第五章

第七話 歩みを前へ

 王の崩御より始まった内憂外患にラインボルト国民の誰もが不安を感じていた。
  このまま次の王が現れなければ国が壊れてしまうのではないか、と。
  しかし、現生界から召喚された魔王の後継者によって瞬く間にそれらは払拭されつつあるように多くの国民の目には見えていた。
  内乱を鎮め、国内を一致させて外患に当たる。その外患の一つであったロゼフをワルタ地方から追い出し、逆襲の時だとばかりに快進撃を続けている。
  この功績は次代の王が人族であるという不安点を掻き消すに十分な力があった。
  ラインボルトは再び栄光を取り戻すのだと言わんばかりにアスナの副王就任は国民たちから歓迎されていた。
  往来を行き交う人々の表情は明るく、焦点は近年にない賑わいが続いている。
  これまでの鬱屈を晴らさんばかりの勢いが人々にはあった。
  その様子を宿所のテラスから羨望の眼差しで見ている女性がいた。
  年の頃は二十代の前半だろうか。海を思わせる深い青の髪を風に靡かせた優美さが見て取れる。しかし、精彩を欠いた彼女の表情のせいか美しさに翳りを感じさせる。
  彼女の名はグレイフィル。海王プライオス一世の王妃だ。
  アクトゥスは長い間、リーズからの圧力に晒され続けていた。
  自国の首都がこのように賑わっている様を彼女はまだ一度も見たことがない。
  王との婚儀でさえも、いつ戦争が始まるか分からないからと質素に執り行われた。
  内乱を経て今も戦時であるラインボルトはこのように盛大に式を催そうとしている。
  両国の違いは何なのかと思わずにいられない。
  海上貿易を制するアクトゥスの方が一つ上の国富を有していると聞いている。
  リーズとの戦争で大きくこれを失ってしまったとは言え、それは戦時であるラインボルトを下回ったとは思えない。
「殿下、ラインボルト王宮より使者が参りました。使節団副団長セギン男爵が殿下にお出ましを願い出ております」
「分かった。すぐに参ります。案内を」
  侍女の案内で応接室に向かった。
  宿所として提供された邸宅は華美ではないものの非常に整えられている印象をグレイフィルは抱いていた。
  ここはラインボルト王家の一つが首都別邸として有する邸宅だ。
  恐らくこういった装いを是とする家風なのだろう。絢爛さを見せ付けられることがなかったことに王妃はある種の安堵を得ていた。
  屋敷の主は顔合わせのアクトゥス一行に出迎えの挨拶をするに留め、当主一家は王城内にある一室に居を移していた。頻繁に利用していないせいか生活感を感じさせないことがグレイフィルに気楽さを与える一因となっている。
  応接室には首都までの道程を案内役として共に過ごしてきた人物がいた。
  ジネド伯爵。領主貴族の出であったがラインボルトに飲み込まれて後は農場主として今日まで家名を維持し続けている。
  彼女は農場だけではなく養蜂場も有しており、手土産に献じられた蜂蜜はなかなかの美味であった。
「お待たせしました、使者殿」
「王妃殿下におかれてはご機嫌麗しく。副王就任式の正式な日取りが決まりましたのでお知らせに参りました」
「承りましょう」
  要件は日取りのことだけなので簡単に済んでしまった。
  だが、このまま使者を帰してしまうわけにはいかない。然るべき饗応が必要であった。
「ときにジネド伯。これから何か予定はありますか?」
「いえ、ございません」
「ならば、貴方を夕餉をともにしつつ、これまでの旅の思い出を語り合いたいと思う。お役目を終え次第、ご夫婦で再び私を訪ねて貰いたいが、いかがかな?」
「末代までの誉れに御座います。喜んでお伺いいたします」
  こういった応対をするにも相手が古き血筋であれば気も楽だ。
  他国への応対のためにラインボルトは貴族を残しているのだろう。
「では、後ほど」
  ジネド伯爵はグレイフィルにとってありがたい人選であった。
  如何に王家の後ろ盾をえるか、または王家に使われずに済むかに汲々としている宮廷の者たちを相手にするよりも遙かに付き合いやすい。彼女は政治とは無縁の立場にある。
  ただただ歓待をし、王宮からの言葉を届けることだけを期待されている。この役割を大過なく務め終わることこそがラインボルトでは家名の存続に繋がるのだ。
  贅沢は出来なくとも汲々とすることはなく、名誉ある役目を務めることで尊敬を集めることができる。退屈そうではあるが、彼女を取り巻く現状を考えれば羨ましい限りだ。
  ジネド伯爵を見送ったグレイフィルは小声で隣に立つセギン男爵に声を掛けた。
「ベルーリアはまだ外ですか?」
「はい。諸方をご視察されております」
  お忍びとして娘を遊びに出したのだ。
  これまで王宮で窮屈な思いをさせていたお詫びの気持ちもあった。
  遊びたい盛りだろうに貴族や連合を組む諸王の目を気にして外に出してやることができなかった。不謹慎の誹りを押し潰すことすら今のアクトゥス王家は難しい。
  幼い娘がエグゼリス観光を楽しめる時間の余裕は魔王の後継者が縁談を断ったから出来たというのが王妃にとっては複雑な気持ちであった。後継者が受けるようであれば諸方に働きかけをして遊びに出すなんてことは出来なかったはずだ。
  そして、そうなった理由が同じアクトゥス王家の血筋によるものだというのは如何なる皮肉なのだろうか。
  この件をセギン男爵より聞いた時、自分はどのような表情をしただろうか。
  王と共に断腸の思いで決断したことを踏みにじられた怒りだったろうか。素性の知れない男に愛しい娘を嫁がせずに済んだ安堵だろうか。
  それともお伽噺のように聞いていたウィーディン家の名がでてきた困惑だろうか。
  一つだけ幸いなことがあるとすれば、ベルーリアに輿入れのことを教えていなかったことだ。
  アクトゥスとラインボルトは今、微妙な関係にある。
  祖国はどのような形であれラインボルトをリーズとの戦争に巻き込まねばならない。そのために内乱への介入を示唆したり、リーズに矛先を変えるように働きかけたりとしていたのだ。
  対してラインボルトは積極的な介入を拒否する風であるように見える。感情的に受け入れられずともリーズの脅威を放置できないはずだ。
  その証がセギン男爵に提示し、すぐに撤回された提案だ。
  何らかの形で和解と協力体制を整えたいという意思があるのが分かる。
「男爵、陛下からのお返事はいつ頃になるでしょうね」
「本国とのやり取りはラインボルト側からの協力も得ておりますが、返答がいつになることか」
「ラインボルトからの退けられた提案をどう思います?」
「交渉の余地有りと見ます。しかし、サベージを絡めてきたところが厄介なところです。交渉参加が遅れれば遅れるだけ両国への土産が重くなってしまいます。その上、ウィーディン家のこともあります。敢えて不適切な物言いをすれば、実にいやらしい」
  陸で溺れた娘の名誉を回復せよとの要求だ。
  条約の文言でどうこうできることではない。アクトゥスにやるかやらないかの二択を突き付けている。
  ウィーディン家に姫を奪い取られた貴族は今も大きな力を有している。王家と言えども疎かな扱いにはできない。国の内外から板挟みにさせられてしまったのだ。
  恐らく件の娘のみの名誉回復では通用しないだろう。
  王家が調停を行わねばならない事案だ。
  しかし、いやらしいと評した当人の口元は実に楽しげに釣り上がっているのをグレイフィルは見ていた。
