第五章

第一話 ロゼフ侵攻開始

 ラインボルト軍大勝利。ワルタ地方の奪還に成功。ロゼフ軍は壊乱し、本国に向けて遁走などなど首都エグゼリスを初めとする諸都市では戦勝の情報で賑わった。
  街路には篝火が焚かれ、飲み屋では様々な住人たちが楽しげに酒を酌み交わしていた。
  商店は店先に出店を出し、女性たちは美々しく着飾り祝いの雰囲気を大いに盛り立てる。
  祝賀であった。
  戦場から遠く離れた場所にいる彼らにとって、この報せは長く続いた重苦しい不安という名の暗雲が消え去り、雲間から光が差し込んできたように感じられたのだ。
  彼らの表情は皆、一様に明るい。皆、赤ら顔でアスナの名とともに歓呼の声を上げていた。これまでラインボルト全土を覆っていた自粛の雰囲気を吹き消してしまった。
  エグゼリスにおいてはその華やかさはより一層の煌めきを持っていた。
  狂騒に近いまでの歓呼で満ちあふれ、誰が始めたのか現在では史跡として一般公開されている現在の王城以前に使用されていた旧王城や王墓周辺を花で飾った。
  旧城の城主オルフィオや王墓院のトレハが住民たちが暴走せぬように調整をしつつ、彼らの喜びの表現を手伝っていた。
  その中を丈の長い紺地のコートに鍔広帽を被った人物が人並みを掻き分けて歩いていく。
  性別は分からない。白磁の仮面を被っているからだ。
  長身と硬い印象を与える体格から男性ではないかと推測できた。
  それでも楽しげな雰囲気は伝わってくる。聞こえてくる往来の声に耳を傾けながら先へと進む。
「そういやお城の方からの祝い酒はないのか?」
「ないない。そういうのは勝った後だ」
  赤ら顔の男二人がそんなことを話している。
「ワルタでロゼフのヤツらを蹴散らしたんじゃないのか?」
「蹴散らしただけで、戦争にはまだ勝ってねーよ」
  長身の男に小太りの男が答えた。
「それに南ではラディウスの連中が居座ってるらしいし。まだまだ大変だよなぁ」
「なぁんだ。喜んで損した」
「だったら、二件目に行くのを止めるか?」
「まさか。行くに決まってるだろ。折角、安く呑める機会を逃せるかよ」
  などと楽しげに話をしている。
  だが、これらの光景は厭戦気分の裏返しでもあった。
  内乱、対ロゼフ戦争と立て続けに武力が行使される状況は遠い場所にいても無意識の緊張を国民に強いる。そして、長期間の緊張に耐えられる者はそう多くはない。
  ロゼフ本国に攻め込め、という声もあるが、それ以上に早く頭を下げに来いという意見の方が大きかったのだ。
  そういった雰囲気を肌で感じつつ鍔広帽の人物は歩みを進める。
  て久しぶりのエグゼリスだ。記憶の中にある首都の姿との違いを振り返りつつ往来を行く。彼の記憶にある最後のエグゼリスの姿は陰鬱としている。
  王が病に伏せ、後継者が定まらないまま崩御してしまった。未来に対する重苦しいほどの不安がラインボルト全土を覆っていた。
  建国以来、次代を担う王が不在となる時代が訪れるのだ。北のリーズと南のラディウスは常にラインボルトを狙い虎視眈々としている。
  事実、ラディウスは国境の地であるラメルに、ロゼフはワルタ地方に居座り続けていた。
  挙げ句の果てに内乱まで起こる始末だ。
「ボルティス公、ご無沙汰しております」
  声に振り返ると、見知った男がいた。彼は色とりどりの端布を縫い合わせて作った衣服に身を纏い。長い髪を三つ編みとしてその中に金糸や銀糸を編み込んでいた。
  道化師、もしくは羽振りの良い大店の馬鹿息子といった風体だ。
「少しばかりお時間を頂戴できませんか?」
「よかろう。丁度、お前の顔を見て興が削がれたところだ」
「これは申し訳なく。では、こちらへ」
  しかし、道化た男は悪びれた風もなく肩をすくめて見せた。髪に編み込んだ煌びやかな糸を反射させるような動きで振り返って歩き始めた。
  案内された場所は小料理屋の奥座敷だ。
  通りの活況とは無縁であるかのように客の姿がない。貸し切りのようだ。
  女性店主が簡単に座を整えると言葉少なに去っていった。
  改めてまじまじと対面に座る男の風体を見てボルティスは唸り声のような吐息を漏らした。仮面を被っているが故にくぐもった音がする。
「今日は普段にもまして巫山戯た風体だな。そのLDとかいう名もそろそろ改めてはどうだ」
「さて、街の雰囲気に合わせたものですがお気に召しませんでしたか。名の方もこの国ではこれで定着しておりますし、今は亡き人族の友が付けてくれた名ですので。名で体を表せと言われまして」
「確かに……。お前のような者は名で存在を縛らねばならんか」
  二人とも卓の上に整えられた酒杯に手を出そうとはしない。
  招いたLDもヴォルティスに酒を勧める様子がない。
「お前のことを後継者殿は知っているのか?」
「知らないかと。私の方からもわざわざ教えるつもりもありませんので」
  僅かに沈黙が降りる。
「後継者殿もそれでよくお前を雇おうなどと思ったものだ。自覚があるのか。内乱を含めた一連の戦火に火を付けたのがお前だということを」
「さて、私はあくまでも雇い主であり友人でもあるフォルキスの願いを叶えうる策を提示したまでのこと」
「白々しいことを」
「確かに火種は私であると糾弾されてもやむを得ない面があるかもしれません。しかし、薪や藁を積み、油を振りかけていたのは他ならぬラインボルト自身。余所者である私は踏めば消えるほどの小さな火でしかありません」
「それを白々しいというのだ。若い士官の暴走など火花にもならなかったものをお前はフォルキスという松明にすり替えたのだぞ」
「仮にそうだとして、内乱に至るまで何もしなかった公がそれを仰いますか」
「儂もまた松明だ。火が付かぬように距離を取ったまでのことだ」
  そうは言ったが彼自身、先王の崩御の後、もう少し処方に働きかけをしておけば良かったかもしれないという後悔があった。
  喪に服し、言葉を慎んでいる間に焚き火台が出来上がってしまっていた。
「貴様と言い合っても詮無いこと。後継者殿が水を掛けて鎮火させたのだからな」
  単なる権力闘争でしかなったものがアスナの召喚を契機に次代の魔王に相応しいか否かと問う闘争へと変化した。悪くないすり替えだとボルティスは評価している。
「此度のロゼフとの戦争。ゲームニス殿やホワイティア将軍を前に出すよう仕向けたのは貴様か?」
「国軍として分け隔てなく使うとの希望でしたので助言を少しばかり」
  これはアスナ以外に出来ないことだ。
  内乱によって勝敗が決した以上、勝者に配慮せねばならない。
  しかし、王城に詰めていたがそれが通常業務である近衛騎団と、全く無関係であったアスナが圧倒的な武勲を挙げたからこそ出来ることだ。
  無論、内乱という大火を国のもたらした罪悪感もある。
  そのアスナが盾となっているから誰もLDに対する糾弾が出来ないのだ。
「……そろそろ本題に入ろうか。話とはなんだ?」
「役割分担について相談したく。私は内外の評判がありますので邪道について差配いたします。公には王道を司っていただきたい」
「やはり、姫ではダメか」
「実務面での補佐としては問題なく。しかし、指針の提示などは難しいように見えます」
  王の最大の役割とは臣下や民に明確な指針を見せることだとボルティスは考えている。
  これさえ出来れば後は臣下たちが調整などをしながら実現してくれる。
  アスナがこれまで行った方針をこの考えに沿ったものだった。
  内乱を鎮圧する。領土を奪還する。内乱での凝りを長期化させないなど明確だ。
  それに対してエルトナージュは発生した事象を繕うことに終始して、後ろにいる者たちに進む道を指し示すことができなかった。
  LDがボルティスに求めていることは王佐だ。
  王が進むべき道を指し示し、道を誤った時は叱りつける立場。王佐が得た功績は全て王のものとせねばならない。そういうある種の貧乏籤。
「宰相殿でもダメか」
「シエン殿はロゼフとの戦争の後処理が終わり、後継者が王に即位すれば職を辞すると宣言していますので」
「長期的に補佐し続けるつもりはないか。お役ご免となる時まで務めることにしよう。だが、そのことでお前が不利になる場合もあることを忘れるでないぞ」
「重々承知しております」
  LDは深く頭を下げた。
「では、儂が喪に服している間にあったことを聞かせて貰おう。敵対していたからこそ見えるものもあるだろう」
  ボルティスがLDを解放したのは翌朝、店の女将が朝の仕込みをし始めた頃であった。
  一晩質問攻めにあったにも関わらずLDは平気な顔をして去っていった。
  あれは元々そういう存在だ。相手の疲労を斟酌する必要はない。
  店の前の通りでは疎らに人が行き来している。夜番を終えて一杯飲んでから帰ろうとする職人たちやこれから仕事に向かう者たちと様々な人々が行き交っている。
  昨晩の大騒ぎが嘘であるかのような日常の顔をしている。
  この後、ボルティスは首都エグゼリスにいる知己への挨拶回りに行くことになっている。
  近況報告程度で済ませるつもりだったが、LDと話をして気が変わった。
  それこそが、LDが自分に声を掛けた理由なのだろうと思いつつ。
  首都エグゼリスに到着し魔王の後継者との面会までの三日間、ボルティスは精力的に各界各層の実力者たちと面談を行うのだった。

 その日、アスナは大きな緊張とともにいた。
  幻想界に召喚されてから初めて出会う自分よりも偉い存在だ。現生界にいた頃、家族以外で目上の人と言えば教師か友だちの親、後は祖父母の友人たちぐらいだ。
  そういった人々とアスナの関係は公的な利害関係を有しておらず、やはり祖父母や友人を通じた関係であるため、必要以上の緊張を強いられることはなかった。
  建国王リージュの子孫である葬礼院院長を務めるトレハも身分は上ではあるが、当時は内乱を終えた直後ということもあって緊張をしている余裕がなかった。
