第五章

第十六話 観兵式にて

 ロゼフ南部の雄、シャイズ侯爵家は富裕の家として知られていた。
  広大な沃野と河川を有することもあり、自然と人口は増え余剰の食糧は別の地域に売りに出される。そんな売買から様々な物品が侯爵家のお膝元であるマクズ市に集まっていた。
  南部にどのような産品があるか知りたければマクズ市に行け。
  そう言われるほどに豊かな家だ。しかし、そのマクズ市の活気に翳りが見えていた。
  ラインボルト軍による侵攻の影響だ。直接、戦火に見舞われた訳ではないがワルタ地方にて反撃を受けて以来の連戦連敗は民の士気を低下させていた。
  ある種の熱狂から醒めてしまうと自分たちにのし掛かる税の重さを実感してしまう。
  平時と較べて遙かに多く見かける兵士の姿が、民に連敗が事実だと実感させた。
  ディーゲン市が陥落したらしい、南西部の領主たちは全員降伏したそうだ。抵抗した城兵は全て焼き殺されたらしい、ラインボルトの次の目標は南部一帯だ、などなど噂が飛び交っていた。人の口には戸は立てられない。噂を信じて土地を捨てる者も出始めていた。
  そんな地元を家臣に預けてシャイズ侯爵クディル・ゲーゲンは王都インニラの別邸にいた。諸方の伝手を使って情報収集を行っていた。
  ロゼフの状況は良いとは決していえなかった。
  迎撃軍は敗北し、ディーゲン市は制圧された。周辺領主が降伏から諸城は陥落、もしくは降伏と市井に流れる噂の通り連戦連敗であった。
  この責任を取って宰相が職を辞すべきところを国難を理由に留任が決まった。その代わりのようにワルタ地方から撤退してきたトナム将軍を斬刑に処していた。
  それをもって軍への責任追及は終わったが、そのせいで軍に纏まりがなくなっていた。
  兵はもちろん、領主たちからも一目置かれる人物がいなくなってしまったことでロゼフに組織的な抵抗を難しくしていた。
  この状況にロゼフ王ベイジェス六世は狼狽えるばかりであった。
  元々個性の強い男ではなく政務の殆どを宰相に任せ、自身は趣味と儀礼の世界で生きていた。ロゼフを取り巻く環境がそれを許していた。
  しかし、それを許さぬ状況を自ら作り出していた。
  対処しきれぬ状況に戸惑い、王としての方針を示すことが出来ない有様であった。
  結果、ロゼフ国内の世論は南北で大きく別れている。
  戦場から遠い北部は徹底抗戦を唱え、南部は和睦に傾いていた。
「冬が来て、ラインボルト軍が停止したことだけが救いか」
  シャイズ侯爵クディル・ゲーゲンはそう独語した。
  あちらこちらで行われている会合を終えて、彼は一人別邸の私室にいた。
「それとも冬支度を始めたことを恐怖すべきか」
  一番ありがたい状況は冬の間も進軍し続けてくれることだ。そうすれば寒気と白い闇が敵を殺してくれただろうに。軍はそれを狙ってしきりに挑発を繰り返しているが、ラインボルト軍は粛々と越冬の準備をしているという。
  領地を追い出された貴族たちとその縁者たちが続々と南部の雄たる彼の元に集まり、奪還を訴えている。自身の影響力を再確認できるのは良いが抱えきれるものではない。
  ロゼフは岐路に立っている。王宮は国論を纏めることが出来ず、貴族たちは個々に動き始めている。クディルもそうだ。
  すでに軍師を自称するLDを介して、ラインボルト副王と接触をし始めている。
  ある種の相互不可侵条約の締結だ。影響下にある南部の安全を守るためにも実現せねばならない。そうやって冬の間に信用を得、和睦の交渉相手として認識して貰う。
  王権の簒奪を了承されればそれで良し。最悪でも南部独立の承認を得る。
  売国奴の誹りを受けようとも、ロゼフの自主独立を維持せねばならない。
  今後、どうなろうと穀倉地帯である南部を戦火から守り抜ければ戦後にとって幸いとなるはずだ。史書がどう自分を評しようとも、これだけは正しいことだ。
  ノック音がした。
「入れ」
「失礼します、閣下」
  堅太りの体躯を長衣で包んだ男が入室してきた。公爵家の執事だ。