  セギン男爵が本国に何通もの手紙を出し、首都エグゼリスでは使節団副団長としての役目以外の目的でも動いていることに王妃は気付いていた。
  三ヶ国条約の交渉担当者になるべく各所に働きかけ、ラインボルトの知己を増やしていることは明らかだ。条約には利権が絡み、交渉役はその恩恵に与ることができる。
  彼は条約から染み出る蜜を狙っているのは明らかだ。
  しかし、王妃としての彼女はそれを悪いことだとは思わない。交渉を纏めた者への然るべき報酬だからだ。むろん、節度があって然るべきではある。
  だから、彼女が男爵にかける言葉は単純である。
「使節団副団長殿、エグゼリス滞在中は宜しく頼みます。陛下の御心に沿う働きをしましょう」
「はっ。微力を尽くします」
  彼は恭しく一礼してみせた。
  と、その時。無紋の馬車が敷地内に入ってきたのが見えた。
  あれには今朝方、送り出したベルーリアが乗っているはずだ。
  自然と表情の強張りが抜けていくのを自覚した。
  玄関先で停まった馬車から愛娘が飛び出し、グレイフィルの腰に抱き付いた。
  普段からこのようなことをしてはならないと躾けているが、余程楽しかったのかそのことを忘れてしまったようだ。
「お母様!」
  抱き付いたまま顔を上げた娘は丸い頬を真っ赤にしながら喜色に満ちた笑みを浮かべていた。抑えきれない気持ちを表現したくて今にも飛び上がってしまいそうだ。
  慌てたように乳母が飛び出してきたが、グレイフィルは彼女に頷きを与えることで許しとした。安堵したのか乳母は静かにベルーリアの目から離れた位置に控えた。
「お帰りなさい。楽しかったかしら?」
「うん!」
「うん、ではないでしょう?」
「はい!」
  間違いを正した娘の頭を優しく撫でてやる。見れば彼女の髪には小さな白いリボンが結わえられていた。
「これはどうしたの?」
「買ったの!」
「……そう。良かったわね」
  市井に出て買い物をしたことはなかった。自分には出来なかったことが娘には出来た。それが羨ましくも、不思議なぐらいに誇らしかった。
「あのねあのね、指輪とかリボンとか色んなのがいっぱいあったの。それでそれで近くに喋る家があったの!」
  見た物聞いた物なにもかもがベルーリアにとって刺激的だったようだ。元々少ない語彙を必死に使ってこの興奮を母に伝えようと必死だ。
  そんな娘の姿に、エグゼリス見物に出して良かったと思った。
  恐らく今日を含めたこの土地での思い出は娘の中で生涯輝き続けることだろう。
  政治のことでは色々と思うところもあるが、ベルーリアに溢れるほどの歓喜を与えてくれたこの街に感謝したい。
「お母様、これからお庭を散歩しようと思っていたの。ベルーリアの話を聞きながらお散歩したいわ。良いかしら?」
「はい!」
「それじゃ、手を繋いでいきましょうか」
「良いの!」
  まん丸な目を更に大きく見開いた。普段は貴族たちの目があってそういうことが出来ないが、ここにはそんな些細なことすら眉を顰める者はいない。
「今日は特別ですよ?」
「はい!」
  差し出した右手に文字通り飛び付いた娘とともにグレイフィルは歩き出した。
  一生懸命に見聞きしたことを話す娘に相槌を打ちながら彼女は思った。
  頑張ろう、と。この先も数多の苦難があるだろうがベルーリアに幸いなる未来を用意できるように頑張ろう、と。

 何かしら事が起きた時、一番始めにどう動くか。
  その人の為人を知る上で大事な要素だと、アジタ王ティルモールは考えている。
  情報収集に動く者は用意周到。果断に行動する者は積極的な人物と言えるかもしれない。
  家臣団に委任をしていれば、信じることを知っているとも言えるかもしれない。
  小なりとも一国の主として様々な人を見てきた彼の考えであった。
  隣国とはいえ、アジタからエグゼリスまで遠い。そろそろ老年が見え始めた彼には厳しい道のりであった。体力面でもそうだが、精神的にも辛いものであった。
  罵声や石を浴びせられるようなことはなかったが、国境を接するアシンを抜けるまでは冷たい視線に晒され続けていた。
  無理からぬ事だとは思う。国境を接することで揉めることも様々あるが、アジタとラインボルトは概ね良好な間柄にあった。
  それだけにエイリア軍を通したことは彼らには裏切りに見えたことだろう。
  実際、ティルモールの耳に届いた被害だけでも酸鼻そのものと言えた。
  略奪暴行は当たり前、家々に火を付け、目に入った者を試し切りにするかのように切り捨てて回る。良く言っても敗軍の所行にしか見えなかったと報告を受けている。
  当時のラインボルトは内乱中であり、家財を捨てて住民たちを逃がすことを優先したという。残されたのは廃墟と化した街や村と絶望に打ちひしがれる人々。
  ラインボルトが報復戦をしない理由はどこにもなかった。そして、その行きがけの駄賃としてアジタを蹂躙されないとは言えなかった。
  だからこそ、今の内に旗幟を鮮明にせねばならない。
  ティルモールの名でアジタへ食糧や医薬品などの援助をし、副王就任式に王自らが出席をする。王が副王就任式に参加した例はない。使者を派遣する程度で十分だ。
  誠意を示せばラインボルトも無碍にはしないと判断をした。
  無論、国元では激しい論争が巻き起こった。ティルモールは反対する家臣たちを一人一人説き伏せてラインボルト行きの環境を整えたのだ。
  また出立に際して、彼は自分に万一があった時は息子を王に推戴すべし。また、ラインボルトと事を構えてはならないとも言い残してきた。
  ラインボルトと敵対してエイリアに就いた場合、戦場となるのはアジタになることは間違いない。戦火が避けられないのであれば、王として自国を戦場から遠ざけねばならない。
  ティルモールは死出の旅に出るものと心得ていた。その現れとして彼のお供は人足を除いて老齢の者たちばかりであった。その覚悟が王城の心証を良くした。
  首都エグゼリス滞在中の宿所の手配などのために先遣させた者たちからもたらされた報せにティルモールは年甲斐もなく両手を挙げて快哉を上げた。
  ラインボルト王宮から王族が首都に有する私邸を提供するとの申し出があったのだ。
  これはリーズ、アクトゥス、サベージと並ぶ待遇だ。
  何らかの不都合がアジタにもたらされれば、私邸を提供した王族の顔を潰すことになる。
  つまり、アジタが報復の対象にはならなかったことを意味していた。
  一頻り安堵の歓喜を老臣たちと享受した後、彼は更なるだめ押しをすることにした。
  就任式の前に魔王の後継者と非公式会談を行い謝罪と見舞いの言葉を告げるのだ。
  この申し出も彼が拍子抜けするほどあっさりと受け入れられた。
  この時になってティルモールはようやく会談する相手、坂上アスナの人柄を知る話を聞いていないことに気付いた。
「勇に優れ、臣下の功績を褒め称え功臣が多くいることに誇りを感じているようです。また、民への関心が強く、不都合があれば手を伸ばす情に厚い人物とのことです」
  首都エグゼリスへの先遣団を任せていた老臣がティルモールの下問にこう答えた。
  白髪が多いこともそうだが、目元を隠してしまいそうな長い眉毛のせいで老人のように見える。こう見えて彼はティルモールよりも二歳若年だ。
  彼の名をホイディ・マナン。伯爵であり、参議として王の側に遣えている。
「そういったことは余も聞いている」
  これまで立ち寄った街々での歓待の席で王も情報収集をしていたのだ。
