第五章

第八話 四方より典雅の香り流れくる


 就任式の後にも行事は目白押しだ。
  各国より祝いの使者と挨拶と贈答を受け、その合間に何度かラインボルト国民に対する一般参賀が行われる。
  その夜にはアスナ主催の晩餐会が行われ、数日後には狩猟会、茶会、閲兵式と続く。
  これら大きな行事の合間に来賓の使者たちが主催する茶会や懇親会にも出席する。これまでとは質の違う忙しさに目が回りそうな日程だが、これも国家間闘争の一環だ。
  ロゼフとの戦争が武力を用いた闘争であるのならば、この即位式は外交力の闘争になる。
  如何にロゼフに味方をさせず、ラインボルト支持を掻き集め、大過なく式を執り行うことでラインボルトが健在であることを知らしめるのだ。
  そうすることで官民問わず諸外国との交渉で対等以上の立場を得ることが出来るのだ。
  ここが今、身体を張るべき戦場だとアスナは定めている。
  就任式を終えた彼は一時間ほどの休憩を挟み、来賓たちとの挨拶に望んだ。
  同伴はエルトナージュ、宰相シエンと内大臣オリザエールだ。
  王族と二人の大公には順番が後ろの使者たちへの応接を任せている。後回しにしても疎略には扱わないという姿勢を見せるためだ。
「時間です、殿下」
「大丈夫ですか、アスナ。リーズとは定型のやり取りだけです。しっかり覚えてますよね」
  気遣わしげにこちらを見るエルトナージュにアスナは精一杯の虚勢とともに大きく頷いた。そして、広い応接の間でアスナは小さく深呼吸をして笑ってみせた。
「大丈夫、覚えてるよ。挨拶するだけだし、陛下を相手に練習もやった。多分、きっと大丈夫だよ」
「では、始めます。もう少し胸を張り、顎をお引き下さい」
  気遣いもなにもない口調の内府が言ったとおりに姿勢を改める。
  それを確認するとオリザエールは扉近くにいる式務官に頷きかけた。
「リーズ国、勅使シュディア伯爵レンド・ヒルゼン閣下、副使ヘント男爵クション・セレ閣下ご入来!」
  巨大な白地の扉が音もなく開かれる。金細工の装飾が煌めいている。
  応接の間に足を踏み入れたのは豪奢な装いに身を包んだ巨漢の中年と小柄な若い男だ。
  彼らが勅使と副使なのだろう。彼らの背後には側付の男が二人付き従っている。
  側付の一人はビロードのような光沢のある赤字の布の上に宝石と貴金属で彩られた剣を捧げ持っていた。
  彼らはアスナたちの正面には立たずに同じ位置に立ち、そこで対面をした。
  客と迎える者という立ち位置ではない。
  リーズは過去に世界制覇を成し遂げ、広大な領域を支配していた。その後、ラインボルトの建国に始まる新国家の勃興とその後の内乱によって大きく衰退した。
  それでもリーズが幻想界第一の国家であることに変わりはない。
  故に彼らは正式に新国家の独立を認めず、自治権を認めるという体裁を取っているのだ。
  新国家の方もリーズの侵攻を退けるには多大な損害を覚悟せねばならないため、素直に爵位を受け取ることにしていた。
  だから、このような場でのやりとりは先例に則った定型的なものであった。
「勅使である!」
  シュディア伯の野太い声を受けてアスナたちは浅く頭を下げて一礼をする。
  平伏の姿勢ではないことに勅使らは鼻を鳴らしたがそれ以上のことはない。
  伯爵は懐より宣旨を取り出し、読み上げた。
「リーズ王ファーディルス陛下の御名において、汝、アスナ・サカガミ・リジェストをエグゼリス侯爵に任ずる」
  最後に年月日を読み上げると、それをアスナに差し出した。
  しかし、アスナはそれを受け取らず内大臣オリザエールが進み出て受け取った。
「慎んで侯爵位をお預かり申し上げます」
  と、事前に教えられた通りに応じた。
  爵位を授与されたのではなく、預かっただけ。そういう体裁だ。
  通例ではリーズの使者とのやりとりはこれで終わりとなる。しかし……。
「預かるとはどのような意味か」
  これまでの無言の了解があっさりと踏み越えられてしまった。
  予定調和が乱されてアスナは一瞬言葉に詰まった。
「……それは」
  焦りから頭が回らない。どうにかこれだけを絞り出して時間を稼ぐしかない。
「それはなんだ。返答はいかに」
  嘲りを含んだ勅使の声に逆にアスナは冷静さを取り戻した。
  彼らは定型のやりとりをしにきたのではない。言葉の戦争をしかけてきたのだ。
「爵位を頂戴致しますと侯爵位は我が坂上家が相続することになります。この地の主は血統にて相続を行っておりません。統治者ではない私の子がエグゼリス侯爵を名乗るのはおかしい。私の死後に侯爵位をリーズ王陛下にお返しするのが筋です」
  ふん、とシュディア伯は鼻を鳴らした。一応納得をしたのだろう。
「此度の内乱平定の褒美として、宝剣を与える」
「慎んで頂戴致します」
  側付の者から差し出された宝剣をエルトナージュが受け取った。
「陛下は当地の乱を殊の外、憂慮されておられた。故にその宝剣をもって乱の首魁の首を刎ね、陛下に届けるべし」
  途端にアスナの背後で不穏な空気が生じる。アスナ自身もその一部となっている。
  ……フォルキス将軍の首が欲しいのかよ。それとも単なる嫌がらせか。
「すでに首謀者は私たちの手で斬首しております。リーズ王陛下のご要望ではありますが、すでに刑に服した者の墓を暴くことは好ましい行いだとは思えません。ご配慮賜りたく存じます」
「何を言うか。乱の首魁たるフォルキスは生きているではないか」
「確かにフォルキスは存命です。しかし、私たちの調査では乱を起こしたのは別の者です。彼は様々なやむを得ない事情により、兵を率いねばならなかったのです」
「詭弁だ」
  と、副使であるヘント男爵は吐き捨てるように呟いた。
  この言葉を聞いてアスナは心の内側で大きく笑った。議員たちとの会食時に何度か見たやり取りを思い出したのだ。
「詭弁とはどういうことでしょう。それは副使としてのお言葉ですか? それとも個人的な感想ですか? すでに内乱の後処理は終わっており、それらを全てをご覧になった上でリーズ王陛下は私に侯爵位をお預けになられたのではないでしょうか」
  議員たちは自分たちより上位にある者の言葉を盾にしてやりこめる手法を持っているのだ。今の場合、竜王その人の言葉を引っ張り出せば便利に使える。
「重大な裁きで間違いを行う者に爵位をお預けになるとは思えません。詭弁とはどういうことか説明していただきたい」
「…………」
  ヘント男爵は言葉に窮したようだ。アスナを睨み付ける。
  彼がなにか言葉を作るより早くシュディア伯爵が口を挟んできた。
「侯爵に任じられたのだ。この程度のことは聞き流すのが作法だ」
「ご教授下さり、ありがとうございます。ヘント男爵、先ほどは失礼をしました」
「……いえ、お気になさらぬように」
  と、彼は顔を紅潮させながら、絞り出すように応じた。
  悪態を聞き流してあげなくて御免ね、と言われれば怒りに顔色が変わるのも無理はない。それでも彼はそれ以上、なにかを表に出すことはなかった。
「貴殿の言葉を陛下にお伝えしよう。墓を暴くことも不要だ」
「ご配慮、感謝致します。勅使殿」
  アスナは小さく一礼をする。背後でも同じような動きを感じた。
「うむ。……また、貴殿の武功を賞してアーコン伯爵を授与するご意向である。努々拒む事なかれ」
「アーコン伯爵?」
  地名付きの爵位ということは領主ということだ。ロゼフの地名にアーコンなんてものはなかったはずだ。アスナにはどこの領主にするといっているのか見当も付かない。
  ……位打ちっていうヤツなのか?
