第五章

第十一話 影法師は背が高い

 翌日からも行事が続く。
  午前には名家院議長と大法院院長から祝いの言葉が送られ、アスナは抱負を語る。
  この抱負はアスナ自身が考えて一から作成したものではなく、方針を示して後は秘書官たちが過去の文例集から引用して作成したもの。
  むしろ、淀みなく多数の前で読み上げることの方が苦労した。
  そして、午後には首都郊外にある離宮で園遊会がある。
  先夜の晩餐会が外国使節団向けであるとすれば、こちらは国内向けだ。
  貴族や要職経験者、名家、晩餐会に出席しなかった議員などが招待される。
  官民合わせて千名を超える人数が一堂に会する。
  こちらは立食形式で出される料理も軽食が中心だ。庭のあちこちに卓や敷物が用意され、誰もが思い思いの場所で談笑に興じている。
  酒の入らない花見会。そんな印象をアスナは抱いた。
  通例に従えば、園遊会で酒は出さないのだが、ディーゲン市を制圧の報せが入った祝いだとして少量だけ出されていた。
  僅かであっても酒は人の緊張を解す効果がある。初対面であっても戦勝の話題を切欠にして談笑が始まる。先夜のやりとりで疲れたアスナの気分を解してくれた。
  アスナはこの中をエルトナージュとともに回った。
  特に印象に残ったことは亡くなったロゼフ市長の子息、エイリアに蹂躙されたアシン、今も避難生活を続けるムシュウの代表者たちとの歓談だ。
  ロゼフ市長の子息には降伏云々については苦渋の選択だったと分かっている。他の地域と差を作るようなつもりはないと告げて安心させた。
  また、アシンにはアジタ王より頂戴したたくさんの贈り物を換金してアシンのための予算に充てる許可を王から貰っていると教えた。
  ムシュウについては幾つか考えがあり、いま内閣で検討させている。誰もが満足できる結果にはならないだろうが、今はそれで耐えて欲しいと訴えた。
  三者とも安心したとは言えない顔をしたが、様子を見てみようという気にはなってくれたようだった。
  一通り挨拶を終えたら、あとは気楽なものである。
  場所を東屋に移して食事を摂り、事情で遅れた者から挨拶を受け、出席できなかった者からの手紙に目を通す。
  東屋の四方は開け放たれているため、その様子が丸見えだ。
  ……動物園のライオンになった気分だな。
  と、内心で苦笑してしまう。
  貴族たちから贈り物を受け取り、地元自慢に耳を傾ける。
  贈り物は物品だけではない。貴族たちが講演している演奏家であったり、芸人を披露することも含まれる。
  貴族にとって、自分が見出した者を世に送り出すことも名誉の一つなのだ。
  アスナはそういった者たちにおひねりを送り、紹介した貴族に丁寧に礼を述べた。
  特に気に入った演奏家などはこれから催される小さな茶会などに呼べるように、彼らの名を書き残しておいた。

「子どもたちのことお気遣い下さり、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
  晩餐会の後、賢狼公ヴォルゲイフからこっそりとそう告げられた。
  賢狼の兄妹が王城での滞在が認められたのだ。
  二人が後宮に入るのは園遊会の翌日から、御付は以前と同じ顔ぶれとのことだ。
  内大臣オリザエールの案内を受けて後宮を訪れたのは朝食後、暫く経ってからだ。
  アスナたちは入り口まで二人を出迎えた。
  記憶の中にある光景とあまり変わらないのだろうか。二人とも懐かしそうな顔で廊下を見回している。
  アスナたちの姿を見つけた二人は笑みを浮かべた。
「お二人とも我が家にようこそ。そして……」
  隣に立つエルトナージュに水を向けた。
「お帰りなさい」
「あぁ、……そう言って貰えるととても嬉しい。お邪魔する。そして、ただいま」
「はい。ただいま戻りました」
  二人とも嬉しそうにそう言った。ニルヴィーナの目元は少し潤んでいるようだ。
「ヴァイアスとミュリカ、それにストラトさんは紹介はいらないかな」
「執事長殿、壮健なようでなによりだ。また暫く世話になる」
「またお二人のお世話ができる日が来るとは。嬉しく思います。滞在中、お心安く過ごしていただけるよう務めて参ります。なにかあればどうぞ、ご遠慮なく」
「あぁ、そうさせてもらう」
  続いてアストリアはミュリカに声を掛けた。
「ミュリカも元気だったようでなによりだ。ラディウスとの戦いの事はサベージにも届いている。麗しい魔導士がラディウスの騎兵隊を返り討ちにした、と」
「ご無沙汰しています、アストリア様。ですが、一つだけ訂正です。ラディウス軍は私たち近衛騎団全員で殴りつけたんです」
  彼女は小さく殴る仕草をした。
「そうだな。その通りだ。……で」
  ヴァイアスに顔を向けた途端にアストリアの目が半眼となった。
  それに応じてヴァイアスも目つきが剣呑となる。
「随分と出世したようだな、ヴァイアス」
「ありがとうございます。犬若様もディティン公に任じられたと聞いております。心からお慶び申し上げます」
「時間の流れはありがたいな。礼儀を知らない子どもがそれなりに祝意を述べられるようになったか。さすが近衛騎団、良い教育をしたようだ」
「これは我ら近衛騎団をお褒めいただき恐縮です。団長としてお礼申し上げます。宜しければ、また幼い頃のように転がして差し上げましょうか」
「お前だって、転がされてたじゃないか!」
「違う! あれは受け身を取っていただけだ」
  などとやり取りを始めた二人をアスナは放置することにした。
「で、ニーナ。彼女がサイナさん。もう一人の恋人」
