第五章

第二話 昨日があるから、明日がある

 王城から馬車で三時間ほどの場所に王宮府が管理する離宮がある。
  広大な敷地の中には馬場や小さな畜舎や蒸留所まで完備されている。
  王族が静養に使う以外にも長期滞在する外国の使節団の宿舎や富豪に貸し出されることがある。最も魔王が使う離宮ということもあり、この離宮の使用を認められることが、富豪たちの社会的地位の向上に利用されていた。
  その評価の通りに離宮は瀟洒でありながら、品良く暖かみのある調度で整えられている。
  王城が王の威を表現しているためか、どことなく自然と背筋が伸びるような雰囲気になっているが、こちらはそういった気持ちにはさせない。
  安楽椅子に腰掛けて昼寝を楽しめるような空気作りがなされている。
  アスナ自身も気に入ったのか満足そうに、「いいね、ここ」と、笑った。
  到着してすぐに彼はエルトナージュを連れて、あちこちを探検して回った。離宮を管理する庭師や畜舎、蒸留所の者たちに親しく声を掛けていった。
  昼食を済ませた後は日当たりの良いテラスで庭を眺めつつお茶を飲みながら読書に興じることにした。エルトナージュはその側でスケッチブックを広げていた。
  以前、アスナを守って壊れた守りのペンダントの代わりとなる物を作るつもりだった。
  そのデザイン案を幾つか描いていく。
「…………」
  安楽椅子に腰掛けていた彼はいつの間にか寝息を立てていた。
  エルトナージュは黙ってスケッチブックを閉じると立ち上がった。
  今日は暖かな日和だ。何も掛けずとも良いだろう。
  読んだまま寝入ってしまったのか、本が床に落ちている。
  エルトナージュはそれを拾った。幼い子ども向けの童話だ。
  彼女も幼い頃、母たちに読み聞かせをして貰ったことがある。
  所謂、行って帰る話しだ。親からお使いを頼まれた幼い主人公が失敗をしたり、脇道に逸れたりしながら目的を達するというものだ。
  それが楽しそうで、私もやりたいと言って母を困らせたことがあった。
  外には出せない代わりに父の寵姫たちにお土産を持って会いに行くというのをやった記憶がある。父の葬儀が終わると彼女たちは王城を出て隠棲することになった。
  宰相であった頃は遠慮して手紙のやり取りはなかったが、最近になって届くようになっていた。
  エルトナージュにとっては幼い思い出。しかし、アスナにとっては教養だ。
  誰もが知っていることは、王も知っていなければならない。社交において話のとっかかりとなるのはこういったことがらだ。様々な人と話をせねばならないため、王は教養を必須とするのだ。
  ただ楽しいだけであった童話が、勉学となっているアスナが痛ましく思えた。
  顔にかかった髪を払ってやる。
  寝顔に明らかな疲れが見られる。侍医を務めるロディマスが定期的に診察をし、食事や体力作りに関わっているが何事にも限界はある。
  政務に勉学にとかなり無理をしている。その上で結果も残している。
  そのことにエルトナージュは賞賛と敬意を惜しまない。それだけのことをしているのだ。
  アスナ曰く、実際にやっているのはみんなだから、とのことだが、それは謙遜に過ぎると思う。国政について決断を下すことが如何に心に負担があるか彼女も良く分かっている。
  国の行く末を決める事柄が続いているとなれば尚更だ。
  ラインボルトはそういった決断を下す訓練とその覚悟を決めさせるために後継者を摂政に任じて政務に加わらせている。この摂政であった頃に経験を積ませて、即位後も過度の気負い無く政務を引き継げるようにするのが狙いだ。
  だが、アスナに摂政として学ぶ時間はなく、全て同時並行で行わねばならない。
  今回の静養もロディマスが政府に対して「このままでは後継者が過労死するぞ」と脅したから実現したようなものだ。
  今のラインボルトはある種の自信喪失状態だと言って良いだろう。たった一週間であっても支柱であるアスナの不在は国を揺るがす要因となるのだ。
  こうやって休暇が取れたのもボルティスが王城に戻ってきてくれたからだ。
  ワルタ地方を奪還したことで宰相シエンの権威は増し、政府の基盤は強固になるはずだ。
  なにより国としての自信を取り戻しつつあるように見える。
  アスナへの負担は少しずつ軽減していくはずだ。
  ボルティスは相談役や代理として彼を支えてくれるだろう。当代のラインボーグも。
  ……わたしはどうだろう、とエルトナージュは思う。
  先日、ボルティスに指摘されたとおり、これからは政府から距離を取らねばならなくなった。アスナが部屋に戻る時に備えておくことを求められているのだろうか。
  否、だと思う。兎角、アスナはエルトナージュを側に置きたがっている。
  宰相を辞任した時点で彼女は政治的に無力となった彼女を側に置き続ける利点はない。
  ボルティスの提案を受け入れたように、アスナにはエルトナージュを簡単に遠ざけることができるのだ。
  ……わたしはどうすればいいんだろう。
  このまま国の継続性を考慮して、彼の妻となれば良いのだろうか。
  アスナのことは感謝をし、尊敬もしている。大切にされていることも理解している。
  もう認めてしまおう。わたしはアスナを好きになっているのだ、と。
  これはもう仕方がない。
  このままミュリカのように一心に彼のことを思えたら良い。彼を支え、共に生きていくという未来図は快い物に思える。それに楔を打つものがある。
  彼が人族であるということ、そして嫉妬が思い出したように顔を出して彼女の心を焼く。
  いっそのこと全てを抑え込んでしまおうか。
  それをすれば、あの夜、彼に首を絞められた時のことを思い出す。
  気に入らない、とそう言葉にした時のアスナの目が蘇る。
  全てを彼の前で吐露して、それでも彼は側に置いてくれる。
  一緒にやろう、エル。オレたちで気に入らないものを作り直すんだ。
「わたしがアスナを魔王にする」
  小声であの時の言葉を呟いた。
  元々、どうしようもなく歪なのだ。
  アスナは生き残ることを考え、エルトナージュはそんな彼に嫉妬する。
  他に誰もいなければ、このままでよかったのかもしれない。
  しかし、サイナがいる。
  彼女の家系から来る問題はあるものの、彼女自身には一切の問題がない。
  サイナがアスナとどう接しているのかは知らない。だが、彼女は真面目で優しい人だということはエルトナージュ自身がよく知っている。
  武芸の鍛錬を通じた友人と言っても良い間柄。そんな彼女がアスナと情を交わしている。
  彼女の存在が二人の歪さを照らし出してしまうだろう。
  自覚し、アスナにも知られていても、開き直ることが出来ない。
  そういった面がエルトナージュにはある。侭ならない自分の心を持て余し、恥じている。
  改めようとしても出来ないまま今日を迎えてしまった。
  あと一、二時間もすればミュリカたちが到着する。
  どうしようもない気持ちを抱えたまま、エルトナージュは安楽椅子の中で膝を抱えるのだった。

 身体を揺すられる感覚を得てアスナは目を醒ました。
  久しぶりの昼寝で身体はもう少し休息を欲していた。それでも最近の習慣からか意識だけは一足早く目覚めた。この金縛りに似た感覚にも慣れてきた。
「アスナ、ミュリカたちが到着したそうです」
「……うん。起きる。起きてる」
  身体を起こすと小さく吐息を漏らした。卓の上にあるカップを手に取り一口飲む。
  冷めたお茶の渋みが意識をしっかりさせる助けとなる。
  一瞬、エルトナージュの表情に出た複数の感情を見て取ったアスナは、またかと思った。
  彼女は時折、何かに耐えるようにして顔を顰める時がある。
  そんな時は必ず困ったことを思い浮かべている。
  先日、ボルティスに指摘されたことか、それとも別のことか。
