第五章

第十話 肉料理ですか? それとも魚料理ですか?

 宰相主催晩餐会が執り行われる。
  広大な会場に幾つもの円卓が用意され、すでにラインボルト側の参加者が席に着いている。各国ごとに円卓が用意され、それぞれに縁のある者が配されている形だ。
  三権の長に諸大臣、議員、貴族たちに芸術家と様々だ。
  暖かみのある灯りが天井から降り注ぐ。吊り下げられたシャンデリアはその光を受けて豪奢に煌めいている。これら全て魔導珠によって作られている。
  長時間に渡って安定した光源を提供し続けることは富力の象徴といって良いだろう。
  円卓には白いテーブルクロスが広げられ、すでに各席にスプーンなどの食器があった。
  また会場の片隅では楽団が演奏する楽曲の確認を行っている。
  給仕役を担う王宮府職員たちも同様に忙しく立ち回り、楽団と同じように最終確認を進めている。
  晩餐会の主役はアスナだが、彼ら職員にとっても今日は晴れの舞台。
  就任式とそれに付随する諸行事を完遂を恙無く進めることで、彼らは自らを誇示できる。
  厨房では数日前から舌の肥えた招待客を満足させるべく、料理人たちが仕込みを始めていた。大人数の料理を拵えるために奮闘中だ。
  すでに着席しているラインボルト側の招待客も行動が様々だ。事前にすべきことは終えたと鷹揚に時間を待つ者、応接する相手のことを再確認する者、給仕に何かしら要求している者と様々だ。この様な場への出席が始めてとなる若い議員は緊張で固まっている。
  シエンはこの様子を興味深げに眺めていた。
  彼の主催という形にはなっているが、実際の差配は全て内大臣が行っている。
  傍らで着席している妻もシエンと同じように同じような顔で職員たちの様子を見ている。
  普段、私的に催す交流会での仕切りを任せているので学ぶべきところが色々とあるのだろう。妻の装いは年齢を考慮した大人しいものだ。
  ただ、髪飾りだけは若やいだ華やかさのあるものを付けている。
  あれはシエンが若い頃に贈った物だ。そのためか若干の気恥ずかしさがある。
  その妻は外務卿ユーリアスと歓談中だ。
「宰相閣下」
  内大臣オリザエールが声を掛けてきた。
「そろそろお時間です」
「分かりました。では、始めましょう」
「承知いたしました」
  内大臣オリザエールは部下たちに短い指示を出し、本人は奥へと戻っていった。
  彼自身、通常の食事が出来ないこともあり、また役職柄こういう席には出てこない。
  程なくして物静かな、しかし温かな小春を感じさせる音楽が流れ始める。
  出迎えるラインボルト側の招待客が全員いることが確認されると司会台に男が立った。
「皆さま、これより来賓の皆さまがご入場されます」
  司会役の声が会場に響き渡る。皆の起立が確認されると司会役は閉じていた扉に視線を向けた。程なくして扉が開いた。
「ご起立の上、拍手でお迎えください」
  扉の向こうから使節団団長と副団長がそれぞれ妻とともに姿を現した。
  司会役の来賓紹介に促されるように順次、来賓客が拍手とともに迎えられた。
  来賓の座配にも気を遣っている。
  五大国よりの使節はアスナと同席し、友好国は近くの円卓に席が用意されている。
  また、各国の関係にも配慮がなされている。使節同士が親族であれば出来る限り同席できるようにし、険悪な間柄であれば遠ざける。
  そういった配慮がなされ、出来る限り揉め事が起きないようにしている。
  美々しく着飾った使節たちが案内された席へと通されていく。各所で挨拶が始まり、それを終えると彼ら彼女らもまた拍手の輪に加わっていく。
「ラインボルト副王、坂上アスナ殿下。並びにエルトナージュ・アーセイル殿下ご入場されます」
  国内外から集まった来賓の拍手は万雷となる。
  突如として現れた次代のラインボルト王に各国からの来賓は好奇と好意の混ざり合った視線を向ける。
  元々、ラインボルト王に地の高貴さは求められていない。
  彼らが気にするのは掌中に握られた力がどう使われるのか、だ。
  これまで坂上アスナは「武」を用いてことを進めてきた。
  戦場で信頼を得、実績を積み、自らの存在を確立していった。
  確かに大国の王が武力を忌避すれば、それもまた乱を呼ぶ。だが、それに偏られてもまた迷惑千万なのだ。
  坂上アスナは武の人で終わるのか否か。来賓たちは必死にそれを知ろうとしている。
  衆目を浴びるアスナはそれらを無視するように笑みのままに自分の腕を取るエルトナージュと笑いあった。
  ある程度、年齢を重ねた者ならば、そのやりとりだけで二人の仲の良さを察することができた。そんな笑みだ。
  副王は主賓席へ、姫はその隣に用意された円卓へと向かった。
  姫が向かった先には彼女の義母と賢狼の兄妹がいる。それだけで各国はラインボルトと賢狼族の間柄が今後も確固たることが理解できた。
  美々しい姫君が二人の仲睦ましい様子は羨望を集めるに十分であった。