「殿下」
  シエンが小声で解説をしようとする。しかし、即座にヘント男爵が声を張り上げてそれを押し止めた。
  大喝だ。鼓動が瞬時に跳ね上がり、すくみ上がりそうなほど。しかし、フォルキスに斬りかかられた時ほどの怖さは感じない。二呼吸もすれば鼓動は落ち着き始める。
「勅使との対話である。口を挟むは無礼であろう!」
「臣下が失礼をしました。田舎者のすることとお許しください。お受けする前に勅使殿ではなくシュディア伯にお伺いしたいことがあります」
「なにか」
「爵位を担うとはどういうことなのでしょうか」
「大変名誉なことであり、王を奉戴する重責を担う。故に我ら爵位を有する者は誇り高くあらねばならぬ、と考えている」
  しかし、彼の口調には苦みも含まれているようだった。
「大変勉強になりました。そうであれば私如きがお受けする訳にはいきません。爵位を二つも担うことになれば、若輩の私では重責に押し潰されてしまいます。そうなればリーズ王陛下の恥となります。それは誰も望まないことです」
  なにより、とアスナは続けた。
「ご意向ということは正式に決まった話ではないのでしょう。私には身に余るので辞退申し上げるとリーズ王陛下にお伝えください」
「陛下にはそのようにお伝えしよう。我らは侯爵の言葉を伝えるべく帰国する。見送りは不要である」
「宴席を用意していますが、せめて出発は明日にされては」
「ならば、この者を我が名代とする。それでよかろう」
  と、シュディア伯爵が指し示したのは側付の一人。宝剣を捧げ持っていた男だ。
  彼は一礼をして、承りましたと応じた。
  ……引き留めるのは一度で十分か。
「承知しました。そちらの方を勅使殿の代理として歓待させていただきます」
  勅使とは王の言葉を伝える使者だ。その代理を更に用意するのだから変な話だ。
  側付を代理に指名するのだからリーズではあまり重要視されていないのかもしれない、とアスナは思った。
  彼の背後でも不満を帯びた吐息が漏れる。
  ……それにしても代理の代理って変なの。
  無事に一つ目の挨拶を終えられそうでアスナに若干の気のゆるみが出た。
「……なにを笑っている。我らが帰国するのがそれほど嬉しいか?」
  笑みが表情に浮かんでしまっていた。
「……笑っていましたか」
  咄嗟に浮かんだ誤魔化しをアスナは口にした。
「リーズより祝いの使者をお迎えできたことが嬉しくて、思わず口が綻んでしまったようです。不作法、お許し下さい」
「口の減らない男だ」
  礼儀正しく聞き流す。アスナはそう思って笑みを浮かべたまま自重した。
「ラインボルトを代表し、御礼申し上げます。機会が在れば、リーズ王陛下より君主とは如何なるものか薫陶を賜ることができれば光栄ですとお伝え下さい」
「確かにお伝えしよう。では、失礼する」
  深く一礼をして見送る。残ったのは代理に指名された側付の男だ。
「勅使代理殿。お名前を聞かせていただけませんか」
「いえ、私のことはただ代理と。勅使閣下の影を務めます身が名を名乗る訳にはまりません」
「では、宿所は今のままお使い下さい」
「ご配慮嬉しく思いますが、私ごときが使うには豪奢に過ぎます。質素な場所をご用意いただければ幸いです」
  竜王の代理の代理だから質素なものを用意する訳にはいかない。かといってこのまま離宮を使い続けると帰国後に面倒がまっているのだろう。
  アスナはそう察し、考えるのをやめた。
「内府、代理殿と相談をして良いように取り計らってくれ」
「承知いたしました。勅使代理殿、後ほど離宮に担当者が伺います。ご要望がありましたらお伝え下さい」
「ご配慮、御礼申し上げます。侯爵閣下」
  一礼をして代理は去っていった。この後、十分ほどの休憩が挟まることになっている。
「……はぁ。緊張した。まさかいきなり定型から外れてくるとは思わなかった。シエンが口を挟んでくれたから危ないって分かったよ。ありがと」
「いえ、殿下が機転を利かせてくださいましたので。私も年甲斐もなく緊張いたしました」
「だけど、少し毒が強すぎたと思いますよ」
  と、続いてエルトナージュが指摘をした。
「ぶん殴られたと思ったら、やり返さないとって思ってさ。侯爵の爵位だけを預からないといけなかったからもう、ね。それにフォルキス将軍の首寄越せなんて言うしさ」
「内政干渉甚だしいとはこのことですからね」
「そういや、アーコンってのは何処なんだ?」
「アクトゥスの国土です。ラインボルトと国境を接する地域になります」
  と、シエンが解説をした。
「うへぇ。つまり、アクトゥスとの間に楔を打ち込もうとしたってことか」
「そのつもりだったのでしょう。恐らく殿下の反応を見たかったのでしょう」
「竜王が?」
「はい」
  どういう意図であったのか分からないが、ラインボルトが受け入れられる一線を守り通せたことに違いはない。そういう意味で防衛戦に勝利したと言えるだろう。
「何にせよ、次は叔父上との公式の挨拶だから気を楽にしてくださいね。まだまだ挨拶は続くんですから」
「そういう意味でも先に会っておいてよかったよ。……それにしてもオレが侯爵様ねぇ」
「ひょっとして嬉しいんですか?」
「まさか。殿下になったのに今更閣下って呼ばれても嬉しくないよ。けど……」
「けど?」
「リーズに行ったら並み居る誇り高い竜族たちがオレに頭を下げるのかなぁ、って。その光景は一回見てみたいかも」
「行けば見られるかもしれませんよ」
「遠慮する。オレは寒いのが苦手なんだ」

 休憩を挟んで行われたアジタ王ティルモールとの挨拶は終始和やかに進められた。
  すでに両国間に横たわる懸念は解消されていることもあって、儀礼的なことに終始した。
  リーズの勅使に乱されてしまった心構えを整え直す良い時間であった。
「狩りと茶会の手解きをする話。内々に賢狼公と話を付けておいた。茶会は余が、狩りは賢狼公が主として手解きをする手筈だ」
