第五章
「ミュリカ。アスナ様とエルが部屋に入ってから随分経つけど」
入っていったのはニルヴィーナが帰国してから作られた部屋だ。
彼女はここに何があるのか知らない。
「あそこはエル様の図書室です。中に入った事がありますけど、あまりお客様に見ていただけるような状態じゃないので。何かあれば外から呼びかければ出てきてくれますよ」
宰相エルトナージュ・アーセイルの暗部とも言える。
「お二人に何か御用ですか?」
「いいえ。ただ、今日あんなことがあったし、私の方でもお父様にお許しを貰ったから」
アスナが申し出てくれなければ実現しなかったこと。
耳と尻尾を出しても怒られない。そんな体験したことがない時間が目の前にある。
少しでも早くそのことを報告したい。
兄からもそうするように言われている。お礼を言いたい。
「そのお話は明日にしてあげてください。奴隷に落とされたアクトゥスの将兵の名誉を守るために約八百人全員から官姓名の申告を受けましたから」
「想像も出来ないわ」
ニルヴィーナも新年などで多くの人から挨拶を受ける。
笑顔で椅子に座ったまま、にこやかにそれらを受けるのだ。
挨拶に来る配下の貴族の夫人や令嬢、装身具などを扱う大商人や職人衆たちが主だ。
顔見知りとはいえ主従の間柄。そんな人たちを前に辛い顔をしては、彼らの面子を傷付けることになる。にこやかでなければならない。
それでも二、三十人程度だ
アスナはそれを上回る人数の申告を受けた。面子を守るためではない。
奴隷から誇りある軍人へと還るための儀式。
通常では決してあり得ない王による申告受領。軍人に戻れずとも人には戻れただろう。
「分かったわ。浅慮でした。明日、アスナ様にお礼を言うわ」
「はい。これからの時間、どうされます?」
部屋からアスナが出てきても、そのまま休んでしまうだろう。
楽しい時間を過ごすのは少し気が引ける。
「そうね。今日は大人しくしているわ。そろそろ使節団同士でのお茶会が始まるから、お兄様とお会いする方たちのことを復習しておくわ」
「分かりました。私は詰め所にいますから、何かあれば呼んで下さいね」
それでは、と役目に戻るミュリカを見送るとニルヴィーナはフェイとともに兄の部屋へと向かったのだった。
ニルヴィーナらとお茶をしていたエルトナージュを引っ張り出して、彼女の図書室に閉じ篭もって早一時間。
アクトゥスの三人から得た情報を彼女に伝えて、これからの相談を始めていた。
シエンと外務大臣にも同様の情報を伝えている。
これまでアクトゥスのイムサス家を中心に基本知識の確認を行っていた。
「以前の、アスナが来る前の私もイムサス家を狙い目と思っていました」
一通り話し終わり、エルトナージュがそう自分の考えを述べ始めた。
「あの家は連合王国の要。労多くして益少ない。そういう損な役回りをしてきた家です。だから、その家に何かしらの混乱を与えればアクトゥスは揺れる。戦時だから結束を強めると思ったんですが、逆の動きをしているとは思いませんでした」
「エルが宰相やってた時には王妃の悪口の大元だって話は届いてなかったのか?」
「届いてましたよ。ただ、大元というよりも幾つかあるうちの一つ程度でしたけど」
「けどさ、戦時中に貴族が王妃の悪口言うのはどうかと思う」
「戦時だからですよ。王の悪口は言えない。だったら、どこか言いやすそうなところに不満をぶつける。王妃に限らず、宰相であったり、側近であったり色々です」
王の悪口を言えば政敵に咎められて、権勢に翳りが生じる。しかし、側近たちならば咎められることはない。彼らがしっかりしないから王が困っているのだ、と批難できる。
悪口をいう理由は様々だ。自分がその地位に就きたい、単なる嫉妬とさまざま。
「ですが、イムサス家が悪口の大元になっているのは意外ね」
「というと?」
「あの家は王家の名代として各王家との水面下の調整を担っていると言いましたよね。こういう仕事は上位者の篤い庇護がないと出来ないこと」
「ああ、うん。それはよく分かる」
アスナとエルトナージュの関係を例にすればよく分かる。
内乱を起こしてしまった宰相がその後しばらく続投が出来たのも、アスナという大きな庇護者がいたからだ。
「使命感と君臣の間柄が良好、そして適度な距離感。調整役に最低限求められることはこの三つだと思います。王妃の悪口を言えば君主に嫌われる。それに妃殿下を追い出して、当主の娘を王妃に据える。そういうことは出来るだけ避けたいはずなのに」
数秒考えたが彼女にも推測が出来ないようだ。
「まぁ、それは情報収集しつつということで。実際にどう動いた方が良いと思う?」
「それは大言壮語を吐いたアスナから話すことですよ」
若干、呆れた風に彼女は言った。
「グレイクのことや、援軍なんかのことを王妃の功績になるように動けば、あの人の立場は強固になるだろ。相対的にイムサス家の立場が悪くなれば、サイナさんの件を通しやすくなる。アクトゥス王家も気を遣わなくなるだろうし。国の利益は正規の援軍交渉で引き出す」
「イムサス家の調整力が失われますよ。そうなると連合王国は機能不全を起こします。利益を引き出せたとしてもアクトゥスが履行できなければ、それはただの紙切れですよ」
「現金払いをして貰うとか」
「戦時中の国に何を期待しているんですか。自分の財布をみて話をしてください」
