第五章

第九話 晩餐会の前に


 ラインボルトの副王との挨拶を済ませたサベージ使節団は足早に王城を出て、宿所として提供された屋敷へと戻っていた。
  本日の予定は晩餐会が行われるのみ。とはいえ、諸処で頻繁に情報交換や折衝は行われている。外交官が一箇所に集まる機会はそうあるものではない。
  サベージ使節団も様々な催し物を行って各国と接触を図ることになっている。
  今もその辺りの調整に下僚たちは奔走している。
「晩餐会の時間となりましたら、お誘いに参ります。それまでお寛ぎください」
  この屋敷の主たるラインボルト王族からそのような挨拶を交わした後、ヴォルゲイフは談話室に向かい、上座にあるソファにその身を委ねた。
  若い時分に較べてあちらこちらに肉が付いたことを自覚する。同席を許した嫡子の精悍さは失われ、代わりに幾ばくかの貫禄を得られたと彼は思っている。
  談話室の隅に控えるアーディら若い芽も出始めている。
「ラインボルトの若き王、閣下の目にはどのように映りましたか?」
「……そなた、意地の悪い顔をしているぞ」
「これは失礼いたしました。閣下の呆気にとられた顔なぞ望んで見られるものではありませんでしたので」
「全く。悪い男だ」
  王宮でそれなりに出世する者は人が悪くなければ務まらないらしい。
「……呆気に?」
「おや、若君はご覧にならなかったのですか。それは勿体ない」
  使節団副団長ナイナ・ミツェンは目を弓のように細めながら言った。
「それはもうよい」
「はっ」
  畏まった態度だ。しかし、彼の目は「早く本題を聞かせろ」と語っている。
「付き合うのに難しい男が王になった」
「閣下はそのように見られましたか。私の目にはむしろ付き合いやすく見えましたが」
  父とミツェンの見解が異なることにアストリアは眉を顰めた。
「アストリア。ミツェン殿の見解はサベージにとって、私は賢狼族にとっての見解だ」
「……分かりません。ラインボルトと良好な関係を維持することはサベージにとっても我らにとっても利益のあることではありませんか」
「お前のその真っ直ぐな物の見方は美点ではあるが、もう少し考え方を増やすようにせよ」
  よいか、とヴォルゲイフは語りかけた。
  ……そういえば、私も父にこうやって教育されたな。
  と、彼はそんなことを思い出した。
「副王殿下のこれまでの動きを見るに、友好のための労を厭わず然るべき妥協点を見出せれば受け入れられる人物のようだ。細かな調整や交渉に口を挟むことはないだろう。官僚たちにとっては慣例に則って話を進められる分、遣りやすく思うだろう。だが、大きな事柄や殿下個人が関心ある事では大きく踏み込んでくるぞ。そんな男と我ら賢狼族は相対せねばならなくなった」
「しかし、父上。アスナ殿は情が深い人物にも見えました。交友が深まれば、我らが困るような踏み込みはしないのでは? ……ぁ」
「気付いたか」
「サベージ国内の問題で我らが困った際、踏み込んでくる恐れがある」
「そうだ。天災への支援であれば良い。ありがたい。しかし、政治的な事柄が原因となった時、踏み込まれれば我らは他国を引き入れたとして悪評を被ることになる。相手が善意であり、我らが窮地にある時にそれをされて断り切れるかどうか。アストリア、お前が王位を継ぐか否かの選考に踏み込んでくる可能性もあるのだぞ」
  家臣団が止めるだろうとは思うが、可能性として考慮しておかねばならない。
「王城に滞在するかどうかを決めかねたこともそれが?」
「そうだ。親交を深めたときの弊害を考えた。凡庸な王であれば悩まずに済んだのだがな」
「閣下が踏み込んだからこそ、分かった事ではありませんか。副王殿下の為人を知るという点では我らは他国を先んじたといえます。不幸中の幸いというものでしょう」
  今度こそヴォルゲイフは苦虫を噛み潰したような渋面をした。
  ニルヴィーナの変身の件だ。
  礼儀を考えれば、あの場では副王に無礼を詫び、娘の件を無かった事にしてもらうよう請わねばならなかった。しかし、ヴォルゲイフは敢えて怒ってみせた。この状況で副王がどう対応するのか見てみたかったのだ。
  副王の為人を知るべし、というのが獣王より命じられたことの一つだからだ。
「あー、ミツェン殿。娘の件だが」
「陛下はご存知なのですか?」
「……隠し通せることではないからな」
「では、閣下がこの話題に触れない限り口を閉ざしておきます。ラインボルト側もそうなのですから、私が吹聴したら外交に携わる者が流言を行ったと指弾されてしまいます」
「助かる」