  どちらにせよ、必要以上に難しく考えているに違いない。
  ……人のこと言えないか。
  安楽椅子から立ち上がり、三人を出迎えるべく階段に向けて足を向けた。
「それじゃ、行こうか」
  連れ立って玄関に歩いていく。二人の居室があるのは本館だ。
  こちらは王族と招待客のみが使用できることになっている。富豪たちが借りる際に起居する場所は別館のみ。本館は宴席の場としてのみ使用が許されている。
  そのせいか各王族が好きなように調度を揃えているせいか飾られている絵画や調度などに統一感がない。人の家に遊びに来たような面白味がある。
  玄関に出るとすでに三人が整列していた。ヴァイアスの背後にサイナとミュリカが並んで経っている。彼らもこちらに気付いたのか一斉に敬礼をする。
「近衛騎団、訓練を終え帰城しましたことをご報告いたします」
「お疲れ様。荷物を置いたら簡単に報告を聞かせて貰えるか」
「了解しました。……けど、その前に」
  途端にヴァイアスの表情が剣呑になった。思わずアスナは後ずさる。
「どうして、俺たちをすぐに帰さなかったのかを聞かせて貰おうか」
  二度の暗殺未遂事件の後、近衛に訓練を中止させなかったことを言っているのだ。
「いや、ほら、すぐにヴァイアスたちを呼び戻すなんてしたら腰抜けだって思われるじゃないか。むしろ予定通りに進めないと軍が浮き足立ってもこまるし」
「あのな。今、ラインボルトで一番大事なのはアスナなんだぞ。もう、内乱の時みたいに覚悟を見せようと身体を張る必要はないんだ。そういうのは俺たちの役目」
  そうだと言わんばかりにサイナとミュリカがアスナを睨んでいる。
  特にサイナは柳眉を逆立てている。明らかに怒っている。
  その様子にこれ以上の反論をせず、アスナは肩を落として息を吐いた。
「分かった。分かりました。今度からはそうするよ」
「それで良いんだ」
  そういうとヴァイアスも肩の力を抜いた。この件はこれで終わりのようだ。
  彼はそのままアスナの隣にいるエルトナージュに身体を向けた。
「我らに代わり後継者殿下を守っていただきありがとうございます。近衛騎団団長としてお礼申し上げます、エルトナージュ殿下」
  礼をするヴァイアスに続いて背後の二人も同様に一礼をする。
「いえ。たまたま動ける場所にいただけですから。それに礼は無用よ」
「こういうのはけじめが大事だから。とにかく、エル姫が側にいてくれてよかったよ。そうじゃなかったら、命令無視して戻ってるところだ」
「本当に仲が良いのね」
「戦友でもあるからな」
「はいはい。立ち話はこれぐらいにして、三人とも部屋に荷物を置いてリビングに集合。簡単に近衛の状況を教えてくれ」
  アスナは背後をみて頷いた。そこにはストラトと離宮を管理する職員たちがいる。
「皆さま、お部屋にご案内いたします。お話はその後で」
  彼らが通される部屋はアスナたちが使っている部屋と近いところにある。
  三人を見送るとアスナはエルトナージュとともに一足先にリビングへと向かう。
「どうかした?」
「別に何もありません」
「ホントに?」
「本当に」
  にべもない。だから、アスナには「ふーん」とした応じようがなかった。
  が、相手に応じなくても言葉を作ることはできるのだ。
「うちのジイさんが言っていたんだけど、世の中には独り言って便利なものがあるんだってさ。だから、これは独り言」
「…………」
  彼女は口を閉じたまま。独り言に返事をしたらマナー違反だ。
  アスナは小さく頷くと独り言を始めた。
「エルが側にいてくれると嬉しい。頑張ろうって気になるんだ。内乱を乗り越えられたのもエルにだけは見栄を張りたかったからだと思う。立派な近衛騎団の主になるってのだって、もちろんあるけど、やっぱり最初の一歩はそれなんだ」
  あの初対面での無茶苦茶な口論。理路整然とは程通りやりとりがあったからこそ、今があるのだ。言葉ではなく、あの時見たエルトナージュの今にも泣き出しそうな顔。
  泣かせたくないと思ったのだ。
  そのためには嘘でもハッタリでも何でも良い。強く見せねばならなかった。
  自らの悲嘆よりも、初対面の女の子に味方することを選んだ。
  あの時の無茶苦茶な勢いがなければ、今ここにアスナはいなかったはずだ。
  心の中で震えながら一歩を踏み出し、強引に勢いを付け、ヴァイアスたちに背中を押されてここまで来たのだ。
  勢いはいつか必ず終わってしまうもの。だから、次の一歩を始められる力が必要なのだ。
「エルはオレを魔王にするって言ったけど、それだけじゃダメなんだ。魔王であり続けるために側にいてくれないと困る。一緒にやりたいと思ってるんだ」
「けど、私は……」
  声が若干湿っている。だが、それ以上は言わせない。
「独り言」
「…………」
「今のオレにとってラインボルトは凄い小さいんだ。知ってるのは戦場ぐらい。良い思い出は全部人なんだ。エルやサイナさん、ヴァイアスやミュリカたち近衛の皆、ストラトさんはじめ日常的に接する人たちぐらいなもんだ」
  先導するストラトは振り向きもせず、歩みも乱れない。これはアスナの独り言だから。
  息を吸い込み隣を歩くエルトナージュをアスナは真っ直ぐ見た。
「エルにはオレの王妃さまをやって欲しい。政治的にどうこうとか色々とあるんだと思う。けどさ、見栄を張りたい相手ぐらい自分で決めたい」
  彼女は頬を朱に染めて、しかしアスナを見ようとはしない。
「エル?」
「独り言なんでしょう。独り言に返事なんかしません」
  そういうが声が上擦ってしまっている。
「そっか。なら仕方がないか。だったら、今度は頃合いを見てもう一度プロポーズするよ。それまでは恋人で良いかな?」
  この休暇の間にしっかりと関係を明らかにしておこうと思っていた。
「……はい」
  彼女の返事にアスナは笑みとともに大きく頷いた。
  エルトナージュが抱え込んでいる様々な物がまだ未解決だから、受け入れてくれるか内心では不安だった。
「改めて、これからもよろしく」
「うん」
  ストラトに命じてお茶の準備を進めさせる。
  アスナ個人としては自分でした方が気が楽なのだが、これからは諸外国からの客人と歓談をする機会が増えてくる。それに備えての練習だった。
  艶やかな白く薄い硬質磁器の器が並べられていく。ラインボルトのみならず他国から買い集めた物がこの離宮には数多く収蔵されている。好事家垂涎の品々だ。
  この手のことに興味がないアスナから見れば奇麗な器程度でしかなかった。
  普段、私室で使用しているのは分厚く底の深いマグカップであり、飲んでいるお茶も庶民のものと全く同じだ。
  料理をするということから一般に美食家だと思われているが、それと同じ程度に雑な物も好きなのだ。
  程なくして荷物を置いてきた三人がリビングにやってきた。
  普段着ではなく近衛騎団の制服のままだ。護衛のためという名目での滞在なので、彼らなりの気持ちの線引きなのだろう。
  アスナは三人に席を勧めると早速、報告するように促した。
「それじゃ、先に報告よろしく」
  ストラトが各人の茶器にお茶を注ぎ始める。卓の中央には茶菓子が用意された。
「訓練の方は大きな問題もなく終わったんだが、以前と同じ様に動かせるかといえば否だ。内乱の時ほど無茶な使い方が出来ないと思っていてくれ」
「理由は? 補充した兵隊の訓練が足りてないっていうんじゃないんだろ」
「近衛騎団は軍から人員の融通を受けているんだが、今回の補充でやってきた兵の扱いが難しいんだ。練度だけでみれば平均的だと思ってくれればいい。だけど、問題になるのはそいつらの出自なんだ。名家や貴族出身者が多いんだ」
「……あれ、ラインボルトって貴族がいないんじゃなかったっけ?」
  幻想界で目覚めて間もない頃、そのようにストラトから説明を受けた記憶がある。