「まぁ、そうなのですか」
「って、放置か。アスナ!」
  と、戻ってくるヴァイアスにめんどくさそうな顔を見せる。
「そういうのは一昨日の晩餐会でお腹いっぱいなんだ。御付の二人はニーナに紹介して貰うから。二人は好きなだけ庭で転がってれば良いよ。エルとミュリカが懐かしそうな顔してるし」
  指摘すると二人は礼儀正しくほぼ同時にそっぽを向いた。
「こういう方だったのか?」
「時々、こんな風にめんどくさがって適当な扱いされることがあるんだ。気を付けてもどうしようもないが、気を付けろ」
  などと、ひそひそ話を始める二人を放置してアスナはニルヴィーナに促した。
「では、ヴァイアスにはお兄様の相手をしていただくとして」
  ニルヴィーナは一礼をした。その仕草は優美だ。
「賢狼公ヴォルゲイフの娘、ニルヴィーナ・イーフェスタです。兄、ディティン公ともどもよろしくお願いしますね」
  そうして花開いたような笑顔を見せた。
「サイナ・ウィーディンです。近衛騎団においてアスナ様の護衛の任に就いています」
「ということは戦場でのアスナ様のお姿を?」
「存じております」
「どのようなお姿だったのかしら、私も知りたいわ」
「ニーナ、それは」
  エルトナージュが止めに入るが、サイナはニルヴィーナに思うがままの言葉を言葉を伝えた。
「アスナ様は戦いを歴て、私たち近衛騎団を我が剣、我が盾とされました。兄君やそちらの騎士殿が鍛錬されている姿をご覧になったことがあれば、想像が付くのではないかと」
「そう。……えぇ、それは素晴らしいことね。素敵だわ」
「はい。我らが誇りです」
「素敵なのは貴女もよ。ねぇ、貴女のことをサイナって呼んでも良いかしら」
「はい、姫様」
「ありがとう。それでね。私のことはニーナって呼んで欲しいわ」
  サイナは判断に迷い、無言でエルトナージュに伺いを立てた。
「ニーナがそうして欲しいと言っているのだから。そうして良いのよ」
「分かりました。では、こちらにいらっしゃる間はニーナ様と呼ばせて頂きます」
「よろしくお願いしますね」
「はい、ニーナ様」
  笑顔の交換がなされ、ニルヴィーナは自分の背後に立つ男女を振り返った。
「オーリィ・イムサ。護衛役の騎士です。フェイ・タウト。侍女を務めて貰っています」
  ニルヴィーナの紹介を受けて、二人はアスナとサイナに丁寧な挨拶をした。
  オーリィは硬質な雰囲気を持っているが、陽の光を受けて暖かくなった岩のように感じる。フェイは温顔の優しげな顔立ちの少女だ。
「二人の事はエルたちから聞いてる。アストリア殿たちと同じように寛いで欲しい」
「ありがとうございます、殿下。フェイともどもお言葉に甘えさせて頂きます」
  実直な声音なのだが、フェイの名を呼ぶ時だけは優しさが感じられた。
「最近、二人は婚約したんです」
「おめでとう。なにかお祝いしないとか」
「アスナ」
  エルトナージュから注意される。
  王様が個人的な贈り物をすると妙な邪推をする者がいるのだ。
「分かってるって。けど、夕食に美味しいのを用意するぐらいは良いだろ」
  食べてしまえば、残るのは思い出だけだ。
「それなら、大丈夫ですね」
「エルも納得したってことで、後宮にいる間にお祝いさせて貰うから」
「ありがとうございます、殿下」
  面映ゆそうにオーリィは礼を述べ、フェイは隣で丁寧に頭を下げた。
  仲がよい二人を見るのは和むものがある。
「副王殿下、そろそろお時間です」
  少し距離を置いて待機していた内府が声を掛けてきた。
「分かった。それじゃ、アストリア殿、行こうか」
「行くとはどこに?」
「閣議に」
「今日からなのか」
「それじゃ、行くぞ」
  と、赤毛の青年の肩を押して歩き出した。振り返って女性陣に顔を向けた。
「あとはよろしく」
「そちらもしっかりやってきてくださいよ」
「分かってる〜」
  ひらひらと手を振ってアスナは仕事に向かったのであった。

「こんなに早く見学が許されるとは思わなかった。無理をさせただろうか」
  横に並んで歩くアストリアが小さく頭を下げた。そんな彼に手を振って否定する。
「そんなことないよ。思ったよりも早くディーゲン市が手に入ったし、あとは冬ごもりだけ。常識的すぎて秘密にもならないし、現地でのことは大将軍に丸投げしてるしね」
「ゲームニス殿の武威は健在か」
「そういうこと。内乱中から”彷徨う者”退治から今も走り回って貰ってるよ。冬の間に英気を養って貰わないと」
  ああ、そうだ。とアストリア向けの注意を思い出した。
「挨拶とか感謝の言葉とかそういうのはいらないから」
「いや、そういう訳にはいかないと思うのだが」
「普段の閣議の様子を見せるんだし。隣国の貴公子相手になんだけど、閣議室に入ったらいないことにするから。それと秘密厳守の書類に署名してもらうから。一枚はうち用、もう一枚はサベージ用の二枚。あとは部屋の隅に席を用意するからそこで見学しててくれ」
「承知した。だが、改めて言わせて欲しい。見学を許してくれて感謝する。私も領内の会議に席を与えられるようになったんだが、どう振る舞えばいいか、な」
「大人に囲まれる大変さは分かるよ。ただ、そういうことなら、あまり参考にならないかも」
「どういうことだろう?」
「……見てれば分かるよ」
  これから待ち受けていることを思うと気が重い。
  だが、これも王様の務めでもある。
  閣議室で諸大臣たちに迎えられ、アストリアに書類の内容確認と署名をして貰う。
  アスナと宰相シエンも書類に連署した。これで手続きは完了だ。