  しかし、今日会う相手は文字通り生きた伝説であり、恐らく幻想界全ての者から尊崇の念を集める相手だ。
  大公の位を有し、元老の役職にあるラインボルトにおける第二位者だ。
  ラインボルトという国家は三つの権威により成り立っている。
  魔王と龍族と機族だ。
  現在において建国王として神に近い尊崇を集めている初代魔王リージュだが、その生まれはただの村娘だ。読み書き、計算もできない彼女をただ強い力があるからというだけで王に推戴するすることはできない。
  彼女に不足する権威を与えるために龍族と機族が協力したのだ。
  龍族頭領ラインボーグ。
  機族ボルティス。
  当時から唯一竜族と対抗しうる存在として万人に知られていた龍族と様々な種族の指導層から信頼を集めていたボルティス。
  両者からの協力を得ることができたからこそリージュは建国を果たすことができたのだ。
  国が存続する限り感謝を評し、共にあろうという証としてリージュは両者の名から国号を定めた。
  ラインボルト、と。
  これから面会するボルティスはラインボルト建国以前の世界を知る人物だ。
  国史そのものと言っても良い人物なのだ。
  アスナはエルトナージュを伴ってボルティスが待つ部屋へと向かっていた。
  ここは王城の外れにあるボルティスのために用意された離宮だ。
  正装に身を固めて廊下を進む。絨毯を踏む足音は小さいがどこか硬く感じられた。
  アスナ立ちを先導する執事長ストラトが切る黒のベストにも光沢が見えない。
  舌が乾いて痛みすら感じる。緊張しているなぁ、とアスナは思った。
  ちらりと隣を歩くエルトナージュを見た。彼女はワインレッドのドレスの装いだ。
  彼女はアスナの視線に気付いて耳打ちをした。
「大丈夫ですよ。ボルティス様はお優しい方ですから」
  黙って頷くが声を出すことは出来なかった。
  エルトナージュにとって優しくても、アスナに対してもそうである保証はないのだ。
  何しろ相手はラインボルトの歴史そのものといって良い人物だ。
  召喚されて今日まで随分と好き勝手してきた。
  ひょっとしたらボルティスは怒っているのではないかとアスナは思っていた。
「アスナ?」
「……うん。大丈夫」
  これまで何度も死にかけたのだ。怒られることはあっても殺されることはない。
  そう思うと肝も据わってくる。相変わらず鼓動は激しいが戦陣にいた時ほどではない。
  やがて、三人はある部屋の前で止まった。貴賓室だ。
「アスナ様、エルトナージュ様。宜しいですか?」
  ストラトの問いかけに二人は頷いた。主の確認を得て、執事長は扉をノックした。
  一拍の間を置いて「どうぞ」と声が帰ってくる。
「失礼します。後継者殿下、エルトナージュ様をご案内致しました」
  ストラトに続いて入室をしたアスナはエルトナージュと共に一礼をした。
「初めまして、坂上アスナです。本日はエルトナージュ共々お招き下さりありがとうございます」
「こちらこそお初にお目にかかる。ボルティスと申す。お見知りおきを」
  紺地の長衣にローブ。そして、何ヶ所も繕った跡がある鍔広帽を被っている。
  仮面のせいで表情が読めないが、声から察するに怒っているようには感じられない。
  そのことにアスナは内心で安堵すると益体もないことを頭に浮かべた。
  魔法使いみたいだ、と。
「どうかされたかな?」
「あ、いえ。久しぶりにおめでとうから始まらない挨拶をしたなと思いまして」
  しまった、と思った。これでは催促しているみたいじゃないか。
「当事者からすれば勝敗が決したと見えるじゃろうが、一歩距離を置いて見てみれば同じ国民同士で相食むようなもの。ロゼフその他の件も内乱がなければ起きなかったこと。とても祝意を述べる気にはなれん」
  武力でもって相対することを即決した身としては言葉がない。
  しかし、そんなアスナの頭をボルティスは撫でた。手袋に包まれた手は硬い。
「後継者殿が召喚された時はすでに戦うか降伏するかしか選択肢はなかったじゃろう。戦うことを選んだ後継者殿の判断は現状を作り出したことで責任を果たしたと儂は思う」
  頭に置かれた手が彼のアスナに対する評価なのだろう。
「ありがとうございます」
  彼は小さく頷くとエルトナージュの方へ顔を向けた。
「姫もご無沙汰じゃな」
「はい。先王陛下の大喪の礼以来になります」
  深々とエルトナージュは頭を下げた。
「さて、立ち話もなんじゃ。腰を落ち着けて話をしよう。そうじゃな。まずは後継者殿のご家族のことを教えて貰えんかな?」
  さっ、とエルトナージュの顔色が悪くなった。
  家族のことはアスナが自分から話さない限り、できるかぎり話題にしないことが王城では暗黙の了解となっていたからだ。
「後継者ではアレなんで名前で呼んで下さい」
「承知した、アスナ殿。儂のことも好きに読んでくれて良いぞ」
「えっと、……それじゃご老公で良いですか」
  名で呼ぶには気が引ける。大公や元老では素っ気ない。だから、ご老公だ。
「構わんよ」
  三人揃って卓の前に腰を落ち着けるとストラトが手早くお茶の用意を調える。
  ストラトの前には小粒の黒い石を載せた皿が置かれている。
「それは?」
「これは魔石じゃよ。この身は魔石で動く機械じゃからな。不足分を食事のようにして補給しておる。とはいえ、所詮は仮初めの人形を動かすためのものでしかない。儂は魂を得た鉱物じゃから食事は不要。じゃが、こうやって人と話をする時、相手に会わせられるようにこのような身体を持ったということじゃな」
「へぇ。……だったら」
  だったら、色々と今よりも技術的な発展が望めるのではないか。
  そのことを口にするよりも早くボルティスは首を横に振った。
「よく分からないものを便利だからと使えば火傷では済まない。すでに誰かが発見した技術への助言はするが、それ以上のことはしない。これはリージュとの約束。宜しいかな?」
「……はい。残念ですけど仕方がないですね。けど、オレが研究者とか技術者を応援するのは問題ないですよね」
「うむ。才ある者を応援することは然るべき立場にある者の特権であり義務じゃ。さて、次はアスナ殿のことを聞かせてもらえんかな?」
「あ、はい。えっと、うちの両親は二人とも父が友だちと作った貿易会社に勤めていて月の半分は外国にいます。そのせいでオレたち兄弟は祖父母に育てられているようなもんです」
「それでは寂しいのではないかな?」
「そうですね。小さい頃はそういう気持ちもありましたし、弟と妹はたまにそういう顔してます。けど、この年になると仕事だから仕方がないってのも分かってきますし、帰国のたびに持って帰ってくる変な人形とか見たことないお菓子とかでその辺り埋め合わせしてくれてますから」
  時には土産として人間も持ち帰ってくる。それは商談相手なのだが、多種多様な国の人と接する機会が多いこともあって、アスナは人に対して余り物怖じすることはなかった。
  恐らくこういった経験が素地としてあったからこそ、今があるのだろうと思う。
  両親のことを皮切りにして家族のことを紹介しつつ思い出を語っていく。
  久しぶりのことだから懐かしく、だからこそ自分が遙か遠くまで来たことを実感させる。
  日常的であったものが如何にありがたいものであったのか、今なら理解できる。
  郷愁に涙することはなくても、声に湿っぽいものが混じってしまう。
  文化や技術、その他にも色々なものが異なりすぎて分からない部分もあるだろう。しかし、二人は相槌を打つだけで余計な疑問を挟まない。
  アスナの話は多岐にわたる。友人知人は元より、学校のこと、地元のこと、好きだったもののことを話していった。
  これまで我慢していた訳ではないが切欠がなかったこともあり、封が解かれると一気に溢れ出てくる。
  知っている限りのありとあらゆる事をアスナは話した。クイズのネタになりそうな雑学を経て、ビー玉を鼻に入れて遊んでいたら抜けなくなったことを話して、言葉が尽きた。
  あ……、やってしまったかも。
  と、文字通りの激しい後悔をした。
  話さなくても良い恥ずかしい話まで披露してしまったのだ。第三者にとっては何ということはなくとも当事者にとっては致命的なことは幾らでもある。
  いつの間にかエルトナージュは俯いてしまっていた。
  アスナが声を掛けるよりも早くボルティスが言葉を繋いだ。
「家族を大切に思い、そして大切に思われていることがよく分かった」
  ボルティスは席を立ち、姿勢を正した。とても美しい直立だ。
「ラインボルトの元老として坂上アスナ殿に謝罪申し上げる。誠に申し訳ないことをしました」
  深く腰を折り頭を下げた。
「ボルティス様!?」
「格式の上でのこととは言え儂は王に次ぐ立場にある。故意で行ったことではないとはいえラインボルトがアスナ殿を誘拐したも同然。国を代表して謝罪して当然であろう」
「それは……」
「幻想界とは関わりなく良い家族に恵まれた一人の少年を誘拐したという事実はどのように言葉を繕っても覆すことができん」
  振り返るとストラトも目を伏せていた。
  彼からの言葉はない。ボルティスの謝罪は国を代表してのものだ。
  余計な言葉を挟めば軽くなってしまう。
「えっと……」
  突然の謝罪に思考が停止してしまった。眼前で行われた短いやり取りを梃子にして言葉を表に出した。
「分かりました」
  エルトナージュに視線を向ける。彼女は俯いたまま小さく震えていた。
  本来、今の謝罪はエルトナージュが行うべきことだったのだ。先王の一人娘であり宰相であった彼女ならば十分に国の代表を名乗ることが出来た。
  それをせずに八つ当たりのような口喧嘩をしてしまい、その上アスナを次代の王に相応しいか否かを試すと公言したのだ。
  ……けど、そのことにエル以外にも気付いた人がいたのかなぁ。