  手にした盆には封書が載せられている。
「お手紙を預かって参りました」
  クディルは鷹揚に頷く。側まで歩み寄ってきた執事から手紙を受け取る。
  彼は一礼するとそのまま部屋を辞した。クディルが感じている様々なことへの煩わしさを察したのだろう。
  ペーパーナイフで封を切り、便箋を取り出す。一読する。
「…………」
  握りつぶして放り投げたくなる衝動を堪える。手紙は王宮に仕える知己からのものだ。
  領主に対して更なる兵員、物資、資金の提供を求める検討がなされているとのこと。
  戦争初期から続く協力ですでに破綻寸前となっている領主は多い。ここで更なる協力を求められても出すことはできない。
  反対意見を述べれば領地を召し上げ、宰相の配下を代官に据えるつもりではなかろうか。
  そんな邪推が頭をよぎる。だが、一概に悪い選択だとは言えない。
  国軍の予算は天領と領主たちの軍役免除金から出されている。領主貴族を潰して天領を増やす。そうすれば国軍の再建が早くなり、なにより宰相らの支持勢力を強化できる。
  尤もそう簡単にいく訳がない。国内の混乱が助長されるだけだ。
  それでも戦争遂行は様々な無理を通す理由にできる。
  これで王宮がどういう見解を持っているのかこれで分かるだろう。
  戦争続行ならば北部の取り込み南部を潰す。和睦ならばその逆だ。
  敗戦は免れないのであれば、賠償金支払いのためにも天領が多いに越した事はない。
  ため息を吐く他ない。一体、何のための戦争だったのか。
「…………」
  何にせよ南部を守り通さねばならない。
  ラインボルトからも、王宮からもだ。

 アジタ王ティルモールは副王就任式とその付随する諸行事での扱いに満足していた。
  小国の主として侮られることの多い彼にとって最上位者として敬意を払われることが何者にも代え難いものといえた。
  坂上アスナの権威を高めるための材料にされていると分かっていても、嬉しいものは嬉しいのだ。それはつまりラインボルトがティルモールの権威を認めている証でもある。
  常にアクトゥス王妃と同等の席次を用意され、それに伴い参列した国々との茶会でも良い待遇を受けている。
  毎日、忙しく使節団と交流をしており、それに伴って銀細工の受注を多数受けている。
  アジタにとって就任式出席は大成功だと断言できる。
  問題はこの後のことだ。ラインボルトとエイリアの和睦を如何に取り持つか、だ。
  和睦を勧めるとともに就任式の日々をエイリア王に報せていた。
  坂上アスナという男の為人が分かれば、歩み寄ることもできるはずだ。
  その一方で徒労に終わるのではないかとも思っていた。
  エイリアは政府・軍ともにラディウスの浸食を受け、ラディウス派の貴族も増えている。
  そんな国状では王が和睦したくとも出来ない。最悪、暗殺の畏れすらある。
  だが、親族として何もしない訳にはいかない。諦めるにも手順が必要だ。
  和睦がならず開戦となった場合の準備も進めねばならない。
  その辺りのことは王太子に任せている。万が一の時にはアジタにてエイリア王族の血統を維持する許可をラインボルトから得ている。その場合、どういう扱いをするかを検討させている。王太子にも内政だけではなく外交に関わることにも関与させる良い機会だ。
  息子が坂上アスナに極端な遅れを取っているとは思わない。諸条件が異なっているのだから、国柄に合わせて経験を積ませていけばよい。息子はアジタ王になれば良いのだ。
  むしろ、未だに坂上アスナが潰されていないことが驚きだ。
  国家の主には良い意味での鈍感さが必要だ。
  平時においては税を取り立て、労役を課す。自ら立てた秩序を乱す者に厳罰を下し、戦争となれば兵たちを戦場へと駆り立てる。時には狂ったように乱費せねばならない。
  まともな精神であれば、とても耐えられない。
  賢狼公に鷹狩りの手解きを受けた時には年相応に楽しんだらしい。
  ……高い遊びを覚えたものだ。