  饗宴の華はそこにある。
「宰相、シエン・ホライフェントより乾杯のご挨拶をさせていただきます」
  司会役に促されて、シエンはグラスを手にして立ち上がった。
「副王殿下。本日のご就任、誠におめでとうございます。また、我が国の呼びかけに応じて下さった各国使節にお礼申し上げます」
  シエンは会釈のような一礼を来賓へと送り、続いて副王に顔を向けた。
「いま、我が国は若き王太子を迎え、新たな時代へと動き出して始めています。老いの坂が見え始めた者には未来への輝きに羨望の念を禁じ得ず、その眩さ故に心配もするところです。しかし、その輝きが在ってこそ民を明日へと導くことが出来るのだと確信を得られるのだ、と些か灯火を小さくした者には見えております」
  すると来賓たちの間で苦笑が生じた。誰もが思うことなのだろう。
「火は時として猛々しく狂い燎原ともなります。それと同時に人の生活に欠かすことのできないものでもある。来賓の皆さまにはラインボルトに生まれた新たな炎がどのように見えているでしょう。しかし、心配はご無用に願います。副王殿下は私どもに鉄火を家々を暖める暖炉にくべる準備を始めよとご命じになられております」
  すでにラインボルトにとって絶対に必要な勝利は得ている。
  今、進めている戦いはそれを確固とし、利権を得るための戦いだ。
  それ故、戦後を見据えてどうするか検討を始めていて然るべきであった。
「本日、灯った祝祭の篝火が我が国に落ちる影を打ち消すだろうことを確信しております」
  それは宰相としての自負だ。
  坂上アスナという強すぎる炎を宥め、時には薪を与えることが自分の役割なのだ、と。
  節度として忠誠を抱かないように心がけているが、アスナが王として望ましく在ろうとしている姿には敬意を抱いている。それがあるから宰相として立っていられる。
「副王殿下のご健勝と、諸国の平穏を願って。乾杯!」
  一斉に乾杯の声が上がり、左右の人々とグラスを鳴らしあった。

 主賓席でアスナの隣となったのはリーズとアクトゥスである。
  アスナの右手にはアクトゥス王妃母娘とアジタ王。左手にはリーズ使節団団長代理と賢狼公という座配である。
  円卓ではなく長卓が用意されている。
  こうすることで他国の使節団が挨拶に来やすいようにするためだ。
  すぐ隣に座っているベルーリアは母と異国で優しくしてくれたお兄さんに挟まれてご満悦である。
  こういった場では主賓に話しかける順番も暗黙の了解で決まっている。
  まずは左手側からというのが幻想界では一般的なのだが、幼い子にはその常識はない。
  律儀に挨拶の時に交わした約束を果たしていた。
「あのね、私、こんな、こーんな大きな船で来たの。お父様の船なの」
  と、眼をキラキラとさせながら話し始めた。序列を考えてか王妃は顔を若干青ざめたが、アスナは気にせずに話を続けるように促した。
  そもそもリーズ側は名も名乗らぬ素性も名乗らない代理人だ。
  アジタ王よりも上席を与えただけで十分とも言えた。
「そんなに大きいのですか?」
「はい。お城みたいなの。兵隊も一杯いて、私とお母様をお出迎えしたの。それでね。海の風が強く吹いて大変だったの。けど、白い鳥が私たちのお供をしてくれたの」
  彼女たちを乗せたのはアクトゥス海軍で先代総旗艦を務めた戦艦だ。
  総旗艦の座は譲ったが今も第一線で活躍できる性能を有しているという。
  あんな艦が欲しい、と海軍軍令部総長が子どもみたいに零していた事を思い出した。
「それでね。ラインボルトの港についたらジネド伯爵が待っててくれたの。 ジネド伯爵ってお婆ちゃんで物知りなの。私があれ何? って聞いたら必ず教えてくれたの。すごいのよ」
「どんなことを教えて貰ったんです?」
「リンゴって木になるの。それでね。野原でお休みした時に白い花の冠を作ってもらったの」
  グレイフィル王妃は哀しそうに顔を伏せた。
  そんなことも体験させられない現状と不甲斐なさを嘆いていた。
「良かったですね。実を言うと私も花の冠が作れます」
「ホント?」
  そんな母の気持ちとは裏腹に感動のままに娘は丸い眼を更に大きくした。
「ホントですよ。わたしもお婆ちゃんに教えて貰ったんです。一緒ですね」
「うん!」
  元気の良い返事が主賓席に響く。
  その様子はアジタ王、賢狼公ともに和むものがあったようで表情が緩んでいる。
  一方、リーズの代理に表情の変化はない。
「でね、野原で歩く木に会ったの。はじめまして、って挨拶して、そしたら木の上に乗せてくれたの。すごく高かったのよ」
  身振りでその高さを一生懸命に表現する幼子が微笑ましい。
「それは羨ましい。私は木登りしたことがないんですよ。どんな感じでした?」
「葉っぱがさわさわいってて、風がひんやりしてるの。下を見たらお母様が手を振ってるの。だから、私も振ったの」
  アクトゥスもまた戦時中ということもあって、自粛せねばならないことが多いのだろう。
