
  視線を敵陣地群に向ける。少しずつ自軍を磨りつぶしていく様が確認できる。
  トナムは勝利条件がなんであるか、再確認する。
  現在対峙する敵軍に痛打を与え、ワルタ市への進軍を躊躇させることが出来ればよい。
  だが、こうやって陣地に篭もられてしまって、目立つ戦果を掲げることが難しい。
  これでは拘束されているのは自分たちだ。東への対処が出来なくなる。
  リーズからの援軍を待つのも一つの方策だが、同じ待ちの体勢を取るにしてもロゼフ優位を作り上げた上でなければならない。
  戦後、援軍に対してどれだけの要求をされるのか分からないからだ。
  その為に出来ることはなにか。この堅固な陣地群を維持する存在を握りつぶすことが一番。
「ハラード街道の突破を試みる。突破後、レルヒ市を制圧。以降は敵補給部隊の撃破に専念すること。降伏に関しては指揮官の判断に一任し、責任は問わないこととする」
「了解しました。閣下」
  罠かも知れない、とは言わない。スエスはトナムに仕えて長い。
  自分の上官がこの程度のことを勘案に入れないはずがない。罠であったとしても、それを踏み越えてみせると言外に伝えたのだ。
  何より迂回路を取ることが出来ない。時間的な制約もあるが、部隊の補給が追い付かないのだ。糧秣を求めて、町や村を略奪していては不必要に時間を取られるだけだ。
  ならば全力で打通し、目に見える形で敵味方に戦果を誇示した方が良い。
  大きな損害を出さないように包囲を続けるか、損害を許容して戦果を求めるか。
  トナムは指揮官として後者を選んだ。
「では、投入する部隊の編成を開始いたします」
「うむ」
  参謀長に承認を与えるとトナムは再び戦場を睨み付けた。
  戦況に変化はない。現状では兵力を磨り潰されるだけだろう。
  トナムは攻撃中止を決定し、伝令を走らせる。程なくして這々の体で後退する友軍の姿に苦い思いを抱く。
  早急に戦果を得なけれ、ディーズが責任を取って斬罪となりかねない。
  確固たる戦果を示せば、自分への指揮権委譲が早急に解放軍司令部の意思統一のための芝居であったと強弁することもできる。
  全く責任を問われない、ということにはならないだろうが左遷、悪くても「惜しまれる退役」で済ませることが出来るだろう。
  と、トナムは自分が考えていることに対して疑問を得た。
  自分はディーズをこうやって擁護する理由があっただろうか、と。
  二人とも異なる派閥に属しており、敵対とまではいかずとも牽制し合う間柄にある。
  むしろ、ディーズの派閥を追い落とす為に今回の件を活用すべきだ。それが派閥の領袖としての正常な在り方だ。
「そういえば、あったな」
  と、周囲の喧噪に掻き消されるほどの小さな声で呟いた。
  それはまだ彼らが少年の時分にあった研修旅行での事だ。
  幹部候補生としての教育の総仕上げとしてロゼフ軍では将来自分たちが守る土地を巡り、地理を教えられる。引率をする教官から唐突に問題を出されることもあり、候補生たちは一時たりとも気を抜くことができない。
  この地形ならばどこに兵を配置すべきか、またはこの場に敵が陣を布いている場合、どこに兵を伏せれば、発見されることない偵察任務を達成できるかなど数多くの問題が示される。少年たちはそれに解答をし、不正解であった場合は数名で検討会を開くこともあった。
  この旅行は様々な場所に向かう。その旅の途上で二人は遭難をしたのだ。
  二人は啀み合いながらも協力して生還へ向けて行動をした。
  幸いにも四日後に発見されたが、もし一人であったならば物言わぬ骸となっていた可能性もある。
  濃密と呼ぶしかない時間を共にした相手が死を賜らねばならなくなるのは辛い。
  なにより左足を骨折した自分に文句を言いながらも決して見捨てることのなかった男への借りを未だに返せてはいない。
  様々な思いを混淆させながらトナムは敵陣を睨み続けた。
  ラインボルト軍が再建した東部陣地群はロゼフ軍に多大なる出血を強いていた。
  矢や炎弾が飛び、槍を手に駆ける兵たちに浴びせかけていた。
  憐れな雑兵たちは戦場にて骸を晒し、大地を血で赤く染め上げる。
  しかし、彼らの突撃は終わることはない。倒れた兵が抱えていた梯子を誰かが担ぎ直して更に前進を続ける。彼らにとって眼前に聳え立つ山々を制圧しなければ生き延びることが出来ないのだ。
  振り返れば美々しい鎧を纏い穂先すら一直線に揃えた白銀の隊列がある。
  彼らこそロゼフ軍の主力である重装歩兵だ。
  雑兵たちのような槍を持たせた農夫や町人ではない。厳しい訓練を乗り越えてきた正真正銘の精鋭たちだ。
  陽を受けて煌めく彼らの鎧は今、空を飛び雑兵を焼き殺す魔法なぞものともしない。
  堅固にして頑強。兵たちにとってまさしく我らが戦場の華であった。
  しかし、今は畏怖そのものであった。よくよく観察すると白く輝く鎧や槍の穂先は赤黒く汚れている。敵の返り血ではない。逃げ出した兵たちを殺したのだ。
  兵たちは死の壁に挟まれて戦場を駆けずり回らなければならなかった。
  文字通りの死に物狂いの兵たちの奮闘する姿を不満げにトナムは鼻を鳴らした。
  兵たちの命を用いての調査にも関わらず目立って脆弱な箇所が見受けられなかった。
  ……強いてあげるとすれば、大食らいなことか。
  大軍を収容しているが故に維持するために膨大な物資を必要としている。
  籠城のための陣地ではない。作られた戦場だ。
  本心を言えば、こんなものと相対せず適度な部隊を用いて牽制をさせ続けたかった。
  睨み合いを続けていれば勝手に干上がってくれたはずだ。
  ……ままならぬものだ。
  唸り声を上げ続けるトナムの側に駆け寄った男がいた。彼はトナムに耳打ちをした。
  するとトナムは大きく頷いて、声を張り上げた。
「一時撤退する。兵の再編と休養を与えろ。それが済み次第予定通り総攻撃を開始する」

 指揮所として設営された大天幕の中でホワイティアは刻々と情報が更新される戦況図を睨んでいた。一方的にラインボルト軍が抑え込まれているように見える。
  麾下全軍硬く陣地に閉じこもっている状態だ。今はひたすらに忍従をし、敵に出血を強い続けることが肝要だ。派手なことをする必要は全くない。
  ただこの場に敵を拘束し続ければ勝利を掴めるように作戦を立てている。
  矢面に立つ兵たちには申し訳ないが、これだけの軍勢を率いていながら面白味の全くない戦い方だ。
  その一方でワルタ奪還戦の青写真を描いた者としては期待の高まりに踊り出してしまいたい心境にあった。
  全ては順調に進捗している。後はそれぞれが果たすべき役割を完遂すれば良いだけだ。
  これだけの戦力を掻き集める為に幾らかの無理もした。そのせいか実験部隊まで押し付けられるとは思わなかったが。
「そういえば第一○一実験砲兵大隊の様子はどうかしら?」
「魔導兵が挙げる戦果に比べれば劣りますが、こちらが期待した以上の働きはしてくれているようです」
  参謀長ファインズは報告する。手にした帳面には重要案件についての走り書きがされている。
「貴方は魔導兵科ですものね。自分たちの仕事を奪う可能性のある新しいものに警戒感でもあるのかしら」
「いえ、そういう……」
  だが、他意のないホワイティアの視線を向けられてファインズは吐息を漏らす。
  彼が仕える上官は、稀にファインズをそこそこ出来のいい弟として扱う時がある。
  こうやって見つめられるとお茶を濁すということが出来なくなる。
  こんなことになるのならば、両親や姉を連れて彼女の元に挨拶へ行かなければ良かった。
  家族揃って聞かれたくない昔話をされては、ホワイティアに心の奥深いところを握られてしまったも同然だ。以来、軍務以外ではどうにも姉と接しているような気分になってしまい頭が上がらない。
「一般的な魔導兵科程度の危惧はあります」
  敵はすでに引いている。参謀長としてあれこれと差配しなければならないが、総司令官の緊張を解すための雑談に付き合うのも務めである。
「有用、ではあると思われます。数百挺揃えれば十分な戦果が期待できるでしょう。なによりあの銃声です。命中率が悪くとも一時的に敵兵の士気を挫く効果がありまし、騎兵にとっては長槍に並ぶ天敵になるでしょう。馬は繊細な生き物ですから、長期にわたって訓練をしなければ使い物にはならないかと」
「それなりに使い方を考えてはいるのね」
「急に加えられることになりましたので、簡単にですが勉強をしました」
  それよりも、とファインズは続ける。
「むしろ気になるのは軍事費の増大です。部隊の編制に掛かる諸費用はもちろんですが、訓練にもかなりの予算が必要だと思われます」
「魔導兵科と比べてもかかると?」
「試算しなければ確たることは言えませんが、恐らくは」
  銃砲を扱う訓練で最も効果的な方法は実際に射撃することだ。この点は魔導兵も変わらない。だが、前者は弾丸、弾薬、銃身・砲身が摩耗すれば替えも必要となるのに対して、魔導兵は身一つあれば日常的な訓練は十分に行える。
  魔導士となるための初歩の初歩から訓練を始めるとなれば、また話は変わってくるがラインボルトは軍事面以外にも多くの魔導士を求めている為、教育政策と重なる点がある。
  軍が責任を持つのは入隊した後の魔導士の卵たちに対してだ。
  軍としては予算の増大は大いに結構なことだが、魔導兵科にとっては商売仇となりうるだけに神経質になっている。陸軍内ではかなり面倒くさい位置づけとなっている。
「はからずもラインボルト陸軍史上初の銃砲を実戦に投入した将軍ということになりますね」
「いやなことを言うわね」
  だが、これも彼女に与えられた職責だ。将軍として評価を示さなければならない。
  軍内部はもちろん、第一○一実験砲兵大隊を支援してきた商家に対してもある程度気を遣わなければならない。なにより、予算増大の旗印となりうるだけに扱いを間違えれば、政府や議会からどんな嫌味を言われるか分からない。
「特にそういった感慨はないわね。軍状報告に関しても同様。事実のみを記載するわ。私見として兵站への負担が増大することを鑑みて、弾薬の備蓄が可能な拠点防御に期待するところ大であるが、野戦への投入は技術、運用面における技術的進捗が待たれる。といったところを付記するぐらいかしら」
  これが実際に運用してみてのホワイティアの見解の全てだった。
  移動と弾薬の運搬が大きな負担になるのであれば、初めから拠点防御用として配備すればその面倒も少なくなる。また、銃砲を扱う部隊をラインボルト各地にある城や砦に配備すれば、そこを守備していた魔導兵を引き抜くことが出来る。
  他の兵科ならば予算、人員の削減となりそうではあるが対象となるのは魔導兵だ。
  現状でも軍が満足しうる人数を揃えられていない現状、削減対象には絶対にならない。
  むしろ、彼らは各地で引く手あまたとなるだろう。
  状況によっては第四魔軍の設立ということもあるかもしれない。
  全ては可能性に過ぎない。だが、変化を受け入れるには希望という名の可能性が必要だ。
  このまま順調にワルタ地方の奪還に成功すれば、彼女は凱旋将軍として内外にその名を知られることになる。ホワイティアの軍状報告だけでここまで大きな影響力はないが、このような流れを作る一助となる。
  もし、彼女が銃砲を扱う部隊の後ろ盾となり、この流れを作り出すことが出来ればラインボルト陸軍内部において一大勢力を作り出すことも可能だ。しかし……。
「何にせよ面倒なことね」
  この言葉が彼女の行動の全てを表している。自分の派閥を作るつもりがないのだ。
  最大派閥であるゲームニスの閥に属しているが、派閥のために積極的に行動したことは殆どない。権力欲がない訳ではない。なければ将軍なぞやってはいないのだから。
  ただ、自分の権勢を得ても誰に跡を継がせるかを考えると面倒なことにしかならないと彼女は思っている。仮の話になるが、彼女に息子がおり、その子が軍人として生きていたら今とは違った行動をとったであろう。
  ワルタ奪還の勝利も銃砲を扱う部隊に関する私見も派閥に献ずるつもりだ。これを対価として部下たちの昇進や褒賞の水増しを願い出るつもりだった。
  この彼女の部下たちに篤く報いる行動が彼女への支持を集め、ゲームニスが好むところでもあった。
「それにしてもまだ決着が付いていないというのに、こんな話をしているなんて暢気なものね。相手に知られたら怒鳴り込んでくるわよ」
「その時は火傷するほど熱いお茶で歓待して差し上げるべきかと」
「そうね。折角、国境を越えてまで訪ねてきてくれたんですもの。長居をしてもらわなくては歓待のしがいがない。それに普通に応対したのではお客も飽きるでしょう。何事にも驚きは必要ね。贈り物をするにも恋愛にも、そして戦争にもね」
  ファインズ、とホワイティアが呼びかける。
「はい、閣下」
「彼らに伝えてあげなさい。第三の騎士たるを望むならば、その証と誓いを掲げよ、と」
「了解いたしました」
  参謀長に頷きを与えると彼女は視線を壁面にかけられたワルタ地方を描いた地図に向ける。
  彼女に出来る差配はこれで全て完了した。後は己に課せられた眼前の敵に対処しつつ、結果を待つのみである。
  果たして彼らは自分の策に驚愕の念を抱いてくれるだろうか、そしてこれの原案が無茶をしようとする時の啖呵だとは思うまい。
  雨が降ろうが槍が降ろうが私はやるの!
  世の中、どこにどんな切欠があるのか分からない。それ故に面白いのだ。

