第五章

第十四話 狩猟会

 


第五章
第十四話 狩猟会

 狩猟会の始まった。
  すでに賢狼公に引率されて狩りや競技に参加する騎士たちが会場に先乗りをしている。
  場所は首都エグゼリス郊外から更に馬車で一日の距離にある王家所有の狩場だ。
  そこで街中ではしにくい武張った競技をして楽しもうという趣向だ。
  騎士たちにとって自らの武威を示す良い機会なので非常に張り切っている。
  特に貴族の次男三男たちは婿に入る切欠になるかもしれないため、若干気合いが入りすぎている。ラインボルト側はそういった都合がないこともあって、そんな彼らに花を持たせる役割を持っていた。
  使節団代表たちとともに馬車で狩場に乗り入れたアスナは目の前の光景に感嘆の声を漏らした。
「はぁ。これは凄いな」
  遠く見える濃緑の山々。そして、背の高い木々が生い茂る森。
  黒き森、そんな言葉が頭に浮かぶ。それはお伽噺に出てくる景色だ。
  一望できる全てが王家の狩場。つまり、アスナの物だ。
「ご無沙汰しております、殿下」
  親しみの込められた渋みのある声だ。
「久しぶりです、オルフィオさん」
   元近衛騎団団長にして、現旧城エグゼリス城代。騎士という序列では最上位に位置している。
「この度は副王就任おめでとうございます。ラインボルトの騎士を代表しお祝い申し上げます」
「ありがとう。賢狼公と一緒に段取りをつけてくれたって聞いてます。助かりました」
  ラインボルト側からの狩猟会の責任者は彼なのだ。就任式の以前から準備は進められていた。
「なんのなんの。姫様方も馬車に揺られてお疲れではないですか?」
「このくらい、何てことはありませんよ。オルフィオ様」
  一通り挨拶を交わすとオルフィオは自分の背後に控えていた者たちを紹介した。
「殿下。彼らは狩場周辺の村落の長たちです。巻き狩りでは勢子を務め、使節団の受け入れ先の責任者でもあります」
  参加者は大人数だ。一箇所に集めては獲物が瞬く間に逃げてしまう。そこである程度、拠点を分散させて、そこから狩りを始めるのだ。
  そのためには周辺の村落を利用するのが一番だ。
  村長たちは森林管理官を兼任しており森での狩猟と採集を行う権利が与えられている。
  その代わり狩猟会などの時には村をあげて手伝いをする義務を負っている。
「うん。世話になる」
  ははぁ〜、と時代劇さながらに平伏されて、アスナは苦笑いを浮かべてしまった。
「では、これよりお世話をする使節の方々にご挨拶に向かわれよ」
  オルフィオに促され村長たちは移動を開始する。
  残ったのはアスナたちが滞在する村の村長ともう一人。
「彼が殿下たちとサベージの皆さまのお世話するテドキ村のゾドック殿です」
「ゾドックにございます。殿下方、サベージの皆さまのお世話が出来、誠に光栄に存じます。森林管理官筆頭として御礼申し上げます」
  管理官同士の調整を行う筆頭は二年ごとの持ち回りとなっている。
「賢狼公や騎士たちの様子はどうだ?」
「はっ。私たちにも非常に良くしていただいております。ただ……」
「ただ?」
「リーズの方々はお越しではないと聞いています。お世話を仰せつかった村はどのようにいたしましょうか」
  ……そういや、自分は狩猟が許される身分ではない、って辞退されたっけ。
  ゾドックの傍らにいる年嵩の男が困惑気味にアスナを見上げている。彼がリーズ担当だったのだろう。
「オルフィオさん、こういう場合はどうすれば?」
「では、騎士たちに弓の腕を披露してもらいましょう。上位三名に巻き狩りの権利をお与えになればよろしいかと。巻き狩りに参加すること事態が名誉ですので、交流試合を含めて栄誉を得られる者が増えます」
「腕前の判定は? オレに振られても困るよ」
「私にお命じください。あとは初日の宴席でその騎士たちに殿下からお酌をしてやってください」
「わかった」
  自分の酌に価値があるというのは頭では理解していても実感が伴わない。
  何しろ後宮でも閣議でもアスナは人の器にお茶や酒を注ぎまくっている。
  近しい者たちの中ではありがたみがないに等しい。
「無事のご到着何よりに御座います」
「賢狼公。今日からよろしくお願いします」
  ヴォルゲイフが子どもたちと護衛のアーディを連れて顔を出した。
「良い狩猟会にしましょう。とはいえ、殆どの差配は城代殿がされていたのだがな」
  狩場にきているためか機嫌がいいように見える。
「いやいや。武勇の士を纏め上げられたのも賢狼公の威があればこそ」
「ということは、この狩猟会は成功したも同然ということですね」
  などと持ち上げつつ話題を次に移す。
  先ほど話し合った巻き狩り参加者を募る件だ。
  ヴォルゲイフはすぐに納得をして、同意をする。
「それならば不満も出ないでしょう。ただ陽が暮れる前に始めた方が宜しいでしょう。夕闇の中で弓を持たせて、要らぬ疑惑が出ても面倒です」
「分かりました。場所は交流試合の施設で良いか」
「よろしいかと」
  オルフィオが同意する。アスナは続いてヴァイアスに顔を向けた。
「使節たちに伝令。巻き狩りを三組増やす。我こそはと思う者は弓の腕をもって勝ち取ってみせろ。使節とともにオレのところまで集まれ。以上」
「了解。お前、途中でめんどくさくなったろう」
「ばれたか」
「適当に文面を変えるぞ。良いな」
「ん。頼む」
  ヴァイアスはサイナに護衛を任せてミュリカとともに部下たちの元へと走っていった。
  このやり取りを大人たちが感心した顔で見ていた。
「随分と慣れておられますな」
「そうでしょうか」
  ヴォルゲイフに誉められたがよく分かっていない。
「大体、若い士官が伝令を出す際、具体的な段取りなど余計なことまで口にするものです」
「私は物を知らないので、丸投げにした方が早いんですよ」
「さすが、分かっておられるな」
「小父さま。あまりアスナを誉めすぎると調子に乗りますから。それぐらいで」
「お父様。アスナ様たちもお疲れでしょうから、まずはゆっくりしていただいてからにしたらどうです?」
  エルトナージュに続いてニルヴィーナが間に入る。
  挨拶をした際に口論となったためか、この二人から過度に気を遣われているようだ。
  アスナとしても、友だちのお父さんとどう接して良いのかまだ分かっていないため、ありがたい。恐らく、ヴォルゲイフの方も同じだろう。
「ところで賢狼公。ここじゃ何が獲れるんですか?」
「村の者に鹿や猪、あとは野鳥が幾つかといったところのようです。熊や狼いるそうですが、奥に入り込まなければ大丈夫。殿下に危険はありません」
「こっちにはそれよりも強い人たちが揃ってますからね」
「ははははっ。そうですな。狩猟会は下々の者にとっても祭り。実に楽しみです」
「へぇ。一応、流れみたいなのは見ましたけど村の人たちにとってもなんだ」
「その通り。城代殿?」
  と、オルフィオに話を振った。
「実際に狩りをする騎士以外にも武術を競い合う交流試合も催されます。庶民にも観覧が許されております」
「賭け事とかも?」
「そこは言わぬが花というものです。こうやって催し物を行えば人が集まり、商人が集まります。それが一時的なこととなれば祭りとなります」
「お忍びってことで露天とか見に行くのもいいかも」
「どこの使節も同じようなことを考えておりましょう」
  ヴォルゲイフもそういう思い出があるようで笑っている。
  後ろを歩く賢狼の兄妹を振り返った。
「アストリアとニーナはこういうお祭りに行った事ある?」
「実を言うとないんだ。私たちは主催する立場だから。挨拶を受けたり、騎士たちの話を聞いたり。ただ、狩りにはよく連れて行って貰ったな」
「ふーん。じゃ、折角だから一緒に行こうか」
  ヴァイアスたちも一緒ならば不測の事態が起きても問題は起きない。
「ありがたいお誘いだが、巻き狩りに出る事になってるんだ。だから……父上」
  期待するようにニルヴィーナがヴォルゲイフを見ている。
  アストリア同様に祭を遊び歩いた経験がないのだろう。
  父親は困った顔をしたが、折れる他なかった。なにしろ副王自らのお誘いだ。
「仕方がない。副王殿下にご迷惑を掛けぬようにするのだぞ」
「ありがとうございます、お父様」
「オーリィ、フェイ。くれぐれもニルヴィーナが無茶をしないように見張れ。良いな」
  二人はいつものように了解をした。
  オーリィに表情の変化はないが、フェイは賢狼公からダメだと言われると想像したのかホッとしたようだ。
  村長の先導を受けて一行は彼の家への案内される。
  滞在中の宿泊所がこちらとなる。アスナたちは離れに、ストラトたち身の回りの世話をする侍従たちは本邸で寝起きすることになる。
  談話室に通されるとめいめいに円卓に腰を落ち着けた。
  オルフィオ以外の騎士たちは起立したままだ。
  すでに準備が整えられていたのだろう。村長が村の女たちを引き連れて入室してきた。
  それぞれに濡れタオルが差し出される。
  こういう時に礼を言わないようにして欲しいと言われている。
  給仕たちがビックリするのだそうだ。そんなバカな、とアスナは思った。
  少し考えれば納得できた。王様にお礼を言われれば驚くし、中にはご褒美を期待する者や規則を無視して陳情する者もでるかもしれない。
  そういうことを防ぐために個々に礼を伝えないで、村長にまとめて行うという形を取る。
  濡れタオルで汗を拭うと間を置かずに冷えた小さめのグラスが出される。
  中には澄んだ黄金の液体が入っている。他にも木の実を載せた皿も用意されている。
「村で作った蜂蜜酒です。お口に合えば宜しいのですが」
「へぇ。蜂蜜酒は初めてだ」
  グラスに口を付けると甘い香りがする。
  蜂蜜を原材料にしているだけあって、甘く飲みやすい。
  はっきりとした甘さがあるだけにシロップを口にしているような気分だ。
「うん。美味いな」
  ここまで甘いものは久しぶりかもしれない。
  調子に乗って乾したら、あっと言う間に酔っ払ってしまいそうだ。
「ありがとうございます。もう少し強い物がお好みなら用意できております」
「うむ。では、貰おうか」
「では、私もご相伴に与りましょう」
  ヴォルゲイフとオルフィオは早くも乾してしまった。
「副王殿下も如何かな?」
「生憎とあまり強くないんですよ。それに酔っ払ったまま騎士たちを迎えるのはカッコ悪いですし。……先ほどの話ですけど、サベージからも一人参加させて貰えませんか。アクトゥス側にも同じように誘っています」
「宜しいのですかな?」
  サベージとラインボルトは同じ村に滞在していることもあって一緒に巻き狩りを行うことになっている。主役はどちらかといえばサベージ側の騎士に譲られている。
「もちろん。機会は平等にした方が良いですから」
「それはありがたい。……では、アーディ卿を参加させましょう」
  ヴォルゲイフの背後、壁際で控える青年に目をやった。
「彼は賢狼公の護衛役でしょう。よろしいのですか?」
「ここにいる間は殿下と一緒させていただくのです。近衛騎団に守られているようなものでしょう。それにこれまで良い働きをしたアーディ卿への褒美です」
  酒で少し気持ちが緩んだのかヴォルゲイフは楽しげだ。
「そう言う訳だ。そなたも護衛ばかりでは面白くはなかろう。気晴らしができるようこれから弓の調子を見てくるが良い」
「よろしいのですか、閣下」
「うむ。許す」
「ありがとうございます。では、お言葉の通りにさせていただきます」
  頭を下げて、そのまま足早に部屋を出た。
  彼に対して非常に硬い印象を持っていたアスナだが、今の様子で少し見方を変えた。
  ……好きなものには感情が表にでる人なんだな。
「ディティン公と競い合った武技が見られるか。これは楽しみだ」
  木の実を口に放り込みながらオルフィオは期待を口にした。
「アーディ卿は森林管理官の家の出とか。狩りには精通しておられるのだろうな」
「うむ。実際、中々の腕前だ。殿下への贈り物もそうだが、あの男は機会を見ては何かしらの毛皮を得てきては進上している。狩りに関してはサベージで一番の腕かもしれん」
「ますます楽しみですな。久方ぶりに腹一杯、鹿や猪を堪能できそうだ」
「城代殿は狩りに参加されぬのか」
「生憎と歳でして。若い者に譲り、年寄りは大人しく交流試合で審判をしております」
「それは残念。若者らが大いに狩ってくれるでしょう」
  給仕役の婦人たちがそっと大人二人の前に先ほどよりも度数の高い蜂蜜酒を置いた。
  一気に飲み干すと二人は早速、次の酌をさせた。早い調子だ。
  大丈夫なのか、とアスナは心配になりアストリアを見た。
「すまん。父上は酒がお好きなんだ」
  年長者二人は互いに通じる物があったようで、このささやかな酒盛りは盛り上がり、結局アスナの委任を受けたヴァイアスが弓勝負の審判役を引き受けることとなった。
  勝負はすぐに決した。新しく巻き狩りを許された三人の騎士の中にアーディがいた。
  アスナはオルフィオに受けた助言の通り、その晩の宴で彼らの弓の腕を讃えて酌をしてやった。彼らは同輩からは嫉妬混じりの賞賛も受けているようだった。
  その様子をアストリアが羨ましそうに見ているのが記憶に残った。

 若者たちが自らの名誉のために弓の腕前を競い合っている頃、別邸では年長者たちが酒を酌み交わし続けている。
  遠く聞こえる喧噪が自身に流れた時の流れを感じさせる。
  昔、自分もあそこにいたのだ。同輩と切磋琢磨し、機会を捉えて栄達してきた。
「済まぬな、城代殿」
  賢狼公がこの程度の酒で酔うはずがない。何かしらあるのだろうとと察した。
「何か心配事でもおありですか」
「副王殿下とどう接すれば良いものかと思ってな」
「古今東西、年長者が抱える問題ですな」
  何を求められているのか分からない。まずは一般論を返しておく。
「貴公はどう見ておられる?」
「これはまた、今回を合わせて殿下と言葉を交わすのは二度目になりますゆえ。私にはなんとも」
  遠く歓声が響いてくる。弓競べの結果が出たのだろう。
  どの勇者が栄光を得たのだろうか。後ほど聞いてみたいところだ。
「意外だな。貴公ほどの男であれば相談役になってもおかしくないだろうに」
「すでに隠居した身ですので」
  元近衛騎団団長として、政治に口出ししないからこそ様々な相談事を寄せられる。
  沈黙への信頼感でもいうべき物が彼にはあった。
  副王と言葉を交わすのは二度目でも、その為人はある程度把握していた。
「もしや、副王殿下に何かお教えいただけるのですか?」
「教える云々のことではない。純粋にどうしたものかと思ってな」
  友好を深めるつもりだが、どう深めていくのかが決めかねているのだろう。
  実利面なのか、個人的になのか。付き合い方は様々だ。
  恐らくどちらを選択しても問題はないだろう。
  なにしろ、現在サベージとの間に懸念すべきことは何もないのだ。
  それはつまり、真剣に相手されていないということでもある。
  就任式からの流れを見ても分かる通り、積極的なやり取りが行われているのはリーズとアクトゥスだ。一見するとサベージの方が優遇されているように見えるが、その実は親善外交以上のものではない。
  このまま時間を過ごしてもサベージ使節団は成功裏に任務を終えられるだろう。
  だが、賢狼公ヴォルゲイフはそれ以上を求めている。
「ならば、踏み込んでみては如何ですか? なにをお求めかは分かりませんが、踏み込まねば分からないものもありましょう」
「そうだな。だが、折角熟し始めた果実の枝を手折るのも気が咎める」
  間違いなく賢狼公自身の真情の吐露だ。
  特別扱いされていることも事実だ。それを不意にすれば損失も大きい。
  意図したかしていないかは分からないが、サベージへの牽制になっているようだ。
「殿下は我が国の老臣たちに敬意と尊重の念をお持ちです。隣国の先人として伝えねばならないと思われるのであれば、率直にお話になられれば宜しいかと存じます」
「率直に、な」
  グラスの中で揺らめく黄金の酒。そこに映る賢狼公の表情は晴れない。
「宰相殿や姫を介してみようかと思っているのだが」
  臣下や奥向きを通して探りを入れる。よくある手段だ。
「それも良いかと。……それにしても、今の賢狼公は娘が恋人を連れてきた時の父親のようですな」
「城代殿にはそういう経験があるのか?」
「あります。娘の目を信じたい親の心境と、どこぞの男に奪われようとするやるせなさ。妻は瞬く間に親しげにしているのに私はなかなか……。結局、孫が生まれるまで良い付き合いが出来ませんでした」
「その心境は否定しきれんな」
  そういって賢狼公はグラスを煽った。
「もしや、ニルヴィーナ姫を副王殿下に娶せようと?」
「可能性はある」
「ほう!」
  思わぬ言葉だ。サベージの姫が魔王の夫人となった例は幾つもある。
  伝え聞く限り副王とディティン公の仲は良好だ。そこまでせずとも良いはずだ。
「娘が鞘となりうるかどうか」
  この一言で賢狼公の懸念が何であるか察した。
  例えば、だ。
  顔見知りの邏卒が街を巡察していたとしよう。
  その彼が抜き身の剣を手にして走り回っている。
  何事があったのかと尋ねると、そちらは大丈夫だから心配するな、と血走った目で告げられたとしても安心できるだろうか。
  同じように帯剣していても鞘に収めたまま、何時も通り巡察していればどうだろう。
  何一つ不安は感じないのではないだろうか。
  サベージから見れば、今のラインボルトは前者に見えているのだろう。
  内乱に続いて、戦争を始めればそういった懸念がでるのも無理はない。
  坂上アスナは戦の中で生まれ、戦果をもって足場を築いた男だ。警戒して当然だろう。
「鞘にもいろいろとあります。煌びやかな宝剣か、それとも実践的な物か。いっそ殿下にお好みを伺ってみるのも良いでしょう。賢狼公のお手元にどのような鞘があるのか披露して、感想を伺うのも一手かと」
「大胆だな」
「殿下の腹蔵がいかなるものか、私には皆目見当も付きませんので」
  半ば隠居した身だ。好き勝手な事が言える。
  無責任の誹りを受けるとしても、何度か言葉を交わし噂に聞いた副王ならば、率直さこそが心情に触れられるのではないか、とオルフィオは思っている。
「では、問わずに起きますか」
  オルフィオの指先が甘い蜂蜜酒を入れた瓶を弾いた。澄んだ音がする。
「それとも、踏み込んでみますか」
  それよりも強い酒が入ったグラスの縁をなぞる。
  同じ色合いなのに別の原料から作ったのではないかと思うほどに異なる。
  酒とは実に面白いものだ。
「……折を見て、差し向かいで酒杯を交わしてみるか」
「私がこうして若造と酒を飲めているのです。賢狼公にそれが出来ぬ訳がありますまい」
「これはまた……。手厳しいな」