  アストリアが無言で一礼をし、用意された席に着いたところで閣議が始まる。
「それじゃ、始めようか」
  アスナの口調が若干重い。右手に座るボルティスがいつも以上に金属的な硬質を感じる。
「はっ。では、就任式から本日までについてから始めます」
  シエンは処理すべき通常の案件であるかのような口調である。
「各国使者への挨拶と応対は概ね好評のようです。特にリーズからの押しつけは上手に避けて頂き安堵しております。ですが……」
  きたか! と、アスナは若干身を固くした。
「賢狼公への応対は些か行きすぎがあったように思います」
「えーっと、あの件はなかったことになってると思うんだけど」
「それはそれです。あのお話はイーフェスタ家御家中のこと、賢狼族、獣人の仲でのこと。なにより他国のことです」
「それじゃ、どうすれば穏便に?」
「姫君を叱責された後、賢狼公は殿下に場を乱した事を謝罪されたでしょう。その時に殿下から何もなかったことにしようと提案されれば良かったかと」
「けど、エルの友だちが怒られてるのを見てるのだけってのはさぁ。それに気持ち悪いとかじゃなくて、可愛いんだし。別に無礼でもないんだから良いと思うんだけどなぁ」
「それは個人としての美徳です。殿下はすでに副王。領分を守っていただかねばなりません。以後、お気を付け下さい」
「宰相殿の言うとおりじゃな。この手の問題に口を挟んで予想もしない酷い事になる。そういうこともある。賢狼公もその辺りを弁えておられたからアスナ殿の言葉を受け入れたんじゃろう。小さな火種を消そうと息を吹きかけたら、火の手が大きくなった。そういうこともあるんじゃよ」
  続いてボルティスからも注意をされる。
「……反省します」
「セギン男爵の件もです。あの場には諸外国の使節が集まっています。その前で叱責されては面目を失います。下手をすればアクトゥスの宮廷で数代にわたって孤立することもありえます。苦情は内々に伝えた方が良かったかと」
「だが、王妃をあの場で誉めたことは良かったと思う」
  ラインボーグから笑みと一緒にお褒めの言葉を貰う。
「アスナ殿の擁護のおかげで、少なくともエグゼリス滞在中、粗略な扱いを受けることはなかろう。五大国の王妃なのだから、ようやく正統な評価を受けられるといったところかもしれんがね」
「内府殿からセギン男爵に、妃殿下への忠勤を示すように伝えて頂き、送別の宴の折に殿下より格別のご配慮があれば面目を取り戻せるでしょう」
「具体的には?」
「形に残る品と小さな特権を与えればよろしいかと」
「となると、宝剣とか?」
  今回、諸外国からの贈り物で一番多かったのが宝剣だ。
  剣そのものはごく普通の代物だ。宝に相当するのは鞘の方。
  金や宝石が散りばめられた煌びやかなものなのだ。
「一般的に宝剣は王や武功のある方へ贈る品になります」
  常と変わらない口調でオリザエールが補足説明をする。
「セギン男爵はこれといった武功のある方だとは聞いておりません。殿下愛用の茶器一式と絨毯、夫人宛に色糸を下賜されればよろしいかと存じます」
「俺愛用って、あれ?」
  壊れ難い厚手のマグカップだ。それを贈られても困るのではないか。
「茶会でお使い頂く茶器をお贈り下さい」
「そういう風に愛用ってするのか。後は特権か。特権なぁ。……あの人、自分が条約の交渉役に加われるようにうちの議員と話してるんだろ。だったら、……そうだなぁ。貴殿が友人とともに我が国へ来訪してくれる日を楽しみにしている。とでも言えばいいかな」
「十分な配慮となります。交渉団に彼を選ぶかはアクトゥスですので」
  こほん、とシエンは態とらしい咳払いをしてみせた。
「正しい発言であっても、時と場所を選ばねば毒となる。それを心にして下さい」
「頑張ります」
  今回はアストリアの目があるから控えめだった。
  常であれば、過去の事例をボルティスが出すので説教がもう少し長くなる。
「アスナ殿も反省したようだじゃから、そろそろ本題に入ってはどうかな。宰相殿?」
「では、まずはロゼフとの戦争について。軍務大臣」
「はっ。配付資料をご覧下さい。北方総軍は予定通りディーゲン市の制圧を終了し、武装解除をしているところです。周辺地域の攻略と砦の建設、越冬の準備を開始しています。攻略による死傷者は想定内に収まっており、負傷者も冬の間に復帰できる見込みです」
  資料には想定と実際の差違についての報告が纏められている。
  想定よりも死者は若干少なく、負傷者はその代わり多く出ている。
  戦闘不能なまでの重傷者も少なく済んだようだ。
  魔法で市壁を集中して破壊して穴を開け、そこから飛び込んだという。
  ロゼフ側はこの市壁に自信があったようで、その衝撃から立ち直り、また右往左往する市民たちの存在もあって組織的な抵抗が出来なかったようだ。
  市長と防衛隊指揮官は連名で条件付き降伏を大将軍ゲームニスに打診。
  その条件とは市長と役人、士官たちと家族の生命財産の保証であった。
  ゲームニスはそれを受け入れ、戦後処理を行っている最中にある。
  新たに得た捕虜のうち不虞となった者は解放し、そうでない者は様々な作業の手伝いをさせることになる。
「物資の備蓄は?」
  アスナの問いに軍務大臣は即答する。
  自分たちの君主が特に兵站面を気にしていることと知悉している。
「若干の遅れが出る見込みです。道が悪く輸送に苦労していると報告を受けています」
「こっちで出来ることは?」
「現地に任せた方が早く解決するでしょう。何かあればすぐに支援要請を出すよう、再度通達しておきます」
「ん、分かった」
