第五章

第十二話 言葉一つで、世は動かす


 アスナが閣議を進めていた頃、アクトゥス王妃グレイフィルは娘とともに王城に宿泊した礼にどんな品を贈るか思案していた。
  大仰なものではなく気持ちが伝わる程度の物が良く、それでいて王妃らしいもの。
  侍女に命じて手元にあるものを幾つか卓の上に置かせた。
  茶葉。これはエグゼリスにある物の方が上質か。
  海産物。内陸の国では非常に喜ばれるが王妃からのお礼としては無骨だ。
  ハンカチ。女性ならばともなく男性に贈るのは夫がいる身ですることではない。
  装飾品。ハンカチと同じ理由で却下だ。
  指を唇に手を当てて思案するが良い物が浮かばない。
「妃殿下、こちらなどは如何でしょうか」
  侍女が手で示した物は花の塩漬けを詰めた瓶だ。
  茶器に一つ入れて、お湯を入れると花開く。塩味と花の香りが仄かにする飲み物となる。
  グレイフィルはお茶に飽きた時や喉が痛く時に愛飲している。
  ラインボルトへの旅にも幾つか持ち込んでいた。
  少し変わっていて、王妃らしい華やかさがある。お礼の品としても問題ない。
「そうね。これを包んで頂戴。お礼の手紙を添えますから、それまでにセギン男爵に使者の人選をするように伝えて」
「失礼します。妃殿下、男爵様が目通りを願い出ております」
  入室したもう一人の侍女が要件を持ってきた。
「通しなさい」
  急な予定変更だが、ある程度目処が付いたのだろう。
  副王と挨拶する前までは宿所の庭や庭園を借りて通常の茶会を催そうと思い、準備を進めさせていた。しかし、挨拶の席上で副王はベルーリアに、観光をして、その話を教えて欲しいと要望を出してきた。この意思に反する訳にはいかない。
  そこでグレイフィルはセギン男爵と相談をして、首都エグゼリスにある博物館や美術館の庭を借りての茶会を催すことにした。
  娘の経験にもなり、ラインボルトの芸術に触れる機会にもなる。
  それに通常の茶会はどの使節団でも催すだろう。少しぐらい風変わりな方が趣がある。
「失礼します、妃殿下。目通りかなり恐悦至極に存じます」
  声音が硬い。彼女が退席した後の晩餐会で起きた事を引き摺っているようだ。
「幾つかの施設を借り受けることが出来ました。王宮府から絵画などに携わった者がエグゼリスにいるから紹介をしようかとの提案を受けました。如何なさいますか」
  茶会を実際に差配するのはグレイフィルだ。不要な人物を呼んでも扱いに困るだけだ。
「では、何かしらの進講してもらうことにしましょう。内容はその者に任せます」
「承知いたしました。担当の者を見聞に出し、準備を進めさせることにします」
「頼みます。他には何か?」
「姫様が妃殿下と植物園に足を運びたい、と仰っているそうです」
  少しぐらいの我が侭、そういうものを覚えさせる良い機会かもしれない。
「時間は作れますか?」
「はい。ですが、あまり長い時間は」
「分かっています。取り計らってください」
「お言葉の通りに。私からは以上になります。なにかご用命はおありでしょうか」
「先日、泊めていただいたお礼の品を副王殿下に贈ろうと思います。使者を選んでおいて下さい」
「承知いたしました」
  副王という単語に若干、セギン男爵は震えた。
  表現を丸くして聞いたことだが、随分と厳しい言葉だ。
  直接、それをぶつけられた彼には罵倒されたように聞こえたかもしれない。
  それがグレイフィル擁護が同時になされたため、反論をし難くさせている。
  アクトゥス宮廷でグレイフィルの悪い噂が流されていることは事実だ。
  王妃もそのことを知りながら放置している。噂の根本が王妃争いで負けた有力貴族イムサス家が彼女を陥れる策謀に端を発している。
  有力者の協力が必要な戦時では何かしらの措置を行うこともできない。
  また、続く戦乱への不安、王家への不信。そういったものの捌け口が彼女への悪口となっていることもあって、手出しがし難いのだ。
  ラインボルト側からすれば面白くはないだろう。悪い噂のある女を使者に立てて関係を修復し、援軍を求めてくるなど。バカにされていると思われても仕方がない。
  それを幾らか溶かすのがグレイフィルの役目だ。夫が信じて送り出してくれたことを無碍には出来ない。
  何も出来ない、特別な才も権限もないが出来る限りのことはしなければならない。
  悪口を言われる事など、慣れている。ラインボルトから何を言われても何てことはない。
「男爵。副王殿下に対する心の凝りがあるようですね」
「そのようなことはございません」
「そうですか。ですが、ラインボルトには凝りがあるのですよ。我が国が何を言ったか忘れていませんね」
  内乱中、アクトゥスは介入を仄めかし続けていた。
  ラインボルトの混乱を大きくし、リーズの目をそちらに向けさせようとしたのだ。
  言い訳はできる。しかし、それが受け入れられるとは思わない。
  副王個人にしても、アクトゥスが恋路を邪魔する者に見えているはずだ。
「快く迎え入れてくれたこと、ベルーリアに優しくして下さったことで、私たちはそのことを忘れてしまったようですね」
  馬に蹴られて殺されないだけましだ、と思わねばならない。
「衆目の中で男爵に不快を表明するほどに副王殿下は我が国に不信感を抱いておられる、そう考えた方が良いでしょう」
「お言葉ですが、妃殿下。宮廷を悪し様に言われて反論をしないのは」
「信じて貰えねば更に印象を悪くさせるだけです。まずは切欠を作るところから始めましょう」
  数秒、思案した彼女は一つ提案をした。
「……こういうことは好きではありませんが、リーズの勅使殿が贈ったという奴隷をこちらに譲って貰うよう交渉するところから始めましょう。本当に我が国の船員であれば、様々な交渉の席を用意できます。奴隷にされた者たちの待遇を少しでも良くできるかもしれません」