大蔵大臣がいつも金がないと愚痴を言い、予算を巡って大臣たちは火花を散らしている。
実際、必死にやりくりをしてなんとかしている。一度に大金を用意する余裕はない。
「はい。すいません」
「そんなことでは内閣の同意は得られませんよ」
「勢い任せでした。反省しています」
「よろしい。それじゃ、どうするか考えましょうか」
卓の上には地図と各種資料が広げられている。若干、情報が古くなっているが参考になる。ここで作った案は内閣で検討する時の叩き台にできる。
「初めの予定だとアクトゥスを解体してオレたちが新しい盟主になるんだったよね」
「そうですね。私たちが積極的に前に出てリーズを撃退し、その武威をもって連合を解体して作り直す」
「今にして思えば勢いがありすぎる案だったかも」
「そうですね」
反省すべき点だ。この案は現状では使えない。
アスナがグレイフィルたちに情けを示しすぎたのだ。露骨にすれば悪評が広がって逆にラインボルトが酷い目に合うかもしれない。
「原点に返って、オレたちがアクトゥスから手に入れたい物ってなんだろ。やっぱり、海か?」
エルトナージュは頷いて同意する。
「具体的には海図、操船技術、海の安全、そんなところでしょうか」
これらに関してアクトゥスは先端を進んでいる。目も眩むような大金を用意しても一朝一夕では追いつけない開きがある。
「あとの関税を下げて貰うことや、市場の参入なんかはおまけですね」
「そう考えるとさ」
背もたれに身を預けて天井を見上げる。埃が舞っているのが見えた。
「焦点になるのは海聖族のアクトゥスであって、連合王国としてのアクトゥスじゃないんだよな。むしろ、残りは重荷?」
ラインボルト、サベージ、アクトゥスによる海上交通路の安全確保に協力する条約に連合傘下の王国はあまり関係ないように思える。
「良いところに気付きましたね」
と、エルトナージュは微笑んだ。
「欲しい物が何か。そういう目で世界を見回す。面白い視点ですよ」
「お褒めいただき恐悦至極。そういう目で見てみると仲良くしていくのはアクトゥス王家だけってことになるんだけど……。そういや、外交権って他の王家は持ってないんだっけ。今までと変わらない?」
「戦争という要素を加えれてみれば良いんです。フォルキス様を援軍に出す場合、戦場となるのはホーシェクト島です」
「あの沈香が採れた島ね」
「そうです。そのホーシェクト島でフォルキス様はそこで大活躍をする。だけど、他の王家は自分の領土がリーズの攻撃に曝されるんじゃないかと恐れている。そんな時、フォルキス様の大活躍を聞けば自分の土地も守って欲しいと思うのは当然ですよね」
「うん。気持ちはよく分かる」
敵にすればこれほど恐ろしいが、味方であれば心強い。
それは実際に剣を向けられたアスナとエルトナージュが最もよく分かっている。
「だけど、主戦場は海の上とホーシェクト島。海王としてはホーシェクト島で戦って貰うのが一番ありがたい。だけど、他の王たちは納得しない。そこでイムサス家の出番となるんですが、今のあの家に抑えられるかどうか。抑えられれば大した物です。だけど、そうじゃない場合は王たちは独自に動き出すかもしれませんね」
「援軍出してるオレたちに自分たちも守ってくれって言ってくるか」
「えぇ。アクトゥス王家に外交権が委任されているはずなのに王たちから援軍要請が来る。私たちの立場からすれば、問い合わせしない訳にはいきませんよね。となると、イムサス家の面目は丸つぶれ。権勢は失うでしょう。それと同時に連合王国内に不和が生じる」
「そして、戦後自然に連合が解体される、と」
「全てがバラバラにはならないでしょうけど、ある程度崩れると思います。その時、私たちはアクトゥスと正式に同盟を結べば良いんです。その代償として離反した国々の独立を認めさせる。あとはその独立国家の市場に私たちは大手を振って参加する」
「…………」
エルトナージュが提案してくれたことを改めて心の中で反芻する。
都合良すぎる大風呂敷を広げているが、叩き台とはこういうものだ。
問題点を修正し、その時々の状況を見て対応する。最終的に叩き台と近似した結果となれば大成功だ。
悪くない案に思える。特にグレイフィルを積極的に裏切るような行動ではないことが良い。ラインボルトは援軍を送って助ける立場なのであって、崩壊の原因は調整役なのに務めを果たせなかったイムサス家だ、と言い切れるところが良い。
「どうです?」
「良いな。今度の閣議でこの話をしてみるよ」
「よかった。それじゃ、これで難しい話はおしまいでいいですか?」
「……うん。さすがに今日は疲れたよ」
気が抜けてしまい、肩が落ちて項垂れてしまう。
卓の上に寝そべらなかったのは僅かに残った見栄のおかげだ。
「このまま休みましょうか。顔に疲れが出すぎてます」
「そうする」
立ち上がった彼は当たり前のように正面に座るエルトナージュの手を取った。
たったそれだけのことで彼女は多くを悟った。見る間に頬が赤くなる。
「だ、ダメですよ。ニーナたちが来ているんですよ」
「一緒にお風呂入って、ひっついて寝るだけだから」
「……ホントよね?」
「うん、ホントホント」
エルトナージュは握られた手をそっと握り替えした。応えとして十分だ。
約束が守られたかどうかは二人だけが知っている。