  アスナはその辺りの捕捉を求めようとストラトを見た。
「政治的な特権を世襲する者という意味での貴族はいないという意味で申し上げました。過去の戦争でラインボルトへ帰属した家系に与えられる爵位、大臣経験者や名家院の議長や長老格などに爵位が授与されています。例外は王族と準王族待遇であるラインボーグ、ボルティス両大公のみです。誤解を招きましたことお詫びいたします」
  貴族が世襲できるのは称号と公式行事への参加に関わる補助を受けられるぐらいだ。
「うん。それだったら、確かに貴族はいるけどいないようなものか。ありがとう、ストラトさん」
  再び身体をヴァイアスに向けると、彼は説明を再開する。
「貴族や名家は特権がなくても、土地の名士だし富豪でもあるんだ。だから、配属が決まると、うちの息子をよろしくって感じで近衛に献金してきたんだ。こっちとしても予算が増えるのはありがたいし、配属されてきた将兵も目くじら立てるほどでもない」
「けど、金を貰ったから実戦に使うには躊躇するってこと?」
「そう。内乱で俺たちは名を挙げたから、近衛に配属されることが今まで以上に名誉な扱いになってるんだ。何人かは退役するまでの良い腰掛けにするつもりだ」
「そういうのを送り込んできたってことは軍は近衛騎団に大人しくしていて欲しいってこと?」
「まぁ、そうなんだろうな。でだ、アスナの意見を聞いておこうと思ってる。なにも無いんだったら、そのまま俺に丸投げしてくれても良い」
「仮に丸投げしたらどうするつもりだ?」
「近衛総監部の警備か、王宮府関係の施設の儀仗兵辺りかな。元々、持ち回りでやっていたから、古参の兵を何人か実戦部隊に編入するのに丁度良い」
  近衛総監部は近衛騎団の事務的な事柄を引き受ける部署だ。
「うちの息子をよろしく言われてるんだから、本人の希望を叶える方向で良いんじゃないか。実戦に出たいっていうのならそれでいいし、腰掛けのつもりなら儀仗兵やっていて貰えばいいんじゃないか」
「分かった。そういう方向で調整しておく。それとワルタ方面軍から一時報告書がうちにも届けられたから試しに近似した状況を想定した訓練をやってみた」
「あぁ、あの巨大ゴーレムが襲ってきたってヤツか」
「そう、それ」
「あれって、滅茶苦茶巨大だったそうだけど、あれを近衛でも再現できたのか?」
「いや、そうじゃない。でかいのは無理でも大人程度の背丈の人形なら作れるのが何人かいるから、そいつらにやらせたんだ」
  そういってヴァイアスはエルトナージュを見た。
「もし直に見てみたかったらエル姫に頼めばいいさ。報告にあったヤツほどじゃないが、十分巨人って言えるのを作ってくれるぞ」
「へぇ」
「場所さえあれば四、五体ぐらいなら作れますよ。ただ演習場の再整備に手間取ってしまうので控えるように言われています」
  二人が話をしている間にミュリカがヴァイアスに資料を手渡している。
「話を戻して、ゴーレムを作れる団員がいる隊に報告書の概要を教えて演習中、自由に使うように命じたんだ。結果は思った以上に困ったことになった」
「対戦相手の頭数が増えただけじゃなくて、追撃する時に足場をデコボコにされて満足に戦えなくされたとか?」
「お前は……ったく、その通りだ。どこからそういう発想がくるのやら」
「ちょっと前にホワイティア将軍から道路整備の追加予算下さいって言ってきたんだよ。噂の巨大ゴーレムが街道に大穴開けたせいで物流が困ったことになってるみたい」
「そういうことか。岩窟属は魔法を使うのが上手とは言えないが、才能があるヤツはこの手の魔法が得意らしい。組織的に道路を潰されると厄介だ」
  ロゼフの奥深くまでラインボルト軍が進んだところで、この手法を使って街道を切断されればゲームニスたちが干上がってしまう。
「対策は何かあるか?」
「近衛騎団の手に余る。宰相や参謀総長にアスナから心配しているって話しておけば、何か手を打つだろ」
「分かった。二人に手紙でも出しておくよ」
「それでしたら、ボルティス様にお任せした方が良いです。先日も注意されたばかりですし」
「んー……、分かった。そうする」
「お、ついに大公が帰ってきたのか。早速、説教されたんじゃないか? もっと大人に任せろみたいなこと」
「よく分かったな」
  そう応じるとヴァイアスは苦笑した。
「オレも団長に任命された頃に同じようなこと言われたんだよ。ただ、任せることと、遠慮することは別だからその辺り注意しておけよ」
「忠言、ありがたく受け取るよ。で、他には?」
「内乱の時の反省からアスナ専属の護衛中隊を編成することにした」
「今までとあんまり変わらない気がするけど?」
「これまで通りの護衛任務だけじゃなくて、万一の時にはお前を逃がす役割もある」
「騎団に捨てがまりやらせる事態ってのが想像出来ないな」
  少数の部隊を残して死ぬまで敵の足止めをさせ、それが抜かれればまた同じようにする。
  そうすることで将を逃がす撤退戦術だ。
「俺だってそういうことにはなって欲しくないけど、ラメルでの撤退戦を覚えてるだろ。あれをもっと上手くやるにはどうすればいいか、あの時よりも劣勢の場合はどうするかを考えた結果だ。ちなみに護衛中隊の隊長はサイナに任せている」
「よろしく、サイナさん」
「はい。お任せ下さい」
  彼女は柔らかく笑って見せた。すぐに表情を真剣なものに改める。
「つきましては一つ確認したいことがあります」
「なに?」
「ワルタ地方への視察は姫様も同行されるのですか?」
「そのつもりだけど」
「一度手合わせをお願いします。今の姫様の技量を知っておきたいと思っています」
  アスナはエルトナージュを見た。
「どうする?」
「……分かりました。受けて立ちます」

 その後は気楽な時間が流れた。
  ヴァイアスたちは訓練中に起きた笑える失敗談を聞いたり、碁盤遊戯を興じた。
  離宮に収蔵されている食器を見て回り、気に入ったものがあれば王城で使ってはどうかとストラトから勧められたりした。
  アスナはその中から幾つかを選び、それと似たデザインの食器を作るように命じた。あまりに高価な物を日常的に使うことに気が引けたのだ。
  また、真贋をはっきりとさせるために食器の底にそれと分かる刻印を入れることも続けて命じたのだった。
  余談ではあるが、この話が知られるようになると富裕層の一部が模造品を欲しがった。
  偽物だが未来の王が使用する食器なので良質だ。そのこともあり私的、もしくは贈答品として買いたいとの申し出が多く出たのだ。
  王宮府は検討を重ねたところ、特定の窯で作ること、贋作を示す刻印を押すこと、そして若干意匠を変更することで受注することになったのだ。
  晩餐を終えると各人の部屋に戻り寛ぐことになった。
  ヴァイアスは夕方頃に届けられた書類に目を通し、エルトナージュはミュリカの部屋で話をしている。サイナは明日の試合場となる広場の下見に出ていた。
  私室に戻ったアスナは昼間の話を手紙に認めボルティスに送ると、最近始めた写本を再開することにした。
  ただ文字の練習をするだけではすぐに飽きてしまうから、気に入った童話を書き写して一冊に纏めてみようと思ったのだ。
  識字が問題なくできるようになったら、覚えている童話も纏めてみるつもりだ。
  ……こっちには獣人がいるから公には出来ないだろうけど。
  ノック音がした。控えめな叩き方だ。エルトナージュやストラトではないようだ。
「はい。どうぞ」
「失礼します」
  明日の試合場の下見が終わった足でここに来たようだ。軍服のままだ。
「……政務の途中でしたか?」
  サイナだ。アスナは首を振りながら否定した。
「仕事じゃなくて、最近始めた遊びみたいなもの」
  切りのいいところまで書き上げるとサイナに原稿を手渡す。
  ある程度纏まったら製本もするつもりだ。