「妃殿下……」
「あとは、そうですね。エグゼリスには今、アクトゥスの貴族は男爵一人だけ。貴方が思う貴族の有り様を自らの行動で示しなさい。副王殿下は貴方の振る舞いを良しとされれば印象をお変えになるでしょう」
  彼女が役目が求める事柄以外で王妃らしく振る舞った事はない。
  そんなグレイフィルから明確な指針を授けられてセギン男爵は驚いていた。
「安心なさい。貴方のご宗家の邪魔はしません」
  アクトゥス王宮内では、よく分からない理由で彼女が離縁させられる流れが出来つつある。夫はそれを押し止めようとしているが、抗しきれないところまで来ているようだった。
  今回の使節団派遣は彼女の地位向上を考えてのことだが、同時に彼女を退けたい者たちにとっては王妃不在の今を好機と捉えている。
  セギン男爵は次の王妃を据える家の分家筋に当たるのだ。いわば、監視役だ。
  彼は何も言えない。肯定すれば謀略を認めることになり、否定すれば王妃に虚偽を語ったことになる。だから、沈黙を返すしかない。それだけが彼なりの誠意であった。
「ですが、そうですね。遠ざけられるのならば、ラインボルトへ人質に出されるように貴方のご宗家に働きかけて欲しい」
  人質にはそれに相応しい格がいる。
  少なくともベルーリアは姫としての地位は保証されるはずだ。
  ラインボルトならば、勝手なことではあるが娘とともに静かに暮らしていけるだろう。
  そんな諦めに基づいた打算で彼女はラインボルトで動くことにした。
  実家が力を持たない王妃の扱いなぞ、こんなものだと割り切っていた。
  ただ……。
  ……ただ、あの方への裏切りとなってしまうことが哀しい。
  今も奮闘を続ける夫への申し訳なさだけが、彼女の胸の奥にあった。

 本日の日程を終えたアスナは後宮に戻っていた。
  すでに夕飯は議員たちと済ませている。アストリアには後宮に戻って貰いエルトナージュらと摂って貰うことにした。
  彼ら議員には使節団への応接役を任せており、晩餐会の評判を調べさせていたのだ。
  概ね悪い印象は持たれていないとのことだが、些か恐れられてもいるようだった。
  そういう議員たちの中にも恐れの色が見て取れる。
  ……なんだかなぁ。
  そう思うが、王様とはそういうものだと割り切る他ない。
  最近は議員たちとの会食も面白味を感じるようになってきている。
  地元自慢も終わり、彼ら個々人が抱える課題や考えを聞く事が多くなった。
  今のところ内政面での諸課題が話題に上がっている。
  ここで提案されたことをエルトナージュから知識として捕捉して貰い、閣議にて諸大臣たちの考えを聞く。そして、次の機会に更に議員たちから意見を聴取する。
  この会食でアスナは自分の考えをできるだけ話さないようにしている。
  王の言葉には力があり、不用意な一言が一人歩きしてしまうからだ、とエルトナージュたちから注意されたからだ。
  今日の話題は中断されている鉄道事業についてであった。
  熱弁をもって推進を語る者もいれば、同じ熱量で別の事を主張する者もいる。
  最終的には資金の問題となるのだが、それとは関係なしにアスナも鉄道には興味がある。
  ……今度、時間が出来たら見に行ってみよう。
  そんなことを考えつつ、アスナは後宮へと戻ってきた。
  出迎えを受けて、アスナの自室へと向かった。これから賢狼の友人への歓迎会だ。
  床に敷いた毛足の長い絨毯の上にそのまま円になって腰を下ろす。
  主賓である賢狼の四人にエルトナージュとサイナ、そしてヴァイアスとミュリカが同席している。結構な大人数だ。
  侍女としての役目を担っているからかフェイが少し居心地悪そうにしている。そんな彼女の右手にオーリィが触れていた。
「これ、アクトゥスの王妃様からんだ。折角だから、みんなで試してみよう」
「それは?」
  サイナの問いにアスナは笑みを見せた。アスナの手にある瓶には桃色の花が詰められている。色が濃く、非常に鮮やかだ。
「花の塩漬けだって。お茶代わりにこれで一杯。普通のお茶もあるから、二杯目からは好きにしてくれ」
  アスナは立ち上がると慣れた手付きでお湯の準備を始める。
  訓練を重ねた結果、湯を沸かせる程度の魔導珠は扱えるようになっていた。
  便利な物だが、まだこの程度のことでも非常に高価だ。お湯を沸かすだけなら自分で魔法を使うか、薪に火を付けた方がずっと安価だ。
  人数分の茶器に一つずつ塩漬けを入れていく。
「おい、給仕をさせて良いのか」
「良いんだよ。ここでのアスナは暴君だ。好きにさせないと怖いぞ」
「……お前、何かされたことがあるのか?」
「俺だけ何も出して貰えなかったことがある」
「それはきついな」
  アストリアは右隣に座るヴァイアスと話している。
「そんなことよりも、アストリア様。他国の閣議は如何でした?」
「得難い体験だった。一国の主とは大変だな。……具体的なことは言えないが、本当にこの国の決定は早い」
  余程感心したのか彼は執務室でしたことをここでも口にした。
  相手は一国の宰相を務めた少女だ。いや、王不在の頃を考えれば、事実上の女王。
  ここには王を知る者が二人もいるのだ。
「そこは人の違いもあると思いますよ。私が宰相であった頃は一つのことを決めるまで随分と手続きを歴なければなかったから、随分と苦労しました」
  そして、ジト目になって白湯の準備を続けるアスナを睨んだ。
「別の見方をすれば、あの人の運営が乱暴なんですよ」
「迅速な政策決定。凄いだろ?」
  胸を張って自慢してみせると、
「ホントにエルに自慢した」
「でしょう?」
  と、サイナとニルヴィーナ、ミュリカが笑っていた。
  昼の間に色々と話をしたのだろう。
  お湯を注ぐと茶器の中の花がゆっくりと広がる。
  花冠という言葉の通り、小さな冠のようだ。