  あの時は急場だった。近くにフォルキスらが迫っており早急に対応せねばならなかった。
  そんな状況下で謝罪云々を誰かが口に出せただろうか、ともアスナは思う。
  ある程度落ち着いた今だからこそ謝罪をする土壌が出来上がった。
  諸手を挙げて歓迎されている訳ではない。
  人族出身という理由で拒絶をされ、殺されかけたこともある。
  側にいるエルトナージュも心の整理をつけかねていることをアスナは知っている。
  そのために出来ることをしているが、その結果が出るまでまだ少し時間が掛かる。
「許します」
  胸を張ってそう応じた。
「痛い思いもしましたし、殺されかけたこともあります。それでも命懸けで守ってくれる人たちがいて、大切にしてくれています。これからも色々とあるんだと思います。けど、昨日までがそうだったように、今日からもきっとそうなんだろうなって」
  内乱が起きたことは悲劇だ。しかし、急場を共に乗り越えたことで連帯感が得られたこともまた事実だ。だから、許そうと思える。
「人が良すぎるとは思うんですけど、王様が自分の国を恨んでいても良い事なんて一つもないって思うんですよ」
「寛大なる言葉ありがたく。お詫びの証として現生界にお送りしようと思うのですが、如何じゃろうか」
「えっ」
  思っても見なかった言葉にアスナは絶句した。見ればエルトナージュも目を大きく見開いている。
「ボルティス様、そのようなことが出来るのですか。私も調査をしたことがありますが不可能だということでした」
「じゃろうな。少なくとも文献に記されている魔法ではない。遙か遠い昔、とある名もなき魔導士が現生界に行ってみたいと思って生み出した魔法じゃ。実験を兼ねて何人もの人族を送り返すことに成功してきた。人族が身につける衣服や物品には現生界との細い繋がりがある。それを道標として魔力で道を作るんじゃ。とはいえ、言うは易く行うは難し。余程の魔導士でなければ行えぬであろうよ」
「危なくはないんですか?」
  さすがに懐疑的な気持ちになる。突如、明らかにされた事柄への動揺もある。
「道は魔導士が作る以上、繋がること、送り届けることまでは感触として理解できるから問題はない。しかし、現生界のどこに出るかまでは保証できん。ひょっとしたら海の上に出るかもしれん」
  陸地であったとしても、そこが母国でなければ家に帰ることは不可能だ。
  外国に出たのであれば大使館や領事館を目指すことになるが、そこまで辿り着ける予想図が作れない。言葉が通じなければ、土地でどう動けばいいかも分からない。
「そういえば、なぜこれまでラインボルトにやってきた人族の人たちを送り返さなかったんですか?」
「この魔法は二つの世界を一時的に針で糸を通すようなもの。送り届けるまでの間、針と糸を維持し続けるために膨大な魔力と数多くの高価な魔具が必要となる」
「具体的にどれぐらいかかるんですか?」
「そうじゃな、概算で……」
  ボルティスから提示された金額にアスナとエルトナージュは顔を引きつらせた。
「これだけあれば、内乱の後始末が早く済むかも」
「ラインボルトが集めていると分かれば、魔具の持ち主たちはより高値で売ろうとするじゃろう。となれば、更に送還には資金が必要となる。つまり、そういうことじゃ。確かに人族を送り届けることは善行。しかし、それを国民は納得しない」
「それじゃ、なんでオレは?」
「無論。お詫びであり、内乱を収めてくれたお礼でもある。誰も反対はせんし、儂がさせない。アスナ殿は好きに選んでくれて良い」
「ご老公、折角の申し出だけど辞退させて貰います」
「なぜか、伺っても宜しいかな?」
  頷く。
「まずその魔法は出口の指定が出来ないんですよね。そして、こっちに来た時の服なんかを道標代わりに使う。となると、この服を作った土地に出るかもしれない」
「確かにその可能性も十分になる」
「こっちに来た時に着ていたは服は外国の工場で作られたものなんですよ。だから、そっちに出ると多分、家には帰られないと思います。言葉は通じませんし、親切に期待なんて出来ません。それに」
「それに?」
  エルトナージュからの相槌のような促しに頷く。
「責任があるから。背負わされたものもあるし、自分から背負ったものもある。そういった色んな責任があるから今の自分があるんだと思います」
「責任感があるというのは良いことではあるが、本当に宜しいのか? 状況を鑑みれば今を逃せば二度と帰るとは言えなくなるぞ? ご家族とは会えなくなるぞ」
  近衛騎団の訓練終了を待った後、ヴァイアスたちとともに数日間の休息することになっている。それが済めば本格的に副王就任に向けた準備が始まる。
  正式にアスナがラインボルトの代表になるのだ。そうなれば、もう後戻りは出来ない。
「良いんです。約束がありますから」
  エルトナージュを見る。彼女は俯いたまま申し訳なさそうにしている。
  ……そんな顔しなくても良いのに。
  エルトナージュもアスナが残ることを決めた理由だ。
  正直、彼女は面倒くさい人だとアスナは思っている。
  好意や親愛、敬意や感謝を向けてくれているだけではなく、嫉妬や嫌悪、呆れもアスナに対して感じているのだ。だが、そういった感情を隠そうとはしない。
  時折、自分の感情を持て余して八つ当たりをしたり泣いたりすることもある。
  彼女がこれまで必死になって積み重ねてきたものを崩したのは他でもないアスナだ。
  もう一度積み上げ、そしてまた崩される日々を繰り返している。
  それはアスナも同じことだ。これまでは周りにある積み木を掻き集めて、大きな山が出来たと嘯いていればよかった。しかし、これからはそういう訳にはいかない。
  積み木の形や大きさを見て、立派な何かを作らねばならない。
  崖崩れを起こさないように積み木を取って新しいことを始めている最中だ。
  そんなアスナにとってエルトナージュが繰り返す試行錯誤がアスナの強がりを支えてくれているのだ。
「大切なことなのでもう一度だけ確認させて貰いますぞ。本当に帰らなくて宜しいのですかな?」
「はい。オレはラインボルトの王になります」
「……宜しい。では、これより元老として未来の王にお仕えする」
  ボルティスは厳粛に宣誓をし、一礼をした。
  そして、頭を上げると同時に早速職務が求める行動を行う。
「では、早速じゃが幾つか苦言を言わせて貰いますぞ」
「はい」
「まず一つ。ロゼフへの宣戦布告の折、併合をすると宣言したがあれは失敗じゃ」
「……いけませんか?」
  うむ、とボルティスは頷いた。
  思いもしない変わりようにアスナは何とかそれだけを口に出来た。
「併合するとなれば相手は降伏を考えることなく必死に抵抗してくる。これでは直接対峙することになる兵たちが可哀想じゃ。現場の兵らが出来る限り楽に勝てるように手配することこそが王の役目。そのことは近衛とともに前線にでたアスナ殿もよく分かっているはずじゃ」
「……はい」
「しかし、王が一度口にしたことを簡単に撤回させる訳にはいかん。表向きはそのままに、交渉を担当する者には内々に土地に代わるものであれば許可すると伝えておけば良い」
「俺が土地を欲しがっていることも交渉材料とするってことか」
「その通り。現在はすぐに併合する方向で話が進んでおるが、ここは先例に倣ってはどうかな? 姫、どういうことか分かりますな」
「自治領にする方法ですね。在地の領主に顧問団を付けて自治領の責任者に任命します。こうすれば土地の有力者たちからの反発を和らげることができますし、彼らにとっても正式な併合までの準備期間を得ることが出来ます。また政府にとっても自治を許しているという名目で毎年の援助金を少なく抑えることができます。これまで併合してきた土地の多くはこの手法を取ってきていますので官僚たちにとってはやりやすく、議員からも賛同を得やすい点も無視できません」
「欠点は?」
「併合の準備が整うまで時間が掛かること、自治の名目があるので政府からの干渉が顧問団を介してのみとなる。それと戦争をしていた国と隣接しているので当該国から内々の干渉を受けやすく、独立運動に発展することもあります」
「予防策は?」
「有力者の子弟を本国の学校に入学させ、卒業後しばらく官僚として採用します。中央との人脈作りになりますし、帰郷後は親ラインボルト派になってくれますので反乱に対する抑えになることが見込まれます」
  ……江戸時代では大名の妻子は江戸に常住することになっていたのと同じか。
  アスナは自分の知識と照らし合わせて理解をした。
「けど、そういう方法があるなら宰相たちから提案があってもいいのに」
「そこが苦言の二つ目じゃ。ラインボルトはアスナ殿に負い目がある。これまで口にする機会がなかったが、誰もが心の内にあった。そのアスナ殿に内乱という自分たちの不始末を付けて貰った。そのような相手に否は言いにくい」
  返す言葉が見つからずアスナは頭を掻くしかない。
  そんなに怖がられるような態度を取ったつもりはなかったが、確かに些か以上に強気に振る舞っていたことは確かだ。
「もう少し丁寧な応対をした方が良いのかな」
「これから少しずつ苦言を呈しても問題はないという雰囲気を作っていけばよい。手始めとして次の閣議で併合のことを宰相殿に聞いてみればよい。ルーディス坊やのことを引き合いに出せば、気まぐれではなく先例に倣う気になったかと皆思うじゃろう。そこで出された案が妥当であると判断できれば、そのまま受け入れればよい」
「受け入れられない話だった時はどうすればいいですか?」
「その時は次の機会を待てばよい。雰囲気作りとは言われたことを何でも了承することではないからな」
  皆から怖がられて誰からも声を掛けられなくなった愚かな王様の話を聞いたことがあった。聞いた時は可哀想な王様だと思ったが自分がその入り口に立っていたのだ。
  ……昔話の王様を笑えないなぁ。