 ヴォルゲイフとオルフィオ。二人の会話を聞いている者がいた。
  黒狼の青年。カイエ・アーディだ。
  弓競べに勝利し、巻き狩りの権利を得た彼は、賢狼公は報告に戻ってきたのだ。
  その時に聞いてしまったのだ。
  ……ニルヴィーナ様を副王に娶せる?
  彼は身を固くし、次の瞬間には駆け出していた。
  これ以上、二人の話を聞いていることが出来なかった。
「どうした、アーディ卿」
  離れから飛び出してきたカイエを不思議そうな顔をした同輩が声を掛けてきた。
  皆、カイエと親しくしている若者たちだ。
「賢狼公は城代殿と歓談されていたので遠慮してきた」
「そうか。……そうだ。貴殿の勝利を祝して一杯どうだ」
「ありがたい。だけど、勢子をしてくれる村の者と顔合わせしておきたい」
「気を遣わないことを言った。遠慮せずに行ってこい。公や若様には我々からお話しておく」
「すまん。皆に鹿肉を振る舞えるよう努力してくる」
  そういうと彼は世話になる村の村長の元へと駆けていった。
  口から出任せだったが、誰もがカイエの前歴を知るだけに納得する理由だ。
  だが、話した以上そのようにせねばならない。
  彼は弓競べが行われた広場に戻り周囲を見回した。
  この村の村長の顔は覚えている。彼に紹介して貰えば良いだろう。
「…………」
  銀の長い髪を持つ美しい少女がいた。ニルヴィーナ。
  まるで月から舞い降りたかのような優美さ。清冽なまでの冴えた表情。
  彼女を始めた見たのは、カイエがまだ森林管理官の次男であった頃のことだ。
  狩りに来た賢狼公とともにニルヴィーナはやってきた。
  年の頃が近いからということで、彼は森の入り口辺りを案内した。
  何を話したのか記憶にはない。ただただ、興奮して様々なことを話したように思う。
  ただ、木漏れ日の中を散策する彼女の姿だけが脳裏を焼き、胸を焦がした。
  転機は一帯を治める代官が視察に来た時のことだ。
  畑を荒らしに山から下りてきた大猪をカイエは弓で仕留めたのだ。
  それを見た代官は彼を賞賛し、様々な手習いを彼に授けた。
  読み書き計算を始め、礼法や武芸といった様々なことを与えてくれたのだ。
  カイエはそれこそ真綿が水を吸うように会得していった。娯楽などない山奥に生まれた少年に知識や武芸を仕込むことが代官には面白かったのだろう。
  森林管理官の次男に授けるには過剰なものを代官は与えていた。
  その集大成として代官は次期賢狼公を決める交流試合への参加をカイエに命じ、推薦状を用意した。この交流試合で良い成績を残せば仕官への道が切り開かれる。
  愛弟子のためにも、なにより自分が育て上げた男がどこまでになったのか知りたい。
  そんな代官の欲求から出た推薦状であった。
  カイエは期待に応えた。順調に成績を収め、ついに多くの人々に名を知られるまでになった。そして、準決勝の際にカイエは貴賓室にニルヴィーナの姿を見た。
  記憶にあるよりも遙かに美しく、清冽となった彼女にカイエは今度こそ間違いなく囚われた。交流試合に優勝すれば彼女の夫となれる。
  森林管理官の次男が次の賢狼公となるのだ。初めから提示されていた事実が始めて彼の前で現実味を持ち始めた。発奮よりも、この事実に恐れた。
  初めて会ったときのことを彼女は覚えているのだろうか。自分は何を口にしたのか覚えていない。もし、彼女と思い出話をした時に覚えていないと答えたら失望されるかもしれない。そんな益体もない不安が彼の身を襲った。
  そして、カイエは決勝戦で手を抜いた。
  勝利した後に待ち受ける重責や様々な圧力、なにより妄想の中のニルヴィーナから逃げたのだ。アストリアは強かった。全力であっても勝てたかどうかは分からない。
  だが、手を抜いたという事実だけがあった。
  準優勝者となりアーディ家の養子となり、ニルヴィーナと接する機会が増えた。
  一度手放した機会がどういうものか思い知らされる日々であった。
  彼は増長せず研鑽を続け、任務に精励し、知己を増やした。
  賢狼公には目をかけて貰っており、その期待にも応えていた。
  そうすればいつか彼女との縁談が舞い降りるのではないか、と。
  だが、先ほど聞いた話がカイエの希望を打ち砕いた。
  今、ニルヴィーナはディティン公とともにラインボルト副王と談笑している。
  彼が知る清冽さは感じられない。これまで一度も見たことがない満面の笑顔。
  月の姫ではなく、日向の中の少女がそこにいた。
  少女の相手をしているのは立志伝中の人。逸話の多くが嘘に感じられるほどの男。
  自分と副王は似ているように思えた。お互いに機会を捉えて立身したのだ。
  サベージ本国では二人を重ねて話題にする者が多くいた。
  運が良かっただけだ。そう言う者がいる。
  それが如何に苦しいことか分かっていない。挨拶以上に言葉を交わしたことはないが、ある意味で戦友的な親しみをカイエは副王に感じていた。
  副王もカイエのことを知っていた。そのことに嬉しさを抱いた。
「もしや、ニルヴィーナ姫を副王殿下に娶せようと?」
「可能性はある」
  その一方的な親しみもこの会話によって打ち砕かれた。
  素直に認められることではない。許せるはずがない。
  一度は手の届く場所にあった宝石が掠め取られる。
  感情にのみ突き動かされる者に獲物はない。彼にだって理解している。
  だから、更に功績を挙げねばならない。この巻き狩りで耳目を集める成果を賢狼公に見せねばならない。次の機会を手にするために。

 翌日、狩りが始まった。
  騎士たちはそれぞれに与えられた権利を行使すべく森の中へと入っていった。
  その様子を見送ったアスナは傍らに立つ賢狼公を見上げた。
  背の高い威丈夫はどこか羨ましげに若者たちを見ているようだった。
「そういえば、狩りが騎士の務めだっていう理由はなんなんですか?」
「元は畑を荒らす獣や土地の者を食い殺す魔獣の駆除に長けた狩人たちなのです。彼らは土地の者から敬意を受け、礼として畑や特権を認められました。やがて、彼らは土地の揉め事を鎮め、手下を召し抱えるようになり気が付けばそこは豊かな土地となった」
  安全が確保され、害獣は生活の糧に変わる。何かあっても調整してくれる人物がいれば、土地が豊かになるのは必然だ。
「豊かになれば、それを奪う者が現れる。そんな略奪者を狩人は手下や土地の者とともに打ち倒す。そうなれば、皆がより強く頼るようになり何時しか狩人は土地の第一人者となる。これが騎士の始まりとなるのです」
「だから、イーフェスタ家は狩人であることを誇りにしているんですね」
「その通り。サベージの領主は巻き狩りを経験して始めて一人前と見なされます。そういう意味でアーディ卿に機会を与えて下さったこと、お礼申し上げる」
  と、賢狼公は小さく頭を下げた。
「あれはアーディ卿自らが手にしたんです。それに、それをいうなら弓競べへの参加を許した賢狼公こそが彼にとって恩人ですよ」
  カイエ・アーディのことはアスナも知っている。
  彼の立志伝には舌を巻き、感心する他なかった。世の中にはそんな人がいるのかと驚いたほどだ。が、挨拶をした以上のことをしたことはなかった。
  自慢話を聞いてみたくもあったが、アストリアがアーディを好んでいないようだったので積極的に話をするつもりはなかった。友人の感情に踏み込むつもりもない。
「それはそうと、今日は何が獲れるんでしょうね」
「巻き狩りは数日掛けて行いますから、今日は野鳥狩りに出た者たちの成果に期待ですな」
  今回の狩猟会では巻き狩り、野鳥狩り、鷹狩りと行われる。
  巻き狩りは多くの勢子を率いて組織的に獲物を追い込む狩りだ。
  騎士の指揮能力、勢子を取り纏め、彼らの進言を判断する知識、短期間で信頼を得られる人徳が求められる。狼公が領主には必要だと言った理由はこういうことだ。
  なにより相手にする獣が猪や熊となるため、命懸けの狩りだ。
  騎士として絶対に求められる要素が詰まっていると言って良いだろう。
「野鳥狩りかぁ」
  森林管理官の判断で行える狩りだ。獲物は野鳥以外にも鹿や小動物も許されている。
  死ぬ可能性が低いこともあって、小領主や伝手のある騎士たちの遊興となっている。
「鷹狩りも野鳥狩りに近しいかもしれませんな」
  賢狼公は自分たちから少し距離を置いた場所で控えている鷹匠を手招きした。
  鷹匠の手には立派な鷹が据えられている。
「おおう」
  始めて間近で見る鷹にアスナは感嘆の声を漏らした。
「鷹を見るのは始めてですかな?」
「こんなに近くで見るのは」
  鷹匠の籠手を填めた手を握る足には鋭い爪があり、握る足の強さは見るだけで想像が付く。あれで獲物を捕まえ逃がさないのだ。あれこそが鷹の決め手となるのかもしれない。
  長い尾羽は白と焦げ茶色が交互に色分けされており、雄々しさを感じずにはいられない。
  閉じた翼は鎧に見えて、尾羽と合わせると陣羽織を纏っているかのようだ。
  そして何よりもその威風堂々たる表情だ。大空の王の自負を感じさせる。
「自分の語彙の少なさが恥ずかしくなるぐらい格好いいです」
「ははははっ。そこまで喜んでいただければ天鷹公も誇らしいでしょう」
  さて、と賢狼公は気分を切り替えるように言葉を鋭くした。
「まず注意をしておきましょう。まずはあの嘴と爪をご覧あれ」
  実際、あれで捕まえて嘴を使って肉を引き千切るのだ。恐らく刃のように鋭い。
「如何に調教していても相手は武器を持った獣だということを忘れないことです。しかし、恐れてはなりません。鷹は賢い鳥。恐れれば鷹を困らせることになります」
「はい」
「よろしい。では、籠手を付けましょうか」
  賢狼公はアスナの左手に取り付けられた。籠手といっても大仰なものではなく、どちらかと言えば革製の厚い手袋といった方が近いだろう。
  肘の辺りまでしっかりと覆い、簡単に外れないように縛られる。
「これから殿下の左手に鷹を飛ばします。殿下は鷹匠に背を向け、左腕を真っ直ぐ伸ばして下さい」
「こ、こうですか?」
「もっと背を伸ばして堂々と。鷹は殿下を傷付けません」
  一度深呼吸をして言われたとおりにする。確かに怖じ気づく必要はない。
  側には経験者がおり、それを生業とする者も一緒にいる。
「そう。そのまま。……では、始めましょう」
  賢狼公はアスナに小さな肉を握らせると、次に鷹匠に向けて右手を挙げて合図を出した。
  背を向けているから何が起きているのか分からない。一度大きく羽ばたく音がした。
  何かが迫ってくる気配を感じたと思った途端に左腕に衝撃と重みを感じた。
  そこに大きな鷹が止まっている。籠手を握る鷹の足の力は非常に強い。
  爪の先端の食い込みが若干の痛みを感じさせる。
「おおぉ」
  そんな痛みよりも感動の方が上回る。鷹は指先に摘んだ肉を啄み始めた。
「賢狼公、食べてる!」
  事実そのままを口にしてしまうほど感動した。
  剥製ではない、生きた猛禽が自分の腕に停まり肉を食べているのだ。
  優美にして雄々しい猛禽の姿。それが今、自分の左腕に停まっている。
  この事実が言葉を単純にさせる。
  そんなアスナの様子を賢狼公は微笑ましく見ている。鷹匠も同じような顔だ。
「いかがです、初めての鷹は」
「重いし、大きいですね。それに近くで見てもやっぱりカッコイイ」
「撫でてみては如何かな?」
「大丈夫ですか?」
「もちろん。叩いたりしなければ大丈夫です」
  そっと撫でた。滑らかな羽の感触と生物の温かさ、何よりも生き物の躍動感を感じる。
  ……そういや動物に触るのって何時以来だろ。
  幻想界に来る一ヶ月ほど前、友人宅で飼っているネコを撫でさせて貰って以来だ。
  不意に思い出される郷愁に胸が詰まる。しかし、アスナは笑った。
「では、次は鷹をあちらに飛ばしてみましょうか」
「はい」
  その後、アスナは賢狼公の指導に従って鷹を飛ばせた。
  実際は飛んで貰ったという方が正しいのかもしれない。
  鷹匠との間を飛ばし合い、次には訓練用の人形をアスナが放り投げ、それを空中で捕まえさせた。ただ、それだけのことが面白い。
  獲物を捕らえさせるだけではない。飛ぶ姿そのものに魅了されるのだ。
  気が付けばお昼に近づいている。
「午前最後に鷹を空高く飛ばして見ましょうか」
  教えられたとおりにアスナは少し腰を下ろして、全身を一気に延ばす動きで左腕を空に掲げた。その勢いに乗って空を駆け上っていく。
  やがて見上げるほど高い場所まで飛ぶと大きな円を描いて舞い始める。
  ……大名が嵌るのも無理ないなぁ。
  空への憧れを刺激すると同時に、自分の魂の一部を仮託できそうな錯覚を得る。
  不意に鷹が急降下し始めた。場所はアスナたちの遙か前方だ。
「何か見つけたようですな。行きましょう、殿下!」
  自分の言葉を置いていくような勢いで賢狼公ヴォルゲイフは駆け出した。
  前方を走る鷹匠を追い抜こうとする勢いだ。
「えええぇ〜!?」
  思わず少し距離を置いて護衛をしていたヴァイアスを見た。
  彼は苦笑いをして賢狼公に続くように歩き出した。
「殿下、何をしておられる!」
「分かりました!」
  半ば以上ヤケクソに叫ぶとアスナはヴァイアスと賢狼公の後を追い掛けたのだった。