  だが、そういう遊びの時間を作って諸問題から遠ざかることも必要なことだ。
  隣国の王が政務に疲れて壊れてしまっては困るのだ。
  もし精神的に病んでしまえば、あの時エイリアを通行させたなと言われて無理難題を押し付けられでもすればアジタは立ち行かなくなってしまう。
  そのためにも副王には、坂上アスナには健全な精神を維持して貰わねばならない。
  それを察してからティルモールは意識的に叔父として接するようにしている。
  エイリアとの問題は徹底的にラインボルトに就くことになるが、それがアジタの独立を守り続けることに繋がるはずだ。
  ティルモールは情の深い坂上アスナが親族を切る選択を取らないと見ている。
  王家の血筋にある年頃の娘を養女にして、副王と娶せることを再度検討した。しかし、残念ながら却下せねばならない。彼の側にいる少女二人を観察しての結論だ。
  エルトナージュは政務において、サイナは警護役として坂上アスナを庇護している。
  ティルモールが頭の中で候補に挙げた娘たちではそれが出来ない。
  息子にもこの辺りのことを徹底しておくつもりだ。
  ティルモールはそんなことを馬車に揺られながら考えていた。
  豪奢に飾り立てた馬車が向かう先は首都エグゼリス郊外にある演習場だ。
  今日はそこでラインボルト軍による観兵式が執り行われる。
  ホワイティア将軍麾下にあったワルタ方面軍の武勲を賞してというのが理由だ。
  戦勝の後、各軍より代表となる部隊を帰還させて披露するのだ。
  ラインボルト軍は健在なり。そう各国に示すのが目的だ。
  また式典の後に催される宴席では観兵式に参加した将校も出席が許されている。ワルタ地方での戦いはどうであったか。生きた情報を得る機会となる。
  各国の武官たちにとって観兵式よりもこちらの方がより重要と言えるだろう。
  また観兵式では第三魔軍による演習も行われる。
  今日見聞きしたこともティルモールはエイリアに伝えるつもりだ。
  願わくばエイリアが穏当な決断を下してくれることを祈る。

 空を見上げれば雲一つ無い。幻想界の赤い空だ。
  演習場は広く、遠くまで見通すことができそうだ。
  観覧席の前には広い道が敷設されている。演習場というだけあって雅やかさの欠片もなく、荒涼としているようにも見える。
  それに比して観覧席は熱気を孕んでいた。各国からの招待客だけではなく一般向けの席も用意されていた。内乱で活躍し、またはワルタ地方を奪還した将兵の姿を一目見ようと物見高い者たちが多数押しかけてきていた。
  観覧席と道の間には等間隔で第三魔軍の兵たちが立哨している。
  興奮の余り飛び出した者が出ても制止できるように控えていた。尚、近衛騎団は今回表にはでず、主賓席の影などからアスナの警護を行っている。
「危険ですので観覧席より前に出ないようお願いします」
  と、兵士たちが拡声魔法で注意を促している姿が幾つも見られた。
  訳知り顔の男が、飛び出したら営倉に放り込まれるらしいぞなどと嘯いている。
  貴賓席には国ごとに分かれており、すでに招待客が腰を落ち着けている。
  中央にはラインボルト副王坂上アスナがいる。
  側近くには二人の大公と軍の高官たちが席を共にしている。
「そろそろです、殿下」
  懐中時計を手に神経質そうにしていた式典担当の武官が式典の始まりを報せる。
  アスナがそれを鷹揚に頷いて応じた。まるでそれを合図にしたかのように行進曲の演奏が始まる。勇壮な楽曲を演奏しつつ陸海の軍楽隊が入場する。
  軍楽隊は軍において花形の部隊の一つだ。式典において最初に入場する栄誉が与えられ、式典の間、演奏をし続ける。彼らにとっても観兵式は主役になれる機会なのだ。
  軍楽隊の先頭には指揮官がおり、彼の先導で動いていく。その後方に陸海の軍楽隊が指揮者が振る指揮棒に従い一糸乱れぬ演奏を披露する。
  そこには陸と海の間にある諍いは一切感じられない。