  他国の地で自国では様々なことを体験させてやりたかったのだろう。
  それは王妃だけではなく、アクトゥス王の意向でもあるはずだ。
  ならば、思い出作りを手伝うことも歓待の一つ。
「その後でリンゴをもいで食べたの。酸っぱかったけど美味しかった」
「姫は大人ですねぇ」
  するとベルーリアは母の方を向くと照れ臭そうに笑った。
  程なくして前菜が並べられた。
  角切りにした野菜とチーズを酸味のあるドレッシングで和えたものとアスパラガスのような野菜を生ハムで包んだもが細長い皿に盛られている。
「ベルーリア、お料理が来ましたよ。お料理が来たら?」
「静かにします」
「はい。その通りですね」
  と、母は娘をそういって嗜めた。
  ベルーリアにアスナを独占させる訳にはいかない。前菜が来たのは丁度良かった。
  王妃はアスナに感謝の意を込めて会釈をした。
「侯爵閣下は幼子が好きなのですね」
  リーズ使節団団長代理が言った。
「どうでしょう。ただ、妹が幼かった時のことを思い出します。そんなに年は離れていないんですけどね」
「…………」
「代理殿にご兄弟は?」
  しかし、代理を名乗る男は首を振った。
「私は自らを語る権限がありません」
  その応えにアジタ王と賢狼公は鼻白んだ。
「勅使閣下より出立に際し、詫びの品を贈ると仰せつかっております」
「お心遣い、ありがとうございます」
  代理は取り出した封書を読み上げる。
「奴隷八百」
  アスナは思わず目を点にした。
  ……まさか、奴隷を抱えることになるとは思わなかった。
「目録は後ほど家宰殿に手渡しておきましょう」
「あー、私どもは奴隷を扱わないのですが」
「これらは勅使閣下が陛下より賜った物。それを特別に譲るというのです」
  それに、と代理はチラリと何故かグレイフィルを見た。
「皇竜海にて陛下の手勢に弓引いた愚か者ども。本来であれば、手打ちにするところを寛大にも奴隷として生き長らえさせたもの。お断りにならない方が宜しいかと」
  グレイフィルは席を蹴倒して立ち上がった。
「副王殿下、どうかその者らを私に」
  ……つまり、捕虜を奴隷にしたのか。
「侯爵夫人。勅使閣下が特別に譲ったものを強請るとは品の悪い」
「!?」
  王妃は代理をキッと睨み、しかし、何も口に出来ずに腰を下ろすしかなかった。
  リーズとアクトゥスは戦争中だ。それも苦しい戦争を遂行している。
  和平の時を考えれば浅慮はできなかった。
「ありがたく頂戴しましょう。ところで代理殿、譲り受けた奴隷の扱いに関する作法を私は知らないのですが質問しても?」
「私が答えられることならば」
「奴隷は生きています。病気で死んでしまうこともあるでしょう。その後、亡くなった奴隷の遺体はどうすれば? 贈り主である勅使殿、ひいてはリーズ王陛下に遺体をお送りして、これこれこのとおりに死にました、とお知らせした方がよろしいのでしょうか?」
  感情がなさそうに見える代理の表情筋が痙攣したように動いた。
「そのようなことは不要。勅使閣下はもちろん、陛下もそのような些事に関わることはありません。ですが、すぐに病死させるような扱いをするのもどうかと」
「奴隷の扱いというのも難しいものですね。……代理殿の言葉は勅使殿の言葉も同然。て、勅使殿の言葉はリーズ王陛下の言葉も同然。そうでなければ、勅使殿の代理は名乗れないでしょう。確かに奴隷の扱いについて一つ理解できました。感謝します」
  ……軍人なら海軍に放り込めば良いか。
「そういえば、その船団の指揮を執っていた者はマーフェンを名乗っていたとか」
  と、何でもないことのように捕捉をし、フォークでチーズを口にした。
  マーフェンは海王の一族の家名だ。つまり、アクトゥス王族か、類縁だということだ。
  船団を率いていたというから将官かもしれない。
「お母様」
  心配そうな声でベルーリアは母を見上げた。
「大丈夫ですよ」
  しかし、その声は厳しい。アクトゥス王族で該当する者がいるのだろう。
  何かを頼むように見られるが、今この場で話はできそうにない。
  後で内々に話を付ければ良い。その時に当人か確認して貰えば良い。
  ……あとで相談して決めれば良いか。
  今すぐの解決を放り投げた。
  ラインボルト最高峰の料理が饗されているというのに美味しさがあまり感じられない。
  そのことが腹立たしい。ベルーリアの相手をしながら食事をする方が遙かに心和む。
  給仕が静かにパンとスープを配っていく。
  フランスパンのようなものをガーリックオイルで焼いたもの、クリームスープのパイ包み焼きだ。パイの下にあるスープには色とりどりの野菜が煮込まれ、宝石箱のようだ。
  手前からサクサクとスプーンを突き入れて割っていく。一口含むと濃厚なクリームの味とそれに負けないパイの香ばしさが鼻に抜ける。
  このままパンをスープに漬けて食べてみたいが、それは礼儀に反するらしく自重する。
「ところで叔父上、王太后殿下とは話をされましたか?」
