第五章

第三話 語りかけた応えは

 離宮にて未来のラインボルトの安定に繋がる青臭いやり取りが展開されている一方で、首都エグゼリスでは現在の必要を満たすべく大人たちが生臭いやり取りを繰り広げていた。
  宰相シエン、外務大臣ユーリアスを初めとする外交に携わる者たちは文字通り東奔西走していた。
  アスナの副王就任式に参列する各国から派遣された使者の先遣隊との実務協議だ。
  慶事であることを鑑みて先遣団代表は王族、もしくは国家の重鎮が務めている。その一方でこれを機会にして内乱後のラインボルトはどうなっているのか探りに来ているのだ。
  中小国が気にしていることはただ一つ。
  世代交代したラインボルトが自分たちにとって脅威となるか否か、だ。
  特にラインボルトと国境を接している国々の姿勢は顕著だ。
「内乱の終結おめでとうございます」
  隣国サンクルより訪れた使者だ。
  シエンとユーリアスは彼らが滞在する宿舎に挨拶へと来ていた。
「貴国においても随分と騒がせてしまったようで遺憾でありました」
  サンクルはロゼフの隣国だ。ロゼフからの誘いを受けて共同ででラインボルトを攻めようとしていた。無主の地に秩序を取り戻すという名目まで準備をしていた。
  幻想界一般において市町村長はあくまでも代官という認識でしかない。
  魔王不在はつまり、主がいなくなった無法地帯なのだ。
  仮に何かしらの混乱がサンクルと隣接した地域に発生したならば速やかに彼らは動いただろう。実際、流通が滞ったことによる不安感から治安が乱れていた。しかし、暴動が起きる前にアスナが魔王の後継者として立ち、住民たちの不安を抑制したのだ。
  ラインボルト政府の調査によると暴動が起きるよう煽動された形跡があり、サンクルでは動員を掛ける準備が進められていた。
「シエン殿の手腕は我が国においても聞こえております」
「ありがとうございます。しかし、全ては後継者殿下のご指導の賜物です」
  先王アイゼルの崩御にともないリージュが建てた第一王朝が滅び、アスナが始める第二王朝となるのか、それともエルトナージュと結婚をしてリージュの系譜を維持するのか明らかにされていない。
  魔王の力は他国から見れば王冠や御璽などと同じ王を示す存在だ。
  故に王に即位していないアスナに任じられたシエンを宰相として扱って良いか国によって意見がことなっていた。
「坂上殿は強い御仁のようですな」
  軍を率いては百戦百勝、フォルキスを一騎打ちで降し内乱を収めただけに止まらず、ラディウスにこれ以上の進軍を許さぬよう一撃を与え、しかし戦線は拡大させなかった引き際の良さ。
  内政においても瞬く間に軍を再編させ、国内の安定へと導いている。
  現生界出身であり、貴族でもないアスナを各国の使節団はどう接して良いのか持て余しているのだった。
「果断なお方であると同時にお優しくもあります。故に内乱の結果を受け入れず暴徒となる者が現れなかったのです」
「敗残者が賊となることは良くあるが、それがないと」
「はい。全ては殿下の人徳の賜物です」
  ただ、とシエンはユーリアスに目配せをしつつ話を続ける。
「後継者殿下は貴国に対して些か不安を感じておられるようなのです」
「と、仰いますと?」
「随分と兵を集めておられるので、貴国が我々を横合いから殴りつけてくるのではないかと」
「いやいや。集めた兵は難民の流入に備えてのこと。貴国は治安を取り戻しましたがロゼフとのこともありますので兵を解散する訳にも行きません」
「なるほど」
「しかし、困りましたわね。何かしら後継者殿下にご安心いただける分かりやすい何かをお示しいただければ、私どもも説得がしやすいのですが」
  と、ユーリアスは困り顔でそんなことを言った。
「さすれば我が国もロゼフとの戦争に参加を」
「いえ、それには及びません」
  シエンは即座に断った。一つ認めれば他の国も加わってくるはずだ。
  ロゼフが蚕食されれば得られた利権の維持が難しくなり、また受け取れたであろう賠償金も不意にしかねない。利害関係者は少ないに限る。
「では、我が国から物資を融通いたしましょう。また、貴国が安定したようなので国境近辺の兵を解散させましょう」
  隣に座るユーリアスに視線を向けると彼女は小さく頷いた。
「実にありがたい申し出です。恐らく後継者殿下の不安も解消されることでしょう。先王陛下の御代の頃と同じ良き間柄を維持してまいりましょう」
「無論です。共存共栄こそ我が王の望みでもありますので」
  明らかな安堵の表情を使者は見せた。
  今までの友好関係を裏切ったと見なされて攻め込まれるのではないか、そこまで行かずとも何か制裁があるのではないかと思っていたはずだ。演技であったとしてもこのような表情をシエンたちに見せることで敵意がないことを示そうとしたのだろう。
「それでは私どもは失礼させていただきます。次は王城にて式典当日、後継者殿下とともにお出迎えいたしたいと存じます。何か不都合がありましたら遠慮なくご相談ください」
「お心遣いありがとうございます。私どもも当日を楽しみにしております」
  その後、見送りを受けたシエンとユーリアスはともに次の使節団の宿舎へと向かう。
  安全面を考慮して二人は別の馬車に乗って移動していた。
  アスナが静養を取ってからシエンはユーリアスとともに精力的に使節団への挨拶回りをしていた。内乱後のラインボルトを認知させ、その盛況ぶりを知らしめるために必要なことであった。
  先ほどのように脅すような言葉を交えることもあれば、ひたすら友好的に接することもある。内乱時でのラインボルトへの接し方も考慮されている。
  ……ボルティス大公がお戻りになられて良かった。
  本心からシエンはそう思った。
  王によって宰相に任じられた訳ではない彼は任命の経緯も加わって今ひとつ内外での権威に不足している。国内においてはボルティスが後ろ盾となってくれたことでこの不足分を補えるようになってきたと感じている。
  ボルティスとしては後継者を盛り立てる一環なのだろうが、仕事がしやすくなるのだからシエンには文句はない。