「戦争は順調に推移しており、本国から特別の命令を出す状況ではないと判断しています」
  続いて、シエンは外務大臣に手を差し出して促した。
「はい。今回の就任式に訪れた使節団から幾つか案件が持ち込まれています。検討会を開く許可を求めます」
「許可します。事前交渉の可否に関わらず使節団が帰国する前に結果を伝えられるように予定を立ててください」
「わかりました。続いて、ラディウスの件ですが、例年ならば使者が来ていたのですが、今回は来ていません。ロゼフからもです。いかがしましょうか」
  争っていても慶弔では使者を送り合う。それが最低限の礼儀だとされている。
  和平交渉や捕虜交換、首都の様子を大手を振って見聞できるまたとない機会だ。
  それがなかったということは相手方に何らかの混乱があるか、対決姿勢が色濃く示している証だとも言えた。
「近衛騎団に一撃加えられたことで使者を出せない雰囲気なのかもしれませんね。あちらの宮廷からの情報は?」
「意気軒昂に貴族たちは出兵を叫んでいますが、ラディウスのご当主にその気はないようです。ただ、ラメルへの出兵は貴族たちに押し切られた面があるようで、用心は必要です」
「つまり、エイリアともども使者を出さなかったのは、宮廷を鎮めるため、ですか」
「そういう見方の方が自然かと。諸国から噂話を集めていますが、兵や物資の移動は起きていないようです」
「軍も同様の結論を得ております」
  この報告を受けて宰相は頭に手を当てた。数秒の沈思の後、静かに考えを口にした。
「……ムシュウに避難民を戻してみましょうか。以前、通商大臣から提案があり、棚上げしていた話です」
「あぁ、あれね」
  何時までも避難生活は続けられないとして、様々な伝手を頼ってムシュウ市民が少しずつ散逸しつつある。それを食い止めるためにも避難民を戻そうという話だ。
  結局、予算の話となり棚上げとなっていた。
「”彷徨う者”に襲われた人々への慰霊式は準備を進めています。中止のご指示がない限り、今週末までには日取りを決定できる運びとなっております」
  ラディウスが駐留している理由が”彷徨う者”討伐だ。
  それが完了した事を諸外国に報せるためという意図もある。
「軍としましても追加予算を頂かなければ、籠城に自信が持てません」
「それは記憶しています。……内府殿。式典の延期は可能ですか?」
「可能です」
「外務卿、私の名でラディウス式典への招待状を出しましょう。ご当主とラメルの指揮官宛に一通ずつ。来なければ諸外国への印象が悪くなる、来れば彼らの名分が消失します。撤兵論を唱える者たちの声を大きくできます。要は彼らがラメルから動かなければ、それでいいのです」
「こういう言い方は殿下にお叱りをうけそうですが」
  内務大臣が挙手をして発言をした。表情に若干の苦さがある。
「”彷徨う者”による災いが去った証として市民を戻すと式典で発表してはどうでしょう。災禍を乗り越え、ラディウスも近日中に撤退するだろうと信じる。これはその証だ、と。万が一、これでもラディウスが進軍を開始したのならば、全ての責任を彼らに押し付けることができます」
「善意と信義を盾にする、か。悪くはないですね。実際にそうする訳ですし」
  深く頷いて、シエンはアスナに身体ごと向き合った。
「この方向で検討を始めます。見込みありと判断できた際には私の名で親書を出します。お許し頂けますか」
「オレの名前で出した方がよくないか?」
  何かしらの原因で失敗すれば、帰ってきたムシュウの市民たちが被害を受けるのだ。
  ……アストリアが見ているのに随分と踏み込むんだ話だな。
「殿下の御名ですとラディウスの宮廷の機嫌が過度に悪くなります。私程度で十分です」
「……分かった。任せる。この話は事後報告で良いよ」
「ありがとうございます。では、次……」
  このように普段とあまり変わりない雰囲気で閣議は進められた。
  幾つかの案件が了承され、それより多くが経過観察ということになった。
  最後に議会からの質問主意書への答弁書が閣議決定され、一通り終了となった。
「ディティン公、これより機密に関わることを議題とします。退室をお願いします」
「承知した。見学を許していただき、心より感謝申し上げる」
  深く頭を下げた彼に諸大臣たちも礼を示す。
「控え室で待っていて欲しいけど、疲れたなら部屋に案内させようか」
「いや、待たせて貰う。では、後ほど」
  キビキビとした気持ちの良い所作でアストリアは閣議室を後にした。
  扉が静かに閉まると同時に、諸大臣たちから緊張が解けたように感じられた。
「で、機密って? 予定じゃ今日はそういう話はないはずだったけど」
「ディティン公に、本日の経験をより得難いものだった、大きな借りを作ったと思っていただくための時間です。ムシュウの件を話したのもその一環。今、あの話よりも重要なことが話し合われていると思っていただければ、我が国にとってはありがたいです。十年、二十年先、ディティン公が賢狼公となられたら、いや獣王となられた時に効果を発揮してくれるはずです」
「そういうことね。アストリア殿って、義理堅い性格っぽいし」
  シエンは応えの代わりに人の悪そうな笑みを見せた。そして、背後に積んでいる書類束を指し示した。かなり分厚い。
「私たちは議会対策の協議を行います。その間、使節らに出す招待状にご署名をお願いします」
「うへぇ」
  軍の公開演習でラインボルトの武威を示し、狩猟会では諸外国から来た随行の騎士たちに花を持たせる。そして、茶会では晩餐会で主賓席に座っていた者以外と交流する。