 ホワイティアがワルタ地方の地図を眺めながら眼前の戦いのみが全てではないと感慨を抱いた通り戦いは様々な場所で展開していた。
  直接、干戈を交えることのない戦いが首都エグゼリスを中心に展開していた。
  戦争をするにはとにかく金が必要で、国家もまた金がなければ何も出来ない。
  内乱とその後の復興計画の実施により、ラインボルトの国庫は酷いことになっていた。
  正直に言えば、財政を鑑みれば戦争をする余裕はなかったのだ。
  ロゼフを相手に膝を屈するような和平案の提示は紛れもないラインボルトの現状から出された苦肉の提案だったのだ。
  和平交渉はロゼフが最終提案を拒否したことで開戦という流れになった。
  戦争なぞやっている余裕なんてない財政状態のラインボルトがなぜ戦争に踏み切ることが出来たのか。
  戦時国債の引き受け手が見つかったからだ。ラインボルト国民がそうだ。
  内乱後の復興計画実施に際しても募集をしていたのだが反応は政府が期待したほど芳しくはなかった。
  というのも、「軍人さんや国のお偉いさんが勝手に初めて滅茶苦茶したのになぜ自分たちが金を出さなければならないんだ?」という国民感情が国債の引き受けから距離を置いていたのだ。
  確かに国民はアスナを英雄だともてはやし、エルトナージュに同情的ではあったが、それで財布の中身を貸すことはなかった。先行きの不安もあっては尚更だ。
  が、ここでロゼフとの開戦で国民感情がガラリと変わってしまう。
  外敵を排除するためならば多少の出費は惜しむことはなかった。
  財政的に一息つくことのできたラインボルトは様々な政策を実行していく。
  議会にて宰相シエンが施政方針演説にて発した「この戦争をラインボルト並びに周辺地域の安定に寄与させるものである」という言葉が全てを表していると言って良いだろう。
  戦争日程と政治日程をより緊密に結合させたのだ。
  ワルタ地方を奪還してから数ヶ月後にアスナの副王就任式典が予定されている。
  これは奪われた領土を奪還した後、ラインボルトが提示する講和条約を締結しやすくするために用意されている。
  領土を奪還した後には必ず国民はもちろん、名家院議員の中からも戦争継続を叫ぶ者が現れる。そう言った者たちを抑え込む口実としてアスナの副王就任式典を使うのだ。
  慶事を血で穢すのか? と問えば直接の戦災を被っていない大多数の者は口を噤むだろう。
  首尾良く講和が成立すれば、国債で集めた資金と賠償金を使って後回しになっている政策の予算とすることになっている。
  講和が成立しなかった場合は戦争は継続され、軍が欲する物資を供給すべくラインボルトの物産を刺激する政策を実行する。
  やがてロゼフとの戦争も終わりを迎える。その頃にはラインボルト国内の物産は大きく膨れあがることになるが、その頃にラインボルトはアスナの即位式を行おうと考えている。
  戦争という物資の消費先がなくなったとしても戦勝と新国王の即位で国民の気分は高揚し、財布の紐も緩くなる。後は国内の経済が暴走しないように監視をし、適切な対処を施せば良い。
  その為にもラインボルトに刺さったもう一つの棘を取り除かねばならない。
  ラメルに居座るラディウス軍の撤退だ。
  武力を用いて排除することは可能だが、全面戦争となれば現在のラインボルトでは用意できない兵力と物資がなければ非常に高い確率で憂慮すべき事態に陥ると参謀総長グリーシアは言っている。
  となれば、諸外国を巻き込んで圧力をかける他ない。
  アスナの副王就任式の招待にかこつけて諸外国に働きかけた。
  ラディウスの東にある中小国家にはラインボルトとの同盟を示唆し、サベージに対しては彼らの影響圏とも言えるこの地域にラインボルトが口を挟む可能性を示唆し、アクトゥスに対してはラディウスが邪魔でリーズとの件で助力できないかもしれないことを示唆した。その他の国々に対しても似たようなことをしていた。
  示唆、なのだ。正式な申し出ではない。可能性の話でしかない。
  だが、それは現実味のある示唆でもあった。今のラインボルトはやるとなれば断固としてやる。その実例が内乱を武力で鎮圧したことであり、ロゼフとの戦争だ。
  次期魔王坂上アスナはやると決めたらどのようなことでも断固として行う、と。
  各国は動き出した。
  ラディウスに脅威を感じる諸国はラインボルトという保険を手に入れるための掛け金として、サベージは自分の庭を荒らされては堪らぬと、アクトゥスは眼前の脅威に対する備えを得るために。
  現時点ではラメルに居座るラディウス軍に動きはない。
  外交面において動きが活発になっているのだ。思惑はそれぞれに異なるが、撤兵し、周辺地域の軍事的緊張の緩和するようラディウスに提言している。
  余りに追い詰めすぎると暴発も恐れもあるし、無駄に逆恨みを買うのも面白くはない。
  そこでラディウスに感謝状を送ると同時に百年ほど前にラディウスが併呑した土地を正式に彼らの領土だと認める旨の外交文書を正式に用意していた。
  百年も前にラディウスが飲み込んだ土地を認めても意味がないように思われるが、ラインボルトとラディウスの関係を鑑みれば、この対応が大きな出来事だと分かる。
  ラインボルトはラディウスを独立国家と認めていない。その相手に“正式”に外交文書を用意するということは独立国家として認めても構わないということだ。
  これまでも水面下で互いに文書のやりとりをしているがあくまでも水面下でのことだ。
  これが実現すればラインボルト史上初めてのことだと言って良い。
  実を言うとラインボルト内部では随分前からラディウスとの関係をどうするかについて議論が続いていた。現状を維持するのか、それとも独立国家として認めるのか。
  現在は独立容認が主流となっている。なにしろ二つに分かれてから気の遠くなるほどの時間が経っている上に国の制度そのものが大きく異なっているのだ。
  同じ国だと口にする方が笑われてしまう。
  だが、ラディウス側からすれば一大事である。
  彼らの国是はラインボルトの正統を取り戻すこと。彼らはこれを独立蜂起して以来、掲げ続けてきた。
  それが今になって、当のラインボルトから絶縁状を叩きつけられ、これからは他人として付き合っていきましょうと言われるようなものだ。
  この外交文書を受け取ることでラディウスに利益がないわけではない。ラインボルトとそれなりの関係を築くことが出来れば、これまで以上に交易が活発となるだけではなく、親ラインボルトの国々との取引額も大きくなるだろう。書簡一つ受け取るだけで巨富を得られる可能性がある。
  そして、このカードは対外的に見れば最上級の誠意の証となる。
  ここまでしてもラディウスが撤兵をしなければ、国際的に悪役の烙印を押されることになる。ラインボルトはこのカードをアスナの副王就任式の後に催される宴席にて発表する予定だ。新たな君主を迎えて、新たな関係を築くことを印象づけることが出来る。
  内政、外交、軍事。国が行う全ての行動がアスナの存在を活用していた。
  王は国家によって大いに活用される。
  そういう意味においてもアスナはラインボルトの王であった。