「いや、まだだ」
  布巾で口元を拭うとアジタ王は応えた。
「妻から手紙が届いてから、改めて面会を申し込むつもりだ。今は元気な姿が見られて安堵している」
「是非、そうして下さい。私では思い出話に華を咲かせることが出来ませんので」
「そうだな。だが、アイゼル殿の自慢話なら聞けるだろう。惚気話とも言えるかもしれんがな」
「その時はなにか冷たいものを土産に持っていかないと、汗を掻いてしまいますね」
  わざとらしく手で首元を仰ぐようにして見せる。
「ははははっ。そうだな。余も会う時はそうさせてもらおう」
  空気を一変させようとアジタ王は道化てみせたが、それすらも勅使代理は押さえ込みにかかる。
「そのような物言いは伯爵として如何なものかと思いますが」
  アジタはリーズから伯爵位を与えられていた。各国の王もまた同様だ。
  五大国のうち四つに侯爵位を用意したところが彼らなりに気を遣っているのだろう。
「これはお恥ずかしい。確かにリーズに較べれば我々は田舎者と笑われても仕方がないやもしれませんなぁ。リーズ宮廷の華やかさがどのようなものなのか、この田舎者にお聞かせ願いたい」
「私如きが語らずとも伯爵閣下が宮廷に参ずれば、その目と耳で感じることができるでしょう。宮廷には閣下の席は用意されています」
「それはそれは。しかし、我が国は代理殿が告げたように田舎。訪問しようにも旅費を賄うことさえ難しい。それでは華やかさを体感するどころではありますまい。晩餐会に襤褸を纏って出席したと言われかねませんからな」
  なお、アジタの銀細工はリーズにも輸出され、貴婦人たちを飾っている。
「我らならば、まだ自前の毛皮の方がマシだと言われかねませんな」
  と、賢狼公ヴォルゲイフも同調した。
「親族ならばまだしも、一陪臣が口を挟むとは礼儀がなっておりませんね。侯爵閣下、この座配、如何なものかと思うが?」
  当然、賢狼公は殺意に近い怒気を露わに勅使代理を睨み付けた。
  ……あー、めんどくさい。
  一つ一つの発言の粗を探し、それを指摘してくる。
  皮肉を幾つか貰うと思っていたが、文句を申し立ててくるとは全くの想定外だ。
  リーズの使節とはこういうものなのだろうか。
  高貴なる存在と意識しているのならば、下座にある者の言葉を拾い上げることはないだろう。つまり、勅使代理の上位者からこうしろと命じられていると考えた方が良い。
  指摘するためには一つ一つの会話を真剣に聞かねばならず、なかなか大変なのだから。
  そう考えると腹立たしいが、面白くも感じる。
「副王殿下?」
  隣に座るベルーリアが心配そうにアスナを見上げた。
  自分の口が笑みを形作っていると自覚している。そして、敢えてそれを強調する。
「なんでもありませんよ、姫」
  ただ、と続けた。
「私は随分とリーズ王陛下に高く評価されているのだな、と思っただけです」
「……ほう」
  駆け寄ってきた給仕から何かしら耳打ちされていた賢狼公が代理からアスナに視線を移した。
「これまでの代理殿から提供される話題はとても場を楽しめるものではなかった。代理殿個人の発言だったとしたら、こんなバカを代理に任命した勅使殿の資質が問われますし、リーズ王陛下への不敬でしょう。となれば、これまでの道化じみた言葉の数々は私がどう応じるかを見るためにおこなった。そう考える方が自然でしょう」
  アスナはわざとらしく頬を掻いて見せた。
「これまでの受け答えが陛下の目に適えば良いのですが、若輩者なのでお恥ずかしい。先ほどの問いですが、この晩餐会の主賓は私です。賢狼公とは席を一緒にしたいと思っていましたので、そういう意味でも問題はありません」
  ですが、と更に続ける。
「他の方の言葉を使うのはリーズ王陛下の意向とずれているのではないかと想像します。試すのであれば私のみとしていただきたい。代理殿?」
「…………」
「はっはっはっ。そこまでじゃ。そこまでじゃ、アスナ殿。勅使代理殿はどうやら料理を喉に詰まらせてようじゃ」
「ご老公、それに龍公も」
  ボルティスとラインボーグだ。挨拶に来たのだろう。
「まずは祝意を。竜族を代表し、また建国王との約定を守る者としてアスナ殿の副王就任を心より歓迎する」
「同じく。ラインボルトに住まう全ての機族を代表し、覚悟をを示されたことに感謝を述べる」
「ありがとうございます。色々な場所で助けていただけて頼もしく思っています」
  うむ、と二人の大公は鷹揚に頷いた。
  主賓席に座る人々へ挨拶を交わし、最後に代理に声を掛けた。
「アスナ殿を試すというのであれば、教師役の我らから試して貰いたい。儂らの席にご招待したいがいかがかな?」
「貴殿らと言葉を交わす口を持ちませぬので」
「ほう。四十三代前のリーズ王と茶会で親しく言葉を交わした儂と話せぬか」
  勅使代理はボルティスを睨み付けるが、彼は文字通りの鉄面皮である。