  原稿を受け取ったサイナは真剣な表情で読み始める。
  ある程度、幻想界の文字を書けるようになってきたが、まだ奇麗な字とは言えない。
  なぜか最初からこちらの文字を読めることもあって、感覚的には漢字の書き取りや習字に近い。
  もし、読む方が全く駄目だったら写本云々なんて言っていられなかっただろう。
「童話、ですか」
「故郷に勅撰和歌集ってのがあったから、それを真似て気に入った話を纏めてみようかなって思ったんだ。オレたちが歴史の人になった時、これが発見されたら未来の人たちはどう思うかな」
「選ばれた物語から色々なことを想像すると思います。好みは人柄が表れるものですから」
  ありがとうございます、とサイナは原稿をアスナに返した。
  受け取ると原稿を書類束に纏め王城から持ってきた鞄の中に筆記用具ごと収納する。
「そういえば、幻想界の筆記用具って筆とペンだけ?」
「そうですね。学校では大きな黒い布を生徒たちの前に広げて、光の魔法を使って文字や数字を書いて授業をするなんてこともしていますよ」
  攻撃魔法の様な強力なものでなければ、魔法の使い手は多くいる。面白い活用方法だ。
「へぇ……」
  電飾みたいだ、とアスナは思った。
「ただ、ある程度部屋を暗くしないといけないので目が疲れやすくなりますし、窓を開けられないので夏場は教室が暑くなるのが欠点ですね」
「もし、そういう不便をなくせる方法があったらサイナさんは使う?」
「使います。何か考えでもあるのですか?」
「ちょっとね。完成できたら教えるよ。商売の種になるかもしれないし」
  アスナが考えていることは幻想界にない、もしくは一般的ではないチョークと黒板、そして鉛筆のことだ。
  チョークは幼い頃に水と石膏を使って作ったことがある。鉛筆についても学校行事で鉛筆工場に見学に行ったことがあるので大雑把にだが作り方を知っている。
  これを王宮府の技術者に伝えれば作れるはずだ。
  アスナが命じて作らせた鉛筆とチョークは長期間に渡って多大な収益をもたらしてくれることになる。また大量生産における品質の均一化をアスナは命じており、これが企業体としての王宮府の信用を底上げすることに繋がっていく。
  が、それはまだ少し未来の話だ。
  アスナは椅子から立ち上がると部屋に設えられたソファに腰掛けた。自分の隣をぽんぽんと二度叩いた。
「サイナさん、こっち」
「はい」
  誘われるがままにアスナの側に腰を下ろした彼女にもたれ掛かるようにして彼はサイナの太股に頭を載せた。
  鍛えていることもあり、それなりに彼女の太股は固い。だが、それが良い感触となる。
  アスナは犬が臭い付けをするように頬を擦り付けると彼女のお腹に顔を当てた。
  あの時と同じ石鹸の香りがする。梳られるように撫でられる感触が気持ちいい。
「お疲れのようですね。よく眠れていますか?」
「んー、多分。先生にはもう少し身体のことを考えろって言われてるけど、色々と追い付かなくってさ。仕事だけじゃなくて、勉強もしないといけないからさ。手紙ぐらいは自分で書けるようにならないと王様失格だと思うしさ」
「あまり無理はしないで下さい。誰もが姫様のようには出来ません」
「けどさ、エルから王位を奪ったようなものだから、しっかりやらないと」
  髪を撫でていた彼女の手がアスナの頬を軽く抓った。
「そのようなことを仰られると姫様が惨めな思いをされます。これからも側に置かれるのでしたら尚更です。王妃に迎えるのでしょう?」
  サイナの太股の上で頷いた。ごわついた軍服の感触がする。
「国の継続性云々とは別にオレが王様をやるには見栄を張る相手が必要なんだ。けど、それじゃ何時か必ず何かが壊れる」
  ……我ながら最低なことを言ってるな。
  好きだとか、愛してるとか甘やかな言葉を添えられればいいのだが、それが出来そうにない。心情に嘘はない。その中に含まれる打算的な物を見せずにはいられない。
  つまり、アスナはサイナに甘えているのだ。
  エルトナージュには、少なくとも今の彼女には積極的に甘えられない。
  お互いに甘え合えるだけの余裕がまだないのだ。
「私の忠誠は便利な道具ではありませんよ?」
「分かってる。だから、これはオレの我が侭。サイナさんに一緒にいて欲しい」
  エルトナージュのこととは関係なく必要なのだ。
  現状もそうだが即位を果たしたら、アスナには一切の逃げ場がなくなってしまう。一挙手一投足、ありとあらゆる言動が注目され、周囲の者たちに影響を与えずにはいられなくなる。
  些細なことで誰かが死傷することだって十分にあり得るのだ。
  権利には責任がついて回る。しかし、ずっと背負い続けることは出来ない。
  一時的であっても荷を降ろす必要がある。
  エルトナージュには王としての自分を、サイナには衣を脱いだ自分を預けられる。
  そういった時間があって始めて公の場で王の見栄を張れるのだとアスナは思う。
「アスナ様は王になられるのですね」
「なるよ。王様になって気に入らないことを変えていくんだ」
「どんなことを変えていくおつもりです?」
「色々、かな。この世は色々と不便だから少しずつ変えていくんだ。便利な物は売れるから、それで贅沢をするんだ。目指すは世界旅行」
  一国の王がそれを行うには移動手段はもちろんだが、世界的な秩序を構築していなければならない。襲撃される心配なく、国内も安定している。
  そうでなければ、国が王を送り出すことなんて出来ない。
  こういうことも幻想界統一を為した一つの証明だ。
「私はアスナ様にとって都合が良いだけの女ではありませんよ」
「うん」
「それに私の家系はアクトゥスとの関係を難しくするかもしれません」
  彼女の祖先を辿ればアクトゥスの王家に繋がっている。
  情報の行き違いや思い込みなどが重なり、帰国することが出来なくなった彼女の祖先は当時の魔王に保護されラインボルトに定住することになる。
  その際の政治的な決着として彼女の家系は海から追放されることになった。海聖族にとってこの処分は最も重いものであり、今も彼女の一族は律儀にそれを守り続けている。
  当時を知る人はボルティスだけとなっており、この処分も失効していると見なして良いのかもしれない。しかし、使える物を使うのが政治でもある。
  サイナの一族の名誉を回復させる対価に何かを要求してくるかもしれない。
「大丈夫。もう悪いんだから、これ以上悪くなることはないよ」
  内乱中、介入を仄めかしたりリーズをこちらに嗾けようとしていたこともあって、険悪とまではいかないまでも両国の関係は悪化している。
  親アクトゥスの議員を始めとする関係者が奔走して改善を模索しているところだ。
  アスナの副王就任式にアクトゥスの外交官を招待しており、その席上でとある提案をする予定になっている。これを契機に関係改善に迎えるのではないかと政府は考えている。
「それに仲直りしたいって思ってるのは向こうなんだしさ」
  アクトゥスとしてもリーズとの争いの支援をラインボルトに頼みたいこともあって、機嫌を損ねるようなことはしないはずだ。
「だから、問題にはならないし、させない」
  彼女の手を取りしっかりと断言をした。
  ラインボルトはアクトゥスに対して内乱中、圧力を掛けたことに抗議をすると同時にロゼフとの戦争への支持を求めている。
  外交とは互いに要求し合うことだ。妥協しあったり、棚上げしたりと結果は様々。
  戦争にならなければ問題にはならない。
  すでにサイナの家系のことはアクトゥスが勘当することで決着が付いている。
  今更、蒸し返す方がマナー違反だ。
「では、私に言い訳をください」
  彼女が何を欲しているのか直ぐに察した。
  アクトゥスだけではなく彼女の一族からの視線もあるのだろう。それをはね除けるだけの抗えない何かを必要としている。