王城の敷地内に宰相が寝起きする公邸がある。
多くの人々が陳情に訪れ、諸大臣が駆け込んでくることもある宰相官邸とは異なり、私的な住居となる公邸は非常に閑静だ。
ラインボルト宰相シエンはここに妻と二人で暮らしている。王宮府所属の職員が家政婦として公邸に仕えているが、大きな会合や宴席でもない限りは妻一人の手で事足りた。
官邸が表沙汰にできる人物を迎えるのであれば、こちらは内々に関係する人を迎える場所として使われていた。
グレイクら奴隷を受け入れた数日後のある夜、この公邸にとある男が訪れていた。
「やあ」
「ご無沙汰しています。今日は夜風が冷たいですよ。お入り下さい」
「お邪魔いたします」
夫婦が出迎えた老齢の男は帽子を脱いで、温色の笑みを見せた。彼が今晩の客だ。
名家院議員フラン・ケルミ。議員を五期務める重鎮であり、次期宰相候補として閣議の参観を許された男。
「ケルミ先生をこんな風にお迎えするのは十年ぶりぐらいかしら?」
「もう、そんなになりますか。ご夫君とは良く顔を合わせて歓談をしていたから、そんなに経っていたとは思わなかった。奥さまがお若くおられるせいでもありますな」
「あら、お上手ですこと」
「いやいや、本当ですよ。晩餐会でお見かけしたお姿は実に華があった。妻にもあの後、奥方が着ていたドレスを自分が欲しいとせがまれてましてな。よろしければ、妻に紹介してやってはいただけませんか?」
「機会があれば、是非」
などと挨拶を交わしつつケルミが通されたのはシエンが書斎として使っている部屋だ。
こざっぱりとした印象がある狭い部屋だ。
両の壁には様々な書籍が乱雑に突っ込まれている。
卓の上には酒肴の準備まで整えられている。
香辛料で漬け込んだ干し肉が幾つかと野菜の酢漬けが用意されている。
どちらもケルミの好物だ。
「先生、夫が飲みすぎるようなら注意してやって下さいね」
「ははははっ。奥方の仰せのままに」
道化のようにケルミは一礼してみせた。
シエンの妻は「ごゆっくり」と言葉を残して部屋から出た。
宰相にソファを勧められるままに腰を落ち着けた。
「十年か。もうそんなに経っていたんだな。年を重ねるとは恐ろしいものだ」
「時の流れは生きた年数を分母とするらしい。少年の一年は大きいが、老人のそれは非常に小さい。幼い頃はそんなバカなことがあるかと思っていたが、実感する歳になってしまうとはな」
笑いながらシエンは酒瓶の封を切り、グラスに注いだ。
琥珀色の甘い香味が鼻腔を刺激する。これで喉に焼けるような刺激をもたらしてくれるがあるのだから酒は実に面白い。
「我が国の宰相閣下に酌をさせるとは恐縮だ」
「なんのなんの」
二人のグラスに酒が満たされた。
酒と同じ柔らかな明かりが部屋を照らし、それが酒の中で泳いでいる。
「では、殿下の副王就任を祝して」
「就任を祝して」
乾杯、とグラスが鳴った。
喉に流し込む。胃の腑から立ちのぼり、口から溢れる香りが鼻を抜けていく。
口からは甘みを、胃の腑からは若干の渋い香りが溢れ、混ざり合う。
馥郁(ふくいく)たる香りと表現してしまえば、それまでだがそれで片付けてしまうにはあまりにも勿体ない。
語る言葉を口にした途端に陳腐となる。そんな極上の香りと味だ。
「美味い」
ここからの満足の心と一緒に零れた言葉こそが至上。
シエンも語らない。ただ笑みを浮かべた。
黙って干し肉を金網に乗せて炙り始めた。ちりちりと油が爆ぜる音が聞こえてくるのが楽しみだ。その頃には溜まらない匂いが立ちのぼっているはずだ。
「これらも食べてくれ」
トングで指し示した先にはドライフルーツやくるみを練り込んだ菓子パンのようだ。
「これは?」
「殿下が就任式を前に静養を取られただろう。その時に作られた物を賜った」
「それはそれは」
ありがたく頂戴する。思った以上に歯応えがあり、しっかりと実が詰まっている。
「美味いが……。なんというか、随分と腹が膨れそうな菓子だな」
「うちは妻と二人だから食べきれるか不安だったんだ。来てくれて助かった」
「おいおい。どれだけ食べさせるつもりだ」
「なに、土産に包むさ。次期宰相候補への内々の激励だ」
「それはそれは。宰相の職を辞した後は議員に復帰するつもりか」
「まさか。あんな経緯で宰相になったんだ。大人しく隠居するつもりだ」
「長男には後を継がせないのか」
自分が営々と築きあげた物を放棄するのは中々辛い。
大成したからこそ子に受け取って欲しいと思うのも情だ。
「あれは政治を見るよりも星を見る方が好きだ。無理に継がせても何も出来ないまま迷惑をかけるだけだ。それに星の分野で才を認められている」
一度、長男が幼かった頃の話を聞いた事がある。誕生日の贈り物に望遠鏡を強請られたが、そんなものを商っている者はいない。
人脈を総動員して、学者と知遇を得て職人を紹介してもらったという。
シエンの息子はその時の望遠鏡で今も夜空を見ているという。
「娘婿はどうだ。確か君の秘書を務めていただろう」
「出たいというなら止めない。だが、応援はしない」
「厳しい義父殿だ」
「私の娘婿という看板とこれまで得た人脈でどうにか出来なければ、今後はない」
「まぁ、そうだな」
再び酒を口にする。身体が暖まってき、干し肉も脂が滲み出てきている。
フォークで一つ取ると二つに裂く。奇麗に肉の線維が剥がれていく。
