第五章

第四話 人事は他人事には出来ない

 アスナが放った一言で応接室は瞬時に凍り付いた。
  普段、存在を隠すかのように佇んでいる家令院の職員たちですら空気に飲まれてしまっていた。彼らは一様に内心の動揺を隠しきれずにむしろ応接室内で存在感を際立たせていた。この空気の中で平然としていた人物はこの部屋の主役たちであった。
  アスナは事前に覚悟を固めており、フォルキスとマノアは軍人故の心構えと付き合いの長さからこの場の空気を受け入れていた。
  応接室を支配した空気に危害を加えるような色は皆無だ。その代わり決して言い捨ては許さないという意思だけがあった。
「どうしてだ?」
  ヴァイアスは問うた。
「リムルはしっかりとアスナの命令に従って役目を果たし続けている。問題はないはずだ」
「うん。そうだな。オレもありがたいって思ってるよ」
「だったら、どうしてだ」
  フォルキスとマノアは動かない。ただ視線だけをヴァイアスに注ぎ続けている。
「この戦争が終わった後かオレが王様になった後に大きく文武ともに人事異動をするように内々に話を進めてるんだ。内乱や戦争で戦死した人や予備役に入る人と事情は色々だけで役職に空きができる。その埋め合わせをやることになる。その時にリムルをどうすれば良いのかでみんなが困ってるんだ。しっかりと功績を立ててくれているから出世させない訳にはいかない。となると第二魔軍将軍か、参謀本部で参謀か、それとも軍務省の重職か」
  三つの道のどれでも然るべき役職を用意することができる。
  リムルの功績を考えれば、まず彼をどう遇するかから考えねばならない。
「オレが言うのも何だけどリムルは若輩者だ。もし、第二魔軍の司令官に任命したら今の大将軍やホワイティア将軍みたいに大軍を率いて貰わないといけないんだけど、リムルの指揮に他の将軍たちが素直に従うかどうか分からない。先王陛下の大抜擢に加えてだから依怙贔屓に見えても仕方がないと思う。嫉妬や軍歴の浅さから嫉妬されたことが原因で大敗北なんてことになるかもしれない」
「だけど、それはあくまでも可能性の話だろ」
「実際、オレの耳に入るぐらいには兆候があるんだよ」
  一度、アスナから第二魔軍司令官をリムルにという打診を軍務大臣にしたことがあった。その際、軍務大臣から迂遠に特定人物を重用しすぎるべきではないとの苦言を受けていた。
  では、参謀本部や軍務省で軍歴と経験を積んではどうかが、リムルが人魔の規格外であることが妨げとなった。戦時であり今もラディウスとの睨み合いが続く中でいざという時の切り札を使いにくくするバカはできない。
  また若くして武勲を掲げたリムルを参謀本部も軍務省も扱いづらいからとリムルの配属案を内々に断ってきていた。
「中隊長ぐらいだったら何も問題なかったんだけどな」
  彼が第三魔軍将軍であったから別働隊を任せることが出来たのだ。
  だから、これは意味のない仮定だ。
「リムルのことが決まらないと他の人事も決められないんだ」
「だからって解任しなくても……」
  この発言が近衛騎団団長の立場を越えるものだと思い返したのかヴァイアスはそれ以上を口にすることはなかった。
「出世するか、それらしい立場になって貰わないと周りが納得しない。だから、大将軍に預けようと思ってる。北方総軍司令官補佐とかそんな感じで」
  理屈では分かる。だが、感情面で折り合いが付かない。
  ヴァイアスは無言でそう表明していた。
  アスナとしてもこの人事を撤回するつもりがない以上、彼にかける言葉が見つからない。
「良い人事だと思います」
  フォルキスが口を開いた。
「純粋な戦力の増強になるのでロゼフに対する圧力にもなります。リムルが経験不足であることは誰もが知っていることなのでゲームニス様に学ぶために前線に送るのですから左遷だとは見られません。城壁の一つ、二つ斬らせれば武勲になりますので、左遷の噂が立ってもすぐに消えて無くなります」
  フォルキスの断言する口調にアスナは助けられた。
  素直に目礼を返すとアスナもまた断言で応じた。
「細かいところは調整するけど、リムルを第三魔軍司令官から解任することだけは決定だ」
  ヴァイアスは思い切り鼻で息を吸って、口から吐き出した。
「悪い、感情が追い付かない。この休暇中に整理を付けるから。その間だけ甘えさせてくれ」