  他にもこういった行事の合間に昼食会や観劇などがあって目まぐるしい。
  とはいえ、こういったことの積み重ねが親ラインボルト派を作ることになり、ひいてはラディウス軍のラメルからの撤兵を促す圧力となる。
  次々と招待状に署名していく。アクトゥス関係者の名前がふと目に入った。
「今更だけど、なんでオレたちがアクトゥスに援軍出さないといけないんだ?」
  濃い困惑を帯びたざわつきが起きた。
「いや、こっちの大陸にリーズが拠点を持たないようにするためってのは分かってる」
  幻想界には皇竜海を挟んで二つの大陸が存在している。
  一つはリーズがその大半を領有する北の大陸。
  そして、もう一つがラインボルトなどが割拠する南の大陸だ。
  この二つの大陸を皇竜海が分断しているのだ。
  皇竜海は広く、そしてこの海には多数の海棲魔獣が潜んでいる。
  如何に竜族と言えども空を飛んでこれを渡りきることは困難。しかし、南の大陸にリーズが橋頭堡を得れば話は別だ。大空の覇者として再び南の大陸を席巻することになる。
  この共通利益があるから協力せねばならない。
「けどさ、オレがこっちに来てすぐの時、ストラトさんから説明を聞いたんだけど、ラインボルトって五大国の中で一番弱いんだろ。個々人の実力じゃ負けないけど、軍隊っていう集団になると種族ごとの特徴を活かせなくて後れを取るって聞いたんだけど」
「その疑問の答えは歴史にありじゃな。簡単にアクトゥスの成り立ちを解説しよう」
「お願いします」
  ボルティスは閣議室に用意されている無地の紙にアクトゥスの地図を書いた。
  西に大島とそれに付随する小島があり、海峡を挟んで大陸の西端が描かれる。
  北にはリーズが奪おうと戦を仕掛けているホーシェクト島がある。
  これがアクトゥスの全域だ。この地図には点線で区分けがされている。
「海聖族の国、アクトゥスはこの大島から始まる」
  ペン先で西の大島を指し、ブレンティル島と書き加える。
「幻想界の沿岸域にて広く薄く生活圏を得ていた彼らはこのブレンティル島で、とある大発見をした。この島には海の中からしか入れない大空洞があったんじゃ。儂も何度か招待されて行った事があるが、それは巨大で広大な空間じゃった。そして、何よりも美しい。それもそのはず。この巨大な空洞は二枚貝できておったんじゃ。調査をしてみると、どうやらこのブレンティル島は幾つかの貝殻のに土が堆積して出来た島だと分かった」
「さすが幻想界。貝まで訳が分からないデカさだ。今、海のどこかにその貝の子孫がいるのかな」
「いるかもしれんな。海聖族も生きた巨大貝は発見しておらんようじゃがな。……さて、話を戻そう。海聖族はそれまで幻想界に広く住んでおったが、地方ごとに見れば弱小勢力でしかなかった。竜に襲われ、魔獣に襲われと随分と苦労しておった。そんな彼らにとって誰も手出しできない地が見つかったことは種族として最大の幸運じゃった。この話は瞬く間に海聖族の間で広がり、彼らの多くがブレンティル島に集まり、アクトゥスを建国したんじゃ」
  巨大な二枚貝に守られた国。幻想界で最も不思議を感じる国かもしれない。
  海からしか行き来でないらしくアスナでは訪問できそうにないのが残念だった。
「一大勢力となったアクトゥスはブレンティル島を制覇し、その対岸も手中に収めるに至った。が、そこでリーズの目に止まってしまった。リーズはアクトゥスを支配下に置こうとして戦いを挑み、海聖族は必死にそれに抵抗した。戦いは長く、長く続いた。確かに竜族は強大じゃ。吐き出す炎は森を焼き払い、雷撃は全ての者を撃ち貫き、氷結は何もかもを凍てつかせる。しかし、相手が海の中となればそう簡単にはいかん。長い膠着状態の末、リーズが折れた。服属すれば自治を認める、とな。アクトゥスはそれを受け入れ、当時のアクトゥス王はブレンティル伯爵となった。それから長い間、海聖族は各地から収集された献上品をリーズ本国へと運び込む水夫として駆り出されることになったんじゃ」
  そんな日々があることを切欠に終わりを告げることになる。
「ラインボルトの建国とリーズ本国での後継争いが元で支配体制が崩壊。ラインボルトの後に続けとばかりに各地で争いが起き、勝利の度に国が誕生し、消えていった。南の大陸の勃興が落ち着きを見せた頃、北の大陸でも群雄割拠する時代に突入していた。かといって繁殖力に乏しい竜族同士で争うのはあまりにも不毛。よって、リーズは南の大陸で暴れ回り、その武功を持って自分たちの武威を示す手法を取ったんじゃ。他人の争いに巻き込まれるのはまっぴらだと考えたアクトゥスは過去にリーズから伯爵位を得ていた事を思い出し、中立の立場だと宣言をした。これが思いの外、竜族の中で効果を発揮した。アクトゥスを取り込み配下に置くことが過去の栄光を見せたんじゃろう。竜族同士の牽制を利用して、アクトゥスは局外中立という形での安全を得た。となると近隣もそれに加わりたいと思っても仕方がない。アクトゥスの近隣国家は談合をし、連合王国を成立させようという結論に至った。所属国の王権はそのままに、連合王国全体での意思決定は議会とアクトゥス王の決断によって行う体制を作った。こうして現在のアクトゥスという形が出来た」
「つまり、こういうことでいいのかな」
  無地の紙に傘をさす人の絵を描き、傘には「海聖族」、それを持つ人には「連合王国」と書き添えた。
「外から見るオレたちには傘しか見えないけど、中では何人もの王様が支えてる」
「中々面白い略図じゃな。では、この絵を使って現在の状況を解説しよう」
  ボルティスはこの傘をさす人の絵に雨を描き加えた。これに「リーズ」と書く。