口にすると脂の甘みと香辛料の辛味がたまらない美味さを感じさせる。
舌に残る味を酒で飲み下す。これが堪らない。
グラスの酒を飲み干して、遠慮無くお代わりを注ぐ。
「実を言うと君の宰相再任を依頼しに来た」
「宰相候補の君からそんな言葉が出るとは思わなかった」
「私もだ。あの閣議参観まではそんなこと露ほども思わなかった」
「どんな心境の変化だ」
「殿下と君の関係が非常に良好だというのが表向きの理由だ」
君臣の間に信頼関係がある。それは国家にとって望むべきことだ。
だが、それだけで重職を長期で任されることはない。
多くの者が位人臣を極めたいと願っている。安定のために変えねばならないことだってある。人事だけではなく、失敗を修正するためにも交代することがある。
現在、アスナとシエンの国家運営は順調だ。大きな失敗が表に出てきていない。
「裏の理由というよりも、個人的な理由だな」
きつい酒を喉に流して、勢いを作る。
「俺はこれまで議会人として生きてきた。時には内閣に入った事もあるが、基本はそうだった。そのことに充実と誇りを持っている」
「うん」
ただの相づちだが、ケルミのこれまでを肯定してくれたように感じた。
「あの参観の際、俺ならばどう殿下に応答するか。そういう目で見ていた。帰宅して風呂に入りながら見聞きした事を基にして色々と想像した。幾つも頭の中の殿下と問答をした」
「誰にでもあることだな」
相手が副王だからではない。片思いの相手とどう話して良いか、大切な面談の時など人は想像の中に作った人物と問答をする。
「ある政策の説明をして殿下の同意を求めた。すると殿下はこう言った。無駄が多いと指摘された。諸処への配慮が必要と返すと、殿下は即座にその無駄は本当に必要なのか、と」
それはケルミ自身が抱いている疑問でもある。
確かに様々な配慮という無駄が垂れ流されているのは確かだ。
それは潤滑油となり、異なる人脈を繋ぐ架け橋になるものだ。
しかし、その政策単体でみれば無駄でしかない。果たして良いのか。
「ご下問に答えられなかった」
「殿下なら心配されるだろうな。そんな配慮しないが必要なほど追い詰められているのか、とな。あの方は、そうだな。清濁併せのむことはしないな。必要に迫られれば泥を啜るだろう。だが、必要なければそんなことはしない。真面目な顔で腹を壊すぞと怒るだろう」
「そんなことを言われれば議会人としての私は間違いなく死ぬ」
「死ぬか」
「あぁ、啜った泥を拭われでもしたら間違いなく。今日の奴隷の件、聞いているだろう。その時、俺は自分の勘が正しかったことを自画自賛したよ。興奮のあまり気に入りのカップを壁に叩き付けたほどだ」
「…………」
シエンは黙って彼の独白を聞いた。火が通りふっくらとした干し肉を食べやすいように裂きながら。
「官姓名の申告をさせただけで奴隷たちを将兵に戻した。そんなことが出来る方の側にいては、ただの老人になってしまう。そう自覚してしまったよ」
一通り裂いた干し肉を載せた皿を彼の前に差し出した。
ケルミは目礼をし、細長い肉を口にいた。その目には幾らかの嫉妬があった。
相性の問題なのだ。世の中には直接触れ合わせると悪影響を与えるものがある。しかし、間に別の何かを挟めば良い結果を生むことだってある。
派閥を形成しただけあって、宰相の地位を諦めた彼の行動は早かった。
シエンを支持することで議会での権勢を強化したいというのが彼の意図なのだ。
行政府と立法府がそれなりに安定すれば、王にとって利益となる。
「だが、私にも事情があるのだがな」
彼が宰相の任に就いているのはアルニスに命じられてのことだ。
またアスナが魔王となるか、戦争が終結するまでと期限を区切ってもいる。
翻すことは難しい。
「辞職すればいい。その上で改めて俺たちが殿下に推挙しよう」
「残る二人ではダメか」
候補は彼以外に二人いる。どちらも有力候補だ。
片方は元軍人、もう一人はケルミと同じような経歴の議員だ。
「ダメだな。ただでさえ強くなっている軍の発言力が更に強くなる。もう一人は宰相の地位に目が眩む可能性が高い。贅沢らしい贅沢をしない殿下では鼻につくだろう」
魔王となる者が一時的に欲に塗れるのはある種の通過儀礼だ。
しかし、アスナにはそれがない。
酒色に溺れず、歌舞音曲にもさほど興味を示さない。
敢えてあげるとすればサイナのことになるのだが、彼女は与えられている予算に殆ど手を付けていない。後宮に与えられた部屋を整える程度だ。
質実剛健を旨とするように育てられたせいか、身の回りに必要となる殆どを近衛騎団団員としての俸給で賄っている。
エルトナージュも似たようなものだ。予算内で済まされている。姫君の宝石遊びも一袋幾らの値が付けられる程度の質だ。贅沢とはとても言えない。
それどころか宝飾品を扱う商会に卸して利益を得ているほどだ。文句なんて言えない。
贅にも権にも溺れない。民と国家のために奮闘する王。
庶民が思い描く王そのものなのかもしれない。
そんな王が宰相の煌びやかさに飲まれる男を良しとするか。
多少の贅沢は役得だと許容しそうだが、溺れる者は許さないだろう。
ただ、あの少年は王足らん努力する日々が楽しいのだ。
そういう意味で宰相として能力の全てを振るうことを楽しんでいるシエンも同じだ。
この大きな共通点があるから二人は共犯者たり得ている。