「そうですね。……やってみます」
「焦らずゆっくりとな。本来であれば基礎的な学習をし、その後は摂政に任じられて少しずつ経験を積み重ねていくものじゃ。しかし、アスナ殿はそういった手順を飛ばしておる。それを考えればそなたは十分に良くやっているよ」
「ありがとうございます」
  自分の勝手な思い込みに過ぎないのかもしれない。
  それでも、これまでの自分の行いがラインボルトの歴史の中に受け入れられたような気がした。
「ボルティス様。私にも何かお言葉を頂けないでしょうか」
  顔を上げたエルトナージュは声音をも強張らせてそう願った。
「そうさな。……二人は男女の仲にあると耳にしたが本当かな?」
「はい! ……あの、それってなにか問題になりますか?」
「いや、ラインボルトにとっても若い二人が自然とそうなったことは実に喜ばしいことじゃ。人の情を無視しても王統というものがある。代々ラインボルト王は先王の養子に迎えられることで王家の伝統を継承させ、魔王の力を血の繋がりと見なして存続してきた」
  アスナは頷いた。そのことは内乱中にミュリカたちからの授業で習ったことだ。
「しかし、先王が崩御した後にアスナ殿はラインボルトに召喚された。先王の養子ではなく力のみを受け継ぐとなれば、それはリージュと我らが建てたラインボルトは滅び、アスナ殿の元で新たな国が生まれたとみなされる。先の内乱はリージュが決起した時と同じようなものじゃな」
  エルトナージュを見てみれば、彼女の顔から血の気が引いている。そんな事態になっているとは想像だにしていなかったのだろう。
  リージュのラインボルトが滅んだと見なされれば、残される各王家は絢爛たる国の花ではなく、旧時代の墓守となってしまうのだ。
「が、二人が婚儀を済ませればアスナ殿が婿に入ったと見なすことが出来、あの子が建てたラインボルトは守られることになる」
  しかし、とボルティスは続けた。些か声音が硬い。ボルティスは声で表情を作っているのだと感じた。
「姫の立場は非常に難しい。アスナ殿が宰相を務めた姫に相談を持ちかけることは当然のこと。儂は今日までに挨拶回りをしていたが、多くの者がアスナ殿が姫に頼っていることを多かれ少なかれ危惧を抱いているようじゃ」
「なぜです? エルは本当に良くやってきたと思いますよ」
「内乱を起こしてしまった。不適任の烙印を押されるにこれ以上の理由はなかろう?」
  宰相としてのエルトナージュの否定。
  反乱そのものはアスナによって鎮圧されたが、フォルキスは自身が求めたことをしっかりと遂げていたのだ。
「私は何処で間違っていたのでしょう」
「……初手からじゃな」
  小さく彼女は何事か呟いた。それが何であったのかアスナには聞こえない。
「姫は先王の崩御の後、デミアス殿と細かなことで争わず全てを委任し、喪に服せばよかったんじゃよ。周知させることはただ一つ、次代の王が決まるまで服喪とし、その間官吏や将兵には妄りに騒ぐことを禁じ、これを破った者は厳正に罰すると宣言すれば良かった」
  だが、当時エルトナージュは強い王になろうとした。
  ボルティスの指摘は宰相という立場においての最善手であって、彼女の望みを叶える手ではない。しかし、ラインボルトの元老はそのことを知らない。
「それだけで内乱は起きず、他国から攻め入られることもなかったじゃろう。もしもの話になるが、内乱を起こすことがなければアスナ殿が召喚されなくとも姫の元で新たな国を始めることができたやもしれん。少なくとも儂はそう思っておるよ」
「……ありがとう、ございます」
  彼女は一時的ではあるが王の後継者として認められた時期があった。しかし、それはいつの間にか失効してしまった。
  それでも彼女は運命の巡り合わせにより再び王となる好機を掴むものの逃してしまう。
  エルトナージュは礼を口にした。アスナにはそれが心からの感謝の言葉であるようには聞こえなかった。悔恨が明確になった証であるようにアスナには感じられた。
「今後、姫は政治の表舞台から距離を置いた方が宜しかろう。儀礼の同行者やアスナ殿の教師役を務めることに積極的であることをお勧めしよう」
「それもダメですか」
「内務、外務、大蔵、軍務の四閣僚は姫が宰相であった当時の顔ぶれじゃろう。彼らからすれば宰相が二人いるようなもの。シエン殿がやりづらかろうし、心ない者がアスナ殿を姫が操っていると虚言を流すやもしれん。噂話というものは面倒なものじゃぞ」
「……エル、どうする?」
「大人しくしています。だけど、アスナの補佐は必要です。それをボルティス様にお願いします」
「承知した。アスナ殿、宜しいかな?」
「はい、よろしくお願いします」
  うむ、とボルティスは頷いた。鍔広帽に付けられた白い羽根が揺れる。
「早速じゃが、アスナ殿の方針を聞かせて貰いたい。具体的な話が出来なくても良い。こういう感じにしたいという程度でも十分じゃ」
「そうですね」
  ……幻想界統一なんて口にしたら絶対に怒られる。
  ロゼフとの戦争を始めて思い知ったことだが、戦争にはやたらと金がかかる。
  とてもではないが戦費が持たないし、戦後の統治にかかる費用を考えると領土の維持で国が傾いてしまい、そのうち独立紛争が始まるかもしれない。
  そうなれば何のために戦争をしたのか分からなくなる。
  ……歴史を振り返ると何かあったかな。
  思い浮かんだ言葉は二つだけ。アスナは心の中で自分の知識の浅さに凹んだ。
  が、母国では最も有名な政策なのではないだろうか。
「富国強兵」
「ほう」
「分かりやすくて良いですね」
  そういった彼女の目は充血している。今晩は一人にした方が良いかもしれない。
「具体的な内容は分からずとも目指すところは明確で誰にでも伝わると思います」
  感想にアスナは会釈を返した。
「実を言うとこの言葉は生まれた国で使われていたものなんだ。昔の言葉だけど、国が荒れていないのなら通用する方針だと思う」
「富国なくして強兵なしとも、強兵なくして富国なしとも取れるな」
「基本は富国で行きます。ただ弱兵も困りますので周りの国の状況を見て判断しようと思っています」
「順当じゃな。これまでの経験から武断に偏るかと思っていたが杞憂であったな」
「始めはそれでいけるかなぁとも思ったんですけど、後で色んな報告や予算案を見て考えを改めました。戦争はとにかく金がかかりすぎる。略奪なんて以ての外だし」
「じゃが、略奪すれば黒字に出来るかもしれんぞ。少なくとも赤字の圧縮できる」
「略奪しても相手の国が残るんだから、その後の関係が難しいことになるんじゃないかって思います。周辺国がラインボルト寄りになってくれているのにわざわざ反感を買う必要もないかなって」
「それがよかろう。アスナ殿はロゼフとのやり取りで手順を間違えたが、そういう判断であれば間違いを幾らか取り戻せるじゃろ」
「間違いですか」
「アスナ殿はロゼフ側に譲歩するところから始めてしまった。ロゼフ側からすればラインボルトは畏怖すべき大国として長年存在してきた。それが領土を巡る争いで譲歩してきた。あちらの王宮はその話を聞いて沸き立ったじゃろうな。そして、ラインボルトは自分たちが考えているよりもずっと疲弊しているのではないかと思ったはずじゃ。そして、他国もまた今ならば後追いが出来るのではないかと思ったかもしれん」
「……自分から危機を作ったってことですか」
「そういう可能性もあったということじゃ。政治は結果。他国からのこれ以上の侵攻がなかったのだから必要以上に気に病まないようにするんじゃぞ?」
「はい。……けど、こういう場合の正解ってなんですか?」
「まず軍にワルタ地方を奪還させる。それと同時にロゼフとの間で講和に向けた話し合いを始める。こういう手順であれば、ワルタ地方の奪還を区切りとして戦争を終結させられたかもしれん。ラインボルト側はワルタ地方の奪還、ロゼフ側は武名を得たということで互いの面子を立てられる。賠償金や略奪された物品の返還交渉で実際の講和まで多少時間はかかるじゃろうが、大きな合戦は起きなかったと儂は思っておる」
  頭を掻くしか出来ない。言葉が何も出てこない。
  勢いに任せてロゼフ本国を併合することだけを考えていた。考えが武力に偏りすぎていた。そしてなにより、大臣たちにだめ出しを許す雰囲気を作れていなかった証拠をまざまざと見せ付けられた気分だった。
「戦争を制すとは、如何に落とし所へと持って行くかということ。それこそが王の戦というものじゃ。内乱中、アスナ殿はそれが出来ていた。争点がなんであったか思い出してみなさい」
「オレが魔王の後継者に相応しいかどうか」
「そうじゃな。結果、文官と武官の争いのようなものであった内乱がアスナ殿を試すという一点に集約された。そなたが用意した落とし所のお陰で内乱を泥沼化させずにすんだ。結果が出てなお争おうとするのならば、そやつらは賊軍ということになる。分かるかな? 落とし所を作るということはそこから外れることに忌避感を与えることになる。そして、この落とし所が戦後の関係ということになる」
  宰相エルトナージュの否定から始まった戦いの意義をすり替えることが出来たからこそ、エルトナージュは宰相の職を辞するのみ、フォルキスも軟禁で済んでいる
  その他にも革命軍側に参加した将兵たちも略奪暴行など目に余る行為をした者以外は基本的にお咎めなしとなっている。議員や官僚たちもまた然り、だ。
  この結果に文句を付ける者はいない。この現状を指してボルティスは落とし所と言っているのだろう、とアスナは思った。
「ロゼフの国境を越えたから、分かりやすい落とし所がなくなったのか」
「これからそれを作っていかねばならん。そのためにもアスナ殿はもう一つ知っておいた方が良いことがある」
「なんですか?」
「戦争は当事国以外にも関係国のことも考えねばならん。ラインボルトとロゼフが戦争をして得をする者、損をする者がおるということじゃ。この辺りを考慮してみると見えてくるものがあるかもしれん」