  しかし、聞ける話は世間に流布されている逸話ばかり。
  自ら近衛騎団を率いて内乱を鎮めていき、ラメルにてラディウスに一撃を与えて見事な撤退戦を演じて見せた。補給と休息に立ち寄った集落では有力者たちと親しく言葉を交わし、不都合を纏めて自らの名で首都に要望書を提出。内乱鎮圧後は可能な限り要望に添う対策を講じているという。
  アシンにも速やかに軍を派遣して復興に力を入れている。
「そういったことではなく、個人としての人柄や嗜好などの話はないのか?」
  新しい君主を盛り立てるべく武勇や情け深さの流布は良くあることだ。
  余程の暗愚が即位するのでなければ微笑ましく眺めていれば良い。
  坂上アスナは内乱鎮圧という揺るがしようのない実がある。これが王城で総指揮を執っていたのであれば、常と同じく盛り立てるための虚飾であると微笑ましく評価することができた。しかし、彼は近衛騎団を率いて戦場を駆け巡っている。
  実際に指揮を執らずとも次代の王となる者は戦場に立つだけで武勲となる。
  ラメルでの一戦は内乱ではないため、魔王の後継者の決断が必須だ。
  決断をし、近衛騎団に実行させた話だけでも尋常成らざる人物であることが分かる。
  それだけに坂上アスナという人物が薄気味悪く見える。
  現生界から召喚されて間もなく内乱鎮圧に動き出すというところからしてまずおかしい。
  その上、近衛騎団を率いて自ら出陣する点を加味すれば異常としか言いようがない。
  自らの身に起こったこととして想像してみれば良い。別世界に断り無く召喚され、その先で王になるように告げられ、しかしその国は内乱の真っ直中。
  もし、ティルモールであればどうであろうか。
  もう一人いるという魔王の後継者と同じように動くのではないだろうか。
  当時、宰相派は圧倒的劣勢であった。国の安寧のためにも降伏を選ばねばならない状況だ。その時点で反撃を決意する。異常だ。
  自棄で人はついてこない。であるならば、後継者は何らかの策を提示したのだろう。
  ティルモールが知る人族の姿とはとても思えない。彼が見聞きした人族とは混乱と憔悴で擦り切れた者のことだ。このような行動的な存在ではない。
  召喚されて始めて行ったことが反撃だ。人族の姿をした怪物だとしか表現しようがない。
  だからこそ、何かしら理解できる部分を知っておきたかった。
「エルトナージュ姫以外にも一人女性を得ているとの話です」
「召喚されてまだ一年も経っていないだろう。好色な人物ということか?」
  下世話ではあるが男として非常に分かりやすい嗜好だ。
  容姿に優れた娘を愛人として差し出すという手が使えるかもしれない。
「とも言い切れないようです」
  同じ手を考えていたのかホイディは残念そうに首を振った。
「どうやら他にお手つきとなった女性はいない様子。噂ではありますが何カ国かの使者が内々に愛人を差し出そうとしたそうです」
「どこも考えることは同じか」
「しかし、丁重に断られたようです。今回は諦めた方が宜しいかと存じます」
「他には何かあるか?」
「これもまだ噂の域を出ないのですが、美食家であるとのこと。宮廷料理はもちろんのこと、市井の民が食するようなものも喜んで食べているとのこと」
「ならば国元から早急に珍味佳肴を取り寄せさせるか」
「宜しいかと。しかし、人族の口にあうとは限りませぬ故、滞在中に饗される料理を調べてから選んだ方が無難かと」
「うむ。その通りだな」
  口に合わないものを出して不興を買う。笑い話ではなく実際にあることだ。
「美食家で女に手が早い。これだけを羅列すると何処にでもいる男のようだな」
「英雄色を好むと申しますからな。古今変わらぬ真理なのやもしれません」
「はははっ。そうだな」
「……だが、エルトナージュ姫はどうなのだろうな」
  ティルモールの妻はエルトナージュの義母イレーナの妹だ。
  つまり、血の繋がりはないが叔父と姪の間柄になる。
  愛人がいる相手と婚約をするというのは辛いのではないだろうか。少なくとも王妃として迎えて暫くしてから抱えるべきではないだろうか。
  叔父として要望を伝えた方がよいかもしれない。
「こう言ってはなんですが王妃殿下を同伴されなくて良うございました」
「そうだな。王妃は情が深いからな」
  ラインボルトがエイリアにどう対処しようとしているのかが分からない。
  不用意に刺激しないように体調不良を理由に国元に残したのだ。
  場合によっては血の繋がりのあるエイリアに攻め込まねばならない決断を下さねばならない。その席に王妃を伴うのは厳しいだろうと慮ってのことだ。
「こう言ってはなんだが、儂らに後継者殿の気を引けるものは何もないのだな」
「いえ、一つございます。陛下の誠意。それこそが何物にも代え難いものでございます」
「おだてられて調子づくほど余は若くはないぞ」
「臣は赤心から申し上げているのに、そのように言われては哀しゅうございます」
  と、ホイディは芝居がかった口調で泣く仕草をして見せた。
「老境に入ろうかという男がやっても見栄えは良くない」
  思わず苦笑してしまう。この男は昔からお忍びで演劇を見に行く趣味があり、時折こうやって芝居がかったことをしたがる癖がある。
「そのような仰りよう哀しくあります。私めの言葉に嘘偽りないことを今すぐに証明したいところではありますが……。陛下、そろそろお忍びの準備をお願い致します」
「分かった」
  約二時間後には非公式会談が始まる。
  息子よりも更に年若い次代の王とどう付き合っていけば良いか今も答えは出ず、悩ましい思いがある。しかし、時は彼の戸惑いを無視して万人に対して平等に流れていく。
  土壇場まで思い悩み続け、時に背中を押されて動き出す。
  それがティルモールという王の有り様の一端であった。

 王宮府より派遣された使者の案内で馬車は進む。
  繁華街とは全く異なる非常に閑静な場所を抜けていく。
  使者との応答はホイディが行ったため、どのような人物かは分からない。御者の隣に座って行き先を指し示す背中だけが見えていた。
  このような場合の案内役とはそのようなものだ。
  遠く聞こえていた賑わいがいつの間にか溶け消えてしまった。聞こえる音は馬蹄と車輪の音のみ。それが二つ重なって聞こえる。後続には護衛の兵たちが乗る馬車が続いている。
  忍びということもあって二人ともそれに見合った装いだ。
  ティルモールは商家の旦那風の装いに身を固め、ホイディはそれに従う家宰のようである。しかし、人に傅かぬ生き方をしてきたこともあって商人には決して見えなかった。
  流れる景色を眺めつつ王は思うことを口にした。
「この会談が終われば、アイゼル殿の墓所に詣でようと思う。手配を頼む」
「イレーナ殿下への面会も手配致しましょうか。……会談が上手くいけばそのように。不調に終わった時は不要だ。このような状況で、更に肩身の狭い思いをさせる訳にはいかん」
「承知致しました、陛下」
  程なくして馬車は瀟洒な佇まいの建物の中へと入っていった。
  会談の会場はここのようだ。窓からは暖かみのある灯りが漏れており、見るだけでホッとした気分にさせてくれる。
  兵たちが警護の配置に就いたようだ。静かに馬車の扉が開かれた。
  ホイディが先に、その後でティルモールが降車した。
「お待ちしておりました、陛下」
  深く一礼をする男の声に聞き覚えがあった。記憶にある物よりも幾らか枯れているようだが間違いはないだろう。アイゼル付きの侍従を務めていた男の声だ。