「とはいえ、閣下も思いきった事をされましたね。身がすくみ上がりました」
「エルトナージュ姫がいたからな。こちらが何も言わずとも姫がなかったことにするよう取り計らってくれるはずだ」
「父上……」
  明らかに不信感を抱いた目で息子が睨んできた。
「そんな顔をするな。ニルヴィーナにはこれ以上、叱りつけん」
  娘には罰として晩餐会までの間、部屋で謹慎させている。落ち着けさせる意味でも他者との接触は控えさせねばならなかった。
「そうだな」
   あまり考えすぎても良い事にはならないだろ。ふぅ、と鼻から息を吐いて気を抜く。
「王城での滞在の件はアストリアに任せる。未来の賢狼公にな」
「本当ですか。ありがとうございます、父上」
「ニルヴィーナと話して良いようにして構わない。但し、いま話したことを忘れないように。良いな」
「はい。早速いってまいります」
  アストリアに続いて、アーディも部屋を辞していった。
  そつなく役目をこなしているため、好きにさせているがよく分からない男だ。
  立ち位置や未来像を描きかねているのだろう。
  少し早いが結婚の世話をしてやった方が良いかもしれない。
  二人を見送った後、ミツェンは話の続きを促した。
「若君の閣議参観、失敗でしたな」
「まさか通るとは思わなかった。宰相からの提案というのがまた、な」
「軍に偏っているかと思っていましたが、この短い間に信頼関係を結んだ、ということでしょうね。宰相就任の経緯を考えれば、もっと冷淡だと想定しておりました」
「自分の后を追い出してその座に就いたようなものだからな。だが、そうでもない、と。姫との仲が上手く行っていない」
  口には出せないが、サベージにもサイナの存在は知られている。
  政治的に結ばれた妻と恋愛関係にある愛人。こういった男女の関係は良くある。
「いや、この手の邪推はやめておこう。下手につついたら何が出てくるかわからん」
  この手の話が元で関係がおかしくなった。そういう噂話はサベージ王宮でも良く耳にする。奥手な性分であった自分は触らない方が良い。
  ……サンジェストならば嬉々として嘴を突っ込みそうだがな。
  サベージで浮き名を流してきた男だ。彼ならば様々な助言をできることもありそうだ。
「話を戻しましょうか。若君を観戦武官に、という話どう進めましょうか」
  観戦武官とは、第三国が行う戦争を観戦するために派遣される武官のことだ。
  サベージはラインボルト、ロゼフともに利害関係を有している。
  このままロゼフが滅びることになったら主に天鷹族が有する債権が焦げ付いてしまい、ひいてはサベージ全体に悪影響をもたらすことになる。
  適度なところで停戦の仲介を申し出て、借り主の生存を確保せねばならない。
  国際法が存在せず、慣例のみで成り立っている幻想界では観戦武官の生命と権利の保障は派遣を受け入れた国との信頼関係がなければ機能しない。
  次期賢狼公を派遣する判断はサベージにとって思い切った行動であった。
  ラインボルト支持だと周知させ、同時にラインボルトの現在を知るには都合が良かった。
  アストリアにとっても良い経験になるはずだ。
  しかし、戦場に立つということは戦死の可能性もある。
  その責任を負えないと断られないように、閣議を見学させて欲しいなどと無茶なことを依頼し、断られたところでこの話を持ち出すつもりだったのだ。
  先に厳しい方を提示すれば、後から出される妥協案が楽に見えてくる。そんな心理を利用した手だったが、まさか閣議見学を受け入れられるとは思ってもいなかったのだ。
「あの宰相。地味な見た目のくせに随分と腹黒いな」
  閣議を見せるという先例にないことを許可した。これをもって賢狼族への借りは帳消し。
  しかも、アストリアには秘密厳守を約束させ、見せる内容も自分たちで決められる。
  議会からの突き上げが対価と思えば、安い買い物だ。
「この件では我々の敗北だな。一つ貸しを作るつもりで進める他なかろう」
「ラインボルトから提示された条約。あれを利用できませんかな」
「ふむ。どういうことだ?」
「加盟国が協力し合って海の安全を保証しましょう、というのがあの条約の主眼。場合によっては他国の軍船を受け入れることもあるでしょう。その際、武官を相互にやりとりすることもある。その試験となるのではないか、と」
  ミツェンの提案にヴォルゲイフは膝を打った。
「なるほど。うむ。悪くはない。本国に諮ってみよう。了解が取れれば、この方向で話を進める。それで良いか」
  この案で主に苦労するのは天鷹族だというのが特に気に入った。