  ……確かに言われた通りだな。
  周辺国がロゼフとの戦争ではラインボルトに好意的な態度なのは関係国がこちらに味方してくれているということだ。
  ラインボルトに戦うべき正統な理由があり、戦いがワルタ地方のみで終わるのであれば国境線に変更はない。周辺諸国にしてみればこの地域でのラインボルトの発言力が幾らか増すが調整をすれば大きな問題にはならないと見ているのだろう。
  だが、ラインボルト軍が国境を越えてしまうと好意の前提条件が崩れる。
「アスナ、大丈夫ですか?」
  気遣いの声を掛けてくれるが、エルトナージュも心配になるほど顔色を蒼白にしている。
  彼女に頷いてみせるが、自分の首ではないかのように動きが鈍い。
  先ほどから肌の上に汗が止めどなく浮かび上がる。鼓動は早く、いつもなら身体が熱くなっているはずだ。だというのに急速に体温が下がり続けているような感覚を得ている。 ……血の気が引くってこういう感じだったんだな。
  エルトナージュから指摘されるまで自分がそうなっていたことに気付かなかった。
「これで衆知を集めることがどれだけ大切なことか分かったじゃろう。じゃが、時には迅速果断に行わねばならない時もある。その時のためにも衆知を集めて備えておく必要がある」
  ボルティスは魔石を摘んで口に入れた。
「さて、難しい話はここまでにしよう。二人は明後日から御用邸で静養するんじゃろう?」
「あ、はい。明後日から一週間、ヴァイアスたちも誘って首都の郊外にある別荘地に。なんだったらご老公も一緒に行きませんか? 昔話とかも聞いてみたいし」
「お誘いはありがたいが、生憎と暫くは挨拶回りや就任式の式次第の確認で予定が詰まっておる。また誘ってくれると嬉しいの」
「はい。次の機会には必ず」
  と、そこでふと思った。先ほどからの指摘を受けて、これまで考えていたことをボルティスに手伝って貰った方が良いんじゃないかな、と。
「……そうだ、挨拶回りをされるんだったらついでにお願いしても良いですか?」
「副王になったら魔王がいなくなった時どうすればいいのかを決める法律を作ろうと思ってます」
  ほう、と若干の驚きを含めた声音だ。
「一度起きたことは二度あるって言いますし、今回みたいにみんなが右往左往しないで済むように事前に決めておいた方が良いと思います。これはラインボルトの関わることだから普通の法律と同じように議会や政府だけで作って良いことじゃない。特別なやり方が必要になるはずです。その人選と根回しをご老公にお願いしたいんです。もちろん、この法律を作る作業にも加わって下さい」
「これはまた、思ってもいなかった大きな話じゃな」
「多分、何人かの人はそういう法律が必要なんじゃないかって危機感みたいなのを持ってるけど、それを言い出せる立場にない。けど、オレだったらそれを言えます。オレが作れって命令すれば誰も反対は出来ないですし」
「民主主義者が喜びそうですね」
「まぁ、そうかもね。王様がいなければ国の代表を選挙で決めようっていう意見が出るのも自然な流れだろうし」
  ラインボルトは王家の領地などの例外を除いて議員、首長を選挙によって選出している。
  選挙という行為に国民は馴染んでいるのだ。
「今でも議員や首長たちが後援者を務める商家に利益誘導していることが問題になっています。国の代表が選挙で選ばれるようになれば、市場を求めて国の戦争をさせることになるかもしれません。議員たちが商家の代弁者になる恐れがあります」
「これまでそれが抑えられていた理由は何かあるの?」
「国の守護者たる魔王と王宮府が有する莫大な富と権益です。これが議会や政府の暴走を抑止する働きをしているんです。軍を動かすには王の認可が必要になりますし、議員たちにも学習費を幾らか下賜していてます。何より三権は王の政務を輔弼するために存在していますから、それから外れる者に権力は集まりません」
  だからこそ彼女は王位を求めた。
  このまま座視していては自分は過去の存在と成り果ててしまう。
  旧跡には人々に憧憬を抱かせることは出来ても、動かすことは出来ない。
  そうならぬように、彼女は自分の本懐を遂げるために無様であっても動いたのだ。
「エル、落ち着いて。そういう不安になることがあるなら検討会の席で話せばいいんだ」
「けど、私は先ほどボルティス様から自重しろと言われたばかりですよ」
「それはそれ、これはこれ。大公二人と各王家の当主七人を絶対に加えたいと思ってる。その代わりオレはこれに加わらない」
「何故です、アスナは宗家の当主になるんですよ。意見を述べる権利があります」
  アスナは小さく首を振った。
「オレはラインボルトの今と未来に責任があるけど過去がない。こういうことは過去現在未来が揃っている人にやって貰わないとダメだ。それにご老公が驚くような法律なんだから、それを作るのにオレが加わったら、またあの蛇の老人みたいなことが起きても困るし」
  巡りし蛇の長老格であった名家院議員ドゥーチェンはアスナが、というよりも人族が魔王となることを拒絶し、殺害を試みたのだ。
  アスナが議論に加われば、再び彼と考えを同じくする者たちがアスナに牙を剥かないとも限らない。人族排斥を考える者たちはすでに摘発されているが残党がまだ残っていることを前提に今も捜査が続けられている。
  なお、巡りし蛇の代表者が後日、アスナの元を訪れて謝罪をした。彼はそれを受け入れている。内心思うところはあるが、近衛騎団の団員に巡りし蛇がいる。
  内乱中、世話になっている彼に免じて、ドゥーチェンが個人的にやったことだとアスナは自分に言い聞かせたのだった。
「その度重なる暗殺未遂の経験があるからこそ王が存在しなくなった時に備えさせるか」
「自分でも嫌になる想像なんですけど、魔王の力を手に入れて王様になっても手を代え品を代えあると思うんですよ。だから、万が一の時のことを考えておいた方が良い」
「怖くないのかね」
「怖いですよ。怖いに決まってるじゃないですか。だから思いっきり嫌がらせをしてやる」
「それってつまり……」
  目を見開くエルトナージュに笑って頷いてみせた。
「もし魔王がいなくなって新しい国が作られる時、その時にオレが作るように命じる法律が活かされることになる。その時、オレは新しい国の歴史にも名を残すことになる。オレのことを無かったことにしたい連中にとっては腹立たしいどころの話じゃないだろうさ。そうだ。時代が変わっても使えるように五十年ごとに見直しをするようにすれば二百年、三百年先だって使えるはずだ」
  人族であるアスナを否定しようともラインボルトが存在する限り、その痕跡を消し去ることは出来ない。
  この法律を無効にするには、それこそ他国に攻め滅ぼされるか反乱を起こして王位を簒奪する以外にない。つまり、彼らが自らの手でそれを行いたければ反逆者となるしかない。
「けど、これをそのまま公表したら格好悪いから、そうだな……」
「アスナからラインボルトの今と未来への贈り物というのはどうです。市井の者からすれば危難に際しても備えがあることこそがありがたいことでしょうから」
「さすがにそれはかっこつけすぎな気がする」
「いや、それで良かろう。事実そうであるし、に少なからぬ者たちが心配していることでもある。衆目の中で殺されそうになってもなお国の将来を憂えてくれているという証にもなる。包み紙とするに良い言葉じゃと儂は思うぞ」
「分かりました。そういう感じで根回しをお願いします」
「承った」
  と、ボルティスは小さく一礼をした。その所作から機械らしさが全く感じられなかった。
  すっくと顔を上げた彼の面が笑ったようにアスナには見えた。
「さて、難しい話はここまでにしようかの」
  二人して頷く。さすがに少し疲れたというのが本音だ。
「姫はアスナ殿にヴィトナーのいたずらを紹介したかな?」
  興趣王ヴィトナーが作り出した変な仕掛けを施した幾つもの遺産のことだ。
  大いに散財をし、面白可笑しく生きたラインボルト史上一番の放蕩者。
「はい。星見の塔には連れて行きました」
「ならば、話は早い。では、ヴィトナーの宝探しのことは?」
  首を振る。横を見るとエルトナージュも首を振っている。
「私もそんなものがあると初めて聞きました」
「そうじゃろうな。一部の好事家のみの中で知られたこと。この首都エグゼリスのどこかにあやつが残した宝物が隠されておる」
「ボルティス様はその場所をご存知なのですか?」
「無論。じゃが、何処になにが隠されているかはナイショじゃ。ただ財宝の類ではないことだけは教えておこうかの」
「財宝じゃなかったら歴史的な遺物でしょうか」
「案外、これを見つけるために駆けた思い出こそが宝物だとか書いたものが置かれてたりして」
  ふっふっふっ、とボルティスは笑った。
  機械の身体なのに肩を振るわせている。器用だなぁとアスナは感心した。
「当時のラインボルトは南北を流れる運河が完成したこともあって非常に景気が良かった。政治家たちはそこから得た税収でアレコレと作ろうとしたようじゃがその三分の一をヴィトナーが散財しおった。当時の政治家たちは浪費家が王になったことを嘆き、胃薬の耐えぬ日々じゃったが、現在から眺めればヴィトナーが阿呆なことをしたおかげでラインボルトは文化面での素地が産まれた。アスナ殿、当時の娯楽と言えばどんなものか想像が付くかの?」
「……飲む打つ買うかなぁ」
  内乱中、都市を訪問した近衛騎団の団員たちは概ねこれの三つを楽しんでいたようだ。
「正解。じゃが、ヴィトナーはそれだけでは満足できんかった。酒の美味さはもちろん、瓶や器に趣向を凝らし、博打もサイコロ遊びだけではなく競馬や札遊びを考え出した。女たちを美々しく着飾らせるために服飾にも拘り、香水も作り始めた」