「ありがとうございます、陛下。大変心強く思います」
「余からも礼を述べねばならぬことがある。エグゼリス滞在中、諸処の心配りをしてくれていると聞いている。感謝申し上げる」
  心配りとはアジタ王主催の宴席などの催しをラインボルト側が人手や場所の確保などで協力をしていることだ。
  王という立場故に数多くの宴席に呼ばれ、または招待を受けねばならないためとにかく忙しく様々なものが不足してしまう。内府の助言を受けて、アスナはティルモールが恥を掻かないように内々に手を回すように指示を出していた。
  金銭についても同様で低利で貸し付ける約束もしていた。
「陛下にエグゼリス滞在を楽しくお過ごしいただければ幸いです」
「うむ。是非ともそうさせて貰おう」
  などと歓談をしていたところ、アジタの参議を務めるホイディが声を掛けた。
「陛下、そろそろ」
「そうか。では、我らは次のアクトゥスに場所を譲ろう。続きは晩餐会の席で」
「はい、陛下」
  といったやり取りを終えて、アスナは次の挨拶を受ける。
「アクトゥス国、グレイフィル・マーフェン妃殿下、ベルーリア・マーフェン殿下、副使セギン男爵コミス・ナードご入来!」
  式部官の声に導かれてアクトゥスの使節たちが入室をする。
  友好関係から考えればサベージが先にくるのだが、使節団団長が王妃ということもあってアクトゥスが先となっていた。
  王妃は上質のドレスに身を包み、しかしどこか地味な印象を受ける。
  同じような意匠のドレスを幼い姫も纏っているのだが、彼女の方が煌びやかに見える。
  着飾ることや、晴れやかな舞台が好きじゃないのかもしれない、とアスナは思った。
「此度は副王就任、並びにワルタ地方の奪還おめでとうございます。夫、プライオス一世に代わりましてお祝い申し上げます」
「ありがとうございます、妃殿下。内乱鎮定後に使者を受け、就任式には妃殿下がお招きすることができた。とても嬉しく思います。お側の方々をご紹介いただけますか?」
「娘のベルーリア、使節団副団長を任せていますセギン男爵コミス・ナードです。ベルーリア、ご挨拶をなさい」
「はい。……ベルーリア・マーフェンです!」
  始めてのことで緊張しているのだろう。丸い顔を真っ赤にして、しかしはっきりとした口調で姫は挨拶をした。単語一つずつを分けるような口調は幼子らしい。
「セギン男爵コミス・ナードでございます。副王ご就任おめでとうございます。殿下」
「ありがとう、セギン男爵」
  と、頷きとともに礼を述べるとアスナは緊張で固まってしまっている姫君の前で両膝をついた。王族がするようなことではないためアクトゥスの大人たちの空気が固まった。
「はじめまして、ベルーリア姫。坂上アスナです。遠いところまで来て下さってありがとうございます」
  そう、幼い姫と視線を合わせられる位置で挨拶をした。
「ここまで来るのは大変だったでしょう?」
「大丈夫です!」
「そうですか。私も南の方をぐるりと回ったのですが、もうへとへとになりました。姫はお元気なのですね」
「はい!」
  と、返事をすると緊張が解けてきたのか「へへへぇ」とベルーリアは子どもらしい照れ笑いをしてみせた。
「ここに来るまで色んなものを見られましたか?」
「見た! あのね、こーんな大きな樹がいっぱいあってね」
「ベルーリア、いけません」
  手を大きく振りまわして道中の話をし始めようとした娘の手を握って止めた。
「構いません、妃殿下。けど、姫君。そのお話は晩餐会の時に聞かせてください」
「はい!」
「申し訳ありません、殿下」
「妹が小さかった時のことを思い出しました。妹もこんな風に話をしていたな、と」
「そうですか。妹君がおられたのですね。私にも一人いますが、仰るとおりこういう風にはしゃぐことがありました」
  そこまで言うと表情に若干の翳りを王妃は見せた。
「娘にももう少し外で遊ばせてあげられれば良いのですが」
  我が子のことを案じる母の顔にアスナはある意味で絆されてしまった。
  政治的なアレコレとは切り離して、母娘に気を遣おう、と。
「お国の事情は察しています。どうか我が国に滞在されている間は楽しい時間をお過ごしいただければ」
「私にはお役目がありますので、せめて娘だけでも自由にさせてやりたいと思っております。ご配慮感謝いたします」
「母君も一緒に、ですよ。それに私も忙しくて遊びに出られませんから、茶会の席で街の様子を聞かせていただけませんか?」
  そこでグレイフィルは視線を、アスナからエルトナージュへ移した。
「エルトナージュ姫はこのように甘やかな強引さをお持ちの方が側にいてはご苦労も多いのではありませんか?」
「はい」
「即答!?」
「妃殿下のご推察の通り、副王殿下は蜜の掛かった砂糖菓子のような方ですから」
「あらあら、それは大変ですね」
  アスナには意味が分からない例えであったが、王妃には通じるものがあったようだ。
「副王殿下はお菓子なの!」
  目を丸くしたベルーリアがビックリしたままにアスナを見た。
  そんな彼女の前に、エルトナージュもアスナと同じように膝を曲げて腰を下ろす。
「そうですよ、ベルーリア姫。副王殿下を食べると虫歯になってしまします」
「わっ」
  姫は飛び上がるように身体を震わせると母の背に逃げてしまった。
  スカートの裾を掴みながら恐る恐るアスナを見た。
「本当ですか?」
「冗談ですよ。副王殿下は食べませんから」
  と、エルトナージュは笑った。
「驚かせてしまったお詫びにこれを姫に」
  彼女の背後で控えていた侍従が布を敷いた盆を押し頂きながら前に出た。
  盆の上には花模様で彩られた筒が載せられている。エルトナージュはそれを手に取るとベルーリアの前に差し出した。
「さ、どうぞ。私からベルーリア姫への贈り物です」
「お母様?」