王権を振るう。これこそが至上の贅沢だと少年は無意識に知ったのだ。
ケルミが諦めざるを得なかった点がこれだ。
彼は利益を集め、支持者に分配する人だ。そうすることで自己を確認している。
平時であれば時間を掛けて馴染ませていくことも出来たのかもしれない。
現在は戦時。そういう馴染む時間は少ない。そんな判断もあるのだろう。
「俺の支持を受け入れてくれるか」
一朝一夕で答えられることではない。
様々な人の、特にアルニスの判断を仰がねばならない。
「時間を貰えるのだろう?」
「無論だ」
「……考える。今はそれで勘弁してくれ」
「分かった。今度は君の方から誘ってくれ。どんな返事だろうとな」
これで難しい話は終わりだと宣言するようにケルミはシエンのグラスに自分のグラスを触れさせた。軽い音が響いた。
「次の大きな催しは狩猟会か。君も参加するのか?」
「まさか。殿下の留守を守るのも宰相の役割だ」
「本音のところは?」
「知っているだろう。私にはそういう経験がない。年寄りの冷や水と笑われるだけだ」
「ははははっ、違いない。……にしても、こう言っては無礼かもしれんが、副王殿下は上手に茶会を乗り切っているな」
行事の合間には小さな懇親会が催される。
ただお茶を飲んで世間話をするだけではなく、芸事を披露し自らの考えを開陳する場でもある。そうすることで周辺に一目置かせて味方を作り、敵を牽制するのだ。
「音楽、数学、絵画、詩吟。どれも使節団の中で評判だ」
音楽では縦笛を、絵画においては王城の庭の風景を描いたものを披露した。数学では中学三年相当の知識があり、詩吟においては幾つかの童話を語り聞かせた。
どれも一流ではないが、見るに耐えないなんてことはない。
アスナの技量は、学校内で平均的。その他大勢の一人と埋没する程度。
とはいえ、それらは貴族の嗜みとして十分なものだ。
「殿下は本当に市井の出か?」
「そう聞いている。祖父君は軍人、父君は貿易商を営んでいるそうだ」
「使節団の間では、祖父君は人族の王家に連なる血筋の将軍、父君は庶子だが大商家に婿入りして大成しているとかいう噂が流れているな」
この四つの芸事を全て学べるのはそれなりの広さを持つ領主か、大成している商家のみ。
ラインボルトにも低年齢層向けの学校があり、国民の基礎学力は高い国だ。
といっても、そこで学ぶのは読み書きと計算程度。
それ以上は成績優秀者となって奨学金を得るか、高い学費を納めねばならない。
「彼らにとって殿下が特別であればあるほど都合が良いんだ。貴種であれば納得できるし、受け入れやすい。人族であっても貴人の血ならば妥協できるんだろう。外務省にも聞かれない限り、殿下の素性について話さなくて良いと命じている」
「我が国が抱える宿痾だな」
魔王も市井の出ということが多い。
諸国の貴族たちは「運が良かっただけ」と折り合いをつけている。
だが、アスナは魔王の力を得ることなく事を為してしまった。
彼らは自らの存在価値を守るために、アスナを祭り上げなければならなかったのだ。
「仮に何も出来なかったらどうなっていたかな」
「お飾りだったと思うだけだ。とにもかくにも殿下は諸国からそう見られるようになった。これから大変だな」
「……なにがだ?」
「縁談」
ああ、とケルミは納得した。
ラインボルトが血統により王位の継承が行われていないことは知られている。
そこで各国は繋がりを持つために新たな王に縁談を申し込むのだ。
血の繋がりがなくてもエルトナージュとアジタ王ティルモールは叔父と姪の間柄だ。
その関係に相応しい付き合いが今も続いているし、配慮もせねばならない。
一代限りであっても縁戚関係となるのは非常に有効だ。
「こう言っては何だが人族だぞ」
「だが、王だ。それも貴種だと勘違いすることにしたなら障害は低くなる」
そこでシエンは肩をすくめて見せた。
「殿下がお決めになられれば良いことだ。よほどの不都合がなければ反対はしない。あの殿下ならば、片っ端から女性を掻き集めるなんてことはしないだろう」
「まぁ、そうだな」
ともあれ、宰相という夢を一時であっても見られた。
それに酔い発奮もしたが、醒めてしまえば二日酔いが待っている。
言ってしまえばそれだけのことだ。
狩猟会の開催日が近づいてきた。
各国の使節団はその準備に追われてお茶会は一休み。
賢狼の兄妹たちも同様だ。アストリアは賢狼公と現場に先乗りをして様々な手筈を整えているし、ニルヴィーナも留守居役としての務めを果たしている。
そのため、王城の後宮は久方ぶりに静かであった。
慣れない人たちと大勢会ったこと、失態が許されないこと、なによりも想定していなかった幾つかの出来事でアスナは心身ともに疲れてしまっていた。
狩猟会に向けた準備日は良い休養にもなる。表向きにも準備中として面会を断っている。
今、アスナは後宮内の庭でサイナに膝枕をして貰いながら昼寝をしていた。
彼の顔にかかった髪をサイナは払ってやる。
傍らにエルトナージュがいてハンカチに刺繍をしている。
「少しお疲れのようですね」
「あんなことがあった後だもの。仕方がないわ」
もちろん、奴隷たちのことだ。
「アスナの周りにはいなかったそうだし、ラインボルトでも使っていないから」
一番近いのが囚人や懲役や捕虜に課す労役になるだろう、という判断で奴隷たちは捕虜と同じ扱いをすることにしていた。