  全員分の茶器を用意し終えるとアスナは一人一人に配膳して回る。
  従者二人は酷く恐縮していたのに対して、自分の近衛は当たり前のように受け取った。
「ところでリムルは?」
  彼も呼んでいるのだが来ていない。
「リムルなら、演習を失敗しないでやりたいからって司令部で打ち合わせ。ごめんなさい、だってさ」
「なら、仕方がないか。今度差し入れでもするかな」
「なら演習が終わったら、宴席でも用意してやったらどうだ。そっちの方が喜ぶだろ」
「……そうだな。うん、そうするか」
  心のメモ用紙に記載しておく。明日にでも内府に相談することにした。
  自分で入れた白湯を口にする。柔らかな花の香りが抜けていく。
  お茶の代わりに飲むには飽きそうだが、酒を飲まねばならない席の後ならば良さそうだ。
  他の面々にも好評なようだ。さすがは王妃様の贈り物だと感心する。
「これは何の花かしら」
「そうですね、確か……」
  と、盛り上がっている。そんな絢爛な少女たちの姿に頬が緩む。
  そんな光景を見ながらもう一度口にした。その味に思い出すことがあった。
「そうだ、っと」
  アスナは自分の机に向かうとメモ用紙に簡単なレシピを書き始めた。
  似た食材があるから何度か試行錯誤すれば出来るはずだ。
「アスナ様、何をされているんですか?」
  気が付けば背後にニルヴィーナ。手元を覗き込んでいる。
  見ると銀色の輝くような長い髪と、それに縁取られた柔らかな頬が見えた。
  そして、頭の上には狼の耳が飛び出ている。
「うちの厨房であんパン作れないかなぁって。細かい分量はど忘れしたけど、作り方の手順はだいたい覚えてるから。あとは厨房に丸投げ」
「アスナ様、料理が出来るんですか」
「家庭料理限定だけど、一通りね。お婆ちゃんに仕込まれました。うちは両親が仕事で忙しいからね。手伝いをしていたら自然と、ね」
「実は私も多少の心得があります」
  えっへんと言わんばかりに彼女は胸を張った。右手を自分の胸元に添えながら。
「お姫様なのに意外。ちなみにどんなのが作れるんだ?」
「父の狩りに連れて行って頂いた時に覚えたものです。切り分けた肉を革袋に詰めて暫く冷暗所に。後はそれを鉄板で焼くんです。付け合わせも色々と出来ますよ。他に煮込み料理も幾つか作れます」
「へぇ。だったら、狩猟会の時に腕を披露して貰えるかな」
「私の手料理、食べて頂けますの?」
「もちろん。楽しみにさせて貰う」
「まぁ! でしたら、お兄様に立派な獲物を狩って頂かないと」
  パンッ、と手を叩いたニルヴィーナは笑みを浮かべて兄を見た。
「もちろん、賢狼に恥じない狩りを披露するつもりだが」
  しかし、その表情はすぐれない。他の面々も心配そうにしている。
「まずはその耳と尻尾を仕舞え。約束しただろう」
「すいません」
  項垂れるとともに長い耳が寝てしまう。
「まぁまぁ、それだけ寛いでくれてるってことだから。あんまり怒らないでやってくれ」
「そうは言うがな」
「エルに事情は聞いたけど、外では出ないように気を張ってるんだろ。少しぐらい気分転換しないと身体を壊すぞ。アストリアだって、一年中真剣に政務なんてやってられないだろ? それと同じだって」
「俺は一年中真面目だ」
  彼は自分が口にした通りの真面目腐った顔で断言した。
「そんなことだと婚約者に逃げられるぞ」
「そ、そんなことはない。彼女は分かってくれる」
「はい。王子様はこんなことを言っていますが、どうでしょうか。ミュリカさん」
  いきなり話を振られてミュリカは飛び上がるように背筋を伸ばした。
「私ですか! えっと、そうですね。仕事仕事では身体が心配になりますし、一緒に遊びに行けないのは寂しいかなぁ。あ、けど、これは一般論ですから、一般論」
「ミュリカもこう言ってるんだ。無理をし過ぎはダメなんだよ」
  思い当たるところが多々あるエルトナージュは口を挟まず俯いた。
  彼女が無理を重ねた末にあの内乱がある。だが、その無理が、今ではアスナを支える大きな力となっている。
「それにさ。うちのジイさんの戦友が戦場で足に大怪我を負ったんだ。運が良かったのか足を切らずにすんだけど、後遺症は残ったんだ。元に戻るように必死に努力したけど、前みたいに走れなくなったんだ。で、その人が昔話をした後にこう言ったんだ。努力だけじゃ、どうしようもないんだったら、後は上手に付き合う方法を考えた方が良い、って」
  言うは易く行うは難し。自分がそこまでの努力ができるのか分からないし、出来ればそんな状況にもなりたくない。
  だが、そんな努力をしているニルヴィーナに少しぐらい手を貸しても良いんじゃないかと思う。苦労だけが大事なのではない。楽をすることも大事なのだ。
「だからさ、折角ラインボルトにいるんだから、今度は上手に付き合っていく方法を色々と試したら良いんじゃないか」
  今日一日、アストリアと一緒にいて思った事がある。
  彼は真っ直ぐでとても真面目で、後ろ暗いことをやっていると真っ直ぐ相対しにくくことがある人だ。それと同じぐらい人を認める気質でもあると感じた。
  まるで物語の王子様みたいだ、というのがアスナが今日得た印象だ。
  そのアストリアが一度、妹を見て大きくため息を吐いた。
「父上と相談しよう。ニーナを診ている侍医も随行して貰っている。……そうだな、ロディマス殿の意見も聞きたい。その上でどうするか判断をしよう。それまではこれまで通りだ。良いな」
「はい、お兄様。ありがとうございます、アスナ様」
「これまでニーナが頑張っていたから、アストリアもそうしてみようって思ったんだ。オレはなにもしてないよ」
  手を一度叩いて、この話を打ち切った。
「よし、これでこの話はおしまい」
  レシピを書くのも明日の朝で良いだろう。
「折角だから、四人がラインボルトにいた頃の話を聞かせてよ」
「そうですね。知らないのはアスナ様と私だけというのは少し寂しいですから」