「……ストラトか?」
「はい、陛下。私めのことをご記憶下さり光栄にございます」
「今は執事長を務めていると聞いているぞ」
「大役を仰せつかり日々身の引き締まる思いです。……離れにご案内させていただきます」
「うむ。頼む」
  ストラトの先導で一行は歩みを進める。貸切となっているのか彼ら以外に客の姿はない。
  料亭の庭を回るように小道が作られている。造成された庭のあちらこちらで小さな光球が踊っている。噂に聞く妖精郷のようだとティルモールは思った。
  四季折々、ただ楽しむためだけにここに訪れてみたくなる。
  春には花の彩り鮮やかに、夏には零れるほどの深緑が見られるだろう。
  秋には季節の移ろいに心を浸し、冬には雪の薄化粧を楽しめるのではないか。
  一つ、気に掛かることがあった。ホイディも恐らく同じことに気付いている。
  どこにも護衛の姿がないのだ。無粋であると言われようと一国の王が二人揃う時はあからさまなぐらいに見せ付けることで安心感を与える。
「ストラト殿。貴国の近衛が見えぬようだが?」
「はい、伯爵閣下。この場は陛下の手勢が護衛の任に就くので近衛は遠慮せよ、と後継者殿下より命じられております」
  ホイディの問いに何でもないことのように応じたストラトの言葉に王はゾッとした。
  それが何であるのか言葉に表すことが出来ない。
「兵らに次代のラインボルト王の身辺をお守りする栄誉をお与え頂けるのか。……貴殿から見た後継者殿下はどのようなお方か聞いても宜しいか?」
「お優しい方です。市井の者たちには武断の人と見られておりますが、状況がそれを求めているからにございます。戦争が終われば市井の者たちも殿下のお優しさにようやく触れることができるでしょう。殿下は文治を好む心をお持ちですので」
「戦は心を荒ませますからな。文治を好まれるのであれば尚更であろう」
「はい。そのため、陛下よりお手を差し伸べ頂いたことを殊の外喜ばれておられました」
「余も一日も早く新たな王となる人物に会ってみたいと思っていた。ラインボルト王宮には我らの滞在に心を配ってくれたこと大変満足しておる」
「恐れ入ります。王宮府一同にとって今のお言葉は誇りにするところです」
  案内された離れはさほど大きくはない。平屋の建物だ。客間の近くに小さな厨房が設えられている。恐らく離れからはこの庭が一望できるのではないだろうか。
  離れは庭と同じく控えめな装飾が施されているように感じた。玄関先には白く小さな花を花瓶に生けられている。若干の暗さが花の白さをより際立たせているように見えた。
  廊下を進んだ先にある控え室にはティルモールの侍従長が待っていた。
  会場の準備にはアジタ、ラインボルト双方から人を出している。
「後継者殿下、エルトナージュ姫がすでにお越しで御座います」
  うむ、とティルモールは頷いた。事前に聞いてはいたが姪が同席していることに若干の心強さを感じる。
「それでは、陛下。開始の時間まで少しあります。ご準備をお願いいたします」
「私めもこれで失礼いたします」
「ごくろうであった」
  出迎え役を務めたストラトは一礼をして控え室から辞していった。
  控え室は非常に狭い。五人も入れば窮屈さを感じる程度の広さだ。
  ここでティルモールとホイディは会談に相応しい衣服に改める。侍従長より差し出された白湯に口を付けつつ、今夜の段取りを確認する。
「会談の後にそのまま晩餐となる予定です。些か作法に反しますが、姪が叔父に婚約者を紹介するという形となっておりますのでご了承ください」
「分かっておる。我が国を含めた諸国への気遣いであろう」
  王自らが来訪したとは言え、公式に個別会談を行ったとなれば大国がへそを曲げる。
  だが、今回の会談は親族間で行われる晩餐を名目としているため口を挟むのは難しい。
  それなりの金銭を対価にして晩餐の様子を聞かせてやれば、表立っての反感は受けないだろうとアジタ側は考えている。
  会談の時間が到来した。ティルモールらは侍従長に案内されて談話室に向かった。
  ティルモールは談話室に入った。すでに後継者とエルトナージュがいた。
「…………」
  談話室で待っていた二人の姿にティルモールは言葉を失った。
  濃い緋色の絨毯の上で膝を突き、頭を垂れて王を迎えていたのだ。
  王位に就いていなくとも一国を背負う立場にある者が見せて良い姿ではない。
「坂上アスナと申します。アジタ王陛下に目通りかない恐悦至極陣存じます。副王就任式への参列くださること光栄の極みにございます」
  ティルモールは咄嗟に立つよう声を掛けようとしたが、それよりも早く後継者は挨拶の口上を始めてしまった。これを止めては無礼となってしまう。
「また、エイリアが暴挙を起こす時、彼の国を諫め三日の時を作り、民が避難できるだけの時間をお与え下さったこと、エイリア軍が去った後、様々な援助を賜ったことラインボルトを代表して御礼申し上げます」
  謝罪をしたいとアジタ側から打診をして開催されたこの会談だが、後継者の口上はティルモールの謝罪を封じるものであった。これを否定することはラインボルト側の面目を潰すことになる。なにより、頭を下げずに済むことはありがたい。
  王として接したということはこの場の進行を譲られたと解釈した。
「アジタ王、ティルモール・マイナンである。余も貴殿と話をする機会を得られて嬉しく思う。アシンのことはお見舞い申し上げる。また、エイリアを諫められなかったこと、我が身の無力を嘆く他ない」
  そこまでいうとティルモールは膝を突くアスナの手を取った。
「さぁ、立つが良い。殿下の称号を得、すでに一国を担う身にある者が膝を突くものではない。姫もだ、よろしいな」
「はい、陛下」
「はい」
  若者二人を立たせる。こうして同じ目線で見れば、よく見る少年のようだ。
  事前に得ていた情報によれば、市井の生まれだと聞いている。しかし、ティルモールが見たところ田舎の貴公子というのが似合いに思える。
  市井にあったとしても修羅場を切り抜け続ければ変わるということだろうか。
「妻の変わりに同席を出せた。メイナン伯だ」
「メイナン伯爵ホイディ・イヴェンにございます。内乱の平定、ラメル地方の奪還。そして、エルトナージュ様とはご婚約なされたとお聞きしております。おめでとうございます」
「ありがとうございます、メイナン伯」
  照れ臭そうな二人の様子に無理矢理娶せられたのではないことが察せられた。
  これならば妻を連れてきても大丈夫だろう。
「陛下、まずは乾杯を」
「そうだな。杯をもて」
  両者に遣える侍従長と執事長が酒を注いだグラスを運んでくる。
  捧げられたグラスは赤い色が煌めいている。
「若い二人の未来を祝して。そして、ラインボルトの繁栄を願って」
「アジタ王陛下並びに妃殿下のご健勝とアジタの繁栄を願って」
  乾杯、と四人はグラスに口を付けた。
  そして、後継者は二人に席を勧めると自らもティルモールの前に着席をした。
「エイリアについて話を始めましょう。我が国としてはエイリアへ報復しない理由はありません。ロゼフとの戦争が終われば次はエイリアへという話に当然なります。すでにアシン選出の議員たちから催促が来ておりますし、国民からも報復を望む声もある」
「確かに貴国には報復の権利がある。しかし、どこまでを報復とされるつもりか?」
  後継者の変わりようにティルモールは戸惑った。