  両親に贈り物を受け取ってはならないと躾けられているのだろう。
  伺うように母を見上げる。グレイフィルは頷いて、
「お礼を言うのですよ?」
「エルトナージュさま、ありがとうございます!」
「どういたしまして。……早速使ってみましょうか。ここから覗いて、あの灯りに筒を向けて下さい」
「わぁ。きれい」
  今、彼女が覗いている物は色とりどりのビーズと鏡が作り出す色の世界。万華鏡だ。
「それで、こうやって少し回してやると」
「わっ、わっ! すごいすごい!」
  幼い子どもだからか飛び出す言葉は非常に単純だ。それだけに感情の発露も鮮やか。
  今にも鏡の世界に飛び出してしまいそうに身体を震わせている。
「お母様! お母様も!」
  興奮を顔一杯に表しながら姫は母に万華鏡を差し出した。
  それを受け取ったグレイフィルは娘に言われるがままに万華鏡を覗き込んだ。
「まぁ、これは。……ラインボルトにはこのようなものがあるのですね」
  ため息混じりに王妃は呟いた。
「はい。今のところこの世にはこれを合わせて三つしかありません」
  うち二つはエルトナージュとサイナが持っている。
「そのような貴重品を頂いても宜しいのですか」
「もう暫くしたら国内で売り出す予定をしていますから大丈夫ですよ。ただ、それはエルトナージュの手製なので世界でただ一つのものでしょうね」
  アスナが簡単な補足をした。
  アクトゥスから幼いお姫様がやってくる。それを聞いたアスナが贈り物になりそうな玩具を作らせたのだ。比較的簡単に作れる不思議な玩具ですぐに思いついたのがこれだった。
「そうですか。ありがとうございます、エルトナージュ姫」
「気に入っていただけて、私も嬉しいです」
「アクトゥス王プライオス一世から副王殿下へお祝いの品をお持ちしました。どうかお納め下さい」
「ありがとうございます」
「セギン男爵、目録を読み上げてください」
「承知いたしました、妃殿下」
  目録を広げると読み上げた。
「宝剣一、沈香一、龍涎香一、珊瑚十。以上となります」
  事前にアクトゥスから沈香が送られるだろうことは予想されていた。
  現在、リーズがアクトゥスから奪おうと争っているホーシェクト島は沈香が取れる土地として知られている。
  それを就任式の祝いに送ることで島がアクトゥスの領土だと周知させる狙いだ、と。
「宜しければ、ここでお目に掛けたいと思うのですがお許し頂けますか?」
「もちろんです」
  許可を出すと王妃はセギン男爵に頷きかけた。彼はすぐに指示を出して、程なく二人の大柄の男が艶やかな布地を敷いた卓を持ち上げて入室してきた。
  卓の上にはアスナの目算で二メートル強はありそうな巨大な樹が運び込まれてきた。
  樹脂で覆われた琥珀色の香の原木だ。樹の中心部あたりはくり抜かれている。
「これは……」
  さほど歴史に詳しくないアスナでも蘭奢待の名は知っている。
  写真でしか見たことがないが、かなり大きなものだと予想がつく。
  ……ひょっとしたらあれよりもずっと大きいのかも。
「ホーシェクト島で取れた沈香です」
「アクトゥス王家の至宝ではないのですか」
  隣を見ればエルトナージュも唖然としている。恐らくアスナよりもずっと価値を理解しているはずだ。
「これが島で発見され王家に献上されたのですが、間もなくリーズとの争いが始まったので宝物殿に収められることなく保管されていたものなのです」
  王家の宝というものは何でも指定すれば良いというものではない。
  何らかの審査を経たり、歴史的な価値を有する物品が収められる。
  ラインボルトでは歴代魔王の日記帳が宝物殿に収められている理由は歴史的に価値があると認められるからだ。
  通常ならばこの沈香もアクトゥスで何らかの逸話を得た後に納められていたはずだ。
  しかし、リーズとの争いで後回しになり現在に至ると言う訳だ。
  そんな国宝級の品物を贈ってきたということは形振り構わずラインボルトとの関係を修復したいという証と言える。
  無言でシエンを見ると彼は頷きを返してきた。
「続きまして、こちらを」
  灰色をした琥珀のような固まりが運ばれてきた。
「プライオス一世が討ち取った水竜から出た二つのうちの一つになります」
  龍涎香も香料の仲間だ。現生界ではクジラが消化しきれなかったものを結石にして排出したものをいうが、幻想界では水竜からというのが面白いとアスナは思った。
  非常に価値があり、質の良い物は希少性もあって同量の金以上の値が付くという。
  宝剣、珊瑚ともに素晴らしいものだったが沈香の存在感があまりにも大きすぎる。
  沈香単体でも価値があるものだが、それがアクトゥスから祝いにとラインボルトへ贈られた経緯を有したこれは、金銭的な価値を超えて歴史的な価値を有するようになった。
「アクトゥスとラインボルト、両国の王がこの芳しい香りを楽しめる日が来ることを願っております」
  そういうと王妃は深く一礼をした。
  その姿は非常に真摯であり、敬意に満ちているように感じられた。
  こうして、アクトゥスとの挨拶は終了した。
  一行を見送った後、応接の間は非常に弛緩した空気が流れている。
  贈られた品々はすぐに保管庫へと運ばれていき、僅かな香りだけが残っていた。
「アクトゥスって、思ってる以上に窮地に立たされてるかも?」
「そう殿下に思わせるための策かもしれません」
  シエンが一つの可能性を述べる。
「彼の国にリーズの橋頭堡が出来れば我が国も困ります。それをちらつかせれば、我が国が提示する参戦条件の緩和を狙っている可能性もあります」
「けど、あの沈香は凄い価値があるものだろ」
「確かに価値はあります。一国の王でも欲しいと思っても手に入らないものでしょう。しかし、所詮は香料です」
「ですが、アクトゥス側が国宝に準ずるものを贈ったという意識は無視できませんよ」