  彼らは観閲席の前を通過すると一度静止し、演奏を続けたまま隊列を変更。観覧席正面から一度下がり、戻っていく。そして、観覧席中央。つまりアスナと正対する位置にて演奏を続ける。ここで演奏される楽曲が変更される。
  陸軍行進曲、槍の穂先に勲は宿る
  様々な場面で演奏される代表的な行進曲だ。
「続きまして、ワルタ方面軍麾下部隊の入場です」
  参加者の多くが規律をして万雷の拍手をもって彼らを出迎える。
  歓声を全身に浴びて行進をする将兵たちは皆、一様に誇らしげだ。
  戦場にて血と泥に塗れて悪態と雄叫びを上げ続けた兵たちに与えられる一睡の夢。
  それを栄光と呼んで差し支えないだろう。
  将兵たちもこれが今この時だけのことだと理解している。安い給料で駆けずり回され、上官からの叱咤を受け、土に塗れる。その総決算が戦場行き。
  この碌でもない日常から得た一筋の光明。すぐに消え去ってしまうような輝きであっても、それは彼らが自らの手で成し得たことなのだ。
  泥に塗れて、時には嘔吐し、死の淵に立ったことのあるアスナは将兵たちに敬意を抱く。
  自分の意思で始めた戦争に彼らは勝利という実をもって応えてくれた。最大限の敬意を払って然るべきだ。だから、アスナは直立したまま彼らに敬礼を捧げ続けた。
  ワルタ方面軍の入場が済むと続いてそれ以外の部隊が入場する。
  第三魔軍もここの中に加わる。魔軍は花形だけあって向けられる歓声も一際大きい。
  ……良かった。
  この観衆の様子にアスナは安堵した。観兵式に参加している部隊の半数は革命軍についていた部隊だ。戦争での勝利が軍の名誉を幾らか回復できたようだ。
  軍高官たちも同じ感触を得たようだ。胸に幾つも提げている勲章が示すとおり、彼らは幾多の功績を掲げている。だが、黒々とした消すことのできない汚点も背負っていることも忘れてはならない。アスナも共犯して様々な言葉を弄して糊塗したが、内乱を引き起こしたことに代わりはない。
  二つに割れた茶碗を接着させて使えるようにしても割れた事実は消えない。
「ご老公、八代目」
  小声で左右に座する二人の大公に声をかけた。歓声に掻き消されて武官たちには聞こえないだろう。
「何かな?」
  ラインボーグが尋ねた。ボルティスも黙ってアスナに顔を向けた。
  先日、調査から戻ったばかりだ。彼の見立てではあれ以上、駄竜が現れることはないだろうとのことだ。それでも念のために部下を暫く滞在させて、監視を続けることにしたと報告を受けている。
「オレは、軍には胸を張っていて貰いたいと思ってます」
  内乱では敵味方に分かれてはいたが、苦楽を共にした間柄だ。彼らの苦労の一欠片を知る者として、せめて誇りだけでも守りたいと思っている。
「だけど、ふんぞり返っている姿は見たくないです」
  最近、繁華街で兵たちが盛大に飲み食いをしたのに支払いをしなかったり、軍高官が商会から接待攻勢を受けているとアスナの耳に入っている。
  常に品行方正であれる組織なんて存在しない。それでも諦めず自浄作用が働くから組織はまともに機能する。だが、アスナが知るほどとなれば座視できない。
  前線の部隊では軍規違反をすれば副王殿下に首を刎ねられるなんて冗談が広まっており、大きな軍規違反は生じていない。しかし、安全な本国では別の動きが生じている。
「分かった。それとなく注意をしておこう」
「お願いします」
  アスナが言えば、伝えたいこと以上の意味として受け取られかねない。老臣を間に挟むことで、彼らからの苦言という形で素直に言葉通りに捉えてくれるはずだ。
  これも最近、自覚できたことだ。王様の言葉は強すぎる。場合によっては思わぬ形で利用されかねない。誰かに言わせることで緩和させねばならないこともある。
  そのための大公、諸大臣なのだ。
「こういうことにまで気を遣わないといけないのって、なんかめんどくさいですね」
「誰かと一緒にいたい、何かを大切にしたいと思うのなら手間を惜しむべきではないぞ」
  それに、とラインボーグは続けた。竜族にとって正座に相当する奇麗な正円の蜷局を巻いている。