  だから、アスナは彼女の掌に一度くちづけをすると至極単純な言葉を贈った。
「ずっと、オレの側にいろ。サイナ」
「はい」

 試合場は馬場を用いることになった。
  多少、暴れても整地しやすく広い場所はここだけだった。
  今は一切の設備が撤去されているが、側近くに建てられている倉庫には各種馬上競技を行えるだけの備品が整えられている。
「今回はご用意できませんでしたが、事前にご要望いただければ競技を観覧できるよう手配を整えてきます。軍人以外にも競技を嗜む方が多くいます。方々に声を掛ければ、アスナ様に披露したいと参集してくれることでしょう」
  馬場近くに建てられた木造の小屋のテラスに椅子と卓を広げて朝のお茶会の風情だ。
  ストラトが煎れてくれたお茶から良い香りが立ちのぼっている。
「うん。戦争が終わったらちょっとした競技会をやってもいいかもね。生で見たことがないから興味がある。確か勝者は敗者を人質にとって身代金を奪う権利があるんだっけ」
「余所の国ならまだしもラインボルトで身代金なんて発生しないって。その代わり主催者が賞品を用意するんだ。馬具とか賞金とかな」
「よかった。遊びで身代金はさすがにやりすぎだと思ってたから」
「貴族同士の利害調整を兼ねてるから身代金云々って出るんだろうな。馬上試合以外にも同じような競技会があって見てみると面白いもんだぞ」
「例えば?」
「水に関わる種族だったら水泳大会だし、鳥人とかだと編隊飛行とか地上の獲物を如何に迅速的確に手に出来るかとか、賢狼族だと幾つかの森とか山を踏破して目的地にたどり着くとか種族ごとに違いがあって面白いんだ。さすがに賢狼族のは参加しないと面白味は分からないだろうけどさ」
「ふーん。それぞれ特徴があるもんだな。……さっきからソワソワしてどうかした?」
  視線を左右に巡らせ、時折物言いたげにアスナを見ていたミュリカである。
  納得しがたいという言葉を顔一杯に貼り付けている。
「随分と落ち着いてらっしゃるんですね。それに手も早いですし」
「兵は拙速を尊ぶって言うだろ? それにエルをお勧めしたのはミュリカじゃないか。むしろ、良くやったって誉めてくれてもいいんじゃないか?」
「そうだけど、そうなんですけど! もうちょっとこうあるじゃないですか」
  両手を降りつつ、しかし彼女は自分の感情を上手く表現できないでいる。
「オレも他人事だったとしたら何やってるんだ、コイツラって思うだろうけどさ。あんな無茶苦茶な状況と勢いがなかったらエルとこうなってなかったんじゃないかなぁ。お互いこう、睨み合ってグルグルと回り続ける感じになってたと思う」
  アスナはティースプーンを茶器の中で回してみせる。
「だからって、噛み付き合うようなことまでしなくて良いじゃないですか。アスナ様ならもっと優しくしてあげられたはずです」
「ミュリカ、そこまでにしておけ」
  ヴァイアスの小さな叱責に下唇を噛んでミュリカは俯いた。
「すまん、アスナ。後でしっかりと言っておく」
  頭を下げる彼にアスナは自嘲を含んだ笑みの形に口を開いた。
「期待してくれるのは嬉しいけど、オレは何でもかんでも上手くできる訳じゃないよ」
「アスナ」
  ヴァイアスの声音に懇願の色があるが止まらない。
「オレだって必至なんだ。内乱中みたいにヴァイアスたちに丸投げなんてしてられないんだ。色んなことを周りの意見聞いたり、考えたりして決めていかないといけないんだ。勉強だってやってる。一杯一杯なんだ」
  鼻で息を吸い、勢いよく出した。
「こんなのを一年以上も続けていたエルは立派だよ。尊敬もしてる。だから分かるんだ。一人じゃ何も出来ない。国に王様は一人で十分だけど、王様は一人じゃやっていけない。それにアルニスのこともある」
  アルニス・サンフェノン伯爵。リーズからやってきたもう一人の魔王の後継者。
  彼はアスナに次代の王を譲ったが、完全に無力化した訳ではない。
「オレの代わりになるヤツがいるんだ。周りから失格扱いされたら、今度こそオレが魔王になるのを嫌がってるヤツらに殺される」
  すでに二度、アスナが人間だからという理由で殺されかけているのだ。代わりがいることに恐れて当然だ。
  本音を言えば、今回の静養も怖い。
  最期に贅沢をさせてやろうという腹づもりなのではないか、アスナが王城にいない間にアルニスを王に据えるつもりなのではないかという不安がある。
  ヴァイアスたちを強引に誘ったこともこれと無関係ではないのだ。
  スッとヴァイアスの目が細められた。
「暗殺なんてするなよ。オレはそんなこと命令しないし、勝手も許さない。もし、そんなことが起きればオレの負けになる。抱える必要のない後悔なんていらない」
「…………」
「ヴァイアス、返事は?」
「分かった。アスナを敗者にしない」
  気を許している相手とはいえ、いらないことを話してしまったとアスナは後悔した。
  それでも一度開いた口は止まらない。
「オレもそうだけど、エルだっておかしくなってる。普通じゃないんだ。お互い様なんだ。そのことはミュリカだって薄々気付いていたろ」
「…………」
「オレたちは噛み付き合うところからしか始められなかったんだ」
「……すいま、ごめんなさい」
  頷いて彼女の謝罪を受け入れる。アスナにとっても半ば八つ当たりだった。
  友人に対する甘えとも言えた。
「ミュリカはそのままエルの味方でいてくれたら良い。絶対に支えになるから。遠回りに見えると思うけど、それが一番の近道になるんだと思う」
「はい」
  この話はこれで終わり、とばかりにアスナはお茶を飲み干した。
「ストラトさん、お代わり」
「はい」
  彼は茶器に新しいお茶を注ぎながら提案をした。
「離宮の敷地内に小川が流れております。明日以降、そちらで釣りに興じてみては如何でしょう」
  非難の言葉が出そうになったがアスナは強引に飲み込んだ。ストラトは敢えて空気を読んで強引に話題を変えてくれたのだろう。
「釣りだけではなく水遊びもお楽しみ頂けるかと」
  屋内で静かにしているよりも仲直りの切欠を作りやすいだろう。
  アスナはストラトに感謝しつつこの提案に乗っかることにした。
「うん。それじゃ、明日辺り行ってみようか。……二人はどうする?」
  ヴァイアスとミュリカは一度顔を見合わせると、
「行くよ。一人で行かせて大物釣ったって自慢されても悔しいしな」
「私もご一緒します」
  そういうとミュリカは小さく頭を下げ、アスナもそれに応じた。
  先ほどの話はこれで一区切りだ。
「そろそろ姫様方も準備を終えつつあるはず。団長も場所を整え始めた方が宜しいのではありませんかな?」
「そうだな。そうするか」
  ヴァイアスは勢いよく椅子から立ち上がると馬場に向けて手を翳した。
  次の瞬間、ガラスで出来た立方体のようなものが出現した。
「こんなもんかな。二人が大暴れするようなら様子を見て強化する方向で行くか」
「……なに、これ」
  初めて見る魔法にアスナは眉間に皺を寄せた。
「おなじみの防御魔法。その応用。今回は魔法有りってことだから、流れ弾があっちこちに飛んで離宮の施設を壊さないようにするための措置だな。一対一程度だったらあれぐらいで十分なはずだ」
「いやいやいや。こんなの始めて見たぞ。防御魔法って嘘だろ」
「アスナ様も見たことがありますよ。矢を防ぐ時に展開していた壁と同じものです。それを建物みたいに組み上げているだけです。と言ってもこんな器用な真似はヴァイアスぐらいしか出来ないと思います」
  私だったら、と言うとミュリカは前面に防御魔法による壁を展開して見せた。
  彼女の身長と同じ程度の高さの魔法の板が淡い虹色に光っている。
  アスナが見やすいように気を遣ったのだろう。その壁が縦や横に伸び縮みする。
「普通ならこんな感じの壁を二、三枚も出せれば一人前。ヴァイアスみたいに自在に形を作るなんてことは出来ません。ヴァイアス」