  先ほどまでの友好的で、不慣れな気遣いはなんだったのかと思わずにいられない。
「滅ぼします。領地を持つ貴族は地主に、それ以外は得意なことを行かして貰う。王家はアジタに保護して頂くのが一番穏便ではないかと思います」
「それはあまりにも……」
  ホイディはそれ以上を口に出来なかった。
  二人ともラインボルトとエイリアの間で戦端が開かれると予想していた。戦いに勝利し、賠償金と何らかの利権を得るに留まると考えていたのだ。
  しかし、実際に後継者の口から飛び出した言葉は滅びだ。
  ティルモールは姪に視線を向けた。彼女は素知らぬ顔で酒肴を各人の前に出している。
  仮にも宰相を務めた彼女が一切の意見を挟まないということは後継者自らの見解ではなく国論になっているということを示していた。
  エイリアに対しては憤慨もある。しかし、滅ぼされてしまっては困る。エイリアがあるからこそアジタはラインボルトに気遣われているのだから。
「いささか過激に過ぎるのではないでしょうか?」
「メイナン伯はそう思いますか?」
「はっ。貴国が報復することを止めはしませんが、滅ぼす権利まではないように考えます」
「物事には順序がある。まずは使者を立て、エイリアに然るべき態度を示すよう求めた方がよかろう。貴殿がロゼフに示したようにまず和解を考えるべきだと余は考える」
  と、ティルモールはホイディの意見に同意を示した。
「しかし、それで私は失敗をしました」
「余は貴殿がロゼフに示した和解の意思が無駄であったとは思う」
「そうでしょうか?」
「はい。アジタの宮廷では殿下の温情に皆、感じ入っておりました」
  実際はそんな弱気で大丈夫なのかと懐疑的に見られていた。
  ある者はエイリアからの圧力が強くなることに悲嘆し、またある者はヤケクソ気味に嘲笑をした。しかし、ロゼフとの交渉が決裂してからのラインボルトの動きに宮廷は恐怖した。迅速果敢に兵力を集め、瞬く間にワルタ地方を奪還し、ロゼフ本国へと乗り込んだ。
  あの弱気は一体なんだったのだ、と。
  故に揺れていた宮中をラインボルト支持に傾けることが出来た。
「でしたら、陛下にお縋りしても宜しいでしょうか?」
「……余に何を望んでいるのだ?」
「エイリアとの仲介をお願いします。我が国は然るべき誠意を見せてくれれば謝罪を受け入れる意思があると伝えて下さい」
  この依頼が賠償の代わりか、とティルモールは納得をした。
  難しい問題だがアジタにとって利益のある依頼だ。
  両国にとっても仲介の労を取ったアジタの顔を立てるという理由で譲歩できる。
「期限は?」
「最低でもロゼフとの戦争が終わるまでに一度、接触がもてればと考えています。終戦のどさくさに紛れて和解できれば良いですけど難しいと思いますので」
  半年以上の余裕がある。すぐに接触を開始すれば何らかの反応が得られるはずだ。
  ホイディに視線を向ける。彼は同意の頷きをしてみせた。
「その依頼、お受けしよう」
「ありがとうございます」
  その言葉と同時に後継者の表情から険が抜けた。人の良さそうな青年に戻った。
  王が王たらんと欲すれば様々な物を身につけねばならない。
  今、現れた表情が彼の素直な人柄なのだろう。そう思うことにした。
「ついてはこちらからも頼みたいことがある」
「なんでしょうか」
  それも僅かな間のこと。すぐに王という衣を身に纏ってしまった。
「ロゼフとの戦に我が国も援軍を送りたい。派遣できる兵は少数ゆえ戦場の添え物と扱ってくれて結構。我が国にとっては援軍を送ることに意味がある」
  万が一エイリアと戦端を開かねばならなくなった時に備えての軍事交流だ。
「どの程度の規模をお考えですか?」
「百名ほどを」
「……お受けします。但し、場合によっては部隊を磨り潰す可能性があること。我が軍に指揮権をお預け下さること。軍規違反があれば貴人であっても処断すること。あとは軍務大臣との調整の結果をお受けいただければという条件をつけさせて頂きます」
「前二つについては了解した。しかし、違反者の処罰については我が方で行いたい」
「信賞必罰は軍の拠って立つところ。ご配慮頂ければ」
  と、ホイディが口添えをする。
「抗命、重大な軍規違反があった場合、それまでの軍功は考慮せずに全員帰国して頂き、陛下のご命令によって処罰していただくということで如何でしょうか」
「貴殿の配慮に感謝する」
「いえ、私も陛下のお立場まで考えが至りませんでした。ご指摘下さりありがとうございます」
  後継者は浅く頭を下げて謝意を述べた。
  王でありながら王ではない。今の彼を評するならばこの言葉が相応しいのかもしれない。
「もう一つお願いがあるのですが」
「なにかな?」
「就任式の後、何度か狩猟会や茶会を催すことになっているのですが、こういった行事に参加したことがないので戸惑っております。当日は側で色々とご指導いただければと」
「分かった。茶会は良いとして狩猟会には賢狼公が適任だと思うが?」
「賢狼公にもお願いしますが、まずはエルトナージュの叔父である陛下にお願いすべきだと思いましたので」
「承知した。未来の甥御のために助力しよう」
「最後にもう一つ。就任祝いに賜る品を換金しても宜しいでしょうか?」
「良いようにして構わないが?」
  贈る品は毛皮と銀細工だ。アジタには大きな銀山があり、そこから得られる収入が国を支えている。またその影響で多くの銀細工職人を抱え、保護している。
  アジタの銀細工は近隣諸国では高級品の代名詞の一つであった。
  軍費の足しになる程度の物を用意してきている。
「ありがとうございます。アシンの民には陛下より賜ったと伝えておきます」
「……好きなようにされるが良い。他にも要望はあるかね?」
「……えっと、それでしたら」
  後継者は恥ずかしそうに自分の腹をさすった。
  その仕草にこれまで一切口を挟まなかったエルトナージュがため息を吐いた。
「そろそろ晩餐にしませんか。緊張が解けたら腹が減りました」
「はははははっ。分かった。侍従長、始めよう」
「承知いたしました、陛下」
  背後を振り返ると侍従長が応じ、ストラトとともに一礼をした。
「それでは食堂にご案内致します」
「うむ。……では、参ろうか」
  執事長の先導で食堂へと向かう。
  今のティルモールの足は非常に軽い。彼もまた緊張をしていたのだ。
  今回の会談の結果によってはエイリア諸共踏み潰されるかもしれなかったのだ。
  しかし、内容は非常に友好的に進められた。
  ラインボルトから報復を受けず、援軍も受け入れて貰えた。これによりアジタの立場は保証された。また、エイリアと戦端を開かずに済む可能性も生まれた。
  今回の会談で望みうる全てを手に入れることが出来た。
  一国の王として敬意を払われた点にも非常に満足をしている。また、時折エルトナージュとは親族であることも後継者は強調していたように思う。
  親族には甘い性格なのかもしれない。だが、エイリアに対しては一切の妥協は見せなかった。つまり、敵味方の区別がはっきりとしているということ。
  元々、エルトナージュとは血の繋がりがないのだ。国を滅ぼしても王家はアジタの庇護下に置くというのだから最大限の配慮はしている。
  それだけに夫人候補を送り込むことを控えねばならないことが残念であった。
  その後の晩餐は特に難しい事柄が話題に登ることはなかった。
  後継者は幻想界に来てから見聞きしたことを語り、王は自国のことや先王との思い出を語って聞かせた。