「そういうことは考えない方が良い。自然と態度に出て不和の種になりかねんぞ」
  部隊名と部隊長の名が紹介される度に歓声が挙がる。
「……気を付けます」
  そう返事をしたが自分でも言葉に芯が入っていないのが分かる。
「疲れておられる。ゆっくりと寝ていますかな?」
「寝られてるとは思います。ただ今朝になったらガクンって体力が減ったような気がして」
  ゆっくりと睡眠したはずなのだが、疲れが抜けきれないのだ。
  朝食をしっかり摂れたから大丈夫だと思っていたが、ここに来て途端に身体から力が抜け落ちてしまった。昨晩までは何事もなかったため、ミナの術で休んでいなかった。
「無理せず腰を落ち着けなさい」
  しかし、アスナは首を横に振った。御簾代わりの布地が風に揺れている。
「これは軍へのご褒美だから」
  隊旗を掲げ、儀仗剣を掲げて行進する兵たちの表情はどれも引き締まっている。
  今日のために訓練をしてきた彼らの努力に泥を塗る訳にはいかない。
  素人目には観覧席の前を通り抜けていくだけに見えるかもしれない。しかし、手足の動きを統一させることがどれほど難しいかは少し想像してみれば分かることだ。
  リーズから奴隷にと貰ったアクトゥスの将兵に行って、自国の将兵に敬礼を持って気持ちを示さないのは道理に合わない。
「それに使節たちに弱いところを見せられません」
  主賓席は周囲を御簾のように薄手の布地で囲まれている。詳しい表情は見えなくとも、陽の光の加減によってはそこに誰かがいることは観覧席からでも確認できる。
「分かった。ならば、夕餐会には儂が名代として出席しよう」
  ラインボルトにおいて晩餐会と夕餐会の違いは形式を重んじるか否かの違いでしかない。
  本日の夕餐会はラインボルト側の軍人と会話しやすいよう立食形式となっている。
「アスナ殿は王墓院にて戦死した者たちの御魂を慰めることにしたとでもしておこう。今日はあちらで身体を休めると良い」
「すいません」
「気にせんで良い。歴代の王も同じ口実で休息をしておる。むしろ過労で倒れるよりもずっと良いと思いなさい」
  変化のない金属の顔に気遣いの表情が浮かんだように見えた。
「……はい」
「むしろ、私は安堵しましたぞ」
  ラインボーグはなぜか嬉しげだ。
「アスナ殿は少々無理を重ねすぎる。私たちに泣き言を口に出来るだけの強さを持っておられることに安心した」
「泣き言は弱さじゃないんですか?」
「アスナ殿のように気を張って日々を過ごしている者からすれば、弱音を口にせぬことの方が弱さじゃよ。体調が悪ければ頼って良い。そのために儂らがおる。宰相がおる」
  ……そういうものなのか? 分からない。
  それでも疲れていることだけは確かだ。
  ここは無茶をする場面ではない。そう思う事にした。
「お二人ともお願いします」
「お任せあれ。ゆるりとお休みなされ」
「任された」
  観兵式は恙無く進む。全ての部隊が配置に就いた。どの将兵を見ても表情が引き締まりほどよい緊張を身に纏っていることが見て取れた。
  参加諸隊の前を三人の男が進む。主催者たる軍務大臣、実施責任者である参謀総長。そして、観閲部隊指揮官を務めるリムルだ。
  三人は副王の前に進み出ると胸に右手を当て敬礼をする。
  アスナはそれに応えて丁寧に答礼を返した。
「副王殿下のお言葉を伝える」
  ラインボーグが声を張り上げる。
  武官に関わる行事では彼が代理で言葉を発する役目を担う。
  声や容姿は人を率いる上で重要な要素だ。容姿や声音に優れた者はそれだけである種の説得力を与える。天賦の一つに数えて良いだろう。
  そのため王の権威をこのようなことで揺るがさぬように代理が声を発する。
  大公の立場にある者の役割の一つだ。
「我が軍が精強であることはロゼフとの戦いにおいて証明されたところである。もはや諸外国より侮りを受けることはなく、互いの武威に敬意を交わせるまでとなったことを嬉しく思う。油断をせずに軍務に精励してもらいたい」