「副王殿下の資質を問うというのであれば、我らも同席させていただきたく存じます。リーズ王陛下が望ましいとされるものが何であるか。実に興味深い話題です」
  シエンのみならず主立った大臣たちが集まってきている。
  席を空にするわけにはいかないと判断したのか、半数と伴侶たちは席に残っている。
「臣下として是非ともご教授賜りたい」
「……貴殿はサンフェノン伯爵に忠誠を捧げているのではないか。偽りか」
  もう一人の魔王の後継者。彼は今、別邸にて静かに過ごしている。
  そのアルニスを推戴してアスナと対峙したのがシエンだ。
「偽りではありません。副王殿下に捧げているのは愛国の誠。なんら矛盾はありません」
  そう、彼は断言した。アスナもまたそんな彼の態度に驚いていた。
  アスナが思っていたよりも、ずっと高く評価されていることに。
「ささ、遠慮せずに来られるがよい。二人の大公と宰相が正式な勅使ではない、代理であるそなたのお相手するんじゃ。それに儂の話は今上陛下への良い土産となるじゃろう」
  決して粗略な扱いではない。むしろ丁重な持て成しと言える破格の扱いだ。
「…………」
「いかがされた。そろそろ喉のつかえが取れたのではないか?」
「いや、座配を無理に変更させることは礼儀に反すると心得る。その話は辞退申し上げる」
「確かにこの場で礼儀に反する訳にはいかぬな。宰相殿、次の茶会の折には代理殿と儂らが同席できるよう取り計らっていただけるかな? 今のリーズがどうなっているか話を聞くのが楽しみじゃ。礼として儂からは当時がどのようであったか語り聞かせよう」
  ボルティスは鷹揚に頷いてみせ、ラインボーグは含み笑いをした。
  勅使代理は、少なくともこの場においては二人に封じ込められた。
  ……助け船にやってきたのは、機動艦隊でした。
  そんなことが頭をよぎるほどの圧倒であった。少なくともこちらがあからさまな挑発や隙を見せなければ、勅使代理は大人しくなるだろう。
  ようやく平穏を取り戻しそうだという安堵と、ある種の白けた空気が会場に漂い始めた。
  それらを払拭する策は事前に用意されている。
「副王殿下!」
  そこに軍務大臣の大音声の呼びかけが響いた。
「何事だ、軍務大臣」
「北方総軍より至急の報せが届いております!」
「許す。この場で報告しろ」
「はっ。北方総軍はディーゲン市の制圧を完了した、とのことです!」
  ディーゲン市はロゼフ攻略の足掛かりとなる巨大な都市だ。
  これでゲームニスらは雪が降り始める前に越冬準備を始められる。
「ご苦労。現地の将兵たちが凍えず暖かく冬を越せるように手配しろ。これを副王として軍に出す最初の命令とする」
「承知いたしました。殿下のお言葉のままに。では、しばし席を外させていただきます。ご無礼をお許し下さい」
「許す」
  ある種、演劇的だが仕方がない面もある。
  この報告は、会場で何かしら重大な問題が起きた時、席を温め直すために用意されていたものだからだ。アスナとしては、出来ることなら使いたくなかったことだ。
「副王殿下、おめでとうございます」
  議員たちは心得たものである。瞬時に察して、席を立ち上がり歓呼の声や拍手をし始める。それに引っ張られて来賓たちも同様にし始める。
  その効果は覿面であった。白けていた空気は瞬く間に払拭され、会場は暖まる。
  来賓たちはこの機会を逃さないように祝意を述べにアスナの元へと集まってくる。
  彼らはロゼフが現在、どうなっているのかを聞きたがった。
  この勝利が自国にどう影響するのか、しないのか。その考察のためにも情報は必須であった。なにより、使節団の目的はラインボルトの現状を探ること。
  この結果、この国は次にどう軍を動かすのか興味が尽きない。
  もはや、宴席で白けてはいられない。
  シエンの挨拶にあったように、戦場の鉄火が持つ効果は絶大なのだ。

 主賓席の隣に設けられた円卓にはエルトナージュと彼女の義母王太后イレーナ、そして賢狼の兄妹が同席をしている。
  先ほどから主賓席から発せられる空気の悪さはエルトナージュらにも感じられていた。
  他の円卓でもそれは同じで何時、勅使代理の矛先が自分たちに向けられるか戦々恐々としている様が良く理解できた。
  ラインボルト側に早くなんとかしろという空気が漂っていることをエルトナージュは感じていた。義母も時折心配そうにアスナの様子を窺っている。
  とてもではないが思い出話に華を咲かせられそうにない。
  ……勅使代理殿は面倒な方ね。
  どの国もリーズの顔を立てて、面倒から避けるために爵位を預かっている。
  しかし、あの代理は建前を建前とはせずに前面に押し立てて波風を立てている。
  ただ来賓の注目を集めていることだけは確かだ。
  アスナの言動が見られている。
  ……狙いの一つはそれね。
  視線を集め、その中でアスナに何かしら失敗をさせる。
  そうすることでこれまで一つ一つ積み上げてきたことを崩そうとしているのだ。
  それはアスナ個人のことであり、ラインボルトの未来のことでもある。