  エルトナージュからも控えめな見解が述べられる。
  二人の意見を受けて、アスナは数秒考えた。そして、匙を投げた。
「すぐに答えをださないといけないことだし、情報収集しつつ要検討、かな」
「各所にその旨、指示を出しておきます。何にせよ、アクトゥスが我が国と友好関係を結び尚したいとの意思だけは確かです」
「うん。それはオレも同意見。……けど、香料かぁ」
「なにか気に掛かることでもありますか?」
  シエンの問いにアスナは若干の情けなさが混じった笑みでこう応じた。
「血生臭さを誤魔化すのに使うことになるんだろうなぁって思っただけだよ」

 個別対応最後の国はサベージだ。
  この国への応対もアジタと同じようなものとなるはずであった。
  ラインボルト側としては賢狼族族長の嫡子アストリアを使者に迎えるつもりだったのだが、サベージ側がそれよりも格上である賢狼族族長、公爵ヴォルゲイフ自らが使者に赴くというのだ。
  アクトゥス、サベージともに副王就任式程度では訪問しない格の持ち主たちがやってきたことにちょっとした大騒ぎとなった。
  その上、リーズまでもが繰り上げで公爵位を与えると言ってきたのだ。
  政府はもちろん、王宮府も文字通り蜂の巣を突いたかのような大騒ぎとなった。
  急ぎラインボルト王族のエグゼリス別邸を借り受けて、宿所の代わりとし警備の面でも見直しをせねばならなくなったのだ。また歓待の規模も拡大されることになった。
  当初の予定では晩餐会と閲兵式のみであったのを狩猟会と茶会を追加し、閲兵式を演習に切り替えた。
  これらの変更に伴う出費や混乱は戦時を考えれば痛手であったが、その出費に見合う物も得ることが出来た。
  幻想界史上はじめてとなる「人族の王」の誕生を世界が認めた証だ。
  これにより内外ともに坂上アスナの名において各国との正式なやり取りが可能となった。
  これら三ヶ国の参列によりすでに王位を就いたも同然の扱いを受けることになるだろう。
  ……それにしても人数が多いな。
  挨拶に現れたサベージ使節団は合計で八人。
  賢狼公ヴォルゲイフとその子どもたち。そして副団長に御付たちだ。
  側付は基本地味だが清潔感のある装いなのだが、そのうちの一人は騎士と思しき華麗さを感じる装いだ。何かしらのお役目を任されているのだろう。
  この人数の多さはエルトナージュがいるからだと言える。
  嫡子アストリアとその妹ニルヴィーナは幼い頃に数年間ラインボルトに遊学に来ていたという。後宮には今も二人の部屋が当時のままに残されているという。
  その扱いから如何に親密であったか伺うことができる。
「サベージ王シェヴァリウス三世の名代として、副王就任及びワルタ地方奪還に祝意を表します。また、ビューヌ湖の恵みを分かち合う友、賢狼族族長ヴォルゲイフ・イーフェスタとしてもお祝い申し上げます」
  ビューヌ湖はラインボルトとサベージの間にある巨大な湖だ。過去にこの湖の水利権を争ったこともあるが、現在では話し合いで共用している。
  ビューヌ湖の恵みとは両者の友好が清らかで有用であることへの比喩でもあった。
「ありがとうございます。ラインボルト副王に就任した坂上アスナです。全ては貴国と賢狼族から受けた陰日向の支援があればこそです。また、賢狼公を就任式にお招きできたことを誇らしく思います。サベージ王陛下に深く感謝をし、友情のなんたるかをご教授頂けたとお伝え下さい」
  こうは言っているがアスナもサベージが何をしているか良く知っている。
  彼らはラインボルトだけに物資その他の融通をしていたのではない。
  ロゼフとラディウスにも売り捌いてボロ儲けをしていたのだ。そのことに対して思うところはもちろんあるが、王様稼業をやっていると彼らの行動を咎められない。
  儲ける機会が在れば積極的に動いてしかるべきだからだ。
  それにサベージが物資を融通してくれて助かっていることも事実だからだ。
「しかと、お伝えします。ついては我が王より贈り物があります。どうかお納め下さい」
  賢狼公は側にいた使節団副団長に頷きかけた。
「宝剣一、銀子二百枚、御馬一匹月毛」
  銀子は贈答用に鋳造した銀板のこと。月毛とは乳白色の毛並みのことだ。
「天鷹公より、御鷹一据、銀子五十枚。賢狼公より、熊皮二十二枚、銀子五十枚」
  ……熊皮がなんか中途半端な枚数だな。
  余程の稀少品でもなければ贈り物で端数を出すことはない。何かしら意味があるのかもしれない。そんなアスナの疑問を察したのた賢狼公は笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。サベージ王陛下のみならず賢狼、天鷹両大公からも多大な贈り物、感謝申し上げます」
「よろしければ、この者らを紹介させて頂きたい。使節団副団長を務めるナイナ・ミツェンです」
「紹介に与りました。ナイナ・ミツェンです。此度はご就任おめでとうございます」
「嫡子のアストリア、娘のニルヴィーナです」
「アストリア・イーフェスタです。副王ご就任おめでとうございます。また、私事ではありますが殿下とお会いできる今日の日を楽しみにしておりました」
「ニルヴィーナ・イーフェスタです。兄同様に殿下にお会いできる日を心待ちにしておりました」
  顔立ちは兄妹を思わせるが、紅炎と白銀の髪が二人の違いを強く印象づける。
  兄のアストリアは活発さを、妹のニルヴィーナからは穏やかさを感じる。
「お二人のことはエルトナージュから聞いています」
  と、一度エルトナージュに顔を向ける。先ほどまでの作り笑いとは違って暖かみのある笑みを浮かべている。
「彼女たちと旧交を温めるだけではなく、私とも親しくして下さると嬉しいです」
「では、私のことはアストリアと名で呼んで下さい」
「私もニーナと愛称で。エルたちもそう呼んでくれています」