  不足なく宰相の任を勤め上げることでアルニス・サンフェノン伯爵を守ることに繋がる。
  アルニスは約束通り政治的な活動を行っていない。彼はその証として全ての来客を門前払いしていた。
  彼を盛り立てると決めた身として、シエンは最期までそれを貫くつもりだ。
  進む馬車が十字路を前にして停車した。前方を鉄道馬車が通り過ぎていった。
  その時、馬車の扉が叩かれた。
「どうしました?」
  同乗している秘書官が外に声を掛けた。
  護衛が騒ぐことなく近づけたということは不審者ではない。
  扉は開くことなく声のみが届けられる。
「エイリアは使節団を送らず。されど送れぬ理由があることを思い出して欲しい、以上です」
「ご苦労」
  エイリアは内乱中、ロゼフと同様に国境を越えて軍を派遣してきた国だ。
  彼の国の軍勢は占領することなく都市部などを略奪していったのだ。
  程なくして再び馬車が動き出した。僅かな揺れを身体に感じつつ吐息を漏らした。
  和解の端緒としてラインボルト側はエイリア王の副王就任式への参加を求めていた。
  それですべてを水に流すことはないが、ロゼフのように戦争をせずに済む。
  だが、現在エイリアはラディウス軍が駐留している。
  ラインボルト政府が考えていたよりもずっとラディウスの影響力が強くなっている。
  ……すでに外交権が奪われていると考えた方が良さそうだ。
  だが、この方面で悪い話ばかりではない。ラインボルトとエイリアに挟まれるアジタが式典に王自らが参加すると伝えてきたのだ。
  エイリアに蹂躙されまいと通行許可を出したアジタも許すなとの声が国内にあるのも確かだが、むやみやたらと戦線を増やすことは愚の骨頂だ。
  アジタと関係改善ができればエイリアに蓋をすることができる。そのための軍事的な後ろ盾を用意せねばならないが戦端を開くよりもずっと良い。
「閣下」
「大丈夫だ。事前に想定していたことでもある」
  それよりも問題はエイリアの件をどう落とし込むかだ。
  ラディウスが相手では睨み合いもやむなしと国民も納得させられるが、エイリアが相手ではそれも難しい。エイリアに略奪されたアシン地方出身議員は復讐を声高に叫んでいる。
  今後、この声を抑えていかなければならない。
  ただ何もしていない訳ではない。和解できなかった場合に備えた侵攻計画を立てている。
  だからといってこれで全てが終わった訳ではない。今後も外交努力は続けていく。
  馬車は進み、程なくして次の目的地であるアクトゥス使節団の宿舎に到着した。
  シエンらを使節団副団長セギン男爵コミス・ナードが出迎えた。
  三人は挨拶を交わしつつ会議室へと向かった。
「貴国における騒乱が鎮まったことをまずはお祝い申し上げる」
「全ては後継者殿下のご威光によるものです。セギン男爵のお言葉、確かにお伝えします」
  定型の社交辞令が進められ話は少しずつ本題へと入っていく。
「我が国は国内の平穏を取り戻し、ロゼフの脅威を遠ざけることが出来ましたが、貴国のリーズとの戦はどのような状況ですか? 随分と我が国の方をよそ見していたようですが」
「峻険な山脈を間に挟んでいても隣国には違いない。我が王も憂慮しておられたのです。長期にわたって主なき地があることは望ましくないことは貴国もおわかりでしょう」
「それがあの鎮定までの期限を設定したことですか」
「我が国としても放置はできませんので」
「なるほど。リーズを相手にして他国の内乱に手を伸ばせるほどに余裕があるのですか。実に羨ましい。それほどの豊かさを我が国も得たいものです」
「ラインボルトには余裕がなくなっているのですか」
  シエンが弱みを見せたと思ったのか若干セギン男爵の声が上擦った。
  宰相足る者が弱みを見せたかのような物言いは絶対にしないものだ。
「この後、後継者殿下の即位式も行わねばなりません。殿下ご自身に相応しい壮麗な式にせねばなりませんが、どのように趣向を凝らさねばならないか頭を悩ませております。幸いにも我が国には多くの友人がいますので内外の杞憂にも十分対処できると胸を張れます」
  アクトゥスのように国難を他国に押し付ける国ばかりではないとシエンは言っているのだ。しかし、セギン男爵はそのことに感情は動かされない。
「では、貴国の友人として幾つか提案をさせて貰いたい」
「お伺いしましょう」
「一つ。アクトゥスとラインボルトで同盟を締結し、その盟の一環としてアクトゥス海軍より教導部隊の一つを貴国に派遣いたしましょう」
  ……海軍は諸手を挙げて喜ぶだろうな。
  アクトゥス海軍の背を追い掛けるラインボルト海軍としてては垂涎の提案だ。
  また教官を務められるほどの者たちをラインボルトに避難させる意図もあるのではないかとシエンは思った。
  それはつまりアクトゥスはリーズに圧されているという可能性も見えた。
「一つ。フォルキス将軍を我が国で預かりましょう。無論、賓客として」
  確かにフォルキスをラインボルトは持て余している面がある。革命軍の首魁であったため以前と同じ第二魔軍将軍に就ける訳にはいかない。
  かといって降格させるにも上官となる者に遠慮が出る。非常に使いにくいのだ。
  アクトゥスの提案を受け入れれば、大きな借りを作ることができる。
  この二つは非公式ではあるが同じような打診が何度かあった。
「一つ。我が王の一人娘であるペル−リア姫を次代のラインボルト王への輿入れを申し出ます」
「これはまた大きな話ですね」
「良き友人は良き親族になれる。違いますかな?」
「ふむ。ベルーリア様はどのようなお立場での輿入れをお考えですか?」
「陛下ただ一人のご息女だということを考慮して貰いたいものです」
  王妃に、ということだろう。
  系譜で考えればエルトナージュ以外に考えられないのだが、彼女の実績を考えると後継者には扱いづらいと思われているのだろう。
  宰相を経験し、一時的ではあるが次代の王と言われていた女とただの無垢な娘ではどちらが扱いやすいかは一目瞭然だ。また、何も持たない人族であるアスナの後ろ盾にアクトゥスが就くということでもある。