「海聖族は様々な形でリーズからの脅威から連合王国から防いでいた。が、今上プライオス一世の先代の頃から始まったホーシェクト島を巡る争い。当初はアクトゥス海軍の働きにより防ぎきっておった。が、しかしリーズは連合王国への奇襲に成功させ、幾つかの街を焼き払い悠々と帰っていきおった。つまり、傘に穴が開いてしまったんじゃ」
  傘の絵に小さな円と「奇襲成功」という文字が加わる。
「先代海王はこの穴を修繕しようと、奮戦したが無理がたたって崩御された。連合王国の王たちはこう思った。果たして、このまま海聖族に任せていて大丈夫なのか、とな。自分たちが雨に濡れぬように彼らは独自に動き出してしまった。海王は雨を防ぎ、穴を塞ぎ、無闇と傘がクルクルと回されぬようにと奔走しておられるという訳じゃ」
「で、その穴をオレたちに塞いで欲しい、と。なんだかなぁ」
「我が国がすぐに援軍を出せないことと同じ状況がアクトゥス国内で起きている、とお考え下さい」
  と、シエンが捕捉をした。
「そう言われると分からなくもないかなぁ。いっそのことオレたちで、その連合王国を食べてしまった方が楽かも」
「殿下?」
「冗談だよ。けど、海聖族を傘だって見ているとしたら、破れた傘の代わりに新しい傘に入りたがるかもなぁ、って思っただけ」
「今日のアスナ殿は随分と頭が冴えているようだ」
  クツクツと竜大公ラインボーグが蜷局を巻いた姿でくつくつと笑った。
「八代目は酷いなぁ」
「これは失礼」
  しかし、笑いは止まらず、長い髭も揺れる。
「如何かな、宰相殿。アスナ殿の今の思い付き、頭の体操には良い案件だと私は思うが」
「そうですね。……何の準備もなく申し込まれて困惑するより、取り越し苦労をした方がまだましというもの。分かりました。研究させてみましょう」
  宰相シエンがそう請け負った。興味深いというのが表情から見て取れた。
「うわ。こういうのが瓢箪から駒、っていうのかな」
「なかなか面白い表現じゃな。思いもしなかった事が起きた、とかそんな感じかな?」
「そう。さすがご老公」
  と、そこに扉を叩く音がした。
「何事だ」
  シエンの問いに即座に返事がある。
「軍師殿が至急副王殿下のお耳に入れたいことがあるとのことです」
  軍師の言葉を耳にした諸大臣たちは渋面を隠さなかった。
  ある意味、枷を持たず素性も怪しい男が出入りすることに思うところがあるのだ。
「如何なさいますか、殿下」
「ここで聞く。LDを連れてきて」
「承知しました」
  程なくして黒い装束と外套を羽織った美丈夫が閣議室に姿を現した。
  最近はロゼフ方面であれこれと動いていたこともあり、久しぶりに彼を見た気がする。
  入室するや彼はアスナの前で恭しく膝を突いて頭を垂れた。
「副王へのご就任誠におめでとうございます。殿下のご威光とは遠くロゼフの地まで届き敵将兵を震え上がらせております」
「ありがとう。けど、敵が震え上がってる原因はオレじゃなくて絶対に冬の寒さのせいだから」
  軽口を付けて返した。
「それで報せたいことがあるって聞いたけど?」
  話を促すと彼は懐から封書を取り出してアスナに差し出した。
  見た目からもかなり上質の紙だと分かる。封蝋されており、そこには紋章がある。
「ロゼフのシャイズ侯爵が内応を申し出てきた。彼はロゼフ王の従甥、つまり王の従弟の息子だ。自分の領地と勢力圏には手出しをしないで欲しい。その代わりに隣接地域へは手出しをせず得た情報は出来る限り流してくれるそうだ。アスナと会って和睦について話をしたいとのことだ」
「ふむ」
  ペーパーナイフで封を切り、中の書状を確認する。
  便箋には封蝋にされていたものと同じ紋章の透かしが入っている。
  一目見て、すぐにアスナはシエンに渡した。
「流暢な書体過ぎて読めない」
「では、失礼します。……内容は軍師殿の言葉の通りですな。もう少し踏み込んで解釈をすれば、侯爵閣下は謀反を考えているようです」
「はぁ!?」
「ロゼフの臣であれば、和睦に向けて労を厭わないといった両者を取り持つ表現になりますが、殿下と直接和睦について話をしたいということは、自分が和睦の相手であると宣言していると考えて良いでしょう。つまり、自分が王となるので、その時には和睦をし王と認めて欲しい。そういうことではないでしょうか」
「LD、この辺りの事情を本人から聞いてないわけ?」
「まさか。私如きが侯爵に目通りできる訳がないだろう。侯爵の使者から手紙を受け取り、内容を口頭で聞いた。それだけだ。ただ、野心だけではないと思っている。根拠のない勘だがな」
「情報収集して要検討が無難か?」
「軍務から宜しいでしょうか」
  挙手をした軍務大臣が自分の考えを口にした。
「私の名で和睦以外の事項を受けるというのは如何でしょうか。越冬の安全がより高く確保できるに越した事はありません。約定の遵守が和睦への道と含みを持たせれば否は言わないのではないでしょうか」
「LD、期日とか聞いてる?」
「聞かされていないが、出来るだけ早く回答を貰いたいだろうな」
「それじゃ、検討して侯爵からの申し出を受けるって決めた場合は、軍務大臣の提案を叩き台にしてこっちの回答の仕方をどうするか考えよう。検討続きで大変だけど、期限はリムルの出発まで」
「明日から検討会を開始いたします。軍師殿、それまでに報告書の提出を。口頭での報告もしてもらうのでそのつもりで」
「承知した」
「それと殿下。そろそろ次のご予定に。ディティン公が待ちくたびれておられるでしょう。それに軍師殿が飛び込んできたことで目的は達せられたと判断します」