  そこまで言ってボルティスは魔石を一粒仮面の下に放り込んだ。
「阿呆じゃろう? 真面目な政務は宰相に放り投げて自分は放蕩三昧。だが、面白いことに十年、二十年するとまた少し景気が良くなってきた。ヴィトナーが作ったアレコレを民が親しみはじめ、新たな商売を始める者が増えてきたんじゃ。何がどう影響するか分からん。面白いもんじゃろう?」
  はい、とアスナは笑いながら頷いた。
「尤もこういう放蕩が良い方向に転がるのもヴィトナーの一回だけじゃろうな。当時は必要な物を揃えねばならんとばかり皆が考えていて、遊びの部分がなかったからの。美術品や工芸品は全てが輸入品。自国でそれらを賄え、他国でも売れるようになれば景気が良くなるという訳じゃな」
「ヴィトナーって魔王になる前は何をやっていた人なんですか」
「ある商家の放蕩息子。迎えに行ったら実家を追い出されて女の家に転がり込んでヒモをやっていたよ」
「羨ましい」
  心からそう思った。すると隣でエルトナージュがそれを鼻で笑った。
「出来る状況でも実際にやれない人のくせに」
「オレだって酒池肉林の一度や二度……」
「なんです、それ?」
「あーっと、酒で大きな池を満たして、木々に肉を吊るし、その中を裸の男女が駆け回る感じ」
  しかし、エルトナージュは反目でこちらを見ている。
「それのどこが贅沢なんですか? どう好意的に見ても蛮族の祭ですよ」
  具体的に酒池肉林の様子を具体的に想像すると野蛮人というか間抜けな様子だ。
  警察に面倒を見て貰う可能性を無視すれば、お一人様向け酒池肉林である酒池肉木ならば現生界でも十分に出来る。
  公園の林の中でビニールプールを広げそこに酒を注ぎ酒池とし、周囲の木々にハムやソーセージをぶら下げれば肉林が出来る。
  その中を一糸まとわぬ自分が駆け回れば完成だ。
  恐らく使用する酒と肉に拘らなければ、アスナの貯金で十分に賄える。
「……ごめん。これは贅沢でもなんでもなかった。けど、王様の贅沢ってどんなだ?」
  仕立ての良いスーツや時計を持つことは気分が良いことだが、王様だからこそ出来る贅沢とは言えない。なにしろ普段着からして着心地の良いものなのだから。
  むしろこちらに来てから感じる様々な不便が贅沢感を下げている感じがする。
「エルだったら、どういう贅沢をする?」
「私なら歌劇を催します。当代一の監督に劇作家、指揮者、建築家を呼び彼らが欲する最高の人材を集めます。劇場を建築し、役者や演奏者たちが満足するまで時間を与えてから上演します。だけど、この上演は一夜限り。物語がそうであるように劇団も劇場も失います。だからこそ、人々は真剣に観覧をする。後々まできっと語りぐさになるはずです」
  どうだと言わんばかりの表情。だが、これに対してアスナは反論のしようがない。
  歌劇が終了するまで関係者たちに無用なことをさせないだけの財力。そして、彼らに参加することに名誉を感じさせるだけの権威。
  なによりそれだけの人材を集められるだけの伝手がなくてはならない。
  そして、こういったことを利潤を求めることなくできるのだ。
  王者の贅沢と言って良いかもしれない。
  こういった気軽に話せるようなことで三人は歓談した。
  歴史関係の四方山話ではあるが、ボルティスが話をすると思い出話のように聞こえる。
  彼にとっては正しく昔、経験した思い出話なのだ。
  歴史学者にとってはボルティスとお茶を飲むということこそが至上の贅沢なのかもしれない。
「そういえばお二人は明後日から一週間の休暇をとるんじゃったな」
「はい。副王の就任式の前に疲れを取ってこいってあちこちから言われたので」
「それがよかろう。素人の見立てでも疲れておるように見える。そなたらは儂らのように壊れたら取り替えるということが出来んからの」
  そういうと彼は卓の下においていた鞄を取り出し、中から冊子を二つ取りだした。
「アスナ殿にはこれをお渡ししておこう」
「なんですか、これ」
「日記帳じゃ。儂は歴代の王が摂政に任じられるとこれを渡して日記を書くように勧めておる。王が日頃、何を思い何を持って決断を下したのか。それを後代に教えるためにな」
「その日記、オレが見ても良いんですか?」
「もちろん。しかし、一冊分は必ず書いて貰わねば日記帳を収めた書庫の鍵を渡せん。これは歴代の王との約束じゃ」
「もう一冊は?」
  そう問うとボルティスは冊子に手を置いた。両方とも同じ革張りの装丁だ。
「もう一冊には幻想界に召喚されてから内乱を経て、エグゼリスに帰還するまでを書いて貰いたい。出来る限り時系列順に、そして決断に際してどういった心境であったのか。それもまた将来の王たちの役に立つはずじゃ」
  一瞬迷った。あの内乱には後の世にも秘密にしておいた方が良い事柄が含まれている。
  アスナはエルトナージュに視線を向けた。
  彼女は思っていたよりもあっさりと頷き返してきた。良いのかと暫し見つめ続けると再び彼女は強く頷いた。
「分かりました。けど、読むのは読むべきだと思った人だけ。それと公にはしないことを約束してくれますか?」
「約束しよう。そして、もしラインボルトが滅ぶ時、書庫に納めた歴代の王が残した日記とともに必ず処分することも重ねて約束しよう」
  ひょっとしたらボルティスは自分がラインボルトを継がなければ、その約束に従って日記を処分したのかもしれない。
  しかし、そのことをアスナとエルトナージュは聞かなかった。
「さて、今日はこれでお開きにしようか」
「はい」
  気が付けば、空に星が見え始めていた。

 丁度その頃、ワルタ市に入城を果たしたホワイティアは執務に負われていた。
  彼女の身分はワルタ戒厳司令官だ。
  軍事は元より行政においても現地の最高責任者であった。
  ワルタ地方の議会がロゼフへの復帰宣言を採択したことでその立場が難しいものとなっていた。
  領土などの割譲には中央政府の了承が必須であるため、ロゼフへの復帰云々は無効だ。
  ここで問題となっているのは住民たちが選出した議員たちが公の立場からラインボルトからの離脱を宣言してしまったことだ。
  本来であれば、ホワイティアが当地で担うことは残党狩りと戦闘の後始末。
  そしてロゼフ本国へと侵攻したゲームニス率いるロゼフ方面軍への支援のみだ。
  それが地方の意思決定機関が反旗を翻したことにより状況が変わってしまったのだ。
  しかし、ホワイティアはこうなることに動揺はなかった。
  ラインボルト軍は災害時はもちろん、魔物や”彷徨う者”への対処のためにも派遣される。時には現地の行政機能が麻痺することもあり、ラインボルトでは連隊長候補者たちを地方に派遣し、災害担当秘書官補佐として地方行政に従事して経験を積ませることになっているのだ。
  多忙を極める彼女の前に身なりの良い男たちが来ていた。
  彼女が使う執務机の前で彼らの代表となる男が熱弁を振るっている。
  かれこれ十分は熱弁を振るっているだろうか。
「ですから、全ては市民たちを守るために緊急避難、やむを得ない事態だったのです」
  確かにその通りね、とホワイティアはその点においては同意する。
  内乱中であり、援軍も来ない状況では膝を屈するより他に道はない。
  だが、ワルタ市都市長であったウェップとロゼフ復帰宣言に棄権した議員が不審な死を迎えていることもまた事実だ。
  戒厳司令官の名においてホワイティアはワルタ市入城と同時に彼らに対して自主的な謹慎をするように勧めていた。
「近々、後継者殿下が副王の地位に就かれる伺っております。是非とも我らにワルタを代表して祝意と感謝の念を述べる役目をご用意願いたい」
「どのような立場で目通り賜るおつもりです?」
「無論。ワルタ市議会議員団として」
  身分保障が欲しいのだろう。最低限、それだけなければ不安で仕方がないのだろう。
  川に突き落とされ、その突き落とした相手に救助を求めることを罪に問われてはたまらない。そのような理不尽はないのだという証が欲しいのだ。
「私にはそのような権限はありませんわ」
「しかし、閣下は戒厳司令官であられる。せめてエグゼリスへ判断を求めるぐらいのことは出来るのではないですか。これは私人として申し上げているのではありませんぞ。ワルタ市を代表する議員として申し上げているのです」
「確かにワルタ市の総意としてそのようなことがあっても良いかもしれません」
「おぉ、ならば……」
「ウェップ都市長とメア議員にはご長男がいましたね。戒厳司令官としてお二人を推薦しておきましょう」
「お待ち下さい。その二人はまだ若く、公職にも就いておりません。ワルタの代表とするには些か問題があるように思います」
「適任だと私は思います。お二人が不審な死を遂げたとの報せを聞いた殿下は閣議の席で黙祷を捧げ、城内の国旗を半旗とするよう命じられたとか。住民たちの生活状況もお知りになりたいでしょうしね」
「では、我らは随行員として若い二人を補佐いたしましょう」
「不要です。大人数では護衛も大変です」
  そこまで言ってホワイティアはため息を漏らした。
「二人を推薦したのがあなた方であると報告しておきましょう。以前にも申しましたが、皆さんは自主的に自宅謹慎していることをお勧めします。ワルタ選出名家院議員が取り成し、それに殿下も納得されたからこその現状です。彼らの努力を不意にせぬよう大人しくしている方が良い」
  彼らをアスナの前に出すことを許せば、血が流れるのではないかと彼女は半ば本気で思っている。そうなれば間違いなく彼女のみならず軍にまでとばっちりを受けることになる。
  折角、軍が得た名誉挽回の機会を台無しにする訳にはいかない。
「さて、そろそろ次の予定に入らねばなりません」
「……将軍、本当にどうにもならないのですか」
「私の手に余ります。お引き取りを」
  彼らの代表であるカディシュ議員は何度か口を開け閉めしたが言葉はなかった。