  そういって彼はソファから立ち上がりアスナから背を向けて窓際に立った。
  ヴァイアスは自分の立場とフォルキスの同意を理解したから我慢をした。
  どんなに言い繕おうとも功績を挙げた人物から指揮権を取り上げれば、誰だって左遷させられたと思うものだ。
  ……ケルフィン将軍も今のヴァイアスと同じような心境か。
  そう思って自分の配慮の足りなさに気分が沈んだ。
  彼の指揮下には三個軍を就けているが、彼には華々しい前線での戦いを求められていない。戦後、軍政畑に進むことが決まっているため、占領地の足固めで功績を立てて貰わねばならない。内乱後、第二魔軍司令官の椅子を求めた人物にとって、この進路決定は忸怩たる思いだったかもしれない。
  ……今度、ご機嫌伺いの手紙を書いておこう。
  と、アスナはヴァイアスの背中を見ながら思った。
「僭越ながら私の方からアスナ様に助言を申し上げます」
「なに?」
  声を掛けられてアスナはフォルキスと向き合った。
「適材適所。時勢に合わせた人事を誰に遠慮することなく実行できる者こそが強き王です。先王陛下はお優しい方ではありましたが、同時に強い王でもあられました。私やリムルなどの若輩者を魔軍の将に任じたことがその証」
「そういや、先王陛下がリムルを将軍にした理由を知ってる?」
「私が多数の竜族を狩ったこともあって、当時隣国はラインボルトに過度の脅威を抱いたそうです。そこで少し探れば我々の所在地が分かるようにと将軍に任じられたと聞いています。我々人魔の規格外にも、魔軍にも枷を填めることで隣国から向けられる脅威の視線を緩和しようとしたそうです」
「オレがやろうとしていることは余所の国からは枷を外そうとしているように見えるのか」
「そこはロゼフやラディウスを理由にすれば良いと思います。私程度で思いつくことですのですからすでに外務卿がそういった説明を他国にしていると思いますが」
  あちらを立てれば、こちらが立たず。ゲームのように数値だけで人事は行えない。
  何らかの配慮は必要だ。アスナがなにか口を開く前にフォルキスが提案をした。
「ヴァイアス」
「なんだよ」
  こちらに顔を向けずに彼は返事をした。ふて腐れたような口調だ。
「一つ稽古を付けてやろう。俺にぶっ飛ばされてから少しは腕を磨いたんだろう?」
「まぁ、騎団の連中相手に色々と」
「だったら、それを俺に見せてみろ。アスナ様、余興に試合を披露したく思いますが如何でしょうか」
  フォルキスはヴァイアスの八つ当たりに付き合うと言っているのだ。
  リムルのことで我慢させていることに変わりない以上、何らかの形で少しでも鬱憤を解消させてやらなければならない。お互いに立場があるからそういったことが出来ない。
  だけど、フォルキスならば問題ない。八つ当たりも単なる試合で収めることが出来る。
  アスナはフォルキスに感謝の意味で目礼を送り、許可を出した。
「マノアには審判役を任せる」
「承知しました。では、使用する武器は木製の物のみ。魔法は使用禁止。制限時間はなし。ということで宜しいですね」
「それで構わん」
「ヴァイアスもそれで良いわね」
  背を向けたまま返事をしないヴァイアスにマノアが鋭い声を掛けた。
  まるで槍を突き付けたような声だとアスナは思った。
「返事はどうしたの。フォルキス様の前に私が相手をした方が良いのかしら?」
  ……マノアさんにも稽古を付けられていたって聞いたことがあったっけ。
  ミュリカ曰く、フォルキスは厳しいが手心を加えてくれるが、マノアは厳しくて厳しいのだという。
  その時のことを思い出したのかヴァイアスは一度肩を振るわせると声を上げた。
「やる。その条件で良い。それでやるから」
「全く。貴方は昔から……」
  昔からリムルを知っている点ではフォルキスたちも同じだ。
  二人ともヴァイアスと同じような思いを抱いているのかもしれない。それでもアスナの考えを理解して後押しをしてくれることがありがたかった。
  敗北者としての立場もあるのだろうが、それでもこうやって話を逸らしてアスナに悪感情が向かないように仕向けてくれている。
  情が深い人たちであるが故に挙兵をし、今はアスナとの間に立ったくれている。
  エルトナージュに関わる点で思うところはあるが、フォルキスはありがたい人なのだ。