「……だったら、そうだな。来たばかりの頃の話をしようか。あれは俺がまだ獣人の姿ばかりだった頃だ」
  この後、昔話に花が咲き、普段の就寝時間を超えてしまいストラトから苦言を貰うほどだった。儀礼もなにもない本当の意味での歓迎の宴と言えたかもしれない。
  なお、アスナは賢狼の友人たちが滞在中、離れで寝起きすることにした。
  他国のお姫様と一つ屋根の下で寝起きする。
  さすがに外聞が悪いことだからだ。その程度の節度はもって然るべきなのだ。

 賢狼公ヴォルゲイフはラインボルトの副王から狩りの指南を請われている。
  そのため、他国の使節団以上に忙しく動かねばならなかった。
  手順をラインボルト側の職員と確認を行い、実際に現場を検分する。
  鷹を飛ばすだけではなく、実際に山野を散策するのも良い。
  獲物を解体して、肉とするまで体験させてみようかなど考えている。
  そのため、茶会の差配は副団長に丸投げとなっていた。
  ラインボルトの後宮から戻った子どもたちを交えて、諸処の確認を行う。
「茶会については問題あるまい。こちらはミツェン殿とニルヴィーナが主となって進めろ」
「はい、お父様」
  感情を抑えた物静かな声音。多くの人が知る彼女の姿。
  ヴォルゲイフには普段よりも抑えているように感じられた。
「私は狩猟会が終わるまでそちらに専念する。サベージの面目はアストリア、お前たちが守れ」
「はい、父上」
「明後日から狩場の検分に出る。アストリアとアーディは供をせよ。ニルヴィーナには不在の間、名代を任せる。ミツェン殿とよく相談するようにな」
「微力を尽くします」
  副団長であるナイナ・ミツェンが畏まって了解する。
「取り急ぎ決めねばならないことはこんなところか」
  昨日は一日、エグゼリスに拠点を置く商人や職人らが挨拶に来て、その応接をしていたのだ。この後、昼からアジタ王の宿所を尋ねて、狩猟会の用談をすることになっている。
  戻ってから顔が強張っている息子が意を決したのか強い口調で話した。
「父上、家族の話をしたいのですが」
「それはお前が連れてきたロディマス殿も関係することなのだな?」
「はい」
  ロディマスとは子どもたちがラインボルトに滞在している頃に世話になっている。
  ヴォルゲイフ自身も手紙のやり取りや面談などの形で交流がある。
「分かった。だが、アジタ王陛下との用談がある。あまり時間はとれん。良いな」
「十分です。それと侍医殿もお呼び下さい」
「私が呼んで参りましょう。その後は午後からの準備を監督しております」
「うむ。頼む」
  程なくして二人の医師がヴォルゲイフの前に現れた。
「ご無沙汰しております、賢狼公。三年前の駄竜討伐の話は我が国でも語り草となっております」
「久しいな、ロディマス殿。しかし、医師であるそなたの耳にまで届いていたか。些か面映ゆいものがある。キュールとは今も親交が続いていると聞いている」
「キュール殿の知見には助けられております」
「それは私も同じこと。此度の随行は私にとっても幸いにございました」
「うむ。二人が親しく交流をすることは両国にとって素晴らしいことだ。今後とも研鑽を続けて貰いたい」
  留学生の交換を提案しても良いかもしれない、とヴォルゲイフは思った。
  ラインボルトと同様にサベージも多様な種族を抱えている。人と知識の交流は有益だ。
「して、アストリア。話とはなんだ」
「はい。実は昨夜アスナ殿から提案がありました」
  また踏み込んできたか。ヴォルゲイフは自身が抱いた直感の正しさを嘆いた。
  それを表情には出さない。努力と心構えで抑え込む。
「それで、副王殿下はなんと?」
  アストリアを介して為された提案には唸るものがあった。
  確かにこれまでは娘を抑えることにのみ力を傾けてきた。それこそ涙を滲ませるほどの努力をしても抑え込めないのだ。
  であれば、上手に付き合う方法を考えた方がよい。理屈には合うかもしれない。
  どんなに腕のいい狩人でも怪我をして以前と同じように獲物を狩れなくなったという話は良く聞く。それでも狩人を続ける者らは新たな工夫をしてそれを乗り越えている。
  つまり、そういうことを提案してきたということだ。
  なるほど。このために医師を呼んだということか。
「キュール、ロディマス殿。意見を聞きたい」
「その前に姫君の魔力の状態を確認させて頂けませんか」
「当然だ。両者とも同じ手法で確認をせよ」
  ロディマスの要望にヴォルゲイフは同意した。
「ありがとうございます、閣下。では、姫様。お手を」
「お願いします」
  差し出された繊手をロディマスは恭しく取った。
  手を取り、一時的に相手の魔力と同調する手法だ。
  現在、もっとも簡素で確かな方法として広く普及している。検査対象が不調であれば、医師にもその一時的に乱れが移り、そうでなければ変化はない。
  魔族は体調が悪くなると体内にある魔力を用いて復調しようとする力がある。その自然な働きを利用している。
「ふむ。……では、次にお耳と尻尾をお出し下さい」
「はい」
  ぴょこん、とニルヴィーナに耳と尻尾が現れる。
「ふむ。……なるほど。では、五分ほど休憩してキュール殿と交代します」
  連続して行う場合は五分程度の時間をおいた方が安定した結果が出るとされている。
  五分後、もう一人の医師も同様の検査を行う。
「ありがとうございます、ニルヴィーナ様。お耳と尻尾をお戻し下さい」
  言われるままに彼女は大人しく戻した。
「して、どうだ。まずは先に検査をしたロディマス殿の意見を聞こう」
「お耳を出されておられる時の方が人の姿であるよりも魔力が安定しているようです」
「なんと……いや、まて、ロディマス殿。娘は不安定だからこそ耳が出ていたのだぞ」
「はい。以前、ラインボルトにて逗留された時はそうでした。これは推測の域を出ず、何もかも都合良く考えた場合の意見とお考え下さい」