  一礼して去っていった。不承不承の体だ。
  ……あの様子だとあれこれと動き回りそうね。
  その結果、彼らが破滅するのならばそれまでだが、それを抑えられなかったことで叱責を受けることも面白くない。
  ロゼフ市議会議員たちは情状酌量の余地ありとして、復帰宣言については処分を保留することが内々に決定している。ただし、議員の職を辞することになっている。
  生命財産は守るが、その代わりに社会的な地位を抹殺するのだ。
  気分を切り替えて書類に目を通し始める。
  本格的な物流を回復させる前段階として、残党狩りを進めている。ホワイティアは全ての拠点を虱潰しに攻略した訳ではない。重要度の拠点は監視させるに留めていた。
  それらに対する武装解除を促すためにミスラ将軍率いる第六軍、戒厳副司令官であるカイシェが率いる第十三軍を派遣していた。
  また、戦場の後片づけに関しては捕虜を使うことになっていた。
  遺体の早急な埋葬と整地作業は今後のワルタ地方を統治する上で重要な要素だ。
  民間向けの物流の再開、略奪された物品の確認、治安維持などすべきことは山ほどある。
  正直に言えば、現地を知る議員たちにも手伝って貰いたい。
  実を言うと戒厳司令部内では、彼らが大人しく謹慎をしているのであれば現地の有力者たちとの仲介役を依頼できるようエグゼリスに許可を求める話が出ていた。
  それが今日、彼らがやってきたことで使えなくなってしまった。
  あの様子では手伝いを頼めば復権を試みそうだとホワイティアは判断した。
  ノック音がした。次の来客が来たようだ。
「閣下、第六○三独立強襲戦隊ヴィゾルフ戦隊長、第一○一実験砲兵大隊デキス大隊長が到着されました」
「……どうぞ」
  一呼吸分の間を置いて彼女は返事をした。手早く服の乱れを正す。
  失礼します、の言葉に続いて精悍な男たちが入室した。
  彼らは満足できる戦果を得られたからか非常にホワイティアを前にしても気後れは感じられない。
「第六○三独立強襲戦隊ヴィゾルフ戦隊長、第一○一実験砲兵大隊デキス大隊長参上いたしました」
  上位者であるヴィゾルフが敬礼と共に申告をする。
「よく着てくれました。両名とも私の期待に応えてくれたこと嬉しく思います」
「ありがとうございます。しかし、ワルタ市奪還は我々のみで成し得たものではありません。第八軍がすかさず入城してくれたからこその戦果です」
  飛行系種族で構成される第六○三独立強襲戦隊が先の作戦にて担ったことはワルタ市への空からの強襲だ。重要施設を制圧し、現地の司令官を捕縛することを目的としていた。
  そして、彼らは見事にその任務を果たしたのだ。
  戦場に立ったヴィゾルフ自身も呆気ないと思うほどの迅速さであった。
  捕虜とした将校から聴取したところ恐れるべき情報を入手していた。
  彼らはリーズからの援軍だと勘違いしたのだ。
  それはすなわちリーズが参戦をしているということに他ならない。
  しかし、諜報員からの報告によるとロゼフにはリーズ軍の姿はないという。
  検討の末、リーズ軍の襲来にロゼフ軍残存戦力が呼応しないように迅速な武装解除を進めていた。
「自分も第一魔軍の庇護があればこそです」
  と、デキスも答えた。
「さて、今回の戦いでお二人のことが後継者殿下のお耳に止まりました。こちらに視察に来られる際に演習を見てみたいとのご希望です」
  時代の王に存在を知られることは出世云々よりも大きなことだ。
  彼らが抱く大望を大きく前進させることができるかもしれないのだから。
「準備は問題なく?」
「はっ。満足いただける演習を実施できるよう準備を進めます」
「デキス大隊長は?」
「弾薬が必要になりますので、幾らか手当をしていただければ」
「……良いでしょう。場所はアスト山の戦場跡地。貴方たちも含めて幾つかの部隊が演習に参加します。詳細は演習指揮官に聞きなさい。こちらが命令書になります」
  承知しました、と二人は手渡された命令書を受け取った。
  敬礼を交わし退室する二人を見送るとホワイティアは誰もいない扉に向けてそっとため息を漏らした。
  今、アスナにワルタ地方に来て貰っても困るのだ。ロゼフ軍残党による襲撃については心配していない。近衛騎団によって守られた特定個人を襲撃することはまず不可能だ。
  近くに残党がいたとしても見過ごすだろうと思う。
  問題は情報にあるリーズからの援軍だ。これの確認が取れていない間はワルタ地方は危険だと判断した方がよい。
  ただ、政治的な側面から見ればアスナがワルタ市に来ることは諸手を挙げて歓迎することだ。次代の王が訪問することで戦火がラインボルトから遠ざかったと国民に認識させることができるし、当然現地においても間違いなく支援があると保証される。
  ワルタ地方を預かる戒厳司令官としては非常にありがたいことだ。
  それでもアスナの経歴を省みるとホワイティアは不安を覚えずにはいられない。
  彼女に出来ることは出来る限り残党討伐を進めることと、エグゼリスに送付する治安状況の報告書の写しを近衛騎団団長に送付すること。あとは神に祈るのみだ。

 大将軍ゲームニス率いる北方総軍は迅速果敢にロゼフ国内に進軍する。
  総兵力八個軍団の戦力が流れ込んだのだ。
  ロゼフ側はこれに対して、ワルタ地方から転進した旧ワルタ解放軍と周辺領主の軍を掻き集めて部隊を編成し、迎え撃った。
  しかし、命を賭してようやく本国に逃げ帰ることが出来た敗残兵たちに高い士気は期待できなかった。また、前哨戦となる国境における戦いでロゼフ軍は虎の子の魔導士と重装歩兵部隊の多くを失っていた。
  権威を失った国軍の指揮に貴族たちが素直に従わなかったことも無理からぬことだ。
  貴族たちの中には旧ワルタ解放軍に参加していた親族がいた者がおり、迎撃軍を指揮するトナム将軍に不審を抱く者も多数いた。
  何より貴族たちが持つ軍隊経験は家督相続のためのもの。まともな指揮は期待できない。
  戦いはラインボルト軍優勢で進んだ。優勢という言葉は生温く、惨憺たるものだ。
  旧ワルタ解放軍が務める前線が若干崩れたことに恐れを成した貴族たちが離脱しようと右往左往し始めてしまい、一部では同士討ちを始める始末だ。
  これを好機と捉えたゲームニスは魔導兵を前線近くに出して敵前衛に痛打を与える。
  崩れた箇所に向けて騎兵を突撃させ、前線を突き崩すことに成功。
  前線が突破されたことでロゼフ軍の混乱は極みに達し、組織的な抵抗が不可能となる。
  旧ワルタ解放軍は再び将兵を磨り減らしつつ、苦難の逃避行を再び経験することになる。
  ゲームニスは麾下部隊に追撃を命じるとここでの戦いはこれで終わりだとばかりに陣中の座席に腰を下ろした。
「従兵、水を。それと後詰めを任せた鎮定軍ケルフィン将軍に伝達」
  北方総軍の麾下にある鎮定軍の役割はゲームニスの後方を固めることにある。
  物資輸送、道路整備、民心の安堵といった行政的な事柄から近郊領主たちに降伏を促し、敗残兵や山賊の討伐といった荒事までをこなす。
  いわば、ワルタ地方でホワイティアが行っていることとほぼ同じことを行いつつ、占領地を増やしていくのだ。
「予定通りロゼフを蚕食せよ。増援が必要ならば遠慮無く申し出るように、とな」
「了解しました」
  控えていた伝令が飛び出すように出ていった。
  若いな、と微笑ましく思った。自分にもあのような時があったな、とも。
  従兵に注がせた水を一息に飲み干す。それだけで身体から戦場の緊張が抜け、自身の疲労がどの程度か推し量る。
「思いの外、あっさりと崩れたな。ロゼフ軍はこの程度か?」
「いえ。ワルタで戦った者たちは畏敬すべき気骨のある者たちでした。でなければ、再び我らの前に出てきません。彼らの傷が癒えた時、我らが手痛いしっぺ返しを受けるかもしれません」」
  オードの指摘にゲームニスは頷いた。
「確かに。慢心こそが大敵だな。油断が元で将兵たちに命を散らさせればアスナ様に斬られかねん」
  そう言って彼は真顔で自身の首を手刀で叩いた。
  一斉に司令部にいる者たちの間で笑い声が広がった。
  彼らは気安く笑っているがゲームニスが言ったことを否定することはない。
  アスナ自らが首を刎ねずとも、処罰することを恐れない人物だと知られている。
「一時間休憩の後、ディーゲン市攻略に向かう。その旨、麾下全部隊に通達せよ」
  全員が起立をし、了解の声を上げたのだった。
  ディーゲン市はロゼフ南東部に位置する地方を代表する都市だ。
  この街を奪取することでラインボルト軍はロゼフにしっかりとした橋頭堡を得ることが出来る。
  ゲームニスはディーゲンへと続く街道近辺にある城砦や関所はそれ以外については監視の部隊を付けるに留めてる方針であった。
  虱潰しにしていっては折角、ロゼフ軍を撃破して得た優位を失いかねない。
  時間が味方している間に目的を達成せねばならない。

「以上であります」
「ご苦労だった。大将軍閣下には委細承知と伝えて貰いたい」
「了解しました。失礼致します」
  これより彼はゲームニスが作り出した時間と周囲に与えた心理的な衝撃を元にして勢力圏の拡大に勤しむことになる。
  ふぅ、と重い吐息を吐き出す。ロゼフ鎮定軍司令官を任じられたケルフィンだ。
  後詰めとして戦場を眺めていた彼はある種、痛みにも似た感情でその光景を見ていた。
  この任に就くに当たって後継者より兵を率いることに不向きだと言われたことを思い出したのだ。
  軍略も知らぬ小僧が! と思いもしたがそれを口にすることは出来なかった。
  優秀だが軍で使うには何かしら問題がある者が送られる近衛騎団を統御した実績がケルフィンに言葉を飲み込ませた。
  そのような将兵を戦場で駆り立て、時には猛りを鎮めさせねばならない。
  それが如何に困難であるかをケルフィンはよく知っている。