 その男がバーフェル将軍率いるラインボルト陸軍第八軍と合流したのは陽が頂点に至りつつある頃であった。
  年の頃は六十前後だろうか。その体躯は年齢による衰えを感じさせない。巨躯ではないものの頼もしさを感じさせる力強さがあった。
  身に纏う鎧は男の立場を考えれば粗末そのものと言えるが、鎧に刻まれた幾つもの疵痕が見る者に古強者、歴戦の勇士という言葉を印象づける。
  若い頃は精悍と評されたであろう面差しは様々な経験を得て、老練の域に達しているように思える。眼前を見据える瞳には自己に対する確かな自負があった。
「誰何!」
  歩哨中の兵が大声でたずねてくる。年嵩の下士官だ。
  声音には警戒の色はない。誇らしさが宿っているように感じる。すでに老将も先触れを出している為、彼も自分が何者か分かっているはずだ。
  が、老将は彼の問いに応じて前に出る。これは一種の儀礼なのだ。
「ロゼフ侵攻軍司令官、大将軍ゲームニスである。バーフェル将軍の元まで案内を頼めるか?」
  鋭く睥睨するような視線が和らぎ、慈父の様な柔らかさをその下士官に向ける。
「はっ。光栄であります」
  返事とともに下士官は最敬礼をし、手近にいた兵に幾つか指示を出す。
  ゲームニスが率いてきた供回りを待機場所に案内し、暖かい物を振る舞うように告げる。
  下士官の対応も兵たちの動きにも老将は大いに満足を覚えた。
  包囲を続ける第八軍の将兵たちの間でも炊事の煙が立ち上っているのが確認できる。
  それは良好な後方支援を受けられている証だ。バーフェルは確かに任務を果たしている。
  案内された先は大天幕だ。入り口を守る立哨が最敬礼を捧げる。
「大将軍閣下、ご到着されました。総員、気を付けぇぇ〜」
  下士官は声を高らかに号令をかける。
「礼!」
  自らの指示に将軍すらも従わせることが出来る。これは大将軍と同等以上の位階所持者を案内した者にのみ許された栄誉であり、その権利は退役間近の最先任下士官にのみ与えられている。
「ご足労をおかけします、閣下」
「なに、まだまだ力を振るう場があるのは有り難いことだ」
  ゲームニスは上座に腰掛け簡単に挨拶を済ませると本題に入った。
「それで、現状はどうなっているのかを聞かせて貰えるか?」
「はい、閣下」
  第八軍は敵の撃破して迅速な進軍することを主目的としていない。自分たちの後からやってくる北方総軍が国境を越え、その後の進軍を遅滞なく行えるよう支援がワルタ市が機能しなくても行えるだけ体制を整えることだ。
  バーフェルらが用意した支援体制はそのままゲームニスが受けることになる。彼らの手腕にゲームニスは大いに満足し、「頼もしい限りだ」との言葉を送った。
  前線において第八軍は敵陣地群に対する嫌がらせを続けていた。夜間には鬨の声を上げるなど極力自分たちに損害が出ない方法でだが。
  過剰反応は困るがそれなりに圧力を加え続けるのも彼らの役目だ。
  その成果として陣地群に篭もるロゼフ軍将兵は相当なストレスを抱え込んでいるとバーフェルを初めとする第八軍首脳部の見解だ。
「確かに籠城は辛いな。敵に脅え、日々減っていく糧秣。私も若い頃に経験したが決して楽しいものではないな。あの時ほど我が身を縛る鎖をいとわしく思ったことはない」
「閣下」
「そろそろ敵に脱走者が出始める頃か」
「出ています。可能な限り捕縛し、情報を吐かせています。ですが、顕著といえるほどではありません」
「そうだろうな」
  白髪が混じりの髭を震わせながら老将は呟いた。一拍の間を置いて、「バーフェル」と呼びかける。
「私は後継者殿下よりホワイティアの援護をせよと命じられている。そして、ホワイティアは現場においての判断は貴官に委ねると言っている」
「はい、閣下。ありがたくあります」
  うむ、と鷹揚にゲームニスは頷く。
「ここは貴官らワルタ方面軍の戦場だ。私は助力するよう命じられているが、ワルタでの戦について責任を負うことが許されていない」
  人魔の規格外として指定された目標を破壊することは出来ても、どのように行動すべきかを決めることは出来ない、と言っているのだ。
  ワルタ方面軍はワルタ地方の奪還が任務であり、ゲームニス率いるロゼフ侵攻軍はその名が示すとおりロゼフへの進行が任務。そもそもの役割が違うのだ。
  無論、正式な要請があればゲームニスも応じるつもりだ。
  老将の視線は卓上にある地図に向けられている。そこには第八軍が入手した敵陣地群の情報が記されている。
  街道を封鎖する形で土塁が築かれ、その前には深い壕が掘られている。
  土塁の後方には櫓が建てられていた。土塁の両脇は山裾で固められており、陣地が設えられているようだ。司令部が置かれているのは第八軍から見て右側にあるフト山の頂きに据えられている。
「手堅いな。無理攻めをすれば手痛いことになりそうだ。しかし、敵が西部に用意した陣地群とは趣が異なるな。あちらは小なりとはいえ、城を用意していたそうではないか。築城を同時に行えなかったのだろうが、ここも西と重要度は変わらないだろうに」
「どうやらそこは宮廷での位階が物を言っているようです。西はブロム家の嫡男が守将を務めておりますが、こちらの守将はさほど位階は高くないようで。我々としては有り難い限りなのですが、同じ軍人としては同情せざるを得ない話です」
  もっとも、とバーフェルは続ける。
「だからといって手心を加える訳にはいきません」
「では、貴官は私をどう使う?」
  ゲームニスは面白がっている風であった。
  人魔の規格外の使い所は難しい。眼前の陣地群を破壊するだけならば魔王の残光を放てば事は済む。だが、余りにも強力すぎるため不用意に放つことが出来ない。
  仮にこの場で放てば山が消し飛び、街道も使い物に成らなり進軍もままならなくなる。
  諸外国の目もある。不用意に戦略級の魔法を用いては様々な手段や状況を用いて作り上げたラインボルト支持の雰囲気が消し飛んでしまう恐れがある。
  その一方で決して人魔の規格外を戦場に投入しないと思わせてもいけない。
  人魔の規格外は軍事だけではなく外交面においても投入には気を遣わねばならない。
  よって、バーフェルはゲームニスの問いかけにこう応じた。
「実は以前から魔軍の様に戦ってみたいと思っていたのです」
  そう言って男性的な笑みを浮かべて詳細を語る彼に人魔の規格外は呵々大笑したのだった。
  翌早朝、朝靄が漂う戦場の中でラインボルト第八軍司令官バーフェル将軍は大きく背伸びをした。気持ちの良い骨が鳴る音が聞こえてくる。ここに布陣して以来、満足にねていないため、彼の身体は休息を求めて悲鳴を上げていた。
  恐らく、そんな苦労も今日で一段落付くはずだ。
「閣下、全部隊配置に就きました」
「ご苦労。大将軍閣下に攻撃開始を要請してくれ」
  参謀長の報告にそう応じたバーフェルは側近くに控えていた伝令に頷いた。
  要請という形ではあるが、まさか自分が人魔の規格外に攻撃開始を告げることになるとは思わなかった。将軍位にあってもこのような機会を得られる者はそういないだろう。
  誇らしいというよりも、畏れ多くて身が縮む思いだ。
  ……いや、それはあの伝令が言うべきことか。
  なにしろラインボルト軍の大将軍相手に事実上の攻撃命令を伝えるのだ。
  そんなことを駆けていく伝令の背を見ながら思った。
  意識を自分が受け持つ戦場に戻す。見上げるフト山にはロゼフ軍の司令部城砦がある。
  火矢対策として泥を塗りつけた板塀で囲まれた五つの曲輪にはそれぞれ一つ以上の櫓が設えられている。こちらの動きは全て見通されているだろう。
  ……この城砦には随分と苦労をさせられた。
  今日に至るまで陣地の攻略にバーフェルは薄氷を踏む思いで陣地群を破壊していった。
  攻略に動く度にこの司令部城砦から援軍が飛び出してきて手痛い打撃を受けた。
  ホワイティアからは西部陣地群に増援を送り込ませ、睨み合いをするよう命じられている。そうすることでワルタ方面軍本隊と衝突する敵の頭数を減らすと同時にロゼフ側の兵站能力に更なる負担を強いることができる。
  言うは易く行うは難しという言葉の通り、バーフェルはこの命令を実施するために多大な苦労をした。
  敵に自分たちが脅威であると認識させるために敵陣地に対して積極果敢に陣地攻略戦を仕掛け続けた。陣地付近に設置した遠投投石機が連続使用に耐えきれず壊れてしまったほどだ。
  部下たちの戦意を挫くことなく、同時に東部陣地群に篭もるロゼフ軍には増援があれば防ぎきれるのではないかと思わせねばならなかった。
  着実に陣地を制圧し続け、時には無様に逃げ出す姿を曝す。
  兵たちを無駄死にさせることなく、このようなことをし続けることはバーフェルの肉体と精神に多大なる負担を強いていた。その苦労が報われる時がきた。
  恐らく敵は山裾を伝って友軍の応援に出てくるはず。
  バーフェルは山道の入り口に部隊を半円に布陣させていた。
  また隠し通路から敵が現れた時に備えて、フト山の周囲を騎兵に警戒させている。
  今この瞬間において、戦況はラインボルト軍に優位に動いている。
  ワルタ市を占拠している敵本隊はホワイティアが待ち受ける西部へと向かっているらしく、こちらへの援軍はない。
  あとは大将軍ゲームニス自らが街道を扼している陣地群を破壊すれば事は終わる。
  一軍を率いる身としては攻略を人魔の規格外に任せることは悔しいが、陣地に篭もる気合いの入った守備兵を相手にして部下たちを磨り潰す訳にはいかない。
  不意に爆音が響いた。一つではない。合計で四つ。
  複数の紅蓮が一つとなって、街道を挟んで建てられた砦の一つを飲み込んだのだ。
  比喩ではなく堅固な砦を炎が覆ってしまっていた。あの陣地に立て籠もっていたロゼフ軍の将兵は断末魔の叫びすら誰にも聞かせることもできず焼き殺されている。
  炎は形を変える度に黒煙が噴き出し、大気を焼くかのような轟々とした音が響く。
  さながら炎の魔人が満腹となりげっぷをしているかのようだ。
  天に向けて立ち上がった炎の腹中は果たしてどうなっているのだろうか。
  バーフェルの拙い想像力すら焼き払うかのような熱風が彼と彼の部下たちを襲う。
「これほどの爆発を目の当たりにしては敵も出てこなくなるかもしれんな」
「油断は大敵です、閣下」
  そう参謀長から窘められるが、彼自身も呆然とした表情を隠せていない。
  それほどまでに圧倒的であった。炎弾にて破却されることは想像していたが、まさかそれ以前に陣地そのものを消滅させうる破壊力だとは想像の埒外であった。
  バーフェルがゲームニスに求めたことは東部にて第一魔軍副将であるシグルが行ったことの再現だ。ロゼフのみならず、どこかでこっそりと観戦している他国の間者に対する示威にもなると考えてのことであった。
  対竜族の決戦存在たる人魔の規格外を戦場に投入する。
  それはラインボルトの怒りの表明だ。
  交渉の手すら振り払った火事場泥棒にはこれまでの暗黙の了解は適用されない。
  これはロゼフに対してのみの宣言ではない。内乱中にラインボルトに土足で踏み込んできたラディウス、エイリアに対するものでもある。
  再び煉獄がこの世に産み落とされた。
  消滅するその時まで暴威を振りまき続ける存在が二つとなった。
  予定では街道上にある四つの陣地全てにあの炎が出現することになっている。
「閣下、差し出がましいことですが、敵が降伏の使者をこちらに派遣した際には」
「分かっている。その時点で大将軍閣下に攻撃中止を要請する。敵がそのまま籠城を続ける場合はロゼフ方面軍に道を譲り、我々は包囲と監視を続ける」
  果たして、三つ目の陣地がゲームニスによって破壊された直後、フト山に篭もるロゼフ軍から降伏を告げる使者が到着した。バーフェルは安堵とともにこれを受諾。
  西部陣地群の戦いはゲームニスの手によって文字通り焼き払われたのであった。
  バーフェル将軍率いる第八軍は兵を半分に分け、生存者の救出と捕虜の後送を行わせ、自身は残りを率いてワルタ市に向け進軍を開始したのであった。