 その様子をニルヴィーナたちは離れた場所から見ていた。
  地面の上に絨毯を敷いて、そこに腰を下ろしていた。
「お父様ったら、子どもみたい」
  ニルヴィーナは楽しげに笑いながら言った。
  そういえば、ああやって駆けていく父の姿を見るのも久しぶりかもしれない。
  彼女が幼い頃、時折見た姿だが祖父から賢狼公の地位を相続してからは見なくなった。
  立場がそれを許さなかったのだろう。
  鷹狩りでも、鷹から獲物を取り上げる役目は別の者が行うことになっている。
  ねぇ、と同席する少女たちに顔を向ける。するとエルトナージュとサイナは複雑そうな表情を浮かべている。ミュリカまでもがそうだ。
「どうかしたの?」
「……アスナのああいう顔を見た事がなかったかもしれない、って思って」
「私は久しぶりかもしれません」
「そうですね。行軍中のことですけど、始めて一人で馬に乗れた時なんかで見た記憶があります」
  頭を空っぽにして楽しんでいる姿だ。
  全身から発せられる彼の感情が目で見て理解できるほどだ。
「ねぇ。二人は普段、アスナ様とどんなことをして遊んでいるの?」
「今はこれでしょうか」
  サイナは大きめのマグカップをニルヴィーナの前に出した。
  何事かと覗き込んでみると水面に変化が生じた。
  水面に碁盤目が生じ、そこにチェスの駒が立ち上がった。
  駒はニルヴィーナに身体を向けると、一斉に 敬礼をして見せた。
「まぁ! サイナは精霊使いなのね」
  液体をこれだけ精緻に動かすには精霊を介して行った方が便利だ。
「拙い技ですけれど」
  と、やんわりと笑みを浮かべながら答えた。
「歴史がお好きなようなのでそういった話題を。ただ、学問としてではなくて物語として楽しんでらっしゃるようですよ」
「そうよね。何年に誰それが何をしたと聞かされても面白くないもの」
「あとは部下や同僚から街で起こった少々下世話なことをお話ししています」
  民情報告ともとれるが、こういった話題が楽しいのも事実だ。
  ニルヴィーナもフェイから、そういった話題を聞くのが嬉しい。
「あとは鍛錬でご一緒することがある程度です」
「エルは?」
「……勉強、とか」
  彼女は視線を合わせないでそう呟いた。
「勉強は遊びじゃないわよ?」
「ああっと、エル様はアスナ様の教師役も務めてらっしゃるから」
  ミュリカが口を挟んできたが、そういうことではない。
「今は遊びの話よ? 勉強も大事だけれど生き抜きもそれと同じぐらい大切よ」
「貴女が言うと重みが違うわね」
  エルトナージュの感想に敢えて言葉を返さない。
  ニルヴィーナは耳と尻尾がでないように気を張って生きてきた。
  それだけに公私の切り替えの大切さはこの場の誰以上に理解していた。
「だけど、アスナには必要なことよ?」
「だけど、今のままじゃダメだって思ったんでしょう?」
「……えぇ」
  と、認めた。アスナが頭を空っぽにして駆けていく姿に何も思わないはずがないのだ。
  ただ、少し意地悪だったかもしれないとニルヴィーナは反省をした。
  なにしろ彼女はつい最近まで宰相の立場にあったのだ。それに見合った知識を得ねばならなかったことを思えば、とても遊んではいられなかったはずだ。
「そういうニーナはどういう遊びが出来るの?」
  若干、恨みがましい目で見られた。
「フェイ。持ってきて。オーリィも手伝ってあげて」
「はい、ニーナ様」
  オーリィは一度、サイナに会釈を送った。一時、護衛を任せるということだ。
  その辺りを心得ているサイナもオーリィに会釈を返した。
  一度、離れに戻った二人は程なくして大きな鞄を手に戻ってきた。
  オーリィは大きな旅行鞄を、フェイはそれよりも一回り小さい手提げ鞄を持ってきた。
「ニーナ様、これは?」
  ミュリカの問いにニルヴィーナは笑みだけを返した。
「お楽しみ」
  そういうと彼女はオーリィが左手においた旅行鞄を開き、友人たちの前に披露した。
「人形の楽団?」
  色とりどりの衣装を纏った人形が並んでいる。それぞれの手には楽器があり、合図を出せば今にも演奏を始めそうだ。
  ニルヴィーナは指揮者の人形の頭に触れた。すると人形が指揮棒を振り出した。
  途端、軽快な音楽の演奏が始まった。
  今日のような暖かで心地よい日和に相応しい、どこか浮き立つような楽曲だ。
  それを人形たちが演奏しているように見える。が、実際はそうではない。
  音響魔法というものがある。自分や第三者の声を遠くまで届けたり、色々な音を発する魔法だ。軍で号令に使われている以外にも、比較的簡単に使えるということもあって護身用に覚えている貴族の令嬢も多い。
  魔法に長けたエルトナージュたちなら分かるだろう。今、演奏されている楽曲は全てニルヴィーナが出しているのだ。
  音響魔法は出す音を知らねば使えない。つまり、彼女は演奏で使われている楽器全てを使う事が出来るということだ。
  この事実を察したエルトナージュたちは大きく目を見開いた。
  頭の中で大まかに音楽を思い浮かべることはできても、それを正確になぞる事は酷く困難だ。楽器一つ分ぐらいなら用意だろう。だが、四つ、五つはどうだろう。
  少なくとも父や兄、それにフェイトオーリィは出来ないという。
  つまりは、これがニルヴィーナ・イーフェスタが持って生まれ、研鑽した才能なのだ。
  演奏される楽曲が更に軽妙となる。ニルヴィーナの右手に座ったフェイが手提げ鞄の中から小さめのぬいぐるみを取りだした。それを彼女の姫に放り投げた。
  一つだけではない。二つ、三つと増えて五つ全て形の違うぬいぐるみをニルヴィーナはお手玉の容量で投げ回した。
「凄いわ!」
  思わず飛び出した心からの言葉にニルヴィーナは破顔する。そして、更にぬいぐるみを増やすように彼女はフェイに目線で指示を出した。次はミニチュアの食器が加わった。
  やがて楽曲も終わりに向かっていく。
  ニルヴィーナはそれに合わせてぬいぐるみを絨毯に並べていく。
  出来上がるのはぬいぐるみのお茶会だ。
  そして、終わりを告げるように彼女はエルトナージュたちに恭しく一礼してみせた。
  途端に拍手が巻き起こる。追従のない賞賛に賢狼の姫は満面の笑みを浮かべた。
「私の宝石遊びを羨ましいって言っていたけれど、ニーナの方が凄いじゃない」
  と、どこか拗ねたような口調でエルトナージュは言った。
「だって、宝石遊びに較べたら姫らしくない芸だもの」
「それにしても、どちらでこんな技を?」
  ミュリカの問いにフェイが困った顔をした。
「我が家に来た道化師から。音楽の方は手習いの中で出来るかなっていろいろと試してみた結果よ」
  これ以外にも幾つも技を持っている。本職には及ばないが、楽しませる程度の芸は幾つも習い覚えている。
  感心していいやら諭していいやら判断が付かないといった表情をミュリカは浮かべた。彼女の義姉ともいえる少女も姫らしくないことをしていたからだ。
「それに私は次期賢狼公候補たちの賞品だったんだもの。少しでも相手を楽しませる方法を身につけておいた方が良いもの。政治や作法の指南は担当の者がいるから、私はそれ以外のことをと思ったの」
  姫という存在に求められるものは状況によって様々に変化する。
  これまで蝶よ花よと育てられていたのが、ある日突然当主、女王として一家、一国を率いねばならなくなる場合もある。
  姫とは、状況に合わせて変身せねばならない大変な存在なのだ。
「おーい!」
  アスナだ。彼は焦げ茶色の何かを手に持っているのが見えた。
「でっかい兎を捕まえたぞ!」

 賢狼公に頭を持って貰い、アスナは焦げ茶色の兎の後ろ足を両手で握った。
  再度確認しようと少年は指南役の顔を見た。
  ヴォルゲイフは何も言わずに、ただ頷いて少年の決断を促した。
  手の中には逃げようと必死に足を動かし続ける兎。
  覚悟を決めて勢いよく手前に引っ張った。すると何かが抜けるような、外れるような手応えがある。それを最後に兎の足から力が抜けてしまった。首の骨を外したのだ。
  あまりのあっけなさを実感するよりも早く賢狼公は次を指示する。
「両足首を縛って下さい。早く血抜きをせねば味が落ちます」
「はい」
  渡された紐で両脚を縛ると解体用の櫓に紐を掛ける。
  森には大型の猪もいるらしく、この櫓を使って解体をするのだそうだ。
  アスナが今使っているのは小型のものだ。逆さづりに出来れば良いので、兎ぐらいならば洗濯紐を使って吊ることもあるそうだ。兎の下には血を受け止めるための盥がある。
「出来ました」
「よろしい。次はこれを」
  差し出されたのは小振りだが、酷く鋭利な光を放つナイフだ。
  それを受け取ると賢狼公は首筋をなぞった
「首筋を切って血抜きをします。このナイフは殿下が考えているよりもよく切れます。油断されないように」
「はい」
「では、切って下さい」
  賢狼公がなぞった場所にナイフを差し込んだ。大して力を入れていないのに深く切れた。
  そのまま線を引くようにナイフを引いた。美味く動脈が切れたのか血が溢れ出してくる。
「それで良いでしょう。次は両足首の周りを浅く切り、皮を下に引っ張ってみて下さい」
  まずは右脚から切れ込みを入れる。素人の手筈だがナイフが良いおかげで切り損じということもなく周りに切れ込みを入れる。その後、一度、ナイフを置いてから皮を引っ張る。
「あっ」
  驚くほど呆気なく皮が剥がれた。感触は別だが視覚の上ではズボンの裾をめくりあげたようなあっけなさだ。続けて左足も同じようにして皮を剥ぐ。
「まだ兎の体温が残っているからです。体温が抜けてしまうと様々なものが硬くなって解体がし難くなります。慌てる必要はありませんが、一つずつ丁寧に」
「はい」
「では、左右どちらでも構いません。股の内側の皮にナイフを入れて、反対側まで切って下さい。少々切りにくいので怪我をしないように」
  右脚の皮を引っ張ってできた空間にナイフを差し込み少しずつ切り開いていく。
  左足の皮までナイフを進めると一枚の布地のように思えてくる。
「尻尾を切って下さい。骨があるので少し硬いですが、そのナイフなら大丈夫。むしろ、誤ってご自分の指を切り落とさないように」
  注意なのか、緊張を解す冗談なのか判別がつかない。が、尻尾の付け根まで皮を剥いでやり、ナイフの刃先を尻尾の根本に突き立てた。少し力を入れると簡単に突き刺さる。
  あとはそこを基点にして二回に分けて切り取っていく。
「よろしい。次は尻尾と腹の部分の皮を手にとって、下へ剥いで下さい」
  ナイフを置いて、言われたとおりの場所を握って一気に剥いだ。腕の辺りまで呆気ないほど簡単に皮が剥がれていった。
  皮の下からは赤い肉と、腹部には腸の色と思しき黒みが見える。
  腹の肉は思ったよりもずっと薄いようだ。
「次は首を落として下さい。すでに首の骨を外していますから楽に切り落とせます」
「…………」
  一度、大きく息を深呼吸をする。力なくぶら下がっている兎の頭を手に取る。
  まだ温かみのある頭を握ると引っ張ると顔を下にした。
  自分で首の骨を外したのだが、さすがに顔を見ながら首は落とせなかった。
  首の裏に刃先を差し込んで切り開いていく。賢狼公が言ったとおり首はあっさりと切り外せてしまった。
「首は足下の盥の中に。次は前脚を切り落とします。硬いので、こちらを使って下さい」
  渡されたのは大振りのハサミだ。こちらもナイフと同じように非常に鋭い。
  受け取ったナイフで左右の前脚を切り落とした。
「最後に皮を全て剥いでしまいます」
  奇麗に皮を剥ぎ取った兎は筋肉質で、どこか艶めかしい。
  解体はまだ半ばなのだが、ここまで来ると「兎」ではなく、「肉」という印象の方が強い。動物とは頭と毛皮の印象が殆どなのではないかと考えてしまう。
「血抜きがまだ終わっていないので、少し休憩にしましょう」
  そういうと賢狼公は近侍に何か飲み物を持ってくるように命じた。
「中々良い手並みですよ。始めての者はなかなかこうはいかない」
「ありがとうございます。けど、賢狼公がいろいろと指示してくれたからですよ」
  ……ヴァイアスの右腕を切り落とした時に較べれば大したことないさ。
  さすがに首には躊躇を覚えたが、ここまでやって出来ないでは仕留めた兎を無駄に殺したように思える。
「もしかして、こういった経験があるのでは?」
「兎はありませんけど、魚ならあります。兎の解体ほど大変じゃないけど。……ヴァイアスはこういう経験ある?」
「あるぞ。兎、豚、猪、鶏、牛、鼠ぐらいか。遭難しても困らないようにって訓練するんだ。……あぁ、けど蛇は勘弁して欲しいな」
「蛇は不味いらしいしなぁ。そういえば、次の賢狼公を決める試験には知らない山奥に候補者を放り込んで帰ってこさせるっていうのをするそうですね」
「やりますな。単独で行動しても良し、誰かと協力しても良し。自らの実力を見定め、必要とあれば助けを求め、不足する者がいれ助力する。賢狼の長となる者にはこういったことも求められます」
「大変だ。私だったら次の朝には肉食獣の腹の中に収まってますよ」
「経験がなければそうでしょうな。しかし、多種多様な種族を束ねるにはこういった分かりやすい実力が必須になるのです。こんなことよりも学識と統率力を見るべきだとの意見もありますが、それをすれば今以上に貴族が優位に立ちますし、何より新しい血を入れられなくなる。なかなか答えの出ない問題です」
  ……後継者問題で賢狼公もいろいろとあったんだろうなぁ。
  懐かしそうで、どこか苦みのある表情をしている。
「それを考えるとラインボルトは楽なのかも」
「アスナ」
  それ以上はないが、ヴァイアスに注意されてアスナは首を竦めた。
「まぁ、国柄や歴史がありますからな」
「それはそうと」
  あまり詳しく話しても自虐になりそうだから、アスナは話の流れを変えた。
「兎の頭とか内臓なんかはどうするんですか?」
「猟犬の子どもにやりましょう。良い餌になる。ただ心臓と肝は調味料に付けて串焼きにしましょう。こういった場所でなければ食べられない美味ですよ」
「へぇ。実を言うとそういうのも食べたことがないんですよ」
「ほう。では、経験ついでに肉の処理が終わったら、次は皮をなめしてみましょうか」
「ここで出来るんですか?」
「もちろん。こういった村では毛皮や角、牙は良い収入源となりますからな」
「おおぉ。だったら、是非お願いします!」
「お任せあれ」
  その後、無事に兎を肉とすることが出来た。
  美味しく食べるには熟成期間が必要になるため、兎肉は二日後のお楽しみだ。
  なお、狩猟会で初めて狩りに成功したのはアスナであったこともあり、その日はそれを祝ってちょっとした宴席が開かれることになった。
  大仰に過ぎるようだが、これも交流の一環だ。