  ホイディが演劇を好んでいると聞いた後継者は推薦できる演目があれば教えて欲しいと要望すると些か酒を過ごしていたのか王の参議は長々と語り始めた。
  それを後継者と姫は不快な顔はせずに相づちをし、時には自分が見た演劇のことの感想を話した。
  晩餐の後、暫くの間語り合った後、王と参議の二人は店先まで後継者らに見送られて馬車の人となった。
「ホイディよ、どう見た?」
  酔いに身を任せながらティルモールは参議に問うた。
「噂に違わぬお方であったと思います。それだけに薄ら寒いものも感じております」
「余も同意見だ」
  酒臭い吐息と共にそう漏らした。
  後継者個人は噂通りであった。そうであるだけに内乱中の行動に真実味を与えてくる。
「我が国の王太子は彼に対抗しうるか?」
「さて、私如きではなんとも。しかし、王太子殿下も日々勉学に励み、経験を積んでおられます。何方と比較をしているのかは存じませぬが、過ぎれば王太子殿下の真実のお姿が見えなくなってしまいます」
「……あれを援軍の指揮官にしてみるか。地方巡察は済ませたのだ。問題なかろう」
「ご自重ください。せめて何度か魔獣討伐をご経験なさってからでないと」
「ダメか。良い機会だと思ったのだがな」
「機会はまた巡ってきましょう。陛下にはまず国元で気を揉まれている王太子殿下、王妃殿下への手紙を出していただきませんと」
「分かった。此度は諦めよう」
  何にせよやるべき事は多い。
  ラインボルトから出した指示を王太子に実行させることもまた得難い機会だ。
  この経験を糧に更に大きく成長して貰いたいものだとルティモールは思ったのだった。

 アジタ王主従を店先から馬車が見えなくなるまで見送ったアスナたちはそのまま踵を返して再び離れへと戻った。
  その道中で店の者の姿は見えない。給仕その他は王宮府の職員とアジタ王宮の者たちだからだ。店は場所と料理のみを提供した形だ。
  もっと気楽な会談であれば警備以外の全てを店に任せれば良かったが、今回はラインボルト、アジタの間で微妙な緊張感があったため店側に遠慮してもらったのだ。
  応接室に戻ったアスナたちを外務卿と軍務大臣が出迎えた。
  二人とも応接室と隣接する部屋でアジタ側の役人とともに控えていたのだ。
「お疲れ様でした。殿下、姫様」
「そっちこそお疲れ」
  二人をソファに座るように促し、エルトナージュとともに対面に腰を落ち着ける。
「白湯に致しますか?」
「……お願い。エルは?」
  静かに側に歩み寄ってきたストラトに頷いた。
「では、同じ物を」
「承知いたしました」
  ストラトが退室したのを見計らってエルトナージュがアスナに尋ねた。
「初めての外交はどうでした?」
「思いっきり緊張した。何度も議員と食事会をしたけど全然違った。迫力の質が違うって言えば良いのかな。挨拶をする前まで始めて戦場に立った時のことを思い出してたよ」
「えぇ、分かります。陛下にとっては国を賭けた大戦と捉えていたでしょうし。ただ、私たちが膝を突いてお出迎えをしたことで随分と戸惑われていたようですけど」
  と、おかしげにエルトナージュは笑いながら言った。
「良いだろ。こっちに敵対するつもりがないことと、お礼の気持ちがあるってのが一目瞭然で分かるんだし」
  この出迎えの仕方を提案したのはアスナであった。
「王様を出迎えるのに立ったままっていうのも良くないだろ。ラインボルトの方がずっと大きいからってさ。それに良く言うじゃない。偉くなるほど頭を下げろってさ」
「始めて聞く言葉ですけれど納得は出来ます。始めにこちらが腰を低くして挨拶を申し上げたから、以降は穏便に話を進められましたから」
「だろ?」
「ですが、副王に就任したらこういうことはしてはダメですからね。魔王の力以外の全てを委任される存在になるんです。王不在の今は事実上の国王なんですからね」
「分かってるよ。……けど、就任式の前に会談が出来て良かったよ。ありがと」
「どういたしまして」
  この会談を申し込んできたのはアジタ側だが、今のような形での会談に整えたのはエルトナージュだったのだ。
  政府と王宮はすでに閣議に参加し、議員たちとの会食を何度も経験している。また、相手は小国は小国、行うのは非公式会談。儀礼は問題ないだろうと判断していた。
  そのため当初は会議室での面談の形であった。
  実務的に話をするだけならばそれでも良かったかもしれない。しかし、これにもう一つ意味を加えるべきだとエルトナージュは言ったのだ。
  この会談を王室外交の練習に使おう、と。
  そして、政務を終えた後、アスナはエルトナージュが作成した想定問答集を元にして練習を繰り返していた。
「陛下には申し訳ないけれど良い予行演習になったでしょう?」
「うん。練習なしでいきなり本番だったら、面食らってたと思うし」
「それに就任式の後から催されている行事でも陛下を盾にできますし」
「盾は酷いな。けど、折角だし色々と御指南頂くことにするよ。……っと、二人からオレの初会談の感想は?」
  軍務大臣が手を差し出すことで外務卿に先に発言するよう促した。
「会談の内容は文句なしだったと思います。ですが、殿下にはもう少し迂遠な表現を勉強していただいた方が良いと感じました?」
「っていうと?」
  ストラトが静かに湯呑みを各人の前に置いていく。
「直接的な表現は分かりやすいですが、言い逃れし難い強さがあります。迂遠な表現であればお互いに逃げる余地と時間を用意できます」
  そうですね、と数秒の時間考えてから外務卿は例を挙げた。
「例えばアジタと険悪であった場合、北で山火事が起きているが、西でも起きないか心配しているとでもお話になれば相手にもすぐに察してくれるでしょう。戦争の言葉を出せば角が立ちますが、山火事であれば仮に追及されても災害を心配しているだけだと言い逃れができます」
  この話を聞いて歴史の授業を思い出した。
  平安時代は恋から政治まで様々なことを短歌を通じて行っていたと担当教師が話していた。恋の短歌は何首か見た事あるが、政治的な短歌は見たことがないので本当なのかどうかアスナにも確証が持てない。
  だが、会話の中で比喩を用いることが重要だということは理解できない。
「それって難しくない?」
「はい。ですから、こういったことを上手に使える方は一目置かれるのです。ただ濫用しすぎると苦笑いをされてしまいますのでほどほどに」
「努力する。軍務大臣からはなにかある?」
「私からは特に何も。ただアジタと戦をせずに済み安堵しております」
「大蔵卿も怖いしな」
「まさに。ここのところ、週に何度か苦言を頂戴しております」
「お互い無駄遣いしないようにしないとな」
「はっ。それでは我々はそろそろ。宰相閣下も気を揉んでおられるでしょうから」
「殿下と姫様はどうされます?」
  外務卿の口調は軽やかだ。お世辞ではなく交渉が上手くいった証だろう。
「そうだなぁ。さすがにちょっと疲れたし、夜のお茶を飲んでから城に帰ることにするよ」
「承知しました。それではごゆっくり」
  と、二人は立ち上がると王城へと戻っていった。宰相シエンに報告した後の二人の予定は知らないが、各人とも忙しい立場だ。
  今日の会談結果に基づいた計画を策定するのだろう。省ごとの意見の摺り合わせもせねばならないため、当面は帰宅できないかもしれない。
  二人を見送るとアスナは隣に座るエルトナージュの太ももの上に頭を置いた。
「こういうことはサイナの役割じゃなかったの?」