「いいかしら」
  と、エルトナージュは給仕に声を掛けた。
「両大公に主賓席への挨拶の先陣を切って頂きたいと。宰相殿には私が両大公にお願いをしたと伝えて」
「承知いたしました」
  これで大事にはならないはずだ。彼らに任せれば、若き王を老臣が盛り立てていると見えるように動いてくれるだろう。
「エル姫殿は行かないのか?」
「私が行けば、余計なことが起きるでしょうし」
  勅使代理は必ず内乱のことを話題に出すだろう。
  そうなればアスナの抑えが効かなくなり、激発してしまう。
  それこそ勅使代理の望む結果だ。
「お父様に伝えてください。私も抑えています、と」
  と、ニルヴィーナもエルトナージュと同じく父の激発を案じている。
  言葉を託した給仕には現状のことだと思っているだろう。しかし、いま彼女は様々な感情を抑えているのだ。
  そのことを痛いぐらいに理解している賢狼公ならば我慢してくれるはずだ。
  宴席での戦いは直接舌戦を挑むだけではない。こうやって対抗手段を講じていくことの方が最終的な勝利を得やすい。
  と、その時主賓席から賢狼公に対して「陪臣」という言葉が飛んだ。
  アストリアが椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
  リーズ王から見れば確かに陪臣という理屈が立つのだろうが、賢狼族は王を排出してきた種族だ。陪臣の一言で片付けることはできない。
  ニルヴィーナが託した給仕が間に合ったようで賢狼公ヴォルゲイフは激発することなく堪えている。そのため、アストリアも我慢せざるを得ない。
「私は随分とリーズ王陛下に高く評価されているのだな、と思っただけです」
  聞こえてきたアスナの言葉にアストリアらは目を丸くした。
  エルトナージュも驚いたが、アスナらしい返し方に小さく笑ってしまった。
  リーズ王に試されるほど注目されている、という屁理屈。
  一緒に食事したいから問題ない、という強弁。
  真相は分からないままだが、こう返されてしまうと、これから何を言ってもアスナと同席者の評価をあげる結果にしかならない。
  勅使代理がリーズ王に評価されている云々を否定すれば、彼が単なる無礼者に墜ちる。
  そこに二人の大公と諸大臣が加わった。抑え込みは成功した。
  続けてディーゲン市制圧の報せが届く。これで雰囲気も一掃される。
  ラインボルトは強国。これからもリーズに屈服することはない。
  そんな印象を来賓たちは心の内に得たはずだ。軍関係者が騎士同士の交流会に呼ばれることもあるだろう。ラインボルトとしても繋がりをもつ良い機会だ。
  ふと見ればアストリアがアスナに羨望の眼差しを向けている。
「羨ましいですか、アストリア様?」
  子どもの頃のように「兄」とは呼べず、また「エル」と愛称だけで呼ばれないことにお互いの間に流れた時間を思う。
  寂しくもあり、新しい自分になったのだという自覚も出来る。
「思うところはある。……滞在中に是非とも戦場でのことを聞かせて貰いたいと思っているんだ」
「お止めはしませんけれど、アスナにはあまりそういう話をしない方が良いと思います」
「なぜだ? 自身の武勲はもちろん、供に戦った配下を讃えるためにも話して然るべきだと思うが」
「そうには違いないのですけれど、アスナは戦を好んでいませんから。公開演習の場でされるた方が良いでしょうね。むしろ、別の話題を振った方が喜ぶと思います」
「別の話題か」
  と、アストリアはパイを崩しながら沈思し始める。
「そういえば、アスナ様のご趣味は? サベージまで聞こえてくるものは色々あって、どれが本当なの?」
  ニルヴィーナは同性のエルトナージュからみても可愛らしくなったと思う。
  所作や声音からしてそういったことを感じずにはいられない。
  アスナが素直に可愛いと評したのも頷ける。
  可愛げというものが不足していることを自覚しているだけにエルトナージュは羨ましく思った。
  ただ愛らしいだけではなく、自身の不調に立ち向かっている人でもあることを知っている。それだけに嫉妬よりも先に敬意と好意を持たざるを得ない。
  すぐに昔のように打ち解けられたのも彼女の優しげな雰囲気のおかげだ。
「どんなものが伝わってるの?」
「自ら調理をするほどの美食家で細工もお好き。そうそう。書籍も蒐集されているとも聞いてるわ」
「細工は私のことね。ペンダント、よく似合って良かったわ。ありがとう」
  小さな赤い花弁を集めた意匠の銀細工だ。使われている赤い宝石は纏めて幾らという程度の価値しかないが、こうやって集めて使えば煌めいてくれる。
  肌の白さとドレスの赤を邪魔しないように見える。
「私の方こそありがとう。とても嬉しいわ。私もなにかエルに自慢できることを学べば良かった」
「前に贈ってもらったハンカチにしていた刺繍。とても素敵だったわよ?」
「刺繍なんて誰でも嗜みとしてしていることですもの。もっと胸を張れるものが良いわ」