  何より内乱の最後を締め括ったフォルキスとの一騎打ちがラインボル全軍に畏敬の念を覚えさせたのだ。取り繕う必要がなければ恐怖だと言って良い。
  まともに剣を交わせば敗北は必至。それでも後継者は立ち向かい人魔の規格外に一太刀浴びせ、敗北を認めさせた。軍が平伏して当然であった。
  最近、軍規を破れば後継者殿下に斬られるぞ、という冗談が軍内部にて流行っている。
  これは恐怖の裏返しだとケルフィンは考えている。
  ケルフィン自身もそうであるが故に抗議もなく第一魔軍を返上したのだ。
  鎮定軍の任務を完遂した後はその功績を認められ軍事行政に鞍替えすることになる。
  子飼いの第一軍は取り上げられ、直接指揮できる部隊は司令部付きの護衛中隊のみ。
  寂しい限りだし、悔しさもある。だが、栄転には違いなかった。
  軍務大臣への道が開かれたといって良いのだから。
  気分を入れ替えるべく鎮定軍本陣に詰めている参謀たちに言葉を発する。
「聞いたとおりだ。第十五軍のビオス将軍には以前から話していたとおり街道の再整備の準備を始めるように命じろ。ディーゲン周辺の領主や城主に対して使者を派遣する。城主には城から退去すれば追撃はしないことを保証し、領主たちには食糧その他の需品を購入したいと伝える」
  この点もまた業腹ではあるが、すでにLDが貴族たちへの根回しを終えている。
  すでに用意された道をケルフィンは間違うことなく歩めばよい。
「第二、第八軍には手筈通りに周辺警戒を命じる。周辺の制圧については領主や城主たちの返答を待ってから行う。攻略の手筈については両将軍に一任する」
  シェアト、バーフェル両将軍ともワルタ地方で城砦攻略を経験している。
  こちらから口を出しても現場を混乱させるだけだ。
「あぁ、そうだ。ラインボルトと取引をしていたロゼフ側の商家にも需品の購入と戦利品を売却する意思があることを伝えておけ。今後、どう動こうがラインボルトとの取引が継続できるよう取り計らう。必要ならば徴発命令を出しても良いとな」
  仮に賠償金などの支払いによって戦争が終結した時、その後もロゼフで生きていけるように理由を用意してやるということだ。
  槍の穂先を突き付けられてしまい拒否できなかった、と。
  特別指示すべきことはこの程度だ。
  戦場の片付けや負傷者の手当や後送、捕虜の管理などの手続きは事前にゲームニスと打ち合わせした通り、ケルフィンの鎮定軍が引き受けることになっている。
  特に遺体や排泄物の処理は重要だ。これを疎かにした結果、疫病が発生して多数の将兵が死亡してしまった事例が古今東西幾らでもある。これらの作業を捕虜にさせるのだ。
  戦死者を敵味方に分類し、装備を脱がせて深く掘った大きな穴の中に積み重ねていく。
  友軍の兵士の遺体は持ち帰りたいのが心情であるが現状ではそれは難しい。
  北方総軍がディーゲン一帯を安定化させたら火葬し、ラインボルト本国の戦没者墓地に葬られることになる。
  この措置の例外となるのが敵国の貴族たちだ。
  彼らは奇麗に清められ、近傍の貴族や聖堂に引き渡すことになっている。
  遺体とは別に排泄物の処理もラインボルトでは重視している。疫病のこともそうだが、獣人系種族の内、鼻の利く種族であればこの排泄物の臭いを頼りに索敵されることがあるからだ。催したから近場の草むらでするという訳にはいかない。
  先のワルタでの決戦においてロゼフ側は獣人系の工作員を忍び込ませてきた以上、気を付けて然るべき事柄だ。
  調略のみならずこういった時間のかかる汚れ仕事を引き受けて、ゲームニスが存分に戦果を挙げられるよう支援することがケルフィンの役割だ。
  彼の指揮下にある三個軍の将軍たちもこの役割に不平を漏らすことはない。
  すでにワルタ奪還戦で武功を挙げているし、ロゼフでも目立った活躍が出来るのだ。
「…………」
  志望と適性にズレが生じていることを自覚しつつ前方にて休息の準備を始めるゲームニスらに羨望の念を禁じ得ない。
  益体もなく首を振る。
「どうかされましたか?」
「いや、重い責任を担ったものだと思っただけだ」
  職務、未来の王からの期待、一族からの視線、そして自分自身の願い。
  そう簡単に割り切りはできない。ままならないものだ。

 ケルフィンと同様にままならぬ思いを抱いている者たちがいた。
  捕虜となったロゼフ兵たちだ。
  比較的軽傷だった者たちは手当を受けて、雑事に駆り出されていた。そのうち幸運にも無傷であった者たちを編成し直してケルフィン将軍の指揮下に置かれていた。
  彼らの任務はロゼフ国内での各種穴掘りだ。
「ブーチさん。俺たち何やってんでしょうね」
「何って墓穴掘ってるんじゃねーか」
「それはそうなんですけど」
  彼らはワルタ地方での決戦を生き抜き、しかし撤退時に包囲されて捕虜となったのだ。
  もはや逃げることもまともな抗戦をする体力も残っていない。
  彼らをこれまで走らせていた力の源泉は捕まれば殺されるという恐怖でしかなかった。
  逃亡も抗戦も全ては恐怖。だというのに包囲された後、ラインボルト軍の指揮官がこう告げてしまったのだ。
「すでに助けは来ない。抵抗せずに降伏すれば生命と戦後の帰還を保証する」
  その言葉に兵たちの緊張はみるみる内に解けてしまった。
  何人かは精神的な支えを失い、その場にへたり込んでしまった。
  こうなれば逃げることはもちろん戦うことも出来ない。
「本当だな?」
  探るように問うたのはその場にいたブーチであった。
  下士官である彼はすでに周囲の兵が限界を迎えていることをよく知っていた。
「貴様、何を言っている!?」
  貴族である将校は目が落ち窪み半ば狂乱の体を成しながらブーチに近づいた。
  掴みかかろうとした将校はそのまま膝を着いて倒れた。
「将校殿は我々に投降を命じ、ご自身は貴族らしく自裁された。皆、良いな! ラインボルト軍の方もそのようにして頂きたい」
  元々この将校とは別の隊なのだ。たまたま逃げている最中に彼と合流したに過ぎない。
  全く縁の無い将校の言うことより戦友であるブーチの言葉の方が重い。
  将校はボコボコと血を吐き出しつつ何かを口にしようとしているが言葉にならない。
  ただ剥き出した大きな目だけでブーチに訴えかけていた。
「見事な最期でした。後はご命令通りに致します。ご安心を」
  程なくして将校は死亡した。
「承知した。その旨、報告書に記そう。武装解除だ。遺体は丁重に扱うように」
  このような経緯で捕虜となった彼らは暫しワルタ市郊外に留め置かれた後、部隊として再編されてロゼフに入国することになった。
  進軍するラインボルト軍に付いていき、ひたすら道の脇などに穴を掘り続けていた。
  墓穴であったり便所穴、ごみ処理など用途は様々。しかし、彼らがやることは一つ。
  穴を掘るだけだ。
「この後は戦死した連中をこの墓穴に放り込む作業が待ってるんだ。無駄口叩いてるとすぐにばてる。それに監視に睨まれたら褒美が貰えなくなるぞ」
「うっ」
  捕虜の待遇は悪くなかった。毎日野菜のスープに硬いパンであったが、良い働きをしたと認められればスープに腸詰めが入るし、酒が支給されることもある。
  至れり尽くせりとは言えないが、ロゼフ軍での捕虜の扱いと較べれば雲泥の差だ。
  ロゼフ軍ではラインボルト側の戦死者は道の脇などに放り込んだままにし、捕虜に至っては全員要塞建設の際に使い潰してしまっていた。
  自分たちへの厚遇からブーチはラインボルトがロゼフを飲み込む気でいるのではないかと察した。戦場以外で恨みを持たれては後々の統治が面倒になる。
「良いか、ダズ。俺たちゃ、まだましな方なんだ。あっち見てみろ」
  ブーチが顎で指し示した先では戦死者の遺体を集めて、装備品を脱がす作業をしている捕虜たちがいる。ダズだけではない同じ隊の者たちも視線をそちらに向けた。
「俺も昔、やったことがあるがあれはきついぞ。早く土に返すためだって言っても、死人から服を脱がすのは惨めとしか言いようがねぇ。それが戦友となりゃなおさらだ」
「けど、最後は俺たちが墓穴に放り込むんですよね」
「その時は冥福を祈ってやりな。服を剥ぎ取りながら祈るよりも、様になるってもんだ。さ、監視役の目が釣り上がる前に作業を続けるぞ。早く終われば少しぐらい休憩してもお目こぼしがあるだろうしな」
  そう言ってブーチは監視役の下士官に視線を送った。それに答えて監視役は頷き返してみせた。あちらとしても早く終われば、上官から評価を受ける。
  ブーチとしてもただ酒や腸詰め目当てで行儀良くしているのではない。今後の身の振り方を考えねばならないと漠然とだが思っていたからだ。
  ワルタ地方に攻め込んだロゼフ軍は最精鋭であった。あれと同等の戦力を持っている部隊は東部担当、つまりサベージと睨み合いを続けている部隊のみだ。
  あれがこちらに配置転換されるのであれば、まだ引き分けに持ち込める芽がある。
  しかし、貴族たちが自分を守る武力を手放すかは怪しいところだとブーチは考えている。
  逃げ出してラインボルト軍の状況を報告してもロゼフでは碌に評価してくれない。
  ならば、このまま模範的な捕虜としてラインボルト軍からの評価を得つつ、機会を見て亡命を申し込んでみた方が良いかもしれない。
  ひょっとしたら些少の生活費ぐらいは貰えるかもしれない。
  いや、とブーチは思い直した。
  どういう情勢になっていくのか分からない以上、暫くは大人しくしている方が安全か。
  ブーチには妻や子はいない。心配すべきは自分のことだけだ。
  気楽と言えば気楽な立場だ。
  差し当たり気にすべきことは今日も酒瓶を手に入れられるかどうかである。



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