近衛騎団が預かることとなり、捕虜を得た時の訓練代わりに世話をしていた。
「団長から聞きましたが、道中随分と荒れたそうです。その夜、ちゃんとお慰めしたんですか?」
真っ赤になってプイッとそっぽを向いてしまった。可愛らしい。
「アスナ様は我慢する性格だから、時には私たちからお誘いしないと」
「内乱中からそうなのよね」
「はい。それとなくアスティーク参謀長が勧めていましたが断られていましたから」
「で、貴女が押し倒したんでしたのね」
「…………」
藪蛇だった。仕方がないことだ。
これまでの振る舞いや”彷徨う者”に囲まれてなお、自分たちを信じ抜き死ぬなとまで言ってくれる人に想いが極まってしまったのだ。
「サイナは良いですね。この人の凛々しいところを見る機会に恵まれて」
ここで否定するのは何か違う。なのでサイナはアスナに倣って胸を張ってみた。
「役得ですから。けれど、心配もします。万一の可能性がある時ですから」
「そうね。それにこうやって疲れ切ってしまう。胸の傷は塞がったけれど、疲れが抜けにくくなってる」
アスナはロディマスに週に一度検診を受けている。
その結果はエルトナージュが述べたとおり。それとなく各所に仕事を減らして、体力作りを優先した方が良いのではと働きかけているが。状況がそれを許してくれない。
内閣が弱いのだ。アルニスの推薦によって誕生した宰相だからか、内閣単独で事を進めるには力が足りない。アスナが後ろ盾として内閣に出席した方が安定感が得られる。
出席したなら、アスナは疑問や自分の考えを口にする。
閣議の疑問を持ち帰ってエルトナージュと相談をし、それを閣議で繰り返す。
その合間に王宮府の主としての決済を行い、体力作りを行う。
最近のことを加えるならお茶会で恥を掻かないように笛の練習をし、絵を一枚描いていた。明らかに過労だ。
「やっぱり、あの話を進めた方が良さそう」
「……あの話って?」
膝の上で寝息を立てていたアスナがむっくりと起き上がった。
まだ眠そうな顔のままエルトナージュに問うた。
「サイナ」
頷く他ない。彼女の力が本物だとロディマスからお墨付きを貰っている。
エルトナージュは庭の端で邪魔にならないように待機していた侍女に手招きをした。
足早にミナが駆け寄ってくる。
「あの話をこれからします。良いですね」
「はい」
緊張で若干声が甲高い。無理もないとサイナは思う。
……ないとは思うけれど、念のために。
「百聞は一見に如かず。まずはアスナに見せなさい」
「はい」
何事かと訝しんでいたアスナの顔が驚きに変わる。
ミナがワンピースの侍女服のボタンを外し袖を抜いた。すとん、と彼女の足下に服が落ちた。飾り気のない白い下着が露わになる。彼女の肌は羞恥で桃色に染まっている。
「エル、そこに座りなさい」
途端にアスナの声が剣呑となる。しかし、エルトナージュは何も感じてはいない。
「もう座っています」
「オレはこういうことをされても嬉しくない。そりゃ、王様なんだしこういうことを命令するのもアリなのかもって考えたことあるけど。さすがにそんなこと実際にしようと思いません」
……これは本当に腹を立ててらっしゃる。
アスナは所謂、暗君のような振る舞いが嫌いだ。
彼の言葉を借りれば、格好悪いということになる。
カッコつけたい相手であるエルトナージュが侍女に服を脱がせることを命じたなんて許せることではない。
サイナはそっとアスナの両肩に手を置いた。
「まずは彼女を見てください。大切なことなんです。そうじゃないと話が始まりません」
と、強引に彼の顔を両手で挟んで、ミナに向けさせた。
抵抗するが力勝負でアスナに勝ち目はない。
「あ、姿が違う」
変身魔法を解いたミナがそこにいる。
頭冠のような角、薄く黒い蝙蝠のような羽が腰の辺りから生えている。
足の間からは細長い黒い尻尾が見えている。
「いや、そうじゃなくて。服を着ろ。エルの命令だからって、こういうことまで従わなくて良い」
「殿下、私の身体、気持ち悪くないのですか」
「……いや、全然?」
「もっと良くご覧になって下さい。私は、星魔族なんです」
「そりゃビックリしたけど、幻想界なんだしミナみたいな種族もいるだろ」
「アスナ、目つきがいやらしい」
服を着ろと顔を背けつつもしっかりと目だけはミナに向いている。
「うっさい!」
実際、ミナの肢体は非常に魅惑的だ。女性的な肉体美に溢れている。
豊かな胸と臀部。びっくりするぐらい細い腰回りやしなやかな四肢。
顔立ちが清純的に見えるだけにそれが余計に際立つ。
アスナに言わせれば、サイナもそれに分類されるのだが。
それを思い出してサイナはこっそりと赤面した。
「ミナ、もういいです。服を着なさい。これ以上はアスナの目の毒です」
「自分がそうさせたのに何、その言いぐさ」
角などを隠したミナは素早く衣服を整える。羞恥は収まらないのか顔は赤いままだ。
「まぁまぁ、まずはエル様のお話を聞いて下さい」
こほん、と咳払いをすると憮然とするアスナを宥めることなくエルトナージュは話を始めた。
「彼女は星魔族。月や星が放つ魔力を活用する術に特に長けた種族です。月が巨大な魔石だというのは覚えてますよね」
「覚えてるよ。大きな街とかにある魔獣避けの施設とか屋外で長期間使う施設で利用されてるんだろ。個人でも使うけど、あくまで補助」