  彼らの債権のために奔走するのだ。サンジェストらにも動いて貰って悪い道理はない。
「閣下の良いように」
「うむ。これで今宵の晩餐会には気持ちよく参加できるな」
  その後、今夜副王とどんなことを話題にすれば良いか、各国使節団との懇親会の準備はどうなっているかなどの確認をしつつ晩餐会までの時間を過ごすのであった。

 黙って供をするアーディにアストリアは内心で深いため息を吐いた。
  彼はアストリアの侍従ではない。使節団の護衛隊長だ。このようなことは職務には含まれていない。
  父は、アーディのこの行動を不慣れ故だからと見ているようだ。
  確かに生まれの違い故に戸惑うこともあるだろう。しかし、すでに彼は若い騎士たちを束ねる派閥のようなものを形成しつつある存在だ。
  狩りをしては大物を獲、褒美を貰えば仲間内に気前よくばらまく。そして、普段の生活は質素そのもの。そして、与えられた務めはそつなくこなす。
  近年にない出来星だと言ってよいだろう。
  そんな男が妙な動きをすることがある。それはニルヴィーナに関わることだ。
  カイエ・アーディは妹に懸想をしている。アストリアは直感的に察していた。
  妹が欲しいのならば、選考会で自分を倒してしまえば良かったのだ。
  そうすれば、手を抜かれた屈辱に身を焦がすこともなかっただろうに。
  恐らく彼は都合の良い未来を欲しているのだろう。
  賢狼公の地位はいらない。しかし、ニルヴィーナとそれなりの地位は得ておきたい、と。
  そんな都合の良い話があるはずがない。
  しかし、最近ではそんな話がうっすらと足下を漂い始めていることにアストリアは気付いていた。若い騎士たちの間で流れる噂だ。
  そのうち、ニルヴィーナ姫がアーディ家に嫁ぐらしい、そんな噂だ。
  下位の騎士たちの声を汲み上げてくれる男が次期賢狼公の義弟となる。きっと自分たちにも陽の目が当たる時が来るはずだ、と。
  父がそれを良しとすれば、妹も否は言わないだろう。
  アストリア自身もそうだが、結婚とは家と家を結ぶものだと教わっているのだから。
  だが、アーディを義弟に持てば燻る不満を抱えて生きていかねばならない。
  それは御免被るとアストリアは思っている。
  いまも彼が供をしているのも、ニルヴィーナの前に出たいがためだ。
「若。いや、ディティン公」
  妹の部屋に通じる廊下の向こうから若い騎士が声をかけてきた。
  ニルヴィーナ付きの騎士であるオーリィだ。
  ディテイン公とはニルヴィーナの兄、アストリアのことだ。
  元々ヴァルデ公という称号を有していたが、次期賢狼族族長となることが決したと同時にその証であるディテイン公の称号も有するようになった。
  ディテインとはイーフェスタ家の始祖が領した地の名前だ。
「ニーナはどうしている?」
「静かに晩餐会の準備をされています。今はフェイがお側に」
  フェイとはニルヴィーナ付きの侍女だ。
  オーリィとフェイ。二人とも賢狼の兄妹の供としてラインボルトで過ごしたことがある。
  この二人にもラインボルトの王城に部屋が用意されている。
「そうか」
  頷いて先に進む。そのアストリアとアーディの間にオーリィが割って入った。
「アーディ卿、ここから先のお供は私が務めます。お役目にお戻り下さい」
「護衛隊長として、姫様のご様子を確認しておきたいのだが」
「今宵の晩餐会の準備をされています。心配されるようなことは何もありません」
  動こうとしない護衛隊長に業を煮やしたアストリアは首だけで振り返った。
「兄と妹の時間だ。遠慮せよ」
「はっ。……晩餐会での警備体制の再確認を行って参ります」
「それで良い」
  僅かな時間ではあるが、彼はオーリィを睨み付けてから踵を返した。
  それはアストリアが彼に向ける悪感情が見せた幻かもしれない。
  しかし、そんな幻を見てしまう男を自分は扱えるだろうか。
  そんな思いを抱いたまま兄は妹の部屋の前までやってきた。
「ニーナ様、アストリア様がお越しです」
  オーリィはノックをし、部屋の中に声を掛けた。
  静かに開かれたドアから申し訳なさそうな顔をする少女が現れた。
  ニルヴィーナの侍女を務めるフェイだ。貴族家の三女であり、幼い頃からオーリィとともに兄妹に仕えている。私生活面における腹心と言って良い。
「色々と散らかっていますが、それでも宜しければ」
「構わない。ニーナ、入るぞ」
  入室した部屋には何着ものドレスが並べられている。装飾品もその側で煌めいている。