 山林の中を進んでいると昔のことを思い出す。
  森林管理官を務める父に連れられ、兄とともに駆けたものだ。
  草木や湿った土の匂い。煩わしく思えるほど飛び交う虫たち。
  山野での過ごし方以外は教えて貰わなかったが、兄に何かを教える時は同席させていたため、様々なことを聞き覚えることができた。
  跡継ぎとの差を付けねばならない。だが、できる限りのことはしてやりたい。
  そういう親心だったのだ、と今ならば理解できる。
「カイエ様。鹿の糞を見つけました」
  先行させていた勢子の一人だ。彼らには自分のことを名前で呼ぶように頼んでいた。
  この土地では彼らが先輩なのだし、なによりも少しでも早く仲間意識を持って貰いたかった。大物を獲るためという打算もあるが、この時間を楽しく過ごしたかったのだ。
  勢子に案内されて向かった先にある鹿の糞はまだ水気を持っている。
「新しいな。ということは、皆の言ったとおりの場所で張っていた方が良さそうだな」
  カイエは勢子たちの意見を殆ど丸呑みしていた。こういう場合は土地勘のある者に委ねた方が良いことを彼は経験から知っていた。
「では、行こうか」
  ここから三十分ほどの場所に水場と草地があるそうだ。今の時間帯ならば鹿の群がやってくるかもしれないということで急いで向かっていた。
  こうして狩りをしていると今の境遇が夢なのではないかと思えてくる。
  騎士となり、小さいが名門領主の養子となった。賢狼公にも目をかけて貰っており、今回は護衛隊長に抜擢された。つい数年前まで猟師の次男坊だったとは思えない。
  親しい同輩にも恵まれ、イーフェスタ家譜代からは時々嫌味を貰うが、その程度だ。
  百人いれば百人全てが羨む立場だ。
  満足はしている。しかし、心晴れやかになりきれなかった。
  本当に欲しいものが手に届かない。そのことへの焦りがある。
  ……やはり、武勲なのだろうか。
  サベージでもたまに小競り合いが起きる。それに参戦したり、勝利することで武威を誇る騎士たちが多くいる。それ以外にも山賊や傭兵崩れ、魔獣の討伐などもそうだ。
  しかし、賢狼族が国境を接するラインボルトとは小競り合いは起きないし、良く治められているから山賊も現れない。残るは魔獣討伐なのだが、これも各地の領主たちが迅速に討伐してしまう。おかげでカイエが武勲を獲る機会がないのだ。
  狩りはその代償行為なのだ。それに狩りは彼に副産物も与えてくれた。獣から獲られる肉や皮は社交に費やす資金となったし、運ではなく実力なのだと周知させられた。
  言うなれば、彼は狩りから全てを獲てきたと言っても良いのかもしれない。
「カイエ様、見て下さい。大した数だ」
  目的の場所に到着をした。草場には数十頭もの鹿が群れを成している。
「これなら二、三頭は狩れるな。……よし、決めていたとおりの配置につけ。北側が動き出したら東西も動き出してくれ。いつ動くかは北側の判断に任せる」
  三方に勢子を配置して一斉に鹿に迫る。残る方角にはカイエと弓を持った猟師たちが控えている。あとは可能な限り獲物を仕留めるのだ。
  北側に判断を委ねたのは配置場所が一番遠いからだ。
  待機時間を使ってカイエと猟師たちは弓を張り、調子を確認する。
  準備を整えると待機が続く。
  いつもこの時間になると焦れる。勢子の配置が終わる前に獲物が逃げてしまわないか。何か対処できない異変でも起きたのではないか、と。
  勢子たちが指定した場所だから今はそういう思いは少ないが、不案内な場所だとそういう思いを抱いてしまう。別働隊を用いた任務に似ている。このことから巻き狩りが指揮官の技量を見るためなどの手段として用いられているのだ。
  ……そういえば軍学校へ入学させようという噂があったな。
  護衛隊長とこの巻き狩りは賢狼公からの試験に思えた。
  卒業後は国軍に数年奉職した後、賢狼公配下の部隊を率いることになる。
  もし、この噂が本当なら、やはり賢狼公は武勲を重視している。
  オルフィオとの話を立ち聞きしていなければ、喜んで受けただろう。
  しかし、今は自分をニルヴィーナから遠ざける口実に思えた。
  ……いや、そんなことを考えるな。
  実父が山林の中で悪い考えをしていると悪魔に飲み込まれるぞ、と注意された。
  集中を乱せば獲物を逃す。カイエは頭を振って邪気を振り払った。
  と、その時だ。太鼓を打ち鳴らした一団が飛び出してきた。北側の勢子たちだ。
  それに呼応して東西に陣取っていた勢子たちも駆け出した。
「来るぞ!」
  小さく、しかし鋭い叱咤の声を勢子たちにかける。それは自分自身に向けてのものだ。
  鹿たちは持ち通り飛び上がるほどに驚き、逃げ場となった南へと駆け出した。
  カイエたちは茂みの中から狙い澄ます。そして、矢を放った。
  真っ直ぐに空を斬り、鏃が首の根本辺りを深く突き刺さった。
  続けて第二矢を番え、放つ。これは鹿の右前脚に命中し、転倒させた。
  ……もう一度行ける!
  これが最後となる第三の矢を放った。行く先は群の長と思しき立派な角振りの雄だ。
  矢は喉元深くに刺さった。牡鹿は倒れずカイエに報復せんとばかりに角を前にして突進してくる。が、牡鹿の気迫に生命力が付いては来なかった。
  カイエの眼前で牡鹿は落命した。自分たちの長の最期を看取ることなく鹿たちは駆け抜けていく。遁走でありながら、彼らの姿は美しかった。
  今回の狩りの結果、カイエたちは鹿を八頭手に入れた。
「よし。みんなご苦労だった。私が狩った鹿は副王殿下と賢狼公に献上し、残り一頭は同輩に贈る。皆が狩った分は村の物にしてくれ」
  カイエの気前の良さに勢子たちは歓声を上げた。肉はもちろん、皮や角、肝などは良い収入になる。初日でこれなのだから、明日以降も期待できる。
  これで明日からの狩りにも弾みが付けられる。
  カイエが狙っているのは鹿ではない。熊なのだ。勢子たちとの信頼関係は必須だ。

 飲み食いできれば口実なんて何でも良い。
  そう言わんばかりに使節たちがアスナの元に酒樽と食べ物を持参して集まってきた。
  彼らは兎を仕留めたことを褒め称えてくれたが、アスナとしては少々心苦しい。
  獲ろうと思ったのではなく、殆ど偶然の産物だし、獲ったのは鷹だ。
「例えば、アスナ殿が近衛騎団に首都郊外での訓練を命じたとしよう」
  アスナからそんな相談を受けたアジタ王ティルモールは自身の考えを述べた。
「すると訓練地の近隣で魔獣が発生したと通報があった。指揮官は現場の判断でこれを討伐。大きな被害を出すことなく事なきを得た。この場合、近衛が鷹、魔獣が獲物となりますな」
「はい。それでも誉められるのは現場の将兵ですよね?」
「だが、アスナ殿が命じなければ近衛騎団はそこにいなかった。偶然であっても功績があればそれは命じた者の功績でもある」
「そういうことなら分かります」
  アスナが評価されている理由と重なるからだ。
  内乱で宰相派という鷹を放って、フォルキスという獲物を狩った。
  アスナが槍を持って戦った訳ではないが、内乱を鎮めたのはアスナだとされている。
「この辺りが、鷹狩りが王者の狩猟と言われる由縁だ。鷹を育てるには手間と金が掛かるところも軍と似ているな。まぁ、巻き狩りのようにその者の資質が見られる訳ではないから、鷹狩りが上手いことと王者としての資質があることとは別だ」
「そうなれば、鷹匠は皆、王者の資質ありということになってしまいますね。陛下」
「その通りだ、賢狼公」
  ですが、とアクトゥス王妃グレイフィルが言葉を挟んだ。
  ベルーリアは遊び疲れて眠ってしまったらしい。
「初めての狩りで野兎を捕らえたのでしょう。それは大変なことに違いはありません」
「ありがとうございます。けど、正直に言えばまだ狩りをした実感がまだありません。鷹を飛ばして面白かったとか、兎を解体したり、なめしたりしたことが興味深かった。こうなんって言えば良いんでしょうね。獲物を誰かに振る舞えたらそういう気分になるのかも」
「まだまだ初日ですよ。これから更に捕らえる機会があります」
「その通りだ。賢狼公が指南しているのだから今日だけとはならんだろう」
「これはまた、責任重大ですな」
  と、大人たちは会話を弾ませる。
  今日はリーズの勅使代理がいないこともあって非常に和やかだ。
「そういえば、陛下は狩りの調子はどうですか?」
「アスナ殿と一緒で鷹を飛ばせて遊んだぐらいだ。小さい姫にはまだ早かろう」
「申し訳ありません、陛下」
「なに、祖父になる予行演習と思えば楽しいものよ」
「ご歓談のところ失礼いたします」
  ストラトだ。彼は一礼すると用件を伝えた。
「先ほどアーディ卿の勢子が戻りました。アスナ様と公爵閣下に獲物を献上したいと申し出ております」
「ありがたく受け取るよ。折角だからここでお披露目してもらおう。それで良いですか、賢狼公」
「殿下がそれで宜しいのなら」
「それじゃ、ストラトさん。お願い」
  程なくして勢子たちが巨大な獣を担いで姿をみせた。
  酒宴の参加者たちの間にどよめきが湧き上がる。
  男四人で担ぐ巨大な猪。まるで巨木のような角を誇る牡鹿、それと牝鹿が運ばれてきた。
「アスナ様には猪、賢狼公には牡鹿を献じ、同輩の諸卿には牝鹿を贈りたいとのことです」
「これほどの大きさの猪は見た事がない」
  アスナの胸下よりも高さがあるだろうか。口の両端から伸びた牙は鋭く、そのままでも刃物として仕えそうなほどだ。黒々とした体毛は美しいとは言えないが、全身の筋肉の隆起も相まって動く小山のようにも感じられる。
  大猪は額を槍で一突きされたのか、他に傷らしい傷は見あたらなかった。
  討ち取るだけでも困難だろうに、これほどのことが出来る技量がアーディにはある。
  素人であるアスナですら想像を遙かに超える技に驚嘆する他ない。
「諸卿におかれては牝鹿を食して、交流試合への英気を養って貰いたいとのことです」
  途端に若いサベージの騎士たちの間で歓声が沸き上がる。
  時折、歓呼に約束という言葉が混じることから、何かしら彼らとの間であったのだろう。
  アーディは賢狼族以外からも敬意と好意を得ているようだった。
「賢狼公がアーディ卿を推薦した理由がよく分かった。大猪の肉は皆に振る舞わせて欲しい。全員、この大猪を食べて良い試合をして貰いたい」
  アスナの申し出に諸国の騎士たちが沸騰した。その様子にアスナは満足を覚えた。
  ……これで主役交代できた。野兎仕留めておめでとうパーティは辛かったもんな。
  アスナにとってはアーディが大物を送ってくれたことは非常に嬉しかったのだ。
  なにより今の彼は上機嫌なのだ。
  天鷹公に分けて貰ったという調味料で作った心臓と肝の串焼きが美味しかったのだ。
  調味料の購入経路も確保できそうだし、アスナにとって言う事なし。
「乾杯しよう。大猪を仕留めた勇者と、彼を見出した賢狼公を讃えて!」
  そして、なにより醤油との再会を祝して!

 乾杯、乾杯、乾杯!
  賞賛の声が湧き上がる中、主賓席の端に座るエルトナージュは楽しげに眺めていた。
  アクトゥスに遠慮してサイナがここにいないことが残念だった。
  そんな内心を顔には出さずに隣に座るグレイフィルと杯を掲げ合う。
  次にニルヴィーナとしようとしたが彼女の表情はとても暗い。
「ニーナ、どうしたの?」
「ごめんなさい。アスナ様が主役の宴なのに……」
  彼女がなにを懸念しているのか察した。アーディ卿が意図してしたことではないにせよ、主賓のアスナの顔に泥を塗るような真似をしたのだ。
  主筋にある彼女が申し訳なく思うのも無理がない。
「大丈夫よ。アスナはそんなこと気にしていないわ」
「けど……」
「ほら、あんな様子だもの。気にするだけ無駄よ?」
  その言葉を裏付けるように彼はアジタ王と賢狼公を連れ立って大猪の前に歩み寄っていった。牙に触れたり、身体に触れたりと好奇心を剥き出しにしている。
  視線を更に遠くへ向けると解体用の櫓の準備が進められている。
  準備が出来次第、血抜きを始めるのだろう。
「むしろ、野兎ぐらいでこんな大騒ぎになって困っていたみたいだし」
「そうなのですか?」
  グレイフィルが話に加わってきた。酒精のせいか紅潮した様子が非常に艶っぽい。
「はい、妃殿下。小さなことを大きく言われることを嫌がるところがありますから。むしろ、アーディ卿が主役になってくれて内心では喜んでいると思います」
「先ほど、鷹狩りでは実感が湧かないようなことを仰っていたから、そういうことなのかしら」
「だから、ニーナは気にしなくても良いわ。自国の騎士を誇ってくれればそれで良いのよ」
  ニルヴィーナの懸念は当然、彼女一人だけのものではない。
  酒宴に参加した多くの者が似たような事を考えたし、サベージの者たちはアスナの機嫌を損ねたのではないかと危惧したに違いない。
  どこか道化じみた歓声はアスナの怒りを分散させようとした努力なのかもしれない。
  だが、アスナはむしろ上機嫌になって自ら乾杯の音頭を取り、賢狼公たちと一緒に大猪を見物しに向かう姿を見せた。怒っていない表明としては十分だ。
  いま、彼は賢狼公からどうすれば、この大猪を討てるのかと質問している。
「ね? そんな顔していると明後日からのお祭りに連れて行って貰えなくなるわよ」
  納得したのかニルヴィーナは小さく頷いた。
「よろしければ、妃殿下もご一緒に」
  彼女ならばお忍びに使う名前ぐらい持っているだろう。
  しかし、グレイフィルは首を振った。
「ありがとう。けれど、遠慮させていただきます。これまで寂しい思いをさせていたから、せめてラインボルトにいる間ぐらいはと思っています」
「そうですね。ベルーリア姫には母君と一緒の方が嬉しいでしょうね」
  自分の想いを重ねてエルトナージュは同意した。ニルヴィーナも頷いている。
  二人ともすでに母を失っている身だ。ありがたさはよく分かる。
  勢子たちは下賜された酒と料理を持ってアーディ卿の元へと駆け戻っていく姿が見えた。
  解体用の櫓が準備できたようだ。村の男たちが獲物を運び出して行っている。
  アスナも賢狼公と一緒に後に続いている。あのまま猪の解体がどのように行われるか教えて貰うのだろう。歳の離れた友人関係というよりも教師と生徒という印象だ。
「……よかった」
  ぽつりとニルヴィーナが呟いた。
「お父様、アスナ様とどう接して良いか悩んでらしたから」
「ニルヴィーナ姫は副王殿下と親しくなられたのね」
「兄とともに優しくしていただいています。ラインボルトで遊学中の頃、使わせていただいた部屋を使うようにと仰って下さって、とても嬉しいです」
「確かにお優しい方ね。……そのお優しさに頼って。エルトナージュ姫、一つ口添えをお願いしたいのだけれど」
「なんでしょうか?」
「ここで獲れた肉を療養中の捕虜たちに食べさせてあげたいのだけれども、副王殿下の許可を頂けないかしら」
  精の付く物をという王妃なりの気遣いだろう。
「聞いた話ではまだ肉は胃が受け付けないそうで、重湯や果汁と蜂蜜をお湯で割ったもので身体の調子を整えている最中です」
「グレイク殿の様子から大丈夫だと思ったのですが」
  グレイク船団長は殴打された痕が残っているが、体力面では問題ないと診断されている。
「聞き取りをしたところ、将兵たちが自分の食事を彼に分けていたそうです。彼は部下から慕われているようです」
「陸よりも船の上にいる方が長い方でしたから」
「ですが、貴国との交渉がまだ始まっていない段階で妃殿下から食料を融通して頂くのは難しいかと存じます」
「だからこそ、エルトナージュ姫に口添えをお願いしたいのです」
  グレイクたちに関わる権利はラインボルトにある。
  もし、ここで王妃から肉を受け取れば、アクトゥス側はそれを理由にして、自分たちにも一定の権利があるとラインボルトが認めたと主張するだろう。
  そうなれば交渉がこじれる可能性がある。
  とはいえ、王妃の申し出を無碍にすることも難しい。
「肉を燻製にしては如何でしょう。現状、将兵の殆どが食べられない状況にあります。交渉が纏まる頃には体調も整うでしょうから、改めてお申し出下さい。その時は交渉結果に基づいたお返事が出来ると思います」
「……分かりました。少し性急にことを考えすぎてしまったようです。助言感謝します」
「私も交渉が上手く纏まることを願っています」
  そうですね、と同意し、グレイフィルは笑った。
「ラインボルトは奥向きも堅固ね。中々私の要望は通らないわ」
「ご希望に添えず申し訳ありません」
「気になさらないで。こうして貴女と話が出来る。それがどれほどの譲歩なのか理解しているつもりです」
  エルトナージュからは何も言えない。
  これが王妃の立場から出来る精一杯の謝罪なのだろう。
  内心では思うところはある。
  自分の不甲斐なさが原因でラインボルトは混乱し、支援の手を伸ばすことができなかった罪悪感。混乱する自国に圧力をかけてきた憤り。
  その他様々な感情が混ざり合った結果、アスナと一緒に仕切り直しをする、という形で気持ちの整理を付けていた。
  それを王妃が「エルトナージュの譲歩」と受け取ってくれるのであれば、それはラインボルトに利益となる。
  両国の奥向きの事で何かあった時、相手を交渉の席に座らせることができる。
  だから、エルトナージュからも何らかの心配りをせねばならない。
「妃殿下のお気持ちはアスナに伝えておきます」
「ありがとう」
  礼と述べると一緒に王妃は会釈した。非常に満足げだ。
  王妃と未来の王妃が私的な繋がりを持った。このことが大きいのだ。
「話は変わりますが、花の塩漬け。美味しく頂きました。とても良い香りでした」
「あれは私の実家で作っているものなのです。あれを飲むとホッとします。エルトナージュ姫にも気に入っていただけて良かった。折角だからニルヴィーナ姫にもおわけしましょうか」
「ありがとうございます。私もエルと同じくアスナ様から頂戴いたしました。心和む香りでした」
「そう。よかった」
  ふんわいとした笑みを見せた。恐らくこちらが本当のグレイフィルの顔なのだろう。