  お説教を始めるマノアを横に見つつアスナはストラトを呼んだ。
「この条件で試合をするからって城に伝えておいて」
  事後報告であっても報せておけば、あちこちからの小言も少なくなるはずだ。
「それと今日はこっちで夕飯にするから」
「承知いたしました」
  王としてフォルキスたちに軍での居場所を用意することだけではなく、個人としても何かしらお礼をしよう。
  今、アスナが出来ることは数少ない。なので現生界風の夕飯を披露することにした。
  恐らく二人は身を慎む意味で粗食だろう。
  となれば、久方ぶりの豪勢な食事を用意すれば喜んでくれるはずだ。
  それから三日間、エルトナージュたちから明日、離宮に戻るとの報せを受けるまでアスナたちはフォルキスらの元で過ごすことになった。
  昔話や魔獣狩りを行ったときの話。フォルキスの目から見たラインボルト軍の将校たちの評価。他国との演習で感じた近隣諸国の練度など。
  なにより、彼の目から見た内乱の様相は興味深く学ぶべき点は多かった。
  特にアスナが立ったことによって生じた兵の離脱、物資調達の不便などは宰相派の側からみたら見えにくい点であった。
  それらを繕い続け決戦まで軍勢を維持し続けたフォルキスは確かに一手の大将であった。
  全体を統括し続けたフォルキスと前線へと飛び出したアスナ。
  総大将としての在り方としては前者こそが常識的だろう。
  しかし、アスナにはそれをするための権威というものがなかった。
  そして、現在の立場も臨時のものという色が強い。
  正式に王に即位するまでは前にでなければならない。エグゼリスで大人しくしていたら、また人族を王にしたくないと考える者たちの動きが大きくなるかもしれない。
  とはいえ、前線はゲームニスが指揮を執っているため、矢面には立たずに領主たちからの降伏を受け入れたり、占領地の慰撫をしたりすることが主となるはずだ。
  この話題の時に内乱と占領地とでは勝手が違うからよくよく注意をするようにとフォルキスから見送りの言葉を送られたのだった。

 木製のボールに小麦粉、砂糖、塩を入れて混ぜ合わせる。
  続いて溶き卵を投入するために大きめの器の中に割っていく。
  久しぶりだから片手割が上手に出来ないことに苦笑し、同時にアスナの祖母は華麗に両手割りをしていたことを思い出した。
「そういえばラインボルトじゃ生卵って食べないよな?」
「お腹を壊してしまいますのでお止めになった方が良いと思います」
  LDの耳目を務めていた諜報組織、その長ガレフの孫娘であるミナはこの休暇を機会にして正式にアスナ付きの侍女を任じられていた。
  祖父の元でそれなりに仕込まれていたらしく家令院のやり方を習得するまで時間はかからなかったそうだ。ストラトからは熱心で物覚えがよいとの言葉が付されていた。
「まぁ、そうだよな。卵かけごはんへの道のりは遙かに遠いか」
「卵かけごはんですか」
「故郷の味。けど、幻想界(こっち)じゃどんなに金を積んだところで食べられないよ」
  一応、和食を作れないかと調査をしたのだが食材はなかった。
  米はラインボルトでも短粒種のものが作られているが、普段から食べていた物とは事なり味や食感など色々と物足りなく感じる。こちらはそのうちパエリアを作るのに使ってみようと思っている。
  醤油に関してはお手上げである。祖母が年に一度味噌を仕込んでいたため、そこまでは作れるのだが問題は麹だ。そちらについてはお手上げだ。素人にできることではない。
  卵の管理も同様だ。こうやって好きに使えるだけでありがたいぐらいだ。
「卵かけごはん……」
「一応言っておくけど、献上品にはならないから」
「そのようなつもりは……」
  首の後ろ辺りで一つに結わえられた長い黒髪がびくんと揺れ、命じられたとおりに小麦粉を分量通りに取り分けていく。
  ミナの祖父の力を使えば卵は無理でも麹を見つけ出すことは出来るのかもしれない。が、そのためだけに人材や費用を投入することはバカらしい。
  アスナとの仲を深めようとする努力の一つなのだろう。
  彼女自身が諜報組織から献上品なのだ。祖父を初めとする者たちのためにも寝所をともにする間柄となりたいと思っているようだ。しかし、当のアスナにその気がない。
  受け入れることで和解した形を取っているが、それでも自分を殺しかけた相手だ。