  ベルーリア姫がアスナの伴侶となれば対外的にも地位が向上するのだから十分に考慮に値する提案と言えるだろう。
  内乱終結後、速やかにアスナへの祝いの品として海王が海神の名を有する槍を贈ったことはこの伏線だったのだろう。海神はアクトゥスにおいて英雄の証。
  王が認める英雄に姫が輿入れしても全く問題はない。
「後継者殿下の側にはアクトゥス王家と関わりのあった女性がいますが、彼女の扱いはどうせよと?」
  このような言い回しをせねば成らない一族はラインボルトには一つしかない。
  セギン男爵はすぐにどういった系譜の者か察しが付いたようだ。
「我が国にも立場があります。すぐにとは申しませんが遠ざけていただきたい」
「なるほど。……非常に有意義なご提案です」
「すでにご存知のことでしょうが此度の使節団の団長は畏れ多くも王妃殿下がお務めになられ、姫も同行されております。検討の末、良いお返事を頂戴したいと思っております」
  シエンはセギン男爵の言葉に返事をしなかった。
「実を言うと我が国からも提案があります」
「お伺いしましょう」
  シエンは頷くと隣に座るユーリアスに頷き掛けた。
「外務卿、お願いします」
「はい、宰相。我が国よりアクトゥス国に二つ提案をいたします」
  一拍の間を置いて外務卿は口を開いた。
「一つ。ラインボルト、アクトゥス、サベージ三ヶ国による皇竜海南部一帯における通商条約の締結を提案いたします。三ヶ国共同で航路上に現れる魔獣や海賊を排除し、通商の安全を確保することを目的とします。この通商を乱す第三国が現れた場合、共同でこれを排除するというものです」
「自動参戦であるという解釈はできますかな?」
「あくまでも通商航路の保全が目的となります」
  だが、それだけでもリーズから通商路を守る手間が軽減される分だけアクトゥスに利がある。無論、それを維持するために相応の負担を追わねばならないが、単独で行う圧迫感が消える。何より喜ばしいことはこれにサベージが加わるということだ。
「この話、すでにサベージ側には?」
「先日、ご挨拶申し上げた際に提案させていただきました。提案後すぐに使節団団長であるヴォルゲイフ副王殿下にご判断を求めるべく動いて下さったようです」
  サベージにとってもラインボルトとの間にある航路の安定は望むところであった。
  これまでこのような提案がなされてこなかった理由は様々あるが、最大の理由は切欠がなかったのだ。遠距離にあるというのは良い提案であっても始めることを難しくする。
  そういう意味で両国の使節団が集まる副王就任式は提案の場として最良であった。
  そして、今ユーリアスが提案したことはあくまでも叩き台だ。今後、三ヶ国の協議によって修正が加えられていく。
  こういった話し合いの場ができることもまた国家間では重要なことだった。
「確かに非常に良い提案です。私どもも検討を進めることにしましょう」
「では、続けます。一つ、アクトゥスが援軍要請をするのであればフォルキス将軍らを義勇軍としての派遣を検討する」
  人魔の規格外を援軍として得られるのであれば戦況が変わってくる。
  リーズとの戦争の折、大いに活躍をしたフォルキスが来るのであれば勢いを盛り返すことも夢ではない。
  預かり、では筋の通った名分が慎重に用意せねばならないが、初めから義勇軍としての参加であればすぐに動いて貰うことだって可能だ。
「しかし、よろしいのですか。フォルキス将軍は軟禁状態にあると聞きますが」
  そうは言っているがセギン男爵の鼻は大きく膨らんでいる。フォルキスを招くことが出来ればセギン男爵の評価も非常に高くなることは間違いない。
「後継者殿下がお認めになるのであれば、誰も文句は言えますまい」
  ラインボルト側にとってもフォルキスの派遣は意味がある。
  アクトゥスで武勲を挙げれば、古巣の第二魔軍に戻せなくてもそれなりの席を用意することができる。軍にとって人魔の規格外を死蔵させず済む。
「ですが、我が国は貴国に対してはこの提案を取り下げねばならぬようです」
  と、シエンは心の底から残念に思いつつ告げた。
  少なくともセギン男爵にはそう見えただろう。
「なぜです!?」
「この提案を公式に行う上で後継者殿下から条件を提示されております。殿下のお言葉そのままで表現すれば、人の恋路の邪魔をするなといったものです」
  より正確には『人の恋路を邪魔するヤツは竜に喰われて死んじまえ』、だ。
「本日、各国へのご挨拶に伺う前に殿下よりエルトナージュ様を王妃に、アクトゥス王家と縁のあった女性を第二夫人に迎えるとの仰せです。セギン男爵のお話を伺うと我が国が貴国に対して先ほどの提案をすれば無用の混乱をもたらすことになりかねず、それは友人として望むところではありません」
  今回の使節団への挨拶周りをしてシエンはアスナの存在は対外的にも重く見られているという感触を得ていた。次代の王、事実上の王として扱われている。
  些か武張った印象を持たれているが、興味を持たれないよりずっと良い。
  国内においては言わずもがな。坂上アスナこそがラインボルトの後ろ盾になっている。
  またエルトナージュとサイナの輿入れは第三者からの介入がないという点において評価できた。エルトナージュ自身の後ろ盾がアスナであるし、サイナの一族ウィーディン家はラインボルトに帰属して以来、政治的な野心を露わにしたことがない。
  外戚政治に発展しないことはアスナにとっても、政府や議会にとっても非常に望ましいことだ。
  宰相経験者が王妃として王の側に侍り、様々な解説や助言をすることが予想されるためシエンの後任者たちはアスナへの説明や説得に大いに頭を悩ませることもあるだろう。
  それを王妃の出しゃばりととるか補佐をしていると取るかは見方次第。
  前者とならぬようにボルティスが上手くやってくれるはずだ。
「先ほどのご提案に興味を持つ方が何人かいると思います。その方々に話をしても問題はありませんか?」