 翌日。交流試合の予選が始まった。
  使節団の騎士たちは剣、槍、弓、魔法の何れかに参加して腕を披露するのだ。
  本戦にはアスナも観覧し、賞金も用意されているとあって、騎士たちは張り切っている。
  また、外国の騎士同士の戦いが見られるとあって近隣から多数の人が集まっている。
  競技場の周囲には多数の屋台や大道芸人が軒を連ね、お祭り騒ぎとなっている。
  肉の脂や香辛料の香り、酒の匂いが往来を漂う。雰囲気も相まって日が高いうちから酔っているような人が多く見受けられた。
  賭け事も盛んだ。もぐりで開催されるよりもマシだという理由で王宮府が胴元となっている。但し、関係者の参加は不許可となっている。
  祭の熱狂も合わさり、競技場は盛況だ。騎士たちは名誉と実利を求め技を披露する。
  そんな祭りの中をアスナたちは連れ立って練り歩いていた。
  時間はお昼過ぎ、活況が出る良い時間帯だ。
  以前言ったとおり初めての経験だからか、ニルヴィーナは物珍しげに屋台を見ている。
  彼女と同じく祭を楽しむ経験がないアストリアがいないことが残念だ。彼は巻き狩りに出てから一度も戻ってきていない。
  賢狼公が曰く、狩りに出たら一週間ほど戻らないこともままある。はりきっているのだろう、とのことだった。父である賢狼公がそういうのならばそうなのだろう。
  ニルヴィーナも兄の無事を信じているようで兄の土産にはなにがいいだろうとエルトナージュたちと一緒に騒いでいる。彼女たちは今、田舎娘風の装いをしているのだが、これまで積み重ねてきたもの故か全くそうは見えていなかった。
  外国の使節が来ているから、そのご令嬢だろうと思われていた。
  アスナたちはそのお供という見方をされている。
  特にオーリィは体格の良さもあってか軍人以外の何者にも見えない。恐らくお忍びの経験が少ないのだろう。周囲への視線運びが警護のそれだ。
  一方、ヴァイアスはお忍びに慣れているせいか気楽さを前に出しつつも警戒は怠っていない。サイナ、ミュリカが揃っており、他にも周囲には隠れて団員が警護してくれている。
  不意に安い油と糖蜜の香りがしてきた。揚げパンの屋台だ。
  ……ああいう雑なのも久しぶりだな。
「いらっしゃい。何個にする?」
「えっと、いる人」
  声を掛けるとラインボルトの面々は遠慮無く手を挙げている。ニルヴィーナたちはどうしていいのか戸惑っているようだ。
「ニーナたちはいらない?」
「よろしいのですか?」
「いいよ。ストラトさんから多めにお小遣いを貰ってます。ドンと来いだ」
「では、ご馳走になります。フェイとオーリィの分も」
「了解。……じゃ、十六個よろしく」
「お、兄ちゃん。お大尽だねぇ。まいどあり、お代は……」
  手早く支払いを済ませると長めの串に刺した揚げパンを差し出された。
  小麦色の表面に艶やかな蜜がたっぷりと掛けられていて美味しそうだ。
「食べ終わったら、串はそこらのくずかごに入れておいてくれ」
  これは奇麗に洗って再利用するのだ。
  では、いただきます。と、アスナは大口を開けて揚げパンに食らい付いた。
  品のない油と密の甘さが口に広がり、不思議な懐かしさを覚える。
  こんな食べ方はしなかったが、通学路の途中にあるパン屋がこれと似たような揚げドーナツを売っていたのだ。
  もふもふとアスナが一つ食べ終わる頃には、近衛騎団の三人とオーリィは次に取りかかっている。エルトナージュとニルヴィーナ、フェイはさすがに周囲の視線を憚ってかゆっくり食べている。
「美味いな、これ。エグゼリスにも売ってないかな」
  雑なお菓子が気に入ったのかヴァイアスがそんな感想を漏らした。
「ここにあるってことは、探せばあるんじゃない。なかったら自分で作れば良いんだし」
「それじゃ、その時はよろしく」
「ん。分かった」
  などと安請け合いするとミュリカがジト目でヴァイアスを睨んだ。
「そういうのはまず私に言わない?」
「お? ミュリカが作ってくれるのか?」
「それぐらいなら作ってあげるわよ。ということでアスナ様。帰ったらレシピを下さいね」
「はいはい。それじゃ、オレも食べたいし帰ったら一緒に作ろうか」
「良いですね。でしたら、フェイにも教えてやって下さい」
  オーリィだ。いつの間にか開いた串を二本持っている。話をしている間に続けて買っていたようだ。この寡黙な巨漢はこういうお菓子が好きなようだ。
「オーリィって、パンに蜂蜜塗ったのとか好き?」
「はい。好物です。幼い頃は弟たちの分まで食べてしまい、母に叱られたことがあります」
  アスナは二カッと笑うと純朴ななりの巨漢の背を叩いた。
「分かった。だったら、オーリィが好きそうなのも幾つか作ってみようか」
「ありがとうございます」
  と、彼は莞爾と笑った。
「オーリィ。甘い物は高いのよ?」
  控えめにフェイが嗜めると、彼は小さく唸って周囲を見回した。
  甘い物の次は肉に取りかかるのだろうか。
  串焼きや腸詰め、クレープ状の生地に焼き肉を包んだものなど様々だ。
「…………」
  どうやら目的の物が見つかったようだ。
  彼の視線を追っていくと長大な柱に行き着いた。
  ……祭のご神体、って訳じゃなさそうだし。
  もし、そうなら一応主催者となっているアスナに何らかの儀式を行って欲しいと村長たちが言ってくるはずだ。それがないということは催し物の一つなのだろう。
「如何でしょう。あれで遊んでみませんか」
  オーリィの誘いに乗ってアスナたちがそこに向かうと屈強な体躯の男たちが列を成しているのが見えた。
「ああぁ、なるほどな」
  二本立てられた柱は厚手の板で渡されており、そこには数字が書かれている。
  その根本には巨大なハンマーを手にした男が立っている。
「どっりゃぁぁぁぁぁっ!」
  男はハンマーを持ち上げると勢いよく振り下ろした。甲高い金音を鳴り響かせて鉄板が跳ね上がった。それはみるみる上昇し、頂点まで残り四分の一というところで急激に勢いを失い停止した。
  柱の影になっていて見えないが、恐らくそこには跳ね橋の橋脚のようになっているのだ。
  鉄板はこの橋脚を押し上げながら上昇し、限界点が来たら閉じた橋桁の上に落ちる。
「おしい! もうちょっとだったのに残念だ。だが、ここまで上昇したから串肉を進呈だ! あそこの屋台で受け取ってくれ」
  恐らくその屋台の主人はハンマーゲームの事業者と同じ人物だろう。
  すごすごと舞台から降りると男は左側の階段から降り、そちらとは対照的に別の男が反対側の階段から意気揚々と姿を現す。こういったことが繰り返されている。
「では、行って参ります。ヴァイアスはどうする?」
「んー。それじゃ、ちょっと良いところでも見せてこようか」
「アスナはどうするんです?」
  答えが分かっているのにエルトナージュが聞いてくる。
「行きません。オレがやってもハンマーすら持ち上げられないまま、手が滑って後ろにぶっ倒れるだけだよ。笑いを取るために財布を開くバカはいないよ」
「そうですね」
  と、笑いを噛み殺しながら言われてしまった。見ればサイナだけでなくニルヴィーナも同様だ。三人からすれば容易に想像が出来るのだろう。
  ヴァイアスとオーリィが列の最後尾についた。
  周囲には力自慢が揃っているせいか、アスナより少し背の高いヴァイアスでも小柄に見える。
「ああそういうルールになってるのか」
  化粧が濃いご婦人が腰掛ける麻袋には賞金が入っており、彼女の隣にある箱には参加料が納められる。
  柱の頂点にある鐘を鳴らせば、賞金とこれまでの参加料全てが貰えるという仕組みだ。
  単純にハンマーを振り下ろすだけで勝負が決まるから回転率が早い。
  その上、農夫や木こりで生計を立てている男たちが多くいる土地柄だから参加者も多い。
  次々と男たちが敗北していく中、ついにオーリィの出番が回ってきた。
「次は随分若いのが続くな。名前は?」
「オーリィ」
「オーリィか。良い名前だ。それじゃ、オーリィ。ハンマーを持って、始めてくれ」
  司会の男に促されて彼はハンマーを軽々と持ち上げた。その様子に群衆がどよめいた。
  敗北した男たちの唸り声に後押しされるように彼は強く槌を振り下ろした。
  思わず耳を塞いでしまうほどの甲高い音がしたと思った次の瞬間、鐘の音が鳴った。
  そして、その鐘が空から降ってきた。誰もが何が起きたのか理解できなかった。
  アスナにしてもそうだ。サイナが呆れたような吐息を漏らしていたのが印象に残った。
「……うわぁ」
  思わず漏らした声を呼び水にしたかのように歓声が巻き起こった。
  文句の付けようもなくオーリィの勝利だ。
  賞金を納めた麻袋に腰掛けたご婦人はポカンと壊れた柱を見上げるしかなく、司会者も膝を突いて落ちた鐘を見つめていた。二人ともまるで全てが終わってしまったかのような顔をしている。その様子がさらに歓声を呼び起こしている。
  祭の初日、しかも盛況だった興業がお昼過ぎに終わってしまったのだ。
  多額の賞金を用意できねば、このまま店じまいだ。
  するとオーリィが何事か司会者に話しかけた。幾つかのやり取りがあった後、司会者が元気よく立ち上がった。
「まずはこちらの騎士オーリィ・イムサ卿の腕っ節を皆で讃えよう!」
  若者が偉業を成し遂げ、それが騎士であったと分かり、歓声が更に大きくなった。
「そして、こちらのイムサ卿から今、挑戦状が叩き付けられた。自分と同じ腕っ節の強いヤツはいないか! いればこの賞金をくれてやる、と!」
  観客たちは歓声でそれに応じた。騎士とはいえ、あんな若造が出来たのだ。自分にだってそれが出来るはずだ、と。
「その上でイムサ卿は新しいルールを付け加えられた。この柱の三分の一を超せば、酒をマグカップ一杯奢らせて貰う、とな。今、うちの小僧に酒樽を買いに行かせてる。この力自慢の騎士殿からご褒美を貰うのは誰だ誰だ誰だ!」
  と、司会者は半ばヤケクソになって煽り立てる。
「柱の修理が終わったら再開するから皆、そのつもりでいてくれ。ラインボルト男子の腕っ節がどんなものか、若き騎士殿に見せ付けてやれ!」
  司会者に煽るだけ煽らせるとオーリィはただハンマーを天高く突き上げた。
  言葉は不要。語りたければハンマーを振り下ろせ。
  時ならぬ、新たな催しに群衆は湧き上がったのだった。

「それでオーリィ。どうしてあんな貴方らしくないことをしたの?」
  主として思うところがあるのかニルヴィーナが尋ねた。
  日が暮れて遠くに夜闇が現れ始めている。祭の熱を冷ます良い時間だ。
  この後も村では祭り囃子が演奏されて、男女が手に手を取って踊り明かすのだ。
  さすがにその中に割ってはいることはできないため、アスナたちは離れの二階からその様子を眺めていた。
「フェイから甘い物は高いと注意されたので。だったら、食べたい分だけ稼げば良いと思いました」
「呆れた。貴方そんなこと考えていたのね」
「はい」
  生真面目に応じるオーリィにアスナは思わず噴き出した。
「お前、相変わらず生真面目で変なヤツだな」
  と、ヴァイアスがツッコミを入れた。
「けどさ、あれだけ煽られたら賞金を手にするヤツが出るんじゃないか?」
「その時は、その時だ。だが、賞金を獲られたくないのは事業者も同じだ。今度はもう少し上手くやるだろう」
「そのための酒か」
「うむ。事業者が上手くやるということは更に難しくなるということだ。それでは参加者に対して無礼だろう」
  こう言っているがすでにオーリィが参加するまでに堪った参加料は手にしているし、それ以降に得た利益の一割を受け取る約束もしている。
  それで祭を楽しんだのだから、彼はすでに勝者なのだ。
「分かった。賞金出たら、それでいろんなのを作ろう」
  アスナは笑いながらオーリィの肩をバンバンと叩いた。
「よろしくお願いします」
  遠慮無く王様に菓子をねだってくるというのも面白い。
  二人の婚約祝いはケーキバイキングというのも悪くないかもしれない。
  そんなことをアスナは思ったのだった。