  ここで予定された文面は終わりだ。しかし、一呼吸分の間を置いて、ラインボーグは続けた。
「王に侍る大公として申し上げる」
  軍高官が一瞬ざわついた。異例の事なのだろう。
「軍の再建は道半ば。未だ先の混乱は収まってはおらず、王と民に不安を感じさせる行動は厳に慎むべし。先王の御代に出来たことを、当代では出来ぬとは言えないことを肝に銘じて頂きたい」
  不測の事態であっても軍を担う者として動揺を見せない。軍務大臣は予め決まっていたことのようにしっかりとした足取りで前にでると宣誓をした。
「自らを律し、決して奢らず、殿下のご宸襟を安んじ奉ることをお約束申し上げます」
  アスナはそれに鷹揚に頷いて見せた。まさかこの場で注意喚起するとは思わなかった。
「八代目。なにか、それっぽい感じで期待しているって返事をしてください」
「承知した」
  ラインボーグは改めて諸隊に向き直るとアスナの意思を言葉にする。
「殿下のお言葉を伝える。軍務大臣の言葉は軍の総意。実に頼もしく思う。その心を忘れず職務に励んで貰いたい。と仰っておられる」
「はっ。殿下の御心に適う通りに致します!」
  畏まる軍務大臣の姿にアスナは、ひとまずこれで良いと思った。
  参謀総長と軍令部総長のケンカ騒ぎとその顛末は広く知られている。暫くは強めに自浄作用が働くはずだ。出た膿をどのように処理するかは軍務省に任せれば良い。
「国歌斉唱!」
  観閲部隊指揮官を務めるリムルが命令を発した。
  ラインボルト国歌、豊穣の季節だ。
  観覧席にいる全ての者が起立し、アスナが座る主賓席の側に掲げられた国旗に身体を向ける。彼らが向ける敬意をアスナは一身に受ける。
  ラインボルトを象徴する旗を背負い、唱和される国歌が捧げられる。
  それはアスナが王であるからに他ならない。
  引き締めた表情を緩めることなく、それを受け止めながら彼は自分の心境の変化を思う。
  幻想界に召喚されたばかりの頃は向けられる敬意に違和感を得ていた。
  だが、今はそうではない。豊かであれ、それが多くの者を幸いにできるように願う歌はアスナの施政方針と合致している。
  それはラインボルトの歴史にアスナが加わった証なのかもしれない。
  日々の政務は昨日よりも明日が良くなって欲しいと思って閣議の席に座っている。
  自分自身が拙い面が多々あり、新しく何かを始めるよりもすでに起きた諸問題の解決や調整ばかりをしている気がするが、それらは今を明日に繋げる大切なことだ。
  そうやって歴代魔王もラインボルトを運営してきたのだ。
  副王になったからというよりも、日々の仕事こそがアスナにラインボルトの一員になったという自覚を与えてくれていた。
「儀仗隊前へ!」
  リムルの命令を受けて槍を携えた儀仗兵が観覧席の前で出てくる。
  先ほどまで行進をしていた部隊とは明らかに一線を画する規律ある動きだ。
  軍楽隊の演奏も合わさり、見る者に思わず感嘆の念を抱かせるに十分な迫力がある。
「副王殿下に対し、敬礼!」
  儀仗隊指揮官の指揮に従い、兵たちは一斉にアスナに敬礼を捧げた。
「以上を持って観兵式を終了致します」
  観閲式を主催した防衛大臣の言葉によって式は締められた。
「副王殿下、列びに来賓の皆さまがご退場なさいます。観覧の皆さまはその場から動かないようお願いいたします。尚、第三魔軍による演習は午後からを予定しております。観覧をご希望される方は遅刻などされぬようご協力下さい」
  午後の演習を観覧した後、アスナは衆目の中、盛大に階段を踏み外して転倒した。
  腰を強打したためすぐに起き上がれず、ラインボーグの背に身を預けて退場するという醜態をさらすことになってしまった。
  すぐにその旨が発表されたのだが、なぜか笑い話で終わらず過労のため昏倒したという噂が瞬く間に広がってしまったのだった。

 アスナが階段を踏み外した頃、エルトナージュは使節団の婦人たちを招いてお茶会を催していた。 本日の主たる行事は観兵式への出席なのだが、そちらは使節団の武官たちに任せられている。軍事に興味のない婦人たちの相手をすることも大切な外交だ。