 ワルタ市は極度の緊張の中にあった。
  我が物顔で市街を闊歩していた多数のロゼフ兵たちが出陣をして行ったことで、ワルタ市内での力関係が市民側に優位となっていた。
  故に留守居役を務めるディーズ将軍は配下の将兵たちに粗暴な振る舞いを固く禁じた。
  もし、何か市民たちにとって不利益となる事態が起きれば、ワルタ市は留守居役の将兵たちにとって地獄と化す。
  万一の時にはこの街を焼き払う決意を固めているディーズではあったが、それは彼自身の手で行わなければならない。市民たちにそれを委ねるつもりは毛頭無い。
  貴族たるものが市井の者どもに追い払われることはあってはならない。
  だから、彼はトナム将軍率いるロゼフ軍本隊を見送った後、留守居役に選ばれた者たちを全て集めて訓示をした。
  彼はくどくどしい言葉を口にすることはなかった。
  ただ全員の前で幾人かの男の首を切り落としただけだ。
  ワルタ市民に対して乱暴狼藉を行い、余りにも目に余るため謹慎処分となっていた者たちだ。
  集まった将兵たちは絶句した。
  ディーズが首を刎ねた者の中には有力貴族の子弟が含まれていたのだ。
「我々の役目はワルタ市の治安維持だ。軍規に反する者は厳正に処断する。以上だ。全員任務に戻れ」
  これは将兵たちに対する見せしめであると同時にワルタ市民たちへの威嚇だ。
  治安を乱す者もまたこうなるのだぞ、と。
  トマム将軍らが出陣してから三日、市内は平穏無事に時間が流れている。
  ディーズに対する恐怖が市内を統制していた。
  有力貴族の子弟たちは市民に対する粗暴は鳴りを潜めた。
  その代わりに彼らは、更迭された腹いせにディーズ将軍は合法的に八つ当たりできる相手を探している、と噂し合っていた。
  真意は異なるが、罪人の斬首は概ね彼が望んだ効果をもたらした。
「街の雰囲気から察するに市民たちは待ちの体勢を取ることにしたようです」
  報告に現れた副官にディーズは頷いた。
「食糧その他の配給についても滞りなく進められています。むしろ、以前よりも騒動が起きなくなったほどです」
「ラインボルト軍への信用が大きいということだろう。……なんともいえん気分になるな。ワルタ地方は我々にとっては奪還だが、この地に住む者にとって我々は解放者ではなく侵略者なのだな。ままならんものだ」
「閣下……」
「報告を続けてくれ」
「はっ。先日処刑した軍規違反者の遺体の後送手続きが終了しました。また、当地で提供された物品も一緒に後送しています」
  副官がいう物品とはワルタ市で徴収した宝石、貴金属や美術品の換金性の高い物品だ。
  公共物から市民まで幅広く集めたもの。これらを本国で換金し、戦費の足しにするのだ。
「それに対して送られてくる食糧などは変わらず不安定なものです。輸送担当者の愚痴を耳にしましたが、次々と荷駄が潰れて今では人足に背負わせて間に合わせているそうです。それも早晩破綻する見込みだとか」
  ワルタ市とロゼフ本国との間には整備された交易路がある。しかし、それらはロゼフ軍の侵攻に際して撤退するラインボルト側の国境守備隊が道路や橋、駅などを破壊していったのだ。そのため、交通路としての機能が著しく弱体化してしまっていた。
  本来であればこれらの機能を強化拡張せねばならなかったのだが、本国がワルタ地方の早急に制圧することを求めていたこと、派遣されたロゼフ軍は各所に砦などの防御施設を建設することを優先してきたため、後回しにされ続けてきたのだ。
  ワルタ地方は進軍してきたロゼフ軍を維持できるだけの体力を持ち合わせていたことも兵站線の構築を後回しにさせた要因でもあった。
  現地徴発に頼りすぎたツケが今になって現れていた。
  しかし、この点においてディーズにも反論がある。
  自前の兵站線のみで戦争が出来る国がどこにあるのだ、と。
  それなりに本国から物資を運び込めているだけでも誇ることが出来る。
  二つも大軍を動かせるラインボルトがおかしいのだ。
  そして、そんな大国相手に今も争い続けている本国もどうかしている。
  名誉ある撤退ができるよう交渉を進めておけばよかったのだ。
  喉奥まで出掛かった感情を強引に飲み下した。
「少し休憩にしよう。……君も付き合え」
  立ち上がるとディーズは背後の棚に収納していた酒瓶とグラス二つを取り出した。
  琥珀色の酒をグラスに注いで一つを副官の前に差し出す。
  ヴィマイレン二十一年。出陣祝いにと友人が贈ってくれた一本だ。
「ありがとうございます、閣下」
  グラスの底を濡らす程度の量だ。これだけでも香りと味を楽しむことが出来る。
  お互いに吐息を漏らす。これだけでも気分転換になる。
  腹蔵で渦巻いている感情を宥めてくれるぐらいの効果はあった。
  葉巻を吸う時間ぐらいはある。
  ディーズが引き出しを開くとほぼ同時に激しくノック音が響いた。
「何事だ!」
  副官の怒声に負けぬ切羽詰まった声が還ってきた。
「緊急事態です」
「入れ!」
  ディーズの許しを得て兵が飛び込んできた。
「し、失礼します。北の空に竜の姿を確認しました! 援軍です。援軍が来ました!」