  これでラインボルトが主導権を得た、シエンは内心で拳を握った。
「友人の参加を喜ばぬはずがありません。しかし、あまり時間をおきますとサベージとの間で話し合いが始まることを留意して頂きたい。お国として話が纏まったのであれば改めて外務卿に話を通して下さい」
「分かりました。しかし、姫殿下の縁談が申し入れ以前の状態であったことは残念です」
「ベルーリア姫殿下は愛らしく、なによりも聡明な方と伺っております。長ずれば今度は縁談の申し込みの多さに悩むことになると思いますよ。我が国の殿下方の婚儀には是非とも姫殿下にもお越し願いたいものです」
  と、ユーリアスは話題を締め括った。こういった話題はあまり長引かせない方が良い。
「そうですね。素晴らしい貴公子が姫の前に現れることを私も願っております」
  セギン男爵は力ない笑みとともにそう応じた。
  縁談の話は非公式での打診であり、男爵の様子から是が非でも纏めねばならない話ではなかったようだ。いや、彼らが一番に求めているフォルキスの派兵をラインボルトが提示してきたから力が抜けたのか、とシエンは考えた。
  ベルーリア姫との縁組みにより縁戚を理由にしたフォルキス派兵の要求が出来なくなった以上、なんらかの対価を用意せねばならない。
  その苦労を察して余りあることだが遠慮しない。
  こういった姿勢が取れるのもアスナ率いる近衛騎団がラディウスに一撃を加え、軍がワルタ地方を奪還したためだ。もし今もワルタ地方を奪還できていなければ周辺諸国はもっと強気な態度に出ていたはずだ。
  アクトゥスであればロゼフとの仲介を一方的に宣言をして和平を結ばされ、それを恩として縁談や援軍の話を纏めてしまっていたかもしれない。
  だが、余りに軍に頼りすぎては文治に支障を来す。政府からも戦争を優位に進められるように状況を整えていかねばならない。
「ところで内乱中に軍を派遣してきた国々に対して貴国はどのようにお考えですか?」
「秩序が失われ民が難渋しているのであれば話は別ですが、すでに内乱を乗り越えた貴国から撤兵すべきだと考えております」
「それはラディウスに対しても?」
「ラディウスに対しても。しかし、貴国がワルタ地方を回復したことは正統な権利ですが、軍がロゼフ国境を越えたことは些か……」
  どうやら同盟締結でのラインボルトが得る果実はワルタ地方奪還した時点での和平仲介であったようだ。
「我が国はロゼフが穏便に兵を退ける案を提示しましたが退けられました。それがどういった内容であったかはご存知でしょう」
  セギン男爵は頷いた。
  ロゼフに対する提案は泥棒に追い銭といえる低姿勢のものであった。
「決裂した以上、ロゼフは領土的野心をもってワルタ地方に軍を出したと見なすべきでしょう。先の交渉で折り合いが付かなかったのですから、和平云々はロゼフ側が請うことでしょう。それとも貴国はカトリス島をリーズに明け渡す予定があるのですか?」
  アクトゥスがリーズとの戦争の争点がカトリス島だ。
  皇竜海に横たわるこの大島は西の外海にでる際に必ず横切らねばならない場所。
  海の関所といって良いこの大島が皇竜海におけるアクトゥスの優位性は支えている。
  仮にリーズがカトリス島を奪えば、ラインボルトは海上貿易で嫌がらせを受けるだろうと予測している。この戦争はラインボルトにとっても他人事ではない。
  とはいえ、便利使いされるつもりもない。
「相談があればお聞きします」
「貴国は我が国がロゼフと長期間戦争状態にあることを望んでいない。そうですね?」
「相違ありません」
  セギン男爵の返答にシエンは大きく頷いた。
「フォルキス将軍の件、我が国としても派遣することに吝かではありませんがロゼフで大きく兵力が失われればその穴埋めが終わるまで国外に出す訳にはいかなくなります。となれば、我々はロゼフに対して完勝せねばなりません。派遣云々の前に環境を整える必要がある」
「……そのために我が国に何を求めておられるのです」
「ロゼフに対する一時的な荷留は出来ませんか。理由なら幾らでも用意できると思うのですが」
  竜族が船を襲撃してくることも十分な理由付けに出来るだろう。
  純粋にロゼフを非難するためでも構わない。実が取れれば名分はどうでもいい。
「もちろん長期間の荷留を求めてはいません」
  一ヶ月ほどであってもアクトゥスがラインボルト側に付いたとロゼフ側は察するはずだ。
「先ほどお話しした通商条約の件、安定した港が多いに越したことはないと思いますが?」
「確かに。しかし、このような重大な示唆を含んだ話をされてもよろしいのですか」
「構いません。詳細こそ話せませんが共に大きな事業を為す友人に隠し事はしませんよ」
「それは嬉しいお言葉だ。しかし、先ほどと同じく話が大きすぎて今の私の手には負えません」
「無論承知しております。我が国としましては後継者殿下の即位式までには交渉を開始したいと考えております。何かこの件で確認すべきことはありますか?」
「……いえ、ここは宰相閣下と外務卿をお迎えをし挨拶申し上げる場でありましょう。本国にて吟味した後、改めて質問する機会を作って頂きたいと思います」
「分かりました。……それでは私どもはこれにて。王妃殿下、姫殿下がご到着されましたら王城にて後継者殿下とともに正式なご挨拶を申し上げます」
「就任式当日を楽しみにしております」
  お互いに笑みを浮かべつつ一礼をして挨拶を終えた。
  この後も式に参加する国々の使者への挨拶回りをせねばならない。
  だが、こうやって国を取り巻く状況に影響を与えていくことは政治家として奮い立つものがあるとシエンは思った。
  宰相の座を目指していた訳ではない彼の元に転がり込んできたことが不思議であったが、こうして動き回ることに充実感も感じていた。
  セギン男爵はラインボルトの提案に興味を持ったようだった。感触としては悪くない。
  だが、彼の政敵やベルーリア姫の輿入れを一顧だにされなかったを侮辱と捉えて反発する者が妨害に動く可能性もある。