「正解。彼女たちはそういった施設と同規模のことを個人として行えるんです。主に治癒の面で優れています」
「凄いとは思うけど、それが?」
「幻想界では星魔族は忌避される存在なんです。そのように大昔、リーズによって位置づけられました」
「また、リーズか」
最近、面倒を引き起こすのは彼の国だから印象が悪い。
「竜族よりも巧みに空の魔力を用い、獣のようで獣ではない姿。治癒は夜に行うことが多かったこと、その中には性的な接触が必要な物があったこと。そう言った事が重なって彼らは竜族から攻撃を受けたんです。現在もその忌避感は幻想界全土にあります」
そこまでいうとエルトナージュはミナに顔を向けた。
「ここから先は貴女が話しなさい」
「はい。姫様、ありがとうございます」
一拍の間をおいてミナは話し始めた。
「私たち星魔族は星の光すら届かない闇の底を生きています。殿下のお耳に入れられないような泥の中にあるものを糧として生きています。幼い頃からその中で生きていけるようにと教育を受けてきました。ですが、この境遇に馴染めない者もいます。本来、私は望んで良い者ではありません。望む人を抑える立場です。だけど、耐えるのが苦しいんです。普通に生きていきたい。……殿下、本来の姿でお側に仕えることをお許し下さい」
そうして、ミナは深く頭を下げた。
「許したら何かオレに不利な事でも起きる?」
「あまり良い印象は持たれないでしょうね。印象の話だから言葉にするのが難しいのだけれど」
「いや、うん。何となく分かった。なるほどね。……つまり、ミナは星魔族の名誉を築き直したいってことか。取り戻すじゃなく」
「はい」
「許可する。オレは魔王の下に全ての種族は平等っていう志? みたいなのを気に入ってる。だから、許可する。けど、これからも星魔族に特権は一切与えないし、それを持ってるように振る舞わないこと。悪評になるからな」
「はい、殿下」
「それと困った事があったらストラトさんとシアさんに相談すること。エルからもシアさんに宜しく言っておいてよ」
「わかりました。……それで、ですね」
エルトナージュはそういうとアスナの頬に触れた。肌色が悪いように思う。
「疲れてますよね、顔に出てるわよ」
「まぁ。最近ホント色々あるし」
「ですから、彼女の力で疲れを取って下さい」
「あー、うん。そうだなぁ」
躊躇するアスナの様子にミナは身体を強張らせた。
疲れを取る魔法はある種の麻薬のように扱われたことがある。実際にそのような副作用はないのだが、印象とはそういうものだ。
「けど、そういうのに慣れるとだらしない気がするだろ? 二日酔いを治してくれ〜、みたいな感じがするしさ」
「だったら、私かサイナが使うように言った時だけにしましょう。それなら少なくともだらしないことにはならないはずです」
「そういうことなら、大丈夫かな」
アスナが受け入れた。少なくともこれで彼女は守られるだろう。
それにこれはサイナたちへの気遣いなのかもしれない。直接、ミナと一対一の関係とするのではなく、サイナたちを加えた関係とする。
「では、今晩寝る前に試してみましょうか」
その後、唐突に貰った物を見に行こうとアスナが言い出し、宝物庫へと向かった。
担当者は大わらわとなったようだったが、貰った当人が言いだした以上否はない。
やはり目を見張るのが巨大な沈香である。他にも贈られた物は多くあり、アジタ王から頂戴した銀細工も素晴らしいものであった。
またサベージから贈られた毛皮も手触りが良く、アスナはこれらで外套を作ることにしていた。
どれも目を見張るほど素晴らしいものだが、これらの多くは商家などに売り払い復興予算に下賜されることが決まっていた。残るのは宝剣などごく僅かなものだけだ。
ゆっくりと見られるうちに見ておきたいという気持ちはよく分かった。
そして、夜。就寝時間だ。
布団の中に入ったアスナの傍らには椅子に腰掛けたミナがいる。
その反対側にはサイナとエルトナージュがいる。
最初ということもあり、念のために同席したのだ。
「では、お手を失礼します」
差し出された右手をミナは両手で大切に包むようにして握った。
彼女の背には窓があり、夜空の光が瞬いている。
「あとは?」
「目を瞑って、お楽にしてください。殿下にしていただく事はそれだけです」
「わかった。それじゃ、よろしく」
「はい」
彼が目を瞑ると二人を繋ぐ手が淡い橙色に光った。
サイナには暖炉の灯りのように思えた。見ているだけで穏やかな眠りを誘う色だ。
ほどなくしてアスナが寝息を立て始めた。普段よりもずっと早い。
ミナの説明によれば、彼女の魔力とアスナの中にある微弱なそれを同調し循環させるのだという。そして、月や星が放つ魔力を用いて整調化する。
天体の魔力は全ての者に影響を与える。それはつまり、基本となる魔力であるとも言える。それに合わせて循環させてやれば、被験者の負担も少ない。
その流れに癒しの魔法を合わせれば、疲労を取り除く事ができるということだ。
この方法は魔法や闘気の修練に酷似している。自身の中にある魔力を意図的に体内を循環させることで制御を覚えるための修練。
達人と呼ばれる者たちはこれを呼吸とともに行い、疲労を抜き傷の治りを早める。