「おう」
  返事と同時に彼はアスナに向かって立方体に形作った防御魔法を放り投げる。
  思わず反射で受け取ったが手に痛みは一切感じない。
  表面はガラスのようだが、叩いてみた感触はブロックのようだ。
「見てろよ」
  透明だったものが赤に着色され、立方体は三角錐や球体、デッサン人形のような形に変化した。
「ま、こんな感じだな。実を言うと行軍中も野営地の周辺に壁を造ってたんだ。夜中に魔獣に襲われるなんてことはなかっただろう?」
「言われてみれば確かに」
  手の中にある人形の額にデコピンをした。
「防御魔法だけだって言うのは止めた方が良いな。もっと凄い使い方が出来るはずだ。近衛騎団の運営は副長のデュランさんに任せて、こっちの練習をして貰った方が良いかも」
「おい。何をさせるつもりだ……」
「お待たせしました」
  かけられた声にアスナは振り返った。革製の鎧に身を包んだエルトナージュとサイナが立っていた。胴体を守るものだけではなく臑当てや籠手、兜も纏っている。
  二人とも長い髪は纏めて兜の中に収めているようだ。
「二人ともよく似合ってる。女の子相手にこう言うのは変かもしれないけど。うん、……凛々しくて良いな」
「ありがとうございます」
「……ありがとう」
  サイナはてらい無く、エルトナージュは気恥ずかしげに礼を述べた。
「それでは改めて試合の形式を確認します。近衛騎団とともに移動中、敵集団の奇襲を受け混戦となった。姫様には背後にいるアスナ様を守っていただくという想定で行います。奇襲を想定しているので試合時間は三分とします」
  周囲には護衛が多数いるためエルトナージュは大がかりな魔法が使えず、背後にはアスナがいるため動き回ることが出来ない。対してサイナはアスナを討ち取ることが目的だから手段は豊富にある。
「姫様にとっては一方的に不利な条件ですが、アスナ様と行動を供にされるのでしたらこのような場合を想定しなければなりません」
「そうですね。アスナ様がいらっしゃるのなら何があってもおかしくないですもんね」
「奇襲ぐらいは当たり前にあると思うぐらいで丁度良いな」
  納得顔のヴァイアスとミュリカを見たエルトナージュは半目でアスナを見た。
「何をしたんです?」
「まぁ色々と、ね」
  半笑いするアスナに近衛の三人はしょうがないなぁという表情を浮かべる。
  脇に逸れた話をサイナが元に戻す。
「……審判は執事長殿にお願いします」
「お引き受けします。勝敗の判断は姫様がサイナ様から一本取る、もしくは三分間現状を維持する。サイナ様は姫様から一本を取る、もしくは背後に何らかの攻撃を与えるかで勝敗を判断して宜しいでしょうか?」
  サイナは血筋で考えればアクトゥス王家に連なるが現在はラインボルトの名家の出でしかない。また、近衛騎団の一団員でしかない彼女に執事長が敬称を付ける必要はない。
  ストラトはサイナをアスナの寵姫として接することにしたようだ。
「姫様、これで宜しいでしょうか」
「えぇ。構いません。ですが、試合時間が三分というのは短いのでは?」
「いえ、三分もあればアスナ様の守りを強化できます。この時間を想定してのことです」
  なるほど、とエルトナージュは頷いた。
「それでは試合を始めましょう」

 ヴァイアス謹製の試合場の中に入ると懐かしさを覚えた。
  昔は良くこの中で訓練をした。周囲への被害を考慮すると演習場であってもエルトナージュたち人魔の規格外が心の行くままに魔法を行使出来ないのだ。
  彼自身の練習を兼ねてのことだったが、自由に魔法が使えることは楽しいことだった。
  あの頃は今よりもずっと気楽だった。
  父は健在であり、国の内外で特段の憂慮すべき事態も起きていなかった。
  正面に十歩ほどの距離を置いて対峙するサイナともこうやって訓練の相手をしてくれた。
  あの頃は近衛騎団の士官候補であった。彼女は軍からの出向組ではなく、ヴァイアスやミュリカと同じ近衛騎団生え抜きだ。
  何かしらの理由があれば軍に戻ることもある出向組とは違い長く付き合っていけるので教官役や訓練相手に選ばれるのは主に生え抜きの者たちであった。
  訓練以外にもお忍びで街に遊びに行く時にも付き合って貰ったことがある。
  友人だとエルトナージュは思っている。
  その彼女とアスナを巡って寵愛を競う相手になるとは思いもしなかった。
  なぜヴァイアスは彼女をアスナの側に就けたのか、と考えたこともある。
  頼みやすく、任せても心配がないからだとすぐに思い至った。
  ヴァイアスたちにとってサイナに任せることは当然の選択だ。
  サイナは槍を構えてこちらに穂先を向けている。訓練なので刃は潰されている。対峙するエルトナージュが持つ剣も同じ処理が施されている。
「姫様、姿勢が悪くなっています。あまり集中が出来ていませんね。少し位置を変えましょうか」
  お互いに距離を保ちつつ、サイナが手で示した場所に移動する。彼女はこちらに穂先を向けたままなので、こちらもサイナから視線を外すことができない。
「そこで。……背後を確認して下さい」
  言われるまでもなく分かっている。振り向いたそこには暢気にお茶を飲んでいる。
「しっかりと想像して下さい。周囲は交戦中であり、背後にはアスナ様がいらっしゃいます。これから赴くワルタ地方はまだ鎮定の途中です。ロゼフ軍残党がいると仮定して行動すべき場所です。彼らにとって一矢報いる相手としてアスナ様は格好の標的です」
「…………」
  黙って頷いた。エルトナージュにとって容易に想像できた。
  彼女はすでに同じ状況を経験している。この想定が如何に困難であるかをエルトナージュはよく知っているのだ。自然と血の気が引き、鼓動が早くなる。
「では、始めましょうか。……執事長殿、お願いします」
「承知いたしました。……始め!」
  サイナが飛ぶような勢いで吶喊を始める。十歩程度の距離などサイナにとっては無いも同然だ。彼女が構える槍の向かう先はエルトナージュの胸元だ。
  精密な一撃は強力であると同時に避けやすくもある。だが、今は背後にアスナがいる想定だ。彼の技量を考えれば避けた瞬間に敵の目に彼を晒すことになる。
  エルトナージュは一歩前に出て迎え撃つ。果たして彼女の剣は穂先を打った。
  これだけではまだ足りない。穂先の軌道が肩口にずれただけ。すぐさまエルトナージュは左手から衝撃の魔法を撃とうとする。この試合は制限時間が三分。再び距離を作ったら弾幕を張り、こちらに近づけさせなければ勝ちだ。
  これは試合。あの時に見た雲霞のような死者の群が相手ではないのだ。
  だが、相手はエルトナージュが想定したよりもずっと早く動いた。
  ……石突きがきた!
  弾かれた勢いを制御して、サイナは石突きを左下段よりも振りまわした。
  内心で驚嘆しつつも身体は即座に後退に動く。たった一歩分の距離であっても、それを埋めるためには時間が必要となる。それこそが迎撃するために必須の要素だ。
「想定が甘いですよ」
  聞こえた声に導かれてエルトナージュはあることに気付いた。サイナが持つ槍が濡れていた。彼女は水を操る魔法の使い手だ。
  振り上げられた石突きに向かって水が駆け上がっていき、薄い刃と化す。
  反撃が封じられた。エルトナージュは右手を差し出して防御魔法を展開する。
  壁に叩き付けられた薄い刃は砕かれ水滴に戻る。
  振り上げられた石突きは彼女の身体を擦ることなく通り過ぎている。
  槍の勢いを制御しようとする僅かな間、エルトナージュの目にサイナの脇腹が晒された。
  ……手順がずれたけれど!
  防御魔法を展開していた右手から再び衝撃魔法を放とうとする。
「得意なことに頼りすぎない」
  声が聞こえると同時にエルトナージュの右手を水弾が撃った。
  ……いつの間に!?