  ラインボルトがそうであるようにアクトゥスも味方を多く欲している。
  その現実がラインボルトに利する状況を作り出す後押しとなっている。
「……宰相、如何なさいました?」
  馬車の側まで来た時にユーリアスが怪訝な顔でシエンに声をかけた。
  彼女の声はシエンにしか届かない程度の小ささだ。
「血の購いとはここまで意味のあるものなのだと今更ながら思い知ったところです」
「そうですね。ですが、血は人を酩酊させもします」
  先のリーズとの戦争で全権代表をユーリアスは担っている。
  彼女の言葉は自身の成功と失敗に基づいているのだろう。
「肝に銘じておきます」
  軍を宥め、時には冷や水を浴びせねばならない立場の者が血に酔っていては話にならない。意義がある諫めに感謝の頷きを彼女に送るとシエンは馬車に向けて歩き出した。

 無紋の馬車が首都エグゼリスを駆けていく。
  見る者が見ればしっかりとしたこしらえの馬車と素晴らしい体躯の馬の姿にそれなり以上の人物が用いているのだと分かる。
  普段であれば何処かの商会の主の持ち物だろうと羨望混じりに見られるものであるが、今のエグゼリスには各国からの使節団や国内の貴族や名家の当主が集まってきている。
  彼らがお忍びでエグゼリス見物のために用いているものである可能性があった。
  物見高い者はどこぞのお姫様か貴族様が乗っているんじゃないかと噂し合った。
  実際、普段見慣れぬ種族の一団がそこここに現れてちょっとした騒がしさを巻き起こしていた。それは迷惑に類するものではない。
  戦勝と相まって、より目出度さを象徴する存在としてもてはやされた。
  そういった各国要人の安全対策としてそこかしこに警備の者が立ち目を光らせている。それは内乱時を想起させる情景なのだが、地方からやってきた者たちへ内乱時はどうだったかの話題を提供する種となっていた。
  浮かれた空気が多少の不便に対する寛容となっていた。
  大通りを走り続ける馬車は王墓を目指していた。
「お昼がまだでしたし、今の内にお召し上がり下さい」
  エルトナージュの正面に座るサイナはストラトから昼食にと手渡されたバスケットを差し出した。テーブルナプキンの下にはサンドイッチが敷き詰められている。
  具材は肉、野菜、ジャムと様々だ。
「けど……」
「ご両親の前でお腹を鳴らしてしまうかもしれません」
「……頂きます」
  エルトナージュが手を伸ばしたサンドイッチはマスタードソースを塗った焼いた薄切り肉が挟まれている。
「ミュリカも」
  差し出されたバスケットからミュリカは野菜を挟んだものを手に取った。
  二人がそれぞれ手にしたものを口にした姿を見てサイナはバスケットを自分の膝の上に置いた。
「折角だから先ほどの訓練の答え合わせをしましょうか」
  バスケットと同じように自分の脇に置いていた水筒の中身をコップに注ぐ。
  中には温かなお茶が入っている。
「あの訓練の設定では私たちの守りを突破してアスナ様と姫様の側にまで敵が接近し、周囲は混戦状態にあるというものでした。あの場合での最善はなにか」
  余りにもバカバカしい答えにサイナの頬に自然と笑みが浮かぶ。
  サイナは二人にカップを手渡した。
「私たち団員諸共、何らかの手段で吹き飛ばすことが最善」
「なんですか、それ」
「奇襲は相手に一時的な混乱を与えられることが最大の効果です。ですが、姫様が何もかも吹き飛ばしてしまえば、この効果はなくなってしまいます。その時点で奇襲は周知されているので援軍が期待できます」
「だけど、それでサイナたちは良いんですか」
「構いません。姫様に頼らねばならない時点で私たちの失態です。であれば、気にすべきことはアスナ様を守り通せるかだけ。それに私たちには団長が念入りに防御魔法をかけてくれていますので吹き飛ばされた程度でどうにかなることもありません」
  うんうんとエルトナージュの隣でミュリカも頷いている。
「アスナ様ですからね。いつか必ず妙なところで奇襲を受けるに決まってます」
「色々と報告は受けていますが本当に……」
  サイナも同意するように頷いた。
「こちらが呆気にとられるほど生死の境に立ってしまう方です。同時にそれは私たち近衛騎団の失態の数でもあります。ですが、アスナ様は私たちを許し、比類なき名誉を与えて下さいました。近衛はそんなアスナ様に応えなければなりません」
「…………だから」
  一呼吸分の間を置いてエルトナージュは口を開いた。彼女は身体を前に傾けて問うた。
「だから、貴女はアスナの側に」
「見渡す限り隙間なく押し寄せる”彷徨う者”の群。馬車は壊れて脱出する手段もない。重囲の中、絶望する他ない状況であってもアスナ様は私たちに一人も死ぬなと、生き残れと命じられました。あの時は大将軍閣下が援軍に来られたから九死に一生を得ましたが、もし援軍がなくてもアスナ様は最期まで私たちを信じて下さったはずです。そんな方に側にいろと言われて否は言えません」
「羨ましい。私にはまだ素直にそんなことが言えない」
  俯くエルトナージュにサイナは特別なことは言わなかった。
  ただ膝の上においたバスケットを差し出して、
「もう一つ、如何ですか?」
「貰います。サイナも食べて」
「はい。頂きます」
  馬車は静かに進みやがて建築物の姿が疎らとなり、なだらかな丘陵の上に立てられた石造りの宮殿が見えてくる。王墓だ。
  王墓は丘の上に建つ内宮と麓にある外宮に分けられている。
  外宮は開放され、国民の多くはエグゼリス観光の一環としてここを詣でるのだ。ここには戦没者を顕彰する施設も併設されている。今は戦時ということもあって戦友を追慕する者や出征に際して武運を求める者と様々な人が集まっている。
  内宮には歴代魔王の墓所があり、こちらは王墓院から特別の許しを得た者以外は立ち入ることは出来ない。ラインボルトの聖地と呼ぶべき場所だからだ。
  馬車は外宮に併設された王墓院の事務所前に止まった。
  先触れを受けていたのか王墓院院長であり建国王の子孫であるトレハと王墓周辺の儀礼と治安維持を司る葬礼騎士団の長であるプレセアがエルトナージュらを出迎えた。