  フォルキスやLDのように真正面から戦い、負けを認めさせたのであれば話は別だ。しかし、彼らにはどうも勝負をした意識がないように思える。
  彼らは自らを次々と人の手を渡っていく道具だと自認しているのかもしれない。
  だが、アスナにとっては暗殺してきた正面から見据えるべき敵だ。
「…………」
  鼻から勢いよく息を吐いた。小さく小麦粉が舞い上がった。
  混ぜ合わせた粉に溶き卵と水、パン種を投入して捏ねる。途中でバターを投入して更にしっかりと捏ねていく。
  引っ張っても簡単に千切れない程度の粘りが出るとブランデー漬けにしていたドライフルーツとくるみなどを加えて濡れタオルをかけて二十分ほど寝かせる。
  これを幾つも作っていく。これだけ大量に用意した経験がないから少し楽しい。
  実家にいた頃の料理は生活の一部であって趣味の要素は全くなかった。
  こうやって生活面から切り離されてみると不思議と面白さを感じる。
  日々の必要を埋めるためではなく楽しみとして行っているからだ。
  祖母がたまに変わった物を作っていたのもそういう意味だったのだろうと思った。
  ドライフルーツを付けていたブランデーをちろりと舐める。
  甘みが加わりより美味さが増したように思う。酒だけとして飲むには少し香りがきつすぎる。お菓子作りに使うのが良いだろう。
  そんなことを思いつつアスナはグラスに注いで飲んでいた。
「……あぁ、そうか」
  酒単体では少しくどくてもお茶に加えれば印象が変わるかもしれない。
  あとで試してみようと思いつつ彼は次々と生地をこねていく。
  焼きの準備もすでに進められている。薪のオーブンは使えないのでその辺りのことは本職に任せることになっている。厨房の調理人たちがオーブンの加減を見てくれている。
  全てを捏ね終える頃、一次発酵が終わる。順番に丸め直して形を整え、再び濡れ布巾を被せて休めてやる。この間に二倍近く生地が膨れるはずだ。
  発酵しやすいように少し汗ばむ程度の室温になっている。魔具による暖房を用いているため、幻想界の一般的な厨房から考えればかなり贅沢な施設だ。
「ただいま戻りました……。なんです一体」
  エルトナージュたち三人だ。三人とも数時間の移動で若干の疲れが見られる。
  しかし、彼女たちが姿を見せたことで厨房は一気に華やかになった。
「お帰り。ミナ、二人にお茶を」
「はい、殿下」
  手早く濡れた布巾で手を拭うと彼女はお茶の準備を始める。
「ミュリカはヴァイアスと二人で遊びに行ってきな。オレからの命令」
「いきなりどうされたんです?」
  主君の人差し指に促されるまま顔を動かすと部屋の隅で鬱々とした表情で棒立ちとなっているヴァイアスがいた。ギョッとしたのか大きく肩を振るわせた。
「どうしたの、ヴァイアス」
「まぁ、色々とな」
  大きく息を漏らすとミュリカは彼の手を握って引っ張り出した。
「よく分かりませんが分かりました。護衛はサイナさんにお任せして良いんですよね」
「えぇ、もちろん」
  頷いてサイナは請け負った。
「アスナ様のご命令に従って遊びに行ってきます。あまり虐めないでくださいよ」
「そうあれるように精進を続けます」
  しょうがないなぁという風な表情を浮かべるとミュリカはそれ以上追及しなかった。
「では、行ってきます」
  無言で手を振って見送り代わりにした。そんな彼の様子をエルトナージュも曖昧な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。こういうところが血の繋がりはなくても姉妹だな、と思えた。
「ヴァイアスに話したんですね」
「うん。堪えてはくれてはいるけど、やっぱりな」
「説明はしたのでしょう?」
「まぁ、ね。上手に出来た自信はないけど」
  改めて思い起こすとかなり強引で押しつけがましかったように思える。
  自省を込めて生地を捏ねる。
「でしたら、あまり気に病まないようにして下さい。いつまでも申し訳なさそうにしていたらヴァイアスも中々受け入れられなくなりますよ」
「努力します。……それはそうと、二人ともお帰り」
「ただいま」
「ただいま戻りました。団長のこと以外で何かありましたか?」
「フォルキス将軍のところに行ってきた。二人にも話しておきたいこともあったし」
「お二人は元気でしたか?」