  しかし、アスナの頭を撫でる手は優しい。黒髪を梳るようにゆっくりと撫でる。
「今日の会談が上手くいったご褒美じゃだめかな」
「はいはい……」
  ぞんざいな返事をするとエルトナージュは撫でていた手で瞼を覆った。
  指の隙間から漏れる光とそれに照らされる彼女の肌の赤味が見える。
「副王ね。……私が手の届かなかった場所に到達するのね」
「皆が背中を押してくれたから届いた場所だよ。オレだけで届く場所じゃないよ。それに、噂に聞く王様ってのは孤独らしいからさ。見送るみたいに言わないで一緒に行こう。未来の王妃様」
「……やっぱり、名前のせいなのかしら」
「あぁ、建国王の娘で二代目に嫁いだ人にあやかったんだっけ」
「非常に長寿で大病を患ったことがない方だったそうよ。だけど、こういうところまで類似しなくても良いのに」
  幻想界には名前にあやかれば僅かばかりの影響を受ける。
  それは幻想を纏うよりも遙かに儚いものだが、実際に存在していることだ。
「その名前、きらい?」
「後継者の資格がなくなった頃はそう思ったこともある。違う名前だったらひょっとしたら、って。けど、今なら受け入れられる。世の中には逆らいがたいものがあるから」
  それが何であるかは聞かない。だから、アスナは問いかけた。
「エルトナージュ、もう泣いてない?」
「……えぇ」
  一瞬、声が詰まったが彼女はしっかりとした口調で返した。
  それはアスナが一方的に叩き付けた約束。
  笑ってしまうほどバカな夢を真剣に話せるヤツに会ったとき、そのときオレに実現したい夢がなかったらそいつの夢を手伝ってやれ。
  そんな風に祖父の言葉を引用して約束したのだ。
「エルは今も幻想界統一を願ってる?」
「……いいえ」
  予想された答えだ。実際に戦争を立て続けに行って経験をして得た今の答えだ。
「今はそれよりも”彷徨う者”を消し去る方法が欲しい」
「それは同感だな。そのためにもこの国を豊かにする」
  アスナはそう断言した。
  手で覆われて視界は真っ暗だ。だけど、僅かに差し込む光が未来への展望といえるのかもしれない。この僅かな光を少しずつ集めていこうと思った。
「そんな未来のためにも」
「オレは王様になる」

 首都エグゼリスには二つの城がある。
  この地がリーズに支配されていた頃からある旧城と今の城だ。
  旧城は現在、一般に開放されラインボルトの様々な歴史を語る資料館のような役割を担っていた。ここの城代を務めるオルフィオは鐘楼から遠望できる王城を眺めていた。
  彼の眼下には公園が広がり、そこには魔王の後継者の副王就任を祝うべく参集した者たちが集っていた。
  諸処には王城から下賜された酒樽が列べられ、近傍の商店主たちが屋台を開いている。
  行き交う人々の表情は見えなくとも彼らが発する心地よい熱気がオルフィオがいる場所まで伝わってくる。
  先のワルタ地方奪還の報から続けて首都エグゼリスは祝賀の雰囲気に包まれている。
  動員されて作り出された群衆ではあり得ない明るさが彼らの中に溢れていた。
「貴方」
  耳に馴染んだ声に彼は振り返った。そこには淡い紫色のドレスを纏った連れ合いがいた。
  自分と同じように歳を取って幾らか草臥れてしまったが、彼女の見せる戸惑いの表情は娘時代とさほど変わらない。
「どうかしら、おかしなところはないですか?」
「あぁ、中々の貴婦人振りだ。そのまま王侯貴族が集う夜会に連れて行ってやれるぞ」
「冗談は止めて下さい。菓子屋の娘には場違いですよ」
「そうは言うが、先々代近衛騎団団長にして、現旧城の城代令夫人なのだぞ?」
「柄じゃありませんよ。子どもたちにお菓子を振る舞ってあげる方が余程充実できます」
  やれやれ、困った物だ、と思いつつもオルフィオの笑みは崩れない。
  こういった彼女の気質だからこそ大過なく近衛騎団団長を勤め上げることができたのだ。
「孫たちは元気にやっているだろうか」
「元気にやっていると思いますよ。……どうしたんです、いきなり?」
「いや、今日副王となられる方のことを思い出してな」
「……あぁ」
  孫たちとさほど変わらない年頃の少年がこの国を担う存在となる。
  先日、お忍びで遊びに来た際に見たアスナの印象は重すぎる衣を必死に着こなそうと喘いでいるように見えた。お忍びでありながら、衣を脱ぎきれずにいる様はある種の憐れさを感じずにはいられない。
  しかし、程度の差こそあれ何かになろうとする若者の姿とはそういうものだ。
「今度は私もお会いしてみたいわ」
「なんだ、殿下も王侯貴族になられたのだぞ?」
「それはそれ、これはこれ。姫様の旦那様になられる方を一度ぐらいはお世話したいと思うのは当然です」
「分かった分かった。ヴァイアスに今度来る時は事前に知らせるように伝えておく」
「お願いしますね」
「そのためにもしっかりお役目を果たさねばならん」
「分かっていますよ」
  この鐘楼から副王就任を報せる鐘を城代夫妻の手で鳴らすことが慣わしだ。
  王城から始まり、旧城へ。そして、各所の時を告げる鐘が首都全域で響かせて副王就任を民に報せるのだ。
  オルフィオが副王就任式に関わるのはこれで二度目だ。
  先王の時は侍従武官として間近で式典の主役の側に侍り、今は遠くから若い次代の王を言祝ぐ役目を与えられた。
  再び重要な役目を担うことは名誉には違いない。しかし、それは改めて先王がいないことを認識することでもあった。
  就任式が終わって暫くしたら妻と一緒に王墓に参ろうと思った。
  一面識でしかないが、アスナの印象を先王に報告しに行くのだ。
  これも古きを任された者の役割だろう。

 アスナの目の前に巨大な白い扉がある。
  草花の意匠を彫刻されている。扉の付近には幾つもの蔦が彫り込まれ、まるで扉が封印されているような印象もあった。
  ここは王城内にある大広間の入り口。ラインボルトの重鎮はもとより諸外国からの使者たちがアスナの入場を待っている。
  全ての準備は終えている。あとはアスナが開始を指示すればよいだけだ。
  僅かばかりだが、気持ちを整える時間が用意されている。
  眼前には先導役を担う内大臣オリザエールがいる。人形故か、それとも本人の心がけなのか。今日も彼はいつもと変わらない雰囲気を発している。
  左右に三人ずつ、合計六名の侍従武官がアスナを挟むように立っている。
  右手には軍からリムルたちが、左手にはヴァイアスとミュリカ、そしてサイナがいる。
  姫であるエルトナージュは扉の向こうで王族たちとともに入場を待っている。
  先ほどからずっと緊張で肌が粟立っているのが分かる。寄せては返す波のように消えてはまた浮かびを繰り返している。
  興奮しているのか、それとも緊張なのか。当事者であるアスナもよく分からない。
  この期に及んでしまうと前日まで感じていた失敗するかもしれないという不安が消えてしまっている。そんな個人の不安など見えなくしてしまうほどの、大きな何かがこの扉の向こう側にあると感じる。
「リムル、ありがとう」
  何に対してと問われれば、色々なことに対してとしか応えようがない。
  多くの理不尽を強いていながら、それに応えてくれている彼に感謝を。
  この場では謝罪は不適切だ。否を言わずにこの場にいるリムルに感謝を。
「はい!」
  大きく頷いて、アスナは次にヴァイアスを見た。
  緊張しているのが伺え、それが妙なおかしみを覚えた。式典参加なんて一番多くこなしているだろう人物が一番緊張しているのだ。