「いらっしゃい。……元気そう、という訳ではなさそうね」
  トレハに視線で問われてミュリカは申し訳なさそうに目を伏せた。
  それだけでこの場で問うべきことではないと察した彼女はサイナに視線を向けた。
「貴女がサイナね。アスナ様から貰う手紙に時々貴女のことが出ていたわよ。プレセアからもね」
「近衛騎団本部付き護衛中隊長サイナ・ウィーディンと申します」
「よろしくね。貴女のことを名で呼んで良いかしら?」
「はい、殿下。光栄です」
  嬉しそうにトレハはもう一度「よろしくね」と返した。
「さ、ここで立ち話を続ける訳にもいかないわね。墓所に詣でてきなさい。話はその後でゆっくりとしましょう」
「はい。お婆様」
「私は控え室で待機しています」
  聖地であるが故に従者といえども妄りに足を踏み入れるべきではない。
  外宮にはそのための控え室が用意され、従者はそこで待機することが通例となっている。
「サイナも一緒に。お婆様、良いでしょう?」
「三人で行ってらっしゃい」
「しかし、私は……」
  躊躇するサイナに今まで口を閉ざしていたプレセアが声を掛けた。
「行ってきなさい。サイナも何度か先王陛下にお声を掛けて貰ったことがあるでしょう。院長の許可と姫様のご要望に首を振ってはいけない。サイナから見た後継者殿下を陛下にご報告申し上げればいい」
  彼女は先代近衛騎団団長だ。いわば先王に関わる三者から許しを得たことになる。
「……分かりました。ご一緒させて頂きます、姫様」

 葬礼騎士団の兵に先導されて丘陵を登っていく。
  外宮は公開され国威を示す場でもあるため、荘厳にして精緻な細工が施されている。
  外宮には歴代魔王の像が安置され、その台座には事跡が彫り込まれていた。
  この宮殿を見て回るだけでラインボルトの歴史をおおよそ理解できる。
  だが、内宮は奇麗に掃き清められているが荘厳さとは無縁だ。
  エルトナージュは先導役に案内されて内宮に足を踏み入れる。
  彼女たち以外に人の気配なく、まるで時が止まっているかのような静けさだ。
「姫様、祭殿に詣でますか。それともすぐに墓所に向かわれますか」
「……祭壇へ。陛下方にご報告申し上げます」
「承知いたしました」
  内宮の中央、大広間に祭壇はある。
  巨大な扉が小さく開かれてエルトナージュらはその中に入る。
  そこには巨大な羅針盤のようなものと玉座があった。
  羅針盤の中央には淡い光の球体があり、そこから光線が二本伸びて常にある方向を指し示し続けている。この光球こそが魔王の力だ。
  そして、光が指し示す場所に時代の王がいる。
  以前はエルトナージュただ一人を指し示し続けていた。それがいつの頃からか光線は消え去ってしまった。
  その時のことをエルトナージュは良く覚えている。
  城内全てが騒然となり、何もかも全てが終わったような空気に包まれた。
  時間とともに彼女の周りから人が去り、まるで腫れ物を扱うように接してきた。
  昨日と同じなのに、まるで存在そのものを否定する烙印を押されてしまったかのようだった。直接、罵声を浴びせられたことこそないがそれに類する視線を受け始めた。
  彼女自身が何かをしたという訳ではない。ただ光が差さなくなっただけで全てが変わったのだ。
「…………」
  だからこそ彼女は誰よりも優秀であろうとした。そのための努力を続けてきた。
  再びこの光が自分を照らすのではないかと期待して。
  しかし、この願いが叶うことはなかった。
  今も光は彼女を指し示さない。
  三人は一言も言葉を発することなく羅針盤の前で膝を突いた。
  ここは内宮の中心。
  次代の王となる者が魔王の力を継承する聖域。
  力は眼前にある。静かに自らを宿すに足る人物がいる場所を指し示し続けている。
  魔王の後継者たる羅針盤の指名を失って間もない頃、エルトナージュは羅針盤の中央で輝く光球に触れようとしたことがあった。
  しかし、光は光。感触もなく彼女の手は素通りしてしまった。
  それが無視されたかのようで悔しかったことを覚えている。
  アスナが召喚された場所もここだ。
  普段、この大広間は閉ざされ定期的な清掃時以外は人が立ち入らない。
  羅針盤の向こう、大扉の正面に鎮座する玉座と同じ意匠の椅子に腰掛けた姿で彼は発見された。
  アスナが目覚めてすぐにここに連れてきて改めて説明をするべきであった。
  その機会はその後、革命軍ファイラス占領の報により叶わなかった。
  だが、それは状況を言い訳にした逃げだ。
  光がアスナを指し示す情景を見ることに耐えられないと思ったから後回しにしたのだ。
  それで不都合は何も出ていなくとも、やるべきことから逃げたことに変わらない。
  宰相であり、王族であったのだから尚更だ。
  人族嫌い以外にも彼女自身の嫉妬に根ざした幾つもの過失がある。
  それを知っていてなおアスナはエルトナージュを大切にしてくれる。
  そのことが嬉しく、同時に胸の奥に痛痒を感じさせる。
  ここに足を踏み入れる資格があるのか。
  後継者不在の国を守れず内乱に陥らせ、あまつさえ外敵に民と国土を侵されてしまった。
  だが、誰もそのことを糾弾せずに賞賛のみが彼女の元に集まる。
  若年だから、誰もが混乱したから、軍が暴走したから……。
  理由は幾らでも用意されていた。それでも彼女は叱責を求めていた。
  贅沢に過ぎる悩みだ。傲慢そのものかもしれない。
  ……こうなることが分かっていたから王に指名されなくなったのかもしれない。
  それでも彼女は王の娘として生を受けた。
  歴代の王に父が崩御した後のことを報告せねばならない。
  白い光は無言で輝き続けている。それが王たちからの無言の叱責のように思えた。
  いや、そう思い込みたかった。
  続いてエルトナージュらは先王の墓所に向かった。
  そこには先約がいた。
「エルトナージュ、久しぶりね」
  淡い菫色のドレスに身を包んだ初老の女性が微笑みを浮かべて佇んでいた。