「うん。内乱をフォルキス将軍から見たらどうだったかを聞かせて貰った」
  手元の生地の世話を再開する。
「フォルキス様はなんて仰っていました?」
「上手に負けることがこんなに難しいとは思わなかったって。オレが出てきたから将軍に勝ちはなくなったけど、あっさりと両手を挙げて降参なんて出来ない。始めた以上なにかしら残さないといけないけど、そのために将兵を磨り潰すこともできない」
「うん」
「一応、フォルキス将軍にも勝算はあったんだって。将軍単独で出てきてオレを討ち取ってしまえばいい。その後でアルニスを後継者に推せば良かったって」
  内乱の最終決戦で第二魔軍は真正面から対峙した近衛騎団を突破してフォルキスの刃をアスナに振り下ろさせた。彼の目算を一笑に付すことはできない。
「けど、喉元に剣を突き付けられてる状況でも立ち向かおうとする男が王になろうとしている。なら、その道をつけることを蜂起した意味にしようと思ったって」
  詭弁だ。それでもこの戦いの結果としてアスナはラインボルトの継承権第一位の座を確固たるものとしたことは覆しようのない事実だ。
「フォルキス様でなければ、やっぱり」
「もっと内乱はグダグダして取り返しの付かない状態で終わってたかもな」
  パンパンと二度手を打つ音が厨房に響いた。
「難しい話はそこまでに。ここには休暇のために来たのでしょう。余りに熱心に政務に関わることを話していると菓子パンが焦げやすくなるかもしれませんよ」
「それじゃ、気楽な話題ってことでエルのお義母さんに会ってきたんだろう? お元気だった?」
「えぇ。お元気でした。就任式の時にアスナに挨拶をしたいと言ってましたよ」
「ん。……そうだな。ちゃんとやらないとな。娘さんを下さいって」
  公的な部分は内府オリザエールたちに丸投げしてしまえば良いけれど、私人としてはしっかりと伝えるべき事だ。
  話の流れであっさりと口にしたことだけれども、改めて考えると凄い話だ。
  今まさに結婚の段取りを始めてしまったのだから。
  エルトナージュは見る間に顔を赤くしており、きっと自分も同じだろうとアスナは思った。そんな二人を微笑ましげにサイナが見ている。
「もちろん。サイナさんところもだぞ」
「わ、私の家にそんなことをなさらなくても」
「しっかりやりますから」
「……はい」
  このようなやり取りが進められている間にエルトナージュらの席が用意されていく。
  ここが厨房ということもあって正式な座卓ではなく簡便なものだ。
  足の長い意匠の小さな卓と椅子が列べられ、テーブルクロスが掛けられる。その上に茶器が整えられていく。
「立ち話もなんだし、まだこっちは終わらないから腰を落ち着けたら」
「それじゃ。サイナも」
「はい、エル様」
  二人が席に着くとミナがそれぞれの器に茶を注いだ。
  その様子をエルトナージュが見ていた。
「初めて見る人ですね」
「ミナと申します。先日より後継者殿下付きを拝命しております」
  一礼するその姿にアスナが補足説明を入れた。
「LDの目と耳、それと手をやってる人たちから貰ったんだ。分かりやすく言えばオレを誘拐して、暗殺未遂をやった連中のとこの子だよ」
「ひっ」
  声にならぬ、空気が肺腑から抜ける音とともにミナの腰が抜けた。
  浴びせられた殺気に対抗しきれなかったのだ。
「……そうですか」
  サイナの呟きに色はない。明確な殺意があるのみだ。
  近衛騎団はアスナに関して致命的な部分で出し抜かれ続けていた。平静な気持ちでミナを見ることは出来ないだろう。
  事実、サイナの手に武器があれば、すでにミナの急所に刃が突き付けられていただろう。
  二度に渡ってアスナに手を掛けた。それをサイナは許容しない。
  刺殺し、斬殺し、撲殺し、溺死させてもまだ足りないはずだ。
「随分と酔狂なことをしますね」
  呆れたようにエルトナージュは言った。
「連中の長の孫娘なんだってさ」
  思い出したように手元の生地を丸める作業を再開する。
「ストラトさんに預けて判断を任せていたんだけど、側に置いて問題ないってお墨付きを貰ったから」
「だからって、そういった者を側に置かなくても良いでしょう」
「ロゼフの貴族に手紙をばらまいてくれたからね。その働きに対してのご褒美」
  手紙を届けるということは非常に難しい行為だ。