「分かりました。では、私のことも名前で呼んで下さい。アストリア殿、ニーナ殿」
「アスナ様、愛称に殿はいりませんよ」
「分かりました、ニーナ。これで良いですか?」
「はい」
  と、笑みを咲かせて彼女は頷いた。
「そして、彼はカイエ・アーディ。使節団の護衛隊長を任せている」
  賢狼公が呼んだのは彼らの背後に控えていた騎士装束の青年だ。
  護衛隊長というのならば納得だ。儀礼の場であるため帯剣していない。
「ご尊顔を拝し恐悦にございます。カイエ・アーディと申します。副王ご就任誠におめでとうございます。殿下に」
「アーディ。……あぁ、アストリア殿と武を競ったサベージの勇者の一人か」
  サベージでは族長の跡継ぎは様々な競技を経て選定される慣わしとなっている。
  その競技において最後までアストリアに食らい付き続けたのが彼だ。
  主立った成績優秀者の概要は事前に勉強していた。
「私のことをご存知とは。副王殿下に毛皮を献上したことを含めて、話が誉れです」
「……あぁ、なるほど。そういうことか」
  あの端数は彼からの贈り物ということなのだろう。
「このアーディから一枚。アストリアからも一枚贈らせてもらっています」
  賢狼公が捕捉をした。若干慌てているようにアスナには感じられた。
「さすがに各人からというのは色々と憚りがあるので、目録には私からという体裁を取らせていただいた」
  各人の名をあげていけば、我も我もと目録を読み上げなければ成らなくなってしまう。
  二人はこの場に出ることが許されたから、アスナにその旨告げる許しを得たのだろう。
「二人とも感謝する。また、これらの毛皮を獲てきた名を知らない勇者たちにも感謝を」
  そういってアスナは一礼をした。思ったままの言葉を口にして態度で示した。
  ……少し戯曲的すぎるかも。儀式だから似たようなものか。
  そう思い直して笑った。しかし、気持ちは嘘はない。若干の羞恥があるのみだ。
「すでにご存知でしょうけれど、改めて紹介をします。エルトナージュ・アーセイル。太后殿下から結婚を前提にお付き合いをさせて貰っています」
「それは婚約とどう違うのですかな?」
  賢狼公は眉根を寄せて尋ねた。理解ができないのだろう。
「私の気分の問題です。少しの間だけでも恋人の時間が欲しいな、と」
「なるほど。分からないでもないですな」
  エルトナージュに続いて、シエンとオリザエールの紹介をした。
「エル、ニーナと少しだけど近況報告をしていて良いよ」
「良いんですか?」
  こう言ってはいるが声音は非常に正直だ。弾んでいる。
「良いよ」
「ありがとうございます」
  会釈をすると彼女は小走り気味にニルヴィーナの前に進み出た。
「ニーナ、久しぶり」
「ホントに。お手紙は貰っていたけれど……」
  二人の話を盗み聞きするのも良くないとアスナは自分がすべきことに集中した。
「賢狼公、実はお願いしたいことがあるのです」
「伺いましょう」
「各国からの使者を歓待するために狩猟会を催すのですが、実を言うと狩りの経験がないのです。賢狼公に狩りの楽しみ方を教えて頂けないでしょうか」
「承った。自分でする以外にも狩りの楽しみ方はあるものです。天鷹公が贈った鷹を使ってみましょう」
「鷹狩りですか」
  まさか自分がそういう経験することになるとは思わなかった。
「そうです。ですが、準備に相応の時間がかかりますから鷹を飛ばすだけに留めておいた方がよろしいでしょう。それだけでも十分に楽しむことが出来ます。オリザエール殿」
「はい。王宮府にも鷹匠はおりますのでその者にご指示いただければ問題はありません」
「ということです。本格的に狩りをするとなれば、他の参加者の邪魔になりますからな。それに使者たちの多くは東屋で談笑するのが主でありましょう」
「そうなんですか?」
「自ら狩りをする者も多くいますが、それ以上に手柄を挙げた配下の騎士を自慢し合うのもまた狩りの楽しみ方です。私も今回は息子とアーディ卿に任せるつもりでした」
  ……そういえば近衛騎団の様子を見に行ったら、何かソワソワしてたっけ。
  狩猟会への参加は名誉なことだ。彼らが騒ぐのも無理はない。
  この辺りの選定はアスナは感知しておらず、丸投げだ。
「お二人なら皆が驚くような獲物を仕留めてくれるでしょうね」
「ははははっ。そうあれば誇らしいですが、狩りは時の運でもありますからな。……アストリア」
「はい、父上」
  エルトナージュと談笑をしていた紅炎の青年を賢狼公は呼ぶ。
「息子に副王殿下の介添え役をと頼まれたのを機に先日、息子は騎士に任じられましてな」
「そうなんですか。おめでとうございます。私から何かお祝いを贈らせて頂きます」
「ありがとうございます、アスナ殿」
  アストリアは心から誇らしげにそう言った。ただ真っ直ぐに己の心情を表に出す彼の姿は非常に好ましい。
  賢狼公の跡継ぎ選定の競技は非常に苛烈だという。
  文武ともに秀でていなければならず、様々な事柄を彼は学び取ってきたはずだ。
  この競技の中には、それら学び取ったことを活用し、時には捨て去らねばならない競技があるという。
  競技参加者は見知らぬ山林の奥に放り込まれ、そこから無事に戻ってくるというものがあるのだそうだ。そのような経験を彼は歴ているのだ。
  そのため、現生界から現れ何の苦労もなく王位を得たように見えるアスナに何かしらの感情を示すのではないか。そんなことをアスナは何度か想像したことがある。
  お天道様に恥じぬように、という言葉がある。
  彼の朗らかさと紅の髪からには陽の光のような印象を受けていた。だから、少しではあるがそんな想像をしてしまった自分をアスナは後ろめたく感じていた。
「実にありがたいお言葉だ。強請るようで恐縮なのだが、一つお願いがあるのです」
「……なんでしょうか?」