  楚々とした立ち姿は今にも消えてしまいそうなほどに儚く見えた。
  女性の姿を目にしたミュリカとサイナはすぐに膝を着いた。
「……お義母様」
  先王アイゼルの王妃イレーナ。夫が崩御して後、城を出てエグゼリス郊外にある古い屋敷を改築してそちらに移り住んだ。
  私も隠居します。そう言って彼女はラインボルトの舞台裏へと静かに消えていった。
  他の夫人もまた王妃と同じように城を去っていった。
  ラインボルトに留まる者、祖国に帰る者と様々だ。
「ご無沙汰しておりました。お手紙も差し上げず申し訳ありませんでした」
「いいんですよ。貴女にはお役目があったのだし、あんなことが起きたのだし。むしろ非は私にあります。何も出来ずとも相談ぐらいは乗れたかもしれないのに」
「そんな。……ご心配をおかけしないようにしなければならなかったのに」
  イレーナは困った顔をしてエルトナージュに場所を譲った。
「……さぁ、両親にご挨拶なさい。貴女たちもね」
  そこには小さな墓標があるのみ。大国の王の墓所とは思えぬ小ささだ。
  ここにエルトナージュの両親が眠っている。
  ラインボルトでは王の許しと夫人が望めば同じ墓に埋葬されることになっている。
  ……お父様、お母様。
  膝を着き瞑目をする。そして、これまであったことを一つ一つ語りかけていく。
  報告ではなく、罪の告白であった。
  咎を認めており、死者との無言の対話だから自らへの糾弾を止めることができない。
  それを自傷行為と呼んで差し支えないのかもしれない。
  語りかける相手が両親だからか、これまで必至に、アスナの前ですら堪え続けていたものが溢れ出た。
  止めどなく涙が流れ出る。
  膝立ちになり側に寄ろうとしたミュリカを手で制して、義母は娘の頭を抱いて背を撫でさすった。
「頑張ったわね。本当によく頑張りました」
  イリーナの政治的な功績といえば、輿入れまで互いに牙を見せ合うような雰囲気であったエイリアとの関係を緩和させ、人材交流の切欠を作ったことだけ。
  それ以外は儀礼の場にしか顔を出そうとしない非常に地味な王妃であった。
  そんな彼女が一度だけ積極的に諸方に働きかけたことがあった。
  エルトナージュが魔王の後継者指名から外された時のことだ。
  娘が誰からも後ろ指さされないようにと守り抜いた。
「頑張って、ません。だって、わたしが王の指名から外れなければアスナに迷惑を掛けなかったのに」
  彼女にとっての悔恨を辿っていけば王になれなかったことに行き着く。
  王になっていれば、内乱は起きなかった。
  王の器たり得ていれば、母を守り抜けた。
  王であれば、アスナを巻き込まずに済んだ。
「後継者殿はどんな方なのかしら?」
「バカな人です。背負わなくて良い苦労までして。本当は怖くて堪らなくて、震えてるくせに虚勢ばっかり張って。泣き喚いて怒鳴り散らしたいくせに。なのにわたしのことを大切にして。自分のことで精一杯のくせに」
「そう。良かったわね」
「良くない。良くありません!」
「私は安心しましたよ。貴女のことを大切に思ってくれる人が増えて嬉しい」
「だけど、私は……」
  イリーナはエルトナージュの背をぽんぽんと叩いて言葉を止めさせた。
「大切にされて、嬉しい?」
「はい」
「大切にして貰えて嬉しいのなら、貴女も大切にしてあげればいいの。悪いところに目を向けないで、素直に良いところに目を向けなさい。それは逃げるとは言わないのよ」
  鞄からハンカチを取り出すと母は娘の涙を拭った。
  政とは全く無関係であった者を王に据える。
  これは建国王の頃から続くラインボルトの宿痾だ。
  ある日、王にと迎えられるかもしれないという幼稚な夢の具現。
  だが、それは夢想で終わるから楽しいのだ。
「後継者殿のことが好き?」
「はい」
  か細い返答にイレーナは微笑を浮かべる。
  亡くなった生母への遠慮があり、そして勉学に没頭し続けていた彼女を邪魔することができず、これまでこういった話をすることがなかった。
  こうして泣いて苦悩している娘は可哀想に思うが、ようやく年頃の娘らしさを得られたのだと思えば母としては嬉しくもあった。
  イリーナと亡き夫とは激しい恋情はなく静かに育んでいった間柄であった。
  農場主の家に生まれたアイゼルと王家の出であるイリーナ。
  余りにも懸け離れすぎた生い立ちの違いに戸惑いの連続であった。
  始めに器があり、そこに少しずつ思いを満たしていった。
  だから、今のエルトナージュが微笑ましくも、羨ましい。
「もっとはっきりと言ってごらんなさい」
「アスナが好き」
  娘の頭を抱き寄せてイリーナは彼女の髪に頬を当てた。
「好きな人が出来て、その人に大切にしてもらえて良かったわね」
  エルトナージュたちは三日間、義母の屋敷にて過ごすことになった。
  たった一日でこれまであったことは語り尽くせない。
  この間に些細な、だけど大きな変化が起きていた。
  サイナがエルトナージュを名で呼ぶようになった。

 エルトナージュらを見送ったアスナたちもまた離宮を離れていた。
  向かう先は馬車で一時間ほどの場所に立っている小さな屋敷。
  ここには不始末を起こした王族やその類縁、政治犯などが蟄居した歴史があった。
  そんなところにアスナたちは先触れもせずに訪れていた。
  馬車は敷地内に入り、玄関前にて停車する。
  アスナたちを初老の紳士が出迎えた。この屋敷を管理する家令院の職員だ。
  彼は深く一礼をすると開口一番詫びた。
「殿下をお迎えする準備が整っておらず誠に申し訳ありません」
「気にしなくて良いよ。むしろ急に尋ねて悪かった。それよりも二人は?」
「はい。応接室におられます」
「ん。分かった。案内よろしく」
  承知いたしました、とアスナとヴァイアスは職員の先導で屋敷の中に足を踏み入れる。
  蟄居謹慎のために用いられているとはいえ、そこは貴人が住まう屋敷だ。
  華美ではないもののしっかりと手入れがされ、落ち着いた風情である。