  戦時であれば怪しげな人物はスパイとして捕らえられるかもしれず、また貴族の領地や館に辿り着けたとしても受け取って貰えるとは限らない。
  手紙を仲介する誰かとの繋がりを持っていなければ出来ないことだ。
  それを実行して見せたガレフたちは能力に見合った人脈を有していたということだ。
  LD曰く、ガレフたちが有する人脈は北方を主としており、ラディウス相手に使うには時間をかける必要があるとのことだった。
「サイナさん、そこまで。これはオレにとっても訓練になるんだからさ」
「どういうことですか?」
  彼女はミナから視線を外さずにそう問うてきた。
「ロゼフとは併合前提で戦争をやってるけど全部を飲み込むことは出来ないと思う。必ずどこかの国から和平の仲介がきて、オレたちはそれを受け入れなくちゃならなくなるはずだ。そうなったら戦後はロゼフとお隣さんとして付き合っていかないといけない。和平をしたら仲良くしないまでもそれなりのお付き合いをしていかないとダメだろ。切り取ったところに住んでる岩窟族の人らも不安に思うだろうし」
「…………」
「ロゼフだけじゃなく、ラディウスやアジタ、エイリアなんかとも関係修復をしない。アジタなんてオレの副王就任式に王様がやってくるんだからさ。だから、練習なんだ」
  口から出任せである。実際の始まりはLDの手足になるのであればそれで良いと思って雇用した連中だ。王宮府に入れるという話もストラトに丸投げすれば大丈夫だろうという判断でしかない。
  自分で言ったことだがアスナもこういう練習の仕方もアリだと思うようになっていた。
  先の内乱はもちろん、現在進められている戦争も傷を残す。
  奇麗に癒えればそれで良いが、そうじゃないものも当然ある。
  ミナのことはアスナの胸の傷痕と同じだ。それを踏まえた上で関係を作っていかねばならないことがあるという分かりやすい形だ。
  和平の証にロゼフの姫が輿入れしてくる可能性もあるのだ。
  ……もちろん、断るけど。
  輿入れ云々は別にして、降伏した領主たちに不機嫌な顔を見せない練習にはなる。
「このことは団長には?」
「もちろん、話した。機嫌を悪くした原因の一つだよ」
  そっと目を伏せると彼女はアスナに顔を向けた。
「分かりました。……その代わり彼女と二人きりにならないようにして下さい」
「ストラトさんもそうならないようにしてくれてるから大丈夫」
  あからさまな安堵が厨房内に生じる。
  オーブンの様子を見ていた料理人たちが思い出したように火掻き棒を使って薪の調整をし始めたり、卓の上を無意味に布巾で拭いたりし始める。
  周囲の様子を見て肩を落としたエルトナージュはサイナの肩を叩き、前に出た。
  ミナの前で屈むと何かしら囁きかけた。エルトナージュが何を言ったのかは聞こえなかったがミナは強く二度頷いた。
「アスナもこう言っていることですし、この話はこれで終わりにしましょう。それはそうと、この生地の多さは何事です?」
「色々と世話になったからお礼代わりに菓子パン作って、あちこちに配ろうと思ってさ。エルのお義母さんとトレハさんにも送るよ」
「義母も喜ぶと思います。何か手伝えることはあります?」
「そうだなぁ。……ベンチタイムが終わったら麺棒を使って折り込んでいくから、そこから手伝って貰おうか」
  背後を振り返り近くで控えている料理人たちに指示を出した。
「二人分の用意をしてあげて」
  ふっと眩しい物をみるようにアスナは眼を細め、口元に笑みを浮かべた。
「二人とも凄くよく似合ってるけど、さすがにそれで料理は出来ないよ」
  二人とも似たデザインのドレスを纏っている。
  エルトナージュの義母との会話の中でサイナがこういった装いを持っていない話が出、ならば折角だからと仕立てられたものだ。
「サイナさんは軍服姿が基本だからびっくりしたけど奇麗だよ」
  今更ながらこのことを言及され、途端に彼女は耳まで赤くしてか細い声で「ありがとうございます」と礼を述べた。
「エルもね。どこのお姫様かと思ったよ」
「私は元から姫です」
  少し膨れた彼女の頬の代わりにアスナは手元の生地を突っついたのだった。

 夜が空から降り、静寂が音無き演奏を奏でる。
  すでに月は高い位置にあるのだろう。カーテン越しに差し込む白い光が僅かに室内を照らし出す。