「ニーナはどんなことがしたいんだ?」
  兄の問いに思案する妹。その様子をイレーナが微笑ましげに見ている。
  以前、見た懐かしい光景だ。あの時はミュリカとヴァイアスも一緒だった。
「陶芸とか。土いじりって面白そうじゃありません?」
「興味はあるが、あれは屋敷の敷地でできるのか?」
「難しいでしょうね。特別な窯が必要になるそうですし、焼くとなると徹夜が当たり前だそうよ」
  と、イレーナは笑った。
「ニルヴィーナ姫は演奏がとてもお上手になったと聞いていますよ。賢狼公お抱えの楽団に加わって、サベージ王陛下に披露したそうですね。私たちにも貴方の音色を聞かせて欲しいわ」
  主菜とサラダが届く。
  主菜は肉料理だ。肉と野菜を長時間、濃厚なソースで煮込んでいる。
  ナイフを入れると肉がはらはらと崩れ、ソースと絡み合う。肉が持つ味わいとソースとが合わさり食への充実感を与えてくれる。
  一緒に煮込まれた野菜もしっかりとした味がし、飽きの来させない味の変化を作ってくれている。それでも主菜が濃い味付けであることは変わらない。
  それをさっぱりさせてくれるサラダの存在がありがたい。
  煮込みでは感じられないシャキシャキとした歯応えが嬉しい。
「ねぇ、エル? アスナ様は音楽、お好きかしら?」
「好きみたいよ。ただ、戦続きでそういったことを楽しめる機会が少ないから残念がっているわ」
  ただ、演奏の後に行われる雑談は面倒くさがっていた。
「王宮の楽団に演奏させれば良いのではないか?」
「そうなんですけど、自分だけのために演奏させるのは勿体ないと思ってるみたいです」
「戦時だからな。自粛せねばならないこともあるか」
  と、アストリアは納得をしてくれたようだ。
  実際はもっと贅沢なことをアスナは要求している。
  例えば勉強や執務などの休憩時間の五分、十分の間に音楽を聴きたいと言っているのだ。
  現生界ではそれが出来たと聞かされ、あまりの贅沢さにエルトナージュも呆れた。
  このことは兄妹には聞かせない方が良いことだ。
「あの話を受けてくれて、ニーナがその時に演奏してくれればアスナも喜ぶと思うのだけれど」
「うん。ご厚意ありがたく頂戴する。ただ、諸方との懇親会もあるから慌ただしく出入りすることになると思う」
「ありがとうございます。ミュリカとヴァイアスも喜びます。シアなんてお二人の寝室の手入れを一生懸命にして待っていましたから」
「礼を言うのはこちらの方だ。思っていたよりもずっと楽しく過ごせそうで私たちも嬉しい。……ただ、フォルキス将軍と手合わせできないことが残念だ」
  以前のラインボルト滞在中、フォルキスがアストリアの相手を務めていた。
  結局、一度も勝てずに悔しがっていたのを覚えている。
  長じて経験を積み、再戦を挑みたかったのだろう。
  このことにエルトナージュはかける言葉をもっていない。
「いや、忘れてくれ。婚約者にも悪い癖だと何度か注意されている」
「……そういえば、ご婚約されたのでしたね。おめでとうございます」
「おめでとう。婚約者はどのような方なの?」
  イレーナに問われて、アストリアは頬を自分の髪と同じ色に染め上げた。
「あー、細やかな気遣いをしてくれる人です。私が大雑把なので随分と助けられています」
「あらあら。お顔の方が雄弁ね」
「それほど想われているなら、お連れになれば良かったのに。ラインボルトにいる妹にも紹介してください」
「ふふふっ。そうね」
  イレーナも同調する。
「即位式の際には連れてきますので。この話はこれまでにしましょう」
「約束しましたからね、お兄様」
  勢いで昔のような呼びかけをした。幼い頃と今が交差したような気持ちだ。
  アスナは今も孤軍奮闘中だ。その彼を助けずに楽しい時間を過ごしていることに罪悪感を感じる。だが、この時間は彼が用意してくれたものだ。
  主賓席に座る皆がたまたま伴侶を連れていなかった。
  だったら、それに合わせるという口実で賢狼の兄妹、そして義母と同じ席にしてくれた。
  あとでお礼を言わないといけない。そう想いつつ今の楽しい時間を満喫することにした。

 一難去ってまた一難。
  来賓からの挨拶という嵐が過ぎ去った頃にはデザートが届いていた。
  挨拶をし、会話を振り降られと慌ただしい時間であった。
  自分が好きなように食べる。それが如何に贅沢なことか。
  議員や諸大臣との会食を経験していなければ目を回していたはずだ。
  勅使代理が口を閉ざしてからは問題なく話が進んだ。
  饗されるデザートはシャーベットだ。飴細工と苺が添えられている。
  さっぱりとした酸味のある冷たさが一息つかせてくれる。
  はしゃぎ、何よりも見知らぬ大人ばかりの環境で疲れ切ってしまったのかベルーリアはスプーンを持ったまま船を漕ぎ始めた。
  アスナはそれを静かに取り皿に置いた。
「ありがとうございます。副王殿下」