  華やかなものから、淑やかななものまでと様々だ。
  贔屓だと自覚しているが、どれも妹によく似合うだろう。
  そのニルヴィーナはワンピース姿のまま、ベッドの上で俯せとなっている。白銀の耳と尻尾を露わにしたままだ。
  下着を丸出しにして尻尾を振り続ける様はとても一国の姫君の姿とは思えない。
「ニーナ。はしたないぞ」
「見ないで下さい」
  枕に顔を押し付けたまま口答えをする妹にため息が漏れる。
「見てるんじゃない。お前が丸出しにしているんだ。まったく。そんな姿、父上が見たら叱られるだけではすまんぞ。良いのか。そのままだとアスナ殿からのお誘いをお前だけ断らなければならなくなるぞ」
「まぁ、それって!」
  ベッドから飛び起きた妹は目を丸く見開いて、兄に続きを話すように促す。
「俺に判断を任せるとのことだ。大人しく出来なければ、連れて行かないぞ」
「待って、待って下さい。晩餐会までには気を鎮めますから」
  そういうと彼女は努力をして気を鎮める。それと同時に耳と尻尾が消えてしまう。
  そうして現れたのは誰もが知る淑やかな賢狼の姫の姿だ。
  獣人は三つの形態を有する。人の姿、獣の姿、その両方を兼ねた姿だ。
  幼い頃はこの変身が上手に出来ず、ニルヴィーナのような中途半端な姿となってしまう子が稀にいる。その子たちも十歳前後で他の子と同じように変身が出来るようになる。
  しかし、極々稀に子どもの時代を過ぎても改まらない者が出てくる。
  サベージではそのような子は獣人として壊れていると見なされ、社会的に陽の当たる場所にはいられなくなる。
  貴族の子であっても例外ではない。むしろ、貴族であるからこそ厳しく見られる。
  強く正しい血統たる貴族から欠陥が現れて良いはずがない。
  貴族社会はもとより市井からもそのように見られている。
  もし衆目の集まる場で尻尾と耳を出してしまえば、ニルヴィーナのみならず賢狼族の威信は地に堕ちる。それだけのことを妹はしでかしたのだ。
  多様な種族がいるため医療に関して最先端であるラインボルトならば治療できるかもしれない。もしくはある程度、抑える術を得られるかもしれない。
  なによりも衆目の中で過ごさずに済む。
  遊学を理由に兄と妹はラインボルトにやってきたのだ。
  治療と訓練の甲斐あってニルヴィーナはある程度制御できるようになった。
  しかし、こうやって感情が強く表に出ると抑えが効かずに耳と尻尾が出てしまう。
  普段の楚々とした姿は姫君としての側面だ。今の彼女こそが気を許せる時間を過ごしている証なのだ。
  分かりやすい妹が可愛く、しかし哀しくもあった。
「お兄様、どんなドレスが良いと思います?」
「そうだな。祝いの席だから、華やかな方が良いな。あれなんてどうだ?」
  そう言ってアストリアはソファの上に賭けられている赤色のドレスを指さした。
  するとニルヴィーナはクスクスと笑い出した。見ればフェイどころか、オーリィも控えめに笑っている。
「だって、お兄様に色を尋ねると、いつも赤って言うんですもの」
  そう言いながらも近くにあった鮮やかな赤いドレスを手に取った。
「折角、選んで下さったんだから、これにしますね」
  しかし、すぐに妹は思案顔を浮かべた。ポツリと呟く。
「けど、アスナ様、気に入って下さるかしら」
  溶け消えてしまいそうな言葉には確かな熱情があった。
  ……父上、別の意味で問題が起きました。
  納得のいく感情の帰結なのかもしれない。
  イーフェスタ家にとって、ニルヴィーナの耳と尻尾は忌避すべきものだった。彼女を愛おしく思うほどに、その存在を気にせざるを得ない。
  そのことを誰よりもニルヴィーナ自身が理解し、そして恥じてもいた。
  そんな姿をアスナは可愛いと評したのだ。
  平常のままであれば社交辞令だと思う事も出来ただろう。しかし、怒る父の前で堂々と言ってのけたのだ。それが本心からのものであることは明白。
  アスナはエルトナージュの友だちを庇うために父の前に立ったのだろうが、妹から見れば諸人から忌避される自分を全肯定されたに等しい。
  今の妹の尻尾のように激しく心、動かされるのも無理はない。
  しかし、相手には婚約者がいる。運がないとしか言いようがない。
  賢狼公の嫡子としてアストリアにはやらねばならないことが多々ある。
  少しぐらいは妹が自由に出来る時間を作ろう、と兄は思ったのであった。



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