「うむ」
「獣人は人、半獣、獣の三つの形態を持っている。そして、長じるに従って最も寛げる形態を得るようになると聞いております」
「その通りだ」
  ヴォルゲイフは狼の姿となって、軒下で日向ぼっこをするというささやかな楽しみを持っている。息子のアストリアは半獣の姿であるようだ。
「姫様は非常な努力をなされてお耳と尻尾が出ないように抑えてこられた。その努力が第四の形態を獲得させたのではないか、と推測します」
「そのようなことはあり得るのか」
「さて、この様な事例は私も聞いた事がありません。何分にも獣人は恥として隠してしまうので推測以上のことは申し上げられません」
「そうか。いや、その通りだ。では、どうすれば良い」
「医師としての見解であれば経過を診てみたいと思います。しかし、これは繊細な事柄です。ご家族の判断に委ねるべきことだと考えます」
  思わず唸り声を漏らしてしまう。思い至りもしなかったことを前にして困惑が強い。
「キュール。そなたの意見を聞かせよ」
「検査の結果はロディマス殿と同じにございます。確かにお耳を出されている時の方が安定しているようです。しかし、第四の形態と言われてもすぐには納得できず」
  もう一人の医師はヴォルゲイフ以上に困惑しているのが見て取れた。
「で、あろうな」
「ですが、検査結果は揺るがないもの。ロディマス殿の推測を否定する材料を持ち合わせておりません。その他、お身体に異変がない以上、そこから先は賢狼公のご判断を仰がねばなりません」
  キュールとしても現状では回答できないということだ。
  立場上、彼には経過観察のために同意することは出来ない。
「父上、如何なさいますか」
「お前はどう考える」
「試してみても良いと思います。一年中、気を張って生きていけるのかと言われ、私は強がってはみましたが、どこかで気を抜かねばやっていけないことも確か。ニーナに生涯それを強いるというのは酷です」
  第四の形態の話が真実であるとすれば、自分は娘に軒下での昼寝すら許していなかったことになる。
  ……まったくラインボルトの副王は気付かぬところに日を当ててくれる。
「ロディマス殿。滞在の間、娘の経過を見守って貰いたい」
「それじゃ、お父様!」
  ニルヴィーナの声音に歓喜の色に輝いた。
「分からぬからだ。分からぬ以上、試す他ない。外では決して漏らさぬように心がけよ」
「はい!」
「それと何か変調があれば必ずキュールかロディマス殿に相談するのだ。良いな」
「はい、お父様」
「キュール。ロディマス殿と頻繁にやりとりをして知識を共有しておくのだ。ロディマス殿、よろしく頼む」
「お言葉の通りに」
「承知いたしました、賢狼公」
  畏まる二人の医師。
  こうしてニルヴィーナはラインボルト後宮で自由に耳と尻尾を出す権利を得た。

 船団が大河を遡上する。
  緩やかな流れに逆らって上流へと船を運ぶ櫂は長く太い。
  それらを一定の調子で漕いでいる。素人目にも訓練されていることが分かる。
  船団はリーズの旗を掲げている。それを前にすると如何にラインボルトの者でも畏怖を感じてしまう。出来る限り関わろうとはしないのが常だ。
  その船団がエグゼリス航海にある船着き場に停まった。
  船からは多数の荷物とともに裸形の男たちが降りてくる。
  彼らは文字通りの裸体。身を隠し、暖める物を与えられていない。
  痩せ細り、眼球だけが爛々としている男たち。
  身につけている物は両手足を戒める鎖のみ。
  彼らは担いだ荷を倉庫に収めると、その足で次の目的地へと向かう。
  奴隷、なのだ。リーズが得た奴隷の、それも最も扱いの悪い者たちだ。
  彼らの行進に道行く人々は驚愕し、騒然となる。
  首都防衛軍の兵らがすぐに駆け付けるが、行進の先頭に掲げられるリーズの旗を前に尻込みをする。上司への報告が続く中、行進は王城へと向かう。
  行進の両脇には美々しく着飾った儀仗兵たちが並ぶ。この異常な光景に多くの物が目を背けた。
  目の毒だ、というだけではない。奴隷たちが纏う服ではないものから逃れたかったのだ。
  それは臭い。垢と糞尿が作り出す悪臭を周囲に放ち続けていた。
  この異常を見物しようと人が集まり、臭気に退散する。それらが入り乱れて混乱する。
  行進は叫喚を生じさせつつ前へと進む。
  先頭を歩く勅使代理は無貌である。感情的なものが一切見受けられない。
  その彼の前に王宮よりの使者が現れる。
「勅使代理殿、これは何事ですか」
「侯爵閣下へお約束の品を届けるところである。道を開けよ」
「それでは郊外の練兵場へとご案内します。副王殿下もそちらに向かわれます」
「ほう。小汚いこの者らを城には入れたくないとのご意思かな」
  美々しい装束に身を包んでいても表情の歪みのせいか醜悪に見える。
「全員を一望できる場をお望みです。練兵場へ」
「侯爵閣下のご意向ならば仕方がない。では、案内せよ」

 一報を受けたアスナは予定を切り上げて練兵場へと向かった。
  すでに近衛騎団が練兵場周囲への配備命令が出され、ヴァイアスが同席することになっている。
  馬車に飛び乗ったアスナにヴァイアスと王宮府の職員が説明をする。
「……っていう状況らしい。アスナの守りについては心配しなくて良い」
「大通りを素っ裸でウンコ臭い男たちを練り歩かせてる! しかも、手足には鎖を付けて自分たちは良い服きてるってなんだ、そりゃ!」
  アスナの理解を超えている。幻想界が変わった物の宝庫だとはいえ、これは度が過ぎている。
「大体、リーズは嫌がらせばっかりして何しに来たんだ。これが連中の文化なのか!」
「あー、まぁそういうところはあるかも」
「これだから変温動物は!」
  以前、蛇の老人に食い殺されかけたこともあり爬虫類が嫌いなのだ。
「少しは八代目を見習って紳士的になれ!」