「副王殿下が携わる政務を息子に見学させてやっては貰えないだろうか。息子にも領地での会議にそろそろ参加させようと思っているのですが、その前に少しでも見聞を広めてやりたいと思っているのです。どうかお許し願えないでしょうか」
「それは……んん〜」
  返答に窮し、唸り声を上げてしまう。
「今は戦時だからなぁ。……シエン、こういうのって先例とかってある?」
  もし一番最初にこの件を出されれば混乱もしただろう。
  リーズから内乱の首謀者の処刑要求と爵位をごり押しされかけたこと、アクトゥスから国宝級の沈香を贈られたことで感覚が一時的に麻痺させてしまい、それがある種の余裕をアスナに与えた。だから、冷静にシエンに意見を求めることができた。
「私が知る限りではございません。内府殿?」
  念のためなのかシエンはオリザエールに確認した。内府はこの場にいる誰よりも長命だ。
  ボルティスほどではないが、気の遠くなるような年月を生きている。
「記録にある限りではございません」
「ないか。シエンの考えを聞かせて」
「はっ。今は戦時であり、友好国と言えどもお聞かせ出来ないことが多々あります。しかし、両殿下の友誼とアストリア殿下に我が国を良く知って頂く得難い機会でもあります。何より我が国は賢狼族に多大な恩義がございます。お断りせず、この恩義をお返しする良い機会かと存じます。宰相としてご覧頂けるように調整を致しましょう」
  ……あぁ、なるほど。そういうやり方もあるのか。
  どういう話を見聞きさせるかはラインボルト側が選べるのだ。
  だが、それでも確認しておかねばならないことはある。
「この前の見学の時みたいに秘密を守って貰う約束をして貰わなくても良いかな?」
「はい、副王殿下。機密ではないとはいえ、閣議のことを外に出すのは好ましくありません。閣議で見聞きしたことを第三者に話さないことを賢狼公、アストリア殿下の御名においてお約束頂ければ、我が国としましても安心して見学していただけます」
「それならいいか。賢狼公、秘密を守って貰うことになりますが、それでも宜しいでしょうか?」
「…………」
  賢狼公から返事はなく驚きと戸惑いのせいか目を見開いたまま固まっている。
「賢狼公?」
「申し訳ありません」
  小さく首を振って気を取り直したようだ。
「まさか許可が、それもこのように早く決定がなされるとは思いもよりませんでした」
「賢狼族へのお礼とアストリア殿へのお祝いを兼ねて特別にということです。もちろん、他の面も出来る限りご一緒できるように取り計らいます」
  アスナはそう言って賢狼族への借りをこの一件で大幅に減らすと断言した。
  閣議を聴講するなどあり得ないことだ。それを許したのだから、借りへの対価として非常に大きい。
  賢狼公は閣議まではいかずともアスナの政務を何らかの形で見られればそれで良いと考えていたのかもしれない。しかし、要望が全て通ってしまった。
  サベージ全体としての借りはまだあるが、少なくともこれで賢狼族への様々な配慮はしなくても済む。
「シエン、内府もそういうことだから調整よろしく」
「承知しました」
「ご命令の通りに」
  一礼して顔を上げた内府オリザエールがラインボルト側からの提案をするようにアスナを促した。
「副王殿下。先日お話になられた件を賢狼公にお伝えされては如何でしょう」
「そうだな。……賢狼公、実はアストリア殿とニーナ、それとお供の方がラインボルト滞在中に使っていた部屋をそのままにしています。宜しければ、その部屋を皆さまに使っていただけたらな、と思っています」
「まぁ! 本当ですか、アスナ様!」
  提案を耳にしたニルヴィーナが歓喜の声を上げた。その瞬間、ぽんっ、と気の抜けるような音がした。
  見れば彼女の美しい白銀の髪から、同じ毛色の狼の耳が飛び出している。
  踵まで覆いそうな長いスカートを押し上げる何かがあり、それがひっきりなしに左右に振られている。耳と尻尾だ。
  紅潮した頬と相まって、赤と白の花々が綻んだようだ。
  アスナの主観ではあるが非常に可愛らしく見える。
  超然とした月のように思えたニルヴィーナの美しさが、月の光を受けて咲く可愛らしい野花に変わったかのように思えた。
「ニーナ……。貴女、まだ」
「ニルヴィーナ、何をやっている!」
  エルトナージュは絶句をし、賢狼公は叱責の声を飛ばした。
  それを受けて賢狼の姫は頬の赤味が消え、顔色が真っ青になってしまう。
  そのまま頭に現れた耳を押さえて、しゃがみ込んでしまった。
「このような時にお前は! 無礼ではないか」
  なぜ、彼女が叱責されているのか分からない。
  察するに挨拶の場で変身することが礼を失する行為なのだろう。
  しかし、彼女の様子からわざとしたのではないことは明らかだ。
  なにより礼を受けるアスナが疎略に扱われたとは思っていない。
  だから、アスナは娘の元に歩み寄るヴォルゲイフの間に立った。
「賢狼公」
  ニルヴィーナを背に庇う形でアスナは彼女の父の前に立った。見上げるような大柄の長身からは怒りととともに強い感情が発散されているのが分かる。
「ニーナのことを叱らないでやって貰えますか? オレは気にしていません」
「アスナ、貴方はまだよく分かっていないんですから、あまり口を挟むのは」
  止めようとするエルトナージュにアスナは左手を見せて止める。
「確かにちょっとびっくりしたけど、大したことじゃない。むしろ、可愛いんだからオレとしては見られて嬉しいぐらいだ」
  ピクンッ、と萎れていたニルヴィーナの耳が立った。
「だから、アスナ落ち着いてください。何が言いたいのか分かりませんし、事態を悪化させたら」
「エルトナージュ姫の言われるとおり。ご存じないようなので私からは何も申しませんが、賢狼の長として、なによりサベージの使者として一国の主たる方の前で失態を見せた娘を叱責せねばなりません」