 戦場は再び東部へと戻る。
  トナム将軍率いるロゼフ軍が一時撤退したことを機に両軍は部隊の再編成と休養に全力を傾けていた。
  ホワイティアは陣地の崩された箇所の補修を命じ、兵たちは土嚢を担いで陣地内を勇躍する。泥まみれの酷い有様だが、多くの者の表情は明るい。
  自分たちが受けた被害よりも敵の出血が圧倒的に多いため、優越感が兵たちを昂揚させていたのだ。自らの労苦が勝利へと結実していく様が士気を上げていた。
「現在の所、陣地の補修に問題はありません。左右、中央ともに補いは付いています。
ビオス将軍が目を配ってくれているようで資材の消費は予定内に納まっています。しかし、長期の籠城となれば些か心許ないようです」
  上がってきた報告書を簡単に纏めたメモ帳を見ながらファインズは応じた。
  大部分は土嚢を積むことで補いが付くか、木材については貯蓄分が少ないため、新たに柵を作るのではなく破壊されたものから使えるものを選び出して作り直していた。
「兵の損耗については事前の予想を下回っています。負傷者の後送はもちろん、現場は陣地を上手に使ってくれているようです」
  参謀長の報告にホワイティアは頷き、簡単な感想を口にした。
「敵の出血は喜ばしいことだけれど、初手から力押しをしてきたわね」
  初めてぶつかる城砦を相手にする時は軽く探りを入れるものだ。
  見た目通りの防御力があるのか、反撃はどの程度なのか、籠城側が気付いていない弱点があるのかなどなど。
  そのようなことをせずに初手から全力と思わせる攻撃に出てきた。
  それは命令もなく後退しようとした兵たちを見せしめに殺して見せたことからも明らかだ。ホワイティアが見たところ、督戦せねばならないほどロゼフ兵の士気は低くない。
  なのにそのようなことをする。不可解だとしか言いようがなかった。
「探り以外に何か目的でもあったのかしら」
  すぐに考えつくことは両翼に担当するミスラ、シェアト両将軍が扼する街道の支線を掌握し、その向こうで村落を制圧していた友軍と合流するためだが、それにしては力の入れ方が全体的に同じように見えた。
「ファインズ。両翼でも同じような感想を持ってるのかしら」
「そのようです。初手から想定以上の攻勢を受けたせいで敵兵の死骸で壕が埋まりそうだとか」
  そこに参謀が一人駆け寄ってきた。
「失礼します。両翼と本陣で無視できない報告が上がりました」
「なんだ」
「先ほどの攻勢の隙を突かれて工作員の侵入を許してしまいました」
  そう言って参謀はホワイティアたちの前に紙包みを差し出した。
「発見した場所は井戸の近く。毒を投げ込もうとしていたのではないかと」
「その工作員は岩窟族?」
「いえ。獣人系種族が多いですが特定の種族という訳ではありません」
  ロゼフは岩窟族が支配種族だが、それ以外の種族も少数いる。
「頭が痛いことになったわね。わかりました。第二、第六軍司令部に伝令。すぐに全ての井戸を調査。それと警備体制の見直しをしなさい。これ以降、許可無く井戸に近づいた者は捕縛、警告に従わない場合は斬り殺しなさい」
「了解しました」
  パンッ、とホワイティアは掌を打ち付けた。
「急ぎなさい」
「厄介なことだ。敵にとっては一度きりの挑戦でも、こちらは今後警戒を続けなければならなくなりました。もし陣地群のどこかで爆発騒ぎが起きてしまったら」
  と、憂鬱そうにファインズは言った。
「あり得ない話と笑い飛ばせないわね」
  ホワイティアは眉間を揉みながら呟いた。
  ……どう対処したら良いものか。
  唐突に赤ん坊だった頃の娘のことを思い出した。
  娘は産まれた頃から非常に元気でハイハイを覚えた頃には良く椅子や壁に頭をぶつけて泣いていたものだ。当時は夫とともに何かにつけて泣く娘を相手にてんてこ舞いであった。
  優しく諭しても動き回ることも、おむつを汚すことも止められない。
  世の中には事後にしか対処できないことが幾らでもある。
「参謀長。大隊長以上の全指揮官に伝達。工作員が侵入した形跡アリ。方面軍司令部は対応を始めているが、工作員が破壊活動を実施した際には現場判断にて速やかに処理すべし」
「了解いたしました。すぐに手配します」
  参謀長に否はなかった。ホワイティアが言いたいことを察したのだろう。
  事前に何かが起こると分かっていれば、万一の時でも迅速に対応できる。
  視線を敵陣へと向ける。
  色とりどりの刺繍が施された軍規が居並んでいる。
  美々しく、勇壮だ。輝かしいそれは彼らが背負っているものを表現していると言って良い。戦とは神聖なる儀式だ。自己の未来に大きな影響をもたらす偉大なる行い。
  そのような錯覚を見る者に感じさせる。
  両翼は魚鱗、中央は鋒矢の形で陣形を組み始めている。
  数時間後には布陣を済ませ、昼過ぎには総攻撃が開始されるだろう、とホワイティアは見積もった。
  幾つもの横隊を三角形の形に並べる魚鱗は堅牢であり、隣の横隊と比較的距離が近いこともあって部隊内での情報伝達が容易な陣形だ。貴族の手勢を活用する国では家ごとに横隊を作ることができることもあって、何かと都合が良い。
  鋒矢は矢のような形をした陣形であり、突破力に秀でている。
  ホワイティアの前にある長卓の上に地図が広げられ、そこには敵味方の布陣が描かれている。一目で全体の動きを把握することができるようになっている。
  鏃の部分を重装歩兵たちが務め、その後ろに弓兵と魔導兵を守っている。
  矢柄の部分には軽装の歩兵たちが続いている。
  敵は街道の打通を狙っている。騎兵集団を鋒矢陣の後ろに控えさせていることが証拠だ。
  だが……。
「敵の鋒矢陣、おかしくないか?」
「……確かに。そもそも鋒矢陣で壕と土塁で固めた陣地を突破するなんて無謀も良いところだ」
  と、参謀たちも討議をしているが結論が出ていないようだ。
  街道を打通したければ壕を飛び、土塁を乗り越えられる身軽な兵である方が望ましい。
  しかし、敵の鋒矢の鏃には鈍重な重装歩兵が置かれている。
  あれは野戦にて敵を押し潰すことに秀でた兵たちだ。攻城戦に使うのならば、城門を開けた後になる。
「誰かロゼフ軍の武装に詳しい人はいるかしら」
「では、自分が」
  近くにいた参謀が挙手をした。
「頼むわ」
「敵重装歩兵は基本的に魔軍や近衛が用いている鎧と同じ対魔法能力を備えています。しかし、我が軍で用いるそれらの鎧は対魔法能力はある程度で抑えて、重量軽減の魔法が機能するようにしています」
  ラインボルト軍はこの守りの不足分を防御魔法で補っているのだ。
  内乱時、近衛騎団で用いている鎧を纏おうとしてアスナは殆ど身動きできなかった。
  重量軽減魔法を使わねばならないほどに重いのだ。
「しかし、ロゼフ軍の鎧は重量軽減は一切考慮されていません。これは岩窟族の種族特性、つまり肉体の頑健さがあるからこそ実現できることです」
「つまり、彼らは移動する城壁だとみなせる訳ね」
  正面を気にしないで済む分だけ魔導兵たちは後方に厚く防御魔法を展開できる。
「魔導兵に関してはどう?」
「種族の特性として攻撃的な魔法は不得手なので我が軍の魔導兵を基準として考えると幾らか劣ります。反面、創作的な面では非常に優れているようです。どちらかと言えば工兵向きなのかもしれません」
  この陣地群を作るために魔導兵を随分と活用している。
  その点に着目するならば壕や土塁は多少の足止め異常の意味を成さないかもしれない。
「そうよね。先の戦争以来、ロゼフは対ラインボルト戦術を考え続けてきたはず。あれがそうだと考えて良さそうね」
  ロゼフは山がちであり、山間の距離が非常に狭い土地が多い。
  進軍してきた敵軍を有利な土地に引き寄せて、押し潰す。
  ……私ならどう使うかしらね。
  もし、鋒矢陣を戦場の蓋にし少しずつ後退を続ける。十分に対戦相手の隊列が乱れたところを道の両側から一斉に矢で射かける。贅沢が言えるのであれば、敵の後方にも兵を配置したい。そうすれば、あとは好きなだけ押し潰すことができる。
  しかし、そうなるとなぜロゼフ軍は東部陣地群でそれを行わなかったのだろうか。
  ここはそれが出来る土地柄だ。堅固な陣地を建てずにこれを行えば良かったのに。
  ホワイティアとしても敵の意図が分かっていてもワルタ市を取らねばならない以上、戦わねばならなかった。
  何かしら敵の思惑を気付かぬ内に潰してしまったのか、それとも出し惜しみした結果か。
「シグル副将にいま話したことを伝えて。注意をするように。何かしら思いつくことがあれば出来る限り支援する、とね」
「了解しました」
  考えたところで分からない以上はどうしようもない。
  先ほどの工作員の件もそうだ。
  世の中、事前に解決出来ない問題なんて幾らでもあるのだ。

 陽が空の一番高いところで輝いている。
  周囲を見回せば濃い緑が眩しいほどに茂っている。この情景にトナムは自分の領地を思い出した。随分と帰郷していないが今はどうなっているのか。
  遠くに見える濃緑の山々。平野に広がる金色の畑。行き交う領民の姿。
  そういったものが目を閉じればありありと思い浮かべることがdけいる。
  この戦いに勝利したとしても、まだ国に戻ることは難しいだろう。
「トナム将軍。布陣、終了いたしました。そろそろ予定時間になります」
  うむ、と彼は大きく頷いた。
  先の攻撃で工作員を敵陣地の中に潜入させることに成功した。
  ロゼフ軍が陣地群を作った際に用意した隠し通路を使わせたため侵入は比較的容易だったはずだ。
  工作員の選定にも気を遣った。ロゼフ国内に少数だが住んでいる獣人系種族を使ったのだ。ロゼフにて庇護を与える対価として他国の間諜として重用してきた者たちだ。
  彼らは無事、井戸に毒を投げ入れられただろうか。
  潜入成功の報せを受けて以降、彼らがどうなったのかトナムの耳には入っていない。
  なぜなら彼らは敵陣地に侵入したことですでに課せられた役目を果たしている。
  毒を入れられたのであればそれでよし、入れられなくても敵に工作員の捜索という負担を強いることができる。
  ロゼフ軍が工作員を入れたのは一度だけ。しかし、ラインボルト軍はこの戦いが終わるまで工作員が潜入していることを前提に行動せねばならない。
  トナムは長く鼻から息を吐いた。髭を乱暴にしごく。
  出来ることならばもう少し対峙する時間が欲しかった。
  そうすれば井戸に毒を投げ込ませるなどという無茶をさせずに済んだ。
  ラインボルト兵に疲れが見えたところで、何かしら噂を流して兵の間で疑心暗鬼を生じさせることができたかもしれない。食料庫に火を付けさせても良いだろう。
  しかし、それらの手段は本国よりの命令によって使えない札と化してしまった。
  早急に戦果を挙げろ。それに従うために拙速な攻城戦を始めねばならない。
  トナムは右手を高々と掲げた。
「総攻撃を開始せよ」
  彼の決断を示すように勢いよく振り下ろした。

 突撃開始を意味するラッパが戦場に響き渡る。
  それは胸振るわせるほどに勇壮である一方、死に行く男たちを迎える冥府からの楽曲のようにも聞こえる。もの悲しさなどどこにもない。
  戦果を掲げた者を勇者と称するならば、死した男たちもまた英霊と讃えられるのだ。
  何ほどの違いがあるのか。
  楽曲の終了とともに男たちが大きく一歩を踏み出した。
  歩みは着実に、臆病者であろうと周囲の戦友たちに引っ張られて前進する。
  誰かが叫んだ。
「お前たちは前回見事に生き残った! だから、今回も生き残れる。すでに軍神の加護を得た。安心して突き進め!」
  どこにそんな根拠がある。叫び出したい気持ちを押し殺し、男たちは何処の誰だか分からない人物の言葉に縋った。
  我こそ英雄。富と名誉は戦場に埋まっている。掘り起こすことは岩窟族の得意とするところ。必ずや巨万の富を我が手に。
  その彼らの頭上に空が落ちてきた。
  黒雲と評する他ない密度の矢が降ってきたのだ。
  即死した者、不幸にも重傷で済んでしまった者たちを目にして多くの兵たちは恐怖に戦くと同時に自分に空が落ちてこなかったことを神に感謝した。心の底から。
  再び矢で作られた天蓋が落ちてくる前に土塁に取り付かねばならない。
  ロゼフ兵たちは駆ける。安全な場所は陣地の向こうにしかないのだ。
  しかし、彼らの希望を焼き払う劫火が降り注いでくる。
  数々の魔法が男たちの肉体を引き裂き、焼いていく。
  戦場に漂い始めた匂いに食欲を刺激された者が胃の内容物を噴き出し駆けていく。