それを何の修練をした事がない者でも出来るように外から整える手伝いをしているのだ。
「あと五分ほど続けます。人族には試した事がないので、今晩は最低限とします」
「そうですね。何度か試して最適な時間を調べた方が良いでしょう」
爽やかな目覚めだ。
ここのところ感じていた頭痛や倦怠感がなく、ごく自然に起きることが出来た。
なにより夢を見ずに済んだ事が大きい。
良い夢ではなく些細な失敗を幾つも繰り返す夢だ。
ただただ深い眠りが、これほど心地よさだったとは知らなかった。
アスナはベッドから降りて、テーブルに置かれている水差しを取り、茶器に注ぐ。
水だけではなくミント系の香草が入れられている。
これを飲むだけで爽やかさが更に増す。手早く着替えを済ませて食堂に向かう。
お腹がすいていた。
すでにエルトナージュとサイナが席についてお茶を飲んでいる。
「疲れはとれました?」
「うん。とれた。ゆっくり寝られたと思う」
「よかった」
すぐにストラトが顔を出した。
「おはようございます、アスナ様」
朝一番のお茶を煎れるのはストラトの特権である。
「すぐに朝食をお持ちします。少々お待ち下さい」
「よろしく」
「期待したとおりの効果が出たみたいね」
二人とも心配だったのだろう。安堵の表情が見て取れた。
「ありがたいことにね。で、ちょっと思ったんだけどさ。アクトゥスの捕虜の治療に使えないかなぁって」
「酷い傷を負った者もいるそうですね」
戦傷もあれば、その後リーズ兵によって暴行を受けた者もいるだろう。
酷く殴られたことがない者が見られないほど扱いが酷い。奴隷の扱いですらない。
「オレ個人としては可哀相だってのがあるんだけど。ラインボルトって医療面では先端だろ。その国に与えたのに奴隷を殺すなんて大したことないってあの代理殿に言われたら腹立つじゃない」
「それはまぁ。そうですね。あの代理を名乗る人物はアスナを挑発し続けていますから、言ってくるかもしれない。けど、そのためには問題があります」
まず一つ、とエルトナージュは人差し指を立てた。
「ミナ一人で面倒が見られない。複数人必要になります。彼らを一時雇いとするのか、正規で雇用するか」
「オレは正規で良いと思ってる。有用だって実感してる」
「では二つ目。誰が面倒を見るか。私たちの身の回りの世話をさせる人数は足りています」
中指を立てた。
「先生に預かって貰おうかなって思ってる。典医ってオレだけを診察してるんじゃないし」
先生とはアスナの専属医を務めるロディマスのことだ。
典医は君主の診察が最優先だが、平時は職員も診ている。
傷薬や風邪薬などを貰いに行く人は結構いるのだ。
「うちの職員が過労で倒れる前に星魔族の世話になれば、病気せずに済む。本人にとっても周りにとっても迷惑にならない」
「助手にするんですか?」
「そこは先生と応相談。素人には分からないし」
「最後に三つ目。星魔族は忌避されています。捕虜たちが拒否した場合は?」
薬指を立てる。
「その時はこの話はなし」
「ロディマスの下で使う話は悪くないと思いますけど?」
「忌避されてるんだろ? 効果があるか疑心暗鬼になってる人に説得するぐらいなら、先生が普通に診察した方がましだよ。目立つ形で効果を示したらその手間が省ける」
人体実験の側面は否定しない。だが、捕虜たちが早く元気になったという実績があれば、受け入れる人も出てくる。新薬と同じようなものだ。
「まぁ、そうですね。……それじゃ、この件は私が引き受けます」
「良いの?」
「えぇ。ミナは副王付きの侍女ですし、捕虜たちも一応はアスナの奴隷です。どちらも奥向きの話ですから。ただ、使節団が来ていますから面倒を避けるためにも宰相殿に話を通しておいた方が良いでしょうね」
「分かった。シエンの意見を聞いたらエルに報せるよ。内府も反対しなかったら後の手筈はエルに任せる」
「任されました」
朝食を手押し車に載せてストラトが戻ってきた。
彼の後ろにはミナが付いてきている。
「お待たせしました」
手早く配膳される。
トーストにスクランブルエッグにベーコンとソーセージ、コンソメスープとサラダ。あとは果物が用意される。朝食の献立は毎日こんな感じだ。
「ミナ、昨日はよく寝られた。ありがとう」
「恐縮です、殿下」
赤面をしながらミナは深く頭を垂れたのであった。
星魔族の件は積極的に宣伝しないことを条件にして内閣、王宮府ともに承認を得た。
残る大きな問題は捕虜たちの判断であったが、多くの者が傷に苦しんでいる以上、背に腹は代えられないと渋々受け入れた。
実際に傷の治りや疲労回復が早くなっていることに多くの傷兵が複雑な顔をしていた。
彼らにもそれぞれに思うところはあるようだが、奴隷たちの中から死者が出ず、医師の見立てよりもずっと後遺症を残す者を減らせた。少なくとも、それは良いことに違いない。
星魔族への忌避感が薄れることもなく、世界には何の変化ももたらしてはいない。
ただ、ロディマスの下で五人の星魔族が下働きとして職に就き、夜勤となった王宮府の職員が仮眠を取る時、星魔族に魔法を施して貰うようになったこと、ミナが本来の姿で働いてる姿が見られるようになったこと。
これらが変化と言えば、変化と言えるのかもしれない。
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