  たったそれだけのことでLDはシエンの意図に気付いた。
「なるほど、宰相閣下は随分と人が悪い」
  そんなことを口にするLDの方がよほど人の悪い顔をしている。
  アスナはそんな大人たちに苦笑いをするしかない。
「あぁ、そうだ。内府、LDにお小遣いをあげておいて。今回のご褒美ってことで」
「承知しました」
「これはこれ。副王殿下のご高配には言葉もありません。今後も御身のために尽くすことをお約束いたします」
「はいはい。それじゃ、そういうことで後はよろしく。執務室にいるから、何かあったら遠慮無くよんでくれ」
  諸大臣たちに見送られてアスナは閣議室を出た。
  そうして言葉少なくアストリアと労いの言葉を交わし、連れ立って自分の執務室へと向かったのだった。

 執務室に戻るとアスナは少々乱暴に自分の椅子に身体を預けた。
  革張りの椅子はそんな主の仕打ちが何でもないかのように受け止めた。
「あぁぁ〜。疲れた」
  アスナから見て執務机の右側には同じように腰を落ち着けたアストリアがいる。
  背筋を伸ばした姿勢は非常に凛々しい。だらしなさを振りまくアスナとは好対照だ。
  しかもそんな彼をアストリアは笑って見過ごしている。
「いつもはもうちょっとお説教が長いかなぁ。それ以外はあんなもんだよ」
「そうか。国が違えば変わるものなんだな」
「やっぱり、違うもんなんだ」
「陛下ご臨席の朝議は人伝にも聞いた事がないから分からないが、領地の会議はもっと物事が進まない。重臣たちと領主たちから選んだ参議が一堂に会して行うんだが、それぞれに意見を言ったり言わなかったりと中々前に進まない」
  想像すると色々と一つに纏められてしまっているように感じる。
「詳しくないから正しいかは分からないけど、議会と行政府が一緒くたになってるからかもな。うちでいえば重臣の人らは大臣で、参議が議員。それぞれ立場が違うのに一緒にすれば纏めるのに時間がかかるさ」
「参議を増やす代わりに議会として分離させるか」
「けど、そうすると賢狼公の権力は減って、配下の領主の発言力が上がるだろうけどね」
「それは……そうか」
「ラインボルトの領主は王家と大公、あとは一部例外の家ぐらいだから、参考にし過ぎてもダメだと思うよ」
  それに、とアスナはポンポンと執務机を指先で叩いて話を続けた。
「賢狼公は選考会をやって決めるんだろ。そうなるとオレみたいな素人が次の賢狼公になるかもしれない。そんな時、議会なんてのがあったら素直に言うことを聞くかも分からないし。試行錯誤した結果、今のがやり方が無難なのかもしれないし」
「とは言え、ああいう素早い決断を見せ付けられるとな。何かもっと良いやり方があるのではないかと思うんだ」
「思うところを賢狼公に話してみたらどう。今は見習い期間なんだから、父君だけじゃなくて、重臣にも思い切り迷惑をかければ良いよ」
「だが、隣国に優秀な王が現れたとなると色々と比較されるんだ」
  若干、ジト目気味な視線で睨んでくる。
「王子様は大変だ。けど、ホント今の立場を活用した方が良いよ。オレみたいにいきなり王様やるよりも苦労しないで実力付けられると思う」
「その一環として父に頭を下げて貰って、こうして見学させて貰ってる訳だ」
「うんうん。しっかり勉強して立派な賢狼公になってくれ。東にまで問題抱え込みたくないし」
「よろしいのか。そんなことを教えてしまって」
「教えるも何も誰でも知ってることだよ」
  北はロゼフにリーズ、西はアクトゥスとエイリア、南はラディウスと火に囲まれている。
  自家の小火を鎮めて今度は四方に走り回らなければならないのだ。
「アストリアだって、あちこちで火の手が上がる状況になったら、オレぐらいにはなれるよ。けど、実際にそんなことになったら、あんな事言うんじゃなかったって思うさ。……って、失礼」
「……あぁ、名前のことか。そのままで構わない。その代わり俺も名で呼ばせて貰う。それで良いだろうか」
「いいよ。それじゃ、改めて、よろしく。アストリア」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」
「他にはなにか気になったこととかある?」
「そうだな。機密になりそうなことに触れさせて貰ってなんだが、慰霊式を利用するのはちょっとな……」
「あー」
「いや、忘れてくれ。人がいなくなった集落がどうなるか、人を戻す困難さは多少理解しているつもりだ」
「サベージで争いごとがあったって聞いてないけど?」
「表立っていないが集落間でたまに争う事があるんだ。水や山の権利が入り乱れてる地域だと頻繁に、な。それよりもずっと多いのが魔物の大量発生だ。魔物は討伐すれば済む話だが、争いは相手がいるからな」
「水争いとかの場合だったらどういう風に決着させるんだ?」
「同じ寄親の場合は調整して貰う。違う場合は最悪小競り合いが起きる。水も山で採れる様々なものは死活問題だからな。そうなりやすいんだ」
  何かを思い出したのか彼はため息を漏らして、次いで苦い笑みを浮かべた。
「実を言うと、去年はじめて水争いの裁定を任されたことがあるんだ。当事者たちの意見を聞いて、実際に調査して判断が付くと思ったんだが、どちらの言い分も筋が通ってるように思えた」
「それで?」
「訴えを起こした方の意見を認めた。だが、ラインボルトに来る少し前にお忍びで様子を見に言ったんだが、水利権を減らされた方の集落は随分と苦労しているようだった」
  聞き取りが足りなかったか、調査が足りなかったか。
  その後にポツリと零した呟いた一言が重い。