  女性たちは皆、自国の装飾品で自らを色取っている。宝石類に服飾品、貝殻や角などと素材は様々だ。煌びやかな品々を身につける婦人たちは自国の産業の広告塔的な役割も担っていた。実際にこういったお茶会での会話の流れで細工職人への紹介状を用意する約束が交わされることも良くある光景だ。
  飛び交う話題もそれに準じたお国自慢から始まり、ラインボルトで鑑賞した絵画や劇、演奏会の話題と様々だ。時折、潜在的な敵対国に対して言葉による毒を混ぜる。
  自国の評判を高め、敵対国の評判に傷を付ける。
  稚拙に見えるかもしれないが印象操作は外交の場では非常に重要だ。
  平時はもちろん、有事の際にも援軍要請を受け入れて貰えるかどうか、受け入れて貰った後に渡す見返りの過多など相手方の判断材料となる。お茶会や宴席を頻繁に催すのは有力者と顔を繋ぎ、何か行動を起こす時に協力して貰えやすくするためだ。
「エルトナージュ姫。演奏会を催そうと思うのだけれど、楽団を紹介していただけないかしら?」
  グレイフィル王妃は最近、特に積極性を増しているように思える。
  ……アスナが色々と唆すから。
  内心でため息を漏らしつつもサイナの件を考えれば、王妃に力添えする意味はある。
  恐らく帰国した後どう振る舞うかラインボルトで予行演習をするつもりなのだろう。
  ベルーリア姫との縁組は交渉すら出来なかったが、アスナからはそれなりの敬意を示され、複数の交渉の席に座る用意があると内々に伝えている。
  奴隷となったアクトゥスの水兵たちの取り扱いに関する交渉の代表にグレイフィル王妃が就くようにラインボルト側から指名を受けている。
  ラインボルト側から用意したとはいえ、外交的な成果を十二分に挙げられたと言って良いだろう。これまで目立つことがなかっただけに、より強い印象をアクトゥス王宮に与えるのではないだろうか。
「贔屓にしている楽団がありますので、それを紹介させていただきます」
「ありがとう。良い演奏会ができそうです」
  未来のラインボルト王妃と良好な関係であると示す実績の一つとなる。
  エルトナージュにとっても得点になるのだが、グレイフィルを通して何らかの働きかけは出来ないだろうと彼女は考えている。
  これまで政治的な動きをしていなかった者と宰相を経験した者では見ている物が違う。
  王妃という搦め手を用いてアスナを補助できるか。それが今の彼女の判断基準だ。
  そこから見るとグレイフィルは利用価値は非常に小さい。
  友好関係を築いて損はないが、さほど特もない。そういう相手だ。
  だから、アスナも彼女に奴隷の待遇交渉という手札とそれ以外の交渉の招待状を与えたに止めている。エルトナージュも彼の意思に反する行動は取らない。
「姫はもちろん、副王殿下も招待させていただきます。ニルヴィーナ姫も」
「ありがとうございます、妃殿下」
  ニルヴィーナとともに礼を述べる。周囲の婦人たちも気にしている雰囲気が察せられる。果たして王妃は気付いているだろうか。尤もそのことを教えてあげるほど親しくはない。
  宰相在任中、アクトゥスからは圧力をかけられてきたのだ。心に刺さった棘は簡単に全て抜く事ができない。
  侍女に話に出した品を持ってきたり、婦人の権限では判断できない案件を確認しに行かせたりと人の出入りが盛んだ。
  そのお茶会の場が一瞬ざわめいた。何事かと思えばミナが入室していた。
  滅んだと思われていた種族がまだ存在し、それをラインボルトが庇護していたことの驚きだ。エルトナージュが見るところ忌避感よりも好奇の方がずっと強いように思える。
  長い、とても長い年月姿を隠し続けていた意味は確かにあったのかもしれない。
  満月の明るい夜空のような深く艶やかな艶やかな黒髪。腰から生える薄い羽がスカートを包み、まるで初めからそういう服飾のように見える。
  美しく清楚な容姿見かけも相まって侍女というよりも深窓の令嬢のように見える。