  思わずそのことをからかってやりたくなったが、その気持ちを胃の腑に落とした。
  近衛騎団、なのだ。
  これまでの道程は順当だったとはお世辞にも言えない。
  様々な困難があった。何度死にかけたかも分からない。
  その多くの危機を近衛騎団とともに乗り越えてきたのだ。幻想界における坂上アスナの足跡は近衛騎団とともにある。そう断言しても良い。
  近衛の中の近衛。王の手勢として戦野を駆け抜ける者たち。
  それが偶像でないことをアスナは戦場で知っている。
  だから、彼に問う言葉はこれしかない。
「ヴァイアス。オレは立派に見えるか?」
「……いや、まだまだこれからだ」
「そっか。まだまだ精進が必要か」
  こんな時ぐらい誉める言葉を口にすればいいのに、と思わず苦笑してしまう。
  周囲にいる式部官たちは、近衛騎団団長から出た言葉に目を丸くしている。
「おう。俺たちは最強の近衛なんだ。その俺たちの主が未熟だとこまる。だから……」
  だから
「最高の王になるまで守り続けてやるさ」
  そういって彼は強く自分の右腕を叩き、サイナとミュリカも大きく頷いた。。
「それじゃ、未熟な王様を近衛は誇りに思ってくれるか?」
  我らが誇りは魔王とともにあることなり。そう、三人は唱和してみせた。
  その言葉にアスナは肌に表れる粟立ちの原因がなんであるか理解をした。
  扉の向こうに何が待っているのか知ったのだ。だから、笑って胸を張って見せた。
「内府、始めよう」
「承知いたしました。……楽団に開始すると連絡を」
  通路の隅に控える式部官たちに内府は指示を出した。彼らは一礼をすると駆け出していった。すでに式場にて待機するボルティスにはオリザエール自らが連絡を入れる。
  それだけで開始の指示は終わる。
「しばし楽団の演奏が式の開始の合図となります。一曲目の演奏が終わると扉を開け、入場致します。畏れ多いことではありますが以降の歩調は私に合わせてください」
「分かった」
  簡単に式次第をオリザエールの口から再確認を行う。
  演奏が始まった。一瞬、身を震わせたが深く深呼吸をして気持ちを整えつつ確認が進む。
  式そのものはとても簡単だ。王の就任そのものが一時的なものであり、正式な即位式の予行演習としての側面もあるからだ。しかし、今回の就任式は異例だった。
  各国からの多数の使節団を迎えたことによりアスナのお披露目式の意味合いが強かった。
  故に予行演習としての側面は失われた。簡単であるからこそ失敗は許されない。
  一曲目が終わった。
「開けなさい」
  扉の前で控えていた二人の式部官が静かに扉を開いていった。
  オリザエールが大きく膝を上げて一歩を踏み出した。その彼が作り出す歩調にアスナは少しずつ合わせ前へと進んでいく。
  そして、ついに式場に足を踏み入れた。
  圧倒的な煌びやかさにアスナは息を飲んだ。
  事前に式場を確認した時は酷く簡素だと思ったがそれは間違いであった。
  着飾った来客たちを加えて始めて完成が見られるような作りとなっていたのだ。
  この光景を目の当たりにしてアスナは先ほど得た理屈に実が伴った気がした。
  今ここに世界の縮図がある。
  肌が粟立つほどの感情がどういうものなのか言葉にすることができた。
  王の責務とは国を背負うことだけではない。世界に立ち向かう義務も負っている。
  だから、アスナは笑って見せた。胸を張り、堂々と。
  見る者によっては傲慢に見えるかもしれない。だが、それで良い。
  これから相対する人たちに対して無表情では余りにも寂しい。
  世界に虚勢を張るのだ。最後まで張り通せれば何時かきっと実が伴うはずだ。
  赤地の絨毯を進むアスナに足音はない。
  しかし、左右を務めるヴァイアスたちの甲高い足音が主役を務めるアスナの存在を大きく見せる。
  ただ真っ直ぐに彼は進む。その先にはエルトナージュとトレハ、そして二人の大公が待っている。エルトナージュは袱紗の上に宝冠などを捧げ持って控えている。
  その昔、建国王がリーズに反旗を翻した時、指導者として推戴される儀式場には野花が咲き乱れていたという。この絨毯を進むことはこの国の歴史を踏襲することも意味する。
  やがて、アスナは玉座が置かれた台座の前に辿り着く。
  台座は大きく二段に分けられている。一段目には二人の大公の座があり、最上段に玉座がある。
  オリザエールが台座の前で一礼をするとアスナに道を譲るように退いた。それと同時に左右の侍従武官たちが気をつけをする。
  見上げる先にいる二人の大公が大きく頷いた。同じようにアスナも会釈を返すと一歩ずつ台座を昇っていく。歴代魔王も同じようにここを昇り、儀式を受けてきたのだ。
  一つ目の台座に辿り着いたアスナはそのまま膝を着いた。
  台座の左右にはラインボーグとボルティスがいる。そして、玉座へと至る階段の中程にはトレハとエルトナージュがいた。
「王不在故、建国王の末として私トレハ・リジェストが先王の名代、王族会議の推挙に基づき坂上アスナを王太子として認める。両大公は如何ですか?」
「大公ラインボーグ、王族会議の推挙に同意する」
「同じく。大公ボルティス、坂上アスナ殿を王太子として迎えることに同意する」
「ならば、両大公。彼に剣と外套をお授け下さい」
  承知した、と二人はそれぞれに手にしていた物をアスナに身につけ始めた。
  ボルティスは彼の腰に剣を帯びさせ、ラインボーグは白い毛皮の外套を纏わせた。
  その間、アスナは一切の身じろぎもせずに静かに受け入れる。
「現在、王は不在。よって、王太子殿下を副王として推戴する。三権の長よ、同意されるか?」
  行政の長として宰相。立法として名家院議長。司法として大法院院長。
  玉座近くに控えていた三人の男たちが絨毯の縁まで進み出ると膝を着いた。
  各人ともに礼服を纏い、緊張感で全てを仕上げている。
「我ら一同、王太子殿下が副王として立たれることに否はございません」
  三人を代表してシエンがそう答えた。
「よろしい。これより副王の冠を授与する」
  王の名代はエルトナージュを従えて階段を下り、跪くアスナの前に立った。
  エルトナージュが捧げ持っている盆の上には副王の冠だけではなく香油が納められた瓶もあった。瓶の蓋を開き、彼女は香油に油面に触れる程度に浸した。
  そっと左右の首筋に塗られた花の香は控えめで小さな野花をアスナは想像した。
  トレハが捧げ持った冠は銀製の花冠のようだ。
  それが彼の頭に被せられた。磨き上げられた冠から白く可憐な光が反射されている。
  以前被った兜よりもずっと軽い。だが、この国を任された者の証だ。
「さぁ、立ちなさい」
「はい」
  ひょっとしたら担った責任の重さに立ち上がれなくなるかもしれないと思っていた。
  しかし、こうやって冠を授けられてもあまり代わりがないように思う。
  先ほど思いを得たことこそがアスナにとっての就任式であったのかもしれない。
  今の儀式は人の目に理解できる形を取ったに過ぎない。ならば立てて当然だ。
  それにやることは今日までとさほど変わらない。
  白い外套を翻してアスナは振り返った。そこには世界の縮図がある。
  だから、口端を上げて笑って見せた。
  これから対峙し、時には飲み込む世界がそこにあるのだ。



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