  大きなベッドの中でアスナに寄り添って眠っていたエルトナージュが静かに身を起こした。若干の気怠さを感じるのは今夜三人で行った交歓の影響だ。
  アスナたっての要望をサイナが受け入れたため押し切られてしまったのだ。
  三人でするということは相手にしている姿を見せるということでもある。
  様々な羞恥を得たがその分だけ学べたことも多かった。
  して貰うだけではなく、自分からしてあげることの意味を。
  これまで跡継ぎをつくる手段以上に考えていなかったため、そういったことに意識が回っていなかったのだ。
  サイナの指導に従って行ったところ効果は覿面。非常にアスナは喜んでくれた。
  あまりこういった知識とは縁がなさそうに思っていた彼女の博識の理由を尋ねると女性団員の間でこういった話題が持ち上がるらしい。
  意識せずとも自然とこの手の知識を身につけてしまうのだそうだ。
  アスナを挟んだ向こう側でも衣擦れの音が聞こえた。サイナも起きたようだ。
  彼女はこちらを一度見るとそのままゆっくりとベッドから抜け出た。
  月光の中、ガウンを求めて歩く彼女の姿に思わず見とれてしまう。
  颯爽とした男性的な所作と眩しいほどに優美な女性の線が合わさって倒錯した美を感じずにはいられない。
  今夜の残り香を感じさせる彼女の肢体にベッドの上での大胆な姿を思い出す。
  久しぶりの逢瀬だからか、それとも立場が明確になかったからか。彼女はアスナに愛を囁き、行動でそれを示した。
  そして、それは自分もまた拙いながらも同じなのだ。
  サイナの姿がまるで鏡のように見えて恥ずかしい。
  そんな彼女がエルトナージュの分のガウンを手にこちらにやってきた。
  意識を切り替えるべく頷くと、アスナを起こさないよう静かにベッドから出た。
  受け取ったガウンを纏うと足早に部屋を出た。向かう先は二つ隣にある夜番たちの控えに使っている部屋だ。
  室内には小さな照明の中で椅子に腰掛けるミナの姿があった。
  今夜、詳しく話を聞きます。
  昼に厨房にてエルトナージュが囁きかけた言葉に従って彼女はここで待っていたのだ。
「待たせましたね」
  そう声を掛けると彼女は立ち上がると深く一礼をした。
  そのミナの肩をエルトナージュは無言で触れた。すると赤い光が彼女を包み込んだ。
  すかさずミナは飛ぶように後ずさり、それに応じてサイナが前に出た。
  徒手であろうと近衛騎団の団員である彼女が遅れを取ることはないだろう。
「なにを」
  ミナの当惑混じりの言葉に応じるように光は一度強く輝くと粉雪のように千々とした粒となって散乱する。するとミナの身体に異変が生じた。
  冠のような角が頭を覆い、侍女服の腰回りが膨れあがった。
「あぁ……」
  薄明かりの中でもよく分かるほどの絶望を顔一杯に浮かび上がらせて腰をその場に落としてしまった。
  抑えきれなくなった侍女服を破いて現れたのは巨大な羽だ。
  蹲ったミナはその薄く黒い羽で身を隠した。
  この特徴的な姿にエルトナージュは彼女の正体を察した。
「星魔族。そうですね?」
「は、……い」
「エル様?」
「ラインボルトが建国されるよりも前のことです。リーズの東方にアコーネという国があり、この国を建てたのが星魔族」
「彼らは月や星が放つ魔力を我が身に集め、それを他者を癒す術に長けていたそうです。今よりも医術が進んでいた時代、彼らが多くの命を救ったことでしょうね」
「どうして、それを?」
  信じられない物を見るようにミナは問うた。
「私たちのことは全てリーズが塗りつぶしてしまったはずなのに」
「ラインボルトは医療の面では最先端ですよ。そのために様々な資料を集めています。星魔族のこともその資料の中にあったそうです。私は歴史の講義の余談として聞いたことがあるだけですけれど」
  一国の姫君の耳に届くほどの資料が残っていたことにミナは信じられない思いとともに涙を流した。
「本題に入りましょうか。なぜ貴方がアスナに献じられたのです? 大凡の話を聞いた限りでは金銭での契約で十分だと思いますが」
「それは……」
「正直に話しなさい。黙秘するのであればアスナ付きから外します」
  サイナとともに身の安全について不安を述べればアスナも否とは言わないはずだ。
  彼女も追放にはせずに王宮府内で別の職務に就かせれば問題はない。