 ラインボルト軍の左翼陣地を任されているミスラ将軍はこの情景を黙然と眺めている。
  あの会議室にて威勢の良い啖呵を切った人物と同一とは思えないほどに表情がない。
  現在、彼女の脳内を満たしているのはこちらが消費した矢の数量とそれによって打ち倒した敵兵の人数だけであった。
  ……やっぱり岩窟族は頑健ね。あれだけ放ったのに思ったよりも倒れた者が少ない。
  普段、情が深いことで知られる彼女だが、実際に戦場にある時は物事を数字として捉える癖が付いていた。
  敵の応射も始まっている。しかし、こちらは土塁と塀を盾に出来る分だけ有利だ。
  それでも手持ちの矢の数には限界がある。矢を撃ち尽くしたか、ある程度敵が接近したら後退しろと命じている。そして、その通りに麾下部隊が整然と後退をし始める。
  訓練らしい訓練をしてやれなかったが、健気な彼女の兵たちはミスラが思い描いていた通りに動いている。
  陣地など所詮は道具の一つでしかない。如何に多くの時間と出血を相手から奪えるか、そして奪い取った敵の損失を自分たちの勝利へと如何に貢献させるれば良いか。
  それを考えることこそが将軍の最大の役割であると彼女は信じている。
  そうでなければ、部下たちの死はもちろん、彼女たちの勝利のために散った敵兵までもが無駄死にとなってしまう。
  敵兵もまた、ラインボルトの勝利と栄光の礎となってくれているのだ。
  その一方でロゼフ側から魔法による攻撃がないことが気になっている。
  ホワイティアが気に掛けていた通り、ロゼフ軍が攻撃の主軸を街道の打通に置いているのだろう。状況が許せば、シグル副将を支援しようと思った。
  今のところ特筆すべき事態は起きていない。至極一般的な城攻めだ。
  大きく想定を外すことなく戦いは進んでいる。敵に損耗させ、部下たちの損失を少なく進められている。全く問題はない。

 将軍の地位にある者と実際に武器を手にして戦う兵とは見ているものが違う。
  ミスラの配下である第六軍の将兵たちは勇戦奮闘していた。
  彼らの目にはロゼフ兵たちは恐ろしいほどの戦意に充ち満ちており、空を黒く染め上げるほどの矢を放って尚、突撃を止めぬ姿に恐怖を覚えていた。
  さすがラインボルトに攻め込んだロゼフ軍中核を担う者たちだ、と。
  これまでのように一突きしてやれば崩れ始める貴族たちとは違う。国軍、貴族軍に関係なく特に勇猛な者たちなのだろう。
  侮りをもって戦えば彼らが持つ槍の穂先に襲われることになる。
  ラインボルト兵たちは恐怖に顔を引きつらせながら、矢を放っていた。
  前回は第一陣のみで敵の進軍を抑え込めた。
  しかし、今は前回以上の兵力で押し込んできている。
  第一陣を預かる指揮官の判断は迅速であった。
「後退! こうたーい!!」
  指揮官の声に応じて兵たちは一斉に動き始める。
  ミスラが陣地の維持に拘泥しない司令官であったことは兵たちにとって幸福であった。
  迅速に安全な場所へと、戦友たちが守りを固めている場所へと。
  彼らの動きに澱みはない。些細な失敗が自分の生死を決めるのだ。誰もが皆、真剣だ。
  弓だけでなく、残った矢も落とさずに次の陣地へと持って行かねばならない。
  彼らが配置された場所は所謂、前衛第一陣地だ。本体となる山城を取り囲むように壕と土塁が二重に作られている。城外への出入り口には凹型の馬出が用意されている。 
  これは敵の進入路を小さくするだけでなく、逆襲時の拠点にも出来る。
  また陣の内部も土塁で区切られ、敵の移動を難しくしている。
  ラインボルト兵の移動は現場の判断に委ねられていることもあって混乱は少ない。対してロゼフ兵は前進し、目の前の土塁を乗り越える事のみを意識していたため、突入と同時に障害物を目にして混乱に陥った。右往左往する間に瞬く間に渋滞してしまう。
  その結果、少なからず圧死する兵が出たほどだ。
「トリクロ家は右に、ルートン家は左に向かってくれ」
  と、陣地への突入を果たした貴族の若者が交通整理を開始すると混乱は減少し、兵たちは新たな目標を得た獣の如く突撃を再開した。
  ロゼフ兵たちは悪罵そのもの叱咤を下士官たちから受けて前進を続ける。
  陸続と侵入を果たすロゼフ兵たちは行く手を遮る土塁の入り口を求めて前進を続ける。
  その様子をラインボルト兵たちは固唾を飲んで見守る。
  眼前を通り過ぎていく敵兵は土石流を彷彿とさせる。殺気を撒き散らし、何もかもを飲み込んでしまいそうだ。
  掌に滲む汗を何度も拭って攻撃命令を待つ。
  攻撃開始を命じるラッパが鳴り響く。兵たちの何人かは両隣に並んだ戦友と頷き合う。
「構えぇぇ〜!」
  弓弦が軋む音が聞こえる。それがこれまでの恐怖を我慢していた自分の軋みに思える。
  引き絞られた弓に番えた矢はラインボルト兵たちの恐怖であり戦意そのものだ。
「放て!!」
  上官の命令が発せられた。指を離すと矢は真っ直ぐに黒山の人集りとなったロゼフ兵たちの中に飛び込んでいく。自分が放った矢を確認することなく彼らは第二矢を用意する。
  続けて放たれる矢に襲われたロゼフ兵たちは身を隠す場所もなければ、逃げ出すことも出来ずに射殺されていく。中には戦死した仲間の死骸を盾にする者もいるが、矢は死体ごとその兵を射貫いた。
  矢が放たれる度にロゼフ兵の魂が霧消していく。
  雑兵に折り重なるようにして煌びやかな鎧を纏った者も倒れていく。
  血の海に沈んだ者に貴賤はない。これ以上の証明はない光景だろう。
「これより前衛第一陣地を取り戻す。突撃ィ!」
  虎口から槍を手にしたラインボルト兵たちがロゼフ兵たちを押し出していく。
  ラインボルトという国家が有する多様性を示すように種族に統一感がない。
  獣の咆吼、人の雄叫び、その他数多くの種族の戦声が響き渡る。
  それは左翼陣地のみではなく、右翼においても同様であった。
「反撃だ! 遅れるな!!」
  呪文というものがある。
  それは内的、もしくは外的に存在する魔力に対して方向性を定める力ある言葉。
  その歴史を遡れば、至極単純な音に辿り着く。叫びだ。
  故に戦意に満ちた咆吼は周囲の魔力に強い意思を伝える。
「前進! 前へ進め!!」
  力を、我らに強大なる力を。戦場を制する偉大なる力よ、我が身に宿れ、と。
  槍の穂先で突き刺し、或いは叩き伏せ、壕の底へと突き落とす。
  ロゼフ兵も槍を振るい応戦する。先陣を任されるだけあって勇戦敢闘の言葉に偽りなし。
  戦場には流れというものがある。ロゼフ軍が主導していた流れは前衛陣地によって堰き止められた。波と同じだ。押し寄せる時よりも遙かに大きな力で押し戻される。
  侵入し難いということは脱出も困難だということでもある。
  狭い虎口を抜けて逃げようとする者とそこから突撃しようとする者たちが衝突をする。
  前衛第一陣地はロゼフ兵にとって殺し間と化した。
  頭上からは矢が降り注ぎ、行く先にはラインボルト兵が槍を構えて襲いかかってくる。
  後方は渋滞を起こし逃げることも出来ない。
  まだ、前線にてラインボルト兵と槍を交わせる者は幸せだったかもしれない。
  身動きできぬまま戦友に押し潰されて圧死してしまった者も多数いたのだから。
  このまま押し返せと気炎をあげるラインボルト兵から唐突に勢いが消え失せてしまった。
  彼らを見下ろす巨大な存在が立ち上がったのだ。