  例外はラインボーグら竜族ぐらいなものだ。
  もちろん、それを表に出さないようにする節度ぐらいはアスナにもある。
「大体、なんで竜なんだよ。虫でいいだろ、虫で。だったら、思いっきり変態って言ってやれるのに。この変態! 変態! 変態!!」
「おちつけ、アスナ! 竜族は変態しない。するのは変身だ!」
「どこの世界にウンコ臭い贈り物するバカがいるんだ! 贈り物だったら奇麗に包むぐらいしろ!」
  移動中の馬車で一頻り罵声を発し続けたアスナは疲れ切ったようにソファに身を預けた。
「落ち着かれましたか、殿下」
  職員が恐る恐る尋ねてきた。これほど激昂した主の姿を見た事がなかった。
「水をくれ」
「こちら」
  馬車に備え付けられている水筒を差し出す。一口飲み干すと落ち着いたのか不機嫌そのものの顔で問うた。カーテンが閉められているため外は見えない。
「で、手配はどうなってる?」
「予め決められていた通りに進めております。すでにアクトゥスにも知られているでしょうが、こちらからも一報を入れています」
「治安は?」
「首都防衛軍が事態の収拾に当たっています。今暫くお時間を頂ければ落ち着くとの見込みです」
「奴隷の身元確認は進んでる?」
「それが勅使代理殿に拒否されています。行列を見た者の報告では、行進に慣れているようだとのことです」
「推測通りに海軍の軍人だってことで進めるか。ヴァイアス、号令役を頼む」
「任せておけ。念のために近くにサイナたちも配備している。万が一の時には遠慮無く避難しろ」
「分かった」
  馬車に揺られ向かった練兵場は市街地の外れにある。
  周囲にある商業施設も兵たちを相手にした者だから少しぐらい粗野であっても目を瞑って貰える。また、軍施設だからという理由で衆目を遮ることもできる。
  それが奴隷たちを練兵場へと誘導した理由だ。
「…………」
  奴隷たちの姿にアスナから言葉を奪った。
  汚れ、傷つき、負け戦からそのまま運び込まれたような有様だったからだ。
  傷は治療されず放置され、傷が膿んでいる者が多数いる。
  その彼らは最後の矜持として美しいまでの整列をして見せた。
  悪臭は酷く、目に染みるほど。気を許せば嘔吐してしまいそうだ。
  彼らを前にしてアスナは王としての矜持をもって応えた。
  それはサイナたちとともに”彷徨う者”たちに取り囲まれた時と同じ心境。
  負けてたまるか、という意思だ。
「お待ちしておりました、侯爵閣下」
  あからさまな下卑た表情を作っている。
  本当にこの男は何の意図でこんなことをしているか想像もつかない。
「彼らが話にあった奴隷ですか?」
「その通り。陛下の手勢に弓引く愚か者どもの末路です。くれぐれも忠勤に励まれると良いと思います」
「では、これで受け取りは完了したと考えても?」
「こちらの受領書にご署名願います」
  差し出された書類を受け取り、手早く内容を確認する。
  同行した王宮府の職員にも確認をさせる。問題はない。
  アスナは署名欄に「竜頭蛇尾」と漢字で書き記した。ある種のヤケクソだ。
  叩き付けるように書類を勅使代理に渡した。
「侯爵閣下、これは」
「故郷の文字だ。たまに癖でやってしまう。ご不満ならば、新しい物を用意して貰いたい」
「……いえ、これで結構です」
  恭しく受け取ると勅使代理は整列する奴隷たちに声を叩き付けた。
「何をしている。新しいご主人様に傅かないか!」
  奴隷たちはアスナに対して膝を突こうとした。それを吠えるような声で王は止めた。
「不要! ヴァイアス、号令を掛けろ!」
「はっ! 気をぉぉぉぉぉっ、付けぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
  痩せ細り、見るも無惨な彼らの全てが背筋を伸ばした。
「副王殿下に、敬礼!」
  八百人分の美しい敬礼がそこに広がった。
  この瞬間、この場にいる誰もが奴隷たちが反乱を起こさないと確信をした。
  アスナは鷹揚に頷き、丁寧に答礼を返す。
「ラインボルト副王、坂上アスナだ。今、この瞬間から貴官らの身柄を引き受けることになった。これより全員、官姓名の申告を受ける」
  八百人を受けるには長時間かかる。
  この時間を使って彼らに必要な最低限の用意を調えさせるのだ。
  なによりこうして軍人として扱うことで彼らの矜持を守ることになる。
「お待ちを侯爵閣下。奴隷にそのような処遇は不要」
「リーズには奴隷に何かさせるには一つ一つ申告書を提出する決まりでもあるのですか?」
「そのようなものはありませんが」
「受け取った以上、私が好きなように扱う。それだけのことです」
  言下に切って捨てた。
「始めろ!」
「第二艦隊第八護衛船団船団長グレイク・マーフェン」
  マーフェンは海王の一族の姓だ。とんでもない大物がいたことにアスナは内心で仰け反った。努力して目を見開く程度で収めた。
  グレイクの顔は何度も殴られたのか酷く腫れ上がり、元の面相が分からない。
  彼だけではない。少なくない人数の面相が崩されている。
  これを聞いた誰かがすでにアクトゥス使節団へと走っているはずだ。
  そして、王族が指揮するほどの船団が潰された事実に内心で唸る。
  戦況は良くないと聞いていたが、ひょっとしたらその情報以上に酷いのかもしれない。
  全員の申告を受ける頃にはすでに陽は大きく傾いている。
「申告を受けた。貴官らにはこれより休養を与える。職務が決まるまで待機を命じる。これ以降は担当官に任せる。以上!」
「総員、敬礼!」
  敬礼の応答を終えるとアスナは勅使代理と向き合った。
「中々の男たちのようです。これからどう使うか楽しみです」
「それはなによりです」
  勅使代理の声音は硬かった。
「それでは少々予定が立て込んでいますので、これで失礼します」