 交流試合本戦当日。狩猟会の期間中、最も大きな催し物であるだけに人集りも最高潮だ。
屋台のみでは捌ききれない需要を捌くために、飲み物や軽食を売り歩く者たちの姿が散見される。観覧席に入れなかった客を相手に芸人たちが己の技を披露している。
  どこもかしこも盛況で、諸外国の騎士たちもこっそりと獲物を商人に卸して小銭を得ていた。本来であれば厳罰に処されるのだが、祭の間はお目こぼしされている。
  身分の上下に区別なく様々な者たちがこの祭を楽しんでいた。
  本戦にはアスナたちが観覧するということもあり、一般向けの観覧席は朝からすでに一杯になっていた。未来の王様がどんな人なのか見てみたい。ありきたりな好奇心だ。
  貴賓席には各国使節団が座り、中央の一団高い席にはアスナたち王族が着座する。
  すでに使節団は席に着いている。これから主賓を迎えるのだ。
  まずは賢狼公ヴォルゲイフがニルヴィーナ、続いてアクトゥス王妃グレイフィル、アジタ王ティルモールの順番に主賓席に腰を下ろした。
「ラインボルト副王殿下、エルトナージュ姫殿下。ご入場されます」
  司会役に促されてアスナとエルトナージュは最後に姿を見せた。
  歓声が最高潮に達する。アスナの常識で考えるならば、彼らに手を振って歓声に応えるべきなのだが、それは威厳を損ねるはしたない行為だからするなと注意されている。
  主賓席に天幕がかけられているのもその一環だ。顔を見せず、声も聞かせない事である種の神秘性を持たせる演出だ。この場ではヴァイアスがアスナの言葉を代弁するのだ。
  アスナたちの着座を待って、競技場の中央にオルフィオが姿を見せた。
  竜を討ち取った英雄の姿を知っている者も多いらしい。アスナの時よりも黄色い歓声が大きいように思える。
  静粛にさせるべく競技場の周囲に経つ儀仗兵を務める近衛騎団団員たちが、槍の石突きで地面を突いた。一度、二度、三度、と呼吸のあった打突音に観衆は威圧される。
  儀仗兵は警備の他にも試合に白熱しすぎて危険行為を行った騎士を抑え込む役割も担っている。ただ、演出だけの存在ではない。
  礼装で身を包んだ彼は恭しくアスナの前で一礼をした。
「旧城エグゼリス城代オルフィオ・マナウェン。貴公を本交流試合の審判に任ずるとの副王殿下のお言葉である」
「しかと拝命いたしました」
  彼は淀みない動きで立ち上がり、回れ右をした。
  キレのある動きは見ている者にとっても心地よく、美しく感じる。
「これより交流試合本戦、剣術の部を開始する!」
  おおおぉ〜、と地鳴りのような歓声が競技場に響き渡る。
「東門より、バジャーナ国の騎士、ダネル・クデ!」
  兜や羽に羽根飾りを施した美々しい鎧姿だ。アスナも全身鎧を着た事があるが、とてもじゃないが纏ったまま動き回るなんてことは出来ない。
  彼の鎧には肩胛骨の辺りにも籠手が取り付けられているのが見える。
  あれは予備ではない。あそこにも腕があるのだ。
  今回使用できるのは剣一振りだけなので背で腕を組ませている。
「西門より、アクトゥス国の騎士、ファム・アジガン!」
  こちらは身を包むマントの留め具が印象的だ。七色に輝く貝で作られたそれは下手な宝石よりも遙かに高価だ。その一方で鎧の方は急所だけを守れるようになっている。
  あのマントは打撃には弱いが、切断するには困難だ。
  これは海に落ちてもすぐに復帰できるようにするための工夫の一つだ。
  それぞれに剣と盾を持って、中央へと歩み寄っていく。二人が配置につく。
「始め!」
  オルフィオの号令を受けて両者が飛び出した。
  剣術や槍術は対戦をすることもあって、勝敗が分かりやすい。
  対して弓術は相手に向けて放つ訳にもいかない。そのため、的にどれだけ正確に、素早く放てるかが競われた。この地には本職でなくても管理官の許可を得て狩りをする者が多いこともあって一家言があるものが沢山いる。
  そういった者たちも唸らせる腕前を弓使いたちは披露した。
  魔法は総合技術として扱われる。殺傷性を限界まで弱めた演習用魔法と得意とする武器を用いて戦うのだ。見た目も派手だし、人気も一番ある。
  何より一般人では目にすることのない近衛騎団や魔軍と同等の戦いが見られるのだ。
  観覧者たちが滾らない理由はない。
  戦いは苛烈に、しかし互いに礼節をもって行われた。
  さすがは騎士殿、と観覧者たちは勝敗に関係なくその姿に惜しみない賞賛をおくった。
  無論、賭博に参加していた者は不平を並べ立てたが、その声は殆ど掻き消されていた。
  表彰式ではアスナ自らが彼らを賞賛した。各部門の優勝者と準優勝者には賞金と剣が贈られ、残りの本戦出場者たちにも敢闘を讃えて小剣が贈られる。
  本戦に出られたことだけでも彼らの武術が巧みである証だ。
  こうして狩猟会最大の催しは終了したが、まだ狩猟会全体が終わった訳ではない。
  競技場はそのまま開放され、騎士見習いたちが他国の騎士から稽古を付けて貰っていたり、騎士同士が国を越えて酒盛りをしたりなどと交流が続く。
  アスナ自身も馬に乗って使節たちの元に陣中見舞いに行くなど精力的に動き回っていた。
  狩りらしい狩りはあれ以来していない。ただ、鷹を飛ばすことだけは楽しくて時間を作っては賢狼公や鷹匠の指導を受けて飛ばしていた。
  また、時には森の中に入って散策をし、木の実の酸っぱさに顔をしかめて笑われた。
  指南役の賢狼公も時々、弓を持って野鳥狩りに参加をしてアスナたちの食卓に鳥肉を饗したのだった。狩猟会といえば血生臭い印象を持たれるが、実際はキャンプに近い。
  それでも狩りが重要な要素であることに違いはない。
  巻き狩りをしていた騎士たちの中で特に耳目を集めているのはカイエ・アーディで間違いない。彼は毎日何かしらの獲物を持たせて勢子を戻していたのだ。
  他の騎士たちも普段よりもずっと大量の獣を獲ている。その騎士たちが嫉妬できないほどの豊猟なのだ。
  そのカイエを手伝っている村は大いに活気づいていた。忙しく獣が解体され、肉と皮などに分けられる。それらの半分が村の取り分になるとなれば活気づく。
  各国使節団で知らぬ者がいなくなったカイエとは正反対にアストリアは一度も獲物を村に届けず、自身が戻ってくることもなかった。
  時折、彼に付けた勢子が水や食料を抱えて戻っていく姿が見られた。
  皆、不審に思ったが現状を尋ねられなかった。
  もし、成果がないと勢子に言わせてしまうとアストリアの名誉に関わる。
  アスナたちは最終日まで彼を信じて待つことにした。が、しかし……。
「二人とも戻ってきませんね」
  隣に立つヴォルゲイフは返事をすることなく森を見つめている。アスナの影には護衛役のサイナが従っている。
  最終日ということもあり、アスナたちが滞在する村に使節と騎士たちが集まってきている。各々の武勇か狩りの成果を自慢しあって和気藹々としている。
  が、それは表面上だけだ。未だ戻らない二人を誰もが気にしていた。
  結局、最終日の夕暮れになってもアストリアは戻ってくることがなかった。
「賢狼公、念のために捜索の準備を始めさせています」
  ヴァイアスとオルフィオの進言を受けていつでも出発できるようにしていた。
  夕刻を過ぎた今から出発しては二次遭難の可能性がある。そのため、出発は明朝だ。
「ありがとうございます」
「宴席の方は……」
「そちらは開いて下さい。主催者が最後に参加者を賞賛しないでは片手落ちです」
「分かりました。そうします」
  賢狼公の背に会釈をしてアスナは離れに戻ることにした。
  最終日になっても戻ってこない賢狼の若君に騎士たちは浮き足立っており、村人たちも責任を追及されるのではないかと不安がっている。
  アストリアと連絡が取れれば良いのだが、それすら出来ない状況だ。
  せめて彼に付けていた勢子が戻ってきてくれれば対処の仕様があるのだが。
  離れの談話室に入るとラインボルトの面々が待っていた。
  事後の相談をするため、ニルヴィーナには遠慮してもらっている。
「閣下のご意向は如何でしたか」
  予定では狩猟会の締めとなる宴席が催される。
  その準備はストラトを中心に進めている。彼も気がかりだろう。
「開いて欲しいって。だから、予定通りに進めて下さい」
「承知いたしました」
「巻き狩りに参加していた騎士たちへの聞き取りをしておいたぞ」
  と、ヴァイアスは報告を始めた。
  近衛騎団は警備や交流試合などで忙しくしていたが、それでも出来る事はしてくれていたようだ。ストラトたち侍従より同じ武官の方が話しやすいというのもあるだろう。
「アストリア様を見た者はいない。だけど、どの騎士も豊猟だったと話していた」
  どの国もそれなりの面子を立てられたのだから良いことだと思う。
  訳が分からずアスナは眉を顰めた。
「村長の見立てだと、獲れすぎらしいんだ」
  森林管理官を務めているのだから、この森のことはよく分かっているはずだ。
  その村長が、獲れすぎると言っている。良くない前兆だと考えて良いのかもしれない。
「悪い前兆かもしれないってことか?」
「ただの取り越し苦労かもしれないってのを前提に話すぞ」
  そう前置きしてヴァイアスはアスナに問題を提示した。
「森の獣が増える理由ってなんだと思う? 適当で良い思いついた事を言ってみてくれ」
「何年か森の食べ物が豊富だったとか、天敵が少なくなったとか?」
  以前、鹿害について報道していたのを見た記憶がある。
「すぐに思いつくのはそんなところだよな。で、俺もその辺りを森林管理官の村長に聞いてみたんだよ。森の実りは例年とあんまり変わってないらしい」
  それで、とヴァイアスは何かを纏めた用紙をアスナの前に出した。
  そこには巻き狩りをした騎士がどれだけ獣を狩ったかの集計が書かれている。
  どの国も五頭以上狩っている。素人目には少なく見えるが、五頭でも十分な豊猟なのだろう。それを考えるとカイエ・アーディの成果は目を見張るものがあるということだ。
「肉食の動物もそこそこ狩られてるな」
  狼や山犬の類だ。後者は猟師から逃げたり、はぐれたりした猟犬が野生化したものだとヴァイアスが捕捉した。
「もし肉食の数が減っていたら、こんなに狩れないよな」
「それじゃ、何かが起こっている?」
「かもしれない」
  そう応じながら彼は次に簡単な手書きのこの森一帯を著した地図を出した。
「巻き狩りをしたのは大体この辺りになるらしい」
  次々と手書きの地図に楕円形を書き込んでいく。どれも村からさほど離れてはいない。
「割と近めのところでやってたんだな」
「多分、この辺が騎士殿にとってやりやすい狩場なんだろうな」
  どこか皮肉げな口調だ。
「どういうこと?」
「狩猟会の間に一頭も獲れなかったら騎士殿も村も面目が潰れるだろ。だから、こう言う時は何匹か生け捕りにしておいて、それとなく放って狩って貰うんだ」
「ああぁ、やらせね。そんな準備もしてたんだ」
「こういうのは気遣いっていうんだよ。で、話を戻すぞ。今回は生け捕った獣を使っていないらしい。この一帯に棲んでいる獣にとっての天敵は猟師だ。そんな危険なところにわざわざ行かないよな。ってことは、騎士たちが狩った獣は元々別の場所、森の奥に棲んでいたんじゃないかって推測できる」
  そこまで言うとヴァイアスは地図の上に楕円を描いた。
「森の奥に獣が逃げ出すような何かがいるのかもしれない。魔獣とかな」
  世界を巡る魔力の流れを龍脈という。例えば真っ直ぐな流れであったとしても、龍脈は地上の様相の影響を受けて蛇行し始める。
  龍脈の蛇行は川の流れと同じで内側に様々な澱みを堆積させる。
  この堆積した魔力の澱みに影響された獣や、澱みそのものが魔獣と化す。
「龍脈の様子を調べたのか」
「サイナがな」
  彼女は精霊使いだ。精霊は龍脈に棲んでおり精霊使いは一時的にそこから汲み上げて使役している。そのため、龍脈の扱いに長けた存在なのだ。
  恐らく、アクトゥスの関係者と会う時に調査をしていたのだろう。
  彼女が同席することで無用の軋轢がでないようにとの配慮だ。
  また、魔獣は人族を喰う。アスナの身を案じて念のために確認していたのだろう。
  アスナは感謝の意を込めて彼女に会釈を送った。
「結果から言えば少し澱みが溜まってるそうだ。だけど、こういう大きな森だと澱みが溜まりやすいし、魔獣が生まれても肉食獣に狩られて集落に被害がでないことの方が多い」
「龍脈の様子から考えれば、もし魔獣が出てもアストリアが退治できる程度だってことか」
  彼は知らない山野に放り込まれて生還している。もし、遭難したとしても勢子たちと協力して脱出できるはずだ。
「けど、それだったら森の動物が大勢逃げてきたって仮説と反しないか?」
「だから言っただろ。ただの取り越し苦労かもしれないって。とはいっても犬若が帰ってこない理由は遭難したか、これぐらいなんだよなぁ」
  所詮は仮定に仮定を重ねた話だ。と、そこでアスナは気付いた。
「そもそもなんで魔獣の話になってるんだ? 可能性が低いんだから遭難一本に絞った方が良くないか?」
「まぁ、そうなんだけどな」
  ヴァイアスは口籠もるとエルトナージュに視線を投げた。
  彼女はそれを受け取ると、
「嫌な言い方ですけど、これも外交なんです。アストリア様は賢狼公の嫡子、つまり王位継承権を持っています。そんな方がラインボルトで亡くなれば私たちは責められます。その時に仮定に仮定を重ねたことも考慮にいれて、出来る限りのことをしたと言い張れるようにしておかないといけないんです」
「それでもやる事は変わらないだろ。アストリアとアーディ卿の捜索」
「仮定を重ねた無理矢理な口実を使ってラインボーグ様にも捜索に加わって頂くんです。ここはエグゼリスにも近い。こんなところで魔獣が大量発生したら大事です。予兆があるので念のために調査して頂く。ついでにアストリア様とアーディ卿も捜していただく。もし、万が一のことがあってもサベージには近衛騎団と龍族が揃って捜索したと言い張れますし、発見も早くできると思います」
  ラインボーグら龍族の主たる役目はラインボルト国内の魔獣退治だ。
  彼らが救助活動に参加した例は幾らでもあるが、あくまでもついで。
  緊急救助任務も併任されてもこなせるだけの頭数が龍族にはないのだ。
  出来るからと言って押し付けては本来の役目が果たせなくなってしまう。
  なにより龍族は大公を擁している。便利使いなんて出来る訳がないのだ。
「八代目にはオレから手紙を出す。あと宰相にも。ヴァイアス、伝令の準備。それとオルフィオさんから村長に、万が一のことがあっても村にはお咎めなしだって伝えておいてくれます?」
  間違いなく心配しているだろう。それを払拭しておかねば捜索の手伝いも頼めない。
  無理をさせて二次遭難や死者が出ては困るのだ。
「分かりました。他にご命じになられることはありますか?」
「助言をお願いします。遭難した人を助ける方法なんてさっぱりです」
「では、村長の元に行く前に一つ」
「はい」
「宴席の場で全てを話されては如何でしょう。ご友人の名誉を慮るにも限度があります。使節の皆さまに話す事で理解を得ることが肝要です。このことを賢狼公にお伝えする役目、ご命じいただければと存じます」
「……反対意見のある人は?」
  誰も挙手しない。異存はない。アスナも同様だ。
  正直な話、捜索には全力を傾けるつもりだが、彼の名誉はどうやれば守れるのか皆目見当が付かない。出来る事を一生懸命にして、出来ない事は賢狼公に丸投げにしよう。
  オルフィオの提案はアスナにそう決心させるだけの効果があった。
  なによりそれを伝える役目を彼に任せられることが甘美すぎた。
「わかった。オルフィオさんに任せます」
「ありがとうございます、殿下」
  と、不意に談話室に誰かが飛び込んできた。ミュリカだ。
「失礼します。アーディ卿が戻られました!」
  その報せにアスナのみならず全員が立ち上がった。
「それでアーディ卿は今どうしている?」
「はい、団長。現在、賢狼公に帰還の報告をされています」
  部下としての意識でミュリカは報告をした。
「ディティン公のことは知らなかったようで随分と驚いていたとのことです。狩りの間もお会いしなかったそうです」
「そうか。知らないか。他には?」
「ニーナ様にお見舞い申し上げたいと仰ってます」
  どうします? とミュリカは目でアスナに問うた。
「ニーナはエルたちが慰めてる。慰労の宴に備えて汗を流してろ。これをそれらしい表現で伝えて。賢狼公のところにいるならオルフィオさん、これもお願いします」
「分かりました。助言の二つ目です。少し気持ちにゆとりをお持ち下さい。アーディ卿が戻ったので懸念は半分になったのです。お気を楽に」
「……はぁ」
  無理矢理に息を吐いて緊張を幾らか解く努力をする。自分でもどれだけの効果があるのか分からないが、しないよりはマシだろう。
「確かに二人分よりも、一人分の方がマシかもしれませんね」
  そんなアスナの返答に満足したのかオルフィオは強く頷いた。
「賢狼公の元へ行って参ります」
  彼を見送るとアスナは続いてエルトナージュに顔を向けた。
「エルはサイナさんとニーナところに。ヴァイアスは命令したとおりに。オレは手紙を書き終わったらここで待機してる。何かあったら遠慮なく」
  気持ちの上では何かしらしたい。しかし、出来る事はないのだ。
  内乱中にしでかした無鉄砲な行動を繰り返す訳にはいかない。
  命令を出したなら、次の判断が必要になるまで待機していることも大切なことだ。