 その巨人はロゼフ軍中央、鋒矢陣の中から現れた。
  まず腕が現れ、地面を掴んだ。その後、まるで初めから身体を丸めて埋まっていたかのように身体を地面の中から引っ張り出した。
  大地の巨人には頭がない。
  その代わりであるかのように頭を据える場所に花が咲いていた。
  周囲に砂埃や砂礫を撒き散らしながら立ち上がる。
  巨人の足下にいた重装歩兵たちが濃い影の中に隠れてしまっていた。
  その威容にロゼフ兵たちは歓声を上げる。再び盛り返した兵たちの戦意に応えるように大地の巨人は両腕を動かした。自らの動作を確認しただけなのだろうが、それでも兵たちにとって大いなる心の拠り所となる。勝利を掴み取れるのだ、と。
「……ふんっ」
  山が立ち上がったと思わせるような巨人を前にして男は鼻を鳴らした。
  腕を組み真正面から対峙するその男は傲慢に見えるほど堂々としていた。
「大したものだな」
  第一魔軍副将シグルは全く心の篭もらない言葉を口にした。
  実際、大きさは目を見張るものがあったがそれ以外は驚嘆すべきことはないと彼は感じていた。大きいということはそれだけで素晴らしい武器となりうるが、だからどうしたともシグルは思う。
「如何なさいますか、副将」
  幕僚長が声をかけてきた。
  ちらりと彼を見ると緊張の欠片もない笑みを口に浮かべている。また武勲を挙げる機会が出来たと喜んでいるに違いない。
  そのことをからかってやろうかと思ったが、不意に上空から羽音が舞い降りた。
  鳥系の獣人だ。本陣からの伝令だろう。
「方面軍司令官より伝令。シグル副将の判断にお任せします。お好きなように。以上です」
「了解した。ホワイティア閣下には、あの巨人は以降、竜族に準じた存在として対処する。それと第一○一実験砲兵大隊はお返しすると伝えて貰いたい」
「了解しました。失礼します」
  敬礼を交わすと伝令は再び空の人に戻った。
  空を飛ぶというのはどういう気持ちなのだろうか、と益体もないことを思った。
「これより個竜陣を布く。準備を始めろ。それとデキス大隊長を呼べ」
  命令が発せられ、第一魔軍は急ぎ動き始める。
  精鋭たる彼らの動きに澱みはなく、恐れは心の奥深いところに抑え込んでいった。
  誰もが自らに与えられた役割に従って行動する。
  さて、間に合えば良いが、と思いつつシグルは今まさに立ち上がりつつある大地の巨人を眺めていた。そこに転倒しそうな勢いで駆け込んでくるデキスが現れた。
  銃砲の指揮を執っていたのか火薬の臭いが酷く、本人も火花を浴びて火傷と煤で黒くなっている。
「第一○一実験砲兵大隊長デキス、参りました」
「ご苦労。貴官らをホワイティア閣下にお返しすることにした。即座に撤収し、閣下の本陣へと向かえ」
「しかし、敵を前にして」
  渋面と言っていい程、表情に悔しさがある。
「貴官らが所有する大砲があの巨人に通用するか未知数だ。なにより、貴官らは実験部隊。適度に戦い戦訓を持ち帰るまでが任務だ。分かったな」
「はっ」
「よろしい。即座に撤収せよ。持ち運びに時間の掛かるものはここに放棄しろ」
「了解しました。今回、陣をお貸し頂きありがとうございました」
  敬礼を交わし、デキス大隊長を見送る。
  その背中を見送ったシグルは彼を食えない男だなと思った。
  一度食い下がって見せたのは演技だろう。撤収命令を受けて内心で小躍りしているはずだ。戦訓と武勲を得られた以上、損害を被る戦いはしたくないはずだ。
  今回の反論も次に繋げるための細い糸といったところだろう。
  ちらりと後方を見ると予備兵力として待機を命じられていたオード副将の部隊が見えた。
  万が一、あの巨人にシグルが突破されても、備えがオードであれば信頼して止めを任せたと見なすことができる。こうすれば第一魔軍全体の武名を傷付けずに済む。
  わざわざシグルに報せなかったことを含めてホワイティアなりの気遣いなのだろう。
「動き出したか」
  重々しい振動音とともに大地の巨人が一歩を踏み出した。土煙を巻き上げて大きく前進を始めた。
  ロゼフ軍が布いた鋒矢陣に動きはない。いや、矢柄の部分を務めていた軽装の歩兵たち魔導兵の側面に移動して守りを固めている。
  対するこちらは準備万端とは言い難い。陣の内側では碁盤に石を置いていくかのように分隊単位での隊列が組まれていく。中央に古参兵を置き、その背後に分隊長が立つ。
  分隊長を基点として、山の字に似た隊列を組む。それが幾つも陣地内に並んでいく。
「竜を相手にすることを考えれば、何ということはないか」
「副将。第一射の準備完了です。最低限動かすことができます」
「よろしい。遅れている者は布陣を急がせろ。そろそろ攻撃を始める」
  第一歩を踏み出した巨人は土煙を巻き上げ迫ってきている。
  自らの身体を壊しながら駆けてくる。体当たりをして陣地を破壊するつもりだろう。
  それは巨大な投石だと見なして良い。手に乗る程度の大きさの石でも投げ方次第では頭蓋を割ることだってできる非常に有効な攻撃手段だ。
  両翼の陣地程度であれば、二つ三つも体当たりすれば大打撃を与えられるだろうとシグルは思う。兵たちは容易に下山することも出来ず、また組織だった行動も取れずジリジリと打ち倒されていっただろう。
  だが、この場には第一魔軍にて一翼を担う自分たちがいる。
  魔軍とはなにか? と問われれば多くの者はこう応えるだろう。
  全ての将兵が魔法を使える最精鋭部隊である、と。
  確かにそれは事実だ。しかし、彼らの真実を表すものではない。
「汝ら、その身に宿りし魔法は何の為にある」
  シグルは自らに向かって直進してくるかのように思える巨人を前にしても傲然たる態度でこう言葉を放った。拡声魔法により広まる声に応じるのは彼の部下、そして背後に控えるオードの兵たち。
『空翔る竜を叩き落とす為に!』
「汝ら、その身を鍛えし武技は何の為にある」
『墜落せし竜を両断する為に!』
「汝ら、何者なるや?」
『我が力は弱小なれど、我らは至強。我ら魔軍。竜を屠る者なり!』
  その言葉を受けてシグルは大きく右腕を振り上げた。高く掲げられた右手は指の先まで伸びている。
「砲撃用意!」
  シグルの命令と同時に各分隊の兵たちは自らの魔力を分隊長に譲渡する。
  彼らが先に口にした言葉の通りだ。個々人の魔力では竜族に多少の傷を与えるのみ。しかし、それらを一つに纏めることができれば竜を堕とす力となる。
  魔王の力によって竜を追い払い、ラインボルトという国が出来た。
  しかし、魔王のみでは手数が足りない。そこで必至に彼らは研究を続けた。
  一端でも構わない。竜族に対して一矢報いる力が欲しい、と。
  その末に編み出された魔法がこの合同魔法だ。
  兵たちから集めた魔力は分隊長によって破壊の力へと転換していく。それは内乱時にフォルキスやヴァイアスが振るってみせた闘気で作った巨大な剣と同質のものだ。
  だが、闘気は誰にでも扱えるものではない。分隊長たちは受け取った魔力をそれに近似させるべく調整を続ける。そして、それが今まさに完了した。
「放て!」
  シグルは勢いよく右腕を振り下ろした。彼の鋭く揃えられた手指の先には大地の巨人がいる。
  各分隊長は自分の前に陣取る兵に練り上げた破壊の力に転化した魔力を譲渡する。
  すでに準備を整えていた砲撃担当の兵たちは無言のままに両手を敵に向けてそれを放つ。
  現れたのは巨大な杭だ。乳白色に輝く杭が空を切り直進する。その数、八。
  全てが命中し、巨人の四肢や胴体を貫く。完全な状態ですら動けば自壊する巨人は次の一歩を踏み締めることは出来なかった。巨人は人の形を失い土塊や石へと還っていく。
  巨人を刺し貫いた杭は地面に突き刺さり、消えることはない。
  回復力が異常に高い竜に傷を負わせ続けるための魔法だ。消失までに時間が掛かるのだ。
  一瞬の間の後に瀑布のような歓声が街道を挟む二つの山から落ちてきた。

 安堵とともにホワイティアは眼下での決着を見ていた。
  街道の打通を狙っていた敵の意図はこれで崩れただろう。
  あの大地の巨人では押し通ることは出来ないと証明された。圧倒的存在感を戦場に示し、ホワイティア自身も対処法が思いつかず、シグルに丸投げせねばならなかった。
  出来たことと言えば、オードを備えに回す命令を出したことぐらいだ。
「参謀長、オード副将に両翼に巨人対策の支援をするように命じなさい。ミスラ、シェアト両将軍には受け入れの準備を始めさせなさい。それと巨人対策以外での使用は禁じます」
  そう命じると気持ちが切り替わる。
  状況が変わった。戦場の流れを取り戻したのだと自分に言い聞かせる。
  気が付けば不快なほどに首を伝って流れる汗をハンカチで拭う。
  少し不格好な赤い花の刺繍が施されている。娘がお守りにと施してくれたものだ。
「了解しました。すぐに伝令を出します」
  頷くと彼女は前方にある敵本陣を睨んだ。
  ロゼフ軍にはもうワルタ市しか残されていない以上、戦場での出し惜しみはないはずだ。
  恐らく先の大地の巨人が彼らの切り札だったのだろう。
  もし、第一魔軍が麾下に加わっていなければ対応に苦慮しただろうし、多くの犠牲を出したに違いない。両翼のどちらかに体当たりされただけで陣地は崩され、山上の兵と前衛陣地とが分断され、組織的な抵抗が出来なくなっただろう。
  それを無力化することができた。
「ねぇ、ファインズ。あの巨人、あと何回作り出せるかしら?」
「魔導兵のことを考えるのであれば、あと二、三回。使い潰すつもりであれば五回だと思います。大地の操作に優れているとは言え、岩窟族は魔法が不得手ですから」
「となれば、もう私たちを攻めるために使わないでしょうね」
  撤退する際に用いるはずだ。
  巨人への迎撃はもちろん、残骸として残る土塊を回避しながら前進せねばならない。
  再びホワイティアは両翼の陣地の様子を確認する。
  兵たちは皆、意気軒昂。再び敵を押し返し始めている。
「両翼に過度の追撃はしないように。適当なところで陣地に戻るように伝えて」
  了解しました、と伝令が飛び出していく。
「参謀長、鳥人系の種族を集めて臨時編成の部隊を作って、今から休ませて頂戴。夜中になったら敵鋒矢陣の上空から岩を落として貰います。命中させる必要はない。安眠妨害させるだけで十分よ」
「他にもご命令はありますか」
「そうね……追撃戦の手筈を考えておいて」
  この地での戦いは勝利できる。ホワイティアはそういう感触を得た。
  あとはロゼフ側がそれを受け入れるまで二、三日はかかるだろう。
  全軍と思しき大兵力を持ち出して、行ったことは攻撃二回だけ。
  これで撤退しては国内外にいるロゼフの有力者たちが指揮官を失脚させるだろう。
  彼らにはまだ兵力が多くあり、一度攻めることを決めた以上、何らかの戦果を挙げないない限りワルタ市には引き返せないだろう。
  ここで敵を拘束することが目的でもあるホワイティアにとってはありがたいことだった。