  その彼女が真っ直ぐにエルトナージュの元へと向かってきた。
  耳元に顔を近づけ話しかけてきた。
「副王殿下が観兵式から退場される際、階段で足を滑らせて腰を強く打たれたそうです。ロディマス先生の見立てでは安静にしていれば大事ないとのことです。今は離れでお休みいただいています」
  ……何をやっているんだろう、あの人は。
  階段から落ちて命を落とす人はままいる。多少の打撲で済んだのなら御の字だ。
「副王殿下が過労で昏倒したとの噂が立っています。各所で打ち消しを始めています。夕餐会はボルティス、ラインボーグ両大公が名代を務められます」
「わかりました。お疲れ様。あとで様子を見に行きます。それまで任せます」
  ミナは一礼をすると自分の役目を果たすべく戻っていった。
  それにしても、もう噂が立っているとは思わなかった。衆目の中で転んだのだから、そういう風に見えた者もいるだろう。しかし、噂となってエルトナージュの元まで届くほどの速さで広がるのはおかしい。早すぎる。拡散している者がいる。
  お茶会の席でも打ち消しを計った方が良いだろう。
「副王殿下が階段で足を踏み外して転んだそうです」
  まぁ、とお茶会の各卓で驚きの声が上がる。
「アスナ様はご無事なの?」
  切迫した感を隠さずにニルヴィーナが尋ねてきた。彼女を安心させようとエルトナージュは笑みを浮かべて頷いた。
「腰を強く打ったそうよ。今頃、湿布の臭いに苦しんでいるんじゃないかしら」
「回復魔法は使わないのですか?」
  王妃は素直な疑問を口にした。王族は些細な怪我でも魔法で傷を癒すものだからだ。
「使うまでもない程度の怪我ということなんでしょう。我が国の湿布は良く利きます。私も鍛錬で打ち身をした時は湿布をよく使っていました」
  とはいえ、人魔の規格外の自然治癒力の強さは他種族を超越している。
  怪我をしても措置をするまでもなく回復してしまう。
「後ほど様子を見に行ってみますか? 恐らくこれ幸いと午睡を楽しんでいると思います」
  隠し立てするよりも誰かに見せてしまった方が良い。
  多少、格好の悪い姿を曝させることになるが、間抜けを演じた罰だ。
「私は兄と一緒にお見舞いに伺いますね」
「……では、私も娘と一緒に伺わせていただきます」
「あまり大勢で押しかけてもご迷惑でしょうから、お見舞いの品を贈りたいのですが。お許し頂けますか、エルトナージュ殿下?」
  別の卓にいた婦人の一人が声をかけてきた。抱擁よりのありそうな肉置きの婦人だ。
  エイリアの北にあるベネゲルという国からきた使節団長夫人だ。
  率先して口添えをすることで先手を取ったアジタに追い付こうという意図があるのだろう。それとは別にエルトナージュは彼女に、人の良い気性の女性という印象を持っている。
「ありがとうございます。ベナティス夫人。副王殿下も喜ぶことと思います」
  と、彼女は会釈を送った。彼女に少し話を振ってみよう。
「副王殿下が過労で倒れたという噂が流れているそうです。宜しければ精のつくものをご用意頂けませんか?」
「……あらあら。そうですわね。殿下のような美しい姫が側にいれば副王殿下が張り切るのも無理もないわね」
「ベナティス夫人!」
  まさかそういう返しが来るとは思わずエルトナージュは頬を染めつつ声を上げた。
  羞恥は感じつつも悪くない返し方だ。過労で倒れたのならば深刻だが、それが夜の営みが原因であれば下世話なことで包み込めば、その印象は薄れる。
「ふふふっ。申し訳ありません。姫様」
  なにより否定しきれない部分があるのも確かだ。
「…………」
  不穏な空気を感じてちらりと隣のニルヴィーナを見る。
  彼女はひっそりと頬を膨らませていたのだった。

 お茶会の後、怪我の見舞いに向かったニルヴィーナたちは太平楽に昼寝をするアスナの姿を目撃することになり、自分たちの心配はなんだったのかと自問自答することになるのであった。

 



《Back》 《目次》 《Next》
《Top》