  何が起きたのか理解する間も与えられず、再び振り下ろされた槍の穂先がエルトナージュの首に当てられた。
「そこまで。サイナ様の勝利」
  ストラトの声が響いた。お互いどちらともなしに吐息を漏らす。
  サイナはそのまま後ろに後退をして再び槍を構えた。
「では、今の一戦を踏まえてもう一度」
「はい。分かりました」

 試合数はすでに二十を越え、その全てにサイナは勝利している。
  人魔の規格外は確かに強力だ。単身で竜族を屠り、圧倒的大多数の敵を殲滅できる存在だ。だが、力押しできない条件下では個人の技量が著しく露呈する。
  確かにエルトナージュの魔法は驚嘆すべき破壊力を持つが、それだけのこととも言える。
  これまで何度もサイナと試合をしてきたがここまで連敗が続くことはなかった。
  状況に合わせて魔法を使い分ける経験が圧倒的に不足している。故に個人の技量はもちろん、護衛に関する訓練を受けているサイナが相手に勝つことが出来ないのだ。
  そういったことをヴァイアスに解説して貰ったアスナだが腑に落ちないこともある。
  側にいるミュリカが先ほどから異常なほどソワソワしていることがアスナが得た違和感に確信に近いものを与えていた。
「サイナさんからあれこれ指摘を受けてるけど、それを反映していない気がする」
  指摘されたことをすぐに実践できなくても違った動きをする試みはあってもおかしくはない。エルトナージュからはそれが余りにも感じられないのだ。
  何か気付いたことはないか、とアスナはヴァイアスたちを見た。
  二人とも何かを言おうか迷っているように見える。特にミュリカに顕著だ。
「オレが知らなくて良いことなら聞かないけど」
「いえ……、多分エル様はお母様を亡くされた時のことを思い出してしまっているんだと思います。試合の想定があの時と似ていますから。サイナさんに負け続けることで当時の無力感を再確認してしまったんだと思います。でなければ、あんな進歩のないことをエル様がするはずがありません」
「やっぱり、そこに根っこがあるのか」
  頭を乱暴に掻いた。髪が乱れ、爪先を見たら若干血が付いていた。
  アスナは椅子の背に深く身を預けて鼻から長い息を吐いた。
「二人はオレにエルトナージュを任せてくれたと思って良いんだよな」
「…………」
「はい」
  頷きと言葉が即座に返ってくる。
「これから色々とあると思うけど助けて貰って良いか?」
「今更だ。当然のことを言うな」
「何をなさるおつもりなんですか? 時間を掛けて様子を見守る訳じゃないんですよね」
「みんなが知ってる秘密を明らかにしようと思う」
「それって……」
  主君が何をしようとしているのかを察してミュリカは顔を蒼くした。
  アスナは深く頷いて肯定をした。
「今でなければいけませんか。もう少し時間をおいて方が良いと思います」
「オレもそう思うんだけど、余裕があって纏まった時間は今しかないんだ。城に戻ったら就任式に向けた準備を始めたり外国からのお客さんの相手をすることになってる。それが終わったらワルタ地方に視察に行く。行事が目白押しでオレ自身に余裕が無くなると思う。だから、今しかないと思う。そう思って準備もしてきた」
  ミュリカは息を飲んで下唇を噛んだ。何かを耐えるように震えた彼女は顔を上げて泣きそうになりながら笑顔を浮かべた。
「エル様のこと、大切に思って下さってありがとうございます」
「結婚を前提にお付き合いをしている相手のことだから当然だよ」
  ここに来てから恥ずかしいことばっかり口にしているな、と思った。
  さて、と両膝を叩くとアスナはヴァイアスを見た。
「今の試合で一段落にしよう。話は屋敷に戻ってからだ」

 屋敷に戻るとエルトナージュとサイナには汗を流して着替えてくるように言うとアスナは自室に置いている書類束を取りに戻った。
  それはある事件の再調査報告書であった。その表紙の上でピアノを弾くように指を動かす。鈍く無意味な音が耳をとどく。
  ミュリカには強気なことを言ったが依然として迷いはある。
  本当にこれをエルトナージュに見せても良いのだろうか。ひょっとしたら酷い結果に終わるかもしれない。そう思うと報告書を持ち上げることができない。
  親指を報告書に書けて持ち上げようとする。だが、たった十数枚の紙束が異常なほど重く感じられる。
「どうした、アスナ」
  トントンと開けたままになった扉を叩きながらヴァイアスが声を掛けてきた。
「そんな不安そうな顔をしていたら上手くいくものもダメになっちまうぞ」
  後ろ手に閉めるとヴァイアスはそのまま扉に背中を預けた。
「いつも通りに悪い顔してろよ。オレに任せておけば何でも上手くいく、みたいな顔」
「失敬なヤツだな。こんなに真面目で善良な人はそうはいないぞ」
「へいへい。……で、それが話にあった報告書か?」
「うん。まったく先王陛下はとんでもない置き土産をしていったくれたもんだよ。これってやっぱりあれかな。娘が欲しければー、っていうヤツ」
「かもな。さっさと踏ん切りつけて居間に行こう。ご婦人は風呂が長いってのは一般的なもんだろうが、うちの女性陣が同じとは限らないからな」
  全く友人とはありがたいものだ。アスナは手にした報告書に感じる重さの違いを感じつつそんなことを思った。
  居間に戻るとストラトがミュリカや部下とともにお茶の準備を進めている。
「ストラトさん、この茶器って貴重品?」
「ご要望通り特別の価値あるものは使っておりません。ですが、アスナ様にお使いいただくに不足のない物を揃えております。それともお使いになりたい茶器でもありましたか」
「いや、これでいいよ。うん、ありがとう」
  もし何かがあったとしてもお金でどうにかできる物であれば問題はない。
  ふと、そういう物の考えを自然にしてしまったことにアスナは若干の驚きを覚えた。
  程なくして汗を流し終えたエルトナージュとサイナが居間に戻ってきた。若干上気した肌が艶やかに見えて胸が高鳴る。
「二人ともお疲れ様」
  ……どうやって話を始めたら良いか。
  アスナの逡巡を見て取ったのかミュリカから切り出した。
「エル様、今日の試合は集中できていなかったみたいですけど、どうかしたんですか?」
「状況設定で思い浮かぶことがあって……」
  ……やっぱりそうか。
  アスナは静かに持ってきた報告書をエルトナージュに差し出した。
「これは?」
「エルが体験した事件がどういうものだったかを纏めた報告書。前に”彷徨う者”のことを調べようと思って用意して貰った物。今のエルなら意味があるものになると思う。だけど、卑怯なことかもしれないけど読む読まないはエルが判断して欲しい。色々なことが解ける糸口になるはずだけど、それでもやっぱりきついことだから」
「お母様が亡くなった時のこと、ですか」
  しっかりと頷いた。
「だけど、あの事件はそういうことで」
「読みたくなければ読まなくて良い。先王陛下もエルの目から遠ざけるようにしていたみたいだし」
「お父様が……。ストラト、本当ですか?」
「はい。今後の参考になるからと誰にでも閲覧できるように、しかし姫様には報告書の存在を気付かれぬようにとのご命令を受けておりました」
「なぜ、お父様がそんなことを」
「それについては私から申し上げることは憚られます。先王陛下は姫様のことを思ってお命じに成られたことだけは確かです」
「……そう」
  雰囲気から読んで今以上に気分が悪くものなのではないかと察したのだろう。エルトナージュは差し出された報告書に視線を落としたまま受け取ろうとはしない。
  だが、視線を逸らすこともなかった。
「アスナはこれを見た方が良いと思ってるんですね」
「うん。けど、押し付けるつもりはないよ。自分から読む意思がないといけないものだって思うから」
「これをわたしが預かれませんか?」
  ……臆病になってるな。当然か。
  すでに解が出ていることものを改めて突き付けられれば、誰だって警戒をする。
  彼女自身が当事者であることはもちろん、サイナとの試合とは関係なくアスナが離宮に持ってきたのだ。何かがあると思って当然だ。
「機密情報も入ってるから預けられないんだ。ここに持ってくるのだって、あちこちに無理を聞いて貰ってるんだ。城に戻ったら軍の担当者に返さないといけない」
「…………」
  彼女は黙って受け取った。膝の上においた報告書の表紙を見つめていた。
  誰も言葉を発しない。なぜなら報告書の内容を皆が知っているのだから。
  これまで知らなくとも問題がなかった。
  しかし、ここに坂上アスナという存在が加わったことで無害であったものが毒になってしまったのだ。
「…………」
  エルトナージュが表紙を開いた。
  誰もが無言だ。ただ微かにページをめくる音が聞こえるのみだ。
  視線を巡らせるといつの間にか使用人たちは姿を消し、壁際にストラトがいるのみだ。
  もし、ここに従者を務めるアリオンを連れてきていればどういう扱いをすればいいのか困ったかもしれない。