「賢狼公。ここはラインボルトです。そして、オレはこの国の王様です。そのオレが気にしないのに、オレを出しにして叱るのはやめて下さい。礼儀に反しているのなら後で注意する程度で良いです。それに今日はオレの就任式。目出度い日なんです。だから、オレからニーナに恩赦を出しましょう」
  どうだ、と言わんばかりにアスナは腰に手を当てて胸を張った。
  自分でも勢い任せで理屈が通っていないような気がしたが、そう言い放った。
  だが、王様なのだ。多少の道理が通らなくても突き通せるものもある。
「なぜ、そうまでして娘を庇われるのです。失態には叱責をせねばならないでしょうに」
「顔どころか首まで青くさせて反省している女の子が叱られる姿を見るぐらいなら、少しぐらい無茶を言ってでも庇います」
  それに、とアスナは続ける。
「エルの友だちを庇って悪い理由はどこにもない」
  堂々と胸を張って言いのけてしまった。
  この無茶苦茶な理屈を述べ立てる姿にエルトナージュは始めてアスナと言葉を交わした時のことを思い出し、複雑な胸中をため息で表現をした。
  そして、この奇妙な啖呵が皆の困惑を呼び、数秒の間を生み出すことになった。
  そこにアストリアが滑り込んだ。
「父上、祝いの席ですから穏便に。この通りニーナも反省しています」
「小父さま、アスナには私から事情を話しておきます。どうかお気を鎮めて下さい
  二人の取り成しと心の中で状況確認をしたのか賢狼公ヴォルゲイフは深く息を吐いて、気持ちを整えたようだった。口調からも荒々しさは消えている。
「確かに。この様な場には不適切でありましたな。娘ともどもお騒がせしたこと誠に申し訳ありません」
「申し訳ありませんでした、アスナ様」
  ニルヴィーナも立ち上がって父と同じように頭を垂れた。
「分かっていただけて嬉しいです。事情を知らず踏み込んでしまったこと申し訳なく思います」
  アスナからも謝罪の言葉を述べる。これで手打ちだ。
  ニルヴィーナが強く叱責されることはないはずだ。
「しかし、後ほどエルトナージュ姫から説明をお受けになることを切に願います。我らにとって恥であることに変わりはありませんので」
「分かりました」
  頷き、そして息を吸い込んだ。振り返り疲れた顔をしているシエンと変わらぬオリザエールを見た。
「宰相、内府。特別なことは何もなかった。談笑が過ぎて声が大きくなっただけ。そういうことにしておいて」
  ラインボルトの重鎮二人は即座に了解をする。
「賢狼公、副団長殿もそういうことで宜しいですか?」
「ご配慮、御礼申し上げます」
「実に親密な歓談が続いている。そのように承知しております」
  両者の間で了解ができた。これで残るは家庭の問題だけ。
  それにアスナが口を挟む権利はない。
  だから、気分を改めるべくアスナは小さく咳払いをした。
「では、気を取り直して。賢狼公、アストリア殿とニーナ、それに当時の御付の方の部屋をそのままにしています。エグゼリス滞在中、その部屋を使っては貰えませんか。そうしていただけるとエルトナージュたちが喜びます」
  ラインボルト側が用意したこれまでの支援に対する返礼の一つがこれであった。
  あからさまな特別待遇を示すことで滞在中、サベージ使節団は少しだけ優位に立つことが出来る。また、内外にラインボルトと賢狼族が今後も親密だと宣言をするに等しく、サベージ国内での地位が盤石となる。
  それは次期賢狼公と決まったアストリアの基盤を強固にする足掛かりとなる。
  幼馴染みを招待する。そういう形式なので誰も表立って批難できない。
「うーむ……」
  しかし、賢狼公ヴォルゲイフは即座の返答を避けた。
「いかがでしょう?」
「ありがたい申し出なのだが、息子らを連れて各国使節団へご挨拶申し上げねばならず、他にも私的な懇親会への招待しようと予定を立てております。調整やこちらの手筈が整えられるか確認をした後にお返事させていただく、ということで宜しいでしょうか」
  断られても別に構わない。招待をしたことが大事なのだ。
「もちろんです。エルトナージュらと旧交を温める機会に一日、二日でも構いません。ご自由にお使いください」
「父として、副王殿下のお心遣いに御礼申し上げます」
「では、閣下。次の使節もお待ちです。我々はそろそろお暇しましょう」
  ミツェンはこれが区切りと見て、そういって話の流れを止めた。
「そうだな。では、晩餐会の席でまたお目に掛かります」
「はい。私も楽しみにしています」
  互いに一礼を交わして挨拶は終わる。
  退室する際にアストリアが妹の背を一度撫でた姿に仲の良さが伺えた。その彼女から耳と尻尾は消えていた。
  サベージの使節団を見送った後、アスナは非常に良い笑顔で、開口一番こう言った。
「ニーナ可愛かったなぁ。エルもあんな感じの耳、付けてみる? 妹のお遊戯でお婆ちゃんが作ってるのを手伝ったことがあるから、二、三個つくればそこそこ見栄えの良いのが作れると思うぞ」
「まったく、何を暢気なことを言ってるんですか。アスナは!」
  応接の間にエルトナージュの落雷が、久方ぶりにアスナの頭上に落ちる。
  ラインボルトの忠良なる宰相と内大臣はそっと目を逸らして、礼儀正しく見ないふりをするのであった。
  長い時間をとっての応対はこれで終わりだ。
  あとは中小国が待っている。祝辞と贈り物を受けて、言葉を一言二言交わすのみだ。
  今日中に全ての使節団にアスナが挨拶をするにはこうするしかないのだ。
  後の細かな応接は王宮府から依頼をした接待役が担ってくれる。
  そうでもしなければ捌ききれることではない。
  挨拶の後は副王就任を祝っての晩餐会が待っている。
  まだまだ気の抜けない一日は続くのであった。



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