「今日はこのまま城でお休み下さい。宿所へのお戻りになられれば良いかと。お客様をお迎えする離れがあります。警護の騎士殿が交代で休めるようにもなっていますので、ご安心下さい」
  何かしらの原因で体調不良になった者を休ませるために用意していたのだ。
  迎える用意は出来ている。
「お心遣い嬉しく思います、しかし」
「今から朝までの間だけでも、姫の母君のみになってあげて下さい。私からベルーリア姫への贈り物です」
「…………」
「ご安心下さい。ここにいる誰も妃殿下のことを悪く言う情のない方はいません。それにこういう時のために副団長、セギン男爵がいるのだと思います」
「副王殿下のご厚意を頂きたいと思います」
「……よかった」
  アスナは側に控える給仕役を振り返った。
「セギン男爵をここに。それが終われば妃殿下と姫、それにお供が今夜城に泊まるから離れを整えるように内府に伝えてくれ」
「承知いたしました」
  主賓席に呼び出したセギン男爵に要件を伝える。
「分かりました。本日お供をした護衛の者と侍女にそのまま警護に就くように命じて参ります。暫し、席を外します」
  一礼をして会場から去っていった。
  また何事かあったのかと来賓はざわつくが事情が広がるにつれて納得の空気に変わっていく。
  程なくして内府とセギン男爵が戻ってきた。
「殿下、整いました」
「うん。それじゃ、妃殿下、姫と一緒にお休み下さい」
「ありがとうございます。ご無礼いたします」
  王妃は姫を静かに抱き上げると、娘はしっかりと母に抱き付いた。
  そうして、母は一度だけ娘の優しく頭を撫でてやると会釈をして会場を辞したのだった。
  それを見送ったアスナは残ったセギン男爵に顔を向けた。
「男爵。妃殿下の代わりにこちらへ」
「はっ。光栄です」
  アスナとヴォルゲイフに一度ずつ礼をする。すぐさま新たな椅子が整えられ、そこに腰を落ち着けた。
「ところでセギン男爵。実を言うと貴国からの使節団団長がグレイフィル殿下だと知った時、非常に不安に思ったんですよ」
「それは何故でしょうか」
「就任式で諸国からお招きするお客様に出来る限り失礼がないように、どのような方なのかを知る努力をしました」
  最後のお茶が各人の前に用意される。暖かいカップに琥珀色のお茶が注がれる。
「不思議なことに私の手元に集まる妃殿下のお話がどうにも奇妙なものばかり。陰気で根暗。いつも何かを気にして不気味。たまに社交の場に出てみれば孤立している、と。寝所では別の顔をもっているとか」
「王妃殿下は決してそのような方では」
「その通り」
  敢えて礼儀を無視してアスナはセギン男爵の言葉を遮った。
「私も実際にお会いして紛れもない嘘だと理解しました。小さい子は大人が考えるよりも嘘が上手です。ですが、嬉しいことや楽しいことへの嘘だけは下手くそです。姫の話にはいつも母君のことが出ていました。それで私は妃殿下のことを見誤らずに済みました。お詫びとして滞在中は出来る限り姫君と楽しく過ごしていただきたい、と思っています」
「はっ」
「根暗なのは物静かなだけ。何かを気にしているのはベルーリア姫やアクトゥス王陛下を思っておられるからでしょう。悪評が流されれば社交の場で孤立するというものです」
  口の中にある言葉の苦みをお茶が洗い流していく。吐息一つ。
「噂はアクトゥス王宮からのものだとのことです。本当かどうかは別として、私の耳にそういった形で妃殿下の噂が届いている」
  これはグレイフィル王妃の噂だけではない。
  ラインボルトへの悪態も多くある。戦争に巻き込んで磨り潰させてやれとか、人族に身売りをした愚かな国だとか、そのまま乱が続いて竜のエサになってくれれば良かったのになどなど。聞いていて楽しい噂話ではない。
  セギン男爵はこの辺りの噂話も耳にしているはずだ。そして、アスナが敢えて話題にした意味も分かるだろう。
「男爵、これはどういうことかな?」
「私には皆目見当がつきません」
  彼の立場ならばそう応えるしかない。
「妃殿下の為人を知ったから親切にしようと思った。しかし、このままだと、私は悪女に誑かされた愚か者だ、と噂されるかも」
「決してそのようなことはありません」
「ただの噂話だ。気にしないで欲しい。それに何かあれば仲の良いご家族を助けられれば、それで良い話だし」
「…………」
  これで面白くない噂話はこれで幾らか抑え込まれるはずだ。
  あまりにも酷いため、何かしらの陰謀が働いているとラインボルトでは考えている。
  そんな中へ入って行くのは不安だ。それにこれは海王への援護射撃になるはずだ。
  ラインボルトまで響く悪評のある王妃を丁重にもてなし、名誉回復に一躍買った。
  あとはアクトゥスがどう動くか眺めていれば良い。
  残ったお茶を飲み干し、晩餐会の最後にアスナはこう思った。
  ……あぁ、お茶漬け食べたい。

 



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