  一分あまり沈思していたミナは顔を上げて話し始めた。
「私たちの安住の地を賜るために。私たちが私たちであれる土地が欲しいんです」
  ラインボルトは基本的に特定種族に特権を与えることはしない。
  例えば自治領といったものは一部例外を除いて与えない。
  種族として領地が与えられているのは機族と竜族、つまり大公領のみだ。
  併合した新領土を収めていた領主たちもこの例外に類する。これも長い年月を掛けて領地は国に返上され、領主たちは土地の有力者となっていく。
  彼女の願いを叶えることはあり得ない。だが、それに近しい状況を作ることは可能だ。
  新規に王家を立てればいい。王家の当主には都市と地方自治権が与えられる。
  この領地に星魔族を呼び寄せて、事実上の庇護を与えたいと考えているのだろう。
  星魔族はリーズによって国を滅ぼされてから筆舌に尽くしがたい苦難を歴てきたことは容易に想像が付く。
  彼らの容姿は様々な獣を交えたようにも見え、癒しの術の一つに性的な接触をすることで行うものもある。貴族化していた竜族は彼らを不道徳的な存在であるとして徹底的に弾圧をした。竜族を中心に崇める円卓の神に関わる説話に星魔族を不浄の者として登場させているほどである。
  個人としては同情できる。ラインボルト王族としては是が非でも止める必要がある。
  ……杞憂に過ぎないけれどね。
  エルトナージュは確信とともにそう思った。
「貴女たちの境遇に同情しないことで礼儀とするわ。その上でわたしは貴女の願いは成就しないと確信している」
「なぜですか」
「仮にアスナが貴女に手を付けて、子どもが出来たとしましょう。産まれてきた子は星魔族よね。だけど、彼の周りに星魔族はいない。貴女、王宮府に自分の種族を正しく登録しているの?」
「で、ですが、すでに私のことは姫様方はご存知で……」
「わたしもサイナも証言しないわよ。だって、ラインボルトの国是に反する行いをさせる訳にはいかないもの」
  この国は魔王の名の下での平等なのだ。王族もまたその国是を揺るがせてはならない。
  新王家には既存の小規模な都市が領地として与えられる。そんなところに王家から庇護を与えられた種族が流入してきたら必ず大きな問題が起きる。
  そんなことになれば王家の威信に傷が付いてしまう。
  だが、彼女たちは使える。妥協点を見出すことは出来るはずだ。
「ミナ、今の願いは貴女たちの総意なの?」
「違います!」
  縋るような必死の形相に嘘はないとエルトナージュは察した。
  政府や議会にいる年寄りたちよりも余程読みやすい。
「私の、私だけの願いです! 祖父からは殿下の言葉を伝える役目だけを言われています。決して総意では」
  魔王と直接契約を結ぶこと以上の好条件を彼らが手に入れることは不可能だ。
  その点から考えても彼女の言葉に嘘はないと思って良いだろう。
「では、今の本当の姿でアスナの侍女を務めなさい。王の側付は注目されるから職務に精励する貴女の姿が星魔族の信用に繋がっていくわ。貴女の後に続く者が増えていけば貴女たちはラインボルトの国民になれます」
  遠い道のりを美辞麗句で飾り立てている自覚はある。
  円卓の神を信仰している者はラインボルトにも多くいる。彼らとの付き合い方を考えるだけでも気が遠くなることだろう。
  それでも彼女にそういってあげることはラインボルト王族の義務だ。
「祖父と良く話をしなさい。決心をしたのなら今の姿で私たちの前に出てきなさい。星魔族に特別の庇護を与えないけれど、貴女個人の努力には力を貸しましょう」
「祖父と話をします。姫様、ありがとうございます」
  例に頷きで返すとエルトナージュはサイナを見た。
「サイナからは何かありますか?」
「ありません。全てエル様が仰って下さいましたから」
  そうですか、と応じると再びミナに顔を向けた。
「話はこれで終わりです。夜番、任せます」
「はい、お任せ下さい」
  控え室を出て寝室に向かう道すがら感嘆の念とともにサイナはこう言った。
「エル様は本当の姫なのですね」
  その言葉が昼のことを思い起こさせた。
「わたしは生まれた時からラインボルトの姫ですよ」
  そう言って口元に微笑を浮かべたのだった。

 



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