  会釈をすると足早に馬車に向かい王城へと戻る。
  アクトゥスの大物を得た。あとは真偽を確認せねばならない。
  しかし、あの腫れ上がった顔では確認は難しい。
  ともあれ、どういう処遇をせねばならないか考えねばならない。

 その夜遅くアスナは王城内にある近衛騎団司令部、その会議室にいた。
  同席しているのはヴァイアスと外務省の職員だ。
  グレイク・マーフェンの確認をするためにアクトゥス王妃グレイフィルが来るのだ。
  あの後、奴隷たちは順番に身を清め、医師の診察と治療を受けた。
  問題ない者は食事が与えられ、そうでなかった者はすぐに病院へと運び込まれた。
  報告によれば半数以上が病院送りとなっている。
  呼び出したグレイクも入院との判断が降りている。しかし、素性の確認を優先せねばならない。情報確認が出来て始めて両者とも交渉の席に着ける。
「妃殿下が到着された」
  ヴァイアスの報告を受けて頷いた。サイナは王妃が来るということで顔を合わせぬように別の場所で待機をしている。
  シエンが同席を申し出たがこの場で交渉するつもりはない。だから、彼には休ませることにした。アスナ同様に忙しい日々を過ごしている。
  護衛役としてヴァイアスがいれば十分だ。
「グレイク・マーフェンは?」
「別室で待機させている。本人にはアスナが面談を求めているとだけ伝えている」
「分かった。……よし。始めようか」
  王妃を迎えるべく立ち上がった。
  程なくして副団長セギン男爵と侍女を伴ったグレイフィル王妃が現れた。
「このような時間にお呼びして申し訳ありません」
「お気になさらずに。グレイク・マーフェンとその部下を保護して頂いたと聞きました」
「そのように申告を受けています。ですが、こちらでは確認のしようがありません。ご協力をお願いします」
「分かりました。本国に確認できる者を呼んでいます。まずはグレイクの確認をさせていただきたいのですが、お許し頂けますか」
「もちろんです。ですが、彼の顔は酷く腫れています。顔以外でなにか確認する方法はありますか」
「……そうですね。紙とペンをご用意いただけますか」
  アスナは机の中から筆記用具一式を取り出して、それを王妃に差し出した。
「どうぞ」
「これから彼に対する質問を書きます。申し訳ありませんが」
「分かりました。ヴァイアスも良いな」
「はっ」
「ありがとうございます」
  彼女は自分の腕で影を作り、その中で何かしらを書いた。
  それ二つに折って見えなくする。
「よろしいですか?」
「はい。お願いします」
「じゃ、連れてきてくれ」
  ヴァイアスは了解の応答をすると室外で待機していたミュリカに声を掛けた。
  程なくして彼女はグレイクを連れてきた。
「お連れしました」
  顔に軟膏が塗られている。ひとまずの手当は済んでいるようだ。
  彼はグレイフィルを見て目を見開いた。
「これは妃殿下。この様な面相で御前に出る無礼をお許し下さい」
  そのまま膝を突いて平伏した。動きに躊躇はなく滑らかだ。
「グレイク。貴官が本当にグレイク・マーフェンなのか確認する術がない。そのため、妃殿下にお越し願った。まずは確認をさせて貰う。妃殿下、お願いします」
「はい。グレイク殿、これに一つ質問を書きました。その答えを書いて返しなさい」
  グレイフィルは二つ折りにした紙を侍女を介してグレイクに渡した。
  彼は一読するとすぐに何事かを書き記して侍女に返した。
「…………」
  侍女から受け取った回答を一読するとグレイフィルは確信を得た顔でアスナを見た。
「彼がグレイク・マーフェンであることを確認いたしました。私の名で証明書をご用意致しましょうか」
  あちらから申し出てくれてありがたかった。
  シエンからも念のために王妃かセギン男爵の名で証明書を貰うように言われている。
「では、お願いします。すぐに書面を用意させますので暫しお待ち下さい。書類の作成を始めてくれ」
  アスナは外務省の職員に書類の作成を命じる。
  あとはこれをアクトゥス側が同意して署名してくれれば、奴隷の男は公にグレイク・マーフェンと認められる。
「副王殿下、彼らの身柄なのですが」
「それについてのお話は後日行いましょう。リーズの目がありますから」
「分かりました。彼らの処遇については」
「王侯の待遇とはいきませんが、一軍人のものと変わらない物を用意するつもりです。まずは治療に専念させます」
「ありがとうございます、殿下。グレイク殿のご家族に無事を報せてやりたいのです。彼の手紙を届けることをお許し願えますか」
「許可します。……そうですね。我々は、貴国とリーズの戦争が終わらなければ彼らの帰国は難しいと考えています。長期に渡ってやりとりがあると思います。そこで、アクトゥス側の代表を妃殿下に、実務をセギン男爵にお願いしたいと思っています」
  シエンとボルティスのお説教を受けて反省した。これは晩餐会の件のお詫び。
  ここでセギン男爵に得点を稼がせてやれば名誉挽回に繋がる。彼だけを窓口とすれば、グレイフィルを蔑ろにしたことになってよろしくない。そこで看板と実務を分けたのだ。
「お引き受けいただけますか」
「お言葉ですが、私には荷が重いように思います」
  ……いや、全く重くないから。
  時間はかかるが帰国がほぼ約束されている仕事だ。
  名誉にもなるし、王妃の立場を強めることにもなる。辞退する理由がない。
「この場での返答は出来かねます。本国の意向もありますので」
「確かに。分かりました。私からアクトゥス王陛下に親書を出しましょう。その中でお二人を推薦すると書かせていただきます」
  ……これで遠慮はいらないだろう。
  楽で名誉ある仕事なのだから受け取って貰いたい。
「そのようなことは書かれずとも。然るべき者が選ばれるはずです」
  明らかにおかしい。アクトゥスは関係改善を求めている。