 日が暮れ村の各所に篝火が焚かれている。
  夜闇の中にある灯りは明るく、見る者に安堵を与えてくれるものだ。
  夜空を見上げれば星が瞬いている。
  光の明滅は地上で起きていることなど感知せず平等に光を落としている。
  幼い頃、手の中のビー玉が世界で一番の宝物だったように、星々は見る者によって価値を変えていく。
  今日、見上げる星空は少し煩わしい。
  アスナたちの前には狩猟祭の間に獲た肉を主とした、この地の料理が幾つも並べられている。城で出される物とは違う家庭料理的な豪華さだ。
「宴を始める前に、話しておかなければならないことがあります」
  席を立ったアスナは一度、出席者たちを見回してから話を始めた。
  主賓席に座る王たちの顔にも憂慮の色が見受けられる。彼らだけではない出席者の全てが賢狼公ヴォルゲイフに視線を向けていた。
  アストリアは戻ってこなかった。
  この事態にラインボルト側がどういう行動を取るのか、誰もが気にしている。
「すでに察していると思いますが、まだディティン公が戻ってきていません。彼の捜索は明日から近衛騎団で行います。また、エグゼリスに書状を出しラインボーグ大公にも助力を求めています」
  ざわめきがおきる。近衛と大公が揃って捜索活動を行う。
  通常ならば村の者に捜索を命じて終わりだ。
  如何にラインボルトがサベージを優遇しているかの証だ。
「皆さんには明日、予定通りエグゼリスに戻っていただき狩りの疲れを癒していただきたいと思っています」
  アスナの左手に座る賢狼公ヴォルゲイフが立ち上がると、
「息子のことで皆を心配させたこと誠に申し訳ない。また副王殿下のご配慮にはお礼の言葉もない。改めてお礼申し上げる」
  小さく彼はアスナに対して一礼をした。
「皆さんご存知の通り、ディティン公は山奥に放り込まれても無事に戻ってくる方。また、この山林に詳しい村の者も一緒です。すぐに見つかるでしょう。戻った時、今日の宴がどれだけ楽しかったか教えてやりましょう。きっと悔しがることでしょう」
  皆で心配していたといえば生還した時、アストリアにとって負担になる。
  盛り上がったと伝えれば、申し訳なさを幾らか軽減させられるはずだ。
「では」
  そういうとアスナは杯を手に取った。続けて宴席の参加者たちも杯を取る。
「騎士たちの豊猟と武勇を称して!」
  乾杯の唱和が響く。
  飲食が始まる。各人が自分たちの前に出された料理を食し、酒を乾す。
  最初は遠慮がちであったが、酒の酔いが後押しをして談笑が始まる。
  話題はもちろん自分たちの狩りの成果や交流試合のこと。
  皆がある程度、酒によい腹を満たした頃、アスナは再び席を立ち上がった。
「そろそろ巻き狩りに出ていた騎士たちから自慢話を披露して貰えるかな。まずはアジタからご披露下さい。陛下」
  アスナは右隣に座るアジタ王ティルモールに話を振った。
「うむ。タクティナ。そなたの成果を披露せよ」
「はい、陛下!」
  前に進み出てきたのは女性騎士だ。溌剌とした雰囲気と黒髪が印象的だ。
「タクティナ・ペンテと申します。此度の巻き狩りで私が獲た獣は鹿が六頭にございます」
  するすると彼女の従者が何かを捧げ持って前に進み出てきた。感嘆の声が聞こえてくる。
  素晴らしい大きさの鹿の角だ。高く枝分かれした角は天に伸び、まるで兜飾りのようだ。
「特にこの角の持ち主は勇猛でありました。私が三の矢、四の矢と打ち込みましても倒れず、突進を続けて参りました。その姿は非常に美しく見惚れるほど。この意気に答えねば騎士だと名乗れぬと思った私めは槍を持って正面から相対し、これを討ち取りました」
「うむ。見事だ。そなたの父も誇りに思うことだろう」
「陛下。彼女の武勇を賞したいのですが、お許し頂けますか」
  ……こういう言葉遣いにも慣れてきたなぁ。
  などとアスナは内心で思った。
「それはありがたい。タクティナ、慎んで受けるが良い」
「はい。ありがとうございます。副王殿下」
「では、私からは小剣を。エルトナージュからは髪飾りを贈ろう」
  会場の影で待機していた近衛騎団の団員が小剣と髪飾りを捧げ持って現れる。
  髪飾りは銀細工に小さな宝石を散りばめられている。
「アジタの銀細工には劣りますが、どうぞお使い下さい」
「ありがとうございます、姫殿下」
  このようにして騎士たちは狩りの成果を語っていった。
  狩った証として彼らは角や牙、毛皮などを披露し、獣たちがどれほど手強い相手であったか、それと相対した自分がいかに勇敢であったかを語った。
  そこに謙虚の文字はない。彼ら自身の誇り関わることだから。
  アスナは彼らの話を丁寧に聞き、褒美を与えていった。
  そうすることで彼らの誇りは王の承認を得て、名誉へと変わる。彼らは国を代表してラインボルトを訪問した騎士。この時、得た名誉は祖国の名誉となるのだ。
  そして、最後を締めるのはサベージだ。
  本当であれば誰よりも誇らしげであって良いはずの男の声に精彩がない。
  誰もが憐れに思いつつ賢狼公による配下の披露が続く。
「では、次にカイエ・アーディ」
「はっ! 私の成果は鹿十一、猪二、熊一にございます」
  誰もが唸るほかなかった。彼の成果はあまりにも図抜けていた。
  ラインボルト側が何か手心を加えたのではないかと騎士たちは思った。しかし、すぐにそれは考えすぎだと自戒した。何らかの支援をするのなら、その相手はアストリアであるべきだ。自らの後宮で寝泊まりさせるほど気遣いをしているのにわざわざ家臣筋、それも小領主の養子を厚く遇しても意味はない。
  そして、皆の前に披露された熊は見上げるほど巨大であり、肩幅は十四、五の少年の身長ほどもありそうだ。獣のの範疇から外れた、熊の姿をした怪物。
「何度となく勢子たちと矢を浴びせましたが、その多くが肉を通さず、もはや常道の狩りでは適わずと覚悟を決め、槍にて相手を致しました。一度、二度と突きましたが熊の暴威は止まらず、この身を狼に変えて応戦。勢子たちの援護を受けて、熊の背後に回りました。そして背骨を殴り砕き、我が爪にて頸椎を刺し貫き、討ち取りました」
  ……うわぁ。
  出来るだけ表情に出さないようにアスナは努力をした。
  ちらりと賢狼公を見ると彼に特別な感慨はないようだ。
  出来て当たり前、そのように見える。事実その通りなのだ。
  初めの挨拶の時に贈られた熊皮もこうやって手に入れたものと考えてよさそうだ。
  それはつまり、アストリアも殴り殺しているということ。
  この二人ほどではないにせよ、賢狼族にはそれが出来るだけの下地がある。
  仲良くしておくに越した事がない。そう心に刻むアスナであった。
「うむ。良き成果である。褒美として軍学校への入学を推薦しよう」
  おおぉ、とサベージの騎士たちの間から歓声が上がる。
  この瞬間、カイエ・アーディの進む道が決定した。賢狼公推薦となれば大隊長は確実。彼の研鑽次第では将軍位にも手を伸ばせる権利が与えられた。
  それは森林管理官の次男では辿り着けない場所。カイエ・アーディは狩りによってそれらを仕留めたのだ。
「ニルヴィーナ、こちらに」
  どよめきが海嘯のように大きくなる。このような時に賢狼公が娘を呼ぶことがどういう意味を持つのか。誰もが同じことを想像した。
  ニルヴィーナは一瞬、顔を強張らせたが余計な事は口にせず返事をした。
「はい、お父様」
  衆目が見守る中、彼女は父の元へと向かう。
  アストリアが行方不明の今、後継候補第二位者である彼に賢狼の姫が嫁ぐのは当然のことだ。誰にもそれを止める事はできない。
  カイエが紅潮して見えるのは篝火のせいではないだろう。
  賢狼公ヴォルゲイフが最初の言葉を掻き消すように宴席の場に侍従が飛び込んできた。
  彼は薄汚れた男を伴っている。恐らく勢子を務める村の男だろう。
「ご歓談のところ失礼いたします! ただいまディティン公に従っていた勢子たちが戻って参りました!」
「アストリアは無事か!」
  椅子を蹴倒してアスナは問うた。
「森の奥深くにて龍脈より出てこようとする駄竜を発見。ディティン公はこれを抑えるために抗戦、勢子たちは駄竜誕生を報せよとご命じになられたとのことです」
  息も絶え絶えとなっている勢子の男は顔を上げて哀願した。
「お願いです。若様をお助け下さい! 俺たちを助けるために若様が!」
  駄竜とは知性無き竜。魔獣の最上位に位置する災厄。
  魔獣の出現は規模の過多はあるにせよ出現する一帯の龍脈を吸い上げる。
  一度生まれ出ればあらゆるものに甚大な被害を与える存在。倒せないからと放置すれば龍脈を流れる魔力を枯渇するまで喰らい続け、手に負えない存在となる。
  発見し次第、如何なる損害を無視してでも討ち取らねばならない。それが駄竜だ。
  駄竜討伐に竜族が口を挟むことはない。彼らは駄竜を憎んでいる。自分たちと似て非なる存在が野卑に暴れまわる。高貴を自認する彼らが許せるはずがない。
「ヴァイアス! オルフィオ!」
「ここに!」
  文字通り近衛に連なる男たちがアスナの前に膝を突いた。
「ヴァイアス、駄竜を斬れるか?」
「アスナがそれを命じるなら」
  確信を持って彼は応じた。自分の腕を一度強く叩き、
「何であろうと斬りに行こう」
「よし。なら、現れた駄竜の首を切り落としてこい!」
「了解いたしました!」
  続いて、ヴァイアスの右にて控えるオルフィオに目を向けた。
「ヴァイアスが留守の間、防衛指揮を任せる。ヴァイアスと相談して討伐隊と守備隊を上手に分けてくれ」
「しかと拝命いたしました!」
「副王殿下。我ら賢狼の騎士も討伐隊にお加え願いたい。息子のことがあります。是非とも」
「駄竜討伐を優先すること、派遣した騎士が戻ってこない可能性があることをご了承いただけますか」
「無論!」
「許可する。賢狼公にはオレの側で補佐をお願いします」
「心得た」
「森林管理官、案内役を出せ。万一の時は家族の生活を保証する」
「はっ」
  森林管理官を務める村長は顔面を真っ青にしている。
  駄竜が現れたということは放置すれば山や森の大部分が死滅する恐れがある。だからといって確実に死ぬと分かっていることを誰かに押し付けることも憚られた。
「村長、俺が行く」
「お前……」
「村のもんを逃がして貰ったんだ。だったら、今度は村のもんが若様を迎えにいかないと。それにここは俺らがお預かりしてる森だ。なにもせんのは恥だ」
  声も足も震えズボンも濡れて汚れている。だが、それを咎める者はいない。
  駄竜と相対するということは死を意味するといって良い。
「すまん。……殿下、この者が案内を務めます」
「頼む。それと彼を乗せる背負子を用意しておけ。無理をさせるんだ。それぐらいはしないとな。ヴァイアス、そういうことだ。誰に背負わせるか選んでおけ」
「了解しました」
  続いてアスナは他国の騎士たちを見回した。
  どの顔も困惑の色があるのが見える。身の危険への不安、駄竜退治に参加して名誉を得たいなどなど。様々な感情が渦巻いている。
「諸国の騎士たちにお願い申し上げる。諸卿が滞在している村の者たちをここに誘導し、それまでの間の護衛をお願いしたい。翌朝には使節たちとともにエグゼリスに戻っていただくので、それまでの間手を貸していただきたい」
  深く頭を下げる。手が足りない以上、彼らに頼るべきだ。村人を安心させた上で移動させるには非常に便利な存在だ。それが頭一つ下げるだけで使えるのなら安いものだ。
「民のために頭を下げるか。よかろう。助力しよう。アジタの騎士たちよ。しばしの間、オルフィオ殿の指揮に従うが良い。彼の命は余の命と心得よ」
  数は少ないが騎士たちが一斉にその場に立ち上がり命に服す旨宣誓した。
「ありがとうございます、陛下」
「なに。未来の甥御が困っている時に手を貸さぬ叔父はおらぬ」
  アジタ王はアスナの肩に手を置くと諸国の騎士たちを見た。
「諸卿よ、世話になった村のために余とともに一働きしてはみぬか! これはラインボルトへ貸しを作るためではない。我らが良き時間を過ごす手伝いをした者たちへの返礼であると心得よ。諸卿よ、余の呼びかけに何と応じる?」
  応、と。諾、と。騎士たちはそれ以外の返事をしなかった。
「諸卿に感謝申し上げます。どうか、我が国の民を頼みます」
  アスナの周囲が慌ただしく動き始めた。騎士たちは目の前にある食事を口一杯に頬張り、水で流し込んで食事を終わらせオルフィオの元へと駆けていく。
  使節たちはアスナの元へと集まり、善後策を協議する。
  これからエグゼリスに駄竜が生まれた事を報せる使者を立てて援軍を求める。それが到着次第、使節団は引き継ぎを行いエグゼリスへと戻ることになった。
  またエグゼリスへの帰還の総指揮はアジタ王が執る。その隊列の先方にはニルヴィーナとベルーリアを初めとする女性陣が含まれることになった。
  但し、グレイフィル王妃は立場故にアクトゥス隊と行動を共にする。
  無論、王妃も先発隊と一緒に戻るように勧められた。しかし、責任を放棄することは出来ぬと言われては強く反対も出来なかった。
  ……とはいえ、駄竜討伐は悲観してはいないんだけどね。
  使節たちが討議する姿を見ながらアスナはそんなことを思った。
  人魔の規格外が二人、時間をおいて援軍とラインボーグが来る。駄竜討伐となれば、これにリムルが加わるかもしれない。内々にフォルキスを動かしても良い。
  手紙には政府と軍の判断でこれらを使うか判断するように命じるつもりだ。
  問題はアストリアの方だ。ヴァイアスたちが間に合えばいいか分からないところだ。
  アストリアと同程度の力量があるカイエ・アーディは熊を狩った。
  だからといって竜を相手にして生きていられるのか。無事であることを祈るしかない。
  必要な協議を終えると使節たちはそれぞれの村へと戻っていった。
  村人たちを先導する任務もそうだが、自分たちの荷物を取りに戻らねばならない。
  ただアジタ王ティルモールとグレイフィル王妃、ベルーリアは王族に何かあっては困るということで、そのまま村に残ってもらうことにした。
  今は離れの空き部屋で休んでいる。
「…………」
  本の数分前まで喧噪の中にあった離れの談話室にはアスナとエルトナージュ、賢狼公とアジタ王の四人だけとなっている。
  指示を出したら結果を待つ。当たり前のことを当たり前に行う。
  村は避難者の受け入れ準備を始めており、老若男女の声や駆け足の音が遠く響いてくるのが分かる。全てアスナの指示によって動いているのだ。
  書類上だけでは感じにくい現場の空気だ。それをアスナは、
「不謹慎だけど、少し懐かしいな」
  三人は何を言っているのかと怪訝な顔をしたが、すぐに何を言っているのか理解した。
「戦場の空気か。確かにそうですな」
「賢狼公にも経験が?」
「ありますな。もう二十年ほど前になる。経緯は省きますが、南方諸国と小競り合いになりましてな。少し戦えばそれで相手は妥協するだろう。そんな甘い見込みで戦争が始まった。しかし、私たちの見込みとは違って相手は長期間の籠城も視野に腰の据わった者たち。対してこちらはすでに勝った気でいる。これでは戦になりませんでした」
  エルトナージュがそっと立ち上がると部屋の隅にあった茶器をつかって飲み物の用意をし始める。彼女は万が一竜が空に飛び立った時、撃ち落とすために待機している。
  彼女もアスナ同様に待つ側なのだ。
「死んで祖国の栄光になるよりも、生きて勝利の美酒を飲みたい。当たり前ですよね」
「かく言う私もそうでした。上も下も浮き足だって統制すらままならず随分と苦労しました。指揮権が手にあってもままならない。そんなことを思い知らされた戦でした」
  喉の奥に貼り付いた苦みに耐えるような顔つきだ。
  現状と重なるところが多いからかもしれない。
  諸国の騎士たちにとっては所詮他人事。適当にお付き合いをするつもりでしかない。
  ラインボルトにしたところでアストリアよりも駄竜討伐に重きを置いている。
「宜しいでしょうか。陛下、殿下」
「では、余も付き合うとするか」
  そう言って二人は懐から煙草入れを出した。
  賢狼公はアジタ王に会釈を送ると煙草を解しつつパイプに詰め始めた。
「殿下は喫まれないのですか?」
「何代か前のご先祖が寝タバコで小火を起こしたそうで、それ以来タバコは止めておけっていうのが我が家の家訓なんですよ」
  本当かどうかは知らない。真実は孫にタバコを遠ざけたかった祖母の嘘かもしれない。
  だが、吸わずとも困らないのだから、それで良いとアスナは思っている。
「なら……」
「お気になさらないず、どうぞ。うちの大臣たちも閣議の時にパッパカ吸ってますよ。たまに閣議室の天井に雲が出来るぐらい。あんまり酷い時は私が窓を開けて換気しないといけないんですよ」
「ははははっ。遠慮のない大臣たちだ」
  大人たちは冗談だと思ったようだが真実だ。
  最近ではアスナの命令で喫煙者は窓際に追いやられている。
「アスナはこちらの方が好きですからね」
  三人の男たちの前にグラスと燻製肉を置いた。この森で狩った猪や鹿の肉で作った物だ。
「陛下もお召し上がり下さい。これ、ニーナに教えて貰いながら作ったものです」
「アスナ殿の手製か、どれどれ……」
  アジタ王ルティモールは相好を崩して皿の上の燻製を口にした。
  アスナも続いて口にした。噛み締めると肉の味と香辛料の刺激が舌に広がる。
「随分と荒々しい味付けだな」
「けど、食べられないほどじゃないでしょう?」
「う、む……」
  王の舌には合わなかったようだ。さっぱりしようと酒を流し込んでいる。
  今回は失敗作だが、読書しながら燻製の加減をみる休日というも楽しそうだと思う。
「ときに賢狼公。ご息女をあの若者に嫁がせるおつもりなのかな?」
  王の下問にヴォルゲイフは紫煙を吐いて若干唸る。そして、アスナに視線を向けた。
「殿下はどのように思われる?」
  仮にアストリアが亡くなっていたら、次の賢狼公となったアーディと仲良くできるかと問われている、とアスナは判断した。
「他国の者が後継者問題に口を挟んで良いとは思いません。彼とは挨拶しかしていませんから特別なにかというのはありません。スゴイ人がサベージにはいるんだなぐらいです」
  ただ、とアスナは続けた。
「アストリアが賢狼公になってくれる方が悪い事が起きても、話し合って乗り越えていけると思います。結果がどうなろうとラインボルトとしてはサベージ、賢狼族とは睨み合う関係にはなりたくないと思っています」
  国家間のことで、お前が気に入らないから付き合わない、は通用しない。お互いに妥協点を探って関係を継続していくものだ。それが出来なくなった時、戦争が起きる。
「賢狼の小父さまもそこまでに。アストリア様が無事に戻られることを祈りましょう。アスナは手持ちの戦力で最高のものを出しました。あまり悪い方に考えないで下さい」
「…………」
  ヴォルゲイフは鼻から息を吐き、グラスを満たす酒を呷った。
  薄い琥珀色の液体が瞬く間に消え、半分になる。
「そうだな。気が動転していたようだ。申し訳ない」
  そして、残り半分を飲み干し始めた。
「いっそのことアスナ殿に嫁がせてはどうだ」
「ぶふぉっ!?」
  賢狼公は思い切り噴き出した。鼻に入ったのか顔を顰めている。
「小父さま!」
  エルトナージュが差し出したハンカチを受け取り顔を拭く。
  二度、咳き込むと恨みがましい目でルティモールを見た。
「陛下、お戯れを」
「戯れ言には違いないが悪くはあるまい。そこまでラインボルトとの関係を重視しているのなら親族になってしまえば良い。西が味方となれば南も下手に動けず、北とも折り合いをつけられよう。東は余が蓋をする。さすれば竜族にご帰国願う算段を立てられる」
「叔父様、少し酔われているのですか」
  エルトナージュに注意されるもルティモールは莞爾とするのみ。
「その通り。余は今、都合の良い夢を見ておる。どちらにせよ、もう暫しすればアスナ殿に縁談が次々に縁談が舞い込んでくるぞ。姫、そなたの父もイレーナ殿と見合いをしたのは狩猟会の後だぞ。余もそなたの叔父でなければ親族の娘を養女にして見合いを申し込んでおるところだ」
「……そうなんですか?」
  さすがに驚いた。エルトナージュとサイナが側にいるのだから、そういう話は窮地にあるアクトゥスぐらいだろうと思っていたからだ。
「アスナ殿は臣下が用意した演目を踊れる事を見せ、野蛮人ではないと証明した」
  演目とは挨拶や晩餐会でのやり取りだろうか。野蛮人云々は音楽や絵画など文化的なことを茶会で披露したことだろう。
「そして今日だ。急場にあっては自らの判断で行動した。アクトゥスの母娘に優しくしておるところも加点だな。縁を結んでよい。そう思うであろう」
  一国の主がそう評価してくれているのだ。使節たちも同様の評価を下し、大きく踏み込むことも視野に入れ始めているのだろう。
「サイナ嬢はアクトゥスに縁があろう。賢狼公はその縁をそなたが重視するのではないかと心配しておるのよ。リーズの代理殿から身を挺して守っておったからの」
  アジタ王は賢狼族がアクトゥスと誼を通じようとしていたことは知らないはずだ。
  だからこそヴォルゲイフの懸念を当ててみせた。
「言い方は悪いですけど、隣の家が大火事を起こしていれば気になります。だからってサベージと距離を取るなんて考えていませんよ」
「であれば、サベージからも姫を迎えれば良かろう」
「陛下、他人事だから遊んでいるでしょう」
「言ったであろう。余にとって都合の良い夢を見ておると。エイリアがどう転ぶか分からぬ以上、最悪の事態を退ける努力はするが、同時に考慮もせねばならん。その時、サベージがラインボルトの背を守れば、我が国の安全はより堅固な物となる。それに諸国が落ち着かねば我が国の銀細工が売れず細工職人たちが困る。どうだ、余のためにニルヴィーナ殿を娶らぬか?」
  助け船を求めてエルトナージュに顔を向けると、非常に複雑な顔をしている。
  女としては競争相手が増えることへの危惧、前宰相としては国益に適うという判断。
  仮にニルヴィーナを迎えることになっても奥向きの秩序に大きな変化はない。
  現在も動き続けている情勢を鑑みれば、ロゼフへの春期攻勢の後や連合王国アクトゥスの崩壊の前にサベージと相互安全保障が確立されれば様々な局面で楽が出来る。
「賢狼公からも何か仰って下さいよ」
  アスナとしては困惑が強すぎる。婚約者の友だちを自宅に招待したら、その相手とお見合いをすることになった、というのに近い。
  エルトナージュとサイナは様々な状況が重なった結果ではあっても、最終的にはアスナから二人を求めたのだ。しかし、例え話であってもこれは外からやってきたものだ。
  王様業に慣れ始めてきたと言っても、こういうことにどう対処して良いのかわからない。
  ヴォルゲイフが冗談の一つでも言えば、この話は終わる。
  しかし、彼は言葉を出さずに数秒沈思した。
「まずは息子が無事に戻ってきてからの話ですな」
  そう言って彼はこの話題を棚上げしてしまったのだった。
  エルトナージュと顔を見合わせたが、お互いに何を言えば良いか分からず、今は口を噤むしかない。大変なことになってしまいそうだ、というのが偽らざる本音だ。