  所々補修されたと思しき跡が見られたが、あれはこの屋敷に閉じこめられた者が暴れた痕跡なのかもしれない。
  通された応接室は広めに取られ、外の光が差し込んで思った以上に明るい。
  恐らく面会者とはここでのみ歓談できる決まりになっているのだろう。
  ソファが二つ向かい合って置かれ、その間にテーブルが置かれている。
  部屋の端にはカウンターが用意され、そちらで飲食を用意してくれるようだ。職員がそちらに二人控えていた。
「ご無沙汰しております、アスナ様」
  フォルキスが深く一礼をした。彼の隣ではマノアが同じように頭を下げた。
「うん。怪我の方はどう?」
「今はもう問題なく」
  と、彼は笑みと共に軽く腕を振りまわして見せた。
  若干、腕が細くなったように見えるが、それは気のせいではないだろう。
「良かった。ヴァイアスの件で大丈夫だとは思ったけどやっぱりね」
  ヴァイアスが持つ魔剣ガルディスは切断の力を持つ。人魔の規格外といえども回復しない可能性が十二分にあった。
  隣に立つヴァイアスは切り落とされた時のことを思い出したのか苦い顔で手指を動かしていた。
「お忍びのようですが何かありましたか?」
「フォルキス様。まずは腰を落ち着けていただいてから」
「ん。あぁ、そうだな。申し訳ありません、気が回りませんでした」
  アスナはそんなやり取りを見て笑った。
「いいよ。フォルキス将軍だけじゃなく、マノアさんにも用があったし」
  そう言ってアスナは内ポケットから手紙を取り出して、彼女に差し出した。
「これは?」
「大将軍から孫娘への手紙。”彷徨う者”討伐の恩賞みたいなものかな。後でゆっくりと読んで」
「ありがとうございます、殿下」
  フォルキスもよかったな、と声を掛けた。
  ソファに腰を掛けると職員が素早くお茶の準備を整える。
「ここでの暮らしぶりはどう?」
「私のしでかしたことを考えれば厚遇としか言いようがありません。屋敷の者たちには良くして貰っています」
  ですが、とフォルキスは表情を曇らせて続けた。
「姫様のことは気にかかっております。ご自身に厳しい方なので内乱とそれに付随することで心を痛めているのではないかと心配しております」
「将軍。エルのことは大丈夫だから。心配しなくて良い」
  今日あったばかりのことだ。アスナははっきりと断言をした。
  何かを問おうと身を乗り出したフォルキスをマノアが彼の膝に手を置いて静止させた。
「はっ、出過ぎたことを申しました」
  ……オレの方が気持ちの準備が整いきれてなかったかもな。
  と、飛び出しそうになったアレコレを飲み込んでしまう。
  様々な事情を加味しているとはいえエルトナージュを思って蜂起したのだ。
  何も思わない訳にはいかない。
  これからする話はアスナの個人的感情を満たすために状況を利用したとも言えなくなかった。が、それが国益に適うのであれば誰も反対はしない。
「アクトゥスに行ってもらおうと思ってる」
「なるほど。竜を狩ってくればよろしいのですね」
  端的にフォルキスは纏めた。
  リーズの基本戦術は竜族が上空から敵の隊列を崩し、その後歩兵によって押し潰すというものだ。精鋭といえる部隊は竜族の地上での護衛役ぐらいだ。
  それ以外の兵は武装した山賊のようなものと各国では考えられていた。
  故に圧倒的優位な状況での戦闘経験しかないリーズ兵にとって竜族が地に堕とされてしまうと途端に烏合の衆と化す。
  リーズとの戦争とはどれだけ竜族を堕とすかにかかっていると言って良い。
  そして、フォルキスは現世において最も多くの竜を狩った男だ。
  アクトゥスからすれば最も欲している援軍だろう。
「具体的な条件はこれから詰めていくことになる。オレたちがお願いされる立場だから、フォルキス将軍の意見も反映できるように交渉する。だから、改めて意見を聞きに来る時に備えて考えておいて欲しいんだ」
  続いてマノアに顔を向けた。
「援軍は出す。けど、戦争続きでラインボルトも疲れているから深入りは出来ない。派遣できる兵力は多くはない。最大で連隊規模、少なくて大隊規模になる。その指揮をマノアさんに任せる」
「はい、殿下」
「マノアさんの一番の役目はフォルキス将軍に無理をさせないこと。オレの勝手な印象だけど、フォルキス将軍は凄く人が良い。アクトゥスからの要請があれば引き受けてしまうかもしれない。それをさせないようにして欲しい。フォルキス将軍だけじゃない。部隊も無事に連れ帰ってくることがマノアさんの任務になる」
「拒否権を与えて下さるということですね」
「恨まれ役になると思うし、そのための補佐も付ける。……それに、こう言っては何だけどアクトゥスからの誘いが何度も何度もあると思う」
「アスナ様、我々は……」
「二人が戦っている間に帰ってくる場所を用意しておく。前と同じとは言えないけど、必ず用意する」
「ご命令あれば任務を果たし、武勲とともに帰国することをお誓い申し上げます」
  フォルキスは自分の腕を叩き、アスナの目をしっかりと見つめながらそう応えた。
「……うん。待ってる」
  鼻で大きく息を吸って息を漏らした。
  断られるとは思っていなかったが、それでも心配だったのだ。
  小勢でリーズと戦争してこい。考えるまでもなく無茶な命令なのだ。
  だから、アスナは自分も必ず約束を守ろうと思った。強く、思った。
「実を言うともう一つ相談したいことがあるんだ。ヴァイアスにも意見を言って欲しい」
「俺もか?」
  近衛騎団は基本的に政治的なことから距離を持つように自らを律している。
  アスナから相談を持ちかけられてもヴァイアスは聞き役に徹し、自分の意見を言わなかった。
「出陣前に大将軍とかにも相談したことなんだけど」
  一拍を置いた。必ず落ちるであろう怒声という名の雷に備えて身を固くした。
「実はリムルを第三魔軍将軍から解任しようと思うんだ」
  間髪入れずにヴァイアスが特大の雷を落としたのだった。

 



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