  それに対する第一歩になるのに、それから遠ざかるような態度を取る。
  王妃が何に遠慮しているのか分からない。
「失礼ながら!」
  叫ぶように声を発したのはグレイクだ。
  この場で誰よりも立場が低い。しかし、誰もが遠慮する奴隷の声に皆が注目した。
  アクトゥスの二人だけが目で止めるように訴える。
「妃殿下が気にされているのはイムサス家でしょう」
「イムサス家?」
  外務省の職員に顔を向ける。彼は即座に解説をした。
「イムサス家は侯爵位を持つ領主です。広大な領地を持ち、そのご領地には良港を有しています。代々連合王国内での折衝役を務める家。アクトゥス王家と他の王家を結ぶ要の家だと伺っております」
「そのイムサス家が、なに?」
  自分でも分かるほど声音が冷たくなる。
「妃殿下を廃して当主の娘を新たな王妃にと画策しております」
「グレイク殿、何を言うのです」
  悲鳴に近いグレイフィルの抗議を受け付けず、言葉を重ねる。
「彼は不肖で些か錯乱しているようです。副王殿下、彼の言葉に耳を傾けないように」
「妃殿下の陛下への献身は本物だ。陛下も妃殿下と供におられる時が最も安らいだ顔をされている。しかし、イムサスの令嬢ではささやかな安らぎすら与えてやれない」
「おやめなさい、グレイク殿。如何に王族と言えども他家の者に無礼でしょう」
「無礼はイムサス家でしょう。あの娘は陛下を慕っていない。ただ自身の名誉欲のためだけで妃殿下を貶めている」
「王妃とはそういうものです」
「何より、この国難の折、このような娘の我が侭に振りまわされる家に折衝役が務まりましょうか」
「陛下が任じたのです。その言葉は陛下への無礼。撤回しなさい」
  パンッと柏手が響いた。全員の視線がアスナに集まる。
「我が国は貴国の内政に干渉するつもりはありません」
  王妃とセギン男爵は安堵の吐息を漏らした。
「なので、我が国独自の判断として行動します。グレイフィル殿下が遠ざけられ、新たな王妃を迎えるような事態が起きた場合、大きな混乱が生じると予想される」
  そこで一呼吸置く。これまで得た情報からの推測だ。
  幾らかの間違いはあるだろうが、独自に得た情報を元にした判断だ。
「また、様々な不和の芽が生じつつあるにも関わらず、その芽が摘み取られれる気配を感じない。その状況下で援軍を派遣した場合、万全の支援を得られる可能性は低く、現地で孤立する恐れがある。ラインボルト副王として、見過ごすことはできない」
  フォルキスたちに不必要に過酷な状況に向かわせるつもりは毛頭無い。
「よって、援軍を送ることに今まで以上の慎重な検討が必要だと判断する」
  アクトゥスの者たちは蒼白となり、ヴァイアスは首を振った。
  こうなることが予想できたはずのグレイクまでが血の気を失っている。
  王妃が言った通り、彼はある種の錯乱状態にあったのかもしれない。
「し、しかし殿下」
  何かに縋るようにセギン男爵は言った。
「ウィーディン家のこと、鍵を握っているのはイムサス家です。あまり追い詰めるようなことをされな……っ」
  アスナは両の口端を上げた。それは満面の笑みだ。
「そうだった、そうだった。イムサス家だったな。セギン男爵、大切な事を思い出させてくれて感謝する」
  調べて知識として頭の中にあった。
  しかし、それはアクトゥス全体の問題が解決されれば自ずと解決されると思っていた。
  内閣も敢えてそこに触れないようにしていたようだった。
  自覚させれば厄介な事になる。そういう判断だ。
  だが、当事者たるアクトゥスの男爵が自覚させてしまった。
「良くやってくれた、男爵。他国の人でなければ褒美を贈りたいところだ」
  アスナは男爵の両肩を二度、強く叩いた。
「セギン男爵、貴方の功績を讃えて、改めて内政干渉しないと宣言する。さっき話した方針も変えない。オレ個人の気持ちは政治には持ち込まない。だから、改めて言おう」
  アクトゥスにとって事態の好転にはならない。更に悪くならなかっただけだ。
「イムサス家のご令嬢のことも興味はない。ただ、印象は悪い。隣に住む仲の良い夫婦に不倫を仕掛けているように見える。旦那さんの略奪に成功した後、邪魔になる娘を我が家に押し付けようとしている。そう見える。継母に虐められる娘さんを可哀相に思って引き取ったとしても、お隣さんと仲良くお付き合いできるかな?」
  内々に提示されたベルーリアとの縁組み。
  いま知ったばかりの王妃の地位を巡る争い。
  それらをアスナなりに解釈をすれば、このような形となる。
「顔を見かければ挨拶するし、わざわざケンカをしかけるようなこともしない。だけど、庭に居着いた害獣駆除のお手伝いまではしたくない。我が家に害獣が居着かないように対策を考えるだけだ」
  男爵の肩から手を下ろして王妃に顔を向けた。
「妃殿下、家族で幸せになる覚悟を決めて下さい。貴女となら良いご近所付き合いが出来ると思います。それに今は貴女が王妃なんですよ」
「…………」
  グレイフィルの中で様々な葛藤があるのだろう。
  諦めや憤りなどを飲み下し、王妃の立場から退く覚悟をすでに固めている。
  それを覆せとアスナは言っているのだ。
「副王殿下」
  ゆっくりと顔を上げた彼女の顔にはすでに答えが現れていた。
「第八護衛船団の将兵たちの件、お引き受けします。男爵、貴方のご宗家には悪い事をします」
  セギン男爵はなにを言わずに一礼をした。彼の表情から様々な感情が見て取れた。
  男爵自身も感情を把握しきれていないのかもしれない。
「それにしても、副王殿下は悪い方ですね。王妃である私にラインボルトとの友好を遠ざける決断なんて出来る訳がありませんよ」
「それは仕方がありません。なにしろオレは魔王になるんですから」



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