「人が住んでいることを失念していたか」
  そこでアストリアは首を振った。赤い髪が揺れる。
「俺の話をしても参考にはならんだろう」
「いや、考えさせられた」
  慰霊式の利用に苦言を呈したのもこの経験からなのだろう。
  人が住んでいる。そして、慰霊する人々がいて、遺族がいる。
  その人たちを利用することに抵抗を感じることは人としての美徳だ。
  その観点が抜け落ちていたことにアスナは内心で恥じた。
  そして、アスナは閣議室で処理しきれなかった招待状を纏めた書類束を手にした。
「さてっと、昼前までに見せられないものを処理させてもらうよ。悪いんだけど」
「分かった。一度部屋に戻らせて貰う。昼食は一緒に?」
「緊急の何かが起きない限りはオレが普段やってることを見て貰う予定になってるから」
  これもまた善意の貸付の一環だ。翌日、一度彼は父の元に戻ることになっている。
  その時に見聞きした事を話し、相談をするはずだ。
  賢狼族、ひいてはサベージへの厚遇の意図を理解してくれるはずだ。
  ラインボルトはサベージと事を構えるつもりはない、と。
「それはありがたい。では、後ほど」
  優雅な振る舞いで一礼するとアストリアは執務室を出た。
  執務室前の控え室にはアリオンが待機している。彼の案内で後宮に戻って貰う。
  それを見送ったアスナは深く吐息を漏らし、革張りの椅子にもたれ掛かった。
  滑り、ずり落ちるままにアスナは絨毯の上に腰を下ろした。
  眼前には執務机が作り出す闇がある。そのまま彼はこの狭い空間の中で丸くなった。
  幼い頃からこういう窮屈な場所は特別に感じていた。
  机の下や押入の中、時には橋の下。そういうある種、普通ではない暗い場所が特別だった。嫌な事や哀しい事があれば、幼いアスナはそんなところに篭もっていた。
  ……これは、ダメだ。
  周囲からの評価が高すぎる。確かにやり遂げた事を羅列すれば、本当に自分が関わったのか、首を傾げたくなるものばかり。
  ここで勘違いしてはいけない。全て自分一人で成し遂げたことではない。
  アスナはその出来事に立ち会ったに過ぎない。
  何もしなかったとは言わないが、旗を持って立っていただけだ。
  アストリアから感じる評価は戦場の勇者、気鋭の政治家に向けられるもののようだった。
  初めから一枚の大きく、煌めくような絹布であるかのように見られている。
  実際は自分という小さな布に周囲の皆を継ぎ接ぎしているに過ぎない。
  いや、過大に見られていることは知っていた。
  しかし、賢狼の貴公子から向けられるそれはまた異質なように見えた。
  ある種の期待、といって良いのかもしれない。
  次はどんな大きな事をしてくれるのだろうという期待。
  そして、自らがそれに触れ、歓迎された喜び、とでも表現すれば良いだろうか。
  現在の姿ではなく、彼の想像する未来を含めた虚像。
  それに追い付こうとする美しいまでの羨望と向上心。
  それらを前にしてアスナは心の中で萎縮を感じた。
  成長を見越して、ぶかぶかの服を着せられたような違和感だ。
  不意にノック音がした。びっくりしたアスナは立ち上がろうとして強かに頭を打った。
「失礼します」
  入ってきたのはエルトナージュだ。
  執務机の下から出てきたアスナの姿を見ていぶかしげな顔をした。
「何をしているんですか?」
「は、はははっ。まぁ、ね」
「アストリア様とすれ違いましたが、何かありましたか?」
  本当の予定では少し書類仕事をした後に彼女からの講義を受けることになっている。
  使節とのお茶会などに備えて簡単にでもその国の歴史に触れておかねばならない。
  歴史は外国人と接する上で話題の取っ掛かりに使いやすいのだ。
「あぁ、っと、その、なんて言えばいいか」
  悪口を言いたいのではないが、口に出せば悪意に取られかねない。
  ……表現力足りないなぁ。
「大方、アストリア様の真っ直ぐさに当てられたんじゃないですか」
「うっ」
  図星だ。なによりエルトナージュがこんな事を言うとは思わなかった。
「あの方は太陽のようなものです。遠くから見るには頼もしく見えますが、近くにいると眩しくて直視できないことがあるんです。けど、アスナがそんな気後れするなんて珍しい」
「さっきの閣議で後ろ暗いことを決めてきたから、かな」
「後ろ暗い?」
「アクトゥスが壊れた時の備え、危険を承知でムシュウに人を戻す手筈、ロゼフで起きそうな反逆を後押しするか、そういうのを検討しろって命令してきた」
  やれやれといった風情で彼女は持ってきた歴史書を執務机においた。
  そのまま一歩さがると両手を後ろで組んだ。
「私はここにいますよ。見栄を張らないんですか?」
「エル?」
「ラインボルトの状況を好転させる一手を打ったんでしょう。自慢しないんですか?」
  彼女の言葉がアストリアを前にした時に感じた気後れや自分に近似した虚像のようなものを溶かしてくれる。だから、空元気で立ち上がり胸を張った。
「アクトゥス利用してオレたちが正義の味方なんだって演出してやる。慰霊祭利用してラディウスが孤立するようにしてやる。ロゼフを割って冬の安全を確保してやる。これだけのことを進めてるんだ。どうだ、凄いだろう!」
  腰に手を当てて戯画的な姿勢で自慢をしてやった。
  そんなアスナに歩み寄ると、エルトナージュは彼の額にデコピンをしてこう言った。
「調子に乗るな」



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