 ワルタ市に竜の咆吼が響き渡る。
  この都市に住まう者たちは身を震わせて素早く家屋へと逃げ戻っていく。
  街々の建物よりも遙かに巨大な体躯。それらを空へと舞い上がらせ、力強く前進させる巨大な翼。竜顔がワルタ市を睥睨している。
  ついに竜がやってきた。ワルタ市に昔から住んでいる者たちは顔を青ざめさせ家人と視線で語り合った。小声で話してさえ、あの巨竜の耳に届いてしまうのではないか。
  息を潜めて自分と家族の無事を祈るしかなかった。
  空を飛ぶの周囲を幾つもの翼ある者たちが取り巻いている。鳥人系の種族だ。
  それらは幾つもの円を描いて徐々に高度を下げ始めている。
  円陣の数名七つ。それだけの竜がワルタ市にやってきたのだ。
  空にある時は勇壮に見えたその光景も、着陸を果たす時は石畳を吹き飛ばすほどの衝撃と揺れを周囲に与える。
  鳥人たちは飛び散る石礫や粉塵ををものともせずに道なりに飛んでいく。
  その姿をワルタ市にて留守居役を務めるディーズ将軍は畏敬の念とともに見ていた。
  ……間に合わなかったか。
  内心では忸怩たる思いだ。これでどれだけの利権を横取りされてしまうのか。
  トナム将軍らの奮闘が無駄になってしまったことの方が大事だ。
  だが現状、彼にはそれを飲み込むより他にない。
  恐らく庁舎前の広場に着陸しようとしている竜が指揮官だろう。
  ディーズは駆けながら心の内に浮かび上がる感情を飲み下す。
  それは舞い上がる砂塵のようにジャリジャリとして、とても苦い。
  後々出迎えがなっていないなどと言い掛かりをつけられぬように、彼は主立った部下たちを連れてきている。
「リーズよりの援軍、感謝申し上げます。自分はワルタ市留守居役を務めますディーズ将軍です。以後、お見知りおきを」
  果たして挨拶は聞こえたのだろうか。竜は長い首をこちらに向けて焦点を合わせた。
  そして、信じられない事態が彼を襲った。竜が前脚でディーズを部下共々薙ぎ払ったのだ。突然のことにディーズはもちろん部下たちも受け身を取ることが出来ずに横転する。
「確保!」
  続けて発せられた竜の言葉に従い、その供回りだと思われた鳥人たちがディーズたちに襲いかかる。
  ……どういうことだ!?
  彼は混乱しつつも身体は離脱を計る。しかし、受けた衝撃は大きく満足に立ち上がることすら出来ない。
  ディーズは鳥人が持つ槍の石突きに殴打され気絶してしまった。
  沈み行く意識の間際に彼が耳にしたことは信じられないことであった。
「こちらラインボルト軍ワルタ方面軍所属第六○三独立強襲戦隊。これよりワルタ市奪還作戦を実施する。市民諸氏におかれては家屋から出ず、防火に務めるよう協力を求める!」

 ロゼフ軍の攻城戦が始まってから早くも五日が経っている。
  その間、ロゼフ兵たちは奮闘をした。両翼の前衛陣地を形作る土塁を突き崩し、山中に築かれた本郭陣地へと手を掛けられるようになっていた。
  そのために払った代償は多大であった。優に二千を超える戦死者とそれを数倍する重傷者。軽傷者を含めれば全軍の半数近くが死傷したことになる。
  対するラインボルト軍側の死傷者は二千名前後。
  負傷者はすぐに後方に運ばれ、迅速な手当を受けられることもあって軽傷であれば翌日には戦線への復帰が出来ていた。
  ロゼフ軍の両翼は貴族の手勢で構成されている。つまり、兵たちは貴族の資産なのだ。
  権力と発言力の源泉となる兵たちを攻略の見込みがない戦いでこれ以上磨り減らしたくはない。誰も口にしないが、撤退時のことを考えれば身を守る兵は確保しておかねばならないというのが貴族たちの本音であった。
  配下に付けられた貴族たちからの突き上げを受けた両翼の指揮官はトナム将軍との会合を求めた。将軍自身もその必要性を感じていたため、夜更けに開催することとなった。
  集った三人とも目が若干落ち窪み、疲労が見て取れる。
  連日、夜中になると上空から岩や大きな枝が落ちてくるのだ。初日に爆炎魔法を発動させる魔導珠を投下され、負傷者を出していた。
  それ以来、落下物への警戒で満足に寝られなくなっていた。
「どうにもならんな。ラインボルト側が何かしら大きな動きを見せれば崩れるぞ。兵力消失を理由にして勝手にワルタ市に戻ろうとしても止められん」
「右翼もそうか。こちらも同じようなものだ。トナム将軍、分かりやすい戦果を見せねば士気が維持できない。本陣の方でも何かやってくれませんか」
  出血を強いられているのは彼らだ。本陣は重装歩兵、魔導兵ともに動かしていない。
  対峙しているシグル副将ら第一魔軍を拘束していると考えれば、十分に役割を果たしているといえるのだが、動かないことへの不満が出ることもまたやむを得ないことだった。
「何度か兵を前に出して挑発し、敵を陣地から引っ張り出せないか試したことがある」
  そこで言葉を切り、トナムは首を横に振った。
「連中、まったく動こうとしない。あくまでも守りに徹してこちらを削ろうとしている。末端の兵に至るまで目的が明確なのだろう。少しでも兵の損耗を抑えたい。それはつまり、本国への侵攻を考えているということだ」
  両翼の指揮官たちは唸り声を上げた。
  彼らもその指摘に同意せざるを得なかった。前衛陣地にて続けられる陣取り合戦において確かにラインボルト兵はある程度押し返すと潮が引くように撤退をするのだ。
「事ここに至っては撤退を考慮する必要があるかもしれん」
「ワルタ市で決戦か」
「いや、本国に撤退する。守りを固め敵を迎え撃つ」
「確かにその通りだ。理解はできる。できるが責任を取らされて我々の首が刎ねられるだけでは済まないぞ」
  言葉にはしないが親族含めて御家取り潰しは十分にあり得る処分だった。
  これ幸いと領地を召し上げて王家が出した戦費の足しにするつもりだろう。
  土地は不満を訴える貴族たちを黙らせる手段にも使える。
「大丈夫だ。そのための手筈は整えている。我らが勝てないと判断したとの報せを受け次第、ディーズ将軍がワルタ市を焼き払うことになっている」
「それは……つまり」
  右翼の指揮官の声が掠れている。トナムが大きく頷いた。
「狂を発したディーズ将軍が策源地であるワルタ市を焼き払ってしまった。我らはやむを得ず本国に帰還せざるを得なかった。そういうことになっている」
  三人が被ったであろう仕置きをディーズが全て引き受けることになっているのだ。
  この話を聞いた二人の指揮官は同様に安堵を露わにしたが、すぐに表情を厳しいものに改めた。彼らからは羞恥が見て取れた。
「お二人の考えを聞かせて貰いたい」
  数分の間があった。二人とも貴族として自家の兵を引き連れて参戦している。多くの兵を失い、このまま撤退すれば何のために戦ってきたのか分からなくなる。
  その一方でこの場に拘泥したとして何を得られるというのか。
「同意しよう」
「同じく。……では、早速撤退の打ち合わせを済ませておこう」
  三人は頷き合い、大まかな手順の確認をするのであった。
  翌朝、トナムは伝令にディーズへの謝罪と別離の挨拶を記した書状を託してワルタ市に向かわせた。あとは返答を待って本国へと帰還するのみだ。
  その間、トナムは敵陣地に向けて矢を射かけさせる程度の牽制を兵たちに行わせていた。
  また全軍に対して第二次総攻撃を実施する旨の通達を出し、今は身体を休めるように命じた。戦意があるかのように振る舞っておかねばならないからだ。
  トナムの見積もりでは伝令の帰還は夜中だ。
  両軍から昼食の炊煙が空に舞う頃、三羽の大鳥がロゼフ軍本陣の上空を大きく円を描くように舞った。そして、その大鳥はトナムにとって最悪の報せをもたらす凶鳥であった。
「こちらラインボルト軍第六○三独立強襲戦隊。ワルタ市の奪還に成功。敵司令官ディーズ将軍麾下全ての将兵を捕虜とした。市庁舎に掲げられていたロゼフ国旗をロゼフ軍当地司令官に返還する」
「なっ!?」
  トナムはそれ以上の言葉を発することができなかった。
  東部陣地群が突破された。あちらにも強固な陣地を建設していた。
  兵も多く援軍に向かわせていたはずだ。突破されるはずがない。
「虚報だ!」
  誰かがそう叫んだ。
  信じがたい事実は、しかし上空にてはためく巨大なロゼフ国旗が否定した。
  大鳥は足に掴んだロゼフ国旗を見せ付けるように一回りすると本陣近くで放した。
  落下した国旗を前にして殆どの者が動けずにいた。ただ近隣の者たちと不要な議論を始めるのみ。具体的な行動が出来たのはすでに撤退を企図していたトナムだけだ。
「遺憾ながらワルタ市陥落は事実のようだ。我々はこれより本国に撤退をする。両翼にその旨を伝えろ! 国旗の回収を忘れるな」
「し、しかし閣下!」
「重装歩兵、魔導兵の両隊は後詰めのブロム隊と合流。ヴィレン隊長の指揮に従い先遣隊として本国への道を付けろ。重装歩兵は装備の放棄を許可する」
  重すぎるため、迅速な運搬が困難だからだ。
「残りは私とともに両翼の撤退支援を行う! 敵はすぐに追撃戦を仕掛けてくるぞ」
  急げ!とトナムの叱咤が飛ぶ。ラインボルト側の陣地を見る。山を振るわせるほどの歓声と砂煙が舞い上がっている様が見える。すでに追撃戦の開始が命じられているようだ。
「急げ!」
  その後、ワルタ地方で展開された戦いは凄惨を極めた。
  ロゼフ軍が国境を越えるまでの間、ラインボルト軍は徹底した攻撃を加え続けた。
  戦史の常として撤退戦は多大な犠牲を払わねばならない。
  ラインボルト軍との交戦だけではなく、遭難や自暴自棄からくる自殺など様々な理由によりロゼフ軍の将兵たちは命を落としていった。
  ロゼフ軍が撤退に使った道は血で赤く染まり、川のようであったと言われ、再び祖国の地を踏むことが出来た者は全体の五分の一にも満たなかったという。
  これによりワルタ地方を巡る戦いに一応の区切りが付いたのであった。

 



《Back》 《目次》 《Next》
《Top》