  彼のことは信用しているがこういった私的なことを聞かせる立場でもない。
  退室を命じる気後れを感じずに済んで良かったとアスナは思った。
  これから忙しくなるからアスナの静養と合わせて実家で英気を養うように手配したのだ。
  今頃はエグゼリス郊外にある実家でのんびりとしているはずだ。
「……えっ」
  同じ調子で動いていたページをめくる手が止まった。
  一拍の間を置いて文章を追い掛ける速さが上がった。
  最終ページまで辿り着いたが、エルトナージュは再び報告書の中程まで戻り二度、三度と読み返す。内容に変化はありえない。
  報告書の奥付には先王アイゼルの裁可を得た公文書の写しであることとが責任者の名前とともに書かれている。
  エルトナージュと彼女の母が大規模な”彷徨う者”の群に襲われた事件。土地の名を取ってトレンビール事件と呼ばれる事件の報告書だ。
  彼女たち母娘の視察を兼ねた旅行中、その一行に”彷徨う者”の群が襲いかかったのだ。
  この騒動の最中、エルトナージュは護衛たちとともに奮戦をしたが同行していた母付きの従者を務める人族の全てが母を見捨てて逃げてしまったのだ。
  身の回りの世話をしていたシアだけが母を庇って、生死の境を彷徨う重傷を負った。
  しかし、彼女が身を挺して守った甲斐なく母は傷が元で亡くなってしまった。
  故にエルトナージュは人族を嫌悪した。母に守られていたのに逃げ去ってしまった人族を憎んだ。自然な心情の発露だと言って良いだろう。
  彼女は坂上アスナという存在を得たことで、この事件が大きな毒となって苦しめている。
  だが、真相は似て非なるものだった。
  従者たちは逃げてはいなかった。母の命令を受けて近隣の集落に”彷徨う者”の大量発生を報せるべく駆け出したのだ。
  そのことをエルトナージュとともに戦った護衛隊の生存者が証言をしている。
  この通報を受けた集落は軍施設に連絡をし、応援を求めた。その結果、発生した”彷徨う者”の数から考えて圧倒的に少ない被害、つまり母たちの師匠のみで事態を収束させることが出来たのだ。もし、この報せが届かなければ近隣の集落にも多大な被害が出ていたと報告書は推測をしている。
  そして、報告書はエルトナージュのことにも言及している。
  彼女が奮闘したから集落を守り、軍を派遣できるだけの時間を得られた。
  しかし、要人護衛の観点で見れば、最初から逃げに徹するべきだったと書かれていた。
  先王が娘の目に触れないように命じた理由はここにあったのだろうとアスナは推測している。母を失ったばかりの娘が自責の念で心が壊れてしまわないように、と。
  報告書は事実のみを突き付けている。
  エルトナージュの人族嫌いには全くの根拠がない、と。
  乱暴に報告書を卓に叩き付けるとエルトナージュは居間から駆け出して行ってしまった。
「エル様!」
  追おうとしたミュリカをヴァイアスが腕を握って引き留めた。
「放して、エル様が!」
「落ち着け。こうなるって想像できてただろ」
「そうだけど」
  ヴァイアスは強引にミュリカをソファに収めた。
「いま何を言ってもエル姫には聞こえない。少し気を落ち着けさせないと。……ほら、ミュリカもこれを飲んで落ち着け」
  そう言ってヴァイアスは彼女に温くなったお茶を手渡した。
「……うん」
「それにまず声を掛けるべきなのはアスナだ。そうだろ」
「そうだけど」
  これまで黙って見守っていたサイナがアスナに顔を向けた。
「なぜアスナ様はこのことをお調べになったのですか? 人の触れられたくない過去に手を伸ばす方ではないはずです」
「悲劇を眺める趣味なんてないよ。けど、エルの人族嫌いのことを考えたら気付いたことがあるんだ。なんで二人はオレのこと、というか人族のこと嫌ってないんだろうって」
  と、アスナはヴァイアスとミュリカを見ながら言った。
「ミュリカなんて飛び出そうとしたぐらいエルのこと大切にしているのに、そのエルが嫌ってる人族のオレを最初から親切に接してくれた。ヴァイアスなんていきなり剣を捧げてきたしな。エルの母さんのことは二人だってよく知ってるはずだ。なのに人族嫌いになってないのは変だなって」
  それにもう一つ、と二本指を立てて見せた。
「LDに誘拐された時に人族の村で聞いた話を思い出したんだ。あそこには多額の予算がつけられてるって。先王陛下の命令だからだけじゃ、税収の見込みがない上に悪名がある土地に予算をつけるはずがないんだ。今も大蔵卿が金がない金がないってぼやいてるんだしさ。だから、何か理由があるんじゃないかって思ったんだ」
  そして、もう一本指を立てた。
「エルたちはトレンビールってところで襲われたんだけど、この時に現れた”彷徨う者”ってどこから来たんだ? ここは古戦場でもなければ、大きな墓地もないんだ。サイナさん、オレたちの時と似てると思わない?」
「……確かにそうです。あそこにあれほど大量の遺体があるなんておかしいです」
「リムルのときも同じだよ。だから、調べて貰ったよ。墓地を掘り返して人工的に造った”彷徨う者”の痕跡があるのかどうか」
  トントン、とアスナは自分の首裏を叩いて見せた。
「報告書読んで貰ったら分かるけど、遺骨にそれらしい窪みとか手を入れたらしい痕跡があったって報告を受けてる。”彷徨う者”を使って暗殺を企ててるバカが世界の何処かにいる」
  当時のエルトナージュは魔王の後継者の有資格者でもあった。つまり、二度この犯人は次代のラインボルト王を殺そうとしている。いや、エルトナージュが後継者として資格を失効したことを考えれば、暗殺に成功したと言って良いのかもしれない。
  そして、この事件は先の内乱の遠因でもあるのだ。
「犯人の目星は立ってるのか?」
「まったく立ってない。現在、鋭意捜査中」
「騎団で出来ることはあるか?」
「あるよ。オレをしっかりと守ってくれること。お前たちが勝手に死なないこと」
「そうじゃなくてだな」
「大事なことだって。オレが王様やってる間は追及の手を緩めるつもりはない。その間、安心して身体を預けられるヴァイアスたちがいないとどんな邪魔をされるか分かったもんじゃない」
「分かった。当たり前のことを当たり前にやればいいんだな」
「そういうこと。新入りのことで悩んでる場合じゃないぞ」
  サイナとミュリカも力強く頷いた。
  ストラトに彼の部下が何かしら耳打ちをした。
「姫様はお部屋でお休みになられています」
「分かった。……行ってくる」
「私も行きます」
「わたしも姫様を放っておけません」
  ミュリカとサイナも立ち上がる。決然とした二人の様子にアスナは肩から力を抜いた。
「部屋の外で待機、それで良いなら許可するよ」

 エルトナージュの部屋に踏み入れると清々しい陽の光が差し込んでいた。
  手入れが行き届いた部屋は心地よく時間を過ごせそうだ。
  部屋の隅には楽器を収めたケースが立て掛けられ、卓の上には装飾品の細工道具が広げられたままになっている。道具入れの側には彼女の両親の姿絵が立てられていた。
  寝台の上にはシーツを被っているエルトナージュがいた。
  大きな白い兎が丸くなっているようだ。泣きはらした目で赤くなっているだろうから間違いではないのかもしれない。
  寝台の縁に腰を下ろしたアスナは丸い兎を撫でた。
  掛ける言葉が見つからない。ただ今の姿を見てこうすることが一番のように思えた。
  いつの間にか嗚咽は静まり、涙の代わりに言葉が漏れた。
「ごめんなさい」
「……ん」
  主語のない謝罪とそれを受け入れる頷きが何度も繰り返される。
  もし、この件において人族への嫌悪が公に発露されたことはただの一度だけ。
  人族集落への予算の精査と見直しを指示したことのみ。
  集落も十分に整備されており、ここらで少しずつ予算を減らしても自活していけるのではないかという意見が出始めていたこともあり、誰も嫌悪からくる提案だとは思われなかったことだ。
  発露は全てアスナに対してのみ行われていたことは幸いだったのだろう。
  誤解が解けることによって公的な何かが変わることはないのだ。
「エルをオレの王妃様にって話。あれはこの報告書を読んだ後にしたんだ」
「うん。ありがとう」
  起き上がったエルトナージュからシーツが脱げないようにアスナは頭から改めて被せてやる。そして、思いついたことを提案した。
「ご両親のお墓参りに行ってきたらどうだ? ここにいるよりも気持ちの整理をつけるのに良いと思う」
「良いの?」
「もちろん。休みの間はここにいるから、戻ってきたかったら戻ってくればいいよ。あっちで気持ちを落ち着けたいと思ったならあっちにいれば良い」
「うん」
  頷く動きに従って落ちそうになったシーツをかけ直してやる。
  寝台から腰を上げると気を揉んでいるであろう部屋の出口へと向かった。
「アスナ」
「ん?」
「ごめんなさい。……ありがとう」
「どういたしまして」

 



《Back》 《目次》 《Next》
《Top》