 夜闇にも種類があるように思える。
  星が輝く空の闇は天蓋。鬱蒼と茂る森の中は圧迫のある重さがある。
  昼なおくらい森の中では、夜の闇は深淵の縁に立つも同然だ。
  その中を幾つもの影が疾走する。その多くが獣人たちだ。
  彼らは獣を身に宿しているだけあって、夜目が利く彼らには先方を任せている。
  また森の上空では常に一人、鳥人の騎士が待機している。
  夜間行軍は遭難しやすい。隊から外れてしまった時、照明弾を空に打ち上げて彼らに回収して貰う手筈となっている。
  エルトナージュに天高く照明弾を放って貰い、アストリアから返事が来るのを待ってはどうかという意見も当然あった。しかし、駄竜を含む魔獣たちを刺激して予期せぬ事態となっては困るとの意見が多く出たため却下された。
  案内役の勢子の男を背負っていても動きに重さは感じないようだ。
  背負子に乗せられている人影はもう一つある。アスナ付きの侍女、ミナだ。
  近衛騎団団長として思うところはあるが使える手段は活用していかねばならない。
  今晩中に村の者が立てた狩猟小屋に到着し、そこで仮眠を取る。
  その仮眠時にミナの力を使うのだ。彼女の魔法が有効であることは、リーズから引き取ったアクトゥスの捕虜たちへの治療で証明済みだ。
  ヴァイアスたちが持っているわだかまりとは別に星魔族への偏見があることも承知している。サベージの騎士と従士が拒絶するだろう。
  使わないのならば、それはそれで構わない。強制するつもりなんて毛頭無い。
  ……久しぶりだな。
  ヴァイアスは内心でほくそ笑んだ。相手が駄竜とはいえ自分たちの主君が久しぶりに剣を抜いた。その意思の向かう先、駄竜を必ず討ち取ろう。
  言葉にしなかったがアスナはアストリアの救出も求めている。合流した時、生きていれば守りきってみせる。剣であり、盾でもある自分たちならば、そう求められて当然だ。
  個人の情としても、政治面においてもアストリア存命が望ましい。
  救出に成功すればラインボルトとサベージは間違いなく良い方向に進展する。
  近衛騎団が主を政治的に支援できるまたとない機会でもある。
  それに以前、LDにアスナを拉致された時ほどの焦燥感はない。
  再会してからまだ手合わせをしていないので現在の実力は分からない。
  それでも魔獣討伐や熊を狩った経験を持つ彼ならば、無事自分たちとが合流できるはず。
  そう信じることができる。
  それから一時間駆け続けて狩猟小屋へと到着した。
  この道程で活躍したのが意外な事にヴァイアスの防御魔法であった。
  遠回りせねば渡れない川や谷をヴァイアスは防御魔法の壁を展開することで橋代わりにして直進していったのだ。時間面での浪費を抑え、休憩時間をその分長く取れる。
  狩猟小屋はガッシリとした作りの小屋だ。外国の賓客を招いて行う狩猟会の会場ということもあって、広めに作られている。
  全員、中に入ることは出来ないだろうが、半数ならばいけそうだ。
「よし。払暁までここで休憩とする。サベージの騎士隊は先に仮眠を取って貰いたい」
「団長殿。短縮できた分、もう少し先に進んではどうだろう。我々なら野宿も問題ない」
  中年のサベージの騎士がそう言ってくる。表情に焦りが見られる。
  詳しくは知らないがアストリアと親交があると考えて良さそうだ。
「申し訳ないが却下させていただく。案内役の体力が持たない。ここで休ませる」
「しかし!」
「しかしも何もない。すぐに食事を摂って仮眠を取って貰いたい。仮眠は三時間交替とする。騎団はそれまで周辺警戒。案内役は毛布をかぶってゆっくりと休むこと。これは近衛騎団団長としての命令だ。ミナ、こっちに」
「はい、団長」
  揺れる背中に長時間乗っていたせいかふらついて見える。
  今は侍女服ではなく厚手の作業着姿だ。翼と尻尾は引っ込めているが角は出したまま。
「彼女は体力回復を促進できる力を持っている。万全の体調でディティン公を迎えたいと思う者は彼女、副王殿下付きの侍女に声をかけて貰いたい」
  アスナに仕えているということで少しは精神的な距離感を縮められるはずだ。
  それでも頼らないのであれば、それが彼らの選択だ。
  案内役の言葉を借りれば狩猟小屋から半日の距離。今晩と同じ調子で進めたら、遅くとも昼過ぎには駄竜の存在を確認できるはずだ。
  願わくばアストリアと生きて合流できますように。

 白炭のような白と黒を交えた飛沫を撒き散らしながら川の水が流れ落ちている。
  大きく三段に分かれた滝だ。滝壺から溢れ出た水は再び下流へと流れていく。
  朱に染まっている。水だけではなく河原や茂る草木にも付着している。
  それらは全て駄竜が流した血だ。今も駄竜の口や眼球からは滾々と鮮烈なまでに赤い血が流れ続けている。右前脚の指が二本失われている。
  それらから流れ出た血が作る溜まりの中にアストリアが転がっていた。
  まだ生きている。外傷は数知れず、しかし致命傷は見受けられなかった。
  ただ、ただ疲れ切っていた。遭遇してから合計にして十三回、この駄竜を倒し続けている。爪で翼を切り裂き、拳で背骨を折り砕く。場合によっては頸椎も刺し貫いた。
  それだけしてもこの駄竜を殺すに至らなかった。
  この駄竜には奇異な点があった。
  下半身が地に埋まっていた。正確には未だ龍脈の中にあるのだ。
  龍脈から身体を引き抜いて始めて魔獣としての形を固定できると言われている。
  この駄竜は未だに龍脈と一体、誕生したとは言い切れなかった。
  決定打を持たぬ今のアストリアがこれを倒そうと思えば、駄竜を生み出した澱みを全て解消すればよい。問題はあと何回この駄竜を倒せば良いのか分からないことだ。
  ある種の不毛さもアストリアに疲れを与えていた。
  ……魔具でもあれば良いんだが。
  例えば、ヴァイアスに与えられているガルディスがあれば楽にことは終わる。
  あの魔剣ならば駄竜の首を刎ねられる。
  何度目かの時に切り落とした駄竜の指が再生する様子はないことからの推測だ。
  頭を失った駄竜は澱みが解消されるその時まで生と死を繰り返すはずだ。
  そういう勝算があったからこそ、アストリアはここで足止めをすることにしたのだ。
  この事態を察した切欠は自分だけ狩りの成果がなかったことにある。
  自然を相手にしている以上、そういうことだってあると理解していても悔しい。
  だから、森の奥へと進むことにした。
  猟師たちが休憩所に使っている小屋があると聞き、、そこを中心にして動けば狩りの機会を得られるのではないか、と。
  アストリアの判断は正解だった。何度か鹿の群と遭遇をし成果が得られた。そこで異変に気付いた。群が悉く何かから逃げようとしているのだ。。
  ここで彼は狩りを放棄して調査に切り替えた。
  友人の国で何かあっては一大事。この異変を報せようかとも思ったが、何もなかった時はアスナに恥をかかせることになる。確固たる証拠を見つける方が鮮血だと判断したのだ。
  そして、この滝で駄竜が生まれでようとしているところを発見したのだ。
  勢子たちに援軍を呼ぶように命じ、今に至る。
  ……あと三十分程か。
  一度、殴り殺せば再生まで二時間ほどかかる。この休憩時間があったればこそ、何とか持ちこたえることが出来た。だが、それもそろそろ厳しくなってきている。
  体力の回復が追い付かず、拳も痛めている。それに反して駄竜の鱗は少しずつ硬くなってきている。
  …………! …………!
  声が聞こえてきた。自分を呼ぶ声だ。狼の耳がそれを捕らえる。
  地に伏せる駄竜はまだ動き出す気配がない。
  アストリアは疲れた身体に鞭を打ち、立ち上がった。
  血に塗れた赤狼は大きな、とても大きな雄叫びを上げて自分を呼ぶ声に応じたのだった。
  その後、ヴァイアスの手で駄竜の首は落とされ、駄竜の討伐は誰もが恐れていた事態とはほど遠い結末を迎えた。
  アストリアは彼自身が胸に抱いた通りのことを実行せしめたのだった。

 ディティン公アストリア・イーフェスタの帰還は熱狂を持って迎えられた。
  避難のためとはいえ周辺村落の人々の全てが集まり歓呼を揚げた。
  討ち取った証として持ち帰った駄竜の首に人々は恐怖した。
  そんな彼らの前でアストリアは事の経緯を話して聞かせた。
「確かに倒したのは私だが、止めを刺したのは近衛騎団団長殿だ。副王殿下が彼を援軍に出してくれていなければどうなっていたか分からん」
  ヴァイアスとの共同戦果であるとして、ラインボルトに気を遣った。
  懸念すべき最大の事柄が解決した事で、アスナから精神的な箍が外れてしまった。
「よし。宴をやり直そう!」
  その席で改めて騎士たちの成果を村人たちが見守る中で披露させた。
  前回、途中で表彰が取りやめとなってしまったアーディは軍学校への入学が発表され、
「帰国後、暫くしたら見合いの席を用意してやろう。ニルヴィーナ、こちらへ」
「はい、お父様」
  ニルヴィーナは命ぜられるまま父の元へと向かう。
「私から酌をしよう。ニルヴィーナ、アーディ卿に届けよ」
  すかさずフェイが姫に盆を差し出した。
  手元のグラスに酒を注ぎ、それを娘が捧げ持つ盆の上に置いた。
「軍学校へのご入学おめでとうございます」
「ありがとうございます、ニルヴィーナ様」
  差し出されたグラスを受け取り、彼は作法通りに賢狼公に向けて一礼をして一気に飲み干した。これで先ほどヴォルゲイフが彼に告げた事は約束として成立した。
  出席した騎士が拍手をし、少し遅れて話を聞いた村人たちが歓声を上げた。
「私からは入学祝いを兼ねて後日、筆記用具を。そして、今回の狩猟会ではアーディ卿が第一位だ。これを賞して銀子を贈らせてもらう。勉強には何かとお金がいる。その足しにして貰いたい」
「ありがとうございます、殿下」
「それと賢狼公。今度の茶会では彼も呼んで貰えませんか。ここでの狩りはどんなものだったのか聞いてみたい」
「分かりました。殿下のご要望通りに致しましょう」
  そして、左の席に座るアジタ王に身体を向けた。
「それでアストリアのことで陛下にご相談があります。慣例に従うのならば騎士の称号を与えねばならないんですが、イーフェスタ家は王族。他国から騎士の称号を贈られても受け取れないでしょうから、それと同等の何かがあれば良いのですが」
「そうよな。……では、討ち取った駄竜で武具を仕立て、それをディティン公に贈ってはどうかな?」
  一般に駄竜などの遺骸は討ち取った国の所有物となる。
  ラインボルトの所有物だが、討ち取ったのはサベージ出身のアストリア。
  であれば、ラインボルトで武具に加工して贈れば、双方の面子が立つということになる。
「なるほど。……賢狼公、こういう形でアストリアを賞したいのですが如何でしょうか」
「光栄に存じます。アストリア、慎んでお受けせよ」
「はい。ありがとうございます、副王殿下」
  勝手に決めると後で色々と言われそうだが、アストリアはラインボルトの恩人だ。
  小言を聞く程度で済ませて貰えるはずだ。
「最後に、諸卿を私の即位式に招待させて貰う。この顔ぶれで狩猟会の思い出話をしたい」
  アスナは自分のグラスを手にとって、
「改めて駄竜討伐と狩猟会を楽しく終えられたことを祝して乾杯したい」
  皆が酒杯を手にしたのを確認するとアスナは掲げた。
「乾杯!」



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